約 461 件
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/724.html
華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華北工作・北支分治工作などともいう。 概要 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が唱えられた。 こうして支那駐屯軍や関東軍は、それぞれ軍事力を背景に国民政府に対して高圧的な協定(6月10日の梅津・何応欽協定・6月27日の土肥原・秦徳純協定)を結ばせ、河北省から国民党勢力と中国軍を、察哈爾省からも国民党勢力と第29軍をそれぞれ撤退させた。 次いで、11月3日に中国が幣制改革を実行すると、日本軍は華北で国民政府の経済的支配力が強まることを恐れて、河北省・察哈爾省に親日的な傀儡政権を樹立しようとしたが国民政府の強硬な抵抗にあい、また日本軍が誘いをかけた諸軍閥にも応じる者がいなかったため、一時しのぎとして塘沽協定による非武装地域を管轄する傀儡政権として冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)を11月25日に樹立した。それに対して、国民政府は日本軍の圧力をかわすため、12月18日に河北省・察哈爾省を管轄する冀察政務委員会を設置して、緩衝地帯を設定した。 1936年1月13日、日本は「第一次北支処理要綱」を閣議決定したが、これは華北分離方針を国策として決定したものといえた。4月中旬には支那駐屯軍の増強を決定し、5月~6月に北平・天津・豊台などに配置していった。これに対して国民政府は反対の意向を申し入れ、北平・天津などでは学生・市民による華北分離反対デモが起きる事態となった。中国人の抗日意識は大きく高まり、新たに日本軍が駐屯することになった豊台付近では、日中両軍による小競り合いがたびたび起こり、また中国各地で日本人襲撃事件が多発するようになった。 日本は8月11日には「第二次北支処理要綱」を制定。華北五省に防共親日満地帯設定を企図したものだったが、11月の綏遠事件において中国軍が日本軍(実質的には内蒙古軍)に勝利したことによって中国人の抗日意識はさらに大きなものとなり、さらに12月には西安事件が起こった。 それを受けて日本では、1937年4月16日の「第三次北支処理要綱」において、華北分離工作の放棄も検討されたが、それも確固とした政策とはならず、盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争に突入していくこととなった。 参考文献 臼井勝美『新版 日中戦争』中公新書、2000年 太平洋戦争研究会・編、森山康平・著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年 伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』吉川弘文館、2007年 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 19 10。
https://w.atwiki.jp/daikokuexposure/pages/9.html
村名 最高投資金額 最高投資者 最終投資日 商団名 2番手【投資者(商団):金額】 3番手【投資者(商団):金額】 備考 安陽 258,100,000 ミド 1538年 9月10日 風雲 威海 250,000,000 狸 1533年 3月30日 ----- 維坊 124,082,329 カート 1529年 1月2日 -夢氷月天- 煙台 500,000,000 sakra 1531年 2月10日 ゐ弁当 王都 180,792,366 運 1521年 1月 7日 居酒屋「粋」 海陽 168,000,000 西和成 1539年 1月 4日 -夢氷月天- 夏津 年月日 荷澤 年月日 花蕾 306,760,127 蜀☆ばき 1525年 1月13日 FireBolt 河津 年月日 邯鄲 9,720,000,000 最終投資人 1538年12月 8日 独占投資 祁県 年月日 吉吉 年月日 魏県 年月日 荊台 年月日 慶余 年月日 献県 年月日 衡水 年月日 興湯 207,954,363 ベルニカ 1529年 1月 4日 +悠久の絆+ 興隆 2,099,999,999 リンクス 1525年 1月10日 ----- 渾源 665,961,594 神代 燕 1537年 3月19日 ~翔雅~ 済南 年月日 山河 270,000,000 オアシス 1535年11月19日 帝国 伺城 150,000,000 花鳥月夕 1531年 7月13日 ~ 道 ~ 四島 150,000,000 yasu1 1528年 1月19日 藪茶 渋県 年月日 集寧 180,000,000 dxdx32 1538年11月 4日 ☆浪漫主義 周邑 340,300,000 施薬院統子 1538年12月14日 帝国 周路 133,831,155 ☆桃娘☆ 1539年 3月 4日 +悠久の絆+ 承徳 900,000,000 菜々 1532年 4月11日 ~そよ風~ 秦皇島 500,000,000 ミャンコ 1539年 1月29日 ----- 日照 169,255,978 一番搾り 1538年10月 9日 ☆浪漫主義 遵化 238,569,499 朱重八 1535年 5月 8日 帝国 順現 年月日 静海 238,900,000 砂織 1537年 1月 8日 光風霽月 青州 160,965,445 まめいろ 1531年 4月14日 伽羅 青青 500,000,000 s15silvia 年月日 夜盗-2nd- 石家荘 700,000,000 mao@こげ 年 月 日 ちぃむ鼬 千安 700,000,000 加賀百百 1536年12月26日 加賀屋 宣化 213,411,222 瑜 崇璃 1532年 9月19日 笑傲江湖 双山子 152,801,000 ちょみ 1538年 8月14日 紅芋鈴蘭 滄州 300,000,000 ☆梨絵☆ 1531年 9月10日 FireBolt 泰安 年月日 太原 年月日 大同 年月日 中陽 619,315,814 破沙羅 1531年 8月15日 雪兎 長安 296,854,882 ICECUBE 1529年 7月24日 唯我独尊 張家口 317,000,000 涙月 1538年10月 4日 柊 趙荘 250,000,000 s-s-s 年月 日 夜の焔 趙平 142,828,152 ポケット 1528年 9月 8日 ☆彡 青島 年月日 定興 125,560,469 化野 1527年 2月18日 Atlantis 鄭州 520,158,218 古老 1524年 6月20日 風雅の里 天津 491,895,870 雅ちん 1529年 8月 3日 新宿3丁目 東営 281,456,822 チビと一緒 1535年 4月16日 柊 唐海 100,158,742 金ちゃん 1528年 7月20日 パンドラ 東光 353,680,0015 蘭莉 年 月日 紅芋 唐山 211,405,433 安倍カワモチ 1530年 8月 21日 セクシーアソベンチ 東平 年月日 寧河 1,066,768,645 Ж未来Ж 年月日 ----- 寧津 1,051,871,332 リッツ鈴木 惑う化猫団 覇州 年月日 濱州 300,000,000 uran3333 1538年 5月14日 FIT 苗博 846,951,548 美慧 1529年11月21日 ----- 武安 年月日 豊鎮 210,253,263 歩鈴 1532年 7月 17日 桃茶の晩餐 聞慶 年月日 文登 248,541,630 小緋 1539年 2月 1日 行灯屋 平度 294,676,379 長州屋 1536年 5月28日 行灯屋 偏関 267,168,974 三谷 年月日 初代武商 北京 790,554,631 虞美人 1538年 6月25日 Atlantis 保定 536,000,002 枝毛パワー 1539年 6月18日 真月千夜 保徳 619,988,971 ヒナゲシ 1539年 4月 8日 雪兎 無極 297,589,925 朋晃 1530年 7月22日 二代目天秤 目平 125,725,500 ぴかりんこ 1535年 3月10日 千載一遇 藻平 198,581,130 zin.H 1529年 9月 6日 パンドラ 攸県 296,201,036 神城 1528年 3月15日 Atlantis 陽原 129,250,000 10000子 1539年 3月 8日 メチャ2イケテルッ 陽谷 年月日 陽泉 年月日 莱州 200,000,000 松浪商九朗 1538年 7月31日 猫屋敷 來水 124,666,843 天楼久那妓 1527年 4月 7日 ~ そよ風 ~ 莱陽 1,143,000,000 ウゴウゴガール 1526年 4月19日 ----- 洛城 1,800,000,000 三谷 年月日 初代武商 洛陽 200,996,212 蘭花 1536年 1月 1日 唯我独尊 臨清 150,000,000 ★からや★ 1539年 5月25日 藪茶 廬山 187,000,000 馬 超 1539年 6月24日 サンライズ
https://w.atwiki.jp/qqr2/pages/28.html
日本人プレイヤーで、承諾を取った人の名前を載せさせていただきました。 メインにしている区に「☆」をつけました。 日本名 QQ音速名 プレイエリア Cecil Ceciltan 華北☆ 來菜 nanoha-raku 華北☆ 〃 ..raina.. 华北2区 〃 falln_angel 西北 しー ゞMuMa╲Ciel 上海☆ 〃 Ciel. 華北/西北/広東 璃衣夢 りぃむ 華北☆ 地域別 日本名 QQ音速名 華北 Cecil Ceciltan 來菜 nanoha-raku しー Ciel. 璃衣夢 りぃむ 西北 來菜 falln_angel しー Ciel. 上海 しー ゞMuMa╲Ciel 华北2区 來菜 ..raina.. 広東 しー Ciel. リストに掲載して良いとおっしゃる方はご一報下さい。 (その際に、どの区をメインにしているか教えて下さるとありがたいです。) 自分はどこの区でやっているのかわからない!という人は こちらを参考にして下さい。 西北 西南 華中 華南 華东 上海 广东 东北 華北 挚爱永恒 华北2区
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/442.html
