約 389 件
https://w.atwiki.jp/staff-officer/pages/23.html
朝鮮半島引き上げ時の日本女性の悲劇 1 「二日市保養所」 二日市保養所は、福岡県筑紫野市にあった厚生省引揚援護庁の医療施設。 ここでは、 レイプ被害に遭った日本人女性(引揚者)に堕胎手術や性病の治療を行いました。 当時堕胎は違法行為(堕胎罪)でしたが、厚生省は超法規的措置として黙認しました。 終戦直後より在満、在朝の日本人は塗炭の苦しみを味わいました。 追放や財産の略奪に止まらず、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏む事なく無念のうちに斃れた者も少なくなかったのです。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ これに加えて女性は、朝鮮韓国人やソ連兵等による度重なる強姦を受けた末、心ならずも妊娠したり、性病に罹ったりしたにもかかわらず、何ら医療的治療が施されずにいました。 そして強姦により妊娠・性病罹患した女性の中には、これを苦にして自殺する者が少なからず出たのです。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 日赤看護婦だった村石正子さんは、46年、同保養所で約三カ月勤務。「堕胎は違法と知っていたが、心ならず妊娠した女性は故郷にも帰れなかった。ただ救いたい、という一心だった」 と当時の様子を証言しています。 処置後、「悔しい」という言葉を残して亡くなった17歳の師範学校女生徒の事等を思いだすにつけ、村石さんは自分の過去に苦しめられたが、50年余りがたち「歴史の 一ページとして証言しなければならない」と思ったといいます。 http //sarahctr.iza.ne.jp/blog/entry/2221132/ 韓国政府は真実が書かれた都合の悪い本を発売禁止にした 「竹の森遠く」は、1986年にアメリカで出版されました。 2005年に韓国でも「ヨーコ物語」という題名で出版さ れていますが後に発売中止となりました。 韓国にとって都合の悪い本なので、韓国政府は発売を禁止したのでしょう。 この本の内容は、大東亜戦争末期、朝鮮半島からの引き揚げ時、当時11才であったヨーコさんと家族が目撃した史実が書かれています。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 韓国人らに追い回されて命からがら日本へ逃げ、韓国を抜けだす過程で日本人が韓国人に強姦され、暴力により日本人の人々が死んで行った目撃談です。 「So Far from the Bamboo Grove」は、1987年からアメリカの学校で社会科の教科書として採用されています。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 続編の「My brother my sister and I」も、ニューヨーク・タイムズ最高賞、Publishers Weekly最高賞等多くの賞を受賞しています。 彼女の著書と講演に感動した多くの学生達の推薦により、1999年には、ピース・アビーから平和賞が贈られました。 この賞は、世界的に有名なガンジーやマザーテレサ等、平和に貢献した人達に贈られる賞です。 http //ameblo.jp/sankeiouen/entry-10846078192.html 日本国民を本気で怒らせたので、真実はどんどん暴かれる 慰安婦捏造詐欺の裏 「竹の森遠く」は、敗戦後の朝鮮半島で日本に引き上げようとする日本人達が、現地の朝鮮人によって、殺人・強 姦・陵辱の被害を受けるドキュメントタッチの小説(韓国題「ヨーコ物語」)で、この物語がアメリカの推薦図書になっているので、在米韓国人社会と韓国本国で(小説も作者も)一大排斥運動が生じているのだ。 作者のヨーコ・カワシマ・ワトキンス氏は、一連の騒動の後、在米国韓国人団体から助っ人を依頼された731部 隊研究の世界的権威(と自称する)ダニエル・バレンブラットなる人物から、執拗な吊るし上げを受けた模様である。 ネイティブアメリカンを絶滅寸前まで追い込み、原爆で広島・長崎の一般市民までジェナサイドし、石油欲しさに イラクで好き放題を演じているアメリカ人が、正義派ヅラしてヨーコ氏に父親と731部隊の関係を迫るとは笑止千万だ。 大体、自分が奉じる正義に酔った人間が繰り広げる行動ほど、始末に終えないものはない。 韓国各紙のプレス発表から伺い知れることは、ダニエル氏ならびに在米韓国人社会が導き出したい結論は、 「竹の森深く」を著したヨーコ・カワシマ・ワトキンス氏の父親が、何がなんでも731部隊に関わった人間でないと困るようなのだ。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 日本のマスコミでは、こうした一連の動きは一切報じられてはいない。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ http //blog.radionikkei.jp/shimizu/140.html 二鬼子(アーグイズ) ・・・ 在日朝鮮人に占拠された日本メディアのタブーワード www 中国大陸が日本の支配下に置かれていた時期に、満州に住んでいた中国人が、 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 朝鮮人日本兵もしくは朝鮮人警察官を指して使った中国語の蔑称 転じて、朝鮮人その物に対する蔑称でもある。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 当時、日本軍は中国人に日本鬼子や鬼子兵と呼ばれており、朝鮮人はその下で働いていたので二鬼子と呼ばれるようになった。 似た意味の言葉に高麗棒子がある。 「二鬼子(意味は、傀儡(かいらい)軍)」、「高麗棒子」、これらの名称はすべて満州の国民の朝鮮日本兵と警官に対する俗称です。 蔑称の由来 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「二鬼子」は傀儡軍: 満州国の領土で生活していた老人いわく、 「二鬼子」は第2次世界大戦時を指し、日本の関東軍を助け満州国を管理する朝鮮警察である。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 第二次世界大戦の中国への侵略した日本軍は、中国の庶民に、、日本の畜生、畜生兵と称されていた。 朝鮮の警察は、日本人のサービスに替わったもので、地位は日本人より高くない。だから“かいらい軍”といわれる。 「高麗棒子」 日本人は、朝鮮半島人に対して信用しない。 だから、朝鮮の警官には、手に武器がありません。 朝鮮警察は、朝鮮婦女服の洗濯の棒を、人を打つ武器にするしかしようがなかった。 満州の国民が、彼らをあざ笑うのためにいったのが、「高麗の棒」です。 http //xianxian8181.blog73.fc2.com/category36-1.html 「私は日本人を非常に尊重する。日本人は絶対、後から刃物でささない。だが、高麗棒子(中国人 が韓国人を侮って呼ぶ卑語)は違う。」 台湾のテリー・ゴー(郭台銘)鴻海(ホンハイ)精密工業会長 インドネシアで現地人を虐待していた朝鮮人憲兵 (二鬼子 www) ■ 「ニッポンは誤解されている」 日本教文社 1988 年 アルフレッド・スムラー著 (フランスの雑誌リマッチ特派員) 別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりは毛頭ないが、 占領地域で最も嫌われたのは、このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったことに注意しておかなければならない。 その多くは憲兵隊に属し、のち戦犯に指定された。 たとえば戦後十年たってインドネシアで現地民の証人たちが私に話してくれたところによると、彼らは当時これらの警察官から自分たちを保護してくれた点では日本の陸、海軍に感謝しているそうだ。 月刊誌「DATUMS」1995 年10 号 キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景 色平 哲郎 内科医 http //www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html インドネシアで現地人を虐待していた朝鮮人憲兵 (二鬼子 www) その2 山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。 韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアン がコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った 日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。 赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。 皆がそう信じている。 一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その日も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない http //megalodon.jp/2013-0320-0808-04/resistance333.web.fc2.com/html/japanese_army_and_misunderstanding.htm 中国人による二鬼子についての証言 中国人は真実を知っている 「日本軍は香港で何をしたか」 著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年 36~37頁 九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。 頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。 彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。 当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。 製作所の経営者は避難してき た彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。 最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられな かった。 ところがある日、突然五、六人の‘獣兵‘が現れ、麻雀をしていた四人の女優を輪姦したという。 前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。 当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。 日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。 香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。 このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。 当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。 http //megalodon.jp/2013-0320-0808-04/resistance333.web.fc2.com/html/japanese_army_and_misunderstanding.htm 中国人による二鬼子についての証言 中国人は真実を知っている その2 「日本軍は香港で何をしたか」 著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年 142頁 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (日本軍占領下の香港では) アヘン販売や売春市場は、朝鮮人が中心となって取り仕切っていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 『古野直也著 朝鮮軍司令部 1904/1945 国書刊行会』p.132-133 昔から日本人は語学が拙ない。 地理・世情に不案内で朝鮮語がわからないから、どうしても朝鮮人の警官や 憲兵補助員に頼ることになる。 ところがこれらの連中に不良が多く、住民を脅して私腹を肥すやら、女に手を出す やらの悪徳ぶりで、日本側はその取締りに忙しかったという。(略) 日中戦争中でも中国語が堪能な日本軍人は いないから、中隊単位で朝鮮人の通訳を雇う事になるのだが、この通訳は中国人を生かすも殺すも自由自在に裁量できるから蓄財に励む悪者が多く、日本軍が中国民衆に怨まれる大きな原因となった。 通訳の中には、日本人の名前の標札を持ち歩いて中国人の門に打ち付けて豪邸を占拠する者がいたし、スパイ だといって逮捕し、釈放するといって身代金を取ったりして連隊の中の高額所得者は朝鮮人通訳だった例が多い。 中には雇いもしないのに軍隊の後方をのこのことついて歩く偽通訳もいた。 便利だからと使用してみると、いつの間にか日本軍の制服を貰って住み着いてしまうのだった。 http //megalodon.jp/2013-0320-0808-04/resistance333.web.fc2.com/html/japanese_army_and_misunderstanding.htm 強制連行は徴用の歪曲 日本にいる朝鮮人は100%本人の意思で来日 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1938年 国家総動員法 (国民徴用令は1939年)が成立 → 日本、台湾 15~45歳までの男子、16~25歳までの女子が徴用 → 朝鮮 徴用の代わりに、内地の企業による求人活動が許可される ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1942年 人手不足により、「官斡旋」による募集が始まる → 日本、台湾 既に徴用済み → 朝鮮 日本企業への就職が斡旋される。しかし、雇用先を辞めても罰則なし。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1944年 朝鮮に初めて徴用令発布 (実質、六ヶ月間で終了) → 日本、台湾 既に徴用済み → 朝鮮 ★本人の意志を優先した★為、達成率は79%に留まる。 → 徴用で来日し、戦後残留した朝鮮人はわずか245 人 (外務省公式発表、朝日新聞報道済) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 参考)「教科書が教えない歴史 (4)」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社 http //resistance333.web.fc2.com/html/corea_living_in_japan.htm 在日の正体 米国公文書の秘密文書を調査したブルース・カミングス・シカゴ大学教授 戦前は、一大畜産地・済州島で牛の疫病が発生して生活難に陥った島民が、当時 存在した済阪航路に乗って大阪に大量流入し、その後全国に広がった。 大阪や東京では7割ぐらいを同島出身者が占めていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 戦後も在日ネットワークを頼って1970年頃まで韓国人の日本への密入国が続いた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 在日における済州島出身者の比率の異常な大きさと、朝鮮半島の総人口に占める同島民の比率の小ささを考えると、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく来日したというのも嘘だとわかる。 今日の在日韓国・朝鮮人には、戦後の密入国者とその子孫がかなりの比率を占めている。 日本政府は、在日の永住権を巡る韓国政府との外交交渉で、密入国者に関しても寛大に扱った。 http //resistance333.web.fc2.com/html/corea_living_in_japan.htm 慰安婦捏造詐欺の元ネタ → 朝鮮南部連続少女誘拐事件 1932年(昭和7年)から1939年(昭和14年)にかけて、日本統治時代の朝鮮の南部地域(慶尚道・全羅道地域)で続発した連続少女誘拐事件である 犯人は京畿道京城府本町(現大韓民国ソウル特別市中区忠武路)在住の朝鮮人夫妻で、 夫は大田刑務所の元看守であった。 1932年(昭和7年)に、夫は大田刑務所を退職したが、転職の当てがなかったため、とたんに生活が苦しくなった。 そして「金儲けは娘誘拐に限る」と称し、妻と共謀して★連続少女誘拐と人身売買★を手がけるようになった。 犯行の手口 慶尚北道大邱府南山町(現大邱広域市中区南山洞)の民家に犯人夫妻が訪れ、「俺は京城でも相当な資産家だ。子守娘を雇うのだが、君の娘はどうだろうか。京城の娘はどうも生意気で・・・」と言葉巧みに親を説得し、前金として10円を支払い、その家の娘(当時18歳)を引き取った。その後、娘を京城ではなく 中華民国の天津に連れて行き、1000円で売り飛ばしたという。 その後の7年間、同様の手口で朝鮮半島南部の少女約150人を拐し、 当時は日本人と朝鮮人などの植民地の人間はパスポートなしで渡航できた満州国や中華民国の人身売買市場に連れて行き、約60000円を荒稼ぎしたという。 加害者及び被害者が全員朝鮮人だったことから、朝鮮語メディアである東亜日報や朝鮮日報が特集を組むなど、大きく取り上げられた。 国会での事実確認追及を強く求めます! 当時の記録はきちんと残っています。
