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人は生まれれば死ぬもの、天皇が死ねば「カクレル」~イ・ナムギョの日本語源流散歩49 日本は天皇が死んだ時は「死ぬ」と言わずに「かくれる」というが、この言葉は「天皇は死なずに、 身体を隠す」という意味を内包する。実はこれは韓国語「コクロジダ(転ぶ)」が原語で「ノモゾッタ(倒れた)」という言葉だ。 私たちは上の人が死ねば「帰る(ドラガダ)」というが、この言葉も実に語源をつき詰めれば「土に 帰る」という言葉で本来の家、すなわち「生まれる前の故郷に戻る」という意味だ。そのように見れ ば今生きているこの世は「旅人」ということだ。 人は生まれれば死ぬものだが、ある者は死ぬ時とても苦しんで、たまに舌をかむこともある。ここ で「クェロプタ(苦しい)」という日本語は「クルシイ」、「ケムルダ(噛む)」は「カム」であり、その意味 は韓日両国の差がない。 人は死ねばどうなるだろうか?韓国の人々はたいてい死ねば一番先に「死神がきて両腕を挟んで 連れて行く」と考える。そしてこの世とあの世の間の川を「チォムボン チォムボン」と渡っていくが、 膝程度までしかない川はそんなに深くもなくて霧がもうもうと立ちこめた川とのことだ。 ここに「チォムボン チォムボン」は日本語では「じゃぶんじゃぶん」であり、川の彼岸に先に行った 両親・親戚らがはやく来いと手をふり、それで閻魔の前に行って生前の悪業の報いの審判を受け る。この時、自分を弁護してくれるのは自分の先祖の中で最も立派な方だという。ところで韓国語 には「生きて鎮川、死んで龍仁」という故事がある。これは昔、朝鮮時代にある人が鎮川(ジンチョ ン)で生きて死んだ。しかし、死神が彼の寿命がまだ残っているのに間違って連れていったことに 気づき、慌てて送り返そうとしたが彼の死体はすでに葬儀をしてなくなっていた。しかたなくたった 今死んだばかりの龍仁(ヨンイン)の人の中にその魂を送り返した。 それで龍仁の人は死んで2日ぶりにまた生き返ったが、不思議なことに龍仁のことは何一つ知ら ずに鎮川に行くとずっと言い張って家族らが止む得ず村のお偉方のところに連れていって裁いた 結果、この人の魂が鎮川の人ということが分かった。それで村のお偉方は「あなたは生きている間 は鎮川で暮らし、死んだら身体を龍仁に回してあげなさい」と判決を下してできた話が「生きて鎮 川、死んで龍仁」とのことだ。 とにかく生まれれば死ぬということは神様が決めた道理だ!私たちもみんな死ぬ時に備えてもう 少し善良に他人を助けて、そして熱心に充実して価値あるように生きよう。 ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩49]カクレル http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=52876 yy=2009
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任那日本府、歴史は文明国から後進国に流れるのに逆を主張する日本~イ・ナムギョの日本語源流散歩50 人類4大文明の一つ黄河文明は中国の黄河流域から始まり、満州、韓国を経て日本に入ったこと は古代遺物、遺跡や歴史的事実などで明確に知ることが出来るにもかかわらず日本はこのような 文化の流れを認めようとしない。そのため、日本は韓日古代史の部分を論じるときは常に古代韓 国南部地方に「任那」という日本の植民地があったと主張する。これが「任那日本府」説だ。 日本の歴史書物を見れば「任那」とは「韓国高令地方や金海地方」を称する言葉で任那を文字の 通り解釈すれば「任意国」であり「ミマナニホンブ(任那日本府)」は「王様(イムグムニム)がいらっし ゃる国に日本府を置いた」という言葉で、日本はこれを反対に解釈して「日本が任那を置いた」と 言い張る。 今でも日本では「テパンブ(大阪府)」と同じ用語を使っており、昔は九州地域を総括するために福 岡近辺に日本「テジェブ(太宰府)」などを置いた。これは全部その地域を総括する地方官庁を称す る言葉だ。 