約 311,797 件
https://w.atwiki.jp/uyghurissue/
ウイグル問題を考える会 現在中国の新疆ウイグル自治区と呼ばれる地域は、ウイグル人をはじめとしたテュルク系民族の土地であり、東トルキスタンと呼ばれます。 シルクロードの舞台として、東西の文明の交わる地点であると同時に、独自の文化と歴史を持った地域として繁栄してきました。しかし、18世紀に清朝に征服され、19世紀には「新しい領土」を意味する「新疆」という名の一つの省として支配されました。 その後、回族の軍閥やソ連軍、新疆政権などによる騒乱を経て、「東トルキスタン」という名をつけた国が2度誕生しました。 1933年に、宗教指導者の下「東トルキスタンイスラム共和国」が誕生しますが、約半年という短い期間で終焉を迎えました。 1944年には、テュルク系諸民族が各地で武装蜂起し、「東トルキスタン共和国」が誕生します。しかし、この国も誕生してから1年少々で、ソ連と中国国民党の間で交わされたヤルタでの密約により、中国の新疆省政府に合流させられることになりました。 その後、元東トルキスタン共和国政府の指導者達は殺害され、この国は名実共に消滅することとなったのです。 現在は国共内戦を制した中国共産党による占領下に置かれています。 そして中国共産党による激しい弾圧によって、数多くの東トルキスタンの人々の命が奪われてきました。 新しいところでは2009年のウルムチの虐殺事件があります。 7月5日に首府ウルムチにてウイグル人による政府への改善要求のデモが行われました。 これは、それに先立つ6月26日に起きた広東省の玩具工場でのウイグル人虐殺事件に対して、適切に処置するよう求める平和的なデモでした。 しかし現地政府はこの平和的なデモを武力によって鎮圧し、多数の犠牲者を出しました。 この事件は東トルキスタンが中華人民共和国に併合されてから続いてきた、過酷な民族政策を象徴する出来事となりました。 詳しい内容は75ウルムチ事件についてをご覧ください。 東トルキスタンで行われている事を知り、解決を目指していきましょう。 ※私たちは世界ウイグル会議の日本での活動を支援し、連帯していきます。 お問合せはこちら
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/450.html
桜田門事件(さくらだもんじけん)とは、1932年(昭和7年)1月8日に昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件(大逆事件)である。なお犯人(後述)は現在の刑法では廃止されている天皇に対する暗殺未遂の罪である大逆未遂罪に問われ、処刑された。 事件の概要 桜田門は皇居にある門のひとつであり、1860年には井伊直弼が殺害された桜田門外の変の現場でもある。1932年1月8日に昭和天皇が乗車した馬車が桜田門外を進行中に、沿道からの手榴弾が投げつけられた。しかし手榴弾は威力が小さかった上に的を大きく外れ、宮内大臣一木喜徳郎乗車の馬車左後輪付近で炸裂した。結果として近衛兵一人が負傷、馬車を破壊し馬2頭も負傷した。 事件の背景 犯人は、朝鮮半島に対する日本の植民地支配からの解放を目指す金九が首班の「大韓民国臨時政府」(在・中国上海)が組織した抗日武装組織韓人愛国団によって刺客として派遣された、李奉昌(イ・ボンチャン、当時32歳)であった。李は犯行の前々日に偶然入手した憲兵の名刺を使い、新聞で知った昭和天皇が臨席する観兵式の警戒網を突破したものであった。しかし動揺のために襲撃に失敗したものである。逮捕後李は大逆罪に問われ、同年9月30日に大審院(裁判長和仁貞吉)において死刑判決が下されて、10月10日に処刑された。 なお、事件発生を受けて犬養内閣は内閣総辞職を決定するが、翌9日に昭和天皇からの慰留によって、犬養毅首相以下全閣僚が残留することになった。ちなみに上海では中国国民党機関紙「民国日報」が事件の発生に対して好意的な報道をしたことから、現地の日本人社会による糾弾運動に発展したために日中関係が緊迫化し、第1次上海事変の原因の1つになる。 現在、大韓民国では李奉昌を独立運動の義士とし、独立記念館で顕彰されており、1992年には逝去60周年を記念する郵便切手が発行された。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月22日 (月) 21 35。
https://w.atwiki.jp/ninashihankoku/pages/100.html
L:になし国国民 = { t:名称 = になし国国民(職業) t:要点 = ぽちのプロマイド,赤毛,強そうな瞳 t:周辺環境 = になし藩国 ------------------------------------------------------------------------ 承前 「になし藩国戦史より、序文」 { 母親が自分の子を愛するようにその体を心配し、父親が自分の子を誇るようにその行いを語る。 になし藩国国民とはそういう民である。 ほかの誰があの人を気にかけるより早く、思う気持ちは誰に関わらず消して負けない。相手が皇帝だろうと、 それが子供でも老人でも確実に口にして憚らない。 になし藩国国民とはそういう民である。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 何のことはない ただ彼らはあのおてんばな人が好きなだけである。 あの人が国を駆け回ったその日を忘れることなく、ただ笑った思い出をしり、語るのであった。 になし藩国。ぽちによって立つ赤く燃える髪の国。 その根本はただ、好きだと言う原始的な思いであった。 になし藩国という国がある。ただぽちが好きだという国是によりなる国である。 もっとも、そうなったのはごく最近の事ではあるが、今は於く。 かつてはただ領土があるのみの、なんら変哲のない国であった。 その運命が変わったのはすなわち、あのになし藩国炎上である。 運命示すイクドラシルが伸びて定めるのはやはり運命であったといえよう。 この時よりになし藩国はただのぽち姫ファンをやめた。 全て民はその瞳に赤熱するが如き意志を宿し、その髪は燃え上がるような赤を宿すようになったと、 当時の学者は記している。 (テキスト執筆:Areb@になし藩国) ------------------------------------------------------------------------ になし国国民 |緋色の燃ゆる髪と瞳の民 ------------------------------------------------------------------------
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/676.html
