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写真 H28.8.22 復元想像図 NO IMAGES 奉納年 文政元年(1818)8月 掲額者 松永直英門人 緒元 横 -cm × 縦 -cm 復元 問題数 5 奉納先住所 山形県 奉納先名称 総鎮守天満宮 別保管住所 山形県新庄市堀端町6-86 別保管名称 戸澤神社 文化財指定 拝観時注意事項 額文 注 現代文等 奉納東岳先生門人自問自答五條 問1 今有如図半円内容于各九円只云外円径若干問丙円径 答1 答曰依左術求丙円径 術1 術曰置外円径十除之得丙円径合問 中山勝之助吉治 問2 今有如図直内容大中小方只云直長若干平若干問小方面 答2 答曰依左術求小方面 術2 術曰置長平差冪一十三之加長因平二段開平方五除之得小方面合問 西野万作知行 問3 今有如図只云外円径若干問丁円径 答3 答曰依左術求丁円径 術3 術曰置外径一十四除之得丁径合問 新見直江■義 ■=トダレに「只」 問4 今有如図弧内容甲乙四円只云矢若干問甲円径 答4 答曰依左術求甲円径 術4 術曰置矢半之得甲円径合問 大川多吉重房 問5 今有如図勾股内容弧及大小二円只云勾若干股若干問至少小円径 答5 答曰依左術求至少小円径 術5 術曰置勾自之加股冪名天開平方名地置勾加股以除天以減地余自之以勾除之得至少小円径合問 松永満五郎貞義 文政元戊寅年七月 名前 コメント
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四月 日 月 火 水 木 金 土 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 五月 日 月 火 水 木 金 土 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 六月 日 月 火 水 木 金 土 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 七月 日 月 火 水 木 金 土 1234567 891011121314 15161718192021 22232425262728 293031 八月 日月火水木金土 1234 567891011 12131415161718 19202122232425 262728293031 九月 日月火水木金土 1 2345678 9101112131415 16171819202122 23242526272829 30 十月 日月火水木金土 123456 78910111213 14151617181920 21222324252627 28293031 十一月 日月火水木金土 123 45678910 11121314151617 18192021222324 252627282930 十二月 日月火水木金土 1 2345678 9101112131415 16171819202122 23242526272829 3031 一月 日月火水木金土 123456 78910111213 14151617181920 21222324252627 28293031 二月 日月火水木金土 123 45678910 11121314151617 18192021222324 25262728 三月 日月火水木金土 123 45678910 11121314151617 18192021222324 25262728293031
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「理解に苦しむがいい」 「ただしどうなるかわからないけど」 名前 光宗 架蹴《みつむね かける》 性別 男子 年齢 18 誕生日 七月七日 身長 190cm 体重 60kg 趣味 フィギュア集め 好きな食べ物 納豆 嫌いな食べ物 果物全般 +【能力】 理解できないチカラ 属性??? 分類??? 破壊力??? スピード??? 射程距離??? 持続力??? 精密操作性??? 成長性??? 彼が使う、銀色の翼。主に危機状態の時に展開し、戦闘状態にはいる。 この翼の能力は人間には理解できない。 なので、すべてが不明である。 どうかわせばいいか考えられないので回避不可能であり どう防御すればいいか考えられないので防御不可能である。 尚、人間の神経すら感知しないので この翼の攻撃(この表現が正しいかも不明)は痛みを感じない。 彼との戦闘はいつのまにか終わってしまう。 +【概要】 世界のどこかにいる少年。 なにかを求めており、そのためならば他人の犠牲も問わない。 主に戦闘は正当防衛であり、相手が攻撃を仕掛けてこないかぎり 攻撃をしない。 オタクであり、秋葉原を「エデンの園」と称するほど。 家には大量のアニメグッズがある。 +【容姿 性格】 良くも悪くもない顔だちで、スリムである。 白いスーツを着ており、金髪。 すべて自己満足のもと動いており、 自分が満足するのならば何千の人を救ったり、また殺したりする。 一人称は「僕」で二人称は人によって変わる。 |
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TKCLANとUNKOとは? ※呼ぶな構うな近づくな。彼らはキチガイ当然です。 TKCLANのホームページ http //www24.atwiki.jp/bf2tkclan/ 誰もが知っている。誰もが恐れている。 もう知らない人等居ないだろう。 大手TKクラン、UNKO。 夏にUNKOが始まり、冬のクリスマスにUNKOは崩壊。 そして1月。TKCLAN設立。UNKOが寄ってきた。 だがその後、Lv4が出現したりタベマス本人が問題を起こしたりで、 二回目の崩壊という形になってしまった。 現在は新しいTKCLANで地味に活動しているらしい。 主な登場人物 UNKO-TABEMASUev(ウンコタベマス)初代隊長 UNKO-KAZARITAI2(ウンコカザリタイ)現・隊長 UNKO-YARIMASU3(ウンコヤリマス)UNKO古参 UNKO-OKAWARI2(ウンコオカワリ)UNKO古参 UNKO-KUROAME(ウンコクロアメ)TKCLAN古参 TENGOKU-CHOCO(天国チョコ 現在不在)TKCLAN古参 2chのログ 永久保存板 過去ログ全集。(※最新のスレ 修正しました。 【妄想】BF2MC晒しスレ【子供】(5個目) http //uhaokww.s201.xrea.com/1176737164.html 【こども】BF2MC【けいじばん】(4個目) http //uhaokww.s201.xrea.com/1172806574.html 【ガキ】BF2MC【丸出し】(3個目) http //uhaokww.s201.xrea.com/1165044376.html 歴史 {七月上旬} なんとなく押入れにしまっていたBFをとりだし、TKに目覚める。 アカはBRの桐山のように殺したいという理由でkiriyama-kazuo。 {七月中旬} この頃、OETH-NOTE(現蜂蜜)と知り合い、ともに荒らすことに。 (当時は殺しではなく、地雷仕掛け専門での荒らしをしていた。) 同時に、現HEMODERUとも知り合い、地底人などを教わる。 {八月中旬} 普通のTKに飽き、もっと汚く嫌われるようなIDでTKをしたほうが楽しいだろうと思いつき、UNKO-AGEMASUを作る。 直後に「面白い名前ですね、俺も入れてください」と UNKO-NAGEMASUが入隊。その後すぐにFURTIN-SOLDIERも入隊。 三人でクラン「オゲレツファミリー」を結成。 {八月末} もっともっと汚い名前にしようと、TABEMASUに改名。 KUITAI、TABETAIが入隊し、蜂蜜もすぐにNOMITAIで入隊。 ついにTKクラン、UNKOを結成する。 {九月} 外人で裏技を多く知っているクエマス、オカズ、オヤツ、ナデナデなど が入隊。第一期黄金時代を迎える。 中旬になると、のちに主力メンバーとなるオカワリ、ヤリマスも入隊。 ~~~~~~~~~~~~~~~ (9月中旬・下旬 晒しスレ時代突入) この頃、初めてウンコが2chに書き込みした頃。 UNKO-TUMAMIGUI(今のGORORI)や、puppai等も。 (10月上旬・中旬) 多分この頃にKAZARIMASU入隊(今のKAZARITAI) 主な登場人物 副隊長 NAGEMASU puppai YARIMASU DEKASUGI 偽者SHABURITAIが姿を現す。 (10月下旬) KAZARIMASUがDE.ASOBOUに改名、TRG暴発。ensyou等も出現。 荒れ気味。同じ流れがループ。 (11月上・中・下旬) OKAZUが追放される、TRGが叩かれる。 主な登場人物 MOONLHIGET(puppai)等。 この頃KAZARITAIがTKを止める。晒しスレ崩壊 (12月上・中旬 ガキスレ時代突入) ARASIDA、winter出現。ZAKO2叩き。 KAZARITAI復活。AISHIMASUに名前変更。 ウンコ解散騒動、蜂蜜(Lv4)がウンコを潰す。 (12月下旬 ガキスレ時代突入) 色々とあったが2006年終了。 蜂蜜死亡。 (1月上旬) この頃、異常にコテが沸く。 TENGOKU-CHOCOに出会い、TKCLAN設立。 (1月中旬) TKCLANにウンコが集まってくる。HP設立。 (1月下旬) NAKAMOTRI、Nonbiri、KOMEROUが叩かれる (2月上・中旬) V_MAX_PAYNE が叩かれる。 この頃、ウンコ史上最高人数が一つの鯖に集まる。約15人。 (2月下旬) なんかグダグダ。Lv4がタベマスを叩いてくる。 SINDEROwwwwww出現。 (3月上旬 こどもスレ時代突入) グダグダ、以下ループ。 (4月) タベマスの自演がバレ、UNKO混乱。愛のかぁびぃ誕生!その他の痛い仲間達も。 (5月) UNKO崩壊。 (6月) タベマスがTKCLANに帰ってくる。 今の所問題はなさそう。だが過疎 ←今ココ
