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火葬した灰をばらまく日本と土葬の韓国、韓日葬儀文化の違い~イ・ナムギョの日本語源流散歩42 韓国の葬儀文化はまだ古代から伝わる土葬の慣習のため、社会的にも国家的にも大きな悩みの 種だ。国土は限定されているので山ごとに墓地を作るから林野管理はもちろん、このままいけば 100年も経たないうちに使えそうな山は丸ごと墓地が占め、生きた人間が使う土地より死んだ人が 占める土地がさらに多くなるだろうと嘆く人々が多い。最近は少しずつ火葬が増えているが、国家 的にも格別な対策が必要だ。マスメディアや政府もこれに対する問題を切実に感じているけれど、 誰もこれの改善のために強力な主張や対策をたてる人がない。なぜなら、そのような話をすれば 「それではあなたはそうするのか?」と聞かれることが恐ろしいからだ。実際に偉い人から自分の 今日の成功は「ご先祖様のおかげ」と信じて、出世すればするほどより一層、墓地をさらによく面 倒をみて世話をするのが「子としてのつとめ」と考えるためだ。 ところで日本の場合、天皇家以外は土葬がなくて丸ごと火葬にする。これも明治維新の時に変え た習慣で今は日本の高官といっても例外なく全部火葬にする。桜の花が散るようなさわやかな葬 儀文化だ。 葬儀文化もよく見れば韓国と日本ではっきりと違う。日本の葬式はたいてい仏教式で、式典には 必ず黒い礼服を着るべきで、香典は過度でなく古いお札で準備しなければならない。万一新しい お札で出したり多額を出せば、「よく死んだ」というお祝いの意志表示になるが、私は韓国ではこう した話を一度も聞いたことがない。そのように見れば日本人たちは生まれる時は神社に行って一 生の幸福を神に祈り、結婚する時はホテルの中にある教会に行って神父様に誓約し、死ねば僧 侶を呼んで極楽浄土に行くように念仏する、こういう分離した信仰は本当に「日本人らしい合理的 な(?)考え方」に違いない。 ところで本当に申し訳ない話だが、私は今でも私たちの先祖に対する祭祀(チェサ)を何台まで行 い、またいつまで行わなければならないかよく知らない。私が3男であるためもあるだろうが、家ご とに風俗が違って祭祀法が違うからどれが正式なのか全く理解できない。ところで日本は死んだ 初年度は49日、100逸材を過ごして、1周忌、2周忌、3周忌をつとめた後は7年、13年、17年、 23年、25年、27年、33年の命日に祭祀を行い、50年を最後に成仏したといって納骨堂の中の灰 まで丸ごと取り出して周辺にばら撒いて完全になくす。 そのようにして次の人が入る席を作るのだ。だから家族の納骨堂一つだけあれば家族が代々引 き続き使うことができる。こういう葬儀文化は国土の効率性のためにも私たちも一度、汎国民的に やってみてはどうだろうか? 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/cul/20091020_151741000.jpg ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-42]韓日の葬儀文化 http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=45708 yy=2009 (編集者注) 「納骨堂の中の灰まで丸ごと取り出して周辺にばら撒いて完全になくす。」とは「散骨」のことだと思われます。 参考・・・散骨 - Wikipedia
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両班(ヤンバン)と侍(侍)~イ・ナムギョの日本語源流散歩25(機械翻訳) よく日本は 刃物の歴史 であり韓国は 筆の歴史 と話す。 刃物の主人公が 侍 ならば筆の主人公は 両班(ヤンバン) とすることができる。 侍と両班(ヤンバン)は両国全部支配階層であり身分が高いという面では同じだが,その過程には厳格な差がある。 日本の侍は生まれる時からその身分が明確に決まるすなわち,大名(君主)や将軍家で生まれれば大名や将軍になって,無事家で生まれれば侍,平民や賎民は先祖代々その身分から抜け出すことはできない。 しかし私たちの両班(ヤンバン)は全く違う。私たちの両班(ヤンバン)制度は平民ならば誰も皆両班(ヤンバン)になることができることだ。 