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/85.html
トップページ>歴史>女性と歴史 『女性と歴史』20、2014.6 特集論文 정해은「朝鮮後期貧困層女性の自売の実態」 천성림「近代中国の貧困女性:「猪花」を中心に」 기계형「帝政ロシア末期サンクトペテルブルクの貧民層女性と性売買」 一般論文 장경희「朝鮮後期女性匠人の匠色と職役研究:儀軌の分析を中心に」 윤선자「韓末パク・エスダのアメリカ留学と医療活動」 안태윤「北韓女性が経験した韓国戦争:戦争動員活動と体制下の生存戦略」 정현백「国家と女性平和運動:金大中・盧武鉉政府の平和政治を中心に」 설혜심「女性と消費の歴史」 書評 한희숙「韓国女性史理解の底辺拡大のために:朱鎮五・김선주 外『한국여성사 깊이 읽기』푸른역사、2013年」 소현숙「トランスナショナルの観点から見た東アジア女性の歴史:山崎朋子、김경원 訳『경계에 선 여인들』다사헌、2013年」 정용숙「20世紀家族の地球史:Göran Therborn『Between Sex and Power Family in the World 1900-2000』 London Routledge, 2004」 『女性と歴史』19、2013.12 特集論文:韓国女性史研究の現況と展望 김선주「女性と女性性研究の模索:三国時代から高麗時代までを背景にして」 정해은「朝鮮時代女性史研究動向と展望、2007-2013」 홍양희「韓国近代女性史研究の現況と展望、2007-2013」 김은경「「憂鬱な熱情」を超え論争の白熱化へ:韓国現代女性史研究の争点と展望」 一般論文 박효근「フランス宗教改革とユグノー女性の「逆説」」 西沢直子「日本近代轉換期女性たちのネットワーク形成と階層化:福沢家を事例に」(日) 권순형「『牧隠詩藁』を通じてみた高麗末貞慎宅主の家庭生活」 박경「『自己録(자긔록)』を通じてみた朝鮮後期烈婦観と女性の対応」 김경애「羅蕙錫の女性解放論の実現と葛藤」 김영선「南北韓女性交流の多層的軌跡と学術課題」 書評 기계형「西欧女性史の偉大な開拓者、ガーダ・ラーナー(Gerda Lerner)を追慕して:Gerda Lerner『Living with History/Making Social Change』 North Carolina University of North Carolina Press, 2009」 박정애「日本軍「慰安婦」制度を語るもうひとつの歴史パズル:安秉直 翻訳・解題『일본군 위안소 관리인의 일기』、2013年」 学会消息 기계형、이현주「第二回「韓中日女性史国際シンポジウム」参観記」 宋連玉「日中韓女性史国際シンポ開催にあたって」(日) 『女性と歴史』18、2013.6 特集論文:境界を超えて:我が国女性運動の連帯と交流 김경애「我が国女性運動に対する海外支援:1970年代後半から2000年までを中心に」 이혜숙「地球化・地方化時代地域女性運動と女性連帯の展望:慶南女性団体連合の連帯活動を中心に」 안진「光州全南地域女性運動の連帯のための模索」 一般論文 이진옥「結婚、女性の義務なのか?:18世紀イギリス知識人女性の選択」 최용찬「戦争、女性、映画:「西部戦線異状なし」(1930)に現れた女性の苦痛と反戦の美学」 書評 장미현「輝く空間「光州」、輝く女性達:彼女達がくれた5・18の物語:光州全南女性団体連合 企画、이정우 編集『光州、女性』후마니타스、2012年」 『女性と歴史』17、2012.12 特集論文:民主主義と女性 홍찬숙「韓国社会の圧縮的個人化とジェンダー範疇の民主主義的合意:1990年代を中心に」 김혜경「イタリア女性連合(UDI)の活動と民主主義の発展」 一般論文 정현백「女性史研究の現況と課題:「位置付け」と「開拓」の間で」 배혜정「アンナ・マリア・ファン・シュルマン(1607-1678)と17世紀イギリスの女性教育談論に残した彼女の遺産」 나혜심「福祉国家と移住労働力、その肯定的な関係について:1950-70年代ドイツと女性移住労働者を中心に」 김경애「作家金明淳の生涯とキリスト教信仰」 書評 기계형「新しい時代を抱えた女性の話:실라 로보섬 著、최재인 訳『아름다운 외출』三千里、2012」 『女性と歴史』16、2012.6 論文 이은정「16-17世紀オスマン皇室女性の社会的位相と公的役割:オスマン皇太后の役割を中心に」 강영경「檀君神話に現れた熊女の役割」 박경「開化知識人達の早婚に対する認識:『独立新聞』の論説を中心に」 尹善子「蟾津江流域の日本軍性奴隷記念物「平和の塔」建立背景と主体:忘却から記憶へ」 書評 문숙자「社会学者が見た16世紀朝鮮の家族:박미해『유교 가부장제와 가족, 가산』아카넷、2010年」 『女性と歴史』15、2011.12 特集論文:歴史の中の女性リーダーシップ 정현백「グローバル視角から見た女性指導力:歴史的接近を中心に」 朴珠「朝鮮後期貞純王后金氏の政治的リーダーシップに対する再照明」 덩시아오난「乾興から明道まで:北宋劉太后のリーダーシップ」(中) 菅野則子「江戸幕府末期:女性の訴訟行動」(日) 이송희「韓国近代史の中の女性リーダーシップ」 陣雁「変化する中国女性のリーダーシップ:「ファーストレディー」宋美齡を中心に」」(中) 宋連玉「山川菊栄と黄信徳:帝国日本と植民地朝鮮の女性リーダーの出会いと交錯」(日) 一般論文 김성은「日帝時期朴仁徳の世界認識:『世界一周記』(1941)を中心に」 노서경「アルジェリア・フェミニズムの知的性格:1990年代の試練を中心に」 日本、中国女性史学会動向 菅野則子「日本女性史学会動向」 陣雁「上海地域女性史研究紹介」 『女性と歴史』14、2011.6 論文 이진옥「「ミレニアム・ホール」」 김경애「性暴力被害者/生存者としての近代最初の女性作家金明淳」 김성은「1920年代同盟休学の実態と性格:宣教会女学校を中心に」 신영숙「アジア太平洋戦争期朝鮮人従軍看護婦の動員実態とアイデンティティ」 박정신「我々の歴史に現れた女性とキリスト教の繋ぎ目:そのかみ合わせとズレの社会史」 書評 이선이「윤혜영『루쉰의 사랑 중국의 사랑 쉬광핑』서해문집、2008年」 『女性と歴史』13、2010.12 論文 이옥순「東南アジアのシータ、インドのシータ:女性主義観点の比較研究」 이성숙「老年とジェンダー:老年女性に対する談論とビクトリア期フェミニストの老年」 현재열「ある女性の生涯を通じて見た女性と革命:ロシア人「女性モミュナール(Communarde)」エリザベート・ドミトリエフ(Elisabeth Dmitrieff)」 広瀬玲子「大韓帝国期日本愛国婦人会の誕生」 김영선「結婚・家族談論を通じて見た韓国植民地近代性の構成要素と特徴」 윤정란「ジェンダー観点から見た歴史文化地図データベース構築過程」 천성림「実践性から多元化へ:韓国の中国女性史研究の背景と流れ」 書評 菅原百合「宋連玉『脱帝国のフェミニズムを求めて:朝鮮女性と植民地主義』東京:有志舎、2009年」 『女性と歴史』12、2010.6 特集論文:女性と革命 이성숙「女性と西洋近代革命:革命に対する追憶と未来革命」 기계형「1917年ロシア革命と女性:日常生活の連続性と変化」 윤정란「4月革命と女性達の参与様相」 一般論文 김경애「近代男性知識人小春金起田の女性解放論」 菅原百合「日本人女性安田靖子の対朝鮮認識」 서지영「負傷する主体達:近代媒体とジェンダー政治」 신영숙「日本の「アジア平和国民基金(国民基金)」に対する勧告社会の対応」 書評 박진숙「오영옥『영원한 국모 마리아 테레지아』나남、2009年」 『女性と歴史』11、2009.12 特集論文:トランス・ナショナリズム観点から見た女性史 김미선「植民地時期朝鮮女性の帝国内移住経験に関する研究:양충자(中国天津)と이종수(満州国安東)の口述を中心に」 나혜심「韓人女性看護労働者のドイツ移住と韓人家族内女性の役割」 신지영「旅行と空間の性の政治学を通じて見た羅蕙錫の風景画」 一般論文 趙景徹「百済王妃八須夫人の出自とその生涯」 문숙자「朝鮮後期奴婢家系と婢:筆巌書院「奴婢譜」の分析を通じて」 윤정란「旧韓末キリスト教女性の暮らしと女性教育運動:余袂礼を中心に」 김은경「1950年代新生活運動研究:家庭改良論と消費統制を中心に」 書評 朴珠「강명관『열녀의 탄생:가부장제와 조선 여성의 잔혹한 역사』돌베개、2009年」 『女性と歴史』10、2009.6 鄭海恩「朝鮮時代胎教談論から見た李師朱堂の胎教論」 박경「殺獄判決を通じて見た朝鮮後期支配層の夫妻関係像:『秋官志』分析を中心に」 윤정란「江原地域キリスト教女性教育事業と3・1運動」 윤지현「1920-30年代サービス的女性の労働実態と社会的位相」 김미선「近代的「職業女性」の女性アイデンティティと職業意識の形成過程に関する研究:1世代美容師임형선の口述生涯史を中心に」 김수자「韓国戦争とベトナム女性の戦争経験と認識:地域差別認識と結婚観を中心に」 이성숙「グローバル女性史観点から見た19世紀末20世紀初インド・ゼナナ(Zenana)女性とイギリス独身女性医療専門職進出」 신남주「女性文化遺産の概念と研究動向」 書評 이선이「김택중 訳『明史列女伝』제이엔씨、2008年」 『女性と歴史』9、2008.12 研究論文 韓嬉淑「朝鮮後期両班女性の生活と女性リーダーシップ:17世紀行状っを中心に」 남미혜「18世紀蚕桑で治産した全州李氏」 정지영「近代一夫一婦制の法制化と「妾」の問題:1920-1930年代『東亜日報』事件記事分析を中心に」 장성진「女性口述史を通じて見た韓国改新教文化形成過程研究:改新教女性전봉선を中心に」 기계형「女性農民達、法廷へ行く:ロシアの家父長的文化と妻殴打に対する態度の変化」 유정희「世界化時代ヨーロッパの移住女性」 書評 김성은「장성진『한국교회의 잊혀진 이야기:초기 한국 개신교 선교와 교회 성장에서의 전부부인에 관한 연구、892~1945』韓国学術情報、2008年」 『女性と歴史』8、2008.6 研究論文 朴珠「朝鮮後期純祖代の王室女性と天主教」(英) 김성은「『渓西野談』を通じて見た19世紀朝鮮知識人の女性認識」 윤정란「国家・女性・宗教:1960-1970年代家族計画事業とキリスト教女性」 최혜영「古代ギリシャ社会の宗教:女神と女性:デーメーテール(Demeter)のテスモポリア(Thesmophoria)を中心に」 기계형「日常生活とジェンダー政治:ソビエト時代初期の女性部(Женотдел)、1919-1923」 이성숙「女性史講義とフェミニスト教授法:「ポストフェミニズム」時代女性史講義戦略」 書評 신영숙「共著、共訳『확장하는 모더니티:1920~30년대 근대 일본의 문화사』소명출판사、2007年」 『女性と歴史』7、2007.12 研究論文 김영선「霊南良洞邑の両班家屋、香壇と女性の時/空間の統制」 안태윤「娘達の韓国戦争:結婚とセクシュアリティを中心に見た未婚女性達の韓国戦争経験」 윤정란「韓国戦争と商売に出た女性達の暮らし:ソウルに定着した他地域出身達を中心に」 이성숙「韓国戦争に対するジェンダー別記憶と忘却」 이선이「戦後韓国と中国の人口政策と女性」 書評 기계형「정현백『여성사 다시 쓰기:여성사의 새로운 재구성을 위하여』당대、2007年」 『女性と歴史』6、2007.6 研究論文 강영경「韓国女性史研究の現況と課題:高麗時代までを中心に」 張炳仁「朝鮮時代女性史研究の現況と課題」 이송희「韓国近代女性史研究の成果と課題」 이선이「韓国の中国女性史研究の現況と課題」 이성숙「今日、女性史とは何か」 書評 하지연「권순형『고려의 혼인제와 여성의 삶』혜안、2006年」 『女性と歴史』5、2006.12 研究論文 이성숙「西欧女性口述史現況と争点」 김수자「清渓川辺女性達の話:口述を通じて見た清渓川と女性の暮らし」 정현주「清渓川辺被服工場女性労働者の暮らし」 広瀬玲子「日本の「新しい女」と西洋女性解放思想:エレン・ケイ思想の受容をめぐって」(日) 広瀬玲子「日本の「新しい女」と西洋女性解放思想」 書評 강영경「조범환『우리 역사의 여왕들』책세상、2000年」 『女性と歴史』4、2006.6 研究論文 정현백「韓国の女性運動60年:分断と近代性の間で」 강이수「解放後韓国経済の変化と女性の労働経験:差別と周辺化の持続」 함인희「光復60年、家族制度と女性の暮らしの変化:受動的適応と能動的抵抗の躍動性」 김엘림「光復60年、女性立法運動の展開と成果」 朴珠「朝鮮時代慶南地域の烈女事例分析:『慶尚道邑誌』を中心に」 書評 이성숙「ヨーロッパジェンダー論争:女性は人間か?:Gisela Bock『Women in European History, Allison Brown, trans. The making of Europe Series』Oxford Blackwell、2002年」 『女性と歴史』3、2005.12 신남주「1920年代知識人女性の登場と海外留学」 이송희「釜山地域新知識層女性達の登場と団体活動:1920年代女子青年会活動を中心に」 이성숙「光復60年、女性セクシュアリティと性談論の変化」 강영경「光復60年、韓国女性宗教生活とその意識の変化」 김석향「『朝鮮女性』に現れる男女平等と性差別及び女性の権利意識研究」 書評 김성은「윤정란『한국 기독교 여성운동의 역사』国学資料院、2003年」 『女性と歴史』2、2005.6 강영경「新羅上代時期の女司祭:女巫と比丘尼の役割を中心に」 남미혜「朝鮮時代特殊職女性、蚕母」 西沢直子、김진숙 訳「福沢諭吉の近代化構想と女性論:「女大学」批判の構図を中心に」 안형주「初期アメリカ韓人女性とその娘達」 유정희「大衆媒体とドイツ女性:ワイマールとナチドイツを中心に」 정지영「朝鮮時代婦女の露出と外出:規制と隙間」 書評 정혜중「千聖林『산업화가 유교체제하 중국여성의 지위에 미친 영향』집문당、2005年」 『女性と歴史』1、2004.12 정현백「自叙伝を通じて見た女性労働者の暮らしと心性世界:20世紀転換期ドイツと1970~80年代韓国の比較を中心に」 박경「朝鮮初期王室家族秩序整備の特徴」 안태윤「戦時体制と家庭性:家庭生活と主婦役割に関する議論を中心に(1937-45)」 신영숙「延辺朝鮮族女性機関及び団体研究:女性の社会的役割とアイデンティティを中心に」 이선이「近代中国の民族主義と女性主義:丁玲の延安時期作品を中心に」 이성숙「イギリスのフェミニズムと帝国主義:南アフリカ戦争談論を中心に」 염운옥「イギリスの優生学運動とセクシュアリティ:性病の管理から結婚前健康診断計画まで」 書評 최혜영「S. Brundell『Women in Ancient Greece』Harvard Univ.Press, Cambridge、1995年」 1-20 21-40
