約 461 件
https://w.atwiki.jp/si1215017eta/pages/9.html
張郤 散り逝く様も美しかった、戦場を舞う美しき蝶 彼にはこのネーミングが似合うでしょう。 ちなみに蝶というのは真三国無双のを引用しました。 しかし、本当にすごい人だった。 まず、この人は黄巾の乱で義勇軍に参加。 そして袁紹配下に移る。 公孫瓚との戦いでは功績を挙げ、結果、袁家の華北一帯の支配権を握ることへのトップクラスの功労者になる。 しかし、郭図に罪を擦り付けられ、高覧とともに帰順。 晴れて人妻マニア・・もとい、曹操の配下になる。 その曹操から我が韓信とまで信頼されたが、長坂ではたった一騎の趙雲を取り逃がし、張飛の仁王立ちに怖気づき、赤壁では出番すら与えてもらえず、潼関では馬超に散々に追い散らされ、漢中では横光にあるように藁人形をブッ刺して満足になったところを張飛に叩きのめされ、最後はもうヨボヨボのじじいとなった黄忠にブチのめされて夏侯淵を頼り、そのせいで夏侯淵を死なせる始末。 しかしッ!美しい将軍のファンであるアナタ!そう、気を落とされるな(何 彼の目覚しい活躍ぶりはこのあとの北伐で発揮される。 まず、孔明率いる蜀の軍隊、そしてその指揮を任された馬謖を街亭で敗北させ、結果的には殺している。さらには南安・天水・安定という孔明に目をつけられた土地を制圧。そして祁山に出陣した諸葛亮と戦い、見事に撤退させて、勝ったものの、蜀軍を追撃中に蜀軍の矢に当たって戦死。 しかし、この追撃に張郤本人は反対だったのだ。 そう。全ては司馬懿が悪い。 司馬懿は挑発してまで張郤に追撃させたのだ。 そしてこの、最後は味方に殺されたような悲劇ってカンジの死に方が、また結構美しかったりするんだよな。 孔明も司馬懿も皆敵。いっそのこと呉に着けばよかったのかも。
https://w.atwiki.jp/smmr/pages/369.html
No. 名称ランク 区分 戦場時間 敵軍総大将 報酬金 勝利条件敗北条件特殊目標 勝利報酬特殊報酬 入手素材 編集 箱 雑兵・兵器 武将 編集 1 賊の根城 依頼 華北30分 山賊山賊親分 800G 山賊親分の撃破プレイヤー死亡3回5分以内に開門 覇王の魂虹繭 黒檀材虹色の布金糸覇王の魂大霊石秘術の札大河の黄玉君主の書 虹色の短刃虹色の長刃虹色の広刃金剛石の塊白金の棒魔封木白銀の貝殻(独楽刃) 虹繭(山賊親分) 編集 ★★★☆ 備考 編集 2 鋼と炎 依頼 漢中30分 張魯軍- 800G 投石戦車の破壊プレイヤー死亡3回無傷で武装刀車の破壊 虹色の布白銀の貝殻 黒檀材覇王の魂君主の書大河の黄玉大霊石虹色の布 虹色の短刃虹色の長刃虹色の広刃白金の棒魔封木白銀の貝殻(武装刀車)黄金の牙(連弩戦車)虹色の首飾り(機関砲車)黄水晶(投石戦車)白銀の貝殻(投石戦車) - 編集 ★★★☆ 備考 編集 3 進むべき道 依頼 長沙30分 連合軍- 800G 目標地点への到達プレイヤー死亡3回妖蝶の撃破 大河の黄玉太陽の雫 覇王の魂大霊石 虹色の広刃金剛石の塊魔封木黄金の牙(武装刀車) 編集 ★★★★ 備考 編集 4 武闘試練 依頼 合肥30分 連合軍張角 900G 張角の撃破プレイヤー死亡3回顔良と文醜の撃破 黒檀材黄金の羽 虹色の布*1金糸*1大霊石*1虹色の砂*1 魔封木(親衛隊(術))虹色の長刃(親衛隊(双鉤))金剛石の塊(兵卒(棍)) 名君の像(区星)猛獣の角(華雄)名君の像(顔良)黄金の羽(文醜)月光の雫(張角)巨星のかけら(張角) 編集 ★★★★ 備考 編集
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/1270.html
149 :4:2012/07/30(月) 19 29 40 憂鬱本編第6話登場兵器一覧 1/2 1932年7月以降 第二次五ヵ年計画 第二次五ヵ年計画:上海事変を片付けた日本政府は第二次五ヵ年計画を開始。 各地で高速鉄道、発電所、湾港施設、巨大製鉄所などの整備が開始された。 軽工業国家からの脱皮を果たすべく重工業の梃入れをこれまで以上に行った。 総額20億円以上という巨大な国家プロジェクトは、夢幻会の全面的な後押しの下で進められていく。 遼河油田石油プラント:急ピッチで油田開発を進める。 哨戒のために航空機やジープなどを配備予定。 東条英機:満州防衛について問題が山積みで溜息をついた。 『「中国内戦への対応、ソ連への警戒、それにゲリラや匪賊への対応…… おまけに暴走しそうな一部幹部の監視、俺を過労死させる気か?」』本編6話より抜粋 無線機ネットワーク:東条さんが2○hみたいに匿名で愚痴を言いたい為 音声チャットを無線機のネットワークで再現しようと暗躍。 『単に愚痴を呟きたかった東条の暗躍によって、 日本陸軍は何故か世界最高クラスの通信網を保有することになる。』本編6話より抜粋 国民党:華北戦線で粘り黄河周辺でこう着状態。 華北戦線:黄河周辺でこう着状態。 日本製旧式兵器:中国内戦で旧式兵器を売り払う。 稼いだ資金は装備や工廠の設備の更新の足しになる。 米国:張作霖への支援を本格化。軍需工場の建設や装備購入の為の借款を行う。 英国:蒋介石に軍需物資の支援を行う。 仏蘭西:雲南軍閥を支援。各国共に軍閥を利用して中国を分断する動きを進める。 『「少なくとも、かの国が国際舞台の桧舞台に登場するのは史実より四半世紀は遅れますね」 辻の言葉に他のメンバーもニヤリと笑う。』本編6話より抜粋 日本の仮想敵:第一にソ連、第二に米国、第三に中国。 『海軍にとっては仮想敵筆頭は米国であったが、それでも中国は見過ごせない存在であった。 仮に人口5億の国家が近代化すれば、とんでもない強国が自国の隣に出現することになる。 それは容認できるものではない。 ましてそれが中華主義(漢民族中心主義)に毒された存在ならば尚更だ。』本編6話より抜粋 台湾・海南島:中国が海に向けて出てくれば台湾と海南島を有する日本と衝突するので 可能な限り大陸内部に封じ込める必要がある。 対ソ工作:中央アジアへ民族自活の精神や資源情報を吹き込んで、ソ連を混乱させることを提案。 極東ソ連軍の工作と連携させることで弱体化を図り、国外で行動する余裕を失わせることを狙う。 満州以南での分断工作と武力以外でソ連、特に中央アジア方面の分断へ力を入れる。 陸軍夢幻会派:統制派と呼称されている。 『この統制派は軍近代化を図る一方で非正規戦や諜報活動によって 中ソの分断と瓦解を図っており、明石大将の後継者たちと見做されていた。 現在、この会派には真崎、東条、相沢などの入れ替わり組みと、 史実の皇道派・統制派の一部が所属している。』本編6話より抜粋 150 :4:2012/07/30(月) 19 30 13 2/2 1933年 フランクリン・ルーズベルト大統領選出。 