約 461 件
https://w.atwiki.jp/odunull/pages/149.html
高句麗国志 【国情報】 国名 高句麗国 君主 暴投王安崎 → 朴熊 軍師 李 祖茶,高乙那,檀君王儉・・・ 副軍師 ともも,おじぷな,紅瑠,丁白元,紗々・・・ 【事件】 ニダ最初の天下統一。 リアル理由で禅譲 帽子とばしが横行 軍職安定せず 愛の蛙国からの電波外交に国内騒然? 暴投王安崎 朴熊のSFORadio出演 ニダうぜー ラス3共闘も蛙に華北を荒らされて兵役が足りなくてピンチになっていた 江陵落としたら40万の兵役が落ちていてラッキー 実は建国はともも 【客観的雑感】 禅譲前の軍職体制は比較的安定していたが、禅譲後に不安定に。 李 祖茶は立ち上げ時の参謀役をするのが条件だった為、途中から軍職からは離脱(終盤軍職ローテには戻ってくる)。代わりにニダの新人の高乙那を無理矢理軍職にし、禅譲前は国王、軍師、副軍師1は一応固まっていた。 禅譲後、軍師から国王に昇格した朴熊ニムの代わりに当初は、ニダ長老格として檀君王儉ニムを軍師に祭りあげたが、蛙戦の失態の責任を取って降格(ただしラス戦では軍師に復帰)、かわりに高乙那が副軍師から軍師に昇格した。 この時点で、副軍師が流動化。さらに途中でリアルで体調を崩した為、一時的に軍職から離脱、代理の軍師を探したが代わりが見つからなかったため、軍師のたらい回しまで行われた。 軍師のたらいまわしは某三国志Net時代からの伝統であり、ニダ派閥の構成員には抵抗も混乱もないニダ。 -- マンセー名無しさん (2008-07-28 10 11 00) 名前 コメント 【主観的雑感】 名前 コメント SFO1-15 年次列伝・各国志
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/1271.html
155 :4:2012/07/30(月) 20 41 54 本編時系列 提督たちの憂鬱 第6話 1/2 1932年7月以降 第二次五ヵ年計画 第二次五ヵ年計画:上海事変を片付けた日本政府は第二次五ヵ年計画を開始。 各地で高速鉄道、発電所、湾港施設、巨大製鉄所などの整備が開始された。 軽工業国家からの脱皮を果たすべく重工業の梃入れをこれまで以上に行った。 総額20億円以上という巨大な国家プロジェクトは、夢幻会の全面的な後押しの下で進められていく。 遼河油田石油プラント:急ピッチで油田開発を進める。 哨戒のために航空機やジープなどを配備予定。 国民党:華北戦線で粘り黄河周辺でこう着状態。 華北戦線:黄河周辺でこう着状態。 日本製旧式兵器:中国内戦で旧式兵器を売り払う。 稼いだ資金は装備や工廠の設備の更新の足しになる。 米国:張作霖への支援を本格化。軍需工場の建設や装備購入の為の借款を行う。 英国:蒋介石に軍需物資の支援を行う。 仏蘭西:雲南軍閥を支援。各国共に軍閥を利用して中国を分断する動きを進める。 『「少なくとも、かの国が国際舞台の桧舞台に登場するのは史実より四半世紀は遅れますね」 辻の言葉に他のメンバーもニヤリと笑う。』本編6話より抜粋 対ソ工作:中央アジアへ民族自活の精神や資源情報を吹き込んで、ソ連を混乱させることを提案。 極東ソ連軍の工作と連携させることで弱体化を図り、国外で行動する余裕を失わせることを狙う。 満州以南での分断工作と武力以外でソ連、特に中央アジア方面の分断へ力を入れる。 陸軍夢幻会派:統制派と呼称されている。 『この統制派は軍近代化を図る一方で非正規戦や諜報活動によって 中ソの分断と瓦解を図っており、明石大将の後継者たちと見做されていた。 現在、この会派には真崎、東条、相沢などの入れ替わり組みと、 史実の皇道派・統制派の一部が所属している。』本編6話より抜粋 156 :4:2012/07/30(月) 20 42 39 2/2 1933年 フランクリン・ルーズベルト大統領選出。 ルーズベルト:『中国内戦を利用した特需によって 失地回復を目指したフーバー大統領だったが、大恐慌発生の失敗を補いきれず落選。 米国では史実どおり、フランクリン・ルーズベルトが大統領として選出された。』本編6話より抜粋 米国:ニューディール政策の実施を発表。 夢幻会はこれを予期して投資を行い莫大な利益を得る。 同時に予期せぬイベント発生。米国が大規模な中国支援を開始。 中国国内の富裕層によって軽工業の振興が活発化。 中国海軍基地:米国支援により中華民国政府(奉天軍閥)は山東省に海軍基地を建設。 中国軍需工廠:奉天では軍需工廠の建設が計画され、規模は大阪砲兵工廠に匹敵。 英国:日本は役に立つ駒、或いは鉄砲玉に過ぎない。華南とインドを繋ぐ鉄道を建設予定。 中国南部とインドを繋げ、経済面で華北部を引き離す。米企業の中国市場進出への牽制、妨害を目論む。 『確かに日英同盟は東アジアでの権益維持において重要ではあった。 しかしながら日本と徒党を組んで米国と本格的に事を構える気は、 英国にはさらさら無かった。 謀略・外交で高い能力を誇る英国にとって日米の分断はそう難しいことではない。 日本にとって意外な敵は自身の背後に居た。』本編6話より抜粋 海軍:軍縮体制に不満を持つ人間は多い。内務省、情報省、憲兵と連携して不穏分子の監視を行う。 辻正信:会合出席。MMJのネットワークを使い不穏分子を監視。 新潟の干拓、農業の機械化と効率化の推進。 地主達に企業の創設や投資を促して経済の活性化を図る。 『地主階級の人間について徹底的な調査を行い、様々な醜聞を集めていたのだ。 家主には問題なくても、その息子や娘には問題があるケースが多い。 中には地主階級にも関わらず共産主義思想に染まっている者もいた。 辻はそういったスキャンダルを利用して、硬軟あわせた交渉を行っていたのだ。頑固な人間たちでさえ、 そういった身内の醜聞を持ち出されては、大抵は折れるしかなかった。』本編6話より抜粋 石原莞爾:石原莞爾を中心とした一派は、未だに世界最終戦争論を掲げている。 アジア新秩序:一部には日本を中心としたアジア新秩序構築を主張する者もいる。 日本の政治家:今の政府のやり方を腰抜け呼ばわりする人間が多い。 それも自分達が主導権を握るためだけに、今の方針を貶める輩が少なくない。 日中両国:これまで以上に、壮絶な経済戦争を繰り広げることになる。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2583.html
日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 第2部 戦争の時代 第2章 日中戦争-日本軍の侵略と中国の抗戦 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その2> 波多野澄雄:筑波大学大学院人文社会科学研究科教授(委員会委員) 庄司潤一郎:防衛省防衛研究所戦史部第1 戦史研究室長(委員会委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その1> 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その2>第2節 戦線拡大と持久戦2)「長期持久戦」への転換-対峙段階の戦争a.武漢・広東攻略と長期持久体制 b.中国の抵抗 3)東亜新秩序声明と汪兆銘政権の承認a.東亜新秩序声明と汪兆銘の重慶離脱 b.英ソの牽制―日独同盟と天津租界封鎖 4)汪政権の樹立と重慶和平工作 第3節 日中戦争と国際関係1)列国の中国援助と対日経済制裁 2)欧州大戦「不介入」と南進政策 3)日独伊三国同盟と日ソ中立条約 72 4)日米交渉と中国問題a.事変解決と対米交渉 b.中国駐兵問題と破局 第2節 戦線拡大と持久戦 2)「長期持久戦」への転換-対峙段階の戦争 a.武漢・広東攻略と長期持久体制 参謀本部は徐州作戦に続いて漢口作戦と広東作戦を承認した。この二つの大作戦は南京攻略後から作戦部と現地軍において研究されていたもので、徐州作戦の成功がこの作戦の決定を後押しした。漢口と広東の攻略により中国主要部の実質的支配が達成され、列国の中国援助ルートにも打撃を与え軍事的に事変解決を図ることができるはずであった44。 中支那方面軍は、38 年8 月末から30 万を動員して「蒋政権の中枢である武漢三鎮」の攻略戦を展開し、10 月末には漢口を占領した。さらに9 月下旬から広東攻略戦など華南作戦における作戦を敢行し、ほとんど無抵抗のうちに広東をも占領した。中国戦線に投入された兵力は100 万に及び、対ソ戦用の兵力まで引き抜かれて日本の軍事力は限界に近づいていた。しかし、蒋政権は屈服の気をみせず、首都を重慶に移し正面作戦を縮小して四川省周辺に立てこもって「持久戦」を展開する体制をとる。因みに、武漢・広東作戦を通じて毒ガスの効果が実証され、38 年12 月、参謀本部は「大陸指345 号」によって、「特種煙」(あか筒、あか弾、みどり筒)の使用を認めることを各軍に指示し、中国戦線での毒ガス使用が一般化したといわれる45。 