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/55.html
トップページ>韓国>韓国近現代史研究 『韓国近現代史研究』60、2012.3 研究論文 崔起栄「アメリカ地域民族運動と洪焉」 金宙鉉「『中華報』所在申采浩論説の発掘研究補論」 慎鏞均「1920年代李如星の世界観と民族解放運動論」 李成雨「戦時体制期(1937-1945年)日帝の農村統制政策とその実状:忠南青陽郡木面の事例を中心に」 金仁植「大韓民国政府樹立後安在鴻の民族統一論」 『韓国近現代史研究』59、2011.12 金素伶「韓末修身教科書翻訳と「国民」形成:『倫理学教科書』と日本『新編倫理教科書』比較・分析を中心に」 金光載「玉観彬の上海亡命と活動」 孫洛亀「1923-1924年朝鮮総督府の税務機構独立政策:推進経過と朝鮮・東亜日報の対応を中心に」 朴賢「朝鮮総督府の金生産力拡充計画樹立と展開」 鄭秉峻「1945-1951年米ソ・韓日の対馬島認識と政策」 研究動向 韓詩俊「安重根についての中国学界の研究成果と課題」 『韓国近現代史研究』58、2011.9 研究論文 洪政阮「鬱島郡守沈能益報告書(1909)を通じて見た鬱島郡状況研究」 張圭植「大韓人国民会アップランド・クレモント支会事例を通じて見た1910年代北米韓人社会の内面」 高珽休「「韓国人民致太平洋会議書」(1921)の真偽論乱と署名分析」 鄭用書「日帝末天道教勢力の親日活動と論理」 李泰勲「1930年代日帝の支配政策変化と親日政治運動の「制度的」編入過程」 李相昊「韓国戦争期マッカーサー司令部のビラ宣伝政策」 金栄美「外交文書を通じて見た金大中拉致事件と韓・日連帯」 金根培「植民地科学技術を超えて:近代科学技術の韓国的進化」 『韓国近現代史研究』57、2011.6 研究論文 崔補栄「高宗の「収夷制夷」的日本認識と武備自強策(1876-1881)」 鄭珉在「日帝強占期順化院の設立と運用」 李萬烈「スコフィールド(Schofield)の医療(教育)・社会宣教と3・1独立運動」 辛珠柏「韓国現代史における青山里戦闘に関する記憶の流動:回顧録・伝記と歴史教科書を中心に」 張泳敏「韓国戦争期駐韓アメリカ公報院の宣伝活動:印刷媒体を中心に」 任松子「1960年代韓国労総の分裂・葛藤と民主労組運動に向かう変化相」 尹善子「近代文化遺産の現況と保存方案研究」 書評 任賛赫「解放後中国東北地域朝鮮人社会と韓国戦争:廉仁鎬『또 하나의 한국전쟁 만주 조선인의 ‘조국’과 전쟁』歴史批評社、2010年」 『韓国近現代史研究』56、2011.3 研究論文 金貞煥「韓末・日帝強占期ムーテル主教(Gustave Mutel)の教育活動」 尹悳泳「新幹会初期民族主義精力の情勢認識と「民族的総力量集中」論の提起」 韓詩俊「李青天と韓国光復軍」 任善和「大東青年団全南道団部の結成と活動」 韓成勲「北韓民族主義形成と反米愛国主義教養:社会主義的愛国主義と「国家的危機」の結合」 研究動向 松田利彦(辛珠柏 訳)「日本における韓国「併合」過程をめぐる研究:論点と傾向」 孫慶鎬「最近韓国戦争研究動向:2005年以後の研究を中心に」 『韓国近現代史研究』55、2010.12 企画 韓哲昊「『梅泉野録』に表れた黃玹の歴史認識」 朴孟洙「梅泉黃玹の東学農民軍と日本軍に対する認識」 朴杰淳「梅泉黃玹の当代史認識をめぐる議論」 研究論文 申栄祐「北接農民軍の忠州黄山集結と槐山戦闘」 崔起栄「1920-30年代柳基石の在中独立運動とアナーキズム」 朴賢「中日戦争期朝鮮総督府の金集中政策」 金載雄「北韓の民間商業統制策と商人層の対応(1945-1950)」 芮大烈「『世紀とともに(金日成回顧録)』に叙述された北韓民族解放運動史認識の変化相と含意」 批評論文 金勝一「東北工程以後中国学界の韓国史研究動向」 論壇 辛珠柏「東アジアにおける植民主義と領土問題」 『韓国近現代史研究』54、2010.9 研究論文 潘炳律「ロシア沿海州豆満江河口の韓人邑クラスノエ・セロ(Krasnoe Selo、鹿屯島)の形成と変化」 劉バダ「1883年金玉均の借款交渉における意味と限界」 韓成敏「倉知鉄吉の「韓国併合」計画立案と活動」 金美英「天道教新派の民族宗教回復運動と方向転換論理:日帝下『新人間』記事を中心に」 朴賛勝「1924年巖泰島小作争議の展開過程」 高珽休「1930年代アメリカ韓人社会主義運動の発生背景と初期の特徴:シカゴの在米韓人社会科学研究会を中心に」 朴光明「米軍政期中央経済委員会(1946-1948)の組織と活動」 金光載「光復以後上海仁成学校の再開校と変遷」 書評 李憲柱「開化派と統治機構の交差を描いた失敗の歴史:韓哲昊『한국 근대 개화파와 통치기구 연구』선인、2009年」 資料紹介 이원용「ロシア極東文書保管書所蔵極東地域韓人関連資料現況」 『韓国近現代史研究』53、2010.6 研究論文 梁台錫「晴簑曺成煥(1875-1948)の抗日独立運動」 曺永禄「日帝強占期杭州高麗寺の再発見と重建籌備会」 尹悳泳「1920年代中盤民族主義精力の情勢認識と合法的政治運動の展望:東亜日報主導勢力を中心に」 呉美一「資本主義生産体制の変化と空間の編制:日帝末期仁川地域を中心に」 宋炳巻「アメリカの戦後韓日間経済分離政策の形成と変容」 辛珠柏「大学における教養歴史講座としての「文化史」教材の現況と歴史認識(1945-1960)」 金玟錫「朴正煕政権の韓日漁業会談」 書評 金栄洙「過去を現在に引き出した歴史資料の力:宋炳基『울릉도와 독도, 그 역사적 검증』歴史空間、2010年」 『韓国近現代史研究』52、2010.3 研究論文 金成憓「高宗親政直後政治的基盤形成とその特徴(1874-1876)」 韓承勲「朝鮮の不平等条約体制編入に関与したイギリス外交官の活動とその意義(1882-1884)」 韓相禱「3・1運動直後『自由晨鍾報』刊行を通じて見た国内独立運動界の動向」 洪淳権「1920-1930年代東莱の地方選挙と朝鮮人当選者達」 李ハナ「1960年代文化映画の宣伝戦略」 任松子「1970年代韓国労総の向上セマウル運動展開様相と特徴」 資料紹介 張世胤「ある革命運動家の獄中の手紙」 『韓国近現代史研究』51、2009.12 企画:東学農民革命時期儒教知識人の東学農民軍認識と対応 申栄祐「1894年王朝政府の東学農民軍認識と対応」 金祥起「忠南地域儒教知識人の東学認識と対応」 権大雄「慶尚道儒教知識人の東学農民軍認識と対応」 朴孟洙「全羅道儒教知識人の東学農民軍認識と対応」 研究論文 姜孝叔「清日戦争期日本軍の朝鮮兵站部:黄海・平安道地域を中心に」 張暎淑「大韓帝国期高宗の政治思想研究」 朴賛勝「1904年功質派遣渡日留学生研究」 朴杰淳「北間島墾民会先行組織の推移と性格」 韓哲昊「明東学校の変遷とその性格」 金周溶「1920年代前半期北間島地域学生運動の様相」 朴鍾隣「1920年代前半社会主義思想の受容とマルクス主義原典の翻訳:『賃労働と資本』を中心に」 尹傚靖「民衆大会事件以後新幹会中央本部主導人物の結集と活動」 『韓国近現代史研究』50、2009.9 企画:3・1運動の世界指摘脈絡と海外韓人社会 田上俶「パリ講和会議と弱小民族の独立問題」 許洙「第1次世界大戦終戦後改造論の拡散と韓国知識人」 金広烈「在日韓人の民族解放運動と3・1運動記念:1910年代~1930年代を中心に」 金度亨「3・1運動期アメリカ韓人社会の動向と対応」 潘炳律「3・1運動前後ロシア韓人社会の民族アイデンティティ形成と変化」 研究論文 尹煕勉「1930年代全羅道南原『司馬案』編纂に映った身分意識」 呉鎮錫「1930年代京城電気の人事管理と女乗務員」 張泳敏「解放後「ヴォイス・オブ・アメリカ(Voice of America)韓国語放送」に関する研究(1945-1950)」 『韓国近現代史研究』49、2009.6 研究論文 金寿泰「1930年代天主教ソウル教区のカトリック運動:『カトリック青年』を中心に」 曺健「日帝の間島省「朝鮮人特設部隊」創設と在満朝鮮人動員(1938-1943)」 金仁植「安在鴻の左右翼概念規定と理念定向の変化」 金寿子「大韓民国政府樹立前後国籍法制定議論課程に表れた「国民」境界設定」 許殷「1969-1971年国内外情勢変化と学生運動勢力の現実認識」 書評 李玟源「Min Yong-hwan A Political Biography Michael Finch(University of Hawai’i Press, Honolulu and Center for Korean Studies, University of Hawai’i, 2002)」 張泳敏「許殷『미국의 헤게모니와 한국 민족주의 - 냉전시대(1945~1965) 문화적 경계의 구축과 균열의 동반』高麗大学校出版部、2008」 『韓国近現代史研究』48、2009.3 特集:韓国独立運動と大韓民国 金喜坤「3・1運動と民主共和制樹立の世界史的意義」 李浚植「社会主義民族運動と大韓民国政府」 辛珠柏「政府樹立と韓国近現代史の中における光復・建国の連続と断絶」 研究論文 朴今海「20世紀初間島朝鮮人民族教育運動の展開と中国の対朝鮮人教育政策」 全盛賢「日帝下東海南部線建設と地域動向」 許宗「日程時期李康夏の民族運動」 書評 安鍾哲「激動期(1900-1950)西洋人の韓国内活動についての追跡:Donald N. Clark, Living Dangerously in Korea The Western Experience 1900 ~1950(Norwalk, CT EastBridge, 2003)」 『韓国近現代史研究』47、2008.12 研究論文 朴銀淑「東道西器論者の「明富国強」論と民衆認識:『漢城周報』を中心に」 呉美一「開港(場)と移住商人:開港場都市ローカリティの形成と起源」 金賢淑「大韓帝国期度支部顧問アレクセイエフ(K. Alexeiev)の財政政策と親露活動」 姜孝淑「黄海・平安道の第2次東学農民戦争」 盧官汎「大韓帝国期張志淵の自強思想研究:団合論を中心に」 金恩智「大韓民国臨時政府の国内秘密結社義勇団の活動」 朴潤栽「朝鮮総督府の結核認識と対策」 潘炳律「抗日革命家李仁燮(1888-1982)の回想記に記録されたスターリン大弾圧と抗日革命歴史の復元・記念運動」 張泳敏「6・25戦争期「国連軍総司令部放送(VUNC)ラジオ放送に関する考察」 資料紹介 姜孝淑「第2次東学農民戦争と日本軍関連史料改題」 『韓国近現代史研究』46、2008.9 研究論文 朴鍾涍「官立俄語学校設立と教師ビリュコフ(Biruvkof)の活動(1896-1916)」 趙宰坤「韓末日帝下場市と浦口の存在様態:広川場と甕岩浦市の物流流通構造を中心に」 鄭台燮、韓成敏「乙巳条約韓・清間治外法権研究(1906-1910)」 朴慶穆「大韓帝国末期日帝の京城監獄設置と本監・分監制施行」 張圭植「1900-1920年代北米韓人留学生社会と島山安昌浩」 田炳武「日帝時期における朝鮮人司法官僚の形成過程:文官高等試験司法科合格者を中心に」 批評論文 朴杰淳「3・1独立宣言書公約三章起草者についての再論」 説林 崔書勉「安重根墓域推定の経過」 韓詩俊「大韓民国「建国60年」、その歴史的矛盾と歪曲」 資料紹介 朴鍾涍「国防省総司令部統制部、第二補充隊事件集 No.103(ビリュコフ(Biruvkof)の報告書)」 『韓国近現代史研究』45、2008.6 研究論文 尹素英「細井肇の朝鮮認識と「帝国の夢」」 李桂炯「一進会の学校設立と運営」 崔惠珠「雑誌『朝鮮』(1908-1911)に表れた日本知識人の朝鮮認識」 孫科志「第2次世界大戦終戦直後在上海親日韓人の司法処理とその限界:孫昌植の逮捕と釈放事例」 李相昊「ウェーク島(Wake Island)会談と中国軍参戦に対するマッカーサー司令部の情報認識」 李剛秀「1960年「良民虐殺事件真相調査委員会」の組織と活動:「調査報告書」分析を中心に」 批評論文 張世胤「日本靖国神社遊就館の韓国関連展示内容検討」 資料紹介 趙庸旭「第2次世界大戦直後連合軍総司令部のアジア・太平洋地域帰還政策:西太平洋における大規模送還に関する報告書(Report on Mass Repatriation in the Western Pacific)」 『韓国近現代史研究』44、2008.3 特集論文:金星淑の在中民族運動 孫艶紅「1920年代中国地域において展開した金星淑の民俗革命と社会主義運動」 金光載「金星淑の1930年代中国管内地域の独立運動」 韓相禱「重慶臨時政府時期金星淑の活動と政治思想」 一般論文 金志炯「『独立新聞』の対外認識と二重的世論造成:「ハングル版」と「英文版」比較を中心に」 韓哲昊「大韓帝国期駐日韓国公使の任免背景と経緯(1900-1905)」 呉鎮錫「1904-1909年日本の戦力産業侵奪と掌握過程」 崔善雄「1924-1927年上海青年同盟会の統一戦線運動と大韓民国臨時政府」 許宗「反民特委忠清北道調査部の組織と活動」 辛容玉「大韓民国憲法経済条項改正案の政治・経済的環境とその性格」 説林 韓詩俊「大韓民国臨時政府樹立記念日、質すべき」 『韓国近現代史研究』43、2007.12 研究論文 鄭台燮、韓成敏「開港後(1882-1894)清国の治外法権行使と朝鮮の対応」 具玩会「丁未義兵期湖左義陣の編制と義陣間連合の様相」 梁志善「韓人の内蒙古地域移住に関する研究」 金春善「中国延辺地域伝染病拡散と韓人の未帰還」 洪性讚「解放直後「商務社」の債権と政治勢力」 崔在聖「解放~6・25戦争直前時期金融組合の組織再建とその中心人物」 書評 朴杰淳「「民衆的民族主義」歴史学として20世紀を洞察し21世紀を模索する:李萬烈『한국 근현대 역사학의 흐름』푸른역사、2007年」 資料紹介 張錫興「サハリン地域韓人帰還:Repatriation of Koreans from Sakhalin, G-3 REPATRIATION」 『韓国近現代史研究』42、2007.9 企画論文:朝鮮義勇軍と国際連帯 韓相禱「朝鮮義勇軍と日本人反戦運動集団の関係」 廉仁鎬「朝鮮義勇軍(朝鮮独立同盟)と越南独立同盟」 張世胤「解放前後時期満州地域朝鮮義勇軍と東北抗日連軍の動向」 一般論文 尹善子「日帝下キリスト教の女性観と女性教育」 崔起栄「李斗山の在中独立運動」 許殷「米占領軍統治下「文明と野蛮」の交差」 許宗「反民特委忠清南道調査部の組織と活動」 鄭鎮阿「6・25戦争後李承晩政権の経済再建論」 『韓国近現代史研究』41、2007.6 研究論文 金祥起「韓末唐津地域義兵の抗日闘争」 李成雨「光復会名称と性格についての検討」 呉大禄「1920年代「全北民衆運動者同盟」研究」 韓詩俊「海公申翼煕と大韓民国臨時政府」 張泳敏「米国広報院の5・10総選挙宣伝に関する考察」 朴賛殖「「4・3」の公約認識と叙述の変遷」 資料紹介 孫科志「『中国戦場上的朝鮮義勇隊』朝鮮義勇隊に関する新しい資料」 1-20 21-40 41-60 61-80
https://w.atwiki.jp/ktaiuc/pages/17.html
