約 461 件
https://w.atwiki.jp/smmr/pages/147.html
基本情報 攻略情報など マップ エリア詳細S↑ 壷 箱 敵 コメント 基本情報 名称 区分 ランク 戦場時間 敵軍総大将 報酬金 勝利条件敗北条件 勝利報酬 特殊目標 特殊報酬 賊の根城 依頼 ★★★☆ 華北30分 山賊山賊親分 800G 山賊親分の撃破プレイヤー死亡3回 覇王の魂 5分以内に開門 虹繭 攻略情報など マップ エリア詳細 S↑ 壷 No. アイテム 備考 1 アイテム 備考 箱 No. アイテム 備考 1 アイテム 敵 分類 名称 属性 兵種 武器相性 武勲 戦利品 備考 剣 槍 戟 棍 弓 術 分類 名称1 ? 軽兵 ◎ ○ □ □ □ △ ? ? 名称2 ? 重兵 □ △ ◎ ○ △ □ ? ? 名称3 ? 術兵 × ○ △ △ ◎ ○ ? ? 名称4 ? 動物 ○ □ □ × ○ ◎ ? ? 名称5 ? 固定兵器 △ △ ○ ◎ × × ? ? 名称6 ? 軽兵器 ○ □ × △ □ ○ ? ? 名称7 ? 重兵器 △ □ □ ◎ △ △ ? ? コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/smmr/pages/99.html
基本情報 攻略情報など マップ エリア詳細S↑ 壷 箱 敵 コメント 基本情報 名称 区分 ランク 戦場時間 敵軍総大将 報酬金 勝利条件敗北条件 勝利報酬 特殊目標 特殊報酬 逃げた武将たち 依頼 ☆ 華北30分 呂布軍- 200G 全武将の撃破プレイヤー死亡3回 星砂 妖蝶の撃破 にごり油 攻略情報など マップ エリア詳細 S↑ 壷 No. アイテム 備考 1 アイテム 備考 箱 No. アイテム 備考 1 アイテム 敵 分類 名称 属性 兵種 武器相性 武勲 戦利品 備考 剣 槍 戟 棍 弓 術 分類 名称1 ? 軽兵 ◎ ○ □ □ □ △ ? ? 名称2 ? 重兵 □ △ ◎ ○ △ □ ? ? 名称3 ? 術兵 × ○ △ △ ◎ ○ ? ? 名称4 ? 動物 ○ □ □ × ○ ◎ ? ? 名称5 ? 固定兵器 △ △ ○ ◎ × × ? ? 名称6 ? 軽兵器 ○ □ × △ □ ○ ? ? 名称7 ? 重兵器 △ □ □ ◎ △ △ ? ? コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/3511.html
876 :ひゅうが:2016/07/14(木) 17 14 57 神崎島ネタSS――「北平戦線異状なし」 「宋閣下。こちらは異常ありません。」 「橋本閣下。こちらも異常ありません。」 北平駐屯の支那駐屯軍司令部では、定時連絡が交わされていた。 「いずれも兵営への帰着を確認。よろしいですね?」 「確認しました。本日も何事もなく一日が終わった。ふぅ。なかなかどうしてこういうものは便利ですね。 いちいち軍使を派遣する必要もありませんから。」 「ですね。こうして誤解が減るのはよいことです。」 橋本は、湧き上った悪戯心を押し隠しつつ、表面上はにこやかに電話口に向かってそう言った。 「願わくば、このままゆきたいものですな。おっと…次の植樹節(孫文の忌日)は歓迎いたしますよ。この間の神武節の歓迎のお礼をしたい。」 「いいですね。楽しみにしていますよ。」 では。と橋本は電話を切った。 「いやはや、宋中将の言うことではないが、便利なものだな。直通回線というのは。」 「ですな。いちいち殺気立つ兵士の間を軍使として走り回るよりもこうして電話一本で済むのはなおよいものです。」 部下の言葉に、支那駐屯軍司令官代行 橋本群少将は苦笑で応じた。 前任者が本土へ帰参した今、この北平――かつて北京と呼ばれた都市に駐留する部隊は参謀長からスライドした橋本以外には存在しない。 そして彼の就任と共に、北平駐留の中華民国軍――国民革命軍第29軍司令部に向けて本土からある提案がなされた。 司令部間の専用直通電話回線の設置がそれである。 最初は反対意見が多かった。 いわく、支那側に一方的に有利になる。 軍事行動が筒抜けになるとはどういうことか。 そもそも相手は信用ならぬ。 このような意見を極めて高いところからの命令ということで押し通した橋本自身も、その効果を信じてはいなかった。 だが、日に二度、相互の部隊行動を告知するようになってからは少し状況が違ってきている。 こちらが馬鹿正直に演習や兵営への帰還を告げるようになると確かに抗日精神旺盛な兵士たちが妨害をするようになったのだが、その都度抗議の声を入れるようになってからは明らかに相手の出方が変わってきたのだ。 つまりは、第29軍には二重の命令系統が存在し、しばしば一部部隊が軍長の宋哲元らの指示を無視していたのだ。 彼らの上につながっているのはおそらくは共匪といわれた共産党だろう。 いやいや蒋介石の特務機関、藍衣社かもしれないが… とまれ、支那の人士はこのようなことを嫌う。面子といったらそれまでだが、彼らはそうしたものを大切にしていた。 橋本が頭を下げて軍長ほかを歓待したことによって橋本と宋らの間には大陸的な意味での「友人」としての関係が成立しており、それを害するように誰かが策動するのはあまり好まれなかったのだ。 さらには、この連絡によって相互の小競り合いのときの命令や兵力配置が明確となったことから北平の欧米系メディアに対して堂々と自らの主張を述べることができることができるようになったことも大きかった。 彼らは、えてして隣人である支那側の肩を持つ傾向があったし、日本側は軍機の一言で片づけることも多かった。 それが、記者会見場で通信記録をガリ版に刷って渡し、「こんどの日本軍は正直だし規律正しい」という印象を与えることにもなっている。 従来は一方的に日本側が悪者にされていたのに。 こうした思い切った情報公開からか、はたまた誤解が生じにくい状況になったからか、数年来の緊張がとけはじめた北平において日支間の住民の緊張は同様にとけつつあった。 ただでさえ、日支間では1月ごろから降ってわいたように北支における日本側の兵力削減という大幅譲歩がなされており、満州事変以来の「勝利」に国民党側は大いに溜飲を下げていた。 877 :ひゅうが:2016/07/14(木) 17 15 44 このままいけば分離されかけた華北の再奪還や、熱河の緩衝地帯化による北平の盤石化がなされると思われており、たとえば満州への怒涛の大侵攻を行うような大戦争の機運は去りつつあったのである。 