約 202,509 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/316.html
目次 1.二元論的世界観 2.光明一元のとらえ方 3.具体的勢力としての闇 4.闇を打ち破る方法 5.謙虚さの重要性 (1988年7月19日の霊示) 1.二元論的世界観 高橋信次です。引き続いてきょうも話をしています。 だんだん私もなんと言いますかねえ、よく出るんで歓迎されていないと申しますか、なんと申しますか、もうごく短期間でかたづけてくれと、よく言われはじめましてね。私の本作るなんてもう一日、二日ですよ、みなさん。もう突貫作業って言いますかなんて言いますかね。他の重要な神様だと一週間かかって録(と)らしてくれるんですが、私なんかもう一日、二日ですね。もう他の人詰まっているから早くやってくれ、もうシャーッとやってくれっていうような感じでね、言われているんですよ。つらいですねえ。まあもっともっと人気が出てほしいなあと思います。 それと、これは私のほうからお願いでねえ、これだけシリーズのなかで高橋信次ものを入れさしていただいているんですが、あんまり高橋信次ばかり出ると恥ずかしいわねえ、それはあるよね、著者として恥ずかしいっていうかね。高橋信次で食ってるんじゃねえかなんて言われたらいやだもんねえ。だからそれはわかるんだよね。だけど、私がこれだけやりたいやりたいと言うもんだからやらしてもらっているんだ。著者がひじょうに寛容なんでね、やらしてもらっているんですよ。 じっさいまあ勘ぐりする人がいて、高橋信次の名で商売しとるんじゃないかなんて勘ぐりもあるんでしょうが、実際は残念ながら高橋信次の霊言より理論書のほうが売れてるんですねえ。残念だけど理論書が売れて高橋信次の霊言、霊示集が連れ売れするというのが現状なんですね。これは私の口から説明しておきたいと思います。 それゆえに、私の本だけが異常に売れるのでいっぱい作ってるわけではありません。それは言っておきます。本人の意志ですね。私が霊として異常なまでにやりたがっているんですね。どうしてもやりたいんです。 なぜやりたいかっていうとね、まあいろんなとこで話したけど、私も九次元霊なんですね。みなさんなかなか信じられないでしょう。私のファンは信じるでしょうけども、ファンというのはありがたいもんでいつでもそんなもんですけれども。じゃあイエスやモーゼやブッダやねえ、孔子、こういう人がいるという世界に、ほんとうに十二年ほど前に死んだ高橋信次っていうのが行っとるのかどうかね、みなさん疑問に思いませんか。思わなかったら頭おかしいですよね、常識的に言えばね。そりゃあ高橋信次は偉いんだと、それはまあ弟子とか信者が信じるのはいいとして、一般的な日本人の頭脳からみてね、じゃあ高橋信次がほんとうにイエスや釈迦やモーゼや孔子というような歴史上の偉人だね、もうこれは値打ちの固まった偉人ですが、彼らとおんなじとこに行っているのかどうかって言ったら、そりゃ疑って当然だと私は思いますよ。 なぜ疑って当然かと言うと、生前GLAというところを創って、そして七、八年やりました。そして一時期何十万人かまでパッと増えましたが、死んだ後その団体もがタガタになったし、会員数ももう一万人いるかいないかわからないぐらいまで落ちこみましたね。日本には宗教団体は十八万くらいありますが、相当小さな団体にまでなりました。 こうしたものを見てもね、そんな九次元の大如来が出たとは思えないと言えるでしょう。たとえば創価学会が千七百万ねえ、立正佼成金八百万、霊友会四百万ねえ、天理教二百万、こちらのほうがよっぽど大きいですわね、だから中山みきさんのほうが高橋信次の二百倍ぐらい偉いんじゃないかなんて思うかもしれないね。まあこういうことがあります。 それはね、私も生前の悟りとしては九次元の悟りまで行っていましたが、仕事そのものですね、仕事そのものというのをとったときには、やはり九次元の大如来としては仕事は足りなかったという事実があるんですね。それだけの影響力をじゅうぶん駆使しえなかったということがあって、まあそれもこうした復活ということが用意されていたんで、ダブルで考えられているんですけどね。だからこの復活をして仕事を続けなければ私はほんとうに九次元霊として仕事したことにならないんですね、それゆえに、私は霊となって生前以上の仕事を絶対にしたいんです。なんとかこの自己実現をやりたいと思っているんで、そのへんをよくよくわかっていただきたいなあと思います。 結局なにが言いたいかというと、「二元論的世界観」なんです。二元論的世界観、つまりなんて言いますかね、私がこのようなみごとな復活をして喜んでいる人がいる半面、私が復活しても信じない、まゆつばだって言うような人がいるんですね。こういうことが現に私の復活ということを通しても起きますね。これほどむずかしいんです。もちろん二分法じゃなくて三分法、四分法といろいろ方法はあるでしょう。高橋信次の復活を信じる人、信じない人、どちらとも言えない人、これで三分法はできあがりですね。どちらとも言えないけど、信ずるほうに傾いている人と信じないほうに傾いている人、これで四分法のできあがりですね。これをもっと分けていくと、たとえば霊を信じる人と信じない人とに分けて、信じる人のなかで高橋信次の復活を信じる人信じない人、あるいはどちらでもない人、このようにでも分け方はあります。 このようにいろいろと分け方はありますが、いちばん基本的スタイルとしては信じるか信じないかということですね。神を信じるか信じないか、あるいは霊を信じるか信じないか、高級霊であると信じるか、信じないかというようにイエス・オア・ノーで考えるのが考え方の基本でもありますね。だから、こうした二元論的な発想というものが考え方の基礎にあるので、それゆえにたとえば善悪二元論というものが出てきやすいというところもあるんですね。 もし人間の発想が二元的になっていなくて、たとえば四元的、あるいは五元的、あるいは十元的な発想、十人十色というように、いつもある問題について論議されると十通りの答えが出るというような形式であれば、善悪の二元論というのはひじょうに出にくい状態にあると思います。けれども、人間の頭の理解のしかたはやはりイエス・オア・ノーで理解しやすいんですね。このようなことがあって、二元論的な世界観が支配的になっているんだと思います。ですから、他の星に行くと、もっと違った考え方ももちろんいくらでもあります。 2.光明一元のとらえ方 さて、こうした二元的なものの見方とある意味で対立しているように見えるのが、いわゆる「光明一元」の考えですね。「光一元」というような考え方が強烈に出されています。これは天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)様のような方が中心になって出されています。 もちろんこれもわかるんですね。おそらくそれはそのとおりですね。ただ私は立場が違うという感じはするんですね。というのは光明一元、光一元を説いておられる方々は、自分の立場に立って言ってるんじゃないかなって感じがするんですね。つまり神様の世界にいて、神様の立場から見て光一元とおっしやっているように感じるんですね。だからその立場をどこに置くかっていう問題があると思います。地上の立場で見たらかならずしもそうとは言えないということですね。しかし、実在界の立場から見たらそのように言うこともできるということですね。 したがって、善悪二元論、光一元論というように対立したもののようにとらえるけれども、これはものを見ている立脚点、立場が違うんじゃないかと言ってもいいんだと思いますね。地上の人間から見たら、いろいろと価値観が分かれて対立しているように見えるけれども、神の世界から見たらもう光そのものであり、そして人間は神の子であるし、そうした世界の投影なんだから本来光一元なんだと、このように言えるということですね。だから立場の違いとして考えていいと思います。 ただ、現実の現時点における地上での感覚からいくとどうかと言うと、やっぱり二元論的なものの考え方がある程度幅をきかしていると言ってもいいし、現実にも妥当しているのではないかと思うわけです。霊界の世界といっても、まあ高次元世界は別としても四次元ぐらいまではこの二元論は妥当しているのではないかとこのように言えるんじゃないかと私は思うんですね。だから、どちらのほうがより人間の理解のためにはわかりやすいか、ということが言えると思うんです。 つまりね、光一元、光明一元と言っておれば、もう努力の余地が多少なくなるんじゃないかという感じが私はするんですね。ああそうですか、そのとおりですね、お説ごもっともですね、それでどうされるんですかって言ったら、いや輝いているだけだ。光っているだけだと言われたらもうどうしようもないですね。 ところが、私はやはり人間は人間としてある程度、主体性をもって努力して生きていくべきだと思うんですね。その主体性をもって努力していく人間のとりあえずの目標はなにかというと、人生を生きていく過程でいろんな出来事が起きるし、それに対していろんな思いが出てくるけれども、その思いおよび行動というものがね、ほんとうに神様の歓迎するような思いであり、行動であるのかどうかを一つ一つ点検していく生き方、これがやはりだいじなのではないかと思うんです。 そういうことですから、究極には光一元があるとしても、ただ出発点においてはやはり人間というものは正しい行ないもすればまちがった行ないもする傾向があるのだから、だからこそ正しい方向へ善導していく必要があるんだということですね。また、闇というものはもちろん積極的存在ではないけれども、善というもの、光というものをくっきりと浮かび上がらせるという、そうした素材としては消極的に存在が許されているのではないか、すなわち悪は善を伸ばすための素材としてありうるのではないかと、そのような感じもしないでもありません。 それゆえにね、九次元まで行ってまだ二元論言ってるのかという人もいるかもしれませんが、人間という視点から見たときにはどうしてもそうした考え方を取らざるをえない、と私は思うんですよ。だって現に私の霊言読んで、これを本物だという人と偽物だという人と二人いるんですね。二種類の人間が明らかにいるんです。ところが真実は一つですね。違いますか、みなさんどうでしょうか。これが高橋信次の霊示集かどうかね、これは真実は一つですよ。まあ本人が本人だと言っとるんだから私は正しいものだと思ってますが、しかし信じる人と信じない人と二種類いるでしょう。でも答えはどっちかなんですね。するとどっちかがまちがっているはずでしょう。違うでしょうか。正しいと言う人が合っているのならば、偽物だと言っている人はまちがっているわけですね。これは悪ですね。違いますか。そうでしょう。だから、イエス・オア・ノーがはっきり出るんですね。これはどうしようもないんです。 ただ、これを一元論的にとらえるとすれば、今私の霊言を認めていない人であっても将来的には認める可能性のある人なんだ、ただ気づくのが遅いだけなんだと。まあこのような考え方もあるでしょう。時間の流れというものを見たらそうした考え方もあるでしょう。そちらのほうがいいならいいということも言えるでしょうが、やっぱり会議でもなんでも結論を出すときは一定の時間のなかで出さなきゃいけないんでね、締め切りっていうものがあるわけです。だからこの締め切りという観点から見たときに、やはり善悪は出てくることはあると、このように考えてよいと思います。 3.具体的勢力としての闇 では、闇はそのように消極的な産物で、光の部分がまだ現われていないだけなのであるのかどうかという問題について、さらに話をしてみたいと思います。 たしかに、あらゆる霊には仏性が宿っているということは真実です。地獄にいる者たちであっても、その本質は神の子としての光を宿しています。これは事実です。なぜならば、彼らも反省ということを通して悟ることが許されているからです。そして、悟りによって天国に上がることが許されているからですね。その意味において、たしかにあらゆるものは仏性を含んでおり、善の芽生えを持っているということは言えるでしょう。しかし、今一歩現象論として見たときに、実際論として見たときに、闇の勢力というものがあるということも事実であります。 それはね、ある意味ではたとえば酔っ払って車の運転をしているような人たちかもしれません。彼らは酔っ払ってるからもう感覚がマヒしていますね。それゆえに、道路の右側を走ったり、人をはねたりすることがありますね。こうしたものはなにかっていうと、これはやはりひとつの悪の現象が出ているわけですね。本来まともな人間だからと言っても酒を飲んで暴走しているという現実がある場合、こうしたときにはこれをなんとかして阻止するのはこれは当然のことであると思うんですね。そうしないと、多くの人たちがますます傷つくことになり、苦しむことになるわけです。そうしたことがあるわけです。それゆえに、そのような一時的な姿ではあるし、迷える姿でもあるとは言えましょうが、闇というものが具体的勢力として出現していることも事実です。 現に多くの宗教団体を迷わしている悪霊群の存在、これは事実としてあります。そしていろんな人のところにとり入って、彼らを操っています。また、霊能力を持っていたり霊道を開いたりした人たちであっても、その心の状態が悪化すると、すなわちこの闇の勢力のとりこになっていくことが多いのです。自らの正しき心の探究ということを忘れて、自分は偉いんだというように増上慢になっていったときに、この心を舵(かじ)取る人がいなくなっていきます。そうして、こうした具体的勢力としての闇に支配されていくようになってゆくのです。 そしてこれは光の天使であっても阻止することがひじょうに困難であるのです。なぜならば、人間の心にはすでに説明したように、波長の原則というのがあります。つまり同じ波長の者どうしが引きあうという法則があるのです。それゆえに、地獄の悪魔たちの波長に合うような波長を出している人たちは、彼らのとりこになってゆかざるをえないのです。たとえ霊能者であっても、波らに私たちから通信が送れるかと言えば送ることができないでいるのです。 たとえば、今私は〇〇さんという方にこのような霊示を送っています。瞬時にコンタクトすることができ、送ることができますが、では〇〇さん以外の人に私が霊示を送れるかっていうと、送っても受け取ることができないんです。なぜ受け取ることができないかというと、九次元の波動を受け取るには九次元の波動を受けとるだけのアンテナがいるんです。その周波数に合ったアンテナがなければ、私たちがいっくら電波を発信してもそれを受け取ることはできないんです。 もしこれができるならば、歴史上の預言者は必要がなくなるんです。そうじゃないでしょうか、皆さん。旧約聖書の時代から預言者というものがいっぱい出てきました。なにゆえにですか。神の言葉を伝えるためにでしよう。違いますか。神の言葉を伝えるために、預言者という優れた人たちが出てきたんでしょう。そして、アンテナ役になって神の声を受け取り、それを人びとに伝えたんでしょう。たとえばエレミヤだってそうでしよう。エリヤだってそうでしょう。違いますか。そういうことですね。 したがって、過去預言者が続々出てきたということ自体が、神の声を伝えることができるのは選ばれた人であるということを意味しているのです。どのような意味において選ばれているかというと、ふつうの人ではそのキャッチができないということですね。キャッチできないんです。なにゆえにできないかというと、心の波長を整えることができないからなんです。 みなさん、電流はいったいなにに流れますか。電流を流すことができるのはそれは伝導体ですね。伝導性があるものだけです。たとえば、銅の線でふつうは電流がよく流れますね。銅線によく流れますが、この銅線に絶縁体をかぶせたら電流は流れると思いますか、みなさん、流れないでしょう。違いますか。そうですね。絶縁体をかぶせたら銅線にも流れなくなっていきます。同じように、地上に生きている人間というのは心がひじょうに三次元的波動に染まっているんです。そして、その心の曇りがちょうど銅線にかぶせた絶縁体のような役割を果たしていて、電流が流れなくなっているのです。この電流を流すためには、こうした精妙な波動を出せるところまで心を浄化しなければ無理なんです。 そして、高次元の霊の波動を受けるところまで心を浄化するということは、末法の世の中においてはひじょうにむずかしいことなんです。そのためには地上に生きている人間の努力もいりますが、やはりそれだけの大きな力量を特った人が出る必要も同時にあるのです。それだけの実力者が出なければ、なかなかそうしたことはできないという事実があるんですね。こうしたことを知っていただきたいと思います。この法則がじゅうぶんに理解できていないと、魔というのが人間にとり入ってきます。そして、霊能を持っているだけで、あるいは霊道を開いているというだけで高級霊から通信を受けたと称し、あるいは彼らとコンタクトができるということを称するようになって、そして迷わされていくことになるんです。 したがって、具体的勢力としての闇と戦ってゆくためには、この心を浄化させるということがひじょうにたいせつです。そして、彼ら高級霊の波動と同じ波動を出さなければ無理だということを知ってください。特に地上にいて怒りに燃えているような人、愚痴に燃えているような人、憎しみに燃えているような人に、八次元や九次元の如来の通信は絶対にできないということを、私は声を大にして言っておきたいと思います。 4.闇を打ち破る方法 さて、具体的な方法として、さらに闇を打ち破るためにはどうしたらよいのでしょうか。その方法はいったいどこにあるのでしょうか。これを考えてみたいと思います。 闇というちのも、人間的な視点から見たら実在するようにも見えるし、現に敵対するようなこともあるということを私は話をいたしました。この闇を打ち破る方法はね、ひじょうに困難な方法ではあるんです。またひじょうに遠回りな方法でもあるんです。しかし、それは確実な方法でもあります。闇を打ち破るのは力ではありません。それを打ち破るのは、忍耐のある愛なのです。 人をほんとうに善くしようと思ってじっと耐え忍びながら愛していくような力、こうしたジワジワと太陽の光のごとく雪を解かしてゆくような力、これが根本的に闇を打ち破っていく方法のひとつなんです。彼らをひっ捕らえてギロチンにかけるというような方法は、これはまた地獄のあり方なんですね。春の太陽がさんさんと射し始めて、根雪が少しずつ少しずつ解けて春の小川となって流れていくように、闇を打ち破る方法はじつは積極的なる方法というものではないのです。 みなさんは、あの北風と太陽の話をごぞんじでしょうか。旅人がコートを着て歩いているのを見て、北風と太陽がそのコートを脱がそうとして競いあうわけです。そして、まず北風が「私がこの力でもってビュンビュン吹いて吹いてすれば、あの旅人の着ているコートはすぐに吹き飛んでしまうよ」と、このようなことを言って北風がビュンビュンと吹きつけますが、そうすると旅人はどうしたかというと、これはたいへんな寒さだ、これでは凍えてしまうということで、しっかりとコートをおさえてしまい、コートをますます脱がなくなってしまったんです。そして、北風がいくらやってもダメたったわけです。 そこでとうとう北風もギブ・アップしまして、「太陽さん、ダメだったよ」とこう言いますねえ。では太陽が「じゃあ私がやってみようか」ということで乗り出してきます。北風は、太陽みたいなあんななまぬるいことで絶対コートなんか脱がせられないと思うんですが、太陽が出てきてニコニコニコニコしながら光を射していると、旅人はだんだんだんだん暑くなってきてポカポカポカポカしてきました。それでとうとう汗だくになってたまらなくなってコートを脱いでしまいました。北風は腕力でやろうとしてだめだった。太陽のやさしさに勝てなかった、という寓話ですね。 私はね、闇と闘うということも結局こういうことだと思いますよ。叩き潰すなんていう考え方は、北風ビュンビュン吹かしてコートを脱がそうとしたのと同じことですね。闇と闘うにあたっては、この太陽のようでなければいけないのです。すなわち、少しずつ少しずつ熱エネルギーを放射して暖かくしていくことです。そうしてコートをいつまでも着ていられなくするようにすることです。まあこうした方法論がいちばんだいじであると思います。ですから、きわめて回り道ではありますけど、結局それしかないんですね。 そして、自分自身のことを言うとするならば、自分自身はどうしたらいいかというとあのストーブの反射板かなんかのようにね、ピッカピッカに光っておいて、そしてストーブの光をはね返す、熱をはね返すことですね。そのようにしておけばいいんです。心のなかがいかに苦しくともね、いろんな批判を受けて傷つくようなことがあっても、心をつねにピッカピッカに磨いておくことです。そうすれば、いろんなものがみんなはね返っていきますね。そうしたものです。ですから、個人の努力としては自分の心を一生懸命光らすように努力すること、これがだいじです。そして、他を説得する方法としては、あの太陽のごとくジリジリと照りつけていくことですね。こうした方法がいちばんであると言えましょう。 5.謙虚さの重要性 さてここで、私は前にも言ったことがあると思いますが、「謙虚さの重要性」ということをもう一度くリ返しておきたいと思います。 いろんなところで神理を説いている人、教えを説いている人が多くいるでしょう。そうした人たちは、とにかく我こそ神理なりと居丈高(いたけだか)になりやすいのですね。これが神理だ、どうしても伝えなければいけない、世の人びとをめざめさせなければいけない、彼らの頭をたたいてでも目を覚まさせたいと、こうした気持ちでもってやるんですが、そうして魔と闘っているうちにね、いつの間にか逆に彼らの掌中(しょうちゅう)にはまってしまって、術中にはまってしまってとりこになっている人が多いんですね。心の窓を開いたときには高級霊の光を受けることができ、守護霊の声を聞くことができた人が、いつのまにか彼らの術中にはいっていくことが多いんです。 なぜかと言うと、まず霊道を開いたという経験によって非凡なものを経験することですね、これによって自分はまったく違った人間ではないのか、まったく別種の人間ではないのかという自覚が生まれてきます。そのうちそれが確信になってくるわけです。そうすると、「自分は決してまちがいをするはずもない。自分は人に頭を下げるような人間ではないのだ。世の人びとは自分の決めたことをとにかく鵜呑(うの)みにすればよいのだ」と考えるようになり、そして自分の考えを人びとに押し付けていくようになります。そして、それを受け入れない人に対してはサタンだというようになります。こうして、裁きというものを始めるようになってくるのです。 したがってね、どんな優れた人であっても、だんだんに人を裁く傾向が出てくるんですね。この人を裁く傾向が出てきたときに、これはひとつの危ない迷い道であるということを知らなくてはいけません。そうかんたんに偉くなってしまわないということがとてもだいじであると、私はそのように思います。 この方法はいったいどこにあるかと言うとね、やっぱり謙虚さだと思いますよ。謙虚に生きることですよ。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」の心境でね、実れば実るほど頭を垂れていくということですよ。それとね、評判が上がれば上がるほどね、「まだまだこんなものでは本物ではない。自分はもっともっと基礎力をつけてじっくりと仕事をしなきゃいけない」という、こうした気持ちがだいじだと思います。 したがって、たとえば学校の生徒であれば、試験を受けてその点数がよければすぐ有頂天になるんじゃなくてね、よければよいほどね、ますます勝って兜(かぶと)の緒を締めよで、「これではいけない。こうした力はまだほんとうに自分の実力であるはずがない。もっともっとこれは勉強しなきゃいけない」という、こうした気持ちで努力していくことです。そこにほんとうの道が開けてくるんですよ。 だから私は正法行者たちに、宗教家たちに言いたい。謙虚な気持ちを持つことです。謙虚な気持ちを持つためには、ひとつには目標を高く持つことです。遠大な目標を持つことです。人類の悪がなくならない限り、自分の使命をまだ果たしていないと思うことです。さすれば自分ちそれほど不完全な人間であるならば、使命が果たせていない人間であるのならば、どうして他の人を裁くことができましょうか。他の人をダメだと言い切ることができましょうか。そのようなあったかい気持ちで生きていくということが、とてもとてもだいじなことであると私は思うのです。 何度も何度もくり返して言っておきます。どうか謙虚であっていただきたい。かりに過去世にあなたがなんであるということを聞いたとしても、あるいは今世においてあなたが大臣であろうが、どんな偉い方であろうが、どんな収入を持っているような方であろうが、しかしそうした外見の飾りがりっぱであればあるほど、ますます謙虚に生きていく、ほんとうの中身を創っていくという態度がだいじになってくるのです。自分だけが決してまちがわないとか、特殊な人間だとか、どうかこうした考え方を持たないようにしてください。そして、自分の仕事というものを、生き方というものを第三者の目で正しくみつめなおしてください。そこに、ほんとうに正法行者としての正しい生き方があると思うのです。
https://w.atwiki.jp/antihappyscience/pages/75.html
綱紀粛正(1989年1月7日) 綱紀粛正の内容 1/7/89 大川 綱 紀 粛 正 1、阿部氏 当会幹部としての発言、行動が社会的常識に欠け、三宝帰依の精神がない。また自己変革の意思がない。 * 来週より二週間、自宅での反省を命ずる。 * 指導局課長解任。 * 青年部講師、当分の間資格停止。 * 二週間後の反省期間後、多少本来の姿になっておれば、事務局付で勤務、又は大阪への配転を考える。反省の色がないようなら、退職勧告をする。 (中略) <全体的展望> 当会の性格からいって師と弟子の信頼関係は絶対必要。高級霊への信仰も必要。神を裁く性格の人はいられない。(正しき心の探究)の基準の運用による(破門)も検討の必要がある。 今回は青年部講師再考のよい機会。人生経験未熟で大人になりきっておらず、社会常識を疑われる講師の登用は避け、(研究員)あるいは(研究生)とする方向へ切り替え必要。 関谷晧元著「虚業教団」より、関谷氏の回顧 「明けて1989年1月。年末年始の10日間の休暇を、家族という常識世界に触れてすごした阿南は、心を固めて東京へ戻ってきたようだ。彼は大川に、この話はなかったことにしてはしいと訴えた。大川のワンマン体制下では、その意向に逆らえば、会から追放されても文句は言えなかった。よほど勇気が要ったに違いない。なにしろ仏陀の指示を拒むのである」 「阿南浩行は自分の心に正直にしたがった。たとえ、全知全能の神の命令でも、自分がおかしいと感じたら、やはりおかしいのではないか。彼は自らの行動で、そのことを私たちに問いかけたのである。けれど、私たちはまだ自分の〝浅はかな考え″よりも、大川の霊言を信じていた。『神は自分の心の中にある』と高橋信次は繰り返し説いた。そういう心の中の神を、真っ直ぐに見つめることのできた人間から、順番に会を去っていった。『明日から出社におよばずだ! もう出てくる必要はない!』大川の憤慨は、私たちもはじめて見るほど激しいものだった」 名前 コメント このページを編集