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上告革命案 主任 山崎今朝彌 月別 破毀 棄却 取下 被上告 受理 五 民 -六 -六 -三 カチ二マケ一 -九 刑 -八 一二 -四 ------ -- 六 民 -七 一二 -五 カチ四マケ一 -三 刑 -四 二〇 -二 ------ -- 七 民 -二 二一 -三 ----勝五 -五 刑 -二 二〇 -六 ------ -- 八 民 -〇 -九 -一 -----〇 -〇 刑 -〇 -六 -一 ------ -- 九 民 -四 一八 -六 ----勝一 -六 刑 -三 一〇 -〇 ------ -- 右成績表元来なら前号又は前々号にて発表致すべきの処五月が余り成績良かりし故態と遠慮致し七月を待ち八月を待ちたるに七月八月は海内無双の不成績にて発表が厭に相成り今後は絶対に成績は発表せぬ事と相定め候次第に候処又々九月より景気相催し候に付き再び茲に発表する次第に候、人間とは勝手の動物なりと思へば何の仔細なき儀かと存候。 従来の当所特別上告部は其規則第一条に「地方法曹の」と制限有之其適用を地方法曹にのみ限定され候へ共近来は東京弁護士よりの委託の方却て多数に相成候に付き来る十一月よりは在京法曹の委託事件も総て特別上告部の事件として取扱ふ事に致し候、併し当分の内は国家経済上用紙案内書等総て従前の分を仕様仕り候。 委託せらるる弁護士諸君より料金が安くて困る少し高くせよと仰せらるる事屢々有之候、高くては人の為めでは絶対にないと云ふが私年来の主張に候又均一の均一たる所以には安過ぎるのが有るは当然の事と存候、此場合規則外の報酬決して受けぬものにも無之候、若し夫れ・・・困る・・・と云ふ点に至つては、当所も素人より法律課へ直接依頼の事件は随分思ひ切つて高く取り遠方より態々上京して報酬の点で依頼するに至らず帰国の上弁護士の手を経て特別上告部へ委託せらるる事等も多々益々有之候。 年を取るに従つて物覚へは悪くなり頭が段々駄目に相成る様考へ候、其昔し日本唯一元祖上告専門弁護士等と広告したる事が此頃漸く可笑しく相成候、併し私が駄目でも事務所が宜敷候事務所には頭も目も沢山有之候、上告は何と云ふても多くの頭と多くの目で考へ出し探し出すに限ると存候、大概の問題は大森より事務所への往復汽車中で片付き申候、汽車は毎朝毎晩議事堂、汽車で極まらぬ事件は食堂会議、別に図書館へも行かず判例をも探さず大抵は誰かが一度失敗した経験の問題に候、御手に余る大難問は明治三十八年三月創立以来一度も欠かさず毎週土曜日の開会を以て有名なる弥生会研究会に持出し申候、安くも出来る筈に候、良くもある訳に候。 弥生会は一時除名会とまで云はれた会にて直ぐと除名問題が起り候、広告のダシに使ひ放しでは又問題が起るかも知れぬから一々氏名を挙げて利益均霑の相殺を対抗仕り候、住所も電話も弁護士名簿に有之候、氏名はいろは順、猪股淇清君、岩田唯雄君、原孫六君、岡本一雄君、河鰭義三郎君、吉田三市郎君、吉井浜次郎君、吉村朔郎君、名合孟君、山崎今朝彌君、安田要六君、近藤民雄君、駒澤辰明君、阿保浅次郎君、佐々木藤市郎君、岸井辰雄君、渋澤昇三君、鈴木徳太郎君。 此間沖縄在住の弁護士よりの依頼により沖縄の事件を北海道の弁護士に紹介致し聊か趣味を感じ候に付き行末は営業にする積りにて当分は物好に無料にて元祖弁護士ブローカーを特別上告部の附属事業として十一月より開始仕度倍旧に続々御申込被下度候。 以上の論旨は之れを要するに ~~~~~~ 改正特別上告部略則 ○法曹諸君の委託に係る上告事件を均一料金にて取扱ふ。 ○控訴院の裁判に対しては手数料十五円成功謝金三十円。 ○地方裁判所の裁判に対しては手数料十円成功謝金二十円。 ○当事者多数の場合一人三円の割増を求む。 ○右の外民事刑事共上告実費として一件二円宛を申受く。 ○東京法曹の事件を地方法曹に地方法曹の事件を東京法曹又は他の地方法曹に仲介す。(当分無料) <以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。> <旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正し、旧漢字は適宜新漢字に修正した。> <底本は、東京法律事務所『東京法律』第13号6頁、大正4年(1915年)10月20日号>
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祝祭日 148 名前:水先案名無い人 :05/01/06 03 23 58 ID TPxe6kpR 全祝日&記念日 入場!! カウントダウンは終わってた!! 更なる誓いを重ね新しい一年が始まった!!! 元旦!! 一月一日だァ――――!!! 大人はすでに我々がなっている!! 一月第二月曜 成人の日だァ――――!!! 鬼見つけしだい豆投げまくってやる!! 厄払いイベント代表 節分だァッ!!! 国の誇りなら日本の歴史がものを言う!! 戦前の紀元節 2月11日 建国記念の日!!! 真の愛情を知らしめたい!! チョコレート贈呈 バレンタインデーだァ!!! 休日としてはマイナーだが科学的根拠なら天文学オレのものだ!! 季節の変わり目 春分の日だ!!! お雛様は完璧だ!! 全女児祝祭 桃の節句!!!! 全お菓子のベスト・チョイスは私の手にある!! バレンタインのお返しが来たッ ホワイトデー!!! 騙しあいなら絶対に敗けん!! 年に一度のウソを見せたる 四月バカ エイプリール・フールだ!!! ゴールデン・ウィーク(有給つき大連休)ならこいつが大事!! 昭和天皇のピュア・誕生日 みどりの日だ!!! 労働組合から炎の意思表示が上陸だ!! デモ行進 メーデー!!! ルールの無い休日が楽しみたいからゴールデンウィーク(連休)になったのだ!! 憲法問題の特別番組を見せてやる!! 憲法記念日!!! 祝日の土産に追加休日とはよく言ったもの!! 国民の祝日法の条文が今 実戦でバクハツする!! 三連休確定 『国民の休日』だ―――!!! 五月五日こそが端午の節句の代名詞だ!! まさか鯉のぼりが立てられるとはッッ こどもの日!!! 労いたいから祝ってきたッ 家事労働一切不問!!!! 家族のカーネーション(定番)プレゼント 母の日だ!!! お父さんは家族最弱ではない稼ぎでは最強なのだ!! 御存知 忘れがちな日 父の日!!! 逢引の本場は今や天空にある!! オレを驚かせる短冊は吊ってないのか!! 七月七日・七夕だ!!! 休みィィィィィいッ説明不要!! 新設休日!!! 七月第三月曜!!! 海の日だ!!! 鰻は蒲焼で喰ってナンボのモン!!! 超実戦健康法!! 本家日本から土用丑の日の登場だ!!! 墓参りはオレたちの義務 来ないやつは思いきり嘲られ思いきり祟られるだけ!! 親戚一同統一会合 お盆 軍威を試して敗北したッ!! 第二次世界大戦全日本無条件降伏 終戦記念日!!! 敬老精神に更なる磨きをかけ “肩叩き券”敬老の日が帰ってきたァ!!! この休みにイベントはないッッ!! ただの休日 秋分の日!!! 全国四千校の運動会が今ベールを脱ぐ!! 秋の定番から 体育の日だ!!! 子供たちの前でならオレはいつでもお菓子だ!! 燃えるコスプレ ハロウィン 仮装で登場だ!!! 明治の天長節はどーしたッ 戦前の炎 未だ消えずッ!! 自由も平和も思いのまま!! 文化の日だ!!! 特に理由はないッ 子供が可愛いのは当たりまえ!! お祖母ちゃんにはないしょだ(嘘)!!! 千歳飴! 七五三がきてくれた―――!!! 労働で築いた実戦休日!! 新嘗祭のデンジャラス・言い換え 勤労感謝の日だ!!! 誕生日だったらこの人を外せない!! 