騒いでいたのは… 「今日は、妙なことはなかっただろうな?」 「兵の中には不満もあるようですが、兵員を丸ごと入れ替えたのがよかったのか、今のところは高い士気を保っております。やはり連中を取り締まったのがよかったのでしょう。」 「大陸浪人どもか。」 日露戦争以降、満州から華北にかけては、日本本土に住処をなくしたごろつきどもが闊歩していた。 もちろん辛亥革命に協力して歴史を動かしたような者もいるし、尊敬を集める人物もいる。 だが、大半は戦勝国を鼻にかけて支那を侮蔑し、乱暴狼藉を働くような素行の悪い連中だった。 彼らを称して大陸浪人。 満州国建国に伴って確固たる本拠地を得た彼らは、あるいは特務機関に、あるいは企業に雇われて華北で暗躍。 当然ながら、在留邦人も同類とみられ、日本という地域覇権国家の評価をさらに落とすことになっていた。 だが、この現状は今年1月末に唐突に終わる。 まず満州の関東軍総司令部に輸送機4機に分乗した憲兵隊が到着すると、1週間もしないうちに総司令部の人員が全員交代。 続いて師団長クラスから大隊長クラスまで一気に人員が入れ替えられた。 いつのまにか支那駐屯軍では、前線部隊指揮官が司令部へ報告なしに挿げ替えられており、病に倒れていた司令官も本国へ後送された。 そして、廣田首相による第一次声明。 これにより、列強はもとより中華民国側も「日本が音を上げた」と判断。 在留邦人への襲撃や大陸浪人側の過激な行動が生じ――なかった。 まずもって、北平などに展開した憲兵隊は、それまで持ちつ持たれつだったはずの大陸浪人どもを捕縛。 その前科によって容赦なくこれに対処していたためである。 とりわけ、彼らを利用して私腹を肥やしていた軍人は即決軍法会議により処断され、銃殺。 これが公開されることによって大きな抑止効果を生んでいた。 おそるおそる密告された者も残らず処断されたことに、住民は歓喜の声を上げた。 だが、逆に、闇に潜む者たちは恐怖した。 何者かは知らぬが、大陸的には間抜けでお人よしで傲慢な日本人をこうまで徹底して苛烈にさせた存在に。 878 :ひゅうが:2016/07/14(木) 17 16 16 「ただ大日本だなんだと威張りたい連中は引っ張れ。ただし在留邦人に何かしようとしているという計画を聞いたら即座に報告せよ。 宋閣下にそのまま申し上げる。」 「わかっております。」 これが、事態のからくりだった。 宋としては、侵略者の日本人がどうなろうと当然などと返答するわけにはいかぬ。 そんなことを言えば、今度の日本人たちは馬鹿正直に北平の記者クラブでそれを発表しかねないからだ。 これは日本帝国主義の陰謀だとわめきたてたところで、それが実行に移される前にそういう情報があると発表されてしまっていれば本末転倒だ。 がせ情報だとしても、それに乗って日本人を襲撃するバカが出たら白い眼で見られる。 半ば無防備に見えても、日中双方の緩衝地帯という特殊な地勢と大都市であるがゆえの列強の「目」は抗日行動の過激化を封じてのける大きな武器となったのである。 何より喜劇的なのは、それまで抗日路線を鮮明にしていた中華民国側が慌てて日本人を護らざるを得なくなったことだった。 だが―― 「いつまで持ちますかな。この平穏は。」 参謀長がいった。 今の現状は、帝国陸軍という強大な存在の後ろ盾と、まるで無防備であるかのような情報公開による砂上の楼閣に過ぎないことを彼は知っているからだ。 「さて…情報が確かなら、南京のファルケンハウゼンは、早期の対日局地戦勝利を進言したとのこと。だからこそ、この無手での居直りがきいてくる。 日支双方が軍を展開するこの地域で欧米列強が日本を悪と断じることがなければ、彼らはまだ全面戦争を起こして満州へ攻め込めないのだからな。」 極秘、と記された諜報情報は、橋本を慄然とさせていた。 それが確かなら、彼が今いる場所は発端の地。 日支間の泥沼の持久戦の引き金を引きかねないことは、これまで以上に彼を慎重にさせていた。 「ソヴィエトめ…我々はその手には乗らぬぞ。東方では日本が主敵。 日支が争い疲れたところで後ろから総取りするつもりらしいが… だが…我々が引けばどうなるかな?」 あるいは支那と結んで満州へ怒涛の侵攻? 関東軍の混乱を見て? それこそ、ロシア的強欲さを際立たせる行為でしかない。 唐突に平和路線を掲げた日本人への厳しい目以上に、ソヴィエトという体制自体が欧米列強の警戒を呼ぶことに、連中も気付いている。 いやまさか。 「さて。せっかくのお誘いだ。こちらも心づくしの贈り物を持って行かないとな。」 「経費がかかりますな。」 「言ってくれるな。きちんと監査は受ける。」 橋本は、脱線しかけた思考を強引に元へ戻した。 彼の今日の仕事は、宋からの招きに応じるにあたっての贈り物の価格をどのように本土へ言い訳するか頭を悩ませることだった。 879 :ひゅうが:2016/07/14(木) 17 18 11 【あとがき】――というわけで華北事情をひとつ。 艦娘のかの字も出ていないなw
https://w.atwiki.jp/qqr2/pages/34.html
キャラ作成までの流れ サーバー選択までは「起動」のページを参考にして下さい。 日本と違う点を挙げます。 サーバーは全部で10あります。 サーバーごとにチャンネルが0~9まであります。 (少ないサーバーでは6くらい) MMORPGにあるように、1アカウントで各サーバーにキャラを一体ずつ作れます。 日本と違い、性別はキャラクター作成時に決めるので 10サーバー中5つは男子、5つは女子とすることも可能です。 現在のサーバーの並びは以下。 (AppLocaleを使わなければ文字化けして読めません) 現在(2008年3月)、プロキシを通さないと上から四番目までしか接続することができません。 日本人がよく選ぶサーバーは 西南(一番目)―― 一番上でプロキシが不要なので何となく選ぶ人が多い? 広東(三番目)―― プロキシ不要サーバーの中では比較的プレイ人口が多いエリア。 上海(五番目)―― プロキシが必要ですが、プレイヤーのマナーは良いという評判。 華北(一番下)―― プロキシが必要になるまでもっとも日本人が多かった地区。 現在は殆どの人が移住してしまったかも…。 ※サーバー順列が変わるまでの一番上は「西北」エリアでした。 西北にキャラを作ったけど一番上で接続したら消えていたという人は 下から四番目にいってください。ただし、プロキシが必要になりました。