南京大虐殺の研究 晩聲社1992 もくじ 上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章 江口圭 一、日中戦争の開始 二、上海戦と南京戦 三、南京進撃 四、大虐殺の序章 五、『南京戦史』批判 脚注 上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章 江口圭 一、日中戦争の開始 南京戦と南京大虐殺は上海戦(第二次上海事変)と密接に関連している。上海戦の問題を抜きにして、南京戦・南京大虐殺を論ずることはできない。そして上海戦を考察するためには、まず日中戦争そのものがどのようにして起こされたかを明らかにする必要がある。 日中戦争は一九三七(昭和一ニ)年七月七日の蘆溝橋事件を発端として発生した。盧溝橋事件そのものは偶発的な衝突であって、満州事変の発端となった柳条湖事件のように意図的.計画的に仕組まれたものではない(1)。現地では七月一一日になって一応の停戦協定が結ばれた。ところが同じ一一日に、近衛文麿内閣は「重大決意」のもとに華北への派兵を決定し、事態を「北支事変」と命名した。事変とは宣戦布告をともなわない戦争状態のことである。 柳条湖事件の際は現地軍が謀略によって強引に戦争を仕掛けたのにたいして、中央政府は一応なりと事態不拡大の方針をとったのであるが、蘆溝橋事件では現地での停戦にもかかわらず、中央 12 政府が事態の拡大を招かざるをえないような積極的な対応をしたのである。これは、日本の戦争指導者が盧溝橋事件を好機として中国を一撃のもとに屈服させ、かねて追求してきた華北五省―河北・山東・山西・チャハル・綏遠―を日本の支配下に取り込むという目的を達成しようとしたからである。 一九三三(昭和八)年五月の塘沽(タンクー)停戦協定によって、柳条湖事件以来の軍事行動は一応停止されたが、それは日本の膨張政策の停止を意味したのではなかった。塘沽停戦協定は華北分離工作という新たな膨張政策の第一歩でもあった(2)。日本は満州事変と国際連盟脱退によって列強との緊張を強め、「一九三五、六年の危機」が声高く叫ばれるようになったが、これに対処するためには「満州国」の育成とともに、華北を国民政府の支配下から分離し、日本の支配下に編入して、いわば「華北国」「蒙古国」化することが必要であるとされた。 華北分離・支配の目的は、軍事的・政治的には「満州国」の西側の安全を確保するとともに対ソ戦争に有利な地歩を築き、またソ連・外モンゴル・中国共産党――中共軍(紅軍)は三三年一〇月以降の第五次掃共戦によって華中の根拠地を失ない、三四年一〇月長征をはじめ、三五年一〇月陝西省北部に到達し、新根拠地とした――の連携を分断することにあり、これは「赤化防止」とか「防共」とかと称された。経済的には国家総力戦を遂行するうえで不可欠な鉄・石炭などについて、「満州国」のみでは充足させることができず、またアメリカ・イギリスからの輸入を成り立たせるべき日本の輸出がブロック経済の壁に阻まれだしたため、華北の豊富な資源と人口欄密な市場を独占的に確保しようというのが華北分離・支配の目的であった。 13 すでに三三年九月参謀本部は華北要域の軍事占領に備えて『支那占領地統治綱領案」と題する詳細な文書をまとめ・支那駐屯軍も三四年三月「北支那占領地統治計画」を作成していた(3)。陸軍の依頼で満鉄は華北の経済調査・経済計画を推進した。そして三五年六月、支那駐屯軍と関東軍はあいついで行動をおこし、梅津-何応欽協定、土肥原-秦徳純協定によって、河北省東部とチャハル省東辺部を事実上「満州国」に編入してしまった。冀東特殊貿易と称する密貿易によって、日本商品が華北から華中にまで氾濫した。さらに三六年一一月、関東軍は内モンゴルの傀儡部隊をけしかけて、綏遠省に侵攻させる綏遠事件をおこした。 しかし、このような日本の膨張政策は中国に深刻な民族的危機感を呼びおこさずにはおかなかった。紅軍が長征途上にあった三五年八月、中共は「抗日救国のために全同胞に告げる書(4)」いわゆる八一宣言を発表し「国家・民族の滅亡とい大過が目前に迫つている」として、内戦停止・一致抗日を呼びかけた。三五年末の一二九運動は抗日救国運動の出発点となり三六年綏遠事件をへて、一二月の西安事件によって、国共内戦から第二次国共合作=抗日民族統一戦線結成への大転換が進行した。 こうした中国の民族的低抗に直面して、日本の華北分離工作が行き詰り状態になっていたときに、蘆溝橋事件が突発したのである。事件は、日本の戦争指導者にとって、中国の抗日を粉砕し、年来の華北分離・支配の目的を達成する絶好の機会とされた。 日本の戦争指導者の一部には、中国での武力発動に慎重な者もいた。その代表は参謀本部第一(作戦)部長石原莞爾少将である。石原は満州事変の首謀者であるが、三五年八月参謀本部作戦課長 14 に就任してからは、対ソ戦争準備を完成することが最急務であるとし、また中国の抗日の成長をそれなりに認識する立場から、当面は中国との戦争を回避しなげればならないと判断していた。このような石原の判断もあって、三七年四月林銑十郎内閣が決定した「北支指導方策」は、従来の「北支分治」という方針を取り下げ、「経済工作の遂行に主力を注ぐものとす」としていた(5)。盧溝橋事件をめぐって、石原を中心とする軍中央のいわゆる不拡大派は最初は武力発動に消極的な態度を示した。 しかし、その石原も華北を防共・資源・市場のために日本の支配下に取り込むこと自体に反対していたのではない。林内閣の「北支指導方策」にしても、華北を「実質上確固たる防共親日満の地帯たらしめ併せて国防資源の獲得並に交通施設の拡充に資」すという華北にたいする根本目的そのものはなんら変更しておらず、露骨な「北支分治」方策を「経済工作」にかえることで、国民政府に「実質上北支の特殊的地位を確認」させるというものであった。石原が第一部長心得であった三七年一月の参謀本部「陸軍省に対し対支政策に関する意志表示」は、中国にたいして「互助共栄を目的とする経済的文化的工作に主力をそそぎ、其の統一運動に対しては公正なる態度を以て臨み北支分治工作は行わず」としつつ、これでも「日支関係調整せられず更に悪化し真に己むを得ざるに立到るが如き場合は、十分隠忍したる後、徹底的痛撃を与ふる」としていた(6)。 また不拡大派の参謀本部戦争指導課長河辺虎四郎大佐は、「やる以上は南京をとる考でやらなくちゃならぬ」として拡大派の姑息な用兵を批判し(7)、戦争指導課の案として一五個師団同時動員・作戦期間約半年・戦費五五億円という大用兵を構想していた。 15 不拡大派といっても、武力発動に原理的に反対していたわけではなく、単に相対的に慎重であったというのにすぎない。したがって、現地から国民政府直系の中央軍が大挙して北上中であるという誇大な情報が伝えられ、また皮肉にも石原莞爾自身が助長してきた下剋上の風潮によって、血気盛んな下からの突きあげをくらうと、たまたま参謀総長が皇族(閑院宮載仁親王元帥)で、しかも参謀次長今井清中将・第二(情報)部長渡久雄中将がいずれも病床にあったため、事実上の統帥の最高責任者の立場におかれていた石原は、持論を維持することができず、不拡大派の慎重論は拡大派の一撃論によってたちまち押し切られてしまった。 偶発的衝突を全面戦争へ導いた日本陸軍の軍事思想は、中国の抗日の力量をみくびった一撃論であった。華北を日本の支配下に編入しようという欲望をつのらせていたからといって、それにふさわしい戦争計画が準備されていたわけではない。陸軍は、前述したような華北占領地統治計画に対応する華北での局地限定的な作戦計画は準備していたが、「華北でひとたび軍事力を行使すれぼ、戦争を局地限定にとどめることは不可能であり、全面戦争を必然化するものであるという戦略的認識が決定的に不足していた。その欠陥が何に由来するかといえば、それは中国抗日ナシヨナリズムの真の力にたいするまったくの認識不足にほかならない(8)」。 河辺虎四郎はのちに回想して、「交渉が纏まらぬとなっても三箇師団か四箇師団を現地に出して一撃を喰はして手を挙げさせる、そうしてぱっと戈を収めて北支を我が意の如くする…多少長びくとしても一部の兵力を北支に留めて置けぽ大体北支から内蒙は我が思うようになり、他へ飛火しないで済む」という判断のもとに、華北への派兵が決定されたと述べている。また参謀本部作戦班 16 員であった西村敏雄(当時少佐)は、「当時参謀本部の誰人と難も今日(昭和)十二、十三年の如き大作戦を導く事を希望した者はなく、又斯様な大作戦になる事を怖れ予想した人もなかった---多くの人は斯様な大作戦迄進展しない以前にある限界に達すれば支那側が屈服するものであらうと漠然たる想像に支配されて居った」と回想している(10)。 しかし大作戦が予定されておらず、大戦争が予期されていなかったからといって、この戦争の侵略性がなんら薄められるわけではない。華北を分離・支配したいという欲望をつのらせながら、中国を軽悔していたことから、せいぜい華北での局地限定戦争でけりをつけることができると、たかをくくり、安易に武力を発動し、予想外に強固な中国の低抗に直面して、ずるずると深みにはまっていったのである。 日中戦争は、本来は防共・資源・市場のために華北制圧をめざして遂行された武力侵略戦争であった。その戦争相手が満州事変段階とは隔絶して、断固として民族的低抗に起ちあがった中国であったこと、それにもかかわらず一撃で片をつけることができると思いあがり、安直に武力を行使したことが、戦争の全面化をもたらしたのであった。 17
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/3434.html
91 :ooi:2016/04/13(水) 22 09 43 豪州+新西蘭転移ネタ9 清国及び中華民国について2 蒋介石率いる中華民国陸軍は旧式ではあるが多数の火器を持つ雲南派と戦闘を開始した。 民国陸軍は下手に逃げられて長期戦になるのは厄介と考えて切り札の機甲部隊を前面に出して火力を以って雲南軍を粉砕していく作戦にした。 これは、見事に成功して雲南軍に大打撃を与えるに至った。 しかしながら、雲南軍も地雷を防御線に仕掛けていたので民国陸軍機甲部隊も約1割の被害を出してしまった。 なお、雲南軍は初戦の大打撃が致命傷となり、開戦から凡そ1年で中華民国に併合された。 次に狙ったのは四川派が抑えている四川省周辺地域だった。 雲南派併合から2ヵ月後、兵力の再編成と補充、休養を終えた中華民国は四川派撃破に動き出したが、四川派は西北派と合流して四川共和国の建国を宣言していた。 西北派が四川派と合流した理由は、孫文の北伐とほぼ同時期に行われた奉天派率いる華北共和国による領土拡張戦で大打撃を被って勢力を大きく減じた為であった。 この敗北で生き残りに黄信号が出ていた西北派は西進して四川派に合流して再建を図ったのである。 四川派も中華民国との戦争が近い事も有り、少しでも多くの兵力を欲していた理由から合流を認めて四川共和国の建国を宣言したのである。 中華民国と四川共和国の戦闘は雲南派が機甲部隊の攻撃で大打撃を被った事から、対戦車陣地を建設して持久戦の構えを見せた。 蒋介石は砲兵部隊によって防御陣地の撃破を行った後に機甲部隊突撃を画策してすぐさま実行に移した。 この攻撃は一定の成果は出たが、機甲部隊の被害も高かったので砲兵部隊と陸軍航空隊による遠距離攻撃に変更した。 これは徐々にではあるが戦況を有利に運び防御陣地突破を実現したので、民国陸軍は大攻勢を掛けて勝利を収めたのである。 このまま四川共和国の首都である成都を目指そうとした時、日露の依頼を受けた華北共和国が中華民国のシャンファンに侵攻したと云う一報が入った。 中華民国は陸軍の精鋭部隊の大半を北伐に動員していた事も有って、国境線の民国軍は華北軍に押し崩されかけていた。 その為、蒋介石は四川共和国討伐を断念して華北軍討伐の為に華北へ転戦する事となる。 しかしながら、蒋介石が戻ってきた時には華北軍は撤退していた。 再度、北伐の為に四川出兵をしようにも華北軍だけでなく福建軍に対しても警戒する必要が出た為に国境線に精鋭部隊を展開する必要が発生した。 これによって、中華民国は北伐による中華統一の手段を奪われてしまったのである。 孫文は、日本での癌治療で1943年5月まで生存し、中華民国の足固めを行って中華統一を未来の人材に託して死去した。 孫文の遺言で第二次世界大戦では中立を宣言して、更なる国力強化の資金を得る為に商売を行うに留まった。 しかし、蒋介石は日露が華北共和国と福建共和国を従えている限り中華統一は厳しいと内心悟っていた為、晩年には孫文の墓前で謝罪する様子が数回目撃されている。 だが、第二次世界大戦後に中華民国の軍事力を華北共和国と同等に育てたのは蒋介石の手腕であり、この業績は国民から評価されたので(中華統一の断念を除いて)満足な人生を送れた。 豪州+新西蘭転移ネタ10
