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目次 1.正義の教えは両刃の剣 2.かつて裁きの神エホバとして名を残した高橋信次 3.イエスの時代は「愛の時代」であった 4.モーゼの時代は「正義の時代」だった 5.釈迦の「慈悲の時代」と孔子の「秩序の時代」 6.神理は七十二面体カットのダイヤモンドのように光を放つ 7.正義の時代のエホバは「偶像崇拝」を排斥した 8.あの世から見れば邪宗はすぐ分かる 9.神仏は崇るか 10.天変地異は地球の生命体の自浄作用 11.アトランティス大陸沈没の真相 12.本当の裁きの神とは個々人の内部神性 13.人を裁くよりも彼らの良心を信じよ 1.正義の教えは両刃の剣 今日はいよいよ第4章ですね。四日目になりまして、正義の時代ということについてお話をしたいと思うのです。現在はね、宗教を見てみると、とくに日本の宗教を見てみると、正義ということが忘れられているような感じがするのですね。まあ正義って何かというと、正しく筋が通っていることということですね。あるいは正しい者は要するに、屈してはならない。筋を通さねばならぬと、この世的にも勝利をせねばならぬということね。これが正義です。これが、今ちょっと薄れているかもしれません。 まあ正義というのが今、残っているとすれば日蓮宗系ですね。これはやっているかもしれない。日蓮さんの教え、過去説いたという教えに関しては結局、何と言いますかね、正しいのは、これしかないんだということで、他を折伏(しゃくぶく)する。説得して、それに改宗させると、こういうことを今だにやっていますね。連綿(れんめん)と七百年やっとるわけです。まあこれは、一つの正義の顕(あらわ)れかもしれません。 ただ正義ということはね、非常に難しいところがあるんです。この世的にいいものというのは、どれも諸刃(もろは)の剣、両刃の剣であって、いい面もあるけれど、悪い面もあるというところがあります。正義の持つ二面がまさしくそうですね。 いい面としては、本当に神理が正しいものを正しいとして、太陽のもとで認められると、太陽のもとに正しいものはこれしかないと、こういうことが明らかになるという意味でいいですね。 悪い面は、これが正しくて、これは間違いだというのは、非常にくっきりと、はっきりとなるために争いを呼びやすいと、こういうところがあるのです。これがあやうい面です。まあそういうふうにいろいろ見てくると、正義の悪い面も、いい面も両方ありますね。 2.かつて裁きの神エホバとして名を残した高橋信次 歴史的には、たとえばモーゼの時代、まさしく、これは正義の時代でした。正義の時代の神っていうのは、何かというと裁(さば)きの神でしたね。裁きの神ということで、ヤーヴェの神というのが出て来て、短気で怒リっぽくて、不寛容で、要するに言うことを聞かないと怒っちゃうと。まあ、こういう神様がおりましたね。 谷口雅春さんの霊言集というのが先般出たようですけど、谷口雅春という方は、大ベストセラーの『生命の実相』を書かれたり、いろいろな本を書かれているけれども、彼は昔、大昔から「エホバの神って、ありゃ邪神(じゃしん)だ」と言っておられたそうです。なぜ邪神か。「妬(ねた)みの神、怒りの神、こんなのおかしい。なんで神様が妬むことがあろうか。怒ることがあろうか」そりゃそうですね。宗教人の常識から言えば、そうです。ですから谷口さん、そう思ったんでしょう。 ところがあの世に来てみると、その妬みの神、怒りの神が、こっちにいましてね。「いやあ谷口さん久しぶりですね」と言って待っているのですね。「もしかして」なんていうとね。「あなたが邪神といわれた方は、この私なんですよ」「ああやっぱりそうですか。GLA起こした高橋信次。やっぱり邪神だと思ったら、ああそうですか。私も高橋信次って名前は知っていたが、これは邪神だと思っていましたよ」なんてね。こういうことを言われることがあります。 それはね、神理の一面だけ見ているから、そういうふうになるんであってね、別に谷口さんがどうこうっていうことじゃないんです。まあ、時代時代があるんですね。法というものも時代に合わせていろんな説き方をされるんです。そして神理のいろんな面が出てくるんですね。 3.イエスの時代は「愛の時代」であった イエス様の時代には、つまり二千年前のイスラエルの時には、愛という点を全面に押してきましたね。愛という面ですね。イエス様は愛以外説けないかというと、そんなことはないです。もちろん何でも知っています。万能とまでは言えませんけれども。イエス様はそれは大工(だいく)仕事は知ってても、スペース・シャトルの組み立て方は知らないかもしれません。けれども、まあ彼の時代は愛ということを中心に説いた時代でした。 4.モーゼの時代は「正義の時代」だった あるいはイエス様の千百年か千二百年前のモーゼの時代っていうのは、これは、正義の時代だったのです。正しい者が強くなければならぬという、正義の時代だったんです。あるいは「義」、「義の時代」だったわけです。 5.釈迦の「慈悲の時代」と孔子の「秩序の時代」 釈迦の時代って何か。二千六百年ぐらい前ね。釈迦の時代っていうのは、「慈悲の時代」、あるいは「法の時代」、こういうことなわけです。 あるいは中国の孔子様って何ですか。儒学(じゅがく)ですね。あるいは儒教。儒教って何だろう。立身出世なんてあるけれども、人間としての完成の道ですね。それを中心に説かれた。主に道徳的に、あるいは人間の知性と理性に訴える形での「秩序」、そういうものを説かれましたね。 同じく秩序を説かれたのは、日本だと古代の天之御中主之神、天照大御神様、こういう方がたが秩序と礼節ということをしきりに説かれました。 6.神理は七十二面体カットのダイヤモンドのように光を放つ こういうふうに、神理は本当はいろいろな面があるんですよ。ところが、それをいっぺんに全部出しても分からないし、特色がないから、何か一つの特色を出すんです。その時代に。 出版社なんかでもそうですよ。今、日本に出版社何千あるか知らないけれども、みんな同じような本を出していたら、意味がないのです。それぞれの出版社に特徴があるから、それでいいんですね。 たとえば、こういう霊言ものでもそうです。ある出版社は本当に内容がいいような、諄々(じゅんじゅん)と説得するような内容のものしか出さないという出版社もあります。 あるいは悪霊専門でね。悪霊でもなんでもいいと。とにかく売れればいいと。悪霊篇でよく出している出版社もあります。 あるいは予言がやたら好きで、予言ばっかり出している出版社もあります。 こういうふうにいろいろあるのですね。霊的なものが好きといっても、こういうもんであって本当にいいのです。特色があってね、それぞれがやる意味があるんです。 だから私たちの法というのもそうで、いろいろな時代にいろいろな面が出てくるんです。ですからそれを、あるものは正しくて、あるものは間違っているなんて言ったら、これは違うんですね。そうじゃありません。 やはり、ダイヤモンドみたいなものでね。ダイヤモンドでもいろいろなカットの仕方がありますね。十二面体、二十四面体、三十六面体、七十二面体。私は持ったことがなくて知らないから、人づてに聞いたことでしゃべっているんだけれども。三十六面体カットとか、七十二面体カットとかいろんなのがあるんでしょ。持ったことがないのでよく分からないんですが、一度ぐらい手にしたいと思うんですけれども。そういうカットの仕方がある、と聞いています。 そういうふうに神理っていうのは同じようなものなんですよ。多面体なんです。そしてそれぞれの面が、いろいろな時代に、地域に合わせて、チラチラ出てくるんですよ。そして、その面を通してね、ダイヤモンドを感じ取りなさい。そういうことなんですよ。 そういう意味で、神理が七十二面体だとするとね、七十二面体の一つが、たとえば「愛」であり、「礼節」であり、あるいは「慈悲」であり、あるいは「義」であると。こういう一つ一つの面なのです。 あるいは里見ハ犬伝みたいなのを出してくりゃあ、「忠」だとか「孝」だとかいっぱいあります。昔からあるものは、「仁」だとか「信」だとかあります。こういうのが面なんです。こういう面がチラチラ出てくるんですね。 7.正義の時代のエホバは「偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)」を排斥した じゃあモーゼの時代、つまり、正義の時代のエホバ神というのは本当の邪神であったか。これの検討に入らねばならぬと思います。そうじゃないんです。皆さんは、今の時代だからそう思うだけでね。当時はそうじゃなくて、非常に人殺しのはやった時代なのです。それと今もありますけれども、いわゆる邪教、本当に間違った信仰というのが多かったのです。 とくに人びとは偶像崇拝というのをやっていまして、要するに金儲けの神様です。今流に言えば、銭儲けの神様を一生懸命信仰しておったのです。まあバール信仰なんていうのもそうですけれども、分かるように言えば「招き猫」ですね。招き猫の信仰というのをやっておったのです。 皆さん今、招き猫の大きいのを、五メートルぐらいのを作ってね、これを本部にすえて、招き猫の前でみんなで右手なんか曲げちゃって、「はい、これが招き猫のポーズですよ」「これが正しい精神統一の方法です」と。 ご本尊の招き猫の前で、こうみな手を立てちゃって、「はい、これで商売繁盛です。儲かります、儲かります。招き猫です、招き猫です」と、これをやっとるわけです。とんでもないです。 こういうのを見ると天上界からエホバの神は、「そういう間違った信仰はやめなさい。招き猫なんか、いくら拝んだってあなた方、本当に正しい生き方できないんですよ。本当に神理っていうのが分かんないんですよ」と、そういうことを言ったわけです。「そういう招き猫なんかやめて、人間としてちゃんと働きなさい。汗水たらして朝から晩まで働きなさい。そして人とうまく調和しながら生きていく中に、人間としての繁栄があるのです。本当の発展があるんですよ」と。 だから招き猫は打ちこわして、捨てちゃって、猫の一匹や二匹飼ってもかまわんけれども、そうぃう猫におこぼれあげるくらいの収入を得るように、ちゃんと働きなさいよ。そういう招き猫を拝んで利益を得るよりは、あなた方日常生活の中で、日々コツコツと努力し商売し、他人との関係を調和しながら、立派になっていきなさい。それが最高ですよと。まあこういうことを教えたわけです。 その時にたとえば、こういうようにエホバ神はね、「我以外には神なし」と。「招き猫と我とは違うぞ」と。「諸君よ、招き猫の神は偽物(にせもの)である」と。「招き猫の神は捨てなさい。我以外に神としてはならぬ。拝んではならぬ。奉(たてまつ)ってはならぬ」と言ったわけです。じゃあこれは妬(ねた)みの神だから邪宗かっていうとそんなことはないですよ。 別に、招き猫と私は競争しているわけじゃなかったんですけど、そういうのはおかしいですと。招き猫のお化けなんか飾っちゃいけないのです。そういうことを言ったわけで、まあ、これを称して「妬(ねた)むもの」というのは勝手です。「妬むもの」というのは言い過ぎであってね、「我は排斥する者」と。要するに「我は悪しき者を排斥する」するという意味ですね。 ですから、寛容ということも宗教には大事です。けれども、かたや左側には高橋信次の肖像画をかかげて、右側に招き猫の、五メートルかね、実物大以上かね、招き猫のお立ち台か何かつくっちゃって、両方に手を合わせちゃったりして、こっちも正しい、あっちも正しいよ高橋信次っていうのは高電工業で金儲けうまかったけれども、他人に金儲けはあまり教えなかったと。そういったところで法に欠陥があると。そういうことで、招き猫の神というのは、その欠陥を埋めるに余りあるご利益(りやく)がある方たっていうんで、高橋信次の肖像に向いて、経典の「心行(しんぎょう)」なんか読んじやって、「大宇宙、大神霊、仏よ」なんてやっているんです。 そしてそれが終ったと思ったら、じやあ、ちょっと次は銭儲けの方をやらなきやって、チーンと叩きながら、「ハイ招き猫ね。今日は、これが目刺しの頭の残りですよ。これでご利益下さいよ」とやったら、やっぱり高橋信次の肖像画が、ガタガタガタガタゆれ始めてね、「こら、何やってるんだ、そんなことをしちやダメだぞ」と。「俺だってあなた、目刺しの頭ぐらい食べたいぞ。こっちへ持ってこい」なんて、やっぱり言うわけですよ。そして、「その招き猫やめなさい」なんて、言うわけです。まあ、これを妬みの神と言うか、目刺しの頭食べたいといって妬んだか、まあ言い方はあるでしょうけれども。 8.あの世から見れば邪宗(じゃしゅう)はすぐ分かる まあ、こういうのは方便でありまして、やはり正しい信仰に帰依(きえ)しなさいということだったわけです。 私たちから見ると、つまりあの世から今の地上を見ると、邪宗、邪教というのはよく分かるんです、間違っているのは。とくに「光の天使」たちが指導している宗教というのは、これは、すぐ分かるけれども、光っていない「曇りの天使」たちね、頭が真っ黒になった霊たちが指導している宗教団体というのも、すぐ分かっちゃうんです。 だから本当は、正直な人間であれば、「それはちょっと違ってますよ」と本当は教えたいんですね。本当は教えてあげたいんです。「その教えは違っていますよ。そんな方に行ったら、あなた、もうトントントンと地獄のいちばん奥の方まで行っちゃいますよ。それでいいんですか」なんて、ほんとうは言いたくなるんです。 だからたとえば、私は天上界でも、新聞は非常に興味を持って読んでいるんですけれども、今日の読売新聞を天上界から眺めてみると、ある密教食をつくった宗教家が、薬事法違反で摘発されていました。そういうのを私は見てました。「オー、やったな。とうとう見つかったねえ」なんてね。 一時期十年ほど前から密教食ブームなんてあってね、これを食べれば念力がついてくるなんて言って、健康になって念力がついてきて、念力で護摩(ごま)の火がたけると。念力で大学に合格したり、彼女を射止めたり、念力で給料が増えたりいろいろすると。こういうことで、密教食を食べながら数珠(じゅず)をもんでたら、だんだん力がついてくると。まあ、こういうのを言っているところがあります。 こういうのをあの世から見てみたらいろいろ分かるわけです。「その密教食、薬事法違反にそのうちなりますよ」とね。まあそういう余計なことを言わなくてもいいんだけれども、「あんまり、そちらの方向へいって念力つけたって、下の方のチャクラばかり開いちゃって、本当の精神統一できませんよ」と。たとえば、あの世からエホバ神ならぬ高橋信次がお節介にも言うことができるんです。 ただそういった結果、どうなるかというとね、「あー、高橋信次は多分、密教食を食べたくてしょうがないのに、あの世で手に入らないので、それでひがんでいるに違いない」と。「高橋信次の墓の前に密敷食を持っていって、それをパックにして置いてやったら、多分喜ぶに違いない。時どき、一日一回、水をかえてやったら喜ぶだろう」と、たまには花の一つもかえてやろうか」と。「多分ひがんどるんだから、妬みの神だから」と。まあ、こういうふうにとる人がいるでしょう。そういうわけじゃないということです。 ですから、あの世から見てると、この地上の中で、おかしいのがよーく分かるんです。それを正直に言い過ぎると、妬みの神になっちゃうわけです。あるいは怒りの神になっちゃいます。 9.神仏は崇(たた)るか あと、よくありますね、神仏が人を罰するか。天変地異っていうのは、神仏の怒りであるかどうか。これについても私は、答えとかねばいかんと思います。まあよく新興宗教でも多いですね。「うちの宗教を脱会すると、脱宗すると神の怒りにふれて、お前に祟(たた)りがあるぞ」と。いわゆる「崇り」ですね。 崇リの問題について、崇りは本当にあるかということをちょっとのべておきましょう。神仏、あるいは高級霊たちが崇りを起こすかというと、絶対、これはあり得ないです。私はこれをはっきり言っておきます。崇りはありません。 だから、たとえ、高橋信次のご遺影にね、お小水をかけたとしても、私は面白くないのは当然ですけれども、それで崇ってね、夢枕に出てきて、その人をこらしめて、あと腰か何かに取り憑(つ)いちゃって、腰がたたないようにするかというとそんなことはしないです。いくら何でも、私もそんな暇じでありません。 ところが、そういうことをする霊もあります。それは地獄霊たちです。とくに動物霊たちがそうですね。動物霊たちは、よく分かんないから、無礼をされたからとか、「あの野郎失礼を働いた」なんて、こういうことで怒ることもあります。よく社(やしろ)なんかありますね。お孤さんなんか祭ってあります。それで稲荷大明神を祭ってあるところに本当に稲荷大明神がいるかっていったらいやしないのです。そこにいるのはたいてい狐の霊です。 動物霊たち、それもたいてい餓鬼地獄(がきじごく)に堕(お)ちた狐の霊たちで、お腹空(なかす)かしているのですね。お腹空かして、ひもじいひもしい思いでいます。そして人が何とかしてね、油揚げでも何でもいいから奉(まつ)ってくれないかと思っているんです。彼らはもちろん食べることはできないけれども、油揚げを供養(くよう)するというような気持ちだけでね、それで満腹感が少しはあるから、それが欲しくてそういう大明神の社にいるんです。 で、そこに来ていろいろな人が手を合わせたり、ご飯持ってきたりすると喜んでいるわけです。 ところが不埓(ふらち)な者が来て、「何だこんな稲荷犬明神、こんなものあんた、信しんぞ、俺は」と言ってね、放言してぺーっと唾(つば)をはいて帰ります。すると稲荷大明神ならぬお狐様は怒っちゃいますね。「この野郎、俺に対して失礼なことをしたな。これは許せん」ちゆうんで、頭に取り憑(つ)いてきます。そうするとその人は、一晩寝ると、翌日あたりから頭が痛くて痛くてしょうがない。そして肩が凝(こ)って凝ってしょうがない。腰が痛い。こういうことになってきます。 ですから地上の皆さん、信仰している人も、していない人も、急に頭痛がしたり、頭痛持ちで、頭が割れるように痛い、あるいは肩がいつも重い、肩が凝る、こういう人というのはよく狐霊に憑かれています。よーく反省してみなさい。 そして腰が重い。あるいはリューマチね、足が冷える。こういうのは蛇の霊が多いです。とくに冷え性というのは蛇の霊が多いですね。冷え性の方はとくに蛇と縁がないかをよーく考えなさいよ。どこかの水神(すいじん)さんか何かに行って拝んだりしてないかどうか。こういうことがあります。 ですから崇(たた)るというのは要するに悪霊です。それも、そういう社(やしろ)とか、祠(ほこら)とかに巣くっている悪霊がほとんどです。だから気をつけなさい。高級霊はそういうことはありません。 10.天変地異は地球の生命体の自浄(じじょう)作用 あと、神仏が人類に罰を与えるかどうかだね。まあ結果としてね、罰に近いような現象があることはあります。それはあるんです。たとえば、ソドムとゴモラという都市がありましたね、悪徳の街、人びとが欲望にふけり、金儲けと淫欲(いんよく)、性欲にふけっていた街。神は、これを怒り、怒りの火で焼かれたと。死の灰を落とされたという記録が旧約聖書にありますけれども。過去を見ると不調和の都市というのがやはり沈没したり、火山の噴火で埋まったりすることはあったようです。ただ、これが神仏の怒りだというのは間違っているんです。そうじゃないんです。 皆さんにこういうことを言って分かるかどうかしりませんが、地球自体が一つの生命体なんですね。そして生きておるんです。生きておって、やっぱりいろんなものを感じ取る能力を持っておるんです。地球の生命体が。そうして、たとえばそこの中で、ある土地に行くとする。犯罪都市などのような、人びとが不調和な想念を持って生きている土地っていうのは、地球の生命体も非常にそこが病んでくるんです。非常に病んできて、何とかそこを浄化したいという気持ちが起きるんです。そうするとそういう浄化したいという気持ちが、一つの反作用となってあらわれるんですね。反作用となってね。それで地殻(ちかく)変動とか天変地異なんかになりやすいんです。 そのもともとは何かと言いますと、そこに住んでいる人のそういう不調和な想念、これがやはり原囚を作っているのです。人びとの黒い想念の曇りが神の光をさえぎり、その反作用として、たとえば大陸が沈没したり、そういうことがあるんですね。 11.アトランティス大陸沈没の真相 アトランティスという大陸が今から一万年ぐらい前にありました。ところが、そのアトランティス大陸が一夜にして沈んだということになっています。これは、歴史上の事実であります。どうして沈んだかっていうと、結局その末期のアトランティスにおいては人びとの心がすさんで、光の天使たちを次つぎと殺戮(さつりく)するような不調和な行為を起こし、その結果、地球の生命体、意識体が反作用を起こしたのです。そうしてその意識体が陥没(かんぼつ)を起こすようなことになったわけです。 こういうふうに地球自体が、自浄作用というものを持っておるんです。言ってみれば、徽(かび)かばい菌なんです、そういう人たちというのは。徽やばい菌が、いっぱい自分の表面についていると、地球だって時どきお掃除するのですね。そういうことがあります。 けれども、それは罰というよりは、やはり作用・反作用の法則なのです。大宇宙の法則なんです。ですから神仏は罰を与えません。しかし、そういう法則はあります。 12.本当の裁(さば)きの神とは個々人の内部神性 ですから、同じことが言えるのであって、正義の時代、正義の法というのも一緒です。裁きの神というのがあるのかというと、裁きの神ならそれができると言われているように、善悪を私たちは区別できます。善悪を分かつという意味での裁きの神というのはあるかもしれません。ただ本当の裁きというのは、人間個人個人が、自分自身を裁くんです。 これが分かるでしょうかね。皆さんは地上に生きている時にやりたい放題、したい放題の生き方をしていますけれども、死んであの世に還った時にみんな、裁きというのを受けるのです。その裁きは閻魔(えんま)大王が裁くのではないのです。閻魔大王が裁くなんて今だに思っている人がいるだろうけど、そういうのはたわごとです。閻魔さんは忙しいんです。地球には五十億も人間がいます。それを一つ一つ裁いておったら、もうとても書類がたまってしまい、今の日本の裁判みたいに十年ぐらいかかります。だからできないのです。 そうじゃなくて、やはり一人一人の心の中に、神仏の子としての神性、光の子としての自覚があるのです。これがあの世に還った時に、目覚めてくるんです。その光の子としての自覚が、自分自身の六十年、七十年の人生航路を裁くんです。その結果、不調和な行動が大きければ、その垢(あか)を落とすために、厳しい地獄界での修行にはげんでくるのです。 また光明に満たされた生活をしてきたのならば、その神性が自分自身の神の子の本質に適(かな)うということで、天国で素晴らしい生活をします。 13.人を裁くよりも彼らの良心を信じよ こういうふうにあくまでも、一人一人の自分自身の中にある、善我(ぜんが)なる神性が自分自身を裁いていくのです。そういう意味で私たちは、あの世から善悪を裁くことはできるけれども、それは、あくまでも一人一人にまかせてあるのです。 だから地上の人たちも、これが正法で、これが悪法だといって、裁きたい気持ちっていうのがいっぱいあると思います。でもまあ神様は、どんな悪人に対しても、その人の寿命が来るまで待ってあげているでしょう。なんで放置してあるんですかね。悪人は人一人殺したらすぐ寿命を奪ったらいいじゃないか。それを奪いもしないで放置してあるでしょう。悪人が六十、七十、九十、まで生きます。何で放っとくんだろうと思う。やはり神様でもね、それだけ待たれておるのです。チャンスを与えてくれておるのです。そういうふうに、死んであの世に還るまでは、その人を裁こうとされていないのです。 であるならば 、地上に生きているあなた方もね、生きている間にあまり人を裁こうとするなということです。その人たちの良心を信じて、その人たちが良くなっていくことを祈ってあげなさい。そういうことで、正邪を分かつことも大事だけれども、悪法がいっぱいあっても、あんまり裁いちゃいけません。 そうじゃなくて彼らの良心を信じながら、自分たちの正しい行いを積んでいくことです。それが大事です。ですから刈り入れの時が来るまでは、神様は刈り入れされないのです。刈り入れの時までに毒麦が、麦の中に入っているかもしれないけれどもね、毒麦であっても、刈り入れの時まで神様は、刈ろうとしないのです。 だからそれをよく思い出して、あなた方も今、正義、正義といって正しいことは間違いないんだから、他のは全部罵倒(ばとう)するかというとそうじゃなくてね。刈り入れの時まで神様が待っておられるんだから、あなた方もそれを待って、ただ自分自身がたわわに稔っていくように努力していきなさい。 自分の畑、自分の田圃(たんぼ)を立派なものにしていくように努力していきなさい。それが、いちばん肝腎なことですよ。まあそういうことですよ。今日はいいかな。
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目次 1.最高の自己実現としての霊訓集の刊行 2.宗教家の使命①――多くのひとびとを救うこと 3.宗教家の使命②――多くのひとびとを教えること 4.宗教家の使命③――後のひとびとへの遺産をのこすこと 5.高橋信次の遺産――心の教え 6.「精神」、「心」、「魂」、という言葉の響きのちがい 7.心の探究こそほんものの科学である 8.スペース・シャトルと孫悟空 9.科学者や医学者への警告 10.宗教のなかのほんものの遺産に気づけ (1987年3月23日の霊示) 1.最高の自己実現としての霊訓集の刊行 高橋信次です。つぎに第二章「未来への遺産」という題で、話をしていきたいと思います。 まあ、この二章はもう二月にとっくにおわっている予定だったんですけれども、講演会だ、研修会だといろいろ忙しくてね。だんだん私の出番が遠ざかってきて、みなさんきょうはなんともう三月の二十三日です。 東京では桜がさき始めました。一ヵ月遅れの講義です。どれだけ私が軽視されているか、よーくわかると思いますね。 霊ってものもね、公平なとりあつかいがほしいんですよ。 古い霊がね、ものすごくたいせつにされてね、新しい霊っていうのはひじょうに迫害を受けておるのですね。虐待ですね。新しい霊っていうのはね、まあどうでもいいやというわけですね。 古くなると値打ちが出てくる、年代ものだったら値打ちが出るけれども、新しい霊はまだ値打ちが出てこないからね。まあワインといっしょですよ。 ボルドーワインなんかね、仕込んでね、「それ何年ものですか。」ってね。「いや、GLAで詰めたところの十一年ものですよ。」なんていったら、「あ、まだダメ。まだ味が出てない。もうちょっと百年ぐらいただないと。龍馬さんだって、もう百年たっとるんだから、百年はたたねばダメですよ。」なんてね、言う人もいるでしょう。まあそうかも知れません。 生きているときには、死ぬまぎわでないと人間、文化勲章もらえないし、文化勲章もらって死んでもね、それが高校生のね、教科書に載るようになるまでにはね、まあ何十年もかかります。 ですから谷口雅春先生だとか、高橋信次、まあ先生つくかどうか知らないけどね。高橋信次なんていうのも、まああと何十年かすればね、たぶん教科書かなにかに載ると私は思ってるのですよ。 社会科かなんかでね。日本の昭和期の第三次宗教ブームと宗教改革をやった偉大な先達(せんだち)ということでね、まあやがては出ると思うけど、まだ値打ちが定まっていない。だからまだふわふわとこの地上を浮遊しているように思われておるのですね。これは残念なところです。 まあ私の霊訓集も進めていくうちにね、やがて「高橋信次も、そうまんざらでもないな。」ということになってくると思います。それが私の願いでもあるし、生前果たせなかった望みでもあります。 またこの霊訓集を通して、まあGLAの混乱を収拾するとともに、かつて私の教えの縁を受けたかたがた、あるいは私の教えをいままで受けてなくともね、この霊訓集を初めて手にして、新たな世界、未知の世界をかい間見る人たち、そういう人たちにね、教えていきたいんですよ。 そして私が語っていることがね、現代の人だけじゃなくて、百年、二百年、あるいは五百年、千年ね、日本という国がなくなってもね、いろんな国で、読まれ続けていくということをね、私は希望しているんです。 そういうことで、こういうふうに霊訓を送るということは、あの世の霊である私たちにとっては、最高の自己実現なわけです。 2.宗教家の使命①――多くのひとびとを救うこと さてきょうの本題は、未来への遺産ということでね、私なりにない知恵を絞りまして、未来への遺産について、講義を続けていきたいと思います。 まずね、宗教家ということで、話を絞っていきたいと思いますけれども、地上に降りた宗教家の使命には、大きくいって三つあるんです。 第一の使命というのはね、これはまあ、地上にいるひとびと、できるだけ多くのひとびとを救うということですね。これが第一義的な使命なんです。 3.宗教家の使命②――多くのひとびとを教えること 第二の使命っていうのはなにかっていうとね、これは、「救う」のつぎはね、「教える」ということなんですね。 とりあえず第一段階目は「救う」、ようするに迷っておるひとびと、苦しんでおるひとびと、悩んでおるひとびとをひき上げる。ようするに幸せの世界へつれてくるというのもだいじだけれども、第二は「教える」。 つまり教師としての役割ですね。これは知識的な面がそうとういります。真実のものを教えるということです。 地上の学問というのがあるけれども、学問というのはたいていがね、人の本を読んで、また引用して書いておるような本が、ほとんどだし、本を読まない人たちでも結局、実験ということでね、いろんな薬剤を使ったり、あるいは石を破壊したり、山を掘ったり、海にもぐったりして探検したり、調べたりしている学問がほとんどですね。 こういう実験、調査による学問と、人間が書いた物を、ようするに勉強することによってまた書くというようなね、そういうのが学問でしょう。 ただその学問であれば、どうしてもね、人間知といいますかね、狭い判断に押し込まれてしまうから、それ以上のものにならないんです。 そういうわけでときおり、ほんとうの宗教家が出てきてね、ほんとうの教えを広めていく。 真実の神の世界を教えて、この世の成り立ち、しくみを教える。こういうことによって、知識のね、洗い替えというのをやりますね。 つまり教えということ、ほんとうの教えということがなにかということをまあ教えるわけです。そういう意味で学問の基礎になるようなもんでもあるし、新たな科学でもあると思いますね。 4.宗教家の使命③――後のひとびとへの遺産をのこすこと 三番目はね、これが、後のひとびとへの遺産ということなんですね。 たとえばイエス様という人の遺産を考えてほしいんです。 イエス様の生命は、わずか三十三年で終っとるんですね。ナザレという地で教えた期間は三年、そして十二弟子を初めとして、教えた人たちはまあ数千人はいたでしょう。 まだイエス様をもってしてもそんなものでありました。四千人とか七千人の人たちだったと思います。 ところがそのイエスのわずか数千人に教えたというのが、その後二千年の長きにわたって連綿と残ってきたわけです。この二千年の間にイエスの教えに触れた人はいったい何人いたでしょうかね、数えきれないです。 現代の人でも十億人、二十億人の人が、少なくともキリスト教のなんらかの影響を受けています。その教えに触れています。 ましてや過去二千年間といったらたいへんなものです。そういう偉大な財産家なわけですね。遺産というのを後の世に残した。 ブッダがまたそうです。二千五百年の後に、偉大な遺産を残しています。 仏教だって葬式仏教だとか、なんだとか悪口いわれますけれどもね、あるいは観光仏教だとか、金儲け仏教だとかいわれるけれども、しかしね、いい意味もあるんですよ。仏教がなきゃあ、日本人なんて死後の世界なんて考えないんです、まったく。考えないんですよ。 だから葬式仏教といって仏教も馬鹿にされるけれども、葬式があることによってね、ようするに死というもの、あの世というものを考えない人間はひとりもいないんですよ。 なぜなら、人間がかならず死ぬからです。自分の父親、母親がかならず死んじゃうんです。たいていの場合自分より先に。 その前には、じいちゃん、ばあちゃんも死ぬんです。兄弟も死にます。まあ子供が死ぬこともあります。 肉親の死ということを生きている間に経験しない人はひとりもいないんです。どんな人でもかならず経験するんです。 そして、そのときに坊さんが来ます。葬式をし、焼き場へ行き、そして野辺の送りですか、それをして、お墓に入れますね。無神論者であろうが、あの世を信じていなかろうが、これみんなやっとるわけですね。 おれは無神論者で魂なんか信じていないから、葬式必要ないっていう人、いるかいないか、ひとりもいないです。ひとりもいないです。みんな葬式必要です。認めておるわけですね。 だから朝日新聞だとか、読売新聞だとかで世論調査をして、そしてあの世を信じている人は何割いるとか、やっていますね。なんとなくそういうものがあるらしいというのは五割だとか、あの世の世界を確信しているのが一割とか、二割とかいうけどもね。 それは答えとしてマルかバツかをつけるからそうなんであって、ほんとうの内心といったらね、ゼロの人はいないんです。