https://w.atwiki.jp/antihappyscience/pages/49.html
幸福の科学発足記念座談会(1986年11月23日) 関谷晧元「虚業教団」より抜粋。 「いよいよ会として、第一回の会合を開くときがきた。『幸福の科学発足記念座談会』がおこなわれたのは、この年の十一月二十三日である」 「私は大川と中原をクルマに乗せて会場へ向かった。不慣れな道のために、予定時間を少しオーバーして到着した。はじめての会合を前にして、大川は不安だったようだ。テープに霊言を吹き込むことはあっても、大勢を前にして話す経験はなかったから当然だろう。気持ちを落ち着けたいという大川の提案で、三人は喫茶店で一服してからビルの四階にあるヨガ教室へ上がった』 「まず司会役の中原が登場し、開会の挨拶をした。彼女はかなり緊張し、アガっているように見えた。最初は言葉もしどろもどろだった。しかし最大級の賛辞で大川を紹介することは忘れなかった。内容はもう覚えて一つだけ強く印象に残っている言葉がある『大川先生が誰の生まれ変わりか、いずれわかるときがくると思います』」 「中原の紹介を受けて、大川本人が登壇した。いよいよ大川隆法先生の第一声。霊言集の偉大な霊能力者が何を語り出すかと、聴衆は固唾をのんだ。カメラを支える私の手も思わず力が入った。大川主宰は、しかしアガっていた。少なくとも私にはそう見えた。後に何千人、何万人を前にして堂々と演説する大川の姿ではなかった。話がどこか上滑りしている。誰も笑わないような冗談を言って、一人おかしがっている。『炎を見て、モーゼは炎を見て火事だと思うのですね。でも一一九番できないんですね。電話がないから……アッハ、ハ』」 「人間ならアガりもするだろう。私はむしろ、そんな大川隆法に親しみをおぼえる。その日は、GLA教団の教祖である故・高橋信次の霊の指導を受けて講演すると、前もって聞いていた。生前の高橋信次の講演は、私もよくテープで聞いた。早口だが、張りのある高橋の声は、言霊(ことだま)と呼ぶにふさわしい威厳とパワーに満ちていた。テープで聞く高橋の早口を、大川はマネしているように聞こえた」 「″おかしいな″と私は思った。″霊言を収録するときは、信次先生の魂が大川先生の肉体を自由に支配するのだから、ここでも、そうされたらいいのに。霊言と指導が違うなら、なにも信次先生のように早口になる必要はないと思うけれど……″心の中でこうつぶやいた。″やっぱり、大川先生ご自身のお考えで話されているのかな″」 名前 コメント このページを編集
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/266.html
目次 1.東京を起点として大きな霊的渦巻きが起きようとしている 2.この霊的胎動の大きさを知る人の数はまだ多くない 3.キリスト出現の際のひとびとのとまどい 4.現代版バプテイスマのヨハネ、ベンジャミン・クレーム 5.高橋信次の予言した「五年後」の人 6.歴史始まって以来の国際化時代の大伝道 7.救世主群像 8.自分の教えが海外に広がっていくという予言 9.歴史的な瞬間に生きていることを喜びなさい 10.女性の救世主はいないが、高級霊は現代にも出ている 11.人類の夜明けを信じなさい (1987年2月19日の霊示) 1.東京を起点として大きな霊的渦巻きが起きようとしている 高橋信次です。きょうは第二章で人類の夜明けという題を選んでみました。まあ人類の夜明けっていうのは大きな題であって、ひじょうにかっこいいようにも聞こえるかもしれませんけれどもね。 みなさん、この私の本を読んでいるみなさんは、まだね、いま、起きようとしておることのほんとうの意味がじゅうぶんにわかっておらんのです。 みなさん、まだね、朝起きては、寝ぼけ顔で目をこすって、トースト一枚にするか、二枚にするか考えてね、「きょうも目玉焼きか、ああきょうも目玉焼きか。」ってブーブー言いながらね、朝ご飯をお腹のなかに落としこんで、そしてコーヒーをガブ飲みしながら、電車に走る。行く道々でネクタイを首にしめてね、そういう感じでやっとるのでしょう。 そして「ああ一日疲れた。これでビールがいっぱい飲める。」とかね。「これでまたカラオケ行ける。」とか、こういうことをやっているのでしょう、毎日ね。 そういうわけで、世の中で、ほんとうに起こっていることはなにかということに気がつかずに、小さな世界、会社のなかとか、自分の小さな仕事の世界に閉じ込もって、まだほんとうの世の中の大きな動きというのがわからないのですね。 ところがみなさんね、いま、日本の中心である東京、ここを起点としてね、大きな渦巻きが起きようとしているのです。 それは地上の人間には、なかなかわからんことですけれども、私たちの世界から見るとひじょうによくわかるのですね。 天上界から見てわかるのは、けっして人工衛星なにとか、ひまわり二号による天気図だけではないんです。どこに、富士山のあたりに雲がかかっているとかね、台風の目がどう動くかとかそんなのだけではないのです。 私たちの目から見てわかるのは、日本列島の上から見てて、霊的な渦巻きっていうのがね、やっぱり見えるのですね。霊的な波動です。これが見えるんです。 ちょうどたとえば私がいる九次元世界から見ると、八次元、七次元、六次元、五次元、四次元と、こういう世界があってね、だんだん人間界に近づいていく。 光の量でいくとだんだん落ちてくるわけですけれども、こういうふうな段階になっておるわけだけれども、この三次元はもちろん、四次元も、ふつうは一般に暗いわけですね。 ところが、その薄暗い三次元世界を見ておると、その日本地図の東京あたりを中心に、ボコッと光が出ているのですね。大きな光が出てきておるのです。 そしてその光が東京中心に渦巻き状に広がっていき、あるいは放射線のように北海道へ、九州へ、沖縄へ、京都へ、四国へ、東北へと広がっていっとるのですね。 これを見ると、やはり、これはすごい動きがあるな、ということをね、私たちははっきり感じるんです。 ところが地上の人たちはのんびりしたもんです。あともう十分だけ朝寝坊したいとかね。あともう一杯だけウイスキー飲みたいだとかね。もう一軒だけハシゴしたいとかね。そんなこと言っています。 あるいは給料があと百円上がらんか、とかね。ボーナスが千円上がらんかとか、こんなことを一生懸命言っています。 あるいはいま、二月ですから、確定申告したらいくら返ってくるかとか。こんなことばっかりを考えています。まだ起きている事件の大きさがわからないのです。 2.この霊的胎動の大きさを知る人の数はまだ多くない しかしまだそう人数が多くないけれども、日本のなかで、そうですね、数万、まだ数万人ぐらいでしょうかね。いま、私が霊訓を送っておる段階においては、まだ一、二万、二、三万かもしれませんけれども、少数の人たちはだんだんに気がついてきています。 いま、一九八七年の、日本を中心として、大きな霊的な動きが、胎動が、始動が、あるということに気がついてきておるはずなんです。 この胎動はいったいなんであるかということを、みなさんわかるでしょうかね。 それはたとえばイエス・キリストが通信を送ったり、モーゼが通信を送ったり、孔子様が通信を送ったり、天照大神が通信を送ったり、天之御中主之神が通信を送ったり、あるいは生長の家のね、総裁であった谷口雅春さんが通信を送ったり、GLAをやっとった高橋信次が通信を送ったり、こうしたことがいったいなにかということですね。この意義です。 霊言集の読者でもまだはっきりわかっていない。 「へーそんなことがあるもんか。」なんてね。「珍しいな。」とかね。「この前の本の内容よかったなあ。」とかね。このていどで止まっとるのですが、この全体の動きの大きさをまだじゅうぶんわかっていない。 これがわかったときにひとびとは仰天するのです。腰を抜かしていくでしょう。 しかしまだ腰を抜かすには時間がかかるのです。その腰を抜かすまでの間に、たいへん大きな準備が進んでいくであろうと私は思うのです。 3.キリスト出現の際のひとびとのとまどい 地上のみなさんは、たとえばね、いま、自分がイエス・キリストの生まれた時代に生きてると思えば、たいへんな緊張感でしょう。 ところがイエス様の時代にはひとびとはイエス様とともに生きているという自覚がなかったわけですね。わかんなかった。 当時はユダヤの古い預言書のなかでは、選ばれたる地に、選ばれたる民のなかに、救世主が出てくるということを言われておったけれども、まさか自分が生きておるときにとは、自分はなかなか思わないのですね。そういうことが思えない。そうかんたんに。 だから同時代にイエス様がいてもわからなかった。こういうことがあります。 ところがのちの世のクリスチャンたち、あるいはキリスト教会の牧師たち、こういう人たちは、イエスと同じ時代に生まれ合わせるなんてことがあったらもうたいへんなことです。奇蹟です。もうすべての財産を投げすてても、そういう経験をしたいと思うでしょう。 けれどもイエス様の当時は、そういう経験をした人がおらんかったわけですね。だれもわからなかった。その意味が。 ただナザレの貧しい大工の息子にインマニエルという人が生まれてね、オヤジさんの大工の手伝いをしながら、ちょっと聖書読んだりして勉強して、あるいはまあいろんなところでね、エッセネ派の長老たちの教えを受けながら、勉強しておった。 ところが三十歳ぐらいからキツネにでも憑かれたかなにかのようにね、いきなり霊がかったことを急に言い始めて、バプテイスマのヨハネなんていうまた変わった皮衣を着てハチ蜜なめているようなおじさんがね、野のイナゴを捕って食べているおじさんが、水で洗礼したら、頭からハトが飛んじゃった。 そしてじつはね、バプテイスマのヨハネが言いました。 「私が言っておった、来たるべき人というのはこの人のことです。ひとびとは私を預言者エリヤの再来だとかいろんなことを言うけれども、私はこの人の靴のひもを解く値打ちさえもない。」と。そしてヨハネは言いました。 「私はこの人にたいして水で洗礼をするけれども、この人はおそらく今後、聖霊によって人を洗礼するであろう。」そういうことを言いましたね。 そしてヨハネがイエスに対して、「主よ、私たちが待ち望んでいたかたは、あなたです。来たるべきかたはあなたでしたか。」というとインマニエル・イエスですね。 イエスは「しかり、我はそれなり。」と、こういうふうに答えたわけですね。まあ、内村さんみたいですけれども、「我はそれなり」と答えたわけです。(注・土屋書店刊『内村鑑三雲示集』参照)両方とも。ぴたり合ったと。両方ともがね。 まあそういう時期があったけれども、まあまわりの人は、それが信じられない。 三十歳まで大工の手伝いをしとった子が、いきなり「我はそれなり」で救世主になっちゃったから、そうかんたんに信じられないけれども、バプテイスマのヨハネというのが、評判がよかったからね。霊能力があってひとびとをさとしめる力、救う力があるという評判になっとったんです。 ただヨルダン川のほとりで、水のなかにはいってゴシゴシ体を洗っとったのかどうかしらんけど、変わったおじさんがおるということでね。まあ変わりもんだけどすごい預言者だということになっとったわけです。そういう人が認めたわけです。 「私はこの人の靴のひもを解く値打ちもない。」バプテイスマのヨハネほどの人が言っていますね。 バプテイスマのヨハネは如来界のかたです。そのかたが靴のひもも解く値打ちがないと言ったからたいへんです。 ですから当時の教会関係の人たちは、もうたいへんな狼狽(ろうばい)でしたね。それこそ瓦版(かわらばん)でも刷ってもう配達しなければいけない。 いまだったらもう号外ですね、号外でもまかなければいけない事件です。「なにか昔から言っとったかたが出たらしいぞ。」ということですね。こういうことでたいへんなことになったわけです。 4.現代版バプテイスマのヨハネ、ベンジャミン・クレーム まあ現代では、そういう意味でのバプティスマのヨハネというのがね、いま、イギリスにいます。これはバプティスマのヨハネの魂じゃありませんよ。その役割をしている人がね、イギリスにいます。 いま、大マイトレーヤの降臨、大救世主の降臨ということで、しきりにそれこそ講演してまわっておる人がいます。ベンジャミン・クレームというかたですね。 このかたがイギリスにおって、アメリカだとか日本だとか、ヨーロッパ各地で、大救世主が降臨するっていうことを言ってまわっています。 そして、まあ馬鹿なことも言うとるけれどもね。大救世主がいまロンドンのスラム街におるなんて、馬鹿なことを言っておるけれどもね。まあそういうところにおるわけないんです。 まあ、こういうのはお国自慢でやっぱり自分がおるところに出ると思っとるんですね。まあそういう誤解、美しい誤解があるわけです。 まあイエスが出るときにもそうですね、預言者というのがね、救世主はガリラヤから出ることはないと、言われとったんですね。けど思った地よりちがうところから出たわけですね、そういうことがありました。 ベツレヘムから、かならず救世主が出るはずだというのが、ベツレヘムではない湖のあたりの淋しいところに生まれたから、それでちがうと、場所がちがうからちがうと言ってた人がいっぱいいました。 それでイエスを迫害した人だっているのですよ。内容ではなくてね、そういうことを言う人もおりました。 ですからベンジャミン・クレームが言っておる、大マイトレーヤというのは出ておるんです、いまね、みなさん。 もう出ておるんですけれども、ロンドンのスラム街を探してもいつまでたってもいないんですね、絶対にいないでしょう。スラム街探して、いるのは乞食です。 乞食を一生懸命捕まえて「おまえだ、おまえがマイトレーヤだ。」、「ウンいってみればマイトレーヤかもしらん。」なんてね。「まあいっとるわ」なんてね。「マーイットルヤー」なんかになったりしてね。 そういうことがあるかもしれませんけれども、そのベンジャミン・クレームが予言している大マイトレーヤが出る地というのは日本なんです。日本に出るんですね。 これでもまだ彼がロンドンなんて言うとるもんだから、また馬鹿な人がいてね。たしかスラム街のはずなのに、そんなはずない、日本に出るわけないとね。 そういう人がいる反面、そういえば、浅草のスラム街で高橋信次が死んだから、あれじゃないかってね。そんなことを言う人がいるかもしれません。まあそりゃちがいますけれどもね。 5.高橋信次の予言した「五年後」の人 まあ、これはあんまり私が明言するのはいけませんけれども、ただ私は前の書物のなかでも、言っておきましたけれどもね、まあロンドンのバプティスマのヨハネぐらいのつもりでね、亡くなる前に、五年後に大きなことが起きるということを予言してまわりました。 けっして私はね、靴のひもを解く値打ちもないというところまで卑下する気持ちはぜんぜんないんですね。ぜんぜんありません。そりゃあ、ありません。 そりゃおたがいにね、足を香油で洗うほどの仲ではありませんが、握手ぐらいする仲だと思っております。 靴のひもを解くようなつもりはぜんぜんありませんけれどもね。そういう気持ちはありませんけれども、まあ握手するぐらいの仲だと思っておりますけれども。まあバトンタッチ、バトンタッチすべき人が出てきておると思います。 それでね、高橋信次という人もGLA系統だとたいへん偉い人でね、もう、「あの人は地球よりも偉い、星よりも偉い、太陽系よりも偉い。」ちゅうことになっておるから、ひじょうに困っちゃうんだけれども、まあね、この私のあとの人が出てくることによってね、また高橋信次もじつはほんとうは偉かったんだということをね、世の人たちは多少は認めてくれるんではないか。私はそういう甘い期待を待っています。甘い期待をね。 GLA関係者とかね、かつての弟子ばかりが偉い偉いといったってね、新興宗教の教祖で偉いちゅうのはいくらでもおるのです。 もう、うちの教祖はほんとう、宇宙の根本神だとか、もう大神様だとか、そういうのはいくらでもおるんです、そんなものね。 だからそんなの内輪(うちわ)で言われても、ぜんぜんうれしくないし、外で言われて、はじめて、値打ちがあるのですね。そういうことです。 それでベンジャミン・クレームの言っている人はだれかというと、もうはっきりしているんです。 みなさんね、キリストの霊言を世に問える人がほかにいるかどうか、高橋信次の霊言を世に問える人がいるかどうか。まあ、ちょっとこれ、クエスチョンしときましょうかね。いるっていう人がいるかもわからんから。 じっさい私はそんな通信を送ったつもりはないんだけれども、この世で高橋信次の通信受けていると称する人が五人も六人もおるんですね。だから困っちゃうんですねー。あっちこっち商売されているから、困っちゃうんですけれど。 それとかね、私がじつの娘以外に絶対通信を送らんと言うたとかね、いろんなことを言われています。そりゃあまあ解釈のしようで、そりゃあそういうこともあるでしょうけれどもね。 まあそんなもんじゃないんです。まあいくら高橋信次が自惚(うぬぼ)れとってもね、イエス様や孔子様が通信送るような人なら、まあ、私だって通信送っても、そんなにはずかしくないのですよ。 そりゃゴキブリだの、猫の霊なんかが通信を送っているところに、私があなた通信送ったら、そりゃかっこう悪いですよ。 先ほどイナゴの霊が出たと思ったら、イナゴの霊のつぎに高橋信次の霊が出たなんて、こんなのじゃかっこう悪いけれども。 イエス様やモーゼ様が出てね、孔子様みたいな偉い人が出てね、通信して、そして高橋信次が通信する分にはべつに私の格が下がらん。 むしろ上がるわけですから、そんならやらんことはない。けっして出し惜しみはしない。そんなに格が下がらんからね。そういうことです。 6.歴史始まって以来の国際化時代の大伝道 だからね、みなさんね、気づかねばいかんのです。これからね、大きなことが起きますよ。 そしていま、地球というのはひじょうに国際化時代になってきて、情報のネットワークがもうすごいです。時差なく、ある国のある地点で起きたことが、世界各国に広がっていきます。ですから昔の時代とちがいます。 いまの東京でなにかことが起こったとしても、そのことは、あっというまに日本全国へ、そして世界各国へ広がっていくと思います。 まあいま、私が言っていることが合っているか、合っていないかはね、みなさん、これから一年、二年、あるいは四、五年たてば、もうはっきりします。四、五年かからんでしょう。 おそらくあと一、二年すればね、私の言っていることがほんとうだということがわかると思います。 そのようするに教えの深さと、規模の大きさ、これはだれもがうなり始めます。これはふつうではありえないということをね。 そして歴史始まって以来、これだけ大きな規模での伝道というのは、かつてなかったということに気がつくと思うのです。 それはそうなんです。まあ言わしていただければね、高橋信次ぐらいの、招き猫と競争するぐらい偉いエホバの神が、露払いに出たちゅうんですから(注・土屋書店刊『高橋信次の新復活』第4章参照)。どんなことかね、だいたいわかるはずです。その大きさが。 あえて、私が露払いをしなければいけなかったという今回の救世の事業というのは、ひとりだけでやるには大きすぎるのです。ひとりでやるのは無理なんです。 ひとりで悟ってね、自分の悟りを深めて、それから伝道してるんじゃ無理なんです。だから何段階か、もちろん出とるんですよ。 7.救世主群像 ですからたとえば救世主だってね、救世主の範囲がいろいろありますね。まあその質の高い低いがあるし、救世の幅の広さ、これも問題がありますけれども、救世主という意味じゃ、そりゃ谷口雅春さんだって救世主かもしれません。 日本であなた、三百万、四百万の信者を導いて、そしてそれも戦前、戦中、戦後ですから何千万人ですね。何千万人の人たちに光明の原理を教えて、光をともしてきた。 そしてその光は、日本だけじゃなくてブラジルに、アメリカに、いろんなところに広がっていきました。海外まで伝道したんですね。 日本人でそこまでやった人はいたでしょうかね。どうですか、かつていましたでしょうかね、日本人で。いなかったですね。 出口王仁三郎さんが満州まで行ったそうですが、まあ、あれは伝道といえるかどうか私はちょっと疑問だと思っています。 しかし、少なくとも谷口さんは海外まで伝道したし、アメリカでも講演やっていますね。私ができなかったことをやっておられます。 ブラジルでも巡錫(じゅんしゃく)したし、アメリカでも講演会やっとるしね。それだけの力があって、谷ロさんの『生命の実相』なんかでも、もう何カ国語にも訳されているそうですね。何カ国語か、何十カ国語か私は知りませんけれどもね。 英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、いろんな言葉に訳されておると聞いています。まだ私の著書はそこまではいっておりません。 ですから、そういう意味でいえば、ある意味では谷口さんだって救世主かもしれません。 そして私も、生前、七年間ぐらい法を説きました。法の伝道ということではまだ、じゅうぶんじゃありませんでしたけれどもね。日本全国はかなり踏破しました。しかし、まだ海外伝道までいかなかった。 そういうことと、まだ、そうですね、私の教えというのが浸透をじゅうぶんするだけの時間がなかった。早目に世を去ったためにじゅうぶんな教えが説けなかった。 まあこういう問題があるけれども、私が説いた教えそのものの、深さ、質の高さはやがてね、五百年、千年、二千年たったときに、後世の人たちがかならず認めてくれると思います。それだけの規模のことをやったということをね。 過去世の釈迦だとか、キリストが言っただけの規模の、あるいは質の、教えを私は説いたということをね、後世の人は、きっとわかってくれると思います。 また谷口さんだって、もちろん、現代の天之御中主之神になるでしょう、おそらくね。 かつての天之御中主之神は、日本だけの神様になっちゃったけれども、いま、こういう国際化時代の日本で説いたんですから、現代の天之御中主之神になったとしても、その現代の天之御中主となった谷口さんは、その教えは世界に広がっていくのだから、もっと大きくなっちゃいますね。そういうことです。 ですから、私のあとに〇〇さんが出ましたけれども、こういうふうに何段階にも出ているのですね。そういうわけで、これからの動きがほんとうですよ、みなさん。目にものを見ますよ。 8.自分の教えが海外に広がっていくという予言 私は生前というよりも、亡くなる前に、いくつか予言しました。そして五年後に大きなことが起きるっていう予言はしたし、それは当たりました。 あともうひとつは、海外に広がっていくつもりでね、GLAという名前をつけました。 もともと神光会、あるいは神理の会といった集まりであったものを、ゴッド・ライト・アソシェーションということで海外伝道となってもいいように英語のGLAという名前をつけました。 ところが海外にぜんぜん広がらなくて、まあ困っとるんですけれどもね。 私の教えについてはね、私は亡くなる前にね「やがて私の教えが世界に広がっていくのが見える。」と、言ったことがあるのです。 「やがて私の教えは中国にも、中東にもね、アフリカにも、アメリカにも、広がっていくでしょう。」私は予言しました。 ところが、そんな予言したのにね、高橋信次なんてあなた、その舌の根の乾かぬ先に、死んでしまったと。あらあ、ペテン師だ、と言っている人もいるかもしれません。 ただね、それは高橋信次が、焼場で焼かれて消滅すると思っている人の考えです。焼かれたって消滅しとらんじゃないですか。 現にこちらに来て、まだこうやってね、ゆうとるわけです。霊訓を送っとるわけです。 ということは、永遠の生命を生きておるわけであって、すなわち私の教えが、今後海外に広がっていくということは、ぜんぜん矛盾がないんです。私の肉体がなくなろうがなくなるまいがね。 私が霊言を送れば、しゃべりまくることだって、かんたんにできるんです。 ただ高橋信次がはいってしゃべったら、多少品がないとか、早口でしゃべるんでテープを起こしにくいだとか、あるいは発声法が悪いんで劇団なんとかから、クレームがつくとか、そういうことがあるかもしれません。 そういうマナーといいますかね、外にあらわれたやりかたで文句をつけられることあるかもしれませんけれども、中味においてはね、あなた、あの世に還って悟った高橋信次がしゃべっておるんですから、中味については文句はつけさせないのです。 まあこの世ではね、私もいくつかまちがいを犯しました。いくつかというにはちょっと多かったかもしれない。 もうちょっと、多いかもしれませんけれどもね。幾十か、もうちょっとかもわかんないけどねえ。 そういうのがあるけれども、あの世に還った以上はね、言いちがいはいまでもあるけれども、そういうのを除けばね、原則そんなまちがいはないのです。そしてあの世で私が悟った以上にはこの世の人間は悟れんのです。 したがって、この世の人間は心静かにね、謙虚に私のことばに耳を傾ける義務があるんですね。義務がある。 9.歴史的な瞬間に生きていることを喜びなさい ですから、まあいろんなことを言っていますけれどもね。みなさんね、いま、日本に生きておるということをね、感謝しなければいけませんよ。こういう歴史的な瞬間というのは、もう二度と経験ができませんよ。めったにないですよ。 そんなあなたね、千両役者がどんどん、どんどん出てきておるのです。目の前で同時代で、あなたがた、気がついているか、気がついていないかしらんけれどもね。 新聞の広告が出たってボケッと読んどるかわかんないけれども、そういう千両役者がいま、いっぱい出ておるのです。順番に。 東の横綱が出て、西の横綱が出て、やっとるんですから。それに気がつかにゃあいかん。 そしてそういう時代に生きておるということは、これは喜ばにゃあいかんですよ。そういう機会というのはないんですよ、あなた。みんなね、めったにないんですよ。 マホメット教だってまあいまは大きくなったけれどもね。いま、マホメット教に帰依しようとする人は、そりゃあおらんでしょうけれど、じゃあ、でもいま、マホメットが生きておったら、そりゃあその顔ぐらい見てみたい、と思う人はいっぱいいると思うんですよ。 日本人だってそうでしょう。ただマホメットが死んでも、千何百年たったら、だれもマホメット教には興味がないと。ただ現代にマホメットが生きておったら、そりゃあ見たいでしょう。それはあるね。 あるいは現代、天照大神が出ておったら、そりゃあ、お顔のひとつも見てみたい。絵のひとつも描いてみたい。写真の一枚も撮ってみたい。まあそういう気持ちもあるでしょう。 10.女性の救世主はいないが、高級霊は現代にも出ている まあ私の娘に高橋佳子というのがおるんですけれどもね。私、亡きあと十年以上にわたって、GLAの法灯を長い間守ってくれました。 お父さんが七年あまりしかやらなかったのに、娘が十年以上、やってくれましたね。そして青春時代をほとんど、それに投入してくれました。 まあずいぶんご苦労だったし、まあかわいそうだなあ、と私はね、思うたびに涙がでてくるんだけれどもね。長いこと十年以上やってくれました。 だけど彼女もね、先般の本ではミカエルじゃないっていうことを言ったけれどもね、でもいえばね、現代でいえば、ひじょうに女性としては霊格の高いかたなのです。 みなさんね、華麗なる誤解があるから、私ははっきりしとくけれども、女性のね、如来というのはいないのです。女性の救世主というのはおらんのです。だから、それを誤解しちゃあいけないのです。女性の如来はいないのです、原則ね。 ただ女神の世界というのがあって、女神の世界のなかでね、偉いかたっていうのは、まあ如来界と同じような格を与えられておるのですね。神格というのがあるのです。そういう霊格とまた別の神格というのがあるんですね。 だから天照大神様は、菩薩かっていえば、そんなことないのです。やはり神格があってね、それは如来と同じだけの神格があるのです。ただいわゆる如来界とはちがうところにいるんですね。そういうところがあるわけです。 そして天照大神様と同じぐらいの神格というか、霊格を持った女性というのが数名おるのですね。だから如来と比肩される女性というのが数名いるのです。 これがたとえば、西洋で言えばね、フランスの危機のときの有名なジャンヌ・ダルクという女性いたね。こういう人なんかも霊格的には、天照大神様みたいな、そんな位の霊格なんですね。 また私の娘の高橋佳子というのも、霊格的には高いのです。だからこのクラスの霊格を持っとるんですね。 手前味噌(てまえみそ)で、申しわけないけれどもね。我田引水で、娘の自慢ばかりして申しわけないけれども、だいたい同じぐらいの霊格を持っておる人なんです。ですから女性としてはひじょうに、高い霊格を持っているんです。 だから私が亡くなる前に私が霊道現象をやったときに、彼女にミカエルがはいりました。ミカエルは如来界のかたです。八次元のね。 ですから通常の女性にはミカエルははいらんのです。ですからミカエルがはいったということは、ミカエルを入れるだけのようするに霊格があるっていうことなんですね。 まあそういう例ってあります。 ですから女性の救世主ということはありませんけれども、現代では、そういうふうに、霊格の高い女性も出ておるということですね。まあ、これを知ってほしいのですね、みなさん。 11.人類の夜明けを信じなさい まあ、そういうふうにいまの時代、日本でみなさん、のほほんと生きておると思うけれども、けっこうすごい人がいっぱい出ておるのですよ。 だから、この間にね、なにも学ばないということは損ですよ。 生きているときに、会えるっていうのはね、めったにないからです。死んであの世に行ったら会えないのですよ。この世でしか会えないのです。 だから、この三次元はそこに意味があるのです。あの世で会えない人と会えるのですから。この三次元というのはね、みなさん、じゅうぶんフルに活用してやらなければいかん。 まあ、そういうことで人類の夜明けが、いま、来ておるということを私は語ってきたんです。 みなさん、この夜明けを信じてください。かならず太陽は昇っていきます。赤々と昇っていきます。それはまらがいないことです。