https://w.atwiki.jp/gamemusicbest100/pages/2300.html
三國志 機種:PC98,PC88,X1t,FM7,MSX,X68k,MZ,MSX2,FC,SFC,PC,SS,PS,Mob,iOS 作曲者:菅野よう子 開発・発売元:光栄 発売年:1985年(PC88)、1986年(PC88,X1t,FM7,MSX,X68k)、1987年(MZ,MSX2)、1988年(MSX2,FC)、1994年(SFC) 概要 「三國志」シリーズの第1作目。 『信長の野望 全国版』をベースに「武将」や「空白地」といったシステムを追加した。 シリーズ最初から武将数が255人もいたりなど大容量だったためか定価14,800円と非常に高額だったが、当時の三国志ブームの影響もあり大ヒットした。ファミコン版のROMカセットが異様に大きかったのは有名。 簡略版『抄本三國志』、リメイク版『三國志リターンズ』、モバイルアプリ版『Mobile 三國志』、iOS版『三國志 TOUCH』も発売された。 作曲は『信長の野望 全国版』と同じく、当時大学生だった菅野よう子氏。 BGMの質は高く、後の『三國志X』や『三國志13』でもアレンジされて使われている。 収録曲 No.(SW) No.(PC88) No.(SFC) 曲名(PC88) 曲名(SFC) 曲名(サウンドウェア) 備考 順位 07 09 01 オープニング オープニング 桃園の誓い オープニング ファミコン101位 10 02 主人公のテーマ 主人公のテーマ 08 11 03 メイン華北 メイン華北 黄河~揚子江 SWは「メイン華南」「メイン華北」のアレンジ 15 04 メイン華南 メイン華南 09 12 05 戦争華北 戦争華北 干戈の交わり SWは「戦争華南」「戦争華北」のアレンジ 17 06 戦争華南 戦争華南 18 07 勝利 勝利 13 08 敗退 敗退 10 16 09 王の娘のテーマ 王の娘のテーマ 季節が変わる頃 作詞:霜月智恵子、歌:新居昭乃(サウンドウェア)フォーレ作曲『パヴァーヌ』に似ている 14 12 死亡 死亡 10 一騎討ち 対戦前 11 一騎討ち 優勝 11 19 13 統一 統一 エンディング 古 20 グレードアップ・ヴァージョン・メドレー 「オープニング」「メイン華北」「戦争華北」「メイン華南」「戦争」「戦争華南」「王の娘のテーマ」「統一」のアレンジメドレー サウンドトラック 信長の野望 全国版/三國志 アレンジ音源によるサウンドウェア。『信長の野望 全国版』と合わせて収録。 光栄オリジナルBGM集Vol.1 歴史三部作+グレードアップ・ヴァージョン PC88版のFM音源。『信長の野望 全国版』『蒼き狼と白き牝鹿・ジンギスカン』のFM音源と合わせて収録。 光栄サウンドウェア・スペシャルサンプラー サウンドウェアから「黄河~揚子江」を収録。 THE BEST OF KOEI Vol.2 サウンドウェアから「季節が変わる頃」と「桃園の誓い」を収録。 光栄ベスト・オブ・ベスト 三國志 究極音盤 サウンドウェアから「桃園の誓い」「黄河~揚子江」「干戈の交わり」の3曲を収録。 光栄ゲームミュージック・ワークス~菅野よう子コレクション サウンドウェアから「黄河~揚子江」を収録。 光栄サウンドウェア・ヴォーカル・コレクションVol.2 サウンドウェアから「季節が変わる頃」を収録。 光栄オリジナルBGM集Vol.11 スーパー三國志/項劉記 SFC版『スーパー三國志』のゲーム音源。『項劉記』のゲーム音源と合わせて収録。 「信長の野望」30周年記念コンサート 神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏による「桃園の誓い」を収録。 三國志歴代サウンドトラックCD 「三國志」30周年記念歴代タイトル全集 同梱 Disc1にサウンドウェア音源を収録。 「三國志」30周年記念コンサートCD 三國志13 with パワーアップキット TREASURE BOX 同梱 『三國志13 with パワーアップキット』記念版の特典。神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏による「桃園の誓い」「黄河~揚子江」「干戈の交わり」「季節が変わる頃」の4曲を収録。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2581.html
日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 第2部 戦争の時代 第1章 満州事変から盧溝橋事件まで 満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その2> 戸部良一: 防衛大学校教授(外部執筆委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その1> 満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その2>2.関係安定化の模索と挫折4)梅津・何応欽協定 5)広田三原則 3.華北の紛糾1)幣制改革 2)「北支」工作(華北「自治」運動) 3)多発する事件 4)対ソ戦略と対中政策 5)内蒙工作と綏遠事件 6)西安事件 7)対中政策の再検討 8)盧溝橋事件前夜 2.関係安定化の模索と挫折 4)梅津・何応欽協定 広田や重光が、満洲国の実在を所与のものとして、中国統一を進める国民政府との間に安定した関係を構築しようとしたのに対して、これに逆行する動きが華北で繰り返される。現地の関東軍や支那駐屯軍が、国民政府による中国統一に否定的であったからである。現地軍は、失地回復を諦めない国民政府の本質を「抗日」であると見なし、それゆえ満洲国の防衛や対ソ戦略の観点から、華北にそのコントロールが及ぶことを阻もうとした。対ソ戦の場合、国民政府は抗日のためにソ連に協力するかもしれないと危惧された。出先の軍人たちは、国民政府の「誠意」はポーズにすぎないとして大使交換にも批判的であった36。 こうした中、華北で事件が発生する。戦区内で活動する抗日反満の武装集団はときおり熱河に侵入し関東軍を刺激していたが、1935 年5 月中旬、業を煮やした関東軍は長城線を越えてこれを討伐した後、満洲国領内に引き揚げた。このとき日本側では、河北省主席・于学忠がこの武装集団を陰で支援していたと睨んだ。また、同じ5 月の初め、反蒋・反国民党の親日新聞社の社長2 人が天津の日本租界で暗殺された。日本側の調査では、犯人は国民党の特務組織のメンバーであるとされた。ここでも、河北省当局と国民党機関の責任を問う声が上がったのである37。 5 月29 日、支那駐屯軍参謀長の酒井隆は、軍事委員会北平分会委員長代理の何応欽に対して二つの事件の責任を問い、国民党機関の河北省撤退、于学忠の罷免、于学忠軍(東北軍系)と中央軍の河北省外への移駐などを要求した。軍司令官・梅津美治郎の不在を狙った酒井の独断であったが38、要求通告の事後報告を受けた梅津や陸軍指導部は、一時戸惑った後これを追認した39。 要求通告後、支那駐屯軍は天津の省主席官邸前に部隊を展開して威嚇し、関東軍も国境近辺に部隊を集中して圧力を加えた。中国側は日本政府に斡旋を要請したが、広田外相は、地方的軍事問題は外交交渉の埒外であるとして関与しなかった。苦況に陥った何応欽は6月10 日、結局、酒井の要求を受諾するとの口頭による回答を寄せ、後日、要求を受諾したという事実のみを記した書簡を送った。これがいわゆる梅津・何応欽協定である。中国側は合意内容を実行したが、それは日本との協定によるものではなく、中国自身の自発的 36 戸部良一「陸軍「支那通」と中国国民党」『防衛大学校紀要』第68 輯(1994 年3 月)48-50 頁。 37 島田俊彦「華北工作と国交調整(1933 年~1937 年)」『太平洋戦争への道』第3 巻、98-101 頁。 38 酒井の独断については、松崎昭一「再考「梅津・何応欽協定」」軍事史学会編『日中戦争の諸相』(錦正社、1997 年)35-39 頁を参照。 39 在中国若杉大使館参事官より広田外務大臣宛電報(6 月7 日)外務省編『日本外交文書昭和期Ⅱ第1 部第4 巻上』第299 文書。 12 な行政措置であるとの立場をとった。つまり中国側からすれば、梅津・何応欽協定なるものは存在しないとされるのである40。 同じ頃、察哈爾省の張北でも事件が起こった。日本陸軍の特務機関員が同地で中国兵に不法監禁されたというのである。それまでにも察哈爾省に駐屯する宋哲元の第29 軍(西北軍系)と関東軍・満洲国側との間には、たびたび紛争が生じていた。関東軍はこの張北の事件を利用し、満洲国の国境防衛と内蒙古自治工作に役立てようとした。 関東軍から派遣された土肥原賢二(奉天特務機関長)は省主席(宋哲元)代理の秦徳純に対し、第29 軍の長城以南撤退、排日機関の解散などを要求し、6 月27 日秦徳純はこれを認める文書の回答を提出した(土肥原・秦徳純協定)。この結果、第29 軍は河北省に移駐していった。かつて長城の防衛戦で関東軍と激しく戦い、今度は察哈爾省から追われた第29 軍は、当然ながら強烈な抗日意識を持つことになる。 1934 年から1935 年前半にかけて、満洲国の実在を所与のものとして、国民政府との間に安定した関係を構築しようとした日本政府の試みは、限定的ではありながら、一定の成果を挙げつつあるように見えた。