漢口、広東作戦後の38年11月中旬、陸軍省と参謀本部は新しい戦争指導の基本方針を合同決定し、12月初旬に天皇の裁可を得て発令された。それは、作戦地域を限定し、兵力を節減しながら占拠地 44 戦史叢書『支那事変陸軍作戦(2)』朝雲新聞社、1976 年、109-12 頁。同『大本営陸軍部(1)』朝雲新聞社、1967 年、542-53 頁。 45 ただし、致死性ガス(きい剤)は、39 年5 月に山西省に限定した実験的使用が認められたのが最初といわれる(吉見義明・松野誠也編『毒ガス戦関係資料Ⅱ』不二出版、1997 年、9-39 頁)。 12 域の安定確保と治安回復、資源獲得を図り、「長期持久の体制」に移行することを目標としていた。事変開始以来、北支那方面軍や中支那方面軍に与えられていた、中国軍の戦争意思を挫折させ、戦争終結の機会をつかむ、という作戦目的は初めて変更されたのである46。こうして事変は新たな段階を迎える。 持久戦体制の下で日本軍が重視した戦略が、重慶など内陸部の要衝都市と内陸部にいたる援蒋ルートの遮断を目的とした、航空機による波状的な空爆であった。漢口飛行場を起点とし、38年12月から始まった奥地爆撃は、重慶など主要都市の市街地爆撃が含まれ、市民に大きな被害を与え、重慶爆撃では全期間を通じた中国側の死者は約11000人と言われる47。しかし、頻繁な奥地爆撃も飛行機の不足、致命的目標の欠如などから国民政府に大きな打撃を与えることはできなかった。 b.中国の抵抗 日本軍の大規模な軍事攻勢が一段落したとき、中国の大衆的ナショナリズムは蒋介石政権の対日和平や屈服を許さない規模で広がりつつあった。占領地域や作戦地域の拡大が刺激剤となり、それまで学生や都市住民、軍人にとどまっていた民族運動は、数千万の農民を含む大運動に膨れ上がっていた。蒋介石はこうした大衆的ナショナリズムに応える術を持たなかったが、中国共産党はその要望によく応え、とくに農民大衆の支持を急速に拡大させていった48。 38 年秋、中国共産党は、武漢陥落をもって抗日戦争が「対峙段階」に入ったことを確認し、国共合作を堅持しつつ長期戦を戦い抜くことを決定した。さらに共産党はその主要な活動を敵の後方におく方針を決定し、共産党軍は日本軍の後方の農村地帯に進出して民衆武装によるゲリラ戦を展開し、各地に抗日根拠地を建設していった。抗日根拠地は全国的に広がっていくが、とくに華北において強力であった。 38 年12 月、参謀本部は占領地域と主要交通線の確保を華北と華中の現地軍に命じた。華北では、共産党軍のゲリラ活動に対抗するため、部隊を市や町の拠点に細分化して分散配置する「高度分散配置」と呼ばれた配備形態を採用した。遊撃戦法を封殺し、住民の組織化や懐柔によって民生安定を図るのに適した部隊の配備形態でもあった49。他方、方面軍は、39 年初頭から抗日根拠地に対する「治安粛正」作戦を展開して、一定の成果を挙げた。 しかし、華北で勢力を拡大していた共産党軍(八路軍)は、40 年8 月下旬から年末にかけて、ベトナム戦争中のテト攻勢にも匹敵する大攻勢(「百団大戦」)を展開し、石太線を中心に、橋梁、通信施設などを徹底的に破壊し、北支那方面軍指導部を震撼させた。方面軍が虚を突かれた主たる原因は共産党軍に関する情報・諜報活動の欠如であった50。同時に、百団大戦は高度分散配置の弱 46 前掲、井本『作戦日誌で綴る支那事変』306-08 頁。 47 「中国側から見た重慶爆撃」を含む最近の研究成果として、戦争と空爆問題研究会編『重慶爆撃とは何だったのか―もう一つの日中戦争』高文研、2009 年。 48 戦場となった中国において、過酷な人員・食糧の動員と徴発がなされ、社会の混乱と変容をもたらしたが、それが中国共産党が支持を拡大していく社会的基盤の形成につながった(笹川裕史・奥村哲『銃後の中国社会』岩波書店、2007 年)。 49 戦史叢書『北支の治安戦(1)』朝雲新聞社、1968 年、114-47 頁。山本昌弘「華北の対ゲリラ戦,1939-1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)189-218 頁。 50 当時陸軍は国民党軍の暗号の80%を解読していたが、共産党軍の暗号はほぼ皆無であった(前掲、山本「華北の対ゲリラ戦」200 頁)。また、戦史叢書『北支の治安戦(1)』382-83 頁。 13 点を暴露し、少数兵力で分散駐屯していた部隊は、人海戦術による攻撃に圧倒された。百団大戦は、日本軍による宜昌攻略などの圧力によって動揺し、対日和平に傾きかけていた国民政府を鼓舞する役割を果たしたといわれる51。 百団大戦に衝撃を受けた方面軍は、報復的な粛正作戦(第1 期、第2 期晉中作戦)を展開し、41年6 月には大規模な華北治安の安定化作戦として中原作戦を実施し、大きな戦果を挙げた。中原作戦後の41 年7 月には、「粛正建設 3 ヵ年計画」を策定し、「未治安地区」(解放区)を「准治安地区」(遊撃区)に、「准治安地区」を「治安区」に変えていくという計画を推し進めた。また、方面軍は、41 年3 月から汪兆銘政府との協力のもとに、軍事・政治・経済の三位一体の運動として、新民会による反共工作の強化などを含む「治安強化運動」を展開した。これらの治安強化作戦の重点は、解放区の経済封鎖に置かれるようになり、軍の「現地自活」要求の強まりと相まって、共産党軍のゲリラ戦に対抗するため日本軍による粛正作戦も過酷なものとなり、住民の虐殺や略奪(これを中国側は「三光政策」と呼んだ)の原因となる52。 3)東亜新秩序声明と汪兆銘政権の承認 a.東亜新秩序声明と汪兆銘の重慶離脱 38 年11 月3 日、近衛内閣は、いわゆる東亜新秩序声明(第2 次近衛声明)を発表し、日本が定義する東アジアの新たな国際秩序を「東亜新秩序」と呼び、日満華の共同による建設推進を「帝国不動の方針」と位置づけ、3 国が互恵平等の立場で経済協力や防共政策を進める、と宣言した。その一ヶ月前の38 年10 月初旬、アメリカ政府は長文の覚書で、盧溝橋事件以来アメリカ人が中国で被った差別待遇、市場独占化の現状を例示して、門戸開放原則・機会均等原則(9 カ国条約)の侵害に対し、速やかな改善を要求した。これに対し、宇垣に代わる有田八郎外相は、事変前の事態に適用されていた観念や原則は、東アジアの現状と将来の事態を律することはできない、と反論し、9 カ国条約などの国際原則を公式に否定していた53。東亜新秩序声明は欧米が築いた国際秩序の原則に代わる新たな原則を示したものであった。 この東亜新秩序声明は、国民政府が従来の抗日・容共政策と人的構成を改めるならば「敢テ之ヲ拒否スルモノニアラス」と述べ、「対手トセス」声明の修正を示唆していたが、和平の呼び掛けではなく、蒋政権の切り崩し工作の一環であった54。日本とともに東亜新秩序建設の一翼を担うはずの新中央政権の樹立工作は混迷を深め、反蒋勢力の結集による蒋政権の「屈服」が相変わらず難題であった。 しかし、このころ外交部亜洲司長・高宗武によって、汪兆銘を占領地区の統一中央政権の首班に据え、和平派を蒋政権から離脱させて蒋政権の外部で和平運動を展開し、蒋の下野と対日和平への 51 前掲、石島『中国抗日戦争史』131-33 頁。 52 戦史叢書『北支の治安戦(1)』494-97 頁、528-37 頁。 53 前掲『日本外交年表並主要年表(下)』393-99 頁。 54 前掲、戸部『ピース・フィーラー』306-09 頁。 14 転換を迫るという構想がもたらされる55。この高宗武工作には、陸軍の影佐禎昭大佐(参謀本部謀略課長)、今井武夫中佐を中心とし、中国側は高宗武のほか、汪の同志とみなされた周仏海(元国民党中央宣伝部副部長)や梅思平らが関与していた。 高宗武らは汪の命を受け、38 年11 月中旬から日本側代表と汪による挙事計画(汪の重慶からの脱出計画)や和平条件について会談に臨み、11 月20 日、日華協議記録に調印した。12 月初旬、汪一派は影佐らの手引きによって重慶を脱出し、昆明を経て12 月19 日ハノイに到着した。これに呼応して日本政府は12 月22 日、近衛首相談話(第3 次近衛声明)を発表した。その内容は日華協議記録の再現であり、日本側が中国の満州国承認、防共協定の締結と日本軍の防共駐屯、華北・内蒙における資源開発に対する便宜供与などを要求し、その代わりに、日本は戦費賠償を求めず、治外法権の撤廃、租界の還付を考慮する、というものであった。ただし、陸軍の要求で防共駐屯地域が「特定地点」とされ、撤兵条項も省かれた56。 汪は、12 月29 日、ハノイで対日和平を提唱し、国民党有力者の蒋政権からの離脱を期待する「艶電」を発表するが、和平条件について、速やかな全面的撤兵の必要性に加え、駐兵地域は「内蒙の付近に制限されなければならない」と強調した。つまり、第3 次近衛声明で抹消された部分の確認を求めたのである57。 