まったく信じていない人も、まったく信じきっている人も、まあどっちもいないって言っていいでしょう。 ある程度、その心のなかで、段階差があるわけですね。一割ぐらいは信じている。三割あるいは五割信じている。八割信じている。九割九分信じている。まあこういう人がほとんどです。 まあそれは直接私たちと話している人はね、それはもう十割信じていますよ、あの世の存在をね。 ただ信仰深い人であってもね、自分が体験していないことはね、やっぱり百パーセントは信じられんのです。九分九厘あると思っても、残りの一厘はね、やっぱり体験していないから、やっぱり疑問が残るんです、どうしても。 そういうふうに完全に信じる人も、完全に信じない人もいないんでね、そういう意味で、仏教というのが現代に名残りをとどめていることも、また意味があるわけなんです。 まあ、あとたとえばモーゼの教えなんてのがあります。もう三千二百年たちました。さすがにモーゼの教えで教われる人は、ちょっといないかもしれない。 ただね、モーゼという人がいたことによってね、イエス・キリストという人が浮きぼりにされたという意味合いが強いのです。あの人があって、モーゼの律法というのが、もうずいぶん塵や垢にまみれて、それを払いに出ていたのがイエスだったわけですね。新しい教えを。 そういうことで旧勢力のモーゼの教えを、信じた人との戦いということが、彼の人生のドラマになってしまったけれども、それもまたひとつの演出であったということも事実なんですね。 だからモーゼなくしてのイエスはなかったわけであります。 そうしたもんで、遺産というものは確実にね、めぐってくるんですよ。ただそれはそう長く続くものではありません。 じゃムー大陸のときの遺産というのが残っているかというとね、そりゃあもう数少ないもんです。大陸自体がもう沈んでしまいましたね。 ムー大陸の遺産で現代残っているとすれば、それはひとびとの転生輪廻の過程における魂のなかのかすかな記憶、まあ、これぐらいだし、ムー大陸に栄えた神理、正法としては、まあ太陽信仰でしょうかね、そういうものが残ったでしょう。 ですから古代日本の神道の太陽信仰、天照信仰も、これは元をたどれば、もちろんムー大陸から来ている信仰でもあるわけですね。こういうものとしては残りました。 アトランティスもそうですね。大陸が没してしまった。そして優秀な人たちがみんな沈んでしまいましたね。 けれどもアトランティスの遺産の一部は、エジプトという地にね、流れていって、エジプトでまた新たな文明のもとになりましたね。ピラミッド文明、あるいは魂の科学、こうした元になったのは事実です。 そういうようにいろんなかたちでね、いろんな地域に出た教えというのが遺産として残っていくということは、これはすばらしいことなんですよ。 ですから、私たちの教えもね、またこの三番目の遺産という面を無視しては、成り立たんわけなんです。 5.高橋信次の遺産――心の教え そこでこの遺産ということに焦点を絞ってね、さらに話をしていきたいと思います。 たとえば高橋信次の遺産はなんだろうか。八起ビル、まあ、そりゃあ、そうかもわかんないね。 ハ起ビル、いま、ちょっとうまくいってないけれどもね、使われていないけれども、いちおうビルは建てたから八起ビルは遺産でしょう。実家、それはそうですよ、家だって遺産でしょう。 嫁さん、これは遺産とは言えないかもわかんないね。でも子供は、これは遺産だろうね。子供ができました。ふたりできましたね。これは遺産です。 その子供を介してまたなにか後の世に残すこともあるでしょう。これも遺産でしょうね。これは人間としての遺産です。 けれどもね、私の遺産の最大のものはなにかというと、やはり心の教えだったと思うのですね。私が一生かけて、研究し、探究し、発表してきたものは、人間の心の偉大性です。 人間はね、心、心と言われながらその心をついつい忘れてしまうんですね。忘れちゃうんです。そしてラブレターなんか出してね、断られたときだけ心が痛いとかね、痛むとか、あるいは、演歌だとか、ニューミュージック、こういう世界のなかで、心がどうのこうのと歌を歌ってます。 たとえば、みんな考えているのは、シャボン玉みたいに飛んでいくぐらいの心しか、持っていないのですね。じゃあなたの心ってなんですか、と言ったときに、その心がなにかということが言えんのですね、そうかんたんには。これは漠然としているもんなのです。ふつうはね。 いや、知らなくてもすむんですね。心、心と言っておけば、魂って言ったら信じないけれども、心と言ったら信じちゃうですね。 いまね、国民調査でもなんでもいいけど、アンケート用紙配ってね、聞いてごらんなさいよ。 あなたは魂を信じますかって言ったら、信じないっていう人のほうがふえてくる。 あなたは心の存在を信じますかって言ったらね、信じるという人がほとんどですよ。 あるいは、あなたは人間に精神というのがあると思いますか、と言ったらね、それはあると思いますよ。マルをつける人ばかりですよ。言葉のちがいなんですよ。 どれだけ言葉というものにね、イメージが付着しているかみなさんこれを考えにゃあいかん。 6.「精神」、「心」、「魂」、という言葉の響きのちがい 精神ということをはっきり言い始めたのは、近代哲学の祖といわれた、デカルトです。デカルトが精神と肉体、物質というような、こういう明確な二元論というものを打ち出しました。それ以降この考えかたというのは主流になりました。で、精神というのが独立して、ひとり歩きしました。 そしてカントなんかも、この精神というのを徹底的に勉強したわけですね。精神というのはなんだってね、『純粋理性批判』だとか、『判断力批判』だとかね、『道徳論批判』だとか、こういうのをいっぱい出してね、精神ってなにかを徹底的に探究したのがカントです。 そういうとわかるんだね。精神というと、なんとなくりっぱでしょう。カントの教えとかね、カントが勉強したことといえば「いやあ、すごいなあ。」ということになる。 あるいはヘーゲルです。まあこれもすごい哲学者ですね。ヘーゲルっていう人はギリシャ時代の大哲学者プラトンの生まれ変わりです。 このヘーゲルも『精神現象学』であるとか、あるいは『歴史哲学』であるとかね、こういうすごいむずかしい、大著をいっぱい書いています。大大著(だいたいちょ)をね。 高橋信次が読んでもわかりません。わかんないから向こうが偉いかというと、そんなことはないんですよ。そんなことはないんだけど、いちおう読んでもわかりません。 あの世にも本があるけど、ときどき読むんだけどさっぱりわかんない。わかんないし、言いわけ言わしてもらえばね、「こんなもんで心の糧になるもんか。」と私は思うんだけども、まあそれでも精神を究明したんだそうです。 私はやはり宗教家としての魂だから、ひとびとにわからんことを言って、それでなんの糧になるかと思うんだけど、まあそれはそれでね、学問的には意味があるそうです。 だからみんなカントだとか、ヘーゲルだとか、いやあすごいなあと思うでしょう。それをつまらんと思う人いますか、ひとりでも。みんな、すごいなあ、偉いなあ、と思うでしょう。 だから現代でカントがおれば、いやあ、これは偉い人だ、ヘーゲルがおればすごい天才だと、尊敬しちゃうでしょう。高橋信次が出てたら、「あ、これはオカルト宗教の教祖だ。」こうなっちゃうんですね。 言っている中味はどうですか。 彼らは「精神」ということを探究し、私は「心」という名前で、あるいは「魂」ということに関して、探究しましたけれども、いっしょのことなんですよ。 ただ精神としてね、精神学として勉強したものというのは、若干思弁的で抽象的です。 7.心の探究こそほんものの科学である ところが私が探究した心の解明というのは具体的なところがあります。抽象的な心だけではなくてね、じっさいにある、実在界の心、あるいは魂のしくみというものを、はっきりと教えたわけですね。 その意味では、私たち宗教家というのは科学者でもあるわけなんです。たんなる理論だけじゃなくて、実験というのがそなわっているのですね。 ところがね、なんというのかね、実験というのをようするに無視しちゃって、理論だけをありがたがる風潮なのです。西洋の風潮、いまの風潮は。 だから哲学やって、ああいうふうに理論だけ言うとね、それでありがたがるところが現実に死というものをとらえてね、魂とか心とかいうものを探究した私たちっていうと、そしたら見くだすわけですね。 つまらん宗教家、またオカルト宗教家、新興宗教家、「また高橋さんのあの口ですか。」と、こういう考えかたになるわけです。 こういう人たちはほんとうのものの見かたを知らない。哲学者が理論だけでやったことを、私たちは理論だけじゃなくてね、実験としても、実地で調査して、探究してきたんです。フィールド・ワークしたわけなんです。 地球は丸いんだと理論的に説明するんじゃなくてね、実際に丸いことを、船に乗って地球を一周して、証明して見せたんです。そして、そのゴールまで行きつくことについてね、証明したんですよ。 だからね、現代の科学が科学って銘打っているのは、あれはにせ物です。なぜなら、ほんとうの世界を探究しようとせんからです。 ほんとうの世界のことをぜんぜん探究しないで、それは宗教だなんだ、というんで、ほっぽらかしちゃって、自分たちは試験管ふったりね、顕微鏡をのぞいたり、天体望遠鏡をのぞいたりして、それで満足している。 じゃあもっと広い世界のことをなんで知ろうとせんか、この三次元を超えた、四次元以降の世界をね、どうして知ろうとしないのか、四次元以降の世界、魂の世界、心の世界を探究せずして、科学という名前を冠するのは、これはごう慢であります。 ですから現代の、科学するという科学者たちは、みんなごう慢でありました、と反省して、頭を丸坊主にして、もう一回一列に並びなさい。 そしたら私が精神棒を持ってきて、その坊主の頭をポンポンポンとみんな叩いてやって、「しっかりせんか、おまえたち気合いが抜けておるぞ。」と。 「それで科学者といえるか、ノーベル賞なんかもらっちゃってね、それでなにがわかっとるんだ。」と。 「人間の魂を知っとるんか。」「知らん。」「知らんでよくノーベル賞もらってね、偉そうに言うとるな、お前は。」 人間はね、物理学がすべてだとかね、化学がすべてだとか、こんなバカなことをいってね、ノーベル賞もらって、胸にぶらさげて喜んでおる。ほんとうの世界のことを知らんで科学者と言えるか、恥を知りなさい。 科学者というのは、疑問の探究、追究です。これが科学者の姿勢なのです。未知なるものをつねに解明してやまぬというのが、これが科学者のありかたなんですよ。 その探究する姿勢を忘れて、この世だけがすべてだとして、この世のものばっかりをさぐっとって、そしてあの世のことはオカルトだと思ってね、そんなこと信じとったらはずかしい、と思ってたら、その心こそよっぽどはずかしい。 現代科学者の大部分は、あの世に来てみんな恥いっとるのです。自分たちが唯物論のまっただなかにいてね、唯物論に奉仕してきたことを、はずかしい思いをしていますよ、みんな。 スペース・シャトルだとかね、超音速旅客機が飛んでね、「やあ、これで科学万能の時代になった。」なんて喜んでおる人は、あの世に来て、ひっくり返るんですよ。 あの世のすごさを見て、あなた旅客機なんかいらんのです。スペース・シャトルなんかいらんのですよ。思ったら瞬間、月でも太陽でもね、木星でも、金星でもね、あなたね、銀河系の果てまでもね、飛んでいけるのですよ、あっという間に。 スペース・シャトルなんか、あんなまどろっこしいものじゃないんですよ。こっぱみじんに爆発するようなものが、あんなもんがなんの科学ですか。 高橋信次なんかね、一瞬で、一秒で、あなた銀河系の果てまで行くんですよ。 8.スペース・シャトルと孫悟空 だから現代のスペース・シャトルなんていうのは、昔の孫悟空の話といっしょです。 孫悟空は觔斗雲(きんとうん)に乗ってね、お釈迦様とけんかしちゃって「なーにおれの力、知らんなんてね、ヨーシ、なら宇宙の果てまで飛んでやる。」と言って、觔斗雲(きんとうん)に乗っちゃってね、如意棒かなんかニューッと伸ばしちゃってね。 「どれひとっ走り行くか。」って言って、ビューと飛んで、飛んで、飛んで無限のかなたまで行って、宇宙の果てまで行って、「ああ宇宙の果てまで来た、やった。」と思ったら、目の前に柱が五本立っとった。 「よーし、せっかく宇宙の果てまで行ったんだから、証拠残さんといかん。」というので、その宇宙の果ての柱に、おしっこかけてね、ピューと真中の柱かなにかにおしっこかけちゃって「ああ、すっきりした。ああ、緊張したからね、長旅だったから疲れたわ。」と言ってね。「よっし、これで帰ろう、証拠もできたし。」 まあ南極探検かなにかで、日本の旗立てて帰ってきたようなもんだ。おしっこかけちゃって、それで帰ってきた。 そしてお釈迦さんのところに帰ってきてね、「お釈迦さんどうだい。おれは宇宙の果てまで行ってきたぞ。おめえなんか行けねえだろう。大きなズウ体しちゃってね。それで歩いて行ったって、とてもじゃないけど行けないぞ。おれの觔斗雲(きんとうん)ていうのは、もうマッハいくらじゃないけど、マッ八十五ぐらいで飛ぶんだぞ。宇宙の果てまであっという間だ。どうだい。」って胸張ったら、お釈迦様は手を開いて、「おまえのいう宇宙の果てというのはこれかい。」ってね。右手を広げました。 そしたら中指の下がチョロチョロぬれてるのですね、おしっこで。 「あれまあその匂いは、まさしく猿の匂い。私のおしっこじゃないですか。」ってね。孫悟空が言います。 お釈迦様はニコニコ笑っている。 「そうかおまえの宇宙の果てというのは、わしの手のなかのことか、これはたいへんな宇宙の果てじゃのう。」と、こういうことを言いましたね。ここに境地の差があるわけです。 9.科学者や医学者への警告 ほんとうの世界を知った高級神霊からみれば、科学ってのは幼稚な段階なんですよ。まだヨーヨーをぶら下げとる段階なのです。これで慢心してはならん。 これですべてがわかったと思う科学者は、そっこく、丸坊主にしてそして一列に並びなさい。 そしたらね、みんなの頭、パシッパシッパシツって片っ端から叩いていってやりたいです。このように科学者は、まったくだらしないです。 医学者もだらしない。医学も西洋医学ばっかりやっちゃって、医学のね、根本にあるものを忘れとる。人間の魂を知らんで、なんで人が救えるのか。生命の実相を知らずして、どうして病気が治るのか。これをもっともっと勉強せねばいかん。 人間が物質の寄せ集めだと思って、なんでそれで人が救えますか。アフターケアーを言うなら死んだあとのことまで考えて、病院でちゃんと治療しなさい。こういう治療したら、この人は死んであの世に帰ったらどうなるか、よーく考えてやんなさい。それがだいじですよ。 あなた、この世で、ようするになんでもいいから、植物人間でもなんでもいいから、だいじにすればいいというもんじゃないですよ。もう一回ね、霊的な観点から見なきゃいかんのです。 心臓移植だってそうですよ。心臓移植したってすぐ死んじゃうでしょう。臓器の移植したってすぐ死んじゃうでしょう。なぜ死ぬか知っていますか。 それはね、人間の細胞のなかにもそういう臓器のなかにも生命があるんですよ。その生命というのは、持主の波長と合っとるんです。波長がね、同じ波長なんですよ。 それをいきなりボコッと抜いてね、他人様の体のなかに植えつけたって波長が合わんのです。 まずね、その臓器にたいして、「おまえ、ご苦労であったけれども、おまえの主人は亡くなったんだ。」と。「主人は亡くなったんだから、そして人間は肉体じゃなくて、霊なんだから迷わず成仏するであろう。」と。 「ただ心臓としてのおまえはまだ生きているのだから、どうかまだお役にたちなさい。」そういうことで、よく言い聞かして、そして新しい人間の体に植えるときにも、その人間に言い聞かしてね、「あなたも感謝の気持ちを持ちなさい、人間は魂でね、あなたの魂はこれを拒否するかもしれないけれども、ありがたいことなんだからありがたく受けなさい。」そういう感謝の心、大調和の心なくしてね、そしてそういう臓器を移植したって失敗するのです。このことを知らねばならぬ。 こんなこと知らないで外科手術ばっかりやっておる人いっぱいいるんです。いつまでやったって実験です。モルモット以外のなにものでもありません。 だからとくに科学者、医学者、いくら勉強できて、東大の医学部受かったってダメなんです。共通一次で一番取ったってダメなんです。そんなんでなにもわかっとらんのです。 みなさんね、ほんとうに探究しなければいかん。 私はそういうことを、心の探究、科学者としての立場で、心を探究するということはどういうことか。これはね、カントやね、言っておくけれども、自慢じゃないが、カントやヘーゲル以上のことをやっているんです、私は。 それが私の遺産なんです。 10.宗教のなかのほんものの遺産に気づけ 地球のみなさんは、あるいは地上のみなさんは、もうちょっと「宗教」だからとかね、そういう先入観を捨ててね、ほんとうにその中身、教えの中身というのをね、しっかりと勉強してみてください。 そのときに私たちの遺産が光ってくるんです。生きてくるんです。亡くなった者たちの意志を継いでください。私の人生を無駄にしないでください。私が説いた教えというものをもう一回ね、しっかり学んでください。きょうはほんとうに長い間ありがとう。
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目次 1.理想像の設定 2.幸福人生の実現 3.祈りと全託への考察 4.正法と他力信仰の問題点 5.確かな自己実現 (1988年3月31日の霊示) 1.理想像の設定 みなさん、こんにちは。高橋です。えー、自己実現の話です。 これ面白いんですよね。私はね、『高橋信次の新幸福論』、第4章までで終わるつもりでいたんだよね。いつもおしゃべりだって言うんで、1章一時間で4章しかもらえなくて、それで終わりのつもりだったんだけど、自分はもうちょっとしゃべりたいという気持はあったんだよね。ところがね、原稿にしてみたら、すこし字数が足りないってね、私はちょっと遠慮しているもんだから、話がゆっくりだったって言うんで足りない。そこで取りあえず、あと三十分いただきましたんで、追加です。 私は自己実現を、これで果たしたわけですし、みなさんも、一行でも多く私の法を聞きたいという、自己実現が果たせる。このように自己実現というのは、非常に大切なものなんですね。 特にこれは『新幸福論』ですから、やはり幸福への自己実現、これを言わないで本にならない。ね、これを入れるか入れないかで売れ行きも遠う。ね、土屋書店さんも喜ぶ、ね、そういうことですよ。だからまあ、みなさんよかったですね。えー、一冊の本、同じ値段で買わされるのにね、4章で終わるか、5章で終わるか、全然違いますね。これで中身がコロッと変わっちゃいますから、よかったですね。得をしました。おまけです。 えー、それでですね、まず私は一番目に、理想像の設定と、こういう題を掲げてみました。まあね、幸福になりたいって言うのはね、やはり人によって、その幸福度が違うね、理想像が違う。どういうふうに幸福になりたいか。あなたの幸福とは何ぞやって言って、まあその理想像を一生懸命書かしたら、まあ千人が千人、万人が万人が違うだろうねー。 僕の幸福の理想像は、みなさんのとは違う。僕の理想像は、他の神様は全部抹殺(まっさつ)して、僕だけがしゃべりたいなんて、そんな理想像ではありませんよ。そんなことは決してないんですが、他の神様も、まあ自由にしゃべっていただいて、しかし、高橋信次がしゃべりたい時には自由にしゃべられるようなね、そういうシステムにしたい。 私の本が毎週できたら出て、そして毎週みなさんの心を潤(うるお)したい。で、一万人や二万人じゃなくて、五十万、百万、一千万、一億人の方に読まれたい。ご家庭に毎週配本したい。ま、このぐらいの気持があります。これは私の理想像ですね。ただ、地上の人の理想像とは多少違いますね。地上の人は、やはり喉が痛いとかね、原稿に書くのが面倒くさいとかね、活字に組むのが時間がかかるとか、紙代が高いとかね、いろいろあります。そういう意味で難しいんですが、あの世の霊としての理想像はあります。 みなさんもおそらく、なんらかの理想像、あるでしょう。『高橋信次の新幸福論』という題で手を伸ばした方は、やはり、なんと言うかね、読みたいという気持があるでしょう。幸福になりそうな気がするでしょう。『新幸福論』ちゅうのは、旧幸福論もどこかにあるんかなーと思っておる人もいるかもしれないけど、まあそれはないんだけれども、何かよくなりたい。宗教なんかに魅(ひ)かれる人は、心の中になにかさみしい思いね、もうちょっとよくならないか。あるいはもっと違う人生があるんじゃないか。俺はこのまま死んでしまっていいのか。こんなことをいつも考えているのですね。 そういうことですからその理想像っていうのをね、持つっていうことは大事ですね。やはりこれは第一歩ですね。 そりゃ水泳でもそうでしょう。プール二十五メートル泳ぐんでも、向こうに二十五メートル先にね、ちゃーんとゴールがあるから泳げるね。マラソンだって、そうでしょう。四十二・一九五キロ、ゴールがあるから走れるね。これなかったらどうだ。あなた、ただ道端、走れたって走れないよ。永遠に。日本列島、上から下、走ったら、そりゃ海まで走れるっていう考えもあるだろうけど、やっぱり目標がないと走れないね。こんなもんですよ、人間。あれだってマラソンだと思って、世界記録なんてあるから走れるんであって、なんでもないでただ走っとるだけだったらね、馬鹿馬鹿しくてね、お腹空くからね、あなた誰も走りませんよ。当然ですよ。ね、そういう意味で理想像の設定は非常に大事ですね。 その理想像のところに、まあ問題はいろいろあるわけですね。その理想像に、間違いがある人も中にはいる。たとえば、マーフィーなんて偉い先生もいたけども、書いている内容はいろいろだよね。まあ、いいこともあるけど、へんなのもあるね。あのハンドバッグ欲しいと思ったら、ハンドバッグが手に入るとかね、こういうことばかり。あまり念じていると何か変な世界に入ってくるね。どうですか、あのステーキが食べたい。食べたい、食べたいと念じていると、やはり、五百グラムのステーキが食卓に出てきたとかね、そんなことになってくるとちょっとなんか変だね。なんか裏側っぽいね、臭うね。プンプンプンプンするね。これは仙人、天狗さんの世界じゃないのかなーっていう臭いがちょっとある。 こういうところで問題があるけれども、やはりね、この世のルールで実現できることはしたらいいんですよ。大学入試なんかあなた、念力で通ろうなんてしないで、やっぱり勉強してやるのが筋ですよ。それしないでさ、いきなりね、共通一次マークシート、鉛筆ころがして受かるようになんてやったら邪道です。やはりある程度、その基礎訓練ね、コツコツと努力している中において、理想像を実現していくことが大事なんですね。 だからそれを間違って、一躍神風が吹いて、そういう成功がくるとかね、急にどんでん返しがあるとか、あんまりこれは思わない方がいい。そういうことも確かにある。この世界においてはそういうことはいくらでもあるけれども、あんまりそればかりを望んでも、それは魂にとって、あなた方の魂にとって必ずしもプラスにならない。そういうことなんですよね。プラスにならないんですよ。いきなりコロッと成功が転げ込んでくるというのはね。やはり努力、精進している過程において、思ったよりね、はるかに早くとかね、思った以上の成果が得られる。こういうことはいいんだ。何もなしで、棚ボタというのは、やはり魂にとって堕落になることもある。こういうことでね、必ずしも好ましくない。 やはり私はね、理想像を描く時に、ある程度、自分の努力の方向性が見えるような理想像、これ描いてほしいね。理想像が自分の努力で、ある程度達成できるかどうかね、ただ幸運も、もちろんいるけれども、そういうふうになれるかどうか。こう考えていただきたいんだよね。 だから、今さら皇族に入りたいと思っても、そうはいかないしね。みんなが救世主になりたいと思っても、そうはいかないね、これはあるよ。ただ救世主のお手伝いするとかね、小さな救世主じゃないけど、自分の力の範囲内で人びとを救いたいちゅうことは可能だね。こういうふうに自分の努力と、ある程度、その理想像との間のね、距離を計りながら、まあ多少上向きっていうかね、もうちょっとできたらというあたりに置くのが、ちょうどいいように思いますね。 2.幸福人生の実現 さて、では幸福な人生、幸福人生の実現の鍵になるものは一体何だろうか。僕は、これを考えてみたいと思う。 結局ね、僕はあの世に還ったけども、あの世に還って感じることは、多くの人のために尽くしてね、損することはひとつもなかったよ。これだけは言えるなー。ああ、これだけは言えるよ。あの世に還ってね、あれだけ優しくし過ぎて損したとかね、あの人の面倒、あんなに見て損したとかって思うことはないよ。ない。これだけは僕は言っていいと思うね。 そりゃ地上にいた時に僕も、ずいぶん慈悲魔だったし、いろんな人の面倒見てあげたよ。会員も何十万もいたしね。一人一人のこと気になったし、僕の弟子と、直弟子と思っている人はいっぱいいたからね。そしたらみんな先生になんか優しくしてほしいし、期待してほしい、と思っていたね。できるだけ多くの人に接して、多くの人に、なんらかの言葉、あるいは心に糧を残そう。彼らをほめてあげたい。ね、よくしてあげたい気持、持っていたよ。 でも思った通りならんかったことはいっぱいあった。たとえば僕が弟子をいっぱいほめてやって、ほめてやって、いつもおだててやったら、その弟子が僕が死んだ後、暴れて、暴れて、そんな自己実現しちゃって、おかしくなっていることあるけれども、じゃあ、でも彼らをよくしようとして私が指導したこと自体悪かったかちゅうと、そりゃあ僕は悔いないね。そりゃあ、それでいいんだよ。それから先の問題だよな。 その点、彼らを腐(くさ)して腐してね、目茶目茶に言って、それでどうだ、なにもできなかった。ざまあ見ろって、あの世に還って嬉しいかって。そんなことないね。やっぱりね、人を生かそうとかね、よくしようという思いでもってやったことはね。もし、成果を結ばなかったとしても、あの世に還って悔いること全然ないです。 だからみなさんね、幸福人生ってね、本当の幸福人生何かって言うと、やはり自分の死後ということを見つめなきゃあいかんよ。死んであの世に還ってきた時にね、振り返ってみて後悔しないかどうかね。この観点抜かした自己実現なんてナンセンスですよ、まったく。自分が生きている時にね、新聞に顔が載ったとかね、あなたテレビに出たとかさ、億万長者になったとか。こんなことでね、幸福の自己実現と思っちゃいけないよ。 やっぱりね、地上を去って、あの世に還っていく時にね、振り返ってみて、自分の人生ね、見せられて、スクリーンに映されて、テレビに映されて、それでよくやったと、自分で言えるような人生でなきゃ駄目だぜ。人がよくやったと言ってくれただけじゃ駄目だ。自分が心底ね、よくやったと言えるような人生ね。 それは何かっていうと、どれだけ多くの人のためにね、やはり働けたかだよ。どれだけ多くの人の幸せのためにね、生きられたか。自分の一個の人生ね、一人の人生。身長百六十何センチ、体重七十何キロのこのちっちゃな体、まあ豚の食い過ぎで、豚肉の食い過ぎで、ちょっと大きいかも知らんが、まあ、そういう体がだね、一体どれだけの人たちの肥やしになったか、魂の糧になったかね、心のささえになったか、これは大きいよ。 僕だって電気関係の事業やってたし、その社長で収まっていれば、従業員の百人や二百人食べさせて、社長さんのお陰で食べられましたという感謝はあるかもしれない。 ただ、そういう仕事をしながら、片手間にね、GLAという団体起こしました。そして何十万の人、指導しました。結果、実を結んだかどうか僕知りません。知りませんが、ただ、町工場の社長で一生終わったのに比べたら、僕の満足度は高いのです。なぜかって言うと、高橋信次という人間の存在だね、これが、それだけ多くの人に影響を与え得たということだね。 えー、僕は高橋春雄っていう本名持ってます。これ以外に高橋信次という名で宗数的な活動してたわけです。それは実際上の取り引き、事業があって、得意先もいっぱいいるからね、本名で宗教団体やったら、やっぱり銀行からの借り入れはあるし、商売はあるし、いろいろあるんでね、その中には無神論者、有神論者いろいろいますから、それを一律に扱えないんでね、本名と分けて、やはり仕事上の名前を分けてやりました。その結果二人分っていうかな、二人の個性が発生して、二倍、あるいはもっと何倍も生きられましたね。 こういうことをしたわけですが、結局ね、多くの人を良くするためにやったことっていうのは、たとえ燃え尽きたとしても、死んだ時に死亡広告でね、過労のために死亡と載せられたとしても、四十九才の誕生日を前にしてね、三ヵ月前に死んだとしても、ただね、ボロボロに燃え尽きたとしてもね、やっぱり私は何か残せたっていう気持はありますよ。 僕は死ぬ二週間前まで東北研修会なんてあって、ボロボロの体で、点滴打ちながら、やりました。馬鹿みたいな話です。救世主みたいに気取って、自分が救えないのに馬鹿かって言われるけど、それでもね、悔いないですよ。それがね、それだけ最後までやっぱり燃焼し尽くしたことがね、今あの世に還って霊言を送る時の原動力になっているね。僕はそれを自分の体を労(いたわ)ってね、「まあいいわ、いいわ。まあ体がいい時だけやりゃあいいんで、疲れてる時は止めときゃいい」なんて思ってたら、今もこれだけの僕は情熱ないと思うね。 それはやっぱりこの仕事っていうのはね、きりがないんだ。それはね。いくらみなさんが、本が読めなくて苦しんだとしても、やっぱり僕はね、一冊でも多くの本出して、一人でも多くの人にね、神理に目覚めてほしいと思うんだな。 全部本を読んでいる人は大変だと思うけど、それでも偶然に手を伸ばしてね、『高橋信次の新幸福論』に「幸福への自己実現」ていう項目があるから、ちょっと買ってみたくなって、買ってくれる人がいて読んでくれたらね、こりゃあ嬉しいよ。僕はそういうきっかけをひとつでも多くあげたいと思うな。そのためにやっとるんだ。ねー銭金(ぜにかね)じゃあないんだ。やっとるんだよ。 だからそういうふうにね、幸福人生の実現というのをね、みんなね、あんまりこの世に視点を置いちゃあいけないよ。死んであの世があると、いったん思いなさい。あるんだよ。あの世の霊が、そう言っているんだからあるんだよ。あるからあると言っているんだよ。 それであの世に還った時に後悔しない自分かどうかね、後悔しない自分は何かって言うとね、やっぱり多くの人のために生きれたこと。生き切れたこと。多くの人たちにね、あの人がいてくれてよかったってね、言ってくれること。これ大事ですよ。 だから私なんかたいした仕事しなかったけど、でも死んで十年ちょっとしてね、高橋先生が生きてたらよかったってね、生きていた時に会えた。とかね、亡くなって十年間淋しかった。なんてね、まあ言う人がいるけど、そういうふうに生きているっていうだけでね、直接その人に接しなくとも、その人の個人指導できなくても、それでも生きているっていうことだけで、喜んでくれる人はいるんだよな。うーん、まあ、「存在の愛」になるんかも知らんけど、有り難いことですよ。ね、そういうふうにキラキラ光るということはね。 だから僕はみなさんに言いたいんだ。みなさんどんな思い持っているか知らんけど、やっぱり死んであの世に還ってね、振り返ってみて、自分の四十何年か、あるいは五十何年、六十何年の人生見てね、満足できるかどうかだな。こういう観点だ。 あと残りいくらあるか考えてごらん。四十代の人だったら、まあせいぜい三十年ぐらいだよ。あと三十年、自分が死んだと思って、死後四十何歳の自分を見た時に、あと三十年残っているのだったら自分はどう生きたら一番よかったか、それ考えてごらん。ね、大事なことです。こういう観点からやらなきゃあ、本当の自己実現じゃあないです。僕は、これを言っときたいよ。 3.祈りと全託への考察 さて、自己実現で大事なのに祈りとか、全託(ぜんたく)とかいう考えがあるね。祈りっていうのは、キリスト教系がだいたいそうだなあ、だいたい祈れって。祈る前に、もう神は知り給うと、お前らが何を欲しいか、知っとると。 可愛い子がパンを欲しとるのに、誰が石を与えるか。人がうなぎの蒲焼(かばやき)を欲しいと思っとるのに誰が蛇の蒲焼を与えるか。神はそんな方じゃない。うなぎの蒲焼を欲しい時には、ちゃあんとうなぎの蒲焼をくれる。そんな優しい神だ。祈る前になくてはならんものを知り給うのだ。こういうふうにありますね。でもまあ、一応祈りなさいっていうのはキリスト教ね。 あるいは全託しなさいなんていうのは、谷口先生なんかそうですな、生長の家なんかね。全託しなさい。託(まか)せなさい。まっかせなさいってね。「英語は外人にまっかせなさい」なんて言う人いるけども、まあ、まっかせなさいということですな。そういう考えもあります。あるいは天理教祖みたいに、「頼まないでも、お陰はやってくる」なんてね。神様は、そういうことだと言う考えもありますね。 じゃあ頼まないで来るかちゅうと、あんまり来ないんだよね、本当はね。やっぱり頼まないで出てくるのは、こういう自己実現型の神様だけであってね、おせっかい型の神様は出て来るけど、おせっかいじゃない人って出て来ないんだよね、実際はね。だからまあ、その辺ちょっと区別があるんですけどね。 