https://w.atwiki.jp/hasigo/pages/183.html
橋天東地演義 213年 赤壁の戦い第1話四海を制した袁紹は関係の拗(こじ)れた曹操に牙を剥き、 華北へ攻め入った。 初戦は白馬※津(はくばしん)で激突した。※津(しん:港を意味する。焼津、津など倭国にも見られる)白馬津では袁紹の先鋒、イケメンの顔良が猛攻をしかけ 曹操軍劣勢であったが、曹操に敗北し逃亡した劉備の家族を守る為に 曹操軍麾下に組み込まれた関羽雲長が混戦の中、顔良を討ち取った。 また、袁紹軍の猛将、文醜は数で勝るも曹操に敗北し、 曹操軍は機先を制したが 40万とも言われる大軍を前に曹操軍は本拠の許昌まで退くしかなかったが 防戦から一転、活路を見出し袁紹軍を撃退。 そのまま追撃し、袁紹は悶死、残る三兄弟も仲違いし滅びた。 曹操は中原と華北を制し、近隣の騎馬民族は郭嘉、張遼、夏侯淵により 服従し、曹操は南に居座る劉表、江東に孫策に目を向けた。 西の馬騰率いる涼州軍閥は馬騰自身が人質となり曹操に服従した。 行方不明であった劉備は袁紹に味方し 曹操を挟み撃ちで袁紹と攻撃していたが 曹操配下の曹仁に敗れ、劉表の下へと落ち延びていた。 劉表は劉備を曹操軍にぶつけながら裏では曹操と和平交渉を進めたが 劉備は期待を裏切らずあっさり敗北。 劉表は病死し、劉表の跡継ぎの 劉琮(りゅうそう)は期待を裏切らずあっさり降伏。 慌てた劉備は更に南へ逃走、逃亡を企てる。 しかし、劉表の下で暮らしていた劉備は劉表の治めていた 荊州(けいしゅう)の兵士や民に曹操の悪口を言いまくっていたので 人民は曹操を恐れ、劉備についてきた。 この時劉備は、「自分は管仲(かんちゅう)や楽毅(がっき)に並ぶ名将だ」と自負して自惚れていた 諸葛(しょかつ)名を亮(りょう)、字を孔明(こうめい)を軍師に迎えていた。 諸葛亮は「民を盾に逃げりゃ、にげれるっしょ?大将」と助言した。 劉備はほんまそれ!と声が出そうになったが押しとどめたが 張飛が「策はあいつが勝手にやって兄者は知らんかったで良いじゃねぇか」と 助言した。 劉備は絶体絶命のピンチをこの策で乗り切ろうとした。 実際、どの記述にも劉備と一緒に逃げた荊州の民の行き場所は描かれていない。 劉備は民を盾にして最後は船で逃げたのは明白である。 必死で逃げる劉備に一人の男が近づいた。 孫策の配下の魯粛(ろしゅく)子敬(しけい)である。 魯粛は孫策配下の軍師、周瑜(しゅうゆ)公瑾(こうきん)の名を受け、 劉備と謁見しにきた。 汗、鼻水と泪を流しながら逃走する劉備は「た!助けてくれ!!」と 魯粛に泣きついた。 魯粛は「この先にある船団で江東へ落ち延びなさい」と案内した。 劉備軍は関羽、張飛、趙雲、糜竺、糜芳など主力は健在であったが 劉備の第一夫人は死んだ。 魯粛は「夫人を亡くされてお気の毒です」と声をかけたが 劉備は「生きてる夫人もいるし、俺が生きてりゃ夫人は作れる」と胸を張った。 魯粛は劉備を殺そうとしたが周瑜の命だという事を思い出した。 しかし実際、魯粛は昔、荒くれ者で弓を弾いては盾を射抜く剛力の持ち主で 名が通っていたので、できない事も無いのは伝えておこう。 曹操は劉備を荊州から追い出し、制覇した。 そして曹操は孫策に対し、降伏状を送った。 孫策は父の後を上手くまとめ、 幾度か北上して曹操を狙ったが、曹操の荒らした徐州の地へ軍を進めれば 飢民や賊等が襲ってきてなかなか戦果を上げれなかった。 そこでこの降伏状だが、孫策は大笑いし 孫策「はっはっはっ、曹のジジイが笑わせるわ! 皆を集めよ!橋天東地のI llらも呼べ!」 そして橋天東地に孫策からの使者がきた。 つづく
https://w.atwiki.jp/smmr/pages/98.html
基本情報 攻略情報など マップ エリア詳細S↑ 壷 箱 敵 S↑↑ 壷 箱 敵 コメント 基本情報 名称 区分 ランク 戦場時間 敵軍総大将 報酬金 勝利条件敗北条件 勝利報酬 特殊目標 特殊報酬 野盗の罠 依頼 ☆ 華北30分 山賊山賊親分 100G 総大将の撃破プレイヤー死亡3回 古紙の札 3分以内に開門 黒炭 攻略情報など マップ エリア詳細 S↑ 壷 No. アイテム 備考 1 肉まん 体力ゲージが小回復する 箱 No. アイテム 備考 1 黒曜石 2 古紙の札 敵 分類 名称 属性 兵種 武器相性 武勲 戦利品 備考 剣 槍 戟 棍 弓 術 雑兵 山賊(剣) - 軽兵 ◎ ○ □ □ □ △ 10 短刃のかけら長刃のかけら広刃のかけら S↑↑ 壷 No. アイテム 備考 1 アイテム 備考 箱 No. アイテム 備考 1 アイテム 敵 分類 名称 属性 兵種 武器相性 武勲 戦利品 備考 剣 槍 戟 棍 弓 術 分類 名称1 ? 軽兵 ◎ ○ □ □ □ △ ? ? 名称2 ? 重兵 □ △ ◎ ○ △ □ ? ? 名称3 ? 術兵 × ○ △ △ ◎ ○ ? ? 名称4 ? 動物 ○ □ □ × ○ ◎ ? ? 名称5 ? 固定兵器 △ △ ○ ◎ × × ? ? 名称6 ? 軽兵器 ○ □ × △ □ ○ ? ? 名称7 ? 重兵器 △ □ □ ◎ △ △ ? ? コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/pgbnavi/pages/680.html
王 瑋趙(Wang Wei-Zhao、1989年5月31日 - )は、かつて横浜アクアマリンズに所属したプロ野球選手(投手)。 概要 経歴 詳細情報年度別投手成績 記録初記録 節目の記録 背番号 能力推移 pixivリンク 概要 所属 横浜アクアマリンズ 背番号 21 国籍 中華人民共和国 出身 中華人民共和国 生年月日 1989年5月31日 身長 154cm 体重 44kg 投打 左投左打 血液型 A型 プロ入り 2012年新規 PL JUN松(→ホッシー) 球歴 華北体育高等学校-ロッキーズ-福島スターガールズ-横浜アクアマリンズ(2012) 経歴 詳細情報 年度別投手成績 年度 所属 規定 試合 勝 敗 S H 完投 完封 先発 QS 完了 防御率 投球回 打者 被安 被本 奪三 与四 与死 敬遠 失点 自責 WHIP 2012 横浜 記録 初記録 初登板:2012年6月6日、対東京フレイズ9回戦(明治神宮野球場)、6回裏に3番手で救援登板、1/3回2失点 初奪三振:2012年6月24日、8回表にクレイグ・ディアナから 初勝利:2012年7月4日、対東京フレイズ17回戦(明治神宮野球場)、6回裏に2番手で救援登板、2/3回無失点 節目の記録 背番号 21(2012) 能力推移 年度 速球 球威 変化 制球 体力 守備 ピン 対左 打強 クイ 総合 2012 18/A 9/D 9/D 13/C 9/D - - - - 58/D pixivリンク 選手シート【2012】