一方、参謀本部内では、漢口作戦後を想定した講和条件の立案が進展し、38 年11 月に御前会議決定となった「日支新関係調整方針」は、政治形態の分治合作主義の採用、南京・上海・杭州三角地帯への治安駐兵、揚子江下流域の経済上の強度結合地帯化、日本人顧問の派遣など、第3 次近衛声明や日華協議記録にはない要求を列挙するものとなり、「21 か条要求を凌駕する苛酷なもの」となるが58、汪には翌39 年秋までは示されることはなかった。 39 年1 月、近衛首相は、汪兆銘の重慶脱出を見届け総辞職した。しかし、汪の重慶離脱に呼応する国民党有力者や反蒋軍閥は皆無であったため、政府や軍の指導者は汪による中央政権樹立に消極的となり、陸軍の一部には呉佩孚を首班とする新中央政府構想も再浮上する始末であった。相変わらず事変解決の展望は見出せなかった。 b.英ソの牽制―日独同盟と天津租界封鎖 事変収拾の方策が手詰まり状態となるなかで、ドイツの台頭によって流動化する欧州情勢を活用した対外方策も有力な手段となってくる。それは、対米関係の改善をはかりつつ、独伊との防共協定を対ソ・対英同盟として強化し、事変遂行や東亜新秩序建設の最大の妨害者と考えられた英ソを欧州において牽制するという構想であった59。38 年夏から陸軍の外交戦略の中心となったこの構想の実現のため、まず対独関係の強化がはかられる。 55 影佐禎昭「曾走路我記」(『現代史資料(13)』みすず書房、1966 年、349-98 頁)。西義顕『悲劇の証人-日華和平工作秘史』文献社、1962 年、195-98 頁。 56 前掲、劉『日中戦争下の外交』342-50 頁。前掲、戸部『ピース・フィーラー』310-25 頁。 57 前掲、劉『日中戦争下の外交』352-53 頁。 58 前掲、戸部『ピース・フィーラー』280-96 頁。前掲、臼井「日中戦争と軍部」83 頁。 59 38 年5 月、板垣陸相は五相会議で、「目下蒋を援けて居るものは『ソ』連と英なり本協定を結ぶことにより彼等を欧州に於て牽制せんが為なり」と述べている(『現代史資料(10)』みすず書房、1964 年、271 頁)。 15 ドイツ側も38 年2 月にリッベントロップが外相に就任し、極東政策は親中路線から親日路線へと転換しつつあった。38 年5 月の満州国承認、中国派遣の軍事顧問団の引揚げなどがそれを物語っていた60。日独の接近はすでに38 年初頭からリッベントロップと大島浩陸軍武官との間で始まり、それを7 月に知った東郷茂徳駐独大使は、日独同盟は日華事変の解決に役立つどころか欧州の戦争に巻き込まれる恐れがあるとして宇垣外相に交渉中止を要請するが効果はなかった。陸軍は、極東ソ連軍に対する地上兵力の劣勢を外交的に補うという観点から、対ソ軍事同盟を目標とした枢軸提携交渉の推進力となった。 しかし、ドイツ側の期待はソ連よりも、主要な敵であるイギリスを対象とした同盟であり、ソ連とともに英仏をも加えるか否かをめぐって日本の指導層は紛糾し、近衛内閣の総辞職(39 年1 月)の一因となる。平沼騏一郎新内閣となっても、同盟の対象をソ連に限るとする外務省と英仏も含めることを主張する陸軍との調整がままならず、その決着は39 年8 月23 日の独ソ不可侵条約によってもたらされる。すなわち、長引く日独交渉の裏側で、ソ連は欧州と極東との東西二正面戦争の危機を避けるため、極東では満ソ国境での日本軍との衝突事件(ノモンハン事件)を収拾する一方、欧州ではドイツに接近しており、その成果が独ソ条約であった。独ソ条約は日独間に進行していたソ連を目標とする軍事同盟交渉を頓挫させた。平沼首相は「欧州の天地は複雑怪奇」と述べて内閣を総辞職した。 陸軍の外交戦略実現のためのもう一つの機会は、39 年6 月の北支那方面軍による天津英仏租界の封鎖であった。親日派要人がイギリス租界で暗殺されるという事件をきっかけに、華北の金融や経済の中心であった天津英仏租界を封鎖した。租界封鎖は38 年夏から計画され、徐々に封鎖網を強化していた矢先であった。現地軍にとって租界封鎖は、租界の回収によるイギリス排除であったが、東京の陸軍にとっては、東亜新秩序政策と事変解決へのイギリスの同調を誘うことが狙いであった61。 (引用者注)イギリスの弱腰の原因は当時のヨーロッパ情勢参照。 この事件を重視したイギリス政府部内では対日制裁問題が再燃するが、チェンバレン首相は対日制裁よりも外交交渉による解決を選ぶ。激しい反英大衆運動のなか、東京における有田・クレーギー会談は、39 年7 月イギリスの譲歩と妥協のうちに了解が成立した。その内容は、(1)英国は中国における現実の事態(戦争状態の存在)を確認し、(2)中国における日本軍の生存及び治安維持行為について妨害しない、というものであった。(1)について、「ミュンヘンの宥和」にも似た対日宥和の姿勢に対し、中国は激しく非難した。他方、平沼首相は蒋政権への打撃となるとして高く評価した。しかしその直後のアメリカによる日米通商航海条約の破棄通告は、イギリスを奮い立たせた。日本の外交的勝利は減殺され、日英現地交渉におけるイギリスの立場を強いものとし、東京における協定は反古同然となる62。アメリカの強力な支持を得たイギリスが対日協調を選択する基盤はもはや存在しなかった。 60 1930 年代のドイツの親中路線について、田嶋信雄「解説 Ⅱ-一九三〇年代のドイツ外交と中国-」(石田勇治ほか『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店、2001 年)309-24 頁。 61 永井和「日中戦争と日英対立」(古屋哲夫編『日中戦争史研究』吉川弘文館、1984 年)237-362 頁。 62 永井和「日英関係と軍部」(前掲、三宅編『昭和史の軍部と政治(2)』)184-87 頁。 16 4)汪政権の樹立と重慶和平工作 汪の重慶離脱は蒋政権の動揺を誘うことはなかったが、高宗武は汪を中心に南京に新中央政府を樹立する構想を推し進める。39 年5 月、汪は自ら中央政権樹立の決意を影佐らに語り63、汪政権樹立工作は本格化するものの、政府・軍部が一致して支持する気運にはなかった。 とくに、参謀本部は汪政権の実力を疑問視し、沢田茂参謀次長の着任時の10 月には、「本樹立工作を後援すべきや、将叉これを打切り、重慶との直接交渉により時局を処理すべきやの分岐点」にあった。そこで参謀本部は、汪政権の樹立は妨害しないが、陸軍の政戦略はこれに影響を受けないという協定を政府と締結したうえで、汪政権樹立を容認した64。こうして39 年11 月にはようやく汪政権樹立を前提とした国交調整交渉が開始され、交渉の基礎とされたのが、1 年前の「日支新関係調整方針」であった。汪はこの対日交渉で撤兵と駐兵権の要求に抵抗するものの、結局、日本側の苛酷な和平条件を受け入れ、40 年3 月、南京に新中央政府を樹立する。 この間、参謀本部は汪政権と蒋政権の合流を期待して、重慶との直接交渉の可能性を様々なルートを通じて探っていたが、40 年に入ると宋子良なる人物を通じた和平ルートが開拓される。この「桐工作」は、40 年6 月には蒋、汪と日本側代表者の三者による停戦会談の約束へと発展し、停戦会談の促進を目的の一つに発動されたのが6 月中旬の宜昌作戦であった。戦面の不拡大を固持する参謀本部は宜昌作戦を躊躇するが、攻撃後にただちに撤退することを条件に許可した。しかし、宜昌に進撃した第11 軍は撤退することはなかった。桐工作の進展情報から、蒋政権に和平会談に応ずるよう「最後の決定を迫る為」、宜昌の確保を命じられたからである。実際、宜昌占領は日中戦争全体を通じて重慶に最も強い圧迫感を与えたという65。 しかし、桐工作は汪政権の撹乱をねらった中国側の謀略の疑いが濃厚となり停戦和平への期待は急速に萎んでしまう。さらに、松岡外相のもとで、浙江財閥の巨頭、銭永銘を通じた和平工作も、汪政権の承認を遅らせつつ折衝がなされたが進展しなかった。こうして蒋政権との停戦の術をなくした日本政府は、40 年11 月末日、汪兆銘政権を南京国民政府として正式に承認し、同時に日華基本条約を締結した。この基本条約は前述の「日支新関係調整方針」を基礎としたもので、「善隣友好」や主権・領土の尊重、互恵平等を謳ってはいたが、蒙疆・華北への防共駐屯、治安維持のための日本軍の協力、蒙疆・華北の国防資源の共同開発と日本への優先的提供などが規定されていた。同日、汪政権は日満華共同宣言によって満州国を正式に承認した。基盤の脆弱な汪政権の承認と汪政権の満州国承認は、事変の解決に寄与するどころか、かえって蒋政権との対立関係を固定化することになり、停戦和平の道を閉ざす結果となる。 第3節 日中戦争と国際関係 1)列国の中国援助と対日経済制裁 63 戸部良一「汪兆銘のハノイ脱出をめぐって」(『外交史料館報』第19 号、2005 年9 月)。 64 沢田茂「記憶を辿りて」(沢田茂〈森松俊夫編〉『参謀次長沢田茂回想録』芙蓉書房、1982 年)168-69 頁。 65 波多野澄雄「南進への旋回:1940 年」(『アジア経済』26 巻5 号、1985 年5 月)30-33 頁。前掲『沢田茂回想録』57、177-78 頁。 