えー、そこで祈りと全託っていう考えに対しての僕の考え。潮文社で出した『高橋信次霊言集』の中では、反省、瞑想、祈りの順が大事だっちゅうことを言いました。今もそう思っています。やはり祈りっていうのがね、自分が何もしないで、神様よくしてくださいね。ボタ餅くださいね。もっと大きい家に移らしてくださいね。いい可愛い嫁ちゃんください。こんなことばっかり祈っても僕はね、まあ、それは意味ないとは言わんけど、ちょっとおかしいと思うな。やっぱり人間として、やるべきことをやるべきだ。ぴしっとやってね。そらねー、たとえばマイホームが欲しいと思うなら一生懸命働けよ。 一生懸命働いて、それで「神様マイホームください」と、「一生懸命働きますから」と言ったら、思わぬ時に昇進したりね、大きなプレゼントが出たりすることもあると思うよ。あるいは一生懸命勉強しててね、難関を突破して、たとえばいい大学へ入ったり、あるいは司法試験だ、公務員試験だ、あるいは、それ以外の資格試験など通った。そういうふうに一生懸命勉強しているとさ、ご褒美(ほうび)で、素敵な彼女が出て来たりするんだよな。そういうことはあるさ。 ところが、ころころころころ四畳半の下宿で転げとってね、じゃあ素敵な彼女出るかって言ったら出やしねえよ。そんなの誰が相手にするか、そんな臭い男。そうでしょ。くさやの干物(ひもの)みたいな男を相手にしやしないよ。 ねー、そのくさやの干物みたいな男でも光の天使を目指して、せっせと努力していると思えやこそ、手鍋下げて女性がね、それがあなた、お手伝いに行こうとするんですよ。そんなもんなんだ。 だから、祈りという姿勢の前にはね、僕は自分を見つめて、一生懸命やらにゃあだめだと思うよ。その過程において祈るのはいい。それがなんていうか、自己を引き上げるための原動力になることがある。それはある。確かにあると思う。だから棚ボタはダメ。まあ全託の思想も大事だと思うけど、守護霊や指導霊が、そりゃあいるから、彼らが手伝ってくれることあると思う。 ただ僕の気持から言えばね、心清く一生懸命働いているお百姓さん見たら、なんとか豊作になるようにしてやりたいと思うもの。 ところがさ、ころころころころして愚痴(ぐち)や不平、不満ばかり言って、「なんじゃ曇りよって、お日様射さないじゃねえかとか」ね、雨が降ったら「降り過ぎだよー」なんてね、降らなかったらね、「ちょっとは降らしたらどうだ」なんてね、ブーブーブーブー言ってて感謝しないお百姓さん見たらさ、その時は僕だってプリッとしちゃうよな。お面白くねえよな。やっぱり一生懸命さ、朝早くから起きて頑張っている人見たらさ、よーし今年は豊作にしてやろうと思って頑張るもんね。 だから自力と他力って、別なもんじゃないんだ。やっぱりね、一生懸命やっている人に他力の道が開けてくるんだよ。そうだと思うよ、そうでなければ嘘だ。そうだと思うよ。だから全託で大事なのは、まあ祈りによるね、執着を去るという意味で、大事なところがあると僕は思う。 祈りもね、毎日毎日、もうとにかく「嫁さんくれー、嫁さんくれー」っていうのもあるけど、それも「何月何日まで嫁さんくれー」なんてあんまりやっているとね、それが執着になって、焦りとなって、苦しみになってくるね。そうじゃなくて、まあ、適当な時期にって言うんだろう。適当な方法で祈ることによって、この自己実現型の執着を断つ。まあこういうメリットはあるわな、それはある。 また、自力で努力しているうちに、例の「ねばならない」だな、「せねばならん」という焦りを生むちゅうことはあり得ます。それはある。そういう意味で、時たま全託っていう思想も僕は大事だと思う。それは心のゆとりということでね。大きな目で見て神様がおる、守護、指導霊がいるんだから、なんとかなるさーっていう気持ね、これは大事だと思うよ。 渦中(かちゅう)の人の場合に、もがいてもがいても出られないことはある。その時に、やはり時間の経過を待つ。それもただ苦しい苦しいって言うんじゃなくて、よくなる、きっとよくなると思ってね、ある程度の時間、持ちこたえる。こういうことが大事だな。この意味で全託が意味があると私は思ってます。 ただね、そういう苦しみの時期っていうのも、それが本当に後々(のちのち)魂の糧(かて)になるためにはね、やはりその期間、自分のできる範囲のことで頑張るということが、大事だと思ってます。それでいいんだよ。そうでなきゃ漂流しているみたいに流されているだけじゃ意味ないよ、そんな人生。なんの意味があるんだ。やっぱりダメです。 丸太ん棒にぶら下がって浮かんどるのもいいけどねー、向こうに船があると思ったら足バタバタして動いてみろ、ちょっとは、ね。バタバタしてみろって。フカが寄ってきてパクッとやるかもわかんないけどね、そんなことをすると。だからじっとしているとフカに襲われないなんていうこともあるかも知らんけど、まあ頑張れるだけ頑張ってみろや。それから後は、まあ、もちろん神だのみもあるだろう。ね、その辺が僕の考え方です。 で、僕自身は祈りをしたことがないかって言ったら、そうでもありません。それはあります。現に神の光っていうのはあります。他力の光明っていうのはあります。だから無駄とは言いません。けどもやはり、自分の心の透明度っていうかね、澄みきった、その程度に合わせた、やっぱり他力があると僕は思います。 だから、やはり心を磨きながらね、純粋な思いで神の方を振り返ることが大事であろうと思います。それが、祈りと全託への大切なポイントだと思う。 4.正法と他力信仰の問題点 まあここが、生前からよく僕が言ってきたし、霊言集なんかの中でも言ってきたけど、正法と他力信仰の問題なんだよね。今の時代、末法の世には、他力信仰がものすごく増えている。蔓延(まんえん)している。とにかくそこへ行けば、ご利益(りやく)あるっていうことでね、この辺で人間の欲をそそっているね。これがある。だけどね、基本外してはいかん、と僕は思います。 たとえば他力信仰っていうのをね、別のたとえで言えばね、会社で遊ばせている社員てのがいるんだよな、遊ばして。要するに定年が来ないんで、とにかくもう仕事はしなくていいから、新聞読んでてくれっていうのあるね。だいたい役所からの天下り組がそうだね。天下(あまくだ)って企業に入っているけど、実際仕事やられたら大変なことになるんだよな。大変なことになるんで、もうなんにもしてくれないのがいい。 ところが、そこの官庁から許認可行政って言ってね、いろいろ権限があって、たとえばなんでもいい、厚生省なら厚生省でいいや。厚生省で、やっぱり薬剤関係で許認可行政やってるな。そうすると厚生省の役人が五十過ぎたら止めちゃうね。そうしたら製薬会社とか受け入れちゃうわけよね。そして、仕事されたらどうかちゅうと困るんだ、そりゃ困るんであって、仕事は困るんだけど、彼らの老後を保証してやることによって人質だね、人質を取ることによって、商売がしやすい。こういうことあるね。 そうするとどうするかっちゅうと、まあ会社へ来てね、とにかく本を読んでてくれたらいい、新聞読んでくれたらいいって、給料出すから何もしないのが一番いいと、こうなるね。秘書付けますから大丈夫ですからってね。やはり肩書だけ付けるとかね、「なんにも専務(せんむ)」とかね、そういう人がいるわけです。ただ、それで給料もらってて嬉しいかっていったら、やっぱり嬉しくないね。やっぱり働き甲斐がほしいね。こういうとこがあるんだ。 だから、他力信仰、ご利益信仰というのはね、結局何もしないで利益が得られるようなところがあって、だからお金くれたらいいかというと、人間ね、仕事なしでお金だけもらったら苦痛だぜ。 どうだ本書を読むみなさんよ、仕事をたいしてしないでお金をもらっている人よ、胸に手あてて考えてみろ。淋しいだろう、会社行って仕事がないちゅうのは。なんにもしなくとも毎月給料が出る。嬉しいけど悲しいね、どうだ、ね。これ他力信仰の姿だよ。何もしないでね、お陰が来るって、本当にそれでいいかい、君たち、ね。そら、ボーナスが入ってきて嬉しいけど、たとえば何もしなくても、他の人が働いてボーナスが入るけど、ずーっと続けてごらん、苦しいよ。やっぱりね、貢献している、自分は一生懸命やっていると思うんで、それでボーナスが増えたら嬉しいんさ。何もないのにボーナスが増えたって嬉しかないさ。やっていくらだよ、ね。僕そう思うね。 だから、他力信仰、他力のご利益信仰は、結局「働かない者、食うべからず」に、要するに抵触(ていしょく)しているっていうことを僕は言っているんだよ。働かないで金だけもらってたら、人間おかしくなるよ。 じやあ、お金やるからね、上野動物園の檻(おり)の中入ってみろって、僕がお金やるから、あの霊言集の収入の一部は、そういう奇特(きとく)な方のための資金に回していただきたいと私が言うとするよね。原稿料の一部は、そういう奇特な実験材料の人にあげたいから、檻の中、上野動物園の檻の中でチンパンジーと一緒に、一年間いてみてください。毎月給料払うから、ね、毎月手取り五十万、ボーナス六ヵ月分払うから、どうだ上野動物園でチンパンジーと一緒に生きてごらん。 水とバナナ、リンゴあげるよ。いられるかどうか、いてごらん。いやだよ、みんな。絶対いやだよ。五十万の月給ったらいいよ。ボーナス六ヵ月ったらいいよ。ちょっとあなた、勤め先としてはそう簡単にはないよ。しかし、チンパンジーと一緒に檻の中にいれるか、別にしてやってもいいよ。人間だからね。賢い人間だから檻は別にしてやるよ。隣りにしてやるよ。どうだいれるか、ねーいやだろ、そんなもんなんだよ。ねえ。 しかし、そうなりたがっている人がいっぱいいるんだ。他力信仰、ご利益信仰は、結局檻の中入ってたら金くれるって、ああそうですかって、檻の中に入りたがる人がいる。これ間違いですよ。それで一生送ってごらん。笑い者ですよ。違いますか。やっぱりね、腐っても武士の端くれだ。武士は食わねど高楊枝(たかようじ)だ。働いて二十万でいいじゃないか。バリバリ働いて二十万でいけや。自分のやはり働き相応もらうのが人間の幸福の源泉なんだよ。だから他力信仰の誤りはね、やはり自分の足が地についていないことだ。やっぱり原則はできるだけ自力で道を開け、ね。一生懸命頑張っていけや、ね。 それで時折、自分の間違いがあるかもしれない。考えの間違いがあるかもしれない。そういう時には、曲がり角にはね、ちゃんと標識立てて僕を導びいてください。神さま、私を導びいてください。この気持だ。 一生懸命やってるけど、時どき問題があるね。やっぱり一生のうち、あるいは一年のうち、何回かは事件が起きたり、問題が起きる。そういう時どうしたらいいかわかんないね。こうした時にね、神様なんとか守護霊様、道を教えてください、導いてくださいって祈る、これはいい。これはいいよ。いい。けど、檻の中に入って給料もらおうとするな。檻の中で給料もらったって銀行に預金もできないぞ。こういう他力信仰は間違いですよ。なっちゃあいけないよ、いいかい。 だから、働きもしないのに金ばかり入ってくると、大変なことになりますよ。これは危ないですよ。そういうことですよ。美人の嫁さんがいいからったって、自分が不細工なのにね、極端にミスユニバースなんかもらったら不幸の始まりですよ。こんなの不幸ですよ。一年持たないですよ。家庭の崩壊ですよ、完全に。 だからそこそこでいいんですよ。ね、醜(ぶ)男は、そこそこのカアちゃんでいいんですよ。その辺が足ることを知るっていうことだ。まあ、そういう考えを大事にしてください。 5.確かな自己実現 では、本書を締めくるに当たりまして、確かな自己実現、ということを話してみたいと思います。 じゃあ一体、確かな自己実現って何か、ね。僕は、これを三ヵ条にまとめてみたいと思います。 それは、自己実現の中に、やはり人類への奉仕っていう気持があるかどうかね。第一点。これが第一点です。第一点として、人類の奉仕、あるいは同胞への奉仕、社会への奉仕という、そういう世の中をユートピアにしていくという気持があるかどうかね。これが第一点だ。これ原則だ。 第二点はね、その自己実現をやりながら、自分の心が、美しくなっていっているか。きれいになっているか。心が向上しているか。魂が磨けているか。こういうことだね。心の進歩、進化があるか。発達があるか。よくなっているか。こういう考えだ。自分の心が堕落しているのは駄目だ。やっぱり心がよくならなければ駄目だ。その自己実現やっている過程でね、心がますますきれいに光りながら、器が大きくなっていく。これが大事だ。これなくしての自己実現、意味なし、ね。心悪くなったら、腐ったリンゴはいらない。やっぱりね、心がよくならなくてはいけない。 第三番目は、神様を勝手に利用するなっちゅうことですね。神様、仏様を自分の都合で利用しちゃあいけない。これを言っておきたい。そうじゃないよ。反対だよ。神様、仏様のために、ねえ、あなた方は一生懸命頑張るんだよ。いいかい、神様、仏様を自分の都合で利用するな。しちゃあいけない。自分の都合で、ご都合主義で、ひっぱり出して使っちゃあいけない、ね。彼らが持っている高邁(こうまい)な理想があります。人類の幸福とか、正法の流布とかね、人類救済とか、彼らには大きな理想があります。その理想をよく理解して、その一端をになっていくという気持、これがとーっても大事です。神様、仏様を自分のご都合で利用するなということね。これ僕、口酸(す)っぱくして言っとくよ。これ間違いですよ、そんな人は。大変な間違いになりますよ。 時には神様と交渉する人いるんだよ。ギブ・アンド・テイクでね。「おい神様、俺に○○してくれたら、俺これしてやるぞ」なんてね。だから「油揚げ三枚祀(まつ)ってやるから受験合格させろよ」とかね、こんなのギブ・アンド・テイクだね。こんなの間違いですよ。神様、人間とそんなね、ギブ・アンド・テイクすること絶対ありませんからね。絶対ないよ。いいかい。神様、仏様を自分の都合で使うな。やはり大いなる神様の御心の中に生きとるんだから、その中の一員としてね、素晴らしい世界を展開するために、奉仕していこうという気持ちね、その神様のやっぱり理想実現の一端をになっているという気持、これを忘れちゃあいけないね。こういうこった。 この三つ。まず人間として社会、あるいは人類への奉仕を考える。二番目が、自分の心の向上。三番目は、神様、仏様を勝手に利用しない、ね。彼らの理想の一部として、自分を生かしていく。こういう観点が大事です。 まあ、そうした自己実現のためには、この『高橋信次の新幸福論』をどんどんどんどん読んでください。多くの人に読んでもらってくださいね。これ僕の自己実現だけど、神様のためになりますからね。いいですか、よーく勉強するんですよ。そしてみなさん、心磨いて、立派な天国に還って来てくださいね。 続々と今後も本を書いていきます。どうか、心待ちにしてください。それがみなさんの自己実現になりますように。僕の本を読むことが、理想実現でありますように。そう願って、本書を終えたいと思います。
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幸福の科学出版株式会社設立(1987年12月24日) 関谷晧元著「虚業教団」より、設立の裏側 「ここで、〈幸福の科学〉のいわば生命線であり、会の発展に大きな貢献をした(幸福の科学出版)の設立について述べておきたいと思う。ご存じの方も婚いと思うが初期の霊言集は、潮文社から出版されていた。大川の霊言テープあるいは原稿を、善川が持ち込んでの出版だったらしい。ところが八冊目か九冊目で、潮文社社長のK氏と大川父子が対立した」 原稿はできても本にしてくれる出版社がない。困っているところへ助け船を出したのが、やはり中原幸枝だった。中原の紹介で、彼女の本を出版したことのある土屋書店がピンチを救うことになった。また、高橋守人が社長をしていたコスモ印刷の協力で、幸福の科学出版名で 『高橋信次霊訓集1・2・3』や『神霊界入門』を出している。 第三の大黒天と言われた高橋守人も、〈幸福の科学〉の草創期からかかわり、苦い思いを抱いて去っていった仲間の一人だった。現在は、会とは独立したかたちで、幸福の科学出版株式会社が出版活動をおこなっているが、そのもとになった幸福の科学出版は、もともと高橋が大川に提案してつくられたものと記憶している。大川もいずれは本格的な出版社を持つつもりでいたのだろう。出版社を興したら重責に据える約束で、高橋に全面的な協力を求めた。前記の四冊などは、出版経費の全額をコスモ印刷で負担している。機関紙の印刷も原価でおこない、会員への発送も会社で引き受けるという献身ぶりだった。しかし幸福の科学出版株式会社が設立されてみると、高橋のポストはどこにもなかった。彼が憤るのも当然だろう。この事件ついては、高橋本人が雑誌やテレビで告発しているので、ここではが詳しく触れない。 高橋守の証言(江川紹子構成「私は大川隆法に裏切られた 『幸福の科学』元幹部が告発」 『週刊文春』1991年10月3日号掲載) 私の知らないところで(会社設立の)計画が進められていたんです。いきなりこういう文書(「幸福の科学出版株式会社設立案」)を出されて、言うべき言葉も見つからないという感じでした。 年を越してから決定的なものがやってきました。幸福の科学出版の社長になったH・Kさんが「覚書」と題する一通の書面を持ってきたんです。 これまでうちの会社で出版していた7冊の本の出版契約を解除し、版権を幸福の科学出版に戻せという内容でした。大川氏直筆の出版契約書では、5年の契約だったのですが。 H・Kさんに「神理のものは神理に戻しなさい。あなたも会員で、しかも役員でしょう。版権を返しなさい」と言われました。私は印税を払っていましたので、なんでこういうことになるのか分からない。 その話がまとまらないうちに、彼らはうちにも、発売元の出版社にも無断で、大手取次に口座を開設しようという動きに出ました。 しかも、私や発売元がそれを妨害しているようなデマが聞こえてきましたので、私はそれに抗議した。すると、大川さん直筆の手紙が届いたのです。3月2日付のその手紙は、高橋氏への"詫び状"だった。レポート用紙にサインペンで書かれたもので、〈私自身の組織運営上の未熟さから、高橋様にも種々ご迷惑をおかけしているのではないかと反省される点も多々ありますが、ご寛恕頂ければ幸いに存じます〉などと記している。(江川註) 名前 コメント このページを編集
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目次 1.不幸な人生観に満足せず、永遠の生命をつかめ 2.人生をこの世限りとみるなら、無常の風が吹きすさぶ 3.あの世は「現にあるからある」と言っているのだ 4.旅の途中でみずからが旅人であることを忘れ去った人間 5.師を失うとすぐ山を下りはじめたかつての弟子たち 6.真実の道は険しい 7.ジイドの『狭き門』のアリサとジェローム 8.天国の門は二人ではいるには狭すぎるのか 9.招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない 10.執着というこの世的なお荷物を持っている人は、生命(いのち)に至る「狭き門」をくぐれない 11.ヤシの実のワナにつかまった猿のたとえ 12.力を尽くして永遠の生命の世界へはいれ 1.不幸な人生観に満足せず、永遠の生命をつかめ 第一章「新創世記」、第二章「甦る仏教」、とこうきまして、第三章で「永遠の生命」ということに関して今日はお話を続けていきたいと思います。 永遠の生命というのは、これは宗教をやる人にとって本当いちばん根本的なテーマなんですね。 この永遠の生命をつかむかつかまないかということがね、宗教家としての自覚の強さ、あるいは弱さにも関係するのです。 まあ生きている人たち地上にいる人たちはね、私たちの目から見てみると非常に不幸な人生観でもって生きておるわけなんですね。 みなさんどうしてね、そう自分を不幸にするような人生観を持ちたがるのでしょうね。私はそれが不思議でしょうがないんです。 どうして自分の人生は一回きりで、六十年、七十年で終わってしまうと思っちゃうんでしょうかね。 まあ六十年、七十年あればいいけれども、高橋信次なんかは四十八年で終わりました。 四十八年で本当に線香花火のように、パーツと燃えて尽きてしまうだけで、人生が終わってしまうなら、なんのために高橋信次があれだけ努力したか、この意味がないですね。 私は『心の発見』三部作、現証篇、科学篇、神理篇、この三つを書きました。もともと『縁生の舟』という題で出した本ですけれどもね、それから『心の原点』『原説・般若心経』『愛は憎しみを越えて』『人間・釈迦』四部作、『心の指針』『心の対話』まあこういう本をいっぱい書きましたね。 あれだけ私が夜も寝ないで原稿用紙を埋めるために一生懸命万年筆を走らせて書いて、そして全国津々浦々の人々の前で、汗を流して講習してそして現象をして見せて、講演会で入場料を一円も取らずに、あれだけやってきて、やがて四十八歳でバッタリいってね、それで高橋信次という個性があっさりと消えてしまうなら、私はなんのためにいったいやってきたのか。その意味がないじゃないですか。 みなさんそういう人生観で満足できますか。私は、高橋信次という人間はね、有限で、四十八年生きて、それで終わったら、もう焼場で焼かれてそれで人間灰になって終わってしまって、それで満足かというと、それで満足じゃないんですよ、満足じゃないからこうやってでてきて、こうやってしゃべっておるんです。 2.人生をこの世限りとみるなら、無常の風が吹きすさぶ みなさんそんなつまらない人生観をどうして信じるのですか。 だれに教わったのですか。学校の先生ですか。友だちですか。ご両親ですか。 人生がわずか数十年で、本当に終わってしまうものなら、なんのためにみなさん小学校に上がって、一生懸命勉強していい中学校行って、一生懸命勉強していい高校入って、また勉強に勉強を重ねて、四当五落とかいって、四時間睡眠なら合格、五時間なら落第というような厳しい受験勉強の間、一年も二年もやって、そしていい大学に入って、そしてまた企業に就職して、そして定年がきて、会社クビになって、あと子供たちに馬鹿にされながら、余生を送ってね。そのうちポンコツの人となって、恍惚(こうこつ)の人になってホイホイになっちやって死んじゃうと。これで土になっちゃってもう終わりなんだと。 肉体が滅びたときにすなわちその人の人生が終わるのだということであったら、何のために一生生きてきたのでしょうか。何十年も人生汗水たらして生きてきたんですか。何のためですか。 それはその日その日がひもじいからですか。 ひもじいから三度のご飯を食べないと、ようするに体がもたない。三度のご飯食べるためには、お金がなければいけない。お金を稼ぐためには働かなければいけない。働くためには就職しなければいけない。就職するためには学校出なければいけない。学校出るためには勉強しなければいけない。 それでみなさん小学校から、ズーッと勉強しているんでしょうね。ただ三食食べるということのためでしょうかね。どうでしょうか。 それとも、きれいな嫁さんもらうためでしょうかね。 そのきれいな嫁さんも、やがて年とって三十になったら目尻にいっぱいしわが増えて、エドガー・ケイシーの霊言でしわのとりかた聞いたって、エドガー・ケイシーだって困っちゃうんですよ。 三十になれば烏(からす)の足跡でね。目尻にしわがよるんですよ。これは自然の摂理なんでエドガー・ケイシーがいくらがんばったってこれは治りゃしないのです。ほんとう言うとね。こんなもの。 四十になればあなたね、もうおばさんですよ。どうがんばったって、どんな映画女優だって、いいかっこしたって、お化粧とったらもうおばさんなんですよ。無理なんです。 五十過ぎたらもう白髪が出るんです、どんなにしたって。 六十過ぎたら腰曲がってたまるものかなんてね、ヨガの体操一生懸命やったって曲がるものは曲がってくるんです。どうしようもないんです。 女性だって頭のはげるんだっておるんです。毛が抜けてくるのがね。みなさんもそういうふうに生物学的にごく自然になる。まあ生物学的にそうなるんですよ。 七十過ぎて赤ちゃんみたいになるような人はおらんのです。あんなポチャポチャしないでみんなしわくちゃになっていくのです。これは逃れられないのです。 これでもって本当に「是(よ)し」と思いますか、ということですね。 あなた方はそんな不幸な人生観を受け入れて、それで本当に満足しているんですか、ということです。 本当に七十歳で自分が死んで、そしてあとは灰になって焼かれてね、灰になって空中に二酸化炭素で散らばってしまって、それで本当にあなたは満足ですかと。そんな人生って本当に正しいと思いますか。 何のために努力したんですか。何のために教えてきたんですか。こういうことをもう一度ね、よくよく考えてほしいんです。決して自分が本当に幸せになるような人生観を持ってないはずなのですね。 3.あの世は「現にあるからある」と言っているのだ どうせそれこそ七十年で死ぬならね、あなた、もう生きている間もう好き勝手しないと損ですよ。 毎日、毎日、ドンチャン騒ぎしてね、ハイ、焼かれるってことになって焼き場に行って「ああ焼かれた。ああこれですっきりした。もうさっぱり私はこれでなくなった。」ってね。 生命がなくなったと思ったらね、「あらっ」と思ったら焼き場の屋根の上あたりをフラフラ飛んでいて、「あら、どうしたんだ。俺死んだと思ったらまだ生きてるなんておかしいなあ。」と思ってそのあと迷って子孫のところへ出てきて、幽霊がでたって恐がられるのがオチなんですよ。 こんなもんなんです。そんな淋しい人生観を持っている人というのは。 ところが、なぜかこれをみんな信じている。学校の先生や、インテリたちは、みんなこれが当然だと思っている。 文部省だってそうですね。霊とか魂ってのはもう古代の信仰になっちゃってね、現代はダーウィンの進化論以来そんな馬鹿な話する人いなくなった、なんて言っています。平気で言っています。 そんなまちがいを堂々とね、国の機関が教えて本当いいんでしょうかね。 事実はひとつなんです。ふたつないんです。片方が正しければ、片方が間違っておるんです。もうはっきりしているんです。 あの世の霊がこうやって話している以上、あの世があるんです。霊があるんです。人間は永遠の生命を生きておるんです。もうこれははっきりしておるんです。これはもう解釈の分かれようがないんです。思想上の問題じゃないんです。 「ある、ない」というのは、思想として認められる認められないの論争の問題じゃないんです。「現にあるからある」と言っておるんです。どうしようもないんです。 あるもんはあるんですから。そういうふうにできておるんです。それを認めないで嘲笑(あざわら)う、これが大多数の人々です。 おかしいと思いませんか。地上の大部分の人たちがそういうふうな病気にかかっておるわけです。みんな、頭がおかしくなっているのですね。いねば記憶喪失になっておるわけです。 4.旅の途中でみずからが旅人であることを忘れ去った人間 たとえて言うとね、人間というのはみんな旅をしておるのですね。いろんなところを旅して、旅から旅へとね、股旅(またたび)のなんとかでね。清水の次郎長さんじゃありませんけれども、旅をやっとるわけです。これがおもしろいんですね。 ある山あいの村にはいると、何かそこが非常に居心地(いごこち)がよくてね、食物が豊富でね。お金がザクザクでね。娘はきれい。そういう村にはいってドンチャン騒ぎしているうちにね、みなさん旅していたことを忘れちゃうんですね。 そしてそこにいるときれいさっぱり記憶を忘れちゃって、もうこんないいとこないっていうんで、もう昔からそこにいるような気になって、ここ以外に世界がないぐらいの気持ちでおるのです。 本当は旅してきたんですよ、いろんなところをね。それで途中の宿場町に泊まっておるだけなのだけれども、あんまりその宿場町がキラキラ、キラキラ、ネオンがキララするもんだから、居心地がよくて旅人であることを忘れてしまったんです。自分はね。 いつしか通行手形も忘れちゃって、いい気になっとるんです。 で、その村では独自に自治をやっとるわけですね。そうすると村長さんがいてね、「村の者よ、よく聞け。」と。 「この村は全世界の中心であり、この山の向こうはもう崖になっとって宇宙の果てだ。」とね。 「ここ以外世界はないんだ。」とね。 「これがすべての地上である。すべての国だ。みなさんはこのようなすばらしい国にいることを誇りと思わねばいかん。この国から一歩でも出たらいかん。この村から一歩も出ちゃあいかん。それはもう地の果てであり、この世の終わりなんだ。この村だけが完結したすばらしい世界なんだ。このなかでみなさん精一杯いい人生を生きましょう。」こういってやっとるわけですね。 そしてその村の教育委員がでて来てね。「ああ、その通りです。みなさん、霊魂なんてありゃしないんです。人間というのは一回限りで、この村でドンチャンやって死ねばそれで終わりなんだから、もうできるだけね、ここは温泉町でもあるし、芸者をあげて朝から晩まで酒を飲みましょう。」と。「これが一番いいんですよ。」とね。 「学校の先生に給料払うためにだけ、子供を学校に通わしましょう。」ってね。 「どうせ死んだらもう終わりなんだからね、まあ生きている間、ほっとくともう暴走族か、なんかやって悪いことをするから、とにかく受験勉強さしてね、縛りつけとくと悪いことはせんだろう。」と、まあそういう話をしとるわけです。 こんな狭い世界観で、こんな有限の人生観で、満足しておるのですよ。 あわれというしかありません。あわれです。 そして現代のインテリと言われる人たちはほとんど、これを信じておるんです。 この迷妄(めいもう)を醒(さ)ますためにいろんな光の指導霊たちが出て、いろんな人にいろんな教えをしとるのだけど、どうしてもそれをすぐ忘れちゃうんですね。信じられない。 5.師を失うとすぐ山を下りはじめたかつての弟子たち 高橋信次は、昭和五十一年六月、東北講演から帰ってきて、力尽きて二週間ぐらいしてポックリいきました。 そうすると、私がポックリいくと、それまで教えを受けてた人たちはどうなんでしょうかね。 私が講演会で永遠の生命の話をして、そして人間には転生があるんだ、過去世があるんだと。過去世があって過去幾転生してきて、それで現在があるという以上、未来世があるんだということを力をこめて私は何十回、何百回と話をして、そして現象をして見せてきました。 そして聴衆はみんな信じてたかのように見えて、先生がポックリいったらもうそれでまた信じられなくなる。こんな人たちなんですね。 目に見せるときには、現象を目に見せるときには信じるけれども、すぐそれを忘れてしまう。これが人間の愚かさであります。 こういうことを気づかすためにね、過去イエスだとか、ブッダとか、モーゼとか、いろんな偉い人がいっぱい出てきて教えてきたんだけれども、その人たちが地上を去るとまた忘れちゃう。こういうふうになるんですね。 どうしても低きに流れていくんです。どうしてもエベレスト山みたいな高い所に登ることがいやだから、川の流れにのって低いほうへ低いほうヘタラタラ、タラタラ流れていくんですね。らくちんだからです。 エペレストの山に登るのはたいへんだから、高橋信次がでてきて「こら、みなのもの、荷物をひとつにまとめなさい。ピッケル持ったか。サンダルじゃだめだぞ。山登りだから山靴はけよ。山高帽もいるぞ。弁当つめたか。缶詰持っても缶切り忘れちゃいかんぞ。雪のなかで迷ったときにチョコレート食べとったら一週間ぐらい生きのびて助かった人がおるから、チョコレートのひとつやふたつはポケットにいれておけよ。」ってね。 「ロッテのチョコレートだけじゃなくて他にもチョコレートいいのあるぞ。」と。まあそういう話をしています。 そしてみんな私のあとに続いて山を登っとったんだけれども、高橋信次が四十八合目あたりで、ちょっと谷底へ落ちたら、コロッと落ちたらね、「あらもう先生いなくなった。」ってね。「先生いなくなったら山登りの本当の意味がないんじゃないか。」なんてね。 「やめた、やめた、やめた。」といってね。 みんなリュック捨てちゃってね、「やめた、やめた、やめた、この山登りなんて馬鹿馬鹿しい。」なんてね。 「登りはつらいけど、下りは楽だぜ。」って、みんな楽なかっこうしちやって、トントントントン山を下り始めました。 そうすると、「あいつも下るなら俺も下る。」なんてね。 「馬鹿馬鹿しい、頂上なんて誰も行ったことがないし、わかりゃしないんだよ。」って、「山に頂上があるとは聞いているけれど誰も行ったことがないし、頂上へ行ったってまた下らにゃいかんのだから、どうせ下るのなら登る必要がないや。」なんてね。そういうことで下り始めました。 そして仲間のなかの何人かがね、そういう楽なことをして山道下り始めると、登っていた人たちは、やっぱり気になってきますね。 山道登るのはつらいけど下るのは楽そうだし、下のほうに行ったらなにか楽しそうなところがいっぱいあるみたいだから。富士山のてっぺんてネオン街ないしね。温泉もないしね。芸者もいないし、刺身もなきゃ、なにもないと。鳥の唐揚げもありません。 これじゃやっぱりつまらんからね、ふもとにおりていきゃぁ、あなたお店もいっぱいあって、富士五湖のあたりなんかネオンキラキラして、もうほんとうに生命(いのち)の養生(ようじょう)ができます。だから先頭集団が下り始めると、みんなついて行きますね。これがかつての私の弟子たちです。 現在あわれにもね、先生がもう四十八合目でちょっと沢のほうに落ちたかと思ったら、もう山登りやめちゃって、みんな下り始めた。「こんな危険なことやめよう、やめよう。やめよう、危い。