約 1,660 件
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/200.html
昭和17年からの2階建て校舎です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/195.html
明治44年の卒業式の写真です。 その頃は各学校に陸軍の駐在武官が配属されていました。 前列の真ん中は亀野源量校長先生ですが、周りは警察官、駐在武官です。 卒業生は後列の2列目にいます。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/217.html
昭和38年に完成した先代上大岡駅ビル前よりタクシ-も発着していました。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/68.html
経塚山の太子堂と東福寺 (笹下) 笹下の東福寺は、このあたりでもっとも古いお寺です。その昔、京都の比叡山から一人のお坊さまが、背中にお薬師さんという仏像をせおい、はるばるこの地にやってきて、小さなお堂をひらいたことが、この寺のはじまりです。 でもある時、寺にかみなりが落ちて、ぜんぶ焼けてしまいました。とても貧しい村だったので、なかなか再建されず、永い間そのままになっておりました。ある時、またまたこの地に、密厳というお坊さんが訪れ、荒れはてたお堂を見ておどろき、さっそくお堂を建てて、お薬師さんをおまつりしました。 鎌倉時代には、親鸞上人というえらいお坊さんが、この地を訪れたとき、東福寺に三ケ月も滞在して、村の中をあちこちと、まわって歩きました。そして、いつのまにか、この寺のことを、三月院と言うようになったそうです。 ある時、親鸞上人の夢の中に、聖徳太子が現われて、近くにある経塚山に、自分で作ったという太子像があることを告げたそうです。 上人はさっそく山に行って、夢にみた場所を掘りおこしてみますと、何と夢の中に現われたものとそっくりの太子像が、土の中から姿を現わしたのです。上人は、大変よろこんで、その太子像を寺におさめたそうです。 その後、この太子像は、村の人たちの手でお堂が建てられ、そこにおさめられました。そして、経塚山の太子堂とよばれ、大切にされました。 また、この地をおさめていた間宮豊前守信元という殿様が、この太子像のことを知り、大変尊んで、村を守ってくださるようにとお願いしたそうです。しかし、経塚山の太子堂は、江戸時代に火事で焼けてしまいましたので、太子像は寺にうつされていましたが、今はもとの経塚山に帰っております。 太子像が一時移されていた東福寺の庭のかたすみには、見ざる、言わざる、聞かざる、の三猿が、ひっそりとこちらを見つめています。江戸時代に作られたもので、このへんでは一番古いものです。 また、山門を入るとめずらしい花塚もあります。このあたりは、明治から大正時代には、横浜の花どころといわれ、花かごをせおって商いする風景をよく見かけたものです。 この花塚は、村の人が花の精に感謝する気持で、作られたものです。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/196.html
年代 昭和11年 運動会の写真。 まだ、校舎は平屋建てです。 左側の草葺屋根は役場の官舎です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/97.html
村に電気がきた日 (下永谷) むかし、電灯は一日中ついているわけではありませんでした。夜には電灯がつきましたが、朝になると消されてしまうようになっていました。 電気が引かれ始めたころには、営業所で、朝晩電気のスイッチを入れたり切ったりしていたのです。つまり、永谷村にも昼は、電気が流れてこなかったということなのです。 大正時代の終わりごろのことです。永谷村にはじめて電灯がつくことになりました。電線をまつすぐに引くために、田んぼの中でも、屋敷の中でも、どこでもかまわず“電信柱”を立てていきました。 電気がくるということで、村じゅうが総出で、電信柱をかついだり穴を掘ったりして工事を手伝いました。 それまでは、ランプの明かりでくらしていました。油煙でランプがすぐ黒くなり、うす暗くなってしまうので、毎朝これをみがくのが子どもの仕事でした。だから、子どもたちは電灯がつくのを、とても楽しみにしていました。 電灯は、一軒に一灯ぐらいで、ながーくした電灯線を、家族の集まる部屋へ引っ張っていって使うのです。 工事も終わり、電灯のつく日になりました。 野良仕事を早じまいして、じいちゃん、ばあちゃん、とうちゃん、かあちゃん、それに子どもたちみんなが電灯の下に集まつて、電気がくるのを、今かいまかと待ちました。 「今日は電気がつく日だ。野庭のほうは電気が光ってたからよオ、すぐ永谷にも電気がくんだろうよ」 と村の役場の人が来ていうと、村人たちは、 「もうそろそろ下永谷にもつくんじやねえのかあ」 としきりにおもての方を気にして、家を出たり入ったりしていたそうです。 おそらく、昔の人は電気が流れるという話を聞いて、まるで水が流れるように、野庭の方から、ゆっくりと流れてくるのだろうと思っていたのでしょう。 「ヒエー、明るくて、まぶしくて、目ん玉がいてえくれえだ」 電灯がついた時、あまりの明るさに、村の人々は口ぐちに話したそうです。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/44.html
歌をうたうミケネコ(笹下) bgsound 笹下の成就院の下の坂を、坊坂といいます。その寺が、成就坊といわれていたころの話です。 寺に、一匹のミケネコが飼われていました。御新造さん(奥さん)はこのネコをとてもかわいがり、ネコもとてもなついていました。 ところで、この御新造さんは、とても歌が好きで、きれいな声でよくうたっていました。 ある日、村人が坊坂を通りかかると、御新造さんの歌声に、かわいい声が重なって聞こえてきました。 「おや、この寺に子どもがいたかしら」 村人が寺の中をのぞいてみると、御新造さんの足元に、ちょこんとミケネコがすわって、いっしょにうたっていたのでした。 「これはこれは、めずらしい。ネコがこんなにじょうずにうたうとは」 「いつも私のそばにいるので、いつのまにかまねをするようになってしまつたのですよ」 「おやおや、そうですか。ミケや、これからは、村の人たちにも聞かせてあげておくれ」 それからというもの、ミケネコは、坊坂を人が通るたびに、いっそうきれいな声で、歌を聞かせるようになりました。 そして、歌をうたうネコの話は、となりの村々にまで広がり、わざわざミケネコの歌を聞きにくる人もいました。 ところが、ある日のことです。ミケネコが寺の山門の石段に、しょんぼりとすわっているのです。 「どうしたんだい。今日は、いつものようにうたわないのかい」 と村人が開きました。 「きのう、うっかり、池に落ちてしまったのです。ニャーン」 「それでカゼをひいたのかい」 「御新造さんが、体をふいて、オジヤまで作ってくれたので、もうよくなりました」 「それなら、どうしてうたわないのかね」 「オジヤが熱くて、舌をヤケドしてしまったのでうたえないんです」 「そりやかわいそうだ。よしよし、いまお前の好きなマタタビを取ってやるからな。元気をお出しよ」 四、五日すると、坊坂のあたりでは、前にもまして美しい歌声が、聞こえるようになったということです。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/254.html
年代 ? 金沢道(笹下・釜利谷街道)の笹下町・関の大通り付近の様子です。 この周辺の中心街で、警察署、消防署もありました。 道路の左側に「火の見櫓」があります。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/137.html
年代 ? 打越交差点の様子です。 現在の環状2号線が出来る前の様子です。 右下が上大岡駅左上が -- 井上信夫 (2016-03-15 05 59 12) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/149.html
年代 昭和12年頃 大久保付近の写真です。 名前 コメント