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473 :ひゅうが:2012/04/13(金) 02 06 18 新島誕生世界の第2次大戦までの道のり?考察 ――そもそもの発端は、1923年に太平洋上に出現した「瑞穂島」と呼ばれる日本列島の四つの島と同等の大きさを持つ巨大な島嶼だった。 この島の出現と同時に、太平洋を隔てたアメリカ西海岸では地震が多発しはじめた。 シアトル沖合からは300年ぶりに長さ200キロにわたるプレート境界が破壊され大津波が西海岸北部を襲った。 続いてサンフランシスコでは再び直下型の大地震が発生し、とどめとばかりにアラスカ沖で発生した大地震はアラスカ半島を壊滅させたあと大津波でもってハワイ真珠湾を炎と汚泥で埋め尽くした。 これらの大災害の結果、北米西岸は瓦礫の山と化したが合衆国がわいていた好景気と世界大戦の結果拡大していた生産能力はそれを補って余りあるものだった。 結果として1934年の末に至るまでアメリカ合衆国は好景気を持続させ、アメリカ合衆国大統領ハーバード・フーヴァーは「アメリカ合衆国最高の大統領」として歴史にその名を刻むことになったのである。 好景気を後押ししたのはこれら復興需要だけではなかった。 瑞穂島を手に入れた太平洋の向こう側の「友邦」日本帝国はその維持に合衆国の機械を必要としており、日米が共同経営する満州鉄道株式会社をはじめマンチュリアにおける影響力の拡大をストップさせていたのだ。 結果、復興需要が一段落したアメリカ財界は国内からマンチュリア、そしてチャイナへと投資の行く先を変えていったのである。 このため、1934年12月に個人投資家たちを没落させた「悪夢のクリスマス」以降もしばらくは経済はゆるやかな下降路線をたどっていったが、国内製造業は軒並み干上がっておりただ海外投資のみがそれを下支えしている状況に変わりはなかった。 緊急経済対策を開始したフランクリン・D・ローズヴェルト政権はこれに続く1938年に生じた「第2次大暴落」と、中国国民党政権が名実ともに崩壊したために生じた翌年の「第3次大暴落」により史上初の大統領弾劾を経て崩壊。 1940年には挙国一致政権としてダグラス・マッカーサー政権が誕生するに至る。 時をほぼ同じくして、ソ連崩壊(1925年)以来東へ領土を拡張していたポーランド共和国においてクーデターが発生。 「対独警戒軍事評議会」による軍事独裁政権が成立するに至る。 これは、1940年のウィルヘルム2世死去に伴い帰国を許されたウィルヘルム皇太子(3世)とそれを主導したアドルフ・ヒトラー政権、ひいてはドイツ復活への恐怖心が生み出したものだったといわれる。 欧州には戦火の香りが再び漂い始めた。 マッカーサー政権はフランスとともにポーランド支持を明言。 ドイツは英国と友好関係を構築するという奇妙な事態が生じた。 そして太平洋では、マッカーサー政権が「統治能力を失った中国国民党にかわり満州自治政府が中国全土を統治する」ことに支持を表明。 見返りに在満米軍の大幅拡充を日本の頭ごなしに認めさせていた。 これは、マッカーサーをはじめとするアメリカの「満瑞交換論」に立脚した措置であった。 彼らにしてみれば「瑞穂島」という有望な資源地帯と広大な領土を手に入れた日本はそれで満足すべきであり、今こそ門戸開放に協力しチャイナを明け渡すべきというわけだった。 そしてマンチュリアを基地とすれば、米国は日本本土に直に圧力をかけられるようになり自然に太平洋における米国の覇権は完成する。 そうなれば日米は運命共同体として次代の世界新秩序を主導できる。アメリカに都合のいい設定ではあったが彼らは彼らなりの「善意」で行動したのだった。 だが、これを認められるほど日本人はお人よしではなかったし、大英帝国もアジアを放棄する意思は持っていなかった。 今やロシアをも支配するに至ったポーランドは、そのあふれる復讐心をドイツに向けつつありそれにフランスもまた同調しはじめている。 太平洋の緊張は頂点に達しつつあり、日米両軍は満州で、そして西太平洋上でにらみ合いつつあった。 時に、西暦1947年・・・ 世界は第2次大戦を迎えようとしていた・・・
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アイドレス「になし国国民」(職業) L:になし国国民 = { t:名称 = になし国国民(職業) t:要点 = ぽちのプロマイド,赤毛,竜への憎しみに燃える瞳 t:周辺環境 = になし藩国 t:評価 = 体格3,筋力2,耐久力4,外見3,敏捷3,器用2,感覚2,知識0,幸運2 t:特殊 = { *になし国国民の職業カテゴリ = 特別職業アイドレスとして扱う。 *になし国国民は、ぽちを守るとき、もしくは竜と戦う時に+3の修正を得る。 *になし国国民は同調判定を行う際に+8の修正を得る。 } t:→次のアイドレス = 竜狩り?(職業),テロ組織”ぽちの怒り”?(強制イベント),商店街?(施設),巨大地下迷宮?(イベント) } はてない国人 騎士 黒騎士 それぞれから要点継承しています。 はてない国人+犬妖精+騎士+黒騎士を置き換え、 はてない国人+になし国国民+騎士+黒騎士へ になし藩国戦史より、序文 母親が自分の子を愛するようにその体を心配し、父親が自分の子を誇るようにその行いを語る。 になし藩国民とはそういう民である。 ほかの誰があの人を気にかけるより早く、思う気持ちは誰に関わらず決して負けない。 相手が皇帝だろうと、それが子供でも老人でも確実に口にして憚らない。 になし藩国民とはそういう民である。 何のことはない ただ彼らはあのおてんばな人が好きなだけである。 あの人が国を駆け回ったその日を忘れることなく、ただ笑った思い出をしり、語るのであった。 になし藩国。ぽちによって立つ赤く燃える髪の国。 その根本はただ、好きだと言う原始的な思いであった。 になし藩国という国がある。ただぽちが好きだという国是によりなる国である。もっとも、そうなったのはごく最近の事ではあるが、今は置く。 かつてはただ領土があるのみの、なんら変哲のない国であった。 その運命が変わったのはすなわち、あのになし藩国炎上である。 運命示すイクドラシルが伸びて定めるのはやはり運命であったといえよう。 この時よりになし藩国はただのぽち姫ファンをやめた。 全ての民はその瞳に赤熱するが如き意志を宿し、その髪は燃え上がるような赤を宿すようになったと、当時の学者は記している。 (文 Areb) ~になし藩国・戦いの歴史より~ になし藩国とコパイロット になし藩国の戦いの歴史は、I=Dと騎士の戦いの歴史でもある。 歩兵が必要な時は騎士として、I=Dが必要な時はそれらのパイロットおよびコパイとして、 になし藩国民はその責務を全うしてきた。 その戦いの歴史の中で常に重要視されてきたのはコパイロットとしての騎士である。 パイロット+コパイ騎士×2の構成が戦力として有用である、というのは元より、国の気質が大いに影響されている。 要するに「自分が主役でどうこうよりも、脇役として誰かを支えたい」と思う者が多いのであった。 勿論その『誰か』に当て嵌まる人物がヒロイックなら言う事なし。 になしの民にとってヒロイックとは大概の場合ぽち姫そのものであり、故に全ての国民は王女の力になる事こそを一義とする。 例え、あのおてんば姫が「がるる」した相手が、オーマだろうが、なりそこないだろうが、それ以上のものであろうが。 例え、あの無謀な姫を、共和国が見放し、帝国が見捨て、全ての世界が見限ろうと。 それでも、になしの民はぽち姫の力になりたいのだ。 あの正義感の塊の彼女が許せないものを見つけ、先陣切って突き進むのならば、 になしの技術陣は総力を上げて王女のゴールデンを仕上げ、 になしの兵は姫に負けじとI=Dを駆り、 になしの多くの民は歓声をもってぽちの武運を祈る。 そして、になしの騎士は、 常に彼女の傍には彼女を慕う者が居る事を示すように、 遠い空の下、そこには居られない多くの者の代理として、 姫と共にゴールデンを駆るのだ。 故に、になし藩国民はコパイロットを尊ぶ。 誰かを支え、誰かを守るときに最大の力を発揮する。 そうありたいと願い、そう生きる民の国がになし藩国であった。 ここでは、比較的地味な役割であるコパイの戦歴の中から、 特に大きな役割を担った二つの戦いについて記そうと思う。 22407002 後ほねっこ領奪還戦 この日、コールドスリープから目覚めたぽち王女と共に、 帝國共和国合同で編成された部隊が後ほねっこ領にいた。 白オーマのアラダ達によって占拠されたこの地を奪還する為である。 まず偵察部隊を出し、持ち帰った情報を元に本隊が動く手はずだった。 その報は突然訪れた。 偵察部隊として出した二部隊の内一部隊が全滅。 もう一部隊が救助を求めている、と。 偵察部隊救出の為、急遽編成された王家仕様トモエリバーのコ・パイロットに、下丁と玲瓏堂が選ばれた。 本隊にも偵察部隊にも編成されていなかった為であった。 「月空さん達の偵察部隊がピンチらしいです」 「そうみたいだな」 「こちらにある戦力はトモエリバー一機。敵は何でもアラダが1000居るとか」 「絶望的、と言う奴だな」 「何、我らの王女が見ておられるのです。絶望など無いも同じですよ」 「うむ、そうだな。それに、こちらにも白にして秩序殿がいる。やれるだけやるか」 「はい。行きましょう、下丁さん」 たった一機だけで、彼らは1万2千以上ものアラダ達がひしめく戦場へと向かった。 トモエリバーは帝国最大の駄作と言われてきた。 ただ、圧倒的に優れている所もあった。ARが18と高かったのだった。 これの意味する所は、敵が動く前に動く事が出来る、である。 結果として、偵察部隊が全滅する前に現れて敵を撃破。 全滅をなかった事にすると言う離れ業をやってのけた。 その後も彼らの乗るトモエリバーは持てる弾のすべてを撃ちつくすまで戦い、 作戦の中で大きな戦果を挙げた。 10408002 プリンセスハートガードの初陣 禁断の技術に手をつけた者が暴走を始めた事が発端となり、その影響を受けて 各地に「なりそこない」と呼ばれる敵が出現。世界を崩壊させ始めていた。 レムーリアの空の下、発掘兵器「ファーヴニル」のコ・パイロットスペースに、イタと月空が乗っている。 この地には1万を数える「なりそこない」がいた。先発している暁の円卓別働隊を探しつつ、 本隊をなりそこない部隊の最深部へと送り届ける事になっていた。 「毎度の事ながらすごい戦力差ですね、イタさん」 「戦力の差など、大した問題ではありませんわ」 「…そうですね。私が助けられた時もそうでした」 「ええ。どれだけの数が来ようと、この子はそう簡単にやられはしません」 「ファヴさんすごいですね」 「そうですとも。わたくし達が手塩にかけた子ですから」 「パイロットよりコパイ両名へ、出撃準備よろし?」 「いつでも」 「勿論ですわ」 「了解。ファーヴニル、出撃します」 レムーリアでは銃火器などが使えないと言う制約があった。 世界によって文明発達の度合いが異なる為である。 だがファーヴニルはそんな制約をものともせずに空を駆けた。 敵陣を偵察し、ただ一機先行して白兵を行い、全部隊合流後も休む事無く敵陣へと切り込んだ。 やがて敵の布陣に穴が開き、本隊は無事なりそこない達の最深部へとたどり着いた。 この戦いでファーヴニルの果たした役割はとても大きな物だったと言えるだろう。 (文 月空)
