約 102,316 件
https://w.atwiki.jp/tearaway/pages/27.html
学校と塾ではどこが違うのか? 勉強の基本的な目的を学力や成績だと考えると、現状では既に学校よりも塾の方が高い効果を見せている点は否定できません。また、学校教育においても成績を大きく左右する重要な鍵は各自の予習・復習にあるとされています。つまり、単に学力や成績が大切なのであれば、塾や予備校はもちろんのこと、自宅学習でも通信教育でも構わないはずなのです。 では、どうして学校は必要なのでしょうか。学校の意義とは何なのでしょうか。 学校:総合的な知性 塾 :ペーパーテスト学力 先にざっくり結論を言ってしまうと、学校が育成しているのは「総合的な知性」であり、塾が育成しているのは「ペーパーテスト学力」であるという違いがあります。 「学校は人間関係も学ぶところ」というよくある回答は× 学校と塾の違いについて質問すると、その回答として「学校は人間関係も学ぶところ」といったものがよく挙げられます。確かに、それも間違いなく学校の非常に大切な役割です。しかし、この回答は決して正しくはありません。 子供たちが訊いている「学校と塾はどこが違うの?」という質問は、「学校でも塾でも同じように勉強しているけど、どこか違いがあるの?」という意味です。さらに意訳すれば「もし同じ目的で同じ内容を学んでいるだけなら、無駄も多いしもっと工夫できると思うけど……」という内容になります。つまり、学校と塾の機能的な違いについて訊いている訳ではありません。 塾は義務教育ではないし、体育や音楽の授業もないし、給食もないし、自転車で通っても構わないなど、違いを探そうと思えばいくらでも挙げられます。しかし、子供たちはそんなことを訊いている訳ではありません。「勉強」という明らかに重複しているように感じる部分について、その差異は一体どこにあるのかとピンポイントで質問しているのです。 そのため「学校は人間関係を学ぶところだ」「だから、学校には体育祭や修学旅行などの様々な行事もある」といったように勉強以外の部分で差異を示しても、その回答は的外れです。それでは勉強については確かに重複していると認めているようなものであり、さらには「学校は人間関係を学ぶところだから、塾に比べたら勉強は疎かになっても構わない」と言っているようなものでしょう。それは学校教育が考える勉強の大切さについて説明することを放棄している発言であり、学校教育に対する侮辱だとさえ言えます。 確かに学校は人間関係を学ぶところですが、同時に勉強するところでもあります。両方とも重要なのです。それならば、両方とも説明しなくてはなりません。 子供たちが訊いている「学校と塾はどこが違うの?」という質問には、「学校における勉強の大切さと塾における勉強の大切さの相違点について」という説明で答える必要があります。 教育の方法:「経験」と「知識」 学校と塾の違いについては、教育の方法論から考え始めると分かりやすいでしょう。方法論の代表格は経験と知識です。 あまりに身近で当たり前のこの2つですが、これらは身近すぎるために改めて確認する機会が少ない要素と言えるかもしれません。 基本的に、教育は経験と知識の両立によって行われます。そこに反論する人は少ないでしょう。 しかし、そこで1歩さがって「そもそも教育とは何ですか?」と質問してみると、「それは、しっかり勉強させて確かな学力を身に付けさせることだ」と答える人が大勢います。 すぐに気が付くと思いますが、この回答は「教育=勉強させる=知識を身に付けさせる」という構図なので、経験が完全に抜け落ちています。教育における経験とは何なのか、それが意外と見落とされやすいことがここから伺えます。 簡単に比較すると、こんな感じ #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s4.jpg) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s5.jpg) あくまで一般論としてですが、基本的に勉強は知識の伝授とほとんど同じ意味です。 教科書は知識の宝庫であり、教師の話を聞くことも知識の伝達です。本から学ぶにしても、人の話から学ぶにしても、それは自分では直接経験せずに様々なことを情報として教えてもらう形になります。学校での勉強、塾での勉強、自宅での勉強、どれもこの形です。そのため、一般的な用法として「勉強」とは知識の習得や伝授を意味しています。 ここで重要になるなのは「勉強を通じて知識を与えること極めて簡単だが、反対に経験は与えられない」という点です。