「後天開闢時代の氏族メシヤの使命」 尊敬する全国姓氏連合の代表指導者、そして紳士淑女の皆様! きょう、皆様は、真に貴い歩みをされました。新千年を知らせる力強いときの声が、いまだに私たちの耳元に響いている今日、65億の人類の胸の中に、新しい希望と未来を約束してくれる後天開闢時代の開門が宣布されてから、既に2年目を迎えるようになりました。実に1日が千年のようであり、千年が1日のような天一国創建の多忙な日々が続いています。 このように貴い摂理的な時を迎え、私は、きょうこの場を借りて、選ばれた韓民族の一員として、全国姓氏連合の代表指導者であられる皆様の今後の方向と使命について、天が下さった特別メッセージをお伝えしようと思います。「後天開闢時代の氏族メシヤの使命」という題目のみ言です。 <人類の願い> 皆様、古今東西、老若男女を問わず、共通の夢があるとすれば、果たしてそれは何でしょうか。誰もが一様に願い、待ち焦がれてきたものは、「平和理想世界の具現」でしょう。しかし、人類歴史上ただの一度も天が喜び得る恒久的平和を実現させられなかったということが、歴史的な恨として残されてきました。 何が間違ったために、このようになったのでしょうか。一言で言えば、人間が神様の創造理想を知らないという無知に陥ったからです。数千、数万年待っても、無知からは完成を期待することはできません。 そうだとすれば、全知全能であられ、遍在される神様の子女として創造された人間が、なぜそのように無知の状態に落ちてしまったのでしょうか。 人類の先祖アダムとエバが、偽りの父母のサタンに従って堕落の道へと陥ってしまったからです。この事件こそ、人類歴史上、最初の悲劇であり、最も恨めしく、悲しい恥辱となってしまったのです。 したがって、遠大な創造理想をもって御自身の子女であり、真の愛の絶対的相対として創造した人間を捨てることのできない神様は、長久な歴史の中で、悲壮、凄絶な恨の心情で耐えてこられました。誰も知ることのできない歴史の裏道で、囹圄暮らしをして耐えてこられた人類の永遠の真の父母であられるのです。 <人間を中心とする平和追求の限界> 人間は今まで、歴史を通して、絶えず人間を中心とする平和運動ばかりを展開してきました。その良い例が民主と共産の対決です。個人の権益と自由をどれくらいより認定し、保障するのか、その程度の差だけであって、民主主義も共産主義も、すべて父母を失った子女たちがカインとアベルに分かれて争う、兄弟間の紛争の範疇を抜け出すことができませんでした。 人類は、誰彼を問わず、例外なくサタンの血統を受けて生まれたサタンの子女たちです。皆様自身のことを一度考えてみてください。日常生活の中でも、時々刻々、あらゆることにおいて善と悪が皆様の内部で主導権の争奪戦を展開しているではないですか。したがって、このような不完全な人間ばかりを中心として展開する平和運動は、歴史的に常にその限界にぶつかり、挫折してしまったのです。世界平和実現の華やかな夢を抱いて出発した国際連合(UN)が、今日その生まれながらにしてもつ限界点にぶつかり、人類にこれ以上希望を与えることができずにいることも、正にこのような理由のためです。一言で言えば、天が直接運行し、歴史を摂理できる時を迎えることができなかったということです。 皆様、しかし今では、時が変わりました。過去80年以上の歳月を捧げ、ひとえに天の道だけを歩んで勝利したレバレンド・ムーンの勝利的基台の上に、ついに後天開闢の時代が宣布されたのです。罪悪と桎梏の沼で苦しんでいた人類を解放・釈放させ、自由と幸福の世界である創造本然の理想世界を創建する天運の時が、私たちと共にあるのです。 天がレバレンド・ムーンを人類の真の父母として印を押され、新時代を開いてくださったことには、いくつかの明確な理由があります。第1に、「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生の価値を実践して勝利し、人類に伝授してあげたその勝利的基台のためです。人間は、誰もがために生きるように生まれました。しかし、堕落による無知のために、正反対の道である利己的個人主義に陥ってしまったのです。歴史上、初めてこのような天の秘密を明らかにし、人類を教育してきたレバレンド・ムーンの波瀾万丈の人生を神様はよく御存じでいらっしゃいます。 第2に、私は、一生を捧げて万難を克服し、勝利的基台を立てたのであり、真の愛の実践教育を通して、神様と人間が父子間の関係を再び回復し、定立できるすべての条件を充足させたのです。 愛の怨讐である姦夫サタンの子女となり、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の奴隷となって生きていた人類を、真の愛の根源であられる神様の真の血統に重生され得る道を開いてあげました。 真の愛の人生を通して個人完成を実現し、真なる家庭、真なる氏族、真なる民族、真なる国家、真なる世界を立て得る道を完全に開いてあげたのです。 <宗親たちの使命> 皆様、私たちが世の中を生きていってみれば、たくさんの因縁と関係が、必然的に私たちの人生に影響を及ぼすようになることを発見します。ところが、大部分の因縁は、人間の恣意による選択権の中で結ばれるようになります。皆様が置かれた環境や与件の中で、必要によって結ばれる因縁だというのです。このような因縁は、後天的な因縁であり、人間の努力いかんによって、いつでも変えたり、なくしたりできる人倫的次元の因縁にすぎません。 しかし、生まれる時から天が賦与してくださった天倫は、私たちの選択権の外にある因縁であり、関係です。血縁だからです。父母や兄弟を、嫌いだからといって変えたり、選挙で選ぶことができないのも、それが血縁的関係だからです。一度、金氏の家門の子女として生まれれば、永遠に金氏の家門の血統をもって生きるようになるのです。 ところが、今も人類が罪悪の落とし穴から抜け出すことができずにいる理由は何でしょうか。最初からサタンの偽りの血統を受けて生まれたからなのです。摂理的なみ旨と目的をおいて天が授けてくださった、先天的で原理的な血縁ではなく、人間の失敗によって引き起こされた後天的で非原理的な関係だという意味です。 言い換えれば、たとえ堕落して父母を失ってしまった孤児の立場になったとしても、天が下さった父母と子女の間の根本関係がなくなったのではありません。堕落して無知な植物人間となり、父母が厳然として生きていらっしゃるのに、気づくことができずに生きる目の見えない人生になってしまったのです。 したがって、堕落の血統を所有している人間は、誰彼を問わず、例外なく血統転換を経て再び生まれなければなりません。その道だけが、神様が下さった創造本然の血縁に還元する唯一の道だからです。 <交叉祝福結婚の価値> ところで、血統転換をして人類を再び神様の子女として探し立てる最上の方法は、交叉祝福結婚です。人種、文化、国境、宗教の壁を跳び越え、すなわちすべての怨讐関係の輪を断ち切り、新しい次元の天的血統を創造する大役事です。神様が、この現状世界を摂理されるために、実体をまとって顕現された平和の王、真の父母を通して再創造される神聖な血統転換の儀式です。 愛する姓氏連合の代表指導者の皆様、皆様も一度静かに考えてみてください。今日、私たちが身を置いているこの戦争と闘争の世の中を、何か他の方法で救うことができるでしょうか。怨讐の家門、さらには怨讐の国とも、交叉祝福結婚を通して、憎みたくても憎めない一つの家族になること以上に確実な方法がどこにあるでしょうか。 皆様は、数十万、あるいは数百万を代表する姓氏の代表指導者として、氏族的メシヤの位置に立っていらっしゃいます。数十、数百代にわたる皆様の先祖たちが総動員され、皆様の一挙手一投足を見守っていらっしゃいます。したがって、皆様の使命は、今、火を見るよりも明らかになりました。まずは、皆様の宗親たちに、後天開闢の時代、すなわち天一国創建の時が来たことを周知させなければなりません。天がこの時代に、真の父母様を中心として全世界的次元で展開していらっしゃる摂理的内容を、教育すべき責任があるという意味です。 交叉祝福結婚こそ、この地に平和理想世界を実現する究極的方法であり、手段であることを、はっきりと教えてあげなければなりません。そして、皆様の家門と氏族が、みな共に交叉祝福結婚の神聖な隊列に進み出なければなりません。 皆様、歴史上、空前絶後のこの後天開闢の貴い時代を、肉身を土台とする五感にばかり頼って暮らしている皆様の目では直接感知できないことが、本当に残念に思います。1日も早く霊的な五感が開き、天の摂理が今この時代にどのように成し遂げられていっているのかを、はっきりと認知して生きていける皆様となることを願う気持ちです。ところが、皆様が一つはっきりと知らなければならないことがあります。摂理的プログラムのために、皆様の立場から見れば代価なく受けたこの天運の時は、ただ皆様を待ってくれるばかりではないという点です。 倍達民族の精神を保全し、白衣民族の気概を守ってきたこの韓民族の姓氏連合の代表でいらっしゃる皆様は、今、一つに団結すべき時が来ました。これ以上無駄にする時間はありません。金氏ならどうで、朴氏ならどうだというのですか。慶尚道と全羅道が一つになれない理由がどこにあるのですか。民団と朝鮮総連も、みな同じ韓半島に根を置いています。韓国と北朝鮮はどうですか。みな同じ一つの血統を分かち合った兄弟姉妹の関係ではないですか。私たちはみな、白衣民族の子孫であり、天がこの時代に選び立てた選民の血族であることを肝に銘じるべき時です。 私たち全員の究極的な目標は、神様を中心にお迎えして生きる「神の国と神の義」を探し立てることです。「神の国」とは、どのような国でしょうか。3代が調和し、お互いに信じ、尊敬し、頼り、愛で一つになって暮らす真なる家庭の姿と同じ、平和理想王国を意味するのです。すなわち神様主権の国が、正に「神の国」だというのです。 そうであれば、「神の義」とは何に対して語られたみ言ですか。天道と天理を意味するのです。あらゆる権謀術数が支配しているこの邪悪な世界を天的真の愛の権勢によって審判し、正義と真理に基づく解放・釈放の真の愛と平和の理想世界を創建せよという至上命令です。人類は、どのみち一つの家族になります。現代科学の目覚しい発展も、一つの地球村家族を編成していくことを大きく後押ししています。白人と黒人が、東洋と西洋が、みな一つの家族として交わって調和を成し、美しい平和理想王国をこの地球星に創建するようになります。 <天宙平和連合の出現> そのような次元で、私が創設した天宙平和連合と蒙古斑同族連合の役割が、より引き立つようになります。天宙平和連合は、今既存のUNのアベル的位置に立ち、民族的で国粋的なUN代表部の角逐の場ではなく、汎世界的で超世界的な天宙的次元で、人類の平和と福祉のために崇高な革命を遂行していくでしょう。外的で、形式的なスローガンに縛られるUNではなく、より根本的で実質的な次元で、真に人類のためのメシヤ的使命を果たすようになるでしょう。 そのような目的のもとに、私は、既に昨年の10月20日、天宙平和連合創設メッセージを世界120カ国に伝播する世界巡回路程の中、ウクライナにおいて、自然災害を防ぎ、家庭倫理の確立や純潔を守ることを促進する平和組織「世界平和王国警察」と「世界平和王国軍」の創設を満天下に宣布しました。この二つの組織は、今から私たちの体の赤血球と白血球のような役割を果たし、世界の至る所で天の血統に接ぎ木され、新しい出発をした祝福家庭を保護し、一方では、神様が下さったエデンの園、すなわちこの美しく有り難い地球星を守り、保護し、育てあげる警備隊の役割を果たすようになるでしょう。 蒙古斑同族連合の皆様、世界人口の74パーセントを占めている蒙古斑同族は、世界で最も大きい単一同族体です。50億に近いこれらの人々を糾合し、この地球星に真の愛の台風を起こさなければなりません。皆様とレバレンド・ムーンは、同じ韓半島で生まれ、同じ文化圏を享有しています。皆様は、私の教えである真の愛、真の生命、真の血統を通じた真の家庭完成の真理を伝播し、教育する平和大使であり、天の特使にならなければなりません。 蒙古斑は、単純にモンゴリアンを表示するために生じた生理的な斑ではありません。後天開闢の時代が訪れる時、真の父母様を中心として全人類を糾合し、統一する求心点とするために、いち早く天が下さった証票であることは間違いありません。さらには、蒙古斑同族の中心軸の位置に立っている韓民族は、65億の人類の先頭に立ち、真の父母様の代身者としての使命を果たさなければなりません。 皆様は、天宙平和連合の崇高な志に従い、天のために、そして人類のために、誇らしい「平和王国警察」と「平和王国軍」の隊列に進み出なければなりません。280の姓を超える韓国のすべての姓氏たちは、自らの姓氏と宗親の壁を跳び越えて一つになり、天がこの時代に選び立てた選民としての位相を立てなければなりません。これが正に倍達民族である韓民族の宗親代表指導者の皆様に下さった天命であることを肝に銘じてくださるよう願います。 神様が太初に人間を創造され、願われた創造本然の平和理想世界創建が、皆様の目前で、今実現されつつあることを忘れないでください。これが正に奇跡でなくて何でしょうか。世界の至る所に、交叉祝福結婚家庭が天の真の愛の根を下ろしています。新しい天の血統が実を結んでいます。この美しい地球星を本然のエデンの園に育て、人類は今から永遠の平和と幸福を謳歌し、子々孫々、天一国のハレルヤを心ゆくまで叫ぶようになる日が近づいています。 皆様と皆様の氏族、そして韓民族の上に、神様の大いなる祝福と恩寵が共にあることを願います。 ありがとうございました。
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/177.html
トップページ>歴史>史叢 『史叢』80、2013.9 特集論文:岩倉使節団と西洋都市体験 박진빈「自然、都市、国家:岩倉使節団のアメリカ体験」 이영석「岩倉使節団が見たイギリスの工業都市」 민유기「岩倉使節団のフランス近代都市体験と認識」 전진성「ビスマルクの歓待:『米欧回覧実記』に現れた近代日本の自己模索とプロイセン」 一般論文 최호원「淵蓋蘇文の政変と高句麗・新羅関係」 許殷「1980年代上半期学生運動体系の変化と学生運動文化の拡散」 권용철「大元帝国末期権臣エル・テムル(燕鉄木児)のクーデター:「ケシク」出身としての政治的名分について」 홍성화「中国近世戸絶財産に関する法的規定と現実」 권인용「1884年「崔薬局命案」の解体と再編:田保橋潔の研究に対する批判的検討を中心に」 전성곤「非「民族」と反「民俗」の思想的境界:『民族』雑誌の内容を中心に」 박삼헌「明治維新と国民幸福の誕生」 송병권「1940年代前半日本の東北アジア地域政治経済認識:東亜広域経済論を中心に」 구경남「1950年代日本歴史教育の国家統制と教科書叙述分析」 구자청「マルクスからスターリンへ:マルクス主義民族論を通じてみたソビエト民族政策の歴史的系譜」 『史叢』79、2013.5 金允嬉「文明、開化の系譜と文化(1875-1905):概念の意味化過程を中心に」 김종복「中華主義の克服と歴史認識の変化:柳寅植の『大東史』を中心に」 조성산「近代転換期中華主義の危機と朝鮮史認識」 최규진「優勝劣敗の歴史認識と「文明化」への道」 韓哲昊「大韓帝国外交顧問スティーブンスの外交権掌握と新日外交:日本の独島強占前後を中心に」 이규태「蔚陵島山林採伐権をめぐる露日の政策」 鄭泰憲「日帝下朝鮮人「高文」合格者の学校・官僚生活と時代認識」 윤상원「『高等学校韓国史』教科書のロシア地域独立運動史叙述現況と課題」 노재식「19世紀末ドイツ宣教師エルンスト・ファーバル(Ernst Faber)の中国選官制度と儒教思想についての認識:科挙制度と五倫についての認識を中心に」 李銀子「1920-1930年代国境都市新義州の華工と社会的空間」 『史叢』78、2013.1 김경란「朝鮮後期の郷村基盤新興勢力構築過程についての研究事例:慶尚道丹城県青松沈氏」 조덕현「韓国戦争初期の機雷戦」 김진우「先秦儒家」孝治」理論の初期形態:『郭店楚倚』の分析を中心に」 김택민「中国古代守陵制度と律令:高句麗守墓人制度の理解のための参考資料」 申東珪「豊臣秀吉の朝鮮侵略とポルトガル関係についての考察」 李世淵「1930-1940年代日本の対外戦争と「怨親平等供養」」 『史叢』77、2012.9 정재윤「中国系百済官僚についての考察」 姜制勲「朝鮮前期儀仗制度の整備と象徴」 韓哲昊「『独立新聞』(1896-1899)の治外法権認識:日本人関連犯罪を中心に」 김성은「新女性河蘭史の海外留学と社会活動」 김선민「『旧満州档』から『満州実録』まで:清太祖実録の編纂と修正」 김종박「中華民族多元一帯論の登場と東北工程の論理的矛盾」 송완범「「日本律令国家」の都市「平城宮京」研究」 William A. Pettigrew「優柔不断の受容:奴隷とヨーロッパアイデンティティの関係」(英) 『史叢』76、2012.5 宋圭振「朝鮮の「北方圏」貿易を通じた経済協力ネットワーク強化過程」 신용균「1930年前後李如星の弱小民族運動研究と民族解放運動論」 김하영「アメリカの東アジア進出と東海」 신용옥「「平和線」画定過程の論理展開とその性格」 허혜윤「清代の土地典売慣行と法令:建隆18年条例を中心に」 李銀子「広東13行と開港の記憶」 김지환「1930年代山西省土地村公有制の背景と性格」 박정현「1950年代台湾の反共と大陸反攻計画」 임상범「鄧正来と社会科学論争:中国(法学)はどこへ行くべきか?」 