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/319.html
週刊金曜日 1997.12.5 南京大虐殺60周年特集 大命による南京攻略戦昭和天皇は対中国決戦諭者だった昭和天皇が中国を敵国と呼んだ 中央主導で拡大した盧溝橋事件 大命による南京攻略戦 昭和天皇は対中国決戦諭者だった 藤原彰 昭和天皇が中国を敵国と呼んだ 一九三七年一一月二〇日、日露戦争以来三二年ぶりに、天皇の大纛(たいとう)(旗じるし)の下の陸海軍の最高統帥機関として大本営が設置された。同月二四日には、第一回の大本営御前会議が開かれ、その席上で九月末に石原莞爾に代わって参謀本部第一(作戦)部長となった下村定(さだむ)が、南京の攻撃を考慮していることを説明した。ついで一二月一日、大本営は中支那方面軍の戦闘序列(天皇の命ずる作戦軍の編組)を命令し、さらに大陸命(大本営陸軍部の発する天皇の命令)第八号をもって、「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」と命令した。昭和天皇が中国を初めて敵国と呼び、その首都南京の攻略を正式に命令したのである。防衛庁編纂の『戦史叢書』によれば、「大本営は南京攻略により、敵の戦争意志を挫折させ戦局終結の動機を獲得することをねらったもの」だという。 しかし蒋介石は、日本の強力な武力に対しては、決戦を避けて中国の広さで対抗するとしており、南京を失えば武漢で、武漢を失えば四川で戦うと宣言していた。毛沢東も、こうした戦略を理論化した『持久戦論』を著したくらいだから、大本営の敵国首都の攻略による短期決戦論は、中国の実情、特にその抗戦意志に対するはなはだしい認識不足といわなければならない。だが日本側では、誰よりも昭和天皇が中国に対する決戦論者で、強力な一撃で相手を屈伏させようという意見を示していたのである。 これに先立つ同年八月一五日、近衛内閣は「支那軍ノ暴戻ヲ膺懲(ようちょう)シ南京政府ノ反省ヲ促ス」という、宣戦布告に代わるものとして出された帝国政府声明を発表した。この日に天皇は、上海派遣軍の編組と上海への出兵を、臨参命(参謀総長の伝宣する天皇の命令)第七三号で命令した。その三日後の八月一八日、『戦史叢書』によれば、天皇は軍令部総長(伏見宮)と参謀総長(閑院宮)に対し、次のような御下問をしている。 戦局漸次拡大シ上海ノ事態モ重大トナレルガ青島モ不穏ノ形勢二在ル由、斯クノ如クニシテ諸方二兵ヲ用フトモ戦局ハ永引クノミナリ。重点二兵ヲ集メ大打撃ヲ加ヘタル上ニテ我ノ公明ナル態度ヲ以テ和平ニ導キ速ニ時局ヲ収拾スルノ方策ナキヤ。即チ支那ヲシテ反省セシムルノ方途ナキヤ。(注1) すなわち強力な一撃で相手を屈伏させる方法はないのかと、両総長に質したのである。 これに対し両統帥部で検討を重ねた上で、二一日に両総長が奉答した要旨は以下のようであった。第一に航空兵力をもって敵の軍事施設、軍需工業中心地、政治中心地等を爆撃して、「敵国軍隊拉ニ国民ノ戦意ヲ喪失セシム」、つまり大規模な戦略爆撃を行なうということであった。それでも目的を達成できないときは、第二に、華北における、平津地方(北京を当時は北平といったので、北平、天津地方のこと)、華中では上海付近を確保し、さらに中国沿岸の封鎖を行なうというものであった。このときはまだ南京は爆撃だけで、南京攻略は構想されていなかった。とにかくこの段階でも、昭和天皇は積極的な対中国短期決戦論者であったことが、この御下問、奉答のやりとりで示されている。 当初の上海派遣軍の兵力は二個師団に過ぎず、中国軍の激しい抵抗で思いがけない苦戦に陥った。石原作戦部長が不拡大論の立場をとって、上海に多くの兵力を向けることを嫌っていたからである。これに対して天皇は、拡大論の立場に立って、兵力の増派を督促した。そのことを『昭和天皇独白録』の中で、次のように語っている。 当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であつた。ソ聯を怖れて兵力を上海に割 ことを嫌ってゐたのだ。湯浅内大臣から聞いた所に依ると、石原は当初陸軍が上海に二ヶ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云った相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ヶ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思つたので、私は盛に兵カの増加を督促したが、石原はやはりソ聯を怖れて満足な兵カを送らぬ。(注2) 実際に上海の陸上戦闘が遅々として進まないのに苛立った天皇は、九月六日参謀総長を召して増兵を催促した。石原は不拡大を主張し、参謀本部内でも孤立していたが、天皇の督促が転機となり、九月一一日さらに三個師団を上海に増強する大命が出された。上海への増兵が決定されると、石原は作戦部長を辞任して下村と交代した。ここでも昭和大皇が、対中国決戦論者であったことが現れている。 中央主導で拡大した盧溝橋事件 昭和天皇が対中国戦争に積極的だったことは、すでに戦争開始の際にも示されていた。三七年七月七日の盧溝橋事件が、日中間の全面戦争に拡大していく経過は、六年前の三一年の満州事変勃発のときとはまったく様相を異にしていた。満州事変の際は、関東軍の満鉄附属地以外への出動も、朝鮮軍の国境を越えての派兵も、大命なしに勝手にやったことであった。後になってからつじつまを合わせるための命令を出して、大命干犯が問題になるのを防いだくらいで、常に出先の軍が行動を起こした結果を、軍中央も政府も天皇も事後承認させられたのである。