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尖閣諸島領有権問題 尖閣諸島とは 尖閣諸島は東シナ海にある魚釣島などをはじめとする大小の無人の島々のことです。一番大きい魚釣島を基点とすると石垣島と台湾まではほぼ等距離で約170㎞、沖縄本島まで約410㎞、中国大陸までは約330㎞の距離があります。明治28年に閣議決定で大日本帝国の領土として沖縄県に編入されています。昭和43年の東シナ海海底の学術調査で同諸島周辺海域に石油が埋蔵されている可能性があると発表されて以降、台湾(中華民国)と中国(中華人民共和国)が領有権を主張している。竹島問題、北方領土と並んで日本の領土問題の一つである。 尖閣諸島関連年表 明治28年大日本帝国に編入。 明治29年頃からカツオ節製造など経済活動が行われ、延べ数百人の日本人が従事する。 昭和20年ポツダム宣言受諾。一部が米軍の射爆場として使用される。 昭和43年秋東シナ海海底学術調査で石油の埋蔵が指摘される。 昭和44年石垣市が標柱を設置。 昭和46年中華民国と中華人民共和国が領有権を公式に主張。 尖閣諸島が日本領である根拠 沖縄が返還された際アメリカ合衆国はその協定の範囲に尖閣諸島も含めている。 明治28年に閣議決定で大日本帝国の領土として正式に編入している。その際に中国の清政府は異議申し立てを行っていない。 明治29年頃から同諸島の魚釣島ではカツオ節の製造が行われており、延べ数百人の日本人が同島で経済活動を行っていたことが判明している。 中国共産党政府、中国国民党政府が領有権を主張する前の昭和44年に石垣市が地籍表示の為標柱を立てている。 中国(中華人民共和国)が尖閣諸島を自国領とする根拠
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塘沽協定(たんくーきょうてい)は、1933年5月31日に河北省塘沽で締結した満州事変の停戦協定。 妥結に至る背景 満州事変によって満州国が建国されると、それまで強硬な抵抗姿勢を取っていた孫科内閣は倒れ、代わりに対日妥協策を取る汪兆銘内閣が成立した。その一方で日本軍は1933年に熱河省へ侵攻、万里の長城(長城線)以北の地域を満州国に併合する。更に長城線を越えて河北省へと進撃するが、ここで宋哲元率いる29軍の抵抗に遭ってしまう。何とか侵攻は成し遂げたが日本は国際連盟を脱退して国際的な孤立感を深め、国民政府との間で一応の妥協点を探ることになった。 最初のうちは北平政務委員長の黄郛和と関東軍副参謀長の岡村寧次との間で秘密裏に交渉が持たれていたが、最終的には国民政府軍事委員会から何応欽が全権として出席し協定妥結にこぎつけた。 協定の骨子 国民政府軍は河北省東北部から撤退し、軍事的な挑発行為を行わない。 前項が遵守されているか日本軍が監視することを認める。国民政府もそのための便宜を図る。 日本軍は長城線以北へ撤退する。 長城線以南~国民政府軍撤退地域は国民政府の警察によって治安を維持する。 影響 この協定によって国民政府(中国国民党)は事実上、満州国の建国を認めたばかりか華北における主権の一部を喪失する結果となってしまい、協定を妥結した汪兆銘は非難の矢面に立たされることになった。また中国共産党は協定を売国的と非難声明を出した。 一方、日本軍は大部分の軍勢を撤退させたものの、一部を「国民政府軍の行動を監視するため」と称して駐留させていた。 関連項目 満州事変 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月6日 (日) 21 55。
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日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 第1部 近代日中関係の発端と変遷 第3章 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その2> 服部龍二 中央大学総合政策学部准教授(外部執筆委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その1> 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その2>4.国民政府「革命外交」と田中外交・第2 次幣原外交1) 第1 次山東出兵、東方会議、山本─張鉄道協約 2) 済南事件と張作霖爆殺事件 3) 国民政府「革命外交」 4) 奉ソ戦争と経済関係 5) 中国における日本人コミュニティ おわりに 4.国民政府「革命外交」と田中外交・第2 次幣原外交 1) 第1 次山東出兵、東方会議、山本─張鉄道協約 若槻内閣は1927 年4 月20 日に退陣し、政友会の田中義一内閣が発足した。政権交代の主因は金融恐慌であったが、政友会は幣原の外交にも不満をつのらせていた。北伐が華中から華北に差し掛かると、田中内閣は5 月下旬に居留民保護のため山東出兵を行った。山東省には、日本陸軍の1 個旅団が派遣された。国民革命軍は山東省から撤退し、蒋介石が8 月に武漢政府と南京政府の妥協策として下野すると、第1 次北伐は中断された。来日した蒋介石は11 月に田中を私邸に訪問したものの、田中と蒋介石の溝は埋まらなかった22。 この間の1927 年6 月下旬から7 月上旬に田中内閣は、芳沢謙吉駐華公使や武藤信義関東軍司令官らを招集し、東方会議という大規模な会議を開催した。ここで田中は、包括的な方針として「対支政策綱領」を訓示した。田中にとって理想的なのは、反共的な傾向にある蒋介石や張作霖が中国の南北を分割して統治することであった。田中は、蒋介石による統一を認めつつ、張作霖を東三省に帰還させ地方政権としての安定を図ろうとした。 もっとも田中の構想は、日本外務省や陸軍の方策を集約していなかった。東方会議の総決算であるはずの「対支政策綱領」には雑多な主張が盛り込まれており、前文では「日本ノ極東ニ於ケル特殊ノ地位ニ鑑ミ支那本土ト満蒙トニ自ラ趣ヲ異ニセサルヲ得ス」としながらも、第6 項では「満蒙南北ヲ通シテ均シク門戸開放機会均等ノ主義ニ依リ内外人ノ経済的活動ヲ促ス」とされた。「対支政策綱領」には矛盾する部分が少なくないのである23。 東方会議に関連して、「田中上奏文」と呼ばれる怪文書がある。この「田中上奏文」とは、田中首相が昭和天皇に上奏したとされるものである。その内容は、東方会議に依拠した中国への侵略計画であった。だが「田中上奏文」は、実際の東方会議と大きく離反していた24。 22 佐藤元英『昭和初期対中国政策の研究──田中内閣の対満蒙政策』(原書房、1992 年) 23-76 頁、小林道彦「田中政友会と山東出兵──1927-1928 (1)(2)」(『北九州市立大学法政論集』第32 巻第2・3 号、第33 巻第1 号、2004-2005 年)1-33、1-52 頁。 23 佐藤元英『昭和初期対中国政策の研究』77-164 頁。 24 重光葵駐華臨時代理公使らが国民政府外交部に「田中上奏文」の根本的な誤りを説いており、満州事変前の中国は日本の取り締まり要請にある程度応じていた。このため国民政府外交部は、「田中上奏文」を偽書と知っていた可能性が少なくないと思われる。その史料的根拠などについては、服部龍二「『田中上奏文』と日中関係」(中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005 年)455-493 頁、同「『田中上奏文』をめぐる論争──実存説と偽造説の間」(劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識──日中対話の試み』東京大学出版会、2006 年)84-110 頁、同「満州事変後の日中宣伝外交とアメリカ──『田中上奏文』を中心として」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美編『戦間期の東アジア国際政治』)199-275 頁を参照されたい。 13 田中内閣は、満州における鉄道政策を重視していた。田中内閣は同年10 月、満鉄社長の山本条太郎を介して張作霖と満蒙5 鉄道の協約を成立させた。山本・張鉄道協約と呼ばれるものであり、田中外交は張作霖との関係を柱の1 つとしていた。さらに田中内閣は、敦化―老頭溝―図們線、長春―大賚線、吉林―五常線、.南―索倫線、および延吉―海林線の5 鉄道建設請負を骨子とする山本・張鉄道協約の細目を交渉し、1928 年5 月には吉林―五常線を除いて各鉄道の建設請負契約を成立させた。 2) 済南事件と張作霖爆殺事件 蒋介石が1928 年4 月に北伐を再開すると、田中内閣は第2 次山東出兵を行った。済南で居留民保護に携わった日本軍は、支那駐屯軍臨時済南派遣隊と第6 師団であった。日本軍と国民革命軍は、5 月3 日に済南で衝突した。藤田栄介駐青島総領事は、「三日午前十時頃邦人家屋内ニ支那兵ノ掠奪アリトノ報ニ我軍四名救護ノ為赴キタルニ対シ発砲負傷セシメタルニ付我軍已ムナク応戦」と伝えた25。ただし、多くの事件と同様に、済南事件の発端に関して日中の史料は相容れない。 この済南事件に際して田中内閣は、第3 次山東出兵に踏み切った。正確な数字を挙げるのは困難であるが、済南事件では日本側よりも中国側に多数の死傷者を出している。このころ吉野作造は、「今度の様な形で支那と戦ふは我国に取て一大不祥事である」と論じていた26。済南事件の事後処理をめぐって、日中交渉は難航していった。 