みんな下へ下ろう。これ以上登ると雷が落ちるかもわからんしね。雹(ひょう)が降ってくるかもわがらん。もう下ろう下ろう。」ってね。 指導者がいなくなるとイチコロです。それでみんな我先にと下り始めましたね。こんなもんなのですよ。 6.真実の道は険しい あれだけ私が山の上の大切さ、すばらしさ、その挑戦することのりっぱさを教えてもね、やっぱり低きに流れる。ま、これが人間の性(さが)なんです。 どうか私の言葉を聞いて感ずる人たち、多いはずです。よく考えてほしいですね。やさしいところばかりに本当の道はないんですよ。 真実の道っていうのはけっこう険(けわ)しいんです。険しくとも一歩、一歩登っていかなくてけならんのです。それが修行なのですよ。 イエス様も言ったはずですね。「滅びに至る門は広く、その道よりはいる者多し。されど生命に至る門は挟く、その門よりはいる者少なし」と言っていますね。 7.ジイドの『狭き門』のアリサとジェローム 読んだことありますか、有名なフランスの、あっフランスだったかドイツだったか忘れちゃったけど、どっちかだ。ジイドっていう、アンドレ・ジイドという作家がいて、『狭き門』というのを書いていますね。 『狭き門』のなかでジェロームという主人公がいて一生懸命、刻苦勉励(こっくべんれい)して、徳高い人聞になろうとしておるのですよ。 アリサという二つ年上のいとこがおって、これにジェロームが聖女にあこがれるようにあこがれておるわけですね。 「彼女はいま、私の愛を受け入れてくれない。私の愛を受け入れてくれないのはなぜかというと、彼女はやっぱり私の悟りが低いのを見抜いておるのだ。私は彼女にふさわしいものになるように自分の魂を高めたときにきっと彼女は受け入れてくれて結婚してくれるのではないか。」なんてジェロームが美しい誤解をします。 そうして一生懸命アリサにね、手紙を送ったり自分が最近勉強したことや最近読んだ本のことを一生懸命書いて送りますね。 こんな本読んだ、あんな本読んだと一生懸命送ります。そして感想を書きます。 そしたらアリサはアリサで、背伸びし始めまして、ジェロームがそんな難しい本を一生懸命学校で学んどるなら、私も読まにゃちょっと話ができんから、恋人同士の話ができんので、町の本屋で買いあさって、ちょっと本がないみたいだってちょっと注文したりしますね。 まあ昔、高橋信次の霊言シリーズが出てすぐに版元品切れで、印刷するのに二週間かかって、読者が怒ったりしたことが一部あったようですが、そういうふうにあんまり評判のよい本というのはすぐなくなりますから、アリサが買おうとしても注文しなければいけない。 注文しても印刷屋は輪転機を回すのに時間がかかって製本しなければいかんので、「しばらくお待ちください。」で二週間待っているうちにジェロームからまた次の手紙がきます。 今度はこんなに難しい本を読んだ、そして哲学的発見をした、なんてきますね。アリサは困ります。「しまった。前の注文の本がまだ来ていないのに次の本を読まれた。こりゃいかん。」また探しに行かねばならないとね。 そうしてどうも手紙を読んでいるうちにジェロームという人は、自分をどうやら理想化して、聖母マリアか、あるいはもっと、もっとりっぱな女性だと思い始めているんだと。 ジェロームと会うとこの幻想を打ち砕いてしまうんじゃないかと。女性というのは自分に自信がなくなります。 そしてジェロームがアリサに「会いたい、会いたい。」というと、向こうは「いやいまちょっと困ります。もう少しあなたの勉強が終わるまで私は待っています。」なんていって、いったん体(てい)よく逃げます。 そうすると馬鹿なジェロームはますます頭に血がのぼってきて、「そんなこと言わないでアリサちゃん、会ってください。僕はあなたにふさわしい魂になるためにこれだけ努力したのですから、この僕をどうか受け入れてほしい。」ってね、一生懸命書きます。 そしてもう思い余ったジェロームちゃんは、もう求婚をどんどんしますね。「結婚して、結婚して。」アリサは困ります。 「もうちょっと待ってください。もうちょっとあなたが一人前になられて、働き始められて、りっぱになられたとき、私もあなたにふさわしい妻になれるように修行します。」どうのこうのといいます。 8.天国の門は二人ではいるには狭すぎるのか ジェロームはまだ許されない、それではしかたがない、もっともっと僕は人生修行をしなければいけないと一生懸命やります。 ところが実在の世界から愛のキューピットが見ておると、ジェロームがあまり一生懸命やるのでね、アリサはついていけなくなってね、で自分と会うとね、女性はよくあるんだけれどもね、馬鹿だと思われるのが女性は一番辛いのです。うなずいている人がどっかにいるけれども、それが一番辛いのですよ。女性というのは心のなかで、やっぱり理想的な男性ね、なんというんですか、白馬の騎士が現われて自分を救ってくださる、こういうことを願っておるのだけれども、じっさいに白馬の騎士がきたときにあまりりっぱすぎて、クラクラきちゃうとこわくなってやっぱり逃げちゃうんですね。 やっぱり茂みに隠れちゃうんです。これが女性なんですね。あこがれる気持ちと不安感とのこの両方を持っている生物なのです。女性というのはね。 だからジェロームちゃんがあんまり勉強しすぎて、「いやカントの『純粋理性批判』によれば、かくかくしかじかであって、いやヘーゲルはかく語りき。そしてヘーゲルを乗り越えた高橋信次はかく語りき。」なんてやっていると、もう彼女のほうはついていけなくなるのです。 で、男性のほうがいっくら高橋信次の本がりっぱで難しい、すばらしいと言ったって女性が読んだらチンプンカンプンですね。 GLAでもインテリ向きには『心の原点』を薦めたりするようですけれども、近所の主婦に『心の原点』あげたって読んだって全然分らない。 「なにいっているかわからない。空理空論をぶちまけて高橋信次ってなにいっているの。こんなのわかるわけないでしょ。あの世のしくみとかね、なんだかんだといったり四次元だの何次元だのといったり、酸素が『C02』になってどうのこうのなんて生命科学のことをいったって、さっぱりわからない。」こういうことで世の女性はついてゆけんわけです。 そういうことで、まあジェロームが一生懸余徳の修行をしていくんだけど、アリサがそれについていけない。そうこうするうちに、ますますジェロームががんばっちゃってね、一生懸命修行するわけです。そしていつしかアリサが年老いていくわけですね。 再度ジェロームが結婚申し込んできたときにアリサは「もう私は年をとり過ぎました。」ってね。 「妻となるには年をとり過ぎました。女性とはいえないような体になってしまいました。いまさらあなたに抱かれてもあなたをガッカリさせます。」 女性というのは男性をガッカリさせるのが一番辛いのです。 結局、若いときには容(い)れられず、年をとって自分に勉強ができた、修行ができたと思えば、こんどは女性のほうがもう、年とっちゃってばあちゃんになっちゃったから恥ずかしくて「いまさらあなたの花嫁なんかなれません。」てね。 「いまさら教会でウェディングなどやれません。」で、結局はダメです。そしてアリサは淋しく死んでいきます。 そして死後、ジェロームはアリサの日記というものを読まされます。そうすると本当はね、アリサっていうのはジェロームに力強く奪いとって欲しかったんですね。 「いやよ、いやよ、は好きのうち。」女性の「いやよ」は好きのうちです。「いやよ、いやよ」二回言ったぐらいで男は逃げちゃいけないのです。 「いやよ、いやよ」十回ぐらい言うまでがんばってね、男性が強引に腕力でもって結婚せねばいかんのです。 だからほんとうはアリサというのは、ジェロームが無理やり押しいってくるのを待っとったんですね。紫式部の世界ですね。もう夜な夜な押しいってくるのを待っとったわけです。 それをジェロームが遠慮して垣根の向こうからのぞいたりしているものだから、いつまでたってもダメなのです。 アリサとしちゃあ、「二つ年上で、私はいとこだし。ジェロームにはもっと素敵な人がいるんじゃないかしら。」と。 「どうやら私の年下の妹なんかが」ね、まあ妹は年下ときまっていますけれども、「ジェロームを好きみたいだし、妹と一緒になり、結婚してくれればいいのに。」と思ってみたり、いろんなことを考えます。そういう葛藤があります。 まあこういうふうなことでジイドが『狭き門』という本のなかで非常に理想化しちゃってね、天国にはいる門というのは非常に挟くて、ふたりが手をつないで通るまではいかないのだと。 それだけの広さがない。ひとりが通れるのがやっとでふたりは通れないと。ふたりで手をつないで通ろうとすると、とうとう通れないと。こういうことを一生懸命いってますね。 まあこれは恋愛の大家から見りゃあね、こんなのはジェロームというのは馬鹿の典型であって、こんなのあなた女心知らんのですよね。 もう両親が留守しているときに無理やり二階に押し上って、結婚をせまればいいわけですよ。 それにもかかわらずね、そんなことを言って「徳を磨いて」なんていっているから実際は結婚できなかったんです。ジェロームは馬鹿な男の典型なんですね。 だけど、まあジイドってかたは知ってか知らずか、まあそういうことを理想的な純愛物語に仕立てあげて、天国の世界にはいるというのはね、これほど難しいのだと。ふたりでは手をつないではいれない。ひとりでしかはいれないんだと、こういうふうに書いてあります。 それを狭き門といってね、聖書のなかからとっているわけです、言葉を。 9.招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない 「滅びに至る門は広く、その道よりはいる者多し。されど、生命に至る門は狭く、その門よりはいる者少なし」といってね、ジェロームはひとりで門をくぐったつもりでおるんでしょうけれども。 けれどもね、この物語は、いま、冗談半分に言ったけれども、まあある意味では、普遍の世界の話を書いておるのですね。 ジイドという人がどうもね、ホモっ気があって最後は、どうも女性のほうではなく男性のほうを好きになったんじゃないかという説もあったりしてね。男性として不十分だったんじゃないかというような学者もおるようですけれども、そういうことはどうでもいいのであって、この物語のなかにいわゆる、「生命に至る門が挟い」という話があります。このことはある意味では当たっているのですね。 イエス様も宴(うたげ)にね、「神様の宴会に招かれる者は多いけれども、選ばれる者は少なし」と、いうようなことをいっています。事実ですね。 だから招かれる者、つまり高橋信次のたとえばこういう霊言集、霊示集が出てね、新聞に広告してます。本屋に積み上がっています。これは千円札一枚出しゃね、買えるんです。だから招かれているんです、みなさん。 千円札一枚ポケットから出して買えば、あなた永遠の神理がわかるのです。招かれとるんですけれども、選ばれる人は少なしでね、高橋信次の本を手に取って読む人は少ないのです。 こういうことでね、千円札一枚をなんに使うかというとね、まあろくなことに使いやしないのです。ちょっとパチンコやりゃあ、あなた千円札一枚なんか三分です。ものの三分で自動式パチンコなら消えちゃいますね。 喫茶店にはいったら、もうちょっと軽食たべてコーヒー飲んだら千円です。彼女とデート千円でできません。千円でデートしようとしたら、どっかのホテルのロビーで待ち合わせしてね、喫茶店で、コーヒー一杯飲んで帰るしかありません。これ以外できないです。映画見るには千五百円いるのです、最低。 こういう世界で招かれる人は多いけど、選ばれる人は少ないのです。こういうことでね、水遠の生命ということは、事実としてこの人間に本当は与えられておるのですね。 本当に永遠の生命を生きておるのだけれども、生きておるにもかかわらず、忘れておるのですね。すなわちこのことが、さっきいう「狭き門」の話なのですね。 10.執着というこの世的なお荷物を持っている人は、生命(いのち)に至る「狭き門」をくぐれない 本当はみんな、生命に至る門をくぐることができるんだけれど、この世的な荷物をいっぱいつくっちゃって、くぐれないのですね。「狭き門」のたとえってここからきているのです。 イエス様のいう金持ちが天国にはいれないって話といっしょでね。金持ちがはいれんわけではないんですよ。高橋信次が金儲けしたからといって天国にちゃんと来ていますから。 そうじゃないんですけれども、ようするにね、金持ちってなにかというと、象徴的にいえばリヤカーいっぱいにこの世的な荷物を積んでる人です。 どっか巨人軍の選手が十億円の豪邸を買ったり、あるいは貯金通帳がいっぱいあったりね。株券、有価証券、いっぱい持ってたり、山七つも持っていたりね、あるいは妾(めかけ)さんを五人も持ってたり、子供が十人いたりね。まあいろいろありますわね。 会社を五つも六つも持っておるとか。この世的にいっぱい持っておると。それをリヤカーに積んでくぐろうとすると、もう門が狭くてね、ひっかかって通らないのですよ。 ところがね、かわいそうな人間というのは、どうしてもその荷物を捨てることができないのです。荷物を捨てれば、体ひとつなら通れるのだけれども、荷物を捨てることができない。 それでしょうがないからまたリヤカー引いてね、大八車引いてあなたスゴスゴと坂をくだっていくんですよ。これがたいていの人間なんです。 このお荷物というのは実は執着なんですね。執着さえ断てば人間は生命に至る門をくぐれるのです。ところがそのお荷物、執着を断てないがためにくぐれないのですね。本当は簡単なんです。ところがそれができんのです。 11.ヤシの実のワナにつかまった猿のたとえ 昔こういうテレビ放送があったようですね。猿をつかまえるとする。南の国で猿をつかまえる方法というのがあってね。簡単なんだってね、猿つかまえるのは。 猿はかしこいらしいけど、猿知恵っていってね。ヤシの木かなんかにヒモをゆわえてくくっておいてね、その先に、ヒモの先にヤシの実、空っぽのヤシの実くくっておくんだって。そしてそのヤシの実をくり抜いて、手がはいるぐらいの穴をあけておくんだって。 このなかにね、お米だとかいれておくと、そうすると猿はその穴のなかに手をつっこむんだな。つっこむんだけれども、そのお米をしっかりにぎっちやってね、離さんわけだ。 そして人間がそれをつかまえにいくとどうするかっちゆうと、にぎったままでね、「キィー、キィー、キィ、キィ」言ってね、あばれまくっておるわけですよ。 離せば逃げられるんですよ。手を離せばはいったのだから抜けるんだけど、なかでにぎりこぶし作ってるんですね、ヤシの実のなかで。それであなたね、鎖につながれたとおもってね、ヒイヒイ言ってね、怒ってね、かけ回ったりして結局つかまっちゃうのですね。馬鹿なんですよ。 だけどこれが猿だからみなさん笑ってるだけでね、人間も一緒なんですよ。結局これなんです。 ヤシの実のなかにつっこんじゃって、なかの金銀財宝をにぎっちゃってるのです。で、手を離せば生命は救われるのだけれども、ダイヤモンドがあると思って、指輪があると思ってつかんどるもんだから、手が抜けないでつかまっちゃうんですね。まあ同じたとえです。こういうもんです。 12.力を尽くして永遠の生命の世界へはいれ ですから、みなさんね、逆に永遠の生命というのを得るためには、この世的なものを捨てなければいかんのですよ。 温泉で芸者をあげることはほどほどにして、自分は永遠の旅人であるということを思い出さにゃいかんのです。 温泉で芸者あげてね、もう、旅を満喫(まんきつ)しておると、自分が永遠の旅人であることを忘れてしまうんです。そういうことなんです。 あわれなヤシの実でつかまっちゃった猿のことを思い出しなさい。自分もそうじゃないかということをね。 この世的なものをつかんで、一番大事なものを捨てているんじゃないか。永遠の生命を捨てているのじゃないか。これをどうか忘れないで思い出してほしいんですね。 まあ今日は永遠の生命ということで、比喩(ひゆ)を使っていろんな話をしましたけれども、これが事実なんですよ。で一番大事なもんですよ。 みなさんね、馬鹿な猿みたいにならんで、この世的なものをつかむのやめてね、執着を断って、本当の神の生命、永遠の生命の世界へはいっていこうじゃありませんか。 この世的な執着を断ったからこそ高橋信次はいまあの世で成仏して、こうしてみなさんにメッセージ送れるのですよ。 私みたいにやっぱりあの世にきて霊言集ぐらい出しましょうよ、みなさん。どうですかね。 それが悟るっていうことじゃないですか。私はそう思いますよ。 ま、おもしろい話ばっかりしましたけれども、冗談はほどほどにしてね。ちゃんと悟ってくださいよ。これが私の願いです。
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目次 1.我が復活の意味 2.光は東方より 3.救世の原点 4.心の偉大性 5.釈迦仏教は死なず 6.永遠の光 (1988年6月2日の霊示) 1.我が復活の意味 高橋信次です。さあっ、土屋書店さんのこの高橋信次シリーズも、いよいよ六冊目となりました。前回の『新ユートピア論』以来、一か月半になりましょうか、私もうずうずしておりました。とうとう次の本ができることになって、こんな嬉しいことはありません。 さて、まあねえ、みなさんね、私の本ももう何冊か読んでこられたと思うけれども、ぼちぼち私も本気になってきました。いや、本気になってきたと言うよりも、本腰を入れる気になってきました。何冊か面白おかしく語ってきたわけだけども、ぼちぼち本領発揮、ということでね、高橋信次の真骨頂(しんこっちょう)を出していかねばいかん。そういう時期が来たのではないか。そういうふうに思っています。だからね、まあそろそろ私も腕まくりをし始めた。こういうふうに思っていただいて結構かと思います。 いつまでも手加減はしないよ。バンバン攻めていきます。それは、地上にいるみなさんがね、本当に目覚めてないからだ。いつまで経ってもわからない。霊の世界があるということがわからない。本当にあの世の世界があって、そうした実在世界があるということがわからないでいる。何らかの宗教心は持っているのだけども、本当の世界についてぼんやりしている。そうした人のためにね、わたしは一冊でも多くの手引書を世に送る、送りたい、送り続けたい。こういう熱意を持っています。どんなことがあっても、この自己実現だけは果たしていきたい。 なぜならば、私はこの世を救うという、地上の人びとを救うという、そうした大いなる使命を持っているからです。この使命を果たさないでは、「高橋信次」として生きた意味がないのです。 何冊か私の本を読んでおられる方は、すでに私が生前どんなことをしてきたか、そうしたことも知っているでしょう。また、生前書いた本、『心の発見』の三部作であるとか、『人間・釈迦』であるとか、そうしたいろんな書物を読んで、私の生前の思想を理解した人もいるでしょう。また、霊言シリーズも、これで合計、他の出版社も合わせれば、十冊目ぐらいになると思いますが、ぼちぼち私の考えがどの辺にあるか、その辺がわかってきたのではないか、そのように思います。 結局、「高橋信次」という人間が、今世紀に、地上に、日本にと言ってもいい、生まれたという理由は、「復活」にその意味があったのです。このように、復活して、霊言を送るということ、これが私の今世紀に肉体を持った意味であったのです。 生前、地上にて「GLA」の主宰者、会長として、何年か法を説きましたが、その仕事は、「高橋信次」の仕事としてはほんの一部、最初の部分にしか過ぎなかった。地ならしにしか過ぎなかった。一鍬(ひとくわ)にしか過ぎなかった。そういうことです。生前の「高橋信次」よりは、霊となって以降の「高橋信次」のほうがおそらく有名になってくるでしょう。そうした人がいたのかということが、あらためて気付かれるようになっていくでしょう。これも計画通りであるわけです。 私がこのようなかたちで、霊示集を送り続けているということは、これはまさしく現代の奇跡であろうと思います。この奇跡はふたつの意味から成り立っています。 ひとつは、本人の証明ということを通して、本当にあの世の世界があるんだということを、霊があるということを、これを示している、見せている。こういうことです。 もうひとつは、姿、形なき神が地上に語りかけているのではなくて、つい最近、十数年前に地上に生きていた人間が、そして人びとに法を説いていた人間が、そのまま天上界に還って、天上界の新鮮な気持と、新たな法のもとに、地上に教えを伝えていく、流していく、供給し続けていく、こうした方針をとっているわけです。 みなさんはぼんやりと読んでいるかも知れないけれども、これは大変なことが起きているのです。それは、イエス・キリストが、今から二千年前にイスラエルで復活した時以来の、あるいは、それ以上の事件となっているのです。 みなさんは、イエスが復活したという事実を知っているでしょう。クリスチャンたちの多くは、それが肉体的に復活したかのように、ぼんやりと考えているけれども、それは肉体としての復活ではありませんでした。霊としての復活でした。けれども、イエスは復活してから人びとの前に、弟子の前に現れてみせたけれども、その後昇天していって、二度と人びとの前に現れていません。もちろん、最近、霊示集というようなものを出したりはしているかも知れないけれども、それも二千年も経って、彼自身の評価が定まってからのことです。 「高橋信次」という人間は、まだ生前のその評価が十分に固まっておりませんし、死後十年過ぎても、まだその評価は固まっていません。ただ、私の教えをひとつの流れとして、さまざまな宗派ができているということに対して、現在の人びと、宗教に関心のある人びと、宗教研究家たちも目を見張ってはいるようですが、いかんせん、まだまだその動きは小さく、まだまだその値打ちとしては、小さなものとして見積もられているように思います。 しかしながら、私の「復活」という事件は、おそらく今世紀最大の事件になっていくのです。みなさんはそれだけの事件だと思って、私の書物を読んでいるでしょうか。本当に今世紀最大の事件として、予定されているのです。そしてこれが世に認められた時に、この二十世紀の末に起きた、この「復活」、この事件の結果、今後何千年もの後々までの人びとに、死後の世界があり、魂があり、霊があり、高級霊があり、神があるということを教え続け、伝え続けるという、そうした大いなる意味を持っているのです。 私はそれだけの意味を帯びて、使命を帯びて、現在仕事をしているということをみなさんは知っているでしょうか。わかっているでしょうか。どれだけの情熱と、熱意でもってメッセージを送り続けているか。これがわかるでしょうか。 私の熱意は、一人や二人の人間を救いたいということではない。徹底的に、残らずに、現代の人びとを救いたい。できれば後世の人びとまで全部救いたい。地獄なんかなくしてしまいたい。地獄霊なんかすべて救いたい。そうした意味です。それだけの願いを持って、情熱を持って、今世地上界に肉体を持ち、また天上界に還っても、今、霊言を送っているのです。 どうか、この私の「復活」の意味というものを、よくよく考えていただきたいと、このように思います。 2.光は東方より さて、現代という時代はさまざまな思想があふれ、また、世紀末であって、世紀末思想というものも流布(るふ)しているようです。そして、世界が暗くなるのではないのか。また、天変地異が続々と起きるのではないのか。大戦争が起きるのではないのか。そうした予言、あるいは予知、不安というものが人びとの心に広がっているように思います。 ここで私は、声を大にして言っておきたいことがあります。それは、「光は東方より」という言葉です。救世の光は、この東方の地から始まるのです。東方とはどこか。それは、この日本であります。 現代の日本に生きていて、この私の書物を手に取る人びとよ、私はみなさん方一人ひとりに言いたい。 みなさん方は今、大救世運動の現場に在(あ)るということを知らなくてはいけない。それだけの時代感覚を持っていなければならない。そうした時代の渦(うず)の最中(さなか)に自らがいるということを、知らなくてはならない。これを忘れた時に、大変な間違いが起きます。 何が大事だと言って、目の前で、これだけ大事な、何千年に一回の大事件が起きていて、これに気が付かないで、酔生夢死(すいせいむし)の人生を生きるということほど馬鹿なことはないのです。本当にこの大事業の意味を知った時に、みなさんはもう本当は、会社の仕事だとか、商売などやっておれないのです。それどころではないのです。 今から二千年前に、イエスがパレスチナ、イスラエルの方面に出て、法を説き始めた時に、湖の辺(ほとり)で網を打っていた漁師たちに、「我について来よ、網を捨ててついてきなさい。汝らは魚を捕るのはもうやめなさい。我に従い来て、人間を漁(すなど)れ。」こうしたことを言ったはずです。「魚を捕って商売をするのではない。そうではなくて、人を救う仕事をせよ。そのために我について来よ。家族だとか、親戚だとか、職業だとか、生活の不安だとか、そんなものに執(とら)われてはならん。人びとの心を救うという、この偉大な使命のために、我に尽くせよ。我と共に従い来よ。そして、偉大な救世運動を起こしていこうではないか。」そのようにイエスは威厳をもって言いました。 みなさん、しかし、現代という時代のこの危機的状況は、イエスの時代よりも遙かに深刻なのです。イエスのいたイスラエルの時代も、戦争といい、世の中の乱れといい、殺人や強盗や、そうしたものがいっぱいありました。けれども、その時代よりも、これから起きる時代の渦、この暗黒の時代の流れというものは、その数倍、数十倍、それだけの深刻さを帯びているのです。 そうした時代に、人びとの心に灯(ひ)をともし、そして世界を明るくしていこうという運動のために、馳(は)せ参(さん)じないということは、これは大変な間違いであります。本当にこの真実の法に触れ、真実の救世運動を知った時に、網を捨てて来なければいけない。すべてを投げ捨てて駆(か)けつけて来るぐらいの、それだけの勇気と、気力と、知恵がなくてはいけない。 みなさんはこの地上で、自分が生き易(やす)く生きようと思う、そんな心に執われてはならない。地上的なる執着に執われてはならない。我が身可愛さのためだけに生きてはいけない。そうではなくて、さて、どうやってこの運動のなかに身を投じていくか、これを考えていただきたい。 私がかつて指導した何十万人の人たちも、今、日本各地に散っておりますが、まだ、私のかつての羊たちは、羊飼いの声がわからないでいます。高橋信次がこうやって復活していても、その羊飼いの声を聞けないで、耳を傾けないで、集まってこない羊たちが数多くいます。そうした羊たちに対して、私は今一度、この岩の上に登って大声で呼んでみたい。 君たちはいったい何をしているのか。私が呼んでいるのもわからないのか。私が呼ばわっているのがわからないのか。我が声を忘れたのか。高橋信次があれだけ、生前、声をふりしぼって話してきたことを、君たちは聞いていなかったのか。学んだことはいったい何だったんだ。何を学んだんだ。忘れたか。 あれだけ自分の心をつくるということを、そして霊的世界の意味を、また、魂の重要性を説いてきた私の教えを忘れたか。私がさまざまなかたちで霊示を送っていても、まだ気がつかないのか。君たちは何をしているのだ。この大救世主の降臨に際して、大救世運動が今、起きようとしているその時に。 私がかつて、今から十年以上昔に、「GLA」という団体において説いてきて、人びとを教化した、この何十万人かの人びとを指導したという実績が、全く無駄になってしまうではないか。君たちは何をしているのか。君たちがそういうふうにして私の声に気が付かなければ、高橋信次の生前の四十八年間の意味がなくなってしまいます。それが無駄になってしまいます。 何のために私は四十八年、地上に肉体を持ったのか。そして晩年の七年、八年の間、死力を尽くして伝道したのか。過労で死ぬところまでいったのか。その意味がなくなるではないか。君たちは、私の死を無駄にしたいのか。私の死を無駄にしたくないならば、君たちはもう気付かねばならない。気付いて立ち上がらねばならない。 なぜ力とならんか。なぜ協力しないか。なぜ光の一端として地上に勇気を持って生きていこうとしないか。君たちは一体何をしているんだ。目を覚ませ。早く目を覚まさないでどうするか。 3.救世の原点 私は、今、本当に重要な時期が来たということを、君たちに伝えたいと思う。 もうのんびりしている時ではない。そういう時代認識を持たねばならん。人類に対する危機が迫っている。君たちは本当に、たとえば、高橋信次のこうした霊言・霊示集とか、イエス・キリストの霊示集だとか、モーゼの霊訓集だとか、あるいは仏陀意識の再誕の意識、再説の教え、こうしたものを学んで何とも感じないのか。これが持つ意味がわからないのか。 私は生前、話をしました。人類のなかでは高級霊は数多くいるけれども、釈迦、キリスト、モーゼ、この三人の霊こそ、地球系霊団の最高指導霊たちです。こういうことを教えたはずです。そして、イエス・キリストの過去世の意識、アガシャーという霊の名をとって、この地球霊団がアガシャー系と呼ばれているということを、そうしたことを話したことがあるはずです。そしてそのアガシャー系の霊団は、「愛」というものを旨(むね)として生きているということを、私は語ったことがあります。 今、イエスが「霊示」というかたちで復活をし、モーゼも「霊訓」というかたちで復活をし、また、かつてイエスやモーゼが地上にあった時に、エホバという名で彼らを指導した私が、地上に肉体を持ち、その後地上を去ったあとで、今、こうして霊訓・霊示集を送り続けているということの意味を、君たちは果たしてわかっているか。本当に私がどういう気持でもってやっているか。それがわかっているか。 まだこれだけ本を出してもわからないのか。まだ気付かないのか。本当の意図がわからないのか。私が何を望んでいるのか、何を願っているのか、それが君たちにはわからないのか。 そんないい加減な生き方をして、それでどうするのか。これからもまた今までのように、怠惰(たいだ)な日々を送っていくつもりなのか。天変地異が起きれば、その時はその時でいい、それまで楽しく人生を生きればいいというような、そんな享楽(きょうらく)志向で君たちは生きていくつもりなのか。本当にどうするつもりなのか。それをはっきりしていただきたい。私はそういうふうに思います。 君たちはね、そんな生き方で満足してはいけない。本当の人間の使命に目覚めなさい。何のために地上に出ているかということ、これに目覚めなさい。 君たちが、今、この地上に、この時期に、この日本に出ているという意味は、「救世」のために出ているのだ。救世の運動のために出ているのだ。特に、今の現代の日本に出ている数多くの光の天使たちは、この救世運動に合流しなければ、気が付いてやらねば、今世に出た意味がないということを知らねばならん。 かつて、「GLA」というところで私が指導していた時に、私のもとに光の天使が多数集まって協力をしていた。そうした人たちも、私が地上を去るや羊飼いを失った羊のように、あっちに散らばりこっちに散らばり、エゴの思いでもって利己主義者となって、自分の利益のためだけに生きている。そうした弟子たちに言いたい。 私は、今の君たちの姿を見ていると、本当に情けない。涙が出てくる。何のために出たのか。我が教えを全く学んでいないし、私が復活した時に気が付いて飛んで来ないようでどうするか。そんなことで、何を学んだと言えるのか。 ましてや、我が復活を疑い、それを妨害しようとするような動きに出るような人たち、弟子たち、こうした者は、私ははっきりと破門する。君たちのそうした馬鹿げた行為が、どれだけ君たちの師を悲しませているか。私がどれだけの情熱を持って今、復活しているか。君たちに教えを説かんとしているか。そして君たちに力になってもらいたいと思っているのか。 私が復活をし、霊示を送っているということは、ここを中心として救世運動が起きるということである。そして、かつての我が教えを受けた者たちも、どこかで合流して、力を合わせて、日本の国を変えていくために頑張ってほしいということ。私はそうしたことを祈っているのです。願っているのです。その師の願いが、何故(なにゆえ)に君たちにはまだわからないのか。 私は声を大にして言っておくけれども、救世の原点というのはね、人を救わんとする情熱だよ。人を救おうとする情熱を忘れた時に、人間は存在の意味がなくなるんだ。何のために地上に出たか、それを知れ。それは、今世で楽しい思いをするためだけではないはずだ。そうではなくて、こうした時代に出る時に、君たちが地上に出る前にどれだけ興奮をし、期待をし、喜びに胸をふくらませ、そうしたやる気で出たか。これを知りなさい。 「よーし、今回、地上に出る以上、徹底的に法を説くぞ。法の伝道を手伝うぞ。何とかして地上の人びとを、本当の人間の生き方に目覚めさせ、そしてあの世の世界の存在を教え、真のユートピアの何たるかを教えよう。」そう思って君たちは出て来たんだよ。 それを忘れて、安穏(あんのん)な生活のなかにあぐらをかき、会社の社長だとか、部長だとか、あるいはボーナスだとか、こんなものに目がくらんで、そして本来の使命をなおざりにしている。これで還って来て、実在界に還って来て、私にどう言われるか君たちは知っているのか。そんな生活でもって、君たちの師が「本当によかったね」と言うと思うか。 私もとうとう業(ごう)を煮(に)やしてきたということを、君たちは知りなさい。