17 盧溝橋事件の勃発によって逸早く中国援助に乗り出したのはソ連であった。ソ連は、37 年8 月には国民政府と不可侵条約を締結し、同時に武器・弾薬、航空機などを購入するための借款供与を約束し、直ちに実行に移していく。さらにソ連は義勇兵や軍事顧問団をも派遣し、その援助は、米英が援助を本格化させる1940 年までは中国にとってきわめて重要であった66。 アメリカの中国に対する直接的な援助はソ連より遅かったが、すでに盧溝橋事件の勃発以前から、銀の購入政策を続けていた。当初は為替安定資金に限定されていたが、使用条件も撤廃され、銀の売却で得た資金をもって軍需物資の購入に充てることができた。しかし、銀購入の先細りにより、直接的な援助が必要となり、38 年12 月、2500 万ドルの借款(輸出信用供与)協定が成立した。これを皮切りにアメリカは中国援助を本格化させ、40 年以降は最大の対中援助国となる67。 他方、イギリスは日本にとって、事変遂行と東亜新秩序建設の最大の妨害者とみなされていた。しかし、援蒋ルートとしての香港ルートやビルマ・ルートを経由する軍需物資は、ソ連からの物資援助に比べてきわめて少なかった。中国は再三、武器供給と借款を要請していたが、日本を刺激することを恐れて道義的支援にとどまっていた。イギリスの最初に着手した具体的支援策はビルマ・ルートの建設であり、38 年12 月に完成した。さらに、中国の要請に応えて借款供与に動き出し、39 年3 月には500 万ポンドの法幣安定資金を供与したが、この通貨安定資金も日本の激しい通貨工作のために、期待された効果をあげることはできなかった68。 英米は、38 年末から中国援助を本格化させるが、援助の本格化は対日方針の転換を意味したわけではなかった。実際、アメリカの経済制裁は航空機や関連部品の道義的禁輸、クレジット禁止措置といった、軽微の措置に終始する。39 年7 月の日米通商条約の廃棄通告も、その狙いは日本軍の天津租界封鎖問題で妥協を余儀なくされていたイギリスを牽制するためであり、さらに、対日禁輸を要求する議会に先手を打つ意味もあった。ハル国務長官の「日本と事を構えず、アジアから撤退せず、日本の行動に同意を与えず」という対日方針は維持される69。一方、イギリスは、東アジア問題で対米依存を深めていくが、欧州大戦の勃発後は、本国防衛が主要関心事となり、ますますその傾向を強める。 2)欧州大戦「不介入」と南進政策 平沼内閣が退陣し、阿部信行大将が組閣した直後の39 年9 月、第2 次欧州大戦が始まった。欧州大戦の勃発は東南アジアに植民地を有する英仏蘭の関心を欧州に集中させたという意味では日本にとって積極的な南進政策の好機であった。実際、海軍中堅層には大胆な南進国策への転換論が 66 ヤング(Arthur N. Young)によれば1939 年までにソ連が国民政府に供与したクレジットは英米の3 倍強に達していた(China and the helping hand, 1937-1945, Cambridge Harvard University Press, 1963,p.441.) 67 Ibid., pp.61-86. 206-07,441-42. 鈴木晟「アメリカの対応―戦争に至らざる手段の行使」(軍事史学会編『日中戦争の諸相』錦正社、1997 年)319-37 頁。 68 戸部良一「米英独ソ等の中国援助」(河野収編『近代日本戦争史 第3 編』、同台経済懇話会、1995年)340-44 頁。 69 Jonathan G. Utley, Going to war with Japan, 1937-1941(Knoxville The Univ. of Tennessee Press, 1985), pp.9-10. 18 起こるが、日中戦争の解決を最優先課題とする政府・軍部の共通意思とはなり得ず、阿部内閣は欧州大戦への「不介入」政策を採択し、欧州の交戦諸国のいずれにもコミットしないことを宣言した。 欧州大戦の勃発と不介入という条件のもとで、事変の有効な解決手段は英仏ソなど蒋政権に対する列国の物資援助ルートの遮断と考えられた。とくに広東占領による香港・広東ルートの遮断後は、仏印ルートが最大の輸送量を有するとみられた70。ハイフォンからハノイを経て昆明にいたるルートと、ハノイから竜州-南寧にいたる二つのルートのうち、後者の南寧ルートの封鎖作戦が広東占領の第21 軍を主体として実施される。21 軍は占領直後の海南島に集結したのち、11 月下旬に南寧を占領した。しかし、12 月に入って国民政府軍による大規模な冬季攻勢が始まり、21 軍は翌年まで苦戦を強いられ、占領が確定したのは40 年2 月であった。南寧には南支派遣軍の第5 師団が駐留したが、軍事的圧力のもとで実施された外交交渉でも仏印側は援蒋ルート遮断に応ずる態度を示さなかった 仏印問題の行き詰まりは、ドイツ軍の西欧電撃戦によって打開される。39 年秋以降、西部戦線でほとんど戦闘が行われない「奇妙な戦争」が続いたが、40 年春からドイツ軍は電撃戦によってベルギー、オランダを制圧し、6 月にはフランスが降伏した。ドイツの欧州席巻は難航していた援蒋ルート遮断問題を進展させる。イギリスは40 年6 月中旬、日本のビルマ・ルート閉鎖要求に応じて3 ヶ月間の閉鎖に同意し、仏印当局も仏印ルートによる援助物資の輸送を停止した。また、フランスの対独敗北は、遊兵化していた第5 師団を中国方面に転用するか、仏印領内に侵入させるか、という問題に解答を与えることになり、9 月末に北部仏印進駐が敢行される。 他方、日本国内では、ドイツとともに「世界新秩序」建設を担うべきである、とする観点から、朝野の「革新勢力」によって日独同盟論と南進論が声高に主張された。仏蘭がドイツの支配下に入り、イギリスも危うくなったという状況のなかで、いわば力の真空地帯となった東南アジアのヨーロッパ植民地に進出する好機と映った。 しかし、「不介入」政策を堅持する米内内閣は、南進にも日独同盟にも消極的とみなされ、陸軍や革新勢力から激しい批判に遭い、40 年7 月総辞職に追い込まれる。陸軍の強力な後押しで成立した第2 次近衛内閣が7 月下旬に定めた二つの国策(閣議決定「基本国策要綱」、大本営政府連絡会議決定「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」)は、革新勢力の主張を大幅に取り入れたものであった。すなわち、世界は今や「歴史的一大転換期」にさしかかっているとの認識から、日本の「国是」は、「大東亜新秩序」の建設にあるとし、国内政治全般の刷新、自給自足経済の確立、国防国家体制の確立などを国策に掲げた。8 月初旬には新入閣した松岡洋右外相が公式に「大東亜共栄圏の建設」という言葉を用い、大東亜共栄圏の範囲は、日満華三国の東アジアだけではなく、東南アジアを含む地域であると述べた。 一方、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」は、6 月下旬から、ドイツによる欧州制圧と、米内内閣に代わる新内閣の出現を前提として、参謀本部を中心に立案が進んだものであるが、その柱は仏蘭に続くイギリス本国の敗北を想定した極東における英領攻略であった。しかし、欧州戦線は 70 立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』彩流社、2000 年、28 頁。なお、仏印問題につ いては主に本書による。 19 イギリスの必死の防衛戦によって長期化の様相となり、ドイツに呼応して極東の香港やシンガポールを攻撃するという事態は遠のいていく。 ところで、上記「時局処理要綱」において、武力南進政策と日中戦争の収拾方策との関係は明瞭ではなかったが、それは、ドイツの欧州攻略と、日本の武力南進とを連動させることによって、事変を有利に解決できるという漠然とした期待の故であった。例えば、沢田参謀次長は40 年春頃から、「支那事変は欧州戦争と其の運命を共にすべく、・・・為し得れば南方作戦を敢行することが支那事変を有利に解決する途にあらずや」71と部内に説いていたが、こうした考え方が説得力を増してくる。事変の解決は、もはや日中の問題としてではなく、欧州の国際関係の変動と結びつけられていく。実際、汪政権承認後の収拾方策を定めた40 年11 月の「支那事変処理要綱」(御前会議決定)は、既占領地の安定確保を中国政策の基本とすることを確認するのみであった。 こうして、欧州列国との衝突を覚悟した武力南進による自給自足圏確立―長期自給体制の確立が陸軍の事変解決の一手段となる。しかし、英米の結束強化とABCD 対日包囲陣が整ってくるなかでは、武力による東南アジア侵攻は当面避けねばならず、まずは蘭印、仏印等に対する外交交渉による資源獲得や影響力拡大が優先された。しかし、これらの平和的・外交的手段による南進は、蘭印やタイへの英米の支援や牽制も作用して期待通りには進まなかった。 