それでも、済南での松井石根参謀本部第2 部長―張群間交渉、南京での矢田七太郎駐上海総領事―王正廷外交部長間交渉、上海での芳沢謙吉公使―王正廷外交部長間交渉、および重光葵駐上海新総領事―周龍光外交部第2 司長間交渉を経て、ようやく1929 年3 月に芳沢公使と王正廷外交部長が済南事件解決文書に調印した。すなわち、「該事件ニ伴フ不快ノ感情ヲ記憶ヨリ一掃シ以テ将来両国国交ノ益々敦厚ナランコトヲ期スル」との共同声明、共同調査委員会の損害調査による双方への賠償、国民政府による日本人保護の保証、および山東派遣軍の2 カ月以内の撤退などによって済南事件は解決されたのである27。 他方で田中首相は1928 年5 月、東三省治安維持への積極的関与を全面に押し出した閣 25 外務省編『日本外交文書』昭和期Ⅰ、第1 部、第2 巻(外務省、1990 年)344 頁。なお、北伐期日中関係についての中国側研究として、邵建国『北伐戦争時期的中日関係研究』(北京:新華出版社、2006 年)がある。 26 吉野作造『吉野作造選集』第9 巻(岩波書店、1995 年)345 頁。 27 外務省編『日本外交文書』昭和期Ⅰ、第1 部、第3 巻(外務省、1993 年)501-507 頁。 14 議決定を踏まえ、奉天軍が東三省へ早期撤退した場合には国民革命軍の追撃を阻止するものの、交戦状態にて退却した場合には両軍ともに武装解除を要求すると芳沢公使に訓令していた。田中としては奉天軍を早期撤退させることを意図し、最後的手段としてのみ武装解除を想定していたのである。 国民政府は田中内閣の方策を内政干渉と批判する一方で、奉天軍撤退の際には追跡せず、閻錫山に京津地区の治安を担当させる意向を日本側へ示した。張作霖も奉天に向けて出発することを町野武馬顧問に伝えており、田中首相の構想は表向きには批判を浴びながらも、実際には中国南北の両勢力に了承されつつあるかにみえた。 田中構想に対する痛烈な批判は、むしろ日本陸軍から寄せられた。白川義則陸相は従来の張作霖援助論から一転して張作霖下野を主張するようになっていたし、荒木貞夫第1 部長も奉天軍の武装解除を目的とした満鉄付属地外への派兵を熱心に説いていた。陸軍中央は、村岡長太郎司令官が率いる関東軍の立場に接近していたのである。 関東軍の謀略によって6 月4 日に発生した張作霖爆殺事件は、田中首相の構想を現実に葬り去るものであった。すなわち、張作霖が北京から奉天へと向かうと、関東軍高級参謀の河本大作大佐らは張作霖を列車ごと爆殺した。この張作霖爆殺事件は、当時、満州某重大事件とも称された。この事件で田中内閣は、対満州政策の柱と位置づけてきた張作霖を失った。張作霖没後の満州では、息子の張学良が実権を掌握した。 張学良政権は、12 月に蒋介石の南京国民政府と合流した。このことは、中国の再統一を意味した。中国史上に易幟と呼ばれるものである。張学良政権が満州問題の外交権を国民政府に移管すると、田中内閣の重視する満州での鉄道政策は停滞した。 3) 国民政府「革命外交」 中国南方では国民政府が、正式に承認される前から積極的な対外政策を展開していた。その手法は実力行使をも視野に入れた国権回収策であり、しばしば「革命外交」と称された。国民政府「革命外交」の典型は、1927 年1 月の漢口・九江イギリス租界回収であろう。最初に「革命外交」を唱えたのは陳友仁であった。陳友仁は広州国民政府の外交部長代理を経て、武漢国民政府の外交部長となった。1928 年になると南京国民政府外交部長の黄郛や王正廷が、中国の関税自主権を欧米列国に承認させた。 欧米列国に関税自主権を承認させたのは国民政府初期外交の主たる成果であり、通商条約改正、差等税率の暫定的導入、外資系輸出に対する付加税導入、および陸境特恵関税廃止といった通商問題でも、国民政府は成果を収め始めていた。もっとも、そうした外交的成果は、黄郛や王正廷による政治指導だけに還元されるべきではない。アメリカなどの中国寄りな対応は、すでに北京政府末期の「修約外交」によって相当程度まで準備されていたし、国民政府の通商政策も北京政府の「修約外交」を大筋において継承したものだからである。このような中国の方針は、日本にも対応を迫るものであった。関税自主権承認で遅れをとった田中内閣は、差等税率や輸出付加税への対処をめぐってイギリスとの共同歩調を模索したが、うまくいかなかった。 田中内閣は、国民政府による漢冶萍公司や南潯鉄道の接収を阻止したものの守勢に立たされており、満蒙鉄道交渉も頓挫していった。張学良の政権が、易幟に際して中国東北を 15 めぐる外交権を国民政府に移管したためである28。後年に王正廷は、「アメリカ政府、とり わけアメリカの国民は、常に大いなる友情を中国に示していた」し、ランプソン駐華イギ リス公使は「知的かつ多才であり、完全なる対等を求める中国に同情的であった」と回想 している。他方で王は、「対日政策には細心の注意を払った」という29。 このように田中外交は、次第に手づまりの状態となっていた。1928 年から1929 年ごろ の国民政府「革命外交」と田中内閣の対応については、以下の表を参照されたい。日本国 内では野党の民政党が、田中外交への批判を強めた。張作霖爆殺事件の真相を知った田中 首相は一旦、昭和天皇に厳罰を約束した。だが、陸軍の圧力が高まったため、関係者の行 政処分にとどまった。これによって河本大作は停職となり、関東軍司令官の村岡長太郎は 予備役になった。昭和天皇が田中の変節を叱責すると、田中内閣は1929 年7 月に総辞職 した。民政党の浜口雄幸内閣が誕生し、外相には幣原が復帰したのである。 国民政府「革命外交」と田中内閣の対応(1928-1929 年) 「革命外交」の3 類型 細目 田中内閣の対応 不平等条約改正策 関税自主権の回復 次期内閣に持ち越し 通商政策 新通商条約締結 交渉には合意 差等税率暫定導入 差等税率導入を承認したうえで外債整理への充当を追求して失敗 外資系輸出に対する付加税 徴収阻止に失敗 陸境特恵関税廃止 抗議によって延期せしめた 重要産業接収策 漢冶萍公司接収 抗議して接収を放棄させた 南潯鉄道国有化 債権保持に成功 出典:服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001 年)222 頁 4) 奉ソ戦争と経済関係 1929 年の下半期には、中ソ間に紛争が起こった。その発端は、中国による東支鉄道の回収策であった。当初、中国側の当事者が張学良政権であったことから、この中ソ紛争は奉ソ戦争とも呼ばれる。日本では浜口内閣で幣原が外相に復帰しており、次の第2 次若槻内閣にも幣原は外相として留任する。幣原は、奉ソ戦争について汪栄宝駐日中国公使やトロヤノフスキー(Aleksandr A. Troianovskii)駐日ソ連大使と個別に会談し、中ソ間の直接交渉を斡旋するように努めた。 28 久保亨『戦間期中国〈自立への模索〉──関税通貨政策と経済発展』(東京大学出版会、1999 年)23-49 頁、服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』218-226頁、小池聖一『満州事変と対中国政策』(吉川弘文館、2003 年)115-127 頁、後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925-1932 年──日英同盟後の協調と対抗』(東京大学出版会、2006年)98-99、154 頁。「革命外交」については、李恩涵『北伐前後的「革命外交」(1925-1931)』(台北:中央研究院近代史研究所、1993 年)も参照。 29 服部龍二編『王正廷回顧録 Looking Back and Looking Forward』(中央大学出版部、2008 年)131-132 頁。 16 幣原の発想は、ソ連側の要求が原状回復である限り、中国側はこれを認めねばならないというものであった。他方で、アメリカのスティムソン(Henry L. Stimson)国務長官は、日米英仏など不戦条約の批准国で委員会を構成しようとした。しかし、王正廷外交部長は、スティムソンの試みを有効とみなさなかった。やがて張学良は、東支鉄道の復旧や検挙者の即時解放というソ連側要求をほぼ全面的に承認する意向を示した。このため、ハバロフスクを舞台とする中ソ交渉は急速に妥結へ向かった。東北政権とソ連政府は12 月に東支鉄道の原状回復についての議定書に調印し、国民政府とソ連政府の間でも同様の議定書が調印された。奉ソ戦争はようやく終結したのである30。 同年11 月には佐分利貞男駐華公使が、箱根のホテルで怪死を遂げた。そこで日本は、小幡酉吉を後任の駐華公使に任命した。すると中国は、小幡へのアグレマンに難色を示した。アグレマンとは、大使や公使の任命に先立って、派遣先の国家が与える承認のことである。かつて対華21 カ条要求のときに小幡が駐華日本公使館の1 等書記官であったことを理由に、国民政府は小幡へのアグレマンに難色を示したのである。しかも王正廷外交部 長は、小幡にアグレマンを与える交換条件として、公使館を大使館に昇格することを日本に提起した。だが小幡は、すでに対華21 カ条要求後の1918 年から1923 年に駐華公使を務めており、その後も駐トルコ大使などになっていた。幣原外相は、中国の求める交換条件を理不尽なものとして退けた。結局のところ中国は、小幡へのアグレマンを拒否した。 浜口内閣は、経済不況の克服を政策の目標に掲げており、井上準之助蔵相のもとで金解禁を断行した。のみならず、中国への経済進出は重要課題の1 つであった。1930 年1 月から幣原は、駐華臨時代理公使の重光葵を関税自主権の交渉に当たらせた。中国で日中関税協定の推進に積極的なのは、財政の安定化を図る宋子文財政部長であった。王正廷外交部長は、むしろ治外法権の撤廃に関心を寄せていた。そこで重光は宋子文財政部長と関税自主権交渉を進め、日中関税協定が5 月に調印された。この協定で中国に関税自主権が認められ、その交換公文では、綿製品や海産物の現行税率を3 年間据え置きとするほか、関税協定実施の4 カ月後に特恵関税を廃止するなどと規定された。 さらに日中関係では、治外法権撤廃問題や外債整理問題が中心的な課題となった。王正廷外交部長が治外法権の即時撤廃を強く求めたのに対して、列国の足並みはそろわなかった。治外法権撤廃とともに焦点となったのは、中国の外債をいかに償還せしめるかという問題であった。