それなのに、これをもし任那日本府式に解釈するなら、大阪府や太宰府が日本を派遣したという ようなもので全く道理に合わない。したがって「任那日本府」は「任意国日本府」すなわち「ニムの 国で日本に支部を置いた」とするのが正しい。 それなら日本はどうして、ごり押し主張をするのか?古代の日本と伽耶の関係を見る時、多くの伽 耶人らが日本に渡って行ったことはあまりにも自明な事実だから古代に伽耶を治めたという主張 は正しいかもしれない。しかし、ここで問題になるのはそのような中間過程を省いてあたかも日本 から渡ってきて伽耶を支配した時があったように逆に解釈していることだ。歴史というものは、水の 流れと同じで文明国から後進国へ伝播するので、どんなに言い張っても良いわけではない。 日本語に「自惚れる(チャマンハダ)」という意味の「ウヌボレ(うぬぼれ)」という言葉があるが、この 言葉の「ウヌ」は金官伽耶(本伽耶)が日本の九州地方に建てた「クノ(狗奴)」という言葉が変わった もので「ボレ」は文字どおり「見よ(ポラ)」という言葉で「クノボレ」であるが、これを解釈してみるな らば「私たちの大和国よりも小さくて醜いクノ国野郎らが偉そうな顔をしているよ、あれをちょっと見 ろって、醜いね」と皮肉ることの省略型だ。 互いに敵対した「大和国」の人々がクノ国を低くして見下したためにできた言葉で大和国の言葉が クノ国によって統一される前にすでに一般大衆にその根をおろしたものとみられる。「ウヌボレ」を 最近の言葉で言うなら「たいしたもんだ本当に、クノ国野郎ら」だ。 ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩50]任那日本府 http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=53961 yy=2009
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シカル(しかる)~イ・ナムギョの日本語源流散歩31(機械翻訳) 誰かがこういう話をした。 “ある飲食店に行って一度に自分をはっきりと記憶するようにする方法は何かをけちをつけてかなり叱り飛ばせば良くて,反対にいくらたくさん街道よく記憶できないようにしようとするなら片隅に座って音もなく静かに食事して出てくれば良い”で。 ‘果たして!…’気分が悪いことは楽しかった思い出よりさらに長く残るのだから。 菜園の雑草が生命力が強いように,話もやはりできなくて悪い話が生命力がさらに縫ったようだ。 次の話らがたいていそのようなリュに属しないだろうか? 子供たちが騒ぐ時よく‘騒々しい’というのに,慶尚道(キョンサンド)ではこれを‘うるさい’という。この言葉が日本に渡っていって‘クジンヌンダ,叱りつける’という意の‘シカル’(しかる)になるのに,これは古代渡来人らが子供たちに‘うるさい’といった話を‘叱りつけるようで’と分かりやすく解釈したところで起因するのに,九州の熊本(熊本)地方(脂肪)ではまだ原音そのままの‘シカと’(しから)といって‘面倒だ’という意味で使われる。 そして‘間抜け’は‘魂が出て行った人’で‘愚かな者’を称するのに,日本語では‘オロカ’(愚か)で‘愚かだ’という意だ。 また‘卑怯’は日本語で‘ヒキョ’(卑怯)といって,‘卑怯な者’は‘ヒキョモノ’(ひきょうもの)というのに,九州の鹿児島地方では‘おくびょう者’を‘ヒッカビ’(ひっかび)ともする。 ‘抜歯銅(九里)’の‘抜歯’は‘パルドゥィックムチ’を話して,‘銅(九里)’は軽べつする時使う接尾辞で今日‘いたずらっ子’に変わった。 ‘抜歯銅(九里)’の故大魚は‘パチグリ’,日本語では‘何時クレ’(端くれ)で‘端っくれ,破片’という意だ。 ‘ちょうど遊ぶ女’を‘ちょうど転がした女’というのに,この‘ちょうど転がした’が変わって良い日本語は‘パクレン’(ばくれん)であるが,これは‘仕業が悪い女’を示す俗語だ。 当然こういう女は‘からだを汚す’という意味が含まれているので,ここで‘からだ’の古代韓国語は‘米’であった。 