https://w.atwiki.jp/antihappyscience/pages/65.html
GLA教団から幸福の科学に相次いだ苦情(1988年春頃より) 関谷晧元著「虚業教団」より、関谷氏の回顧 1988年の春、はじめてGLAから正式な抗議文が送られてきた。内容は、『繰り返しニセ信次先生の本を出されては困るから止めてはしい』というものだった。それを読んだ私たちは、『なにがニセ信次だ!』『信次先生の霊が語っておられるのだぞ』と大いに憤慨した。 しかし、GLAが抗議するのもあたりまえだろう。(中略)宗教学者の島田裕巳の調べによれば、その霊言集は16冊になり、大川に降りた回数も70回になるという。この数は、はかの霊とくらべて群を抜いて多い。〈幸福の科学〉を特徴づける最も重要な高級霊なのである。GLAとしては、当然心中おだやかではない。亡くなった自分たちの教祖、神とも崇める教団創設者が、こともあろうに何の関係もない他教団に出現し、生前には聞いたこともないような話をしだしたのだから。 その後もGLAからは何度も抗議文が送られてきた。内容証明も二度ほど来ている。しかし、このときの大川はフライデー事件のときと違い悠然としていた。『放っておけ。返答する義務はないのだから』と取り合おうとしなかった。GLAの幹部がついに中原の自宅まで訪ねてきた。事務所ではなく、中原の自宅へ行ったのはどういうわけだろう。大川の『高橋信次』は、元GLA信者である中原の影響によるものと見なしたからなのか。とすれば、彼らは私たちが当時見落としていたものを、敏感に察知していたことになる。この訪問は、たまたま中原が留守だったために空振りに終わった。しかし、その報せがもたらされると、〈幸福の科学〉本部にはたちまち緊張が走った。ついに衝突の時がきたか!と、誰もが顔を強張らせた。 結局、何らかのかたちでGLAと接触しなければなるまいという結論に達した。『谷口雅春霊言集』もあるから、同じトラブルが生長の家とも起こる可能性があった。日蓮を祖とする日蓮宗、創価学会、空海の真言宗、親鸞の浄土真宗……可能性は至るところにあった。 高橋守の証言(江川紹子構成「私は大川隆法に裏切られた 『幸福の科学』元幹部が告発」 『週刊文春』1991年10月3日号掲載) 高橋信次先生といえば、こんなことがありました。GLAから、大川さんに会いたいという申し入れがあったんです。最終的には内容証明がきましたから、これを役員会で検討した。 私は「会ったらいいじゃないですか。そうすれば、大川先生の霊言の正しさが証明されるし、高橋先生の霊とお話しできれば、お弟子さんたちも納得する」と申し上げたんですが、結局彼は逃げたんですね。とうとう会いませんでした。 名前 コメント このページを編集
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/309.html
目次 1.人類は死滅するか 2.ノストラダムスの予言は当たるか 3.核戦争を考える 4.正義と正法 5.日本の繁栄 6.超人類の出現 (1988年6月18日の霊示) 1.人類は死滅するか 高橋信次です。みなさんこんにちは。久しぶりですね。前回収録してからもう九日たっちゃいました。 何でこんなに間があいたのかというと、〇〇先生が夏バテなんですね。〇〇〇〇先生夏バテで、なかなかやってくれないんです。なんで夏バテかと言うと、まあ講演会ね、「ユートピアの原理」なんていう講演会を大阪でやっちゃって、元気いっぱいやったものでくたびれて、その後はなんだか知らないけれども、日本神道系の、何ですかねえ「運命の開拓セミナー」なんかを六月に入ってやりまして、私たちは日本神道なんかもういいと思うんですが、そんなセミナー三時間もやったもんで、くたびれちゃって夏休みでね。私は九日も待たされました。 本来私の大予言は、今年の五月中に収録が終わる予定だったんですね。だから最初から私の予言が外(はず)れているんです。予言がもう早くも一か月ズレました。みなさん、こういうふうに予言というのは非常に当たりにくいものなんです。 それは、地上に生きている人間が、私たち高級霊が思う通り働かないということが原因なんです。こういうふうに働けと言うのだけど働かない。それが非常に悔しいのだけども、私たちが言うように働けばそうなるのだけども、やらないんです。それほど地上の人間というのは、性格がまあザッとしているんです。ザッとしている。神の心を心として生きていれば、ちゃんと予言は成就するんですが、神の心を心として生きないために、成就しないんですね。まあそういうことがあります。 さて、そうした怠け者の夏休み人類をどうやって成敗(せいばい)するか、あっ失礼しました、救うか、これが私のこれからの仕事になるわけです。 そこで本書はね、『高橋信次の大予言』と銘打ちましたので、多少予言のことも言っておかないと羊頭狗肉(ようとうくにく)って言うか、「千円損したあ」と言われると困るんで、予言の話をしたいと思います。ただ予言の話はしたいけれども、あんまりくわしい年号とかを予言してもらうと、高橋信次の予言はたぶん外れるんじゃないか、外れると後のちの信用にさしつかえるのじゃないか、そういうふうな声も一部から聞こえるんですね。したがって、こまかい具体的な予言はやめてくれ、大まかに、多少ズレてもわかんないような予言だけやってくれ。こういうリクエストが一部からあるものですから、やむなく、そうした線で話をしていきたいと思います。 なんせ〇〇先生が、夏バテでまいってますから、私の言葉に力がなくてもみなさん勘弁(かんべん)してくださいね。そういう時期もありますから。先が長いですからね。五十集、百集ねらっている人としては、時どき気を抜きながらやらないといけないですね。本書は特に第1章で力を入れ過ぎたため、あと竜頭蛇尾(りゅうとうだび)の傾向が出てますので、第6章だけは締めたいと思っているのですが、5章は気楽に読んでいただきたい。こういうふうに私は思うんです。 ―前置きがたいへん長くなりました。人類は死滅するか、こういう一節のテーマを取り上げたわけなんですが、ま、死滅するかって言うと、そらまあ、寿命が来たらそれぞれ死んでいくわね。そういう意味では死滅するのですが、死滅はしても、あと子孫が出来る場合は死滅とは言わないね。だから、その辺の違いはあるわけです。人類は死滅するかって言うのは、いかにも人の気を引くような標題ではあるわけですが、要するに何が言いたいかと言うと、天変地異があるかどうかですね。そういうことでしょう。 みなさんも怖いのが大好きだからね。怖い事件が起きるのが好きなんです。だからこれなんかも『高橋信次の大予言』改め『高橋信次の恐怖の大予言』にすると、ものすごく売れると思うのですが、いかんせん私は平和を愛する神様なので、あまり恐怖のことは言いたくない。 ただね、十九世紀の末でも世紀末ということで、世紀末思想がいっぱいあったようだけれども、二十世紀も末になって、やっぱり世紀末思想がずいぶん出てきたね。特にノストラダムスちゃんというのが非常に頑張ったために、人々には恐怖心があるし、また核戦争の脅威等々ありますね。これらについても話をしておきましょう。 まあ結論から言やあねえ、人類は死滅はしない。なぜしないか。するなら私が霊示集出す意味がない。出しても読者がいなくなる。読者がいないと、あと困りますね。そういうことですから、あの世の読者だけになるんなら、あの世で話をすればいいんであって、この世で霊示集を私が出しているということは、私の読者が連綿と続いていくであろう、ま、そういうことを予想しているわけですね。死滅するなら出す必要はないわけです。死滅するなら救世運動ということも必要ない。 だから、非常にテクニック的な発想かも知れないけれども、先のことがわかる霊たちが予言書を出したり、霊言を出していること自体、人類が死滅しないというそうぃう証明になっている。死滅するなら、そんなの出すのは馬鹿馬鹿しいですね。出版社が燃えちゃうし、あなた、印刷屋は機械が潰(つぶ)れるしね。読者がみんな墓場に入ってしまうんなら、予言書は必要ありませんね。そういうことですから、あくまでも存続することを前提にやっている。ま、こういうふうに思っていただいて結構かと思います。 そこで存続はするけど、じゃあ、だいぶ致命的なそういうことが起きるのかどうか。こういうことですね。土屋書店さんから出した『内村鑑三霊示集』ですか、そういうのを読むと、なんかエホバの手が激しく大地を打つであろう、そしてなんか南極の氷が流れ出したり、北極にイルカが泳いだりするのかどうか知らないけども、熱帯と寒帯が入れ替わったり、大地が割れたり、噴火したり、そういった激しいことがあり、その原因はエホバが大地を打つからだということになっとる。 最近一説では、エホバが高橋信次ではないかという説が有力説として唱えられている。すると、高橋信次が天変地異を起こすんではないか。人類を殺すつもりなんじゃないか。まあ、こういう発想が、一部にあると思うんですね。また、一部の醒(さ)めた人から見れば。「そんな力があるわけねえじゃねえか。」と、「そんな力があるんなら、ウルセイ弟子たちをはっきりもう死滅させているはずだけど、全然元気でやっとるんだからそんなはずはねえだろう。」と、こういうふうに言う人もいるとは思いますね。 さてどうか。まあ、私は無実だと自分は信じてます。おそらくは私ではなくて、地球意識という十次元意識がボリボリとおなかのあたりをかいたら、天変地異が起きるんであろう。そういうふうに考えています。 ただ、人類にそういうダメージが起きるかどうかだけれども、今のところね、八割ぐらいの確率で、かなりのことが起きるのではないかと言われています。想像されています。これについて、くわしく話をしていきたい。こういうふうに思います。 2.ノストラダムスの予言は当たるか これまた大変な題をつけてみました。ノストラダムスの予言が当たらないとまた困りますし、当たっても困るし、いろいろなのですが、私のちょっと前に『ノストラダムスの新予言』というのが出たんですね。その後で、『高橋信次の大予言』というのが出るんです。 さあ、これで内容をどうするかね。ノストラダムスと一緒にするか。まったく逆のことを言ってみるか。ノストラダムスの予言は当たらないと言ってみるか。まあ、後から言った方がもちろん勝ちですけどね。先に言ったら後のことは修正できませんから、後から言った方がもちろん有利なんですね。 まあ、当たるか当たらないかですが、うーん、五分五分だったら当たらないうちに入ると思うのですが、まあそうだね、五分五分よりはもちろん当たるとは思うんですがね。その程度じゃないかと思うんです。特にノストラダムスのは、何て言いますかね、激しいからね。人口が三分の一になるとかいう、結構激しいことを言うから、それだけをまあ、そのまま信じられないんだけれどもね。あるいは核戦争などね、これは次の節かな、そこで話をしますが、まあ、ノストラダムスの予言が当たるかどうかですが、それはね、おそらく『高橋信次の霊示集』の売り上げと関係するんじゃないかと思ってるんです。 すなわち、私のこの霊示集がものすごく爆発的に売れて日本国中に広がり、あるいは世界中に翻訳されて広がるような段階になると、ノストラダムスの予言は多分当たらないと私は思うのです。 ところが私の予言書が、あるいは私の霊示集がだいたい二万部止まりで終わりのようなことがあるならば、おそらくノストラダムスの予言は当たる。そして、全人類は非常に厳しいお仕置きを受けるであろう。まあ、こういうふうに思うんです。パシパシッとね、お仕置きを多分受けるだろう。こういうふうに私は感じます。 なぜか、なぜそうなるかというと、結局、こういうことなんです。みなさんは、いろんな本を読んでいるから過去の人類の歴史、そういうものも勉強が済んでいると思いますが、天変地異が起きて文明が滅びたりする時には、いつも一定の条件があるんですね。 その一定の条件とは何かっていうと、末法の時代になって正法がものすごく弾圧されたり、圧迫されたりして、唯物思想が非常に広がっていること。そして光の天使たちが迫害されたり、処刑されたり、そういう時代だね、魔が非常に跳梁(ちょうりょう)しているような時代。こうした時代に天変地異が起きているっていうのは、これはもう過去の歴史を見たらその通りなんですね。アトランティスが滅びた原因も、ムーが滅びた原因も結局は一緒ですね。そこに住んでいる人たちの想念が、非常に曇りました。 そして、想念が曇るとどうなるかっていうと、人間の想念というのは、非常に強いひとつの力を持っており、それがやっぱりさまざまなものに影響を与えていくんです。 たとえば地上、日本でもいいけれども、一億人の人間が住んでいて、その人たちが唯物思想という、まあ、これは心の病気だね、そうした心の病気にとり憑(つ)かれて、あるいは信仰をしても間違った信仰ばっかり、現代流バール信仰ばっかりやっていて、そういう間違った想念を蒔(ま)き散らしていると、どうなるかっていうと、日本という国の上に想念の雲がかかってくるんですね。そういう人間の出している想念の雲がかかってくる。 こうなると、どうなるかっていうと、想念の曇りが結局、霊太陽の光を遮(さえぎ)るんです。そうするとどうなるかっていうと、影ができます。影ができるとどうなるかっていうと、いわゆる地獄の領域が増えてくるんです。地獄の領域が増えてくる。日本というところを中心に地獄の領域が増えてきて、実在界、あの世の世界でも要するに地獄の領域が増えてくるんです。 そしてますます光が射さなくなって、地獄霊たちの跳梁(ちょうりょう)が激しくなる。そして地獄霊たちがいっぱい増えてくると、それが地上に出てきて、地上の人間に次つぎに取り憑いちゃう。まあ、ソンビの世界ですね。ゾンビの世界みたいに取り憑(つ)いちゃって、いろいろ入って飛んだり跳ねだりする。暴れるね。宗教を説いてる人なんかに入っちゃう。あるいは正法の団体のなかにも入り込んで、弟子たちをおかしくして狂わしたりする。こんなことをし始めます。 こういうふうにして、段々乱れていく。こうなってくるとどうなるかというと、地球意識という霊意識から見ると、日本の上にかさぶたっていうかね、そういうものができたのと一緒で、かゆくてかゆくてしょうがないんです。 今六月ですから、水虫、たむしの季節ですが、かゆくてしょうがありません。ボリボリボリボリかいちゃいます。かいちゃうとどうなるかっていうと、フケとかがやっぱり取れますね。あるいはかさぶたっていうのかね、あれもポロッと取れますね。そういうふうになります。そういうふうに、地球意識がガリガリッとやると陸地が沈んじゃうと、まあ、こういうことが起きるわけなんですね。 したがって、そうしないためにはどうするかっていうと、いんきんたむしをつくらないことが大事です。いんきんたむしをつくらないためには、そういうばい菌を繁殖させないことが大事です。ばい菌を繁殖させないためにはどうしたらいいかというと、常に清潔にしておくこと。風通しをよくしておくこと。夏は短パンをはいて、アロハを着ていること。そして涼しいところにいることですね。扇風機もないようなところで汗流していたら、いんきんたむしになってきます。そういうことです。だからそういうふうに、清潔にして涼しくしておくことが大事です。 これを心の世界というか、人間の世界に当てはめると、一体どうなるかっていうと、結局そこで生きている人たちの大部分の意識を、浄化するっていうことが大事です。浄化するっていうのは、どういうことかっていうと、まあ、神様の心に近い生き方をするっていうことですね。それが大事。そうすると、いんきんたむしにならないのですね。風通しがよくなって、清潔になって、そのようにはならないわけです。 ところが金がないからと言って、三日に一回しか風呂に入らないとね、「銭湯(せんとう)高くなったあ。最近二百七十円だあ。」なんて言って、三日に一回しか入らないと病気になるわけです。皮膚病になったりします。そういうことがあるわけです。 やっぱりお金ができたらね、ちゃんとお風呂に入ったり、温泉入ったりしなきゃだめです。薬湯とかいろいろあるんです。温泉にもいろいろありますね。なんかブクブク泡が出る泡沫(ほうまつ)湯とかねえ、あなた、寝たまま入る寝湯とかねえ、打たせ湯とか、かぶり湯、ねえ、薬湯から始まって、ラジウム温泉ね、いろいろあるんですよ。そういうふうに温泉もいろいろあって、体によく効くんですね。そういうとこでよくつかるといいんです。 だから、結局、ノストラダムスの予言が当たるかどうかは、高橋信次の霊言が広がるかどうかだよ。ま、これはひとつの極論でありますが、意味としては一緒ですね。すなわち、今一丸八八年ですが、これから世紀末までの間にどれほどその救世運動というかね、まあ、救世運動というような言葉は大きいかも知れないけれども、本当の教えが広まるか、あるいは人類の心を浄化するということができるかによって、予言が当たらない可能性が非常に強くなるっていうことです。これは、風通しをよくし、清潔にしたからね。。クレゾールで洗ったからきれいになるっていうことです。 だからまあ、私は言っときます。日本がノストラダムスの恐怖の予言の対象外になるためには、高橋信次のこの霊示集一冊が少なくとも百万部以上売れないと絶対無理です。そうしない限りは、どこが沈没するか知りませんよ。売れ行きの悪い都市は、だいたい陥没するでしょう。そこの書店は全焼するでしょう。まあ、そういうふうになるかもしれません。 だからね、まあ、これは半分冗談で言ってるけども、大事なことです。本当の意味でこの神理が広がるか広がらんか、これにかかっています。みなさんね、かかっていますよ。これを言っときましょう。 3.核戦争を考える いよいよ核戦争に入ってきたわけです。『ノストラダムスの新予言』だと、核戦争が相当起きて「ジュネーブが打たれる」だとか、「西側がやられる」とか、「ソ連にも核ミサイルの雨が降る」だとか、いろんなことを言ってるようですね。まあ、言うのは勝手ですよね。あと責任とれないでしょうが、言うのは勝手でしょう。 ただ世界の雰囲気、今はちょっとデタントだとか、いろいろ軍縮やってますが、軍縮なんかやり始めるとかえって危いんだよね。揺り返しがまた来ることは事実ですね。 それと、注目すべきは今ソヴィエト連邦というところで、ペレストロイカっていう改革やってますね。これの行方(ゆくえ)がやっぱりひとつの鍵になるんですよ。みなさんね、今ゴルバチョフさんという新しい指導者、若い指導者が出て、ソ連の自由化やってますね。民主化やってる。これが成功するかしないか、これは大きいですよ。これで結果がかなりズレるんです。ゴルバチョフさんが、もしソ連の民主的改革に成功すれば、かなり今とは局面が変わります。今、彼を指導している霊たちもいます。何とかしてソ連をもうちょっと陰湿じゃなくて、何というかね、解放された民主主義的な国にしようという運動がある。 これが失敗した場合には、一転します。反権力、反革命運動が起きてきますから、この逆の揺り返しが来ます。もしゴルバチョフ勢力なんかが粛清されたり、あるいは除かれるようなことがあったら、これは核戦争が近いと思って間違いないと思います。だからその意味では、現在進行形であるけども、彼のペレストロイカ、ソ連の改革が成功することを、みんな祈った方がいいですよ。私も祈ります。 ただ、危険な面も相当あるということです。やはり人間には保守性があって、そうそう簡単に体制は変えられないんです。だから、ソ連の国の教祖様は結局マルクス、レーニンですから、マルクス、レーニンという御本尊様の意向に背いた場合に、さあどうなるかということがあるわけです。 どこかの宗教団体でも、初代と違うことを二代目が言い始めて混乱したようなところがありますが、そういうふうに、御本尊、御数組様と違ったことを言い出した場合、成功する可能性は少ないことが多いです。それを納得させるだけの力がなければ、成功しないことがある。 そして、この改革が成功せずに、揺り返しが起きた時には、人類は大変な危機を迎えると思っていいです。その意味で、彼が成功することを私は祈っています。 ただ最近、なにかブーニンっていう音楽家が亡命したんだそうですね。なにかソ違に出た光の天使、音楽の天才が逃げちゃって、もう駄目ですね。彼は、ショパンが指導してるんだけど、入って弾(ひ)いたりしてるんだけれど、逃げちゃったね。アメリカに行きたいとか、日本に行きたいとかいろいろ言っているけれども、駄目ですね。日本に来て、演奏でもしてくれるかもしれませんが、まあ、逃げちゃいましたね。残念だね。ソ連のひとつの新しい雰囲気っていうか、新時代をつくるための役割を果たしてほしかったなあと思うんだけれど、なかなかペレストロイカでも満足できなかったということだろうね。 で、ブーニンらがいられるような社会にしようとして、ペレストロイカをものすごく前進させると、今度は反動勢力がすごくなるんだよね。そして中途半端にすると、逆に今度はそういう自由を求める人たちがいられない。こういうことがあるから、結構あれも苦しいだろうね。苦しい闘いだろうと思います。 だから、核戦争の有無はソ連にかかっていると考えていいです。あの改革が失敗したら戦争になると思っていいです。間違いありません。指導者が替わった時には危ないですね。だから、何とか成功するようにさせてやりたいなと思っております。 それともうひとつは、先ほど言った救世運動の広がりですね。これがどこまで行くか。これによって救えると思う。すなわちその民族、国の上空にあるその想念ですね、想念の雲を晴らすことが大事なんですね。雲を晴らしてしまえば、太陽の光が燦々(さんさん)と注ぎます。そういうふうなものなんです。そうすると、天変地異が起きにくくなってくるんです。 ソ連という国も、相当上空を想念の曇りが覆っているんですね。この唯物思想、あるいは神を冒涜(ぼうとく)する一部の思想、あるいは民衆を弾圧し亡命が相次ぐ、あるいは革命などと言っても粛清ばっかりやってきた革命、こうしたことによって、相当国全体が暗い想念に包まれています。まあ、こうしたことがありますし、あと東欧、東ヨーロッパとの兼ね合いですね。この辺も非常に暗いけれども、どうなるのかということですね。 あともうひとつは寂(さび)しい予言として、アメリカの、何て言いますかね、没落ということがいろいろ予言書のなかで出てきているようです。あれだけ世界の警察犬で頑張っているアメリカですね。あっち行って吠え、こっち行って吠え、第七艦隊派遣して吠えまくっているアメリカが、没落するという可哀相な話をしています。わずか数百年、二、三百年の歴史しかないあの現代のローマですね、ローマ帝国が、あっという間に消えていくというようなことが予言されている。 なぜそれほど停滞せねばいかんのか。没落しなければいかんのか。あれだけ光の天使が数多く出た国が、どうしてそうならなければいかんのか。そうした考え方が、ひとつにはあると思います。 ただこれもね、ひとつの計画があるという話を知ったでしょう。大西洋にひとつの大陸が浮かび上がってきて、新大陸ができてくるという、これはある意味では新しい福音だよね。単に没落する、あるいは沈没するだけならさみしいけど、新しい大陸が浮上して住みかが増えるっていうんだから、それはそれなりにいいよね。まあ、そういうこともあると考えてください。 そういうことでね、とりあえず今のところの予定としては、あの米ソの勢力がかなり後退していくということです。今世紀末を境にして、何らかの形で後退していくでしょう。だからソ連は革命の行方(ゆくえ)、改革の行方が問題です。アメリカは経済的な衰退、これが問題です。今もかなり弱ってきています。円高、ドル安とか、いろいろ言ってますが、アメリカ経済は非常な国家的赤字をかかえ込んで、頓死の状態に近いです。だけども威信をかけてやっているもんだから、ますます苦しくなってきてますね。赤字国家です。もう世界の債務国になっちゃってます。転落しています。 さあ、これからこの改革がどうなるか。レーガンさんについての評価はいろいろあると思いますが、彼は強いアメリカを演出するためのレーガン政策をやってきたわけだけど、結果的に見ると、アメリカ没落への伏線となったんだ、彼はね。これがわからないだろうか。みんなまだわからないかもしれないね。アメリカンドリームを背負ってね、俳優、ハリウッドの二流役者が大統領になっちゃって、そして強いアメリカを演出しようとして、ガンガンガンガン軍事費を増やして、減税やったんですね。 あなたわかりますか。個人の経済で考えたらいいよ。家に自動車いっぱい買って、そしてあの減税ってことは収入が減るんでしょう。