ルーズベルト:『中国内戦を利用した特需によって 失地回復を目指したフーバー大統領だったが、大恐慌発生の失敗を補いきれず落選。 米国では史実どおり、フランクリン・ルーズベルトが大統領として選出された。』本編6話より抜粋 米国:ニューディール政策の実施を発表。 夢幻会はこれを予期して投資を行い莫大な利益を得る。 同時に予期せぬイベントが発生。米国が大規模な中国支援を開始。 中国海軍基地:米国支援により中華民国政府(奉天軍閥)は山東省に海軍基地を建設。 中国軍需工廠:奉天では軍需工廠の建設が計画され、規模は大阪砲兵工廠に匹敵。 日中両国:これまで以上に、壮絶な経済戦争を繰り広げることになる。 英国:日本は役に立つ駒、或いは鉄砲玉に過ぎない。華南とインドを繋ぐ鉄道を建設予定。 中国南部とインドを繋げ、経済面で華北部を引き離す。米企業の中国市場進出への牽制、妨害を目論む。 『確かに日英同盟は東アジアでの権益維持において重要ではあった。 しかしながら日本と徒党を組んで米国と本格的に事を構える気は、 英国にはさらさら無かった。 謀略・外交で高い能力を誇る英国にとって日米の分断はそう難しいことではない。 日本にとって意外な敵は自身の背後に居た。』本編6話より抜粋 海軍:軍縮体制に不満を持つ人間は多い。内務省、情報省、憲兵と連携して不穏分子の監視を行う。 内務省、情報省、憲兵:農業の機械化と効率化の推進。 地主達に企業の創設や投資を促して経済の活性化を図る。 『地主階級の人間について徹底的な調査を行い、様々な醜聞を集めていたのだ。 家主には問題なくても、その息子や娘には問題があるケースが多い。 中には地主階級にも関わらず共産主義思想に染まっている者もいた。 辻はそういったスキャンダルを利用して、硬軟あわせた交渉を行っていたのだ。頑固な人間たちでさえ、 そういった身内の醜聞を持ち出されては、大抵は折れるしかなかった。』本編6話より抜粋 石原莞爾:石原莞爾を中心とした一派は、未だに世界最終戦争論を掲げている。 アジア新秩序:一部には日本を中心としたアジア新秩序構築を主張する者もいる。 日本の政治家:今の政府のやり方を腰抜け呼ばわりする人間が多い。 それも自分達が主導権を握るためだけに、今の方針を貶める輩が少なくない。
https://w.atwiki.jp/talesofdic/pages/6366.html
龍谷 修武(りゅうたに おさむ) 担当キャラ 銅蔵(ドラマCD版TOP) 整備士A・兵士A(ドラマCD版TOP) 3100R(ドラマCD版TOP) 学会員(ドラマCD版なりダン1) 神官(ドラマCD版TOD) 武官B(アニメ版TOE) 技官A(アニメ版TOE) 男A(アニメ版TOE) 以下声優・他作品ネタ 名族・袁家の総帥の三國武将・其の壱。宝剣・細剣・伸細剣(細剣に伸縮機能が付いた物)を武器にする。配下には後にロジュル(ドラマCD版なりダン1)に下ってしまう美しいパルックと女王様ことウンディーネがいる。 ボワーゼ(ドラマCD版TOS)を倒すべく「反ボワーゼ討伐軍」を結成してボワーゼを倒し、常山では三國最強のイフリートと共に華北を平定するも、官渡でのロジュルとの決戦に敗れてしまい、その後に袁家は滅亡となった。 魔王・ガイアスの異世界作品では、2作目に妖魔モブ武将にヨイショされてしまうも、三國と戦国のシャルティエコンビの説得により味方に加わった(失敗してもクリア後に味方に加わる)。2作目究極版では、アイラ(ファンダムVol.1)らと共に上記の雪辱戦に臨んでいる。 三國6作目から参戦した「若」と呼ぶTOSマクスウェルの従兄弟で、蜀の国所属の三國武将・其の弐。墨の竜等を召喚する妖筆や双鉞を武器にする。軍師・ゼロスに冷遇される仮面のギートに同情し、その暴走を抑える理解者として描かれている。(演義ではギートを切り殺している) リチャードが転校した先のクラスの担任で、担当教科は倫理。物語中盤に連続殺人事件の第三の被害者となってしまう。生徒の間では「延々と長い説教をする先生」として知られて不評だが、反抗的且つ気に入らない生徒を「腐ったミカン帳」と称した手帳に記載し目をつけている。 マルトランの22男でエッセンス大臣。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/605.html
ソース: 千田夏光「 高校生徹底質問!! 従軍慰安婦とは何か 」汐文社1992年5月 3-02 棄てられた従軍慰安婦たちはその後どうなったのか… 3-02 棄てられた従軍慰安婦たちはその後どうなったのか…コメント欄 残念ながらわからない。一九五九年(S34)マニラ市内の料理屋で朝鮮なまりの現地語を使う女性に出会ったという元陸軍パイロツト出身で航空会社役員をしていた人の話、バンコク郊外の街で華僑と結婚している元朝鮮人従軍慰安婦と思われる婦人に会った新聞記者の話が伝えられているが、もしそれに間違いなければ敗戦後の混乱のなかを生き残った数少ない事例だろう。 沖縄でも一人だけ戦後を生きぬいた朝鮮人従軍慰安婦がいたことはその回顧談とともに記憶に新しいが、沖縄戦を前に沖縄各地へ送り込まれた他の朝鮮人従軍慰安婦のことはいっさい不明だ。 敗戦直後の中国雲南省昆明(こんめい)市の俘虜収容所に十数人の朝鮮人従軍慰安婦が収容されていた事実も報告されているが、彼女らは地理的関係からみてビルマになだれこんだ中国軍がそこで保護したものらしいという。その俘虜収容所はなぜか米軍が管理しており、その一人ひとりの調書を米軍はとっていた。最近米国からの資料で発見されたというビルマ地区の日本軍従軍慰安婦関係文書はこのときのものだったらしい。日本軍が敗走のさい棄ててきた従軍慰安婦のなかには少数ながらこうして中国軍や米軍に救出されたのもいたということだ。この昆明俘虜収容所に収容された朝鮮人従軍慰安婦はやがて重慶(じゅうけい)にいた朝鮮人グループがうけとりに来たという。 "満州"や華北地区にいた朝鮮人従軍慰安婦のなかには日本の敗戦とともに解放された祖国へ帰っていった者もいたが、祖国にもどってもこんな体でいまさら生まれた家に足をむけられるかとなっていったという。 FAQ目次 コメント欄 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/monamoro/pages/168.html