「経験」とは、自分で直接見たり聞いたり行動したりして、そこから様々なことを感じたり考えたりすることです。つまり、「何をしたか」ではなく、「何をして、それをどう感じたか」までを含めて経験なのです。大人が与えられるのは「経験」ではなく、「経験するための環境」までです。子供たちが自分から積極的に行動して考えてこそ経験であり、大人に命令されて嫌々やらさせれるだけで何も考えていない場合、そこからは得られるものはほとんどありません。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s10.jpg) 知識は大人から与えることができますが、経験は子供たちが自分で積み重ねる必要があります。そのため、子供が自分から行動するまで待つ姿勢も教育には不可欠になります。教育熱心になると「いかに多く勉強させるか」ばかりを考えてしまいますが、それではかえって経験を積む機会を奪ってしまうため、教育のバランスを崩してしまいます。このようにして勉強するだけ/勉強させるだけとなった状態では教育とは呼べません。 知識と経験を両立させることで学習効果は飛躍的に向上していきます。両者のバランスは極めて重要です。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s17.jpg) 両立が重要なのは当然ですが、しかし現実問題としてそれは決して簡単なことではありません。知識偏重にならないように配慮すること、知識を与えればそれで終わりというような一方的な授業を行わないこと、これらの点は意識的に心がけていないと驚くほど簡単に見落とされてしまいます。 このままでは少し抽象的すぎるので、具体例として「料理」を挙げてみましょう。 経験のみ: 知識のみ: 経験+知識: こうして料理を例にして考えてみても、経験と知識の両立が重要であることは明らかでしょう。経験のみの学習、知識のみの学習、どちらかだけでは教育として充分な効果を発揮できません。両立させることで効果は飛躍的に向上していきます。 しかし、こうして述べれば当たり前に思うことでも、それを実際に教育で行うことは決して簡単ではありません。その代表例となっているのが英語の授業です。 「中学・高校の6年間もしっかり勉強して、英検だって取得した。それなのに、やっぱり英語は苦手」という人は大勢います。決して英語が嫌いなのではなく、しっかり勉強して成績も悪くはない。それにも関わらず英語力が身につかない。多くの人がそんな悩みを持っています。 この問題の大きな原因の1つが、英語の勉強方法そのものにあります。 学校での英語教育はリーディング・ライティング・ヒヤリングをベースにしています。これはつまり、知識のみの学習に陥っており、経験に相当するものが圧倒的に不足していることを意味します。料理の場合における「レシピを大量に覚えるが、実際に料理を作りはしない」という状況と同じです。 少し微妙な表現になりますが、これは決して勉強が足りない訳ではなく、勉強の仕方が間違っている訳でもありません。勉強のみに偏っている、勉強しかしていない、という点が問題なのです。そのため、さらに勉強量を増やしたり、勉強の仕方を変えてみたりしても、あまり効果は期待できません。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s8.jpg) 日本の英語教育の水準は決して低くはないでしょう。学生たちも充分真面目に勉強しています。ただ、それでも勉強するだけでは英語力は身に付き難いのです。勉強したら、それと同じ分だけ経験を積む必要があります。 では、その英語教育における経験とは何でしょうか。当然ながら、それはコミュニケーションです。 経験と言うと「実技」と勘違いして、ヒヤリングを強化したりスピーチを取り入れるようなケースが少なくありませんが、それはむしろ知識に属します。知識とは単に文字情報を覚えることではありません。耳で覚えることも、発話して覚えることも、それは「覚え方」のバリエーションを増やしているだけです。五感をフルに使って勉強しても、それは知識です。 経験とは「何をどうやって覚えるか」ではありません。「覚えた内容を自分なりにどう使うか」という自発的アクションが必要になります。 ↓補足 意外かもしれませんが、そんな英語に比べればコンピュータのプログラミング言語の方が遥かに勉強しやすいと考えられます。 英語は世界の公用語、それに対してプログラミング言語は言語とは言ってもコンピュータ用のあまりにマニアックな言語です。人間の言葉ではありません。比較するまでもなく、英語の方が遥かに身近でしょう。