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高橋通三(たかはしつうぞう) ?年-安永4年(1775) ■プロフィール 高橋通三(たかはしつうぞう) 仙台藩鍼医 二三郎、由之。仙台藩の鍼医。10貫文。 林子平の上申書の中に仙台の学問の停滞が批判の対象となっている中で、天文の大家として名前が挙がっているのが、戸板保佑と高橋道三である。佐竹義根の高弟として知られていたが、城中で自殺したとある。 ■高橋通三年表 宝暦2年(1752) 10月、忠山公の近習医。 宝暦3年(1753) 参府に従う。袷一領拝領。 宝暦5年(1755) 8月、物置詰。 宝暦12年(1762) 大塚・高橋通三、日食の予報 明和2年(1765) 林子平『第一上書』にて高橋通三を評価 明和3年(1766) 佐竹より、桜田伝右衛門、殿村右衛門太、高橋通三へ一貫許状 明和7年(1770) 彗星を観測 安永4年(1775) 鍼医・高橋通三 城中にて自殺 ■師弟関係 佐竹義根(1639-1715)───高橋通三( ? -1775?) ■基礎資料
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目次 1.地球の創造原因 2.地球出現の実際 3.地球計画の立案 4.地球存在への霊的考察 5.地球の使命 (1988年1月12日の霊示) 1.地球の創造原因 さてみなさん、非常にすごい題になってきましたねえ。今日は5章、6章ぶっ続けでやってますけども、科学の本質の次は地球の使命ですよー。大変ですね。こんなこと言える人がいたでしょうか。今まで、人間でいたでしょうか。霊でいたでしょうか、ね。だからそういう霊が出て来たっていうことは、これは大変な霊でございまして、前例(霊)がない例(霊)でございます、ね。 こういう地球の創造原因の話できるっていったら、一体私は誰でしょうか。みなさん、誰だと思いましようか。十一年前に生きておったGLAの会長でしょうか。そうじゃないんじゃないでしょうか。地球の創造原因が言えるってことは、天地創造が言えるってことです。天地創造が言えるっていうのは一体誰でしょうか。 それはみなさんご存知ですね、アラーの神しかありません、ね。そろそろ高橋信次の中にある眠れるアラーが甦(よみがえ)りつつあるわけですね。アラ不思議、眠れるアラーが今甦りつつあるわけですね。そして天地創造、ね、宇宙の本質、こういうものを語ろうとしておるわけですね。 だからみなさんね、この本一冊千円かと思うけど、安いぞー、ね。一千億円でもおかしくない。それだけの値打ちがある。天地創造なんて誰があなた言えますか。ま、音楽で『天地創造』っていうのはあったけどね、あるいは絵でも『天地創造』ってあったけど、こんな霊言で天地創造なんて、あなたね、言えませんよ。めったに言えるもんじゃない、ねえ。 だからこれを初版と同時に購入した人っていうのは、非常にすばらしい方です。そういう方は非常に霊的直観、アンテナが鋭い方です。そして、男性であれば非常に頭が良くて仕事のできる方であろうし、女性であれば美人で、人の受けが良くて、大変かわいがられる方である。まあほんとに非常にすばらしい男女である。こういうふうに私は思うわけですね。 さて、地球の創造原因ということで話をしたいと思っておるんですがね。ま、何か言いたいかっていったら、「どうして地球ができたのー?」とまあこういうことですね。それはね、神さまが創りたく思ったと言えばそれまででございます。そら、それまでだけども、じゃ、なぜかということだけどね。みなさん方は人生の計画とかいうのを立てることがあるでしょうかねえ。人生六十年、七十年の計画、こういうものを立てることがあるかもしれない。 あるいは神さまの、なんて言うかねえ、計画じゃないが、会社の計画なんかでね、自分の会社のプラン、こういうのを立てることもあるでしょう。そういう時に子会社を作ろうなんていう話がでることありますねえ。親会社がしっかりして固まってきたから、そろそろ子会社も作って、特殊な業界に打って出ようか。こういうことありますね。親会社としてはちょっと恥ずかしいけども、そういう子会社作ってやろうか。こういう動きが当然ありますね。 特に何て言いますか、今まで企業イメージがはっきりしてるようなとこなんてね、やりにくいからそういうことしますね。たとえば鐘紡(かねぼう)みたいな、なんか着物だっけ、鐘紡って化粧品だったかな、化粧品会社が、食料品作ったりすると、ちょっとイメージが違うんで、ねえ、食品会社作ったりするね、子会社ね。こういうようなことをして、そこに企業イメージと違ったものを新たに作ってやる、やらせる。しかし、新たなことをやるっていうことはリスクもあるね、当然リスクもあるから、そのリスクを子会社に負担させる。まあこういうことあるね。 そのかわり、子会社で働く人たちは新たな生きがいができる。こういうことが言えるんじゃないかな。だから本社にいたら課長クラスの方がね、子会社へいけば部長になれる。そうでしょ。本社の部長ぐらいだったら子会社行けばもう取締役、ね。本社のヒラ取締役だったら子会社だと社長と、まあこういうふうになれるわけで、頭打ちで苦しんでいる人たちが子会社に出向すると、仕事の揚ができるんだな。仕事の揚ができて伸び伸びやれる、ね。 一度は社長をやってみたい、これは人類共通の夢ですね。一度は社長やってみたい。男性ならみんな思います。ところが親会社が、何千人、何万人の会社だと、社長になる可能性はまあゼロと言ってそのへん間違いないです。どんなに優秀だったてね、あんた一万人超える会社で社長になることはまあないと思ってだいたい間違いないですね。ないですよ。八年か十年に一人でしょう。そんなのこないですよ。たまたま上がポックリ死んだりするとそういうこともあるけど、なかなか回ってこないね。これが現実です。 ですから、そういう人たちの生きがい創造のためにはどうするかって言うと、子会社いっぱい作るんですねー。そして頭打ちになってる人たちを救っていくわけです。ヒラ取締役でもう頭打ちの人には子会社の社長に出してやる、ね。また、肩たたきにも使えるんですね。窓ぎわ族がもういっぱいいて、先輩より後輩の方が偉くなったらやりにくいね。やりにくくなってくるから、その先輩どうするかっていったら、やっぱり子会社なんかに出してやらしてやる。まあこういうことをする。 最近は企業では、子会社なんかでもエリート鍛えるために子会社に出してね、そこでバリバリやらせて、そこで張り切ったら呼び戻されて出世ができると、こういう人もいます。まあいっぱいいますけども、こういうふうに子会社というのは非常に小回りがきいて、新たな何て言うか、生きがいの場として考えられるわけでね。 まあ、これと同じように思っていい。宇宙の中でも、いろんなそういう人類が住めるような惑星がいくつかありますし、いくつというか、相当の数ありますし、それも現在でも創られつつありますね。なぜ創られるかというと、結局ね、親会社が子会社作るのと同じです。新たなベンチャービジネスを始めようとするんですね。新たな魂の修行を始めようとする。そしたら古いところで満足しなかった人たちも「嬉しいーっ」ていうことでね、そこで新たにやり直せる。そしたら他の星ではね、ま、そう最高指導霊でなかった人たちも、この星に来たら最高指導書になって、そのチャンスが伸ばせるわけね。 たとえば、地球だったら今、九次元ていうところに十人いる、ね。八次元で五百人、四、五百人いる、如来がね。地球にいたら八次元で九次元如来の指導受けてね、ちょっとペコペコしてなかなか思う通りいかないと思ってる人が、他に星ができてね、そこに新たな人類が転生するっていったら八次元からポコッと抜けて向こうへ行くと、そこで大指導霊になってね、トップになったりする。そしたら力量発揮できて、自分の考えでやれるだろ。 こういう会社の人事と同じようなことが、霊的世界でもあるわけですよ。そのためにはいろんな場を創ってやった方がね、全体の意識進歩になるんだ。実際ね。 地球霊団で最高指導霊やろうとしたって、高橋信次がバンとして頑張っとるうちはできないんだ、ねえ。あれをどけない限り、高橋信次をどっかの星かなんかに飛ばしてしまわないと偉くなれないんだな、いつまでたったって。地上に出とった時だけやりがいがあったなんて言う人いっぱいおるんだよ。 高橋信次が地上で四十八年やってる間は、ほんともう伸び伸びして天上界でみんな、もうスースー、スイスイ、何て言うかね、もうスッキリしてね、いつまでも地上におれって、ね、思ってた。ところがそれはならじってことであわてて還ってきたっていうんでね。四十八年で、あの野郎、早くも還ってきよって、もっといたら助かったのに、ね。 地球で言えば、地上ではね、四十八年で還るっていうのはこれは悲劇だけど、あの世では、あの何て言うかね、地上にいてくれることが幸福だった、ね。そして還ってこられると大変なことになる。あ、こら一緒か。両方私がいたら悲劇か、結局。いや、そんなことないわね。あの世で私が還ってくると悲劇、私かいないと幸福だった。この世では、私かいなくなると悲劇で私がいると幸福だった、ね。この世とあの世逆転してるわけですね。 だから、まあ何て言いますかね、天上界では私がいない方がスッキリしてたかもしれないし、もう伸び伸びしてたのにまたうるさいの還ってきた、ね。そして、まだもとの座に戻ってないなと思ってたけど、なんか霊言集いっぱいやって、「おっ、復活し始めたな。ヤル気かな。またやり始めるぞ」ってね、「これは大変だぞ。これで事業成功したらまた威張っちゃうぞ」ってね。まあみんな気にしてます。非常に気にしてますけど、そうなるでしょう、ね。 だから、そういう私なんかをどっかに飛ばさない限り、絶対偉くなれないんです。私がいる限り偉くなれない。だからそういう意味で、まあ地球を創った時にもね、そういう事情がいろいろあったということですよ、ね。いろんなとこで魂修行やっておって、もういっぱいになってきたから、新しいとこ創ろう、まあこういうことですね。これがあったわけです。 2.地球出現の実際 じゃあ、そういう、創造原因わかったけど、じゃあどうやって地球は出現したか。これはね、『高橋信次の新復活』っていう本の中でも僕はちょっと述べましたけども、地球というのはどうしてできたかっていう説は、諸説紛紛(ふんぶん)あるようですね。これは、地球物理学者や天文学者や、まあいろいろみんな考えておるようですが、創世とはね、もう何度も言ったように、約四十五億年前に太陽の一部が飛び出したんです。もうこれはっきりしてるんですね。これ霊的事実であって、これ変えられないです。 あの燃えてる太陽ありますが、あの一部がね、飛び出したんです。巨大な太陽ですから、その一部が涙ポロツと出たぐらいの感じですが、飛び出して、それが太陽から離れてくにつれてね、次第に冷却していったんですね。冷却していった。だからもともとはもうドロドロの真っ赤な感じだったのが、冷却していきまして、外側がだんだん冷えていって、内側だけが燃えておってマグマみたいになってね、こういう状態なんですよ。ただ、あまり巨大な火の玉であったんで、これが冷えるのでさえね、何十億年もかかるんですな。 炭(すみ)と一緒だ。真っ赤におこった炭ってあるだろ。あれをバーンとたとえば放(ほう)るとするか。セメントの上でも、土間の上でもいいや。真っ赤の炭をポーンと置くと、しばらくはまっかっかに燃えとるけどもだんだん外側から黒ずんでくるんだな。外が黒ずんで炭が出てきて、中の方で赤いのが点滅しているようなね、だんだん、だんだん、赤いのがチカチカと、まあこういう状況が現在の地球だな。真中へんで、こうマグマがチカチカしておるんですね。 だからそういう冷(さ)めていく歴史であることは、事実だと思います。実際上は、だからだんだん熱は失ってきてます。だから今から四十億年前ぐらいだったらね、ものすごく真っ赤です。とても住めるような状態じゃなかったんですね。それがだんだん冷えてきましたね。そりゃそうですね、みなさん。 あのう何でもそうですが、ご飯が熱かったらフーフー、フーフー吹いて食べませんか。そうでしょ、ね。そんなもんなんですよ。やっぱりフーフー、フーフー吹くと冷えるんですね。それからみそ汁でも熱すぎたらフーフー、フーフー吹いて飲みますね。同じように、太陽の周りクルクルクルクル回ってるうちにフーフー、フーフー吹かれて、そしてだんだん冷えてきたんですね。まあ、こういう状況であったわけです。 したがってね、まあだんだん冷えてきてちょうど冷え頃がよくなってきた、ね。お茶だってあなた、みんなお茶飲む時に熱湯はだいたい百度だろ。百度近くのもので沸かすだろ、九十何度まで沸かすけど、その湯は飲めないね、絶対に。やけどしちゃいます、ね。それ飲めるっていうのはよっぽど舌の皮が厚い人だけども、そういう人はあまりいない。猫舌の人なんて、もう大変なことになります。だからある程度、飲めるお茶になる頃には六十度からそんなもんだよな。六十度でも熱いよね、体温から言ったらお風呂でも熱いぐらいだから。六十度ぐらいのをフーフー吹いて、空気と一緒に飲むと、まあそこそこいい感じになるんだな。こういう意味でしょ。 だからちょうど今のね、人類が住めるようになってきた地球っていうのはここ数億年ですが、これはこのお茶だね、お茶を飲めるぐらいの感じになったんですね。まあもっと冷えていくとまたいけませんね。いけないことになります。 ただまあ、内部的なエネルギー量としてはそういうことですが、それ以外にも、たとえば太陽のエネルギーもありますね。地軸の変化によっていろいろと地球の表面は変わりましたね。で、何度も地軸も移転したことがあります。だから地球がちょっとくしゃみしてね、頭グルッと回ると、北極と南極が入れ替わるぐらいのことは、そら充分あり得ることですね。そういうことです。 北が寒くて南が暖かい、赤道の方が暖かいというのは、ちょうどおなかが出っ張ってうしろにそってるみたいな形だからね。真正面から光が来ると、おなかのとこによくあたって頭の方にあたらない。こういうことになっとるだけですから、向きが変わってね、おなか引っ込めて頭のへん出したらハゲ頭に日があたって熱いんだ。こういうふうになることありますね。こういうふうに地軸が時どきね、変わったことはあります。 どうして地軸が変わったかって言うと、これはいくつか理由はあるんですが、まあ地球自体が時どきそういう気まぐれ起こしたっていうこともありますね。コテンと動いてなったこともありますが、地球に他の大きな隕石(いんせき)とかね、物が急速接近してそういう地球の位置がずれたことがあるし、あるいは地球に巨大なね、巨大でもないけど、そこそこの星がぶつかったこともあります。そんなんで、ショックで揺れるようなこともありました。