国名 震旦 英語国名 Kingdom of Goto in China 正式国名 震旦を統治する五島国王政府 国旗 1225959739.png 国の標語 融和による創造 国歌 国王賛歌 公用語 五島漢語(公用語)北京語,広東語,アラビア語,ペルシャ語 国家元首 浦 盛栄 首都 竜宮 最大都市 竜宮 面積 1112万7500平方km 総人口 1,336,317,000人 政治体制 君主制 公式略称 震 通貨 金(キン) 主産業 金融・工業・林業・商業 地理【編集中】地方行政区分 主要都市 歴史【編集中】変遷 漢武以前 漢武 国王政府 政治【編集中】国家元首 首相 国王政府官僚 中央政府 議会 外交【編集中】 経済【編集中】資源総資産額 軍事【編集中】 文化【編集中】教育 国民【編集中】居住民族 地理【編集中】 ユーラシア大陸の東部,太平洋の西海岸に位置し,国土は11,127,500km²でアルティスに次いで世界第2の大きさである。領土は北モンゴル高原から,南は南沙諸島南端の曾母暗砂まで。東は黒竜江とウスリー川の合流する地点から,西はパミール高原まで広がっている。東は日本,北はアルティス,南はインドシナ・インドと接している。中国大陸の東部は渤海,黄海,東シナ海に,南部は南シナ海に臨んでいる。海域には5400の島が点在する。中国最南端は南海諸島と呼ばれる島嶼群である。この南海諸島では島嶼,礁(サンゴ礁),灘(砂浜)が散在しており,これを一括して南海諸島と言う。主要河川として黄河や長江があり,それぞれ黄河文明、長江文明を育んだ自然の恵みでもある。 地方行政区分 1226120278.png 【上図:震旦行政区分色分図】 ①東北管区 現在,日本軍の統治下にある。主要民族は満族。 ②蒙古管区 アルティスと国境線を形成する軍事上の要所。主要民族は蒙古族。 ③新領開発区 アラビア・欧州方面への通り道。シルクロード鉄道の建設計画がある。主要民族はウイグル族。 ④西蔵管区 山岳地帯であり,緯度のわりには超低気温である。主要民族は西蔵族。 ⑤竜宮特別市 国王政府の首都である。市域が突出して広大である。主要民族は五島人。 ⑥華北地方 大都市は長江より南側に多く,蘇港・臨安・金陵を擁する。北部の山東半島には漢武時代から五島支配下にある青島が在る。 ⑦華中地方 ⑧華南地方 ⑨華東地方 主要都市 1 竜宮 31,440,000 2 天港 30,960,000 3 奉天 28,250,000 4 大都 24,430,000 5 上海 18,580,000 6 深圳 12,000,000 7 広州 10,050,000 8 東莞 10,010,000 9 武漢 4,890,000 10 哈尔滨 4,754,753 11 成都 3,750,000 12 新界 3,730,000 13 九龍 3,387,665 14 青島 3,200,000 15 南京 3,110,000 16 淄博 2,900,000 17 福州 2,600,000 18 長沙 2,520,000 19 南昌 2,440,000 歴史【編集中】 変遷 長江文明 黄河文明 紀元前2070-紀元前1600 夏 紀元前1600-紀元前1150 殷 紀元前1150-紀元前256 周 紀元前770-紀元前403 春秋時代 紀元前403-紀元前221 戦国時代 紀元前221-紀元前207 秦 紀元前206-220 漢 前漢-新-後漢 220-280 三国時代 265-420 晋 西晋-東晋 304-439 五胡十六国時代 439-589 南北朝時代 581-618 隋 618-907 唐 五代十国時代 960-1279 宋 北宋-南宋 1271-1368 元 1368-1644 明 1616-1912 清 漢武 五島 漢武以前 3000年以上に亘り,幾つもの王朝の興亡を経てきた。漢族の王朝・明が滅亡し,満州人の清朝が中原王朝の座を掌握した。だが,日清戦争で日本に敗れたことにより植民地化が進行する。これを契機に,「滅満興漢」をスローガンとした,満州人の支配に対する漢族の革命運動が各地で起こり,その結果,大漢武帝国が成立(直後に清朝は消滅)した。 漢武 国王政府 政治【編集中】 国家元首 世襲制であり,五島民族を統治する王としては現在15代目に当たる。(震旦を統治する王としては1代目。) 五島国王は本来日系であったが,配偶者は現地有力者であったため,現在では日本人の血は薄くなっている。 国王は各行政の長の席を兼任することにより,大きな権力を握っている。 首相 国王に選出・任命権がある。 現在は国王が兼任している。 本来はすべての行政大司を代表する長。 国王政府官僚 役職 氏名 出身身分 元首 浦 盛栄 王族 首相 浦 盛栄 王族 農務大司 金 陽 漢民族 兵務大司 浦 盛栄 王族 外務大司 浦 盛栄 王族 貿易大司 浦 盛栄 王族 民族大司 崎山 三郎 印度支那移民 建設大司 劉 董 漢民族 法務大司 浦 盛栄 王族 人事大司 浦 盛栄 王族 諸務院代表 浦 真知 王族 金融院代表 浦 大尊 王族 学務院代表 神之浦 真亜 護賢会 中央政府 名称 最高位 職務内容 所在地 農務省 農務大司 農務行政 竜宮 王国平和維持軍 兵務大司 防衛 竜宮 外務省 外務大司 外交 竜宮 貿易省 貿易大司 貿易監督 蘇港 民族省 民族大司 民族統制 竜宮 建設省 建設大司 建設行政 竜宮 法務省 法務大司 法務行政 竜宮 人事省 人事大司 官職人事 竜宮 諸務院 諸務院代表 諸行政 竜宮 金融院 金融院代表 金融行政 蘇港 学務院 学務院代表 教育行政・学問研究 漢陽 【上表:震旦行政省庁図】 議会 現在,議会は開設されていない。 しかし,一院制(総議席1200)の開設が予定されている。 外交【編集中】 経済【編集中】 五島人には経済学に長けた者が多く,資源総資産額という指標を発表している。 資源総資産額 資源総資産額の改良版。 旧式では,五島統一王国内でのレートを参考にしていたが,最新版では外部資料を参考。 調査対象品目から面積が除外され,銀・酒・砲弾・弾薬が追加された。 5080ターン,再び変換率を変更。 鉄鋼,砲弾,弾薬がより重視され,石油の価値が大幅に下げられた。 5280ターン,さらに変換率を変更。 食料が今までより重視され,木材,鉄鋼,燃料の価値が見直された。 主要国国別資源総資産額 国名 調査ターン 資源総資産額(億金相当) 一人当たり(金相当) その他 震旦 5615 122317 53274 アメリカ合衆国 5574 92317 47734 神聖アルティス帝国 5574 56587 22243 大日本帝國 5574 47736 21522 インド共和国 5574 21999 12701 王立研究所から後進国指定を受けている ウェスペルタティア王国 5574 17187 8594 王立研究所から後進国指定を受けている オスマン帝国 5574 1718 950 王立研究所から最貧国指定を受けている ノルド王国 5574 905 15608 変換率()内は以前の比率 物資名 変換率 資金 100 食料 0.03(0.01) 商品 50 銀 150 酒 100 木材 80(100) 石材 50 鉄鋼 200(300←100) 建材 100 石油 30(200) 燃料 25(50) 砲弾 600(400) 弾薬 400(200) 軍事【編集中】 文化【編集中】 教育 王立貴族学習院 国民【編集中】 居住民族 震旦には全部で20もの民族が居住している。