したがって‘からだが汚い’という‘米に’ロ,これが日本語‘米らしく’(淫ら)になるのに,これは‘淫らだ,淫らだ’という話だ。 またここで派生した話が‘ミダレ’(乱れ)で,‘ほつれ,めまい,混乱’等を意味する。 私たちはののしる時,しばしば犬を工面するのに,今でも‘犬のような奴’といえばとても恥辱的な恥になる。 この‘晴れるか’も日本語では‘ケナス’(けなす)になって‘けなす,誹謗する,ののしる’という話だ。 慶日対総長 [2009/08/05] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-31]シカル(しかる) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=34899 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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”悲しみ”の語源は”貧乏民”~イ・ナムギョの日本語源流散歩21 人間の悲しみはどこから来るのだろう? 別離のような精神的な苦痛から来る悲しみよりも さらに悲しきことがあるとすれば、それは生存本能である衣食住の問題を解決できずに 起こる悲しみだろう。衣食住が解決されないことを一言で言えば 貧乏 である。 文明が発達した今日でも一日に1ドル未満で生活する人々が地球の人口60億中に15億人 もいるという事は 貧乏 は人類永遠の宿題なのかも知れない。そういった中でももっと深い 悲しみに沈んで生きて行く人々がいれば、それは自分の住んだ家や故郷や国から生命の 脅威を感じ、何も持てないまま古代に日本へと渡った伽揶族や多くの渡来人たちも厳密に 計算すればこれに当たるだろう。当時日本へと渡った人々を 渡来人 または 帰化人 と 呼ぶが、現代から見れば実は最初の ボートピープル となるわけだ。 今まで幸せに暮してきた生活の基盤を全て失い、新たに始まる新天地の生活では多くの 困難があっただろう。荒れ地を開拓し、全てを一から再び始めなければならない。それこそ 暮らすという原初的な生に、生命の脅威を感じながらもその日その日をかろうじて暮した 彼らにとって 貧乏 こそ 悲しみ そのものではなかったのだろうか? そのため 貧乏 と言う 言葉は日本に渡り スルプム(悲しみ) と言う意味の ”カーナーシミー(悲しみ)(訳注:貧乏 民という意味)”という言葉に変わるようになった。 言葉には魂がある という言葉を振り返り見て 貧乏 と 悲しみ と言う言葉を当てた古代の 渡来人たちの痛切な心情をうかがい知ることが出来る。 子供は育ち大人になると言うが、まったく最近の子供達はさらに早熟のようだ。子供が 幼い頃は こんな子がいつ大きくなるか? とっ言ているが、10代にもなれば声も変わり結構 背も伸びて、そんな子供たちを見 大きくなった と言う。 ここでの 大きくなる とは、日本語で”たくましい”だ。 これは 凛凛しい。雄雄しい という意味 である。それだけ大きくなった子供達は古代では山へ行き獣を捕るとか、敵と争って勝た なければならず自然と荒しくなるのだが、ここでの 荒しい は日本語で 凄まじい”であり 恐ろしい、凄い、驚くべき であって、その意味はさらに強まっている。 このように国語は海を渡ればその意味が深くなり増幅されつつ強まるのだが、これは恐らく 古代渡来人たちの生活ぶりと深い関連、関係があるようだ。 このように悲しい カーナシミー が奮起して たくましく 、 凄まじい に変貌していった古代渡来 人たちの進取的だった人生に力強い拍手を送りたい.。夕陽が地に沈んでいくのを眺めて ダジョガネ(押し固めていく) とつぶやいた言葉が、遠く故国を描く香水が添えられ 夕暮れ と 言う意味の 黄昏 という言葉を作った古代の旅人たちに一度会ってみたい。そしてタイムマシ ーンでも出来たら、そのように切なく暮らした故郷の山河を一度見せてもらいたい。 【韓国/コラム】李南教の日本語源泉散歩21回~”悲しみ”の語源は”貧乏民”[05/29] http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=23567 yy=2009