日本は西原借款などの不確実債権を保有しており、以前から外債整理交渉を行っていた。国民政府内では、宋子文が対外的信頼を回復して中国への投資を活性化させようとしたのに対して、王正廷は西原借款償還の否認を公言した。中国において西原借款は、軍閥間の内争に利用されたものとして悪名高かったからである。そこで重光は、宋子文や蒋介石と提携するように努めた。だが、1931 年9 月には満州事変が勃発し、外債 30 土田哲夫「1929 年の中ソ紛争と『地方外交』」(『東京学芸大学紀要 第3 部門 社会科学』第48 集、1996 年)173-207 頁、同「1929 年の中ソ紛争と日本」(『中央大学論集』第22 号、2001 年)17-27 頁、服部龍二/雷鳴訳・米慶余校正「中国革命外交的挫折――中東鉄路事件与国際政治(1929 年)」(米慶余主編/宋志勇・藏佩紅副主編『国際関係与東亜安全』天津:天津人民出版社、2001 年)294-308 頁。 17 整理交渉は頓挫した31。 5) 中国における日本人コミュニティ 最後に、中国における日本人コミュニティを論じておきたい。日本外務省亜細亜局の調書によると、1930 年末の時点で中国には「本邦人」が90 万3311 人いたという。この「本邦人」とは、「内地人」「朝鮮人」「台湾人」を合わせた概念である。90 万3311 人の内訳は、「内地人」28 万3870 人、「朝鮮人」60 万9712 人、「台湾人」9729 人となっている。 「内地人」の分布は、関東州11 万6052 人、満州11 万2732 人、「支那本部」5 万3212人、香港1868 人、マカオ6 人となっている。したがって、「内地人」約28 万人のうち、関東州および満州に約23 万人が在留していたことになる。 「内地人」の居住する「支那本部」5 万3212 人のうち、半数近い2 万4182 人が上海に暮らしていた。2 万4182 人の内訳は、上海の共同租界に1 万8607 人、フランス租界に392 人、「付近支那街」に5183 人となっている。上海以外では、青島1 万1211 人、天津5760 人、漢口2137 人、済南2048 人、北平1208 人などとなっている。「朝鮮人」60 万9712 人のうち、60 万5325 人までが満州に居住していた。なお、関東州の中国人人口は、82 万534 人であったという32。 このうち在満日本人の居住地は、9 割がた関東州と満鉄付属地に偏っていた。在満日本人の半数近くは満鉄社員や関東庁官吏およびそれらの家族であり、そのほかに日本企業の支店関係者、貿易業者、在満日本人を顧客とする商工業者・サービス業者などがいた。このため満州の日本人社会は、満鉄社員と関東庁官吏を中心として、その周辺に日本人向けの商工業者やサービス業者が存在していた。1920 年代に在満日本人による経済活動は、満鉄の人員整理などによって低迷した。日本人の居住地は、関東州と満鉄付属地に固まるようになっていた。張学良政権と日本の間には、「満鉄包囲鉄道網」や商租をめぐるせめぎ合いもあった33。 列国の権益が集中する上海には、1930 年代初頭の時点で約2 万4000 人の日本人がおり、多くは共同租界の北部に居住していた。上海の日本人は、よりよい生活を求めて主に西日本から移住した「土着派」と、商社や銀行の支店、紡績会社などで働く「会社派」に大別された。したがって、上海の日本人社会は、上海のイギリス人コミュニティなどと同じく階層社会であった。1931 年7 月の万宝山事件で日貨排斥が高まると、上海の日本人居留民は、日本総領事館にではなく日本海軍に期待するようになった。日本外務省と日本海軍 31 Edmund S. K. Fung, The Diplomacy of Imperial Retreat Britain s South China Policy, 1924-1931 (Hong Kong, Oxford, New York Oxford University Press, 1991), pp.184-189; 久保亨『戦間期中国〈自立への模索〉』51-71 頁、服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』263-278 頁、小池聖一『満州事変と対中国政策』127-218 頁。 32 外務省亜細亜局「支那在留本邦人及外国人人口統計表(第23 回)」1930 年12 月末日現在(木村健二・幸野保典解題『戦前期中国在留日本人統計』第4 巻、不二出版、2004年)1、96、106、108、110-111、119-120 頁。 33 塚瀬進『満洲の日本人』(吉川弘文館、2004 年)46-51、120-121、161-170 頁。 18 は、意思の疎通に支障をきたしていた34。 天津には、1898 年から日本租界が置かれており、中国における日本の専管租界としては最大のものであった。居留民の数は、満州、上海、青島に次ぐ多さであった。上海や漢口などと同様に、天津には居留民団が設置され、水道や電気などの行政を担った。租界の運営には、議決機関の居留民会や執行機関の行政委員会が当たった。天津の日本人は、貿易業を中心としていた。その日本人社会の上層には、大企業の支店長や貿易商、運輸・通信業者、金融業者、医者、弁護士などがいて、その下に中流の地元商人がおり、さらに下層には零細な雑貨商や料理屋などがいた。1920 年代末に天津の日本人は、中国の日貨排斥、治外法権の撤廃、租界回収の動きに対応するため、中国各地の居留民団や商工会議所と糾合して日本政府に訴願しようとしたものの、うまくはいかなかった35。 このように中国各地の日本人と中国の間では、摩擦も少なからずあった。満州事変後に日本外務省は、リットン調査団を意識しながら権益侵害について報告書をまとめた。外務省の報告書には、中国における日貨排斥などについて記されている36。のちのリットン報告書も、中国のボイコットは合法的に行われたという中国側の主張を支持していなかった37。 おわりに 本章では、第1 次世界大戦から満州事変直前までの日中関係をたどってきた。主な争点でいうなら、対華21 カ条要求、西原借款、新4 国借款団、パリ講和会議と5.4 運動、ワシントン会議における9 カ国条約や山東条約、「東方文化事業」、5.30 事件、北京関税特別会議、北伐と南京事件、山東出兵、張作霖爆殺事件、奉ソ戦争、小幡アグレマン拒否、日中関税協定、中国の治外法権撤廃問題と外債整理問題、日本人コミュニティなどである。 34 上海居留民団創立三十五周年記念誌編纂委員『上海居留民団三十五周年記念誌』(上海居留民団、1942 年)、高綱博文「西洋人の上海、日本人の上海」(高橋孝助・古厩忠夫編『上海史 巨大都市の形成と人々の営み』東方書店、1995 年)123-131 頁、後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925-1932 年』45-48、217-243 頁。上海居留民団創立三十五周年記念誌編纂委員『上海居留民団三十五周年記念誌』1101 頁によると、「土着派と会社派といふやうな分野が居留民の間に出来て、さうして相当激烈な競争があり民会も紛糾したらしい」のであり、「土着派」と「会社派」の対立は上海だけでなく天津や漢口でも同様だったという。 35 臼井忠三編『天津居留民団三十周年記念誌』(天津居留民団、1941 年)、小林元裕「天津のなかの日本租界」(天津地域史研究会編『天津史──再生する都市のトポロジー』東方書店、1999 年)185-207 頁。なお、重慶、漢口、杭州などの租界については、大里浩秋・孫安石編『中国における日本租界──重慶・漢口・杭州・上海』(御茶の水書房、2006 年)がある。 36 服部龍二編『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(日本図書センター、2002 年)。 37 外務省編『日本外交文書 満州事変』別巻(外務省、1981 年)227-229 頁、加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書、2007 年)141-142 頁。 19 そして、1920 年代の東アジアをめぐる国際秩序となったのがワシントン体制だった。 第1 次世界大戦期に日本は、対華21 カ条要求という過大な要求を最後通牒で突きつけるという失策を犯した。とはいえ、そこから日本が一貫して大陸への膨張に突き進んだわけではない。重要なのは、21 カ条要求の経験に加藤高明や幣原喜重郎らが学ぼうとしたことであろう。のちに首相となった加藤は幣原外相に外交を任せるようになり、加藤の憲政会が体制内化することで、日本は政党政治の時代を迎えたのである。原内閣を含めて第 1 次大戦後の日本は、概して対米英協調の枠組みを守ろうとした。 1920 年代を通じて日本外交の中心的役割を担ったのが幣原であり、幣原は駐米大使としてワシントン会議に参加したうえで、5 年以上も外相を務めた。ワシントン体制を最も体現していたのが、幣原にほかならない。ワシントン会議の精神のもとで幣原外交は、統一へと向かう中国に理解を示した。だが、とりわけ南京事件後に国内では、「軟弱外交」という幣原批判が高まった。山東出兵を行った田中外交も、ワシントン体制を脱しようとするものではなかったが、田中の意図に反して関東軍は張作霖爆殺事件を引き起こしてしまった。 一方の中国は、この間に北伐と易幟によって再統一を果たした。袁世凱没後に政局が混乱することもあったが、中国は北京政府の「修約外交」や国民政府の「革命外交」などを通じて、政治的安定と国権回復を期していたといえよう。日本と中国の間では、「日中提携」構想や文化交流などを含めてさまざまな可能性と試みがあったことも、この時代の大きな特徴である。 1920 年代の国際秩序となったワシントン体制は、中国関係のみならず海軍軍縮、太平洋を含む多面的なものであった。日中関係についていうなら、ワシントン体制は2 つの面を備えていた。第1 に、ワシントン会議の精神に基づいて日本が米英との協調を基軸としたため、日本の大陸進出は比較的に抑制された。第2 に、列国の在華権益はワシントン会議によっても基本的には維持されており、日米英の協調は中国における現状維持を前提としていたところがある。中国にとってワシントン体制は、不平等条約を容認していたことでは不利な半面で、日本に対する抑止としては有益でもあったことになる。ワシントン体制の二重性といってもよい。 このようなワシントン体制は、固定的なものではなく次第に変容をとげていった。中国が国権回収と統一に向かったときの対処について、日米英に十分な合意はなかった。それだけに、中国が「修約外交」や「革命外交」を進めると、日米英は足並みを乱して秩序構想を分化させた。とりわけ田中外交期の日本は、国民政府との関係構築に取り残されることになった。やがて満州事変では、幣原外相までもが中国との直接交渉に挫折し、日本陸軍主導の傀儡政権構想に妥協するようになった。幣原外交の変質と崩壊によって、ワシントン体制の終幕は日本側から引かれたといわねばならない。 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