(極少数のものは数に含めていない。) 人口 系統 主な居住地 主な姓 五島人 7億2000万 五島 全土 浦 漢族 1億8000万 漢 全土 張,王,李,劉,陳,楊,黄,趙,呉,周,徐,孫,馬,朱,胡,郭,何,高,林,羅 壮族 7200万 五島・泰 華中・華南・西蔵 黄,陸,莫,僮 満州族 5400万 ツングース 華北・東北・蒙古 金,趙,王,富,傅,付,李,何,賀,顧,関 回族 5200万 アラブ・ペルシア 全土 馬,張,王,李,劉,陳 苗族 4800万 苗 華中・華南・西蔵 維吾爾 4400万 テュルク 新領 土家族 4200万 西蔵 華中・西蔵 夷族 4000万 五島・ミャンマー 西蔵 蒙古族 3800万 蒙古 華北・華中・東北・蒙古・新領 西蔵 3200万 西蔵 新領・西蔵 布依族 1800万 西蔵 西蔵 侗族 1600万 五島・泰 華中・華南・西蔵 瑶族 1500万 西蔵 華中・華南・西蔵 朝鮮族 1150万 朝鮮 東北 李 白族 1100万 西蔵 西蔵 哈尼族 1000万 西蔵 西蔵 カザフ族 780万 テュルク 新領 黎族 720万 五島・海南 華南 泰族 660万 五島・泰 西蔵
https://w.atwiki.jp/smmr/pages/82.html
編集/ 簡易編集 No. 名称ランク 区分 戦場時間 敵軍総大将 報酬金 勝利条件敗北条件特殊目標 勝利報酬特殊報酬 入手素材 箱 雑兵・兵器 武将 1 賊の根城 依頼 華北30分 山賊山賊親分 800G 山賊親分の撃破プレイヤー死亡3回5分以内に開門 覇王の魂虹繭 黒檀材虹色の布金糸覇王の魂大霊石秘術の札大河の黄玉君主の書 虹色の短刃虹色の長刃虹色の広刃金剛石の塊白金の棒魔封木白銀の貝殻(独楽刃) 虹繭(山賊親分) ★★★☆ 備考 2 鋼と炎 依頼 漢中30分 張魯軍- 800G 投石戦車の破壊プレイヤー死亡3回無傷で武装刀車の破壊 虹色の布白銀の貝殻 黒檀材覇王の魂君主の書大河の黄玉大霊石虹色の布 虹色の短刃虹色の長刃虹色の広刃白金の棒魔封木白銀の貝殻(武装刀車)黄金の牙(連弩戦車)虹色の首飾り(機関砲車)黄水晶(投石戦車)白銀の貝殻(投石戦車) - ★★★☆ 備考 3 進むべき道 依頼 長沙30分 連合軍- 800G 目標地点への到達プレイヤー死亡3回妖蝶の撃破 大河の黄玉太陽の雫 覇王の魂大霊石 虹色の広刃金剛石の塊魔封木黄金の牙(武装刀車) ★★★★ 備考 4 武闘試練 依頼 合肥30分 連合軍張角 900G 張角の撃破プレイヤー死亡3回顔良と文醜の撃破 黒檀材黄金の羽 虹色の布*1金糸*1大霊石*1虹色の砂*1 魔封木(親衛隊(術))虹色の長刃(親衛隊(双鉤))金剛石の塊(兵卒(棍)) 名君の像(区星)猛獣の角(華雄)名君の像(顔良)黄金の羽(文醜)月光の雫(張角)巨星のかけら(張角) ★★★★ 備考
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/70.html
塘沽協定(たんくーきょうてい)は、1933年5月31日に河北省塘沽で締結した満州事変の停戦協定。 妥結に至る背景 満州事変によって満州国が建国されると、それまで強硬な抵抗姿勢を取っていた孫科内閣は倒れ、代わりに対日妥協策を取る汪兆銘内閣が成立した。その一方で日本軍は1933年に熱河省へ侵攻、万里の長城(長城線)以北の地域を満州国に併合する。更に長城線を越えて河北省へと進撃するが、ここで宋哲元率いる29軍の抵抗に遭ってしまう。何とか侵攻は成し遂げたが日本は国際連盟を脱退して国際的な孤立感を深め、国民政府との間で一応の妥協点を探ることになった。 最初のうちは北平政務委員長の黄郛和と関東軍副参謀長の岡村寧次との間で秘密裏に交渉が持たれていたが、最終的には国民政府軍事委員会から何応欽が全権として出席し協定妥結にこぎつけた。 協定の骨子 国民政府軍は河北省東北部から撤退し、軍事的な挑発行為を行わない。 前項が遵守されているか日本軍が監視することを認める。国民政府もそのための便宜を図る。 日本軍は長城線以北へ撤退する。 長城線以南~国民政府軍撤退地域は国民政府の警察によって治安を維持する。 影響 この協定によって国民政府(中国国民党)は事実上、満州国の建国を認めたばかりか華北における主権の一部を喪失する結果となってしまい、協定を妥結した汪兆銘は非難の矢面に立たされることになった。また中国共産党は協定を売国的と非難声明を出した。 一方、日本軍は大部分の軍勢を撤退させたものの、一部を「国民政府軍の行動を監視するため」と称して駐留させていた。 関連項目 満州事変 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月6日 (日) 21 55。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2585.html
日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 第2部 戦争の時代 第3章 日中戦争と太平洋戦争 日中戦争と太平洋戦争 波多野澄雄<その2> 波多野澄雄:筑波大学大学院人文社会科学研究科教授(委員会委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中戦争と太平洋戦争 波多野澄雄<その1> 日中戦争と太平洋戦争 波多野澄雄<その2>第3 節 日本の降伏1)大東亜会議と連合国の戦後構想 2)和平工作 4)国民党支配の危機とヤルタ協定 5)日本の降伏 おわりに 第3 節 日本の降伏 1)大東亜会議と連合国の戦後構想 43 年11 月、日本のアジア占領地に樹立された「独立国」の代表(満州国、汪兆銘政府、ビルマ、フィリピン、タイのほか自由印度仮政府代表が陪席)が東京に参集し大東亜会議が開催された。 東条首相のねらいは、この年の秋と予測されたアジア太平洋における連合国軍の本格的反攻に備えるため、占領地の指導者を集めて共同宣言を発表することによってアジア諸民族の結束をアピールすることであった。しかし、この共同宣言の立案を担った外務官僚と重光外相は、共同宣言に新たな戦争目的の表明を託そうとした。すなわち、「大東亜共栄圏の建設」といった排他的で、日本の盟主的地位を強調した戦争目的に代わって、自主独立、平等互恵、人種差別撤廃、資源の開放といった普遍的な国際理念を宣言に盛り込むことによって、戦後世界における発言力の確保をねらいとした。実際、43 年8 月に外務省内の共同宣言の立案過程では、連合国の戦争目的である大西洋憲章を参照しつつ行われた53。