これが何冊目の書物であるか。私はもう忘れるほど喋ったけれども、まだわからんのなら何度でも言う。 私が、ここで霊言・霊示集を送っているということは、これが救世運動の中核であり、本流(ほんりゅう)であるということだ。この流れに合流せよ。この流れと共に歩け。この光の内を歩め。そうでなければ、本当に今世紀の事業はない。そうでなければ、高橋信次が肉体を持ったという意味はなくなる。 私の死を、あるいは私の生涯を無駄にしないためには、どうか、この私の声を伝えてほしい。高橋信次の霊言が出ているのだから、霊示集が出ているのだから、これを一人でも多くの人に読んでほしい。広げてほしい。それが私の願いです。一冊でも多く、一人でも多くの人に読んでほしい。そして本当のことを悟ってほしい。私の情熱を知ってほしい。 もう一度くり返すけれども、救世の原点は、人びとを救わんとする、幸福にせんとする情熱です。この情熱を失った人間は、私の目の見えるところから去りなさい。この地上から去りなさい。この地球から出ていきなさい。銀河系から出ていきなさい。この大宇宙の外に出なさい。人を幸福にせんとする情熱のない人間は、地上にいなくてよい。この星にいなくてよい。この銀河系にいなくてよい。その外に去りなさい。私はそれだけの決意を持って、今、この霊示集を世に間おうとしているのです。 4.心の偉大性 私が生前、そして今も、みなさん方に一貫して説きたいことは、「心の偉大性」です。人間の心の持つこの偉大性。これを忘れた時に、人間の不幸が始まったのです。人間の転落が始まったのです。それはアダムとイブの時期からではありませんが、この人間の心の持つ神秘性を忘れ、そして心の本質が神そのものであることを忘れた時に、傲慢(ごうまん)となった人間は、堕落への道を歩んでいったのです。 この地上に生まれ落ちて、さまざまな教育、環境、習慣、そうしたものによって、知と意によって人間の心が歪められ、そしてデコボコのある人生を生きてきたのです。そうしたことによって、地獄というところに数多くの人が堕(お)ち、そして現在も苦しんでいる。 また、そうした地獄の存在が地上に悪影響を与え、地上の人びとへの神の光を遮(さえぎ)り、地上の人びとに憑依(ひょうい)をし、あるいはさまざまな惑わしを送って、そして彼らを苦しめている。不幸の拡大再生産をしているという現状。君たちはこういう現状に、まだ、これ以上、満足していられるのか。 自分を知恵ある者、知性が高いと思っている者が、つまらない動物霊やそんなものに唆(そそのか)されて、そして生きているんです。こうした現状に、君たちは本当に満足できるのか。それでよしと本当に思うか。 政治家だとか、官僚だとか、大学の教授だとか、あるいは大会社の社長だとか、そういう肩書をちらつかせながら、その実、蛇の霊や狐の霊、こんな馬鹿なものに憑依されて、惑わされて欲望のままに生きている人間の数多くいることを知るにつけて、私は本当に情けなくなります。 神様は、あなた方一人ひとりを、偉大な存在としてお創リになったのです。あなた方一人ひとりの心のなかに、神とまったく同じものを与えているのです。そうした創造の自由を、創造の偉大性を教えているのです。与えているのです。なのに、なぜそれを忘れたのか。 忘れたことの責任は神にはない。それは人間にある。神の慈悲をいいことに、わがままいっぱいに、自我我欲のままに地上において生きてきた人間。その間違いを刈り取るのはいったい誰だ。それは自分でなくてどうする。誰がそれを刈り取るのか。 大工場が出した排水による汚染、これは神に祈ることによって本当になくなるか。公害は、神に祈ることによってなくなると思いますか。大気の汚染や、川の汚染、こうした汚染の原因は、人間がつくった企業群ではないか。そうした工場ではないか。工場の煤煙や、そうした排水が公害を起こしたのではないか。それは神に祈ることによって、そうした公害がなくなることが果たしてありますか。ありはしない。そうではなくて、それを垂(た)れ流しているのが人間であるならば、人間の行為によってそれを償(つぐな)う以外に手はないではないか。汚水を流さないことです。光化学スモッグを出さないことです。そうすることが、人間の義務ではないか。私はそう思います。 偉大な心を保つということ、これは人間の義務なのです。これを忘れた時に、転落が始まってくるのです。どうか、こうした事実を知ってほしいと思います。 5.釈迦仏教は死なず さて、救世の法、そして心の偉大性の意味、こうしたことを話してまいりましたが、ここで私はもう一度、声を大にしてくり返しておきたいことは、「釈迦仏教は死なず」ということです。 地上に肉体を持ったゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏(しゃかむぬぶつ)という人間は、今から二千五百数十年前に地上を去りました。そしてその教えの概要は、私は生前、『人間・釈迦』という書物を通して語ったことがあります。 けれども、その釈迦仏教がその後中国に輸入され、漢訳をされ、さらにその漢語が日本で読まれるということに至って、全くその本質が見失われることになりました。釈迦は、当時の無学文盲(むがくもんもう)のインドの衆生たちに教えを説いていたにもかかわらず、それをまるで特権階級の教えのようにしてしまったのは誰か。それは後の世に出た僧侶たちではないか。 また、日本の国においても、そうした経典というものは読まれたけれども、漢文が読めなければ救えないような教えが本当の釈迦の本意であったのか。釈迦はそもそも、そうした漢文を書けたか。漢語で喋(しゃべ)れたか。中国語を仏陀が喋れたとみなさんは思いますか。そんなことはないでしょう。なのになぜ、漢字で書いた般若心経、あるいは漢字で書いた法華経、こんなものを筆写したり、こんなものを朗読することによって人間が救われるんですか。 お経の意味は、それは釈迦と弟子たちとの対話扁であったはずです。「如是我聞(にょぜがもん)」といって、弟子たちは仏陀からこのように間いた、私はこのような教えを聞いた、そうした対話篇を再現し、阿難(あなん)を中心とした人たちがそのお経を再現して、そして記憶し、後の世に伝えたのではないですか。そうであるならば、お経というような漢文体に書いてあること、これが釈迦の本意であるはずがありません。それは現代語で、今、私がこのようなかたちで霊示を送っているように、同じく同時代の人たちにわかるような話であったのです。 当時のインドの人びとの知的水準が、現代の日本人より高いはずはないのです。にもかかわらず、その教育水準の高い日本人が、読んでわからないような教えがあるとはどういうことですか。それがなぜ仏教なのですか。 また、釈迦がどうして葬式仏教なんか教えましたか。観光仏教なんか教えましたか。そんなものを教えた覚えはないでしょう。手を合わして拝(おが)めばよいというような、そんな御利益信仰を仏陀は教えていません。 彼自身、一生を通じて説き来たり説き去ったことは、人間の心の偉天性です。自らの心を見つめていくことによって、どれだけ多くの光を発するか。偉大な魂として自らを磨くか。自己をつくるということを徹底的に教えたのが、これが釈迦仏教なのです。その意味においては、原始釈迦仏教、仏陀が教えた仏教は、宗教ではないのです。現代の文部省が認定するような、宗教の範疇(はんちゅう)に入っていないのです。宗教法人法で言う、宗教に入っていないのです。 宗教法人法では、「拝む対象がある」とか、「礼拝の施設がある」だとか、そんな馬鹿なことを一生懸命言っていますが、釈迦はそんなことは一回も言っていないのです。徹底して教えたことは、どうやって心を調律するか、どうやって心を調和させるか。そしてどうやって「悟り」という名の真実の幸福に目覚めるか。生きながらにして世界の秘密を知るか。こうしたことを教えていたのです。それは「哲学」というような言葉で呼ばれるものでもない。総合学です。総合的な人間学です。これを教えていったのです。 それが今は、宗教の世界と学問の世界が分かれて、宗教というのはまことに摩訶(まか)不思議な世界に封じ込められています。しかし、そんなものではないんだ。本当の釈迦仏教というのは、そんなものではなかったということをみなさん知リなさい。一般に定義されているような「宗教法人」ではないということを、「宗教」の概念に当たらないということを知りなさい。 釈迦が何かに対して手を合わせて拝んだということを、みなさんは聞いたことがありますか。そんなことはない。偉大な教師として生きていた。偉大な教師であったのです。大導師であったんです。それが釈迦の本質です。 どうかね、こうした原点を忘れてはいけない。そんなおかしな新興宗教なんか教えたわけではないのです。だからみなさんは、もう一度原点に戻っていただきたい。釈迦仏教の原点、これを忘れないでいただきたいのです。その原点は、現代でもまだ生きているんです。その釈迦の教えの原点は今もなお、生きているのです。それは、どうやって自らの誤りを修正していくか。自らの心の過ちを修正し、そして素晴らしい人間となって生きていくために、どうしなければならないのか。これを説いているんです。 釈迦仏教は死なず。その精神は死なず。これは不変の法です。神理です。神理というものは、時代によって、さまざまな方便によって説かれることはあるけれども、その本当の姿は不変です。何千年前も、何万年前も変わっていないのです。それは神のお心、そのものであるからなのです。 神の心が、神から流れ出して地上に降りたそのお心は、その説き方は変われども、言っていることはいつも一緒です。あのガンガーの流れが、千年前も二千年前も変わらないように、河の水は同じでなくても、ガンガーの流れそのものはいつも悠久(ゆうきゅう)の大河となって流れています。それが神理の流れです。それが神理の大河なのです。それを知らねばならん。 今、多くの仏教者たちは、お坊さんたちは、自分たちがやっている職業というものをもう一回考えねばならん。その意味を考えねばならん。本当に釈迦の原始仏典、ここに書いてある意味、この教えというものをつかみ直して、それをわかりやすく現代語で人びとに説けなければ、君たちはまったくの間違いです。そうした職業に就いていること自体が間違っています。漢文を読み上げることではない。意味のないお経を上げることではない。本当の世界の仕組みを、そして人間の生き方を教えてあげることが、仏教の本質なのです。こうした観点から、もう一度考え直してみていただきたいと思います。 6.永遠の光 「神は光なり」――そういう言葉があります。私は、この「光」という言葉で表しているものの実質、実相、これを一人でも多くの人に味わっていただきたい。こういうふうに思います。 神の永遠の光、これを地上に生きている時に感じとる人と、感じとらない人とでは、全く違った結果が出てきます。永遠の光は、すべての人間の心のなかに射すことはできるけれども、それを実体験として経験したことのある人間は、おそらく一億二千万の人口のある日本のなかで、わすか数百名、そんなものではないでしょうか。人間としてこの地上に生きて、神の心を心として生きているならば、どうか、この永遠の光の実在ということに、みなさんは気付いてほしいと思います。 それは、私がこういうふうに世に問うているような神理の書、こうしたものを読んで、その内容を日々実践している時に、そうした光が心に射してくることがあります。みなさんの心があたたかくなることがあるはずです。あるいは偉大な導師の、大救世主の話を聞いている時に、心のなかにあたたかいものがサーッと射し込んでくるということがあるでしょう。そのあたたかいものこそ、神の光の本質であるのです。 そうした神の光というのが実在界に充満していて、地上の人間に一日も早く導きの光を与えたいと思っているということを、知っていただきたいと思います。 それはごく簡単なことなのです。日々自らの心を正すという、そうした単純な行為がそうした神の光を招き入れることになるのです。そうした、胸があたたかくなる、心があたたかくなるという、そういう実体験を経た人間は、それなりにひとつのこの世的な神秘の体験を積んだと言えましょう。 どうか、心の調和ということの意味を知っていただきたい。そして心を調和したならば、そうした神の光を受けるという体験をしていただきたい。このように私は思います。 この時に大事なのが、「反省」という行為です。間違った思いを出し、間違った行為をしたと思ったら、すぐ反省によってそれを修正していくこと。そして修正したならば、二度と同じような間違いは犯さないということ。そして、新たな気持でもって出発するということ。こうしたことを実践していただきたいと思います。それが、地上に在るあなた方の使命でもあるからです。 「救世」という言葉は大きな言葉であります。そして、これは大乗的な響きを持った言葉でもありましょう。けれどもこの救世は、やはり一人ひとりの心から始まっていくということ。これを私は声を大にして語っておきたいと思います。一人ひとりの心から始まっていくのです。その出発点なくしての救世はない、救世運動はないのです。まず、一人ひとりが自らの心を神の光と調和させること。これから出発していかねばなりません。 どうかそうした観点で、この救世の大予言、この書物、これを読んでいただきたいと、こういうように思います。
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目次 1.快楽の諸相 2.快楽はなぜあるのか 3.肉体の意味 4.魂の快楽 5.新・進化論 3.肉体の意味 さて、快楽のとこまでいきましたから、やっぱり肉体ね、これも話さなきゃいけない。肉体、なんであるんじゃ、肉体は。昔からもう仏教系統は、肉体をものすごく否定するし、近代のスピリチュアリズムでも、肉体というものなんか非常によくないように言ったりする。霊肉の戦いとかね、肉体ちゅうのは本当に悪の権化(ごんげ)のように言う。せめて擂(す)り潰(つぶ)してソーセージにでもするかちゅうぐらいのもんですね。そういうわけにもいかんでしょうが、よっぽど駄目みたいに思う。 でもね、僕は思うんだよ。もう地上去って僕は何年になるかね。今は昭和六十三年の二月ですから、僕が去ったのは五十一年でございましたでしょうかね。その六月ですから、引き算をするともう十二年近くなるんでしょうか。かれこれね、十二年になりましょうかね。十二年経ってあの世に還ってきました。あの世での仕事ももちろんあるけれども、還ったばっかりの霊っていうのはね、そんなに、あの世で忙しい仕事はないんですよ。いわゆる閑職(かんしょく)に就(つ)かされているわけであってね、まあプラプラしとるんですね、こちらの世界に戻ってもね。 で、僕がいなくても、その間に仕事が回っておったからね、「急に来てくれなくてもいいやー」なんて言われるから僕も困っちゃうんだけれども、社長なんていっても、毎日、会社に出てないと、いつ何されるかわかんないですよ。海外旅行なんか行っていると、社長がね、海外旅行へ行っているうちに、専務なんかに乗っ取られちゃったりすることありますから。 僕も四十八年空(あ)けた分だけちょっと仕事が減ってて、仕事をとり戻すんで今、一生懸命努力してるんですが、まあそういうことはともかく別として、やっぱり地上のことは気にかかるね、地上の人たちを救いたい、なんとかしてね、彼らを救済してやりたい、こう思うけど。まあ執着と言われたら僕は嫌だけど、肉体があった方がいいなーと思うことも、やっぱりあるね。 だからもう一回、今度設計し直してね、こういう地上の人間も、女性の腹から生まれた人間と、霊天上界から直接出てきた人間と、二種類にしてもいいかなと思ったりもしているんだよな。 ある日突然ね、天上界から雪とか雹(ひょう)が降るように卵が降ってきてね、天からボコーッとかぐや姫じゃないけれども天から卵が出てきて、金色のサナギかなんか降りてきて、バカッと開くと出てくるっちゅうね。で、スルスルと一日か二日で大人になっちゃう。そして法を説く。またそのサナギの中に入ってパカッと閉まったらシューと天上界に引き上げられて消えちゃう。こういう霊的誕生みたいのがあってね、光の天使は、みんなもうそのカプセルに入って出てくるようにしたらね、すっきりしていいと思うな。金色のカプセルで落ちてきたなら、光の天使っていうんで、もうさっそく仕事始めて、そんで還って来る。 まあ、こういうふうになれば、苦労も少ないんだが、おカアちゃんのお腹に入って十月十日(とつきとうか)真っ黒の洞窟の中、苦しんでさ、時どき間引かれたりね、鼻の穴詰められたりさ、あるいは引きずリ降ろされたり、みんな苦労しているんだよな。そうして小学校行って通信簿「1」ばっかりもらって怒られるしね、おねしょして怒られるし、こういうことするから僕なんか何億年も出たくなくなるんだよね。だからもう一度考え直さなきゃいかんなーと、今、思っておるんだけどね。 そういうふうに思うけど、やっぱりパッと肉体あって出りゃあさ、もしそういうことができたらね、便利だなーと思うし、今だってやっぱり講演会なんかはやってみたいっていう気持、僕あります。 天上界ではもちろん、人を集めて話はしたりもしますけれども、やっぱり地上へ出てね、僕が地上へ講演会行ってね、「ただ今、高橋信次先生がお見えでございます」なんてね、「特別講演ということで、一時間ほど高橋先生、お願い致します」たらね、私がポコッと出てきてね、「高橋信次でございます。みなさんご苦労さんでございます。もう相も変わりませず、私の話聴いていただきまして、お後がよろしいようで」なんてやっちゃったら本当は便利でいいんだけど、まあそういう社会というか、世界にできてないんでしょうがない。だからそうしてね、肉体なくなってみると肉体の意味がわかるよ。 やっぱりね、これはコミュニケーション手段ですよ。あるいは他の人に対するなんというかな、存在の証明だね。これがあるからね、アイデンティティがあるんだな。肉体があるから「あれが高橋信次だ!」なんてね、「お腹まわりが大きいぞー」なんてね、やせたらやせたで、「やせたぞー」とかね、そういう人間あるからいいんだよな。戸籍があったりしてね、あるからいいけど、ないと、霊になっちゃったらさ、僕がいたってわかんないなんていっぱいあるんだ。 もう本当困るね、僕、何回も同じこと言いたくないけど、わかんない人いっぱいいるんだよ、唯物論者みたい。もうね、霊になったらわかんない。先生がわかんないのかって、本当にね。もう馬鹿かと言いたいけれど、「目に見えません」なんてね。もう古いテーマ出すなってね、そんなこと、内容聞いたらわかるだろう。 僕の話し口調は、親しい人と話していたのと同じ口調で今、言ってるんですよ、みなさん。講義の口調、講演口調ではありません。親しい人に語りかける口調でやってるんですよ。で、僕の身近にいた人たちはみなわかるはずですよ、僕の言葉が。わからんかったら馬鹿だ。君たちはもう豆腐の角(かど)に頭ぶつけて死んじゃえ。ね、そう思う。 そういうふうに肉体っていうのは、証明しなくても本人の証明ができる。これはいいですね、これ最大ですね。で、僕なんか証明ができないことで今、苦しんでいる。教えがいくらよくたって、証明ができないで苦しんでいるね。 神様だって本当は、いじいじしてるんじゃないかと思うよ。もう本当は自由の女神みたいな形、肉体を持って出てくりゃいいんだよ、ボコッーとさ、自由の女神みたいにさ、何十メートルあるか知らんが、ああいうのボコッと生まれてさ、「わしは神じゃ」言うてね、「みんな集まれ」ってね、国会議事堂の前に行ってね、「座れ」ちゅうてね、「神じゃ、神の言葉を聞くんじゃ」って、まあやってもいいけど、そりゃせんことになってるわなー。だから苦しんでいるね、難しいところある。 そういうことで、肉体の意味はね、みなさんね、まあ霊を否定するという面もあるかもしれないけれど、この地上でユートピアを創るために不可欠ですね。肉体があるっていうことは、人間としてこの地上にあるっていうことですよ。僕がユートピア創りたいと思っても、みなさんに認めてもらえない。存在感が、なかなかね。けど肉体があるということは、その人の力がある、生きているだけでも力がある。そういうことだな。 そういうことで、肉体があるからこそ他の人たちと話ができる。霊になると話もできない。肉体があるから人びとと酒も飲める、祝いもできる、歓談もできて、お付き合いもできる、男女交際もできるんでしょう。肉体があるからあなた、手をつないで嬉しいんでしょうが、手つないでお互い肉体がなかったら素通しですよ。天国ではいっぱいあるんですよ、そんなの。 天国でも男女交際ありますよ。四次元、五次元、デートするんですよ。手にぎるけど。「あれ? お前の手どこ行った」なんて、「あら通り抜けたよ、あなた」なんてね、「この辺よ」なんて、「その辺か、じゃ気分だけ持つわ」なんてね、こんなことあるわね。「肩抱いてやろうか」、肩抱いたらスーと通っちゃったりしてね、「おい、どうした」「抜けちゃったわよ。この辺が肩なのよ、この辺押さえておいてよ」なんてね、ありますよ。霊の世界、そうですよ。 みんな、こんな世界来てごらん。彼女とキスしようと思ったら、彼女の頭骸(ずがい)骨の中通っちゃったとかね、たまったもんじゃないですよ。いけませんよ。彼女抱きしめようと思ったらさ、霊の体、半分切れちゃったなんてね。そしてまたくっついちゃったなんて、たまったもんじゃないよ。ね、こんなこと言うと地上よかった、よかったなあーと思うよな。でね、豚肉なんか食べちゃってね、トンカツなんか食べて、口なんか放り込んじゃったらストーンと抜けちゃったりね、そんなのしたら、たまったもんじゃないよな。 だから地上がよかったような感じするんだよ。あの世還ってくると現実感がなくなってね、そういうふうな手触(てざわ)り、感触がないんだよ。ああ、地上で彼女の手を初めてにぎった時のあの感触、あの口づけ、彼女がニンニク食べて臭かったこと、こんなの思い出してね、あなた懐かしむんですよ、非常に。 だから肉体の意味がね、やっぱりこっち来たら、よくわかります。それだけのね、やっぱり意味があるんです。だから存在感があって、本当にユートピア創りのね、ブロックのひとつになれるっていうとこね、これは僕はいいと思いますね。まあそういうことが肉体の意味です。 だから霊的なことを阻害(そがい)するということもあるけれども、ただこの地上でのね、やはりこれがアンテナでもあるし、戦車隊でもあるしね、あるいは兵隊でもあるしね。地上でのユートピアの戦士になるためには肉体はいるんです。 だからそういうふうに、肉体を馬鹿にしないでね、積極的に使ってくださいよ。人と話ができる、楽しいことですよ。そう思ってくださいよ。 僕なんかお風呂に入りたくっても肉体がないぐらいだからね、入れないですよ。悲しいでしょう。どうだ。服着たいって思ったら服が出て来るんだよ。これも不自由だぜ。まあ、そうしたことです。ね、時どきは右肩、脱きゅうしたりいろいろすることもあるでしょうが、肉体があるってことはいいことですよ。本当そう思いますね。 だから僕だって、もしね、仮りの宿りであっても肉体をちょっと貸してくれたらね、貸し自転車みたいに時どき出てきたいと思うんだけど、悔しいけど残念でしょうがない。そういうことだから、みなさんは少なくとも高橋信次よりも幸福なんだ、まあそう思ってくれ。 4.魂の快楽 さて、快楽の分析をやっているわけでございまして、肉体の快楽のところ、本当はもっと詳しく言ってほしかったでしょう。でも言わないね。これはやっぱり映倫にひっかかりますからね。やはり文部省検定ないけれども、やっぱりどっかでね、検定にかかって、わいせつ文書なんかにされたら困るもんね。 特に僕の弟子なんて、おかしいのいっぱいおるからね。今、あちこちで飛んだり跳ねたりしているから、「高橋信次が、こんなわいせつなことを言うはずがない」っちゅうて発禁処分なったり、焼いたりね、捨てられたりしたらいけないから、日本の木、あるいはカナダの木かなんか知らんが、切ってね、パルプにして、紙にして、この本つくっているんだから捨てられたら困るからね、魂の快楽という話をしておこう。 もちろん魂の快楽という以上は肉体の快楽に比べて、やっぱり高度なんじゃないか、上級なもんじゃないか、高級なもんじゃないか、人はこう思うわな。そりゃあ、そうです。魂ちゅうのは、まあ肉体用のね、霊体だな、肉体のような姿をした霊体でね、死んだ後、こっちに来ている人は、しばらく魂で、もちろん生活しています。 で、魂にとって快楽って一体何かっていってね、やっぱりあるわけですね。地上には味覚があったり、臭覚があったりね、触覚があったり、いろんな感覚がありますが、魂には魂の感覚があります。こちらに還ってくると、それは地上の肉体のような現実感はもはやありません。ないけれども、魂には魂の感覚があります。そのひとつは非常になんて言いますかね、感性、心の部分が非常にキンキンと響いてくるんですね。この部分があるということですね、キンキンキンキンと心に響いてくるものがある。 たとえば地上にいると、人から優しいことばをかけられたら、やっぱり嬉しいと思うね。ただこの嬉しいっていう感じが魂になると十倍ぐらいになるんだな。「なんとかさん、美しいですねー」って言ったら、「まあ、嬉しい」っていうその嬉しさが、あなたバラの香りにつつまれた何とか石けんの宣伝じゃありませんけれども、もうそういうふわふわと嬉しさがね、十倍ぐらいになる。本当に人からほめられたり、人を愛したときの喜びがね、十倍ぐらいになるんですよ、魂になると。 肉体に宿ると、この魂の一割ぐらいしか、十パーセントぐらいしか出てないって僕は教えたけれども、だから肉体を去るとね、魂になると今度は十倍になるんだよ、感覚が。その心の感覚が十倍になるんだよ。だから嫌なことだったら十倍に感じるし、いいことも十倍に感じます。それだけ感度がよくなります。素晴らしいことっていうのはやっぱりね、十倍ぐらいに感じます。本当にそう思います。 だからそういうことでね、非常に何というかね、心清い人、あるいは心美しく生きている人にとっては、魂になるちゅうことはたまらんことです。本当にもう美しさは十倍に感じるね、悦びは十倍に感じる。人の素直さ、良さ、こんなのが十倍ぐらいに感じてくるんだな。 ところが地獄へ行くと、これはまた十倍ですよ。苦しみが十倍になるね、針の山なんて、地上の針の山なんてたいしたことがないのに、あの世の針の山なんていうのは、これが十倍痛い。地上の灸(やいと)なんて痛いけど、あの世の灸は十倍痛い。もぐさなんていっぱい積んで火つけられちゃったら、地上にいただけの十倍痛い。 地上で針治療なんてやっているけど、地上の針なんて突いたって痛くないけど、あの世のね、あなた地獄の針なんて、地獄針なんか突かれたら、もう心臓まで突き立っちゃいますから大変ですよ。「これでお前の体、楽になるんだ」なんて心臓をスッと突っつかれちゃって、たまったもんじゃありません。こういうもんです。 十倍と思っていいです。その心に感ずる感じ方ね、心の領域に関する感じ方、感性、これが、だいたい十倍ぐらいに鋭敏になると思ったらいい。苦しみは十倍、楽しみも十倍感じます。だから小さなことでも、ものすごく大きく感じる。そういう感じなんですね。ですから心清い人、その十倍ぐらい輝くんだな。で、地上で、「ちょっとあの人いい人ね」なんていう人が、ものすごくいい人になる。ちょっとした小悪人が、ものすごい悪人になっちゃう。そのぐらい心の領域が広がるのですね、まあこういうことがあります。 ですから魂の快楽というのは、結局のところね、その心の悦びの部分ですね、これが増幅されるということね。だから精神的な悦びを知っていれば知っているほど、その人はあの世では幸せになります。間違いありません。単に、たとえばお茶を一杯飲んで喜ぶっていう悦びもあるでしょう。ただそれだけじゃないね。やっぱりね、この精神的に生きているという悦び、これが十倍ぐらいになる。地上に生きている時に、その精神の悦びを知らなかった人は、だからあの世では貧しいですよ。 だから、この世で貧しいものがあの世で豊かになり、この世で豊かなものがあの世で貧しくなるちゅうのは、そのことでね。この世で物質欲だけで生きておった、「お金がすべて」「土地がすべて」「地位がすべて」なんて言っていた人は、あの世では、その精神性が薄(うす)ければ非常に貧しくなるんです、心が。お金もありませんから、心が貧しくなるんです。ところがこの世でね、ボロは着てても心は錦(にしき)、貧乏長屋に住んでいても、貧乏してサンマ焼いて食っていても、でも精神性豊かに生きておった人はね、あの世でものすごい心が大金持になるんですよ。豊かになるんですよ。そうしたところがあるね。 だからみなさんね、精神的に生きなきゃ損ですよ、絶対に。その魂の悦びを知らないとね、絶対に損するよ。僕はそれだけは、繰り返し言っておくよ、絶対に損です。で、心を美しく変えるっていうのはね、この世的には採算が合わないかもしれない。しかしあの世的にはね、採算あうんですよ。 この世的にはね、ものすごいお人好しでね、もう人に騙(だま)されてばっかりいる。人からかつがれてばっかりいるね。人からうまい汁、いつも吸われてばっかりいる。「あの人、ほんとお人好しでね、いつも損している。バッカだなー、もっと上手にやりゃあ、お金も儲かるしさ、社会的にも出世できるし、人のもんだって盗めるのに。人の知恵を拝借すればさ、いっくらでも商売できるし、できるのになんであの人しないのかなー」って、この世的にみてお人好しの人がね、あの世へ行くと、それが十倍になるから大変なもんですよ。それがものすごい金銀財宝に変わるわけだ、あの世の。この世の時には損してもね、あの世にはものすごい金銀財宝に変わってくるんだよ。 あんたね、光の天使なんてね、みんなお人好しですよ。はっきり言って、お人好しだよ。そうじゃないかい。 じゃあみんなね、僕言うよ、『高橋信次霊訓集』、もう発行部数は十何万部か二十万部か知らんが、かなり出ていますよ。で、全国の人、延べ十万人単位の人が僕の本読んでいますよ、すでに読んでいる。読んでいるけどみんなね、僕に線香あげてくれた人いるかい。お賽銭(さいせん)投げてくれた人いるかい。お賽銭、百円でも千円でも入れたかい。ないだろうね。どうだ、「南無高橋信次先生、ご本ありがとうございました」って言って手ぐらい合わせる人いるけど、僕に賄賂(わいろ)送った人もいなきゃさ、何もないわな。そうだろう、本当お人好しなんだよ。 ただ嬉しいことに、僕宛に手紙、よく来るんですよ。他の諸霊にはありませんよ、僕だけですよ。「東京本部気付(きづけ)、高橋信次先生」なんてあなた、手紙来るんですよ、読者から。本当に笑っちゃいますが、みんな笑うでしょうが来るんですよ。あのね、高橋信次宛に年賀状も大分来ましたよ。 「拝啓 高橋信次先生。いつも霊言集、楽しく読ませていただいています。益々のご活躍、お祈りいたします」とかね。「先生、もう遠慮しないで五十冊、百冊出して下さい。もう二百冊でも結構です。もう最後まで読みます」ってね。「全財産使って買いますから、バンバン遠慮しないで出してください。どうしてそんなに遠慮されるのですか。二十冊、三十冊、五十冊出してください。もう毎日でも出してくれ。毎週でも出してくれ」って本当に来るんですよ、みなさんね。読者のみなさん、僕は嘘は言わないよ。インディアン嘘言わない。本当に高橋信次宛に来るんです、手紙が。本当に。 他の諸霊、誰ももらっていないね。「拝啓 イエス・キリスト様」、見たことないね、僕聞いたことない。「拝啓 孔子様」聞いたことないね。「拝啓 日蓮聖人様」あ、これも聞いたことないね、残念だけれども。「拝啓 モーゼ様」絶対来ませんね。「拝啓 高橋信次先生」とかね、「高橋信次先生、明けましておめでとうございます。昨年度は、大変なご活躍でした」と、「本当に嬉しく思います。今年も是非、何十集も出してください」こんなの来るんですよ、みなさん。これ証明じゃありませんか。私の存在の証明だと僕思うよ、ね。これ来るんですよ、本当にね。 まあそういう意味で嬉しいんですが、ただお金はくれませんし、お布施はないし、あなた饅頭(まんじゅう)も祀(まつ)ってくれないし、お神酒(みき)ね、お神酒も祀ってくれない。線香も祀ってくれません。何もありませんね。だからみなさん、あの世の霊だってね、そういうなんというかね、お人好しなんだよ。だからこの世の人でね、光の天使なんていうお人好しいっぱいいるよ。だいたい人のために生きたいとかさー、自分の身を捨ててでも、なんていうのは、こんなのお人好しの典型さ、こんな人だよ。この世的には、だから失敗することもあるさ。だけど、それは大目に見なきゃいかんな。 だから、この世的に本当に不器用に生きてもいけないけれども、そこそこ僕は合理的に生きたらいいと思うけどね。ただ、「魂の悦び」だけは忘れちゃあいけないよ。 奉仕するっていうことはね、それがいいことだから奉仕するんじゃないよ。奉仕するってことは悦びだからするんだよ。人が悦ぶようなことをしたらね、本当嬉しいんだよ。みんな知っているか。それが道徳に適(かな)っているから、人が悦ぶことするんじゃないよ。人が悦ぶことをすると、本当に自分の魂が悦ぶんだよ。だからいいんだよ。 僕だって、こういうふうにお賽銭(さいせん)も来ないし、せんべいも来ないしね。大好きなトンカツも祀(まつ)ってくれないしね。あなたね、牛さんも、豚さんも来ないけど、うなぎさんも、うなぎの蒲焼(かばやき)、僕大好きなんだよ。