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西安事件(せいあんじけん、西安事変 -じへん、ともいう)は民国25年(1936年)12月12日に西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件。 概要 1936年10月、国民政府主席蒋介石は、紅軍(共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じた。この攻撃に参加していた張学良は、父である張作霖が殺害されたことから抗日的気運が高く、共産党の内戦の停止、一致抗日の主張に対してシンパシーを感じており、紅軍に対する攻撃が消極的となっていた。蒋介石は消極的な張学良を督戦するため、12月4日に西安に行った。西安に来た蒋介石に対し、張学良は内戦を停止するように説いたが、蒋介石にこれを拒絶された。このことを切っ掛けに、蒋介石を監禁し、以下の8項目の要求を全国に流した。 8項目の要求 南京政府の改組、諸党派共同の救国 内戦の停止 抗日七君子の釈放 政治犯の釈放 民衆愛国運動の解禁 人民の政治的自由の保証 孫文遺嘱の遵守 救国会議の即時開催 国共合作 国民政府は、当初、張学良を討伐するために西安に対し爆撃を開始し、事態は緊迫したものとなった。しかし、12月7日に共産党の周恩来、秦邦憲、葉剣英が西安に入り、国民政府側の蒋介石、宋子文、宋美齢との間に前8項目に関する合意ができて蒋介石は解放され、国共対立は収拾された。翌1937年に日中戦争が勃発した後に第二次国共合作が成立するが、このことは西安事件を土台としたものであった。 蒋介石監禁の報を受けた中国共産党は、蒋介石殺害計画を検討したが、スターリンの鶴の一声で立ち消えとなった。これは陳立夫のスターリンへの働きかけもあったし、蒋介石と和睦することで、共産党勢力を温存し、国民党と手を組んで抗日戦を継続する事が、日本を中国に釘付けにして対ソ戦を回避させるスターリンの思惑が働いたという。 なお、事件の首謀者である張学良は、事件を起こした責任をとるとして、自ら進んで国民政府の軍法会議にかけられることになった。 後年、蒋介石は数々のインタビュー内において、西安事件に関して一切発言しようとはしなかった。 関連項目 蒋介石 宋美齢 毛沢東 中国国民党 中華民国の歴史 中国共産党 日中戦争 国共合作 八・一宣言 蘆溝橋事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月3日 (水) 16 14。
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トップページ>中国>中国近現代史研究 『中国近現代史研究』40、2008.12 論文 申義植「清代天主教宣教師間に発生した若干の問題:宣教保護権及び宣教師間の教権葛藤を中心に」 차경애「義和団運動鎮圧戦争当時の戦争見聞録を通じて見た戦争地域民衆の暮らし」 姜抮亜「韓末彩票業と華商同順泰号:20世紀初東アジア貿易ネットワークと韓国」 金泰丞「中国の「近代化」議論に表れた「他者性」の問題:1920/30年代と1990年代の論争を中心に」 金志煥「満鉄と東北交通委員会」 朴宣冷「土門江をめぐる中国の「歴史造作」嫌疑」 趙京蘭「現代中国の保守主義文化:新保守主義の出現と儒学の再照明」 書評 千聖林「尹惠英著『쉬광핑 루쉰의 사랑, 중국의 자랑』서해문집、2008」 『中国近現代史研究』39、2008.9 論文 李永玉「清末満州族地位下落と反満情緒」 尹恩子「20世紀初南京の韓人兪留学生と団体(1915-1925)」 文明基「1920年代韓国・台湾の自治運動についての比較史的接近:支配層の存在様態と「中国」要因を中心に」 兪長根「1920-30年代初紅卍字会の発展様相とその性格」 鄭炯児「中日戦争時期の中ソ関係:盛世才の役割を中心に」 金志勛「1950年景気沈滞と中国政府の私営商工業調整政策」 박장배「「新中国」のチベット政策」 『中国近現代史研究』38、2008.6 論文 윤미영「康有為の『大同書』に表れた女性解放思想」 李銀子「「訴訟」案件を通じて見た清日戦争以後(1895-1899)韓中関係研究」 朴敬石「民国時期上海友声旅行団と「レジャー旅行」」 裴京漢「汪精衛と西安事変」 孫承会「中華人民共和国の建国と学習・批評の組織化:1952年『学習』停刊事件を中心に」 書評 美診亜「久保亨編『一九四九年前後の中国』汲古書院、2006」 『中国近現代史研究』37、2008.3 論文 崔炳旭「近代中国不平等条約の中のキリスト教関連条項の意味」 姜京洛「近代中国対外貿易を通じて見た中国経済:対外貿易が天津と背後地市場に及ぼした影響を中心に」 金亨洌「近代済南の人口流動と都市問題」 崔恩珍「南京国民政府時期浙江省教育輔導制度」 鄭文祥「廃止内戦大同盟会の廃戦運動とその正確」 朴橿「日本の阿片政策と三井物産・三菱商事の活動」 『中国近現代史研究』36、2007.12 論文 鄭惠仲「開港期仁川華商ネットワークと華僑定着の特徴」 김수영「ヴォイチンスキーと初期東アジア共産主義運動」 金志煥「臨城事件と中国鉄道管理案」 姜明喜「1940年代韓中中間路線の「新民主」的国家建設指向」 争点と動向 尹徳「第八届両案三地歴史学研究生論文発表会 参加記」 李在鈴「中国近現代史の学術用語標準化方案:中等教科書の事例を中心に」 『中国近現代史研究』35、2007.9 論文 李永玉「韓・中民間訴訟研究1906-1910:張導之案・姚貴春案・劉金有案等殺人事件を中心に」 李丙仁「国民党政権の公民観と「民族伝統」:革命と民族伝統の交換と交流」 朴尚洙「1920-30年代中国西南地域農村の神兵運動:農民集団行動の原因・形態及び近代革命運動との関係」 金河林「1930年代中国知識人の亜細亜論と民族主義:『新亜細亜』『新東方』を中心に」 李正煕「中日戦争と朝鮮華僑:朝鮮の華僑小学校を中心に」 『中国近現代史研究』34、2007.6 論文 李春馥「西欧議会制度に対する中国近代知識人の認識とその意義:戊戌変法以前議会制度の職能分析と政治思想史的意義を中心に」 李升輝「ソ連に対する孫文の「外交」:越飛と関連して」 孫承希「1930年代中国青年団の政治的・思想的変化:中国国民党との関係改善を中心に」 白永瑞「20世紀前半期中国人の香港旅行と近代体験:もうひとつの境界を越えて」 孫准植「植民地朝鮮の台湾認識:『朝鮮日報』(1920-1940)の記事を中心に」 1-20 21-40 41-60 61-80
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中華民国の歴史(ちゅうかみんこくのれきし)は、1912年に中国で建国されたアジア最初の共和制国家である中華民国の歴史を記述する。なお、本稿では中華民国が中国大陸を支配していた1949年までの歴史を記述する。それ以降の中華民国の歴史については台湾の歴史と国民政府を、現在の中華民国政府自体については中華民国を参照のこと。 概要 中華民国は、1926年以降の中国国民党による北伐の前後で、北京政府期と南京国民政府期に大別される。建国初期の袁世凱による統治期を除いて、中華民国の代表政府が同時期に2つ存在する時期もあるなど各地の軍閥がそれぞれ「中国を統治する国家」を主張していた時期もあるが、日本やイギリス、フランスやアメリカなどのいわゆる「列強」をはじめとする国際社会(その中には世界最初の社会主義国家であるソビエト連邦も含まれる)では「中国を統治する国家」と認識されている。 第二次世界大戦後の1949年に中華民国軍は、ソビエト連邦の支援を受ける中国共産党の共産党軍との内戦に敗北し、同年4月に首都の南京を制圧された事で崩壊状態に陥った。その後、中国共産党を率いる毛沢東は同年10月に「中国を統治する国家」として「中華人民共和国」の建国を宣言する。 しかし、蒋介石を中心とする中国国民党右派は、崩壊状態にあった中央政府を1949年12月に台湾島へ避難させる事に成功し、翌年に「中国を統治する国家」としての国民政府を再構築した。なお、内戦によって中華民国の全関係者が台湾島へ避難したわけでは無く、共産党軍の捕虜になったり、蒋介石と袂を分かって共産党と行動をすることを決意したものがいた他、香港やアメリカなどの国外へ避難したりする者もいた。 北京政府期(1912年~1928年) thumb|220px|right|中華民国成立を祝うポスター br / 左に[[袁世凱・右に孫文]] thumb|220px|right|1912年の中華民国内閣初組閣時の記念写真 br / 後列左より 農林総長[[宋教仁・交通総長施肇基・陸軍総長段祺瑞・司法総長王寵恵・翰長魏宸祖前列左より 教育総長蔡元培・商工総長代理王正廷・海軍総長劉冠雄・外務部総長代理胡惟徳・総理唐紹儀]] 成立 北京政府とは、1912年から1928年まで北京に存在した中華民国の正統な政府である。北洋軍閥政府ともいう。 中華民国は、1911年の武昌起義にはじまる辛亥革命において、1912年1月1日、南京において成立した(なお、国号については黄遵憲の「華夏」、劉師培の「大夏」、梁啓超の「中国」の他に「支那」や「大中華帝国」という提案もあったが、最終的には章炳麟の「中華民国」が採用された)。 しかし、この時点では、北京に清朝が存続しており、「中国を代表する」政府が南北に並存する状況にあった。しかし、同年2月12日に清朝の皇帝、宣統帝である愛新覚羅溥儀が退位することによって、中華民国政府が中国を代表することになった。 