重光はこの共同宣言を共通理念として、アジアの独立国が相互に平等の立場で「大東亜機構」を創設することを目標としていたが、各国が対等平等の立場で機構へ参加することは、日本のアジアにおける盟主的地位を否定するものであり、「国際連盟的思想を包蔵するもの」として陸軍省や参謀本部の反対によって実現しなかった54。最終的な共同宣言も、大東亜省、陸軍省や参謀本部の修正によって、戦争目的の再定義という外務省の意図は曖昧なものとなり、連合国にとっては単なる戦時プロパンガンダでしかなかった。 しかし、日本にとって大東亜会議は、日比・日緬同盟条約によるビルマやフィリピンの「独立」許与、汪兆銘政権との対等な同盟条約の締結(43 年8 月)など一連の「大東亜新政策」の一環であり、外交当局が大西洋憲章の意義に注目しつつ、「大東亜共栄圏」構想とは異なる、新たな戦後アジアに対する日本の構想を示そうとしたものであった。また、大東亜会議を含む一連の大東亜新政策に日本が託した重要な狙いの一つは、重慶国民政府を連合国陣営から切り離すことであっ 53 波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』東京大学出版会、1996 年、161-73 頁、278-84 頁。伊藤隆・渡辺行雄編『重光葵手記』中央公論社、1986 年、155-56 頁。 54 前掲、『杉山メモ(下)』、440-41 頁。 13 たが、蒋介石や中国人民を惹きつけることはできなかった55。 ところで、大東亜会議の開催と相前後して連合国側の「外交攻勢」が活発となり、モスクワ外相会談、カイロ会談、テヘラン会談など一連の会談が開催される。とくに蒋介石が参加した英米中・カイロ会談は、対日軍事戦略の検討とともに、日本の占領地からの撤退を前提に戦後アジアにおける国際秩序の基本的枠組みを議論し、その成果をカイロ宣言(43 年11 月27 日)として公表した。後のポツダム宣言の基礎となるカイロ宣言は、開戦後、連合国側が初めて日本領土の処分に言及したもので、台湾、澎湖島の中国返還、1914 年以来日本の領有した諸島の剥奪、朝鮮の独立などを明記していた。待命中であった石射猪太郎大使は、蒋介石がカイロ宣言に署名していることに注目し、「全面和平は千里も先に行って了った」56と嘆いた。しかし、大東亜会議や対華新政策に国策の重点を置く日本政府は、カイロ宣言のねらいは、「抗戦の名目」を失いつつある蒋政権を連合国陣営からの離反を防ぐための宣言とみなし、その国際的な意義を重視することはなかった。しかし、朝鮮と台湾が連合国によって「独立」や日本からの「剥奪」を保証されたことは、日本が最も忌み嫌うこところであり、そこで日本政府は、カイロ宣言の報道にあたっては、具体的な領土問題には触れることを許さなかった57。 ところで、連合国の戦後経営の構想を注視しつつ、大東亜宣言に基づく具体的な機構案の検討を続けていた言論人が石橋湛山と清沢洌であった。大東亜会議からまもなく、清沢と石橋は、青木大東亜相に大東亜宣言を基礎に具体的な戦後機構案の作成について政府の取組みを促したが、政府にはその意思がないことに失望する58。しかし、両者は44 年の末にいたるまで、連合国側の戦後経営構想に着目しつつ。大東亜宣言の諸原則を基礎とする「新世界機構」を考案する必要があることを説き続けるのである59。 2)和平工作 日米開戦以来、日本政府の重慶政府に対する和平工作は南京国民政府の手にゆだね、日本政府は直接関与しないという方針であった。南京政府では、重慶側の諜報機関や特務組織と深い関係にあった周仏海を中心に重慶へのアプローチが試みられるが進展しなかった。44 年8 月に成立した小磯内閣は、8 月末と9 月の最高戦争指導会議で、対重慶工作を首相のイニシアティヴのもとに統一し、日中終戦のために直接会談のきっかけを作ることに主目的を置くことを決定した60。小磯首相が重慶工作に熱心に取り組むようになったのは、朝日新聞副社長から入閣した緒方竹虎国務相の強い進言による61。 和平条件の作成は外務省が中心なり、9 月5 日の最高戦争指導会議は、「和平条件は完全なる 55 大東亜会議と共同宣言の「意図」について、波多野『太平洋戦争とアジア外交』(前掲)及び入江昭「戦後アジアへの戦時日本の構想」(細谷千博ほか編『日英関係史、1917-1949』東京大学出版会、1982 年)。 56 伊藤隆編『石射猪太郎日記』中央公論社、1989 年、1943 年12 月3 日の条。 57 天羽英二日記・資料集刊行会『天羽英二日記』第4 巻(非売品、1982 年)、884-85 頁。 58 清沢洌『暗黒日記』評論社、1979 年、1943 年11 月25 日の条。 59 前掲、波多野『太平洋戦争とアジア外交』、200-05 頁。 60 参謀本部所蔵『敗戦の記録』原書房、1967 年、163 頁。 61 前掲、『畑日誌』1944 年9 月4 日の条。 14 平等条件に據ることを建前とす」という方針のもとに、以下の「和平条件の腹案」を決定した。 (1)完全平等の立場による和平、 (2)和平にともなう重慶と米英との関係については出来る限り中国側の意向を尊重する、 (3)汪・蒋関係は国内問題、 (4)英米が撤兵すれば全面撤兵、香港は中国に譲渡する、 などの「画期的な和平条件」であり62、開戦前後に提示されていたならば、あるいは日中和平の可能性も開かれたかも知れない。 結局、9 月9 日の「国民政府に対する伝達要領」では、満州国は中国の領域であることを認めるという外務省の新方針や、香港、蒙疆、南方権益などの具体的問題については、「支那側の意向を尊重して協議すべし」とされた63。 これらは重慶に対する和平条件として南京政府に伝達されたが、周仏海ら汪政権首脳は、満洲の中国返還(満州国の解消)が曖昧であったこと、汪政権強化という従来の方針に反していることから重慶政府と交渉に入ることを躊躇した64。日本国内でも天皇や重光外相は、汪政権の立場に配慮し、批判的であった65。結局、44 年9 月の最高戦争指導会議決定は、蒋介石の南京帰還、統一政府の樹立、中国からの撤兵という事実上の敗北を、日本が自ら提案せざるを得ない立場に陥ったことを物語っている。しかし、日本降伏までにはさらに1 年弱を空費することになる。 小磯の対重慶和平への熱意を背景に、政界の注目を集めていた路線開拓工作が宇垣一成の中国旅行であった。宇垣には汪政権を解消して重慶を「正統支那政府」と認め、「全面和平交渉」を提案するという構想があった66。9 月下旬に北京に入り、10 月初旬には上海で重慶側より派遣されたと称する周一夫らと会見するものの、結局、これといった路線を開拓することなく10 月13 日に帰国した。小磯や彼を支える宇垣グループの重慶工作を「南京政府解消論」とみなして終始批判的であったのは、汪政権に対する国際信義を重んずる重光外相であった67。 宇垣の中国旅行の直後、「全面和平」に関する日本側の意図を確認するため、10 月中旬に南京政府考試院長・江亢虎が来日した。