まあ、いろいろとそういうことは過去あったですね。 そういうことで北極、南極変わったり、熱帯が出たりいろんなことで温まったり、地球を温めたりしたことはあるけれども、まあ、全体的な歴史としては冷えてきた。表面も溶岩がいっぱいだったようなものがだんだんに冷えてきて、固まってきたんですね。ま、こういうふうに本当はできてきました。そしてやがていろんな生物が出てきたことは、すでに説明した通りです。これは『霊訓集のⅢ』なんかでもちょっと言ったかな、あの生命のね、発生のことをちょっと言ったと思いますけど、ま、そういうことが実際、いろいろとあったわけですね。 3.地球計画の立案 さて、まあそういうように、生命の誕生の場としての地球計画はあったわけでありますけども、まあ創っただけじゃだめだね。子会社作っただけじゃだめだ。子会社作ったら、ね、ここで一体何するんかということを決めにゃいかんね。 あなた方も考えてよ。親会社から子会社作って、子会社作ったら次何考える? ねえ。株式会社作ったら次何するかな。何にするかっていったら、一体何の仕事をするか決めにゃいかんなあ。定款(ていかん)が必要ですね。目的ですね、会社の目的。それから取締役の構成。こうでしょ、ねえ。目的と取締役の構成。それから資本金、株式、こういうことでしょ、ね。こうやって設立が登記されて動くんですね。 だから同じようにですね、地球という星ができたら次はここで何するかっていうこと決めないといかん。そしたらまあ植物や動物を生活させて、やがては人類を住まわそう。まあこういう定款ができるわけね。地球株式会社の定款ができるんですね。そういうことにしましょう。いや、何も住まわさないって言う人もあるんだよ。星としてただあるだけっていうね、存在の愛じゃないけど、存在も星みたいなのがあるけど、住むようなとこもある、ね。だからそういう動物や植物、人間をここで生かしてみましょう、こういう計画が立ちました。 次は取締役ですねえ、誰を社長にして誰を取締役にするか。そういうことがある。そうすると、まあだいたい選ばないかん。本社の中からね。排出すか選ぶ。この星をゴミ捨て場にするなら、要するに出来の悪いのでいいんだ。左遷(させん)で窓ぎわで余っとるやつを追い出せばいいんだな。ところがその会社に非常に期待しとる場合には、本社なんかからエリート送り込むね。非常に切れるのをバンバン送り込む。 私はある星から地球に追われてきたというか、出て来たわけですが、みなさんどっちだと思うでしょうか。エリートでしょうか。それとも肩たたきされたんでしょうか。まあ、これはご判断に任せるとしましょう。それでどちらであっても結論は、この地球株式会社に来た以上は、ここを発展させないといかんのだな。儲けなきゃいかん、ね。 そういうことで、まず四十五億年前に地球ができて、その頃にいろいろと大神霊たちが話合いしておったようですね。だいたいここを生命の修行の場にするっていうことは決まった。じゃあどうするかっていうことで、またその大きな霊たちが話をし合って、取締役を決めた、ね。 取締役ゴータマ・ブッダ、取締役イエス・キリスト、取締役モーゼ、取締役孔子、そんなのやっとったけど、「おれたちはちょっとね、おれたちだけじゃやっぱりちょっとうまくいかんから、やっぱりもっと優秀な、有能な、やり手の方を招聘(しょうへい)しませんか」ね。そしたら「あそこに、そういえばあの星に、なんかできるのがおるらしいぜ」って、「パリパリの人がおるらしい」「誰だそれ?」「いや、なんかエル・ランテイって言うらしいよ。非常にできるらしい。できるけど、できすぎて向こうでもいやがってるらしいよ。放り出したくてしようがないらしい」ってね。「それじゃいいからおいでよ。こっちで引き受けるか」って言うんで、「くれまへんか」と聞くと、「おお、いいよ、息子にやるから持っていってくれ」ってね、「婿(むこ)にやるから持って行け」ってね、「もういらんぞ、もう何もお返しはいらんから持って行け」っちゅうから、ねえ、私はのしつけて送られたわけですよ。それで飛んで来た、ね。こういうふうにして取締役の構成、代表取締役ができたわけです。 あとはもうあれですね、資本金、資本金ていうのは一体何かって言うと、資本金ていうのは、結局株式会社の中の出資ですね。株式からできてるから、株を購入してもらって出資した額で資本金ができますね。資本金に当たるのは何かって言ったら、これは霊的人口ですねえ。霊人口、どれだけの霊がおるか、何人持っとるかね、この霊的勢力ですな。地球にいくら持ってくるか。だから肉体舟持ってきたり、あるいは霊界の中から引きつけて呼んだりいろいろして、霊集めですね、地球に磁場創る以上霊を集めにゃいかんていうんで、いろんな星からかき集めてくるんですね。 「おい、なんとか星雲、おまえんとこはこれだけだ。二本、二本」「二本ちゅうことは二万人ですか」「いや、ちがうちがうちがうちがう」「二百万人ですか」「ダメダメダメダメ」「二億人ですか」「そうだ。二億人よこせ」ね。「いや、××星座よ、おまえのとこは五だぞ、五」ちゅうたら、「なに? 五十億人ですか」「いや、おまえのとこ、出来が悪いから五千万人でええわー」とかね。こういうことをして人を集めてくる。これはまあ金集めるのと一緒だ、ね。 こうしたあとは事業だね。事業に乗り出してどうやっていくか、ね。まあ設立の会社、新設立だからます手堅く始めちゃうね。まず手堅いところ始めるから、いきなり人間ちゅうわけにもいかんから、まあ動植物うまくやって、それがうまくいったら人間出していって、人間がうまく生存したらちょっと文明人創っていくかということでね、だんだんに計画練ってくる。まあこういうことを僕たちはやっておったわけです、ね。ま、そういうように理解して下さいねー。 4.地球存在への霊的考察 さて、地球という存在、これをね、霊的に考察してみようというのが本節です、ね。今、まあそういうふうに私たちがどんどん乗り込んで来て、ここで一発やるかーって言ってがんばったという話をしましたが、まあ、しかしね、考えてみりゃあ地球という存在自体も大きな霊的存在である。これはみなさん霊言集読んできた方は知ってるでしょう。霊訓集とかね、いっぱい読んで、地球意識っていうのがあって、巨大な親分がおるんです。こういうこと話したことある。 結局、こういうことなんだな。あのう、よく昔話っていうか、民話か、おとぎばなしか、なんか知らんがあるじゃないか、何て言うかね、鯨(くじら)だな、巨大な鯨の話なんかよくあるじゃない、ね。おなかの中で人が住んじゃったり、ねえ、背中の上で島ができたり、ね。あるいは中国なんかでもあったよな、大きなもう手を拡げれば何千里ていうような大きな鳥とかね、魚とか、まああるけど、こんなもんだな。無人島に着いたからって暮らしてたら下の島が動いて、あれっと思ったら鯨だったとかね。こんな話よくあるけど、ま、そういうもんで、自分たちが島だと思ってるだけで、ほんとは大きな魚の背中に乗っとるかもしれない。 地球自体が生きとるんだな。生きとると思うと大変だよ。だけど霊的な目で見ると生きてるんだよ、ちゃーんとね。みなさんは、テレビなんかでよく植物の発芽ね、成長するシーンを、何て言うか、早回しで見たことあるだろ、ね。みなさん方は植物って動かないもんだと思ってるね。動物は動く、植物は動かない、目には見えないね、動かないね。 植物が動くのっていうのは、あの蝿(はえ)を取るようなああいう草とか、あるいはおじぎ草とかね、あんなんだけだね動くのは。あと動かないね、植物っていうのは原則的に。ところが早回ししてフィルム回すと動くね。もう何て言うか、豆からシュッと芽が出てね、シュルシュルシュルシュルシュルッシュルッと伸びていくんだね。パパパパパパッて出て、花がパパパパパパッと咲いてね、パパパパパッと枯れていくんだよね。もう生きものそのものですね。こういうもんで速度によるわけね。コマを早くすれば生きてる。 地球もそうだね。四十五億年ていうのをものすごく高速度で回すと、それは頑張って動いて動いてあなた、大変な動物ですよ、これ、ねえ。火山は爆発するわ、地軸は動くわね、海はできるわ、海は干上がるわね。陸は出てくるわね、陸は陥没するわ、植物は茂るわ、枯れるわね。動物は出てくるわ、死ぬわ、もうあなたね、こんなの動物そのものですよ、ものすごい動きしてる。 これ四十五億年ね、僕はビデオで見るようにスーッとこういうふうにして見れるんだけど、もうすごいです。デコボコデコボコ動きまくってます。それはちょうど、相撲取(すもうと)りの小結関っておるけど、あれが自分の足持って、団子になってコロコロコロコロ転げてるようなもんだな。そういう感じで動いとるんです。生きものですね。 だから地球自体がそういう霊的な存在なんですね。そこに私たちが住んでいるというね、そういうことがあるんですよ。だから私たちが時どき、地球が生きものということ忘れて、自分たちだけでやっていると、怒っちゃうわけだな。意見が違うと、あんまり変なことしてると、地上で土地争いなんかしてると、「何を言ってるんだ。土地は国のもんだぞ。国有なんだ。おまえたちの土地なんかないんだ。国から借りられとるだけだ」ということで、国が土地の買収なんかやりますね、よく。 そういうもんじゃないけど、地球をわが物顔にして私たちがあまりやりすぎてると、どこかで機嫌そこねてね、火山が爆発起こしたりね、地盤沈下起きたり、地震が起きたりするんですよ。ま、だから結構、彼らの地球意識の意思表示もあるっていうことは知らないかんよ。 彼らはほとんど寝てるようなもんだけど、寝てたってあなた方のおなかを蚊が刺したら、手が無意識のうちにパチッとたたくだろう、ね。じようずな蚊なら逃げるけど、鈍い蚊だったらパチッとたたかれたら潰(つぶ)れちゃうね。 こういうことで、地球は寝ているけども、地上で大都市造ってね、そこで大混雑作ったりすると、かゆいから手が回っていってパチッとたたいたりするんだな。そしたら潰れちゃうことありますよ。そういうことあるんでね、それ知ってなきゃいけないよ。まそういう霊的な存在だということです、ね。 5.地球の使命 さて、最後の節になりましたんで、これで地球の使命ということで話したいと思うけれども、結局ね、地球の使命は母ですよ。母の使命、つまり何て言うかな、育むっていうことね。子供を生み、育て、大人(おとな)にし、ね、嫁にやり、息子にし、大きくしていく使命、だから地球の使命は母です。母の使命をしてるんですね。そういう役割だと私は思います。 これはね、まあ最高の霊的生活かもしれない。私たちは人格待った霊として、いろんな人を指導したり教えたりしてますね。これやっぱり教える、人間的に教えるということを通してやっておるわけでね。しかし、実際そういうことでは限界があるね。僕も霊言通してこうやってるけど、限界あるね、限界ある。 で、これよりもっと大きな、たとえば指導的役割って何かって言ったら、結局もう自分自身がね、大いなるもの、すべてを包み込んで育んで、自分というものの影響下において、いろんなものの成長を楽しむ心境だね。これが次だろうな。まだ私ら個性があって好き嫌いがあったり、ああしろこうしろ言って、言うこときかないと怒ったりすることあるぐらいでね。まだそういう気持あるけど、もっと大きな気持は母の気持だね。もう、生み、育て、ね、大人にさせていく。こういう育て上げるという気持ね、こういう母の気持だな。こういう気持になってきたら非常にいいわけだ、ね。だから地球の使命というのは、結局そういう母体だな。生命の母体、魂の修行場としての使命だな。 だから、私もまだここまでの心境にきてないんだ。残念だけどくやしいけど、まだもうちょっとなんだな。高橋信次の母体で宿りたい子供もおるけど、「いやだ」ちゅうのもおるから、まだもうちょっと、もうひとつなんだな。みんなが高橋信次にあこがれてね、まあ私のファン多いけどね。みなさんね、笑っちゃうけど、ほんと私のファンって多いんですよ。高橋信次霊言ファンってものすごいですよ。入会願書なんかいっぱい来るけど、そのうちの七割、八割は高橋信次ファンです。もうはっきり。「高橋先生の霊訓を読んで入会を決めました」というような人がほとんどです。それだけ人気がある。 つまり、大いなる母の心境に近づいとるんだな。もうちょっとがんばって百パーセントになりゃあね、そんならもう私は今度地球でもやったろかっていう気するんだよ。もうちょっとがんばって、宇宙即我だからね、地球即我ぐらい簡単ですから。体を地球大に拡大してね、自分の体をあけ渡す、「いらっしゃい、いらっしゃい」って「みなさん、どうぞ自由に使って下さい。私の霊的肉体を」ってね。こうなりゃあなた、惑星生命ですよ。もうちょっとだ。がんばらにゃいかん。そのためにはもう損得度外視してね、すべてのものを受け入れる大きな器だな。これが大事なんだね。私は今、この魂修行してるとこです、ね、そういうふうになるように。 だから地球の使命というのはそういう大いなる育みね、大いなる生成の場、こういうことが地球の使命であるわけだね。だからそうぃう意味では、何て言うかな、非常に大きな存在だし、私たちの目標でもある。ここまで最後はいくんだ、ね。大きな広い気持ね。 もう個性でもって対立したりするようなことはない、こういう気持だね。ということはまあ、地球の生命体自体もやはり限界は私はあると思うね。それは、地球そのものが、必ずしも理想的なものとはできていないという部分はね。ということは彼らにもそういう修行が残ってるんだなって感じがするね。地球の歴史見ても、必ずしも理想的な状態でなかった。試行錯誤があった。それは地球生命そのものにもね、やはり修行があったと、考えていいんじゃないかね。そういうふうに思います。 だからまあ、人間には上も下もあるけど、それぞれの段階で修行がある、ね。そういうことを考えねばいかん。人間として、女として苦しいとか、つらいとかあるかもわかんない。男としてつらい立場にあるとか、会社で不遇(ふぐう)をかこってるということがあるかもわかんないけど、地球意識としての苦しみとかね、あるいは男子意識の苦しみとか、あるいは九次元の救世主としての苦しみ、みなあるんだから、ね。みんな怠けちゃいけないよ、ね。自分の立場で最高度に頑張らにゃいかんぞ。 自分だけが天災に遭ったわけでも、被害を受けたわけでもなんでもない、ね。そう思って、上位の霊ほど大なる課題を抱えてみんな悩んでおるんだから、まあそう思ってね、大きな気持で行きなさいよ、ね。地球ぐらいになったろか、地球生命ぐらいになったろかというような気持で大いに人格を発展させることだ。自分が地球になれるかどうかよく考えてごらんよ。みんな、カンガルー飛ばしたり、あなた恐竜這(は)わしたりできるか。それだけの心境になれるか。なれんだろう、ね。だからまだまだ先はあるぞ。ま、そういうように思ってくれ、ね。そういうことで、本章は終わるとしよう。