みんな言っとくけど、夏はまだ来ないけど、七月になって土用のうしの日になったらうなぎ食べるでしょうけど、「高橋先生、気持だけですけれども、これ一口召し上がってください」なんて、みんなが思ってくれると、僕は本当に嬉しいんだよ。まあそういうふうに、故人は願いますから。 それはともかくとして、何が言いたいかと言うと、結局ね、そういう「魂の悦び」というのを大切にしなさい。これは十倍になりますよ。これがすべてですよ。いいかな。ギブ・アンド・テイクだけじゃないよ。それを忘れちゃいけないよ。僕はそれだけ特に言っておくよ。 5.新・進化論 さて、快楽の分析をして、この章の最後の締めくくりとして、「新・進化論」。こういう話にもってゆきたいと思います。 まあこれはね、進化論、ダーウィン以降ね、いろんな進化論あるけども、これからはね、僕は新しい進化論が出てこなきゃいかんと思うね。それは、人間として生きている君たち、人間たちは、どういう人間がより進化していると言えるのか、これを知らねばいかんということだな。 君たちは住んでいる国とかね、社会的地位によって進化論考えるからな。パプア・ニューギニアの土人よりは日本人の方が文明度高いから進化しているとかさ。ヨーロッパ人と日本人だったら百年前は追いつけ、追い越せ、やってきたけど、今、どうやら追いついて追い越したんじゃないか。 アメリカとは、貿易摩擦が非常に激しいけれども、アメリカは日本叩(たた)きでね、やってるけど、もしかしたらアメリカはもう日本に追いつかれて抜かれておるんではないのか、抜かれつつあるんじゃないのか、そういう考えあるな。 そう言えば最近の円高みても、これは円が強くなったちゅうけど、もうこれは国力が違ってきているんではないだろうか。日本は世界一の債権国ですよ。黒字国です。アメリカは世界一の債務国です。すなわち借全国ですね、赤字国。黒字国と赤字国で、それなのに赤字国が威張っとんだな、そう思ってる。それはうちの方が従業員が多いからなんてね、それはあるでしょう。 「二つの会社がありました。片方は従業員が五千人いました。片方は従業員が一万人おりました。五千人の会社は純利益が年間、百態ありました。一万人の会社は年間純利益どころか、純赤字が百億円ありました。どっちが偉いでしょうか、みなさん」て聞いたら、それは儲(もう)かった方がいいわな、そういうことです。会社で言えば、はっきりしています。国と国だから、あのアメリカが、と思っているだけで赤字国に転落していますね。こういうことですね。まあそういうふうにある。 このように、この世のあれ、なんて言いますかね、どういう人間が文化人か、文明人か、非常にわかりにくい。職業なんかでもそうですね、まあ、この世的にはいろいろ尊敬されているものっていうのは、あることはあるんですけれども、なんていいますか、何が偉いかって、まあ考えてみりゃ、昔なんか政治家偉かったけれども、今はそれほどでもないね。 総理大臣、偉いかちゅうったら、まあ偉いことは偉いだろう。でも代議士なんかいったら、まあ偉いのというのと軽蔑(けいべつ)と両方だな。新聞のお陰でちょっと軽蔑の方が強くなっとるかもね。みんな「なんだ、代議士か」って、権勢欲の塊みたいに思われてね。 大臣だって、みんな、大臣なんて憶えているかい。内閣の大臣の名前、全部言える人いるかい。おそらく日本人百人に聞いてね、百人にインタビューして全部言える人は一人いればいい方ですよ、一人ね。いないんじゃないかな。まあ二、三人言えたらいい方ですよ、総理大臣ぐらいだよ、憶えているのは。後は二、三人だね、僕はそう思うよ。総理大臣だってだんだん忘れていくわね。三代前の総理大臣は誰でしたか、五代前誰ですか。そしたら答えられないね、即答できないよ、なかなかね。まあそうしたものなんですよ。それはどのもんだ。 だからこの世的に偉いって何か。昔のように総理大臣が一番偉いかっていったら、そうでもない。大学の教授は、まあ偉いって言われている。だけどまあ、それだって金はない。収入はあまりないねえー。収入は低いし、本売ったってね、本の印税なんか知れているもんで、自分の本代が出る程度だね。大学教授の本なんて、自分の学生に読ませてね、買わせて、そしてやっと在庫をさばくの精一杯ですね。売れませんね、まったくね。 では、流行作家はどうか。まあ、そこそこ尊敬はされているけれども、でも本当に偉いっていう感じはしないね、そうじゃないでしょうか。本当に偉いっていう感じはしないね。 誰が偉いんだろう。で、聖職者、お坊さん偉いですか、尊敬してますか。尊敬してるかどうか、OLに聞いたらいいよ。「お寺の住職さんと結婚したいですかー」と聞いてごらん、百人のOLに聞きました。「あなたは、お寺の住職さんと結婚してもいいですか」ってね。どのぐらいの答えが返ってくるか。これ言ったら、住職さん読んでたらがっかりするから僕はあまり言わない。牧師さんと結婚したい人、いくらですか。神主さんと、いくらですか、ね。そういう人もあんまりみんな自信ないだろう。過半数はないと思うでしょう。何パーセントか僕は言わない。 「高橋信次先生と結婚したいと思いますか」って言ったら、そりゃあまあ、百人いりゃあ九十九人いるわな、「イエス」「もちろん」ね。もちろんです。当ったり前です。無神論者でも結婚したい人いるかもしれない。まあそうぃうことあるかもしれないけれども、この世的に偉いってなかなかわかんないね。 だから宗教家だって、ローマ法王なんて偉い、偉い言われているけれども、日本人なんか偉いなんて思わなんだろう。地位が高いだけと思うね。新興宗教の教祖、これなんかも、もう会員の中では神様ですが、会員外から見たら気違いさんですね。わかんないですな。じゃあ、今もう何か本当の偉い人か、わかんないなー。 だけどね、もうあの世的にみたら、はっきりしているんですよ。それは、やはり精神的に高い人ほど偉いんです。もうこれはっきりしてます。はっきりしてるんです。精神の高い人、高邁な魂、高貴な精神を持っておる人、高貴な思想を持っておって、人びとを常に導いている人ね、これが偉いんですよ。もうはっきりしているんですよ。もうこれ以外にないんです。魂の進化なんです、基準は。 ですからね、新しい進化論はここを立脚点にしなければいけない。結局、精神の進化以外にない。精神的に進化することが、これが人間としての進化なんだ。肉体は百メートルを十秒切るような肉体に進化するかもしれない。でもそんなもんは限られているよ。しかし、魂の進化は無限だよ。百メートル十秒で走っている人が五秒で走り、二秒で走るような、その程度の飛躍があるんですよ。成長があるんですよ。この無限の楽しみ、無限の成長の楽しみ、これがやめられるかっていうことだな、覚えたら。 僕だってまだまだ可能性があるんだよ、みんな知ってるかい。最高度に発達したって思っていないよ僕なんか。まだまだ可能性あるんだよ。もっともっと偉くなったろうと思っているのさ。僕だってさ、そのうち「今に見ていろ大日意識」なんてね、思ってるんですよ。 僕だって、やがては…なんてね。こういう男女の姿にもう興味がなくなれば、今に私だって惑星意識になるかも、なんて思っているんだよ。だからね、無限の進化の可能性はあるのさ。それが精神の面白さなんだよな。そういうことがあるんだよ。 だから、みなさんね、新しい進化論を打ち立てなきゃいけないよ。その新しい進化論はやっぱり精神の進化だよ。精神が進化しているかどうか計るためには、何をもって、より高邁(こうまい)な精神、高次な精神になるかという、この基準ね。これをはっきり打ち立てる必要がある。そのために僕たちは次つぎと霊言、霊示集を送っています。 何が一番高貴なことか、何が神により近いのか、何が優れているのか。これを教えんとしています。何が価値があるのかを、君たちに教えんとしています。そうなんだよ、だから、そういうふうに思ってくれよ。まあそういうことさえわかってくれたら間違いはないわね。 快楽の分析ということでいろいろ話しましたが、どうでしょうか。読み物として面白いでしょう。ね、みなさん毎日読んでください。僕の本を読むことが最高の快楽だという読者のお手紙、お待ちしてますよ。
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目次 1.GLAで生前釈迦仏教の復活を目指した高橋信次 2.著書『人間・釈迦』で語りたかったこと 3.三世を見通す力で釈迦の人間としての苦しみを知る 4.釈迦の出家と六年間の修行 5.人間の生命体の偉大さについての悟り 6.「本来肉体なし」の悟り 7.霊子による物質の形成 8.普遍の実体としての人間の発見 9.永遠の生命としての人間の修行は、物質への執着を去ること 10.執着を去るための八正道という反省の基準 11.正しく念ずる、正しく定に入る、ということ 12.釈迦教団にはいるときの厳しさが現代の新興宗教にあるか 13.有名人で人集めする宗教はまちがっている (1987年1月27日の霊示) 1.GLAで生前釈迦仏教の復活を目指した高橋信次 今日は、甦る仏教という題でお話しすることになっておるんで、これは時間もかかりそうですから、さっそく本題に入っていきたいと思います。 私は、生前ということになるんでしょうけれども、昭和四十年代ですね、主として四十年代前半から昭和五十一年まで、GLAという団体の中でいろんな教えを説いてきましたけれども、その教えの中心になったのはいったいなんであるかっていうと、やはり釈迦仏教であったわけですね。とくに釈迦仏教の八正道の復活ということを中心に主として七年あるいは八年でしょうかね、話をしてきました。 そういうことで、GLAでかつて私の教えを受けた者、また現時点でまた私の著書を読み続けておる者も、高橋信次というと、仏教の現代的意義を説いた人というイメージが大きいだろうと思います。 まあじっさいね、思想的にも私の考えは、ブッダの考え方に近かったということもあるんですけれども、たしかに生前は、仏教の復活を中心に説いてきました。 そしてようやく仏教を説き終えて、キリスト教の塵(ちり)、垢(あか)を落とそうとし始めたときに、まあ天寿が来ましてね、わずか四十八歳で天寿をまっとうしました。 これはよっぽど前世のさだめが悪かったんでしょうね。まあふつうの人からみれば働き盛りのころに、もうお前はよく働いたから、もう二倍、三倍働いたから、もういいよとね、もう許してやるといわれて、ああそうですか、うれしいってなもんでね、還ったわけです。 そういうことで、ほんとうはブッダの仏教の本来の意義というのを明らかにした上で、こんどはイエス様の愛の教えのほうですね、これの本義を明らかにしようと思ったところだったのです。ちょうどそのころ私は地上を去ることになり、こんどはまあバトン・タッチということになったわけです。 2.著書『人間・釈迦』で語りたかったこと じっさい私にも『人間・釈迦』という本がありまして、これもいま、第一巻から第四巻まで出ています。未完ということになってましてね。著者他界により未完とか書いてありますね。本にね。著者他界のため未完とか、絶筆になったとか、いろいろいわれているけど淋しいですね。 いま書いてもいいのだけれど、私がいま『人間・釈迦』の続きを書いても、三宝出版でたぶん出してくれないんじゃないかと思うんでね。三宝出版がこの霊言集を読んで『人間・釈迦』の続きを出したいと言ってきたら、五巻、六巻書いてもいいのだけれども、まあそういう依頼が来ても忙しいから嫌だとか言ってね、逃げちゃうかもしれませんけど。それはわかりませんけどね。まあこれは冗談です。 さて『人間・釈迦』のなかでは釈迦が出家するまでのこと、また出家して成道(じょうどう)、まあ道にはいるまで。 そして最初の悟りを開いて、五人の阿羅漢(あらはん)たちと出会って、やがて初転法輪(しょてんほうりん)ということで、法輪がだんだん回転し始めて、法が広がっていく姿。それから釈迦弟子たちがだんだん集まって、サンガーの生活、つまり僧院ですね、それが始まったころの話。 それからまあ釈迦がね、三宝に帰依(きえ)するかということで弟子を絞ったということ。三宝とはつまり、ブッダに帰依するか、ブッダのタルマ(法)に帰依するか、あるいはサンガーすなわちブッダ教団だね、教団に帰依するかと、この三つのことを問うたこと。 まあそしてだんだん教えが広まっていくさま。まあこういうのを書きました。 そしてまあ、釈迦の弟子たちのいろんな出会いとか、事件とか、そういうことを中心に物語を進めてきたところでね。まだ釈迦の涅槃(ねはん)までいく前に、私のほうが涅槃になっちゃって、書けなくなったんですよね。 そういうことで四巻でおわっており、高橋信次の涅槃により絶筆となりました。しかし、それ以後の釈迦の入寂(にゅうじゃく)までの話は、おそらくまたなにかの機会に書かれると思います。 けれどもま、とりあえずね、あの四巻を遺したことによって、仏教の当時のあり方というのがひじょうによくわかったというかたが多いんですね。ひじょうにあれでよくわかりましたと。 まあ仏典というのもむずかしくなって、漢語ですね、中国語の教典があって、それを読む。それの日本語訳を読んでもよくわからない。あるいは原典ですね。原典でむずかしいインドの言葉で翻訳している学者もいるけれども、どうもわかんないと。 そしておおまかな傾向としては、釈迦の教えというのがどうも思想的にとらえられているのですね。 あの世の話なんてじっさいのことじゃなくて思想としてそういうものがあるんだと、そういう感じになっていますね。 とらえ方がひじょうに抽象的です。まあ釈迦の八正道なんていうのはもう現代では抽象論になってしまって、ひとつの思想すなわち、道徳的な思想というふうな感じで、とらえられているむきがあります。 これにたいして敢然(かんぜん)として立ち上がったのが高橋信次だったわけです。まあ自分でいうのもあれですけれどもね。 釈迦のほんとうの教えっていうのはそんなもんじゃない。ほんとうにひとびとを生かすための言葉であり、またじっさいに力があった教えであるのであって、そんな抽象的な思想の産物ではない。 また人間の知と意によって歪(ゆが)められた、そうした難解なお経のようなものじゃないんだと。 そういうもんじゃなくて、ほんとうは生命の息吹がこもった教えであって、そしてその教えによって多くの人たちの姿勢が百八十度の転換をみて、そして多くの人たちが悟り、解脱(げだつ)し、幸せになっていったのが、ほんとうの釈迦教団であったんだ。釈迦の教えだったんだと。 まあそういうことを私はあの本のなかで説いたわけですね。 3.三世を見通す力で釈迦の人間としての苦しみを知る じっさい私はみなさんご存じのように霊能者でもあったし、三世を見通す力も持っていました。 まあときどきはずれましたが、三世を見通す力を持っておって過去、現在、未来を見通すということにまあ、なっとったわけですね。 じっさい見通しとったわけで、まあたまに誤解もあったけれども、まあだいたいわかったわけです。 それで『人間・釈迦』を書くにあたっても、なんの参考文献も私は用いておりません。むずかしい仏典なんかなにも読んだことがないのです。 そうじゃなくて、いま流にいえばじっと精神統一して、薄く目を閉じてね、精神を統一すると、当時のつまり、二千数百年前の釈迦の考え、あるいは教え、あるいは弟子たちの様子っていうのが手に取るようにわかったわけですね。 眼前に広がってくる。パノラマのように広がってきて、そうして当時の釈迦の言葉っていうのがひとつひとつ響いてくるのですね。 しかも弟子たちの心の中まで手に取るようにわかりました。まあこういうのを三世を見通す力というんです。 こういうふうに過去、何千年前の過去でもあたかも現在をみるように手にとるようにわかってしまう。こういう能力があります。 これにもとづいて第四巻まで書いてきたんですね。それでまあ多くの仏教学者たちからも反響がありました。 「いや釈迦の本当の教えってぜんぜんわかんなかったけれども、あんたの本を読んでよくわかった。」 「まあ高橋さんというのはひじょうに頭がいいのか悪いのか知らないけれど、幼稚な文章を一生懸命書いてくれるので、私のような大学者から見ればすぐわかるような文章で、ああわかりやすかった。」なんてね。ずいぶん感謝していただきました。 それと逆に「釈迦の教えってこんなていどだったんですか。もっとむずかしくなかったの、ほんとうは。」まあそういう人もいました。まあいろいろです。 ただ私があのなかでやはり教えたかったのは、人間釈迦ということでね、釈迦というのは肉体を持ったひとりの優れた人間であってね、人間としての属性を持ち、人間としてのさまざまな悩みを持ちながら、そのなかで葛藤しながら、悟っていき、教えを広げていった人間であったということを説きたかったんですね。 もちろんあの世の世界では、偉大な光の指導霊というのは一般の人たちとははるかにへだたった遠い世界に住んでいますけれども、そういう光の大指導霊であっても、地上に肉を持ったときにはやはり風邪をひいたりね、やっぱりお腹がすいたり、人間関係で葛藤したり、そういう悩みや苦しみがやはりあるのです。 その悩みや苦しみのなかで、普通の人間と同じように葛藤しながらも、なにか、そこでちがう面があるのです。そのなにがちがうかということをみなさんに教えたかったんですね。 まあお釈迦様と高橋信次とをいっしょにするわけにはいきませんけれども、高橋信次という人間も、やはり苦しみやさまざまな葛藤がありました。そのなかで自分自身悟っていき、またその教えをひとびとに説いてきたのです。 ですから私の生き方というのは、まさしくね、釈迦じゃありませんが、現代において、悟りとはなにか、教えとはなにかという求道者のあり方を復活するための一生だったと思います。 4.釈迦の出家と六年間の修行 さて「甦る仏教」という題ですから、「甦る高橋信次」の話ばかりしてたんじゃ読者が怒っちゃうでしょうから、仏教の話をもう少ししていこうと思います。 じゃあお釈迦様がね、いまから二千五、六百年前にいったいほんとうに説きたかった教えとはなんだったかと。まあこれを言わにゃいかんと思います。 釈迦は出家してカピラ城から出てきて、そしてひとりで山のなかにこもります。そしてまあ当時の修行の主流ですけれども、山のなかで禅定して、なんとかして悟りたいと六年間の苦行をしたわけです。洞窟のなかで修行したこともあります。 そして釈迦が出家してまもなく、お父さんである王様から、五人の護衛が送られて、そういう人たちが陰になり日向(ひなた)になって釈尊を護っとったけれども、彼らもいつしか、護衛という役割を忘れて、釈尊の弟子になっちゃいましたね。 彼があまり真剣に道を求めているので、自分たちもついついその道にはいってしまって、もう抜けだせなくなってくる。そういうことで最後には釈尊が、村娘からミルクをもらって飲んだりしたら、「あ、堕落した。」なんて怒るところまで彼らがんばって修行しました。そういうふうになりましたね。 この初期の釈迦の六年間の苦行ですね。この姿が残っておるのは、現代でいえばやはり坐禅であるし、あるいはある意味では密教の一派に流れているのもそうであったろうと思うんですね。それらは釈迦が悟るまでの修行の姿だったわけです。 さて、それでまあ六年、二十九歳のとき出家して六年、まあ三十五、六歳になりましたでしょうかね。 これからあとは有名な話でね。釈迦は大きなピパラの木の下で、一週間反省的瞑想をしておったときに宇宙即我(うちゅうそくわれ)を体験して、それで悟りを開いたということになっていますね。 5.人間の生命体の偉大さについての悟り そこで釈迦の悟りの内容はいったいなんだったのかを話しましょう。まあ宇宙即我は別にしてその考えを述べたいと思うのです。 彼が悟った内容は、けっきょくこういうことなんですね。人間というのは本来肉体のなかに住んでおる者じゃなくて、もちろん永遠の転生輪廻をくり返しておる偉大な、魂であるんだと。 すなわち、あの世の実在界にある生命体というのが人間のほんとうの姿であって、その偉大な生命体は、実は、神の一部であり、神の生命そのものであるのだ。 その神の生命そのものである偉大な人間の生命体というのは、母の胎内に宿って、そして赤ん坊として生まれてきたときに自分の潜在意識、すなわち過去世の記憶、あるいは守護・指導霊たちのこと、こういうのをすべて忘れ去ってしまうのだ。 それはちょうど、氷というのがありますけれどもね、氷というのを、たとえば海面でもいいし、プールのなかでもいいけれど、プールのなかにドーンと高いところから投げ込むといったんぜんぶ沈んじゃいますね。氷がいったんぜんぶ沈んじゃって、スポッと水のなかに埋まっちゃいます。 これがちょうど人間でいえば赤ん坊の誕生の瞬間なのですね。氷ならぜんぶ埋まっちゃいます。ところが誕生してしばらくすると、いったん水中に沈んだ氷のように水面にポカッと浮いてきますね。 こういうふうに氷の上のほうの10パーセントぐらいは出てますけれども、残りの90パーセントというのは水面下に沈んでいます。これがちょうど人間の姿なわけですね。 人間というのは、そういう氷山あるいは氷といっしょで、10パーセントぐらいが表面に出ているけれども、残りの90パーセントというのが、水面下、海面下に隠れておるのです。 この部分が潜在意識層であり、まあ過去世の記憶でもあるわけですね。 こういうものを持っておるけれども、人間として生きている以上その氷といっしょでね、水面以上の世界だけを生きとるわけですね。水面下の世界というのを忘れて生きています。 まあオホーツク海かどこかに行くと、大きな氷山というのがありますし、まあ流氷かなにかも流れてきます。春になるとね。 この氷山といっしょです。氷山の下には、ベーリング海峡かあるいはオホーツク海かあるいは太平洋か知りませんけれども、無限の海が広がっておるんだけれども、氷はそんなこと知らんように海面に頭をポコーッと出してね、生きております。 まあ海面に出ている部分から見たらなにがわかるかというとね、カモメが出てきてね。 カモメがなんと鳴くか私はちょっと知らないんだけれども。カモメが「カアーカアー」じゃないでしょうけれども、カモメがね、「カモメ、カモメ」って鳴きながら、氷山の上に飛んできて魚を捕ってね、魚をその上で食べたりしているぐらいの世界しかないわけですね。 ところが氷山の下を見ると、無限の世界、神秘的な海っていうのが広がっていますね。これを人間は忘れてしまって、表面だけ、つまり、空とカモメと、それとピチャピチャはねてる魚ぐらいしか見えない世界で生きておるのですね。 これが肉体人間の世界です。釈迦がこのことをはっきりと説かれましたね。 6.「本来肉体なし」の悟り これをはっきりとつかんで有名な般若心経(はんにゃしんぎょう)のなかに、「色即是空(しきそくぜくう)」「空即是色(くうそくぜしき)」という言葉がありますけれども、これについてはっきりとつかんだわけです。 つまり色即是空、色(しき)ってなにか。色って言うのは、この世の世界のなかに現われている現象です。 この三次元世界のことを現象界といいますけれど、色すなわち肉体として現われている人間、これは色である。つまり色だから目で見、手で感じられるような、存在感があるけれども、この色の部分、つまり現象界の部分である物質というのは、ほんとうは実相としては、これはないんであると。 色即是空、つまりこれは、空である。実相としてないということはなにかというと、つまりこの地上に魂が宿っている肉体というのは、仮の姿だということですね。仮の姿であって、ほんとうの姿じゃないんだと。 じゃ、釈迦の悟りは当時人間の肉体というのをどう見てたのか。 私は肉体というのは舟で、魂が船頭さんですよとわかりやすくいいましたけれども、そういう認識もひとつですし、まあそれよりさらに進んだ認識も持っとったんですね。 肉体は舟というよりも、じっさいは舟じゃないんだ。これはほんとうは舟よりも一歩進んで、これは蜃気楼(しんきろう)に過ぎないんだ。肉体というのは本来ないんだ。 なんかちょっと生長の家みたいな教えになってきましたね。谷口雅春さんにかわってもらわにゃいかんけれども、「本来肉体なし」の世界、これですね、釈迦の悟りっていうのは。本来肉体なしなんだ。こういうふうになったわけです。 だから「本来風邪なし」で、風邪をひいているように見えても、ほんとうは風邪なんかひいていないのです。そういうのは、迷いの姿なんですね。 仮にある肉体が、そういう蜃気楼みたいな肉体が風邪をひいているように見えるだけで、本来風邪なんかないんです。本来、病もないんです。 私は宗旨替えをして生長の家に帰依(きえ)したわけではありませんけれども、じっさいその通りなんですね。 7.霊子による物質の形成 それでまあ霊言、霊訓のなかでも、エジソンなんていう人がいて、どうやって物質が出てくるかっていうことを話してますけれどもね。光の玉が集まってきて、その粒が霊子(れいし)となって、やがてさまざまな素粒子ができてくるという話をしています。 つまりこの世の肉体、あるいは物質ですね。物質と見えるもの、ほんとうはこれは、しっかりあるように目に見えるけれども実在じゃないんだと。 その証拠に顕微鏡で見れば、たとえば、陽子あるいは電子。こうしたもの、原子核でいいけれど、陽子と電子というのが、けっきょくどういう構造かっていうとね、甲子園球場、巨人ファンのためには後楽園球場ですね。 後楽園球場というのをまあひとつみると、後楽園球場のなかの投手が立つマウンドの上に野球のボールを一個ポーンと置いて、そして場外に野球のボールをポンポンポンと何個か置いてある。こんなもんなんですよ、ほんとうはね。 原子っていうのが、ようするにマウンドの上のボール一個で、電子っていうのがね、軌道を回っている電子というのが、外野席にころげているボールぐらいなのです。 だからほんとうの物質の分子というのを見ると、そのなかはガラガラなんですね。スキスキなんです。ガラガラでスキスキです。 ですからほんとうはそんな後楽園球場のなかに球が二、三個ころげているぐらいの物質であるならば、物質と物質が当たったって、通りぬけるはずなんですね。衝突するわけはないのですほんとうはね。ところが衝突するように見えると。こういうように分子というか原子を見るわけですね。 そうすると後楽園球場のなかに球が一個落ちているぐらいが、ようするに原子であって、後はスキスキの構造になっておると。 すると、そのボール一個作ったのはどうしたのかというと、そのボール一個は、これは粘土を丸めて作ったんじゃないんです。 これが光のエネルギーなのですね。光のエネルギーが濃縮して一点に念が定まって、そういう点を作るんです。これが霊子(れいし)です。霊子という霊の子ですね。霊子ができます。 そしてやがて原子ができ、原子が集まって分子ができてくるんですね。分子のあとが粒子です。 こういうふうにして肉体の元となっているものを顕微鏡で見れば、小さな粒子です。粒子でできてます。 粒子自体はもっとバラバラのちっちゃなものでできてます。元は何かというと霊子ですね。霊の子、これからできておるのです。 その霊子は何からできているかというとエネルギー体なのですね。 先般も話したことがありますけれども、アインシュタインはエネルギーと質量とが、ようするにいっしょのものであるということを証明しました。質量というのは、一定の物質ですね。 物質として形をとっておるものは、その形を変えたときにエネルギーになる。ところがエネルギーがその運動を止めたときに質量になる。つまり物質になるということをいっています。 アインシュタインは知っているわけです。色即是空の意味を。 つまり人間の肉体とおぼしき物体、これは微細な粒子からできており、この粒子の元はエネルギー体である。 エネルギーが運動を止めたときに粒子になる。そしてこの粒子がまた運動を開始したときにエネルギー体となる。そして無限のエネルギーとなって大宇宙のなかを走り回るのですね。 8.普遍の実体としての人間の発見 まあ釈尊はもちろん、現代科学は知りませんでしたから、高橋信次みたいな科学者のようなかしこい説明がもちろんできなかったわけですけれども、そういうことを霊的直観で知っとったわけです。 つまりこの地上の肉体、肉体を作っておる細胞というのは、本来もともとあるんじゃない。それは彼の認識によれば、やがて火で焼かれれば灰になってしまうようなもんだ。 そして人間になる前にもとがあったかというと、もとはなにもありゃしない。 父と母がなんかちょっと夜いいことなんかしてね、ちょうどその時間がタイミングがよけりゃね、うまくいっちゃってね、ピタッと合っちゃって、精子と卵子が宇宙空間でランデブーして、そして子供ができます。 しかし精子と卵子といったってほんのちっちゃなものですね。ミクロの単位のものです。こんなものが大きくなってあなた、人間になるのです。信じられないことです。 これをたとえば比喩(ひゆ)であらわせば、どんなものかと言うと、まあリンゴー個ね。ニュートンのように言うと、リンゴの木の実が一個あったら、これがあなた地球ぐらいの大きさになるんですね。こんな大成長しているんです。信じられますか。 リンゴー個をね、ポトンと落としたら、そのリンゴが大きくなって地球になっちゃうんです。このぐらいの空間の差なんですね。こういうふうに精子と卵子が結合して人間になっちゃいます。 そしてまた焼かれたら、けむりになっちゃってどこか飛んじゃいます。 これを見て釈尊があの肉体というのは無常なもんだと。移り変わるもんだと。 しかし、こういうふうに移り変わるものが、ゼロから摂氏ゼロにもどるものが、これが人間の実体ではないはずだ。 また死ねばなにもかもおわると思っている人がいるけれども、死んでなにもかもおわって人間がけむりになってしまうんだったら、人間はいったいなんのために生まれて、なんのために修行するのか。 意味がないじゃないか。そんな無意味なことのために造物主というのが人間を創ったんだろうか、はたして。 とうてい信じられないね。ゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)として悟りを開いた自分が、けむりになっちゃうんだったら、なんのために悟りを開いて、なんのために修行しているのかわからん。 そんな無意味な世界があるわけがない。絶対ない、そういうことは。 この世の中見たって、無意味なものなんかなにもないはずだ。 植物にしたって動物にしたってみんな、意味があって生きておる。人間だって意味があって生きておるはずだ。 その意味とはなにか。それはそんなにかんたんに消えてしまう、朝日が昇れば消えてしまう霧のようなものじゃないはずだ。 もっと普遍の実体がある。人間が神からわかれてきたもんならば、人間には普遍の実体があり、その実体をつかみ出して、そして信じることが、ほんとうの考えじゃないか。ほんとうの教えじゃないか。そういうことなんですね。 つまり、仏教の本質というのは科学といっしょです。エネルギー・イコール・質量であり、質量・イコール・エネルギーという、アインシュタインが二十世紀に発見したような理論というのを、釈迦はもう二千五、六百年前に知っとったわけです。はっきり知っとったわけですね。 だから肉体が消滅しても、魂は不滅で、エネルギー体として残っておるのだと。 9.永遠の生命としての人間の修行は、物質への執着を去ること そりゃそうですよ。その証明のために高橋信次が、いまここに出てきてマイクを持ってしゃべっているのです。 ね、高橋信次だって死んだら火のなかで焼かれました。しかし、GLAの教祖がやっぱり、お坊さんに葬式をやってもらうんじゃ問題があるから、坊さんの葬式はいらんだろうとね。 釈迦みたいに「私が死んだら私の死体は、灰にして、ガンガーの河に流してくれ。」と、ほんとうは言いたかったんだけれども、高橋信次の遺体をガンガーまで持っていけないから、しょうがないから「灰にしたら、隅田川にでも流してくれ。」なんて言いたかったんだけれどもね。まあそういうことは言えないんですけれどね。 そういうことでまあ死んでも実体があるから、いま、こうやってしゃべっておるのです。 この考えっていうのは、読者のみなさんはいろんな霊言集をいっぱい読んだでしょうけれど、たとえば私の言葉は、他の人の霊言とぜんぜんちがうはずです。個性がぜんぜんちがうはずですね。 私の前に出た内村鑑三さんとどうですか、いっしょじゃないでしょう。谷口雅春さんとどうですか。「本来肉体なし」のところは一致しとるかも知らんけれども、あとぜんぜんちがうでしょ。 こういうふうに個性というのは残るんです。身長一メートル六十三センチ、全盛期の体重七十五キロ、病気をしてやせたときは五十五キロの、高橋信次の肉体じゃあないんです。 そんなんじゃなくて肉体を取り去っても、ちゃんと個性がある。思考するエネルギー体というのはあるんです。ちゃんとあるんですよ。 これを釈尊がつかんだわけです。そうしてこういう永遠の世界を生きている人間であるならば、修行ということを真正面からとらえねばならんと。これを彼が考えました。 それではそういう永遠の生命体として生きている人間の修行はなにかというと、これは本来の神に立ち返る作業ではないか。 地上の物質にとらわれずに、本来の神の生命体としての尊厳をとりもどすことではないか。 この幻のような三次元のなかにおいて本来の世界の意味を知り、その世界の法則にそって生きることが、ほんとうの人間としての生き方ではないか。釈尊はそう思ったわけです。 そのためにはどうしたらいいか。つまり物質世界のなかで、惑(まど)わされている自分という者をはっきりと反省して、本来の自分をとりもどさねばならぬ。 そのためにはまず反省がだいじである。釈尊はそう言いました。なぜ反省をするのか。