江は南京政府を解消する用意がなければ重慶政府との和平の可能性はないことを要人に説いた。蒋介石側近と連絡のある繆斌(考試院副院長)、それに西南各将領と連絡を有する青年党、国社党の領袖たちであった68。 江のこうした議論に重光と小磯の反応は異なっていた。小磯は、南京政府側に江院長の述べるような意図が固まり、「全面和平」への機運が醸成されてくるならば、満州国の放棄にも応じようという姿勢をみせている。他方、重光は、あくまで日本が承認した南京政府を中心に和平を考え、南京政府の解消といった事態は極力避けようとした。 江は部下の繆斌(考試院副院長)から緒方竹虎情報局総裁と田中武雄書記官長宛の書簡(内容は不明)を託されていたが、江の帰国後、小磯は汪政権を通じた重慶工作に懐疑的となり、繆斌の招 62 前掲『機密戦争日誌(下)』1944 年9 月5 日の条。 63 前掲『敗戦の記録』175-76 頁。 64 前掲『周仏海日記』1944 年10 月17 日、11 月4 日の条。 65 『機密戦争日誌(下)』1944 年9 月6 日の条、前掲『敗戦の記録』165-66 頁。 66 渡辺渡「感想日誌 巻七」(防衛研究所図書館蔵) (1944 年10 月2 日、10 月3 日)。 67 伊藤隆ほか編『重光葵手記』中央公論社、1990 年、486-87、436 頁。 68 江亢虎の来日については「重光大臣江亢虎考試院長第一次会談要領」(10 月17 日)、「同第二次会談要領」(10 月19 日)(外務省記録A7.0.0.9-61)。 15 致に熱心となる。繆斌は、国民党中央委員や江蘇省民政庁長を歴任するが汚職の嫌疑などで、徐々に国民党を離れ、南京国民政府の立法院副院長となるが開戦後、密に重慶と通じていたことが発覚して考試院副院長に左遷されていた。小磯は、緒方のほか、緒方が朝日新聞編集局長時代の部下で、上海通信員の田村真作、朝日新聞記者の太田照彦、元陸軍大佐で小磯の信頼が厚かった山形初男といった人々からの情報と協力を得て、繆斌が蒋介石につながるルートであることを確信し、重光らの反対を押し切って45 年3 月中旬に来日を実現させる。繆斌が示した「中日全面和平実行案」は、 (1)南京政府の解消、 (2)重慶側が承認する「留守府」政権の組織、 (3)「留守府」政権を通じた日中停戦・撤兵停戦交渉の開始、 であった69。 しかし、最高戦争指導会議では、この条件の審議に入る前に、重光、米内海相、杉山陸相らが、繆斌という人物に対する信頼性、繆斌系統の人物は南京政府の倒壊を目的としていること、などの反対論を唱え、結局、和平提案を受け入れなかった。重光が最後まで反対したのは、南京政府の解消や全面撤兵という重大政策に踏み込むためには、「戦争終結の決心」が先決でなければならかったからである70。対英米戦争の終結の決断のない限り、南京政権の存在を無視した形での重慶和平工作はありえなかったのである。小磯は45 年4 月1 日、繆斌工作の続行を上奏したが、天皇は陸、海、外三大臣の反対を確認したうえ小磯に繆斌の帰国を命じた71。こうして繆斌工作は挫折し、それが一原因となって小磯内閣は総辞職する。 繆斌工作について、南京政府と日本の離間をはかり、日本の首脳部の分裂を図ろうとしたものという評価がある。繆斌工作が重光と小磯の亀裂を深めたという事実に着目すれば、そうしたねらいは成功したことになる72。しかし、そうした意図が蒋介石の胸中に秘められていたのか否か、なぜ、戦争の最終段階となってそれを実行に移すにいたったのか、これらを実証することは現在のところ困難である。繆斌工作と並行した動きが何世楨工作である。汪兆銘の和平運動に参加しながら重慶側の情報工作にも関与していた何世楨は、44 年10 月、天皇親政、戦争責任者の処罰、日本軍の撤兵といった重慶側の和平条件を近衛文麿の実弟、水谷川忠麿らに託し、水谷川から近衛や重光外相に伝えられたが政府は取り上げなかった73。 4)国民党支配の危機とヤルタ協定 アメリカ政府は、国民政府の腐敗と日本軍の攻勢による中国戦線の崩壊を憂慮していたが、ローズヴェルト大統領は、44 年7 月、中国戦線の建て直しをはかるためスティルウエルのもとに国 69 田村真作『繆斌工作』三栄出版社、1953 年、175-76 頁。外務省編『終戦史録(上)』、新聞月鑑社、1952年、220 頁。 70 前掲、『重光葵手記』470-71 頁。 71 前掲、外務省編『終戦史録(下)』217-20 頁。 72 戸部良一「日本の対中国和平工作」(前掲、細谷千博ほか編『太平洋戦争の終結』)、43 頁。 73 繆斌工作、何世楨工作ともに、戴笠を指導者とする藍衣社系の諜報機関(軍統)が関与していた可能性が高い(前掲、戸部「日本の対中和平工作」38-42 頁)。また、汪熙「太平洋戦争と中国」(細谷千博ほか編『太平洋戦争』東京大学出版会、1993 年)によれば日中戦争の全期間を通じて日中双方が直接、間接に試みた和平接触は少なくとも29 回に及ぶ。中国側の意図は、日本軍の軍事攻勢の緩和、敵のカードを探るための情報収集、英米からの援助獲得の取引材料などであったという(90-98 頁)。 16 共両軍の統一を蒋介石に要求した。蒋介石は、共産党軍が国民政府の指揮を離れ、やがて国民党による一党支配体制が崩れることを危惧し、この要求を拒絶してスティルウエルの解任を要求した。こうして中米関係は危機的状況となるが、10 月には米統合参謀本部が対日反抗のルートとして、台湾・アモイ作戦を放棄し、硫黄島から沖縄にいたるルートを選択したことによって中国戦線の意義が低下していた74。ここにローズヴェルトは、蒋介石の要求を受け入れ、中米危機は回避された。共産党や民主勢力や党内からの批判に対して国内結束を図る指導力を示した形となったが、ローズヴェルトは共産党の民主連合政府を支持するより、蒋介石政権の強化による中共の封じ込めを優先し、その中国政策は蒋介石支援と反共に傾いて行く。 44 年後半から、ヨーロッパとアジア太平洋の両戦線は、圧倒的に連合国側に有利に傾き、戦後世界の勢力配置をめぐって米ソのかけひきが激しくなる。焦点はヨーロッパでは東欧、アジア太平洋では日本撤退後の「満洲」であった。スターリンはすでに43 年11 月のテヘラン会談で対日参戦を約束していたが、45 年2 月のヤルタ会談では、その代償として、大連港の国際化とソ連の優先使用権、旅順港の租借、中東・満鉄両線の中ソ合弁経営などを要求し、英米はこれを受け入れた。ローズヴェルトは、中国の主権にかかわる条項について、中ソ交渉の必要を認め、スターリンもこれを受け入れ、45 年6 月から中ソ交渉が始まる。国民党政府は、旅順のソ連による租借に強く反発し、海軍基地として共同使用することを提案し、ソ連も同意するが、実際にはソ連側が旅順を海軍基地として単独で使用することになる。