3)日独伊三国同盟と日ソ中立条約 72 三国同盟構想は、独伊との政治的結束強化という「時局処理要綱」の対外施策に沿ったものであったが、東南アジアの資源地帯にドイツの影響力が及ぶのを避けるという意味が含まれ、アジアにおける日本の覇権と欧州におけるドイツの覇権の相互承認が基本的内容であった。問題は、対英戦争中のドイツにどの程度協力を約束するかにあった。とくに陸軍案はシンガポール攻撃などドイツから対英参戦を要求された場合には「原則的にこれに応ずる」ことを約束するものであった。しかし、松岡外相は同盟の対象としてイギリスとともにアメリカを加えた対英米軍事同盟案へと変質させようとし、とくに海軍や外務省の強い異論に直面した。松岡の意図は同盟の威力によって対米戦争を回避することにあり、ドイツの日独同盟に対する期待もアメリカの欧州大戦への参戦抑止にあった。両者は欧州の戦争とアジアの紛争へのアメリカの介入を牽制することに同盟の主眼があることについて了解した。海軍は最後まで同盟に反対するものの、対英米参戦問題について交換公文等で自主的判断の余地を残すことで賛成に回る。こうして9 月下旬、日独伊三国同盟が調印され、松岡は同盟の意義について日米戦争の防止がそのねらいであることを力説したが、英米の援蒋政策を強化させる結果をもたらすのみであった。 ところで三国同盟の成立過程では、日独伊同盟にソ連を誘導して「四国同盟」とするという構想が陸軍から提起されていた。ドイツの対ソ影響力を活用して日ソ国交調整を図ることを念頭においていた松岡外相がその推進に積極的となる。元来、日ソ間の国交調整はノモンハン事件の解決(39 71 前掲、沢田「記憶を辿りて」172 頁。 72 細谷千博「三国同盟と日ソ中立条約」(日本国際政治学会編『太平洋戦争への道 第5 巻』朝日新聞社、1987 年新装版、159-331 頁)などによる。 20 年9 月)以来、ソ連の重慶政権に対する支援を抑制するという観点から追及されてきたが、40 年夏の南進政策の浮上によって、南進に備えた北方の安全確保という観点が加わり、さらに重要な懸案となっていた。 しかし、対ソ交渉は難航した。とくに陸軍は独ソ不可侵条約に匹敵する関係の設定を望んだが、具体的代償に乏しく、40 年秋からの不可侵条約の打診はことごとくソ連の拒否に遭う。そこで松岡は、41 年3 月から「四国同盟案」を抱いてモスクワ、ベルリンを訪問し4 月にはスターリンとの間で日ソ中立条約に調印した。日ソ中立条約の成立は、松岡から見れば日独伊ソの「四国同盟」の成立であったが、すでにヒトラーはこの時点までに対ソ攻撃を決定し、独ソ関係の現実は松岡の主観的判断を越えた厳しいものになっていた。 4)日米交渉と中国問題 a.事変解決と対米交渉 事変解決のため、最後に残された外交的手段はアメリカによる和平斡旋を期待して直接、対米交渉に臨むことであり、そのための準備工作が日米民間人によって40 年秋から開始される。この対米工作には陸軍省軍務局長・武藤章、野村吉三郎駐米大使、ハル国務長官らも関与し、やがて41年4 月中旬には、日米会談のための非公式的な基礎案として「日米諒解案」が日本政府に伝えられる73。 諒解案は三国同盟の実質的な無力化を求める一方、一定の条件の下での事変の和平斡旋や東南アジアの資源獲得に対する日米協力を掲げており、日本側は政府も軍部もこれを歓迎した。ただし、諒解案は和平斡旋の前提として、「ハル4 原則」(領土保全と主権尊重、内政不干渉、機会均等、平和的手段によらざる限り太平洋の現状不変更)の受諾を求めていたが、日本側はこの諸原則を重視しなかった74。 日米交渉における主要な争点は、三国同盟に規定された参戦義務の適用問題、そしてアメリカの仲介による日中戦争の解決であった。前者は条約の解釈と実行の問題として妥協の道が開かれていくが、日本が最も期待した日中戦争の和平斡旋について、アメリカは単なる仲介者ではなく、その前提は、「ハル4 原則」を日本が受諾することであり、とくに、通商上の門戸開放、機会均等原則が無条件に中国に適用されることを重視した。一方、日本はこの原則の修正を要求し、日本軍の駐兵の継続によってそれを保証させようとした。 とくに、日ソ中立条約や三国同盟という外交的成果をもって有利な対米交渉を進めようとしていた松岡外相は、三国同盟に関する日本の義務や日中戦争収拾に関する和平条件の明確化という観点から諒解案を大幅に修正することになる。松岡の意見を容れた日本側の対案(5 月12 日対米提案) 73 塩崎弘明『日米英戦争への岐路』山川出版社、1984 年、第2 部第3・4 章。なお、以後の日米交渉の経緯は、主に外務省編『日本外交文書・日米交渉―1941 年(上)・(下)』(外務省、1990 年)による。 74 野村大使は「ハル4 原則」は会談に臨む前提条件であることを日本政府に報告しなかった(須藤眞志『日米開戦外交の研究』慶應通信、1986 年、60 頁)。ハル長官は、4 原則の承認を前提に日本政府が「諒解案」を正式に提案すれば,それを基礎に日米会談に入ることを想定していた(細谷千博「『日米交渉』及びその記録文書をめぐる若干の問題点について」『外交史料館報』第2 号、1989 年3 月)。 21 の日中戦争に関する部分は、アメリカは、40 年11 月に汪兆銘政権との間で締結した日華基本条約と日満華共同宣言の原則を「了承」した上で、蒋政権に対して和平を勧告すべし、と要求していた。日華基本条約は、当時の公表部分でも、共同防共のための日本軍の蒙疆、華北への駐屯、治安維持のための駐屯、蒙疆・華北の国防資源開発に関する協力などを含み、日満華共同宣言は中国による満州国の主権と領土尊重を確認していた。 これに対するアメリカの回答(6 月21 日米国案)は、汪政権の否認、満州の中国への復帰、日本軍の無条件撤兵、防共駐兵の否認、通商上の無差別待遇などであり、日本の提案をほとんど否認していた。その後の交渉においてもアメリカはこれらの条件を後退させることはなかった。この回答に接した松岡は日本を「弱国・属国扱いするもの」と激怒し、交渉打切りを主張するが、近衛首相は松岡の更迭によって交渉の継続を図った。 b.中国駐兵問題と破局 6 月23 日の独ソ戦争の勃発は、ソ連が明確に反枢軸陣営の一員となったことを意味し、松岡外相の抱く日独伊ソの「四国同盟」構想を破綻させるものであった。アメリカは対ソ援助をさらに強化させ、また、中国共産党の内外戦略を変化させる。すなわち中共は、世界大戦の性格は、帝国主義諸国間の戦争であるとする「帝国主義戦争論」を後退させ、日独伊のファシズムに反対する「反ファシズム統一戦線論」を復活させる。国内では抗日民族統一戦線と国共合作をより重視するようになり、皖南事件で悪化した国共関係は修復され、第2 次長沙会戦では、国民党軍と共産党軍との間に一定の作戦協力も実現している75。 日本では陸軍部内に「北方戦争論」が浮上し、参謀本部や松岡外相はドイツのソ連攻撃に呼応した対ソ攻撃を主張した。南進論との論争の末、国策としては「南北併進」に落ち着いたが、対ソ攻撃は独ソ戦争がドイツに有利に展開した場合とされ、その準備のため関東軍の増強が図られるが、シベリアの気候的条件に加え、独ソ戦が早期に終結する見込はなくなり、8 月初旬に中止される76。 一方、南進政策は、仏印との軍事的結合を強化するとの既定方針に基づき、7 月下旬、南部仏印進駐が断行される。資源供給のための交渉が不調に終った蘭印を威圧するという効果や、南部仏印に航空基地を設定するという目的も含まれていた。南部仏印進駐に対し、アメリカは在米日本資産の凍結と石油の全面禁輸という最高度の経済制裁で応え、英蘭もこれに倣った。しかし、日米ともに戦争を決意したのではなかった。アメリカの最大の脅威は依然としてドイツであり、米独関係は極度に悪化し、6 月には独伊の在米資産はすでに凍結されていた。アメリカの対日強硬措置は、戦わずして日本を屈服させ、さらなる南進を抑止するためであった77。 他方、日本側からすれば、最高度の経済制裁は米英蘭中のABCD 包囲陣が、国防上耐え難いものとなったことを意味していたが、政府・軍部の指導者はなおも対米戦の回避の可能性を追及した。その一つが近衛首相とローズヴェルト大統領との直接会談構想であった。この頂上会談のために改めて対米提案が検討された。その作成過程では、外務省は中国からの速やかな撤兵という原則のも 75 前掲、石島『中国抗日戦争史』137 頁。 76 軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌(上)』錦正社、1998 年、144-45 頁(1941年8 月9 日の条)。 77 J. Utley, Going to war with Japan, pp.151-55. 22 とで、駐兵地域や駐兵期間の限定を盛り込もうとするが、陸軍はとくに蒙疆・華北における駐兵に固執した。結局、9 月25 日の対米提案は、通商上の門戸開放・機会均等については譲歩し、経済活動の自由を原則として認める方針を示していたが、駐兵について譲歩することはなかった。 