たとえば商売していて、商売で安売りして、利益減らして、そして家に自動車いっぱい買ったらどうなるかっていうと、赤字になるんですね。そういうことをやったんです、彼はね。軍事費はどんどん増やして、そして赤字借金になっちゃったんです。減税もしたしね。そういうことをして赤字財政つくっちゃったんですね。マネタリズムかなんか知りませんが、その通貨供給学派かなんかね、そういうの聞いてやったら失敗しちゃったんです。あれは失敗なんですね。 だからハリウッドの夢はいいけど、おそらく二千年以降の人びとから歴史的に見れば、実はアメリカが没落したひとつの曲がり角は、レーガン政権であったということが明らかになると思います。彼の経済政策が間違っていたのですね。これがひとつアメリカ停滞のきっかけになりました。 それ故(ゆえ)に、おそらくアメリカの一九九〇年代の没落は、経済的没落から始まっていきます。おそらくそうなるでしょう。経済的に力が非常に低下してきます。西側のリーダーから、ひとつの有力国に落ちていくと思います。ソ連の場合は内乱、革命、こうした問題である程度弱っていくでしょう。 そして、やっぱり強くなっていくのはおそらく中国ですね。中国が結構強くなっていきます。中国、韓国、日本、この辺が強くなってくる。まあ、中国も革命が予言されていますが、力としては強国にまたのし上がっていきます。こういうことが言えますね。中国、韓国、日本、このあたりが強国になっていきます。したがって、光は東方よりじゃないけれども、アジアに強国が出てくるっていうことです。続々とね。アジアの強国が出てくるということが言えると思います。 まあ、そういうことで核戦争などは、ソヴィエトのペレストロイカの行方(ゆくえ)とアメリカの経済的な問題との兼ね合いで、やっぱりいろいろ事情が変わってくることがあります。核戦争を回避する前提として、やっぱり世界の浄化が第一である。こういうことを言っておきましょう。 4.正義と正法 さて、私は、正法を説いているということになっているわけだけれども、「正義と正法」という話もしておきたいと思うんです。 たとえば、正法でいうと、モーゼの律法もそうだけども、「汝、殺すなかれ」「汝、奪うなかれ」「汝、隣人の妻を貪(むさぼ)るなかれ」、あるいは「羊を取るなかれ」「偽りの証(あかし)を立てるなかれ」と、まあ結構ありますね。こうした法律の根源としての正法というものもあるんですが、これから社会を改革していくために、ひとつはやっぱり今の法制度ですね、これがどうも神の法、神法と少しズレてきている面があると思うのです。 したがって法制度の改革ですね、これをもう一度やらねばいかんと思います。社会を規律する法、あるいは裁判制度、いろいろありますが、こうした正義とは何かという部分に、もう一度正法の裏打ちが要るようになってきたなと思っています。法律(LAW)っていうのは、ある程度正義の実現のためにできていると思いますし、市民社会を悪から守るためにあると思うんですね。ただそれらが残念なことに、学問的な部分、人間の知と意で多少曲げられた部分が多いと思うので、やはり正義と正法の考え方をもう少し入れていく必要があると思います。これをしないと、本当の意味で人類の浄化ができないと思いますね。 それは単に、日本という国の国内法だけをとり出して言っているのではないのです。やっぱり国際法って言いますか、国際的なルールのなかでの正法に裏打ちされた正義の確立が大事だと思う。まあ、国運だなんだって言っていろいろやってますね。国際紛争解決だとかいろいろやってますが、ああしたところにやはり何て言うかね、私たちが今目指している正法神理、これの国際的な正法神理を確立して、それを導入していくということが大事であろうと思います。 結局ね、政治紛争の根源にあるのは宗教です。どこもかしこも宗教がやはり根源にあるように思います。米ソの対立も結局、キリスト救国と唯物主義国との戦いでしょう。イラン・イラク戦争だって宗教でしょう。まあ、そういうふうに、結局政治紛争の裏には宗教がある。したがって政治問題を考える時は、宗教という問題を抜きにしてやれないんですね。これを抜きにしては考えられません。 だから、政治と宗教は非常に似たところがあります。それは、現象としても似たようなところがあります。宗教も、何が正しいのか、何が間違っているのかわからなくて数で勝負している、勢力で勝負しているようなところがあるわけだけれども、政治もそうだね。自民党と、社会党と、共産党と、公明党で一体どれが正しいかって言ったら、それはわからんね。よくわかんないでしょうみなさん。それぞれ支持者がいるっていうことは、どれもやっぱりある程度の正義を体現してるんでしょう。で、わからなくて多数決でやってるんでしょう。自民党でも派閥争いしているね。結局、多数決であれもやってるんでしょう。 こういうふうに、宗教の世界と政治の世界だけは、結論がなかなか見えないところがあるんですね。何がいいのか、わからないところがある。 それはなぜかっていうと結局ね、私はこれを今明らかにしておきたいと思うんだけれども、ま、多様な価値観とも関係があるのだけれども、利益の比較考量(ひかくこうりょう)という問題があるんだね。Aという考え方とBという考え方、それぞれに利益は生むことがあるんだね。利益は生むことがあるけれども、どっちがより利益を生むかというところで考え方が分かれるんだね。 たとえば科学法則なんかは、法則が合っているか合っていないか、これにかかっているよね。たとえばニュートンの古典力学の世界では、時間と空間というのがある程度、確立しているという前提のもとで説明が進んでたね。ところがアインシュタインが出てから、時間と空間が相対世界の中に置かれたわけだね。で、光の速度こそが一定で、絶対だけれど、時間と空間は歪むということになっちゃったわけだね。宇宙に流れている時間あるいは空間は、これは一定ではない。コンニャクみたいな世界になっちゃったんだね。 で、住んでいる人は非常に不安になってきました。自分たちはちゃんとしたところに住んでいると思っていたのに、コンニャクみたいなところに本当は住んでいるらしい。伸びたり縮んだりするらしい。これは大変なことだ。コンニャクを貫く、何て言いますかね、貫くものですか、針でも、はしでもいいや、おはし、おはしがコンニャクをブスッと貫く。あるいは豆腐でもいいや、豆腐を割ばしでプシューッと突き刺すと、その割ばしが突き刺す速さだけが絶対的神理、正しく一定してて、豆腐そのものはグニャグニャである。コンニャクそのものはグニャグニャである。こういう世界観をアインシュタインは出しましたね。 まあ、これにしても現実はどうあれ、物理的理論というのはイエス・オア・ノーになるわけです。イエスかノーかですね。こういうふうになります。だから結論はひとつしかないんですね。 ところがこの宗教と政治の世界は、結論がひとつでないところが問題なんだね。Aという利益、Bという利益、Cという利益がそれぞれ出てくるのですね。利益ということがわからなければ良さと言ってもいい。それが出ることがある。これで比較考量って言いまして、左右比べてどっちがいいか、ABCでどれがいいかの判定があるけど、これが難しいんだよね。難しい。 それも計る時に一定の規準だけなら簡単なんだよ。人間で喜ぶ人の数が多い方だけやっとればいいなら、そりゃたとえば新幹線なんかつくる時ね、喜ぶ人の数の方が多ければいいのなら、それはまあ問題はないね。どこを通したっていいことになる。それを利用する人の方が多いからね。圧倒的に土地所有者より利用する人の方が多いから、そりゃあ国民投票すれば、それは賛成するに決まってる。たいていの場合ね。それを利用する人がいる。 だけど現場に住んでる人から言えば、自分が長年老舗(しにせ)やってるところを新幹線通されちゃったら大変なことになるよね。もっと広いところあっちにあるならあっちに通しゃいいじゃないかと、こうなるね。この辺の判定、政治の問題だけど難しい。多数決だけでいいなら国民全部にやらしたら賛成が多いけど、住民だけを選んで多数決やったら、これは反対が多くなるよ、きっとね。そこの町だけでやったら反対が多くなる。日本国中でやったら賛成が多くなる。これをどう解決つけるのか。これは政治の問題だよね。 これは単に数だけじゃないだろう。やはり質の問題があるね。その住民が負担しなければいけないその負担感というのが、どれほど大きいかだな。他の人の満足感と比べてどれほど負担感が大きいか。この辺の探究が始まるんだね。 宗教だって一緒だ。それぞれやっぱりいいとこはみんな持ってるんだな。いいとこ持ってるけど、悪いところもあるしね。あるいはAの宗教とBの宗教とどっちがいいか。天理教と金光教とどっちがいいかって言っても、難しいとこあるよね。まあ、いいところは両方あるだろう。だけど特色があって甲乙つけがたい。それぞれこっちがいいって言う人がいるんでね。言い難い。こういうふうな難しさがありますね。 ただ、私は思うのに、今後国際紛争の問題が相当出てくるが、その背景にはやっぱり宗教があるんで、この宗教関係の理念の統一、これをどうしてもやらねばいかん。世界的宗教が、今出現するべき時である。世界を救う宗教というのがどっかの温泉地帯にもありますが、そういう看板倒れになるんじゃなくてね、本当の意味での世界を教う宗教が私は大事だと思う。そのためには、世界の宗教の諸派をまとめるだけの理想なり、理論がなければいけない。世界の宗教をまとめる理論が必要です。そういう一段高い価値観と理念、理論によって、世界の宗教をまとめていく必要があります。 本当はこういう神からの分かれ方であったんだという、その系統樹をはっきり示して、それによって神様が今後新しい時代をどう思っておられるかはっきりさせる。その裏打ちをもって、国際社会の倫理基準を打ち出していく必要があるんです。宗教紛争に対する倫理基準を出していく必要がある。それによって初めて、それを基準に国際連合とかが動けるような、国際会議が動くようなそうしたものをつくる必要がある。 だから非常に大きな使命なのです。信徒の拡大だけじゃありません。そういう国際的なルールづくりのための宗教が必要です。宗教理念が必要です。それは単に信じる信じないという信仰の世界を抜けて、ひとつの理論として、あるいは理念として高められなければいけない。世界各国の人が受け入れられるような理念が必要です。そこまであなた方の使命があると思う。 そうした理念を形成するためには、やっぱり高橋信次の本が百巻以上出なければ無理です。その多様な価値観をまとめるために、それだけ出なければいけない。したがって、著者がいくら夏バテしようとも、読者がいくらかき餅ボリボリ食べながら読んで、もう飽きたなんて言おうとも、出版社がもういいだろうと言っても、新聞広告でいつも高橋信次が出てくるのでみんながいやがっても、それでもやはり私は出し続けねばならない。 なぜならば、中東で今戦争が多いですが、中東の宗教をつくった根源は私だからです。そのカルマの刈り取りを私がやらざるを得ないのです。そのためには、世界的に新しい教えを広める必要があるんです。そうしなければ、イラン・イラクの中東戦争もなくならないんです。根源の神様がやはり言う必要があるんですね。ま、そうした考えがあるということを、知っていただきたいと思います。 5.日本の繁栄 さて、話が非常に大きくなってきたところで、日本の繁栄ということを話しておきたいと思いますね。 日本が繁栄するということは、いろいろ予言されています。これは、間違いないことだと思うのですね。非常に巨大な力を持つと思います。だから、現代に生きているみなさんはものすごくラッキーです。そう思ってください。非常にラッキーな時代に生きていて、まあソクラテスのギリシャ、あるいは孔子様の中国、あるいは繁栄の時代のローマ、こうした時代に生きているのと一緒なんですね。そうした時代に生きているっていうことを、喜ばなければいけない。 そして、そうした時代環境の土地に生まれているということは、これは君たちがひとつの優秀な方、エリートである、選民であるということなんだな。で、私たちが霊言を送っていることも、君たちが昔の預言者たちの歴史を持つユダヤ人、彼らと同じであるということを今、意味しているんだよ。日本人に今生まれている人は、かつてのユダヤ、イスラエルの民族から相当出てきています。イスラエルで今宗教戦争やってるもんだから、みんなあそこに生まれるのはいやで日本に結構出てきてますね。 だから、ユダヤ人と日本人はよく似ているとか優秀だとか言うけど、両方に転生している魂は非常に多いです。日本に今出てきている魂の多くは、かつてユダヤの地でモーゼの教えを受けたり、いろんな預言者の教えを受けた方が相当出てます。そうした宗数的な魂が多いです。光の天使だけではありませんが、頭のはげている光の天使もいるでしょうが、光が出かかっている天使、天使候補生、あるいはそれを目指している人、その目指している人をさらに目指している人、いろいろいるのですけども、こうしたかつてそのユダヤの国で洗礼を受けたり、教えを受けた方が数多く出ています。そういうことが言えると思います。 だから今ね、新たな選民思想と言ったらおかしいかもしれないけども、選ばれたる民という気持を持つ必要があると思います。みなさんは、幾転生して今、選ばれたる地、約束の地に出てきているんです。こうした約束の地、救世の法が説かれる地に出てきている。このことを喜ばなければいけないよ。 高橋信次が日本に生まれてくることを予言した人がいるかって、そういう質問が出る場合もあるけども、私が日本の地に出るという予言はなかったんですね、結局私がなぜ出てきたかというと、まあこれは、はっきり言えばモーゼの代わりに出たんだよ。そう思っている人も多いだろう。 モーゼは三千二百年前に出て何しているのだ。今ね、天上界でゴロゴロしているのじゃないか。何しとるんだ、あいつはってね。本当だったらモーゼが日本に出なければいかん時期だったんですね。モーゼが日本に出て奇跡を起こし、改革を起こして、そのあと仏陀の意識が法を広める、法を構築するというのが、これがひとつの構想であったんだけども、「どけっ。」と言ってどけて出てきたのが私なんです、実はね。 だから予言されてないって言うけど、それは彼が出る予定だったのを私がどけたからだよ。私がどけて、それが計画されたのがだいたい今から百五十年ぐらい前ですけれどもね。百五十年ぐらい前になりましょうか、だいたい千八百年代後半ぐらいから始まったんです。その辺でもう出ることに決めたんです、自分でね。今まで出なかったのが、よしもう出ようと、俺が出なきゃどうなる、と。出てきたら意外に大したことなかったなんて言われてるんだけども、まあ大したことあるかないか、これから証明するつもりでいるけどね。モーゼの代わりに私が出たわけです。 そういう意味で、私が出るっていうことはあんまり予言されてなくって残念なんだけれども、誰か送り込んで予言させとけばよかったと思ったんだが、それはやむを得ないでしょう。 そういうふうに、日本というのは、非常に選ばれた民が住んでいるところです。現代の聖地であるという観点は絶対に忘れないでほしい。そういうふうに思いますね。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/263.html
目次 1.ポスト・ノストラダムスの時代と予言 2.イエスの誕生と十字架上の死の予言 3.イエスの血の汗の祈りに沈黙で答えた高級神霊たち 4.四十八歳でこの世を去ることを予言した高橋信次 5.三十三歳のイエスの死が招いた弟子たちの混乱 6.死の三日後、復活して成就したイエスの予言 7.高橋信次の死と五年後の奇跡の予言の成就 8.九次元大加来の死後あとを継げない弟子たち 9.五年後の復活の予言は成就した。かつての弟子たちよ一本化せよ 10.ノストラダムスの予言による人類危機の時代 11.しかし人類は死に絶えない 12.この霊言集こそ、未来の黄金時代のためのバイブル (1987年2月4日の霊示) 1.ポスト・ノストラダムスの時代と予言 いよいよきょうは、「ポスト・ノストラダムスの時代」というふうに名づけました。 ポストというのはみなさん郵便ポストじゃありませんよ。とくに主婦のかたはポストというと郵便ポストだと思ってね。あるいは「週刊ポスト」かしらなんてね、いろいろ思っているでしょう。 だけど、そのポストだけがポストじゃないんですよ。ポストっていうのはね、いちおう、英語なんです。英語で「つぎの」とかね「あとの」とかいう意味なんですね。 そうすると、ポスト・ノストラダムスというのは、ノストラダムスの予言ばかりじゃなくて、ノストラダムスのあとの時代とまあこういうことですね。 だから私も英語の勉強ぐらいしてたということを見せるために、ノストラダムスのあとの時代というんじゃなくてね、ポスト・ノストラダムスの時代とまあこうなったわけです。 それでね、きょうは主として予言が中心の話になるかと思います。 けれども、まああんまりきわどい予言をするとね、やっぱり全人類にたいしてひじょうに恐怖心を起こさすといけませんからね。 私は恐怖は大嫌いで、楽しいことが大好きですから、そういうことは言えませんけれどもね。まあ多少やわらげながらいろんなことを言っていこうかと思います。 2.イエスの誕生と十字架上の死の予言 予言といいますといろいろありますけれども、昔からイエス様の出現の予言ね、これは有名でしたねえ。旧約聖書の預言者たちはイエス様が出る千年前から、救世主が出るっていうことを予言していました。 でこれは有名な予言でしたね。かなり的確な予言で、その救世主が十字架にかかって死ぬところまで予言されていました。 だから予言があったから、彼があえて十字架にかかったのか。十字架にかかることになっておったから、予言ができたのか。ここがむずかしいところなのですね。 まあイエス様に言わしてみりゃあ、「あんなこと言われたもんだから予言が成就するためには、やっぱり十字架にかからざるをえん。」と。 そしたら「逃げることは逃げれたんだけど、まあいちおう予言がはずれると私が救世主でなくなるから、やむをえんから十字架にかからにゃしょうがない。」とあきらめたかね。まあこのへんはご本人の葛藤がありましたでしょう。 ゲッセマネの園で汗を流して、お祈りになったそうですから、葛藤されたでしょう。「神様どうかお答えください。私はいま、逃げようと思ったら逃げられます。追っ手が来ておるのはわかっています。いま、逃げたらたぶんまあ二、三か月は生きのびられるでしょう。そのときまた外のほうへ、方面へちょっと逃げればもうちょっと生きのびられるかもしれません。けどいまジィーッとここにいたら、とっつかまえられて、明日は十字架です。十字架が待ってます。どうしましょうか。」 ただ旧約聖書では救世主が出るときにそれが人の子の手にかかってあげられる、十字架にかかるということをね、予言されています。 またその死刑執行人たちがね、その者の着ておる衣ですね、「一枚でできた衣をくじびきを引いてわけて切り裂くであろう。」ということを旧約のなかで予言はされていますね。 そうすると、このままジィーッとしておったらね、イエス様の洗濯したての晒(さらし)ですね、晒を巻いているか、フンドシではなかっただろうと思うんでずが、まあ晒を兼ねたような一枚の衣をさらっと巻いとったんでしょう。 きっとこれはマグダラのマリアなんかが仕立てた服であったと思いますよ。これを、一枚衣をね、こういう服を着とったんです、イエス様はね。 たぶん明日までいるとこの一枚衣の服は切り裂かれて、くじびきでわけられるだろうと、死刑執行人たちに。そして私は罪人とともに処刑されることが予言されておると。 その予言が成就される。予言の成就を取るべきか、わが身のかわいさを取るべきか。 イエス様でも、やっぱりちょっとは迷ったんです。これが血の汗になって流れたわけですね。 3.イエスの血の汗の祈りに沈黙で答えた高級神霊たち しかしそのとき、神様はなにもお答えにならんかったわけです。 神様というのはだれかというとね、答えなかったのは知らん顔しておるのですね、ようするに。知らん顔したのはだれかというと、はっきり名前を言いましょうね。 知らん顔したその人は、天上界にいてイエス様の祈りを聞きながら、知らん顔して返事しなかった人というのは、まずモーゼですね。これが一番筆頭で知らん顔して逃げたのですね。 二番目に知らん顔をしたのが、アモンというのがおったんですけれども、これも知らん顔して逃げました。 それから三番目に知らん顔したのが、だれかちゅうと、これはね、お釈迦様なんです。お釈迦様いたんですよ、ちゃんとね、いたんです。知らん顔してね。 「私は蓮の池のほうへ行って、やっぱりねクモの糸たらしてね、地獄霊たち救わにゃいかんからね。」ってね。 それやっとかないとね、のちの世に日本に芥川龍之介が出たときに、お釈迦様が蓮の台(うてな)の上から地獄を眺めておって、かわいそうだからお慈悲でクモの糸をたれて、カンダタとかいう罪人がね、それを登ってくるときに下からいっぱい登ってくるから、「おまえら登ってくるとクモの糸が切れるから下にいきやがれ。」ってね、「落ちろ。」なんて言ったもんだから、プツッと糸が切れたなんてね話ありますね。 「こういうことを後の世に芥川龍之介が書かにゃいかんから、私は忙しいです。」 「クモの糸たらすんで忙しいからちょっとイエス様の祈り聞いていられないから、ちょっと他の人にたのむから。」ってね。で知らん顔しました。 そのときにいちばんやはり偉大だったのは高橋信次だったわけですけれども、高橋信次はね、「まあ死ぬのか。それはいいだろう。もう時期もきただろう。イエス様も独身だからそんなに長くいちゃあ体に毒だから、もう還ってきなさい。」 だけどまあ本人としてはやっぱりつらいのはつらいのだから、つらいときにはね、ことわりの手紙を入れりゃいいんです。けれど私たちとしては知らん顔をしているのがいちばんなんです。 だいたい出版社なんかでもそうですよね。本を出さないときなんかね、出しませんなんて言わずに知らん顔しているんですね。これが出版社のやりかただし、著者のほうが強くなってくると、出版社が原稿ほしいといっても、著者のほうが知らん顔してね。「いやーそのうち、そのうち。」などと言ってことわるんですね。 こういうふうになります。これは大人の知恵っていうんです。 同じようにね、まあイエス様が、命ごいしているわけではないんだけど、「明日ほんとうに十字架にかからにゃいかんのでしょうか、どうしましょうか。」と言ったときに、やっぱり「そのとおり十字架にかかれよ。」なんてね。 「死ね。」なんて言ったらね、あとでやっぱりシッペ返しが怖いですから、やっぱり知らん顔するのが大人なんですね。大人の知恵で知らん顔しているわけです。 だから高橋信次なんかあの世でやっぱり安楽椅子に腰かけて、葉巻きのタバコなんかくわえてね、ゆっくりとくゆらせながら、「まあしかなるべしでしょう。なるようになるでしょう。ハッハッハッハッハ。」と笑っておったわけであります。 イエス様は三十代だったのですよ、そのときに。しかしだれも答えてくれない。あれだけね、私が忙しいときにはいっぱいちょこちょこ来てはね、話をしてた人がね、だーれもなにも言ってくれない。知らーんとしているのですね。シーンとしているのですね。 こりゃみんなもう、これはというとね都合が悪いと思ってね、自分が死刑宣言したと思うと、イヤなもんだから、みんな黙っているなんて。 モーゼ呼んでも返事しない。 エリヤ呼んでも返事しない。 アモン呼んでもいない。 お釈迦様呼んでも知らん顔していない。蓮の台(うてな)のほうかなにか見ちゃって、ぜんぜんふり向いてくれません。 高橋信次はちょっとタバコをくゆらして知らん顔しています。 こういうことでだれも返事をしない。 三時間たったけど「ああ、そういうことだったのか。そうか、そんなにつれないのですか。あっそう、わかりました。じゃいいですよ。私はもう腹きめましたから。けっこうです。私だって、あなた日本人に生まれりゃね、武士のはしくれです。この腹かっさばいてみせましょう。」と。 こういうわけでイエス様は、旧約聖書の予言どおりになることに決めました。 「このまますっきりいったほうがいいだろう。」あまりバタバタするとちょっと予言が狂ったりするとまた疑われてね。 「わしこそがキリストじゃ。」なんてもう一匹出てきたらいかんから、もうあっさりやられることにしましたね。 こういうように、まあ肉体を持った光の指導霊でも、いざ死ぬ段になると、やはり、心が揺れるのです。 4.四十八歳でこの世を去ることを予言した高橋信次 同じようなことが一九七六年に起きたわけですね。みなさんご存じでしょうか。 一九七六年の偉大な事件、知ってますか。知らない? 知ってるね。高橋信次氏のご逝去ですね。高橋信次さんが亡くなられたわけです。 あれほど多くのひとびとを救われた奇跡の人とまあ一部の人から言われたことがあった高橋信次は、一九七六年、みずからの予言どおり死んじゃったわけです。 まあ、私の本のなかで『心の発見』でなんども言うけど、たとえば、神理篇とかありますけど、あのなかにたしか書いてあったと思いますけれども、私は二十代でね、一栄と、まあ高橋一栄という、まあ妻をやっとった、やっとったというと怒るけれども、まあ元、妻というか、いまも妻か、前妻か知りませんけれども、妻と結婚するに際してね、私は「自分は四十八歳までしか予定のない人間である。」と言いました。 で「四十八歳のときには私は人生を左右するような、大きな事件に見舞われる。それでも、おまえいいか。」と。「それでも俺と結婚するんか。」と、いうことを言ったわけですね。 まあ一栄先生は、まあぼんやりしている人ではないんですけれども、ひじょうに合理的な方ですから、「まあ馬鹿なことをおっしゃる人ね。まあ冗談いってね。四十八歳までしか予定がないならね、四十八歳でまた予定を作ったらいいじゃないの。六十まででも、七十まででも。かっこうつけちゃってね。四十八でどうするんだろうか。もう会社やめて出家するというのだろうか。それともどっかの会社でも勤めてて、定年退職、選択制定年退職にかかって早目にクビ切られるのかしら。まあなんでもいいけどまあ、そのときがきたらそのときじゃないの。」なんてね、思っていたようです。 そういうことを本に書いて私もね、もう死ぬ何年も前から、もうね、私は「そろそろ逝(い)くよ。」っていうことをずいぶん、まわりの人たちに言ってました。 だれも信じないんですね。病気の人たちをドンドン治したりね、奇跡がドンドン起きましたから身のまわりで。 これだけの奇跡を起こす人がかんたんに四十八で死ぬなんてわけはないと思うわけですね。 四十八なんて早死にする人は、これは悪霊にとりつかれた人しかいませんから、そんなことはない。そんなのふつうの人なのです。 でも、そういえばイエス様は三十三歳で私より十五年早い。そんな悪霊につかれて死んだのですか。そんなことないでしょう。これはみんなあの世での予定があるのです。 5.三十三歳のイエスの死が招いた弟子たちの混乱 ただそのときのイエス様の三十三歳で亡くなられたということにたいしてね、弟子たちはこれは動揺したわけね。 「その若さで亡くなるちゅうのは、おかしいね。救世主がそんなはずがない。十字架にかかってもね、たとえば槍で突こうと思っても、槍が折れたとかね、殺そうと思ったら稲光が落ちて、まわりの人がみな死に絶えたとかね。そのていどのこと起きるんじゃないか。」とか。 