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目次 1.三次元宇宙の本当の姿 2.宇宙界の仕組み 3.神のお考え 4.異星人の多様性 5.宇宙人と正法 (1987年12月14日の霊示) 1.三次元宇宙の本当の姿 さて、みなさんは、この三次元宇宙というのをどういうふうに見てるでしょうかね。よっぽどガッチリした、コンクリートで固まった土台みたいに思ってるでしょうか。 ところがねえ、この三次元の宇宙っていうのは、本当は、そんなもんじゃないんですよ。本当はね、ものすごく不安定な姿をしておるんだね。これがなかなかわからんだろうねえ。わかんないだろうけれども、そんなもんなんだ。 私たちの世界から行くとね、どんな感じかね。たとえば、うーん、なんでもいいが、立体映画みたいな感じってわかるかなあ。部屋暗くして、いろんなとこから映写機で映してね、立体感があるような映り方あるね、空中に人が出てきたりいろんなことして、話しているような立体映画っていう感じがあるでしょう。まあ、あんな感じに近いんだね、どっちかというと。 部屋の隅のいろんなところから、スポットライトが当たって、あっ、これは踊り子さんの方ですね。ストリップ劇場じゃありませんよ、みなさん、そんな想像しちゃいけないんだよ。あんなんじゃなくてね、なんかこう、空中にこう、映画ね、映像が映るような感じね、まさしくこんな感じなんですよ。ぼくたちから見てるとね。 三次元というのは、そういうなんかこう特殊な光を当てられて、その映像がね、空中に浮かんでいるようなとこ。だから、その空中に浮かんどる立体映画の主人公たちは、みんな実在感があって動いとるんだけれども、ぼくらから見るとそんな感じじゃないんだよね。やっぱり、ひとつの映像にしか過ぎないんだな。こういう感じなんだ。 だから三次元宇宙っていうのは、あんた方から見りゃあ、ものすごい現実感がある宇宙空間かもしれない。けれども、ぼくらの方から見ると、プラネタリウムってあるよねえ、あんな感じなんだよ。あれをこう、プラネタリウムで座席に入ってみると、もう満天の星空で、いろんな星が動いていて、きれいに見えるね。宇宙、まるで宇宙にいるような気がするだろう。ところが、実際はあなた、天井に映った姿見せられてるだけじゃないか。だけど、それを本当の宇宙の姿、星の姿見ているような気になるでしょう。ね、そういう錯覚があるでしょう。まさしくそんな感じなんだね。 三次元にいるから、そういうふうな、ここが本当の実相世界のような気がするけど、ぼくらの世界から見て、こんなね、やわな世界ないの、三次元なんて。もう、柔らかい柔らかいね、もう粘土こね回しているような柔らかい世界なんだよね。非常に不安定な世界で、そこに住んでいる人たちは、プラネタリウム見て星だと思っているような、そういう感じなんだ。非常にね、三次元空間というのは、ぼくらから見ると蜃気楼(しんきろう)みたいなものに近いよ。非常に不安定なもんなんだよ。 地球なんて、みなさんね、もう、ものすごくカチッとしてね、安定して、グルグルグルグル、一日二十三時間五十六分と何秒で回っとるように思うかもしれないけれど、ぼくらから見ればね、こんなのね、本当やわなもんだよ。あの、リンゴあるだろう、リンゴがグルグル回っとるようなもんだよ、空中で。高橋信次がガブッと噛みついたらあなた、カプッとえぐれるんですよ、リンゴは。そんなもんなんで、もう空中リンゴ。あるいはね、綿菓子(わたがし)。こんな感じなんです。 だから地球というよりも、三次元宇宙そのものがね、ああいう綿菓子みたいなんだ。はっきり言って。縁日であるだろう、ねえ。食ったことあるかどうか。こんなこと言うのは古い人かねえ、わかんないけども、割り箸かなんかでね、二本差し込んでね、こうクルクルクルクルっと両手で、左手と右手でこうクルクルクルクル回していると、綿菓子っていっぱいつくだろう。そしておいしそうで、もう、口開けてね、あの真っ赤なのをほおばるわけでしょう。白い綿菓子フワフワだけど、パクッと食うと空気食ったようになって、口のまわりにペチヤとついてね、それで赤くなっちゃうね。こうなるでしょう。 まさしく宇宙空間て、あんなもんなんだよ。綿菓子っていうのは、姿だけ見ると実在感があるように見えるけれども、食ったらないでしょ。パクッでしょ、ね。だから、大宇宙は広大無辺なように見えて、実際はあの綿菓子の世界なんですよ。神の目から見ると。結局、大したもんじゃないんだな。この綿菓子の機械、私はよく知らんが、どっか穴から出て来るんでしょう。シュシュシュシュと蜘蛛(くも)の糸みたいなのが、それで空中でフワフワ、フワフワするんでしょう。それを巻きつけたら、あんなになっちゃうんでしょう。 宇宙空間も、まさしくあんなもんなんだね。だから、シューッと出口は何かっていうと、その出口がこの、念がね、念が一定のこの糸状になって、シャーッと出てるんでしょう。そしたら宇宙空間できるんですよ。そういうふうに、宇宙空間、物質宇宙空間できとるんですよ。 それで、銀河系って、綿菓子だね。はっきり言って綿菓子で、綿菓子の中で、まあ、一部だな。太陽だとか地球だとかいっているのは、綿菓子の、あの飴粒(あめつぶ)のね、飴粒って砂糖粒かい、あれの一点だね。砂糖の粒子みたいなもんだ。これをね、地球と、太陽とか言っているんですよ。こんなもんだ、大きな神さんから見たら。 だから、三次元宇宙っていうのは、本当にね、固まったね、そういう建物みたいな感じで思っちゃいけないんだよ。そんな不安定なものなんだよ。こんなの綿菓子だから、神様みたいな高橋信次が、たとえばパチッと両手で叩けば、綿菓子はペシャンと潰(つぶ)れちゃうんだよ。そんなもんなんだよ。 だからみなさんね、どうしても自分の立場からしか物が見えないだろうけども、そういう感じなんですよ。本当の姿っていうのはね。これを知らなくちゃいけないですよ。これが本当の宇宙の姿なんです。 2.宇宙界の仕組み さてさて、えー、九次元というところで、宇宙界という名前で呼ばれることありますね。九次元っていうのは、宇宙界って言われる。この宇宙界について、もうちょっと説明しとこうかなと思うんですね。 なぜ宇宙界って言われるのか。また、この九次元宇宙界には、十人ぐらいしか人がいないという話になっていますね。エル・ランティーだとか、イエスとか、モーゼとか仏陀とかね。十人じゃ、さぞ寂しかろうと。友達もおらんのかって、ね。十人じゃ寂しかろう。 こんな十人ぐらいで、あなたひとつの世界に住んどるなんてね、この地球上の、全地球を包含するような。ものすごく寂しいんじゃないか。高橋信次先生もせんべい布団かぶって寝とんだろうな。寂しいだろうな、ってね。えー、地上の人からお歳暮も来ないしね、寂しいね。高橋信次先生宛に手紙来るけども、お歳暮来ないしね。私は好きなものいっぱいあるんだけど、全然来ないしね。私は鰻(うなぎ)なんか好きなんですよ。ただ、今冬だからいらないけどね、夏になったら送ってね。 まあこういうふうに、あのー、まあ、お歳暮の季節ですが、それには関係なく、まあ十人の人がいて寂しかろうと。まあこういうふうに思うが、本当はそう寂しくないんですね。それは、私たちの活動領域が非常に広いからなんですね。 それはそうですよ。地球の人でも、たとえば隣近所しかもう世界がないような人いるねえ。田舎の主婦。こういう人は、隣の魚屋へ行ったり、八百屋へ行ったりするだけで他にいくとこがない。こんな人いるね。 ところが、大都会で、もうパリパリの営業マンとか、看板社長なんていうのは、もう今週は飛行機乗ってニューヨーク行って、レセプションに参加して、帰ってきたら今度はもう、中国行ってね、中国から帰ってきたら、今度は韓国行ってね、韓国の次はフィリピン行って、あっち行ってこっち行って、もう縦横無尽(じゅうおうむじん)に走りまわっとる人いますね。 そして、韓国でキムチ食ったかと思ったら、今度はもう、キムチを食った匂いをサッと消してね、申国行って、北京ダック食べたりね。まあ、いろいろするわけですね。まあ、こういうことをしておる。だから個人差がものすごく激しいでしょう。近所しか知らない人と、全地球的にやっとる人ね、いっぱいいる。 同じようなもんなんですね。私たちの世界観が非常に広いから、仕事の量、行動する幅がものすごく広いんですね。だから、寂しくないんですよ、はっきり言って。それと下次元の人は、自分達の次元にたいてい住んでおって、他の次元に行くことありませんが、私たちは、ピョンピョンピョンピョン行くんですね。九次元にいても八次元行ったり、七次元行ったり、あるいは三次元降りてきたりね、あっち行ったりこっち行ったり、階段上がったり降りたりするの忙しいし、宇宙空間も飛び回っておるんですね。そういう意味において、そんなに寂しくはないんです。そんな、せんべい布団の中にこもってね「冬だし、東京ガス来ないし、寂しいな」なんて言ってないんですよ。ものすごくエネルギッシュに動いておるんですね。 まあ、言ってみりゃあ、何だろうね。顕微鏡で覗(のぞ)いたらこう、あるじゃない。この、アメーバーみたいなのが、よくまあ触手出して、あっち出し、こっち出し、何か食べ物みたいなのにあたったら、パクパクパクパクッと食べてね、また動いとるね。まあ、こんな感じかもしれないねえ。ある意味ではね。 そして、ここの空間ていうのは、結構地球以外の空間にものすごく広がっとるんですね。銀河系宇宙の中にある九次元空間、いっぱいあるんですね。結構あるんです。ここは通じとるんですよ。非常に通じあってて、ちょっと出かけてくると会えるんですね、いろんなとこで。 たとえば、まあM27とかね、こういう星があるんですけども、ここなんかでも救世主の世界でしてね、結構いるんですね。私たちと同じぐらいの悟りに達した人たちが結構いる世界があるんですね。M27、あるいはM36っていうとこあるんですけどね、星がね。こういうところにも救世主の世界があって、結構繁盛(はんじょう)しとるんですね。地球系では、まあ、十人しかいないけれども、こういうとこにはもっといるんですね。五十人とか百人とかね。もっといるんですね、こういう救世主が。そういうとこあるんですね。 まあ、そういうふうに、この九次元の世界でも、いろんな世界があって、お付き合いがあるんですね。大国と小国みたいのがあって、ぼくらも時どき会ってて、話してるんだけど、向こうから言わせりゃね、「お前ら、遅いなー」って、「三億年かかって、まだそのへんやってんのか。おれたちはもっとどんどん進んでるぞ」なんてね、「遅いんじゃないか」とかね、「まだ地球は戦争やってるんか」ってね、言われてるんですよ。「地球はまだ戦争やってるんか」ってねえ。 最近、米ソの核削減とか、いろいろやってましたけども、こんなのね、成功なんてやってるけど、宇宙人から見りゃねえ、「あんなの、まだやってるの」ねえ、「隣同士で核兵器で争いやって、こんなの戦国時代の竹槍(たけやり)と弓、鉄砲と変わらんじゃないか。まだ隣が攻めてくるっていうんでやっとんのか。遅いね、地球は」って、「ぼくたちはもっと先行ってるよ」ってね、そういうことを言ってます。 まあ、こういうことで刺激されて、ぼくたちも頑張るわけですね。ぼくたちだって頑張っちゃいます。頑張っちゃうけども、地球上から核兵器なくする前に、まずこの民族の枠越えなきゃいかんのだなあ。民族の枠越えるためには、三次元だけの枠じゃ駄目なんだね。あの世の世界もそうで、「我こそは日本神道系の神さんじゃ」とかねえ、「我こそはインドの神さんじゃ」とかねえ、やっとるからね、これをまた和解させにゃいかんのだな。これをもっと大きな目で、融合していかないかん。そういう大きな仕事があってね、わりあい忙しいんですね。 本当に高級諸霊たちも、その地球的規模での意識、あるいは全宇宙的意識、ここまでもってくるのが大変なわけですね。そら宗教っていったらあなた、道元禅じゃありませんが、只管打座(しかんだざ)なんてやってるけど、只管打座でやってて、ほかのM36とか、どうするんだこんなのね、この関連性は。まだそこまで話がいかない、ね、どうしても。そういうことでしょう。 そういうことで、なかなか高級霊の教育にも時間かかっとるんですね。特に古い霊の場合には、こういう話してもわからないから、これどうやって教育するか、非常に難しいんですね。だから古い霊の場合は、話がわかんないから、しようがないから「もう一回地上に出ろ」って言って、出すんですね。地上に出して、最近の科学知識の勉強して還ってくると、話が通じてくるんですね、ちょっとはね。「まあ、そんな宇宙人ていうのもあるだろうね」なんてね。 それがちょっと古い人になったら、もうかぐや姫の話でもする以外にないんですね。「あるだろ、かぐや姫ってのが」って、「あの月の世界から来るんだよ」って。「はあ、そうですか。月の世界っていうのは、どっちの世界ですか」って、「いや、月の世界は月の世界なんだよ」「はあ、そうですか。で、かぐや姫どうして来るんですか」って、「いやそれがね、竹の子の中に入っちゃって出て来るんだよねえ」って、こんな話するんですね。難しい。あるいは浦島太郎の話するしかないですね。「龍宮城っていうのがあって、あれはほかの星に行ったんかもしれないんだよ」ってね。「浦島太郎っていうのは、全然歳とらなかったんだ。行って帰ってきてみると、もう何百年もたっとった。ところが、自分の親とか兄弟とかはみんな死んでて、そして自分だけは若い。で、玉手箱を開けるなって言われたのに開けてしまったら、モクモクっと煙が出て、アッというまに自分も老人になってしまった。こんな話があるけれども、こんなのアインシュタインの原理を言っとるんじゃないか」なんて言っているんだね。光速度で字宙を、要するに運動すると、帰ってくると時間が変わっとるっちゅうんですな。 たとえば、光速度に近い宇宙船でね、宇宙旅行して一年して帰ってきたら、なんと地球では何百年もたっとったということがありうるということを、アインシュタイン言ってますね。こんなのは浦島太郎と同じ世界ですね、ほとんどね。だから、こういう話をせざるを得ん。浦島太郎の話でもして、納得させざるを得ない。こういうことありますね。だから、そういうことで、非常に私たちも難儀(なんぎ)をしておる。 そういう意味で地球を全宇宙的な意識に上げるためには、現代に生まれ変わる人の数も増やしとるんですね。多くの人を、霊人を、ドンドンドンドン地上に生ますことによって生まれさせることによって、その意識レベルをね、上げさせようとしてるんですよ。現代的な感覚持てるようにしよう。こういうふうにしてますね。 まあ、こういうことを、九次元の宇宙界ってとこで、ぼくたちはやってるんです。 3.神のお考え まあ、こういうふうな宇宙空間の神秘がいろいろあるわけですが、じゃあ神様は何考えとるかと、いうことですね。