孫文と袁世凱 南京に成立した臨時政府では、国家元首に当たる臨時大総統は孫文であった。だが、孫文は当時国内で最も軍事力を有し、また清朝の全権を握っていた袁世凱と交渉し、南北分裂状態であった中国を臨時政府によって統一させるため、宣統帝の退位、臨時約法の遵守といった条件とひきかえに臨時大総統職を彼に譲った。しかし、袁世凱は臨時大総統就任後、責任内閣制の導入を図る国民党(中国同盟会を改組したもの。現在の中国国民党とは異なる)の宋教仁を暗殺したほか、統治の拠点を自らの軍事基盤である北京において専制体制を強化した。こうした袁の専制への反発から、1913年7月には江西の李烈鈞らが中心となって第二革命が勃発した。しかし、反袁勢力の結集に失敗して鎮圧され、袁は正式に大総統へ就任した。 第一次世界大戦の最中である1915年に日本から出された対華二十一か条要求(中国に於ける日本の利権を絶対的に保証する内容)を批准し、更には自らが皇帝となることを前提に帝政復活を宣言して国号を「中華帝国」に改めた。これにたいして国内外からは非難の声が殺到し、雲南の唐継堯らが倒袁運動を展開(第三革命)したほか、袁の権力基盤である北洋軍閥の諸将からも反発もうけた。このため袁は翌1916年に帝政復活取消を宣言せざるをえなくなり権威を失墜させ、そのまま同年6月に病死した。 中国国民党の設立 袁世凱の死後、中華民国には中国全土を完全に統治する「統一政府」が存在しない状態が生まれた(1916年‐1928年)。そのため、軍閥が群雄割拠する内乱状態となり、同時に日本やフランス、アメリカなどの列強諸国による中国の半植民地化も進行したのである。しかし同時に、この時期には日本から出された対華二十一か条廃棄を挙国的に要求する五四運動(1919年)が起きたほか、陳独秀などが主導した新文化運動が広範な人々の支持をうけるなど中国近代化を象徴する出来事が起こっている。このような中、孫文は1919年に中国国民党を創建し、1921年には後の国民政府の基となる革命政府を広州で樹立した。 right|thumb|220px|[[蒋介石]] また、孫文は成立したばかりのソビエト連邦(1917年建国)と接触し、その後の1924年には中国共産党党員(1921年創党)がその党籍を保持したままで国民党への入党を認めるという、いわゆる第一次国共合作をおこなっている。孫文は1925年に死去したが、1926年になると蒋介石が孫文亡きあとの国民党の主導権を握り、広州を起点に北伐を開始、その過程で軍閥なども糾合していくことによって中国の統一がすすめられた。 1927年に、蒋介石率いる国民革命軍が南京を占領するが、ソビエト連邦のコミンテルンと、その指揮下にある中国共産党の指令、扇動による日本、イギリス、イタリア、フランス、アメリカの列強諸国の領事館を襲撃する南京事件が起こる。この事件により蒋介石は共産勢力を敵視するようになり、1927年 4月国共合作を解消すると、上海、武漢などの各地方で国民党内部から共産党を掃討する運動、いわゆる上海クーデターを起こした。この際、北伐は一時停滞、国民政府は蒋介石の南京国民政府(1927年4月18日)と、これに反対する汪兆銘等の「武漢国民政府」に分裂する。 しかし、劣勢な武漢国民政府は数カ月後の1927年8月19日には南京国民政府に合流することになり、結果、南京国民政府を主導する蒋介石の権力はより一層強固なものとなった。1928年4月8日に、北伐が再開される。北伐におされ、北京から撤退した北方軍閥の張作霖が、6月4日に日本軍(関東軍)によって爆殺された(張作霖爆殺事件)のち、6月9日国民党軍の北京入城によって北伐完了が宣布され、同年10月10日、蒋介石は訓政の実施を発布し南京を首都とする国民政府が正式に成立した。さらに同年12月29日には東北の張学良が易幟をおこない国民政府に帰順する。ここにおいて、中華民国は各地の軍閥や共産党勢力といった反抗勢力を抱えつつも、南京国民政府によって一応の全国統一をみたのである。 南京国民政府期(1928年~1949年) 南京国民政府と汪兆銘政権 南京国民政府とは、1928年から1949年まで南京に存在した中華民国の正統な政府である。なお、日中戦争下の大日本帝国では、1940年成立の汪兆銘政権を「南京国民政府」と呼称し、中華民国の正統な政府として承認する一方、重慶へ撤退した従前の南京国民政府を一地方政府とみなして「重慶政府」と呼称していたが、ここでは「重慶政府」も南京国民政府として解説する。 第二次国共合作 国家主席就任後、蒋介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。しかしその頃、ソビエト連邦の支援の下、毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでに勢力を拡大していた。蒋は1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開、1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込んだ。しかし、蒋は毛沢東の長征までは防ぐことが出来ず、その後も国共内戦は継続されていった。 同時期、日本の関東軍が満州事変を契機として満州を掌握し、かつて清朝最後の皇帝であった宣統帝を執政に推戴する満州国を建国した(いわゆる、十五年戦争の始まり)。これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論が高まったが、蒋は日本との国力の差を考慮した上で国内の統一による国力増強を最優先目標とし、また反共主義の立場から、抗日政策より中国共産党との戦いの方を優先・強化していった。そのような中、父である張作霖を関東軍に殺された満州の軍閥・張学良は、共産党の取締りに対する協力を求めて西安を訪問した蒋を軍隊の動員によって西安に抑留し、国民党と共産党の再合作を要求した(西安事件)。蒋は最終的にこれを受諾し、西安を訪問した共産党代表・周恩来との会談を通じてこれを公式に宣伝した後に共産党軍を「国民党所属第八路軍」として国民政府軍に組み入れた(第二次国共合作)。 日中戦争 1937年の盧溝橋事件を契機として、南京国民政府は日本との全面戦争状態に入った(日中戦争)。しかし、兵力の差から国民政府軍は各地で敗北を重ね、同年末にはに首都・南京を日本軍に制圧された。蒋介石は首都を重慶へ移転させて徹底抗戦の意思を示す一方、共産党との抗日連合戦線やアメリカやイギリスなどからの支援を通じて全面的な抗日戦争を行った。なお、12月には南京事件が発生している。 戦争開始翌年の1938年には日中間の大規模な戦闘が減ってきた為に、日本軍は国民党の反蒋介石派であった汪兆銘を首班とした新たな国民政府(汪兆銘政権)を樹立した。だが、日本軍が住民からの徴発、徴用を強行した為に庶民間には反日機運が広まり、国民政府と共産党もそれを利用してゲリラ戦を展開することで日本軍を次第に包囲していった。しかし一方の抗日連合戦線側も、ソビエト連邦の支援を受けた共産党が抗日戦争と同時に延安を中心として支配領域を広げる動きも見せていた事から、国民政府と共産党との間でも幾度か戦闘が行なわれていた。 その為に1938年以降の中国では、日本率いる汪兆銘政権、アメリカとイギリスが支援する国民政府、ソ連支援の共産党との間で三つ巴の戦闘が事実上行なわれていた。だが、日本への対抗を目的として国民政府を支援していたアメリカとイギリスは共産党との対立姿勢を鮮明にしていた国民政府に対して不信感を抱くこととなり、後に再燃した国共内戦時の国民政府への支援に影響することとなった。 日本の敗戦 220px|thumb|[[カイロ会談における蒋介石とルーズベルト、チャーチル(1943年)]] right|thumb|220px|日本軍撤退後の香港(1945年)中華民国の[[中華民国の国旗|青天白日滿地紅旗とイギリスのユニオンジャックが確認できる]] その後日本は1941年12月にイギリスとアメリカとも開戦し、第二次世界大戦に突入することになる。国民政府は大戦中にアメリカとイギリスだけでなく、ソ連からの支援も受けつつ日本と対峙し、蒋介石がカイロ会談などに参加した他、蒋介石夫人の宋美齢が援助を募るためにアメリカ連邦議会で演説するなど、国民政府は主要な連合国の構成国として位置づけられた。その後1945年8月に日本と満州国は連合国に対して降伏し、中国における日中間の戦闘も終結した。 国民政府は連合国の主要メンバー、つまり戦勝国の一員として極東軍事裁判などの戦後処理に当たったほか、また、第二次大戦終了後には満州国や汪兆銘政権が崩壊した上に、カイロ会談やポツダム宣言での内容を受けて中国全土が再び国民政府の統治下に入った他、日本だけでなくヨーロッパ諸国も租界の返還や不平等条約の改正(1943年)をするなどした為、アヘン戦争以来続いていた中国の半植民地状況は一応の終わりを見せた。更には、日本が降伏の際に放棄した台湾島一帯も統治地域に編入し、中華民国の版図は拡大した。 国共内戦 しかし、終戦直後から蒋介石率いる国民政府と共産党は戦後の中華民国政府のあり方を巡って見解の違いを露わにするようになり、1945年11月2日の共産党軍による大攻勢を発端として、各地で両者による武力衝突が始まった。アメリカの停戦調停にもかかわらず、1946年には国共内戦が再開した。内戦の再開直後、国民政府はアメリカから受けた軍事支援を基に共産党に対して攻勢を強めていた。しかし、その一方で国民政府軍は、ソ連のスパイの活動などによって共産党シンパが増加していたアメリカ政府が軍事的支援を停止したことも相まって、ソ連からの大規模な軍事援助を受けた共産党軍の反攻が始まると各地で大規模な敗北を喫するようになった。この間に、国民政府は中華民国憲法を制定(1947年)し、憲法に基づいて蒋介石を総統(国家元首)とする憲政政府を成立(1948年)させることで自己の正当性を示そうとした。 しかし、中華民国政府軍の敗走は止まらず、国民党の内戦敗北は決定的となった。その為に、蒋介石は1949年1月に総統職を辞し、李宗仁が代行総統に就任して共産党との和平交渉に当たったが、同年4月23日に首都・南京が共産党軍(中国人民解放軍)に奪われ、南京国民政府は事実上崩壊状態に陥った。これに伴い、共産党は南京国民政府が崩壊・消滅したと判断し、同年10月に中華人民共和国の建国を宣言した。 