ところが盧溝橋事件の際は、逆に中央主導で戦争を拡大していったのである。 事件勃発の報を受けた七月八日の東京では、拡大派と不拡大派がはげしく対立するが、参謀本部は石原作戦部長の意向で、七月八日夕に現地に不拡大方針を指示した。七月九日の閣議も、現地で停戦の協議ができたとの報が入ったので、不拡大の方針を決めた。ところがこの間にも参謀本部や陸軍省内の拡大派は、派兵の準備を進めるなど活発に動いていた。 昭和天皇はこのとき、避暑のため葉山の御用邸に滞在していた。しかし事件のなりゆきを心配して、参謀総長閑院宮を葉山に呼ぼうとした。このときのことを原田日記は、湯浅内大臣の話として次のように書いている。 「十一日に参謀総長の宮さんを陛下がお召しになるといふことをきいたので、自分はすぐ参内して拝謁を願ひ、『参謀総長宮にお会ひになる前に、総理にお会ひなったらどうか』といふことを陛下に申上げたところが、陛下は『満州事変の時、総理に先に会ったところが、後から陸軍から統帥権云々といふことを言はれて、総理も非常に迷惑したやうなことがあったから、この際近衛には後で会はう』とのことで、まづ参謀総長宮に会はれた。陛下から参謀総長に『もしソヴィェトが後から立ったら、どうするか』といふ御下問があったが、閑院宮殿下は『陸軍では立たんと思つてをります』と奉答された。すると重ねて陛下から『それは陸軍の独断であって、もし万一ソヴィエトが立ったらどうするか』といふ御下問があったが、殿下はただ『致し方ございません』といふやうな御奉答をされた。このため陛下には非常に御不満の御様子であらせられた。」(注3) 結局この七月一一日には、天皇は統帥優先の立場から首相より先に参謀総長を呼んで、華北に出兵した場合ソ連から背後を衝かれるおそれがないかを確かめた。その直前の六月三〇日満ソ国境のカンチャズ島の紛争で、関東軍がソ連の砲艇を撃沈する事件が起こったが、双方が自制して事件は拡大しなかったので、陸軍はソ連は慎重だと判断していたのである。この日の閣議は派兵を承認し、近衛首相は夕刻葉山に赴いてその旨上奏、つづいて参謀総長と陸相も派兵の件を上奏して裁可を受けた。その結果同日付で、関東軍から混成二個旅団、朝鮮軍から第二〇師団を華北に派遣する臨参命が発令されたのであるが、この日現地では、現地停戦協定が調印されていたのである。 ついで増援部隊がほぼ北京、天津周辺に到着した七月二七日、「支那駐屯軍司令官ハ現任務ノ外平津地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方主要各地ノ安定二任ズヘシ」という大命と、内地からさらに三個師団を増派する命令が出され、翌二八日華北一帯での総攻撃が行なわれて、一挙に戦争は全面化するのである。まさに中央主導の大命による戦争であった。昭和天皇はこうして日中戦争の拡大、南京攻略に深くかかわっていたのである。 (注1)防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書・支那事変陸軍作戦〈1〉』朝雲新聞社、一九七五年、二八三ぺージ。 (注2)『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』文芸春秋、一九九一年、三七ぺージ。 (注3)原田熊雄述『西園寺公と政局』第六巻、岩波書店、一九五一年、二九・三〇ぺージ。 ~~~~~~~~~~~~~ ふじわらあきら・南京事件調査研究会員。 南京大虐殺60周年特集index
https://w.atwiki.jp/gamemusicbest100/pages/3808.html
三國志VI 機種:PC, PS, DC, PSP 作曲者:津野剛司(つのこうじ) 発売元:光栄 発売年:1998年 概要 「三國志」シリーズの第6作目。今作は細かいパラメータが振り分けられているなど武将に重点を置いている。 また『三国志演義』に登場しない『正史三国志』の人物が登場するなど、武将数も大幅に増えた。 音楽はハードの進化によって、機種ごとによる音源の差が解消しようやく安定するようになった。 作曲は過去に光栄の『水滸伝 天導一〇八星』や『GOTHAII 天空の騎士』を手掛けたつのこうじ氏が担当。 NHKでも良く使われる「衆議一決」やなかなか聴く機会のない「水軍来襲」が人気。 収録曲 曲名 補足 順位 黎明 オープニングムービー 興亡の序 シナリオ選択 旅立 政略画面(支配都市1~4) 流亡 政略画面(支配都市5~10) 諸国繁栄 政略画面(支配都市11~16) 群雄割拠 政略画面(支配都市17~) 華北隆々 政略画面(曹魏) 大河悠々 政略画面(孫呉) 豊穣の地 政略画面(蜀漢) 使者来訪 廟議 桃宴 寂寥 君主死亡 衆議一決 出撃準備 竜攘虎搏 一騎打ち 覇城攻略 攻城戦 烈火雷風 野戦(平地) 水軍来襲 水上戦 劣勢 劣勢戦 策謀の砦 野戦(山岳地帯) 聖なる戦 皇帝戦 勝勢 勝利 散走 敗北 回春 天下統一 城跡 流星 サウンドトラック 三國志歴代サウンドトラックCD 三國志30th anniversary 「三國志」30周年記念歴代タイトル全集に付属。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/35.html
Template Battlebox? 第二次上海事変(だいにじしゃんはいじへん)とは、1937年(昭和12)8月13日から始まる中華民国軍の上海への攻撃とそれに続く日本軍の反撃である。 盧溝橋事件により始まった華北(北支)での散発的戦闘に続いて、これ以後華中(中支)において中国内陸部に侵攻し、中国全土に日中戦争が波及した。1932年(昭和7)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶ。 発生の背景 発生の背景には異見が色々あるので、主だった見解を2つ挙げる。見解1は、中華民国総統の蒋介石の意向を述べた日本軍上海引き付け作戦であり、見解2は、見解1を含む当時の状況を総括した見解である。 【見解1】 この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は現時点では満州における領土回復は後回しと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦略があった。