あるいは「ガブリエルだとかね、ラファエルとか、いろんな天使がきて、イエス様を十字架から抜いてね、救っていくんじゃないか。」とかね。いろんなことを弟子たちは思ってたんです。 ところが、じっさいはそういうことが起きずに、イエス様は酢っぱい葡萄酒かなにかを含(ふく)ました海綿かなにかを口にあてられて、一口も飲まないうちにこときれちやったのですね。 弟子たちも動揺したわけです。三十三歳で亡くなっちゃって、死ぬ段に奇跡が起きなかった。こんなのでほんとうに救世主だろうか。 たしかに先生の救えはりっぱだったし、愛の教えはすばらしかったし、奇跡はいっぱい起きた。 たとえば、もちろん病人なんかいっぱい治っちゃったし、死人が甦ったし、それから、海の上、波の上をペタペタはだしで歩いちゃったイエス様です。 それから五千人、七千人の人に食事を与えた。パンを裂いたらいくらでも増えて、魚をわけたら魚は何匹にでもなった。 あの奇跡の先生、「ラザロよ出でよ。」と言って、墓のなかに寝とった、死んだラザロね、もう死んで何日たっていますかね。四日ぐらいたったんですかね。 「死ねるにあらず、眠れるなり。ラザロよ出でよ。」と言ったら、ミイラみたいに包帯クルクル巻きにしたラザロが、墓のなかから「アーアー、アーアーアア目が覚めた。ああ眠かった。」なんて言っちゃってね。 あの石を押してゴロゴロと出てきたもんだから、もう兄弟とか、親兄弟が「キャー。」って言っちゃってね。もう「恐い。」ってね。 ミイラ男が出てきたなんてもんで逃げまどったわけですけれども、現にそういうことがあったわけです。 死人を甦らせたイエス様が、自分が死ぬなんて、そんなことあるのかしら。これはまあ弟子たちの率直な気持ちでしたね。ですからみな逃げたわけです。そして信じられなかった。 ペテロでさえね、あれだけ絶対にあなたを裏切りませんと言ったペテロが、裏切ったと言っちゃあかわいそうだけれど、「私はイエス様なんて知らない。」なんて三回もウソ言っちゃってね、知ってますなんていったら自分もひっぱっていかれて、その場で死罪ですから、そんなの困るからペテロだって「ア、イヤイヤ知りません。」 他の弟子は他の弟子でね、「ぜんぜん知りません。」って言いました。 イエス様、さぞ怒ったでしょうけど、不甲斐ない弟子ですね。 イエス様も泣いたでしょう。「なーんと不甲斐ない。」まあーペテロなんか、前の日は、「私は絶対、先生の教えを守ってね、だれが来ようと、この命惜しくありません。敵が来れば、この剣で、その身体かっさばいて見せましょう。」なんて言ったペテロが、なーんと寒いからふるえながら火にあたっとったら、「おまえイエスの弟子じゃないか。」と言われて、「イヤイヤちがいます。そんなことありません。」ってしらばっくれます。 こうしてイエス様は十字架にかかっちゃいましたね。そして弟子たちはみんなチリヂリバラバラです。 イエスの死に立ち会った人はもちろん、ペテロも逃げたし、あとヨハネね、ヨハネ伝のヨハネも見てたし、あと何人も見ていましたけれどもね、当時。 マルコなんかも見てましたよ。見てたけど、マルコさん知っていますか。 最近肉体を持っておるかたですけれども、あの霊言集の編者をしている善川三朗さんていう人が、じつはイエスの当時のマルコだったんですね。聖マルコっていう『マルコ伝』書いた人だったんですけれども。 彼もひじょうにまあなんといいますかね、えー純情といいますか、動揺しやすいといいますかね。 当時二十歳ぐらいだったんだけれども、イエス様が、あの先生が十字架にかかるなんてまあおったまげてね、もう真青になっちゃいました。ブルブルブルブルふるえちゃって、もうわなないちゃってね。なにも言えなくなってしまいました。 そして聖霊が救いにくると思ってたら先生が死んじゃったので、もうショックでしばらく御飯が、三日ほどのどを通らなくなりました。 6.死の三日後、復活して成就したイエスの予言 けれどもその後イエス様が復活して、弟子たちの前に現われたのですね。それでみなさん勇気づけられて、いったとおり先生は三日後に復活して現われたと。 これがあの教会でね、なんというか、会堂で説教されたときに「この宮を壊してみなさい。私はそれを三日のうちに建ててみせるでしょう。」こういうことをイエス様はいって、律法学者たちが、これをあざわらった。「この人は頭がいかれておる。」と。 「この宮を建てるのに、神殿建てるのに何年かかったと思ってるの。何十年もかかってるぞ。それをこの気狂いは三日で建てるなんて言っている。」といってね、あざわらっとったわけです。これは悪霊にとりつかれている人だといって。 ところがイエス様が復活したあとで、その話を聞いた人たちが、「ああイエス様がこの宮壊しても三日で我は、建て直してみせると言ったのは、あー、宮と言ったのは自分自身の肉体を言ったのか。肉体をようするに破壊されても、殺されても、僕は三日以内にみんなの前に復活して見せるよ。」と。 「ああイエス様はこれを言ったのだな。」これがわかりました。 それでイエスが生前言っていた予言が成就したことがひとびとにわかりましたね。まあこれは偉大な例でありましょうけれども。 7.高橋信次の死と五年後の奇跡の予言の成就 高橋信次にも似たようなことがあったわけです。一九七六年亡くなる前にね、ちょっと前でしょうかね、私の後継者がやがて出てくるということを予言しています。 「その若者は、関西から出てくる。関西から出てきた若者が、やがて大人たちの前で法を説くでしょう。そして彼が私の遺した教えをたぶん継いでいってくれて発展させていってくれるでしょう。」こういうことを講演でね、予言したことがあります。 まあこれを聞いたかたもおそらく私のこの本の読者のなかにはいらっしゃるでしょう。その予言が成就しました。成就して一九八一年の六月には高橋信次が通信を開始しました。 そういうことで私の予言は、みごとに成就しました。 ただそうした高橋信次であっても、やはり死ぬ前というのはちょっと気が弱くなりましたね。 やはりあれだけ奇跡を起こしてひとびとを救ってきて病人を治した自分が、病気で死ぬなんて、こんなことはね、やっぱりね、この矛盾、いかにして克服するか。弟子たちはちょっと信じられない。そんなこと馬鹿なことあるわけないね。 観音寺の和尚さんなんかは、「尊師はお釈迦様のはずだから、きっと八十までは生きられるにちがいないし、そうでなけりゃおかしいし、四十八なんて冗談にちがいない。」まあこう思っていたでしょう。 そういうふうに思ってた人も多数いたし、「病気になっても自分で治すだろう。」とか、「死んだって、自分で生き返って立ち上がるんじゃないか。」と思った人いっぱいいたでしょう。 けれどもそうした私も、だんだん健康がすぐれなくなってきてね。腎臓を中心にして悪くなって、やせ衰えてきました。なんどか入院もしたし、ゲッソリやせてね、立っているのがやっとの思いでありました。 最後のほうはずいぶん体重も減っちゃってね、やせました。そして息も苦しくなりましたね。 そして六月、妻が止めるにもかかわらず、東北講演を強行しました。覚えている人いるでしょう。GLAでかつて私の話を聞いた人たちも、覚えているでしょう。 五月に富士休暇村だったかな、国民休暇村かなんかで私は講演して、そしてまた東北へ行きましたね。 最後の講演、あのときもう私は息も絶え絶えだったのだけど、みなさんの前で力をふり絞って最後の講演をしました。 あの私が吐く息、吸う息の苦しさ、たぶんみなさんわかってくれたと思いますけれども、私はやはり生命燃え尽きるまでね、みなさんの役に立ちたかったのです。一言でも多く言いたかった。 そういうことでまあ、東北講演から帰って、まあ二週間もしないうちだったかなあ、七十六年六月亡くなりましたけれどもね。 ちょうど五年後に通信したわけです。 私も最後は、そういうふうに混乱しとったから、やっぱり自分が死ぬということを信じられなくなってね、天上界の霊たちは、「五年後、五年後。」ということをやたら私に言うんだけどね。 「五年後奇跡が起きて、その奇跡がおまえを救う。」と言うんですよね。天上界の霊たちが、「五年後大きな奇跡、一九八一年に大きな奇跡が起きて、その奇跡がおまえを救うだろう。」と。 「そのときにおまえの教えが、ようするに継がれるだろう。」ということを言うんですね。天上界の霊たちが、いろんな霊が。 だから私はそのとき、やっぱり四十八で死ぬってちょっと早いしね、自分の寿命が四十八歳て書いてあるけれども、やっぱりそんなことないじゃないか。 「私も五年間は生き延びることになりました。」なんて講演で言ったことがあります。聞いたことあるでしょう。 それは「五年後におまえを継ぐ人が出てくるから。そして五年後おまえは救われるんだ。」と。「そして仕事がおわるんだ。」ということを言われたんでね。 まあそういうふうに善意に解釈したわけですね。これでまた混乱が起きましたね。そういうことで混乱が起きました。 そしていよいよ死ぬ段になって、私の死ぬ段になってね、やっぱり、後継者の指名をしなければいかんので迷いましたね。このへんの混乱はみなさんよくご存じのはずです。 8.九次元大加来の死後あとを継げない弟子たち 後継者をだれにするのかについては、釈迦が没するときにもやはり同じような混乱があったんですね。 あまりにも釈尊が偉大すぎて、あと、法を継げる人がおらんのです。法を継げる人がいなくてね、まあいろいろ弟子はいましたけれどもね。 たとえばマーハー・カシャパーという人が、迦葉仏(かしょうぶつ)ですね、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)が、たとえば二代目になったとする説もあるけれども、迦葉尊者と釈迦じゃやっぱり差が大きすぎたし、けっきょく釈迦の教えをすぐ継いでいけなくて、集団指導体制になったわけですね。やっぱり高弟たち、釈迦の高弟たちが集まって集団指導体制をしくことになったわけです。 そういうことになって、まあ有力な十大弟子たちで残っておる人たちが集まっていって、あとね、法を継いでいったわけですね。けっきょく継げる人いないんです。ひとりで。尊師が大きすぎるから。たいていそうなんですね。 九次元の指導霊が出たときに、その二代目の人は、そのあとを継げないんです、普通は。 イエス様のあとだって、ペテロがイエス様のあとを継げたかといったら、まあ継げていないですね。まあ無理でしょう。 最初の教会をようするに建てた人、「ペテロよ汝の上に教会が建てられるべし。」というようなことをイエス様は言ったけれども、まあ継いだといえばそれほどのもんじゃないでしょう。 パウロはもちろん伝道に力があったけれども、イエス様との差が大きすぎます。 そういうことで、私が亡くなったときにもやはり、私の弟子たちとはちょっとね、力の差がやはりあったようです。口はばったいことを言いますけれども、やはりあったようです。 ですから、後継者の指名がやはりむずかしかった。私は、やはり死ぬときには、人間バトン・タッチすると思ってたから、やっぱりいろんなことを言いましたね。 まあみなさんご存じだからこのへんははっきり言いませんけれども、その後GLAが混乱したことはご存じの通りです。 私の正当な後継者が五年後に出るとは、まあ、はっきりわからなかったですからね。 まあ後継者というのは失礼でしょう。 おそらく読者の多くは、彼の本を読めばわかるように、イエス様も出れば、モーゼも出れば、天照大神も、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)も出ておるし、孔子様のようなかたも出ております。 まあこうしたかたですから、単なるGLAの後継者なんていうのは、口はばったくて私はちょっと言えません。そうしたもんじゃないでしょう。 GLAの教えよりも、はるかに大きなものが集まります。もっと大きなもんなんで、これは後継者といえなくて、やはりたぶんもっと発展させるかただと思います。 私は逆にね、露払いだっただろうと思いますけれども。こういうことがありました。 ただGLA混乱の責任が私にもあるんで、これをなんとか霊言集をいっぱい出して修正したいと、こういうように思っておるわけです。 9.五年後の復活の予言は成就した。かつての弟子たちよ一本化せよ ですから私のこの本を読んでね、どうか私の死後混乱した弟子たちにね、もう一回ね、一本になって、まとまってきてほしいと、私は強く願ってます。一本になってほしいんです。まとまってほしいんです。 高橋信次がいまね、指導霊をしておることがどういうことかね、かつての弟子たちはわかるはずです。ここをよりどころにして一本にならなきゃいかんのです。 そうしてくれないと、まあ先生、いちおう成仏はしておるけれどもね、ほんとうの意味での成仏はできんのです。 もう九次元で私は落ち着かないのです。いろんな諸霊からいろんなことを言われてね。 孔子様からはね、ずいぶんなことを言われるし、まあ生前孔子様にはね、「いや―孔子様は神界の人です。六次元神界の人です。」なんて私が言ったもんだから、まああの世ではずいぶん、もちろん、きらわれています。当然のことです。 イエス様なんていうのはね、昔イエス様が地上にいたときには、高橋信次っていうのは、まあこういう安っぽい名前じゃなくて、そのころには、いちおうエホバとかいう名前で呼ばれていましたから、イエス様も私のことを父と呼んでくれたことがあります。 しかしいまはね、GLAの混乱を見て、イエス様は私を見捨てたといいましょうかね、「もう父と呼んでやらない。」と。 「私は子ではありません。あなたは父ではありません。私は子でもありません。父でも子でもありません。どちらかというと、私のほうがもう偉いでしょう。高橋信次さんは、まあ、あの混乱を収拾しないかぎりね、もう私たちの尊敬を受けることは、まずないでしょうね。」 横からモーゼが「ウン、そうだ、そうだ。」とうなずいています。 そこで高橋信次が怒ります。「おまえ、なにをうなずいておるか。」とね。「私の指導霊はおまえであったはずではないか。おまえがちゃんと指導せんからこんなふうになったのに、それでうなずくとは何事であるか。」まあこんな話をいろいろやっておるわけです。 まあ話がずいぶんそれましたけれども、けっきょくね、私がいいたいのは、私もイエス様になぞらえるわけではありませんが、イエス様は三日後でしたけれども、私は五年後に復活しましたんでね、私の予言が成就したってことをひとつ知ってほしいんですね。 こういうふうに光の指導霊が出るときには、かならずあとに出てくる人たちのことを予言するのですね。これは、もう決められているのです。あの世の約束なのですね。予言というのをします。 10.ノストラダムスの予言による人類危機の時代 さて前置きがずいぶん長くなりましたが、きょうの本題である予言のほうに入っていきます。ノストラダムスっていう人の予言を知っておられるかたはもう多いでしょう。 五島勉さんという人がいろいろ翻訳を出されて、ひじょうなベストセラーになりましたね。祥伝社から出てずいぶん売れました。みなさんも読まれたでしょう。ご存じのかたも多いと思います。 そしてまあノストラダムスはまあ、一九九九年の七月にたいへんな天変地異があって、人類が滅亡するような恐ろしいことを恐怖の予言書に残しているということになっております。 まあそういうことでこれから、いま、八十七年ですから、あと十二年でね、ほんとうに人類は滅亡するのか、これはもう秒読み段階になってきて、たいへんなんですね。あと十二年で人類おわっちゃうなら、あなたたいへんですよ。 これから結婚なんて、やめたほうがいいですね。結婚したら子供なんて作っていたら、学校上がって、中学校上がる前にもう死んじゃいますから、そういうような殺生しちゃあいけないんです。だからほんとうは結婚なんかできないのですね。だからこれから結婚式場はぜんぶつぶれていきます。 それから生命保険会社ね、これもぜんぶつぶれますね。 みなさん生命保険会社もう早目にやめたほうがいいですよ。一九九九年にみな亡くなっていくのに生命保険、なんの役に立つんでしょうね。三十年満期とか五十年満期でやっとる人いっぱいいますけれど、なんの役に立つんでしょうかね。 そしていろんな人が死んだら、生命保険会社はどうなるんでしょうね。もう払えないと思いますよ。 まあ冗談半分に言っとくと、生命保険会社はいまは儲かっとるでしょうけれども、これからの若い人は、あんまり就職しないほうがいいですよ。たぶん会社がそうとうつぶれると思いますよ。 こういうノストラダムスの予言があるのですからバタバタ死んじゃって、それで保険会社、お金いっぱい取られちゃって保障できなくなってね、つぶれちゃうかもしれませんよ。 そういう意味で、あと十何年すると業界の大不況が起きるかもしれません。まあこれは話半分にいちおう聞いておいてください。保険会社から文句が来るといけませんから。 それでノストラダムスは予言しておりますけれども、じゃあ、そのへんのことをね、ちょっと高橋信次も一発しゃべってみようかと。新しい手でね。その真意はどこにあるのか。そしてそのあとの世界があるのかどうか、こういうことですね。 ノストラダムスはたしかに一九九九年までにたいへんな災害、天変地異、不幸が起きて、人類の大部分が壊滅的な打撃を受けるということを予言しています。これははっきりしているのですね。 そういうことで、まあその事実、そのものについて聞かれるとするならばね、それはあるていどイエスと言わざるをえんのです。これからそうとうな、やはりダメージがあるでしょう。 やはり地震。地震はもういっぱい起きてきますね。地震、それから火山の噴火。これも、いろんなところで起きていますね。アメリカとかね、あるいは中南米ですか、大火山の噴火ありましたね。そういうのがあるし、地震も瀕発(ひんぱつ)しています。 これ以外にも津波、こういうこともあります。干魃(ばつ)もくるでしょう。 こういうふうにあと十年でひじょうに厳しい時期が人類を襲って、その間死者もそうとう出るでしょう。 地震だって、あれはナマズが手加減しておるから、そんなに死なないだけであって、地下のナマズが本気で暴れたら、これは超高層ビルだって倒せるのです。エンパイヤーステートビルだって倒そうと思えば倒れるのです。ナマズが暴れまくったらね。それは倒せるのですよ。 ただ手加減しているからいま、倒れていないだけで、やがてそういうことも起きてくるでしょう。まあこれはあるていどやむをえないです。 11.しかし人類は死に絶えない ただね、全人類が死滅するようなことはないのです。それが死滅するなら私たち霊言出す意味がないからです。 たとえ出版社のひとつやふたつが炎上したところでね、まあこの本さえ残ればね、のちの世の人たちには福音になるけれども、出版社は炎上したけど、人類もみんな死んじゃって、東京は焼け野原になって、人っ子ひとりもいなくなって猫一匹もいなくなると、なんのために私がいま、霊言集を出しているかわかりません。こんなの意味がありませんから、そういうわけではありません。 もちろん人は残るのですね。だからやっとるわけです。またそのためにやっとるわけですね。残された彼らがようするによりどころにすべき法、これがないからね、霊言集を出しているわけです。 昔ならばそれは、五か条の御誓文だとかね、天皇の詔勅(しょうちょく)だとか、詔(みことのり)とか、いろいろあったでしょうけれども、これからはね、混乱の時代に心のよりどころがなくなるから、いま私たちはこうやって霊言集を出しておるんです。 みなバイブルになるんですよ。これからの人類の。二十一世紀の。 それでまあノストラダムスの予言があるけれども、ノストラダムスは同時に、はっきり言っていますよ。「ヘルメスが甦るだろう。」と。 このヘルメスが甦るというのはどこかというと、東の国というのは日本なのです。まあこのヘルメスというのを文字どおりギリシアの時代の神様と思っちゃあいけませんけれども。 ギリシアの神様というのは、ヘルメスというのは、そうですね、繁栄の神、発展の神であり、芸術の神でもあったかたですけれどもね。ちょうどいま、日本の時期に合っているかもしれませんが、このヘルメスが甦るということをノストラダムスは言いました。はっきりと。 まあこのヘルメスがだれにあたるかみなさん読者のみなさんわかるでしょうけれども、ただそれはね、ヘルメスという個性を持った人がそのまま生まれ変わってきたということじゃなくてね、ヘルメスのようするに生命体がね、この日本に生まれ変わってくるということなんでね。 まあヘルメスの生命体はなにかっていうと、みなさんご存じでしょうかね。 あと、有名なかたは、リエント・アール・クラウド、それからブッダ、ゴーダマ・ブッダ、ラ・ムー、トス、こういう人たちが同一生命体の魂のグループなのですよ。 だからそのグループのなかのだれかひとりが生まれ変わってくるということですよ。そういうふうに理解してくださいね。 こういうふうに、ノストラダムスは恐怖の戦慄(せんりつ)の詩を残しましたけれども、それ以外に希望の原理を入れました。 光の天使たちが地上に出て、世界を救う。そしてヘルメスが末法の世を救い、東の国から起きるヘルメスの繁栄が、やがて世界を救うだろうと、予言しました。 このときに、西暦二千年にこうして私の予言もおわるというふうに、彼は言いました。 なぜ彼の予言がおわるか。 それは新しい、いわゆるヘルメスの時代になって、新たな予言が説かれていくからです。新たな教えが説かれていくからですね。それでノストラダムスの使命がおわったということです。そういうことなんです。 12.この霊言集こそ、未来の黄金時代のためのバイブル ですから、これから、新しい時代が開けてきます。みなさんその福音のために私たちは、いろんなことを言っておるのです。 まあ二千年、あるいは二千十年ぐらいまでは、いろんな混乱が起きますよ。たいへんな混乱がね。 ただそのあとには、黄金時代が出てきますよ。だんだんに黄金時代が出てきます。これははっきり言っておきます。その黄金時代の基礎になるのは、いま、私たちが出している、この霊言集なのです。 みなさんね、とくに出版社の人もよーく聞いてほしいけども、自分たちの仕事の大きさの、この使命をはっきりわかってほしいのです。 これはほんとうは出版社のかたに儲けてほしいという気持ちはないわけではありませんよ。もちろん儲けていただいてけっこうだし、ビルが建っていただいてけっこうなんだけれども、それだけじゃないんです。目的はね。 これがほんとうにこのかたがね、のちの世の人たち教っていくのです。まず日本の人たちを教っていきます。そしてそこに起きた大きな教えがね、海外に広がっていくんです。もうはっきりしているんです。 昨日もいいましたけれども、東南アジア、オセアニア、そしてヨーロッパやアメリカやそれから中国、ロシア、アフリカ、みんな広がっていくんです。 だから二十一世紀まで、ひとびとの福音になるのは、私たちが出しているこの霊言集なのです。これは、はっきり言っときます私は。 これがバイブルなんです。本当のバイブルになるんです。これがバイブルになって、これからね、いま二十世紀ですけれども、おそらく四十世紀、五十世紀まで読み継がれるのです。まちがいないです。 その間に高橋信次が出した何冊かの零言集はね、一部はなくなるでしょう。破損されたり、あんまりおもしろいことを言っているから、これは偽造じゃないかとかね、いって削られるところもあるかもしれませんけれども、私が残した霊言書の何冊かは、おそらく、あと二千年後ぐらいまで、残っていくと思います。このためにいまメッセージを送っているのですね。 ですからみなさんね、ポスト・ノストラダムスの時代と、大きなことを私言いましたけど、まさしくね、この霊言集の刊行、これがね、ノストラダムスのあとの時代なんです。これの幕開けなんです。幕開けを告げる鐘なんです。鐘の音なんです。警鐘なんです。まちがいないです。絶対にまちがいないです。これだけ私は言っておきます。 この私たちの霊言集こそ、ノストラダムスのあと残って時代を創るための書物なんです。ですがらいまね、初めてこの本が出てすぐそれを書店で買って読んでおるような人たちっていうのはね、ひじょうに感覚の鋭敏なかたですね。いまこれがわかるなら。 ぼんやりしておる人というのは十年、二十年たってから、読むんです。 これが出て、すぐに読む人というのはね、それだけ感覚が鋭敏だし、すばらしいことです。 だから私は前半でね、GLAの混乱の話をしましたけれども、早くみんな一本にまとまってね、この救世運動に参加してほしいと思います。かつての弟子たちも早く一本化してきてほしいと思います。 どうか、そういうふうに思っていますので、みなさんも私の教えをしっかり聞いて、そして一日も早く悟ってください。お願いします。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/54.html