10 月2 日のアメリカの回答は、日本の提案を否認するとともに、首脳会談についても、その前提として「根本的な諸問題について討議の進展」が必要である、として否定的であった。それでも近衛首相は、戦争回避の立場から、部分的撤兵案によって妥結に持ち込もうとするが、陸軍の立場を代表する東条英機陸相は撤兵に強硬に反対して内閣は崩壊する。10 月18 日に成立した東条内閣は、天皇の指示を受け、「白紙」の立場から非戦の可能性を追求した。11 月5 日の御前会議は、11月末を限度に対米交渉と作戦準備を併進させ、妥結しない場合の武力発動は12 月初旬と決定した。同時に、最後の交渉案として「甲案」「乙案」が了承された。「乙案」は、アメリカの対日石油供給の約束と引きかえに、南部仏印の日本軍を北部仏印に移駐させ、当面の危機を回避しようとする暫定協定案であり、11 月20 日に米政府に提示される。 アメリカ政府でも暫定協定案の検討が進み、「乙案」に近い内容の暫定協定案が用意され、英蘭と中国(重慶政権)に内示される。しかし、日本との苦しい戦いを強いられていた蒋介石の期待はアメリカの対日参戦であり、暫定協定による日米の妥協は、さらなる対日戦争の長期化を意味した。中国からみれば、アメリカは中国の犠牲において日本を宥和しているのであった。イギリスもまた暫定協定案の提出に消極的であり、アメリカの中国問題における譲歩が、中国政府や国民の士気に及ぼす影響を恐れていた。チャーチルの懸念は中国の崩壊がそれだけ日本の東南アジアへの攻撃を容易にしてしまうことにあった78。 かくして、「乙案」の拒否とともに、暫定協定案も取り下げられ、11 月26 日、いわゆるハル・ノートという形で対日回答がなされた。ハル・ノートは中国全土および仏印全土からの撤兵、重慶政権以外のすべての政権の否認、という要求を含み、日本をいわば満州事変以前の状態に引き戻すに等しかった。これを事実上の最後通牒と受けとめた日本政府は12 月1 日、御前会議において最終的に対英米開戦を決定した。 陸軍省軍務局員として、対米提案における中国問題の起草を担当した石井秋穂中佐によれば、蒙疆・華北への駐兵に固執したのは、対米交渉の破綻が目的ではなく、アメリカは華北の共産化の危機を理解するであろう、という期待の故であった79。中国の共産化と対米戦争とは陸軍が最も避けたかった事態であり、皮肉にも、中国の共産化を防ぐために駐兵に固執したことが、対米開戦を招くことになったのである。 他方、アメリカは、日米交渉の最終段階では、太平洋の安定のためには中国の主権を侵すような条件は承認できず、中国問題は英蘭中等との多国間協議が必要である、という立場をより鮮明にするようになっていた。もはや日本軍の駐兵問題は二国間の問題ではなく、太平洋の安定と不可分の問題となっていたのである。 78 U. S. Dept. of State, Foreign Relations of the United States,1941 Ⅳ,pp. 651-54,660-61,665-67.アントニー・ベスト(相澤淳訳)「日中戦争と日英関係、1937-1941 年」(前掲『日中戦争の諸相』)354頁。 79 波多野澄雄『幕僚たちの真珠湾』朝日新聞社、1991 年、143 頁。 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/612.html
ソース: 千田夏光「 高校生徹底質問!! 従軍慰安婦とは何か 」汐文社1992年5月 4-02 韓国人元従軍慰安婦だった人が日本政府を相手に補償を求める訴えをしたというがなぜ彼女は訴えたのか… 4-02 韓国人元従軍慰安婦だった人が日本政府を相手に補償を求める訴えをしたというがなぜ彼女は訴えたのか…コメント欄 その人は金学順(キンハクスン)という六十七歳の女性で、他の二人の元従軍慰安婦だったという人たちと日本まできて東京地方裁判所に日本政府の謝罪と補償を求める訴えをおこしたのだ。軍人軍属として引っ張りだされながら補償も謝罪もうけていない三十二人の男性たちとともにだった。訴えによる補償金額は一律に一人二千万円となっていた。 金学順さんは一九三九年春ごろ中国北部一満州)から華北の集落に連れていかれ日本軍将兵の相手をさせられたといわれている。往時のことはくわしく語られることはないというが、恥をしのんで名乗り出たであろうことは容易に想像がつく。高齢になって「今うらみを訴えねば」との思いと韓国挺身隊問題協議会の支援があってのことだろう。彼女の勇気ある行動につづき韓国内でさらに十人の元従軍慰安婦が名乗り出ている。 私は元従軍慰安婦でした、毎日のように何十人もの兵隊たちの相手をさせられた戦場売春婦でしたなどということを口にするのがどれだけ勇気のいることか。そのことを私たちは考えなければならない。 また日本政府を訴えたのは、従軍慰安婦として朝鮮半島から若い女性を強制連行したのが国家的犯罪だったからだ。厳しい言葉を使えば日本という国が韓国・朝鮮という国を強姦したということだ。 FAQ目次 コメント欄 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/untworld/pages/14.html
大東亞帝國(だいとうあ ていこく)とは、1932年に満洲に於いて建国され、今日に至るまで中華及びその周縁地域である東亞一帯を支配している統一国家。 首都は大京(ハルビン) 満州事変に於いて、旧日本軍の満洲駐留部隊である関東軍が旧清王朝の皇帝である溥儀を元首として擁立し建設された満洲國、後の満洲帝國を始祖とし、日本降伏後、関東軍が指揮下から外れると、満州国は日本とは異なるものとし、引き揚げ令を拒否。満洲帝國を統治する関東軍は、その後1945年のソ連侵攻から満洲を防衛し、国共内戦に於ける国民党側を支援し、中華一帯を支配するまでに発展。 ソ連への逆侵攻によって沿海州を獲得する(アムール講和条約)。50年代以降になると、余力を以て東亜に於ける覇権主義を唱えると越南侵攻、西蔵侵攻など侵略を繰り返し、かつて清王朝が最盛期に権勢を振るった国土領域を回復した。此の一連の動きの中で、蒋介石率いる国民党は関東軍による大東亜新秩序建設に協力する形となり、政府を南京から大京(ハルビン)へと遷した。 1963年には、中国奥地に潜む中共工作員完全駆逐を名目とし、討伐軍を派遣し、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、トルクメニスタンなど中央アジア諸国を屈服させ、朝貢関係を締結する。 1975年、蒋介石が死去し、国民党は解体。関東軍の首謀たる東条英機大元帥が元首に就任し、対外声明に於ける「大東亞共榮の精神」を発表した。米英との講和、中共工作員の完全駆逐により、国家体制を揺るぎ無いものにすると、1979年(箱庭暦6期)に建国を正式に宣言し、国際連盟への加盟申請を行った。 ※国民党は1989年に再結成するも、翌年のソ連崩壊に伴い、満州國立憲帝政党と合体し、大東亞立憲帝政党に組み込まれることとなった。 国家情報 国名 (漢字):大東亞帝國 (英字):Chinese empire 略称:東亞 国旗:#ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 (龍は中国古来より崇められる架空の動物) 元首:東条英機大元帥 政体:軍国主義,帝国主義,ファシズム 経済:封建社会経済 人口:13億4千万人 首都:大京(ハルビン) 首都人口:503万人 国土面積:約1500万平方㎞ 領域:満洲,蒙古,沿海州,中華大陸(華北,華中,華南,西蔵,青梅,ウイグル),仏印半島(越南,泰,ビルマ) 主要民族:中華民族(漢民族,満州族,その他),日本民族,朝鮮民族,蒙古民族,白色ロシア系民族,蝦夷人,泰・ビルマ系人,越南人 宗教:神教,儒教,ロシア正教,キリスト教(カトリック,プロテスタント),ユダヤ教,大乗仏教,イスラム教,ヒンズー教,その他土着宗教 公用語:中国語,日本語 公式通貨:元 政権 軍人の最高責任者たる東条英機大元帥を内閣(行政府)の長とする内閣。また其れを構成する閣僚全てに現役軍人が任命されている。 東条英機大元帥は、絶大なる軍の統帥権(また軍人からの人望も厚い)を有していた為、軍大臣への兼任が望ましいとのことで兼任している。 軍事政権と揶揄される様な軍人のみの入閣に限った東条内閣だが、救貧法の提出、採決など貧民層にも救済の手を差し伸べているなど、社会福祉充実にも意欲がある。 閣僚一覧 内閣総理大臣:東条英機(大元帥) 陸軍大臣:上の者による兼任 海軍大臣:同上 空軍大臣:同上 外務大臣:陸奥宗光(陸軍大将) 逓信大臣:榎本武揚(海軍中将) 内務大臣:山県有朋(陸軍大将) 文部大臣:森有礼(陸軍中将) 農水商大臣:土方三造(陸軍少将) 司法大臣:来栖茂昌(空軍大佐) 大蔵大臣:田端辰郎(空軍中佐) 警視庁警視総監:高橋是清(陸軍大将) 帝國統治評議会 民主主義の実践と称して議会の設立が行われた。