だが、華北での出先軍人の策動はその試みに冷水をかけ、中断させてしまう。日中提携の実現を図ってきた南京政府や北平政務整理委員会のいわゆる親日派の人々からは、日本軍人による傍若無人の行動と、それを掣肘しない日本政府に対して、嘆きの声が上がった。黄郛によれば、梅津・何応欽協定は彼らに対する国内的支持を弱め、彼らに「悲哀ト絶望トヲ感セシメタ」という41。 5)広田三原則 華北の状況変化によって困難さが増したとはいえ、日中関係全体の安定化を目指す動きが断念されたわけではない。むしろ、華北での出先軍人の突出を抑えるとすれば、大使昇格をテコとして全般的な日中関係安定化を進めることが必要であると考えられた。 こうした発想から、日中外交当局の間で国交全体を改善するための協議が開始される。1935 年1 月、広田外相が帝国議会で日中親善を謳った直後、国際司法裁判所判事の王寵恵が来日し、日中国交に関する三つの原則を提示したが、9 月になって初代大使の蒋作賓は、あらためてその原則を説明した。(1)相互の独立尊重と対等関係、(2)友誼に基づく交際、(3)平和的方法による問題解決、という三原則が実現されるならば、中国としては満洲国を当面不問に付し、さらに上海停戦協定と塘沽停戦協定の取消に同意してくれるならば経済提携を進め軍事的協力も検討したいと蒋大使は述べた。 一方日本では、中国に対する方針についての協議が7 月あたりから外務・陸軍・海軍の三省事務当局間で始まり、10 月4 日、関係大臣の了解事項となった42。その中の、(1)中国の排日言動の徹底的取締と欧米依存政策からの脱却、(2)満洲国独立の黙認(できれば正式承認)、(3)赤化勢力の脅威排除(防共)のための協力、がいわゆる広田三原則である。了解事項の付属文書として、中国の統一あるいは分立を助成したり阻止したりすることを行わない、という申し合わせがなされたが、これは華北の事態を睨み陸軍を牽制するために付 40 梅津・何応欽協定の成立経緯については、臼井『日中外交史研究』141-154 頁を参照。 41 在中国有吉大使より広田外務大臣宛電報(6 月25 日)『日本外交文書 昭和期Ⅱ第1 部 第4 巻上』第245 文書。 42 「対支政策[広田三原則]決定の経緯」『現代史資料8・日中戦争1』102-108 頁。 13 け加えられたものと言えよう。 日中両国の三原則を比べてみると、中国側の原則はまだしも相互主義的であったが、広田三原則は一見して明らかなとおり、日本側の一方的な要求に終始していた。日本側の原則は、相手国との相互的なギヴ・アンド・テイクよりも、国内の関係者の主張や要求をどのように調整するかということに重点を置いていた。10 月7 日、広田外相はこの三原則を蒋大使に提示した。しかし、これによって日中関係安定化のための交渉が動き出すことはきわめて難しかった。交渉の前提となる「原則」それ自体に問題があったからである。その上、1935 年後半には、交渉の環境も悪化しつつあった。 3.華北の紛糾 1)幣制改革 国民政府は、国内敵対勢力を制圧しながら日本に抵抗するという政治的・軍事的問題のほかに、経済的にも深刻な問題に直面していた。世界大恐慌の影響に加えて、剿共戦の長期化や満洲事変以後の日本との武力紛争が、軍事費を増大させ国家予算を圧迫した。満洲の喪失は関税収入の大幅な減少を招いた。さらにこれに輪を掛けたのがアメリカの銀政策である。アメリカが内外の市場から銀を買い付けたため、銀貨が高騰し、中国から大量の銀が流出したのである。中国は実質的に銀本位制をとっていたため、甚大なダメージを受けた。 中国はアメリカに銀買上の中止と銀価抑制を要請したが、協力を得られなかった。次いで中国は各国に借款を要請する。この要請を受けた日本は、しかし、消極的であった。満洲国建設に資金を注ぎ込んでいたため、外債に応じる財政的余裕がなかった。仮に応じるとすれば、中国が債務を返済することが先決であるとされた。また、中国が外債を有効に使うためには複雑な貨幣制度(幣制)を根本的に改める必要があるとされたが、国民政府にはそれを実現する能力がないとも判断された。 イギリスでも、貨幣制度の改革なしには借款は一時しのぎにしかならないと考えられた。ただし蔵相のチェンバレン(A. Neville Chamberlain)は、日英の共同借款が日英協調を促し東アジアの安定に資することに期待をかけた。この大蔵省の後押しもあって、イギリスは政府首席経済顧問のリース=ロス(Frederick W. Leith-Ross)を中国財政再建援助のために現地に派遣することになる。 1935 年9 月、訪中前に来日したリース=ロスは日本側に注目すべき提案を行う。その提案とは、中国を経済的混乱から救うには銀本位制を放棄させる幣制改革が望ましく、幣制改革のためには借款を供与しなければならないが、これを具体化する方式として日英両国が1000 万ポンドの借款を満洲国に与え、それを満洲国が中国に対して満洲喪失の代償として引き渡したらどうか、というものであった。つまり、満洲国を経由しての日英共同借款によって、中国を経済的苦況から脱却させ、日英協調を実現し、さらに中国の満洲国承認も引き出そうとリース=ロスは提案したのである43。だが、日本政府はこの提案に否 43 木畑洋一「リース=ロス使節団と英中関係」野沢編『中国の幣制改革と国際関係』210頁。 14 定的であった。中国の幣制改革の実現可能性については依然として懐疑的であり、共同借款についても反対であった。列国による借款は中国の国際管理につながる危険性があり、少なくとも列国の政治的影響力を維持・強化させるので望ましくはないと考えられた。それよりも中国は一時しのぎの借款に頼らず自力更生を図るべきであると広田外相や重光次官は論じた44。 日本の対応に失望したリース=ロスは中国政府に幣制改革を勧告する。それは中国自体がそれまで検討してきた改革構想にほぼ合致したものであった。こうして11 月4 日、国民政府は幣制改革を断行する。銀本位制を廃止して管理通貨制に移行し、貨幣の発行を三つの銀行にだけ限定して銀を国有化する、というのがその改革の骨子であった。イギリスは単独の借款供与には踏み切らなかったが、自国の銀行が保有していた銀を中国側に引き渡すことで、幣制改革の成功を助けた。アメリカは中国の銀を購入する協定(米中銀協定)を締結し、中国が保有銀を売却して得たドルあるいは金をベースにして銀本位制から脱却することを可能にした。 日本の否定的な予想にもかかわらず、中国の幣制改革は成功への道を辿る。国民政府は幣制改革によって西南派や華北将領等の地方勢力の経済的な基盤を掘り崩し、その面からも国家統一を進めようとしたのである45。 2)「北支」工作(華北「自治」運動) 国民政府の幣制改革は、日本陸軍にとって歓迎されざる事態を意味した。それはイギリスの差し金によるものと見なされ、イギリスの影響力の拡大を伴うことが警戒された。それに加えて、国民政府による経済的な面での華北コントロール強化も憂慮すべき事態であった。華北将領たちの間でも、地方的利害から幣制改革には抵抗があった。こうして華北では陸軍出先機関による反撃が始まる。 出先軍はまず、察哈爾省から河北省に移ってきた宋哲元ら華北将領に圧力を加えて、現銀の南送を防止し、幣制改革を妨害しようとした。また、梅津・何応欽協定の成立以来、出先軍は華北「自治」運動を陰で工作していたが、幣制改革後はこの運動を性急に強行しようとする。 関東軍は、華北将領に国民政府からの離反を促すため、満洲国国境の山海関付近に一部兵力を集中した。陸軍中央はこの措置に驚き、兵力移動は認めたものの、まだ「北支」工作のために武力を行使すべき段階ではないと関東軍に自制を説いた。外務、陸軍、海軍の三省事務当局は意見調整を行い、華北「自治」を支持することには合意したが、そのための行動には慎重さが必要であるとし、「自治」の程度は最初から過大な要求をすることを避け、漸進的に行うべきであると申し合わせた。 一方現地では、土肥原から華北「自治」を要請された宋哲元(平津衛戍司令)、商震(河 44 波多野澄雄「幣制改革への動きと日本の対中政策」野沢編『中国の幣制改革と国際関係』272-273、松浦正孝「再考・日中戦争前夜」『国際政治』第122 号(1999 年9 月)135-137 頁。 45 幣制改革の政治的側面に関する新しい解釈については、樋口秀実「1935 年中国幣制改革の政治史的意義」服部龍二ほか編『戦間期の東アジア国際政治』(中央大学出版部、2007年)を参照。 15 北省主席)、韓復榘(山東省主席)らが、その圧力をかわしながら、何とか「自治」へのコミットを回避しようとしていた。結局のところ、「自治」運動の成果として実現したのは、戦区督察専員(戦区の行政首長)の殷汝耕を長とし、戦区を領域として11 月25 日に成立した冀東防共自治委員会だけであった(12 月25 日、冀東防共自治政府に改組)。殷汝耕には叛逆者として国民政府から逮捕状が発せられた。 南京の国民政府は、華北将領に対して日本に屈服しないよう牽制しつつ説得するとともに、日本の要求に何らかのかたちで対応する必要に迫られた。そのため蒋介石は北平軍事分会を廃止し、宋哲元を冀察綏靖主任に任命するとともに、高度の自治権を持たせた「大官」を華北に派遣する、との案を提示した。在中国大使の有吉明はこの提案に注目し、「自治」運動を抑制して蒋介石による事態収拾を見守るべきではないかと意見具申した。ところが、本国政府は国民政府による大官の華北派遣に反対する。国民政府ないし国民党の影響力が華北に残存し強化されるのではないかと警戒したのである。国民政府が大官として何応欽を華北に派遣し、「自治」の態様や防共等について日本側と協議しようとしたとき、日本側は彼と会おうとしなかった。 現地陸軍は華北将領に対する圧力を一段と強めた。特務機関等が後ろで糸を引く「自治」運動が各地で繰り広げられた。こうした動きに対して、12 月9 日、北平では大学生を中心とした数千人のデモ隊が「抗日救国」を叫び、公安当局と衝突した。16 日には1 万人以上が参加したデモが北平で展開された。華北の将領は「自治」推進と反対の板挟みとなり、軍閥としての利益から自己保身を図った。物情は騒然とし、ついに何応欽も事態収拾不能を認めざるを得なくなった。 12 月18 日、最終的に妥協の産物として発足したのが冀察政務委員会である。8 月末に廃止された北平政務整理委員会(政整会)に代わる、国民政府の地方行政機関として設置された。ただし、国民政府が黄郛や何応欽のように華北に地盤を持たない有力者を派遣して地方行政を担当させたのではなく、冀察政務委員会は宋哲元を委員長にしたことに示されているように、あくまで華北の実力者を主体とした地方機関であった。日本側が華北将領による「自治」を要求していたからである。そしてその分、南京(国民政府)と北平(冀察政務委員会)は意思の疎通に欠けるところが多くなった。中央政府の思惑や地方軍閥の利害も複雑に絡み合った46。 日本は当初、華北五省(河北、察哈爾、山東、山西、綏遠)の「自治」を目指したが、冀察政務委員会は河北・察哈爾の二省と北平・天津の二市を管轄したにすぎなかった。