超A級公人 天皇誕生日だ!!! 超一流恋人達の超一流の聖夜だ!! 生で拝んでイチャツキやがれッ クリスマスの前夜祭!! クリスマス・イブ!!! 冬定番コスプレはこの男が完成させた!! サンタクロースのプレゼント!! クリスマスだ!!! 除夜の鐘が鳴っていたッ もう始まったぞッ カウントダウンッッ 俺たちはこの一年を忘れないッッッ大晦日の終了だ――――――――ッ 関連レス 161 名前:水先案名無い人 :05/01/06 12 29 23 ID r2txtjWr ただの休日ワラタ 150 165 名前:水先案名無い人 :05/01/06 13 16 08 ID iZHlNT7r 148-150 ちゃんと1年の休日を順に追ってるのがスゴイな 166 名前:水先案名無い人 :05/01/06 18 46 20 ID G1mgEgWR 165 三月で前後してるのがちょっと惜しいと思ってた。 まあ桃の節句とかは休日じゃないが……。 168 名前:水先案名無い人 :05/01/06 19 29 32 ID TbrHZ2/N 166 169 名前:水先案名無い人 :05/01/06 20 15 20 ID TueBBi+f 3月3日が祝日に挟まれてるなんて 初めて知ったわ。ありがとう 168 170 名前:水先案名無い人 :05/01/06 20 20 07 ID TbrHZ2/N 169 ?? なぜ3月3日がそういうことになるの? 172 名前:水先案名無い人 :05/01/06 21 01 17 ID yq+lzvLs 168 コメント 名前
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《えー……お次は週間予報です。暫くは大体全国各地晴れ模様ですが、一週間後の七日の夜からまた雨脚が強まる可能性が――……》 平成五年(一九九三年)七月一日。梅雨も終わりに近づき、最近は真夏日を越える日も普通にある。 山沿いの田舎の古びた町に建つ一軒家。そこにある白黒の旧式テレビから、天気予報が聞こえてくる。 その家の縁側で、一人の少女が扇風機の風に直接当たりながら聞いていた。 (……七日の日……雨降るんだ……それも夜……) そう思い、「あー」とだらしない声をあげて、グタッと床にへばり付いた。 その少女の名前は柏原純子。通称純。 純の住む、山沿いの田舎の村の名前は「雪ノ崎村」。インターネットは愚か、カラーテレビすら未だまともに普及していない、昭和にタイムスリップしたような、そんな村だ。 人口も極めて少なく、二十人。その内の、高校生以下の住人は僅か六人しか居ない。十八~六十歳の住人は八人、残りは全て六十五歳を越える老人のみである。そしてそれも、急激に少子高齢化が進み、来年には、少なくとも十人までに減ってしまうことが決まっている。 東京の大学へ行くとか、就職先を探すとか、まあ理由は様々であって。五年前までは人口も未だ五十人以上いたのだが、その殆どは九十歳を越える老人だったので、一気にこの様な有様となった訳だ。今は殆ど亡くなっている。 その上、高校生以下の六人中三人は高三。後半年くらいで卒業してしまう。卒業して、三人とも上京してしまうので、最後に残っているのは中一の純と、もう一人の中一の幼馴染み・榎本郁也。その郁也の一歳年下の弟・榎本涼也のたった三人になってしまう。 しかし、その郁也も東京の全寮制の中学に転校することに決まったのだ。七月七日に。 唯一人の同い年の友人を失うことは、純自信も相当ショックを受けていた。 その上、純は郁也の事を幼い頃から片思いしていたから、尚更だ。 (七月七日…いつもなら郁也と涼也と私で短冊にお願い事書いて笹の葉に飾って……そんで星を眺めたりしていたのにな……毎年そんな楽しみがあった日が、別れの日になっちゃうなんて……) はあ…と純は床にへたばりながら深い溜息をついた。 そして、今までの郁也との思い出を思い出していた。 (もう生まれた時から同い年なのは郁也しか居なかったからな……。最強の喧嘩友達で、最強の取っ組み合いの相手で、最強の理解者だったな……。もう他には涼也と6歳年上の人達と大人しか居なかったから……。もうその最強の幼馴染みが居なくなっちゃうなんて……。実感沸かないや……) そしてまた、深い溜息をついた。 「純、そんなダラダラしている位なら、新聞配達の手伝いしておいで! 富樫さんが、夕刊の手伝いしてくれる人を探していたよ」 扇風機の前で寝転がっていた純を見かねた、純の祖母・夏江が、純に言った。 「えー……めんどい」 だらしない声で返事をした。富樫さんとは、村でたった一つしかない新聞屋を経営している人だ。 「そう、郁也君はしっかりやっていたのにね」 夏江が軽く溜息をつきながら言った。 それに即座に反応して、 「え!? 郁也!? やる!」 と、元気に返事をして起き上がった。 純はダッシュで新聞屋に走った。 そして勢いよく新聞屋の引き戸を開けた。ガラガラガラッ! と大きな音を立てて。 「富樫さん! 夕刊手伝いに来たよ!」 ハアハアと息を荒くしながらも、元気なやる気に満ち溢れた声で、やる気満々な瞳で言った。 そしてその富樫さん……富樫瞬太郎は暢気に煙草を吸いながら 「あー、手伝い? ありがとうね。でもさっき、郁也君が全部配っておくとか言って、もう配達にいっちゃったよ」 と言った。 「え……」 (郁也に先回りされた!) 「んー……多分郁也君、東京行っちゃうから、最後にせめてものお礼とか思って居るんだろうね。郁也君の性格から考えると、まずこんな仕事、やろうなんて思わないでしょ?」 (……確かに) 瞬太郎の考えに、純も納得していた。それと同時に、 (本当に、郁也この村から居なくなっちゃうんだ) という実感と哀しみが心の奥底で感じていた。 「富樫さん有難う! じゃ!」 そう言って、新聞屋の引き戸を勢いよく閉め、純は走った。 「ハア……ハア……」 息が荒くなる。 (郁也……今何所に居るんだ?) そう思って居たら、目の前に新聞の束を抱えた少年が見えた。 百六十二センチという小柄な、太っていない体型。髪の色は茶色に近い独特の色合い。 (郁也だ) 「郁也ーッ!」 郁也の所まで、手を振りながら走っていった。 「あ、純、どうしたん?」 郁也が訊く。 「いやー、暇だったからさ、あんたの新聞配達、手伝ってあげようと思ってさ」 あはは、と笑いながら答えた。確かに暇だったと言うのは本当だが、それは夏江に言われたからだからだ。郁也はそれさえも瞬時に見抜いてた。 「……お前の婆ちゃんに言われたからだろ? どうせ」 「流石は幼馴染み……驚くべき洞察力……」 「お前の性格を考えると、こんな仕事しようと思わないだろ?」 (郁也だってそうだろうが!) 純は心の底からそう思った。 「……じゃあさ、何で郁也は新聞配達なんかしてんのさ?」 純は郁也に訊いてみた。 (どう言うかは解ってるけどね) そう思いつつ、純は返事を待った。 「そりゃ、亜米利加行くし、今までお世話になってきたから俺なりのお礼」 (……亜米利加?) 東京の中学に行くと純は認識していたので、軽く混乱した。 「え……? 亜米利加て……え……?」 「……亜米利加だけど?」 「いや……わたし東京の全寮制の中学入るって聞いてたんだけど……あ……亜米利加……?」 オドオドしている純をみて、 (アホだ-、俺の話の何割理解して聞いてたんだ此奴……) と思いながら 「いやいや……ほら、亜米利加の学校って、九月から新学期始まるだろ? だから、八月一杯まで東京の分校に行って、そして九月になったら亜米利加の本校に行くんだよ」 と純に説明した。 純はそれを聞き終わったら、さらに質問をした。 「……それ以前に郁也……何で態々亜米利加まで行くの? 特に凄い成績がいい訳じゃ無いじゃん」 「お前よりは良いけどな」 郁也は鼻で笑った。 (ムカッ……) 純は内心結構苛ついていた。 「あは、ゴメンゴメン、でもそれは事実だろ?」 (ムカムカムカッ……!) さらに苛ついた。 (本当は今すぐグーで殴りたいけど……別れる前に喧嘩するのもどうかと思うし……我慢我慢!) そう自分に言い聞かせ、堪えた。 「成績とかの問題じゃ無くって……ほら、一月に俺が大会に応募しただろ?」 (あー……そういえば) 純はそんな事すっかり忘れていた。 「そして、それが見事入賞したっていう連絡がこの間来た」 それには純も、相当驚いて 「ええ!? 馬路!? 馬路ですか郁也さん! 凄! 凄すぎ!」 と興奮して大きな声を出した。 「はは、それでさ、亜米利加の本校に行って、もっと力を伸ばして見ませんか、っていう誘いも来た」 (ああ……それで……) 「今逃したら次は無い、って思ってさ、思い切って行くことにした」 「ふうん……」 純は素っ気ない返事をした。 「あのさ……」 「ん?」 「休みの時とか……またこっちに帰ってくるよね?」 (御願い……帰ってくるって言って……) 何となく、心の底でそんな事を祈りながら純は訊いた。 