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うらさびしい と スサム(すさむ)~イ・ナムギョの日本語源流散歩48(機械翻訳) 昔のお婆さんお爺さんたちは天気が曇れば 日がぐずぐずするのね とか, 明日は構誣をガール という言葉をよく使った. 旧物だ が原型であるこの言葉は私たちの長年の昔からの古代語なのにこれを日本語にすれば 旧鉄敷 (くもる) すなわち 曇る という意味だ. そして今は 寂しい という言葉も ススルする, うらさびしい, うらさびしい と似ている言葉でたくさん使われたがこれまた日本語では 私費志井 (さびしい) すなわち 寂しい , スサム (すさむ)は うらさびしい , スズシイ (すずしい)は 冷ややかだ などで使われるありその流れも似ている. 私は日本語を聞く度に昔の田舍のなまりを聞く感じを持つ時が多いのに 〓つける と言う 〓ダンダです(たんだよ) , 〓負けた と言う 〓だ(ちゃった) , 〓欄だ は 〓つける(だんた) , 〓リョム は 〓欄(らん) などで言葉の済ますことがそのまま韓国語だ. こんな言いかたの言葉は私の幼い時お爺さんたちがたくさんしたが冬なら広間に集まる子をなうとか俵を打ちながら香ばしい話で這った夜をそれほど過ごしたがその中一つを紹介すれば次のようだ. 暮しながら気を付けなければならない 4種を毎日, 毎月, 毎年, 一生に一つずつ入ったら言葉だった. 第一, 毎日気を付けなければならないことは 夕方に食べ過ぎ だそうだ. 今思っても夕飯にたくさん食べれば太っている健康に有害だということは理にかなっている. 科学的に見る時万である 600g 太ったらそれに対する栄養供給と酸素を送るために細い血管が 12㎞も増えるようになるというのにそれでは心臓のポンプ行動もガングヘジョで結局健康に無理が来ると言う. それならいくらを食べることが食べ過ぎか? 簡単に言えば, 食べる時腰巻をふやせば食べ過ぎだ, 帯を外さなければ適当だと言う. 第二, 毎月気を付けなければならないことは 晦日に飲みすぎ イランらしい. 大気中の期(?)が半月には充満するが, 晦日にはゾックオジギのため育てる抜くお酒をこの時飲み過ぎれば相乗作用をイルウキョで身に有害だということも分かる. 第三, 毎年気を付けなければならないことは 冬の遠行 (遠行)だ. 多分これは冬には身のすべての部分が硬直される, 事故の危険性の大きいからではないか? 第四, 一生気を付けなければならないことは 夜話放射 (夜火放瀉)だ. これは 夜に電気をともしておく泣いて頼まない と言うのにこのようにすれば陰陽の調和がケジョで健康のバランスを失うからだった. [2009/12/02] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-48] うらさびしい と スサム(すさむ) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=51826 yy=2009 ※この記事はinfoseekの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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ワッショイ(ワッショイ)-新天地に無事に到着した喜びの歓声~イ・ナムギョの日本語源流散歩2(機械翻訳) 日本の祭り(マツリ)で省けないのは 米コーシー (御神輿)というかごとに。マツリだけなれば全村の人々が訓導時(下だけ分ける軽いパンツのようなもの)姿の原始的服を着て神霊を迎える御輿(窯)(輿)を押して引っ張って,老若男女関係なく ワッショイ ワッショイ とする力強いスローガンを叫んで通り(距離)を行進する。 このような姿は日本のあちこちで1年内続けて見られる典型的なマツリ風景だ。 ところでこういうマツリの ワッショイ というスローガンを私たちの韓国人らが聞けば間違いなく ワッソイ ワッソイ と聞こえる。 