また、国民政府からの分離を目指したのに、冀察政務委員会は国民政府の地方行政機関として設置された。こうした点で、現地陸軍が目指した華北「自治」の目標はまだ達成されていなかった。 一方、日本の外交当局は、国民政府が「自治」運動の抑制を求めてきたとき、それを中国の内政問題であるとして突っぱねながら、華北への大官の派遣に反対し、何応欽の北上に際しては彼との接触を避けた。1936 年1月、日本政府は「第一次北支処理要綱」を決定 46 南京の国民政府と華北将領、特に宋哲元との関係については、Marjorie Dryburgh, North China and Japanese Expansion 1931-1937 Regional Power and the National Interest (Curzon Press, 2000)、光田『中国国民政府期の華北政治 1928-1937 年』を参照。 16 し、現地軍の性急な行動には自制を求めつつも、華北の「自治」推進を追認した47。 こうして、出先陸軍の「北支」工作により、国民政府では、いわゆる親日派の影響力が低下していった。政整会廃止の数ヵ月前に黄郛は委員長の職を辞した。1935 年11 月、汪精衛は何者かによって狙撃され、やがて行政院長兼外交部長を辞任した。12 月には、外交部次長として対日外交を取り仕切ってきた唐有壬が暗殺された。国民政府内の親日派との提携によって対中関係を安定化させようとしてきた広田・重光外交は、その前提を失い、広田三原則をめぐる交渉もほとんど動かなくなった。 その上、1936 年2 月、東京では陸軍過激派将校によるクーデタ(二・二六事件)が発生し、日本の首都は一時、麻痺状態に陥った。反乱軍鎮圧後、広田を首班とする内閣が発足したが、暫くは政府も軍も事件の再発防止と国内の安定に関心と努力を注がねばならなかった。 3)多発する事件 中国では、華北でもそれ以外の地域でも、日中関係をこじらせる問題や事件が相次いで発生していた。両国の関係をこじらせた問題の一つは、冀東特殊貿易である48。中国から言えば、冀東地区での密貿易にほかならない。満洲事変以前も関東州から渤海湾を渡って河北省沿岸や山東半島へ向かう密貿易は少なくなかったが、事変以後は、日本商品への関税が高かったことと、戦区の沖合での密輸取締船の活動を日本側が禁止したこともあって、戦区を経由する人絹や砂糖等の密輸が飛躍的に増えた。 冀東政権が成立すると、その行政経費を捻出するため同政権は輸入品に特別税を課したが、それは国民政府の正規の関税の4 分の1 程度であったので、その特別税を払っただけの「特殊貿易」が横行し、国民政府の関税収入に大きなダメージを与えるとともに、国内経済を混乱させた。中国側はこれに抗議したが、日本は中国の内政問題であるとして取り合わなかった。 華北でもう一つ日中関係をこじらせたのは、1936 年5 月、支那駐屯軍が兵力を3 倍(約5800)に増やしたことである。この兵力増強は、長征を終え(1935 年10 月)陝西省延安に根拠地を構えた共産軍に対処することを目的としていたが、これには隠れた理由もあった。性急かつ強引に華北「自治」運動を画策する関東軍に、「北支」工作から手を引かせ満洲国育成に専念させるというのが、その理由である。「北支」工作は支那駐屯軍が主導するものとし、そのために兵力増強とともに軍司令官を親補職にして関東軍司令官と同格としたのである49。 支那駐屯軍の増強は、事前通告を行わず、新たに駐屯地とされた豊台が義和団事変最終議定書に明記されていなかったこともあり50、中国側から厳しい批判を招いた。関東軍に 47 『現代史資料8・日中戦争1』349-350 頁。 48 冀東特殊貿易については、藤枝賢治「冀東貿易をめぐる政策と対中国関税引下げ要求」軍事史学会編『日中戦争再論』(錦正社、2008 年3 月)を参照。 49 支那駐屯軍の増強については、松崎昭一「支那駐屯軍増強問題」『國學院雑誌』第96 巻第2 号・第3 号(1995 年2 月、3 月)を参照。 50 日本陸軍は当初、通州を新駐屯地にしたいと考えていたが、通州は義和団事変最終議定書で認められた列国の「占領」地に入っていなかったため、国際的な批判を招くとして断念された。豊台も同議定書には明記されていなかったが、以前にイギリス軍が駐屯していたことがあり、そのとき中国側が抗議しなかったので、陸軍はここを新駐屯地に選んだ。 17 対する牽制という内向きの理由は当然ながら表面には出せず、むしろ日本は兵力を増強させてまた何か事を起こそうと画策しているのではないか、という疑惑を強めてしまった。 上海では1935 年11 月、海軍陸戦隊の水兵が射殺される事件が発生し、翌年2 月になって、犯人は中国の特務組織に関わる人物であることが判明した。華中・華南の権益や居留民の保護を担当する海軍を、上海の水兵射殺事件は強く刺激した。1936 年8 月には、一時閉鎖していた成都の領事館再開を前に、現地に赴いた新聞記者を含む日本人グループが暴徒に襲われ、死者2 名、重傷2 名の被害を出した(成都事件)。同年9 月、広西省の北海で薬局を営んでいた日本人が殺害された(北海事件)。広西省に移駐してきた19 路軍が排日を煽っていたことを重視した海軍は、艦船を北海に派遣して現地調査を行い、国民政府が責任を回避し事件解決を遷延させる場合には武力行使も辞さないとの強硬な姿勢を示した。北海事件直後には漢口で日本領事館の警察官が射殺され、上海でもまた水兵が殺害される事件が起こり、これらの事件も海軍を硬化させた。 ただ、このときは華北の事態を重視する陸軍が北海への陸兵派遣に消極的であり、成都事件を解決するために始まった川越茂大使と張群外交部長との交渉に、北海事件の解決委ねられることになった。 4)対ソ戦略と対中政策 その頃、日本政府は広田三原則の行詰りに応じて対中政策を見直し、新しい方針を打ち出していた。1936 年6 月、陸海軍が国防方針を改訂したとき、政府はこれと並行して同年8 月、国家戦略としての「国策の基準」を定め、これに準拠して「帝国外交方針」、「対支実行策」、「第二次北支処理要綱」を策定したのである51。 このうち「対支実行策」では、国民政府を反ソ・対日依存の方向に誘導し、華北の特殊性を認識させてその「自治」を容認させるとともに、具体的には防共協定・軍事同盟の締結、日本人顧問の傭聘、日中航空連絡、互恵関税協定の締結(冀東特殊貿易の廃止とその交換条件として排日高率関税の引下げ)、経済提携の促進等を提案することが方針とされた。 注目されるのは、防共協定の締結という方針である。ここには、日本の対ソ戦略バランスの悪化という事情が絡んでいた。そもそも満洲事変は対ソ戦略上有利な態勢を構築することを目的の一つとして始められたが、結果的には逆説的にも日ソ間のバランスは日本にとって不利な方向に傾いた。ソ連が外交的には日本に対して宥和的な態度をとりつつ、軍事的には日本の脅威を深刻にとらえ、極東領土の軍備強化を図ったからである。1934 年6月の時点で、ソ連陸軍の極東兵力は日本陸軍の総兵力に匹敵し、対ソ前線に位置する満洲と朝鮮の日本陸軍兵力はソ連極東陸軍の30 パーセントに達しなかった。しかもこの兵力の格差は広がりつつあった52。 陸軍が日ソ戦の場合の中国の向背を懸念し、抗日を本質とすると考えられた国民党の勢力を華北から排除しようとした背景には、こうした対ソ戦略バランスの劣勢があったのである。さらに、1936 年2 月、陝西省の共産軍が一時、山西省に進出してきたことは、現 51『現代史資料8・日中戦争1』361-371 頁。 52 防衛研修所戦史室『戦史叢書・大本営陸軍部1』(朝雲新聞社、1967 年)352 頁。 18 地および本国の陸軍の警戒を強めた。これを受けて3 月末、多田(駿)支那駐屯軍司令官は宋哲元との間に、極秘裡に防共協定を結んだ53。また、前年12 月、華北「自治」に反対して繰り広げられた北平のデモにも、共産勢力の影響力増大が感知された。皮肉なことに、日本が国民党機関を排除した後の間隙に、その特務組織による苛烈な弾圧が姿を消したこともあり、共産勢力が浸透していたのである54。 以上のような対ソ・防共の考慮は、「第二次北支処理要綱」にも貫かれている。そこでは、中国の領土権の否定、独立国家の樹立、あるいは満洲国の延長を図るかような行動は避けるが、華北の「分治」を促進して防共親日満の地帯を建設し、国防資源の開発と交通施設の拡充を進めてソ連の侵攻に備えるとともに、日本・満洲国・中国の三国「提携共助」を実現することが謳われた。注目されるのは、華北「分治」が政府の確定した方針として掲げられたことである。開発すべき国防資源としては鉄、コークス用石炭、塩、石炭液化、棉花、羊毛等が挙げられた。既に関東軍や支那駐屯軍の依託を受けて、華北の経済資源に関する調査が進められており、1935 年12 月には満鉄の子会社として興中公司が設立され、華北資源開発に関する事業を開始していた55。 成都事件が起こったのは、このような国交調整方針が固まった頃である。日本側の要求は当初、犯人・責任者の処罰、排日の取締という事件解決に重点を置いていたが、やがて国交調整方針に含まれる全般的なものへと膨らんでいった。北海事件など、その後に続く事件の発生が日本側の態度を硬化させた。一方、中国側は事件解決と排日取締には応じたものの、それ以外の点では日本の要求に対して妥協を拒んだ。中国側は、塘沽・上海両停戦協定の廃棄、冀東政権の解消、華北自由飛行(満洲国と華北との航空連絡に消極的であった中国側を牽制するため、中国軍の監視を名目に関東軍が華北に軍用機を飛ばしていたもの)の中止、密貿易の停止、内蒙古に侵入した「偽軍」(傀儡軍)の解散、を要望し、日本側と正面から渡り合った。 成都事件をきっかけとして1936 年9 月に始まった川越・張群会談は、こうして進展を見せなかった。そのうちに関東軍の後押しする内蒙軍が綏遠省北部に侵入し、そこで中国軍と衝突した事件(綏遠事件)をめぐって会談は暗礁に乗り上げ、同年12 月、事実上、打ち切られた。 5)内蒙工作と綏遠事件 綏遠で中国軍と衝突したのは、察哈爾省で内蒙古自治を目指して活動していた蒙古の王族、徳王の軍隊である。南京の国民政府は蒙古人の自治要求に押されて蒙古地方自治政務委員会(蒙政会)を設置したが、徳王はこれにあきたらず、土肥原・秦徳純協定で宋哲元軍を察哈爾省から押し出した関東軍に接近した。1936 年4 月、察哈爾省の徳化に徳王を主席とする内蒙軍政府が関東軍の指導下に成立し、満洲国との間に相互援助条約を結んだ。内蒙工作を強引に推進していたのは関東軍参謀の田中隆吉である。陸軍指導部は必ずし 53 臼井勝美「冀察政務委員会と日本」『外交史料館報』第16 号(2002 年6 月)34-35 頁、安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993 年)68-71 頁。 54 安井『盧溝橋事件』85 頁。 