盧永順「ベトナム嗣徳皇帝前半期の官僚君主制考察:君主と高位官僚が内憂外患・改革・失地回復に対処する方法論を中心に」 민유기「パナマ運河政経癒着不正と1890年代フランスの政治変化」 박찬수「高麗史の学式と九斎についての小考」 『史叢』75、2012.1 特集論文 朴耕志「朝鮮初期社稷親祭儀礼の整備とその意味」 蘇淳圭「朝鮮初大閲儀の儀礼構造と政治的意味」 安スルギ「朝鮮初期文科関連意識の運営とその意味:文科殿試儀註と放榜儀註から見た朝鮮国王の位置」 一般論文 최의광「新羅下代王位継承紛争と国人」 이정철「李珥の経世論の成立とその政治的背景」 朴喜声「露日戦争期間国際関係と韓国:ポーツマス条約を中心に」 정혜중「清末民初金融機関と信用決済の発達:山西票号と寧波銭荘の発展過程を中心に」 朴尚洙「近代東アジア空間の中国人移住:構造的背景を中心に」 변영섭「文科の時代読画と余白」 『史叢』74、2011.9 朴賛興「古朝鮮、扶餘、高句麗の歴史的継承関係研究」 박세연「朝鮮初期世祖代仏教的祥瑞の政治的意味」 김종박「中国古代四川地域巴蜀人の出現と中原文化」 김선민「満州帝国なのか、清帝国なのか:最近アメリカの清代史研究動向を中心に」 金希信「1930年代国立四川大学と「国家」の象徴性」 김영숙「アジア太平洋戦争期在米アジア移民社会の動向:米日開戦を前後した時期における在米日本人社会の動静を中心に」 説林 조경철「2010年検認定6種『高等学校韓国史』教科書の三国時代関連叙述検討」 『史叢』73、2011.5 樓正豪「新たに発見された新羅入唐求法僧恵覚禅師の碑銘」 박미선「18・19世紀王室乳母の範囲と位相:『度支条例』と『例式通考』を中心に」 박용규「『朝鮮語辞典』著者文世栄研究」 김경호「秦・漢初行書律の内容と地方統治」 金鉉球「古代日本の渡日韓人集団に対する政策」 박정수「延辺朝鮮人の国共両党認識と対応:1945-1949年」 윤선자「ルネサンス時期ディジョン「メル・フォール(Mere Folle)」の象徴と談論:狂気(Folie)を中心に」 전영준「2009年改訂教育課程と現行中学校8種歴史副図分析:高麗と朝鮮時代を中心に」 『史叢』72、2011.1 오항녕「東アジア封建談論の連続と断絶」 金昌賢「高麗時代綾城雲住寺についての探索」 이정철「大同法の成立における金堉の役割」 박성순「丙寅洋擾時期李恒老の薦挙をめぐる政局の動向」 김종헌「韓国駐在ロシア総領事プランソン(Planson; Георгий Антонович Пласон)の着任過程において提起された認可状付与問題に関する研究」 韓哲昊「日帝の韓国併呑に対する韓国人の対応と認識」 李炯植「朝鮮総督の権限と地位についての試論」 고명수「クビライ政府の南海政策と海外貿易の反映:モンゴルの伝統的世界観と関連して」 이훈「清代建隆期満州族の根本之地創造:京師旗人の移住と満州の封禁を中心に」 기세찬「太平洋戦争初期連合国の同盟戦略と対日作戦」 『史叢』71、2010.9 特集論文:四月革命と民主主義 이창언「4・18高大行動の政治社会的条件とミクロ的要員:能動的関係の網を通じた抵抗の意味の形成・拡散を中心に」 許殷「4・18高大生デモ主体のアイデンティティと社会運動の展開:口述資料を中心に」 조대엽「4・18高大行動と韓国の民族主義:高大民主主義の論理と展望」 이상록「4・19民主抗争直後韓国知識人の民主主義認識:自由民主主義と民主的社会主義を中心に」 김기승「四月革命と韓国の民族主義」 민유기「西洋の四月革命認識とその世界史的意味:イギリス・フランス・アメリカの言論と外交文書を元に」 太田修「「四月革命」と日本」 孫科志「中国の韓国4・19革命についての認識:『人民日報』を中心に」 一般論文 이장웅「百済熊津期、クマ信仰の歴史的展開と穴寺」 양정석「新羅月城の空間構造認識についての再検討」 이영옥「大清会典:明文化された満州人の中国支配」 趙明哲「上原陸軍大臣の辞退と師団増設問題」 『史叢』70、2010.3 조경철「百済王興寺の創建過程と弥勒寺」 김우철「鄭喬の中国史理解と現実認識」 李鎮漢「民世安在鴻の韓国中世史認識と唯物史観の批判」 김택민「7-9世紀東アジアの経済交流と文化交流」 尹裕淑「近世朝日通交と非定例差倭の朝鮮渡海」 朴三憲「加藤弘之の後期思想:立憲的族父統治論を中心に」 『史叢』69、2009.9 特集論文:西洋近代運河と水路工学についての歴史的省察 Thoumas Lekan「水路工学と環境史、そして近代国家の形成」 민유기「フランスミディ運河の建設動機と効用性の変化」 김종원「イギリス運河体系の発展と衰退:バーミンガム運河を中心に」 박진빈「商業とアメリカの西部征服:エリー運河を中心に」 一般論文 문영주「日帝時期都市地域有力者集団の社会的存在形態:都市金融組合民選理事、組合長を中心に」 이동규「古代オリエント・マリ(Mari)の条約文書に現れた盟誓」 김종헌「「巨大なゲーム」とイギリスの極東探査活動に関する研究」 楊艶秋「朝鮮王朝「仁祖反正」辨誣と『明史』編纂」(中) 徐行「莫斯科中山大学の国共両党に対する政治的影響」(中) 『史叢』68、2009.3 特集論文:日本内韓国人集団居住地の歴史的研究 서보경「渡倭した百済系韓人と河内:百済王族の渡倭と関連して」 송완범「日本律令国家の百済郡、高麗郡、新羅郡に見える交流と共存」 김보한「中世日本漂流民、被虜人の発生と居留の痕跡」 尹裕淑「近世初西日本地域「朝鮮人集団居住地」」 方光錫「1920-30年代関東地域「在日朝鮮人」社会の形成と地域社会」 一般論文 趙允旋「粛宗代刑曹の裁判業務と合意制的裁判制度の運営」 김백영「日帝下ソウルの都市衛生問題と空間政治:上下水道と井戸の関係を中心に」 金志煥「中日戦争時期汪精衛政府の統制経済政策」 李銀子「台湾の大学歴史教材分析:中国近代史(1840-1910)の韓中関係史を中心に」 『史叢』67、2008.9 特集論文:1948年南北韓建国と東北アジア列強の認識 鄭泰憲、許殷「脱冷戦歴史認識としての分断・建国理解」 이주철「北韓の政府樹立と列強に対する認識:『正路』『労働新聞』『勤労者』を中心に」 임종명「解放以後韓国戦争以前アメリカ紀行文のアメリカ表象と大韓民族の構成」 고정휴「アメリカの南北韓政府樹立に対する認識:太平洋問題研究会(IPR)とその機関誌を中心に」 기광서「ソ連の南北韓政府樹立に対する認識:1948年度『プラウダ』関連記事を中心に」 이규수「大韓民国政府樹立と日本の韓国認識:朝日新聞の報道を中心に」 임상범「中国の南韓政府樹立に対する認識:1948年5月から8月までの新聞記事を中心に」 一般論文 최선웅「雪山張徳秀のマルクス主義国家観批判研究」 金鍾博「明清時期揚州都市の発達と塩商文化の形成」 尹裕淑「17世紀朝日間日本製武器類の交易と密売」 趙明哲「近代日本の戦争と膨張の論理」 『史叢』66、2008.3 特集論文:中国東北工程の研究現況と分析 이동훈「中国の古朝鮮史研究動向と問題点」 이원배「中国高句麗起源研究の考察」 김영천「中国学界の高句麗対外関係研究動向」 신선혜「渤海の帰属問題についての中国学界の研究動向と問題点」 一般論文 이기순「李若氷の政治活動と王道政治論」 허성희「「盛世滋生図」を通じてみた18世紀蘇州」 이호현「近代の中の上海映画:1930年代左翼映画を中心に」 李銀子「中国近代史叙述についてのふたつの視角:中国歴史教科書と台湾歴史教科書の比較分析を中心に」 李丙煉「歴史教育と人権:アメリカ革命における人権」 魏志江「中国学術界の『高麗史』に関する研究とその運用」(中) 『史叢』65、2007.9 박진「族親衛の設置と性格:族親衛を通じてみた王室構成員所属特殊軍」 강일휴「西洋中都市史研究の視角と争点:フランスを中心に」 민유기「フランス近現代都市史研究の発展過程と特性」 朴尚洙「中日戦争前後対日協力者「汪精衛集団」の形成(1928-1938)」 陳謙平「抗戦前半期南京と長江三角州地域の傀儡組織研究」(中) 尹恩子「鄂西南の秘密結社の変遷:啯噜から漢流へ」(中) 『史叢』64、2007.3 장경희「高宗皇帝の金谷洪陵研究」 이상식「大学修学能力試験を通じてみた第7次教育課程と国史教育」 류시현「旅行と紀行文を通じてみた民族・民族史の再認識:崔南善の事例を中心に」 민유기「韓国都市史研究についての批判と展望」 박진빈「アメリカ都市史研究の特性と論点」 王先明「20世紀前期の山西郷村の雇工」(中) 『史叢』63、2006.9 이기순「朝鮮後期人口史の批評と展望」 양정심「済州4・3抗争とレッド・コンプレックス」 徐行「ヨーロッパにおける中国民族解放運動:周恩来らヨーロッパ「勤工倹学」学生の政治活動を中心に」(中) 盧永順「人民戦線期ベトナム共産主義者の合法闘争」 조준형「プロレタリア文化運動と理論的背景」 김민철、조세열「争点と動向:「親日」問題の研究傾向と課題」 『史叢』62、2006.3 宋圭振「日帝下参政権請願運動の論理」 장경희「朝鮮・清間の帽子貿易と製作実態研究」 于澎「山東歴代「政区」沿革」 李恭忠「「倭寇」の記憶と中国海権観念の発展:明末清中期海防論著の初歩的考察」(中) 민유기「19世紀パリの都市化と売春」 홍용진「中世末フランス王政と「国家」イデオロギー:フィリップ4世(1285-1314)とシャルル5世(1364-1380)時期を中心に」 『史叢』61、2005.9 特集論文:朝鮮初期の政治と王権 閔賢九「朝鮮太祖代の国政運営と君臣共治」 李在勲「朝鮮太宗代三軍鎮撫所の成立と国王の兵権掌握」 金順南「朝鮮世宗代末葉の政治的推移:世子の代理聴政と国王・言官間の葛藤」 姜制勲「朝鮮世祖代の朝会と王権」 金範「朝鮮成宗代の王権と政局運営」 一般論文 柳承宙「朝清連合軍の椵島明軍討伐考」 馬克鋒「晩清立憲運動と20世紀の中国」(中) 박소연「Marie d`Oignies(1177~1213)の信仰生活とその意味」 争点と動向:植民地、占領地の「協力」(Collaboration)研究 朴尚洙「中日戦争期中国の対日「協力」に関する研究の視角と展望:欧米学界を中心に」 尹輝鐸「「満州国」の植民体制構築と中国人の協力体系に関する研究動向:中国学界の研究成果を中心に」 許育銘「「帝国」日本の管轄下周辺区域における対日協力者たち:台湾の「御用紳士」研究について」(中) 盧永順「「帝国への協力」とインドシナ(1940-1945)」 李大憲「第2次世界大戦当時ドイツ占領地における「collaborator」の登場に関する研究:フランス、オランダ、ハンガリーの場合」 1-20 21-40 41-60 61-80 81-100
https://w.atwiki.jp/kuizu/pages/3609.html
けいしょうほくどう・キョンサンプクト 自作 領土問題に揺れる竹島、日本では島根県に属していますが、韓国では何道に属していると主張している? (2012年6月16日 早押しで出題するのが難しいからペーパーで出題するんにゃろー!(略して早押屋ペー) ) タグ:地理 Quizwiki 索引 あ~こ
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/846.html
前半は、李氏朝鮮参照 開国圧力と大韓帝国 - 高宗時代前期~中期 59年間に渡る安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなくなっていたために、手をこまねいているしかなかったが、その中から安東金氏より権力を取り戻そうという動きが出てくる。1863年に第26代王高宗が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)とTemplate lang?応(Template lang?は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。Template lang?応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明世子(翼宗)の養子とし、そのまま高宗として即位させた。神貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ(興宣大院君)、摂政の地位についた。このとき高宗は11歳であった。 興宣大院君が摂政になるとまず行ったのは、安東金氏の勢道政治の打破であった。安東金氏の要人を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くした。 一方で、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取った。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となってしまう。まずカトリックへの弾圧を強化し、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した(丙寅教獄)。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866年、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全てを投入して(軍艦7隻、兵約1300名)して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし首都漢城へ進軍中に発生した2つの戦闘で(文珠山城戦闘、鼎足山城戦闘)で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる(丙寅洋擾。擾は手偏に憂)。 一方、この事件の2ヶ月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いた(辛未洋擾)。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。 大院君はこれらの成功を以って、さらに攘夷政策を強化するが、1866年になると王宮に入った閔妃の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。1873年、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。 閔氏一族は、大院君の攘夷政策から一転し開国政策に切り替える。1875年には日本軍が開国を求めて江華島に侵入してきた。開国派が主流をなした閔氏政権は、1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結する。それに引き続いて、アメリカ(朝米修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶ事になる。 一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。 また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊の扱いがなおざりになり、給与不払いや差別待遇などが行われていた。これらに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派の煽動も有って、1882年閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午軍乱)。この軍乱で一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行された。壬午軍乱により閔氏政権は、親日政策から親清政策へ大きく転換する事になる。この政策は親日開化派の不満を招き、また朝鮮の軍隊は清と日本の干渉により有名無実化していく。また混乱から国内では反乱が生じる。 1884年12月、金玉均、朴泳孝ら開化派(独立党)がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変)。また1894年には東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発する。東学党の乱が勃発すると、親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾にこの戦争に介入した。東学党の乱は2国の介入により、官軍と農民軍の和議という形で終結するが、清軍と日本軍は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の政治は金弘集が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日、金玉均が上海で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されている。 その後東学党の乱の鎮圧に朝鮮政府が清に援軍を要請し、それに対抗して日本が朝鮮に出兵を行ったことから日清戦争が勃発し(1894年-1895年)日本軍の勝利に終わると、下関条約により、朝鮮と清の冊封関係は終り、日本の影響下におかれる。一方、朝鮮での立場が弱くなった閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより朝鮮人と日本人の手で1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。 