過去試験 という制度があって誰でもこれに合格だけすれば両班(ヤンバン)になって,このような両班(ヤンバン)身分は息子と孫の3代まで続く。このように若干は民主的な方式を経て身分上昇の機会が与えられた韓国に比べて,日本侍はそのまま一族により身分が決定されたのだ。 韓国の人々が日本行って一番羨んでしょげるのは,このうどん屋は5代目80年になったとか,この陶磁器は14代目 400年になったとかという長い伝統に対して聞く時だ。私たちは私がした職業を子供孫に譲ることがきわめてまれなことなのに,日本は立派な大学を卒業して良い会社に通いながらもうどん屋の伝統を受け継ごうと職場を止めて帰郷する人々をたびたび見て,またそのようなエピソードが美談で時々新聞紙面を飾る。 ,それで日本がこのように発展するようだ。なのでその分野の専門家になるほかはないだろう,ウドンを80年も作るとは! 本当に といいながら皆が首を縦に振って感心班尊敬班で心までぴったりchop日が沈む。それと共に一方では私たちのトゥムジクソンオムヌン伝統と薄い文化に慨嘆までする。 両親がしてきたので嫌いでもそのまままねなければならないという日本式伝統は日本社会の歴史をまともに見抜かずにはそのまま限りなく長所にだけ見える。 日本史を見れば近代に至るまで厳格な君主制で,大名すなわち君主らが各々牛王国のように国を経営していた。大名らは独立採算制だったために,万一自分藩で塩焼く人がなければその塩を隣バンで高く買ってこなければならないので自給自足のために代々その職業を継承するようにした。したがって国民らに職業を変えられないように規制して,マンイルを反すれば死刑に処したし,逃亡でも打つならば賎民で転落するから国民らはそのことを継続するほかはなかった。 私たちのようにある程度職業移動が可能だった社会ではなかった。 [2009/06/24] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-25]両班(ヤンバン)と侍(侍) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=28342 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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肉土(土)が 佐藤(さと, 里) で~イ・ナムギョの日本語源流散歩46(機械翻訳) 故郷があると言うことは本当に良いのだ. 遠く去る暮しても常に幼い時遊び回った故郷は思い浮かぶことだけでも心の平安と休息を与える. そして韓国の人々は遠く異国に出る肉の時呼びながら涙を流す歌がある. それはであったから少ないこともないがそれでも一度重ねて言う心情で使って見る. "〓私の住んだ故郷は華やかになる山里, 桃花杏の花赤んぼうつつじ.〓〓川辺りには糸柳踊る町内, その中で遊んだ時が懐かしいです.♪" 陰鬱な時も, 嬉しい時も, 懐かしい時も, 何か息苦しい時も, この歌を歌えば胸が暖かくなる故郷の幼かった時代が香ばしく感じられる来る. なぜだろう? それは希望多かったオリン時代住んだ所だからだ. 特に在日韓国人たちは悲しい歴史の主人公なのでそうか祖国に対する愛着は他の人々よりずっと大きい. 節日ごとに民団に集まる踊る人々の姿を見るあっていたら自然に涙が出る. 住んだ所 は 住んだ地(土) を言いながらこれは 肉土(土) なのに, この言葉が変わって日本語の 佐藤(里) すなわち, 故郷 と言う(のは)話になる. 故郷を背く遠く去る人々はすべてそれそれなりに理由があるのに, この 理由 は日本語で わするように と言う. これは慶尚道方言の わするように, ワカノ-, 瓦解 すなわち, どうしてそうだから が弁韓言葉だ. 故郷で睦まじく過ごした幼なじみはいつのまにか青春になる, 丘の上に流れる雲を眺めながら飛ぶヤマドリと谷の物価の踊った手探りして, 遠い後日を約束する 空が 私遠くで悲しい様を送るのに, ここで 空が は日本語で ハルカ(はるか) になる, 遥かに, あの遠く という意味だ. 