目次 1.大自然の中の芸術と科学 2.流転する水のすがた 3.太陽からの地球の誕生 4.四十五億年前、太陽の一部が軌道を飛び出した 5.三十五億年前、隕石の地球への直撃で飛び出した月 6.神の意思による惑星の創造 7.隕石によってえぐられてできた太平洋 8.空中に火花が散って酸素と水素が水をつくった 9.山と谷、川と海の出現 10.高等生物の陸地への出現 11.海中の生物の出現 12.人類の出現は、異星からの移住と地球での創造の両者があった 13.質量イコールエネルギーというアインシュタインの理論 14.人体創造の原理 15.質量になっていない生命エネルギーが魂の実体 16.生命エネルギーのコントロールタワーとしての心 17.色心不二・色即是空・空即是色の本当の意味 1.大自然の中の芸術と科学 皆さん、こんにちは。今日は第6章、「心と科学」という題で話します。今日は、八七年の一月十三日なんですね。皆さん一月十三日の午後、今、五時半です。今日は、めずらしく雪が降りまして、この辺も、杉並も一帯が雪だらけですね。で、あの世から見ていると、ああ雪が降っているなあと思って。寒かっただろうなあと思ってね。地上で雪降っても、こちらは全然雪が降らないんで、どんなもんかなあって思って、感覚が失われているんですけれども、まあ地上人の皮膚の感覚からいくと、この雪の寒さというのはこたえるでしょう。 これは、私たちにはもう皮膚がないから、雪ってどんなんかなあってなつかしくなるのですね。手ざわりとか、あるいは冷たさがどんなもんかなあって感じがします。まあそういうことを枕詞(まくらことば)にして、今日は科学の話も多少していきたいと思ってます。 まあこの地上っていうのは、非常に神秘的なことで、みたされているのですね。たとえば雪なんかもそうです。神秘的ですね。なぜ海があって、川があって、なんと水が蒸発してね、そして雲をつくってそれから雲が一定の時に、また雨を降らし、また寒くなると、これが雪になってきますね。 ああいう雪とかいうのを見てると、ほんとう、神秘的ですね。顕微鏡で見ると雪の結晶ができていて、それが、雪印乳業ではありませんけれども、非常にきれいな結晶になっているのですね。まあ、ほんとうに科学現象でしょうけれども、ああいう結晶ができることを見てたら素晴らしいですね。 だからこの大自然の中で起きることも、やはり一つの芸術だというのが、あれを見るとよく分かるのですね。ああいうふうにきれいな結晶になるわけですね。まあ、神様のおつくりになったものにおかしなものがないと言いますけれども、まさしく、その通りですね。 2.流転する水のすがた 雪だって、ああいうふうにひらひらひらと一ひらの雪になって、地を埋め尽くしてね。子供たちは、その雪で雪ダルマをつくったり、あるいは丸めて雪合戦をしたりしている。こんなことをしますね。だから神様って、すいぶん芸術家だなあっていうことがあれを見てわかるでしょう。 そんなことをする必要はないですね。本当はね。雪を作るなら直径五メートルぐらいの雪作ってね、雪ダルマ作って上からどんどんどんどん落としゃいいんですよ。そうするとあなた、地上はもう地獄ですよ。空襲警報が「ウィーン、ウィーン」と鳴りまして、「直径五メートルの雪が、これから降ってきそうだから、皆さん避難しなさい。普通の民家の家屋はとても耐えられないから、みんな防空壕をつくりましょう。そうしないと、天から降って来る雪ダルマにとても太刀打(たちう)ちできません」と。まあ、こういうふうにして神様が地上の人びとをいじめようと思ったら簡単なんですね。 それから、雨だって、あんな直径一ミリの雨でなくて、バケツをほんとうにひっくり返したようなのが、どんどんどんどん上から降って来たのなら、もうたまったもんじゃあありません。もう、稲も何もみんなまいっちゃいますね。人間だって外へ出ていったら、傘なんか吹っ飛んじゃいます。ものすごい衝撃力ですからね。 雲っていうのは、高さ何千メートルの高さです。そこから、バケツ一杯分ぐらいの水玉で雨が降ってきたら、もし、いきなりそういう水玉が降ってきたら、人間の頭に直撃すると一コロです。もうペタッと地べたの上にのびちゃって、カエルみたいになってしまいます。けれども、そういうようにしない。実に繊細につくってあるんですね。 そぼ降る雨、霧雨ね、あるいは春雨、「春雨じゃ、ぬれてまいろう」という春雨もあれば、まあ恋人同士の語らいの時には、霧が出るんですね。霧がたちこめて、ガス灯かなんかがこう曇ってる。こういうふうな情景が出て来ます。 またこの雨が降ったり、雪が降ったりしたのが、大地にしみこんで、そして地下水になっていきます。地下水から今度は川の中へ流れ込んでいきます。そして、川は上流から下流へと流れていって、大海に出ますね。 海に出ると、海の中では今度は塩水になっていますね。あれも面白いですね。海の中が塩水になっている。なんで塩水になっているのかなあ、と思う人も多いでしょう。皆さん、なぜ海が塩水になっているのか知っていますか。この霊言集の読者の中で、なぜ海の水が塩水になっているか答えられる人がいるでしょうかね。たいていの人だったら、「そらあ塩水になっているのは分かっていますよ。これは塩が入っているからですよ。だから、塩水なんです」こんな答えをする人がいるでしょうけれども、こんなの答えになっていないのです。 3.太陽からの地球の誕生 地球ができてから、もうすでに四十五億年たっています。そして海ができたのは、今からだいたい三十五億年くらい前です。地球は四十億か四十五億年前に巨大な火の玉だったのです。火の玉というとみんな誤解しちゃいますけれども、本当の火の玉なんですね。地球のそもそもの祖先ですけれども、どうしてできたかっていうのをみんな知っているでしょうかね。 地球っていうのは、太陽から出て来たのです。太陽っていうのは、直径が地球の百九倍ですからね。直径が百九倍あると、これは体積でいくとものすごいです。この三乗倍違いますから、私はちょっと計算機があれば計算できますけれど、あの世の霊が計算機使ったら誤解を生むから、まあこれはやめときますけれど、皆さん各自で計算して下さい。百九倍の三乗です。ものすごい体積の差があります。ですから皆さん、太陽は太陽、月は月、地球は地球っていうふうに、独立した惑星のような、天体のような感じでいるけれども、実際は、そんなもんじゃないんです。 えー地球の誕生っていうのはね。さきほど言った雪ダルマがありますね。英語でスノーマンですか。直径一メートルぐらいのを二個くっつけてつくるんだけど、上が、ちょっとちっちゃいけどね。一メートルぐらいの雪ダルマをつくって、これを太陽とすると、地球っていうのは、何かっていうと、子供が投げている雪の玉ね、これほどもないんですよ。まあ大きさの比率でいくとね。比喩(ひゆ)で私は言うとるんだけど、どうだろうね。 札幌か何かで雪祭りをやっていますけど、雪祭りで大きな家を建てたり、建物つくったり、そのうち札幌の雪祭りで大きな高橋信次の像かなんか立つのを私は希望していますけどね。生前、神理を説かれた高橋信次先生の偉大なる像ってことでね。イエス様の像か何かと並べてくれて、腎臓病になってやせる前の、高橋信次の太ったふくよかなニコニコした顔の雪の像か何かできるのを私は希望していますけど。札幌市民、よく聞きなさい。 それで高橋信次の像が二十メートルぐらいの像としようか。こういう巨大な高橋信次の像ができた。偉大ですね。本人の考えどおり、偉大な雪の高橋信次像ができたとしましょう。 もちろんネクタイしてますし、背広を着ていますし、お腹がちょっと出ていますけれど、町工場の社長っていう感じの雰囲気が出ています。町工場の社長で、しかも偉大なる聖者の風格がどことなくただよっている。しかも頭がちょっとはげとって、頭のところどころに昔、針かなんかでつつかれた穴があいておると。で、毛がチョロチョロと生えておると。こういう偉大な人の像ですね。これが立っとるわけです。 そしてギロッと目をむいてね、目から光が出ているような雰囲気で、そして「光、高橋信次」あるいは、「心と行いを正せよ」なんていう言葉も発している雰囲気で、こういう雪像ができます。 すると高橋信次のくちびるの辺(あたり)がちょっと欠けちやって、子供が石ころか何か投げて、あるいは、野球のボールを投げて高橋信次の偉大な雪の像のくちびるへんにポンと野球のボールが当たりました。そして、高橋信次のくちびるがちょっと切れましたね。ポロッポロッとかたまりが落ちました。このくらいの大きさが地球なんですよ、皆さん。 太陽と地球っていうのは、この程度の大きさの差があるのです。だからほんのちょっと、ポロポロなんですよ。あるいは高橋信次が涙をポロッとね。高橋信次の雪像から涙がポロッと一つ出ると、それが地球になるのです。この程度の大きさの差があるのですね。 4.四十五億年前、太陽の一部が軌道を飛び出した こういうふうに今から四十五億年前に太陽の一部が、その軌道を飛び出したのです。何で飛び出したかって、それは太陽が妊娠したんです。妊娠したって言っても分からないか。お腹が大きくなって子供を産んだのです。それでも分かんない。ああそうですか。そうすると、こういうようにと神様が命じて、「お前チョット子供を産め」って言うんで、「わっかりました」って、回転していてピーンと飛び出したんです。一部がね。 それは、なぜ飛び出したか。飛び出したくなって、飛び出したんです。まあ、それは神様のご意思でね。惑星をつくるとき意思があったんで、太陽もいっぱいかたまりを持っているから、まあちょっとぐらい子供を産んでもいいなあっていうんで、ポーンと出したんです。 これが飛び出して、太陽のまわりをグルグルまわり始めました。これが地球です。 5.三十五億年前、隕石(いんせき)の地球への直撃で飛び出した月 そしてそのうち、今から三十五億年ぐちい前でしょうかね。月というのができました。まあ月っていうのは、皆さんどうやってできたか知っていますか。皆さん、月はね、やっぱり、地球が子供を産んだんですよ、実際は。なんで地球が子供を産むのって、まあ、それは、地球は女性なのですかって聞く人もいるでしょう。女性のような、男性のような、それは分かりませんけれども。 大体三十五億年ぐらい前ですね。子供を産んだのです。その頃に、今、地球は、公転運動って太陽のまわりを廻っていますけど、異変が、ちょっとあったわけですね。異変があって、公転のコースがちょっとジグザグになりました。それと、その頃、地球が巨大な隕石(いんせき)の直撃弾を受けましてね。三十五億年ぐらい前です。こうして、そのショックで地球の一部分がドーンと飛び出したんです、こうして、今の太平洋の部分が主としてできたのです。えぐれたんです。ポーンと、飛び出したんです、破片が。そして、それが地球のまわりを廻り始めました。で、やがて形がととのって、現在のような丸い月になりましたね。 そういうことで、地球から飛び出して、地球の圏外に出た月ですから、空気、酸素がないんです、実際ね。そういうように急激にできたんです、あれは。 6.神の意思による惑星の創造 そういうふうに、いろんなことがあって、惑星とか星ができるんですね。 これ以外にも、もちろん宇宙のガスが集結して、惑星ができる場合もあります。だから大きな惑星が子供を産む場合と、それから宇宙の大気のガス、こういうものが宇宙塵(じん)って言いますけど、塵(じん)っていうのは塵(ちり)ですよ。これが集まって、渦巻(うずま)いて、やがて何か火花のように散って、そして、それが惑星になることがあります。 なぜ、そんな宇宙のゴミが集まって、ガスが集まって火花散らして、一つの星を創るかというと、これが神様のご意思なのですよ。偶然じゃあないんです。偶然で星なんかできやしないのです。もちろん、つくろうと思ってやっとるんです。 だから神様の一念が定まって、この辺に惑星をつくろうと思うと、宇宙のいろんなゴミだの、ガスだの、いろんなものが凝集してくるのです。凝縮してくるんですね。そして一つの渦巻きをつくっていく。それから、渦巻きの中で火花みたいのが散り始めて、爆発なんか起きてきます。そしていつの間にか、そういうふうに高度に、灼熱化して炎というのが出て来て、そして宇宙のいろいろな隕石だとかゴミだとか燃やしちゃいますね。で溶かしちゃいます。そしてドロドロしたものができてくるのです。やがて、それが冷えてかたまってくると、一つの惑星になるのです。 こういうふうにしてできた星がいっぱいあります。ですから太陽系の中にも、地球のように太陽の軌道を飛び出してできた星もあれば、あるいは、そういうふうに宇宙のがスが結集してできた星もあります。いろいろです。 で、神様はそんなことをやって楽しんでいるのですね。地上のあなた方は、ニワトリが卵を産むと、その卵をゆでたり、あるいは目玉焼きにしたり、卵焼きにしたりして楽しんでいますけれども、神様というのは、卵を焼くかわりに、惑星をつくって楽しんでいるのです。そういうレベルの差があるのですね。まあ、こういうことです。 7.隕石によってえぐられてできた太平洋 それでまあ海の原形みたいなのは四十五億年ぐらい前からちっちゃいのがありましたけれども、主として三十五億年前に、地球から飛び出して月ができた時に、大海ができました。これが大平洋のもとなのですね。えぐられたんです。 だから、その当時の話をすると、巨犬な隕石が近づいて来て、大気圏内に突入したんですね。そして燃えながら猛烈な勢いで、今の太平洋があるあたりに突っ込んだのですね。 それで、その熱のために隕石は燃え尽きていったんですけれども、その衝撃力で、破片が飛んだのですね。地球の破片がドーンと飛びました。 そして、深さがどうでしょうか、深さ一万メートルか二万メートルか分かりませんけれども、そのくらいポコツとえぐられたんです。そして表面が、はがれ落ちて飛んしゃったんですね。そして月ができました。 それで地球は、そういうふうにかみつかれたリンゴのような形で、しばらく廻っとったんですよ。歯槽膿漏(しそうのうろう)の宣伝にありますけど、そういうガブッとかみつかれたリンゴがクルクルクルクル廻っとったんですね。 だけどクルクル廻っていると、かみつかれたところがあると空気の抵抗がなくて、なんかギクシャク廻っちやうんですね。これじやあ青森リンゴも売れませんから、何とかこの辺を、へっこんだところを埋めにゃあいかんということで、いろいろ神様考えたんです。神様何したらええかって、いろいろ思ったのです。土がないからね。土があったら土で埋め立てするけれど、持ってくる土がないから、水で埋め立てしちゃおうかっていうんで、もう水入れちゃえということになったんですね。 8.空中に火花が散って酸素と水素が水をつくった それでまあ、その頃ね、まだ地球上には、はっきりした生命体がなく、生命体が必要とする今のような空気っていうのがなかったんです。しかし、モヤモヤしたガスがいっぱい包んでおって、その中で、とりあえず、酸素と水素を選(え)り分けて、水の原形みたいなのをつくるべしということになったんですね。 空気中の中には酸素と水素がいっぱいありました。ですからとりあえず、じゃあこれでね、酸素と水素を結合して水をつくるべしということになったわけです。 それで、地球の中のマグマなんかを何度かポンポン噴き出させましてね。そして、そういう化学反応を空気中でだんだん起こしていったのです。三十五億年前、あるいは三十二、三億年前でしょうかね。その頃の地球っていうのを霊視しますと、空中で火花がパチパチと散っています。あるいは、これは見ようによったら、稲妻みたいにも見えるし、真空管の中で炎が飛んでいるように、パチパチパチパチ火花が飛んだのです。空中を、いろいろと。そして酸素と水素が結合したんですね。 まあ私は初歩の理科の話を、今しとるんだけど、もう大人になった皆さんは、どうして水ができるか、もう忘れちゃったでしょう。お子さんの小学校四年生の理科の教科書を取り出してよーく読んでごらんなさい。ね、小学校四、五年生の教科書に書いてありますから。酸素と水素が結合すると水ができるって書いていますね。 水素というのは「H」です。元素記号は「H」。それから酸素というのは元素記号「O」です。そして水素原子二個と酸素原子一個とで水ができます。これを「H20」といいます。 酸素というのは手を二本持っていて、水素というのは手が一本しかないのですね。片っぽしか手がないんです。「酸素さん、酸素さん、何とか手をつないで下さいよ」酸素は、「いいよ。僕は手が二本ありますよ」って。「そうですか。僕は手が一本しかないけど二匹いるからつかんでくれませんか」ってね。酸素は両手を伸ばしてパチツとつかみますね。 大体が男性ですね、酸素っていうのは。奥さん以外に妾(めかけ)さんがほしいのですね。お妾さん、二号さんがほしいんです。奥さんとお妾さんと、二人いれば満足と。これで水ができたんです。水の誕生です。 9.山と谷、川と海の出現 そして空中にそういう雷みたいのが変じて、だんだん水ができて、湿(しめ)ってきました。バリバリバリバリ火花が散って、そして、その水は重くなってきて、下に落ちてきます。下に落ちてきて地上を湿らせてきました。だからいろんなところが湿ってきたのですね。 水はやっぱり高いところから低いところへと流れていきますね。つまり、ちょっとでもくぼんでいるところへ流れていきます。そういうことで、だんだん川ができてきました。川ができると同時に、山ができてきます。高いところが山になって、低いところがどんどんけずられて谷になって来る。それで大きな川ができてきて、その川が、さっき言った太平洋のえぐられたところに流れ込んできました。 こうして太平洋の中が空っぽだった、そのえぐられたところに水が入って来ました。よかったですね。水が入って来て、何とか地球も、えぐれた頬(ほ)っぺたがちょっともどってきたんです。これで安心しましたね。水をいっぱいたたえて、だんだん機嫌よく廻り始めたんです。こうして青い地球っていうのができてきましたね。 まあ地球の歴史を語れば、私はいくらでもしやべれるんだけれども、今は、いいことはもうちょっと後にかくしといて、まあ大昔の話だけに止めておきます。 10.高等生物の陸地への出現 さて、その上うにして地球ができました。そして以後、月ができて三十五億年たって、今から六億年ぐらい前でしょうかね、陸地に高等生物がすみ始めましたね。その頃、原始的な生物はすでにすんでおったのです。そしてだんだん、知的な生物がすむようになってきたんですね。 そして、今から三億数千万年くらい前になって来ると、地球にはかなり高等動物がすむようになってきました。今で言うと、哺乳類(ほにゅうるい)のたぐいだね。彼らがもう出てたんです。そして今年はウサギ年だけれども、ウサギみたいなのもピョンピョン跳(と)んでおったし、あるいはネズミみたいなのもいたし、まあネズミが多かったけれどもね。 三億年くらい昔には、一方では恐竜みたいなデカイのもだんだん出てき始めましてね。地球は、まだちょっと熱帯に近くて暖かかったのです、全体にね。それで植物の繁茂(はんも)が非常に素晴らしかったのです。そして大きめの動物が、どんどん巨大化してきました。 11.海中の生物の出現 一方、海の中で魚のもとになる生物がすみ始めたのが今から、そうですね、二十数億年ぐらい前でしょうか。その頃から魚のもとになるものが、あったんです。小さな海の中にそうした生物が出て来て、数億年前にようやく、大きな魚がすむようになってきました。 海の中に生物がすむようになったきっかけは何かっていうと、オパーリンとかいうソ連の学者がいてね、そして何というか、本来タンパク質のようなかたまりが、ともに反応し合って、そして、アメーバーのようなものができて、それが大きくなって生命の誕生になったと、こういうふうに言っていますが、これは当たってないんですね。 現象としては、その通りなんですけれども、そういうふうな微生物ができた背後には、やはり微生物相応の魂があったのです。つまり地球の表面上には、いろんな生命体の磁気みたいなのが満ち満ちていてね。もちろん、ちっちゃな生命ですけれども、生命の息吹っていうのが影響して、最初の生命が産まれたのです。 で、その生命体の息吹を、吹き込んだのが何かというと、やっぱり高級霊たちなのですね。高級霊たちが、そういうことをやったんです。そして、生命の誕生というのを、あの世から指導しながらやっていたんですね。 だから適当なタンパク質のかたまりができて、そこに生命の吹き込みをやりました。こういうことを初期にやっていたのが、お釈迦様といわれているけど、そういう方がたが、天上界でやっとったんです。そして生命の吹き込みやって、それがモゴモゴと海の中で泳いでおったんです。それから、だんだん海の中に適応するような魚のような形になってきました。 また植物が地上に繁茂(はんも)し、やがて動物が出てきました。えー、こうして準備ができたんですね。 12.人類の出現は、異星からの移住と地球での創造の両者があった その時に、三億数千万年前に、現在の肉体を持っておる人類の大部分は、地球をはるかに去った、何億光年も去ったベーター星というところがあるんですけども、そこから飛んで来たのです。円盤に乗ってね。それが最初の人類でした。人口は、まあ六千万人ぐらいいましたけれどもね。それが今のエジプトのナイル川の三角州あたりに最初着陸しまして、そこに住み始めたのです。 その頃は、地球は食べ物も多く、美しいきれいな星になっていましたね。そしてだんだん子孫をふやしていったんです。 けれども、これ以外にも、また人類の創造はなされました。地上にいろいろな生命をつくったようにね。人類の創造というのも、なされたことがあります。 13.質量イコールエネルギーというアインシュタインの理論 これはね皆さん、今日の本題である「心と科学」にいよいよ入って来るのですけれども、皆さん、アインシュタインの「相対性原理(そうたいせいりろん)」というものを勉強されたかどうか知りませんが、それと非常に関係があるのです。物理学の法則ですね。アインシュタインという人は、質量とエネルギーが一緒のものであるということを証明した方なんです。質量というのが、質量といっても分かんないかもしれないけれども、まあ、かたまりですね。あるいは物質の存在といってもいい。そういうものが、エネルギーと一緒だということです。 目の前に話の材料として手頃の物がありませんけれども。そうだね、目の前に『高橋信次霊言集』という本がころがっていますから、これを手に取って説明しましょう。二百六十ページぐらいの本です。こういうものが目の前に物質としてあります。これが質量ですね。 ところがこの本は、こういうふうに固型化したものかというと、そうじゃないんです。実際は、これはあるエネルギーが静止した状態なのですね。この本の中には、二百何十ページの活字を印刷した紙があります。この紙って何かというとね、紙っていうのはもともとは木です。木材ですね。木材をチップにして、そしてつくったのが紙です。 そうすると木材のもとは何でしょうかね。南洋材か北洋材か、これ知りませんけれども、この本が南洋材でできているか、北洋材でできているか、私はチョット霊視能力がそこまでなくて、わかんないんですけれども、多分楠(くすのき)か何かかね。あまりいい木じゃないでしょう。檜(ひのき)は使っていないでしょう。まあどっかの楠を使ってね、つくっておるんでしょうけれども。そういう木からできています。 じゃあ、木っていうのは何かっていうと、もともと種があって、大地に落ちて、それが大きくなってきて太陽の光、水、それから栄養素、こういうものを吸収して、木になっていきますね。 そうすると、木が木として成長するためには何がいるかっていうと、水と、それにリン酸とかカルシウムとかカリウム、ナトリウムいろいろなものが必要なんです。そういう栄養素が入っています。それと光です。太陽の光が大事です。 光によって木は葉っぱで光合成をして、そして炭水化物っていうのをつくっていくのですね。光合成、炭酸同化(たんさんどうか)ともいいますけれども、炭酸というものをまずつくっていきます。空気中の「C02」二酸化炭素みたいなのを吸って、それを炭水化物に変えていきます。これが栄養になるのです。木がこれを栄養として、大きくなってゆくのです。 そうすると、この本の紙っていうのは何かというと、空中にあった炭酸あるいは酸素、あるいは光のエネルギー、水、つまり、こういうエネルギーだったんですね、もともとは。光のエネルギーとか、そういう化学変化のエネルギーが静止した状態が木になって、木を変化させたものが紙になって、紙から、こういう霊言集の本ができているのです。 そうすると、こういう質量、あるいは物質と言ってもいい、物体と言ってもいい、物体というのは、もともとエネルギーなのです。エネルギーが、その形が変わって、固定化したものが質量なのです。 ところがこの本にマッチかライターで火をつけると、どうなるかというと、これは、ものすごい勢いでよく燃えます。パチパチパチパチ燃えますね。もう元気いっぱいです。九次元の光を発してもうパチパチパチと燃えまくります。あっという間ですね。おそらく二、三分あったら燃え尽きちゃうでしょう。短い生命です。私の四十八年の生命も短かったけれど、それよりもっと短い生命で燃え尽きちゃいます。 そうすると、この質量であったものが、今度火をつけると次にはエネルギーに変っちゃうんです。『高橋信次霊言集』で風呂をわかすことはできませんけれども、お風呂のたきつけぐらいにはできるのです。紙を引きやぶって火をつけて、たきつけにできるんです。そして薪(まき)に火をつけてお風呂がたけるのです。そうすると、質量であったものが、今度はエネルギーになります。 こういうふうに、アインシュタインが、この理論を言ったんですね。質量とエネルギーとは一緒のものであって、ある時はエネルギーになる。運動しているとエネルギーです。運動を止めると質量になる。こういうことを言いましたが、同じなんですね。 14.人体創造の原理 だから、さきほど人類の創造ということを言いましたけれども、もともとエネルギーであったものを、静止すると質量があらわれるんです。同じように四次元以降の多次元世界の中にあるエネルギー、つまり、神の生命エネルギーというものを一点に凝縮すると、何かできてくるかって言うと、まず霊的な核、霊子ができます。この霊子に光エネルギーが帯電して光の粒、光子(こうし)ができてくるのですね。光の粒ができるんです。エネルギーを凝縮すると、光の粒ができる。こういう光の粒を集めていくと、一つの大きな元素、陽子というものができます。 陽子がいっぱい集まってくると、だんだん原子になり、分子になり、そういう大きな粒子になってくるんです。ですからもともと、そういうエネルギーが凝縮すると、しだいに分子ができてくるのです。そして分子ができてくると、それで物質ができるんです。 肉体とか、八百屋で売っている野菜とか、肉屋で売っている肉とか、こんなものがみんなできちゃうのです。分子です。分子でできています。 したがって、分子ができるということは、八百屋の大根もつくることができれば、肉屋の肉をつくることもできるのです。ですから肉屋の肉までできたら、もうちょっとなんですね。肉屋の肉ができたら、次は豚か牛みたいな形にすればいいんです。次はね、そこまでもってくるんです。これはちょっと力がいるんですけれども、豚か牛までつくっちゃう。豚や牛ができ始めたら、よし次、一発、人間いくかというんで、人間というものも、そういうふうに理念型、理想の形があって、それに合わした、そういう光の粒子を集めていって、エネルギーを物質化していくと、できてくるんですね。そういうふうに地球に合った人体というのが、やがてできてきました。 もともとは円盤で来た人たちなんですけれど、やはりもといた星と、地球の星の条件が少し違うので、だんだん、そうした肉体の創造というのが行われたのです。そして、そういう人たちがまざりあって、次第に、現在の皆さんのような、地球に非常にふさわしい人体ができてきたんですね。 地球の重力に合わすには、一メートル六十センチぐらいの身長がいちばん合うのです。私は一メートル六十三ぐらいありましたかね。地球の重力に非常に適した、まあ理想的な体だったわけです。体重は七十五キロから、病気で死ぬ前は五十何キロか知らないけれども、上がったり、下がったりしましたけれども、まあ非常に理想的な、人類として最高に進化した形が高橋信次だったわけですね。そういう人体まで、三億年のあとには進化したわけです。そういうことで、本来は神の世界の中の光エネルギーが、そういう物質の創造ということをすることができました。 15.質量になっていない生命エネルギーが魂の実体 そうするとね、皆さん考えてほしいんです。じゃあ生命って一体何なのかと。あなた方の体に宿っている生命って何だろうか。生命っていうのは、結局エネルギー体に他ならないのです。神のエネルギーなのです。これが、いわゆる物質じゃない部分、物質化してないでエネルギー体として残っているのが生命なのです。つまり肉体というのがある程度物質化してこういう形が出て、その形のできぐあいによって美人だとか、ブスだとかね、二枚目だとか、醜男(ぶおとこ)だとかできるんですけれども、そういう物質とは別にその中に宿っているエネルギー体があります。これが生命エネルギーです。これのことを魂って言うんです。 これは、だから、そうしたもともとのエネルギー体で、さきほど言った質量の法則からいくと、まだ質量になっていないエネルギーなんですね。これが宿っておるのです。これがエネルギー体のままだから、肉体がほろびた時に、四次元以降の本来の世界に還っていくんです。これが魂ですね。こういうエネルギー体があるのです。 16.生命エネルギーのコントロールタワーとしての心 したがって、心っていうのは、魂の中心部分なんです。魂の知性がある部分、あるいは中枢(ちゅうすう)部分と言ってもいい。これが心なんですけれども、心の正体って何かというと、エネルギー体の、要するに核の部分です。台風の目の部分が心なんですね。台風って渦巻きでしょう。一つのエネルギーですね。あれの目の部分が心なんです。 