約 102,324 件
https://w.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/192.html
さて先天性について検討してきたが、これは教育にとってどういう意味があるのだろうか。先天的に障害がある人たちは、歴史的には教育から排除されてきた。義務教育制度においても、障害がある場合に免除されている。以前は障害者の教育は二重の義務免除があった。ひとつは障害者自身の義務が免除され、また国家も障害者への教育保障義務を免除されていた。現在では、後者の義務免除は廃止され、国家及び自治体は障害者に対して教育を保障する義務がある。しかし、障害者自身は義務を免除されることがある。これは免除であって排除ではないから問題ないのだろうか、それとも免除は事実上排除として機能する場合もあるから問題なのだろうか。 また障害のある者は健常者と同じ教育を受ける権利があるのか、あるいは独自の教育を受けざるをえないのだろうか。だれがそれを決定する権利があるのだろうか。こうした問題は日本ではまだまだ未解決の問題として残っている。(詳細は別の講義で扱うので、ここでは問題の指摘のみを行う。講義では議論をする機会があるかも知れない。) 逆に特別に優れた才能を持った人の教育はどうだろうか。日本ではこの側面の教育は行わないという意識が強い。しかし、アメリカには「天才」のための学校があり、天才はかなり若い年齢で大学に入学する場合がある。ブッシュ政権の安全保障問題のライス大統領補佐官は15歳でデンバー大学に入学し19歳で卒業した経歴をもつ。日本ではごくわずかな大学に18歳未満の入学を許可しているが、極めて例外的である。また戦前は存在した飛び級制度はまだ戦後の日本にはない。 しかし、欧米社会と日本で「才能」に関する大きな違いは、芸術教育に対する考え方や制度に現れているように思われる。日本では音楽的才能や美術的な才能が、数学や国語の才能と特別異なっているようには考えられていないし、また入学試験などで別のやり方が行われているわけでもない。一方欧米の「入試」はほとんどの場合、下級学校の成績認定が最も重要な判断材料になっていて、特別の「入学試験」を課すことは例外的である。(たとえばアメリカの難関私立大学など。)しかし、音楽学校などは特別の入学試験を行うことが普通なのである。つまり、それだけ芸術分野は特別な分野だと思われている。 20世紀の代表的なピアニストであるマウリッツィオ・ポリーニは、インタビューでイタリアでは天才的な音楽家が多数生まれているが、音楽学校はどのような教育をしているのですか?という質問に対して、「ただひたすら天才が入学してくるのを待っているだけだ。天才が入学してきたら、天才に教えることは何もないので、ただ自由にさせている」と答えている。半ば冗談であるかも知れないが、少なくとも希有の天才であるポリーニは音楽学校でこのように扱われたのだろう。 このような発想の違いは、「臨界期」のところで述べた「絶対音感」に対する接し方についても現れている。日本では音楽教育を子どもに対して施している親の間で「絶対音感」に対する意識が非常に強い。そして、絶対音感を形成するメソッドがある。しかし、ヨーロッパでは絶対音感はむしろ、才能そのものの現れと見られているようだ。もちろん努力して形成されることがあったとしても、むしろ先天的にせよ環境にせよ、努力もせずについていることが大切で、そういう者が音楽家として育っていくのだという感覚があるように思われる。少なくとも日本の音楽教室のように、絶対音感を身につけさせるための特別なメソッドによる教育活動が行われていることはないようだ。(ソルフェージュは絶対音感の形成に有効であるとされているし、また欧米でもさかんに行われているが、それは絶対音感の形成の目的で行われているわけではなく、広く有効な音楽教育の一環として行われていると考えられる。) もちろんヨーロッパのような才能をもった特別の人と一般の人の芸術教育を、原理的に区別することが適切であるかどうかは大いに議論すべきところであろう。少なくとも日本では学校教育でかなり充実した音楽教育が行われ、それが広く日本の音楽人口を形成し、そこから才能をもった人たちが育っていったことは否定できないだろう。しかし他方で、こうした特別な分野は才能だけではなく、好みが大きく分かれるところであり、広く学校教育で行うのがよいのかは、そうした「好み」というレベルでも考える必要がある。
https://w.atwiki.jp/gamesalonrpg/pages/29.html
一流魔王教育講座 改造厨房R ◆BiWEZP48ls ダウンロード ゲサロ保管庫 http //park.geocities.jp/gesalohokanko/ 概要 かわいい 写真 コメント 名前 コメント コメントを投稿できるよ。