人間の言葉なのだから当然英語の方が覚えやすいはずです。 しかし、それでも勉強という観点で考えた場合、プログラミング言語の方が勉強しやすいと考えられます。その理由が経験です。 英語における経験とはコミュニケーションですが、ではプログラミング言語における経験は何かと言えば、それは当然プログラミングです。 コミュニケーションには相手が必要であり、その時の相手によって話題も語彙も変わります。その多様性こそコミュニケーションの本質であり、その不確定さが難しさでもあります。つまり、自分の都合で好きなように練習を重ねることが困難であり、その上相手次第で結果も変わってしまうため練習の成果が曖昧でハッキリしません。自分が間違っているのか、それとも相手が間違っているのか、そんなことさえ簡単には分かりません。 一方、プログラミングに必要なのはパソコンだけであり、正しくプログラムを組めばどのパソコンでも場所も時間も問わず正しく機能します。つまり、いつでもどこでも何度でも練習が可能であり、その成果が分かりやすくハッキリ表示されます。エラーが表示されたら自分が間違えたのであり、それを見つけて修正すれば直ります。 このように、経験の積みやすさにおいて圧倒的な差があります。単に知識として捉えるならば、英語の方が身近で親しみやすく勉強しやすいでしょう。しかし、経験という観点を加えるとプログラミング言語の方が圧倒的に勉強しやすいのです。 ↑ここまで補足 話が長くなりましたが、料理・英語・プログラミング言語を例に挙げるだけでも、教育では知識と経験の両立が重要であることが再確認できるでしょう。この考え方を教育の両立モデルと呼びます。 「両立」の形 ここまで知識と経験を単に両立することだけに絞って述べてきましたが、ひと口に「両立」といっても様々な形があります。 その中で最も基本的なものが、資源が無いから教育?の中で挙げている強者の教育です。 強者の教育 強者の教育は「幼い内は、まずたくさん経験するべきだ。その経験を土台にして、その上に積み上げてこそ知識は活きる」という考え方をしています。 ・知識の理解には、その前提として経験が必要である = 経験を重視 ・経験と知識の最適なバランスは成長に伴って変化していく = 経年変化に注目 この2点が大きな特徴です。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s11.jpg) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s12.jpg) 強者の教育を例に見ても分かるよう、ひと口に「両立」といっても、それはただ単に「両立させればいい」という訳ではありません。「両立のさせ方」においても様々な考え方があります。 サイクルモデル 「経験と知識の両立のさせ方」において、両者の連携に注目した考え方があります。それがサイクルモデルです。 両立と言うと、単純に「両方あればいい」と考えてしまいがちです。先程の料理を例にした場合で言えば、 「経験:実際に調理すること」+「知識:レシピや栄養について学ぶこと」=両立 と考えてしまうでしょう。 これは単純に言うと「経験:知識=1:1」という配分で、先ほど挙げた天秤のイメージ↓になります。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s9.jpg) しかし、教育はもっと遥かに複雑です。経験と知識の関係性を考慮していくと、教育の幅は飛躍的に広がっていきます。 ・たくさんの経験を整理して知識化し、今度はその知識を様々な形に応用して経験の幅を広げる。 ・これによって経験の絶対量が増えるので、さらに知識の精度が上がる。 ・高度な知識を得ることによって、さらに難易度の高い経験を積むことができるようになる。 このように経験と知識をしっかりと循環させると、思考の集束と拡散を繰り返すようになります。これをサイクルモデルと呼びます。簡単に言ってしまうと「1つの経験から100の知識を求め、それら1つ1つの知識からまたそれぞれ100の経験を生み出していく」という考え方です。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s15.jpg) これも同じように料理を例にすると、 「料理を学ぶとは単に料理だけを学ぶことではない。例えばその過程で、栄養学、衛生や発酵などの細菌学、メタボなどの健康管理、食の安全性、遺伝子の組み替え、食育、世界の食文化と歴史、貧困問題、食料問題と戦争の関係、農業と環境汚染の関係、化粧品やバイオ燃料など他分野での活用など、実に様々なことについて考えることができる。