それはこの物質世界にたいする執着を取り除くためです。 執着とはなにか。物質・イコール・人間、人間・イコール・物質、物質はすべてとする考えです。 人間は生まれ落ちてより、この世的になってしまって、金や地位や名誉、あるいは異性だとか、あるいは食べ物だとか、こういうものにとらわれて一生を送っております。 人よりちょっと給料が多かったらうれしいとか、人よりちょっと肩書きがいいとうれしいとか、いろんなことを言っています。 名刺にいくら肩書きを刷り込んだって、死んであの世に持って還れんのです。 この世でいくら美食したってビヤ樽みたいな腹になったって、焼かれちゃったらおわりなんです。持って還れんのです、そのお腹はね。 そういうことなんですよ。それで釈尊はそれに気がつきました。 10.執着を去るための八正道という反省の基準 だから本来の魂の輝きをとりもどすためには、まず物質的なる欲望に翻弄(ほんろう)されている自分自身というものをしっかりとせねばいかん。そういうことを思い出しました。 それでまず執着というものを、物質に対する執着を取り除くための反省的瞑想というのをやりましたね。反省です。 その反省にはやはり、基準がいるだろう。 その基準とはなにか。これが八正道だったわけですね。 正しく見たか。あなたは今日一日正しく見たか。 正しく語ったか。だいじなことです。 正しくものを見たか。正しくものを語ったか。だいじなことですよ。 正しく思ったか。これもむずかしいけれども、だいじなことですね。 あるいは正しく生活をしたか。どうでしょうかね。 読者のみなさんどうですかここまで、できますか。 正しく見れましたか。正しく語れましたでしょうか。正しく思いましたでしょうか。正しく生活できたでしょうか。 お昼過ぎて起きているような人もいるんじゃないでしょうかね。どうでしょうかね。 朝昼兼用にすまして、「ああこれで安く上がった」なんていっている人がいるんじゃないでしょうかね。正しく生活できたかどうか。 さらに正しく精進(しょうじん)できたかどうか。ね、精進ってなんですか。 つまり神仏への道をきわめることね。きょう一日神仏への道をね、一歩でも二歩でも進めたかどうかね、自分が。 退歩しとらんか。進歩したかどうか。正しく道に精進したかどうか。 あるいはね、正しく仕事をしたかどうでしょうかね。正しく仕事をしたか。 「イヤー、風邪ひいちゃって。」なんてね。「まあ今日はいいや。」なんてね。 「二、三日してまた風邪が治って仕事すりゃいいから、風邪ひいたらできないもんはできないんだから。」とか「もう風邪ひいたらね、あなたねむずかしいことなんてできやしないんだから。」とかね。「学生さんなんかだけでしょう、試験問題なんかできるわけがないでしょう。」なんてね。 これを録音しているときにまた、研修に向けてね、受講生を絞るというんで研修の参加資格認定試験なんて作っております。 これでふるい落とそうなんてやっておるけど、こんな試験問題を送ってこられたら、「風邪ひいているからきょうはできないや。ひと風呂浴びてね、もうカッカ、カッカ暖かくなってね、グッスリ眠ってまた頭の調子がよくなったら解いてみよう。」なんてね。 「そうしたらきっといい答案ができるにちがいない。」なんてね、思う会員さんがいるでしょうけれども。 そうじゃいけないんであって、人間一日一生でいつ死ぬかわからないんです。そういうことで正しく仕事をしたかどうか、学生なら正しく勉強したかどうかです。これもだいじです。 11.正しく念ずる、正しく定に入る、ということ それから、正しく念じたかどうか。 自分の念(おも)いですね、念じるというのは、天台智覬(てんだいちぎ)さんという偉い人がいて、「一念三千」ということを説きましたけれども、心の念いというのは、すべての世界に通じています。 それならばやはり、よい世界に通じるように念いを正していかねばいけません。 また念いには方向性があります。そして未来に向いている念いは、やはり光明思想ですね。 いい方向のほうに向いていかなければ、人間まちがった方向のほうへ行ってしまいます。こういう念いの調整が、正しく念ずるということであります。 そして最後に「正しく定に入る」というのがあります。禅定(ぜんじょう)するっていうことですね。禅定するっていうのは、精神棒をいれられるために座っているんじゃないんです。 「今日はハム・ソーセージを食べたいけど精進料理しか出てこんのか。悔しいけど、我慢するから海苔(のり)もう一枚くれんか。」などとね。 「タクアンもう一切れあればいいのに。」と思いながら座っとっても、正しい禅定にならんのです。 そうじゃなくて、正しい禅定というのは、いま言ったように自分をふり返る作業をしながら心の執着をはらして、そして真実の神の子としての自分に立ち返ることなんですね。 これが正しい禅定です。これを毎日やりなさいと釈尊は言いました。りっぱですね。 これさえできればあなた、ほとんどの人間は完成に近づいていきます。 12.釈迦教団にはいるときの厳しさが現代の新興宗教にあるか これができた人って釈迦弟子でいくらいたかって、やっぱりいないんですね。ただ、この作業を続けていると後光がでてきます。オーラがね。釈迦教団にはいることはひじょうにむずかしかったんです。一週間、山のなかで反省的瞑想、禅定をやってオーラが出た者しか、入会を許さんという、こんなに厳しいです。 どうですかね、いまの新興宗教やっているみなさんがた、こんなことできますか。 オーラが出なきや入門を許さないなんていったら、どこも経営危機になって、つぶれてしまうでしょう。そして教組様がおまんま食いあげて、七転ハ倒するでしょう。 一人でも多く増やさねばいかんちゅうので、いい教えならいいけど、悪い教えを広めるために一生懸命勧誘しています。こんなのやるのは愛の共同募金ぐらいにしとけばいいのです。 現在どうですか。いろんな宗教団体で、そんなオーラが出なければはいれないようだったら会員何人になりましょうかね。 教組様自体がオーラが出ていないから、入会できないんじゃないでしょうかね。私はそう思います。 そういう意味で釈迦仏教を現代に復活させようとするならば、現代ではオーラが出るまでといえんだろうけど、やはり正しくほんとうにやる気があって神理の書を読み、神理について理解ができている人、こういう人が入会を許されると、こういうふうな団体になるでしょうね。 やはりね、出発点というのはそうしたもんで、ブッダというのも会員を増やそうとかね、サンガー(教団)の人口を増やそうとかね、ぜんぜん思っていませんでした。 そうじゃなくてひとりでも多くの人がね、ほんとうに悟るためにやはり修行が必要で、その厳しい修行についてこれるのは、ごく少数であろうと思ったのです。それでも、それでもと道を求めて人は来たのです。 これは現在の禅でもいっしょですけれどもね。そういうところがあります。だからこれがほんものなんですよ。人を勧誘して入れなきゃいかんという宗教は、ほんものじゃないんです。ほんとうに優れた人、ブッダとなるための多くの人がどうしても門をたたきたいと、はいってくるのがほんとうの教えなんです。そうじゃなかったらいけません。 だからこれからもそうした真実の教えというものが、説かれていく時代になるでしょうけれども、そういうふうに、どうしても入れてほしいというような人を、そしてやはり勉強をしている人を絞って入会させるような、そういう昔の釈迦教団のような、そういう宗教があってもいいじゃないでしょうかね。 宗教の悪いイメージがあるのはどうも、そこにはいっている人がおかしいのが多いからです。宗教でもいいイメージを作らにゃいかん。 いいイメージってなにかというと、はいっている人が、やっぱり優れた人で、そう簡単にははいれない。ほんとうにそのなかにはいっている人は心が調和されてね。理想的な人生を生きている人たち、こういうのがほんとうなんです。 13.有名人で人集めする宗教はまちがっている いろんな宗教がありますけど、有名人いっぱい呼んでね、有名大の名前で人を集めているようなのいっぱいあります。こんなのまやかしなのです。 みなさん注意しなさい。まやかしですよ。ほんとうの心の教えを求めている人たちを集めていくことです。こんな有名人なんかの顔写真をいっぱいのせてね、人を集めている宗教なんてみんなまちがっていますから、たいていの場合。用心しなさい。 いくつかの宗教があるでしょう。有名人をやたら呼んで、機関誌とか雑誌に顔をのせてね、それで人を寄せているところいっぱいあると思います。 まあこういうのは用心しなさい。ほんとうの教えというのは、そんなもんじゃないんです。ひとりひとりのものなのです。 きょうは長くなりましたけれども、甦る仏教ということで仏教の現代的意義をかんたんにサラッと話をしました。まあこれもひとつの考えの材料になればいいと思います。 まあこのつぎは「永遠の生命」ということで、さらに話を進めていきましょう。
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目次 1.科学とは何か 2.未知なるものの発見 3.認識の方法 4.実証の精神 5.科学万能主義の次に来るもの (1988年1月12日の霊示) 1.科学とは何か さて、本章では私の得意の領域でもあります科学の問題ですね、これについて話したいと思います。私自身科学者でもありましたし、さまざまな発明いっぱい致しました。特許も何百も持ってます。みなさん知らないかもしれないけれども特許いっぱいあるんですよ。私の特許なんていっぱいあるんですよ。電気釜じゃないけれども、圧力釜なんて作ったこともあるぐらいで、お釜も作るしねえ、何でも作るんですよ。 特許もまあいっぱい持った特許屋です。電気屋でもあります。コンピュータ系統のね、機械、いろんな機械作リましたし、まあちょっと知られた面もあります。そこそこの業界では、そこそこの人だと言われたことはあるんですね。 で、まあ科学もよく知ってるから、僕自身、生前本書いた時に、『心の発見』なんかで「科学篇」てありますね。ああいう本書いた人はいないと思うんです。宗教と科学をああいうふうに、何て言いますかね、一体化させて説き切った人はいない。残念ながら谷口雅春先生も科学までは行けなかった、ね。私だけです、あそこまで行ったのは。だから仏教の本質と科学の本質というものは、別のものじゃなくて全く同じものである。まあこういうことを私は生前実証したつもりであります。 また、これは一部興味のある人からは大いなる称賛でもって迎えられましたし、まあ読者のみなさんの多くは私が書いた数式なんか見たってさっぱりちんぷんかんぷんですが、ちんぷんかんぷんではあるけども、迷信の領域ではないということだけはおわかりになったであろう。こういうふうに思いますね。 特にやはりね、問題はねえ、霊的な問題、宗数的な問題話す時に、書く時に、どうも抹香臭(まっこうくさ)くなって霊臭くなって、変な感じするんですね。これが一番いけない。だからそうじゃなくてやはり現代人のね、理性に訴えて納得がいくものであるかどうかね。まあこれが大事です。 生前からよく言ってきましたね、私は、本当の正法には文証、理証、現証、この三つが伴うものである。文証っていうのは法でね、文章として書いてそして納得のいくような教えがあることね。理証っていうのはまあ科学的な実証だねえ、まあ科学的実証と言ってもいい。法則性と言ってもいいね。こういう法則性があって論理的につじつまが合っておるようなもの。 たとえば私の教えたように、想念帯というのがあってね、これが一生の思い出、いろんな想念帯の曇りがある。この曇りを反省というものによって晴らすことによって、スモッグが晴れることによって太陽の光が燦燦(さんさん)と降り注ぐ。そのように神の光が射してくる。そういうことも教えましたけども、これなんかもやっぱり科学的な説明であろう、ね。まあ理性的であるし理論的な説明であろう。まあこういうことで理証と言えるでしょう。 あるいは水の転生輪廻(てんしょうりんね)と人間の転生輪廻ね、こういう話も致しました。水の一生っていうのがありますねえ。水の一生で川になって海になって、南氷洋や北氷洋で氷になって、また春になって溶けて水蒸気になって、天に昇って雲になって、また雲が氷の粒になってね、降りて来て雨になって、そして山に降ってね、山から谷に流れ川になって、また海へ還っていく。こういうふうに水も転生輪廻してますけども、まあこうしたものでもって人間の生命の不思議、こういう話もまたさらに致しました。 ま、これ以外にもエネルギーの法則、あるいは力学的法則と正法の話も致しました。作用・反作用の法則ということをだいぶ言いました。カルマの法則とか、あるいは蒔(ま)いた種は刈り取らねばならん、こういう話についてね、作用・反作用の法則、ま、こういうことがあるということを言いました。あるいは、人を呪(のろ)わば穴二つ、こんな話しましたね。 こういうように、まあ科学的と言ってもいいし、あるいは科学的でなくてもいいけれども、話の筋がね、つじつま合って理論的にもすっきりしてる、こういうのを理証って言うんですね。ところが巷(ちまた)の拝屋(おがみや)たち、この理証がないね。「とにかくありがたいんです」なぜありがたいかの説明がない。そうでしょ。とにかくこの曼陀羅(まんだら)はありがたいって、何がありがたいのかわかんない。ね、そうでしょ。なんでありがたいのかわかんない。 「とにかく墓相です。墓の相が悪いんです。これをこう変えればよくなる」「なんで?」って言ったらわかんない。とにかくこの方角はいけないんです。「なんで?」って言ったらそれがわかんない。ね。なんでがない。「理由はない。理由はなくとにかくそうなんだ」こういう決めつけですね、決め込み、あるいは「昔からそう言われておるんだ。そういうお告げがあった」ね。この部分が結局新興宗教のおかしい部分だね。 そういう意味で、現代において神理を説く場合には理証ということは非常に大事です。理論的に整合性があって、万人の納得がいくような法則性、あるいは考えが入っておることね。これ大事です。この理証の部分はいくらやってもやり過ぎることはありません。 それから現象ですね。ま、現象はまあ碓かに他の宗教一般につきものでしょう。霊的な現象が起きることですね。これも大事です。まあ私が今、これ霊言という形で送ってますし、生前は霊道現象もだいぶやりました。〇〇さんはあんまりやらないけども、まあやらない理由は体力消耗して損だからね。あんなのやったって、ねえ、本にもならないしねえ。「おい、キツネ、ちょっと出て来い」なんてやったってきりないから、高橋信次やったからもういいだろうっていうんで、自分は自分で読みごたえのある本、高級霊シリーズでやってるね。 まあそら確かにそうだ。悪霊やったってそんな繰り返し読めないわ。高級霊なら何回でも読める、ね。そういうとこでいいし、読めば賢くなる。勉強になって天国に近づいていく。だからいいんだよね。だからそういう意味で現象をやっておる。 文証・理証・現証、この三つね、大事ですよ。拝屋だけやってて本も書けないような人ね、こんなもの真の正法とは言えない。だから現象も出せるけど、それの理論的な説明もあるし、それから書いたものとして立派な文献、経文、教典、これがある。ね、この三つが大事です。 そして、その中には科学の精神が流れておるということですね。科学する精神、科学する精神というのは結局ね、科学の精神というのは、結局、論理的な整合性だと私は思うんですね。つじつまのある説明、Aという人はそれはそうだと言うけどBが違うというような、そんなことであったら科学は成り立たないんですね。Aが見てもそう思うし、Bが見てもそう思う。Cが見てもそう思う。こういう筋道立った考え方ができて初めて科学は成立するんです。 Aという人が見ただけで月が存在して、Bが見たら月がないというような、こんなのでは科学とは言えないね。天文学とは言えない。試験管振って、そういう結果が出るのは、AがやってもBがやっても同じなら化学の世界ではそれでいいということになる、ね。物理学の法則も、Aという人が実験したらそうなって、Bがしたらそうならないというのなら、こんなの法則とは言えない。 こういうことで、科学というのは客観的な説明、あるいは論理的整合性、これを大事にするんですね。これをある程度ね、現在は神理の世界に持ち込まないといけない。こういうように私は思います。その意味で科学の本質ですね、これを充分に使っていく必要がある。その考え方は現代に生きる考えであるし、今後の宗教の行くべき道筋でもある。このように私は言えると思います。 2.未知なるものの発見 ですから結局、科学っていうものは何かって言うと、まあ論理的整合性っていうことを今、言いましたけども、ま、それだけじゃないね。論理的に整合性があるだけであったらそれは論理学であって、科学とは言わない、ね。論理学は、AはBである、BはCである、したがってAはCである、ね。こういうことでやりますねえ。 たとえば、人間は動物である。動物は生き物である。したがって人間は生き物である。ま、こういうことをやりますね。こんなことを論理学でやってますが、これ自身は科学とは言わない。これは理論的な整合性はあるし論理性があるけれども、科学とは言わない。なんでかって言ったら目的がないからね。目的が違う。こういう文章的なこういう整合性を言っておるんじゃない。 科学の目的というのは何かって言うと、結局未知なるものの発見ですね。これが科学なんですよ。科学はこれなんです。未知なるものの発見です、ね。これなくしての科学はないんです。未知なるものを常に発見しようという態度。現状にあるものそのままでは何も意味ないんだ、ね。動物の観察してる人でも、未知なるものを何か発見しようとしている。野性の動物の生態、これを発見しようとしたり、天然記念物の生態、発見しようとしたりする。ムササビがなぜ空飛ぶのか。不思議だ。こんなのを発見しようとする、ね。 猫はなぜ昼寝をするのか。不思議である。猫の昼寝と人間の主婦の昼寝はどこに共通性があるんだろうか。主婦も昼寝をしたがる。男性は昼寝をしない。主婦は昼寝をする。ねえ。描も昼寝をする。そうすると、女性と描というのは共通性があるんではないか。うん、そう言えばそんな気がする。ねえ、こういうことを考えますねえ。これが未知なるものの発見ですね。これは科学への道のひとつであります。 こういうふうにね、結局、未知なるものの発見というのが科学の根本精神にあるんですね。だから未知なるものを発見しようとして、そしてそれについて論理的な説明ができるかどうか。これが科学の領域であろうと思いますね。この考え方は今後大いに取り入れていかねばならん。 そういう意味であなた方が目指すものもね、単なる宗教でもないし、宗教学でもない。宗教科学と言ってもいい。あるいは魂の科学であろうし、あるいは精神の科学であろうし、神の科学であろう。こういうふうに言えますね。宗教科学ですね。こういうものであろう。まあ宗教科学と言うとちょっと宗教の部分だけ抹香臭(まっこうくさ)い。だからまあ幸福科学、結構でございます。 だから幸福を科学する方法、じゃあ幸福を科学するとは何か。幸福という領域の中にある未知なるものを発見し、ね、今まで人が発見しなかったようなもの、あるいは人が忘れておったもの、こういうものを掘り起こしてこれに光をあて、そしてそれに対して万人が納得するような説明をつけること。理証の部分ですね。これをピシッとやっていくことね。これが第一であります。 まあ、だから高橋信次の霊訓なんていっぱい出してるけども、こんなのいくらでも出せるから、これが本人の証明だね。はっきり言って。別に僕の顔を知ってる人にいちいち確認取ってもらう必要ないんだ。そんなの彼らだって確認したって僕の顔なんか見えやしないからね、姿見えないからしようがないけど、霊訓、霊言集ね、これ何冊でも出せるでしょ。僕は五十冊でも百冊でも絶対出しますからね。出せるんだから。それじゃ高橋信次の名前で、思想で、性格で、百冊作れる人がおるかおらんかだ、ね。生きてる人で書ける人いるか。いないよ。僕の弟子だって書けやしない、ね。書ける人いないよ。弟子でも書けないんだ。ましてあの世の霊でね、勉強もしとらん人に書けるわけがない。書けるっていうのは同じ個性で、同じ思想で、同じ性格で、書けるというのは、これは本人の証明です、ね。 これしゃべってる今日は一九八八年の一月の、今日何日かね、十二日の火曜日です。みなさんね。私の目の前に毎日新聞があります。毎日新聞の第一面で、八つ切りで土屋書店さんが『高橋信次の天国と地獄』という広告出してます。「愛に悩む現代人へ」ね、こういうふうに副題がついて、横に小さく『高橋信次の新復活』の広告が並べてあります。ね。 みなさんこの『高橋信次の天国と地獄』っていうの出ましたけど、この「愛に悩む現代人へ」ね、これ、僕が考えたんじゃないんだよ。土屋書店さんから「高橋先生に愛について語ってもらって下さい。現代人に向けてね。やっぱり愛の悩みが多いから、愛について語っていただけませんか」って、向こうからリクエスト来たんです、ね。「よし、答えましょう。愛について答えましょう」ってね、答えたんです、ね。これが本になったわけです。だからこの世とあの世でやり取りちゃんとしてるんですよ。みなさんね、笑っちゃいけないよ。ほんとなんだから。ねえ。僕が勝手にやってるだけじゃないんだよ。この世の人からのリクエスト受けて答えてるんですよ。僕は人生相談であろうが何であろうができるんだ。ちゃんとできるんだ。だからこのへんが証明だな。繰り返し何回でもできる。新しいものでもできる。こういうものがあります。 3.認識の方法 さて、科学について一連の話をしておるんですね。宗教と思想と哲学、これに関係する話として科学の方法論、これを考えております。そこで認識の方法ということをちょっと考えてみたいんですね。じゃあ客観性と言われるものは一体何なんだろうかと、ね。事実、真実と認められるその認識の仕方ですね。これは何だろうか。ま、こういうことを考えたいですね。 科学でよく実験室でね、何人(なんぴと)がやっても同じ結果が出ることがその理論が正しいことの証明と、まあ言われますね。けどもまあ、そういう実験結果でノーベル賞なんか出るんでしょ。きっとね、そうだと思う。ただ、一般の人が、じゃあ試験管振ってやっとるかといえばやりゃしないね。できないね。それなりの実験材料と実験装置、それと実験室、ね。それだけのスタッフがいなきゃあできないね。けど、そういう人がほんといたら、多分できるであろうということをみんなが信じているということだな。これで納得しておるわけだ。実際にねえ。 たとえば、ま、最近も利根川さんなんていうのがノーベル賞とったけども、日本人で初めてのノーベル賞って言えば湯川秀樹だよな。もう私たちの世界にも還って来てます。菩薩界に還ってますね、湯川秀樹さんていうのは。まだちょ心と霊言送るような、そこまで思想が進んでないけども、多少は宗数的なものの考えもできた方であると思いますね。ま、将来霊言なんかも出せるかもしれない。宗数的なものの考えのできる人でありましたが、彼のノーベル賞受賞作というかね、受賞において大切になった中間子の理論なんてあるけれども、中間子の理論なんていうのは、こんなのみんな別に自分の目で見たわけじゃない、そんなのね。中間子なんかあるなんて、こんなの話だけで聞いてる。 その中間子の理論を湯川博士が思いついたのは、ねえ、夜ベッドの中で奥さんと、ねえ、なんかいいことしようとした時思いついたとか、あるいはバスの中で揺られて思いついたとか、居眠りしとってね、バスの中で居眠りしとって思いついたとか、いろいろ諸説紛紛(ふんぶん)あるんだけども、いずれにしてもなんかぼんやりしとる時に思いついたと、まあこういうふうに言われてますね。 あるいは数学者で岡潔(おかきよし)さんていう方ね、この方も近年亡くなりました。京都の方(ほう)で、奈良だったかな、まあ数学者で、世界的な数学者のひとりであったけども、非常に仏教の理解が深かった方ですね。こういう方なんかも結構いい世界に還って来てます。また霊言なんかも出せるかもしれないけどね、科学者シリーズでね。湯川秀樹、岡潔、まあこういった人も出せるかもわからんけど、ま、彼らなんかも数学の証明やっておったけど、その数学の証明のやっておる過程でね、やはり天上界から啓示を受けながらやっておって、パッと思いつくという、まあこういうことをいろいろやってたね。そういう認識の方法論があったように思います。 結局ねえ、科学、科学と言いながら、その中核部、あるいは最先端の部分を見てみると、非常に霊的世界との関連があるんですね。湯川博士がふとんの中か、あるいはバスの中か知らんけれども、中間子理論を思いついたっていうのも、夢の中でね、思いついたっていうけども、結局は霊的世界からの啓示です、ね。湯川博士に啓示を与えた人がおるんですね、科学者の中から。科学者の魂でそういうもの教えた人がおるんです、ちゃーんとね。いるんですよ。みなさんね、ちゃんといるんです。それはいるんです。 それからその数学者の岡潔さんなんかに啓示を与えておる人もいたんですねー、霊的世界の中から。数学の証明について。あの世でも数学の研究してる学者もおるんですよ。たとえばパスカルなんていう人なんかもまだ、文学者でもあり哲学者でもあったけど、数学なんかもやってるんですよ。こういう人もいるし、ニュートンなんか、あなた、黙って寝てると思いますか。やってますよ何かね。ちゃんとやってる。だからみんなやってるんですよ。 だから科学の最先端はね、非常に霊的世界と関連が深いんですね。これは知っといてほしい。僕はそう思いますね。だからね、認識の方法としてね、一応、科学は誰がやっても、何と言うか納得がいくなんて言うけども、実際みんなそれやってもしないのに信じてるね。で、やってもしないのに信じてる人のやリ方見たら、それ自身非常に霊的なそういうひらめきでもって、理論を創っておることが多いということですね。まあ、こういうことがあります。 4.実証の精神 まあここで、でも大事なのはね、実証の精神だと思うんですね。実証っていうのは、現にこう証(あかし)を立てるっていうことですね。現にそうだということ、この部分が理論、理論が単なる理論じゃなくて、実際、価値がある、力がある、値打ちがある、と言いえる面ですね。この実証の精神があるかどうか。 理論は必ずしもそれは証明ができなければいかんというもんではない。理論は先に走るでしょう。特に物理学の領域とかそういうところでは、理論があってあと現実がついていきます。理論を考えついて、そういう現実があるんではないか。あるいは現実の断片を何か見てね、それについて理論を創る。ま、こういうことがいろいろありますね。 それで、今、宇宙科学の方面ではね、太陽系に、惑星は九つあると言われてるけども、第十惑星があるんじゃないか。十番目の惑星があるんじゃないか。こういう研究がされとるようです。今世紀に入ってね。まあ、冥王星(めいおうせい)かなんだかが発見されたのが千九百年代の前半です、ね。なかなか発見されなかった。まだこれからも未知なる天体があるんじゃないか。それで、第十番目の惑星、ね、こういうのがほんとにあるんじゃないか、というのが仮説で立てられています。 実際にね、第十惑星があるんです。これは、太陽の周り回っておるんです。ところがね、非常に何て言いますかね、発見は難しいんですね。地球から見た角度で、発見が非常に難しい位置におるんですね。この第十番目の惑星があるんです。これはおそらく私の予言ではね、今世紀中に発見されるでしょう。十番目、第十惑星の存在、これは発見されると思います。 ま、これについてはまた話、別な時にしてもいいですが、まだ発見されてない十番目の惑星があるんです、太陽系にはね。ちょうど地球から見て太陽の裏側の方にあるんです。だからわからないんです、なかなか。これはやがて発見されるでしょう。 ま、こういうのをね、ただ理論としてね、いろんな宇宙の観察しておって、星と星との動き方とかね、いろんな摂動(せつどう)って言ってね、摂理の摂、動(どう)は動くと書きますが、星の摂動とかこういうもの見ておって、そのすれとかね、いろんなの計算すると何かこういうものがあると説明がつく。なんかそういう惑星があるとこの意味があるとかね、こういう計算が立つんですね。こういう仮説立てるんですね。仮説を立てて何十年もして発見される。ま、こういうことがあります。 十惑星、第十番目の惑星も、今世紀中におそらく私は発見されると思いますけどね、これを言っておきましょう。ただ詳しい予言はあまり私はしません。なぜ、みなさんしないかわかりますか。それは、土屋書店さんのシリーズで『高橋信次の大予言』ていう本がでるんですね。だからあまり予言を本書でするとね、いけないんですね。予言はそっちに持っていくことになってるんで、それ買ってもらわなきゃいけないんで、これはちょっと予告にね、止(とど)めておきたい。まあこういうふうに思いますね。 。 今後いろんなものが発見されていきますが、それについて何かいつ頃発見されるか、このリストはすべて私の手の中(うち)にあるんです、本当はね。この手の中にあるんです。これを僕が読み上げたら、パラパラツと読み上げたら出てくるんですね。そうなんですよ。ただ時どき意地悪する人がいて、じゃあ、あいつが発表したんで、じゃあ違うようにしてやろう、なんていうのが、こんなのがまあ、あの世にもたまにおるんでね。まあだから難しい部分があるんだけども、自由意志があるからね。自由意志があるけど、だいたいどんなのが出てくるかはわかるんですね。 ただみんなね、実証の精神大事です、実際にそうであるかどうか。そういう新しい天体を見つけるっていう、こういうこと大事ですが、その前に理論があったということを忘れちゃいけない。あるかもしれないという仮説だね。理科系統では仮説というものを大事にしますね、仮の説。 実際、たとえば原子だとかね、分子だとか言うけど、あんなのみんな見たことないでしょ。ねえ、原子なんか見たことあるか、ね。素粒子なんか見たことないじゃないか、ね。しかし、こういうのは理論的に仮説立てて、原子があるとかね、言った人がいたわけだ。何十年か何百年か前にね、それで追究していったらやっぱりそれが説明がつく、ね。こういうことになったわけだ。原子というそういう固有の存在があるか、あるいは物質のその構成はエネルギー波に過ぎないのかね。物質エネルギー説、あるいはそういう素粒子説、いろいろあるんだよ。まあ、こんなのみんな仮説だね。 まず仮説があって、あと実証が続いていく。で、仮説が立つ理由は何かって言うと、これは天才、あるいはそういう優れた人たちの研究の結果、湧いてくるインスピレーションだね。ここだ。結局ね、科学的な実証精神と言っても、根本は霊的世界からの啓示があって、あるいは直観、ひらめきというのがあって、それをやがて説明をつけていく歴史であるということだね。 だから理科系統の学問でも仮説があるんだから、みなさんね、宗教や哲学や思想だって言っても、ここで仮説があっておかしくない。だからね、認められないからといって言っちゃいけないっていうのはこんなの問題ですよ。仮説を立てるわけだ、どんどん仮説立てればいい、ね。そしてそれをやがて時間かけて説明していく。こういうことでいいんだと私は思います、ね。 だから、これから霊言集なんか読む世の人たちがね、「そんなの認められない。インチキだ。ウソだー」なんて言う人もいるかもしれないけど、理科系統だってそうなんだから、仮説立てて、それ説明するのに何十年もかけてやるんだから、決して気にしないでいいよ。そんなの気にしなくていい、ね。だからまず、そういう理論が先行するんだからね。まあそういうように思って下さい。ただそれをやがて説明つけようという考え方、精神だけが大事ですね。この実証の精神だけは忘れてはならん。私はそう思います。 5.科学万能主義の次に来るもの さて、本章の最後を話をまとめるにあたってね、十九世紀、二十世紀というのは、科学万能の時代と言われました。科学万能そのもの、科学そのものはね、来世紀も続いていくでしょう。おそらくね。ただ、科学はね、今後大きく変わっていきます。今、時代の最先端に科学はあるように言われてるけれども、来世紀以降は、科学というものは、奉仕するものという考え方が強くなってきます。何に奉仕するか。人類の幸福に奉仕するものである。こういう考えですね。これが非常にはっきりしてきます。 科学があって、そしてそれがその結果によって人類が幸福になったり不幸になったりするというような、こうぃう結果論としての幸福論が今世紀はあったと思いますね。科学が発達して、その結果論として幸福になったり不幸になったりする。ダイナマイトが発明されて、結果論としてそれが幸福になったり不幸になったりする、ね。飛行機が発明されて、結果論としてそれが便利になるけど戦争が起きたりする、ね。こういうようになりますね。水爆が発明されて、結果論として人類が死ぬ。こういうことになりますね。 ま、そういうように、まず科学が先行して、そのあと現象の世界で善悪が出てくる。こういうパターンが多かったと思います。 それは科学する人、科学者の中に、そうした理想論、あるいは正法の精神がないからです。やっとる人たちが、現実そのもの、あるいは実験そのものに取り組んでおって、その方向性についてのコントロールができておらんかったからです。これへの反省が今世紀の末を境に出てくるでしょう、非常に。 過日、チェルノブイリですか、ソ連の原発事故がありましたけども、こうしたことが今後数多く起こっていくでしょう。そして、科学、無軌道の科学ね、これに対する反省が非常に生まれてきます。そして、幸福に奉仕するための科学という観点がね、非常に強くなってきます。科学そのものには値打ちがない。科学はあくまでも補助者であり、奉仕するものである。だから何に奉仕する科学であるかということが、一番大事である、ね。人類の幸福増進、あるいはこれから神に対する科学、ね、こういう何々に対する科学という考え方、ナンバー2としての科学、そういう意味合いが非常に強くなってくると思いますね。 だから、今後は、今、宗教と言われているものの中に科学的精神がいっぱい入って来ます。神の科学であり、人類幸福のための科学ですね。そういうのが非常に強くなります。アメリカとかヨーロッパでは、精神医学という形で、本来宗教が持つべき使命の部分を精神医学というものが大部になうようになりましたけども、まあ精神医学でなくても今度、別な科学で、方法で、科学的宗教、あるいは神の解明、霊の解明、こういうのが出て来ると思いますね。 だから科学万能主義の次に来るものとしてね、奉仕のための科学、まあそうぃう幸福のための科学、方法論としての科学、目的としてではなく、方法論としての科学が来ると、ま、これを予言することができますね。そういう話をして、本章は終えると致しましょう。
