約 1,660 件
https://w.atwiki.jp/post_map/pages/357.html
高輪郵便局 読み仮名:たかなわ 郵便番号:〒108 集配地域:東京都港(みなと)区の旧・芝(しば)区のうち三田域、高輪(たかなわ)域、港南域、白金域の普通のポストの管理配達およびコンビニポストの取集。 1.jpg 高輪郵便局局舎 2,jpg 高輪郵便局取集時刻掲示 達成状況[20**年*月**日現在] 普通のポスト ●マッピング済1本。撤去**本。 コンビニポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 ポスト考察 ●二口のみ。 ポスト番号考察 ●高輪郵便局の前のポスト番号は0-1。 設置傾向考察 ●編集中 取集時刻考察 ●編集中 取集ルート考察 ●編集中 時刻などの掲示 ●編集中
https://w.atwiki.jp/undercurrent/pages/58.html
【2ch/心霊スポット】 223 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2005/10/06(木) 18 07 17 ID hyJHwG1p0 港南区の日野霊園のそばに、 かなり雰囲気のある養護学校がありますよね。 周囲が土手みたいに囲まれてて、なんかちょっと異様ですね。 あそこは何か噂ってないのかしら。 あとは瀬谷区の養護学校も、 むかし処刑場だったそうでいろいろあるらしいですね。 ちょっとローカルですが、小田原市の国府津にある精神病院も、 すこし怖いような感じがする場所です。 知っている人いないかな。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/284.html
○石造物の種類 ①石 塔=五輪塔、宝篋印塔、灯籠、鳥居、石祠、板碑、記念碑 ②石 仏(狭義)=・庚申塔(35%)、 ・道祖神(6%)、、 ・馬頭観音(21%)、 ・地蔵・六地蔵(10%)、 ・廻国供養塔(6%)、 ・地神塔(5%)、 ・その他(17%): 日月待塔 、道標、地蔵
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/239.html
桜岡小学校は 昭和17年までは中里町(現在の横浜市立南小学校の場所)にありました。 昭和初期の学校を背景にした子供たちです。 学校の周りも「たんぼ」でした。 私が6歳ごろ生徒が多く2部授業でした。 -- 井上信夫 (2016-03-15 05 37 11) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/241.html
昭和46年頃、桜岡小学校より上大岡駅方向を望む。 街の景観です。 昭和34年頃撮影の桜岡小学校0110(上大岡京急分譲地の歴史1) の写真と見比べて下さい。 遠くに既に入居が始まった森ケ岡住宅地が望めます。 先代の上大岡駅ビルと三越のビルの2棟だけが大きい建物です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/92.html
勝海舟の書 ―永谷学校― (上永谷) bgsound(http //www19.atwiki.jp/konanrekishi/pub/katsukaishu.wma) 今から百三十年ぐらい前のお話です。 江戸幕府と言って、武士が政治を行っていた頃は、今の学校にあたるものは寺子屋でした。子どもたちが通い、「読み」、「書き」、「そろばん」を習いました。 しかし、女の子や貧しい家の子は、なかなか行かれなかったようです。 江戸幕府の政治は、新しい世の中についていけずたおれました。 新しく生まれた明治政府は、新しい政治を次々と行いました。新しい学校制度により、寺子屋にかわる『永谷学校』ができ、その『永谷学校』という学校名を、勝海舟というとても偉い方が書いてくれました。 この「書」が、いまも横浜市立永野小学校の宝物として、たいせつに残されています。 この勝海舟という人は、「黒船」がわが国に貿易を求めてやって来たころ、西洋の学問や海軍のことを学んでいました。 幕府の役人軍艦奉行になり、咸臨丸という幕府の軍艦の艦長として、日本人による太平洋を横断した最初の人です。 幕府が倒される時は、新政府軍の西郷隆盛と話し合い、江戸城を明け渡し、攻撃を中止させて、江戸の町民や江戸城を戦火の緋那から守りました。 また、新しい明治政府では、海軍卿など大事な任務につき、江戸から明治にわたる、二つの時代にまたがる大政治家でした。 こんな大政治家が、こんな小さな『永谷学校』の校名を書いてくれたいきさつには、次のような平野玉城と永谷学校にかかわる出来事がありました。 玉城は、江戸に生まれ代々江戸幕府の家来でした。慶応四年(1868)の夕がたごろ、下永谷の村長福本さん宅へあわただしく、 「たのもう」 と、飛び込んで来た者があります。 