故郷に一人きり立つことは彼女は見たい心情をなぐさめる道ないなつかしき心に 静かに 動産に登って様いらっしゃったゴゲッマルに向けて祈る日が多くなる…. ここで 静か と言う言葉は 所要(そよ) で 静かに動く姿 を言う. ボムがウルはそれほど流れるそれでもグリウォで耐える事ができないa時には一枚の手紙に心を伝えるのに, 日本では女人たちの手紙語尾に 刺する (かしこ)と書く. ここで 刺する と言う韓国語の いらっしゃる で, 今日韓国語にすれば よく行くように になる. 古代には "アラアラいらっしゃる"と言ったが, この時 アラ という言葉の よ は 大きい, 高い で, だと は 神さま, あなた で, 二言葉を合すれば 偉い神さま, 大きいあなた と言う(のは)話になって, したがって アラアラ刺する (あらあらかしこ)は 高い君だ, よく行きます または 偉い神さまがあなたというにいらっしゃるのを と言う(のは)意味になる. これは英語のグッドバイ(Good bye)や, 只今雨ウイド油(God be with you) すなわち 神さまがあなたというにするのを のような意味で使われたのだ. ところが アラ (あら)という言葉は今も日本女性たちがよく使うですね, 軽く驚いた時 アラ! と言う. この言葉は あ, お御輿司馬 という意味で, 英語の マイ冠(my god) のような用途の使い方だ. [2009/11/18] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-46]肉土(土)が 佐藤(さと, 里) で http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=49693 yy=2009 ※この記事はinfoseekの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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木綿と柳(柳)~イ・ナムギョの日本語源流散歩14(機械翻訳) 故大魚には衣類に関するおもしろい言葉もたくさん残っている。 私たちの韓服には粋で長く伸ばして浮かび上がるだろうはひもがあるのに,この 膿 が日本で行けばそのまま 服 という(のは)話の コロモ (衣)となる。 小売り(そで) とは 牛のに (袖), 針 とは 下痢 (針), 織機 を ハタ (端), 縫う とは 迷惑右 (縫う), 無名 とは 某担いだ (木綿), 苧麻 とは 無視 (苧), 今しがた とは 歌詞 (笠), どんぶり とは 紗羅 (皿), 瓦 とは 行ってきなさい (瓦), 御輿(窯) とは 御輿(窯) (釜), ナベ とは ナベ (鍋), 焼く とは クベル (焼る), 銅(九里) とは 行くよ (銅), 鉛 とは ナマリ (鉛), 鉄 とは テス (鉄), 鎖 とは クサリ (鎖)でこうした話らは遠い古代には全部同じ発音であったのを知ることが出来る。 この文を書いている今は春だ。 外には暖かい日差しがあふれて,淡い葉を芽のふり泣くヌンスボドゥルがはためいている。 このヌンスボドゥルを日本語では 柳 (柳)というのに,その語源は韓国語の 年限期 だ。 淡い木 ,こういう考えてぼんやり外を見ていていたら故郷川辺のポドゥルが思い出す。 "そうとも! この気持ち焚いた。 後方の山に行って 残ること してこいとのおばあさんのお言葉に籠を持って後方の山に行っただろう。"とても遠い昔のように感じられる私の幼い時期! 国民学校1,2学年の時ぐらいであったか? 今は記憶も特使米沙下(サハ)だ。 古代の百済や新羅時代と政経が必ず同じだったその時期! 長い長い冬の夜灯皿明かりをつけて勉強しようとすればオオカミらが群れを成して村に降りてきてそうするときは子犬らは床下で忍びこんで,ぞっとしたなき声のために恐ろしくてふとんをかぶって外にも出て行かなかったその時思い出が生々しい。 その中でもとても強烈に残っている思い出があるならば,それは虎と二人だけでぶつかり合った事件だ。 残ること しに後方の山の渓谷で行って一人で松かさを拾って何かソムチタン感じがして上(胃)を見つめると,3,4mにもなる絶壁の上側の横になった松の後岩で小牛ほどの虎がにらんでいるのではないか! 明らかに縞があったし赤々と燃えるまなざしは一気に圧倒されるほどの威勢であった。瞬間的に感じる危機に背筋が寒くなりながらも松かさをぎゅっと握って共ににらんで,そっと後ずさりをして上手くも無事に逃げて出たその時があたかも夢のようだ。 