神様が何考えておるか。まあ、これは非常に難しい。まあおそらく、神様ちゅうのはそもそも何なのかっていうとこもあるわね。高橋信次が神さんか。まあ、神さんかもしれないよ。しかしカミさんじゃないよ、ぼくはね。男性だからね。まあ、神さん何考えておるかということですが、うーん、まあ結局ね、神さんは、やっぱり気が多いっちゅうことだね。それはぼくは言えると思うんですよ。いっぱいあっちにもこっちにも、いろんなところでね、星創っては、いろんなのを養殖しとるわけだ。 人間だって、ハマチの養殖したりね、あなた、イカの養殖。こらできないのかな。ハマチの養殖したり、あなた、イワシの養殖。これもできないんかな。鯉(こい)かな、鯉の養殖したり、あるいは鯛(たい)の養殖したり、いろいろしてますね。魚の養殖。何で一種類じゃだめなの、ねえ。鯛だと目出たいって言うけど、いつも鯛食ってたら飽きちゃうわな。そうだろう、ねえ。ハマチもあって、ブリもあってねえ、イワシもあって、マグロもあって、鯛もあっていいんですね。そういうとこがあるでしょう。 だから、旅館に行ってね、ハマチの刺身と、鯛の刺身が出てきたら、ハマチちょっと食べて、「脂っこいな、こんなのたいしたことない。これは残そう。お腹いっぱいだから鯛の方を食べて」なーんてやりますね。まあ、こういうもんですね。だからハマチは別に鯛より自分は下だとは思ってないかもしれないけれども、食べる方から見りゃあ、鯛とハマチの味は違う。鯛は鯛でいいのだ。しかし、ハマチよりは高級じゃねえのかっていう感じはあるね。 だから神さんもまあ、そういうとこあるんだな。こういう宇宙牧場に、いろんな豚を飼っとるわけだ。豚をね。地球の豚、これ人間のことだよ、言っとくけども。地球豚がいたりね、金星豚がいたり、M27豚とかいっぱいおるわけ、豚がね。味がちょっとずつ違うんだな。神様は、その豚がね、大きく育ってね、お尻がポンポンはってきたらね、「どれどれ、ちょっとこれつぶして食べてみるか」ってね、口にポコッと放り込むと、「ああー、結構な味じゃ」「これはトンカツソースしっかりかけないとうまくねえな」ってね、「ちょっとお尻のしまりぐあい悪いぞ」なーんてね、やっとるわけだ。 こういうふうに、まあ神さん鬼じゃないから食べとるわけじゃないけども、魂がこう成熟してくると、その味わいを感じるんだな。地球系の豚、あるいは牛。牛さんが、こういい味にしまって松坂牛(まつざかうし)みたいになってくると「うん、いい味だな」ね、この魂の味わいを感じとるわけね。そして舌つづみを打つわけですよ。神様は物質肉体関係ないから、霊のね、この高度な味わいね。あたかもハマチ食ったあと鯛食べたような気持でね「ああー豪華な気分。ああおいしかった。ああよかった」ってお腹叩(たた)く感じね。まあ、多分こういう感じだと思うんですね。 だからいろんなところで、いろんな魚の養殖のように、人間の養殖をやっておるわけですよ。そしていろんな多趣味でありながら、さらに高度な味を求めておる。グルメなわけですね。神様っていうのは最高のグルメです。グルメで、生半可(なまはんか)な味じゃ気にくわないんですね。最高の材料と、最高の調味料、最高の腕でもって、最高の料理を作る。これが好きなんですね。 だから高橋信次なんていうのは、地球で任されたひとつのシェフね。シェフってわかるかな。コック長、料理人、こんなわけですよ。だから「おい、高橋信次行ってこい。お前は肉が好きだろう」「ああ好きですよ」ってね。「豚と牛、おまえの自由にさせてやるから、ちょっと料理してこい」って言うからね、「わかりました」ってね、地球に来て、「どれどれ、この豚もうちょっと鍛(きた)えないかん。豚だって足腰鍛えなきゃあね、脂がのってよくない。もうちょっと脂おとさないかん」「この牛はビール飲ますといい味になる」とかね、肉がしまってくる。 まあこういうことで、私はシェフなわけですね。料理人だけども、料理人というのはまず、材料から始まるんですね。料理ったってね、あなた材料ですよ。やはりなんたって材料。まず最高のステーキ作るためには、最高の牛肉を手にいれることです。そうでしょう。それから始まるんですよ。最高の料理をするためにはそうなるんですね。だから、まず最高の材料を作る。最高の材料って何か。地球で最高の環境つくるっていうことですね。最高の環境をつくって、その中でいろんな最高の教育をする。まあ、こういうことですね。 こういうのが私たちに任された仕事なんですね。で、私たちはそれを料理する。最高の材料と、最高の調味料。最高の火加減と、最高の塩加減と、最高の砂糖加減と、最高の腕。そして見栄(みば)え。こういうもので、一番いい魂の料理を作るわけですね。そうすると神さんがものすごく幸福感味わうんですね。それで神様が、「高橋信次、シェフよ、お前ようやったぞ。なかなか結構な味じゃ。よーく出来た」って言うと、シェフである私も嬉しいわけだ。「ははあ、いやそれさえ言っていただければ」って、私、頭のこの白い帽子、こうさすったりね、前のあの、風呂敷じゃない、エプロンでこう手拭いたりしながら、「嬉しい、嬉しい」言って、また包丁に磨きをかけるわけですね。こういうことがあるわけなんですね。 こういう世界なわけです。私たちが一所懸命やっているのは、それだけやっぱり褒(ほ)められたりすると嬉しいからね、やっぱり頑張っちゃいますね。まあ、そういうとこなんですよね。 まあ、神様は、そのへん考えとるんじゃないか。こういうふうに言うことができると思いますよ。 4.異星人の多様性 さて、まあそれで、いろんな豚や牛がおるとか、ハマチとマグロとか、まあ鯛がおるとか、いろんなこと言ったけども、異星人の多様性について話しとこかな。どんなのがおるかっていうことだね、一体。 たとえば海老とザリガニはよく似ているけど、ちょっと違うわなあ。まあザリガニとシャコっていうかなあ、シャコって、寿司で食べるの知ってるかねえ。「シャコ握ってくれ」なんてね、「おい、シャコ一丁」なんて言ってね「握ってください」。「ああ、このシャコうめえな」なんて食べるけど、シャコとザリガニじゃちょっと違うし、ザリガニと海老じゃ違う。海老と蟹(かに)でもちょっと違う。 異星人の違いというのはこのへんの違いなのか、もっと根本的に違うのかね。人間の目で見りゃあ、まあ蟹と海老はそら違うけど、まあでも似たようなもんだよな。あるいは海老とザリガニの違い。ザリガニとシャコの違い。この程度の違いなのか、もっと根本的に違うのかどうかね。海老とタコじゃだいぶ違うわねえ。海老とタコじゃ違う。タコみたいな柔らかなもんが伊勢海老なんかを餌食(えじき)にするんでしょう。天敵なんでしょ。タコが海老食っちゃうんだよね、あんな固いものを。コクーと食っちゃうんでしょ。だから、えー、こういう違いがあるのか。 あるいはヒラメと鷲(わし)ぐらいの違いがあるんかね。空飛ぶものと海の底におるもの。どの程度の違いがあるのか、異星人っていうのに。まあ、このへんが興味のあるところだと思いますね。そして異星人にも男女があるのか。男女以外のものがあるのか。頭があるのか、手があるのか、足があるのか。まあこのへんだな、気になるのは。 お答えいたしましょう。何種類も来ておるから一概に言えないけれども、地球に来ておる中で一番代表的な異星人っていうのは、やはり地球人にちょっと似てますね。似てます。種類として一番多いのは、身長のちょっと小さいのが多いんですね。一メートルぐらいの、このぐらいの異星人が一番多いです。彼らの姿を描写してみると、だからまあ体の大きさは、小学校の二、三年生ぐらいの大きさですね。この程度の人が多いですね。 そしてその姿を描写するとどうなるかっていうと、目はついてます。目はついてますよ、ちゃーんとついてます。目は二個ついてます。やっぱり一緒です。鼻もあります。ちゃーんとあります。目もあります。ちゃんとあるんですね。耳がちょっと違うね、耳がね。耳がちょっと違っておって、人間から見れば、もうちょっとこう、長いね。長くて、多少触覚のような感じを受けないでもないね。そういう耳をしています。首はついてます。手はあるか。あります。代表的な宇宙人は、手二本です、やっぱり。それから足が二本ありますね。これは一緒です。 男女の別もあります。ちゃんとあります。男女の別があったら、男女がどう違うのか聞きたいって。そりゃあまあ、あなた、ちょっと問題があるよ。あまりやるとね、問題があるけども、基本的には人間とよく似ていると思っていいかと思いますね。大体似たような感じだと思います。これが一番よく来る異星人ですね。こういうのが一番よく来るもんですね。 これ以外の異星人としてどんなもんがおるかと、いうことですね。これ言うと、またちょっと違うのがおるんですね。これは、たとえば私たちの母星、もと来たベーエルダ星っていうのがあるんだけれども、そのベーター星の人たちの姿は、少し違います。これは体がもうちょっと大きいですね。標準サイズはやはりニメートルちょっと越えてますね。ニメートル二十ぐらいあるかね。男性ならね。ニメートルちょっとあります。割りに大柄です。大柄で、外見はやはり人類によく似てますね。よく似てて、基本的な姿は同じです。 ただ、違っているところはあります。それは彼らにはシッポがあるんです。恥ずかしながら。恥ずかしながらシッポがあるんです。みなさん笑うけれども、シッポがちょっと生えとるんですね。そのシッポの長さは、男性の場合には短いんですね。男性の場合にはシッポの長さは約二十センチです。猫のシッポみたいなもんですね。これがついてます。女性の場合はシッポが長いんです。シッポが約五十センチぐらいあるんですね。まあ細いもんですが、こういうものがついておって、宇宙服からこういうシッポが出とるんですね。シッポが出てユサユサ揺すっとるんですね。可愛いでしょう。こういうのがあるから動物にシッポがあるんですね。 あなた方見たって、犬になんでシッポがいるかわかるかい。わかんないだろう。猫になんでシッポがあるんだ。必要か、あれ。キツネになんでシッポいるんだよ、あれ。バランスとってるんか、あれで。どうするんだ、あれで蝿追うのか。馬になんでシッポがいるんだ。なんであんなものがあるかと思うけど、これはベーター星っていう最初に来た星人たちにシッポがあったから、それがひとつのね、考え方の基礎にあるんですよ。動物たちを創るときのね。まあ、あっちから渡ってきた動物にもシッポがあったけれども、地球で創った場合にもシッポが一応は考えられたのね。このシッポはだんだん退化していったんだけどね、人間の場合には。要らないから。もともとあったんですよ。 だから、今来る彼らにもシッポがあります。はっきり言って。で、このシッポがまたセクシーなんだ、女性の場合は。これが彼らの感覚からいうと非常にセクシーでね、いかに美しいシッポを持っておるかね、これが美しさの基準のひとつよ。まあ顔もあるけども、いかにしなやかでね、美しいシッポを持っておるか。シッポの動き方ね、これなんかがものすごく色っぽいわけだ。だからマリリン・モンローなんかあるけど、モンローウォークしながら、シッポユサユサ揺するわけ。その揺すり方がなんとも言えんわけね。それで男性はもうたまらなくなってくるの、そのシッポ、シッポを見ると。こういうのがあるんですね、シンボルマークとして。えー、こういう現象ですね。ニメートルぐらいあってシッポがあったら気持が悪いかもしれないけど、それがセクシーなんだよ、結構ね。そういうのがあります。 あと、男女の別ですが、まあ一応哺乳動物であるので、原則として女性には、まあ、お乳はついてます。それから男女の器官でございますが、生殖器官でございますが、これは非常に似ておると言ってもいいかも知れませんね。似ておるんではないでしょうかね。目もありますし、あと、耳がもうひとつあるんですね。みなさんは二つしかないけども、もうひとつ耳があります。それは後ろ向きにあるんですね、ひとつ。後ろの方に、後頭部の部分ですね、ここに耳がひとつついてます。目はないんだけど、耳がついておって、後ろから危険がきた時の察知するために耳がひとつついてますね。 その耳は、ちょっと違った形の耳ですね。ちっちゃな耳なんですね、第三の耳が後ろについてます。後ろの危険とかを察知するためにあるんですね。普通の耳は、人間の耳よりちょっと大きいですね。とんがってます。とんがってちょっと大きいです。で、後ろに耳が、第三の耳があって、あとシッポが生えとるんですね。ここが違いですね。こういうことが言えると思いますね。まあこれがぼくたちの母星人の姿ですね。 あと、これ以外にもおるかって言うけど、ありますね。手が六本あるのがおるんですね。これは気持ち悪いかも知れないけど、蜘蛛(くも)みたいですね。手が六本あるのがおるんです。えー、手が六本あるんですね。それで二本の手というのが、上の二本ていうのが食事用なんですね。それで真ん中の二本ていうのが、これが作業用なんですね。いろんな作業するために使う。そして下の二本ていうのが、たとえば全速力で駆けるときに、足と一緒に協力して駆ける。こういう動物もおります。動物というか、宇宙人もおりますね。手が六本あるんですね。ちょっと怖いかもしれませんね。こういうのがあります。ちょっと顔つきが人間とは似てませんがね。こういうものもいます。 まあ、彼らも生きとるわけで、何らかの食物をやっぱり食べてますね。地球人と違うもんだけども、彼らなりの食物食べてますし、やはりそれは、エネルギー源としては、やはり炭水化物なんか食べることが多いように思いますね。そういうもんです。まあ、これは、宇宙人の食事史について、また別のときにゆっくり話しましょう。 5.宇宙人と正法 最後に本章を終わるに当たって、宇宙人と正法について話しようと思いますね。これだけ外見上の違う宇宙人かおるということは、考え方も当然違うということですね。考え方が当然違っている。違う考え方もっておるけれども、共通な部分もあるね。ここが問題なわけですね。共通な部分は結局何かっていうと、彼らも結局進化っていうのはいいことだというふうに思っているんですね。発展していくこと、さらに高度なものになっていくこと、進化していくこと、これはいいことだ。共通して言ってますね。これは言えます。もうひとつはね、やはり調和ですね。これもいいことだって言ってます。お互いに仲よくしていくことね。仲よくしておって排斥し合わないこと。これはいいことだ。この進歩をいいことだと思うこと、調和をいいことだと思うことね、これは共通してます。 これについて、またいろんな議論はありますね。調和について愛の原理を言ってみたり、あるいは平等で愛し合うことを言ってみたりね、まあいろんな協力の仕方とか、いろんなこと言うことはあります。進歩の原理でも、競争原理みたいなのを言うこともあれば、競争とは別の進歩の原理を言うこともありますね。ただこの二つだけは、彼らが神の子の証拠としてあるんですね。神の子の証拠として、宇宙人であっても、進歩と調和の二つをいいことだと思っておるんですね。これが証明ですよ。神の子のね。 だからその六本手がある人と出会っても、進歩と調和を求めとるんですね。だから彼らも本来は悪意ありません。心の中は善です。心において善です。「地球人とうまくやっていこう。何とかして共存協調していこう」。こういうふうに思ってますね。 ですからこうした宇宙人の存在は、また我われにいろんな価値観、多様な価値観を教えてくれますけれども、根本において同じところがある。その現われ方に違いがある。こういうふうに考えればいいんですね。 えー、彼らがどういう考え方を持っておるか。まあこれについては、これからまた詳しく話をしていきたいと思います。時間がきたので、もう残念なんだけれども、一応ここで本章は終わることとしましょう。