「私は江戸幕府の役人で勝海舟の家来、平野玉城と申す者。幕府を倒すために江戸城へ進撃中の新政府軍西郷隆盛の動きをさぐるためにきたところ、敵方に見つかってしまい、この永谷へのがれてきました。ぜひ私をかくまってくだされ。お願い申す」 「よろしい!」 福本さんは立派そうなこの武士を、醤油蔵にかくまってやりました。 しばらくすると、政府軍の兵数名が来ました。 「確かにこの家へ幕府方の武士がやって来たようだが、すなおに居場所を申せ!」 「おおせのとおり、今しがたこの玄関へやって来て、ためらっていましたが、何も言わず、すぐに右手の竹やぶの方へ消えて行きました」 「さようか!?」 強そうな二人が残って、他の者は竹やぶへ飛んで行きました。 母屋、物置、蔵と屋敷中を探しましたが見あたりません。 「さては、取り逃したか」 一同は引き上げて行きました。 「ああ助かった!」 玉城は命拾いをしたのでした。 5年後、玉城は命の恩人、福本さん宅をお礼に訪れました。そして、村人たちとも当時のことを話し、懐かしみました。 この方に永谷の寺子屋の師匠をお願いし、子どもたちの手習を頼みますと、こころよく引き受けてくれました。 翌、明治6年、玉城師匠は村人のすすめで永谷学校の先生になりました。 先生が就任すると、入学者が急にふえました。 建物が狭くなり、父母たちは見るにみかねて、明治12年、永谷村に永谷学校の校舎を村人の手で作りました。 玉城先生は、その落成記念式にあたって、むかしつかえた師匠勝海舟に、永谷学校の校名の書をお願いしました。 喜んでお受けくださり、さっそく送られてきました。 日本の夜明けの一大政治家勝海舟も、玉城の恩人ともいえる村長福本さんのことをよくわかってくれていたのでしょう。 やがて明治22年、永谷、下野庭、上野庭の三村が合わさって、「永」と「野」の二字をとって永野村が生まれました。 それにともなって校名も、『永谷学校』は『永野学校』とかえられましたが、今もこうして、『永谷学校』の伝統の書が残っているわけですね。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/98.html
鎮魂の句碑 (笹下) bgsound(chinkon.wma) 昭和も太平洋戦争直後のお話です。 笹下町の日下小学校前の道から大岡川の方へ下って行くと、古い曲田橋へ出ます。むかしを偲びながらこの橋を渡って行くと、成就院のお寺の山門が見えてきます。 むかし、間宮氏が築いたといわれる笹下陣屋の門を移したものと言われています。 この寺の名は「梅花山成就坊」(後に成就院)といいますが、梅の花と境内の美しさから、今まで呼ばれていた「曲田山」を「梅花山」と名を改めたということです。 この山門のすぐ脇に、この地域の方々の悲しくも美しいいわれのある句碑が建っています。 激しく戦われた戦争に、笹下の若者たちも戦場へ駆り出され、何人かの戦死者を出しました。 この地域の人たちは、勇敢に戦い、若い命を散らしたこの霊を慰め、永遠に戦争をなくし、平和を守ることを誓い、碑を建てました。 その気持ちが、この碑の形や碑文の表現ににじみ出ているのです。 戦後の当時は、進駐軍の占領下にあったため、日清、日露戦争や満洲事変後に各所に建てられたような忠魂碑を、自由に建てることができなかったのです。人々は知恵をしぼり、俳句の形で、戦死者の鎮魂の碑を建てることにしました。 そこで、横浜で有名な俳人大野林火に碑文をお願いしました。すると、意味深いこの碑文の句が詠まれ、送られてきました。 地域の人たちはこの立派な俳句によって、この気持ちを永遠に残すことにしたのです。 句碑は次のような句文です。 林 火 猛り鵙 松籟にいま 鎮まりぬ 秋が訪れ、鵙が大きな松の木の枝で、キキキッ、と甲高い声を張り上げて鳴いている。 秋風が松の枝をゆらし、音を奏でて吹き抜けて行く、鵙の高鳴きが静まった。 若き御霊よこの故郷の地に安らかに眠れ! 平和よ、永えに! 実はこんな深い意味を持つ句碑だったのですね。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/141.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 昭和4年に建設された木造建て校舎を壊す際の写真です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/268.html
日下小学校には笹下・日下地域の昔の生活を偲ぶ、民具・農機具等地域の方々から寄贈された品々を展示している資料館を設置しています。 詳しく、下記のPDF資料をご参照して下さい。 日下小学校郷土資料館 .pdf
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/14.html
年代 昭和44年 場所 永野小学校下交差点付近 環状二号線 名前 コメント