単に料理を通すだけでも、そこから学べることは膨大な量に及ぶのである。個人で料理を作っている時に、わざわざ戦争について考えている人はいないだろう。個人においては料理からは料理しか学ばない。それが普通である。しかし、料理という1つの経験から100の好奇心を引き出すことも簡単なことなのだ。それを実践するのが教育である」 となります。 1つ経験から100の知識を生み出すことも、1つの知識から100の経験を生むことも簡単です。また反対に、100の経験が1つの知識をより強固なものにし、100の知識が集まって初めて生まれるような貴重な経験もあります。このように経験と知識は「1 100」や「100 1」といった無茶苦茶な割合でも簡単に両立させることができます。重要なのは、単に「経験と知識を両立させること」ではなく、「両立させることによって、そこからさらに興味関心を広げることができる」という点にあります。 これはしっかり意識していないとなかなかできません。 ただ何となく行動しているだけでは、何度繰り返しても経験はただの経験のままで終わってしまいます。ただ何となく勉強しているだけでは、どんなに高度な知識もただの知識のままで終わってしまいます。それはあまりに勿体無いことだと言えるでしょう。 しかし、これは簡単改善することができます。自分なりにほんの少し意識するだけです。それだけで簡単に改善ができます。 いくら真面目に勉強しても、例えば、 「授業で夏目漱石について習った→しっかり覚えた」 で、終わりでは教育にはなりません。 反対に、どんなに授業がつまらなくても 「夏目漱石について習った→でも面白くなかった→面白い小説を探してみる→何となく読んでみた小説が面白くて、その中で描かれてた題材にも興味が沸いた」 と繋がっていけば、そこから得られるものはたくさんあります。 学ぶこと自体が重要なのではなく、学んだことをそこからどのように発展させていくかという点が重要だと意識するだけで、教育の価値は大幅に変わっていきます。 「ドラえもん」がきっかけで科学に興味を持った。 「ガンダム」がきっかけで宇宙が好きになった。 「スラムダンク」がきっかけでバスケを始めた。 意外かもしれませんが、教育はこれらと非常によく似ています。 これらはあくまできっかけに過ぎず、発展やサポートに結びついていないので、教育とは呼びにくいですが、 歴史を学んだだけ、 科学を学んだだけ、 修学旅行に行っただけ、 充実した学生生活を送っただけ、 といったように単に学校を卒業しただけという状況に比べたら、むしろずっと教育的です。 「何を学んだか」ではなく、 「学んだことから何を考えるか」が重要なのです。 このように経験と知識をしっかり循環させていくと、思考の範囲を飛躍的に広げ、さらにそれぞれを相互に結び付けて多角的に考えることができるようになります。これがサイクルモデルの考え方です。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s16.jpg) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s18.jpg) 例題:「時間」とは何ですか? いきなり「時間とは何か」と問われても「時間は時間だ。それ以外に答えようが無い」と感じるでしょう。 それは決して間違いではありません。 しかし、落ち着いて考えれば「時間」にも様々な捉え方があるとすぐに気付くはずです。 例えば、次のようなものが挙げられます。 物理的な時間:客観的に計測される時間。相対性理論などの話に繋がる。 生物的な時間:寿命の長さが違う生物にとって、それぞれの時間の重みは違う。 心理的な時間:楽しい時と辛い時では時間の感じ方が違う。気持ちの問題。 ただ単に「時間は時間だ」と捉えているだけでは、心理的な時間などは簡単に見落としてしまいます。 それでは「遅刻癖を直す方法」などのテーマについて考えることができません。 このように「時間」という1つの概念に対しても様々な捉え方ができます。 「時間」とは何か、それが分からない人はいないでしょうが、 単に分かっているだけと、複合的に捉えるとでは、考える次元が違ってきます。 学校と塾の違い 話しが遠回りになりましたが、学校と塾の決定的な違いはここにあります。 塾 :知識のみに一点特化して学力UP 学校:サイクルモデルを採用して人格を育成 塾は知識に一点特化 ⇒ テスト対策 知識と経験の両立させれば様々な思考過程が生じますが、塾はあえて知識だけに特化した教育形態を採用しています。