あるいは卵でいうと、卵の黄味(きみ)の中に目がありますけれども、ああいう部分が心なんですね。そうすると、心っていうのはエネルギーの中心部分で、生命エネルギーのコントロールタワーなのです。これが心です。 したがって皆さん、心、心と言って、何だか分からない抽象的な、心の勉強をしていますけれども、心っていうものの本質は何かっていうと、そうした科学エネルギーであり、大宇宙に遍満(へんまん)している力なんです。だから人間の心っていうのが、実際は神と同通しているとは、このことを言うのです。エネルギー体だからです。そのエネルギー体がどこから来ているかっていうと、大宇宙の根源の神から来ているエネルギー体なのですね。だから、人間は神の子であるというのは、その意味でもあります。分かりますでしょうかね。そういうことなんですよ。 したがって、この三次元世界を見わたしてみると、そういうふうに、まだ神のエネルギー体のままで、いろいろな物質、人間とか植物、動物に宿っているものもあれば、それがもっと固定化し、物質化し、質量化してね、物質となっていくものもあれば、物質にならずに物質を支配して残っている力というものもある。こういう共存した世界なのです。 ですから三次元っていうのは、四次元の中にふくまれています。つまり四次元の世界というのは、そういうエネルギーの渦巻く世界なのです。そのエネルギーの渦巻く中に三次元の物質世界というのがあるんですね。 17.色心不二(しきしんふじ)・色即是空(しきそくぜくう)・空即是色(くうそくぜしき)の本当の意味 したがって「色心不二」っていう言葉がありますけれども、「色心」というのは色と心ですね。「不二」つまり、二つでないと。不二一体であるという言葉がありますけれども、本当はね、「色(しき)」っていうのは、般若心経(はんにゃしんぎょう)にありますけれども、この世に現れている姿です。物事の姿、この世に現れている物事の姿っていうのは心、すなわち大宇宙生命体のエネルギーと不二一体(ふじいったい)、要するに不即不離(ふそくふり)の関係にある。別のものじゃあないんです。一緒なんですよ。色心不二というのはこういうことなんです。 お経で言っている言葉っていうのは本当は、心と科学のことを言っているんです。色心が不二であり、色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)って言いますね。私も『原説・般若心経』の中で言ってますけれども、色即是空、つまり「色」、この世に現れている現象っていうのは、「是空(ぜくう)」、もともと空(くう)である。「空」っていうのは何かというと、空っぽじゃないんです。空っぽじゃなくて、目に見えない大宇宙の生命エネルギー体からでき上がっているんですよ、この地上のものはすべて。これが色即是空です。 空即是色、これも一緒です。そうしたエネルギー体が物質になり、物質がエネルギーになってくるんです。循環しておるんです。だからエネルギー体がかたまって木になり、それがチップスになり、『高橋信次霊言集』の本になり、それに火をつけると、また燃えてエネルギーになります。こういうふうに循環するのです。色即是空です。 あるいは永遠の人間の魂が転生輪廻していることと一緒のことです。人間として高橋信次として、肉体を持っている時は、これは「色(しき)」です。そういう色別できますね。「色」というだけあって「色恋(いろこい)」ができるのですね。色恋だってできるのです。これが「色」です。 ところが高橋信次が焼かれちゃって、灰になっちゃうと、色恋ができないんです。それで「空(くう)」になります。「空」になって、「空」は空(から)っぽかというと、そうじゃないんです。「空」というのは大川隆法さんのところへ来てマイクをにぎれば、こういうふうにしゃべれるのです。すなわち空即是色(くうそくぜしき)なのですね。こうしてまた色、色がだせるんですね。 だから大川隆法さんの力を借りれば、私は恋の一つや二つはできるのです。ね、こういうふうに皆さん、色即是空(しきそくぜくう)の本当の意味が分かりましたか。色心不二(しきしんふじ)という意味が分かりましたか。これが今日の主題である「心と科学」ということなのです。まあ今日は、これで話をおいときます。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/317.html
目次 1.心の革命の始まり 2.新時代の序曲 3.変革につぐ変革を 4.真実の勇気を持て 5.光の革命 (1988年7月19日の霊示) 1.心の革命の始まり さて、いよいよ本書のクライマックスといいますか、最後のところにさしかかってきました。 本書の標題にもありますけど、心の革命だね、これはほんとうに革命なんですよ、みなさん。この革命なくしてね、人類は救われることはない。幸福になることもないんです。世の中が変わることもないんですね。 革命なんていうのは、別に暴力でね、人の頭をひっぱたくのが革命じゃないんですよ。政府倒すことが革命じゃないんですよ。そんなことはね、ある意味ではやさしいことですよ。ゲバ棒振るってね、学生運動やったりすることはそんなにむずかしくないんですよ。ワッショイ、ワッショイやることは別にむずかしくないです。 でもね、意外にむずかしいのがこの心の革命なんですよ。心のなかを変えること。これはむずかしいですよ。どうやって変えますか。ねえ、一人ひとりの心のなかなんかどうやって革命起こしますか。むずかしいですよ。ひとつのイデオロギーでね、マルクス主義を信じるとかね、天皇制を信じるとか、こんなことで人を集めて動くことはそうむずかしいことではないです。けれども、一人ひとりの心を革命するということは、これはたいへんむずかしいことです。 なぜならここは治外法権というのがあって、みんな立ち入ることができないようになっているんですね。まったく立ち入れないんです。心とはそういう聖域なんです。各人の心は聖域です。霊たちであっても自由自在には踏みこめないんですね。踏みこめる条件は霊道を開いているという前提ですね。霊道を開いていても完全には踏みこめません。なぜなら本人自身の意志というのがありますからね。 たとえば私もこういうふうに通信を送っていますが、これは通信を受けている〇〇さんが絶対受けたくないと思ったら、私は通信を送れないんですね。まあ出すことはできるけれども、それを伝えることはできません。本人が受ける気があれば受けられますが、受けたくなければはね返されますね。そのようにむずかしいんですね。 このようにね、人の心というのはものすごい自治権、自由権というのがあって、それを行使できるようになっているんですね。ここまで守られているんです。その意味ではたいへんありがたいことでもあるんですね。 さて私はね、まあいくつかの本を次々と出していますが、なんとか人びとの心に革命を起こしていきたい、その火つけ役をしたい、導火線に火をつけたいという、そうした気持ちでいっぱいです。もちろん、私よりりっぱなことを言う霊人はいくらでもいるでしょう。そうした方にはそうした方の役割があるでしょう。けれどね、私はできるだけ多くの人に教えたいっていうのが、私のほんとうの気持ちです。 まあだから、内容もおもしろおかしくねえ、赤川次郎顔負けの内容を出してるんですよ。それだけ多くの人に読まれたいという気持ちがあるからね。私はむずかしく言おうと思ったらいくらでも言えます。みなさんが読んでもわからんように言おうと思えばいくらでも言えます。そんな固く言おうと思えばいくらでもできます。チンプンカンプンのことを言おうと思えばこんなのかんたんです。けれども、あえてわかりやすく一人ひとりが読んでわかるように、小学生の学力でもわかるように言ってるんです。おじいちゃん、おばあちゃんでもわかるように言っています。 なぜかって言うとね、心の革命を起こすのは、そんな哲学的な議論じゃないからです。むずかしい学問やらなきゃわからんような、そんな理論で人の心なんて変わらんのです。八正道だって私はずいぶんわかりやすく話しましたが、八正道なんてこんなのひねくり回して哲学的に言ったって人間変わらんのです。人間が変わらんような理論は存在の意味ないんです。 私はマルキストじゃありません。マルクスもきらいです。けれどもマルクスのようなことを言いたい。「世の哲学者たちは世界をいろいろに解釈しただけである。しかし、今ほんとうにだいじなことは世界を解釈することではなくて、世界を変革することである。」マルクスはそういうことを言ったと思います。私も主義、主張は違いますが、同じ気持ちです。世界をいくら解釈したところで、そんなものはなんの意味もない。クソの役にも立たんと思っています。そんな世界を解釈することではなくて、世界をどう変革するかということが今だいじなことだと思うんですね。 そしてその変革の先はなにかというと、社会制度を変えるとかね、経済構造を変えるとか、そうしたことももちろんあるけれども、いちばんまっ先にやるのはこの心の革命です。これを始めんかぎりどうにもこうにもならんのです。その心の革命をやるにはむずかしい言葉は不要です。私が言っているように、ただ人間の心というもののしくみ、その作用、そのはたらきというものを教えて、どうすればユートピアができるのか、どうすれば地獄ができないのか、これをはっきりさせるということですね。これをしないかぎり、この革命を通さんかぎリユートピアということはないんです。 2.新時代の序曲 さて、新しい時代が今始まりかけています。そして、次第しだいに新時代の序曲というのが始まってきたように思います。その新時代の序曲として、みなさんが見ていて特徴的であることはいったいなんだと思いますか。 私はね、今続々と霊言といいますか、天上界の人びとが地上にメッセージを送っているわけですが、このメッセージの群れ、大群というものの意味をどう見るかということこれがだいじではないかと思いますね。 決して一枚のメッセージを送って、それを暗記して毎日拝めなんてことは私たちは言ってません。また、宗教だって、今の宗教法人が言うようなあんな掛け軸みたいのをぶら下げて拝めなんて、そんなことはどうでもいいことですね。私はね、そんな形式はどうでもよいと思っています。問題は中身です。メッセージが続々と出ています。なにゆえに、どのような意図でもって出ているのか、これを知ってほしいんです。まず、なぜ日本の地が選ばれたのか。そしてなにゆえにそういう天上界からのメッセージの大群というような方法が取られているのか。これを考えていただきたいのです。 それはひとつには、今の日本という国が世界の注目すべき国になっているということです。ある意味で最強の国のひとつになっています。軍事力は足りないかもしれないが、国力としては最強のひとつになってきていますね。そして国民はひじょうに高い教育を受けています。高い教育を受けて、そして高度な認識力、判断力があると言われています。こうしたところに大量のメッセージが天上界から届けられるということは、いったいなにを意味しているのでしょうか。それは、私は思うのですが、これこそが新しい時代のほんとうの学びである。学びの方向であるということだと思うんですね。 したがって、これからの新時代の序曲として、今奏でられているものはいったいなにかというと、神理を知らずして人ではないという感じですね、この感じがみなさんわかりましょうか。 実在界の霊たちが次々とメッセージを送っています。それが書物になってます。書物になって、メッセージを送ってから数か月で本になるというありがたい時代になっています。これが続々と本として出されるということはどういうことかというと、これを読まないでは現代人とはもはや言えない、常識人とは言えない、知識人とは言えないという、そういう時代を創りたいという意志があるということです。そして、さまざまなる高級霊の言葉を、その教えの内容を一人でも多くの人に学んでほしいということだと思います。 さすれば、私は今、世の中を変えていく方法としてなにがあるかというと、この今の日本という出版文化の栄えている国において、書物という形を取って神理の伝道を切りこんでいくということを、これをひとつのムーブメントとする必要があると思うんです。神理の書を読み、そしてそれによって学習し、学習した結果にもとづいて行動をしていくというこのプロセス、神理の探究・学習・伝道という、このプロセスを各人が持つということですね。そしてこれを新時氏の行動方針にしていく必要があると思うんです。 今、全国各地で塾が流行っています。受験勉強用の塾ですね、これが全国各地に流行ってますが、過当競争でやがて塾はつぶれていくでしょう。いろいろつぶれていくと思います。そんな必要はないからです。それはどのね、子供を縛って一日じゅう意味もない知識を詰めこむ塾、これがいっぱい流行ってもしょうがないんです。学校だって不要になってきつつある時です。そんなの不要なんです。必要がないんです。 これから必要なのは、心のことを教える塾なんです。これしかありません。人の心に革命を起こし、そして人びとに真実の生き方を教える塾が日本全国に流行らなければいけないんです。だから、塾の経営者でもう経営難が見えているところは、早目に神理の勉強して、これを教えられるような体制を組まなきゃいけませんよ。そうじゃないと倒産しちゃいますよ。 まあそうした冗談も言いながら話してますが、これからはね、ほんとうに日本各地で心の塾、これが流行ります。現代の松下村塾、あるいは現代の勝海舟塾でもいいけれども、そうしたものが日本国中で流行らなきゃいけません。こうした神理の書物をテキストとして、いろんなところで塾が流行って勉強する人たちが集まるという雰囲気を創っていく必要があります。 いろんな主要都市で、町で村で、神理の書を中心として学習会を盛り上げ、そして神理をそこで教える人たちが出てくる、こうしたムーブメントを創っていく必要があります。これがどうしてもあるのです。これをね、現代の学習塾のように、あるいはカルチャーセンターではありませんが、生涯学習のように、大いなるムーブメントとして盛り上げていく必要があるんです。こうした動きが新時代の序曲となっているのです。 3.変革につぐ変革を いま、そうした序曲が始まっていると言いましたが、私はね、高橋信次というような名前が有名になるかならんかというようなことはどうでもいいんです。けれども、できうるならば皮切り役をやりたいんです。私の情熱によって日本の各地にそうした神理のムーブメントを起こしたい、神理を学ぶというそうしたことに対するムーブメントを起こしたいと思うのです。 ひと昔前には、中国十億の民が、毛沢東語録という赤い表紙の本をパラパラさせながらみな歩いてました。まあ毛語録も結構ですけども、そんなものではなくて、こうした私の霊示集のようなものを持って歩くのがファッションになるような、そうした時代をどうしても創りたいんですよ。電車に乗りこんだら、あっちもこっちも高橋信次の霊示集を読んでいるような、そんな人がいっぱい目立つような時代、こういうふうにしたいんですよ。 だから、私は本書の読者に言いたい。あなた方はこうした霊物を読んでいることを恥ずかしがっちゃいけない。そんなことを恥ずかしがるということ自体が神理価値に反していることです。これを堂々と胸を張って教えてほしい。人に知らせてほしいと思う。霊がついているから恥ずかしいっていうんで、電車のなかで本にカバーかけて読んでいるようじゃダメです。そんな気の弱いことでどうするか。 したがってこの私の読者がもし高橋信次のファンであるというのなら、高橋信次の霊言ファンであるというならね、カバーなんかつけないで、高橋信次のこの『心の革命』でもなんでもいいけれども、つり皮にぶらさがってね、座っている人の目に見えるように大きく広げて読んでやってくれ。毎朝、毎朝、帰り、帰りね、みんな読んでくれ。職場でもその本が目につくようにピラーッとどこでも置いておいてくれ。そして一人でも多くの人に気がついてほしいんだ。 私は何回も言っているけど、こんなものは何万人ぐらいが読んだぐらいでは世の中は変わらんのです。世の中が変わるためには、最低、最低ですよ、百万人という単位は最低必要です。私の書物なら、それが百万、二百万、三百万は最低読まれたい。もっと読んでほしい、ほんとうは一千万人ぐらいに読まれたい。そのためには、こんなものをキワモノ扱いさせては断じてならんということです。神理の書をキワモノかなんかのように言わすことを断じてしてはならん。 もちろん組織があってそれなりの行動指針を出して動いているので、もちろんその流れに乗っていくということもだいじだけども、一人ひとりの読者という視点、君たち一人ひとりに私が呼びかけるとするならば、この高橋信次の本というのをこれをいろんなところで読んでください。見てください。見せてください。見られるところで読んでください。電車のなかで堂々と読んでください。学校に持っていってください。職場に持っていってください。知りあいの人にあげてください。 お中元でうなぎの蒲焼きを送ってきたら、お返しに高橋信次の霊言セットでも送ってください。お中元でもお歳暮でも結構です。お礼には送ってやってください。ねえ。入学のお祝いに『高橋信次の新復活』とかね、卒業のお祝いに『高橋信次の心の革命』でもなんでもいいんです。みんな勇気をもってね、変人だと思わないでやってくださいよ。そうしなければ広まりませんよ。そうじゃありませんか。 私は読んでほしいんですよ、みなさんに。そのために情熱的に言っているんですね。もちろん書店の人だって力を入れてやっていただきたいと思います。どんどんどんどん本出していきますから、力を入れてやってほしいと思いますが、みなさんね、これを読むということは義務ですよ。私はね、みなさんがいくら買ってくれたって、そんなお金一文もはいりません。一円の得にもなりません。地上で有名になったところでどうっていうことありません。言いたいのはこの中身が言いたいんです。「心の時代到来」ということ、これが言いたいんです。そのためには、各人の心を変革する、これ以外に手がないということを、私はただそれだけを言いたいんですね。 だから、もちろん一読者としてやれることには限界があるでしょう。けれどもこの本を読んだ人がね、この本を一人にでも二人にでも、三人にでも五人にでも、たとえば五人の人に広げてくれたらね、日本全体で合わせたらその五倍の人が知ることになりますね。それらの人がまたこれを広げてくれたらより多くの人が読んでくれます。私は宗教団体の会員の数が何人になるかなんていうことは関係ないんです。そんなことには興味も関心もありません。そうではありません。神理を読み、神理に接したことのある人が一人でも多く増えてほしいんです。接触面積を増やしてほしいんです。 だからまずね、心の革命と言うけれども、この私の本を読んだ人はもう「高橋信次党」に属したんです。マルキストじゃない、高橋信次キストです。キストというのはおかしいかもしれないが、高橋信次派に属したんです。みなさんはもう洗脳されたんです。ねえ、共産党みたいに赤になったんです。まっ赤になったんです。まっ赤かまっ青か知りませんが、ある程度の色が染まっているんですね。私の教えを受けた以上もうゾンビみたいなもんですね。高橋信次の魂が乗りうつったんです。読者のみなさんに乗リうつったんですね。乗りうつったらゾンビはゾンビで仲間を増やすんです。 いいですか。だから、この高橋信次の霊言読んだらもうとりつかれたと思ってください。悪霊でも善霊でいいけれども、もう君たちはとりつかれたんです。とりつかれてもう逃れることができないですね。バラ十字じゃないけども、なにかもう秘密結社にはいったようなもんだ。ねえ、だから君たちは仲間を増やす義務があるんです。ゾンビは自己増殖しなきゃ意味がないんです。どんどんどんどん広げていく必要があるんですよ。 だから、変革につぐ変革をと言っても、これはね、もっと具体的勇気をもって行動せよということですね。まず、家族のなかでこうした神理の勉強をやってください。みながわかるように、家族のなかで「なんだお前、変なことをやっておかしくなったんじゃないか」なんて言わせておかないでね、いいものはいい、これを認めさせる。そして知らせる。多くの人に広げてほしいんです。 これからもうカルピスセットは流行りません。霊言セットです。これをセットでもう友達に送る。会社の上役に送る。部下に送る。近所に送る。親戚に送る。カルピスさん、ごめんなさい。山本山の海苔屋さんごめんなさい。水ようかんやっている人ごめんなさい。申しわけございませんが、しかし人類が生き残るためには霊言セットでも送ってもらわんともうしょうがないんです。そういう時代が来ているんです。心の糧をね、心の缶詰を数多く、多くの人に読んでいただきたいんです。それは、神理を神理と思う人にほんとうの勇気を持っていただくこと、これ以外にないんです。これについてさらに話をします。 4.真実の勇気を持て 結局はここに来るんですね。霊的なものをなぜみながいやがるか、隠したがるか。どうですか。まあ学生さんも読者のなかにいるでしょう。若手のサラリーマンもいるでしょう。本棚に私たちの本を並べていて、家の人が来たり、友人が来たりして見られたら恥ずかしいという気持ちがありませんか。なるべく隠したいという気持ちがありませんか。その本だけ裏返しにカバーしてみたりしていませんか。どうですか。こんなことでね、こそこそしているようでは世の中は絶対に変わらないということです。 まず一人ひとりが不動の覚悟を持ち、そして自信を持ち、勇気を持って神理を広げていこうとしなさい。それはね、会員になれということを言っているのではない。そんなことは意味がないことだ。なってもならんでもいい、そんなことは個人の自由だ。そうではなくて、学んだこと、これを神の世界から出た言葉だと思っているなら、それを実践してみせることです。そして、その実践を通してより多くの人を導くことです。影響を与えることです。そうじゃありませんか。 また、ある種の人たちに言いたいけれども、特に先生なんかをやっている人、小学校、中学校、高校、大学、こうしたところで先生をやっているような人はね、どうか神理を知ってほしい。これは義務だと思ってください。神から与えられた義務です。学校の先生で、もう知識だけを教えたってダメです。これからは心を教えない教師なんかもうクビです。文部省が認めても私は認めない。 子供たちに教えるべきこと、子供たちに与えるべき鍛大の遺産は心の教えであるのです。みなさんは教科を教えているでしょう。学科を教えているでしょう。その合間にね、心の話をしてほしいんですよ。そして、教室でできないのなら自宅ででも結構、生徒たちと遊んでるときでも結構、折りに触れ機に触れ真実の話をしてほしいんです。心の偉大性を語ってほしいんです。人間とはどういう生命を持っているのか、その永遠の生命について語ってほしいんです。 そして、心というものはひじょうに汚れやすいものであるから、毎日毎日お洗濯をしなければいけないということを教えてほしいんです。反省ということかだいじだということを教えてほしいんです。だから特に教職という職業にある人たちは、このことを知ってほしいと思います。 また、宗教界にある人たちもそうです。仏教の人たち、神道の人たち、あるいはキリスト教会の人たち、みなさん方は特定の宗派に属しているから、それ以外のものを受け入れてはいかんと思いがちでしょう。けれどもね、神理は神理、真実は真実であります。仏教だって仏陀が死んで二千何百年、その間なにもせんと思いますか。なんの変革もないと思いますか。キリスト教だってそうです。イエス様が二千年間黙っていると思いますか。なんの心の改革もしないでいると思いますか。日本神道系だってそうですよ。三千年前の神様がなにもしないでゴロゴロ昼寝していると思いますか。この世界はね、日進月歩なんです。 神理は不変ですが、この不変の神理をどのようにアレンジしなおして人びとに広めるかということにおいて、その変革は日進月歩です。キリスト教も早く脱皮しないと、今のままではもう行きづまりますよ。もうそんな形式主義はいらないんです。教会で十字を切っていることによっては救われはしないんです。よいですか、単に「汝ら悔い改めよ」と言ってるだけでは済まないということを知りなさい。悔い改めのその方法は、神理知識というものを得て、その神理知識をテコとしてみずからの内をふり返るということです。そうではないですか。 だから専門家の方もね、どうかこわがらずに、先入観で判断しないで神理というものをとり入れて考えていただきたいのです。そして、真実の勇気をもって多くの人びとを導いてほしいと、そのように思います。 また、会社なんかで経営者をやっている人たちは、是が非でも神理を学んでいただく義務がある。君たちが、あなた方が神理を知っているということが、多くの人にどれだけ影響力を与えるかということ、それを知っていただきたい。平社員が神理を学ぶのもいいけれども、経営者がそれを学んでいるということがいったいどれだけの影響力があるかということを知ってほしいのです。世間的に影響力のある人ほど神理を知っていただきたいのです。そしてそれを実践してほしい、真実の勇気を奮い起こしてほしいと、そのように思います。 5.光の革命 さて、本書も最後までこぎつけました。喉(のど)をからしていろんなことを語ってきました。 私がね、本書で言いたかったことは一言です。「光の革命を起こそう。やろうじゃないか、みなさん」そういうことです。徹底的にやろうじゃありませんか。やらんでどうする。やらんでなにが変わる。世の中のなにが変わる。いったい世界がどうなるんだ。これだけの光があり、光の力があり、光の教えがあるんだから、広げようじゃないか。多くの人に知ってもらおうじゃないか。唯物主義国日本なんてこんなの世界の恥さらしです。そうじゃないですか。 みなさんはね、宗教なんて言って馬鹿にしちゃいけないよ。宗教というのは、「宇宙を示す」と書いてあるんですよ。宗教というのは宇宙の根本を教えることです。その成り立ちを教えることです。そのなかを流れているほんとうの法則を教えることです。 もうマスコミは、宗教を馬鹿にするのはもうやめていただきたい。もう新聞発行するのはやめてください。いろんな新聞社があるけれども、もうこんな霊の世界はインチキだ、迷信だと言ってるような新聞社はもうやめてください。もうそんなところの新聞取るのはもうみなやめてください。もうそんな新聞捨ててください。そんな週刊誌もう捨ててください。もうね、こんなもの私はもう見たくもない。こんな真実に反したことをいつまで言っておるのか。 霊の世界はあるからあると言ってるんだよ。ほんとうにあるんですよ。私が現にこうして言ってるんだから。あるんです。それを迷信だなんだと言ってるような人たちは、もうこういうのは地獄行きの特急列車に乗ってるんだよ。その特急列車に乗っているということを知らないで、それに他の人を乗せるようなことは、絶対にやめていただきたい。私はそう思います。自分が行くのはいいけれども、もう人を乗せるのだけはやめなさい。ひっぱるのはやめなさい。ほんとうの世界は現実にあるんです。それだけを言っておきたい。こうしてね、勇気をもって、光の革命を起こしていきたいと思います。 私は残念なんだけれどもね、できたらそれは高橋信次の霊言だって〇〇さん以外のとこからもいっぱい出してね、いろんなとこから出して世界じゅうに本をあふれさせて、アメリカ人にも出てヨーロッパ人にも出てね、インド人にも出ていろんなとこでやったなら世界も変わると思うけれども、いかんせん神の法則は法則として現にあるんです。他のところに出たくても出られないんです。私はね、GLAという団体のところで霊言したくても、私の霊言受けられる人が一人もいないんです。しょうがないんです。受けられると言うのなら出してみたらいいんです。絶対出せないんです。霊言集出せません。受けられる人いないからです。いないんです。だからほんとは私はつらいんです。いろんなところで出して言いたいけども言えない。ここ一点しか通せない。通せないから無理を言っています。 これほど次々と本を世に問うて、私はほんとうにみなさんに申しわけないと思ってます。こんなに無理を言って、ほんとに他の団体の主宰者がね、よその団体に来てこんな無理を言ってることを申しわけないと思ってます。そのような無理を言うことによって迷惑をずいぶんかけてることも知っています。ほんとに迷惑をかけてます。申しわけないと思っています。けれども、これしか私にとっては取る道がない、方法がないんです。 どうか私のそうした立場も考えて、私のこの一言一言が、一冊一冊がより多くの人たちのほんとうの心の糧となり、光の革命が地上に成就していくための力強いほんとうの力となるように祈っています。 読者のみなさんも、私が何度もくり返して言ったことをよくよく味わってください。言葉は美しくないかもしれません。日本語はへたかもしれません。外人よりへたかもわからない。けれども、私が言ってる言葉は真実の言葉です。この真実の言葉を聞いたなら、どうか変わってください。そして世の中を変えていってください。光の革命を成就しようじゃありませんか。 そのためにどうか力になってください。私の霊言が広がることを支持してください。助けてください。そして光の天使たちが、光の戦士たちが地上で活動していくことへ、どうか力強い支援を送ってやってください。それを祈っています。 ほんと、みんな頼んだよ。ほんとに頼むよ。それだけを言って、本書を終えたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/257.html