多分その虎は結局お腹がすいていなかったことだろう。 私は時々難しいことがあれば それしきのこと何? と考える。 虎にも抜け出した私なのに という自負心が後から支えるためだ。 そういえば自然も,言語も,そして私も今はあまりにも変わってしまった。 "木を 残ること といったところで-. それで スベスベするように揺れる淡い木 を 年限嵐気⇒年限期 になったことで,その 年限期 が変わって 柳 になったよ。 音,果たして! そういえば木の特性をよく把握して作った素敵な名前だね! ところでどうして韓国語の 年限期 とは バードを に変わったのだろうか?" その理由はもう少し調べてみなければならないことだ。 [2009/04/08] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-14]木綿と柳(柳) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=15674 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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日本語の「アゴ」は「アイゴー」から、目・鼻・口は古代伽揶族の言葉~イ・ナムギョの日本語源流散歩33 私は「イウとキク」の回で韓国語の「口(イプ)」という言葉が日本語では「イウ」つまり「言う」という意味 になったといった。それでは日本語で「口」を意味する「クチ」という言葉はどこから生じたのだろうか? この言葉も実ははるか昔に渡来した古代伽揶族の言語であった。伽揶と言っても1,000年余りの歴史 を持つので、弥生時代と旧石器時代の伽揶人の差はそれこそ新羅と朝鮮時代程度のギャップがある。 最初に日本に渡来した古代伽揶人らは生活に必要な若干の基礎言語しかなかったと見られているが、 そのような言葉はたいてい物の形や特徴のようなものをまねたものだ。例をあげれば、「ホホ」と笑う ほおの形を見てほお自体が「ホホ(頬)」になり、「ハナ」は「1」の意味で鼻の形も「1」と同じだから「ハ ナ(鼻)」、指先で目を引き上げて恐ろしい表情をつくり「メエ」したことで「メ(目)」、額は白いから「ヒ ダ」で「ヒタイ(額)」、息を「ハッ」と息を吐き出せば見えるから「ハ(歯)」、いたずらして耳をつまんでひっ ぱられ痛くて「ミン」したのが「ミミ(耳)」。 「口」はいつも食べ物が入るのを待っている「コジ(乞食)」だから「クチ(口)」、「首」は「おまえも(ノド)」 食べ物を飲み込む通路だから同じ乞食として「ノド(喉)」、「手」は汚いものに触るから「トロウォ(汚く て)」が「テ(手)」、腕は腕力を自慢して力を入れ「オデ(どうだ)」というので「腕」、首は曲げ(クビダ)ら れるの「クビ」が「首」、「あご」は一発当たって痛くて「アゴ」(訳注:表記はアゴだが、記事表題からアイ ゴーと思われる)と言ったので「顎」、「膝(ヒザ)」は曲げたり伸ばしたりよく曲がるから「フィジ」が「ひ じ」、「舌」は話の種を持っているといって「シダ(種だ)」が「シタ(舌)」、「頭」は色が黒いから「コムダ(黒 い)⇒カムダ」で「カミ(髪)」。 このように基礎的な言語ができ始めた時は原始狩猟時代で、種族間の戦闘が熾烈で殺し合うそれこ そジャングル社会であった。したがって古代の戦闘は相手側の男たちはみな殺しで女たちを戦利品と することが特徴で、敵方の女性は捕らえて行って全部妾にした。そこでできた言葉は、韓国語の「妻」 を意味する「アネ」が「姉」になり、その妹も妻にして「叔母」を意味する「イモ」から「イモコ(妹)」という言 葉も生じる。こういう言葉の形態を見れば、古代は非常に強い男性優位社会だったことが分かる。 「恐ろしくて震える」を「オビエル(おびえる)」というが、この言葉は「オビ(父)」から派生した言葉でオビ すなわち「親父=お父さん」ということだ。「オビエル」は「オビミエル(父見える)」すなわち「お父さんが現 われた」という言葉が短くなった言葉で古代の父親は恐れの対象だったということだ。そして怖がり震 えることを「オドゥロドゥル」というが、日本語では「おどおど」であり、「ぶるぶる震える(ポルボル トン ダ)」は「ぶるぶる」だ。 慶一大総長・イ・ナムギョ ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩33]「アイゴー」から「あご」 http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=36680 yy=2009