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/1323.html
教育基本法第1条 (教育の目的) 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。 教育は人を育てることであり、教育基本法第1条である教育の目的は、どのような目標に向かって人を育てるか、到達の目標にするべきかが書かれている。 そしてここでは、「人格の完成を目指すこと」こそが教育の目的であると示されている。 人格の完成とは、個人の価値と尊厳の認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力をできる限り、しかも調和的に発展せしめることである。(教育子本法制定の要旨 昭和22年文部省訓令) (改正前) 「1947教育基本法」 第1条 (教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。 比較してみると、「真理と正義を愛し」「個人の価値を尊び」「勤労と責任を重んじ」「自主的精神に満ちた」など大幅に削減されたことがわかる。 改正された条文では「必要な資質を備えた」という文が取り入れられている。その内容については教育の目標である教育基本法第2条に記されている。 めぐみ
https://w.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/114.html
憲法の人権条項は教育に関して、他にどのような関連しているだろうか。簡単に見ておこう。まず、関連すると思われる人権条項をあげておく。 第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 ○2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。 ○3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。 第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。 ○2 すべて公務員は、[[全体の奉仕者]]であつて、一部の奉仕者ではない。 ○3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。 ○4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。 第十七条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。 第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。 第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。 第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 ○2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 ○3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 ○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。 ○2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。 第二十三条 学問の自由は、これを保障する。 「子どもの権利条約」で最も論争の対象となったのは、意見表明権の条項であった。子どもが意見を表明することに、日本政府は抵抗を示し、その保障のための十分な制度的保障を現在でも行っているとは言い難い。ヨーロッパの学校では、学校評議会が教師や親、生徒の意見を聴取し、それを運営に反映させていくためのものであるが、日本ではそうした学校評議会は法的に構想されていない。子どもはまだ未熟だから意見を表明する権利はないのだというのが、その根拠となっている。 しかし、まだ未熟であったとしても、あるいは未熟であるが故に意見を表明する機会を与えられる必要があるとも言える。日本の学生は自分の意見をもち、人の前で表明することが苦手であるとされるし、また、生活条件に不十分なところがあっても、それを改善するための提案などをすることが弱いと言われているが、それは学校において主体的な存在として認められず、意見を正当に取り扱われていないということの現れでもある。