なお、後にアメリカ政府内では、「誰が中国を失ったのか」という言葉を合言葉に、国民政府軍への援助停止を決めた政府内の共産シンパを非難する声が強まり、後にこれが大規模な赤狩り旋風に繋がることとなった。 台湾島への遷都 しかし、南京国民政府が崩壊状態に陥った際に蒋介石が崩壊しつつある政府を指導した為、南京国民政府は広州、重慶、成都を経た上で、アメリカ政府内右派から支援を受け、中央政府機構を台湾島に移転することに成功した。その後、蒋介石は崩壊状態にある政府を再組織し、翌1950年1月に総統職に復職することで、台湾国民政府としての活動を本格的に開始した。その為に国民政府軍と中国人民解放軍との戦闘は1955年まで行なわれ、その後も福建省沿岸の金門島において両軍が幾度か砲撃戦を行なっている。 中華民国と台湾島 (1945年~現在) Template main? 中華民国への編入 thumb|right|220px|台湾島を訪れた[[蒋介石と宋美齢(1946年)]] 台湾島を含む一帯は漢民族が多数居住している地域で、1895年以降は日本の台湾総督府の統治下にあった。1945年に日本の連合国への降伏によって第二次世界大戦が終結すると、蒋介石率いる南京国民政府はカイロ会談における取り決めを根拠として台湾島一帯を中華民国の領土に編入した。国民政府軍は日本軍の武装解除のために台湾島を含む一帯に上陸し、同年10月に日本軍の降伏式典、台湾の「光復」(日本からの解放)を祝う式典を挙行し、台湾を統治する機関として台湾行政公署を設置した。 二・二八事件 行政公所の要職を新来の外省人が独占した事、および公所・政府軍の腐敗が激しかった事は、それまで台湾にいた本省人(台湾人)の反発を招き、1947年2月28日に本省人の民衆が蜂起する二・二八事件が起きた。これに対して行政公所・政府軍は徹底的な弾圧をもって臨み、事件後も台湾人の抵抗意識を奪う為に知識階層・親日派・共産主義者を中心に数万人を処刑したと推定されている。国民党政権は政治・経済・教育・マスコミなどの独占を進め、同年中に台湾省が発足した。1949年に蒋介石が国共内戦で敗れた兵隊、崩壊状態にあった南京国民政府を引き連れて台湾に移住してきた後は、台湾省の形式は残しつつ、事実上は蒋介石の台湾国民政府が台湾を直接統治を行うようになった。 領有権の根拠と「台湾独立」 なお、南京国民政府はカイロ会談における取り決めを台湾を領有の根拠としたが、カイロ会談の取り決めはあくまでも連合国の「立場表明」あるいはプレスリリースに過ぎず、国際法的に有効な「条約」とはいえず、日本の敗戦に伴う台湾の放棄とその後の台湾の帰属に関する国際的な法的根拠にはならないとする解釈がある。また1951年に日本が連合国諸国と締結した日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)では日本の「台湾・澎湖諸島における権利、権利名義と要求の放棄」(第2条第2項)が、日華平和条約においては「台湾における日本の領土権の放棄」(第2条)が明記されたにとどまる。 このため、現在の台湾島を含む一帯は中華民国が実効統治しているものの、国際法的には「主権移転対象国(帰属国家)が不明確な状態にある」とも解釈することが可能」(つまり、「台湾に以前から居住していた台湾人に主権移転する」とも解釈することが可能)で、これを根拠として「台湾の国際的地位は未定である」とする「台湾の地位未定論」が台湾独立派を中心に唱えられており、中華民国内の泛緑連盟(台湾独立派)と泛藍連盟(反独立派)との間で論争が生じる源となっている。 民族問題 中華民国を成立させた孫文を始めとする漢民族主体の革命勢力(共和主義勢力)は、清国の遺領全体を領域とする「中国」の枠組みで中華民国を構想し、1912年樹立の中華民国臨時政府(共和政権)を「中国」の「中央政府」として位置づけていた。しかし、1642年以来中央チベットを統治していたチベットのダライ・ラマ政権、清末にモンゴル各地の諸侯が活仏を首班として組織したジェプツンタンパ政権は、『文殊皇帝が退陣したからには、これに臣属していたチベット、モンゴル、中国等の諸国はそれぞれ対等の別個の国家となる』という立場を取って中華民国への服属を拒否し、それぞれ外部勢力の支援を仰いで独立国としての地位の確立を目指した。(詳細はチベット,モンゴルを参照) 中華民国の歴代政府は、チベットやモンゴルに対し、清朝以来の位置づけを継承、理藩院に相当する機関として、北京政府は蒙蔵院、南京国民政府は蒙蔵委員会を1929年に設置してこれらの地域を統治下に組み込む為の工作を行なってきた。また、当時の列強諸国も「清国の継承国家」として中華民国の政府が清国の遺領全体を代表することを承認した。だが、幾度か行なわれた軍事行動もチベット、モンゴルの両民族政権を屈服させるには至らず、それどころか1933年、1942-49年には新疆省が置かれている東トルキスタンにおいても独立共和国の樹立運動が発生するにいたった。 その後、中華民国・南京国民政府は第二次世界大戦中の1945年6月に行なわれたソ連との外交交渉において、『ソ連が日本撤退後の満州を中国共産党に渡さず、かつ新疆の独立運動を鼓舞しないことを条件に、国民投票による外蒙古の独立を大戦後の認める』と主張し、モンゴル人民共和国に関しては1946年1月に独立を承認した。(台湾国民政府は1953年に独立承認を取り消している。詳細は中華民国におけるモンゴル(外蒙古)の扱いを参照のこと)また、チベット、東トルキスタン(第二次東トルキスタン共和国)についても、南京国民政府が1949年に崩壊状態に陥って台湾へと避難した為、中華民国の統治下に組み込まれることはおこらなかった。 中華民国の紀年法 中華民国では、建国年である1912年を元年とする中華民国暦(民国紀元)を西暦と併用しており、今なお使用され続けている(「中華人民共和国」では使用されていない)なお偶然ではあるが、中華民国暦は日本の大正および北朝鮮の主体暦と元年が一致している。 関連リンク 中国の歴史 中華民国の政治 台湾国民政府 外部リンク 蒙蔵委員会(中国語、英語) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月5日 (土) 08 27。
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Template Infobox 軍人? 柳川 平助(やながわ へいすけ、1879年10月2日 - 1945年1月22日)は、長崎県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。司法大臣、国務大臣。 出自 1879年に長崎県西彼杵郡村松(むらまつ)村(2007年現在・長崎市村松町、旧西彼杵郡琴海(きんかい)町村松郷大石)に生まれる。幼少時に佐賀県の柳川家に養子に出る。実兄・楠木志能夫(くすきしのぶ、1953年死去)は、長崎県大村市の開業医(眼科)。 村松小から旧制長崎中学を経て、1900年に陸軍士官学校(12期)を卒業。中尉で日露戦争に従軍。1912年に陸軍大学校(24期)を優等で卒業。 陸軍騎兵実施学校教官、陸軍大学校教官を経て、1918年に北京陸軍大学校に教官として着任。国際連盟派遣、欧州駐在を経て荒木貞夫陸軍大臣の下で1932年に陸軍次官、真崎甚三郎らと皇道派の重鎮となる。 1934年に第一師団長となるが、荒木・真崎の力が衰えた1935年に台湾軍司令官に追いやられる。1936年の二・二六事件の後に予備役編入。 第二次世界大戦時 1937年に第二次上海事変で中国国民党軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第10軍が編成され、柳川が司令官に任命されて現役に復帰、杭州湾上陸作戦を指揮。上海では国民党軍が退却寸前での作戦であったため、十分な戦果を挙げられなかったが、続いての南京戦で戦果を挙げる。 1938年3月に中支那方面軍の再編成に伴い召集解除、帰還。1938年12月に設立された興亜院の初代総務長官。1940年に第2次近衛内閣で、司法大臣を務め、第3次近衛内閣では国務大臣に転じた。1945年病死。 柳川文書の発見 二・二六事件から70年を経過した2005年2月、長崎県大村市で、柳川平助が書いた自筆の書簡集が発見された。眼科医で、東彼杵郡医師会会長を務めたこともある実兄・楠木志能夫(くすきしのぶ、1953年死去)に、1927年から1944年の間に出されたもの。二・二六事件前において、政府や軍などに対して抱いていた不満、不信感がつづられており、貴重な資料となっている。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月5日 (月) 21 41。
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孫 文 初代中華民国臨時大総統 プロフィール 出生 1866年11月12日Template QIN1890?広東省 死去 1925年3月12日Template Flagicon?北京 出身地 清国広東省中山市(香山県) 職業 政治家、革命家、中華民国臨時大総統 政党 同盟会、 中国国民党 各種名称 譜名 德明 幼名 帝象 字名 載之 号・教名(受洗名) 日新、逸仙 日本名 中山樵(なかやましょう)、高野長雄(たかのながお) 慣称 孫中山 各種表記 簡体字 孙中山 繁体字 孫中山 ピン音 Sūn Zhōngshān 和名読名 そん ちゅうざん 発音転記 スン ヂョンシャン ラテン字 Sun Chung-shan 英語名 Sun Yat-sen ■ ポータル ■テンプレート ■ノート 孫 文(そん ぶん、ソン ウェン、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、Template ピン音?、1866年11月12日 - 1925年3月12日)は、中国の政治家、革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。 号は中山 (Zhōngshān)、字は載之。中国では前者で、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senで知られる。 中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸の両国で尊敬される数少ない人物である。 