唐生智(とう せいち、1889年 - 1970年4月6日)は、中華民国の軍人、中華人民共和国の政治家。 1937年12月における南京防衛戦の総指揮官を蒋介石より任命される。7日に蒋介石が南京を脱出した後も徹底抗戦の指示を守り、12月9日の日本軍からの降伏勧告にも抵抗を以て返答。その後、南京陥落直前の12日夕方に全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という命令を出し自らは南京城を脱出。この時に明確な撤退命令を出さず、更にこの指示は中国軍の末端までは伝わらず、多くの中国兵が指揮系統不在のまま南京に取り残され、結果、その後も散発的に戦闘が続けられる事になった南京陥落時の混乱については南京大虐殺参照。。中華人民共和国の成立以降も大陸に残る。1949年、湖南省の知事に命じられ、中国国民党革命委員会の委員、全国人民代表大会の常務委員を歴任した。 中国語版翻訳2007年6月1日の版であり、また翻訳の正確さを保証しないので正しくは原版参照のこと。 唐生智(1889年―1970年4月6日)、字(あざな)を孟瀟と名乗る。湖南東安の芦洪市で生まれで中国の軍人。彼は中華民国の建国から抗日戦争が始まるまでとそれ以降とではそれぞれ異なる重要な職務を担当し、上将まで出世する。国民党と共産党の内戦が起きると唐生智は湖南において中国共産党として戦い、それ以後は湖南軍に在籍する。後に政府機関に勤めたうえ、湖南省の副省長にまで出世する。唐生智の第四の弟の唐生明は国民革命軍の中将である。 唐生智は保定陸軍士官学校を卒業の後、辛亥革命、護國戰爭、護法戰爭、北伐戦争などの中華民国の建国初期の重要な戦争に参加した。 北洋軍閥の時代にあっては、唐生智は湖南の軍閥に属しており、北洋軍閥が湖南から撤退した後に、唐生智は湖南省の第四師団長となった。その時、湖南省省長の趙恒惕と反目し、趙恒惕を長沙に追い出した後、自ら省長の職に就いた。唐生智の敵はその時、武漢で反撃準備をしていた呉佩孚に救助を求めた。その結果、唐生智は敗戦してしかたなく長沙から退出し、北閥軍に参加することを決定した。1926年6月2日に彼は正式に部下を率いて国民革命軍に参加し、国民革命軍の第八軍の軍長を任命され、6月には再び長沙を占領した後、湖南省の主席を務めた。1927年武漢国民党の中央政治委員会委員、軍事委員会7人主席団の役員となり、武漢国民政府の委員、第4集団軍総司令官などの職に就いた。 北伐戦争勝利の後、唐生智の勢力は反蒋介石勢力と新桂系の武漢政府の軍事勢力の主力になる。1927年11月12日に寧漢戦争の中で彼は李宗仁に負けて日本に逃げる。1929年4月に唐生智は国民政府軍事参議院院長、第五路線の軍の総指揮官を任せられて、蒋介石と広西チワン族軍閥との戦争に参加し、また蒋介石に倒される。10月に蒋馮戦争に参加し、反蒋介石の護党救国軍第四路総指揮官を任せられ、12月に再び石友三と連合して蒋介石に立ち向かうが敗戦して1930年に再び下野する。 1931年、広州の国民政府と軍事委員会の常務委員となる。満州事変の後で再び南京政府に帰り、南京国民政府軍事参議院院長に復任する。1935年4月に上将を授与される。1937年11月に日本軍が南京に進撃した際、彼は死守を強く主張し、自ら志願して首都の警備司令官の長官を担当し、中国側の南京防衛戦の最高指揮官となった。彼は首都と共に存亡を共にすることを公言して南京に通じる長江以北の道路を封鎖する命令を下し、渡し船を廃棄して大量の市民が避難することができないようにした。彼は何ら組織な撤退を準備しない情況の下で12月12日に棄城命令を下達して、自分だけ保留するモーターボートに乗って逃走した。守備隊は指揮を失い、軍心が動揺して翌日南京は陥落し、その後とても悲惨な南京大虐殺が発生した。その後、唐生智は湖南で何もせずに仏教学を研究していた。 1948年11月に南京、上海に行き、蒋介石に中国共産党と停戦する和議を提案し、1949年湖南では「平和自救」運動の組織することに参加して、「湖南人民自救委員会」の主任委員に就いた。率先して湖南の平和解放を支援した。 中華人民共和国が創立した後に彼は湖南省と中南の軍区で各種の軍、政治の職務を担当して、例えば湖南省人民政府の副主席、副省長、中南の軍事と政治委員会の委員、国防委員会の委員など。彼はその時また中国国民党の革命委員会中央の常務委員、全国人民代表大会の常務委員会の委員を担当し、中国人民政治協商会議の常務委員会の委員などの職を経て、1970年4月6日に長沙で病死した。 朝日新聞による他説 唐生智は徹底抗戦を叫びながら整然たる撤退作戦の指導もせず、敗残兵を城内に残したまま、12日夕刻、「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と命じて自分ひとり、ひそかに揚子江北岸に遁走したのである。その無責任と劣悪な統制能力が糾弾され挹江門における事件参照。、唐生智は12月18日軍法会議にかけられ、19日銃殺刑に処せられたと伝えられる(「朝日新聞」12月20日)。 英語版翻訳2007年6月3日の版であり、また翻訳の正確さを保証しないので正しくは原版参照のこと。 しかし、首都防衛線が当初の計画どおりに進まなかっただけではなく,一般人の退却もまた計画さえ明らかにされることがなかった。 混乱の中, 組織的な退却であるはずのものが無秩序の逃走になってしまった。多くの指揮官は、何らの退却命令を下すことなく単に彼らの軍隊を放棄して勝手に逃げてしまった。10万人の(首都防御隊と数千以上の中国人部隊)は、前戦から逃げて市内に戻ってしまった。2つの連隊のみが当初の計画に従ってなんとかうまく退却できた。そして、組織的撤退計画待っていた他のすべての部隊は、日本軍の犠牲者になった。唐生智自身は、同じくほとんどそれ(組織的撤退計画)を作らなかった。 後日談によると彼が埠頭に車で都市から逃げるようとした際、日本の軍人が男の首をはねこの12日夕刻の時間帯には南京北西部は逃げる市民と敗残兵でいっぱいであって、日本軍は到達していなかったので、首をはねたのは日本軍ではなかっただろう。、犠牲者の死体が落ちてきて唐生智の肩を直撃した。唐は、後方に倒れて死体の下敷きになって穴に落ちた。それに誰も気づかず、後になって彼は2人の同僚によって救われ、彼は奇跡的にこの試練から生き延びた。 蒋介石の支援と擁護があったにもかかわらず、唐生智は南京大虐殺の結果を招いた失敗により非難されたこの非難が挹江門における混乱に対するものなのか、その後の捕虜・敗残兵の射殺に対するものなのかが不明である。。 第二次世界大戦後、唐生智は国民党体制の没落までその存在が不明であった。白崇禧が国家主義勢力として彼の存在を追及しようとしたが不明だった。彼は国家主義勢力によって捕えられることを避けるため変装して別の場所に隠れ、中国外に出ることを避けた。その過程で片足を傷めた。彼は、1949年以降に湖南省で指揮官、および知事になった。 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月11日 (土) 20 18。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/617.html