55 華北での日本の経済活動については、中村隆英「日本の華北経済工作」『年報・近代日本研究』第2 号(1980 年)を参照。 19 もこれを支持しなかった。やがて徳王は財政的基盤の脆弱な内蒙軍政府を強化するために、綏遠省の東部を支配下に入れようとする。同年11 月、徳王のために田中が掻き集めた無頼の匪賊部隊が蒋介石打倒を唱えて綏遠省に侵入した。しかし、この部隊は紅格図で簡単に敗れ、百霊廟に駐屯していた徳王の内蒙軍も綏遠軍の攻撃を受けて潰走した56。 この綏遠事件での中国軍の勝利は、日本軍に対する初めての勝利、しかも「無敵」の関東軍を打ち破った大勝利であると大々的に報じられ、中国各地で喝采を浴びた。綏遠への侵入に関東軍が間接的に関与していたことは間違いないが、実は戦闘にはほとんど参加していなかった。だが、これまで鬱積してきた対日屈服感からの解放も手伝って、綏遠事件の勝利は誇大に受け取られた。綏遠事件は中国の抗日感情を昂揚させ、日本に対抗する自信を回復させた。そして、その直後に歴史を転換させる事件が起こる。 6)西安事件 それは12 月12 日、剿共戦の督戦のため西安を訪れた蒋介石が、内戦停止・抗日救国を訴える張学良と楊虎城によって拘禁された事件である。張・楊と延安の共産勢力との間には以前から共同抗日についての協力関係が生まれていた。事件発生の報を受けて延安から周恩来が飛来し、最終的に蒋介石は釈放された。事件収束に至る真相はいまだ不明だが、この西安事件によってその後の共同抗日と国共合作が促されたことは疑いない。 そもそも蒋介石は、満洲事変以後、安内攘外の方針に基づき日本との妥協を図ってきたが、究極の場合の対日戦の準備を疎かにしていたわけではない57。国民政府は剿共戦を戦うためドイツから軍事顧問を招聘し、軍事組織・戦略・戦術の近代化を図るとともに、その助言に基づき、対日戦に備えた軍事的措置を講じつつあった58。1936 年4 月には、ドイツとの間に1 億マルクの貿易協定を結んだ。ドイツからの武器の輸入とタングステン等の輸出によるバーター協定であった。中国はこのようなドイツとの密接な経済的・軍事的関係によって日本を牽制しようとしたが、同年11 月の日独防共協定の成立により、親独政策による対日牽制は頓挫した。 蒋介石は対日牽制のためにドイツとの連携だけでなく、ソ連(1932 年12 月国交再開)との連携も模索した59。一方、かつて国民党を敵視していたソ連も、中国の対日牽制を維持・強化する上で、蒋介石の指導力に着目した。反ファシズム人民戦線戦術を採用していた(1935 年8 月)コミンテルンは、中国共産党に対しこれまでの反蒋抗日ではなく、連蒋抗日の路線を勧告した。蒋介石は、外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったものの、日本の強引な華北工作に対抗するため、対日戦の場合に軍事援助が得られるかどう 56 内蒙工作については、森久男「関東軍の内蒙工作と蒙疆政権の成立」『岩波講座・近代日本と植民地1 植民地帝国日本』(岩波書店、1992 年)を参照。 57 中国の国防計画については、安井『盧溝橋事件』126-135 頁。 58 対日戦準備に対するドイツ軍事顧問団の貢献については、Hsi-Huey Liang, The Sino-German Connection Alexander von Falkenhausen between China and Germany 1900-1941 (Van Gorcum, 1978), chap.7-8 を参照。 59 蒋介石の対独・対ソ連携構想については、樹中毅「蒋介石の民族革命戦術と対日抵抗戦略」『国際政治』第152 号(2008 年3 月)、鹿錫俊「日ソ相互牽制戦略の変容と蒋介石の「応戦」決定」軍事史学会編『日中戦争再論』を参照。 20 かをソ連に打診していた60。さらに蒋介石は、紅軍(共産軍)に対して討伐を中断することはなかったが、日本に対抗する上での共産党との政治的妥協の可能性も排除しなかった。たしかに日本との和解の可能性をまだ諦めてはいなかった。しかし、華北分離の動きがこれ以上強まれば、日本との武力衝突の可能性にも備えなければならなかった。そうしたところに西安事件は起こったのである。 7)対中政策の再検討 西安事件は日本にとっても大きな衝撃であった。事件は、一方では中国の内部分裂の深刻さを示すものと受け取られたが、他方では国内統一に向かう重大な転機とも見られた。 関東軍は事件の結果、中ソ両国が抗日に関して完全に一致したと分析し、これまでのように華北「自治」を国民政府からの権限委譲によって実現するのではなく、国民政府の意向には捉われず日本が自主的に追求すべきであると主張した61。これに対して、参謀本部戦争指導課は、西安事件を契機として中国では内戦反対と国内統一の気運が進んだと指摘し、抗日人民戦線派が健全な新中国建設運動に転化し得るかどうかは、日本が従来の「帝国主義的侵寇政策」を放棄できるかどうかにかかっていると論じた62。言論界でも、国民政府による統一を肯定的に評価する中国再認識論が説かれ、実業界の一部には1936 年後半あたりから、華北分離工作を批判し、日中経済提携を説く主張が浮上していた63。 こうして対中政策の再検討が始まる。そのイニシアティヴをとったのは、戦争指導課長から作戦部長に昇任した石原莞爾である。彼は将来の対ソ戦を睨んで当面は満洲国育成に専念し日満一体の軍需産業基盤強化を図るため、中国との衝突回避を望んだ。そのため内蒙工作に反対し、華北分離を否定し、冀東政権廃止の可能性も考慮しつつあった。 一方、外務省でも対中政策の見直しがなされていた。その主眼は、華北分治工作の中止と経済的施策の実行にあった。1937 年3 月、広田内閣に代わる林銑十郎内閣の外相に佐藤尚武が迎えられて、陸海軍両省を巻き込んだ対中政策の再検討が本格化した。4 月に政府は「対支実行策」「北支指導方策」を決定し、華北の分治や中国の内政を乱す政治工作は行わないことを定め、前年の華北分治の方針を否定した。「対支実行策」では、国民政府が指導する中国統一運動に対して「公正なる態度」で臨むことが基本とされ、防共協定や軍事同盟の締結という要求項目はなくなった。反ソ・対日依存への誘導という前年の方針も謳われなくなった。「北支指導方策」では、目的達成のために華北民衆を対象とした「経済工作」に主力を注ぎ、これに国民政府の協力を求めることが合意された64。画期的な政策転換であった65。 60 この頃の中ソ関係については、Jonathan Haslam, The Soviet Union and the Threat from the East, 1933-41 (University of Pittsburgh Press, 1992), chap.3 を参照。 61 関東軍参謀部「対支蒙情勢判断」(1937 年2 月)臼井勝美「昭和十二年「関東軍」の対中国政策について」『外交史料館報』第11 号(1997 年6 月)67-70 頁所収。 62 参謀本部第二課「帝国外交方針及対支実行策改正に関する理由竝支那観察の一端」『現代史資料8・日中戦争1』382 頁。 63 この点については、伊香俊哉「日中戦争前夜の中国論と佐藤外交」『日本史研究』第345号(1991 年5 月)を参照。 64 『現代史資料8・日中戦争1』400-403 頁。 65 佐藤外相の下での政策転換については、臼井『日中外交史研究』第9 章、藤枝賢治「「佐藤外交」の特質」『駒澤大学史学論集』第34 号(2004 年4 月)を参照。 21 その頃、横浜正金銀行頭取の児玉謙次を団長とする実業家グループが訪中し、中国の実業家たちと会談した。帰国後、児玉は冀東政権の解消と冀東特殊貿易の廃止を訴える意見書を佐藤外相に提出した。児玉訪中団のメンバーであった藤山愛一郎(大日本製糖社長)は岳父の結城(豊太郎)蔵相のメッセージを新任の外交部長王寵恵らの国民政府首脳に伝えた。それは日中経済提携の実績によって出先の関東軍や支那駐屯軍を抑制し、両国の関係安定化を図りたいとの趣旨であった66。 だが、現地では支那駐屯軍が林内閣の新方針に同調的だったのに対して、関東軍はそれを次のように強く批判していた67。政治的工作を行わず重点を経済的工作に置くというのは、従来の方針に比べて著しく消極的であり、日本との国交調整に応じる意思のない国民政府に親善を求めるのは、その「排日侮日」の態度を増長させるだけである。もし武力行使が許されるのであれば、中国に一撃を与えて、対ソ戦の場合の背後の脅威を除去するのが、最も有利な対策と言うべきだろう、と。 西安事件の衝撃を受けて、日本には対中政策の転換を図ろうとする動きが生まれたが、関東軍のように、それに反対する主張も根強かった。また、政策転換の実績を挙げるには時間が必要であった。そして、その実績が挙がる前に、1937 年6 月林内閣は総辞職した。後継の近衛内閣の外相に就任したのは広田弘毅であった。 8)盧溝橋事件前夜 日本の国防方針において、中国は仮想敵国のひとつであった。したがって、陸軍は毎年、中国と開戦した場合の作戦計画を作成した。中国の軍備強化に伴い、1937 年度(1936 年9 月から1 年間)の対中作戦計画での使用兵力は、前年度の9 個師団から14 個師団に増加した68。ただし、対ソ戦に備えての軍備拡充を焦眉の急としていた参謀本部では、中国との戦争は極力回避すべきであると考えられていた。 支那駐屯軍はこの作戦計画を受け、参謀本部の指示に基づいて華北の占領計画をつくった69。作戦計画が華北要地の一時的「占領」にとどまらず、やや長期の「確保」を要求していたので70、現地軍の占領計画も、万一の場合の不測事態計画であるとはいえ、それ相応に詳細なものとなった。 そして、華北では、そうした不測事態が起こりかねない状況になりつつあった。1936年、北平郊外の豊台に支那駐屯軍の増強部隊を収容する兵舎を建設したとき、中国人の間には、日本軍が軍用飛行場をつくろうとしているのではないか、との疑心暗鬼が生まれた71。 66 松浦「再考・日中戦争前夜」142-143 頁。 67 在満州国沢田大使館参事官より堀内外務次官宛(6 月11 日)外務省編『日本外交文書昭和期Ⅱ第5 巻上』第144 文書。 68『戦史叢書・大本営陸軍部1』368-370、412-414 頁。 69 支那駐屯軍の華北占領計画については、永井和『日中戦争から世界戦争へ』(思文閣出版、2007 年)第1 章を参照。 70 『戦史叢書・大本営陸軍部1』413 頁。 71 エドワード・J・ドレー「戦争前夜」波多野澄雄・戸部良一編『日中戦争の軍事的展開』(慶應義塾大学出版会、2006 年)27 頁。 22 同年、平津地区で行われた支那駐屯軍秋季大演習も中国側の疑惑をかきたてた72。 北平近郊に駐屯する中国軍第37 師は第29 軍の中で最も抗日意識が高いとされており、第29 軍の高級将校の中には共産党員も紛れ込んでいた73。1936 年9 月18 日、柳条湖事件5 周年の日、豊台の日本軍と第37 師の兵士との間に小競り合いが生じた。中国側の謝罪と豊台からの撤退で事は収まったが、日本軍が中国軍に武装解除を要求しなかったのは第29軍を恐れたからだという噂が広まり、これを聞いて憤慨した連隊長の牟田口廉也は、今後類似の事件が起きたならば、今度こそ仮借することなく直ちに中国軍を膺懲し、侮日・抗日観念に一撃を加えねばならぬ、と部下に訓示したという74。 牟田口が予想した類似の事件は、それから10 ヵ月後、盧溝橋で起こることになる。対ソ戦闘法の夜間演習を行っていた日本軍部隊と中国軍との衝突であった。そのとき、前内閣(林内閣)の対中政策転換に反対し、中国の「増長」を憎み、華北を国民政府の政治的コントロールから分離することを目論んでいた対中強硬論者は、中国に「一撃」を加えることを躊躇しなかったのである。 72 安井『盧溝橋事件』107-113 頁。 73 第29 軍副参謀長の張克侠は共産党員、第37 師長の何基.は共産党シンパで1939 年に入党した。同上、91 頁。 74 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996 年)67-69 頁、臼井「冀察政務委員会と日本」36-38 頁。 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/69.html