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イラッシャイ(いらっしゃい)~イ・ナムギョの日本語源流散歩6(機械翻訳) 日本を初めて訪問する韓国人らが最も新鮮に感じる2種類挨拶の言葉があるのに,その一つは イラッシャイ (いらっしゃい)であり,また一つは アリガト (ありがとう)だ。韓国語で翻訳すれば いらっしゃいませ と ありがとうございます であるが,食堂に街道デパートに街道どこにガーデン聞く人要人のおかげで,日本を嫌った韓国人らも賞賛を惜しまない。 そして何日間旅行をしていればいつの間にかこの言葉に中毒して人々に会う時にこの話しかけなければ何か不足して何となく寂しい感じすらするのは,親切な要人礼法の新筒の魅力のためであろう。 故に日本人たちが韓国にきて商店に入った時,どの言葉も渡さなければどれくらい不安に思うかを私たちは分かって推し量らなくてはいけない。 ところでこの イラッシャイ (いらっしゃい)はどうして聞けば イリオ小異 と聞こえないか? そのように考えて聞けば ,そうだな と帰宅ひらくだろう。実に,この話(言葉)は慶尚道(キョンサンド)のアクセントがいっぱいのせるだろうは このようにオ牛例 が変わって良い言葉だ。 1970年代までしても慶尚道(キョンサンド)や地方(脂肪)を旅行すれば こっちにきて,裡里(イリ)キュウリ所,このようにオ牛例,このようにオ・ソイ のような特有の放言がたくさんあったが,今日はメスコムの発達で全国がソウルの方言で統一されていきつつあって地方(脂肪)ごとの放言は順次消えている。 それで アリガト という(のは)どこから出てきた話であろうか? 古代韓国語でとは'お父さん'ので, 高貴な という意味で, リ とは 私たちの の リ で 人 を示す言葉だ。 伽陀 とは 同じだ という話だ。 したがって アリ伽陀 とは 高貴な人のようだ という言葉で,この言葉が変わって ありがとう という意の アリガト (ありがとう)になったのだ。 私は日本に嫁にきた韓国人らから"それでも韓国が良いです"という話をしばしば聞いた。彼らは一様に韓国に行けば基本礼儀を守らないことが多くて機嫌を損ねる時も多いが,あった通り胸取り除いて率直に生きるから人生きるようだが,日本は秩序を守って自分がすべきことだけすれば気を遣うことがないから気楽だけれど,互いに弱点を見えないと努力して,表面にだけつきあうからまったく征夷入らないということだ。 それでこれを畑に比喩すれば,韓国は 砂利混ざった斜面畑 同じで,日本は 沃土で覆われた岩盤 同じだという。 しかしとにかく人を配慮して自身を自制することができるのは現代を生きる私たちにあって,特に韓国人にいて最も重要な徳性にならなければならないようだ。 私は イラッシャイ , アリガト′ガ日本社会を生きる喜びを感じるようにする言葉の真の塩だと考える。私たちもこういう塩をもう少し多く使って それでも を抜いた 韓国が良いです を作り出せば良い。慶日対総長 [2009/02/11] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-6]イラッシャイ(いらっしゃい) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=6401 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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日本人が「ネ」を多用する理由は渡来人に頭が上がらなかったから~イ・ナムギョの日本語源流散歩39 韓国語「ネ(네)」を日本語に直訳すれば「ハイ(はい)」という意になる。ところで本来、日本語の 「ネ(ね)」は「ハイ」という意味ではなく、相手の同意を求める補充語で韓国語の「ウン(응)」と同じ用 途で使われる。例えば「それが良いね。ウン」を日本語では「ソレガ イイ、ネ」と言い、ここで「ネ」 は「ウン」と同じ意味だ。 (訳注:韓国語で「ネ(ー)」は目上の相手に返事するときの肯定の言葉で「はい」「イエス」の意味。