「……いや、一度亜米利加の方へ飛んだら帰ってくるのは難しいと思う。結構レベル高くて、休み殆ど無いし、あってもその時練習しないと追いつけないらしいし……(口コミ情報)でもその分高い実績を誇っている……って純!?」 郁也が気が付いた頃には、目の前に純の姿は無かった。 『 一度亜米利加の方へ飛んだら帰ってくるのは難しいと思う 』 純の頭の中では、その言葉が唯ひたすらリピート再生されていた。 そしていつの間にか自分の布団に潜り込んでいた。 (あっちの方へ行っちゃったらもう郁也とは会えない!? 嘘だ……嘘だ……どうせ郁也の事だもん……きっと冗談だよ……でも……でも……もしも、本当だったら? もしも、2度と会えないとしたら?) そんな言葉しか、今の純には考えられなかった。 一方、郁也は、その後さっさと配達を追え、純の家に向かっていた。 (どうしたんだろう……? 純の奴……何か傷つけること……変な事言ったかな? 俺……大体、純の所言って何をする気だ? 何を言う気だ? 自分でも解らない……でも……何か言うべき事がある筈……) そう思いながら。そして、純の家の引き戸を開けた。 ガラララ……。 「こんばんはー……」 家の中に入りながら挨拶をした。そしたら家の奥から、純の母・薫が出てきた。 「ハーイ、ってあれー!? 郁也君!? どうしたのー? とりあえず、暑かったでしょう、上がって上がって」 元気よく郁也を迎え入れた。 「あ……どうも……お邪魔します……」 郁也は、薫とは反面的に、元気のなさそげな声で靴を脱いで上がった。 「でー? どうしたの?純に用事があるのなら呼んでくるけど」 郁也は縁側の隣にある和室に通され、麦茶を入れてもらっている。この部屋は風通しも良く、風鈴の音も聞こえて、とても居心地が良い。 「あ……じゃあ御願いします」 「分かったわ」 薫はそう言うと、近くの階段の側に行って、 「純ーッ、郁也君が来てるわよーッ」 と叫んだ。 (……郁也? 何でまた……) 布団越しに聞こえた声に、少し純は疑問に思った。 「純ー、早く降りてきなさーい」 薫の声がまた聞こえてくる。 「……」 「……御免ね郁也君、あの子何があったのか知らないけど、何か引きこもっちゃって……」 薫は少し呆れながら、郁也に謝った。 「あ……良いです、俺から行きますから」 そう言って郁也は、自ら階段を上っていった。一段一段上がるごとに、古びた階段から軋む音がする。 キィ……キィ…… キィ……キィ…… (この音……誰かがこっちに来ている……!?) 布団越しに軋む音が聞こえてくる。そしてその足音は自分の目の前に近づいてくる。 「……誰?」 少し不安そうに聞く。 「……俺、郁也」 ドックン……心臓の音が大きくなる。 「……郁也……!?」 「あのさ……さっき何で急に「来るな!」 郁也が話しているのを遮るかのように叫んだ。 「……え……」 「今アンタとは話したくない! 帰って!」 布団にくるまりながら叫ぶ。 「……解った」 郁也はそう一言言って、階段を下りていった。 ミシッ……ミシッ…… 上がるときとはまた違う軋む音がする。そしてその音はどんどん小さくなっていく。 (……今会いたくないってのは本当……でも……別れる前に喧嘩はしたくなかったのに……) 純の心の中には、罪悪感が残っていた。 「あ……郁也君……」 郁也が階段を降りた所に、薫が心配そうに声を掛けてきた。 「何でもありませんので、じゃ」 郁也は素っ気なく返事をして、そのまま帰って行った。 『 今アンタとは話したくない! 帰って! 』 この言葉が、ずっと郁也の頭の中で、リピート再生されていた。 (そこまで嫌われるような事……無意識の内に言ってしまったんだろうか……?) そしてお互い、気持ちは晴れないまま、平成五年(一九九三年)七月二日。 (ああもう、何さ! 郁也の馬鹿! もう帰って来られないって何よ! 自分の夢を早急に叶える事を優先しやがって、私の気持ちは丸無視かよ! もう! もう! 学校行ったらあからさまに無視してやる! 喧嘩はしたくなかったけど、でももうあんな事言っちゃったし、今更謝る気にもなれないし!) 純はそんな事を考えながら登校していた。 そして郁也は…… (よく解らないけど、とりあえず謝っておいた方がいいな、よし) と、純とは真逆な事考えながら登校していた。 ガラガラガラ! 純は勢いよく教室の扉を開けた。そこにはもう既に郁也の姿があった。 「おはよ……」 純はそこまで言いかけて、はっとした。 (いけないけない、郁也の事は無視するんだった。つい何時もの癖で言っちゃったけど、もう言わない!) そう自分に言い聞かせて、そっぽを向いて席に座った。 その時だ。 「御免! 純!」 郁也は、純に向かって謝った。 「……は?」 そっぽを向いていた純も、郁也の方に顔を向けた。 「い……いやー、昨日何かやばいこと言っちゃったかなって」 「ーーッ……!」 (やばいこと言っちゃったかなって……人の気も知らずに真顔で『帰ってくるのは難しいと思う』とか言っといて……えーえー、貴方はやばくて酷くて残酷な事を平気でいいましたよー!) 心から純はそう思った。それが顔に出てしまったのが、長い付き合いの郁也には一目で解った。 (うおお……長い沈黙に険しい顔……これは相当怒ってる……只じゃ済まないな……こりゃ……) そう思った郁也は、必死になって謝る。 「御免! 本当に御免! 何でもするから機嫌直して!」 (何でもする?) 純の中ではこの言葉が引っ掛かる。 「本当に……?」 「本当に!」 純が聞き返すのに、郁也は必死になって答える。 純は自分が思うより前にもう口から答えが出ていた。 「なら……東京に……アメリカなんかにいかないで……ずっと此の村に……わたしの傍に居て……」 ミーンミンミー…ン――……蝉の鳴き声が五月蠅くたった二人だけの教室に鳴り響く。 何時もは気になって仕方がないその蝉の鳴き声も聞こえず、只シンとしていた。 「え……」 郁也の唖然とした声がやっと聞こえた。 「おいじゅ…」 そこまで郁也が言いかけたところで、教室の引き戸がガラガラと勢いよく開いた。担任の富樫慶太朗だ。通称慶ちゃん。彼はあの新聞屋の富樫瞬太郎の息子だ。だから教師とはいえ、純達とは幼馴染みのお兄ちゃんみたいな存在だ。 「純ー、郁やんー、席着けー」 彼は何故か郁也の事を郁やんと呼ぶ。 その後、中々気まずくて、全然口を聞かないまま放課後になった。純はまた昨日の様に縁側でゴロゴロしていた。 (うわー……あれじゃあまるで告ったも同然じゃん! 恥ずい恥ずい恥ずい恥ずい恥ずい! 恥ずいよーー! 自分の馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿! 確かに喧嘩しないとは決めたけど……こんな事になるくらいなら、喧嘩になった方がよっぽどマシだよー!) 軽く半泣き状態である。 『 さーさーのーはーさーらさらー 』 『 ハッピバースデーツゥーユー 』 今から七年前、昭和六十一年(一九八六年)七月七日。 郁也と純まだ六歳の二人の幼い声が響く。 『 兄ちゃん、純姉、祝ってくれる気持ちは嬉しいけど、どちらかの歌にちゃんと決めて歌ってよー 』 幼い涼也が笑い呆れた声で言う。 『 え-、だって時は金なりだよ? 』 『 うんうん。二つともいちいち歌ってる時間が勿体ない! さあ、続き続き! 』 そう立ち直ると、二人はまた『 のーきーばーにーゆーれーるー 』『 ハッピバースデーツゥーユー 』と歌い出す。 (何なんだよ……訳分かんない) 涼也は六歳の彼等を満五歳の目線から見て、そう思った。 『 おーほしさーまーきーらきらー 』 『 ハッピバースデーぴありょーうやー 』 でも、そんな訳分かんない彼等をみていて、そんな細かいことは正直どうでもよくなってきた。 『 きーんぎーんすーなーごー 』 『 ハッピバースデーツゥーユー! 』 二人同時に歌い終わる。 『『 おめでとー! 』』 ザアッ――…… 風が強く吹いた。 「純姉!」 (涼也の声……) 「って涼也!?」 風の音と涼也の声で純は目を覚ました。 「あ、起きた? よくこんな炎天下の縁側で寝れるよね、純姉も」 (あ……わたし寝てたんだ……) ふと気が付く。 「ってかさ、なんで普通に家の中にいるのさ。母さんも婆ちゃんも居ないのに……それ以前に鍵も掛かってる筈だし……不法侵入じゃないの? 思いっ切り」 ちょっぴり人間性を疑いながら、少し嫌味っぽく純は聞いてみた。 「うん、だからあの塀乗り越えてきた。楽勝だよ?」 縁側の目の前にある、一メートル前後だと思われる塀を指さしながら、まるで“何か悪い事でもしたの?”みたいな顔で答えた。これには純も流石に少し呆れる。 (思いっ切り不法侵入じゃん。っていうか此処がアホみたいに田舎だから未だギャグで流せるからいいけど、此処が都会の街とかだったら、確実に警察に通報されてたか、若しくは信用百パーセント失ってた所だったぞ……) 冷静にそう思った。 「純姉、夢とか見てた?」 涼也が聞く。 