{{日本の内閣記事|てらうち ないかく|18|寺内正毅|Template 和暦?|10月9日|Template 和暦?|9月29日|立憲政友会|第13回衆議院議員総選挙|1917年(大正6年)1月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/18.html|元帥陸軍大将・軍事参議官}} 総辞職したのはTemplate 和暦?9月21日だが、次の原内閣成立まで職務を執行した。 概要 寺内内閣はTemplate 和暦?、第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された。海軍大臣以外は全部山縣系という超然内閣であったことから、「ビリケン内閣」とも呼ばれた(寺内が当時流行のビリケン人形にそっくりであったことと、「非立憲(主義)」をかけたもの)。当初、第1党の立憲同志会(後に憲政会を結成)と第3党の立憲国民党は野党の立場を取ったものの、第2党の立憲政友会は「是々非々」として政策次第であるとした。 翌Template 和暦?に、立憲国民党が提案して憲政会が呼応した内閣不信任上奏案の審議の場で、立憲国民党の犬養毅総裁が一転して政友会・憲政会両党を揶揄する演説を行ったことから両党の対立が煽られ、政府は詔書で衆議院解散を行った。その際寺内は「帝国議会は貴衆両院から成り、衆議院の決議だけで直ちに国民の世論とすることのできないのは言うまでもない。我が帝国は、欽定憲法の規定により、国務大臣の任免は全く大権によって定まり、いささかも外間の容喙を許すべきではない。(中略)英国の例に倣い、内閣は衆議院多数党の代表者が組織すべきことを主張するのは、我が憲法の規定に反し、至尊の大権を干犯するとともに、両院制度を無視するものである……」(Template 和暦?2月10日地方長官会議における首相訓示)と述べて超然内閣の正当性を主張した。第13回衆議院議員総選挙で勝利した政友会(第1党に躍進)と立憲国民党は多少の意見の相違はあったものの、与党を宣言したため、政局は一応の安定を見せた。寺内は政友会総裁の原敬と立憲国民党総裁の犬養毅を臨時外交調査会委員に任命してその取り込みを図った。 第1次世界大戦によって欧米が中国に目を向ける余裕が無くなった最中において、寺内内閣は積極的に中国への介入を乗り出していく。特に従来の北京政府・中華革命党(後の中国国民党)両睨みの中立政策を放棄して、西原借款を行って段祺瑞の北京政府を支援すると、欧米もこれに追随した。これを受けて北京政府が連合国として第1次世界大戦に参戦すると、日本と日華共同防敵軍事協定と呼ばれる軍事同盟を締結した。これはアジアでの戦闘がほぼ終わった段階での同盟であり、中国国民の疑惑を買って後の反日運動の一因となった。また、国内では金本位制の停止を始め、戦時中を理由とした軍備拡張などを推進した(その一方で、欧米諸国からの西部戦線参加要求には応えず不信を買うことになる)。 Template 和暦?にロシアにおいてレーニンによる十月革命が発生すると、ロシア革命への干渉議論が湧き上った。当初寺内はウラジオストックに艦船を派遣して居留民保護に留める方針であったが、アメリカの誘いと外務大臣本野一郎の勧めでシベリア出兵に踏み切った。 Template 和暦?1月のウラジオストックへの艦隊派遣の頃から、シベリア出兵の噂によって米価が高騰し、各地で米騒動が発生した。寺内は警察を用いてこれを取り締まり、また言論統制を敷くも、これが却って世論の反発を買って全国的な反政府の動きに拡大する。この頃、既に体調を崩していた寺内は政権運営に自信を失って内閣総辞職を決定した。 国務大臣 内閣総理大臣 寺内正毅(伯爵・元帥陸軍大将) 外務大臣 寺内正毅(臨時兼任)(Template 和暦?10月9日 - 同年11月21日) 本野一郎(子爵)(Template 和暦?11月21日 - Template 和暦?4月23日) 後藤新平(男爵・貴族院茶話会)(Template 和暦?4月23日 - 同年9月20日) 内務大臣 後藤新平(Template 和暦?10月9日 - Template 和暦?4月23日) 水野錬太郎(貴族院交友倶楽部)(Template 和暦?4月23日 - 同年9月29日) 大蔵大臣 寺内正毅(兼任)(Template 和暦?10月9日 - 同年12月16日) 勝田主計(貴族院無所属)(Template 和暦?12月16日 - Template 和暦?9月29日) 陸軍大臣 大島健一(陸軍中将) 海軍大臣 加藤友三郎(海軍大将) 司法大臣 松室致(司法官僚) 文部大臣 岡田良平(貴族院研究会) 農商務大臣 仲小路廉(貴族院無所属) 逓信大臣 田健治郎(男爵・貴族院茶話会) 内閣書記官長 児玉秀雄(伯爵・貴族院甲寅倶楽部) 法制局長官 有松英義(貴族院研究会) 参政官 stub 外部リンク 首相官邸 - 寺内内閣 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14 27。
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/6035.html
763: 名無しさん :2020/01/29(水) 15 10 40 HOST zaq3d7d53a8.zaq.ne.jp 重慶ハイヴ攻略計画フェイズ1 ~BETAの事前戦力評価~ 「敵の最も脅威なのは数である、頑強なティエレンであっても戦車型複数に食いつかれた場合残念ながら助かる術がないと想定される」 「ソフトキル対象が多すぎる為、長距離射撃用300㎜の護衛に対空型用の60㎜を対地用に調整した機体を用意した」 「要は近づけさせない、アウトレンジからの一方的な圧殺こそ戦術の王道だ」 「現状侵略巨大生物よりも脅威度は低い相手ではあるが、戦力調査の為、重慶ハイヴの間引きに参加する」 「諸君、よくよくBETAとの戦いを学んできたまえ、来る本番、ハイヴ攻略の前にな」 重慶ハイヴ攻略前哨戦前のブリーフィングの一幕 東アジア共和国にとってBETAなどエアロゲイターやフォーリナーに比べれば大した相手ではないと推測 数に頼っただけの人海戦術しか見られないBETAに下された評価は極めて低く、間引きに投入された戦力は長距離型ティエレンを中心にした砲兵部隊のみであり(後詰の準備はしていた) 数々の戦いで洗練され、鍛え上げられた砲撃は確かにその推定が正しいものであることを証明した ~間引き作戦事後処理~ 「光線級に一部砲弾を撃ち落とされたものの大勢に影響なし」 「されど投入した長距離砲撃部隊の弾薬が枯渇寸前であり、攻め込んだ場合かつハイヴに潜在する光線級の数が予想を超えた場合長距離砲撃のみでの攻略は困難と推測されます」 「ティエレンの数を増やせば十分だ、本国に補給と増援要請を出す」 「大佐、統一中華戦線より間引き作戦の謝礼の文とティエレンの譲渡要請が…」 「無償譲渡は流石に無理だぞ、統一中華戦線の経済力で代価は厳しいだろう」 「重慶ハイヴのG元素をすべて東アジア共和国に引き渡すとの事で…」 「…まだ攻略もしていないのに気が早いことだな… そもそもハイヴに突入するリスクとG元素ではリスクに割が合わんぞ… 本国に報告だけはしておく」 「大佐、中国共産党の関係者を名乗る人間が面会を」 「大佐、中国国民党の関係者を名乗る人間を面会を」 「我々は統一中華戦線に対して協力するのであって共産党も国民党も関係は無い! 丁重にお帰り願え!」 間引き作戦終了後、砲撃戦のみで終了したとはいえ弾薬の消耗量は当初の予想を超えてはいたが 予想外なほどではなく、十分な戦力があれば問題は無いと李凛大佐は判断し、十分な火力をもってハイヴせん滅の段取りを立てていたが、 統一中華戦線の参戦要望、ティエレンの譲渡希望とその交渉により一部治判断になると判断され意見調整を行う為、一時攻略計画が停滞。 そしてその間に共産党閥、国民党閥が互いに政治工作を行おうとし接触が図られ、その対応に現地責任者である大佐は忙殺される事となる。 764: 名無しさん :2020/01/29(水) 15 11 52 HOST zaq3d7d53a8.zaq.ne.jp 以上です 東アジアが統一(出来てない)中華戦線に協力したらこんなものじゃないほどに面倒なことが起きるんだろうなぁ…と思うこの頃