そして日本マツリの祈願も大阪付近のカワチ飛鳥(河内飛鳥)に席を占めた渡来人らの 丹芝里(タンジリ) から始まったという。 古代には日本を アシバラノ中津拘泥 (葦原中国)と呼んだが,これを文字そのまま解釈すれば 葦が生い茂った中間の国 という話になる。 ここでア市(詩)(葦),すなわち葦は古代韓国語で 新しい であるが,日本語集の を加えて アセ⇒アシ になって,望んで(原)は韓国語の ハチ で 原野 を意味して,これが ハチ⇒発⇒望んで で変わったものだ。 したがって アシバラ (葦原)は 新しいハチ ,すなわち 新しいハチ(土地) という意だ。 古代人らは日本を 黄泉へ行く中間ぐらいにある国 と考えたようだ。 それで日本へ向かう多くの古代人らは死を押し切った往来をしたし,海中間ぐらいに早ければ 死の意識 を行ったという。 それで無事に新天地にたどり着けば彼らはうれしくて無事に渡ってきた喜びを死なないで無事に ワッショイ と叫びまくったし,そのような喜びを全部共に分けたのが マツリ の祈願だ。 死を越えて渡ってきた日本だから韓国で葬式に使う悲しみの 賞与 が新しく生まれた喜びを演出する意識の祭りの 米コーシー に変わった。 日本の津々浦々で祭り時期がくれば声帯が破れろと叫ぶ ワッショイ (ワッショイ).. それは玄海灘を死なないで無事に渡ってきた古代渡来人らの喜びの歓声,それ自体だったのだ。 そのためか私は日本のマツリを見る時ごとに,険しい海を渡ってきたこれらの悲壮な覚悟と新しい国に無事に到着した喜びでどうしていいか分からなくてうれしくて暴れる古代渡来人らの生命の躍動のようなものを感じる。 このように死を覚悟してたどり着くのを純粋な韓国語では (早い)達する というのに,故大魚では が違う でありこれが日本語 イダル (至る)になったし, 至る という話やはり 到着する。 たどり着く という タドル (たどる)という話になる。 [2009/01/14] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-2]ワッショイ(ワッショイ)-新天地に無事に到着した喜びの歓声 http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=2014 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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ミマ(見舞い)~イ・ナムギョの日本語源流散歩4(機械翻訳) 日本の人々は 病気見舞い 行くことを ミマ (見舞い)行くという。 これを文字そのまま解釈すれば 踊るのを見に行く (舞を見に行く)は意になって病気見舞いとは全く合わないのに,これを私たちの古代史の脈絡で解いてみれば簡単に理解をすることができる。昔私たちの先祖らは病気にかかれば厄神にかかったといって,巫女を呼んで クッ(祭祀) をした。 1960年代までだけでも村あちこちであったこのクッ(祭祀)は本当にシニ見てもおもしろくて厳粛でもあった神秘的な人神の踊りだった。 たいていこのクッ(祭祀)は3日昼夜を継続するのにこの時の村の人々は全部クッ(祭祀)を見に行ったし,行く時は必ず自宅にある尊いのを何でも一つずつ持って行く習慣があった。 例をあげれば卵,米,雑穀,野菜のようなものらだ。 ところで万一このクッ(祭祀)を見に行かなければ厄神が自分の家に移ってくるかも知れないという不安のために村の人々は皆が参加して クッ(祭祀) は村の一種の行事のようになっていた。 巫女らはこういう隣人たちが持ってきた物らを受ける時は丁重な気持ちで受けるという表示で手で心 心 (心)者を使って受けたが,これは隣人たちのきれいな気立てを神に報告して患者のはやい快癒を気持ちで始まるという意であった。 これが誤って伝わって今日日本の相撲(すもう)を見れば,勝った力士が心 心 (心)者の首都を描いて勝者の報酬を受けるのを私たちは日本TVでしばしば見て歴史の流れと変遷を実感する。 