{{基礎情報 過去の国 |略名 =冀東防共自治政府 |日本語国名 =冀東防共自治政府 |公式国名 =Template Lang? |建国時期 =1935年 |亡国時期 =1938年 |先代1 =中華民国 |先旗1 =Flag of the Republic of China.svg |次代1 =中華民国臨時政府 (北京) |次旗1 =Flag of the Republic of China 1912-1928.svg |国旗画像 =Flag of the Republic of China 1912-1928.svg |国旗リンク = |国旗説明 = |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = |国章リンク = |国章説明 = |国章幅 = |標語 = |国歌名 = |国歌追記 = |位置画像 = |位置画像説明 = |公用語 =中国語 |首都 =通州唐山 |元首等肩書 =政務長官 |元首等年代始1 =1935年 |元首等年代終1 =1937年 |元首等氏名1 =殷汝耕 |首相等肩書 = |首相等年代始1 = |首相等年代終1 = |首相等氏名1 = |面積測定時期1 =1937年 |面積値1 =8,200 |人口測定時期1 =1937年 |人口値1 =6,000,000 |変遷1 =成立 |変遷年月日1 =1935年11月25日 |変遷2 =通州事件 |変遷年月日2 =1937年7月29日 |変遷3 =中華民国臨時政府に合流 |変遷年月日3 =1938年2月1日 |通貨 = |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |注記 = }} 冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は、1935年から1938年まで中国河北省にあった殷汝耕を首班とする政権。冀東政府と表記されることもある。国旗は旧民国の五色旗を使用した。「北支」分離を謀る日本(関東軍)が作成した傀儡政権であった。 経緯 華北分離政策 1933年5月の土肥原賢二・秦徳順協定(塘沽協定)締結以後、関東軍は、華北5省の自治も企図し始めた。1935年9月、天津駐屯軍司令官多田駿は、反満抗日分子の華北からの徹底駆逐、華北経済圈の独立、華北5省との軍事協力・赤化防止の3項目から成る声明を出した。10月4日の閣議において、陸軍大臣川島義之も、華北自治奨励案を提出し、華北分離は日本の正式な政策となった。 当初、二十九軍軍長宋哲元、河北省主席商震、山東省主席韓復榘、山西綏遠綏靖主任閻錫山の4人が自治政府樹立に関する構想に含まれていたが、彼らは傍観の態度をとり、自治政権の樹立に明確に賛同しなかった。 宋哲元を首班とする構想 11月11日、土肥原は、蒋介石に不満を持っていた宋哲元に彼を首班として自治政権を樹立することを提案した。同時に、11月20日までに自治を宣布しなければ、華北に日本軍を投入するとの最後通牒も突きつけた。土肥原の行動を支援するために、関東軍司令官南次郎は、11月12日、独立混成第1旅団の山海関への派遣命令を下した。また、16日、航空隊6個中隊が山海関、錦州地区に集結し、旅順、青島の巡洋艦と駆逐艦各1隻が大沽口に派遣された。 これにも拘らず、宋哲元は、自治を行わないことを土肥原に通知した。そこで、早稲田大学の卒業生で、日本通として知られる殷汝耕が首班の候補とされた。 冀東防共自治政府の成立 当時、殷汝耕は蘚密区と灤楡区の専員を兼任しており、冀東地区の全権を掌握していた。在任期間、彼は外貨獲得のため日本企業を優遇しており、当然日本との関係は良好だった。11月23日、土肥原は、殷汝耕を宴席に接待し、冀東の独立を持ちかけた。翌日、殷汝耕は、各県県長と保安隊長を招集し、中央から離脱して自治を宣言することを決定した。この地区の人口は、約七百万人であったと伝えられる。 1935年11月25日、殷汝耕を首班とする冀東防共自治委員会が、通州において成立した。成立大会上において、殷汝耕は、殷汝耕、張慶余、張硯田、李海天、李允声、王厦材、池宗墨、殷体新、趙雷等9人を委員とし、自らを委員長とすることを宣布した。自治区域は、冀東22県の外、延慶、龍関、赤城の3県を包括した。 12月25日、殷汝耕は、「冀東防共自治委員会改組冀東防共自治政府宣言」と「冀東防共自治政府組織大綱」を発表し、冀東防共自治政府を正式に発足させた。殷汝耕は、政務長官を自任し、全権を掌握した。 政府の下には、秘書、保安、外交の3処と民政、財政、教育、建設の4庁が設置された。戦区保安隊は、自治政府軍に改編され、保安第一から第五総隊も、第一から第五師に改称し、張慶余、張硯田、李海天、趙雷、李允声が各々師長に任じた。 終焉 1937年7月29日、首都の通州で、日本軍の管理下にあった中国人保安隊による反乱(通州事件)が発生、これにより中国保安隊によって日本人(朝鮮人含む)居留民約230名が虐殺された。この事件については冀東政府が正式陳謝を行い、さらに120万円の賠償金を支払う形で「解決」した。その後1938年、冀東政府は中華民国臨時政府に吸収併合され、発足後2年足らずで消滅することとなった。 関連項目 土肥原賢二 冀察政務委員会 冀察銀行 蘆溝橋事件 華北分離工作 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月27日 (木) 02 54。
https://w.atwiki.jp/wikirace/pages/21.html
中国人(漢族) 中国人(漢族)いわゆる中国人である。漢民族とも呼ばれる。 中国人は北と南で大きく形質が異なる。 1つの民族で13億人という世界最大規模の民族、もしくは民族集団である。 中国の全人口の94%以上を占める。 中国人(漢族) 中国北東部(華北)は北方モンゴロイドである。 中国南東部(華南)は南方モンゴロイドである。 華北は背が非常に高く若者の平均が2011年現在175cm以上である。また、手足が長く顔が小さい。 華南は日本と同じくらいか低い者も多い。内陸は栄養の関係もありかなり低い。手足が短くズングリした体型。 また、華南はなで肩。 華南は非常に大きな頭をしている。 華北は顔が細い。また、目が細く一重が多い。肌は乾燥している。 華南は顔の幅が広く丸い二重の目が多い。肌は湿っている。 体毛は華北で一部(いわゆるコーカソイドとの混血により)毛深い者もいるが、体毛は基本薄い。 華南も体毛は薄くほとんど生えない。 華北は髪の毛はストレート。髪はサラサラである。 華南も髪の毛はストレート。髪は湿っている。 華北は唇は薄い。華南は唇が厚い。 華北は鼻は高い者も多いが低い者も多い。 華南は鼻が低く横に広い。 中国北東部(華北)の血液型はO型48%、A型28%、B型20%、AB型4%。 中国南東部(華南)の血液型はO型57%、B型24%、A型17%、AB型2%。 頭は短頭。(頭の前後が短い)華北は一部長頭もいる。 華北・華南の形質は韓国人にも多くみられる。 華北はお酒に強く華南はお酒に弱い人が多い。 農耕生活が長く、一万年以上前から農耕をしている。世界で最も長く農耕をしている民族・系統である。 性格は北東部はおとなしく南東部はよくしゃべる民族である。 北東部に鬱病が多いと言われることもあるが南東部も多く、鬱病や神経症の多い民族でもある。 華北は一般的には細身、華南は肥満ともいわれるが、華北は肉厚で筋肉質な体型も多く、華南は一部に筋肉質な人もいる。 「乳糖不耐症」が多い。 中国北東部(華北)のコーカソイド遺伝子について。 日本でも東北地方や、アイヌ人からもコーカソイド遺伝子。 中国北東部(華北)では、現在日本の研究などでコーカソイド遺伝子が多く見つかっている。 日本でも東北地方やアイヌ人からも見つかっている。 中国東北部はシルクロードの影響で今も回族系の人達が多く住んでいるので納得だが、 日本に中東系の民族がやって来たという話はあまり聞かない。 3500年前の中国の人骨からもコーカソイド遺伝子が見つかっていることから、 ヨーロッパ人や中東、中央アジアや南アジアなどのコーカソイドが東アジアに多くやって来ていた可能性が高い。 血液型の話。 中国は「北に行くとB型が多く、南に行くとA型が多い。」これらはすべて「捏造」であり「ウソ」である。 実際は中国は何処へ行っても血液型はO型が多い。 北に行くと若干ではあるがA型が増える。 南に行くと若干ではあるがB型が増える。 これが真実である。 中国人の写真。 1904年撮影。落合博満さんに似ていますね。 貴州省の少年。 貴州省は少数民族が多いらしく漢族かどうかは微妙ですが漢族華南顔なので載せました。(どうも漢族で間違いないようです) それにしても都市部と農村部の貧富の差が激しいといいますが、都市部と農村部の雰囲気にかなり差がありますよね。 中国人の子ども達(漢族)。 中国系シンガポール人の女の子。上戸彩さんに似ていますね。 米国に移民した中国人男性。 目力^^ 中国人のピアニスト。 漢族。1902年12月に撮られた写真。 中国系シンガポール人。シンガポールは華南系が多い。 中国・四川の一般の女性らしいです。昔の民国学生服?を着ている女性。 1991年生まれらしい。アイドルデビューとかするかな? 同じ女性。漢族美女。 同じ女性。2011年に撮られた写真?らしい。 南笙姑娘(ナンシェングーニャン)とかいう人らしいです。 やはり朝鮮民族とは違うな。漢族は遺伝子・ルーツが南方系だからな。 肖像権とか著作権とか大丈夫かな?写真が大量に出回ってるようだけど。 問題あったら削除します。 