目次 1.この本は、天上界の権威者たちの霊示を用いてつづられている 2.中級の瞑想のガイダンス 3.神仏と称される方は、高級霊という意味での神仏である 4.自分のなかにある光り輝く本質を伸ばしていったとき、高級神霊になれる 5.幸せを感得する能力を磨くことによって幸福感は深まる 6.幸せな生き方をしていること自体が、ひとつの伝道でもある 7.希望の瞑想では、希望の原理が克明に説かれている 8.人間には、過去に引っ張られ、未来に引っ張られる心の方向性がある 9.過去、現在、未来を照らす瞑想は、人間を幸せにする 10.自己実現瞑想の究極の形は、イエスの人生そのものであった 11.最高の自己実現の方法を知ったとき、未熟な自分に気づく 12.カントによる「頭の良くなる瞑想」 13.宇宙即我(うちゅうそくわれ)の瞑想は、大宗教指導者の瞑想である 14.宇宙即我の経験ができた人は、神の子としての自分に目覚めた人と言える 15.ソクラテスは、地球を眼下に見下(お)ろすような宇宙即我を経験している 16.ほんとうの自分自身を知るためには、日常性からの脱却が必要 17.瞑想のなかで本来の自分自身を発見しなさい 1.この本は、天上界の権威者たちの霊示を用いてつづられている この本は、主として瞑想を中心として編(あ)まれた本でありますが、従来の瞑想の本と大変違っているところは、それぞれの瞑想、特徴ある瞑想について、その筋の権威者たちの言葉を用いて語られ、つづられた瞑想法であるということです。 それぞれの筋の権威者といっても、まあ、読者の皆様方はにわかには信ずることもできないかもしれませんけれども、その内容にあるように、まず、「禅の瞑想」においては、鎌倉時代の高僧で、道元禅の始祖である道元禅師による「禅の瞑想」ですね。これについての霊示を受けて、直接語っていただきました。その内容です。 たとえば、その次の「無為自然の瞑想」という瞑想においては、かつて中国にお生まれになられて、孔子と並び称された老子、道教の祖・老子の思想です。老子という人が、どのような瞑想というのを行なっておったのか、これを、彼自身の霊示を通じて、言葉に表わしたのが、この「無為自然の瞑想」です。 あるいは、その次には、「満月瞑想」というのが入っておりますけれども、これは、もともとブッダの瞑想でもあったわけですが、近年、日本で肉体を持ったGLAの主宰をしていた高橋信次さんという方にお願いして、あの世の世界からほんとうの意味での満月瞑想というものを語ってもらいました。 2.中級の瞑想のガイダンス 以上は、まあだいたい初級の瞑想法でもありましょうけれども、さらにちょっとむずかしい中級の瞑想法として、まず、「止観瞑想(しかんめいそう)」というのをあげてあります。これも、「止観瞑想」で有名な中国の天台智顗大師(てんだいちぎだいし)、この方からの霊示を中心にした瞑想です。「止観瞑想」というのは、反省に近い、反省的瞑想とも俗に言われますけれども、そうした瞑想の方法です。 それから次は、「足ることを知る瞑想」。人間というものは結局のところ、欲望のままに自分自身というものを見失って、ほんとうの自分自身を見失って欲望のままに生きているから、さまざまな混乱、悩み、苦しみというものをつくり出しておるわけです。そういうことで、ほんとうに足ることを知るというのは何かということ、この瞑想、足ることを知ることの瞑想、これをまた同じく高橋信次さんにお願いして霊示を受けたものです。 その次には、「対人関係調和の瞑想」というのをあげました。これは、日蓮聖人、私自身の直接の指導霊でもある日蓮聖人から受けた霊示を中心とした瞑想法です。 日蓮聖人という方は、人間の悩みの解決ということに関して、大変力量を持っておられる方で、また経験が豊富で、どのように導けば、人間というものが、その悩みから脱することができるのか、あるいは向上することができるのか、こういうことを常々考えておられる方です。その日蓮さんのご指導によるものですから、非常に明快でわかりやすい瞑想だと思います。この「対人関係調和の瞑想」というのは、ある意味では、祈りに近いものかもしれません。瞑想というよりは、祈りに近いものかもしれませんけれども、人間と人間の間をよくしていこうという考え方のなかには、祈りにも通じるし、瞑想にも通じるし、反省にも通じるものがあろうと思います。 さらにこの後、日本神道系の方がた、神々をお呼びして、さまざまな瞑想を授(さず)かりました。まず第一に、天照大御神(あまてらすおおみかみ)から、「光の瞑想」というものを授かりました。日本神道系というのは、地上に生きておられる皆さんには、なかなかそこまで認識がいっておらぬかもしれませんけれども、「光」ということを大変重視しています。「本来闇なし」と。闇というものを見つめないで、光を中心に見ていこうというのが神道系なのです。 3.神仏と称される方は、高級霊という意味での神仏である まあ昔から、神仏と言って、神とか仏とか言って、神と仏とは別のものか、ひとつのものかというような意見がずいぶんあります。実際は、究極の神というのはもちろん唯一のものであり、宗派によって分かれるものでありませんけれども、人格的な性質を持った高級神霊という意味では、確かに神仏と称されるものがあります。 ここに出て来られる方がたも、まあ神仏と言えば神仏にあたる方がたですけれども、日本神道系の方がたは、とくに、仏とは言わずに神と言われています。 では、言葉で言う神と仏の違いは一体どこにあるのかと言うと、結局のところ、神様というのは、あまり努力、精進して悟った存在というものではないということですね。最初から光り輝いている存在としてご自分というものを考えておられる。こういう人が神様のようです。仏様というのは、やはり人間として生まれられて、努力の結果、悟りを得た方々を仏と呼んでおるようです。しかしながら、ほんとうは、神と言っても仏と言っても、実は高級霊という意味でもあり、上下(かみしも)の上(かみ)、上下(じょうげ)の上(じょう)の方の意味なのですね。普通の人間にくらべて、はるかにすぐれた上(かみ)の方という意味の神です。 したがって、天照大御神(あまてらすおおみかみ)にしても、天之御中主之神様(あめのみなかぬしのかみ)にしても、そういう具体的な名前がある人格神であるということは、かつて地上に肉体を持たれた方であるということなのです。けれども、いわゆる仏とは違うとあえて言うとすれば、神様というのは、最初から光り輝いた存在だという意識を持っておられる、こういうところが違うのです。 4.自分のなかにある光り輝く本質を伸ばしていったとき、高級神霊になれる とくに天照大御神様が今回の「光の瞑想」で啓示されたことというのは、人間というのはとにかく生きているうちに暗いところ、闇というものを見つめすぎる傾向がある、と。ところが、自分の人生というものを、よく振り返って見てみるならば、けっこういろんなところで光り輝いている自分というものがあるはすだ。その光り輝いている自分というものをしっかりと見つめたならば、これからどのようにしていったら自分が光っていくかという姿が見えるはずだ。だから、努力していきなさい、と。このように言っておられるわけですね。これは、天照大御神様の考えです。 確かに、そういったふうに自分の過去のなかから光り輝いている自分というのを取り出して、そのエキスを取り出して自分の生き方の参考にし、今後そのように光っていく自分というものをつくっていけば、やがて人間が、いわゆる神様になっていくわけですね。これは間違いないことですし、天上界におられる神様方も光っている存在であって、暗い陰(かげ)はみじんもありません。まあ、そういう考えを理解する参考になりましょう。 5.幸せを感得する能力を磨くことによって幸福感は深まる また、その次には、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)様、あるいは、天之御中主之命(あめのみなかぬしのみこと)と言ってもよろしいですけれども、そういう方から「幸せの瞑想」というのをいただきました。この幸せの瞑想というのは、今回の幸福瞑想法のネーミングの由来でもありますけれども、どうしたら幸せになるのかという、幸せになるための瞑想方法というのを教えていただいたわけです。 元来、「禅の瞑想」のなかで、道元も言われたように、瞑想というのは、自分を空(むな)しくする、あるいは無にする、空にする、無の瞑想、空の瞑想というのが、その発想の中心にあったようです。けれども、この無の瞑想、空の瞑想というのは、要するに、執着に執われた自分自身を洗い流すという意味で重要だったと思うんですね。 しかし、執着を洗い流しただけでは、発展した自分自身というのをつかむことは、ほんとうはできない。空と無の奥に、さらに奥なるものがあるのではないかということですね。ただ大掃除をしただけでは部屋はきれいにはならない。大掃除をした後で、すなわち、空や無の瞑想をした後で、部屋というものを素晴らしい部屋にするために、さらなる工夫をする必要があるのではないか。そのさらに素晴らしくしていく工夫ということのために、この「幸せの瞑想」というのがあるわけです。 これも、「光の瞑想」と同じで、自分の人生のなかの感激した瞬間、幸せの瞬間というものを、瞑想中に克明に思い出して、そうした素直に喜び得た自分、純粋な自分というものを心に描いて、それを参考にして、これからの生き方というのをつくっていこうという瞑想ですね。 そして、御中主之神(みなかぬしのかみ)様は、ひとつの提唱をしておられます。つまり、人間は自分が幸福だ、不幸だと言うけれども、世の人びとの声を聞いてみると、不幸だと言う人の声が強い。なぜ不幸だと言う人の声が強いか。結局、不幸の感覚が強すぎるということですね。自分の不幸、足りざるところの感覚が強すぎて、足りているところ、幸せのところを感じる能力が低下しているのが現代人ではないか。そういう現代人に対しては、幸せを感じ取る能力、幸せの感覚というのをさらに磨いていく必要があるのではないか。これも意識して、努力して磨いていくことができるのではないか、そういうことを訴えかけておられます。 6.幸せな生き方をしていること自体が、ひとつの伝道でもある これは、先程言った高橋信次氏の「足ることを知る瞑想」とも関係することでしょうけれども、足ることを知って、さらに幸せの瞑想へと入っていくわけです。これが順路ですね。まず足ることを知らないことから、不幸感覚が強まっています。 足ることを知って、不幸感覚を止めた後ではじめて、「幸せの瞑想」へと人間は入っていけるのだと思います。この「幸せの瞑想」ができるようになれば、かなり幸福感というのが満ち満ちてくると思います。その幸福感を胸にいだいて日々を生きていると、なぜかポカポカと体も暖かく、人間関係もうまくいって、幸福な自分というものを見い出していけるでしょう。 また、読者の皆さんも、他人を見ていて、いつも幸せそうな人を見ると、いいなと思うはずです。幸せな人を見ると、「まあ、羨(うらや)ましいね、何とかして不幸にしてあげたい」と思うような人も例外的にはおるかもしれませんが、たいていは、そういう幸せそうな人を見ると、「自分も、ああいうふうになりたいな」と考えると思うんです。 したがって、幸せな生き方をしていること自体が、そのこと自体が、ひとつの伝道でもあるわけです。神理の伝道なわけですね。 まあ、「幸せの瞑想」ができて、幸せな毎日を送れるようになると、その人を見て、周りの人が悟っていくんです。救われていくんです。そして、幸せの論が広がっていきます。ですから、こういう意味での神理の伝道もあるということですね。これを忘れないでいただきたいと思います。 7.希望の瞑想では、希望の原理が克明に説かれている さらに今回は、上級瞑想として、四つの瞑想をあげてあります。まず最初に、生長の家の前総裁であった谷口雅春さんの「希望の瞑想」というのを入れさせていただきました。 谷口雅春さんは、自己実現の大家でもあり、百事如意(ひゃくじにょい)という言葉どおり、自分が思ったとおりの世界を展開される方でもありました。九十何歳まで生きられて、自分の思ったとおりの人生を歩んで来られた方のお言葉ですから、その「希望の瞑想」の言葉にも力があります。実績があります。また、実現可能性があります。 しかも、谷口さんがこの瞑想で皆様にお教えしたかったことは、どうやら、「勇気の瞑想」ということなのですね。人間は、平々凡々と生きていったのではいけない。勇気を持って、前向きに、発展的に生きていかねばならん、と。そのための希望の原理というものを非常に克明に説いてくれたわけです。まあおそらく、この希望の瞑想は、それこそ文字どおり、多くの人たちの希望の原理となっていくであろうと思います。 そしてまた、原理を生かして、さらに発展し、幸せになっていかれる方が増えていくことが大事だと思います。 8.人間には、過去に引っ張られ、未来に引っ張られる心の方向性がある 人間の心には傾向性があって、どちらかに必ず引っ張っていかれます。たとえば、過去のほうにばかり向かっている人というのは、とにかく苦労性ですね。あれこれと昔のことを思い出しては、「だから自分はダメなんだな」とばかり繰り返し言っています。 また、未来についても取り越し苦労性の人は、未来の悪いことばかりをいろいろ予想して、ビクビクしながら待っています。 こういうようにして、人間は、ほんとうは現在だけに生きているにもかかわらず、過去に引っ張られ、未来に引っ張られて生きてしまうのです。こういう心の方向性というのが必すあるっていうことですね。 9.過去、現在、未来を照らす瞑想は、人間を幸せにする では、そういう心の方向性があるならば、その方向性を十分生かして、悪いほうではなくて、いい方向を見ながらの方向性で生きていこうじゃないか。そのために、過去のいい方向を見るのが、「光の瞑想」であり、「幸せの瞑想」であろう。また、未来のいい方向を見るのが、「希望の瞑想」であり、「自己実現瞑想」であろう、と。 そういうことで、現在に生きながらも、過去に心引かれ、未来に心引かれる人間でありますから、過去と未来の狭間(はざま)にあって私たちが努力すべきことは、過去に対しては、祝福を持って自分の過去を祝おうということです。また、未来の自分に対しては、希望を持って自分の未来を迎えようじゃないか、と。 ある西欧の作家の作品のなかに、次のようなたとえ話があります。つまり、人間というものは二つの壁にはさまれている。前へ動こうと前の壁を押すと、後ろの壁が追ってくる。後ろの壁を押すと、また前の壁が追ってくる。というふうに、過去の壁と未来の壁にはさまった存在、過去と未来の間にある存在、これが人間だというふうに哲学的に定義する人もいます。確かに、そのとおりですね。 一日一生で、一日の枠のなかで生きればいいという昔のイエス様の教えもあるんですけれども、なかなかそれだけではすまないことも多いですから、そのために、自分の過去を照らし、未来を照らす瞑想というのが大事なんです。 「光の瞑想」「幸せの瞑想」という過去を照らして、その反射光で現在を照らす瞑想、それから、「希望の瞑想」という現在から未来を照らしていく瞑想、こういうのがあるのですね。こういう原理をしっかりと勉強してほしいと思います。 10.自己実現瞑想の究極の形は、イエスの人生そのものであった さらに次の瞑想として、「自己実現瞑想」というのをあげました。これは、イエス・キリスト直伝(じきでん)です。こうしたことはちょっとあり得ないことで、クリスチャンのなかには、眉に唾(つば)をして読まれる方もいるかもしれませんが、この「自己実現瞑想」の内容をお読みになれば、これは、イエス様の思想そのものであることにお気づきになるでしょう。実際に、イエス・キリストから直々に、この瞑想というものの指導を受けたのです。その霊示を持ってつづったのが、このキリストによる「自己実現瞑想」なのです。 イエス様は、この自己実現瞑想のなかで、特徴的なことをいくつか言っておられますが、とくに重点を置いておられることは、結局、「神の子としての自己実現であるという出発点を忘れるな」ということです。「神の子として最大限に自分を発揮するのが、ほんとうの自己実現ですよ」と。それ以前の段階の自己実現として、健康があったり、経済的な繁栄があったり、そういうことがあるんです、と。この世的な成功というのは、神の子としての最高の自己実現に至る過程としての途中経過としての試金石(しきんせき)としてのものなんですよ、と。ほんとうの自己実現というのは、神の子として最高に生きることなんですよということを、イエス様は言っておられます。 この言葉をさらに注意深く読む読者は、結局、この「自己実現瞑想」の究極の形は、イエス様の人生そのものであったことに気がつくであろうと思います。つまり、自分のすべてを神のために燃焼しつくした人生であったわけですね。これが、イエス様が言われるほんとうの意味での最高の自己実現なわけです。 11.最高の自己実現の方法を知ったとき、未熟な自分に気づく ところが、この最高の自己実現と現在の自分とを照らしてみると、世の人びとは、恥ずかしくならざるを得ないことが多いのです。なぜ恥ずかしくならざるを得ないのか。結局、自分というものの枠を超えることができない自己実現で満足しておるんですね。自分とか、自分の家族、家庭の範囲以内での自己実現に止まっているのが、我々凡人の悲しさなわけです。これではいけないということですね。 そういうことで、イエス様のように救世主としてまではなかなかいかないでしょうけれども、神の使徒として、全力をつくして生きられる自己実現、こういう最高の自己実現の方法があるということ、そういう瞑想があるということを知ったときにはじめて、人間は、まだまだ自分は至らなく、何をも神に要求することができないような未熟な自分であるということに気がつくであろうと思います。 12.カントによる「頭の良くなる瞑想」 第三番目の上級瞑想法としては、カントによる「頭の良くなる瞑想」をとくに入れておきました。現代人の悩みの多くは、知性の不足に起因し、また、現代人を幸福にする原動力も、ある程度知性の活性化に比例している以上、従来の「瞑想」の枠組みからはみ出した、こうした新しい瞑想法をカントに霊示としていただいたわけです。 「頭が良い」という意味にも、いわゆる狭義の「知性的」に頭が良いのと、「理性的」に頭が良いのと、「悟性的」に頭が良いのとでは、どのように意味合いが違うかを、カントは明快に答えています。この瞑想法は、おそらく現代人に対する大いなる福音になるだろうと思います。 13.宇宙即我(うちゅうそくわれ)の瞑想は、大宗教指導者の瞑想である さて、最後に、「宇宙即我の瞑想」として、釈迦の悟りに関連して、釈迦の瞑想というのをあげておきました。これはまあ、私自身の潜在意識のなかにある意識体を用いての瞑想方法の指導です。これは、私の考えと一緒です。一致しています。これはね、余人をもって、なかなかこの瞑想まで近づいて来ることはできないでしょうけれども、歴史的事実として、かつて経験したことがあり、また、何人かの偉大な宗教的指導者たちも経験したことがある瞑想なのです。 イエス・キリストも、この「宇宙即我の瞑想」を体験していますし、ある意味では、モーゼも体験しています。近年では、高橋信次という方も、この「宇宙即我の瞑想」を体験されておるようです。その体験をされておるという証拠が、高橋信次さんのつくられた「心行(しんぎょう)」という経文のなかにあります。 すなわち、そのなかで、高僑信次さんは、大宇宙というものは、神の体であって、銀河系の諸器官というものは神の肉体の諸器官と同じなのだ、と。そして、地球というのは、こういうのは細胞のひとつにすぎないのだと、こういうことを言っておられますけれども、こうした言葉は、彼自身が宇宙即我の経験をしていなければ、なかなか言えることではないのです。 14.宇宙即我の経験ができた人は、神の子としての自分に目覚めた人と言える しかし、宇宙即我の経験をして、一体何の意味がありますかという方もいらっしゃると思います。確かに、自分の魂が肉体を離れて宇宙大に拡大したところで、それで何ら現実的な利益が得られるわけではありません。ただ、ほんとうの人間の本質というのを知ったということなんですね。垣間(かいま)見たということです。それを意味するわけです。 人間というのは、この百六十何センチ、百七十何センチの肉体のなかに宿った小さな存在ではなくて、ほんとうは、開けば、無限に広がっていき、宇宙大に広がり、また握れば、けし粒になるような、そういう自由自在の存在なのだということを知ることができる。そういうことを知ることができた人間は、結局のところ、ほんとうの神の子としての自分に目覚めた人間であると言えると思うのですね。 また、「宇宙即我の瞑想」のなかで、私は、これにも二段階の内容があることを言いました。全宇宙体が自分の体と一緒になるというような、そういう瞑想もあるけれども、そのちょっと前段階として、地球が、眼下にクルクルと回っている水晶玉のように回っている地球そのものを眼下に見下ろすような「宇宙即我の瞑想」があるということを言いましたね。これは如来界の瞑想であり、如来でも必ずはできませんけれども、最上段階の如来になると、この程度までの瞑想は可能です、生きているときに。 15.ソクラテスは、地球を眼下に見下(お)ろすような宇宙即我を経験している 実は、ソクラテスという方も、この瞑想を経験しておるのです。彼の経験自体は、自分の体が宇宙大に拡大するところまではいっておりませんけれども、自分の肉体から自分の霊体が抜け出して、地球を眼下に見下ろすところまではいっております。 このことは、ソクラテスの有名な言葉をつづったと言われるプラトン作の「パイドン」という本のなかにあるんです。つまり、その「パイドン」のなかで、ソクラテスは、自分の体が、はるか上空から地球を見下ろして、地球の島や大地や海を見て、丸い地球を見ている姿を描き、また、そのなかで人間には転生輪廻があるということを淳々(じゅんじゅん)と説いております。彼もそういう経験があったわけですね。 哲学をやった方ならば興味があるでしょうけれども、ソクラテスというのは奇癖(きへき)がありました。その奇癖、変わった癖というのは何かというと、歩いている途中、ときどき立ち止まって、一昼夜、動かないことがあったということです。この一昼夜立ったまま、止まって動かなくなる癖というのは、実は、彼が兵隊さんとしてアテネの戦争に行ったときに、まず最初に出てたんですね。戦場で立ちつくして、一昼夜立ったままだったわけです。 ですから、仲間たちは非常にびっくりしまして、大変な病人がいるということで、大さわぎになった。敵弾が飛び交うなかで、突っ立つたまま、そのまま一昼夜いたようです。なぜなら、ソクラテスの魂は、肉体から抜け出して、宇宙即我ではありませんけれども、宇宙空間をさ迷っておったからです。まあ、そういうことがあります。 今後とも、こうした「宇宙即我の瞑想」は、程度の差はあれ、その経験をされる方がいろいろ出て来ると思います。ですから、これは、そういう方がたのための処方箋であります。 16.ほんとうの自分自身を知るためには、日常性からの脱却が必要 以上で、「禅の瞑想」から「宇宙即我の瞑想」までの簡単なガイダンスを行なったわけですけれども、結局人間は、今のまま、通常のまま生きているだけだと、どうしても日常性から脱却することができないのです。 日常性から脱却し、非日常性のなかに没入することによってはじめて、人間は肉体ではない自分、物質ではない精神の自分というものに気がつくためのきっかけを与えられることができるのです。 すなわち、ほんとうの自分自身を知るためには、自らの日常性からの脱却をはからねばならんのです。その日常性からの脱却のために、山篭りをすることも可能でしょう。けれども、大部分の人たちは、都会に忙しく働いておって、そうしたことはできません。そうであるならば、都会のなかにあっても、ときおり、自分ひとりでの瞑想の時間というものを持ってみようじゃありませんか。 瞑想によって心を集中し、落ち着け、この世的なものから心を離れさして、自由自在の世界に心を遊ばせてみませんか。そのなかに、あなたの自分自身の本質を悟ることもあり、そのなかにおいて、自分の守護、指導霊の声を聞くこともあるし、さらに、自分の無限の可能性というものを、そのなかで見い出していくことも可能だろうと思います。 17.瞑想のなかで本来の自分自身を発見しなさい こういうことで、瞑想という作法、瞑想ということの根本、なぜそういうことをする必要があるのかという根本は、本来の自分をそこで発見ができるからです。これなくしては、なかなか本来の自分を発見することができないからです。 この書物は、あなたを瞑想の世界へと誘(いざな)い、瞑想の最後の段階までご案内していくでしょう。どうかそのなかで、つまり、無限の神に向かう自分自身の旅の途中で、自分の発展の過程というものをつぶさに眺めてみてください。 そして、自分がほんとうに神仏の子であり、偉大な光の存在であるということに、瞑想のなかで、人びとは気がついていくでしょう。そのときは、おそらくあなたの人生にとって最大の幸福の瞬間であり、最大の勝利の瞬間でもあると思います。 その幸福の瞬間、勝利の瞬間をどうか忘れすに、毎日、毎日を精進していっていただきたいと思います。