このとき既に日本は華北分離工作によって華北にその影響力を強めており、これは国共内戦を戦う蒋介石にとっては国民の支持を得続けるためにも容認できない事態であった。 この戦略の基礎となったのが1930年代における中独合作である。1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資が輸出され、第一次世界大戦型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクラインとも)」が上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して築かれた。又、継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、日本の侵略にたいし国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつけようとした。 この作戦は、上海に駐留する日本軍を攻撃により挑発して要塞線で出血を強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が目的であった。第一次世界大戦で得られた軍事的経験に従えばこれはあまり冒険的でない作戦計画であり、だからこそ蒋介石も採用したと思われる。 【見解2】 前月7月7日に起きた盧溝橋での日中両軍の衝突は停戦協定で収まるかにみえたが、その後も中国各地で日本(軍)への抗日・排日・反日行為は続いた。8月17日上海地区の警備司令官である張治中が率いる政府軍が日本軍の攻撃を口実として、日本軍艦艇を攻撃した。 その結果日中両軍は全面戦争に突入してしまい、共産軍解散を目論んでいた蒋介石は方針を変えざるを得なくなった。国際世論に訴えるためにソ連と不可侵条約を結び(8月21日)、共産党と妥協して統一戦線を作って(9月22日世に言う第二次国共合作)、上海戦線に精鋭部隊を送り込まなくてはならない状況に追い込まれた。 国民政府軍の精鋭部隊は上海から南京に続く約4ヶ月の戦闘で殆ど壊滅状態になり、政府軍はその後の共産党との内戦にも敗れることになった。 大山事件発生前の上海の状況 1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)。上海では1935年(昭和10年)ごろから中国人による日本人暴行・殺害事件が発生していたが、7月24日に宮崎貞夫一等水兵が行方不明となったため、上海市民は第1次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地へ避難する市民まであった。 この事件は当初、中国人に拉致された事件と報道され、日本は神経を尖らせた。しかし、この事件は宮崎水兵が軍紀違反の発覚を恐れて逃亡したという真相が後に明らかになった。 大山事件 事件の発端は1937年8月9日に起こった、海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉(海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)が関係した銃撃事件である。この日も日本と中華民国の間で盧溝橋事件以来続いていた、日華間の緊張を改善させるための閣僚級会談が開かれていた。 8月9日、大山中尉は斎藤要蔵一等水兵を運転手として(彼は大山のお抱え運転手であったが)上海の虹橋飛行場に向かった。午後6時半ごろ、共同租界のエクステンション(国際的な自由通行路)であったモニュメントロード(日本側呼称「記念通り」、中国側呼称「碑坊路」)において、中国保安隊(平和維持部隊)の隊員との間で銃撃戦が起こった。 日中両国の報道 『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。衛兵は、日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので、これに反撃せずに退避していた。ところが、付近の保安隊が銃撃を聞きつけ出動した。これに対し、日本軍側がさらに発砲を行ったことで銃撃戦となり、保安隊員1名と日本人1名がその場で死亡し、日本人1名が重傷の後死亡した。 1937年8月11日の『東京朝日新聞』では、前日の日中合同調査(後述)を受けた海軍省からの発表を元に、中国側から銃撃を受けたこと、大山中尉は武器を所持していなかったこと、中国側に停戦協定違反があったことなどが報じられた。 事件後の動き この銃撃戦によって大山中尉、斎藤水兵および中国保安隊員1名が死亡した。この事件の報告を受け、喩上海市長は岡本上海総領事に、周珏外交部秘書は日本海軍武官本田に問い合わせをした。日本側は当初、日本軍将兵が虹橋飛行場に行くはずがないと主張した。中国側は、日本軍が事件以前から虹橋飛行場付近の偵察などを行い守備兵との衝突がおこっており、書面による抗議、再発防止を求めていたことを指摘するとともに、事態の拡大防止、事件の調査、外交交渉による解決を要請した。最終的に日本側も偵察であった事を認めTemplate 要出典?、また、要請に同意して中国側と共同調査を開始した。 8月10日に日中共同の公式調査が行われた。日本上海領事および駐在武官・上海市政府秘書長・警備部司令部副官・上海工部局局員(英国人)等が参加した。中国側の直接関係者(射撃を行った保安部隊)に関した調査は行えず、死亡した保安隊員は回収され検分出来なかった。中国側の主張は二転三転し、日本側は車体の弾痕が遠距離・近距離入り乱れていることから、保安隊が待ち伏せをし奇襲を行ったと断定した。また、大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれた後、死体に対し頭部・腹部などに刃物・鈍器により損傷を与えたと検分された。また彼の靴、札入れ、時計などの貴重品が奪われたと日本の新聞は報じた。 同日、上海のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催することを求めた。当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の要請により出席することになった。