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アニメ スタッフ-あ行 名前:越智 信次 よみ:おち しんじ 総作画監督 2012 TV - ゆるゆり♪♪ アニメ スタッフ-あ行
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目次 1.欲望と欲望を超えるもの 2.幸福の基礎 3.幸福の段階論 4.幸福と悟り 5.生死を超える道 (1988年2月8日の霊示) 1.欲望と欲望を超えるもの みなさん、高橋信次です。こんにちは。久しぶりですね。えー、前々回は『天国と地獄』やりましたね。そういうことで天国と地獄について言ったけど、人間の心は地獄のほうに惹(ひ)かれていくからね。すぐスルスルスルッと地獄の方へ行って、真っ黒けになって悩みつくりますね。それで悲しんでる人いるから、ちょっと今度は『幸福論』いこうかなあと思ってね。どうやったらみんな幸福になるか、考えてみよう。一緒に考えてみようね。 特に、高橋信次の『天国と地獄』を読んで、愛のところでつまずいた人が結構いるから、僕もフォローしとかねばならんと思ってね、今回はちょっとね。あれですよ。懺悔(ざんげ)をするんですよ。あるいは補習(ほしゅう)ですね。補習授業をしとかねばいかん。こう思いますね。 えー愛で、男女の愛でね、男性は「結婚してシマッタ!と思う」なんて言うもんだから、独身女性から「がっかりした。まあ私たちってそんなに存在悪なのかしら。結婚するということはそんなに悲しいことなのかしら。男性を苦しめるかしら。男性にそんな一生借金負わすような私たちなのかしら。ああ、私たちは生きていることが間違いなんではないか」こんな人もおるようですから、なんかね、そういう人たちが多少はいい気分になるような話を好んでしとこうと思ってるんです。 でもねえ、中年の男性なんて『天国と地獄』読んじゃって、「いやー、この通りですね。高橋信次先生、さすがお見通しですね。いや、そうなんですよ。結婚がすべての間違いの出発だったんですよ。あれさえなければ、カアちゃんさえいなきゃ、子供さえいなきゃ。僕だけかと思ったら、先生も一緒で安心しました。これで僕も九次元に還(かえ)れますね」なんてね。こんなこと言っておる人もいるかもしれませんね。 だから、人間はね、結局自分に何ていうかね、引き寄せて物事を考えちゃうから、自分と同じような境遇(きょうぐう)の人がいたらね、嬉しい。自分と反対の人がいたら何となく羨(うらや)ましい。こうなりますね。 まあ、だから物事はいろいろあるんですが、前回は「地獄論」とか、「悪霊論」とかね、愛による苦しみとか、ちょっと話したから、これじゃかわいそうだから、高橋信次が光明思想を知らないように思われたらしゃくにさわるからね、多少本刊では、まあ、楽しいこと、いいことも言っとこかなと思うけど、やっぱり僕も天(あま)の邪鬼(じゃく)の性格が出てきて、どっかでおどしちゃうかもしれない。みんなをね、おどすかもしれない。だから覚悟して最後まで読むんですよ、ね。 さて第一節でね、「欲望と欲望を超えるもの」と、こういう題つけたね。 「ああ高橋さん、また始まったな。いよいよ執着と欲望の話だな。どれもそれで聞き飽(あ)きたよ。もう生前から聞いているから、もういいわ。お前の『欲望論』聞かんぞー」なんて、思う人もいるでしょう。だけどねー、欲望ちゅう言葉は悪いけど、物事は考えようでね。やっぱりね、「こうなりたい、こうして欲しい、ああして欲しい」、ね、こう思う気持ちね。これもやはり、ひとつの根源的なものであることは事実ですね。またこれがね、いろんな人間の向上心になったり、あるいは何というかなー、世界の進化に繋(つな)がったりね、なっていることは事実だ。 女性は、やっぱり美しくなりたいと思うわね。これを欲と片づけてもいいよ。 「欲望であって執着だ。お化粧したい、どうらん塗(ぬ)りたい、マニキュア塗りたいなんてとんでもない。そんな化け物の道を歩んではいけない。女性は素肌(すはだ)で勝負しなさい」まあ、こういう言い方もあるけども、「いや幻覚でもいいじゃないか、美しく見えたら男性は誤解して、楽しい気分を味わっとるんなら、それでいいじゃねえか」。まあ、こういう考えもあるね。 だから、男性にとって聞いてみりゃね、「どうだ、女性が美しくなるのと、ならないのとどっちがいいか」、「あったり前ですよ高橋先生、美しいのに決まってるじゃないですか」ね。「もうお金出してもいいから、税金もっと払ってもいいから、美しくなってほしいや。特に、うちのカアちゃんなんかゴロゴロしちゃって、化粧もしないで、デブデブ太っちゃってもう、ガキの相手ばかりしてます」ってね。「結婚した時はねー、若くて、美しくて、スマートだと思ったけれども、もう今なんかあなた、腹まわり一メートルニ十センチもありますよ」ね。「胸なんかもうホッテントットですよ」ったらね、まあ、こんなこと言ったらホッテントットが怒ってくるけどね。 「もう国際化時代になんちゅうことを言うか。侮辱(ぶじょく)した!」ちゅうてね、言うけども、まあほら、美しくあって欲しいという願い。これが男性にはあるねー。 そうすると女性が美しくなりたいという欲望は、必ずしも悪とは言えないね、いいこともある。ただそれに執(とら)われると、もちろん間違いもある、ね。執着になっちゃう。これがある。 たとえば、後でもちょっと話をしようと思ってるけど、男性の性欲ちゅうものもあるねー。じゃこれは悪か。お釈迦様は悪のように言った、ね。イエス様もちょっとそんなことを言った。高橋信次は口をつぐんだ。あっはははー、これは冗談だけれども、僕はまあ、情欲のことも、ちょっと、サラッと書いてますけども、生前。サラッとでもないかな。多少、深入りしたようにも読めるように、サラッと書いてありますが、これだって必ずしも悪とは言えない。 これなきゃあね、あなたみんなね、沢庵(たくあん)食べている坊さんみたいな人ばっかりだったら世の中どうなると思ってる。地獄ですよ。人類は滅亡ですよ。一九九九年の恐怖の月がくる前に、人類、滅亡しますよ、性欲なくなったら。簡単ですよ。ねえ、年寄りになっちゃって、みんな死んじゃいますよ。完全に死にますよ。 だから人類一掃しようと思ったら、もう性欲なくしゃあいいよ。性欲なくして、もう何十年か、五十年も経ちゃあ人類いなくなっちゃうよ、簡単に。 もう爺さん、婆さんになってね、それで社会福祉できないからね。若い者が働かんから、福祉年金はおりてこんからね。爺さん、婆さんみんな働けなくなって、腰曲がって死んじゃうんですね。飢え死にしますね。それで終わりです。若者が働いておるから、みんな年金貰(もら)ってやれるんでしょう、社会福祉で。若い者が働いて、年寄りが貰ってだな。それが若い者がゼロになっちゃって、年寄りばかりの世界になってくる。 「爺さんや、畑仕事はできるかね」「婆さんや、魚も釣れんわのー」とかね、いろいろやって、あなたね、全然ダメですね。結局、苦しいですね。 だから簡単ですよ。「いやらしい性欲」ちゅうけど、これなかったら、ハルマゲドンの大悲劇かなんか知らんがね、最終日、人類の終末、もっと早く来ちゃうんですよ。簡単です。平和に殺せますね。これがあるからいいんですよ。 だからみなさんね、「欲望だ、欲望だ」って一律に考えちゃいけないよ。物事には、やはりすべてのものの中に向上心があるんですよ、ね。そういうふうに思わなければいけないですよ。何でもかんでも決めつけて、「これは絶対的な悪」なんて思っちゃいけない。この世には、「絶対的な悪」というものはないんですね。やはりいいものもある。だから、その捉(とら)え方と、その使い方によって、世の中いろいろ変わるんですね。 金銭欲だって、そりゃあ執着になりますよ。そんな「お金儲けだ」「金だ、金だ」って言ったらね、執着になるし、人間おかしくなることもある。 ただ、お金を儲けるということだってね、ひとつの価値の換算(かんさん)基準、ね、価値、自分の労働ね、労働というものを、お金で計っている。そう思えばね、生き甲斐(がい)にもなるわね。一生懸命働いて、ボーナスも増えるわね。ボーナス増えて、それが悪いかっちゅうと、そんなことない。一生懸命働いてボーナス減って、怠けたらボーナス増えてくる。大変な世界になりますね。それも一つの方便は方便。便法は便法ですけど、働いたらお金になって還ってくる。なんか嬉しいような、悦(よろこ)びになる。だから、この欲望も必ずしも悪かと言えば、悪じゃない。 ただ、そういう執(とら)われになっちゃうといけないね。「お金がすべてだ」「人生はお金だ」「お金以外に友はない」「私の友達はお金だけだ」「私の友達は福沢諭吉だけ」なんてね。福沢諭吉の思想を友とするのはいいけども、お金一万円札ばっかり友にしてたんじゃ、おかしいこともあるね。お金のためなら、エンヤコラでなんでもする。友情のためなら働かない。こんなんじゃ間違いですね。ただ、そのお金が欲しいという欲望の中にもね、やはり、全体を幸せにするための要素はある。 みなさん喜んでくださいよ。本刊では、そういういい話ばかりですからね。幸福になる話をしているんだから、喜んで読んでくださいよ。そして次刊でまた、ストーンと落としますからね。みんなを欲望の底に、奈落(ならく)の底に落とすつもりですけど、まあ、本刊はそういう楽しい話ですから、喜んで読んでください。 と言いつつ、まだ欲望を超えるものまで言っていないね。欲望ばかり話してて、「欲望と欲望を超えるもの」というのが、この本節の題名ですから、超えるもの言わなきゃいけないね。超えるもんて何だろうか。 結局ね、欲望を超えるものは何かというと、欲望も、その使い方によっては、人類の向上、個人の向上、それから神に近づいていくための原動力となるということだな。だから、神に近づいていきたいという欲望だって、欲望は欲望だよな。でも、聖なる欲望であることは事実。こういうふうに欲望の中でも、やはりいいものもある。いい方向性はあると。これを完全に否定してはいいものじゃないっていうことだな。そういうことですよ。 まあ、長生きしたいって欲望もある。これがあまり執着になっちゃうと、「死にたくない、死にたくない」ちゅうことで苦しみをつくるけど、長生きしたいと思うから、だから体、大切にするしね。運動はするし、バランスよい食事をとるし。それから、お医者さんが一生懸命、医学の研究するだろう。まあ、そういうこともある。 だから、欲望というものをね、あまりその名前だけで判断してはいけない。やっぱり、その中身もみなきゃいけないんですよ。それが、この話です。 2.幸福の基礎 さて、「欲望と欲望を超えるもの」って話したけれども、ここではね、「幸福の基礎」について話をしたいんですよ。 みなさん、いろんな幸福感があるでしょうね。幸福感あると思うけれども、幸福の基礎って何かというとね、結局、その人にとって幸福であるということは、その人が現時点で、自分がこうしたい、あれが欲しい、これが欲しい、あるいは、こうなりたいという気持がね、ある程度充足された時に、人間はやはり幸福を感じるんですね。 幸福の基礎は、やはり充足感です。一種の充足感であることは事実です。 だから、赤ん坊にとっては、お腹が空(す)いたときに、ミルクを飲みたい、これが幸福の基礎ですね。この充足感ですね。この時に哺乳瓶(びん)を取り上げてね、いくら天下国家を論じたって、赤ん坊は泣き止まないですよ。絶対泣き止まないですよ。そういうことですね。 あるいは、まあ、そうですね、世の中の役に立つ仕事をしたいと思う人にとっては、役に立っているという実感ね、この充足感。充足感がやはり幸福の基礎でしょうね。 あるいは、三食、ちゃんと食べられるということが、幸福の基礎かもしれない。今、戦後四十数年経って、平和な時代が続いていますが、ほんの半世紀前には、第二次世界大戦があって、日本でも食べるために、みんな苦しんだ。 で、闇物資の買い出しね。こういうことでなんとかして、家族の飢えを凌(しの)ごうとね、みんな努力した。裁判官で、家族には闇米食べさせたけれど、自分は闇米食べるのを拒否して、死んじゃった人もいます。そんな裁判官もいました、戦前にね。まあ、そうした時代です。 そうした時代にとっては、一椀(いちわん)のお粥(かゆ)が食べられる、おじやが食べられる。あるいは、水団(すいとん)が食べられる。これが幸福感の基礎であることもある。幸福の基礎ですね。 そういう時代もね、確かに一般にとっては不幸かもしれないけれども、そうした幸福の水準を教える時期もあっていいんだなあ、魂にとっては。 あの水団。ねー、あれがどれほどおいしかったか。あるいはもっといくと、芋(いも)の蔓(つる)だな。まあ、芋の蔓食べた人もおるでしょうが、芋の蔓食べるだけでも、あなたねー、大変なことでございますよ。芋の蔓食べて生き延びたとかね、あります。あるいは、薩摩(さつま)芋のシッポ食べて生き延びたとかね。いくらでもあるんですよ。こうした人にとってはね、お腹いっぱいになるだけでも幸福ですね。 まあ、このように幸福の基礎はいろいろですが、その時点に立った、その人の充足感ですね、結局は。これかもしれない。 だから五十年前の日本人にね、「戦後、日本は五十年後、ものすごく繁栄するから、お前たちは、水団(すいとん)、薄い水団だけれども、これで我慢しろ」と言ったって、なかなか納得しないね。「それよりとにかく、お腹をいっぱいにしてくれ」ということであったでしょう。 まあ、こういうふうに幸福の基礎には、ある程度の充足感があるということは、みんな認めなきゃいけないね。この充足感がないと、やはりなんというかね、うーん、まあ、満足できない。満足できないとどうなるかっていうと、不満になる。不満になるとどうなるかっていうと、愚痴(ぐち)が出る、妬(ねた)みが出る、嫉妬(しっと)が出る。