12条の「不断の努力によって」という内容は、将来を担う子どもにそうした努力をする力量を身につけさせる必要をも求めていると考えられる。 13条は近年教育の現場で非常に多くの関わりをもっている条項である。13条を根拠として様々な権利が導かれている。一例だけをあげておこう。 13条は幸福追求権と言われているが、重要なコロラリーとして「自己決定権」があるとされる。自分の人生については、他人の権利を侵害しない限り自分で決める権利があるとする内容で、教育についても重要な意味をもつ。特に中心的には自分の進路、進学先や就職先、あるいは進学するか就職するのかなどの進路に関わる自己決定権は最大限尊重される必要がある。その際重要になるのが進路決定の資料となる情報へのアクセス権である。特に受験の場合に提出される「調査書(内申書)」の開示について、複数の訴訟で争われてきた。判決は情報開示を認めるものと否定するものとに分かれているが、社会の趨勢として、特に問題のある部分を除いて、本人に開示すべきものであるとする認識が定着しつつある。 14条は極めて重要な条項である。本学も昨年度14条に関わって大きな出来事があった。 14条はすでに述べた「能力に応じて」という部分と微妙な関係にあるが、現時点では能力による差別的な扱いはそれ自体としては社会的に批判されるべき差別とは考えられていない。現在で大きな問題となるのは、障害をもっている場合や健康であろう。 15条は教育基本法の6条に関係する規定であり、これは後で触れる。 17条は教育においては、主に学校事故の損害に対する救済として意味があった。しかし、今ではこれに加えて様々なハラスメントに関わる原則として意味がある。学校事故及び懲戒の章で詳しく触れることになるだろう。 19条・20条は「思想信条の自由」に関わる条項である。これは公教育の基本に関わる重要な規定であると言える。実際に20条は教育基本法の9条としても関連条項をもっているが、規定の仕方は両者は異なっている。 教師と生徒にとって、多少「思想信条の自由」が意味するところは異なっていると考えられる。 教師は成人して、参政権をもっている存在であるから、当然個人としての思想や信条をもっているし、政治的な考え方ももっている。それを侵すことはできないのである。しかし、教師は成人でない子どもを相手にしているのであるから、自分自身の信条を子どもに対して表明することについては、ある程度の慎重さが必要であり、したがって制限もやむを得ないと考えられている。「現代学校教育論」で扱った増田都子氏の実践は、この点に関わる問題をもっていた。また、伝習官訴訟などは直接教師の思想とその教育との関係が扱われたものである。 他方、生徒の場合はどうだろうか。これは「内申書訴訟」の事例がある。政治活動に参加して卒業式ボイコット運動などをしていた中学生が、内申書にその旨を記載され、ほとんどの学校の入学試験で不合格になったものである。現在では高校生までの生徒は、政治活動を制限されている。そのこと自体が妥当であるかは問題となるだろうが、それを学校側がどのように扱うかは、別の検討が必要である。 いずれにせよ、教師についてもまた生徒についても、基本的人権は厳格に守られなければならないのであって、それが形骸化することは、教育に関わる人の責任であるとともに、また、教育自体を貧しくしてしまうものであり、それは社会そのものを貧しくしてしまうことになる。したがって、教師になろうとする者は、憲法の基本的人権の条項は、単なる文章としてではなく、生きたルールとして学ぶ必要がある。
https://w.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/51.html
さて、もう少し、本格的に日本の教育を紹介したものを見ておこう。 イギリスの国営放送であるBBCが日本の学校を取材した番組がある。 関西の小学校、中学校に数カ月カメラを持ち込んで取材した、本格的なドキュメンタリーである。\footnote{もっとも、こうした外国人スタッフによる日本の学校取材については、常に注意すべきことがある。 特に、日本の学校では、訓練的要素が強く、従って、授業中も静かに、先生が全員に一斉に話す内容を聞いている、というような内容が多く出てくるが、外国人が取材に来て、授業を見ている間は、普段どんなに騒ぐ生徒でも、静かに聞くものである。そうした普段との相違を、その時だけ見る外国人は把握できない。} 長い番組なので、番組進行の要点を箇条書きに記す。 東大合格をめざす教育 東大の合格発表の風景 文部省 教室の広さや声の大きさまで規定 → 世界でもっとも画一的な教育 大阪の小学校 漢字・算数(レベル高い) よい日本人になるための教育(給食) いきていくうえで必要なことを学ぶ 道徳 規律、忍耐などの重要性 大阪の中学 どこでも同じ教育が行われている。 