中国漢族区分 華北・西北・東北地域(中国北部) 中国の華北・西北・東北の漢族である。 北方モンゴロイドである。遺伝子の調査で、コーカソイド(白色人種)との混血であることが判明している。 黄色人種としては非常に長身な地域が多い。 手足が長い。 細く小さな頭をしている。顔が小さい者が多い。 切れ長の目が多い。 肌は寒さに適応し乾燥している。肌は白い。 鼻は高い者も低い者もいる。 体毛は基本薄いが毛深い者も多いという。 髪の毛はストレート。髪はサラサラ。 唇が薄い。口は小さい。 血液型はO型48%A型28%B型20%AB型4%前後が基本。どうも北西部はA型の割合が多い地域もあるようだ。また東北部にもA型が比較的多い地域がある。 弥生人のルーツは中国東北部だと考えられている。 頭は短頭。(頭の前後が短い) 大人しい性格の人が多いといわれる。 山東人 山東省の漢族である。 北方モンゴロイドである。遺伝子の調査で、コーカソイド(白色人種)との混血であることが判明している。 コーカソイドの遺伝子が特に多く見つかる地域であるために日本などの研究機関の調査の対象となっているようだ。 非常に長身で山東半島の付け根部分の周辺地域では男性の平均が現在177㎝ある。 手足が非常に長い。 細く小さな頭をしている。顔が小さい者が多い。 切れ長の目が多い。 肌は寒さに適応し乾燥している。肌は白い。 唇が薄い。口は小さい。 鼻は高い者が多い。 山東省の血液型の割合はO型42%、A型34%、B型18%。AB型6%。 福建省、広東省同様に山東省は経済的に発展している。 ネットで体型が小さいと言っている人がおられるようですが、自分が知る限り長身な人たちです。青島市のビルや街並み。 http //blogs.yahoo.co.jp/masamutsu2002/30013161.html 青海人 青海人の特徴。 青海省の漢族である。他民族との混血も激しいらしい。自分は詳しくないのでどんな割合で混血しているのかわからない^^ チベット系、モンゴル系、テュルク系の影響を受けているようだ。 西南・華南・華中地域(中国南部) 中国中部・南部の漢族である。 南方モンゴロイドである。 身長は日本と同じくらいか低い者も多い。手足が短くズングリした体型。細い者も多い。 大きな横に広い頭をしている。額が広い。 丸い二重のギョロ目が多い。目は離れている。寄り目が多い。 汗腺がよく発達しており汗を掻きやすい。肌は湿っている。 体毛は基本薄い。 髪の毛はストレート。髪の量は多い。髪は湿っている。 唇が厚い。口は小さい。 鼻が低く横に広い。 血液型はO型57%B型24%A型17%AB型2%前後が基本。広西チワン族自治区は先住民系のチワン人の影響で、漢族でもB型も比較的多い地域があるようだ。 頭は短頭。(頭の前後が短い) よくしゃべる人が多いといわれる。また、商売上手と言われる地域が多い。 上海人 上海より北の江蘇人と南の浙江人の移住者たちの子孫で構成されている。広東人系も比較的多い。 肌は比較的白い。日焼けして褐色の者も多いようだ。 目は二重が多い。顔が縦に短く横に広い。口は小さく、唇は厚い。 血液型はO型48%、A型25%、B型21%、AB型6%。 頭は短頭。(頭の前後が短い) 身長平均は2001年調べで、男性は171㎝、女性は163㎝。 浙江人 肌は比較的白い。 浙江省はかなり発展している。 貴州人 都市部は発展しているが農村部は貧しいようだ。 貴州省は東南アジア系の民族を多く抱えている。 http //www.dojintabi.com/travel-guide/show_guiyang.html 福建人 性質としては移民するのが好きな民族で、移民民族のところにも書きました。外国にいる中国人の大部分がこの福建人だというから驚きである。 日本にやってくる中国人の多くも福建人であることが多い。 中国東北部などの暗黙な人たちとは性質が異なり、非常によくしゃべると評されることが多い。商売上手とも。 集団性が高く、どこの国に移民しても「群れている」と評されているようだ。 台湾本省人のルーツになった可能性が高いことが、遺伝子的にも言語学的にも証明されてきている。 広東人とよく比較されるが、形質が若干異なるとされる。 福建省は広東省同様に経済的に発展している。 肌は褐色が多い。 頭は過短頭に近い。(頭の前後が非常に短い)一部中頭のような者もいるらしい。 福建人の血液型はO型60%、B型20%、A型18%、AB型2%。 広東人 商売上手と言われる民族でよくしゃべるが、鬱病などが多い人たちでもある。 勤勉と評される人たちでもある。 日焼けと人種的なものに因り、肌は濃い褐色の者も多い。 東南アジア(先住民のチワン人と古い時代に混交した)の遺伝子が多く入っている。 血液型はO型57%、B型27%、A型14%、AB型2%。 頭は過短頭。(頭の前後が非常に短い) 広東省は非常に経済的に発展している。広州市のビルや街並み。 http //www.city.oita.oita.jp/www/contents/1056335950696/index.html http //works-aquila.blog.so-net.ne.jp/2011-11-06 http //www2.explore.ne.jp/articles/editor/014.html http //diamond.jp/go/pb/project/yuexiu/ 香港人 香港人のほとんどが広東人をルーツにしている。 気温が暖かい地域にもかかわらず鬱病が非常に多い。 歩くのが早い。早起きでもある。勤勉でもある。 香港人の男性の身長平均は、中国南部系にも関わらず171㎝ある。男性1.717 m (5 ft 7 1⁄2 in) 女性1.587 m (5 ft 2 1⁄2 in) (18歳)2006年調べ。 頭は過短頭。(頭の前後が非常に短い) 血液型はO型57%、B型29%、A型12%、AB型2%。香港の街並み hongkong.childlady.org ←この写真、最高! (http //hongkong.childlady.org/) tokaittravel.blogspot.com (http //tokaittravel.blogspot.com/2011/12/blog-post.html) 福建人と広東人は典型的「華南人」だと自分は思うのだが皆様はいかがお考えだろうか。 中国の写真を多く見て管理人が思ったこと。 写真を見ていて感じたのは、都市部はもはや日本の都市を凌ぐ発展ぶりであるが 農村部は東南アジアよりも貧しいのではないかと感じる写真が多く、格差があるなと感じました。 米国よりも格差が現時点であるというのは、将来的にはもっと広がる可能性もありますよね。 超格差貧困社会の米国と中国が世界の経済をリードしていくのかと思うと、まぁなんですかね・・・。むずかしい話はここでやめます(笑)
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/3433.html
90 :ooi:2016/04/13(水) 22 07 46 豪州+新西蘭転移ネタ8 清国及び中華民国について1 清国はアロー戦争の仲介料として外満州の大半を、日清戦争では多額の賠償金に加えて台湾、海南島が日本に割譲されていた。 これによって、清国は国威、国力の両面で大打撃を食らっていた。 止めに、日露合意で満州が勝手に割譲された事にキレて、義和団と残っていた正規軍、私軍を動員して日露に戦争を仕掛けたが壊滅的敗北を喫した。 日露に合計6億両の賠償金を支払った事で財政が破綻状態となり、革命によって清朝は滅亡する。 日英露は王朝が保有した運び出せる文化財の殆どを国外に運び出す事を条件に清国皇室や政府要人の財産を含めた脱出の手助けを行った。 脱出した人々はこれらの美術品を管理する仕事が与えられ、彼等が書いた由来等の記録は中国美術史における貴重な資料となった。 清朝滅亡後、中華民国が成立した。 孫文は、ハワイが日本領だった事からアメリカではなく日本に留学して様々な経験を積んでいた。 この後、本格的に西洋の知識を得ようと考えて英領インドや仏領インドシナに赴いて欧州の議会制民主主義を学んだ。 彼と共に学んだ同志達十数名は農業や鉱工業、経済、軍事についての知識を深めた。 孫文は留学時の伝手を活かして国内の立て直しと近代化を行おうとしたが、国防上の理由や袁世凱を警戒して首都を広州に変えた事が華北の反発と軍閥時代を招いてしまった。 孫文は日英露の支援で北伐を画策したが、日英露の反対で断念する事となる。 元々、夢幻会や円卓にとって中華統一は害悪であったので、統一妨害策展開の時間稼ぎとして孫文に国民党勢力圏の近代化を先にすべきだと伝えた。 孫文率いる国民党が現時点で抑えていたのは本拠地の広東省を中心に広西、湖南、江西、湖北、重慶市の5省1市であった。 国民党は様々な改革によって現時点における国土近代化を大規模な妨害が無かった事もあって完遂した。 軍も近代化が進み、1932年には九二式軽戦車を50両購入して機甲部隊も設立させた。 航空部隊も旧式機ではあるが戦闘機60機、爆撃機30機が所属していた。 歩兵部隊、砲兵部隊も比較的新型の兵器を装備しており、これを上回る軍備を持つのは華北共和国と福建共和国だけであった。 国内の立て直しと軍の近代化を成し遂げた孫文は中華統一に向けて動き始めた。 しかし、孫文の考えた中華統一の夢は非常に厳しいものであった。 日英露の転生者達は、中華統一の妨害策を展開させていた。 その対策の1つが先程触れた華北共和国と福建共和国の建国である。 この2国は日英露が色々な名目によって建国され、日英露駐留部隊が両国のインフラ、経済力及び軍事力の近代化を進めていたのであった。 奉天派が建国した華北共和国は満州で日露両陸軍を間近で見た事もあって練度や戦術は優れていた。 軍備も八九式中戦車や九二式軽戦車を各々50両程度保有し、30年代には二式突撃銃、M2重機関銃等の新型兵器を購入及び生産しており部隊の機械化率、攻撃力も高かった。 航空隊の陣容も強力であり、中華民国陸軍や陸軍航空隊をワンサイドキルするのも可能であった。 海軍の最大艦艇は駆逐艦だったが大韓帝国封印には十分であった。 安徽派が建国した福建共和国も華北共和国には及ばないが中華民国に十分対抗可能な陣容を揃えていた。 次に、日英露が雲南派、四川派、西北派に多くの旧式兵器を売り払っていた事であった。 日英露は上記軍閥に旧式兵器を売り払う事で自軍の軍備近代化と開発資金の確保、そして中華民国の体力減少を狙っていた。 なお、山西派は奉天派の意向によってそれ程売られておらず、早期に潰されて華北共和国に編入された。 この妨害策に孫文は憤慨したが、自身の政策を安定して遂行出来たのも日英露のお陰だったので表立って文句は言えなかった。 文句を言ったら最後、中華民国はあらゆる手で弱体化させられると理解していたからだ。 だからと言って諦める孫文ではなく、1933年4月に北伐と云うよりは西進に近い形で雲南派撃破を目標として蒋介石に精鋭部隊を預けて出撃させた。 豪州+新西蘭転移ネタ9