こうして心が地獄になっていくわけですね。 だから、やはりね、精神的なことももちろん大事だけれども、まあ、議論の前提としてね、幸福の基礎には一定の、やはり充足感があるということね。これは認めた方がいいよ。だから、自分が今、何を欲しているかということはね、人間、考えた方がいい。ね、何を欲しているのか。何を欲していて、それが自分の可能になる内容か、そうでないのか。 可能になる内容とすれば、それを得るために努力することが正当かどうか、ね。正当だと思ったら、やっぱり努力することですね。それはいいことですよ。 『汝、何を食い、何を飲まんと思い煩(わずら)うことなかれ』なんて言われて、その気になっちゃって、月末、おカアちゃんに渡す金が無くてね、酒場で飲んできて、グイグイグイグイ酒飲んで、ウイスキー飲んじゃって、おカアちゃんに、全然月給入れない。で、月末になって、「あなた、もう二十日よ、給料は?」「あっ、全部飲んじゃったよ」「何よ、あなた! 私と子供二人どうするの!」「イエス様も言っとる。『何を食り何を食らい、何を飲まんと思い煩うことなかれ。明日は明日の風が吹く』とイエス様が言っとるじゃないか。お前、馬鹿な奴だな」「あっらぁー、あなた、何言ってるのよ。そう言って私が飲み食うは放って、自分は一生懸命ウイスキー飲んでるじゃないの」「言われてみりゃそうだな。確かに俺の方が飲んじゃった」なんてね、家内が飲むのだけ許さなかったとかね。食べるのだけ許さなかったとかね。「俺はウイスキー飲んでりゃ、御飯なんかいらねえから、ウイスキーだけでよかったけど、そういやー、カアちゃんと子供は、御飯食べなきゃ生きていけねえわー」なんて思い出したりしてね。そういうこともあります。 だからまあ、人間、物質だけじゃありませんが、ある程度、この世の中での一定の充足感を得るということは、知らねばいけません。「衣食足って礼節を知る」ということね。まあ、これも大事な考えですよ。これ忘れちゃいけませんね。ま、これが幸福の基礎。 すなわち、幸福の基礎とは、その人が、現時点において求めるものを満たすこと。充足感である。まあ、こういうことですね。 3.幸福の段階論 さて、愛の発展段階説だとか、知の発展段階説だとか、なんか発展段階が大好きみたいだから、まあ私も、高橋信次も、なんか段階論、説かないかん。 「幸福に発展段階があるか」「幸福の段階論」、なんて考えていますが、まあ、いっぱい古米から、心理学者たちもいろいろ言っているようだな。あるいは、ギリシアの哲学者以来、幸福論はもういっぱいあるからね。 たとえば、人間の根源的な幸福としてね、やっぱり生理的欲求とかね、あるいは何て言いますかね、安全の欲求とかね、こんなのがある人もいるね。身の危険、生命の危険を感じとったら、もうとにかく食事も喉(のど)通らない。こういう安全の欲求というのがあるというような人もいますねえ。とにかく、毎日が安全で生きていられる。命が狙(ねら)われていると思ったら、もう喉も通らないね、飲み物も。まあ、そういうふうな人もいます。これが一番下にあるっていう人もいます。 あるいは、生理的欲求ね。飲んで、。食べて、そして寝て、そしてまあ、いいことしたい時にはして、こういう生理的欲求が一番下の方にある。こういうふうに言う人もいるでしょう。 あとそれ以外に、たとえば、もうちょっと高次なものとして成功欲があるとかね。名誉欲があるとか、こういう人もいます。 まあ、いろんなそういう欲求の段階があって、それに応じた幸福の段階があると、こういうふうに言う人もいますね。 まあ、これだから一概に、どうのこうのということは言えないんですけどね。一概にどうのこうのというふうな言い方はできないんですが、そうだね、僕の考えではね、やっぱり、幸福の基礎として充足感があるとするならば、幸福の段階で、やはり一番下の部分、基底の部分にはね、人間として生きる最小限度の、やはり欲求があるだろうと思うね。それはあるだろう。 それはね、やっぱり、地上に生きている以上、生命を全(まっと)うしたいという欲求ね、生命を全うできるということによる幸福感ね。これはあるんじゃないかな。うーん、この辺がやっぱり一番下位レベルとしてあるんじゃないかな。 なにせ、頭の上にね、あなた、天井からね、槍でもいいし、青龍刀(せいりゅうとう)でもいいけど、髪の毛かなんかで、青龍刀かなんか天井から吊して、その下で一日中仕事してごらんなさいよ。できたもんじゃないよ。もう、刀が落ちてくる前に、気が狂って死にますよ。人間ね。 そういうことあるから、安全欲求と生理的欲求を合わせた、その根本的な生命、生命を全うしたいという考えね。そして、生命を全うすることによって得られる幸福感。まあ、そうしたものが僕はあるように思います。これは割に根源的なもんでしょう。これを否定できないね。 だから、人間の幸福感も、やはり幸福に向かって努力していくものというふうに捉(とら)えたら、この根源の欲求は、やはり全うされるべく努力した方がいいと思うね。 すなわち、土管(どかん)の中で寝ているよりは、家の中に住んどる方がいい。ねー、そうでしょう。そういうこったな。家の中に住んどる方がいい。寝るところがあること。塒(ねぐら)があることね。イエス様はなかったかもしらんけど、塒があること。「鳥には塒があるけれど、イエス・キリストにはマンションがない」、ね。かわいそうだっちゅうような考えもあるけど、まあ、塒(ねぐら)ぐらいあった方がいいなあ。それから食べる物があるということだね。大事だね。食べる物があること。それから夜、寝られることね。 まあ、こういうことがやっぱり最低限で、この部分で自分の欲求度がどの程度か考えてね、それに近づいていけるように努力することは、人間として幸福を求める以上ね、僕は当然だと思います。 ま、この次にもうちょっと高い段階があるねえ。たとえば、もうちょっと精神的になってきて、仕事なんか、そうだな。どういう仕事するかっちゅうようなことね。自分に向いた仕事をしてみたいとかね。こういう欲求があるね。あるいは学生さんなんかだったら、勉強だろうなあ。勉強したいっていうような欲求があるねえ、勉強とか、仕事とかいう。まあ、ちょっと高次だね。寝たいとか、食べたいとかいうよりは、ちょっと上だろうね。 そして、これに応じた幸福感があるね。すなわち、何らかの価値観を享受(きょうじゅ)している段階だね。価値観。要するに仕事をしている。これがどれだけ社会に有用であるか。自分が役立っているか。こういうことを知ることによって幸福を感じる。あるいは、勉強をするということによって、いろんな知識を得る。そして、いろんな人の考えを知る。また、それの応用を知る。世界がわかってくる。こうしたことによる、何といいますかね、幸福感、あるでしょうね。こういうふうに単純に片付けるとするならば、多少、次元の高い段階でね、そういう何といいますか、価値ですね。多少なりとも精神的な価値に関する幸福というのがあると思います。 それからもうちょっと上にいくとどうなるかっていうと、これは霊的幸福感という分があるでしょうね。この勉強や仕事による幸福ですね。これをもうちょっと、何というかな、押し上げた、突き詰めたやり方ですね。これがあります。 まあ、だから霊的幸福感というのはね、この世が物質じゃない、肉体じゃないということを知った時にね、自分が精神的に、あるいは魂的にね、幸福かどうか。あるいは、これを言葉を換えて言うとするならば、昔的に言うならば、御浄土に行けるかどうかね。 御浄土に行けるかどうか。あるいは、地獄に堕ちんかどうかね。成仏できるかどうか。こういう幸福感もあるね。まあ、少し程度が高いかもしれないね。この世で仕事して嬉しいとか、勉強できて嬉しいっていうよりも、そういう永遠の生命という立場に立ってね、霊的幸福感を得られるかどうかね。多少、高等だと言えるでしょう、こういう幸福感を持っている人はね。 こういうふうに何て言いますかね、生命を全うしたいという幸福感。それから次に、勉強や仕事などのような価値ですね。精神的な価値による幸福。それから三番目に、霊的幸福。まあ、こういうものがある。 後はね、この上があるか、ないかということだけれども、ないとは言えんね。すなわち、これが神我一如(しんがいちにょ)の幸福感だろうなあ。神と自分とが一体という幸福感だね。これは光の天使の幸福感ですよ。これは高級ですね。 だから霊的幸福感あたりは、まだ、いわゆる霊性に目覚めた人間の幸福感で、一番目、二番目の幸福感は、まだ霊性に目覚めていなくてもいいけれども、三番目からは霊性に目覚めた人の幸福感。四番目の、この神我一如、神と我とがひとつであるという幸福感は、これは光の天使の幸福感です。この幸福感は非常に高い幸福感であって、そうそうみんな味わえないですね。 神様のために生きておる。また、自分が神様と同一だという、本質がひとつだという感じがする。そして、自分のために生きるんじゃなくて、神のために生きておる。神の何ていうかね、一部として生きている、ね。こういう感じだな。 これが本当に頭だけじゃなくてね、知識だけじゃなくて、本心からね、心の底から、魂の底から神我一如、神と自分とが一緒。こういう幸福感を味わえる人がいたら、これはもう、たいしたもんですね。まあ、私に近いと言ったら語弊(ごへい)があるから、高級霊に近いと言っておこう。ねえ、そう言えるでしょう。この世で生きていて、自分の幸福感が神様の幸福感と一緒っていう人がいたら、たいしたもんですよ。だからまあ、一緒っていうことはないけれども、どれだけそれに近いかっていうことだな。 だから、最初の生命を全うしたいというような幸福、そういう幸福感は、そこまでまだいっていないし、二番目の仕事や勉強等、社会的有用なことね、価値に換えられる幸福感でも、まだそこまではいっていない。 「地獄に堕ちたくない。できれば天国にいきたい」っていう、自分の成仏をまだ願っておる霊的幸福感の段階。 それからその上には、神と自分とが一体。神の悦びを自分の悦びとし、神の悲しみを自分の悲しみとするという気持ね。偽善者(ぎぜんしゃ)じゃなく、偽(いつわ)りなく、本心からそう思う気持ね。これが次の段階ですね。神が自分を祝福してくれる。自分も神を祝福している。自分は神と結婚したようなもんである。ま、こういうふうな気持ですね。こういう気持は大事ですよ。 こういうふうに、幸福の段階がやはりある。おおまかに言って段階がある。こういうふうに思っていいでしょう。
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295 :164 ◆aGzgb/DTYc :2009/01/17(土) 02 56 21 ID IsK+Hm0k 考えてみました。 1 胎児の段階で認知をするということは、認知をした者にとって、 自分の実子であることが強く確信できる場合であると考えられる。 これに対し、出生後認知の場合には確信が薄いか、あるいは、 記憶があいまいになっていることを根拠に、 両者の違いを合理的な差別であると考える。 2 胎児認知にも出生後DNA鑑定書を提出させれば差別の問題はなくなる →ただし、鑑定の結果実子でないことが判明しても、 認知をした父親はそれを取消すことはできません(民法785条)。 実子でない子を扶養する義務を負わせることとなる。 利害関係者による認知無効の訴えを起こす方法はあります。 どちらも若干苦しいです。 ですが、胎児認知についての偽装事件がありました。 ttp //www.47news.jp/CN/200408/CN2004080601001312.html 2004年の事件で、公正証書原本不実記載罪で逮捕されたようです。 ということは、胎児認知についてもDNA鑑定の規定を設ける必然性が ないとは言えない。 また、そうすれば、胎児認知を行う男性は慎重にならざるを得ないでしょう。 296 :164 ◆aGzgb/DTYc :2009/01/17(土) 23 10 50 ID bonwj3p4 再度よくよく改正法と[[施行規則 http //www14.atwiki.jp/shinkokuseki/pages/173.html]]を読んでの感想です。 この改正は、旧法が最高裁に違憲だと怒られ、 その一方で改正法案については国民からは反対意見が続出し、 なおかつ、他の法律特に民法をいじる訳にもいかず、困った末 苦肉の策として出来たものでしょう。 法案作成者は、機械的に作った。 規則作成者は、あれこれ考えて作った。 おそらくそうだと思います。 というのは、ご存知のように、 改正後国籍法3条1項では、単に「認知」という言葉しか出て来ません。 その一方で、改正規則1条5項5号で、 「実親子関係を証明する資料」の提出を求めている。 民法上、認知は実親子関係に限らないはずなのに、 規則では実親子関係に限るという言い方をしている。 「法」でなく、規則というところがミソです。 運用の現場に、実子でない子をハネる裁量権を与えている。 また、改正法国籍法では「虚偽の申請」に罰則を設けましたが、 民法上、認知は意思表示だけで十分なはずです(民法779条以下)。 つまり、父親の意思が、ある子を自分の子と認知することにある場合、 その「動機」が何であれ、民法上「虚偽」の認知にはなりえない。 それにもかかわらず、改正国籍法罰則の「虚偽」の内容には、 「違法に国籍を取得させる意思をもって実子でない子を認知する」 という意味を持たされている。 また、罰則を課す以上、どのような場合に課すか、 罪刑法定主義(刑法の原則)あるいは法律の留保(行政法の原則)の観点からは、 単に「虚偽の届出」とするのでなく、 処罰の対象となる行為をより具体的に書く必要性があるにもかかわらず、 そうしなかった。 民法との整合性は、ここでもやはりない。 というより、踏み込めなかった。 また、DNA鑑定の文言をあえて入れなかったのは、 当然ながら民法上の「親子」関係と矛盾が生じるからでしょう。 「実親子関係を証明する資料」として含みを持たせた。 ですので、国民の声は「一応」届いていると思うのです。 姑息な手段ではありますが、限られた時間で何とか形をつくった。 規則を作成した法務省は、これで勘弁してよ、と言いたいかも知れません。 ですが、このままではおそらくこの法律の改正を余儀なくされるか、 民法の改正を余儀なくされるか、いずれかが予測されます。 誰かが裁判でこれらの矛盾を突く可能性があるからです。 合計: - 今日: - 昨日: -