これを帝國統治評議会と称する。また衆議院、貴族院の二院制であり、衆議院決議が貴族院決議を優越する。 中国国民党と満州國立憲帝政党が合体し結党されたのが、大東亞立憲帝政党である。 大東亞立憲帝政党は立憲帝政党と改称し、議会の第一党与党に成長すると、他党を排除する一党優位制による議会支配体制を確立し、以来、立憲帝政党の議席の寡占状態が続いている。 また選挙も制限選挙の為、貴族、富裕市民や有力地権者以外は投票できない他、性差による差別も相俟って成年25歳以上の男子且つ一万元納税しなければ投票できない。 一般市民からの意見反映は不可能に近い。 地方行政区分 東北省:大京(ハルビン)、大連、旅順 華北省:北京、天津 華中省:南京、上海 華東省:青島、済南 華西省:西京、ウルムチ、成都 華南省:香港、澳門、海口 越南省:トンキン、ホーチミン 沿海州:ウラジオストック 南部省:バンコク、ヤンゴン 外交 我が国は隣国日本との対等条約を締結した。(日亜友好に関する条約) だが、中華大陸周縁諸国に対する卑下する見方は不変で、インド、インドネシア、マレーシア、パプアニューギニア地方を南蛮、北方ロシアを匈奴、朝鮮、日本を東夷、アイヌを蝦夷などという蔑称を付けている。 経済産業 我が国の産業は主に重工業偏向型。 造船を筆頭とし、自動車、鉄鋼、石油化学などが発展している。 大東亞重工、広東造船、澳門貿易、満州銀行、北京石油の五つの財閥が経済を牛耳っている。 資源も豊富で、整備された鉄道等のインフラを通じて供給される。 主な資源は原油、鉄鉱石、石炭、天然ガス、希少金属、パーム油など。 軍隊 我が帝國では徴兵制を確立し、18歳から5年間、入隊し訓練を重ねる。 更に成績優秀のものには軍人退役後、軍需産業企業への優先的就職や、官僚入りも約束される。 総兵力:208万 各兵力 (陸軍兵力):100万 (海軍兵力):80万 (空軍兵力):28万 潜在的に予備隊が存在するが具体的兵力は機密。 陸軍編成表 大東亞総軍 ∟満州軍団(第一) ∟華北軍団(第二) ∟華中軍団(第三) ∟華南軍団(第四) ∟西蔵軍団(第五) ∟南越軍団(第六) ∟南部軍団(第七) 海軍編成表 大東亞艦隊 戦艦大建造計画により、軍備は充実する。 大東亞共榮憲章 憲法に相当し、国家の標を示す最重要の法である。1982年に制定された此の憲章には、未だ封建的側面が色濃く残る。 前文 我ら東亞の国民は、共に集ゐて、共に手を取り、共に繁榮を齎さうと決意し、確固たる結束の下に東亜諸国は一つの国と成ることを此処に宣言する。また我らは東亞共榮の精神に基づき、相互平等を勝ちとり、相互協力を行ひ、そして圧殺を試みやうとする国家からの侵略から防衛しやうとするものであつて、怠らぬやうに努めるものであり、連携によつて、解決を図ることを誓ふ。我らはいにしえの国家として威厳を深め、名誉ある国際社会一員として師範を示すべきであり、平和社会の到来を確信し、その実践を行ふことを決し、此処に国際連盟への参加と常任理事への立候補を行ふ。かうした努力はきっと実を結び還元さると信じ、恒久的努力を惜しまぬことを誓ふ。
https://w.atwiki.jp/hoi4_theneworder/pages/80.html
1957年の総統選挙は、2月18日、南京の国民大会堂で始まった。この選挙は、憲法に定められた国大ではなく、国大代行委員会で行われたことが特徴である。1957年2月18日、国民党から立候補した林柏生が、同じく国民党から立候補した陳耀祖を破って選出された。翌1957年2月19日には、無所属で華北政務委員会会長の王蔭泰を副総統に選出した。 1957年中華民国総統選挙 1954← 1957年2月18日 →1961 ████████████████████████ ████████████████████████ 候補者 林柏生 陳耀祖 政党 中国国民党 中国国民党 選挙票 40 2 得票率 95.24% 4.76% 選挙前総統汪兆銘中国国民党 選出総統林柏生中国国民党 概要 中華民国政府は、1936年に「五五憲草」と呼ばれる憲法草案を完成させた。しかし、大東亜戦争の勃発により、草案の編集は強制的に中断された。戦後、1947年12月25日に憲法第三読会が行われ、1948年1月1日に公布された。1948年12月25日、中華民国は正式に中華民国憲法を有効にした。1956年に汪精衛が死去したため、副総統であった陳公博が汪精衛の後を継いで総統となった。憲法に基づき、政府は旧正月明けの1957年2月18日に選挙を実施した。しかし、西北の反乱のために国大は召集できず、国大代行委員会の42人の委員が投票に当たった。 選挙結果 役職 候補者 所属政党 得票 当選 数 率 総統 林柏生 █ 中国国民党 40 95.24% 陳耀祖 █ 中国国民党 2 4.76% 副総統 王蔭泰 █ 無党籍 42 100%
https://w.atwiki.jp/mahouka/pages/126.html
鋼気功(ガンシゴン)は、硬気功の発展系で華北の術者がこの名称を用いる。 気功術を元にして皮膚の上に鋼よりも硬い鎧を展開する魔法に発展させたもの(*1) 高密度の想子を皮膚上に流すことで皮膚の構造情報を強化する情報強化型と、全身を何層もの想子情報体で覆う対物障壁型がある(*2) 術者が呪法具・白虎甲(バイフウジア)を装備することで装甲車の機関砲を軽々と跳ね返すほど増幅される(*3) 重量10tのギロチンともいえる山津波を耐え切る 使用者 呂剛虎 ブラッドリー・張 登場巻数 6巻、7巻、20巻、28巻 コメント 生体波動を鎧にするってどうゆうことだよ - 2014-04-04 03 56 19 こいつには達也の分解を利用した手刀でぶった切ってほしかった - 2014-05-13 12 10 51 いつか再登場して達也に瞬殺されてほしい・・・。 - 2014-05-13 21 27 29 鋼気功と対物障壁は別物だろ - 2014-09-01 16 25 51 生体波動とサイオンはちがうのか? - 2014-11-10 22 56 32 違うだろうな。どちらも別々として扱っている術式があるからな - 2014-11-11 02 14 00 せっかく、呪法具の名に白虎がついているのに、五行の金属を操る要素がないのが残念 - 2016-06-24 23 28 25 青龍・朱雀・麒麟(黄龍)・玄武の名前が付いてる呪法具は存在するのだろうか? まぁ登場はしないだろうけどねw - 2016-06-25 01 55 02 白虎甲とか呪法具は量産できるのかな。機関砲を弾き返す部隊とか強いと思うんだが - 2017-06-10 18 51 58 ディアブロのセット装備みたいなものか… (2020-08-11 22 04 07) 古式魔法 用語 魔法
https://w.atwiki.jp/pnssty/pages/223.html
南北朝時代、「独狐を得たものが天下を得る」というお告げを受けた北魏の孝武(こうぶ)帝は将軍・独狐信(どっこしん)の支持の下、長安に都を構えるが、重臣の宇文泰(うぶんたい)に実権を奪われた。それから時が流れ、北周を建国した宇文覚(うぶんかく)が独狐家の狩場を訪れる。彼は権力を増す従兄の宇文護(うぶんご)に対抗すべく、柱国大将軍・独狐信を味方につけようとしていたが……。 政権交代が激しい乱世の南北朝時代。「独孤天下」という予言に、翻弄されていく三姉妹を中心に物語が進む 中国ドラマ 独孤伽羅~皇后の願い~ DVD 。 主人公の三女・伽羅(から)は、姉や周囲の男たちの策略に振り回されながらも成長し、やがて政略結婚した楊堅(ようけん)を隋の初代皇帝へと押し上げ皇后の座に上り詰めていく。長女の般若(はんじゃく)は予言を実現させるため皇后になるべく、心から愛した人を捨て北周の皇室に嫁ぐも、悲しい運命が待ち受けていた。次女の曼陀(ばんた)は自分の母が庶民の出身であることに引け目を感じ、権力と金に執着しており、一度は心を通じ合わせた楊堅とではなく、唐国公に嫁ぐが……。 三姉妹のそれぞれの選択から目が離せない。 ヒロイン伽羅を演じるのは、「ときめき旋風ガール」のヒロイン役で注目された若手女優フー・ビンチン。活気のある少女時代から、賢さと強い根気を持ち合わせた覇気のある皇后になるまでを、多彩な表情で好演し、新たな魅力を開花させている。 果敢でユーモアのある楊堅を演じるのは、「花千骨(はなせんこつ)~舞い散る運命、永遠の誓い~」で注目を集めたチャン・ダンフォン。本作でもその注目度はさらに上昇し、今後活躍が期待される俳優の一人となった。 楊堅と伽羅は愛のない政略結婚だったが、次第に心を通わせ、彼女に支えられた楊堅は隋の初代皇帝となっていく。伽羅とその周囲で繰り広げられる、一筋縄ではいかない愛の行方、そして波乱万丈で予測不可能なストーリー展開に注目独孤伽羅~皇后の願い~ DVD! 本作に出演するためにヒロインのオファーを何本も断ったというアン・アンは、今までの作品で演じてきた健気なヒロイン像とは一変し、皇后になるために愛した人さえも捨ててしまう、一見冷徹で悪女にも見える三姉妹の長女・般若を完璧な演技力を持って熱演。