このように心 心 (心)者を手で掃くのを日本語ですれば のにつけるだろう (手刀切り)というのに,これを直訳すれば, 手で掃く という意だ。 このように古代社会は私たちが生きる今日のように個人主義でないそれこそ一つの生活共同体で村のひとりの悲しみは皆の悲しみで,ひとりの喜びもやはり皆の喜びになったそのような家族社会であったことが分かる。 したがって病気になれば患者が巫女にクッ(祭祀)値段を出すのではなくて,村の人々が持ってきた物らが巫女の保守になったし,これが古代社会の相互扶助精神だったことだ。今日巫女によるクッ(祭祀)はなくなってもそのような慣習がまだ日本に残って病気見舞いを ミマ (見舞い)ということだ。 クッ(祭祀) はまた 魂解答(解釈) ともするのに, 日本書紀 を見れば天武天皇が病気で横になるや魂を呼び入れる招魂祭の ミダマプリ をした記録がある。 ミダマプリ とは オホムダマプリ ともするのに,ここで 米 や 五 は尊称接頭語で, タマ とは ホーム すなわち 魂 (魂)で,韓国語では 魂解答(解釈) または 厄払い という話だ。 [2009/01/28] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-4]ミマ(見舞い) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=3855 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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ヘソがペコペコ(臍がペコペコ)~イ・ナムギョの日本語源流散歩18(機械翻訳) 古代渡来人らが日本に渡っていったことは紀元前からのことだった。それですでに先住民らの言語が確立された後に入った話らはその意味が変わったり,名士(名詞)が凍死(同社,動詞)で変形されたりもするのに,私たちのからだの各部分に対する名称もこういう変化に該当する。例をあげれば 耳 は日本語で 微々 (耳)という言葉が定着していたので キク (聞く)すなわち, 聞く という凍死(同社,動詞)に変わることになる。 同じように 口 とは 拘置 (口)があって 話す という意の イウ (言う)で, 鼻 とは 一つ (鼻)があって においをかぐ の 世帯 (嗅ぐ)で, 腹(船,梨) とは 五ナカ がいて お腹が空いた の ペコペコ (ペコペコ)で, からだ とは 行けという があって 太もも という意の 某々 に変わる。 刃物 という話も名士(名詞)が凍死(同社,動詞)に変わったことで, 妓楼 (切る)になって 切る という意だ。慶尚道(キョンサンド)放言に 二泊 という話があるのに,この言葉の意味は 上の,相談 という(のは)言葉で 二泊する ならば 相談する であるが,これが日本に渡っていって凍死(同社,動詞)の が和久 (曰く), 話す に変わる。 それで イワクツキノオンナ (いわく付きの女)といえば 言葉が付いて歩く女 を指し示して,これは何か良くない電力を持った女性を指し示す言葉で, 場所が変われば物も変わる 言葉が実感できる。 そして 坊や に日本語の愛称の 窓(ウィンドウ) (ちゃん)を加えて 坊や窓(ウィンドウ) ,すなわち子供という アカチャン (赤ちゃん)になって,赤ん坊を背負うの 漁夫見て という日本語では オウム部 (おんぶ)となる。 また子供が歩く姿を私たちは よちよち というのに,これを日本語では ヨチヨチ (よちよち)といって,歩き始める子供を私たちは ヨチヨチ歩き というのに日本は アンニョとチョ主(州,株)コロブワヘダヨ (あんにょはじょうずころぶはへたよ)という。この話のすなわち, 座れば良いだろう,ヨチヨチ歩きしてくれ なのに永い歳月を経る間に発音は似ているように残っているが,本来その意味は忘れられて 歩けば良くて倒れれば悪いです という全く違う意味になった。 そして赤ん坊をあやす時 インナインナ見て という イナイイナイバ (いないいないば)も興味ある伝来韓国語だ。