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正法寺 本尊の「如意輪観世音菩薩坐像」をはじめ、「開山無底良韶禅師画像」など県指定文化財は多数。見る者を圧倒するのは本堂の茅葺き屋根。日本一の茅葺き屋根の建築としても知られていて、本堂、庫裏、惣門は国指定重要文化財となっています。また、事前の申し込みで、「ミニ禅修体験と精進軽食」を堪能することができます。 〈正法寺公式サイトより引用〉 奥の正法寺 〒023−0101 岩手県奥州市水沢区黒石町字正法寺129 TEL:0197−26−4041 FAX:0197−26−4107 パンフレット ※画像をクリックするとパンフレット(PDF)が開きます。 ホームページ http //www7.ocn.ne.jp/~shoboji/ 《その他:紹介HP、ブログ等》 奥の正法寺 http //blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/17957498.html 黒石寺 -蘇民祭と竹林- http //blogs.yahoo.co.jp/aqua_tea_why/17160378.html 奥の正法寺 -日本一の茅葺屋根- http //blogs.yahoo.co.jp/aqua_tea_why/17135190.html みちのく・・2日目 http //blogs.yahoo.co.jp/suki087san/26830257.html 岩手県奥州市にある正法寺に行って来ました http //blogs.yahoo.co.jp/acsakai3/19842616.html 日本曹洞宗第三の本寺 奥の正法寺 http //blogs.yahoo.co.jp/shun_39/55683276.html 日本曹洞宗第三の本寺 奥の正法寺 http //blogs.yahoo.co.jp/shun_39/55683239.html 日本曹洞宗第三の本寺 奥の正法寺 http //blogs.yahoo.co.jp/shun_39/55683213.html 奥の正法寺(二) http //blogs.yahoo.co.jp/a_hozumi/45881175.html 奥の正法寺(一) http //blogs.yahoo.co.jp/a_hozumi/45866423.html 心に残る寺社〜5 岩手県・正法寺 http //blogs.yahoo.co.jp/imoimochan1911/31078197.html 岩手県の秋 Ⅱ http //blogs.yahoo.co.jp/blanca200211/27120354.html 携帯サイト 最新のチラシ imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 《周辺情報》 えさし藤原の郷…平安時代の町並みを再現したテーマパーク。 http //www.esashi-iwate.gr.jp/ 種山高原『星座の森』…種山高原に広がるアウトドアパラダイス。 http //www.esashi-iwate.gr.jp/seiza/ 越路スキー場…JR水沢江刺駅から車で30分 http //www.esashi-iwate.gr.jp/koeji/ えさし郷土文化館…博物館と学習室をあわせ持つ総合交流施設 http //www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/ ひめかゆスキー場…アクセス抜群!気軽に滑れる快適空間 http //www9.plala.or.jp/himekayuski/ 水岩(すいがん)観光タクシー・登山コース http //ww22.tiki.ne.jp/~suigan-taxi/tozan3.htm 焼石観光開発連絡協議会…焼石岳や焼石連峰の最新登山情報 http //www.yakeishi.com/ 焼石クアパークひめかゆ…焼石岳の懐に抱かれた美肌の湯 http //www.himekayu.com/ 胆沢ダム工事事務所webサイト…我が国最大級のロックフィルダム http //www.thr.mlit.go.jp/isawa/ 東北ニュージーランド村…ウサギ、羊、馬、ポニー、ラマとのふれあい広場 http //www.touhoku-nzmura.com/ 〈ブログ2〉 #blogsearch /
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目次 1.仏教とユートピア 2.儒教とユートピア 3.ギリシャ哲学とユートピア 4.キリスト教とユートピア 5.ユートピア思想 (1988年4月18日の霊示) 1.仏教とユートピア さて、みなさん、お早う。今日は、ユートピア思想そのものについても、勉強していきたいと考えます。 まずね、いろんな教え、正法神理がありますが、それらの正法神理とユートピアとの関係って言いますかね、兼ね合い、思想のなかのどういうところに、ユートピアの考えが出ているか。こうしたことをザッと見てみたい。こういうふうに思います。 まず最初に、私にとって最も興味もあるし、得意でもあった仏教ですね、仏教の考え方とユートピアの関連について考えてみたい。このように思います。 仏教はみなさんご存じの通り、今から二千五、六百年前に、インドでお釈迦様が生まれて、そして説いた教えですね。四十五年間、いろんな教えを説きました。この間の事情は、私の書いた『人間釈迦』四部作、こういうものにもいろいろと出ていると思いますし、それ以外にも仏教ということでは、随分いろんな文献が出ていますので、みなさんもなるほど仏教というものはこんなもんだなと、こういうふうに思ってるでしょう。 あるいは旅なんかしてホテルなんかに泊まってみると、ホテルのなかでね、いつも机の上に二冊本が置いてありますね。ひとつは聖書ですね。もうひとつは仏典ですね。仏典の対照訳って言いますかね、口語訳って言いますか、そういうのをのせていますね、置いてあります。旅先で仏典を読んで寝れるようにと、まあこういう工夫が、いろんなホテルでなされているように思います。 まあこうして仏教というのは、私たち日本人にとって非常に関(かか)わりの深い教えであります。切っても切れない縁があると思います。決して、奈良とか京都に行けば仏教に会うというのではなくて、私たちの日常生活のなかにも非常に深い関わりがあります。ただその仏教も、いかんせん二千教百年の流れのなかで、その歴史的な意味合いを薄くし、そして現在では亡骸(なきがら)に近い格好になっていると思うのです。 で、まあそうした仏教だけれども、もともとお葬式のためにだけやっていたのかというと、そんなことないんですね。お釈迦様はお葬式の作法なんて、そんなの興味もなかったんです。もともと肉体に興味のなかった方ですから、お葬式の作法なんてどうでもいいんだね。また、お釈迦様は観光収入なんか全然気にしてませんでしたから、そうした仏教ではなかったと思います。 やはり仏教と言いつつも、ひとつの真実の学問であった。まあこういうことが言えます。神理の体系、また神の教えを、大学でも教えてくれないような、そうした神の教え、神への学問、神の学問を教えていた。そしてお弟子さんたちは、それを一生懸命勉強していた。そして自らの悟りを得ようとした。そして、それを広げようとしていったと、まあこういう歴史であったと思うのですね。 さて、じゃあ仏教思想のなかに、どういうふうにユートピアとの関連が見出(みいだ)されるか、こが問題となるわけであります。こうしてみるとね、結局仏教のなかでも小乗仏教、大乗仏教、いろいろあるけれども、小乗っていうのは結局ね、個人のユートピアだな、個のユートピアの探究ではないかなと思うんです。私も、もうすでに語ってきましたけれども、人間の心が結局は幸福への鍵(かぎ)である。そしてユートピアづくりの鍵である。まあこういうことを何度も言いましたが、まさしくその通りですね。そして、心の問題について徹底的に探究したのが、仏教でもあったんじゃないか。まあそういうふうに言えると思います。 心が調和されて安らぐ、そして幸福感に満ちている。これはまさしく、個人の内部でのユートピアの建設そのものになるわけですね。したがって仏教は、そういう意味で、非常に個のユートピアということを重視した。そう言えるんじゃないかと思います。 そして、大乗の段階に至って、いろいろ人びとを救っていく。大乗っていうのは、まあ大きな乗り舟だねえ。大きな船、乗り物、そういうことですから、まあ渡し舟でも千石船(せんごくぶね)みたいな大きな船でね、それで多く人も乗せられる。まあこういうことだね。こういうユートピア建設、すなわち、個人一人が楽しんでいればいいというのではなくて、やっぱり集団で、その幸せな感覚を共有し合う、そして維持する。こういうことができるようになっていく。これが大乗的ユートピアの世界ですね。 だから仏教は、やはりその根本に、ユートピア思想を持っていると考えていいでしょう。どうしたら人間が本当の意味で幸せになるか、これを探究したのではないか。こう言えるんではないかと思います。これが、「仏教とユートピア」というお話です。 2.儒教とユートピア まあ仏教は、そういうことで話をしましたが、儒教はどうか。儒教っていうのも、やはり今から二千五百年、あるいは二千四百年かね、よく知リませんが、その昔に、中国に孔子様という偉い方が出られて、そして説かれた教えというふうになっていますね。 まあ『論語』とかいろいろありますねえ、孔子様の教えというのが、弟子との対話篇で『論語』というのがあります。そしてこれも二千何百年にわたって、中国大陸でも読み継がれてきましたし、日本でも随分、勉強されてきた本ですね。そして、人びとの生きる糧(かて)となった。則(のり)となった。まあこういうことがあると思います。 さて、『論語』において孔子様がいかなる思想を開陳(かいちん)しているか。まあこれは私に聞くより孔子様に聞いた方が、もちろん早いでしょうね。そう思いますが、ただね、彼はあまり霊的なものは重視しなかった、という事実はありますが、やはり人間づくりということに、非常なウェイトを置いたんですね。学問の徳と言いますかね、学問をする、学ぶということを通して、どのように徳性を磨いていくか、こうしたことに孔子様はウェイトを置きました。 なぜそういうことをしたかと言うと、結局、霊的世界のみにどっぶりと浸(つ)かってしまうと、人間はやはり勝機(しょうき)を逸してしまうことが多いと。そういうことだね。霊的世界について、孔子様は本当に知らなかったかといったら、そんなことないんです。知ってたんですね。知ってたし、いろんなインスピレーションと言いますか、指導霊の指導を受けていたことは、事実そういう状況にはあったわけです。 ただ、彼は非常に頭のいい方であった。頭のいい方だったんですね。まあ政治家でもあって、官僚でもあったわけだけれども、また説法家でもありましたが、頭のいい方であった。そして、多くの人を長い時間、何百年、何千年にわたって導いていくためには、どのようにしたらよいかということを考えたけれども、やはりそれには普遍的な方法論が必要である。霊的体験というのは個人に属するものであって、普遍的なるものとはどうしても言えない。こういうことで「学問的知性」というものを、かなり重視したのではないかと思います。 そしてソクラテスなんかもそうでしょうが、「学徳」というものね、これの探究をしたんではないか。そして、いろんな徳目をあげて、それを磨くように努力せよ、こういうことを人びとに教えたわけですね。そうしてこの思想そのものが、後の中国の官僚制度と言いますかね、人材登用に用いられていった。これはみなさん今は当然のことだと思っているかも知れないけれども、非常に画期的なことでもあったんです。 今、日本では司法試験とか言って法律の試験があったり、あるいは公務員試験とか言ってね、教養試験だ、専門試験だなんてやってますが、そうしたものじゃなくて、この孔子の『論語』であるとか、あるいは『大学』であるとか『中庸』であるとか、いろんな本があの時代に出ていますが、こうしたものがテキストになって、その後、何百年の間、中国の約千年以上でしょうか、官吏登用の試験題目になったんだね。そして、それを学んでよくできた人が登用された。これを「科挙(かきょ)」と言いますね。科挙の制度がありました。 こうしてみると、光の天使の言行録や思想を勉強した者が、国家の有為(ゆうい)な人材として認められていく。こういうシステムが、厳としてあったわけです。これをみると、現代、いろんなことをやっていますが、ここに孔子の儒教、あるいは釈迦の仏教、これらを兼ね合わしたような構想が、裏にあるということが窺(うかが)われるわけです。本当に勉強して身につくと言いますか、損をしないものというのは、実は、光の天使たちの言葉の勉強、あるいは神理の勉強なんですね。 これは、この世とあの世を貫いていく勉強であって、この世で勉強したことが、あの世でそのまま役に立つんですね。まあ天国への予備校にもなるわけです。そうした天国への予備校ともなる、天国への入学試験ともなるような試験を、地上の官吏登用にやった。こういうことが、中国における面白い特色として挙げられると思うんです。 こうしてみると、孔子の考えとユートピアというのは、どの辺に構想があったかというと、この神理の言葉を、できるだけ常識的な形でまとめて、そして、優秀な人たちにそれを学ばさせる。こういう方法をとったわけです。つまり人材輩出の方法、人材選出の方法、人材を磨いていくための方法として、神理というものを使った。まあこういうところがあると思うのです。 これは非常に面白いですね。まあ個人としての徳目、いくつかの徳をつけるために勉強していくわけですが、これが結局、国家社会的な人材にもなり得るということで、全体的なユートピアの戦士となれる。こういう方法があったわけです。 これはまた、私は現代にも生きる考え方だと思います。神理をより多く学んだ者が、政治や経済や、あるいはその他のいろんな領域で活躍できる。こういう時代が来なければ嘘(うそ)だし、本当の意味でのユートピアはできないですね。この意味において、神理をひとつの勉強対象として、人びとが我を争って勉強する。こういう体制をつくっていくことが、非常に素晴らしいことではないか。この勉強はまったく無駄がない。本当にそうだと思いますね。 そういう意味で、儒教のなかにも、ユートピアの対象として考えるべき思想が流れている。まあこういうふうに、私は思います。 3.ギリシャ哲学とユートピア さて、仏教、儒教というお話をしてきましたけれども、ギリシャの哲学はどうか考えてみたいと思います。まあ高橋信次がギリシャ哲学を勉強したのかと言うと、全然私は勉強していないんですがね。勉強してはいませんが、まあものの話としていろいろ聞いています。ソクラテスやプラトンやね、アリストテレスが偉大であることぐらい、みんな知っていますよ。当然知っています。