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/37.html
{{大統領 | 人名=蔣介石 | 各国語表記= | 画像=Chiang Kai-shek Colour.jpg | 画像サイズ=175px | キャプション=蔣介石(1945年5月) | 代数=初 | 職名=総統 | 国名=中華民国 | 就任日=1948年5月20日 | 退任日=1975年4月5日 | 出生日=1887年10月31日 | 生地=Template QIN1890?浙江省奉化県 | 死亡日=1975年4月5日 | 没地=Template Flagicon?中華民国台北市 | 配偶者=宋美齢 | 政党= 中国国民党 | サイン= }} Template Chinese? thumb|220px|[[張学良とともに]] 220px|thumb|[[宋美齢、アメリカ軍の准将スティルウェルとともに]] 220px|thumb|カイロ会談で[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルトとチャーチルとともに(1943年)]] thumb|right|220px|[[北伐#国民党による北伐|北伐における蒋介石(1926年)]] 蒋 介石(しょう かいせき、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1887年10月31日 – 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。国民政府主席、初代総統で5回当選し、あわせて1943年から死去するまで中華民国元首の地位にあった。 名は中正で字は介石、譜名(族譜上の名)は周泰、原名(幼名)は瑞元、学名は志清。現在の中華民国では蒋中正(チアン・チョンチェン)の名称が一般的。欧米のメディアからは大元帥を意味する Generalissimo とも呼ばれていた第二次世界大戦の時代、他に大元帥と呼ばれていたのは昭和天皇とヨシフ・スターリンである。。英語表記では Chiang Kai-shek (チアン・カイシェック)。 年譜 1887年に奉化県渓口鎮に生まれる。 1902年毛福梅(当時19歳)と結婚。 1906年保定陸軍速成学堂で軍事教育を受ける。 1907年(明治40年)、渡日し東京振武学校へ留学する。 1909年大日本帝国陸軍に勤務。( - 1911年) 1910年蒋経国誕生。(後年、毛福梅は出家、離縁する) 辛亥革命に参加。後に孫文に認められ、国民党内右派の代表として頭角をあらわす。 1923年孫文の指示により、ソ連の軍制を視察。 1924年広州の黄埔軍官学校校長に就任。 1926年7月1日、中国国民党・北洋軍閥等に対し北伐を開始。 1927年(民国16年)、宋美齢と結婚。 1927年、上海クーデターで中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握する。 また同年9月に満州問題を主題とし田中義一首相と会談。ただし物別れに終わる。 1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。 1936年、西安事件で軟禁される。この事件により対日・反共政策の見直しを迫られる。 1937年(民国26年)、盧溝橋事件を契機に、抗日を推し進める。日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省の重慶へ遷都。 1943年、カイロ会談に参加する。 1945年、抗日戦争(日中戦争)に勝利。毛沢東との交渉により双十協定を締結する。 1946年、国共内戦に突入する。反共産主義を掲げるアメリカから全面的な軍事支援を受ける。 1948年、中華民国の初代総統に就任(ただし反発を受け翌年辞任) 1949年、国共内戦で敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て12月に台湾へ到着。事実上台北への遷都を強いられる 1950年3月、再び総統に就任(第五任(第5期)まで務め任期中に死去) 1969年、交通事故に遭って体調を崩し、この年を境に表舞台には出なくなる。 1975年4月5日、死去。死因は心臓病とも言われる。Template 没年齢?。任期中死亡のため副総統の厳家淦が後任総統に昇格。 生涯 蒋介石の生涯については、多くの書物が出版されているが、虚偽の記述も多数散見され、2008年現在でも各国の蒋介石研究は混乱している。 蒋介石は、1887年に清国の奉化で塩商人の蒋肇聰と王采玉の間に生まれた。成人後は日本の東京振武学校へ留学した(当時は中村という日本名を名乗っていた)。その後辛亥革命に関わったことで孫文からの信頼を得たという話があるが、孫文はそれほど積極的に蒋介石を信頼してはいなかったとも言われている(黄文雄著『蒋介石神話の嘘』明成社ほか)。 蒋介石は、ソ連の支援で設立された黄埔軍官学校校長となり、1925年の孫文死後は後継者争いがあったが、1926年中山艦事件以降に国民党軍を掌握し、北伐を完成させ、1928年に中華民国の主席となる。 中国共産党とは、いわゆる「上海クーデター」以降敵対関係にあったが、西安事件により第二次国共合作を強いられ、アメリカやソ連の協力を得て日中戦争を戦い抜いた。日本が敗戦した1945年以降に再び中国共産党との間で国共内戦が勃発。1949年に共産党に敗北し台北に遷都(台北は臨時首都)。その後1950年に中華民国総統に就任。1975年に死去するまで総統の地位にあった。 第一次国共合作の頃は、「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、日中戦争勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した。しかし、スターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していた(黄文雄著『蒋介石神話の嘘』、倉前盛道著『悪の論理』ほか)と言われ、毛と中国共産党を犠牲にしても蒋介石を通じて、中華民国を赤化させるつもりであったという説もある。