自分の后が暗殺されるという事態に直面した高宗は恐怖を感じ、1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。1年後高宗は王宮に戻るが、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。日本は朝鮮の保護国化と主権剥奪の路線を進めていく。 日本による保護国化から併合-高宗後期~純宗時代 1904年になると、日露戦争が勃発し、日本側の勝利に終わる。1905年には軍事力を背景とした日本側の威圧のもとで第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文であった。一方、高宗も1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが(ハーグ密使事件)、アメリカ、イギリスともに日本の保護国化政策を認めていたため、この主張は認められなかった。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及びその後ろ盾である韓国統監伊藤博文は日本の軍事力を背景に高宗に譲位するよう迫り、同年退位することとなった。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。 1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。これに続き日本政府内では最終的な併合の時期をめぐって話し合いがもたれた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は早期併合派に対して異論を唱え、当初は早期併合には反対の姿勢をとった。彼が早期併合に反対する理由として述べたのは、 現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国侵出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしである。 上記の理由に加え、財政支出の増大を招くことからも早期併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。 ということであった。 しかしその後、韓国国内での義兵闘争はますます苛烈となり、また朝鮮宮廷の懐柔も伊藤が想定したほどの効果は上がらなかった。業を煮やした伊藤は自分の取った方針が不適切だったと感じ、遂に1909年7月6日の閣議で他の閣僚の進言を受け入れ積極的併合策への転向を明言したTemplate 要出典?。韓国侵出の実質的な総責任者であった伊藤の方針転換により韓国併合への障害は無くなり、同会議で日韓併合が正式決定された。1909年10月26日に伊藤博文は安重根によって暗殺されたが、既に韓国併合の流れは決定的なものとなっていた。日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉をすすめ、1910年8月22日、日本の軍隊が王宮を取り囲み、反対派を威圧するという厳戒状態の中日韓併合条約は締結された。ここに韓国は日本に併合され、地域名を示す朝鮮と改称した(したがって、植民地に適用されないと条文で明記されている条約等は、当時の日本政府の解釈により、朝鮮には適用されていない)。これにより、518年に及ぶ朝鮮王朝は滅亡した。 政治 国王 朝鮮の国王は、全州李氏の出自である初代国王李成桂の子孫(李王家)によって世襲され、国号を大韓帝国と改めた高宗までの間に26代を数えた。中国に倣った朝鮮の国制によれば国王は国家の最高権力者であるが、明では廃止された合議制による宰相の制度があり、中国ほど徹底した専制制度ではない。 Template See also? 官制 官の上下関係は、中国に倣った官品制をとる。それぞれの官には対応する品が定められ、品は一品を最上位とし、以下、二品、三品、と一品から九品までの九階に分かれていた。各品には正と従の区別があり、正一品の官が最上位、従九品の官が最下位となる。その中で正三品は堂上と堂下に別れ堂上官は王宮に上がり王と対面する事が可能だった。一般的に高官と呼べるのは従二品以上であり、品階により、住居・衣服・乗り物などに差が付けられていた。これらの官職は常時改変が為されていたが正式にまとめられた形で出てくるのは世祖時代の『経国大典』による。 官は、大きく内府である女官の内命婦、外府である京官職および外官職に分かれる。また、王族女子・功臣・文武官の妻に対する官位(外命婦に属す)もあるが、名目上のものであった。それ以外では、中国からの使節の応対を行う非常勤職の名誉職奉朝賀、宮殿の内侍を行う内侍府(大抵、宦官が職務に付き王の身の回りの雑務を行う)、雑役に従事する雑職などがあった。 王朝に使える諸官は科挙を通じて、文官は文科、武官は武科によって選抜され、武官は文官に比べて常に低くおかれていた。また中人階級が付ける技術職は更に下に位置し、雑科によって選抜された。特に李氏朝鮮初期の王子達の私兵による争いの後は、武官・軍事に関しては厳しく管理されていた。また、各官府には官職・官位の上限があり、決められた品以上に就くことは出来なかった。 王族は宗室と呼ばれ、自動的に京官職の宗親府に属する。宗室も一般の官と同様に正一品が最上位になるが、王の子(大君・王子君・公主・翁主)は位階制度の上にあって品を持たない。宗室において最も上の官職は君と呼ばれ、正一品から従二品が与えられる。外戚や功臣なども忠勲府に属し、最高位を正一品とした官職が自動的に与えられた。忠勲府の最高位は府院君であり、次が君である。従って君と言う称号は王子・王族の事を差す訳ではない。 行政の最高機関は議政府であり、基本的に文官のみが付くことが出来た。議政府の最高位は正一品の領議政であり、その下に同じく正一品の左議政と右議政が居た。他の正一品の官職には各院・各府の都提調・領事などがある。 議政府の次に位置するのが正二品の判書であり六曹の大臣やその他の官衙長官の職務を担当し、判書を補佐するのが従二品の参判や、正三品堂上の参議であった。 また、功臣の子弟や外戚は成年すると自動的に忠勲府や宗親府に配された為に科挙を受けずとも官品を受けることが可能であり、まず役職を授かってから科挙を受け、官僚になることが多かった。 首都 当初は高麗を踏襲して開城を首都と定めていたが、間もなく漢陽(漢城、現在のソウル)へと遷都が行われた。その後、王子の乱等によって生じた混乱から、開城と漢陽を行き来していたが、第3代太宗以降は漢陽に落ち着く。 李氏朝鮮末の漢陽の人口は約25万と推定されている。儒教思想により、王宮より高い建物を建てることはできず、街には2階建ての建物は存在していなかった。風水思想とオンドルの効果を高める為に半階建てとも言える低い家が建てられていた。漢陽内の土地は全て国の所有物であり許可無く建物を建てることができず、階級・派閥によって居住区が指定されていた。 首都内に土地を借り、建物を建てる許可を得るには年月がかかるため、民間人による街路の占拠が盛んに行われ、仮屋と呼ばれる建物により道幅は非常に狭くなっており、商店の建ち並ぶ通りは雑然とした雰囲気に充ちていた。 また汚水処理の施設や対策は1905年の第二次日韓協約の直前の10月までに行われず、韓国政府と皇太子(後の大正天皇)の寄付をもってようやく本格的に公衆トイレの設置と道路の清掃作業が行われるようになった。それ以前の漢陽は道路も河川も汚物に汚れるに任せていた。19世紀初めのロンドンの下町では、アパートの上層の住民が排泄物をおまるで路上にぶちまけるので、常に頭上を注意しなければならなかったという逸話があるが、そのイギリス人で開国後の李氏朝鮮を旅行したイザベラ・バードや、李氏朝鮮末期の開国前にキリスト教布教に携わった宣教師などの西洋人ですら、漢陽(現在のソウル)を世界でも指折りの不衛生な都市と指摘している。 地方行政 朝鮮八道という、大きく八つの道に分けて行政を行った。なお、現代の北朝鮮・韓国の行政区分もこの朝鮮八道を元にしている。また、首都ソウルと開城・江華・水原・広州の4都は直轄地とされ京官府に属し、ソウルは漢城府が、四都は各府の留守職がこれを治めた。 朝鮮八道 咸鏡道 (咸鏡北道・咸鏡南道・両江道の一部・羅先直轄市 北朝鮮) 平安道 (慈江道・平安北道・平安南道・両江道の一部・平壌直轄市・新義州特別行政区 北朝鮮) 黄海道 (黄海南道・黄海北道 北朝鮮) 江原道 (江原道 韓国 / 江原道・金剛山観光地区 北朝鮮) 京畿道 (京畿道・ソウル特別市・仁川広域市 韓国 / 開城直轄市・開城工業地区 北朝鮮) 忠清道 (忠清北道・忠清南道・大田広域市 韓国) 慶尚道 (慶尚北道・慶尚南道・釜山広域市・大邱広域市・蔚山広域市 韓国) 全羅道 (全羅北道・全羅南道・光州広域市・済州特別自治道 韓国) 対外関係 中国との関係 日清戦争に至るまで500年に渡り、李氏朝鮮は中華王朝たる明および清の冊封体制の中にあり、中華王朝に事大の礼をつくしていた。朝鮮の君主は中華王朝の皇帝を世界でただひとりの天子として敬い、皇帝に対する朝貢や、朝鮮に対する使節の歓待を礼を尽くして行い、「東方礼儀之国」と呼ばれた。このような思想を朝鮮の人々に浸透させるイデオロギーとして儒教が活用され、儒教の本場として中華王朝には敬意が払われた。とくに日本軍の侵攻に際して明が援軍を出して助けたことは「再造の恩」と呼ばれ、17世紀には実力で屈服させられている清よりも恩のある明を敬うべきとする議論がなされる。 事大主義をとっていた李氏朝鮮では、中華王朝の人間は例え犯罪者でも裁くことができず、本国へ丁寧に輸送すべきものとされていた ref name=book 村井章介『中世倭人伝』。そのため後期倭寇最盛期には明人倭寇を討ち取ってしまい処罰される者が出るほどであった朝鮮王朝実録 明宗21年7月辛卯。 朝鮮が朝貢していた明や清の皇帝からはしばしば使節が派遣されるが、このとき朝鮮王みずからが皇帝の勅使を歓待して、皇帝に臣従する意を確認する儀礼が行われた。この儀礼のために漢城の郊外につくられたのが慕華館・迎恩門であり、国王は使節が漢城に至ると慕華館で出迎えて礼を尽くす慣わしであった。後に李氏朝鮮と清の冊封関係が終わると、慕華館は独立館となり、迎恩門は破壊された(後述)。 中国以外の国との関係 中国以外の国や民族に対しては、自身を中華世界の上国として位置付け、交易や政治関係において朝鮮国王への服従を要求する擬似朝貢体制をとった。明が滅び清が興ると中原の中華文明は滅んだとみて、朝鮮が中華文明の正統な継承者だと考えるようになった。いわゆる小中華思想である。 南の日本人に対しては、倭寇を防ぐために、交易を認めた者も倭館と呼ばれる居留地への居住を義務付け、きびしく取り締まった。倭館ははじめ富山浦(釜山)、乃而浦(鎮海)、塩浦(蔚山)の三浦にあり、三浦倭館と呼ばれたが、1509年に起こった三浦の乱やその後の倭寇事件で釜山一港に限定された。また1592年に勃発した文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶したが、財政の存立を朝鮮貿易に依存していた対馬藩の必死の努力によって1607年日朝の国交が回復し、釜山に倭館新設も認められた。日本使節のソウル上京は認められなかったが、将軍の代替わりを祝賀する朝鮮通信使が江戸を訪問し、対馬藩による釜山貿易も江戸時代を通じて続いた。朝鮮国王と日本の将軍の関係は、室町時代に足利氏が明から日本国王として冊封されたこともありおおむね対等として扱われたが、対馬藩主の宗氏は朝鮮に対して朝貢に近い服属儀礼を要求され、釜山の倭館では国王に対する拝礼の儀式が行われていた。 Template Main? また、半島の北の満州(マンチュリア)に住んでいた女真人との交易も行われていたが、彼らは日本人以上に組織化されていなかったこともあり、より朝貢に近い儀礼関係を結ばせていた。しかし、女真は同時に明に対しても服属していたため、朝鮮が女真に対して朝貢させていたことを明が咎めたこともある。朝鮮政府は女真を「胡」だとして「オランケ」と呼び、蔑視の対象にしていた。それだけに、17世紀に女真の建てた後金(のち清)に武力で服属させられ、さらに清に明が滅ぼされたことは朝鮮の思想界に大きな衝撃と影響を残すことになる。 このような状況であったため、西欧人に対する反発はより強く、中国と日本、それに琉球王国などを除けば長く鎖国状態であった。朝鮮にとっては、西洋人は「禽獣」であって人間としても扱われなかった。 近代の外圧 19世紀末期になると、朝鮮は西洋諸国や日本からの介入を受けるようになるが、とりわけ日本の干渉は日清戦争・日露戦争を通じて随一のものとなり、最終的に朝鮮を植民地化するに至る。朝鮮は、西洋化を推し進めた日本人のことを「禽獣の服を着、禽獣の声を真似する」とまで侮蔑するようになった。 日清戦争において日本が清を朝鮮から駆逐すると、日本と清の間で締結された下関条約によって朝鮮と清との伝統的宗属関係は終りを告げた。その象徴としての迎恩門も破壊され、代わりに独立門が建てられた。朝鮮は日本の強い影響下に置かれるが、みずから皇帝を称する大韓帝国に国号を改めるなど自主独立の道を探る努力も続けられた。しかしその後も日本の強い干渉や日露間の対立などに巻き込まれ、最終的に1910年に朝鮮は日本に併合され植民地となった。 社会階層 朝鮮の社会は、中国式の戸籍制度によって社会階層は細分されていた。 戸籍上の身分は、当初は良民と賤民(奴婢・白丁)に大きく分かれていただけであったが、良民の中でも科挙を受けられる余裕を持つ階級とそうでない階級に次第に分化していった。その結果、良民は両班(科挙官僚を輩出する階層)・中人(技術職を輩出する階層)・常人(一般の農民)と言う3つの階層に細分化される。 儒教を尊び、仏教を弾圧していたため、僧侶や工人、商人などは常人より低い地位に置かれていた。さらにその下層にある賤民階層は、李氏朝鮮初期の比率で人口の30%程度ほどを占めた。 社会階層は完全に固定されていたわけではなく、例えば中人から両班に上昇する家族もあったことが分かっている。事実、19世紀後半には両班の占める割合が70%に達した地域もあった。 民族構成 民族面では、建国の時点で朝鮮国内の北部にかなりの数の女真人が住んでいたが、李氏朝鮮王朝は彼等を国民として正当に扱うことはなく、国外の女真と同じように激しい蔑視や差別、迫害の対象であった。彼らは朝鮮政府と国外の女真との関係が悪化すると追放されることもあったが、次第に朝鮮人へ同化させられていったと思われ、この過程に於ける混血や言語的影響については詳しいことは分かっていない。朝鮮末には朝鮮民族の均質化が進み、19世紀には逆に朝鮮民族が国境を越えて清やロシアの領域に移住していった。このような民族均質化の結果、王朝末期から現在にかけての朝鮮・韓国社会で少数派の民族コミュニティを形成しているのは華僑のみとなっている。なお現在の北朝鮮はしばしばナショナリズム高揚のため、「単一民族国家」を強調しており、韓国でも保守派、民族主義者を中心に根強く「単一民族国家」という意識が残存している。 経済 朝鮮半島では、李氏朝鮮王朝の時代になるとそれまで進展していた経済の発展にきわめて強い規制がかかった。朝鮮王朝のイデオロギーである儒教主義では商人は極めて卑しいものとされたためであった。そのため本格的な貨幣制度がなかなか定着しなかった。李氏朝鮮王朝も何度か貨幣制度の導入を行ったものの、商人を卑しむ儒教イデオロギーを無傷で温存したため根本的な解決はできなかった。 第4代世宗の時代に入り、金属貨幣である「朝鮮通宝」が発行され、本格的な貨幣経済への重要な一歩を示したが、流通量は少なく、秀吉の侵略や清の侵攻で国内の産業基盤がズタズタにされたことで意図したほどの効果は上がらなかった。17世紀後半に至って「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を鋳造し、再び貨幣経済を振興させようとするが、金銀などを使用した高額貨幣の流通は余りにも微少だった。また造幣を行う役人によって銅が横流しされ、その分を鉛で補っていたために市中でも貨幣に対する信頼度は低かった。 とはいえこのような制約の中でも李氏朝鮮王朝後期の18世紀、19世紀には商人階級の勃興と富の蓄積、また両班の地位を金で購入することなどが広まり、朝鮮の商業は大きな進歩を見せた。しかしその後も支配者層の儒教イデオロギーに基づく介入が相次ぎ、また19世紀初期の飢饉や反動政治などもあって、朝鮮における商業の発展は非常に障害が多かった。その発展度は日本、中国に遠く及ばなかった。