「え……何でまた」 「んー…何となく」 「まあ…確かに随分懐かしい夢を見たような気がする」 「え!? 何!? 教えて!」 涼也が目をキラキラさせながら頼んだ。 「んー…涼也の5歳の誕生日の時の夢かな。ほら、郁也と私が同時に違う歌を歌った…」 「あー! そんな事あったあった! なっつかしー」 「だよねー。でも何で急にそんな夢見たんだろう……?」 純が疑問に思って居るところに、涼也が意見を出した。 「俺の誕生日って……七月七日だよね」 それを聞いて、純ははっとした。 「あ……」 (確かに……確かにそうだった……。最近郁也の事で胸がいっぱいだったから、-すっごい失礼だけど-涼也の事忘れてた……) こんな事、本人(涼也)には、口が裂けても言えない。 「懐かしいよなー。そっかー、俺が5歳の時の夢かー。もう七年も前の話なんだよなー」 あはは、と笑いながら言う。 (七月七日……涼也の誕生日が郁也との――……好きな人との別れの日――……) 「……そだね」 涼也とは反面的に元気のない声で返事をする。 (……) 涼也は、それすらも見抜いた。兄と違って、涼也はこの辺(恋愛関連)は鋭い。 「今年ってさ、催涙雨、降るらしいよな」 夕焼け色に輝き始めた空を眺めながら話しかける。 「……サイルイウ?」 聞き慣れない言葉に、純は訊き返す。 「催涙雨。七月七日に降る雨の事」 「ふうん……でも何で涙?」 「織姫と彦星が流す涙、って事」 (涙……) 会えないから泣いたのか。 会ってから大喧嘩して泣いたのか。 会うまえに気まずいことがあって、結局会わずに後悔して泣いたのか。 理由は解らないけど、でも、後悔して泣いたのは余りに残酷だ。 「なあ純姉、何か今日元気無さ過ぎないか? 純姉らしくないぞ?」 少し不安そうに訊く。 (そりゃ、あんな事- 24参照-あってテンション高い奴がいるかボケ!) 心の中ではそう叫んでいた。 「気のせいでしょ、はは」 必死に心の中を隠す。 涼也はしっかり見抜いていた。 「……兄ちゃんと喧嘩したところで―…仲良くベタベタしたところで結局別れる日は変わらないんだぞ」 ザアッ――…… また、風が吹き抜ける。 (涼也―…) そう言った涼也は、夢に出てきた…今まで自分が思ってきた涼也とは違う、とても大人びた表情をしていた。 「そもそも…涙無しの恋なんて無いんだから、それ位覚悟で恋したら? それに、別れるときにしろ、別れた後にしろ、涙は溢れ出るだろうけど、後悔はしない筈なんじゃないの?」 その言葉は、純が今まで十三年間生きてきて、最も説得力のある発言だった。 「うん……そうだね!」 そう言うと、純は目の前の塀を乗り越えて、走り出した。 (そうだよ! そうだよ! あの発言が何さ! どうせ郁也はニブチンだから何とも思ってないだろうし、どうせ七日には東京だ亜米利加だか行っちゃうんだ!勝手に1人でショボけてた自分がアホみたい!) ザアッ――…… 夏の風が吹く。 同じ風でも、今の風はとても心地よくて爽やかだ。 ガラララ! 郁也の家の玄関の引き戸を勢いよく開ける。 「郁也ァーー!!」 彼女のテンションも百パーセント復活している。 奥から郁也が出てくる。 「おい何だよ!? 急に!?」 「勉強会始めるぞ」 真顔で、そして低い声で言う。 「は?」 郁也には全く理解不能だ。 「始めるぞっていったら始めるの! ほら! 教科書出す!」 「は…はあ…」 言われるままに教科書を準備する。 「でも何で急に勉強始めるんだ?」 教科書を棚から出しながら訊く。 「んー? 東京だか亜米利加だか知らないけど、やっぱりこれまで習ってきたものの復習はした方がいいじゃん。それにあんた、五教科の合計の成績の合計が三百九十八点でしょ? 流石にやっておかないとヤバイって」 郁也の部屋の中心に置いてある円卓で、麦茶を飲みながら答える。 「……」 「何? 不満?」 「いや、五教科の合計の成績が二百十点の人に言われたくないなって……」 少し呆れた口調で言った。この台詞には純も軽くプチっときた。 「何よー! わたしはね! これでも二位なのよ! 全体で二位!」 「大体二人しかいないじゃん、中一は。一位か二位しかないんだよ。二位イコール最下位なんだよ。自慢にも何にもなんねーし」 郁也が「ハン」と鼻で笑う。 (と・こ・と・ん! ムカつくなーッ) 心の底ではそう思いつつ、 「じゃあ、始めようか」 と笑顔で応えた。 (やっぱり昔から変わらないなー。相変わらず鈍感だし。あの事-今朝の教室での一件-も全然気にしてないみたいだし) ―――――――――――――……… 「で、この頃雪舟が墨絵を描く、そんでピカソにパクられる!」 自信満々に純が言い張る。 「アホか、雪舟は江戸時代の人じゃねえし、ピカソパクってねえし」 郁也が冷静に突っ込む。 「…えッ!? でも…!」 “絶対そんな筈は無い”と思って居るのがバレバレの焦った顔をして、教科書を確認する。 「……」 教科書の江戸時代のページには、確かにそんな事は書いてなかった。その代わり、《歌川広重が描いた東海道五十三次を、ゴッホが真似て描いた》と、書かれていた。 「……この教科書、多分印刷ミスか、作った人が勉強不足だったんだよッ」 笑顔で郁也に同意を求める。 郁也は「馬鹿じゃねーの」と笑った。 「なー! 誰が馬鹿かー!」 「だって馬鹿だろー。こんなの小学生レベルの問題じゃねーかよ。そんなのも分かんない奴に勉強教わるとか馬路ウケる」 (くっそー、郁也の奴百パーセント馬鹿にしやがってやがる……) 内心、相当悔しかった。 今の事は勿論、自分より先に憧れていた東京に先に置いて行かれてしまうのも、自分より先にパスポートを発行してもらったことも、自分より先に夢に向かって旅立っていってしまう事も。 七月七日までの四日間は音よりも速く、宇宙の広がる速さよりも速く過ぎていった。それも、あまりにもいつも通りに。お別れ会とか、お祝いとか、そんな事は一切しなかった。 そんな事したらもう、二度と本気で会えなくなっちゃうんじゃないかって思うから。 今思えば、それ位したって良かったかなー、とも思うけど、別に激しく後悔している訳じゃないから、まあいっか。 純はそう思っていた。 * 平成五年(一九九三年)七月七日。 (今日が……私が毎年楽しみにしていた筈の日であって、涼也が十二になった日であって、郁也が夢の第一歩を踏む日であって―…私の好きな人の、見納めになるかもしれない―…いや、なる日だ) 純はそう分かっていた。 夕暮れ。 村の住民全員、総勢二十人が、村の中にある唯一のバス停の前に集まっている。全員、顔馴染みだ。郁也の最後の見送りに来ている。 「体に気を付けろよ」 「慣れない所だろうけれど、頑張ってね」 村の人達が郁也にそう声を掛ける。 郁也はそれに笑顔で応対する。 『 最後くらい泣いたって罰は当たらなんじゃない? 』 涼也がそんな事を言っていた気がする。 『 涙無しの恋なんて無いんだから、それ位覚悟で恋したら? 』 涼也の言葉が蘇る。 いつの間にか夜になっている。 星が瞬いている。 しかしそれもつかの間、雲が繁って、雨が降る前の独特のあの薫りが漂う。 催涙雨。 織姫と彦星が流す涙の雨。 会えないから泣いたのか。 会ってから大喧嘩して泣いたのか。 会うまえに気まずいことがあって、結局会わずに後悔して泣いたのか。 答は二人だけが知って居る。 でも解ってしまった。 会っても会った後の別れが辛いからだ。 『 今アンタとは話したくない! 帰って! 』 『 ずっと此の村に……わたしの傍に居て…… 』 『 別れるときにしろ、別れた後にしろ、涙は溢れ出るだろうけど、後悔はしない筈なんじゃないの? 』 ポツ…ポツ… 催涙雨が降る。それと同時に、県最大の駅に向かうバスが来る。 「郁也!」 純が郁也の元に駆け寄る。 その声に郁也は振り返る。 「純…」 「あのね…わたしね…わたしね……」 そこまで言いかけたところで 「待って」 と、郁也が遮った。 「先ず俺から言わせて」 そう言って話し始めた。 「ありがとう」 「…え?」 「『亜米利加なんかに行かないで』って言ってくれてありがとう」 「な…何で…?」 (むしろ迷惑だったんじゃ…) 「だって、何かみんながみんなアホみたいに俺が此の村から出て行くのを歓迎しているじゃん? 嬉しい反面、ちょっと凹んだ」 「え…」 「正直、亜米利加に行く不安もあったのに、誰もそれに気が付いてくれなかったから」 (あ…) 「だから、有難う」 いつの間にか、純の頰には涙の線が一本あった。 「あのね…わたし、正直郁也の夢、素直に喜べないの」 「え…」 「寧ろ反対していたりするんだ」 ザア――――…… 雨はどんどん酷くなっていく。 「だから……本気で夢追いかけなきゃ、五寸釘と藁人形で呪ってやるから!」 郁也はクスッと笑った。 「最後の最後まで滅茶苦茶な事言ってんじゃねーよ」 いつもの少し意地悪な郁也だった。 「じゃあ……そろそろ行くね」 郁也はそう言ってバスに乗り込んだ。 乗り込んだと同時に、旧式の古ぼけたバスはキィ―…と大きな音を立てて閉まる。 ザザザザ――…… 催涙雨は激しさを増す。 純の涙は抑えきれなくなってきている。 バスがどんどん見えなくなってきている。 催涙雨 七夕の夜に降る哀しい涙の雨――……