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目次 1.神による動物たちの創造 2.ムカデの創造の秘密 3.生物の創造は高級神霊の合議による 4.諸生物誕生の背景には、神のバランス感覚と人間への教訓がある 5.人間の運命に見る春夏秋冬 6.バイオリズムと運命の波動 7.運勢には三~四年の小さな周期と七~十年の大きな周期がある 8.自己の人生の周期の春・夏・秋・冬を見きわめて事にあたれ 9.神理の伝道にも四季がある 10.自分が絶好調の時には手控えして徳を積め 11.壮大な法を説く前には準備期間をおけ、というのがGLAの教訓 12.人間として生まれたことの幸運に気づけ 13.運命を超えるとは、人生の周期をよく見ながら、ひとつひとつレンガを積み上げていくこと (1987年2月2日の霊示) 1.神による動物たちの創造 今回の私の本も、いよいよ第五章「運命を超えて」というところにはいってまいりました。きょうは二月にはいりまして、八十七年二月の二日になります。東京地方は珍しく雪が降っています。 この前も雪の話をしていたなんていう人もいるでしょうけれども、たまに雪が降ったときには、言わしてください。雪が降りました。そして外はひじょうに寒いです。この雪が降って寒いというような情況を見ると、なにか人生というものをしみじみ思わせるものがあるわけですね。 神様はほんとうにいろんなものをよく創ったものだなあと、私は最近つくづく思います。人間も創ったし、人間のなかでも男と女を創りました。また人間に近い犬や猫も創りましたし、猿も創ったしね。鹿も創ったり、ウサギも創ったり、ネズミも創ったり、またまたトカゲ創ったり、カエル創ったり、蛇創ったり。まあよく創るなあと思うぐらい、いろんな動物創ってますね。ちょっと考えつかないでしょう。 もしみなさんが神様だとして、もっと大きい偉い神様から「こら、そこの地球の神様よ、お前に全権を与え、地球という場を与えるから、お前はなにか創造してみなさい。」と。「なにか物を創ってみなさい。」といわれてね、地球をポンと一個与えられたとしましょうか。さあ、そこでなにを創るか考えてみてください。 みなさんどうですかね。人間、まあ人間ぐらいはほかのところに住んでいたからモデルがあるけれども、人間以外の生物を、たとえば創ると考えてね、いったい、なにを創りますでしょうかね。 そうすると、どうでしょうかね、まあ猿みたいのは思いつくかも知れませんね。犬みたいな四つ足創ろうっていうんで思いつくこともありましょう。そしたら犬創ったら、それから類推(るいすい)して狼なんていいんじゃないかってね。 狼創ったら、まあ狼もいいけど、そういえば、たてがみもあったほうがいいじゃないってライオン創ってみたり、ライオンにちょっとシマシマ入れてみようというんでトラさん創ってみたり。それこそいろいろ発想ができますね。芸術家なら、このへんは考えつくでしょう。 猿のほかになにかあるだろうか。まあ、ちょっと空も飛ばしてみようじゃないかっていうんで羽根があるのを創ってみましたね。飛行機なんか現在飛んでいるけど、あんなのもう大昔に神様が飛行機創っているんですね。肉体を持った飛行機、つまり鳥ですね。鳥が空を飛び始めて、もう何億年も経ってから、人類が飛行機創ったんです。 だから、ものまねも、ずいぶん遅れていますね。こういう、ものまねっていうのは、コンコルドみたいのは、もうじゅうぶん飛んどるわけです。大昔からね。 そして、それだけではおもしろくないっていうんでね、たんなる鳥じゃおもしろくないから、コウモリなんかを創りましたね。洞窟(どうくつ)のなかに逆さまにぶらさがっちやってキィキィキィっていいながらね、やっぱり活躍するのはドラキュラ映画ぐらいしかないですけれどもね。 通常の人間はコウモリなんていうのは存在しているというのを忘れているでしょう。たまにドラキュラ映画のリバイバルがあるときに、それを見てドラキュラが歯をむいて美女の首筋にカプッとかみついてね、あそこのシーンだけ自分がやりたいなんて思いながら一生懸命見ていると、うしろにピアノ線でつるしたコウモリがキィキィと、こう飛んどるわけですね。 あれを見てコウモリって生物があったね、こんなことを思いつく人もいるでしょう。あるいはコウモリ傘見て、ああコウモリがいたねと思う人がいるかもしれません。こういう人もいるけど、まあコウモリっていう動物があります。 あるいはいろいろと考えてみると、手足があるのを創りましたね。二本で立つのと四本足で立つのを創って、それから手を二本なくして羽根に変えて空飛ぶのを創って、今度は手がないのを創らなきゃいかんから、じゃズングリムックリのを一発いってみようというんで蛇を創ってみたり。 あるいは蛇だけじゃちょっと恐ろしいから、もうちょっとかわいいのを創ってみようってね、ミミズ創ってみたり。あるいはミミズだけでは、あれだというんで、やっぱりイモ虫創ってみたり。いろいろやっぱり創ってみました。イモ虫に足がありましたかね。失礼しました。 2.ムカデの創造の秘密 まあイモ虫より、もっと進化したムカデみたいのが、足が百本あるやつがありますけれども、ありゃほんとうは三十二本ぐらいでしょうかね。そういうのもあります。だからあれだって創造したんでしょうね。 これの足、何本にするかといろいろ考えてね、おっ、ちょうどいいところに、ここに理科系の高橋信次がおるから彼にちょっとソロバンはじかしてみるかってね。 「もし、高橋信次。ムカデっちゅうのは足百本て書くのだけれども、お前、足何本にしたら合理的に動くのか知っているか。」ちゅうて。 「そうですね、これは新幹線の要領でいくとね、車両には車が、だいたい八個ぐらいあるといいでしょうか。四個でも走りますけど八個あってもいいし、まあ、そういうことで偶数の足のほうが、奇数より偶数の足のほうがいいじゃないでしょうかね。奇数だと、やっぱり一本の足が変なほうに行くと、ひっくり返る可能性がありますから、やっぱり新幹線といっしょで偶数のコマをつけたほうがいいんじゃないでしょうかね。」そういうふうにいいます。 「そうか高橋信次よ、偶数がいいか。じゃあ偶数で、お前何本にする。」 「まあムカデは足百本ていいますけれども、百本足つけると経済的にいろいろと困難がでてきますから、やっぱり百本は多すぎる。しかし四つ足では不足しますし、六つ足って、この前、昆虫創ったところです。だから昆虫といっしょにしたらかわいそうだし、まあ百足というぐらい、えばっておるのですから、もっと足を増やしちゃいましょう。まあ私が考えて六本と四本掛け算すると四六の二十四、二十四でもいいけど、まあもうちょっと増やして、おまけに一ダースぐらい増やして三十六本ぐらいにしましょうかね。」と。こんなこと相談して、まあそのとき、私はムカデの足何本にしたかいま、記憶はさだかじゃないですけど、たしか、そのくらい、二、三十本ぐらいあったような気がします。こんなの高橋信次がみんな、決めたんですね。ムカデの足の相談を受けて、動物というのは将来できる新幹線という姿を見てみると、新幹線が、だいたい十六両編成とかね。十六両編成で、だいたいコマが二個ずつついて三十二個とかね、十六かける二は三十二ですね。三十二個とかね。 こんなの将来のね、数億年先に新幹線が走っている姿を霊視しながらね、予知しながら、予想して、その新幹線の姿をイメージしながら、私はムカデを創ったわけです。 3.生物の創造は高級神霊の合議による だから、そういうことをね、遠い遠い昔に、私たち、まあ神様の仲間入りをしている高橋信次のような高級諸霊たちですね、一生懸命、議論して、将来、日本にはJRができるから、ムカデのような新幹線ができるから、そのイメージとして私はムカデを発案する。そして稟議書(りんぎしょ)が出ました。 そのあと、みなさんのハンコを取りましたら、お釈迦様は「ウンそうだな将来のことを考えると、まあムカデもいるだろう。」とハンコを押してくれました。ああ、よかったね。お釈迦様のハンコを取りました。 イエス様は、どうでしょうか。「ムカデはそうだね、イメージ的にはいまひとつだけども、まあ山を越え、谷を越えてね、やはり勇ましく歩いていく姿は、なんとなく人生を彷彿(ほうふつ)とさせるので、まあよかろう。」とイエス様はハンコをくれました。 ああ、よかった。じゃあモーゼ様は、どうですか、ムカデについては。「私は、そういうふうに地べたを這(は)っている動物は、どうも好かんな。スッキリせん。」とね。「やっぱり動物というのは勇ましく二本足か西本足で立たにゃいかん。あんな忙(せわ)しく歩いているのは、どうも性に合わん。」といってね、モーゼは、ちょっとつむじ曲げたんですけど。 「まあ、そういわずに、あなただって、いつ地べた這うか、わかんないんだから、将来のこと考えて、まあいちおうハンコ押してくださいよ。」なんていってね。「まあ、まあしょうがない。じゃハンコ押しておけ。」なんてね、ポンとハンコ押しました。 まあ、こういうふうに高級諸霊のね、神様方のハンコもらって、ムカデのイメージが決定されて地上にムカデを創りました。まあ、こんなことをしたわけです。 4.諸生物誕生の背景には、神のバランス感覚と人間への教訓がある どうですか、みなさんなんの話をしているかわからなくなってきたでしょう。なにを話しているかというと、神様というのは、いろんな世界を創られたっていうことをいま、話しておるのです。春・夏・秋・冬というような、そういう季節に合う生物を創りました。 なぜそういう生物を創って、そうした四季という周期まで創ったか。こんなところも考えてほしいんです。 やっぱり神様のひとつのバランス感覚なのですね。ひじょうにバランス感覚がいいんです。 そしていろんな生物が、いろんな苦労しているように、ムカデが一生懸命、足を動かしているように、アヒルが水面下で一生懸命、足を動かしておるようにね。 蛇が一生懸命、体をくねらして前へ進もうとしておるように、猿が一生懸命、木に登っておるようにね。 鹿が一生懸命走ったり、ウサギが一生懸命、穴のなかに逃げ込んだり、熊がね、冬眠のために一生懸命食べておるように。ライオンが一生懸命昼寝をしておるようにね。 やっぱり人間というのも、そういうふうに、いろんな努力せねばいかんのですよと。そういうことを、そうした動物を創りながら神様というのはね、人間に教えようとしたわけですね。 まあ、ああいう動物たちの姿を通して、あなたがたも悟っていきなさいよって。まあこういうことを神様は教えられたわけですね。 5.人間の運命に見る春夏秋冬 まあそうして、その生物いろんな生物が生きている世界っていうのを見てみると、春があり、夏があり、秋があり、冬があります。 春ってなんですか。春っていうのは、やっぱり希望ですね。ひとことでいうと希望を象徴しているのが春なのです。 夏ってなんでしょうかね。繁栄なんですね。 秋ってなんでしょうか。刈り入れもあるし、実りもあるし、実りと凋落(ちょうらく)と両方ですね。移り変わり、移(うつ)ろいだね。秋っていうのは、そうだね、やっぱり盛夏のあとのどちらかというと衰退に近いでしょうね。衰退。 そして冬っていうのが、冬枯(ふゆが)れというようにね、あるいは試練、困難、こういうものを創っているんですね。 この循環がひじょうにいいと思うんですよ。困難がきてね、困難に打ち勝って希望を持ち、希望をそのまま持っていくと、やがてそれがね、繁栄となる。 しかし繁栄もやがては衰えていく。でそしてひとつの試練がくる。しかしそのなかから希望を見出していく。また繁栄していく。こういうふうな循環サイクルというのは人生のなかにいろいろあります。 ですからね、きょうの主題は「運命を超えて」っていうことなんですけれども、人間にはね、やはり運命のなかに、こうした道筋がひとつあるということをやはり念頭においとかなきゃいかんのです。 それは春があり、夏があり、秋があり、冬があるように、朝があり、昼があり、夜があるようにね、こうした運命も周期っていうのがやはりひとつあるのです。まあ事実としてあります。 ですからいま、たとえば運命の本とかをだすと、ずいぶん売れているようですね。占星術だとかね、「まあ、あなたの運勢は、あなたは金星人ですから、あなたはなんとか人と合いません。」とかね。「あなたは火星人ですから、水星人とは相性が合いませんから、これで結婚すると夫婦はやはり破綻(はたん)するでしょう。」なんてね。「結婚生活は破綻するでしょう。」なんて、こんなことをいって一生懸命本を売っている人もいます。 あるいは姓名判断に一生懸命こってね、国会議員にまでなった人もいます。あれは、やっぱり自分の名前がよかったのでしょう。 あるいは最近は、やたら金運だとか、ドンドン運がついてくるんだとか、そういう類(たぐ)いの本を出して、そうしてずいぶん儲かっておる人もいらっしゃるようです。まあこういうふうに、どうも運の本にね、運とか、運命について本を出すとやたら売れるのです。 ですから私のこの霊言集もね『高橋信次の霊訓による大金の儲け方』、あるいは『高橋信次の霊訓による繁栄の仕方』『ドンドン会社が大きくなる方法』、もう『金が入ってウハウハ笑いが止まらん方法』とかね、まあこういう標題をつけると、おそらく出版社が大儲けして、まあ〇〇さんも大儲けして、そしてどこか温泉で芸者でもあげてね。 あるいは温泉で芸者をあげるだけじゃお金の使い途(みち)がないから、ちょっとハワイかなんか行っちゃってね。ハワイでちょっと執筆するからなんていいながらね、波乗りかなんかしちゃって。 そのうち溺れちゃったりしてね。まあ、そういうこともあるかもしれませんけれども。 まあ高橋信次がそんなに金儲けがうまかったかというと、まあそれほどでもないんでね。 もうちょっとで、うまくなりそうなところで私は、あの世へ行っちゃったんで、まあそれは実証できませんでしたけれども。 6.バイオリズムと運命の波動 まあ、そういうことを教えるためにきょうは「運命を超えて」っていっているんではないですよ。まあそういうことでね、人間の運勢というのは、やはり周期がくることはたしかなのです。 これはひとつの法則なのですね。そういう春夏秋冬、こうした循環があるように人間の運命というのも、そういう循環のなかに生きています。 そしてそのサイクルがいろいろあります。一日のなかでも、たとえば体調のいいときと悪いときと循環があるように、やっぱり一カ月のなかでも、やはり循環がありますね。 これをいま、生命保険のおばちゃんなんかがきまして、あなたのバイオリズムとかいってね、持ってくるでしょう。 そして「知性がいま、最低の日ですよ。」「二月二日は、ヨガのある先生は知性が最低の日です。」とかね。そして「身体のリズムも最低です。」ってね。「感情のほうも、明日ぐらいは最低です。」とか、「なにか、これはいま最低の波が、いまちょうど二月の頭に集中していますよ。」とかね。 こういうのを赤線、青線、黄色線いれて持ってきますね、生命保険のおばちゃんが。 そして「なんとか生命保険に入ってくれませんか。こんなふうに運命というのはあるんですから、危ないときには車にはねられるかもわからんし、なにがあるかも知れません。そのバイオリズムが最低のときに、たとえば知性のバイオリズムが最低のときに入学試験受けたら、得点は最低で国立大学にはいれませんよ。」とかね。まあこういうことをいろいろといいます。 これが当たっているかどうか議論の余地はあるんですけれども、やはり一日のうちでも人間は周期はあるし、一ヵ月のうちでも周期があるのはたしかです。それは、海でも潮が満ちるときと引くときがあるように、ちゃんとあるんですね。そして満ちたり引いたりして、やはりひとつの運動をしておるわけです。 そういうふうに人間の生命というものも、ひとつの波動なのですね。運命の波動を持っているから、やはり潮が満ちたり、引いたりするように、そういうふうな、やはり繁栄のときと衰退のときがあります。これは避けられないのです。 まあ小さな循環でいくと、一ヵ月のうちでも調子のいい日と悪い日があるでしょう。そういう波があります。また一年のうちでも、大きく調子のいいときと、そうでないときとがありますね。 まあ天中殺とか、天命殺とかいろいろありますけれども、あれもいうと、やたら売れるんですけれどもね。『高橋信次の霊示による天中殺入門』とかやると、きっと売れるでしょうけれども。 高橋信次が予告した一九八七年何月何日、この年にウサギ年生まれの人は不幸になるであろう。しかし猿年生まれの人は大金が儲かるであろうなんてね。まあこういうことを言えば人気がでるんでしょうけど、そういうことは言いません。 7.運勢には三~四年の小さな周期と七~十年の大きな周期がある そういうふうにいま、話がちがいますが一年のうちでも周期があるし、また人生というのを見るとね、だいたい見ていると、そうですね小さなリズムとしては、三~四年で一回ぐらいのリズムがありますね。三~四年ぐらいの間に、やっぱり一回ぐらい調子のいいときと、一回ぐらい調子の悪いときがあります。 それ以外に大きく見ると七年から十年ぐらいの周期がね、それぐらいの波の幅で、大きな盛り上がりと、やはり大きな引っ込みね、最低のとき、こういうふうなのがありますね。 だから人生七十年とすると、だいたいふつうの人でね、七回から十回ぐらいの大きな上がり、下がりがあるんですよ。まあ長生きしながら、よーく自分の人生を思い出して最高のときと最低のときね、ちょっとマークしてみてくださいね。 グラフに書いて、たとえば四十二のときは倒産したなあってね。三十三のときは、あのとき、大病で入院したわ、なんてね。汚職でクビになったのは五十四。六十二のとき、孫ができてうれしいと思ったら、息子の嫁から家を追いだされたとかね。 よく考えてみると、七年から十年ぐらいで周期かあるようです。みんなこういうふうに周期があるというのは、やはり宇宙の運動法則のひとつなんですね、これは避けられないんです。ですから、そういうことを前提にしてね、もうひとつ考えにゃいかんことがあります。 それはね、やはり自分自身の現在の運勢がどういう状況にあるかっていうことはね、つねづね人間は考えておかにゃいかんのです。 これを決定論的にね、やっぱりいっちゃいけないんですけれどもね。何年の何月何日に生まれたから、今年は、もうなにも活動しないほうがいいなんて考えちゃあいけないんです。そういうふうにね、運命を考えちゃあいけないんです。 しかし自分のまわりの情勢をいろいろ見ていると、ついてないときって、やっぱりあるんですね。 自分もよく病気したり、家族もうまいこといかない。どうしても成功しない年っていうのがあるし、年が変わってひとりがうまくいき始めると、みんながうまくいくときってありますね。こういうときがあるんです。 8.自己の人生の周期の春・夏・秋・冬を見きわめて事にあたれ こういうときを見ててね、人間は、その運の流れを見ながら、自分の心構(こころがま)えを決めにゃあいかんのです。 いま、自分の状態が、どういう時期が春の時期か、夏の時期か、秋の時期か、冬の時期か、これを見きわめる必要がある。この四分法でね。四分割するような考え、いま、自分は何時(いつ)の時期だろうか。 いまどうも冬だなあと思ったら、冬は試練のときですから雪がふりますけれど、これは厳しいけれど、厳しい冬のなかに一生懸命自分というものを鍛えておく。自分の精神を鍛えておくと、やがて春には花が咲くでしょうね。 ちょうどいま、受験シーズンですけれど、この冬の寒いときに一生懸命努力している受験生は三月に「サクラサイタ」「イナホミノル」とかね、そういうふうな祝電をもらうでしょう。 この冬なかに焼イモ食べながら、「まあいいや、そのうちに運が開けてくるわ。」なんてコタツのなかに入ってガァーガァー眠っているような人ってのは「イナホチル」「サクラチル」ですか、そういう通知をもらうんです。三月に。そしてショックを受けて、もう一年勉強させられるわけです。 だからいま、冬の時期だと思ったら、そうやる。で春のときだと思うと、これは希望のときだから、ここは一気にね、光明思想を持ってガンガンガンガンやっていかにゃいかんです。 春のときにはね、ようするに希望を持っていきなさい。春になったら何時(いつ)までも冬着、着てね、古いオーバーコート着たり、セーター着ちゃあいけないんです。こういうときには、ちゃんとクリーニングだして春は春の衣装に変えていきましょう。男の人でもね、ちょっと春の服を着て、そうするとなんとなくいい気分になってね、ああなんかよくなってきそうだなんてね、なんかそうしたら向こうの曲がり角から来る女の子なんか、みんなきれいに見えちゃって。 春先になると、なぜか女の子がきれいに見えてくる。春先に女性がきれいに見えてくるようになったら、まあひとつは幸福のシグナル。もうひとつは刑務所のシグナルです。みなさん気をつけましょうね。女性がきれいに見えてきたら、それは自分の心がよくなってきて生き生きしている証拠でもあるけれども、あんまり女性がきれいに見えて、上野の山かなんかで変なことをすると、変なところへ行っちゃうわけです。 まあだから両方の危険性があるけれども、あまり過度の行動は慎(つつし)んで、そこそこにがんばればね、春っていうのは希望のシーズンです。 そして夏。夏っていうのは、もう陽の照りつけるなかにね、ガンガン働くんです。ガンガン汗水たらして働くのが夏、だから夏は、かき入れどきです。体が真黒になるまで泳がなくてはいかん。汗の玉を光らせて一生懸命労働に励み勉強する。こういうときですね。夏に成果をあげるのです。一生懸命実績を作るのが夏です。 そして秋です。秋になるとようするに、その自分の実りというものを、しっかりとたしかめながら、そして凋落(ちょうらく)に備(そな)えにゃいかんです。冬に備えて心をひきしめていかねばいかん。自分の運がちょっと衰退してきたと思ったら、これは夏のときのようにガンガンガンガンやるわけにはいかんのです。これはちょっと手控えということをしなければいけない。事業でもそうです。個人のね、いろんな活動でもそうですよ。手控えをしていくんです。冬に向けてね。そしてまた冬になります。 こういうふうなもんで、自分の人生の周期をよく見きわめながら、力を蓄(たくわ)えるときと、それを発揮するときと、これを心得にゃいかんのです。本来力を蓄えるべきときにダーッとやってしまうと、ガクッとくるわけですね。 9.神理の伝道にも四季がある たとえば、こういう神理の伝道なんていうのでも、力を蓄えるべき時期というのがあるのです。これは冬の時期ですね。そして春、芽吹いてくる時期があります。芽が吹いてくるときです。でこういうとき、やはり冬から春、雪のなかから芽を出してくるときの季節というのはだいじなんですよ。 この冬の寒気(かんき)のなかで、やはり力を蓄えていく。春に向けての力を蓄えておく。しっかり栄養を蓄えておく必要があるのです。そして、その厳しさのなかに自分の身をひきしめていく。こういう時期が必要なんです。 やがて春がきたら芽吹いていきます。そして夏になったらガンガンやります。そのうち神理の伝道でも、また困難な時期がくるでしょう。やがてちょっとなんかね、あまり教団が広がりすぎて変な人が出てきたり、あんまり評判がいいんでケチをつけたりする人が出てきます。まあこんなのは秋でしょうね。 そして冬の時期っていうのがありますね。冬の時期ってなんでしょうね。あんまり冬の時期っていうと、なんかそれが頭に焼きついちやって、やっぱり活動が鈍(にぶ)るといかんから、それは言わないけれども、まあ若干(じゃっかん)、停滞する時期もあるでしょう。そういうときには、またね停滞期には、また力を蓄えていく。こういうことかだいじなんですよ。 10.自分が絶好調の時には手控えして徳を積め ですからテレビで名前を売っている評論家なんかでもね、毎日なら毎日出たり、毎週、毎週テレビ出て評論なんかやっていると、だんだん種がつきてきます。そしてあの人はいつも同じことを言っているっていうんであきられてきますね。やっぱりこういう人も人生の四季をしっかりつかんどかにゃあいかんのです。 いつも春ばっかり、いつも夏ばっかりだと思っているといかんよ。自分が売れっ子の最中というのはね、もうすでに秋の凋落(ちょうらく)の傾向が出ておるのです。 だから夏だと思っていつまでも肌を焼いてちゃいけないのです。そういうときには少しずつ控えていくんです。人気が出すぎて絶頂のときというのは、人間気をつけにゃあいかんのです。 つぎはもう凋落しかないんだから。自分が絶頂だと思ったときに、多少控えていくんです。そして冬に向けての蓄えを作っておくのです。これだいじなんですよ。これは人生の考え方です。 ですから自分がいま、最高潮、絶好調でね、もうだれからも批判が出なくてね、人気が出たと思ったときは手控える必要があります。 だからたとえば出演でステージに上がっても、三件に一件は、断わってみるとか、あるいは本なんかでね、ドンドン書けっていわれても多少手控えるとかね、こういう必要があるわけです。 じゃあ「高橋信次の霊訓集」はどうかと言われたら、もうこれは百万部突破するまで手控えしてはいけませんよ。ドンドンもっと出さにゃいけません。 二冊、三冊、五冊、六冊と、いっぱい出さにゃいけませんよ。これはもうミリオンセラーになるまで私は絶対あきらめませんから。 これは手控えてはいけません絶対に。ミリオンセラーになるまでは絶対手控えてはいけません。二万部や三万部売れただけで絶対手控えてはなりません。まあこれは心得てください。 まあこういうことは別ですけれども、まあそういうふうな心得ってのがあります。 だからあんまり調子がいいときというのはね、やはりどっかに徳を積んでおくのです。そういうようにね、力を蓄えておく。ですから事業家なんかでも、もうご飯食べる間もないほど忙しくて、忙しくてしょうがない人は心してね、やはり一日のなかの三十分か一時間、自分の時間というのを取りなさい。 自分の時間を取って、そのあいだに自分の反省をしたり、あるいは精神的な勉強、神理の勉強したりする時間を取りなさい。これは絶対だいじです。とくに気をつけるんですよ。 11.壮大な法を説く前には準備期間をおけ、というのがGLAの教訓 こういうことでなんでもいいです。宗教家でもそうですね。やたら評判が、いきなり出始めたら、そういうときには要注意しなければいかん。 そういうときにテレビに出たりね、ラジオに出たり、全国でまあいろんなことをして喜んどったら、ドスーンということがあります。そういうときにこそ、やはり手控えながらね、慎重にコマを進めていかねばいかんのです。 まあ新興宗教でもいろいろありますね。バアーッといっぱい会員入れちやってね、私は偉いんだなんてバアーッと飛び出しちゃって、少年、少女のスターみたいになってね。なんとか隊みたいになっちゃって。あんなのは、そんなに長いことは続かんでしょう。こういうもんになっちゃいますから、じゅうぶん力を蓄えにゃいかん。 高橋信次なんてのは、もうワン・ツー・スリーという指導霊から声がかかったらすぐ始めちゃって、最初七人相手に自宅で説教を始めて、それから「あれよ、あれよ」という間に、あなた何千人、何万人ね、死ぬ間際はもう何十万人いましたかね。四十万か、五十万いたかもしれません、会員がね。 あっという間に、七年ぐらいで七人から数十万人にまでふくれ上がりました。そしてあっという間にふくれて、先生がポキッと折れて死んじゃったら、いきなり大教団になったもんだから先生がいなくなったら、もう混乱してね。あと、支離滅裂(しりめつれつ)といったらいいすぎだけれども、もう弟子たちは、チリヂリ、バラバラになっちゃいました。 まあこれも考えてみれば、なぜかっていうとね、人がたりんのです。たりなかったと思いますね。GLAもね。私が一気に始めちゃってね、じゅうぶんな準備なく始めちゃって、ダーッと広げるだけ広げちゃって、全国各地でもう現象してまわってね。歩きまわって、悪霊出して、一生懸命悪霊と話して歩いていたから、悪霊が見たいから、みんな一生懸命ね、「オイ悪霊見に行こうぜ。」っていってね、一生懸命GLAきて見るようになりました。 それでお客さんいっぱい集まってね、お客さんいっぱい集まったから、これから木戸銭(きどせん)いっぱい儲かるぞと思ったときにパシャーッとね、崩れちゃうんです。こんなことありますね。 こういうことでGLAの教訓も、みんなやっぱり肝に銘じてほしいんです。私が準備なく、いきなり始めて、もう広がる放題、広げまして、あっという間にあの世に行っちゃって、あとがたいへんになりました。 私は霊現象が起きて、すぐ本を書いたから、なかには混乱がずいぶんありますね。まちがいもありました。まちがって考えたりしたために「あなたは偉大な光の天使だ。」なんて私が最初のころいっちゃったために、あとで取り消しできなくなったのが、いっぱいあります。いったん私が「あなたは菩薩だ。」とか「如来だ。」とかいっちゃってね、あとでね、「いやまちがっちゃって、あのときは、ちょっと早まった。」なんてねいって引っ込めると、本人怒っちゃうからね。そういうわけにはいかなくて、私がいったもんだから、もうすぐに偉くなって高弟になっちゃってもう、高橋信次の次に、釈迦、キリスト、高橋信次の次は俺だというような人でね、いまだに全国各地で説法しているような人もいます。 こんなの私が初期にまちがった人ですね。準備を置かずにやると、こうなるのです。まず準備を置いて春だと思ったら、そろそろ希望を出して、夏には、かき入れる。そして危いと思ったら、また手控えていく、そういうふうに、やはり人生は固める時期がだいじです。 12.人間として生まれたことの幸運に気づけ 運というのはね、運命というのはみなさん、そういうふうにね、うまーくね、準備期間と潮時(しおどき)あるいは春夏秋冬というのをじゅうぶんに考えながらコントロールせねばいかんのです。これはひとつの法則なんだから。この法則からはずれないように、しっかりとおさえていかねばいかんです。 そしてね、まあ先ほど動物たちの話いっぱいしましたけれども、ああいうふうな、いろんな動物たちを見ながら、もう一度ね、自分の運というものを考えてほしいんですよ。 ムカデに生まれなかったということの運の良さ、ウサギに生まれなかったことの運の良さ、カエルは水の中に入っても風邪はひかんでしょうけど、やはり風邪をひいてベンザでもいいし、朝鮮ニンジンでもいいけれども、そういうものを飲んで風邪治(なお)したいと思ってね、夜の七時から寝ているような苦しい人間もおるけれども、そういう人でも、やはり風邪ひいてでもね、まあカエルよりはいいでしょう。カエルは服着ませんよってね。カエルが服着たらね、それは、お笑いになっちゃいますよ。 そういうことでね、人間に生まれたこと自体がひとつひじょうに運がいいんだからね。自分が運がいいとか悪いとかいわずにね、先ほどいったような神様が創られたいろんな動物、蛇とか猫とか犬とかライオンとか、そういうものに生まれたら、どうなるだろうなあと考えながら、「ああ人間に生まれてラッキーだったね。」ってね。「運がいいね。」と考えていただきたいんです。 もともと僕たちは、もうね、なんとか占星術によれば、持って生まれた星がいいとか悪いとかいうけど「やはり人間に生まれただけでもいい星のもとに生まれたね。」って。そういう気持ちを持たねばいけません。 13.運命を超えるとは、人生の周期をよく見ながら、ひとつひとつレンガを積み上げていくこと まず自分が幸福なんだと思って、幸福だけども、この幸福を確かなものにしていくためにはね、人生のいろんな周期というものを見ながら、賢く立ちまわっていかねばいかんということをね、忘れちゃあいけません。まあそういうことです。 まず幸福な存在だということに気づいて、運がいいということからスタートしながらね、その運の中味をうまーく運転していく。これが人生の秘訣なんです。こうすることがね、きょうの演題である「運命を超えて」ってことなのですね。 運命を超えるっていうのはね、自分の因縁を切るとか、たちまちこの身このまま悟って即身成仏(そくしんじょうぶつ)、即身解脱(げだつ)して、光の大指導霊になるわけではないんです。 そういうふうに人間的にあくまでもね、ひとつひとつ努力しながらレンガを積みあげていくように自分の運命を築いていきなさい。それがだいじなことですよ。 ま、いろいろといろんな話しましたけれども、まあきょうの私の話は、そういうことです。