8 月9 日のソ連の対日参戦が交渉を急がせることになり、8 月14 日、中ソ友好同盟条約が調印される。国民政府は、ヤルタ協定の中国に関する項目の大部分を認めることになったが、ソ連の援助は国民政府を通じて実施されること、ソ連軍は日本降伏後、3 週間以内に東北から撤退を開始することを約束させた。ソ連参戦後の共産党支援や中国内政への干渉を封ずるという点からすれば中国にとって満足できるものであった75。 この間、共産党は、45 年4 月下旬から6 月にかけ、17 年ぶりに第七回全国代表大会(七全会)を開催し、毛沢東の権威と指導権を確立した。いまだ華南、華中の枢要地域は日本軍の占領下にあり、国民党軍の内戦挑発の行動が頻発するなか、毛沢東は、正規軍91 万、民兵220 万を擁する共産軍が抗日戦争の主力となっていると発言し、蒋介石国民党の消極的抗日路線を批判して、国民党が一党独裁を廃止し、当面、「民主連合政府」の形成に参加することを提唱した。国民党の一党独裁政権を強く意識し、多くの勢力を結集して国民党に対抗しようとした。一方、国民党地区の民衆にも民主化や連合政府を求める運動、政治参加の拡大を求める要求が高まり、国民党は抗戦初期に享受した政治的地位が危うくなっていた。こうしたなかで国民党は、5 月初旬から下旬にかけて重慶で第6 回全国代表大会を開催し、基本的に他の党派の参加を排除する国民党独裁に固執する戦後政権構想を打ち出し、日本の敗北が迫るにつれ、中共の民主連合政府論との対立関係は抜きさしならぬものとなって行く76。 74 加藤公一「『スティルウェル事件』と重慶国民政府」(石島紀之・久保享『重慶国民政府史の研究』東京大学出版会、2004 年)、147-67 頁。 75 石井明「中ソ関係における旅順・大連問題」(日本国際政治学会編『国際政治』95 号、1990 年)、46-62頁。 76 山田辰雄『中国近代政治史』放送大学教育振興会、189-92 頁。前掲、石島『中国抗日戦争史』、200-02頁。 17 5)日本の降伏 日中戦争最後の大作戦-〓江作戦(〓は草かんむりに止)が日本軍の敗北に終わった45 年5 月末、参謀本部は兵力を華南から撤退して華北、華中に集結する方針を固め、派遣軍は、湖南、広西、江西方面の湘桂・粤 漢鉄道沿線の占拠地域から兵力を引揚げ、その兵力を華中・華北方面に転用して後退作戦に移った。しかし、大軍の後退が完了しないうちに、7 月27 日、日本降伏を勧告する英米中3 国首脳によるポツダム宣言が発表される。『大公報』は天皇制の排除が明記されていない点は不満であるが、カイロ宣言の履行が明示されている点など他の条項は全て同意すると論じた。しかし、日本政府はこれを事実上拒絶したため、原爆投下に続いて8 月9 日のソ連参戦という「外圧」のなかで、8月9 日の天皇臨席による御前会議は天皇制維持を条件としてポツダム宣言の受諾を決定した。12日の連合国の回答は、天皇制維持という条件を明確に保証したわけではなかったが、日本政府は保証されたものと理解し、14 日の再度の御前会議によってポツダム宣言の受諾を決定した。 国共両軍は日本がポツダム宣言の受諾の意思を表明した直後の8 月10 日から、争って日本軍の接収に乗り出す。延安総司令朱徳は、解放区の全部隊に日本軍と傀儡軍の武装解放を命じ、各地の部隊に降伏受入のための進軍を指令した。一方、蒋介石は11 日、日本軍に対して、しばらく武器と装備を維持し、治安維持と交通確保にあたり、中国陸軍総司令何応欽の命令を待つよう訴えた。また、蒋介石は、抗日戦勝利のラジオ演説のなかで、「暴を以て暴に報ゆる勿れ」と述べ、軍閥の戦争責任は追及されねばならないが、日本人民に報復や侮辱を加えてはならないと訓告した。 こうした対日宥和的な態度に期待する日本政府は、8 月16 日、「日支間の行懸りを一掃し、極力支那を支援強化し以て将来に於ける帝国の飛躍と東亜の復興に資す」ため、事業者、技術者及び企業の残留を奨励し、「誠意を以て支那の復興建設に協力し日支の提携を促進する」ことを決定した。8 月21 日、これを重光外相名で現地公館に伝えている77。この指示の効果は不明であるが、中国にとどまって技術支援や復興支援にあたろうとする数千の日本人が残留(流用)したことは事実である。 他方、蒋介石は15 日、日本占領地に向けて、偽軍(南京国民政府軍)は現駐地で治安維持に当り、機を見て罪を償うよう努力することを指示した。主席陳公博は、36 万の偽軍を南京、上海、杭州に集め、国民政府軍による武装解除を待つと報告し、翌16 日には汪政府は解散を宣言した。 一方、共産党側は、朱徳中国共産党軍総司令が、国民政府は解放区の人民を代表し得ないこと、解放区抗日軍は対日平和会議に代表を選出する権限をもつこと、などを米英ソ三国に申し入れるとともに、解放区の日本軍に対しては共産軍への投降を命じた。この間、蒋介石は何応欽にすべての中国戦区内の敵軍の降伏を処理する任務を与え、共産党に対しても現駐地に駐屯して命令を待つよう指示したが、共産党軍が従うことはなかった。国共両軍の抜きさしならぬ対立が早くも現れていた。 戦争終結時に中国本土に展開する日本軍の兵力は概ね105 万人に上り、十分な兵員数と武器・装備、指揮命令系統も保持され、将兵の士気も高いまま降伏を迎えた。岡村総司令官は、8 月15 77 江藤淳編『占領史録(上)』講談社学術文庫、1995 年、524-31 頁。 18 日、派遣軍は「戦争には破れたりと雖も、作戦には圧倒的勝利をしめあり、斯くの如き優勢なる軍隊を弱体の重慶軍により武装解除さるるが如きは有り得べからざること」と上申している78。この日本軍は、華北全体と長江中下流域における主要都市とそれらを結ぶ鉄道沿線一帯をなおも占領していた。華北の日本軍占領地域を取り囲むように中共の抗日根拠地が存在し、四川・雲南といった奥地が国民党の支配地域であった。 こうした配置状況のなかで、日本軍の武装解除に迅速に動けるのは中共軍であった。日本の降伏が予想を越えて早く、国民政府は奥地に後退していた軍隊を結集して接収に赴かせることができなかった。中共軍は8 月16 日頃から華北一帯・江蘇北部において、日本軍に対して武器引渡しの要求を行ったが、派遣軍総司令部は「不法なる治安撹乱者に対しては蒋委員長の統制下に無きものと見做し、止むを得ず、断乎たる自衛行動に出ずべきこと」を通告した79。この「自衛行動」の容認命令は、8 月21 日からの降伏交渉において国民政府軍によって側によって支持され、この「自衛行動」の容認命令は、8 月21 日からの降伏交渉において国民政府軍によって支持され、両軍が協力して中共軍に対して「自衛戦闘」を展開する素地がつくられる80。こうして、中国本土では一部で強制的に武装解除された例を除けば、日本軍が中共軍に投降することはなかったが、華北・江蘇省北部の日本軍は中共軍の攻撃に対する自衛戦闘のため、7000 名の死傷者を出した。