約 1,660 件
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/86.html
塚の古址(野庭) bgsound(http //www19.atwiki.jp/konanrekishi/pub/tsukanokoshi.wma) 戦国時代,野庭は,小田原の北条氏によって支配されていました。 小田原北条氏は,大船の玉縄にも城を築き越後の上杉や,甲斐の武田とも戦いましたが決して,城が落ちることはありませんでした。 しかし,天正十八年(1590),豊臣秀吉のあの石垣山の一夜城でも有名な小田原城攻めで,百日余りの抵抗も空しく落城し,北条氏政はついに降伏し,切腹して果てました。 その小田原城落城の時に,「小田原評定」といって対応について意見がいろいろ出ました。 この時,豊臣秀吉の軍に降伏することを潔しとせず,一人混乱から抜け出して,再起を図ろうとする武士がおりました。名前を吉本氏と言います。 その吉本氏は,「落ち武者狩り」の目を逃れて東に向かい,ようやく命からがら,鎌倉道の通る相模の国の一番はずれの,野庭の里に身を隠すことができました。 山また山に囲まれた,一寒村の野庭に住みつき,安住の地と定め,農民となった吉本氏は,やがて「臼居」と名前を変えました。 しかし,愛する人たちのいる小田原を懐かしく思う気持は,日々つのり,朝夕,小高い山に登って,西の方をながめて,北条氏の再興を祈っていました。 しかし,北条氏再興の願いはむなしく消え,上野庭の里で,その一生を終わりました。 その最後の遺言により,柩が,いつも臼居氏が登っていた小高い山の頂上に,西に向けて,埋葬したと伝えられています。 そのころ,晴れた日には,小田原の海が見えたそうです。 昭和二十七年(1952)子孫である上野庭の臼居氏は,先祖を葬ったとされる野庭と金井の境にある武相国境の丘に,祖先への祈りと願いをこめて,碑を建てました。 それが「塚の古址」と呼ばれるものです。そのあたりが野庭では,最も高い所だったとされていたからです。 その碑は,現在,日野南五丁目の野庭三谷町公園のわきの見晴らしのよい小高い丘に移され,主君の北条氏政や小田原城を見つめて,人知れずひっそり建っております。 この碑を目のあたりに見て,過ぎにし,戦国の世を偲んでみるとよいでしょう。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/224.html
日野小学校古写真 昭和40年頃の撮影です。 鎌倉街道日野バス停留所付近(高橋)より清水橋方向を望んだ写真です。 左手にガソリンスタンドがあります。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/21.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 大正年代の古い校舎の前で撮った写真です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/139.html
横浜市立日野小学校に保存されている古写真を中心として展示しています。 日野小学校00112(昭和50年代の日野の景観) 日野小学校00111(昭和50年頃の日野の景観) 日野小学校0011(昭和50年頃の日野の景観) 日野小学校00101(昭和40年代後期の日野の景観) 日野小学校0009(昭和40年頃の鎌倉街道) 日野小学校0008(現在の鉄筋4階建て校舎が完成した時の航空写真) 日野小学校0007(木造校舎を壊す際の写真) 日野小学校00061(昭和40年頃の鎌倉街道) 日野小学校0006(昭和40年頃の鎌倉街道) 日野小学校0005(昭和時代の校舎の全景航空写真) 日野小学校00042(昭和時代の木造校舎の玄関) 日野小学校00041(昭和時代の木造・2階建て校舎) 日野小学校0004(昭和時代の木造・2階建て校舎) 日野小学校00031(日下村が横浜市中区へ編入された際の祝賀式の写真) 日野小学校0003(昭和時代の木造・2階建て校舎の上棟式の写真) 日野小学校00021(大正時代の写真) 日野小学校0002(大正時代の写真) 日野小学校00011(明治・大正時代の校舎の位置) 日野小学校0001(明治・大正時代の藁葺き屋根・平屋建て校舎) <タグに 日野小学校 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/136.html
年代 ? 金沢道(笹下・釜利谷街道)の様子です。 現在の駒井病院の辺りでしょうか? 懐かしい -- 杉浦 (2010-06-01 21 37 16) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/11.html
コメントプラグイン @wikiのwikiモードでは #comment() と入力することでコメントフォームを簡単に作成することができます。 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/17_60_ja.html たとえば、#comment() と入力すると以下のように表示されます。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/258.html
鎌倉街道 関の下交叉点です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/276.html
・道祖神 所在地:下永谷 田向の稲荷社 道祖神は道の神、悪霊の侵入を塞ぐ神ですが、縁結びや夫婦和合の神格 も持っています。小正月にはこの前で「サイト焼」が行われました。 この像はとても愛くるしいお顔ですが、文字塔、僧形・神像もあります。 享和3(1803)年造立
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/108.html
北条実時とうなぎの井戸 (笹下) bgsound 鎌倉時代に、称名寺や、金沢文庫を建てた、有名な武将、北条実時にまつわるお話です。 その実時が、建治二年(1276)の5月に重い病にかかりました。海に近い暖かい金沢の地で、懸命に療養を続けていましたが、病いは少しも良くならず、重くなるばかりでした。 実時は、なかなか良くならない病いをなおすため、日頃信仰している、紀伊の国(和歌山県)の那智山の如意輪観音に、願をかけることとし、家来に命じました。 家来が、那智山にこもり懸命にお祈りをしていると、その願が明ける7日に、実時の夢の中に観音さまが、お姿を現わし、 「今度の病いはお前の運命なのです。だから、どんなによい薬を飲んでも、良くはならない。だが、日頃のお前の信仰に報いるために、よい薬を与えよう。ここから西北の方向、2里(約8キロメートル)ほど離れた所に、古井戸がある。その井戸の水を飲めば、たちまち良くなる。また、井戸には頭に模様のある、うなぎがいる」 といって、お姿は消えました。 夢からさめた実時は、急いで観音さまの言われた井戸を見つけて、水を持ってくるように家来に命じました。 家来は、お告げのあった場所を探しましたが、あたり一面、草や木が生い茂り、人に聞こうにも家もなく、ほとほと困っていると、年老いた村人が現われ、井戸のある場所を、教えてくれました。 草むらを押し分けてみると、古井戸があり確かに、頭に斑点のあるうなぎが泳いでいます。急いで水を汲み、老人に礼を言おうとすると、その姿は、煙のように消えていました。 その後、不思議な古井戸は、「うなぎの井戸」と呼ばれ、病いになやむ人たちを助けましたが、実時の死後、いつの間にか、うなぎの姿は消えてしまったと、伝えられています。 いまもその井戸は、古くから人々に「かねさわ道」と呼ばれている、関のバス停近くに、ひっそりと残されています。 その井戸は、実時と共に時代の移りかわりを、じっと見まもっていることでしょう。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/8.html
動画(youtube) @wikiのwikiモードでは #video(動画のURL) と入力することで、動画を貼り付けることが出来ます。 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/17_209_ja.html また動画のURLはYoutubeのURLをご利用ください。 =>http //www.youtube.com/ たとえば、#video(http //youtube.com/watch?v=kTV1CcS53JQ)と入力すると以下のように表示されます。