中国では孫文よりも孫中山(スン・ヂョンシャン)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼ばれている。中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学は孫中山からの命名である。クリスチャンであった。 生涯 生い立ち 清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の客家の農家に生まれる幼年聽太平天国老兵頼漢英說故事。 アメリカ新領のハワイにいた兄の孫眉を頼り、ハワイのキリスト教系学校に学び西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し、中国に戻された。 帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業した。 革命家へ 清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年、ハワイで興中会を組織した。 翌年、広州蜂起に失敗して日本とアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。 以後、革命資金を集める為、世界中を巡った。 1905年に興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成する。 中華民国建国 1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。しかし、孫文は革命政府を維持するため、宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者・袁世凱に総統の座を譲る。袁世凱による独裁が始まると、反袁を唱えて活動するが、袁の軍事力の前に敗れて日本へ亡命した。日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っている『孫文選集(第三巻)』社会思想社、1989、 ISBN 4390602802 。 この頃に同じ客家でもある宋嘉樹の次女の宋慶齢と結婚。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年~1916年とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人、梅屋庄吉であった2007年2月25日NHK BS1 『世界から見たニッポン~大正編』。 「革命未だならず」 Template main? 袁の死後は、西南の軍閥の力を利用し、広州で政権を樹立して軍閥が割拠する中国の統一を図った。しかし、軍政府における権力掌握の為に、広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わり、また、第二次護法運動は陳炯明との路線対立により、広州を逐われた。その後、軍閥に依拠せず、自力で軍隊を構築し、統一政権を樹立するために、ソ連の支援を仰いだ。さらに中国共産党とも協力関係を結び(第一次国共合作)、さらに「聯蘇容共」を自ら唱えた。これは孫文自身が左派であることを示し、反共的な蒋介石らや財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。孫文の妻でその遺志を継いだ宋慶齢は大陸に止まり、蒋介石を裏切り者と攻撃した。 1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命未だならず)」との一節を遺言に記して(実際には汪兆銘が起草したもの)北京に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。また、死の前年の神戸での「大アジア主義講演」は、欧米の侵略主義にたいし東洋の王道平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。 革命政治家として 孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。 連ソ容共政策 孫文は自らの軍事力確保を目指し、このためソビエト連邦からの支援を求めて連ソ容共政策が開始された。1923年1月26日、上海における孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明は中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約した。孫文・ヨッフェ宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年中国に入り、孫文の主要な顧問となった。ボロディンの進言により1924年、中国共産党とも協力関係を結び(第一次国共合作)、黄埔軍官学校も設立された。1925年にはソビエト連邦と中国共産党により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。 孫文の遺言のひとつ(要約) 「余の力を中国革命に費やすこと四十年余、その目的は大アジア主義に基づく中国の自由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったことは、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてような功利主義的国内革命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観、東洋史観、文明比較論などをもう一度見つめ直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道にたいするアジアの王道の優越性を強く唱え続けることが肝要である。 しかしながらなお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。」 中山という字の由来 孫文が日本亡命時代に住んでいた近くに、「中山」という邸宅があり、その字を気に入り、孫中山と号すようになった。「中山家」は由緒ある公家(華族)の家柄であり、明治天皇の母の生家にあたる。 現在中国大陸や台湾島にある「中山大学」、「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の字に由来している。 日本における評価 Template 独自研究? 孫文の評価は一見わかりやすいようでいて、実のところほとんど一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価され、特に1924年の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった。 とりわけ孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼ろうとしたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目標のためには手段を選ばない運動のスタイルである。彼の思想である「三民主義」も、マルクス・レーニン主義、リベラル・デモクラシー、儒教に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてもきた。 孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものであると言える。孫文の活動した時代を扱った中国史の研究書の中でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前がそれほど登場しないというごく単純な理由にある。実証的な研究の進展に伴い、孫文の研究は中国近代史全体を理解するためのものというよりも、「孫文研究」という一つの専門領域となっている傾向があると言えるだろう。 人柄 生前は、その主張を単なる冗談・大言壮語ととらえ、孫大砲(大砲とはほら吹きに対する揶揄的な表現)と呼ぶ者もいた。また非常に短気で激昂しやすい性格であったといわれる。 脚注 関連文献 藤村久雄『革命家 孫文―革命いまだ成らず』中公新書、1994、ISBN 4121011848 陳徳仁・安井三吉『孫文と神戸』神戸新聞出版センター、1985、ISBN 4875210523 島田虔次・近藤秀樹『三十三年の夢』岩波文庫、1993、ISBN 400331221X 小説:陳舜臣『青山一髪』(上下巻)中央公論新社、2003(文庫版は改題『孫文』(上下巻)中公文庫、2006) 「孫文の人物像と日本人ネットワークの検討」福田惠子[1]国際開発学研究(拓殖大学) 「孫文革命の展開と何香凝」竹之内安巳[2][3][4]鹿児島経大論集(鹿児島大学)...孫文の盟友廖仲愷の妻であり革命運動を支えた何香凝による「我的回憶」の要約 孫文が登場する作品 映画 孫文(1986年、中華人民共和国、監督:丁蔭楠、孫文役:劉文治) 孫文(1986年、香港、監督:丁善璽、孫文役:リュー・チャーフィ) ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱(1993年、香港、監督:ツイ・ハーク、孫文役:ジャン・ティエリン) 宋家の三姉妹(1997年、香港、監督:メイベル・チャン、孫文役:ウィンストン・チャオ) 関連項目 三民主義 蒋介石 中華民国の歴史 中華民国の政治 中華民国憲法 中国国民党 中国共産党 中華人民共和国 黄興 章炳麟 宋慶齢 毛沢東 犬養毅 宮崎滔天 鈴木久五郎 梅屋庄吉 佐々木到一 頭山満 ジェームス・カントリー - 孫文の恩師の医学博士 移情閣 - 神戸市垂水区にある孫文ゆかりの建物 中山陵 - 孫文の陵墓 孫中山紀念館 国父記念館 - 中華民国台北市にある孫文の記念館 辛亥革命 孫科 - 字は哲生、孫文の先妻の息子 孫治平・孫治強 - 孫文の孫、孫科の長男と次男 孫国雄・孫偉仁 - 孫文の曾孫と玄孫 外部リンク Template Commons? 孫文記念館(日本) 国立国父紀念館(中華民国台湾台北市) 孫中山故居記念館(広東省) 請孫文再来(日本)論文 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月19日 (日) 10 20。