古代渡来人らが大部分リーダーグループであったということは言語面でも知ることが出来るのに, ガキ大将,子供隊長 という意味の カキダイショウ (餓鬼大将)が一例だ。 カキ という(のは) 子供 で由来した話で,小学生程度の可愛い子供を指し示す私たちの故大魚なのに,この話には いたずらっ子 の活発さが隠れている。 [2009/05/06] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-18]ヘソがペコペコ(臍がペコペコ) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=19935 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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「手柄を建てる」は「大伽揶(テガヤ)を再建しよう」というスローガン~イ・ナムギョの日本語源流散歩37 人が誰でも切実に望むものがあるとすれば、それは愛されて尊敬を受けることではないだろうか? 誰かに愛されてまた認められることがどれくらい幸せなことかはあえて説明する必要がない。 産業社会の時には愛する心を伝達する重要な手段が手紙であった。最近はすぐ電話してさらに早 ければ直接会って言葉と行動で表現する。 考えて悩んで月を眺めてしのぶ、そのような感動とロ マンの時代は科学の発達速度と同じくらい早く消えていった。 とにかく上の人に認められ愛されることは昔も今も同じように大きな幸福に違いない。上の人に認め られること。それは上の人が最も好むのをすることであり、これを一言で言えば「殊勲をたてる」ことだ。 「殊勲をたてる」を日本語でいえば「テガラヲ タテル(手柄を建てる)」であるが、ここで「テガラ」は 「殊勲」を意味する。これをもう少し詳しく説明すれば「テガラ」という言葉は昔、韓国南部にあった 古代伽揶王国「テガヤ(大伽揶)」を示す言葉で、「テガラを建てよ」とは言うまでもなく「失われた祖 国、大伽揶を再建せよ」という言葉で、これは古代の日本だった大和時代を生きた彼らの至上命題 だったのだ。 「手柄を建てろ」という言葉が「殊勲」という言葉に変わるほど、当時の大和政権が「大 伽揶」再建をどれほど気にかけたかを確認させる言葉だ。 古代日本に渡った大伽揶の人々にとって、奪われた祖国「大伽揶を再建せよ」という言葉が彼らの スローガンであったことを見て、そこに潜む「言魂」に背筋が寒くなるよう感じる。 そのように見れば1970年代、我が国のスローガンは「良い暮らしをしよう」であった。 村ごとに新し い村(セマウル)運動を起こして国民の顔には汗を流す喜びがあった。都市も農村もみな引き受け た場所で熱心に仕事をし、その結果が今日の繁栄韓国を作ったのだ。「良い暮らしをしよう。良い 暮らしをしよう、私たちも一度良い暮らしをしよう」というのが民族の念願であったし、私たちみんな の夢だった。「私たちも一生懸命がんばれば、マイカーにも乗れるのだ」という夢でみんなの胸の中 には新しい希望があふれたし、汗を流す喜びがあった。 第二次大戦の当事、米国を一つに団結させたスローガンは「リメンバー・パール・ハーバー」すなわ ち「真珠湾を忘れるな」であり、日本を近代国家に脱皮させた明治維新のスローガンは「ソンノー・ト バク(尊皇土幕)」すなわち「幕府を倒して天皇国家を作ろう」であった。このようにどの時代のどの 民族、どの国家でもこのようなスローガンが歴史を変えてきた。それならこれから我が国のスローガ ンは何といえば良いだろうか? 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/cul/20090915_151324000.jpg ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩37] http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=40597 yy=2009