私だって知っているぐらいですから、小学生でも知ってるかもしれませんね。 それほどギリシャ哲学というものも、大きな影響を持ちました。このソクラテス、プラトン、それからアリストテレスという三人の如来(にょらい)ですね、偉大な如来たちが同時代にバトンタッチして出て来たということ、この三人が山の尾根みたいになって、ギリシャ哲学を押し上げてるんですね。そして、彼らの思想というものが、西欧の歴史を創ってきた。まあこう言っても過言ではないと思います。 根本的な思想っていうのは、いつもそうなんですね。異常に高い思想があるんです。あるいは深い思想、一本の大木のような思想があるんです。そして、その周りにいろんな枝がついていき、葉が繁っていき、段々見事なものになっていくんですね。こういうふうに、ギリシャ哲学というものも非常に難しいですし、観念論的でもありますし、難解ですが、この難解さを超えたところに、やはり根本となるべき法の高みがあったのではないかと思います。 ソクラテスやプラトンなども転生輪廻(てんしょうりんね)ということを信じていましたし、プラトンなんかは、熱心な、実在世界の唱道者であったわけです。イデアの世界という話を随分していますが、地上を去った世界には、実在界には、本当のエデンの園というのがあって、そのエデンの園の影を私たちが見ているに過ぎない。こういうことを、プラトンは言っているようであります。 現実に、ソクラテスやプラトンも幽体離脱という行為を通して、肉体から抜け出して天上界に還(かえ)り、そしてさまざまなことを学んでいた。そして、ソクラテスなども守護霊がいて、いつもその守護霊の声に従って行動していた。まあそういうことが言われています。 これは、現代の哲学者たちがいくら考えてもわからないんですね。抽象的なことではないか、何かたとえ話じゃないかと思ってるのですが、守護霊と話をするってことが、現代の哲学者には全然わからないから、ソクラテスの行為というのは非常に難しい。わからなくなってます。だから霊的な側面を捨て、思想としてのみ取り上げようとする人もいるし、まあいろいろあります。ただ、結局、そのギリシャ哲学の高みはどこにあったかというと、実在世界の存在というものを、知的描写、知的方法によって、この地上に解き放った。こういう面があると思いますね。これを言うことができる。 また、ギリシャで大事なことは、いわゆる共同体社会っていうのが出来たことですね。ソクラテスの頃にね、ポリス社会って言うんでしょ、ポリスと言う都市国家ですね、小さな都市国家がいっぱい出来て、そのなかで自治が行われて、政治に参画するっていうことは非常に名誉なこと、名誉な政治参画ということになっていた。そして共同体建設のために、みんな頑張ってやったわけですね。こういうポリス社会というのがありました。都市国家というのがあったね。こうして、その市民であるということが非常に名誉であった。まあこういう時代であったと思います。 ここにやはり、個としてのユートピア、つまり個人としての悟りを求めて人間としての徳性を磨くという方向と、同時に、社会への波及、共同体のなかでのそうした理想の実現という現象、この両面があったと言えると思うんです。すなわち、やはり本当の正法神理と言いますか、まあ神理というのは、常に個人としてのレベルアップの側面と、共同体としての理想化の側面、この両方を持っているんですよ。この両方がなければ、本当のものとは言えない。ギリシャ哲学のなかにも、ちゃんとそうした流れはあるっていうことです。これを私たちは認めなきゃいけないと思います。 凡庸な哲学者であったのではなくて、彼らは非常に現実に対してね、厳しい目を注いでいた。ソクラテスにしても、現実に対して非常に厳しい目を注いでいて、このアテネの何と言いますか、詭弁家(きべんか)と言いますか、ソフィストですか、相手に知的議論を次々にふっかけて論破していったわけですが、結局現実の腐敗と言いますかね、これに対する非常に厳しい姿勢を持っていたと思うのです。 そのアテネのソフィストと言うか、詭弁家たちっていうのは、現代で言えばいろんな新興宗教でしょう。彼らは新興宗教家たちの間違いを、正していったということですね。こういう面があった。現実に随分配慮していたし、プラトンなんかも、随分、現実社会をどうやって光明化していくかということに心を配った。そういう形跡が窺(うかが)えるわけです。 4.キリスト教とユートピア さて、仏教、儒教、ギリシャ哲学と来ましたが、キリスト教についても触れておきたいと思うんですね。 キリスト教とユートピア思想との関連、ということですが、やはりこれもあります。ただ、イエス様はユートピア思想として、神の国ということを、もうはっきり打ち出しています。神の国という思想、英語でなんて言うんですか、ザ・キングダム・オブ・ゴッドと言うんですか、神の王国ですね、これを持ち来たらさんとする、地上にね、持って来た、私は持って来た、ということを言ってますね。 そして、聖書のなかでも非常に面白い思想として、悔い改めの大事さを言っていますね。仏数的に言えば反省ですが、「汝ら悔い改めよ。悔い改めた時に神の国はそこに近づく」「天国はそこに現出するんだ」。こういうことを随分言っています。「心改めなければいけない。考えを改めなければいけない。そこでグラッと神様の方に心が向いた時に、天国が出て来るんだよ。神の王国っていうのは、そこにあり、かしこにありというような、そんな王国じゃないんだ。そうではなくて、それは心の王国なんだ」。こういうことをイエス様は言っているのですね。「だから、人びとが間違った念(おも)いや行いというものを悔い改めた時に、そこにたちまちにして神の王国が現れるんだ」。こういうことを言っているわけです。 まことにこれは、革命的な言葉であったわけです。当時、王国というのは、やはり建造物といいますか、お城があって、兵隊がいっぱいいて、そして国を守って、王国ができる。こういう考えがあったわけですが、イエス様の言う王国というのは、そうじゃない。一人ひとりの心のなかにつくる王国であったわけです。心のなかの王国、これがイエス様の言った王国なんです。 そして、イエス様はその心のなかの王国というのを、単に人間の本当の胸のなかに入っている、小さな王国だけを意味したとは思えないふしがあるわけです。「こうした胸のなかに小さな王国をつくっていくわけだが、その王国は実は神の天国とつながっているのだ。心のなかに王国をつくるということは、すなわち天国の住人になるということを意味しているのだ。神の王国にいるということと同じなんだ」、まあ、こういうふうに言ってますね。 ただ、イエス様もこのユートピア思想を説くにあたって随分、苦難、困難があったことは、みなさんもうご存じの通りです。大変ですね。だから神理をいろいろ説いたけれども、招かれる者は多いが選ばれる者は少ないと、そういうふうな言葉で言うように、なかなかイエス様の真実の言葉、神理がわかった人は少なかった。このように言えると思います。 でもみなさん、どうですか、聖書だと思わずに、キリスト教の思想だと思わずに、考えてごらん。胸に手を当てて考えてごらん。「悔い改めよ。天国は近づけり」、まあこういうふうに言ってますね。これは「反省をせよ。反省した時に、心が光に満ちたユートピアとなっていくのだ」、こういう教えですよ。簡単なことなんです。基本はいつも簡単です。 ですから、日々に自らの心を反省して、間違った念いや行いに関しては、徹底的に反省することです。そして、神様に詫(わ)びることです。「神よ、どうか許してください」。神に詫びるのが悔しかったら、高橋信次に詫びればいいですね。「高橋信次先生どうもごめんなさい。先生の本を読んで、これは漫才のネタ本だと思ってたら、実はいいこと書いてありました。私の罪を許して下さい。あなたを馬鹿にしたことの罪を許して下さい。本当はあなたは素晴らしい教えを説いていた。それをダジャレのタネ本だと思っていた私は、大変恥ずかしかった。先生どうぞ許して下さい」。こういうやり方ですね。 そういうふうに悔い改めた時に、神様や、あるいは高橋信次は、「よしよしええ子じゃ、ええ子じゃ」とね、「わかってくれたらいいんだよ。僕の気持がわかったらいいんだよ。ね、だから僕のことなんか別に気にしなくていいから、僕の本読んだらね、それで変わらなきゃいけないよ」ってね。全然変わらないんだったら、何のために読んだかわからない。本を読んだっていうのはね、ただ活字に目を通しただけじゃ意味ないんですよ。読んだら変わらなきゃいかん。心が変わらなきゃ嘘(うそ)です。心が変わったら、それを実行することです。そうでしょう。 そして私たちの本を読んで、霊的世界が本当にあるということがわかって、神への感謝の念が湧いてきたら「報恩」ということですね。感謝に対しては報恩、恩を報いていくということが大事ですよ。だから私の本を読んでね、神理を悟ったら、そのご恩返しは高橋信次にしなくてもいい。高橋信次の肖像画置いて、そこにお宴銭を上げたりね、灯明上げたりする必要は全然ありません。ないから、ただその有り難いという気持があったら、それを世の中に還元していきなさい。自分の周りの人に、自分が接する人に、その感謝の気持を還元していきなさい。 じゃあ感謝の気持を還元するというのは、いったいどういうことかね、どういうことだと思うかい。それはね、結局こういうことですよ。自分が知った神理、それをね、日々に実践していくこと。神様はそうした偉大な計画でもって、ユートピアづくりに励んでこられたんだ。そして、いつの時代も休むことなく働いておられるんだ。そういうことを知った時に、自分もユートピアの一員として、ちょっとは何かお返しをしたい、働いてみたいなあと、こう思うのが人間として当然のことですよ。これは当然の筋なんです。筋道なんですね。 だから、そういうふうに思ったら、やはり実践してみることです。イエス様の教え、キリスト教、クリスチャンでなければ救われんとか、教会に行かなければ救われんとかね、特定の教会に登録しなければ救われんとか、こんな思想はおかしいです。そうじゃありません。 結局ね、イエス様の思想というのはね、まあいろいろあるけれども、要約したらこの二点だと僕は思うんですよ。「悔い改めよ」「悔い改めた時に、神の国は近づけり」。まあこういう思想と、もうひとつは「愛」ですね、「愛せよ」ということです。「とにかく愛せよ。徹底的に愛せよ」ということです。「いろんなもの、人、神を、すべてを愛しなさい」。この二つです。これが、イエスの思想の核であろうと、私は思います。そしてね、ユートピアの原理もここにある。こういうふうに思えるのですね。やはり「反省と愛」、これがユートピアの原理なんです。 5.ユートピア思想 まあ以上、いろいろとユートピアについて、過去の思想に照らした話をしてきたわけですが、ユートピア思想というのもありましたねえ。「中世のユートピア思想」、まあこれは、私が言うよりも、『黄金の法』という本のなかに、中世ユートピアの思想のこともいろいろ書いてありますから、そうしたものも勉強されたらいいと思います。 結局、光の天使っていうのは、お坊さんだけではないっていうことだな。思想家としても出て来ているということです。そして、いろんなユートピアの思想というのが説かれた。これを学んでね、近代の国ができてきたんだ。社会ができてきたんだ。そうしたことを知ってほしいと思うんです。 そしてね、いつの時代にもね、根本にある核は、これなんですよ。いろんな思想家っていうのが出ますね。思想家が輩出するし、哲学者だとか、学者だとか出るけれども、それで時代というものに、その流れに乗って一時期脚光を浴びるけれども、やがて消えていく人と、脚光を浴びるか浴びないか知らないけれども、何百年、何千年経っても思想が残っていく人との違いはどこにあるかというと、根本にやはりユートピアがあるかないかなんです。 ユートピア思想が根本にある人の思想は、やがて残っていくんですよ。それは、ユートピアという考え方自体が、ひとつの大きな愛の流れだからです。これは愛なんです。愛の流れなんです。これがある人は残っていくんです。 それと、霊的世界について悟っている人、知っている人、この霊的世界というものを実感し、それをまあ、そのままストレートに語るか、あるいは脚色するか、やり方はいろいろありますが、この霊的世界、この実感をつかんでいる人の思想というのは深いですね。深いものがある。そして人の心を揺り動かすものがある。こうして、やがて多くの人たちを救っていき、多くの人たちに影響を与えていく。こういう面があるということです。 ここに、ユートピア思想の本当の姿があるわけなんです。だから、まあ宗教のなかにもご利益(りやく)信仰というような形で現れるものもあるけれども、こうしたユートピア思想というような、一層純粋化した姿で現れるものもあるということです。 中世にもいろんなユートピア思想家がいました。トマス・モアであるとかは『ユートピア』っていうような書物を出したそうですね。それ以外にもまあいくつかの思想家がいると思いますが、これからもまた、新たなユートピア思想が説かれていく時代が来ている。私はそう思います。 いろんなユートピアの原理を考えていく時代が来る。そして、人間としての理想のありかた、それから職場での理想のありかた、共同体としての理想のありかた、こうしたものが、段だん探究されていく必要があると思います。またそういう時代が来ているんですよ。みなさんは、そういう時代に生きているんです。 現代のユートピアとして、あなたは何を考える。どういう世界が展開したら、それをユートピア世界だと認定するか。まあこれを考えて下さい。私もこれから考えていくけれども、みなさん方一人ひとりも現代的ユートピアとはいったい何なのか、これを考えていただきたいと思います。まあそういう試験問題も出してみたいね。「君は現代のユートピアとはいったい何だと思うか。そのユートピア建設のために、どのような努力が必要だと思うか。それについて述べてみよ」なんてね、そんな試験問題も出してみたいなあっていう気持がします。まあそういうことですから、みなさんもこれをひとつのテーマとして、考えていただきたいと思います。
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正法寺 京都府京都市西京区、西国四十九薬師霊場第41番・正法寺の御朱印「醫王殿」です。 西国四十九薬師霊場開創30周年記念印と、金紙薬宝印です。 洛西観音霊場の番外札所の御朱印「大悲殿」です。 京都六大黒天の第3番札所の御朱印「走り大黒天」です。 「春日不動」の御朱印です。 「愛染明王」の御朱印です。印がないそうで、朱墨でかいてくださいました。 ★住所 京都府京都市西京区大原野南春日町1102 -