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208年 建安十三年(漢) 皇帝 劉協(漢献帝) 皇后 伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る) 三公(漢) 太傅:(空席) 丞相:曹操(前司空) 御史大夫:郗慮(前光禄勳) 太尉:(空席)→(廃止) 司徒:趙温(前衛尉・194~208) 司空:曹操→(廃止) その他の要職(漢) 太常: 光禄勳:郗慮→ 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大司馬:空席 大将軍:韓暹 驃騎将軍:張済 車騎将軍:楊奉 行車騎将軍:曹操 衛将軍: 地方官 冀州牧:曹操 荊州牧:劉表(192~208) 主な事件 建安十三年春正月、司徒の趙温を免じる。《後漢書孝献帝紀》 夏六月、三公の官を罷め、丞相、御史大夫を置く。癸巳、曹操は自ら丞相と為す。《後漢書孝献帝紀》 秋七月、曹操は劉表を南征する。《後漢書孝献帝紀》 八月丁未、光禄勳の郗慮を御史大夫と為す。《後漢書孝献帝紀》 八月壬子、曹操は太中大夫の孔融を殺し、その族を皆殺す。《後漢書孝献帝紀》 八月、劉表が卒す。劉琮が立つ。劉琮は荊州を以って曹操に降る。《後漢書孝献帝紀》 冬十月癸未朔、日食あり。《後漢書孝献帝紀》 曹操は船戦で孫権を討つ。孫権の将周瑜は烏林、赤壁に於いて之を破る。《後漢書孝献帝紀》 誕生者 死没者
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統合幕僚学校・高級幹部課程講義案 「『昭和の戦争』について」 福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長) 第二章 満洲事変への道 第二章 満洲事変への道第一節 対華二十一箇条要求問題 第二節 支那の「反日」攻勢と日本の忍耐 第三節 ワシントン会議の歴史的意義 第四節 ロシア共産革命の東アジアへの波及――最大の脅威の出現 第五節 ソ連=コミンテルンの東アジア攻勢と米国の東アジア介入 第六節 孫文の左傾化と第一次国共合作(一九二三年十一月から一九二五年三月) 第七節 ソ連の満蒙工作 第八節 蒋介石の反共クーデタ(一九二七=昭和二年四月二一日)と「北伐内戦」 第九節 幣原外交の空回り 第十節 田中外交の挫折 第一節 対華二十一箇条要求問題 さて、欧州大戦の初期一九一五=大正四年一月十八日、日本政府(大隈重信内閣)は「対華二十一か条の要求」を民国政府(袁世凱)に提示した。戦後の歴史家らは日露戦勝以後、増上慢になった我国の政治・外交が強圧的要求を支那に突きつけて反日感情に火をつけ日支関係に取り返しのつかない汚点を残したと酷評する事件である。 だが、歴史の事実は如何であったか。対華要求の目的は、第一に山東半島旧ドイツ権益の日本移管を問題、第二に日露講和条約でロシアから継承した旅順・大連の租借期限、南満洲鉄道経営権が八年後の一九二三(大正十二)年に期限切れなので、その延長交渉問題である、当然の外交対策だった。しかも、山東出兵は、英国の熱心な懇望、ドイツを追い出したらそこを日本に呉れようと言う甘言に応じたものであった。 山東半島旧ドイツ権益継承問題における交渉過程で大きな問題が生じた。支那政府当局者は、主要項目を承諾した上で、支那民衆を納得させる為だから、是非とも「強い要求」や「最後通牒」を出してくれと我が方に要望した(外相加藤高明、駐支公使日置益)。英国の後押しも有った事だし、それまでドイツが問題なく山東半島を支配していたのだから、疑問も持たずに日本政府は、態々「強い要求」を付加し、五月七日「最後通牒」を発し、支那政府は九日「受諾」した。五月二五日、山東省に関する条約、南満洲および東部内蒙古に関する条約など二十一か条要求に基づく「日華条約並びに交換公文」が締結された。 ところが、条約に調印しておきながら、そこは支那の領土だから返還せよと迫って来たのである。日本が「最後通牒」まで発して強要したと、民衆を煽り立てて反日機運を醸成し、また同時に欧米列国の同情を支那に向けさる工作にとりかかったのである。これを見抜けなかった政府・外務省の失態である。(注・東郷茂徳の回顧=『時代の一面』五頁。戦後の歴史を見る目のない歴史家たちは、わざわざ「日本の最後通牒に屈して」調印したとしている。例えば岩波日本史年表の表記)。日露戦後次第に対日姿勢を硬化させて来ていた米国は、「日華条約が支那の領土保全と門戸開放に違反すれば不承認の旨を日支両国に通知してきた。つまり、好機到来とばかりに日本非難、支那支援に出てきたのだった。 こうして、支那政府は、日本は横暴だと民衆を煽って「反日侮日」「日貨排斥」運動を起し、欧米列強にも「反日宣伝工作」を展開、パリ講和会議でも支那代表は、旧ドイツ権益を大人しく返還せよと要求し大きな国際問題にした。そこにソ連のカラハン宣言(後述)が出たから堪らない。国際世論は支那に同情的で、日本は不当に過酷な要求を「日華条約」で支那に力で押し付けた印象を与えてしまう。支那は、有利な国際環境を作り出し、民衆の反日侮日感情を大いに煽った。そこで、我国は早めに譲歩して、山東権益を漸進的に還付する方針で臨んだのである。米国も日本の立場に一応の理解を示した。一九一七=大正六年十一月には、「支那に関する日米両国間交換公文(石井・ランシング協定)」が取り交わされた。領土的に近接する支那大陸においては日本が《特殊の利益》を有すると米国は認め、日米両国は支那の独立・門戸開放・機会均等を尊重すると約束したのである。 第二節 支那の「反日」攻勢と日本の忍耐 「日華条約廃棄」「パリ講和条約調印拒否」の過激な叫び声は支那全土に拡大した。一九一九=大正八年五月四日、北京で発生した有名な五・四運動は、忽ち全国主要都市に波及し、『中華思想』から東夷と蔑んでいた新興日本への激しい嫉妬と憎悪、それに民族独立確立への願望は強烈であった。民族独立確立への熱望、それは我が方も良く理解する所であるが、我が国と支那の方法論には大きな懸隔があった。「以夷制夷」は支那民族の遺伝子(文明・文化)の中に強く深く埋め込まれている。我が国は国際関係においてもお人好しである、話せば分かる、「善隣友好」はわが遺伝子の中に組み込まれている。 支那人の悲哀も憤慨も分らない訳ではないが、我が国は西洋列強の強欲な侵略の威圧に対抗する際、敵の論理の中に入っていって、敵の理解と支援を取り付ける自助努力を重ねて、この第一次世界大戦の時代までには有色人種の民族として始めて白人西洋列強と対等の付き合いが出来るまでに漕ぎ着けたのである。ペリー艦隊の襲来から凡そ七十年であった。他方、支那は一八四〇=天保十一年の阿片戦争以降、ここに至るまでの凡そ八十年間、唯我独尊的な『中華思想』を改めず、殆ど効果の上がる自助努力もせず、国内統一も達成できず、況や、共和制国家と称してはいても、近代的国民国家には程遠い状態に有りながら、先進列強に平等・対等の権利を与えよと要求しても、理不尽と言うものである。支那の行動は自分の頑固な無分別を棚に挙げて、真面な国々に対して対等平等の権利を認めよと言う、言わば駄々っ子の言い草にも等しいと言う可きであろう。 国際政治は支那の我侭をそのまま許すほど甘くはない。果たせるかな、一九一九=大正八年六月調印のヴェルサイユ講和条約は、我邦の主張を認めた(第一五六条から第一五八条)。だが、支那人は横暴な自己主張を諦めないから、この問題は尾を引き、二年後に開催されるワシントン会議で再び重要な議題になる。一九二二=大正十一年十二月、結局、我国は、山東権益を略々全面支那に返還し、青島駐屯軍も完全撤退したのである。 第三節 ワシントン会議の歴史的意義 一九二一=大正十年十一月から翌二二年二月まで開催されたワシントン会議は、簡単に言ってしまえば、東アジアで上昇気流に乗る小強国日本を抑えたいと焦る米国の為の国際会議だった。主要な条約は三つある。先ず、海軍軍縮条約(主力艦、米英日の五・五・三比率、十年間主力艦の建造停止)である。太平洋の対岸にある日本が海軍力を増強して米国の脅威にならないようにとの思惑がある。次に、太平洋問題に関する四カ国条約では太平洋の勢力範囲の現状維持であり軍縮条約を担保するもので、日英同盟は必要なくなったとの理屈で廃棄された。これも米国の思惑通りだった。第三は、支那に関する九カ国条約で、「支那の主権・独立・領土的ならびに行政的保全を尊重すること」「支那における門戸開放、機会均等の主義を一層有効に適用すること」が主旨であった。