般若は実は家族を守るために自身の愛情やプライドを犠牲にしている、という複雑なキャラクターで、アン・アンの好演とカリスマあふれる存在感から、多くの視聴者を惹きつけた。そして、そんな般若の元恋人役・宇文護(うぶんご)を演じたシュー・ジェンシーも、横暴で恨まれるべき悪役でありながら、一途に般若を想う姿や、彼女に向けた甘いセリフの数々により、視聴者の間で「胸が痛くなる史上一番の悪役」と呼ばれ、大きな話題に。愛しているからこそ、お互いに傷つけ合ってしまう、切ない恋人同士の愛に涙すること必至だ。 北周の優秀な臣下であった独孤信(どっこしん)の娘として生まれる。14歳で大将軍の息子・楊堅と結婚。北周の第4代皇帝・宣帝が亡くなると、朝廷の実権を掌握した楊堅は皇帝として即位し「隋」を建国、伽羅は皇后となった。 北周から皇位を奪うことを迷っていた楊堅を叱咤し、決断させたのは伽羅であったという。建国後は朝政にも深く関わり、皇帝である楊堅と並んで「二聖」と称された。また、中国の歴史において初めて一夫一婦制を提唱したことでも知られており、夫に側室を持つことを許さず自分以外の女に子を生ませぬよう約束させ、2人の間には5男5女の子供がいたという。彼女は602年にこの世を去るが、楊堅の死後に皇帝となった息子の楊広(煬帝)が暴政を極めたことで618年に隋は滅亡した独孤伽羅~皇后の願い~ 日語字幕。 動乱の三国時代を統一した晋(西晋)であったが、わずかな安定期の後に滅亡。華北は5つの異民族による五胡十六国時代に突入し、それらを北魏が統一した。その後、孝文帝の洛陽遷都を機に北魏は東魏・西魏に分裂し、それぞれ北周・北斉に引き継がれる。 北周の外戚であった楊堅(文帝)は、北斉を滅ぼして華北を統一した北周を奪い、隋を建国。さらに、西晋滅亡後に建国された東晋から、宋、斉、梁、陳と続いていた南朝を滅ぼし、およそ300年ぶりに再び中国を統一した。 しかし、その隋も2代皇帝・煬帝(楊広)の暴政によりわずか37年で滅亡。その後は唐がおよそ290年にわたり中国を支配した。
https://w.atwiki.jp/watch3/pages/19.html
台灣陈靖雯さんの紹介によると、過去二十年の間に、中国経済の発展につれて、消費者の可処分所得の向上、化粧品やパーソナルケア用品は贅沢品になってからは日常生活に欠かせない必需品。IWC時計化粧品やパーソナルケア用品の年間売上規模は1982年の2億元の人民元を成長から2002年の460億元で、すでに受給生産許可証に達した4000社以上の企業、製品も二十年前から簡単なコールドクリーム、クリームなどの発展を含むシャンプーやトリートメント、浴露、クリーム、アイクリーム、ハンドクリームなど多くの細分化品類。 化粧品やパーソナルケア用品の伝統的な分類では、IWC時計シャンプーヘアケア製品、清潔な肌のスキンケア製品と化粧品3分パターンは香水を破る。また、メーカーの普及の力点と違って、国内の各地区の経済発展の速度と都市と農村の収益成長速度の違いと3種類の内部の各類の発展もバランスに細分化。 メーカーがないためのマーケティングのシャンプー、リンス種類の製品は、過去数年で大きく成長し、特に「毎日シャンプー」、「健康髪質の基礎は清潔」などのマーケティングのスローガンの影響だけでなく、シャンプー製品の浸透率95%以上に達しました、その使用頻度も昔からの週に一度まで上昇週に2回以上ので、シャンプーヘアケア製品業界の総市場規模での割合が40%程度を高める。 シャンプーの製品は国内の各地域の発展が均衡、大都市、中小都市や町、農村の発展の違いも縮小。ヘアケア製品の分布は、華東と華北地域を中心に、華南若干のプラス、大都市の重要性は比較的明らか。注目すべきなのは、過去2年間、ヘアケア製品の販売を上回る規模に成長シャンプー製品、そして販売金額の著しい成長により実物の量が伸びて、説明に高級製品の成長が速い。ヘアカラー製品の高成長を経験した数年後、平穏な段階に入った、成長スピードに落ちた発用品の平均レベルに近づく。 清潔な肌のスキンケア製品は業界の市場規模に依然として40%程度の割合で、しかし、伝統的な顔面スキンケア製品の販売量とほぼ同じ、成長の売上高は主に清潔な肌の製品と細分化製品など、目のスキンケア製品、手のスキンケア製品など。過去2年間で、特に注目されているのが浴露、手を洗う液、ハンドクリーム、日焼け止めやアイクリームなど、これらの製品は2年連続で2ケタ成長を維持する。そのうち、浴露や手を洗う液体のメーカーは中国国内企業を中心に、特に広東省のいくつかの新興企業、日焼け止めクリームとアイクリームの成長から主に合弁企業。 清潔な肌のスキンケア製品の地域分布が分化の特徴、たとえば、浴露類製品華南地区での販売台数はほとんど全国の半分を占めて、華東地区に近い4分の1のシェアは続いて洗顔クリーム、ハンドソープ、顔や手のスキンケア用品、アイクリーム、体のスキンケア用品などではまだ、華東と華北を中心に。全体の清潔な肌のスキンケア類別大都市での販売台数をはるかに上回る中小都市や町。 制品の販売量はメイク香水実物は遅い成長して、IWC時計しかし、販売金額はやや低下、業界全体の市場規模に占める比率は10年前の3分の1が20 %ぐらいまで。地域に分布の方面を除いて西部地域の低い以外、基本的には目立ったアンバランス、もちろん、その大都市や沿岸中型の都市の販売台数がほとんど。 近年の小売業態の発展と変化は、化粧品やパーソナルケア製品の販売ルートの分布は劇的に変化。伝統の百貨店や雑貨店は1歩1歩を譲るの発展の勢いの急激なスーパーマーケットチェーンの大きい売場。この特徴はパーソナルケア製品の販売の中で特に顕著。 シャンプーのヘアケア製品の売上高が50%以上の由来は、スーパーや大売場、清潔な肌の製品の中で、浴露や手を洗う液体の販売が80%程度はスーパーや大売場実現の洗顔料も50 %の販売はスーパーや大売場を実現、スキンケア製品の様子が少し違っていて、個人に属するケア製品カテゴリーの体でスキンケアと手のスキンケア製品は55%の売上高の由来は、スーパーや大売場、顔面スキンケア用品や目のスキンケア用品はそれぞれ30%20%の売上高と源にスーパーや大売り場はデパートは50%のシェアを占めて30%と、メイクや香水類製品の販売チャネルはまだ集中デパートで。 注目すべきは、いくつかは、IWC時計国内市場にとって新型の販売ルートで静かに台頭しており、ユニークなスタイルを引きつけている消費者の関心のマーケティング。 日に日に激烈な市場競争に直面して、メーカーは、広告宣伝と端末の販売促進について投入を増大するほか、IWC時計 http //www.gekiyasutokei.com/category-3-IWC.html多くの企業にも力を入れて新製品開発と新しい概念の製品の開発は、一方では競争相手の相違を形成を抑え、製品の低価格競争に従って、自分の利益を保証する空間、一方がさらに消费者上がりな消費需要と同時に、新しい制品が日本という概念の広告宣伝にされ、より多くの注意を消費者は、競争の中で獲得イニンアチブ。
https://w.atwiki.jp/retroadventure/pages/69.html
ポートピア連続殺人事件 1983年発売 (エニックス) ストーリー 「ボス!!僕があなたの部下の マノ ヤスヒコ です。ヤスと呼んでください。 では、問題の事件を説明します。殺されたのは、 ヤマカワ コウゾウ 。サラ金の社長でした。 第一発見者は、コウゾウの秘書の サワキ フミエ です。 コウゾウが会社に現れないので、今朝様子を見に来たら死んでいたということです。 その時の様子をフミエは、次のように話しています。」 「私が来た時、書斎には鍵が掛かっていました。だからマンションの管理人のコミヤさんに来てもらい、ドアを叩き開けてもらいました。 で、中に入ると社長が・・・・。でもふと見ると、ドアには中からキーが差し込まれていたのです。 コミヤさんも、そのことに気付いたらしく、こりゃ密室だから自殺だなぁと言いました。 そして警察に電話しました。」 「コミヤも同じコトを言っているので、フミエの供述に嘘はないようです。 では、この事件の真相は・・・・?」 操作方法 コマンド入力式(日本語) ※動詞は基本的に命令形 作品解説 作品中に登場する暗号が、対応機種(PC-6001/PC-8801/FM-7/X-1/MSX)により異なっていた。 チャレンジ!!パソコンアドベンチャー・ゲーム 第一巻に収録。 関連項目 ファミコン版 アドベンチャーゲーム 軽井沢誘拐案内 オホーツクに消ゆ 外部リンク Wikipedia(ポートピア連続殺人事件) 攻略サイト 華北探偵事務所 (PC88版) ashen to ashen(誰が見るのよ懐ゲー攻略集) レトロAVG攻略 プレイ動画リンク ニコニコ動画 - PC-8801 ポートピア連続殺人事件 ニコニコ動画 - PC-6001mkII版「ポートピア連続殺人事件」~エンディングまで