ひとつの型にはめ込んでいく。 きびしい雰囲気 制服(100年前)生徒管理の一環 教育体制のプレッシャー 校長は、長く教師を勤めた人 だれもがいい高校に入るために努力 能力別クラスはないので、いろいろな生徒 → 教える側も難しい 教え合いなども追及 くだけた雰囲気などはない。 平均的な学力 世界的に難解な日本語学習が、中学でも続く。 先生がいうことをノートにとり、自分から意見を言うことはほとんどない。 英語では文法に重点、試験の点数を重視 放課後も人格形成 掃除(公共物を大切にし、自律性を培う) 学校は部活動のために、学校が開いている。 部活動は成果だけではなく、所属することに意味があると考えられている。 教師は魅力ある職業だが、大変だが、学校に10時間いる先生もいる。 服装検査、遅刻検査(風紀委員) 生徒たち自らの管理 「学生服の下に体操服を着ている生徒がいるが」 いじめ、自殺深刻になっている。(ただし、自殺は欧米より少ない。) 授業はテスト中心 最大のテストである入試後は、学力別に振り分けられる。 保健室での様子 校長の話 画一的な教育への批判意識 人格が教育の目的 体育祭 小石を拾う生徒(小石を拾う行為そのものが人格形成に役立つと考える) 個人の成績は重視されない。参加すること、全力を尽くすことが大切 土曜も授業 授業数多い。数学と理科は世界でトップ 日本ではできる生徒とできない生徒の差が小さい。 いつもより長い塾 答えは選択式 自分の考えを記述することはない。 高校進学説明会 居眠する親や教師(校長の談話中) 日曜日の参観日 卒業式 文部省は国旗掲揚、国歌斉唱を義務づけている。日本人としての自覚 人種問題、経済状態の問題等の欧米的問題を抱えていない。 塾 学力別のクラス 半数以上が通っている。 同じ欧米の生徒よりずっと難しい問題 喫茶店でまつ親 帰宅後も宿題 4当5落 母親の談話 人格を捨てなければ受験に勝てない。 個性を殺しているという批判が全国的に起きている。 政府は教育を改革しようとしているが、何も変わっていない。 日本の教育の業績は、多くのこどもにレベルの高い教育を与えて、産業社会への準備をしたことにある。 BBCが強調していることは、給食や掃除の「集団行動」を道徳的な教育として位置付けていること、小さい頃から、学校が終わってからも、塾に行って、余計に勉強すること、部活などに多くの時間を割いていること、入試が、生徒の意識を占めていることなどである。 日本の教育の内で注目される度合いが強いのは、「訓練」的要素である。体育や行事での集団行動、給食や掃除の実施など、多くの先進国では見られないから、これが、日本教育の特質として把握されたのである。 以上である。 こうした把握は、1970年のOECD調査団が、「日本の青年は、18歳のある1日で人生が決定される」と書いた報告書から、ずっと一貫してあった。 1971年のHarumi Befu "Japan -- an Anthropological Introduction" も同趣旨の分析をしている。 日本では、徳川期から、民衆の教育要求が高く、文盲も少なかった。明治になって、伝統的な価値と近代的価値とを共存させた政府による教育振興で、教育は第一義的な重要性を持つようになった。戦前は、男女の区別が大きかったが、戦後はそれも減少し、国民は教育の価値については、疑いをもっていない。 しかし、特定の名門校に対する偏重から、入試地獄と大学入学後の不勉強という問題を抱えているという趣旨の分析になっている。(p143-148) ところで、非常に興味深いのは、この書では、日本の学校は、「公立」学校が中心で、「私立」は財政的な基盤が弱いので、重んじられていない、とされていることである。 1970年は、日本の高校における「私立」と「公立」の逆転が始まった年なのである。 一方、この書物では、「いじめ」はまったく問題にされていない。97年3月に、BBCは日本特集を組んだが、そこての日本の子どもや学校の紹介は、麻薬であり、援助交際であった。日本への注目の仕方がかなり異なってきているのかも知れない。
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/969.html
教育を受ける権利
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/954.html
教育公務員特例法
https://w.atwiki.jp/ednimachou/pages/10.html
https://w.atwiki.jp/hogakukeiyukai/pages/16.html