この会議で日本代表が事件の詳細を発表し、中国保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から一次的に撤退すべきであると提案した。Template 要出典?英米仏伊代表は上海付近に戦禍を波及しないよう日中両国に希望することで決議をなし、上海市長へも伝達するとした。 同日、閣議で海軍側より陸軍に派兵要請を行い、4相会議で派兵が決定したが、これを受け、海軍の長谷川清中将は国際租界内の海軍司令部に対し、平静を保つように命令した。またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令はだされなかった。 8月11日、上海市長が日本領事に電話をかけ、「自分は無力で何もできない」と通報した。危機を感じた日本は同日夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。 8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、国際共同租界の日本人区域を包囲した。このため、日本領事は国際委員会を再び招集し、中国軍の撤退を要求した。しかし上海市長は中国は既に侵略をうけているとの声明を発表し、最後に兪市長は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しないと、中国政府として認められるのはせいぜいそれ位だと断言した。一方日本は上海近辺での中国の派兵の全ての責任は中国側にあるとした。 中国の市民は、市街への中国軍の駐留を熱狂的に歓迎した。 戦闘の開始 8月13日未明より、包囲した中国軍と国際租界の日本海軍陸戦隊は交戦を開始した。陸戦隊は戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定したほかTemplate 要出典?、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなかった日華事変の開戦原因内、朝日新聞8月14日付記事「13日午後0時15分から支那空軍秘蔵の単葉、双発のマーチン爆撃機は租界の上空に飛来700メートルの高度をとりつつ西方より虹口方面を示威飛翔中である。」。列強各国の調停の申し出を期待したためである。 英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めた。また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日の深夜であった。 中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。 日本軍は国際租界から撤退する。 中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。 長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊司令)は、当初戦争回避を考えていたが、7月からの華北での戦火拡大から考えて、中国軍すでに開戦を意図していると察した。そこで主戦論に切り替えて、5個師団の増援を日本政府に要求した。しかし政府は北支の収拾に気をとられ、1個師団の増援にとどまった。 Template 要出典範囲? 14日より日本艦艇をねらった国民党軍機による空襲が開始された。この爆撃によって周辺のフランス租界や国際共同租界にも爆弾が落ち、民間人に2000人ほどの死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明した。しかし、租界への爆撃、もしくは誤爆はその後も発生した。又、国民党系メディアが爆撃は日本軍機によるものであると報道したこともあった。 8月14日、上海租界内の帝国海軍上海陸戦隊が国民党軍の攻撃にさらされる。しかし、この攻撃は国民党軍が砲を随伴しなかった(もしくは保有しなかった)ため失敗に終わり、日本軍の反撃を招いた。重火器の欠乏から18日には国民党軍は攻撃を停止する。 8月15日、日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらには日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから14日夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した『東京朝日新聞』1937年8月15日付朝刊、2面。上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる。日本海軍は、この日より九州から中国本土への航空機による空襲(いわゆる渡洋爆撃)を開始し、戦闘の激化と共に飛行機を輸入に頼る国民党軍を駆逐し、上海周辺の制空権を掌握していく。 8月18日、英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。 しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府は、これを拒否。国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている以上、日本はそれと対決する以外ないと判断し、日本は全面戦争への突入に踏み込んだ。このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、中国軍も列強と戦争を行うつもりは無かったので、租界への侵入は行わなかった。日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国はこの事件において中立を表明した。 8月22日、上海派遣軍の帝国陸軍3個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で、上陸に成功。 その後9月上旬には上海陸戦隊本部前面から国民党軍を駆逐。同時期に中国側は、第二次国共合作を成立させ、又、華北の日本軍の南進が開始された。 10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功した。 