米国が日清戦争直後から主張し続けて来た『支那に関する門戸開放・機会均等の原則』を列国が承認したものとなり、米国の要望で五年前の石井=ランシング協定は存続理由が希薄になったとして廃棄された。要するに我が国は米国に理想主義的アジア政策に大幅に譲歩したのである。それは、後で見る全権大使幣原喜重郎のふやけた理想主義による譲歩であった。第一次大戦で米国が新しい覇権パワーになって来たという現実を、ワシントン会議は見せ付けた。 要するに、米国は我侭な支那を哀れみ、理想主義的国際関係論を以て保護する姿勢を列国に有る程度認めさせることに成功したのである。米国は自分の御膝下の中南米、カリブ海諸島、ハワイ諸島、フィリピン諸島に対しては如何であったか、ここでは言うまい。いずれにせよ、米国にお節介的理想主義から出てきた九カ国条約で我が国は、山東半島における旧ドイツ権益を大部分放棄した。こうして、米国の主導で、我国は日英同盟を失い、支那問題に関しては、実に窮屈で頭の痛い問題を抱え込んだことになったのであった。(注)外交官石井菊次郎の評価。 第四節 ロシア共産革命の東アジアへの波及――最大の脅威の出現 一九一七=大正六年十一月、共産ロシア政権が成立した。その二年後の丁度欧州大戦が終結した一九一九=大正八年三月にモスクワに国際共産主義インターナショナル(第三インターナショナル、通称コミンテルン)が設置された。世界各地の共産主義者を集めた世界共産革命指令本部であるが、その本質はソ連政府(クレムリン)の別働隊である。 この年七月、ソ連政府は「支那に対する宣言(カラハン宣言)」を発して、民族自決の原理に基づき、帝政ロシアが支那から掠奪した領土・利権、不平等条約等々を放棄・撤廃すると宣言した(カラハンはソ連に外務人民副委員長)。翌年に同様の趣旨の第二次宣言が発表され、支那の上下は歓喜に沸き立ち、一九二四=大正十三年五月の蘇支国交樹立に結びついた。ソ連は、帝政ロシア時代の特殊権益や義和団事変賠償金を放棄した。だが、北満洲の権益、中東(東清)鉄道権益は以前のままだった。孰れにせよ、共産ロシアの派手な対支融和外交は、正にこの時期、我国と支那の間には「日華条約問題」「山東権益継承問題」が紛糾していたから、支那を大いに元気付けて、日本帝国主義及び帝国主義列強への激しい反抗運動を活気付かせた。 なお、米国政府が「排日移民法」を制定したのは、二十四年五月である。また、支那問題をめぐり日米が利害対立の様相を深める情勢は、共産ロシアに好都合だったことを確認しておこう。共産ロシア政権が成立した直後にレーニンが構想した、『敵と敵を戦わせる』『帝国主義列強同士を噛み合わせる戦略』=「社会主義の勝利に至るまでの基本原則は、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これら諸国を互いに噛み合わすことである」(注・一九二〇年十一月、モスクワ共産党細胞書記長会議)、及び『アジア迂回戦略』「最初にアジアの西洋帝国主義を破壊することによって、最終的にヨーロッパの資本主義を打倒する」、がその基本戦略である。(注・カワカミ三二頁)。カラハン宣言は、その第一弾だったと言える。 第五節 ソ連=コミンテルンの東アジア攻勢と米国の東アジア介入 一九二一=大正一〇年七月に支那共産党、翌年七月に日本共産党が結成された。何れも「コミンテルン(支那・日本)支部」である。何故かといえば、ソ連政府=コミンテルンの究極目標は、全世界の共産主義革命を完成することだ(三田村一九頁)。マルクスの共産主義思想に国境はない。万国の労働者は団結せよであり、国家と言う存在は資本主義時代までのもので、世界共産革命が達成される暁には地球上から国家は消滅すると御託宣している。だから、共産主義者は、共産革命の祖国=ソ同盟の有り難い指導の下に自分の生まれ育った祖国を解体・撲滅する運動に嬉々として邁進するのである。一九二〇年代早々から、ソ連・コミンテルンの支那共産革命謀略で大陸の内戦は拡大し混迷を深めたのである。 他方、米国は本格的に東アジア(支那大陸)への介入(進出)を強化し、今や支那大陸では、ある勢力は公然・隠然とソ連=コミンテルンに指導され、またある勢力は米国の支援を得て、勢力を増大しようとの動き出した。こうして、支那大陸は米ソの介入で益々「不気味な伏魔殿」の様相を色濃くして行った。一九二〇年代は、正に満洲事変への道の出発点である。共産ロシアや米国の介入による東アジア情勢の深刻化が、我が国の大陸政策を困難にさせて行った最も重大な原因だったのである。(注・戦後の歴史学界は、この重大な事実を隠してきた) 第六節 孫文の左傾化と第一次国共合作(一九二三年十一月から一九二五年三月) さて、袁世凱に敗北した孫文は、一九一四=大正三年七月、日本に亡命、東京で「中華革命党」を結成した。だが、運動は失敗続きだった。ところが、一九一九=大正八年七月にカラハン宣言が支那人の気持ちを捉えた頃から孫文は、急速に左傾化する。勿論、ソ連=コミンテルンの誘いに乗ったのだ。一九二三=大正十二年一月に孫文・ヨッフェ(ソ連外交代表)共同宣言が発せられた。宣言は「支那には現在ソビエト制度を成功させる条件は存在しない。支那当面の最大の課題は、統一を完成し、完全な国家の独立を完成することであり、ソ連はこれを支援する」と謳っていた。共産ロシアは、民衆に高い人気の孫文を利用して支那共産革命を促進する腹だったのである。ソ連は、同年一〇月に孫文の政治顧問としてボロディンを送り込んだ。同月、「中華革命党」を改組して「支那国民党」とした。コミンテルンの強い影響下に国民党が成立したことは注目しなければならない。 孫文は広東に政府を組織、一九二四=大正十三年正月の第一回国民党全国大会で「連ソ・容共・扶助工農」を基本政策に掲げて、国共合作(第一次)して支那民族統一運動を推進すると宣言した。(レーニン没→スターリンが権力継承、カワカミ『シナ大陸の真相』三三頁)。孫文はコミンテルン=共産勢力に取り込まれた形である。支那共産党員は革命顧問ボロディンらの指揮に従い、巧みに国民党の要職に侵入して行く。この年六月広東郊外に黄埔軍官学校が開校、総裁孫文、校長蒋介石、政治部主任周恩来、顧問ロシア人(コミンテルン派遣員)ガレン(ブリュッヘル将軍)と言う陣容で出発した。この学校は、国民党、共産党両方に多数の高級軍人を輩出した。 なお、ソ連=コミンテルンの指導で、一九二六=大正十五〔昭和元〕年十一月、支那南部で反英闘争の猛威が荒れ狂った。その最中にブハーリンはモスクワで《コミンテルンは、支那共産革命の創設に努力を集中すべきである。支那革命はヨーロッパ、取り分け英国の資本主義に決定的な打撃を与えるための必要条件として不可欠である》との声明を発した(注)カワカミ三三頁。また、「一九二四=大正十三年の蘇支国交樹立後、早速ソ連北京大使館付陸軍武官の事務所にソ連軍事センターが組織された。その任務は支那の様々な政治・軍事団体に資金と武器の配分を監督することであった」(カワカミ三五頁)。 第七節 ソ連の満蒙工作 それより先、一九二一=大正十年には、ソ連軍は白系ロシア人追撃を名目に外蒙古を侵略して「蒙古人民革命政府」を樹立、大正十三年には「蒙古人民共和国」という純然たる衛星国とした。孫文はこれを容認していた。ソ連はさらに、共産党満州支部に武装暴動蜂起を指令して、一九二四=大正十三年四月には、「全満暴動委員会」を組織させ、共産パルチザン(極左暴力革命集団)活動を推進し、その拠点を満州一帯に広げ、満州に作られた共産軍遊撃区が彼らの活動拠点である。反日活動を展開するパルチザン部隊は数十名を単位として絶えず移動して放火、略奪、暴行事件を頻発していった。 張作霖の北京政府は、共産分子の跳梁跋扈に脅威を感じ一九二七=昭和二年四月、北京ソ連大使館を一斉捜索して秘密文書を押収した。それには支那共産革命推進の様々な工作、就中孫文に樹立された広東国民党政府を後援する旨が記されていた。なお、ソ連は、北京政府(張作霖)を攪乱する目的で、惑星的軍閥馮玉祥にも武器弾薬や軍資金を供与し「騎兵隊学校」を設立させた。黄埔軍官学校も同様だが、カミによればこの学校も、「ただ単に軍事的な目的のために学生を訓練することではなく、革命的・共産主義的思想を彼らの心に植えつけることであった」(三七頁)のである。 第八節 蒋介石の反共クーデタ(一九二七=昭和二年四月二一日)と「北伐内戦」 一九二五=大正十四年三月、孫文が病没した。国民党左右両派の対立は激化した。一九二六=昭和一年三月に蒋介石は広東国民政府部内の共産分子の粛清に着手、ここに第一次国共合作は終焉した。 蒋介石は、同年七月、国民革命軍を率いて支那統一を目指す「北伐」に立ち上がり、二七=昭和二年一月三―五日には漢口英国租界、六日には九江英国租界を実力奪還する漢口・九口事件を起した。さらに三月二十四日には北伐軍は南京を占領して列国領事館を襲撃や市内で虐殺・略奪・暴行を働き我が在留邦人も惨害を蒙った(第一次南京事件)。日本領事(森岡正平)の「無抵抗主義」が惨害を大きくした。