他方、華中(江蘇省北部を除く)・華南では終戦後に戦闘はほとんどなかった。 中共軍の日本軍占領地域への進撃を躊躇させたのは、中ソ友好同盟条約(前述)であった。ソ連による国民政府への支持と援助を約束した中ソ条約は、中共軍の進撃にソ連の後ろ盾を期待できなくなったことを意味した。こうした状況は、中共に戦略の方針転換を余儀なくさせた。8 月22 日になると、中共は華北における大都市及び主要幹線占領をあきらめ、小都市と農村の確保に乗り出し、満洲に主要部隊を満洲に移動させた81。 アメリカは対日戦勝利後、国民党軍を上海・南京・北京を含む華中・華北の主要地域に輸送し、国民政府による主要都市の接収を支援した。南京進駐部隊は9 月5 日から続々と空輸によって到着し、国民党軍は8 年ぶりに首都南京に入城した。そして、9 月9 日、岡村寧次派遣軍総司令官が南京中央軍官学校において降伏文書に調印し、何応欽中国陸軍総司令に降伏した。また、台湾では10 月下旬に投降式が挙行され、50 年に及ぶ日本の台湾支配が終焉した。 しかし、中国本土の日本軍の投降・武装解除は、国民党軍の北上時期によって異なり、その過程も決して平坦なものではなかった。華中・華南では、大半の部隊が45 年10 月までに武装解除が完了するが、華北においては、国民党軍の到着が遅れ、武装解除がずれ込み、全面的な武装解除の完了は46 年1月のことであった。 派遣軍にとっても国民党政府側とっても、予想外の事件が山西省の日本軍部隊が閻錫山軍に合流し、同軍とともに中共軍と戦う事態にまで至ったことであった。国民党政府は閻錫山側に対し、 78 前掲、『現代史資料(38)』403 頁。 79 岡村寧次『岡村寧次大将資料(戦場回想編)』原書房、1970 年、10 頁。 80 前掲、『現代史資料(38)』340 頁、346-48 頁。 81 門間理良「利用された敗者―日本軍武装解除をめぐる国共両党のかけひき」(前掲『日中戦争の軍事的展開』)67-83 頁。 19 日本軍将兵の閻軍への参加志願の提出を制止せよとの訓令を発出しているが、国民党軍が現地に到着してからも第一軍所属の日本人将兵約2600 名は閻錫山軍と共同して中共軍と戦うため山西省に残留する道を選んだ82。そのうち、約1600 名は中共軍による山西省制圧直前の48 年までに帰国したが、1500 名余はなお山西省に留まって内戦に従事し、中共の支配下で囚われの身となった83。 おわりに 盧溝橋事件以後の中国東北部(満洲)を含む中国における日本軍人・軍属の戦死者数は約42 万名、戦傷病者が約92 万名である。このうち太平洋戦争開戦後の戦死者は23 万名(戦傷病者50 万名)と推定され、この数は盧溝橋事件から太平洋戦争開戦までの数を上回っており、進攻作戦期よりも、後半期の中共軍との戦いに苦戦したという特徴が表れている。一方、国民政府軍の死者は約132 万名、負傷者180 万名にのぼっているが、そのうち太平洋戦争開戦後の戦死者、戦傷者数はともに激減傾向にある。この傾向は、国民政府が共産軍との対決に備えて軍を温存したこと、日本軍の東南アジアや太平洋方面への転用が続き、戦闘能力が低下していたことを示していよう。ただし、44 年は戦死者、戦傷者とも10 万名を越えており、一号作戦による人的損害の大きさを物語っている。また、中共軍の死傷者数(失踪者を含む)は58 万名を越えると推定される84。 また、日中全面戦争は、双方の軍人だけではなく、とくに中国の非戦闘員に多くの犠牲を強いることになった。非戦闘員の犠牲の多さや日本軍による様々な「非違行為」は、戦後の日中両国民のなかに、新しい関係構築を妨げる深い傷跡を遺すことになった。国交回復を実現した72 年の日中共同声明において、中国政府が「戦争賠償の請求を放棄する宣言」を明記したにもかかわらず、細菌ガス使用問題、戦場における慰安婦問題、日本軍の遺棄兵器問題、中国人労務者の強制連行や強制労働問題など、日本軍による戦争犯罪を問い、戦後補償を求める運動が世代を超えて展開され、日本政府を相手とした裁判が今日まで続いていることは、そのことを物語っている。 82 前掲、『現代史資料(38)』367、510-12 頁。 83 厚生省引揚援護局編『続々・引揚援護の記録』クレス出版、2000 年、327 頁。 84 日本軍の被害は、厚生省社会・援護局監修『援護50 年史』、靖国神社資料(合祀数)等によっており、中国側の被害の推計は前掲、臼井『新版 日中戦争』、207-11 頁によっている。 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/touamemo/pages/50.html
☆在日韓国人60万人の帰還事業を再開しよう。☆ ☆韓国に在外資産61兆円の返還要求をしよう。☆ 終戦時(1945年)の日本の在外資産 http //ja.wi ◆bkipedia.org/wi●ki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B3%A0%E5%84%9F%E3%81%A8%E6%88%A6%E5%BE%8C%E8%A3%9C%E5%84%9F 当時の時価 (現在の価格:米の価格を基準に換算) 地域名 金額(円) (H6の米価/S19の米価=872) 朝鮮 702億5600万円 (61兆2632億円) 台湾 425億4200万円 (37兆966億円) 中国 東北 1465億3200万円 (127兆7759億円) 華北 554億3700万円 (48兆3411億円) 華中・華南 367億1800万円 (32兆181億円) その他の地域(樺太、南洋、 その他南方地域、欧米諸国等) 280億1400万円 (24兆4282億円) 合計 3794億9900万円 (330兆9231億円) コメの価格(60kg) 1944:昭和19年 18円80銭 (S17年〜H6まで旧食管法)・・S20年の年末より急激なインフレ発生 1994:平成6年 16,392円 (H7年より新食糧制度) (参考) 終戦時の在外資産 http //blo ○gs.yahoo.co.jp/miro◇kuninoti/1184787.html 特集 終戦時の在外資産 杉本幹夫(自由主義史観研究会理事) http //www.jiy ●uushikan.org/tok◆ushu/tokushu_g_8.html 日本、財産請求権行使なら北朝鮮に6兆円請求 2002/09/13、産経新聞 http //deliciou ◇sicecoffee.blo●g28.fc2.com/?mode=m no=3345 米一俵(60Kg)の価格推移 http //www.n ○e.jp/asahi/na◆gaishi/kyoto/komekakaku.html