「ウン」は同様に肯定だが、同年輩や目下の人に答える時や答えを求める時に使う。) 日本で生活して日本人がこの「ネ」を意外にたくさん使うのを見ると、初めはそうなのかと思うだけ だが、しだいにこれが日本人たちの「重要な意識構造」であることを発見するようになる。我が国 の人々はそのまま言いたい話を思い出し次第とことんするが、日本の人々は全く違う。 少し話して相手が相槌の「ネ」を言ってこなければ必ず相手の顔色を見て「そうなの」と同意を求め るこの「ネ」を使ってみることだ。これは次の話をさらに続けても良いかどうかを確認する言葉だ。 この時、相手方が「ネ」とトーンを少し上げれば「そうだ、ね、話が合う」という意味で「続けて」という 意味になるが、何の反応もなければそのままそこであいまいに終わってしまう。 もちろん私たちもこの「ネ」と同じ意味の「ウン」という同調語を使うが、あまり頻繁に使えば子供の ように見え、また軽い人のように感じられるから時々特別な場面だけで相槌をうつのに使われる。 それではどうして日本はずる賢いほどこのように「ネ」を連発するのだろうか? はなはだしくは女同士が会えばすぐに「ネ、ネ」というだけで高低だけ調節して話の前後左右を省 略して対話を続ける。そばで聞くと、いったい何の話なのかは分からないが、二人には話さなくて もすべて分かる以心伝心で通じているのだ。 それではこの「ネ、ネ」はどこからきた言葉であろうか?この言葉は弥生時代からの古代言語で渡 来農耕文化を習った原住民らの習性から始まったものだ。農作物の種をまいてから収穫するまで の一連の過程を習い、その度ごとに「このようにするのがよいですか、ネ」「 そうです、ネ」と同意を 求めた言葉で、これが前の言葉が省略されて「ネ」といったのが徐々に固定化されたのだ。 万事自分の意見より相手の意見を伺い、見回すこの習慣は支配者に対する被支配者の日常生 活習慣から始まったものと見られるが、それではどうして同じ意味の「ウン」という韓国語を使わず に、この「ネ(はい)」という言葉をその用途の代わりに使ったのだろうか?その答えは簡単だ。 それは「ウン」という言葉は同じ同調語であっても、相手が自分より低かったりまたは同じである時 に使う言葉で、当時、原住民らが渡来人らに「ウン」と言える立場ではなかったために尊敬語の 「ネ」で代替されたものと見られる。 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/cul/20090929_153114000.jpg ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-39] ウン が はい(ね) で http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=42741 yy=2009
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たてまえ(建前)とウン(ん)~イ・ナムギョの日本語源流散歩12(機械翻訳) 先週 ほんね (本音)と たてまえ (建前)に対して論じたが,本当に日本人たちは並大抵ではなくてその内心を表わさない。 それは長い間の忍苦の歴史の中で体得して感覚的に(なじむ)実らせた生活の知恵ともすることができる。 総てのことを我慢して忍耐して最後まで耐える者だけが勝利できるということを古代日本人たちはよく知っていたし,それが言語の姿に変わって現れたのが ウン (ん)という(のは)言語構造だ。 それで日本語は話の最後まで行ってみずにはそれが肯定なのか不正なのか,良いことか悪いことか,こちらなのかあちらなのかをまったく分からないようになっている。 例えば あるか,ないか を調べてみる時の韓国語は あります,ありません で話の最後まで安価も イッ,オプ でその結果が分かるが,日本語ならば アリマツ (あります) アリマ傾向(税)は (ありません)でその話の終着駅の ス (す) 数えた (せん)まで行かなければ全く分からないことだ。 日本人と結婚をしたある韓国女性がいるのに彼の最も大きい悩み事は20年を超えて生きてきた自分夫の胸の内が今でもどこにいるのか分からないということだった。 そのように永い歳月を一緒に暮らして子供が大きくなったのにいつも見れば昨日会った人のようだということだ。