10月26日に上海近郊の要衝大場(Dachang)が陥落、国民党上海攻囲軍は以後南京への全面壊走に入った。 国民党軍機による上海空爆 1937年8月14日の朝、3機の中国軍機が黄浦江にいた日本の第三艦隊の旗艦巡洋艦出雲上空を飛行し、爆弾6個を落とす。5個は川に落ち、巨大な水柱を起こし、1個の爆弾は、ジャーディン・マセソン社の倉庫に当たる。出雲ともう1隻の軍艦川内は高射砲の一斉射撃2回で援護しながら各々艦載機(九五式水上偵察機)を飛ばした。 同日午後4時、南からカーチス・ホークIIを主力とする中国軍爆撃機の中隊が飛来し、フランス租界と国際共同租界を横切って再び日本の軍艦への攻撃を開始、日本側は高射砲の射撃を続ける。10機の中国軍爆撃機が雲の内外を飛び回り、迎撃する2機の日本軍機は常に空中にいたが、射程距離に到達するには速度が遅く、目標に達するために旋回と出直しを繰り返す。 やがて1機の中国軍爆撃機から2つの爆弾がチベット通りが国際共同租界とフランス租界との境界線であるエドワード7世大通りと交差する場所に落とされる。直ちに巨大な炎が起こり、激しい爆発となり、450人の命を奪い、5人の外国人を含む850人を傷つけ、12台の自動車を破壊。さらにもう一対の爆弾がキャセイホテルとパレスホテルの間に落とされる。爆発で12人の外国人を含む数百人以上が死傷ロンドン・タイムズ紙、1937年8月16日、 1,000 DEAD IN SHANGHAI/DEVASTATION BY CHINESE BOMBS 。 およそ1,000ポンドの重さだったと見られる爆弾が半径50メートルの範囲を壊滅させた。犠牲者の大部分は、その服は完全に引き剥がされ、体はバラバラにちぎれた。遅延起爆型と思われるひとつの爆弾はその爆発力による周囲への損害は限定的ながらコンクリート、石敷、及び固めた地面の層を通して通りに幅3メートル、深さ2.4メートルのクレーターを造った。 中国軍爆撃機の攻撃は黄浦江の呉淞近くにいた英国巡洋艦カンバーランド(Cumberland)及び合衆国アジア艦隊旗艦である重巡洋艦オーガスタ(Augusta)の2隻にも向けられた。爆撃機2機の急降下はカンバーランド上空で行われたが、パイロットによる水平飛行への移行操作が早すぎ爆弾を誤った方向に向けたため攻撃は失敗。中国軍機は悪天候のため両方の艦船を日本の艦船と間違えたと判断し、どちらの艦からも発砲はなかった。 日本艦の対空砲火により中国軍機は爆撃には高すぎる場所にいることを強いられ、その爆弾を目標近くに落下させることができなかった。しかし、ひとつの爆弾は黄浦江の浦東側のアジア石油社の設備に当たり、一晩中燃え続ける火災を起こした。この日の戦闘において日本軍の艦載機と艦船の高射砲により中国軍機3機が落とされている支那事変実記 第1輯(読売新聞社、1941年)。 南京への追撃 10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は、10月20日に編制された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。又、平行追撃と同時に敗軍の追討のために南京を攻略する構えを見せた。当初、参謀本部は和平交渉を行う為の相手政府を失う恐れから、最初南京進撃を中止するよう下令したが、のちに現地軍の方針を採用し南京攻略の独走を追認した。 ドイツの軍事顧問ファルケンハウゼンは、要塞線が突破された時点で南京から撤退すべきだと主張したが、蒋介石は南京での防衛戦にこだわったので、多くの兵力や市民が南京周辺で日本軍に包囲された。日本軍の侵攻が行われなければということが大前提ではあるが、少なくとも国崎支隊を中心とする包囲部隊が揚子江の対岸、浦口方面に進出する前に撤退を指示していれば、南京での国民党軍の損害は少なく抑えることが可能だった。 これ以後の南京付近での戦闘は南京攻略戦を参照のこと。 補足 第二次上海事変の間、両国は互いに宣戦布告を行っていない。日本は米国からの資源輸入、中華民国も米国など中立国からの軍事援助を維持するために、それぞれ宣戦布告をするわけにはいかないという皮肉な事態があった。中華民国が日本に宣戦布告したのは、日本が米国および英国に宣戦布告した翌日の1941年12月9日であった。 また、国民党軍は日本軍に比べて弱体であったと思われがちだが、当時ドイツと国民党は中独合作と呼ばれる軍事協力を行っており、上海攻撃に参加した国民党軍はチェコやドイツ製の強力な機関銃などを装備していた。しかしながら補給や戦略予備の投入に関する関心は日本軍のそれよりも更に低く、各軍が連携出来ないまま突破・包囲されたと考えられる。 第一次世界大戦の軍事的常識から言えばTemplate 要出典?、市街の守備が不可能になった時点で軍は撤退し、市長が敵軍に降伏交渉を行う。占領軍も市街攻略・防御には多大な犠牲が軍民に伴うためにこれを容認するのが普通である。 第二次上海事変を描いた作品 『上海 -支那事変後方記録-』(亀井文夫監督、東宝文化映画部、1938年) - ドキュメンタリー映画 『上海陸戦隊』(熊谷久虎監督、東宝東京、1939年) 『春の河、東へ流る』(蔡楚生監督、中国、1947年) 『上海ブルース』(ツイ・ハーク監督、香港、1984年) 『上海1920 あの日みた夢のために』(レオン・ポーチ監督、香港・米国合作、1991年) 『上海の伯爵夫人』(ジェームズ・アイボリー監督、イギリス・アメリカ・ドイツ・中国合作、2005年) 脚注 _ 関連項目 Template commons? 第一次上海事変 日中戦争 盧溝橋事件 南京攻略戦 浸透戦術 通州事件 参考文献 洞富雄『南京事件』(新人物往来社、1972年4月25日) 『現代史資料(12) 日中戦争(四)』(みすず書房、1965年12月15日) 『Japan in China シナ大陸の真相 1931~1938』K・カール・カワカミ著、福井雄三訳著(展転社、2001年1月7日)ISBN 4-88656-188-8 「上海狂想曲」高崎隆治(文春新書 2006年8月20日) 外部リンク 盧溝橋事件・上海事変・南京攻略 1937年 第二次上海事変(YouTube映像資料) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月2日 (木) 22 42。