李氏朝鮮末期に至っても物々交換は完全になくなったわけではなく、村落部を中心に残存していた。李氏朝鮮末期に至り西洋、中国、日本などの銀貨が流通し始める事によって、交易を行う釜山などを中心とした高額貨幣の流通量が増大するが、それまでは極端な場合100円銀貨に相当する貨幣を運搬するのに馬1頭を使わなければならないこともあるなど、非常に不便を強いられていた。工業においても商業と同様、人を雇って分業で何かを生産するような企業は全くの未発達で個人や家族での活動に限られていた。 李氏朝鮮時代の交易は、中国との朝貢貿易、対馬を介した日本との交易、琉球との交易が中心であった。中国の朝貢貿易の主力は朝鮮人参、貂皮、海獺皮、昆布、日本から輸入した銀などであり、代わりに塩・生糸・絹織物などを輸入していた。対馬との交易は、中国から輸入した生糸や絹織物、木綿、朝鮮人参、穀類などを輸出し、代わりに銀や銅を大量に輸入していた。対馬との貿易のピークは18世紀中頃であり、金額ベースで、日清・日蘭貿易をしのいでいたと言われる。しかし、日本銀の生産量が激減すると江戸幕府は中国への銀輸出を規制すると共に自給自足政策を奨励したため、17世紀後半には木綿は自給できるようになり、また生糸、朝鮮人参に関しては18世紀後半に自給体制を整えたために朝鮮から日本への輸出品目から外れた。また、1750年には朝鮮への銀輸出禁止令が江戸幕府から発布され、対馬との間の交易は以後限定的なものとなった。 文化 李氏朝鮮の文化政策は、一言でいえば儒教の一派である朱子学を尊重し、仏教を弾圧したと説明される。しかし、太祖・李成桂が仏門に帰依していたため、本格的な廃仏運動が始まるのは第3代太宗の代からである。この時、朝鮮半島では多くの仏教寺院が廃され、242の寺のみが国家の統制下に残された。第4代世宗の時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ、仏教寺院が所有していた土地や奴婢の多くが没収された。このため、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。たとえば、太宗時代に土橋の代わりに石橋を造ることになったが、十二神将の石仏を破壊し、その石材にするということを行った。 ただし、李氏朝鮮前期の廃仏政策は一貫性が無く、廃仏に積極的だった世宗は末期には仏教に帰依してしまう。また第7代世祖は、儒臣との対立から仏教を返って保護し、ソウル内に円覚寺と言う寺を建てた。この寺は、第10代燕山君の時代に破壊され、妓生を管理する建物に建て替えられている。第8代睿宗の時代には再び廃仏政策は強化され、第11代中宗時代は李氏朝鮮前期で最も仏教弾圧が厳しい時代であったが、中宗の3人目の王后である文定王后尹氏は仏教を信奉し、中宗亡き後の時代には外戚と共に王権を執権していたため、彼女の息子が王位についていた第13代明宗の時代には廃仏政策は緩み、仏典のハングル訳が出版されたり、仏教の復権に努めた。しかし、時流は完全に廃仏に流れており、仏教の復権は失敗に終わった。李氏朝鮮初期の崇儒廃仏政策はこの様に一貫せず一進一退を繰り返すが、第16代仁祖の時代に城内からの僧侶追放令が発せられ、ここに李氏朝鮮の廃仏政策は完成に至る。 そして各種書籍の編纂事業が国策事業として推進され、印刷術と製紙術がかなり発展した。第3代太宗の時代には活字を作って書籍の印刷を担当する官署である「鋳字所」を設置して、高麗時代に中国から伝わった金属活字を改良して他の国より2倍以上の印刷能率を持つようになった。それに多くの書籍が出版されるに伴ない、紙の生産量も増加して、質の良い紙を専門的に生産する「造紙署」を設置し多様な紙を生産した。 李氏朝鮮は朱子学を社会的理念として採択しながら儒教的秩序を確立するために、倫理と儀礼に関する書籍を多く編纂した。第4代世宗の時代には人々に模範となるべき忠臣、孝子、孝女の業績に関して記録した倫理書である『三綱行実図』を編纂した。また第9代成宗の時代には国家のさまざまな行祀に必要な書籍を整備して書籍書である『国朝五礼儀』を編纂した。16世紀には士林派が小学と朱子家禮の普及するために『二倫行実図』と『童蒙須知』などを刊行して普及した。『二倫行実図』は年長者と年少者、友達に対して守らなければならない礼節を強調した倫理書であり、『童蒙須知』は児童が守らなければならない礼節を記録した児童用倫理書だった。これらの書籍は全て李氏朝鮮の役所の校書館が発行したものだった為、出版部数が極めて少なく李氏朝鮮の書物は大変な貴重品だった。李氏朝鮮では末期になるまで書店が存在せず書籍を売買する事が出来なかった、書籍は王から賜っり先祖代々受け継がれた物か個人から譲り受けた物だった。 公的な文化の中心となるのは中国語の文語である漢文であり、朱子学を中心として陽明学などを取り入れた朝鮮独自の朝鮮朱子学(朝鮮性理学)が発達した。漢字のみでは朝鮮語をあらわすことはできないため、朝鮮語を記すために1443年にハングルの起源になる訓民正音が作成された、ハングルは朝鮮語の表記に適した科学的な文字であっが、中華思想に骨の髄まで支配された両班ら男性知識人はこれを諺文(オンムン)と呼んで蔑み、李氏朝鮮末期まで正規の文字として使われることはなかった。しかし李朝末期には民衆の文字として下層階級、婦女の間に広まり、急速に識字率の向上に寄与した。庶民はこの文字を使い詩や歌を記録し、また私文書に使用した。知識人の中にもハングルを使うものが現れ、朝鮮王朝文学の最高峰とも呼ばれる『春香伝』などが書かれた。ハングルを使用した文学には、漢字ハングル混用、ハングル専用の2種類があり、前者は主に革新的な両班、中人階級用。後者は庶民のための文学だった。 李氏朝鮮は漢城に国立教育機関である「成均館」を設置、現在の大学のような役目を果たした。そして現在の中学校及び高等学校の役目をする教育機関として、漢城には「四学」、地方には「郷校」を置いた。また小学校に該当する「書堂」もあった。一方地域ごとには偉いソンビや功臣の業績を称頌と崇拜するための学院である「書院」が設立され、儒生らは自分が属した書院に集まって勉強と討論をしながら自分たちが仕える英霊に祭祀をして地域住民らを教化する仕事をした。 李朝絵画は前半期には中国山水画の模倣だったが、18世紀後半に金弘道と申潤福が出て独自の境地を開いた。金弘道は風俗山水画、申潤福は風俗画や美人画を得意とした。磁器は、朝鮮白磁と呼ばれる磁器が作られており、前代の高麗青磁に比して華麗さでは見劣りしたが優美さでは先んじていた。李朝時代に白磁が尊ばれたのは朱子学で白が高貴な気高い色とされているためである。しかし、赤土しか産出できない地域も当然ある。「なんとか白い器が欲しい…」そうした人たちが生み出したのが粉引(粉吹)である。粉引とは、赤土で成形された作品に化粧土という泥を塗り、その上に透明の釉薬をかけ、還元焼成する(酸化でも可)。李朝の粉引は日本に伝わり、酒器として大変高い評価を得た。李朝陶磁器は儒教道徳を名目とした職人階級に対する非常に厳しい差別にも関わらず、優れた職人の存在により着実な進歩を遂げた。 医学分野では高麗の医学の伝統をそのまま受け継いだが、徐々に医療制度の改革、医学教育、専門医学書編纂を通じて東洋医学の集大成を成した。漢城には王族の疾病治療を担当する「内医院」、医学教育と医学取才を総括する「典医監」、一般民を無料で治療する「恵民署」を設置し、地方には「医院」、「医学教授」、「医学教諭」、「医学院」、「医学丞」などの医療機関を配置した。李氏朝鮮で刊行になった医学書は1433年に完成された『郷薬集成方』、1445年に完成された医学百科事典『医方類聚』、1610年に完成された許浚の『東医宝鑑』などがある。19世紀に李済馬は『東医寿世保元』を著述して「四象医学」を主張した。四象医学は人間の体質を太陽人、太陰人、少陽人、少陰人で区分して治療する体質医学理論で、現在でも韓医学界では通用している。 18世紀後半には、さまざまな分野で西欧の影響を受けて新たな試みが見られた。19世紀初頭にキリスト教と西欧文化を弾圧する党派が主流になると一時それらは衰退したが、完全に消滅することはなく、開港後は再びその流れを汲んだ試みが続けられた。 なお、1910年における朝鮮の文盲率は90パーセントを越えていた。 環境 外国人訪問者が漢陽(現在のソウル)を世界有数の不衛生な街と評したが、これは公衆衛生という概念が無く汚水の処理などが殆ど行われていなかったためである。朝鮮は20世紀初頭からの日本に併合されるまで、糞尿を道端ですることがごく当たり前に行われていた。 かつては緑で覆われていた朝鮮の国土であったが、冬の寒さの厳しさから薪にするために大量に木を伐採した。朝鮮の大地は岩盤でできているため、木を切ると表土が流れ出してしまい、また植林を殆ど行わなかったため、末期にはほとんどの山が禿げ上がっていたといわれる。このため農業生産が壊滅し、農民は肥沃な満州に移民した(間島)。そのため国家的に松の伐採を禁止したりした。(禁松令)なお、日本による統治時代に多くの山で総督府による植林が行われた。 年表 1392年、李成桂が、高麗・恭譲王の王位を簒奪し、高麗王に即位。 1393年、明国の皇帝に次の国号として「朝鮮と和寧」の二つから選んでもらい、国号を朝鮮に変更する。 1398年、第一次王子の乱 1400年、第二次王子の乱 1401年、明より王を名乗る事を正式に認められる。 1404年、室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。 1419年、日本の対馬へ侵攻する応永の外寇 1443年、訓民正音の制定(1446年公布)。 1498年、士林派に対する弾圧士禍が始まる(戊午士禍)。 1504年、甲子士禍。 1506年、中宗により正音庁(諺文庁)閉鎖。 1510年、三浦の乱。対馬の日本人による反乱。対馬との通行が一時途絶える。 1512年、壬申約条。対馬との通行再開。 1519年、巳卯士禍。 1545年、乙巳士禍。 1555年、備辺司設置。 1559年 - 1562年、黄海道で民衆反乱(林巨正の乱)。 1567年、士禍が終わる。以後、士林派同士の対立が続く。 1575年、士林派の東人と西人の対立始まる。 1592年 - 1593年および1597年 - 1598年、豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役 - 韓国では「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼ぶ)を受ける。 1607年、江戸幕府と日朝国交回復交渉始まる。 1608年、北人(東人の分派)の大北、光海君を擁立。北人政権が始まる。 1609年、日朝通商条約。日本との通行回復。幕府との朝鮮通信使による交流。 1619年、サルフの戦いで明との連合軍が後金軍に大敗。 1623年、仁祖のクーデター。光海君廃される。大北粛清される。 1627年、後金軍、朝鮮に侵攻(丁卯胡乱)。 1636年、清の皇帝ホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)。仁祖、南漢山城に篭城。 1637年、仁祖降伏し、清に服属する。 1660年、礼論(服喪期間に関する対立)により、西人と南人(旧東人の分派)が対立する。 1683年、西人、老論と少論に分裂する。 1721年 - 1722年、辛壬士禍。 1728年、李麟佐の乱。 1784年、キリスト教の伝来。 1791年、キリスト教の弾圧始まる。 1796年、水原城(華城)建設 1801年、キリスト教への大規模な弾圧が続く。 1804年、 士林派による政治の終焉。安東金氏による権勢政治 ( - 1863年)。 1811年、洪景来の乱(地方差別に反発した一揆、平安道農民戦争とも言う)。 1811年、第12回の朝鮮通信使が家斉襲封祝賀のために出立するが、対馬に差し止められる。朝鮮側はこれを不服として以降断交。 1861年、金正浩による朝鮮全図、大東輿地図の完成。 1862年、壬戌民乱(慶尚道晋州を中心にした大規模な民衆反乱) 1863年、大院君政権の成立。 1866年、丙寅邪獄。ジェネラル・シャーマン号事件。 1873年、大院君追放、閔氏政権の成立。 1875年、江華島事件勃発。 1876年、日本の明治政府と日朝修好条規締結。 1882年、壬午軍乱おこる。 朝米修好通商条約締結。 1883年、財政危機を補正し乱れた通貨政策を整備する目的から、造幣機関典圜局が設置される。 1884年、甲申政変、開化派のクーデターは失敗に終わる。 1894年、東学党の乱(甲午農民戦争)、大院君の政局復帰。大院君派と閔妃派の対立が深まる。金玉均、上海で暗殺される。 1895年、閔妃暗殺事件。日清戦争終結。下関条約により清から独立。 大韓帝国 1897-1910 1897年、大韓帝国に改称する。 1904年、第一次日韓協約 1905年、第二次日韓協約(日韓保護条約) 1906年、韓国統監府設置 1907年、ハーグ密使事件。第三次日韓協約。韓国軍、一部を残し解散。 1909年、韓国統監府初代統監伊藤博文が安重根により暗殺される。 1910年、日韓併合条約に基づき日本に併合され消滅。 注釈 参考文献 ブルース・カミングス 『現代朝鮮の歴史』 海野福寿 『韓国併合』 梶原秀樹 『朝鮮史の意味』 旗田巍 『朝鮮史』 旗田巍 『朝鮮の歴史』 藤永壯 『「植民地支配は絶対悪」という真理』・・・『マンガ嫌韓流のここがデタラメ』第八章 金泰俊 『虚学から実学へ-18世紀朝鮮知識人洪大容の北京旅行』 宮嶋博史 『両班-李朝社会の特権階層』 原田武夫 『「日本封じ込め」の時代-日韓併合から読み解く日米同盟』PHP新書 関連項目 朝鮮の君主一覧 - 歴代国王についてはこちらを参照 朝鮮国王の廟号と諡号の一覧 朝鮮の民間療法 朝鮮王朝実録 朝鮮王室儀軌 大清皇帝功徳碑(三田渡碑) 大長今 外部リンク 朝鮮史研究会 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 12 15。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/516.html
「慰安婦」問題 調査報告・1999 「半鳥女子勤労挺身隊」について(未作成) 高崎宗司 ソース:http //www.awf.or.jp/program/pdf/p041_060.pdf Ⅲ 日本への動員 「半鳥女子勤労挺身隊」について(未作成)Ⅲ 日本への動員1 東麻沼津 2 不二越 3 三菱名航 4 その他 参考文献 1 東麻沼津 「半島女子勤労挺身隊」が最初に朝鮮(当時は「半島」と呼ばれた)から日本(当時は「内地」と呼ばれた)に出動したのは、1944年4月のことである。出動したのは慶尚南道隊(道単位の隊は「中隊」と呼ばれることもあった)の約100名で、出動先は静岡県にあった東麻沼津工場である(戦後責任を問う「釜関裁判」を支援する会b、16~18)。 釜山の有楽国民学校6年生、李英善・姜容珠・鄭水蓮らは、担任教師が「給料もよいし勉強させてもらえる」などというので、親の反対をおしきって挺身隊に応募した(同上)。同校の学籍簿には、1944年に13名が、1945年に3名が挺身隊として出動したことが記録されている(『忠清日報』1992年1月16日付け)。 昌原郡の上南国民学校を卒業したばかりの趙甲順(「いのうえ」によれば 甲順)は、「書記二人と日本刀を携帯した巡査が来て(中略)脅迫したため」挺身隊に入隊した(沼津女子勤労挺身隊訴訟弁護団、2)。 鎮海の慶和国民学校を卒業し、青年隊に参加していた禹貞順は、1944年3月ごろ、邑事務所の職員に「勉強もさせてやる」と「勧誘」された(同上、3)。 釜山・昌原・鎮海・密陽・金海から釜山にある慶尚南道の道庁に集合した隊員たちは、道知事の訓示を聞いて釜山を出発したという(同上、3)。 余舜珠は『朝鮮日報』1992年1月16日付けなどの記事によって、学籍簿調査の結果、1945年3月に、慶尚南道釜山の影島国民学校から1名、ナンミン国民学校(旧・有楽国民学校)から17名、慶尚北道大邱から9名、忠清北道から6名、京畿道仁川から2名、計35名が沼津に動員されたことが判明したと書いている(61)。しかし、これは誤報にもとづく誤解で、この中で実際に「沼津工場」に行ったことが確認されたのは、影島国民学校からの1名「花村英子」だけである(『釜山日報』1992年1月15日付けなど、その当時の各紙を見れば、それらの数字は、学籍簿調査によって判明したその時点での挺身隊隊員の総数である)。 1945年7月に東麻沼津工場が空襲で焼失すると、「半島女子勤労挺身隊」ら334人は、駿東郡小山町の富士紡小山工場へと移動させられた。