深い中を与えなくて常に弱点を隠そうと努力する夫を見て時々 一人で という孤独だということを感じるといった。それと共に韓国の友人らが夫と戦ったとかという不平を聞くときはそれがとてもうらやましくなることさえするという。 本当にそのように見れば韓国の人々は情が多い。 ちょっと親しくなれば腹の中まですべて見せているそのままをみな話す。 当初から率直であとくされがないのが特徴ならば特徴だ。 だから夫婦ならばさらに言うまでもなくお互いがお互いをあまりにもよく分かる。 しかし日本の人々は本当に夫婦の間にも分からないことがとても多いようだ。 この頃日本で流行する 定年離婚 とか ぬれた落葉 とかする言葉は現代であるためよりは日本人の性格から来る傾向がさらに多いようだ。 私たちは仲が悪かった夫婦といってもひょっとして夫が痛かったり挙動が具合が悪くなれば"こういう男内でなければ誰が世話するだろうか"と死ぬ時まで極力看護してくれる。 とにかく人が生きて 本当に よりより良いのがどこにいるだろうか? ちょっと住めなくても互いに本当に与えて生きるということがどれくらい幸せなものか! 私たちのお互い愛しよう。 そうするならば良い点だけ見えようと努力せずに,自らの弱点も率直に打ち明けよう。それでこそ相手方が痛い部分をさわって撫でてくれて慰労するのではないのか。 私は日本人たちの人生が日本語の ウン (ん)の構造を作って,その窮極点(店)に日本人の精神構造の ほんね と たてまえ が生じたことではないか考えてみる。 [2009/03/25] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-12]たてまえ(建前)とウン(ん) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=13309 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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汽車~イ・ナムギョの日本語源流散歩16(機械翻訳) 韓国語や日本語は漢字になった用語をたくさん使うから,意味も同じでまたこういう漢字用語らはたいてい音読であるから発音も似ている。例をあげれば,高速道路は 告訴クドウ迂路 (高速道路),汽車は キシャ (汽車),運転手は ウンテンシュ (運転手),外交官は カイコオカン (外交官),動物園は トブツエン (動物園),予約は ヨヤク (予約),有効期間は ユコオギカン (有効期間),下宿は ケシュク (下宿),人生は ジンセ (人生),病院は ピョオイン (病院),歴史は レキシ (歴史)等,ほとんどすべての漢字がこれに該当する。 ところで意味は同じでも一部漢字は変えて書いたりもするのに,次がそのような例だ。主人は 某分迷惑時 (持ち主),便紙は 縁加味 (手紙),約婚は コニャク (約婚),茶房は 襟サテーは (喫茶店),花草は 草場や (草花), 病勢は ポジョオ ,祖上は 小勢は (祖先に),陽傘は ヒカサ (日傘),病は ピョオキ ,丹楓は 煌この五 (紅葉),電子製品は なったカセぐすん (電化製品)等で,こういう例もとても多い。 そして似ていた話を繰り返す時日本語は私たちと順序を逆に使う場合が多い。来て行ったという 行ってきた で イッタリキッタリ (行ったり来たり),あちこちは チョギヨギ で アーチマユ (あっちこっち),座ったり逝去私は 立ったり座ったり で タッタリスワッタリ (立ったり座ったり),食べたり飲んだり増えた 飲んだり食べたり で ノンダリグッタリ (飲んだり食ったり),笑ったりウルゴナは 泣いたり笑ったり で ナイタリワラッタリ (泣いたり笑ったり)という。 4字熟語になった話もこのように変えて使う例が多いが,私たちの賢母良妻は 良妻賢母 で ヨサイケンボ (良妻賢母),男女老少は 老弱男女 で ノジャクダンジョ (老若男女)という。 また外来語の表現も韓国と日本が大いに違う。例をあげれば,私たちがよく飲む コーヒー を日本で コーヒー といえば日本人たちはコピーするという意の 鼻血 とわかる。それでコーヒーは必ず コヒ といってこそ通じる。英語のカン(can)は カン (カン),アパートは だけショーン (マンション),卑語(beer)は 鄙陋 ,セミナー(seminar)は チェ米 (ぜみ),バイク(auto bicycle)は バイク (バイク)という。 