英米日軍艦の報復砲撃。襲撃終息。荒木亀男大尉の自決。国内に幣原外交は軟弱過ぎると憤る声が高まった。 丁度この頃、ボロディンらは国民党右派を切り離そうと同年二月、国民党左派と共産党党員らに武漢政治を作らせた。「北伐」途上で危機感を強めた蒋介石は、上海で反共クーデタ(四・十二クーデタ)を敢行、武漢政府と絶縁、広東から共産党員及びシンパを撃退した。このクーデタの背後には米国の支援工作が潜み、蒋は米国から大量資金援助を得ている。当時の日本政府が、以上のように複雑怪奇な支那大陸の内乱にソ連や米国が絡まる政治状況を如何捉え、如何対処しようとしたか。問題はこれである。 第九節 幣原外交の空回り 正にこのように困難な時期に、幣原外交と言われる「親英米外交」「対支宥和外交」が、第一期=一九二四=大正十三年六月から一九二七=昭和二年四月まで、第二期=一九二九=昭和四年七月から一九三一=昭和六年四月まで都合六年間に亙り展開された事は、大正・昭和史の大失態であったと私は思うのである。 幣原喜重郎の外交理念を彼の演説で確認しよう。一九二二=大正十一年、ワシントン会議全権幣原が最終会議でした演説は、「日本は条理・公正・名誉に抵触せざる限り出来得る丈けの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だとは思わない。日本はその提供した犠牲が国際的友好と善意の大義に照らして、無益になるまいと言う考えの下に喜んでいるのである」「日本は国際関係の将来に対し、全幅の信頼を抱いてワシントンに来た。日本はこの会議が善い結果をもたらしたと喜んでいる」と底抜けの楽観論を述べている。(幣原平和財団『幣原喜重郎』二五四頁)。 善意と条理に従い支那に譲歩すること、日本が犠牲を厭わないことで日支友好関係の構築が可能だと幣原が楽観しているのが良く判る。幣原は米国の思惑も、支那民族の異様な個性と我が国への嫉妬心も左右対立の混迷も、そして支那諸勢力の背後に在って共産革命に導こうと蠢く空恐ろしいソ連の謀略工作も視えていない様子だ。支那大陸の現実は、とても楽観できる状況ではなかったのである。大正デモクラシーの楽観的思想状況と幣原外交との関係、実に興味深い問題ですが、ここでは割愛する。 第十節 田中外交の挫折 一九二六年=大正十五年七月(大正天皇崩御による昭和改元は十二月二五日)、蒋介石の「北伐」が本格的に動き出した。支那南北の大内戦で、共産党の内戦煽動謀略も絡んでいる。我国としては、満洲権益の保全と在留邦人の安全確保に兵力を増強せざるを得ない。満洲は「生命線」だと認識する関東軍将校や満蒙に関心の深い政治家・活動家が、混乱が満洲に波及するのを恐れたのは当然だった。 若槻内閣に代わって登場した田中義一首相は、一九二七=昭和二年六月中旬から九月まで華北の在留邦人保護のために山東半島に派兵した。この第一次山東出兵は、蒋介石軍の北上を抑えたが、この機に乗じて北方軍閥は南下の気勢を上げたので、南北両軍が接近して山東情勢は更に緊迫化した。支那の共産勢力はこれを好機会と捉えて、南北内戦の激化を工作し、また同時に民衆に対して「排日・侮日」気運を煽り立て、その混乱は支那各地に広く波及したのである。 そこで、六月下旬、田中首相兼外相は、東方会議として知られる「満支鮮出先官憲連絡会議」を開催、支那対策を協議した。協議の主題は「蒋介石の《北伐》に如何に対処するか」、及び「満蒙における日本の特殊地位とその治安対策」であった。協議の結果は、七月七日に田中外相訓令=「対支政策綱領」として公表された。 内容は、(1)支那の内乱・政争に際し、その政情の安定と秩序回復は「支那国民自ら之に当ること最善の方法」、我邦としては「一党一派に偏せず、専ら民意を尊重し、苟も各派間の離合集散」には干渉しない、(2)「満蒙、殊に東三省方面に対しては、国防上並国民的生存の関係上、重大なる利害関係を有するを以て、………同地方の平和維持・経済発展に依り、内外人安住の地たらしむることは接壌の隣邦として特に責務を感ぜざるを得ず。然り而して、満蒙南北を通じて均しく門戸開放・機会均等等の主義に依り内外人の経済的活動を促すことは、同地方の平和的開発を速やかならしむる所以にして、我既得権益の擁護乃至懸案の解決に関しても、亦右の方針に則り之を処理すべし」、(3)「万一、動乱満蒙に波及し治安乱れて同地方に於ける我特殊の地位・権益に対する侵害起こる虞あるに於ては、其の何れの方面より来るを問わず之を防護し、且内外人安住発展の地として保持せらるる様、機を逸せず、適当の措置に出づるの覚悟」だとの決意を表明したのである。 かくして、我が方は山東半島派遣軍を撤収した。ところが、蒋介石は翌二八=昭和三年四月に再度の大規模な「北伐」を実施、山東方面の状況が再び険悪化した。そこで我が政府は第二次山東出兵を断行、遂に五月三日、日支両軍は済南で軍事衝突したのである(済南事件=さいなんじけん)。蒋介石政府は、日本の山東出兵と済南軍事衝突事件は国権侵害の侵略行為であると、国際連盟に提訴した(五月十日)。その一方で「北伐」を継続、北京に迫り、張作霖を急迫した。日本政府としては蒋介石の「北伐軍」が満洲に進軍することを真剣になって警戒せざるを得なくなった。 五月十八日 政府は、支那南北両政府に対し、戦乱が満洲に波及する場合は、治安維持のために適当且有効なる措置を執るとの通告を発し、張作霖に東三省(満洲)帰還を勧告した。これは南北両政府の態度を硬化させ双方ともが我が政府の勧告に激しく反発・抗議した。また、米国務長官は、日本は支那に内政干渉するなとの声明を発した。済南軍事衝突を境に、支那の排外運動は、主なる攻撃目標を英国から日本に一転した。(産経新聞180419号) 田中内閣の山東出兵は北支(華北)の治安の混乱を憂いて満洲(東三省)の特殊地位・権益の擁護と居留民保護のための出兵だった。だが、支那の複雑な内戦状況の中で、南北両軍の軍事行動は勢いを増す一方で、何とか華北に平穏をと願う我邦の行動は、却って南北双方の反日機運を高めることになり、実に不利な立場に追い込まれた。なお、田中内閣が山東出兵に踏み切った直後に、コミンテルンは日本共産党に天皇制打倒の「革命指令(二七年テーゼ)」を発していることの意味は大きい。 なお、「田中上奏文」なる偽文書の問題がある。この田中義一の対支外交は幣原対支外交に比べれば強硬だが、その内容はこのように穏当なものであった。ところが、「田中上奏文」なる偽文書がこの時機にどこからもなく登場した。コミンテルンが作成して世界にばら撒いたとの説が有力だ。その内容が、一例としては既に他界している山県有朋が出てくる点など事実関係から大きく乖離している点、また文書の形式、言葉遣いから、当時から既に偽文書であることは知る人ぞ知る常識であった。だが、欧米世界では夙に有名になり注目され、米国にメディアは大々的に扱った。日本が大正末年ころから世界征服を構想していた証拠として何と東京裁判の証拠資料とされたのである。東方会議の内容を直視すれば、全く為にする偽装文書であることは明白だ。だが、日本の左翼は戦後これを日本侵略戦争の証拠資料として扱い、また共産支那政府はつい最近までこれが日本の大陸侵略の証拠資料だと言い張っていた。ソ連=コミンテルンの日本帝国攪乱工作は内外からヒタヒタと進展していたことを重視すべきである。 統合幕僚学校・高級幹部課程講義案
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辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 名詞 外部からの侵入を防ぐために、柵をめぐらして区切ったところ。とりで。しろ。 ※書紀(720)欽明二三年七月・歌謡「韓国の 基(キ)の上(へ)に立ちて 大葉子は 領巾(ひれ)振らすも 大和へ向きて」 城・柵 広辞苑 名詞 敵を防ぐための構築物。垣や堀など。城塞。 垂仁紀「稲を積みて―を作る」。播磨風土記「―を掘りし処は」 柵・城 大言海 名詞 〔 限 (キ)リノ語根、朝鮮ノ古語ニモ、城邑ヲきト云ヒキ〕垣ヲメグラシ構ヘテ、內外ヲ限リタル處。(倭名抄ニ音讀シテ、 柵 (サク))敵襲ヲ防ガムガ爲ノモノナリ、コレガ發達シタルガ、 城 (シロ)ナリ。 神武卽位前紀 十六 「作 レ 城 (キ)處、號曰 二 城田 (キダ) 一 」垂仁紀、五年十月「積 レ 稻作 レ 城、其堅不 レ 可 レ 破、此調 二 稻城 (イナギ) 一 也」皇極紀、三年十一月「家外作 二 城柵 (キカキ) 一 、門傍作 二 兵庫 一 」孝德紀、大化四年四月「治 二 磐 舟柵 ( ノキ) 一 、(越後)以備 二 蝦夷 一 」齊明紀、六年三月「據 二 己柵 ( ガキ) 一 戰」萬葉集、二十 十八 長歌「筑紫ノ國ハ、寇守ル、 抑 (オサヘ)ノ 城 (キ)ゾト、聞コシメス」 柵・城 検索用附箋:名詞人工物 附箋:人工物 名詞