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。蒋介石の息子の蒋経国は(実質的な人質として)モスクワへ留学している。 辛亥革命前後に青幇に加入し杜月笙とは義兄弟の関係であり(蒋の方が位は下)、上海クーデターの際には青幇の協力を得て共産党員の大量殺害をおこなった。その後も青幇の麻薬資金が蒋介石の経済的基盤となる。杜月笙の墓地には蒋介石揮毫による「義節聿昭」の牌がある。 孫文の継承 孫文は1925年3月12日に亡くなり、国民党には権力の空白が生まれた。権力闘争は国民党右派側にいた蒋介石と孫文の親しい戦友であり、党の左派側にいた汪兆銘との間で起きる。蒋介石は党内部での地位は比較的低く、汪兆銘が孫文の国民政府議長を継いだが、蒋介石は軍事力と中山艦事件からの政治工作によって勝利した。蒋介石は1925年国民革命軍の最高司令官に就任し、1926年7月27日には中国北部を支配する軍閥を駆逐して国民党の下に国家統一をなすための北伐と呼ばれる軍事行動を開始した。 北京に対して進攻をかける前に国民革命軍は三つに分けられ、西側は汪兆銘が一団を率いて武漢を、東側は白崇禧が一団を率いて上海を、蒋介石は一団を率いて中央で南京の支配が割り当てられた。しかし、1927年1月に、汪兆銘と彼の国民党左派同志は中国共産党及びソビエト工作員ミハイル・ボロディンと組んで大衆動員と歓呼の中、武漢を手中にし、国民政府は武漢に移ったと宣言した。3月に南京を攻略し(南京事件参照)、上海が親密な白崇禧の支配下になってからは、蒋介石は彼の軍事行動を停止することを強いられ、国民党の浄化及び左派との対決を決意した。 4月12日、蒋介石は何千に及ぶ共産主義者の容疑を持つ者たちへの迅速な攻撃を開始(上海クーデター)。彼は胡漢民を含む保守の同志の支持を受けて国民政府を南京に設立した。国民党から共産主義者は排除、ソビエトからの顧問は追放され、このことが国共内戦開始につながる。汪兆銘の国民政府は大衆に支持されず、軍事的にも弱体であり、まもなく蒋介石と地元広西の軍閥李宗仁に取って代わられ、結局汪兆銘と彼の左派グループは蒋介石に降伏し、南京政府に参加した。ついに軍閥拠点であった北京は1928年6月に支配下とされ、さらに12月には満州軍閥張学良が蒋介石政府に忠誠を誓約した。 蒋介石は、孫文の後継者としての彼自身の立場を確立するために演出を行った。1927年12月1日、蒋介石は政治的にかなり重要な相手である宋美齢(孫文の妻・宋慶齢の妹)と上海で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。彼女の姉は孫文の未亡人である宋慶齢であり、蒋介石は前には宋慶齢に求婚したが即座に断られている(宋美齢の両親を喜ばせるために、蒋介石はまず彼の最初の妻及び愛人たちと別れ、結局キリスト教に改宗することを約束しなくてはならなかった。1929年に、蒋介石はメソジストの教会で洗礼を受けている)北京に到達すると蒋介石は孫文に敬意を表し、孫文の遺体を首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祭った。 蒋介石の歴史的評価 220px|thumb|宋美齢とともに[[台湾を訪問する蔣介石]] 蔣介石の歴史的な評価については、日中戦争を戦い抜き、台湾に移ってからも強力な指導力で中国共産党と対峙した中華民国の指導者として賞される面と、白色テロで台湾を支配した独裁者であり、自身の息子に権力を世襲し、事実上の君主として振舞ったとして非難される面の両面を持っている。 蒋介石と毛沢東に会ったアメリカの外交官は、座り方に注目して両者の違いを見極めようとした。背筋を伸ばし、気品を備えた蒋介石に対しゆったりと温和であった毛沢東を比べている。 中華民国 戒厳令時代には、中華民国の指導者、中国4000年の道徳の体現者として尊敬の対象とされ、蒋介石の銅像が中華民国のあちこちにあった。さらに中華民国の学校には孫文と蒋介石の肖像画が必ず飾られていた。切手等には蒋介石にかかわるものが必ずある。さらに蒋介石は台湾の高雄に澄清湖(チョンチンフー)という観光スポットを作った。これは中国大陸にある西湖をまねたものだといわれている。そこには中興塔をはじめ八つの見所がある。実務的な貢献としては大陸から撤退するにあたって大量の美術品(膨大な故宮博物院の所蔵品もこの際に潜水艦で運ばれた)、巨額の金銀や優秀な人材(料理人までも)を運び込んだ。このことが後のインフラ整備や経済発展の原動力となったという説もある。 また、戦後の台湾は、蒋介石が統治したから、共産主義者の手に落ちなかったと主張する人もいる。 しかし一方では、二・二八事件における数々の虐殺行為や、戒厳令を敷き、白色テロによる支配を行ったため、「アメリカは、日本には原爆を落としたが、台湾には蒋介石を落とした」として、(特に本省人の間には)根強い拒否反応を持つ人が多い。また、蒋介石が本省人知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止(当時の台湾人は日本語の文献を通じて世界の最先端知識を学んでいた)したために、台湾経済の発展は大きく後退したとの説もある(台北二二八紀念館の資料等)。また、蒋介石が「反攻大陸」のことを第一に考えたためアメリカや日本などの説得を無視して、国際連合を脱退してしまった。そのため、台湾は現在の様な国際的に国家としては承認されない状況に陥ってしまったと考える者は少なくない。そのため息子の蔣経国などと比べると、本省人の間では評価が低い。 蒋介石は、息子の蒋経国への中華民国の支配権の世襲を準備した。世襲は、共和国の権力委譲としては不適切であったが、蒋経国は、最後まで「反攻大陸」を望んでいた父親とは全く別の道を歩んだ。経国は、いくつもの特務機関や秘密警察を使って台湾人への過酷な支配を続ける一方で、「私も台湾人だ」と発言、台湾の経済復興政策・民主化政策・本省人登用政策などの台湾本土化政策を推進したのである。 戴国煇は「(蒋介石は)政治的にも軍事的にも戦術家としては一流であったが、戦略家の器ではなかった。」と評し、後継者を息子の経国に指名したことを「毛沢東は周恩来を信じられたが蒋介石は息子以外誰も信じることができなかった。陽明学の信徒としての限界ではないか」としている。 日本 thumb|right|220px|蒋介石を日本亡命中に庇護していた[[犬養毅と頭山満とともに(1929年)]] 蔣介石は日本の高田の砲兵学校で軍事教育を受け、日本に亡命した際には日本政財界による支援で清朝打倒に奔走するなど日本との関係が深かった。 (南京事件)1927年、蒋介石率いる中国国民革命軍(革命というのは、共産革命ではなく三民主義に基づく革命)が南京に入城すると、革命軍の一部が日・英・米などの領事館を襲撃するという事件が起きた。英米の軍隊がこの行為に対して徹底的に反撃を加えたのに対し、日本は死者を出しながらも無抵抗を貫いた(幣原平和協調外交)。