何故なら知識だけが特出して学力テストや受験などに直接影響するからです。 どんなテストでも、それを行う際に絶対に必要なものがあります。それは「正解」です。正解が無い問題でテストしても採点することができませんし、採点基準が曖昧で試験監督の気分次第で結果が変わるようではテストになりません。つまり、テストとは純粋に「正解を導き出す力」を公平に問うものでなくてはならないのです。 そんなテストによって成績が左右され、受験によって人生までもが大きく左右されるのなら、そのテスト対策として正解を効率よく学ぶための勉強が必要になるのは当然でしょう。そのニーズに応えているのが塾です。だから、塾の方が成績アップには効率的なのです。 要はテストで良い点を採ることを第一目標にした教育形態であり、この場合の学力は「受験学力」や「ペーパーテスト学力」などと呼ばれます。 学校は全体を平均的に ⇒ 単なる「学力」ではなく、考える力・生きる力を育てる これに対して、学校教育は知識だけに特化せず、知識と経験を両立させてそこから生まれる様々な思考過程を丸ごと全部重視しています。現在の教育現場ではこれがどれほど意識されているか疑問もありますが、少なくとも理念の上ではサイクルモデルを採用しています。 ただ知っているだけと、理解して感動して挑戦することでは教育の奥行きや厚みが違うでしょう。テストで良い点数を採ることと、しっかり内容を理解していることでは意味がまるで違います。この時、後者を重視してこそ教育だと言えます。テストの点数などのように単純に数値化することができない「総合的な知性」を育成することが学校教育の目的なのです。 この場合の学力は、「応用力」や「考える力」などを経て、最終的に「生きる力」という呼び方に統合されています。当然ながらテストで点数を競えば塾に劣るという欠点がありますが、反対に例えば友達と意見を出し合って協力して考えるなど、点数で競わない教育においては圧倒的なアドバンテージを誇ります。 塾が「正解」を効率よく学ぶのに対して、学校教育が本領を発揮するのはその正反対に位置する「正解が無い質問」です。その代表例は「命の授業」でしょう。簡単な例として、以下のような問題が挙げられます。 あなたは消防士です。 火事現場のマンションに到着しました。 既に火が建物全体に回っているため、救助に回る時間は僅かしかありません。 確認できた限りでは、建物の西側で2名、東側で5名の住人が助けを求めて待っています。 しかし、火の勢いから考えて、西側か東側のどちらかしか助けられません。 あなたなら、どちらに救助に向かいますか? これにどのように答えるべきでしょうか。 単純に人数が多いからという理由で、東側の5名を救助する方が正しいのか? それはつまり、命の大切さとは人数に比例するということなのか? では、もし西側の2名が自分の家族だとしても、それでも変わらずに東側に向かうだろうか? 他人よりも自分の家族を大切に思って何がいけないのだろうか? このように、この質問からは「命は大切です」と述べるだけでは済まない疑問がいくらでも出てきます。 ここから分かるように、単に「命は大切です」と教えるだけなら極めて簡単ですが、「命は大切である、とはどういうことか?」を考えることは決して簡単ではありません。命は大切であるという前提に立った上でも、では「戦争についてどう思うか」「死刑制度についてどう思うか」「脳死については」「自己犠牲については」と、そこから考えるべき内容は多岐に渡ります。そして、そのどの問いにも正解はありません。 人類が何度も戦争を繰り返してきたのは、戦争することが正しかったからではありません。積極的に参加したにせよ、仕方無かったにせよ、どんな形であれ結果的に「戦争に賛同した者」が多かったからです。日本に死刑制度があるのは、死刑制度が正しいからではありません。賛同者が多いからです。脳死についても同じです。 「何が正しいか」を学ぶだけでは、このような点を考えることができません。「何が正しいか分からなくても、その中で自分は何を正しいと信じるのか。どんな意見に賛同するのか」ということまで考える力が総合的な知性であり、それを育ててこそ教育だと考えているのが学校教育です。 極端な言い方をすると、「学校とは勉強するところだ」と考えている程度の学校には存在意義は無いと言えるでしょう。勉強するだけなら塾でも自宅学習でも充分です。勉強することが重要なのではなく、勉強することによってそこからどのように考え方を発展させていくことができるかが重要なのです。 ・国語の授業から国語を学ぶ ・数学の授業から数学を学ぶ ・音楽の授業で音楽を学ぶ ・部活で様々な経験を積む ・文化祭や修学旅行などで思い出を作る 単純な両立モデルの場合だと、これで知識と経験を両立させているので問題無いことになります。 しかし、サイクルモデルを採用する学校教育の場合では、これはまだ「教育」ではありません。ここからが教育の本題です。 教育は決して万能ではありません。僅か数年しかない教育期間で教えられることには限界があります。だからこそ「できるだけ多くのことをしっかり教えたい」と考えがちですが、どんなに内容を充実させても「教えられることを教える」だけでは「教育」とは言えません。 これでは100のことを教わっても、その100までしか学べないでしょう。子供たちがどんなに努力しても、教わること以上のことを学ぶことができないのです。 学校教育の考え方では「教えられることは限られているかもしれないが、それらを通して様々なことを考えられるようになる」というところまで繋ぐことが非常に重要になります。 国語を学ぶ理由は、漢字や熟語を覚えることや、古文や漢文を読めるようになることではありません。国語を学ぶことを通して新たな考え方を獲得することにあります。同じように数学を学んで得た視点、音楽から得た視点、部活で得た視点、文化祭で得た視点、それら様々な視点を複合することで世界をより深く理解することができるようになります。教わったことを基にして、教わってないことも考えられるようになります。これが教育です。 この場合、たとえ学校で教わる内容が100に満たなくても、それを通して見えてくる世界はその100倍を悠に超えます。 例えば、高校までの授業では経済学や法学、医学や建築学などの専門的な学問は学びません。単純な両立モデルの場合、ここで「まだ教わってないから分からない」と当然のように考えてしまいます。 しかし、たとえ直接的に教わっていなくても、「国語の授業を通して法律に興味を持った」「バスケ部での練習を通して医学の重要性を感じた」などといったように、一見無関係に見えるものでも縦横無尽に繋げていくことが可能です。こうして様々な事象・事柄を横断的に捉えていると、大学に入って初めて専門的な学問を学ぶ際にも、「初めてだから、よく分からない」なんてことはなく、「改めて考えてみれば、思い当たることが結構ある」と感じることができるようになります。高校までの経験と知識は、既に専門的な学問を学ぶ大切な土台となっているのです。 学校教育において最も大切な要素 学校教育の特徴はどこにあるのか。それが分かると学校における最も大切な要素が何かも分かってきます。子供の成長において最も有意義なものとは何でしょう。優秀で優しい先生がいれば、子供たちは安心して成長するのでしょうか。それとも、図書館に本が充実していたり、理科の実験教材が充実していたりと、学びやすい環境を整えれば子供たちは自ら成長していくのでしょうか。学校において大切な要素は非常にたくさんあります。
https://w.atwiki.jp/kumath12/pages/8.html
休講情報 NEW!→5/16 先生が出張のため休講 6/26 先生が出張のため休講 7/3 先生が出張のため休講 7/27 補講日は授業はありません。 第5回 2014年5月9日 5限 プリント配布 講義資料(2枚) 今日の授業内容 「数と式」についての指導方法(2) 第4回 2014年5月1日 5限 プリント配布 講義資料(2枚)/ゲーム用プリント(1枚) 今日の授業内容 「数と式」についての指導方法 第3回 2014年4月24日 5限 プリント配布 講義資料(4枚) 今日の授業内容 数学教育の目的・目標論 第2回 2014年4月17日 5限 プリント配布 講義資料(4枚) 今日の授業内容 中学校数学科教育の歴史と課題 第1回 2014年4月10日 5限 プリント配布 カリキュラムについてのプリント(1枚) 授業について 席の座り方は次の2つの条件で座ってください 1 前に誰かいる(前から2番めに座った人はいなくてもOK) 2 後ろにいる人から当てていく 全部出席して、定期テストである程度の点数をとれていれば、まず合格は間違えないと思って下さい。
https://w.atwiki.jp/magicman/pages/28075.html