英語の ロマンス で取ってきた漢字 ロマン (浪漫)は日本が作った単語で,私たちもこれをそのまま受け入れて ロマン (浪漫)という。 近代文化を先に受け入れた日本は多くの新造語を作ったし,こういう用語らはそのまま我が国にも逆輸入された。 たとえば, ポエキ (貿易)が貿易, 長いより合わします (銀行)が銀行,′ワリビキ (割引)が割引, フアダリ (不渡)が不渡りなどで建築,土木,医学,経済,学術系統の大部分用語らは新しく日本が作った新造語らだ。 このように古代には私たちがした者を伝えたが,近代には日本が作った用語を使うように韓日両国はこのように好きでも嫌いでもお互いに影響を与えてすごした隣だ。 [2009/04/22] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-16]汽車 http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=17946 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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日本語の基本骨格は古代慶尚道方言、「ト クロンデ」→「ところで」等~イ・ナムギョの日本語源流散歩35 私たちの「荒城の跡」のように日本の人々が好む「こうじょうのつき(皇城の月)」という歌の歌詞に「イ ズコ(何處)」という言葉が出る。人生のはかなさを感じさせるこの歌を聞くたびに思い出す人がいる。 それは朴正煕(パク・チョンヒ)大統領だ。お酒を飲めば「荒城の跡」を歌ったといい、この「皇城の月」 の「イズコ」で強く虚しい感慨を感じたことだろう…。 私たちの古代語「オドゴ」が原形の「イズコ(何處)」は人生無常の哲学を内包した「オディニョ(どこへ)」 という意味だ。日本初の渡来人は伽揶から渡っていった関係で今でも日本語の基本骨格は古代慶尚 道(キョンサンド)方言で形成されており、現在でも聞けば日本語なのか慶尚道なまりなのか区別でき ない場合が多い。 慶尚道方言の特色の一つは言葉の前に「ト」字を付けることで、どんどん増えるという意味の「ト ノロ (また増えて)」と言うところを日本語では「ツノル(募る)」と言い「ますます激しくなる、より増す」という意 味、「ト モオダ(また集める)」は「ツモル(積もる)」で「積む」という意味だ。 また別の話を始める時「ト クロンデ(またところで)」というが、この言葉は日本語「ところで」であり、 「ト オチヨ(またどうしてです)」という言葉は「どうしょう」で「どのようにして」という意味だ。 「ト オチョルカ(またどうするだろうか)」は「どうするか」であり「ト オチォリャ(同上)」は「どうするや」と なる。「ト モハグ(また何して)」は「ともかく」であり「ト マルヘ(また話して)」は「とまれ」、「ラグ マル ヘ(と話して)」は「かくまれ」、「トモ マルヘ(トモ言って)」は「ともあれ」で「何といおうが」という意味だ。 このように発音も似ているが、意味もほとんど同じ用途で使われ、省略が好きな慶尚道の言葉の特徴 がそのまま今日の日本語の特徴になった。例をあげれば「クロケド(そんなに)」が「クケド」、これをさ らに減らして「ケド」というが、これを日本語にすれば「けれども」「けれど」「ども」になって、慶尚道方言 がそのまま日本語になったことが分かる。 同じように「クロタケド」の略語の「クケド」や「タケド」も日本語では「たけど」という。また「トクト オプタ (とんでもない)」の「トクト」も日本語では「とても」「とっても」「とんでも」などで場合により強調用法で使 われており、今日なら原作表記法に抵触して当然、訴訟のタネになるかもしれない? 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/cul/20090901_153948000.jpg ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-35]‘どこで’とイズコ(何處) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=38594 yy=2009