しかしこの政策は裏目に出て、むしろ中国側が日本を侮るようになってしまった。この事件は主に中国軍兵士によるものであるが、日本においては「蒋介石の侮日政策」として知られるようになる(後にソ連公館から張学良軍が押収した文書等から判断すると中国共産党の扇動の可能性が強い)。 蒋介石は日本軍との戦いには消極的で、むしろ中国共産党を警戒していた。しかし張学良による西安事件が起こり、共産党と協力して、日中戦争から1945年までは日本軍と戦う事となった。その当時の自身の日記では日本を「倭」と表記し終始蔑んでいた。 日本の敗戦後は、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と称して日本兵の中国大陸からの復員に最大限の便を図った。これは当時中国に駐留する日本軍が強力で、戦争中の国民政府軍(兵力は日本軍を上回っていた)が連戦連敗であったため、なるべく刺激せずに穏便に撤退させたかったというのが真相のようである。但し、この撤退については後述するように蒋介石を好意的に評価する日本人もいる。 日本に関するエピソードにはほかに以下のようなものがある。 日本を連合軍が分割占領することや天皇制廃止には消極的だった。日本のことを熟知していた蒋介石は、ルーズベルト大統領からしばしば意見を求められている。「日本の起こした戦争の主犯者は、日本軍閥であるから、日本の国体問題に対しては戦後の日本国民自身が解決すべきであると考える」と述べている。(日本の占領政策に関するルーズベルトとの手紙のやりとり) 終戦時に中国にいた日本人の数は、軍人120万人、民間人80~90万人で、復員・引揚には数年を要すると言われていたが、蒋介石の便宜により10ヶ月で復員・引揚を完了させている。しかし、BC級戦犯として、多くの罪もない日本軍人を処刑したのも蒋介石の政府であった。 カイロ会談では、中華民国は日本に進駐する考えのないことを表し連合国側の占領政策を変えさせた結果、ソ連の北海道進駐を阻止する重大な起点になった(カイロ会談において、日本の分割統治計画があった)。もっとも、蒋介石は、戦後の国共内戦の勃発を予想しており、兵力を日本占領に割くことをためらっていたという説もある。兵力の不足は、台湾の占領が漸く10月になってからであったことや、陳儀長官と共に台湾へ渡った中国軍のレベルが低かったことなどからも十分想像できる。 文化や習俗の面で、非常に日本を尊敬していた。寒い冬の朝でも冷たい水で顔を洗う(中国人にはこのような習慣はない)日本人の話を聞いて、感心したという。また、明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蒋経国を明治神宮へ公式参拝させている(許國雄著『台湾と日本がアジアを救うー光は東方より』明成社ほか)。 第二次大戦中に、日本軍が拉孟・騰越で連合軍の大軍(拉孟では32倍・騰越では25倍)を相手に戦い、それぞれ味方の6倍の損害を与えて玉砕したことを讃え、「東洋道徳の範とせよ」と中国軍に訓令を発している(相良俊輔著『菊と龍』光人社ほか)。 戦後、台湾へ移ってからは、富田直亮中将を団長とする旧日本軍の将校団(白団)を招き、国府(中華民国国民政府)軍を秘密裏に訓練させた。米国政府はこれを厳しく非難し、国府軍内にも反対の声が挙がったが、蒋介石は白団による教育訓練を断固推進した。1949年10月、中国人民解放軍が金門島等へ大挙侵攻をはかった際は、旧日本軍の根本博中将(終戦時に張家口でソ連の大軍を迎撃撃破し、在留邦人を無事避難させたことで有名)らが国府軍を作戦指導し、人民解放軍を完膚なきまでに撃破している(中村祐悦著『白団ー台湾軍を作った日本軍将校たち』芙蓉書房ほか)。 中華人民共和国 蒋介石とは大陸で内戦を戦い、中華民国が台湾へ移った後も海峡を挟んで長らく対立していたため、その評判はすこぶる悪かった。しかし、国民党の台湾化が進み、民主進歩党などの野党が結成され、台湾独立運動が盛んになってくると、蒋介石の役割が再評価され始めた。これは、生前の蒋介石が「反攻大陸」を国是とし、共産党とは別の立場から「一つの中国」を主張していたため、蒋介石の評価を高めることによって「台湾独立」を牽制する狙いがあると見られている。 人物 陽明学の信奉者である。戦後にGHQが安岡正篤を戦犯に指定しようとした際に、蒋介石が反対したとも言われている。遺されている小物や衣服、写真を見てわかるとおり、公式の場で特注の軍服などを着用していたものの、プライベートでは派手好きな妻と反対に非常に質素な生活を好み、静養地でも読書に耽っていたり、妻と茶などを楽しむ程度だった。現在中正紀念堂に展示されている物の殆どは外国から贈られた勲章や孫文から与えられた掛け軸がほとんどである。 蒋介石にちなんだ事物 台湾 thumb|220px|right|[[中正紀念堂]] 中正国際空港 - 桃園県にある台湾省最大の国際空港で、英語では蒋介石の英語表記の略をとりC.K.S airport と呼ばれた。2006年、台湾桃園国際空港に改称された。 中正紀念堂 - 蒋介石を記念し、彼の没後に台北市中心部に作られた記念館。 慈湖紀念雕塑公園 - 台湾の民主化に伴い、次々と撤去され始めた蒋介石像を収集して展示している公園。蒋介石の遺体が安置された慈湖にある。現在も台湾全土から集められ、その数は200体近くに上ると言われている。 中正路 - 中華民国の一般的な道路の名前。おおむね都市の中核的な路線にその名が振られる。 紙幣 - 没後の1980年から、台湾元の高額紙幣に蔣介石の肖像が使われてきた。 李登輝政権末期から準備され、政権交代後の2000年以降発行された現行設計の紙幣でも、高額紙幣では科学技術・教育・スポーツを象徴する絵柄に取って代わられたものの、5券種中4番目にあたる200元紙幣に描かれている。ただし、日本の2000円札同様、市中での流通量は極めて少ない。なお、10元、5元、1元硬貨にも蒋介石が描かれている。 日本国内 箱根彫刻の森美術館中正堂 - 箱根 彫刻の森美術館内にある。蒋介石からの恩義を日本の青年が未来永劫忘れないことを目的としてフジサンケイグループによって建てられた。 中正神社 - 蒋介石が、日本が敗戦した際に寛大な処置を取り、復員に便宜を図ったことなどを讃えるため建立。(愛知県幸田町) 蒋介石頌徳碑- 横浜市内の伊勢山皇大神宮内生誕100年記念に建立、傍に 統一教会幹部の助野健太郎による由緒書きがある。 中正堂会館- 日華文化協会が入居している。(港区南麻布 1968年竣工) 台湾における脱蒋介石化 民進党政権は、台湾正名運動の一環として、台湾各地に残る蒋介石色の排除を進めている。しかし、民進党政権主導による脱蒋介石化には、最大野党中国国民党とこれの分派である親民等、新党など泛藍連盟の支持者からは批判的である。 最近では、これに基づいて行政院が2007年に蒋介石を記念する中正紀念堂を台湾民主紀念館と改名したが、立法院が改名に関する法律である台湾民主紀念館組織規程を否決したため、1ヶ月あまりで中正紀念堂に戻されることとなった。