《教育主(ティーチマスター) エデュケイテキスト》 教育主 エデュケイテキスト SR 水文明 (8) クリーチャー ワーカー ジョブマスター リキッド・ピープル 11000 ■W・ブレイカー ■サービス-水文明のカード(場にいる時、水文明を含むマナゾーンのカードを3枚タップすることで◇能力を使える。) ◇自分のマナゾーンの枚数以下のコストを持つ呪文を手札から唱えてもよい。こうして唱えた呪文は、唱えた後墓地におく。 ■水文明の呪文を唱えた時、山札から好きなカードを1枚手札に加える。 作者:イベリ子 DMRi-01「決めろ!ワールドマスター」のSRで、ジョブマスターサイクルの1人。 新能力「サービス」を持つ。マナを3枚タップすることで手札から制限なしで呪文を唱えるという超パワーの能力。常在能力で呪文を唱えたときにクリスタル・メモリー効果も持つため二回でもサービスを発動したらゲームエンドは容易いだろう。 ジョブマスターサイクルは全て8コストだが、サービスを発動するにはタップしていないマナが必要のためスキルアップで早期着地しても活躍は難しい場合が多い。マナゾーンに余裕を持って召喚しよう。 背景ストーリーでは智学院アクア・ワークスクールを経営しており、各文明のエレメンタリー・ワーカーを育てている。主人公エール達もここで学んでいたようだ。 評価 選択肢 投票 良いカード! (0) 物足りない!(調整希望) (0) 強い! (0) 強すぎ!(調整希望) (0) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/927.html
義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法
https://w.atwiki.jp/mippi/pages/30.html
まだ記事がありませんm(._.)m
https://w.atwiki.jp/4423/pages/2224.html
編集する。 2024-09-02 16 34 27 (Mon) - [[]]とは、 videoプラグインエラー 正しいURLを入力してください。 リンク内部リンク 外部リンク 討論用 情報収集 編集者用ミニ編集参加(文の提供・嘘・誤字等) 出典、参考 上へ リンク 内部リンク [[]] [[]] [[]] 外部リンク 討論用 名前 コメント すべてのコメントを見る 編集する。 2024-09-02 16 34 27 (Mon) - 情報収集 トラックバック一覧 trackback() テクノラティ検索結果 #technorati 口コミ一覧 #bf 関連ブログ一覧 #blogsearch リンク元 #ref_list 編集者用 ミニ編集参加(文の提供・嘘・誤字等) 出典、参考
https://w.atwiki.jp/phillstark/pages/2.html
メニュー 教育者向けアプリとは iOS androidOS 管理人について リンク app store google play amazon
https://w.atwiki.jp/wiki2_sei/pages/24.html
https://w.atwiki.jp/kyo-shin2012/pages/18.html
時限 火曜6限 教室 1313 教師 岩田 一正 シケプリ
https://w.atwiki.jp/uzo-history/pages/15.html
1970年(昭和45年) 1971年(昭和46年) 1972年(昭和47年) 1973年(昭和48年) 1974年(昭和49年) 1975年(昭和50年) 1976年(昭和51年) 1977年(昭和52年) 1978年(昭和53年) 1979年(昭和54年) 1980年(昭和55年) 1981年(昭和56年) 1982年(昭和57年) 1983年(昭和58年) 1984年(昭和59年) 1985年(昭和60年) 1986年(昭和61年) 1987年(昭和62年) 1988年(昭和63年) 1989年(平成1) 1990年(平成2) 1991年(平成3) 1992年(平成4) 1993年(平成5) 1994年(平成6) 1995年(平成7) 1996年(平成8) 1997年(平成9) 1998年(平成10) 1999年(平成11) 2000年(平成12) 2001年(平成13) 2002年(平成14) 2003年(平成15) 2004年(平成16) 2005年(平成17) 2006年(平成18) 2007年(平成19) 2008年(平成20) 2009年(平成21) 2010年(平成22)・12月24日:内田雄造研究室にて先生と90分程度歓談する。 少子社会の経済縮小に関して及び 雨水利用と西山計画論を中心として。 借用図書:西山卯三著「建築学入門」勁草書房 その際、西山卯三著作集1:住宅計画の16章を読むことを勧められた。 途中、内田祥士教授の来訪あり。(SN記) 2011年(平成23)