総合教育科目に関する書込みをお願いします。 他者のご利用を禁止します。
https://w.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/109.html
教育行政とは、教育という行為を社会が組織的に、それも主に公的な機関によって運営管理されていることを前提に、そうした管理を総称して呼んでいるものである。 そして、その管理には当然社会的なルールが存在しており、そのルールが教育法であると言える。 現代の学校制度は膨大な学校が、国や自治体によって設置され、また私立学校も多く運営されている。国民はすべて義務教育として学校に通うことが必要となっており、前に見たように、教師や生徒の数は国民の大きな部分を占めている。こうした国家的制度を維持していくためには、公的な管理・運営、そして財政活動が必要であり、国家組織として文部科学省が、そして、地方公共団体には教育委員会が置かれている。主要には、そうした文部科学省や教育委員会の行う活動が教育行政であるが、学校の中の運営や、PTA、学校評議会などの活動も含めて考えていくことが必要であろう。また、戦後から1980年代の始まりくらいまでは日教組の力も強く、教育界に対して大きな影響力を行使していた。日教組や民間教育研究団体の活動なども、広い意味で教育行政学の対象となるだろう。 さて、2年次の「教育哲学」では、教育学と心理学の相違として、価値的立場の有無を示した。つまり、教育は常にある「価値観」を前提とし、その価値観を社会の中で実現することを意図している。カリキュラムというのは、そうした実現すべき価値観の体系とも言える。教育行政が教育の組織運営に関わることであるとすれば、当然教育行政もある価値観を前提とせざるをえない。しかし、詳細は以後の各章で分析するとしても、ここに内在する論理的問題について考察しておこう。 教育行政学の最初の体系的な構築者であった宗像誠也は、教育行政を次のように定義した。 私は教育行政とは権力の機関が教育政策を現実化することで、と考えている。そして、教育政策とは権力に支持された教育理念だ、と考えている。ここに教育理念というのは、教育の目的と手段と、内容と方法との総体を意味し、そこには当然なんらかのイデオロギーが貫いているわけである。1)宗像誠也「教育行政学序説」著作集3巻 p165 ここで宗像が「教育理念」というのが、「教育的価値」といってよい。個々の学校での授業では、おそらく教師がその教育的価値観に基づいて実践を行っているだろう。また、学校運営においては校長や教師集団の価値観が反映している。それと同じように、教育委員会や文部科学省が行う「教育行政」においても、当然「価値観的立場」が基礎になっていると考えられる。 ところで、近代教育の原則として通常あげられる「義務性・無償性・世俗性」のうちの「世俗性」とは、狭義においては「公教育は宗教に関わらない」という意味であるが、宗教とはひとつの価値観の集大成であるから、公教育が宗教に関わらないという原則は、ある特定の価値観に関わることに対する「慎重な姿勢」を要求するものである。実際に世俗性が前提となっている先進国の教育においても、宗教的なものであるのか、あるいは宗教とは無関係の価値であるのかは、しばしば争われる。2)オランダではカーニバルやクリスマスが、宗教的な行事であるのか、特定宗教を越えた一般的・市民的行事であるのかが、しばしば議論の対象となっている。 このことが、教育行政に関わる教育基本法の規定において問題となるところである。教育基本法に関わる論点は第一章で行うが、ここでは次の点を指摘しておきたい。 学校での教育実践における価値については、それほど深刻な対立がない。学力が向上することや、健康や安全が保持されることは誰にとっても重要なことであり、共有された価値であるといえる。しかし教育制度という社会的なシステムに広がるに従って、価値観の対立が大きくなってくる。特に教育行政や教育政策は政治と結びついているから、政治的対立が教育的価値に反映することになり、そうした対立が学校に逆に持ち込まれる場合が起きるのである。 教育内容に関わる対立として最も顕著な歴史教育においては、歴史学の成果に基づいて歴史をできるだけ正確に教えること自体を否定する人はほとんどいない。しかし、外交関係などが介在したあとの教科書検定などで対立が顕著になり、それが教室の現場に逆輸入されるような対立が戦後続いてきた。 いずれにせよ不毛な対立は、政治の場でも同様だが、特に教室では避ける必要がある。こうした対立をどのように克服するのか、これも教育行政学の重要な課題であろう。これはまた現代の民主主義がどのように有効に機能するかという問題にも関係している。 教育行政の法律主義 法律に基づいた行政