しかし、以後も館内の蒋介石像は228と書かれた横断幕や多数の凧によって覆い隠され、館内館外看板も民主紀念館のままであり、それまで行われていた中華民国軍の儀杖兵の配備も廃止されたままである。 また、高雄の文化中心(文化センター)の蔣介石像も撤去された。 「蒋介石」という呼び方 日本における、(少なくとも)中国近代の歴史の記述では、中国人の名前の呼び方は、通常、「姓+字」ではなく、「姓+名」を用いる。例えば、袁世凱、毛沢東、周恩来、張作霖、孫文、黄興、宋教仁、段祺瑞などである。汪兆銘(「姓+名」に加えて、「姓+号」である「汪精衛」がしばしば用いられる)という例外があるが、日本との深い関係がその理由だとも推測される。これらと対比して、蒋介石の場合、「姓+字」が一般的に用いられているということのみならず、「姓+名」である「蒋中正」という呼び名が、専門家や一部の中国近代史に詳しい者以外には、日本においてはほとんど知られていない、かつ、使われていないという、奇妙な状態になっている。この理由は、(蒋介石による)自己使用説、日本マスコミ説(日本の新聞説)、日本政府公式文書説、歴史家説などがありうるが、現在までのところ不明である。なお、英語でも「Chiang Kai-shek」で、「蒋介石」を訳した呼び方となっている。 日本の保守派の蒋介石観の変遷 戦後、日本の歴代政権は台湾を反共陣営の一員として、また国連常任理事国として修好につとめていたが、日中国交回復の機運が高まると中国国民党の宣伝機関は危機感を強め、日本の保守メディアに急接近し様々な宣伝活動を行うようになった。代表例としてサンケイ新聞による蒋介石秘録の連載、國民新聞 (1972年-)による反中国共産党パンフレットの発行、マスコミ総合研究所の雑誌アジア・レポートの発行。そのような中で「以徳報怨」は多くの自民党政治家、保守言論人や右翼団体がこの言葉を引用し蒋介石礼賛を行った。 しかし1990年代半ば、中華民国の民主化が進み、台湾独立派の政党が誕生すると、蒋介石の後継である「ひとつの中国」を標榜する国民党は、むしろ親中共派的な位置に立つ事となった。日本国内において活動する台湾独立運動家たちが、敵の敵は味方、反中国の観点から日本の保守派に接近した。金美齢がコーディネートしたとされる小林よしのりの「台湾論」が成功を収め、日本の若者に対しても蒋介石=悪玉論が広まった。 日中戦争を肯定する立場の言論人も、中華民国側に非がある理由として、蒋介石の「侮日政策」をあげつらうようになった。蒋介石を高く評価する理由のひとつである「以徳報怨」も、日本軍に対抗出来ない状況による窮余の策である事が指摘されるようになった。それに引き摺られる形でかつて蒋介石を礼賛していた産経新聞や保守言論人も蒋介石に否定的な意見を述べるようになっている。 このような現況に対し、平沼赳夫は2008年1月28日にマスコミ総合研究所の会合で、蒋介石が日本の天皇制を守ってくれたと擁護し、日本と中華民国の国交が断絶した後も、日本の保守系政治家が中華民国を訪れた時は蒋介石の墓に参るのが礼儀であったが近年は行われなくなったとの批判を行った。また、小林よしのりの著作にも、蒋介石を「単純な悪玉」としてあげつらうことには否定的と見られる記述がある。 参考文献 蔣介石秘録取材班 『蔣介石秘録』全十五巻(産経新聞社)1975~77年 蔣介石秘録取材班 『蔣介石秘録-日中関係八十年の証言-』上下(産経新聞社)1985年 保坂正康 『蔣介石』(文春新書)1999年 池口恵観 『蒋介石 その偉大なる生涯』(論稿社)1976年 黄文雄 『蒋介石神話の嘘ー中国と台湾を支配した独裁者の虚像と実像』(明成社)2008年 注釈 関連事項 孫文 蒋経国(長男) 蒋緯国(次男) 蒋友柏(曾孫) 中国国民党 中華民国の歴史 中華民国の政治 中華民国憲法 張学良 毛沢東 日中戦争 中国共産党 外部リンク Template Commonscat? 中華民国総統府公式サイト 慈湖紀念雕塑公園(蒋介石銅像公園) 中正国際空港 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月30日 (木) 18 56。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/840.html
コミンテルン (ロシア語 Template lang?カミンチェールン;ラテン文字転写の例 Template lang?;英語 Template lang?) は、共産主義の国際組織である。共産主義インターナショナル、第三インターナショナル、国際共産党。「共産主義のインターナショナル」という意味のコムニスチーチェスキイ・インテルナツィオナール(Template lang?;Template lang?)の略称。 概要 第二インターナショナルは、第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党がそれぞれ自国の戦争を支持したために瓦解した。これに反対する諸派がスイスのツィンメルワルトで開いた国際会議がコミンテルンの源流。十月革命後の1919年3月、ボリシェヴィキの呼びかけに応じてモスクワに21カ国の代表が集まり、第一回大会を開いた。 当初は世界革命の実現を目指し、ボリシェヴィキが各国の革命運動を支援するための枠組として機能した。また、1920年のインドネシア共産党、1921年の中国共産党結成とも結びつき、中国国民党との国共合作にも尽力した。しかしレーニン死後にスターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、各国の共産党がソ連の外交政策を擁護するのが中心になっていった。1920年代中頃には中国で国民党政権と協調し、共産党が弾圧されても黙認した。1928年夏のコミンテルン第六回大会ではファシズムと社会民主主義のつながりが強調され「社会ファシズム論」が台頭したが、1930年代前半よりドイツで台頭するナチスに対し、社会ファシズム論に基づいてドイツ社会民主党との対立にあけくれたことは、ナチスの権力獲得を許す一因となった。1935年には、コミンテルン第七回大会で方針転換をはかり、人民戦線の戦術を提唱し、スペインやフランスで人民戦線政府が誕生したが、スペインはフランコによる反乱からの内戦で壊滅した。また、独ソ不可侵条約の成立と、第二次世界大戦初期のポーランド分割の結果、人民戦線戦術は放棄された。 第二次世界大戦の勃発に伴って名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散した。 日本共産党とコミンテルンテーゼ 1922年に日本共産党が承認された。(日本共産党はコミンテルン支部となる) 22年テーゼ(草案) 1922年にコミンテルンのブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」。日本共産党では君主制廃止をめぐる内部意見の対立から正式な綱領(テーゼ)とはしなかったが、理論的に承認した(1923年)。 27年テーゼ 関東大震災で打撃を受けた日本共産党は1926年に再建し、1927年コミンテルンで採択された「日本問題に関する決議」が活動方針になった。 32年テーゼ コミンテルンと片山潜、野坂参三、山本懸蔵らの討議を経て、1932年に「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」が採択され、日本共産党の新たな活動方針になった。 関連項目 インターナショナル コミンフォルム 東方勤労者共産大学 コミンテルン(ソ連海軍の練習巡洋艦・機雷敷設艦) 治安維持法 日独防共協定 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月13日 (木) 05 44。
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/1449.html
◆政治的スタンス5分類(内枠) 進歩重視 伝統重視 親・全体主義(閉ざされた社会) I 左翼(共産主義、社会主義、リベラル左派) ⇔親和性高い⇔(左/右しばしば転向) V 右翼(国民社会主義※1、ナショナリズム) 反・白人/反・英米的親アジア傾向、独裁制 ‡非常に対立的 II 中間(便宜主義) ‡反・左翼で一致だが潜在的には対立 モボクラシー(衆愚制) 親・自由主義(開かれた社会) III 真正リベラル(本来のリベラル=リベラル右派) ⇔親和性高い⇔(伝統に根ざした自由) IV 真正保守(伝統保守) 親・文明/親・英米的デモクラシー(民主制) ※サイズが合わない場合は こちら をクリック ◆政治的スタンス8分類 (外枠) ※極右と極左は隣接 “ナチス(国民社会主義(いわゆる国家社会主義(*下記注釈参照))とコチス(共産主義)は双子の兄弟” Political Stance Ultra-Left Left-Winger Liberal Centrist Neo-Liberal Conservative Right-Winger Ultra-Right 政治的立ち位置 極左(急進・過激派) 左翼(革新) リベラル左派(中道左派・進歩派) 中間(オポチュニズム) リベラル右派(新自由主義) 保守(伝統保守) 右翼(ナショナリズム) 極右(急進・過激派) 政治制度 一党独裁(全体主義) 指導政党制(準全体主義) 選択的多党制・政権交代を前提とした政治制度(純度の高い議会制デモクラシー = 自由民主制 liberal democracy)※2 指導政党制(準全体主義・権威主義) 一党独裁(全体主義) 革命(Revolution)を是認 革命・クーデターによる政変・政体変更を否認 維新(Restoration)断行 クーデター是認 経済制度 共産主義 社会主義 資本主義 国民社会主義※1 経済政策 国家管理 高負担・高福祉 やや高負担・高福祉 功利主義・無定見 最小限の介入 中負担・中福祉 高負担・高福祉 国家管理 外交政策 親大陸(反英米) 親英米(反大陸) 反英米・反大陸 日本の事例 社民党(旧社会党) 自民党 日本共産党 民進党 維新政党新風 生活の党 公明党 おおさか維新の会 日本のこころを大切にする党 海外の事例 米・露 ソ連共産党(現:ロシア共産党) 民主党(米) 共和党(米) 統一ロシア(プーチンの与党) 自由民主党(露) 英国 労働党(英) 自由民主党(英) 保守党(英) ドイツ 左翼党(旧東独社会主義統一党) 社会民主党(独) 自由民主党(独) キリスト教民主同盟・社会同盟(独) ドイツのための選択肢 ナチス党(消滅) 中・台 中国共産党(支) 民主進歩党(台) 中国国民党(華・台) 国内メディアの立ち位置 赤旗(共産党支持) 朝日・毎日・中日・NHK(民主・社民支持) 読売・日経(大連立・中道志向) 産経(自民支持) チャンネル桜(保守派支持) ※読売は「保守」ではなく「便宜主義」※産経も「保守」ではなく「中道右派」 ※政治現象を読み解くために…上の図は頭に入れて置こう⇒上図の詳しい説明は 政治の基礎知識 参照 ※意見はこちらへ⇒ 政治的スタンス分析 ※1:国民社会主義 … 「国民」を神聖視した戦後はナチスと結びついた national socialism を「国家社会主義」とワザと誤訳してきたが、戦前の刊行物は「国民社会主義」と正しく訳しており最近の高校教科書の記述も語義どおり正しく翻訳するようになってきた(例:2006年検定合格の山川世界史教科書:「国民(国家)社会主義」と表記)。 ※2:自由民主制 … 「国民」を神聖視したのと同様に「デモクラシー」を「民主主義」とワザと誤訳して神聖視した戦後は liberal democracy をも「自由民主主義」とワザと誤訳してきた。⇒詳しくは デモクラシーの真実 参照。しかし厳密に学問的な政治学の著作は democracy を「民主主義」ではなく、ちゃんと「民主制」「民主政体」「民主政治」「衆民制」などと表記している。
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/530.html
398 :New ◆QTlJyklQpI:2012/01/08(日) 20 30 15 ネタSS ~ゲート冷戦~ 日本帝国宰相神埼(嶋田繁太郎)は停戦条約調印のために沖縄に来ていた。 「やっぱり沖縄は熱いなあ。しかし、なんでこんなに歓迎されてるんだ?」 「どうやら我々のことをニライカナイから来た人間だと信じいるようです。」 「まあ、伝説通り東のゲートから何十年も後の国がきたら伝説が本当だと思うのも無理はないが・・・」 車内からこちらに万歳をする沖縄民を見ながら嶋田はこうなった経緯を思い出す。 1945年8月15日、沖縄の東の沖合に突如出現したゲートから来た20XX年の日本帝国の調査船を米海軍が撃沈したことが始まりであった。 日本帝国はゲートの向こうの日本がアメリカの無差別爆撃と核攻撃で無条件降伏したことも加えて世論が過熱、日本帝国は米国に最期通牒を 突き付け沖縄へ侵攻を開始した。アメリカも日本沖に展開した空母機動部隊を集結させ待ち構えていたがステルス機を始めとする攻撃で すべて撃沈、沖縄上陸後も逆に米軍が洞窟などでゲリラ戦をする状況に陥った。 この戦闘結果に米国は焦り沖縄への核攻撃を実行することを決定したがB-29は迎撃され失敗遥か沖合で核爆弾が炸裂したに留まった。 この核攻撃により日本帝国は「極めて遺憾」と表明、廃棄寸前の核弾頭を超音速爆撃機飛竜に搭載しハワイを核攻撃した。 この応酬により両者睨みあいを続けていたがソ連軍の朝鮮侵攻、中国国民党の急速な弱体化による大陸赤化が加速、 アメリカに降伏した日本国を仲介として停戦となり沖縄の帝国領化などの条件を盛り込んだ条約を締結することを公表した。 「これでことが収まってくれればいいんだが」 「無理ですね。ソ連や東南アジアそれに日本国からも熱烈なラブコール受けてますし」 米国と対立したことでソ連が自陣営に引き入れようとし、アメリカがぼろ負けしたせいで強化された植民地軍に手も足も出ないアジア独立派や アメリカに隷属したままの復興を良しとしない日本など出来る事ならゲートの関係上積極的に関わりたくないのにこっちの世界に否が応にも 関わらなければならないことを予感しつつある神埼だった。