こうした記録から推測して、竹内康人は、東麻沼津工場に出動した「半島女子勤労挺身隊」の総数は300人をこえると推測している(172~73)。 2 不二越 富山県にある不二越への第1陣として、大邱と浦項から集められた約70~100名の慶尚北道隊が工場に着いたのは、1944年5月9日のことであった(余、57、90。余は出典として「毎10・28」を挙げているが、それを確認しようとしたところ、そうした記事は掲載されていなかった)。大邱の達城国民学校を卒業したばかりの朴小得は、母校で開かれた説明会で、「5時まで働いて、夜間中学に通うことができる」と説明されたので不二越へ行った。着いてみると、「いつもひもじい思いをし」「一円ももらっていないし、家からの仕送りも貯金させられたまま」で、「手の指がとぶ事故」にもあったという(戦後責任を問う「関釜裁判」を支援する会b、8~10)。 また、大邱の海星国民学校とヒド国民学校に、「不二越鋼材株式会社と不二越鋳物工場に行ったと記録されている」学籍簿が残っている(『慶北日報』1992年1月17日付け)が、いつのことかはわからない。 なお、第2陣として行った人達によると、彼女たちが不二越に着いたときには、「すでに朝鮮人の娘たちが約二〇〇人いた」という(戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会、77)。1943年に動員された仁川の報国隊や先月到着していた慶尚北道隊の人々のことを指すのかもしれない。 6月8日に第2陣である慶尚南道隊が工場に着いている(『新東亜』編集室、200)。馬山・晋州からそれぞれ約50名、合わせて約100名であった。朴順福によると、慶尚北道大邱で集められた50名もいっしょであったという(戦後責任を問う「関釜裁判」を支援する会b、14~15)。また、柳賛伊によると、京畿道隊・仁川隊もいっしょだったという(戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会、76)が、京畿道隊と仁川隊の出動は、後述するように、翌月のことである。 馬山で雑貨屋の手伝いと家事をしていた柳賛伊は、「面事務所(村役場のこと──原注)の役人」の「愛国するために」という「話に乗せられ」、馬山出身の50余名とともに不二越に行った(同上、11~13)。同じ馬山出身のユ・ジニは今もそのころに歌った、「富山くるときゃ うれしかった一夜すごせば 悲しさよ・・」などの歌を忘れないでいる(金文淑、194~95)。 晋州の吉野国民学校の5年生であった朴順福は、1944年春、担任の先生から「待遇も良いし学校に行くこともできる」といいながら「指名」され、3人の同窓生を含む晋州出身の約50名とともに不二越へ行った。そして、「ひもじさ」に耐えながら「旋盤で一日六千個の鋼材を削る激しい労働」に従事した。その後、「ほとんど毎日起こる空襲の恐怖が重なって、精神的に異常を来たし」た(同上、13~14)。 第3陣として7月6日に京畿道隊が到着している。 京城府での募集は、まず『毎日新報』6月4日付けをとおして行われた。応募資格は国民学校の卒業生で年齢が17~20歳、行く先は「富山県の軍需工場」、契約は2年間である。そして、6日付け日本語欄の「出ヨウ 女子挺身隊 内地ノ重要工場ヘ 手伝ヒニイク」という広告的記事は、「コレハケッシテ チョウヨウ(徴用)デハナククニヲ アイスル マゴコロカラ ススンデ シグワンシテ デルノヲ」望んだ。また、14日付けは「女子挺身隊に志願応募者殺到」との記事を掲載している。70余名が応募してきたというのである。ある校長が談話で「父母の理解」を求めているのは、父母の反対が強かったためであろう。「諸施設は完備」「食事は○合○勺でおなかいっぱい食べられる」という不二越の「木村氏談」も掲載されている。 ついで京城府では、6月16日までに、府内の女子中学校や国民学校の校長を集めて、女子挺身隊についての話し合いの会を開き、希望者を募った(毎6・17)。京城の奨忠国民学校高等科2年生であった李鐘淑は、「募集要項には『挺身隊として日本に行って働いたら、女学校の卒業証書がもらえる』と書いて」あったので挺身隊に応募した。受付場所は麻浦国民学校であった(伊藤b、42)。梁春姫が通っていた京城の徳寿国民学校高等科では、2年生であった梁春姫のクラスだけで15名、ほかのクラスからも6~7名ずつ選抜された(『慶北日報』1992年1月16日付け)。 芳山国民学校の教師であった池田正枝は、生徒に挺身隊募集の話をしたときのことを次のように回想している。「クラス全員『いく、いく』と手を挙げる。しかし帰宅して話すと、親は動転(中略)どの家庭でも親子喧嘩がはじまった」(26)。芳山国民学校からはけっきょく5名が出動した。学籍簿には、「挺身隊ノ発表ガアルト父母ヲトキフセテ敢然之ニ参加、遙々海越エ、彼地ニ、二ケ年挺身スルコトニナッテヰル」と書かれている(朝鮮問題研究所、5)。なお、校洞国民学校にも3名が挺身隊として動員されたことをしめす学籍簿が残っている(『忠清日報』1992年1月15日付け)。 募集は教会でも行われた。京城府東大門の監理教会からは当時17歳であった2名の「貧しい農家の娘」が送られた。そのときの送別記念写真が『韓国日報』1992年1月16日付けに掲載されている(朝鮮問題研究所、15)。 6月27日、京城府は選考会を開催し(毎7・1)、150名を選出した(毎1945・1・24)。 仁川府でも50名からなる女子勤労挺身隊が結成された。某国民学校の卒業生13名は、同校の応募者27名中から選ばれた記念に、と餞別金5円を献納して「挺身隊の美談」を提供した(毎7・4)。また、永化国民学校では挺身隊として出動する制服姿の8名を囲んで記念写真を撮った。当時の卒業生によると、「身体が健康で家庭が貧かった8名」は「金もたくさんもうかるし、勉強もできる」という言葉にだまされて行ったのである(『ハンギョレ新聞』1992年1月17日付け。朝鮮問題研究所、31)。また、ソンリム国民学校では全校生が歓送会を開いて1名を挺身隊に送りだした(『京仁日報』1982年1月17日付け)。 7月2日午後1時から京城府民館で京城隊の壮行会が開かれた。京畿道知事が激励の挨拶を述べた。続いて3時から京畿道庁で仁川隊と合同の京畿道隊壮行会が行われた。会終了後、隊員たちは隊旗と鼓笛隊を先頭に街頭を行進し朝鮮神宮に参拝した(毎7・4)。そして、同日夜、野田伝三・京畿道労務課長に引率され、土居・芳山国民学校長ほか4名の女子訓導に付き添われて出発し、釜山から新潟をへて、6日に富山の不二越へ到着し、入場式を行ったのである(毎7・8。『京城日報』7・3)。 8月22日、女子勤労挺身令が公布・実施されると、京畿道労務課にはさっそく幾人かの志願者が現れた。しかし、京畿道での募集は行われなかった。不二越への第4陣として第2回京畿道隊の隊員が募集されたのは、翌1945年1月であった。 1月24日付けの『毎日新報』に掲載された京城府の広告には、「来れ、職場は女性を呼ぶ──女子挺身隊ヲ募ル」という文字がおどっている。就業地として不二越工場が明示され、資格は「国民学校終了程度。年齢十三歳以上二十一歳迄ノ女子」、書類「履歴書一通及親権者ノ同意書」などと書かれている。校洞国民学校には高等科の1名がこのとき挺身隊として動員されたことをしめす学籍簿が残っている(『忠清日報』1992年1月15日付け)。選考会は2月15日に生田・京城府勤労課長や不二越工場の職員らが出席して行われた(毎2・17)。 仁川府でも、同様に1月24日、「出身学校か府勤労課へ志願」するよう『毎日新報』をとおして広告した。李鐘淑によれば、「二次募集で」仁川からは30名くらいが不二越に向かっている(伊藤b、46)。仁川の昌栄国民学校には「第2回女子挺身隊志望」と記載された2名の学籍簿が残っている(『京仁日報』1992年1月16日付け)。仁川の国民学校(学校名不明)の教師であった望月京子が「卒業生には女子挺身隊募集の割り当てがきた。卒業したばかりの女生徒二人〔が〕、富山県の不二越へ」行ったと回想している(201)のは、おそらくこのときのことであろう。 開城府では、1月22日に女子勤労挺身隊隊員たちの「奉告祭と壮行会」が行われている(毎2・25)。開城隊の隊長は、戦死した「松井少尉」の妹である(毎6・5)。彼女が「美談」の主人公としてたびたび『毎日新報』に紹介されたことは、後述するとおりである。 京城府・仁川府・開城府、以上の3小隊からなる京畿道中隊(おそらくは150名前後)が出発したのは、1945年2月24日であった(毎2・27)。 全羅北道隊は全州の50名と群山の50名から構成されていた。全州の相生国民学校からは5~6年生の10名が動員された(『全北日報』1992年1月15日付け。『全南日報』同前)。また、群山の昭和国民学校の6年生・崔孝順は、校長先生が「女学校にも通える」というので参加した。長田先生に引率され、挺身隊の歌を歌う同級生に見送られて出発した、不二越へは3月2日に到着した、開城以南の650名がいっしょだったという(李泳禧a)。全羅北道裡里国民学校の6年生の担任であった川岡蔦子は、1942年あるいは43年の春に、校長から「できるだけ体格がよく、家の貧しい者を八人選んでほしい。富山の飛行機部品工場に女子挺身隊として送るから」と命じられたという(金・飛田、160)が、これもそのときのことかもしれない。 650名のなかには全羅南道隊100余人が含まれていた。光州の寿昌国民学校の6年生であった金美子(仮名)は、「帰国したら必ず旭高女(現・全南女高)に編入させてやる」という「甘言利説と強要に勝てず」、姜ヨンスン(仮名)ら2名とともに、2月28日に釜山から富山行きの連絡船に乗った(『全南日報』1992年1月16日~18日付け)。そして、光州の瑞石国民学校の生徒であった梁日順の証言によると、「連日、挺身隊志願を催促する校長と鈴木先生に苦しめられ2名の学友が『供出』された」。同校の学籍簿には4名が動員されたと記録されている。松汀東国民学校にも7名が動員されたという学籍簿が残されている(『全南日報』1992年1月17日付け)。また、羅州国民学校には1945年に13名が挺身隊として動員されたという学籍簿が残っている(『忠清日報』1992年1月16日付け)。 なお、第1回全羅南道隊の引率者であった孫相玉(当時、教員)は「全羅南道からの二回目の引率は、岡富枝先生でした。この時は富山に百余人を引率されました」と語っている(伊藤b、39)。また、金美子によれば、「3名が飢えと栄養失調で死んだ」。また、名古屋から移動してきた寿昌国民学校の先輩4名と「不二越の寄宿舎」で会ったという(『全南日報』1992年1月16日付け)。 1945年2月に不二越に向けて出発したこの650人の中には慶尚北道隊も含まれていたと思われる。「二次募集で仁川(インチョン)の三〇人くらい、三次で大邱(テグ)と慶尚道〔北道であろう〕から五〇人ほどが来ました」という証言がある(伊藤b、46)。実際、大邱の寿昌国民学校が1945年3月に作成したと思われる朴某の学籍簿には、「不二越鋼材株式会社女子挺身隊員トシテ働ク」という記録が残っている(『慶北日報』1992年1月16日付け)。 慶尚南道釜山の有楽国民学校には1945年に3名が挺身隊として動員されたという学籍簿が残っている(『忠清日報』1992年1月16日付け)。そして、「富山県の飛行機製作工場」に行った、という馬山のソンホ国民学校の5年生・金福善ら5名(日本人1名を含む)の学籍簿も残っている。彼女らのそれには、「退学事由」の欄に「挺身隊」と書き込まれている(『慶南新聞』1992年1月17~18日付け)。また、晋州の国民学校6年生・金福達に1944年12月、「召集通知」が舞い込み、その後不二越へ行った(金英達a、56)のも、姜徳景が「晋州からさらに50名が来ました。その中に私より一歳年下の親戚・姜ヨンスクがいました」という(韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会、原書、277。訳書、291)のも、このときのことであろう。釜山・馬山・晋州からおそらくは150名前後が動員されたものと思われる。 さらに、忠清北道忠州地区の3名の学籍簿に不二越に入所したという記録がある(『忠清日報』1992年1月17日付け)。このときに忠清北道隊も動員されたことを示すものであろう。1945年2月に不二越に動員された総数650名から、これまで見てきた忠清北道以外の道から動員されたと推定される者の総数550名を差し引くと、忠清北道からは100名前後が動員されたことになる。 余舜珠は、京城府「第3回部隊」とともに不二越の見学にいった父兄代表4名と生田・京城府勤労課長が4月3日に「帰還報告」を行った(毎4・5)という新聞記事と、全羅南道光州の「学籍簿に1945年3月25日、挺身隊に動員」されたという記述がある(出典不明。余本人が確認したかどうかも不明)ことを理由に、1945年3月末にも挺身隊が「動員されたものと見える」としている(58)。 しかし、それは疑問である。なぜなら第2回部隊を送ってから「第3回部隊」の報告会までわずか約1か月しかたっていないからである。「第3回部隊」というのは「第2回部隊」の誤りであろう。ちなみに第1回部隊の報告会も派遣後約1か月後に行われている。また、「学籍簿に1945年3月25日、挺身隊に動員」されたという記述があるというのは、一部の新聞の誤報によったもので、3月25日に卒業予定の者が2月25日に出発した、というのが正確であろう。そして、全羅南道からの挺身隊については、その第1陣の引率者であった孫相玉が「二回で終わったらしい」と語ってもいる(伊藤b、39)。ちなみに、第1陣から第4陣までの動員数を合計しただけでもすでに1070~1100名に達しており、『不二越五十年史』に見える挺身隊動員数1090名(68)とほぼ一致する。 3 三菱名航 1944年6月15日、三菱名航の道徳工場に全羅南道隊約150名、大江工場に忠清南道隊約150名の「半島女子勤労挺身隊」が動員された(余、92)。彼女たちは約1か月の訓練期間をへて、7月17日、戦闘機作りの現場に立った(伊藤b、22)。 全羅南道隊の元隊員であった姜貞子によると、約150名の内訳は、光州45~46名、木浦45~46名、羅州26名、麗水24名、順天14名であったという(金英達a、44。朝日新聞社、121)、計154~156名になる。同じく元隊員であった金福礼によると、光州50名、木浦40名、羅州20名、麗水20~30名、順天15名で(伊藤b、14)、計145~155名である。彼女らは光州に集まってから麗水に行き、船に乗って下関に出て、汽車で名古屋に向かった(高橋、81)。 光州の金福礼は、女学校に進学を準備していたところ、「『隣組』の組長」に「勤めながら勉強したらどうか」と言われて入隊したという(同上、13)。また、『毎日新報』7月28日付け日本語欄には、「戦ウ女子挺身隊 母校ヘ カンゲキノ タヨリ」として、光州府立旭高等女学校と北町国民学校の出身者の手紙が紹介されている。 木浦の朴良徳は、専門学校に通っていたとき、新聞を見て、「学校で勉強ができるなら」と入隊したという(伊藤b、28)。 羅州の梁錦徳は羅州国民学校6年になったとき、憲兵2名と日本人の正木校長が「金もたくさん稼げるし女学校にも入れてやり、帰ってくるときには家一軒買える金を持って帰れるようになる」というので参加したという(戦後責任を問う「関釜裁判」を支援する会b、4)。「クラス全員が〔行きたいと〕手をあげた。頭が良くて、体が丈夫な九人が選ばれた」。親の許可を得られなかったので、印鑑を持ち出して書類を整えた。それでも親は反対したが、「行かなかったら、親を捕まえると言われて」日本へ行った。「羅州から二十四名行った」と証言している(三菱名古屋・朝鮮女子勤労挺身隊問題を考える会、10~11)。 順天の朴海玉は、母校の校長先生から「女学校にも進学できるし、金も稼げるから」と勧められていったん、日本行きを決めた。しかし、親が駄目だというので、中止しようとしたが、校長先生から「もし行かなかったら、お前のオモニは契約を破った罪で、刑務所に行くしかない」と言われた(同上、3~4)。 忠清南道隊には天安・論山・江景から来ていた、と朴良徳が証言している(伊藤b、30)。 約300人を乗せた船は1944年6月、麗水を出発した(同上、34)。数か月後、引率者の孫相玉は、病気の子どもたち「十何人か」を朝鮮に連れ帰った(同上、39)。そして12月7日、東南海地震がおこり、全羅南道隊の6名が死亡した。 『毎日新報』1945年2月26日付けは、全羅南道隊第2回として、「光州、木浦、順天、羅州、麗水5つの国民学校上級生」が「名古屋○○航空機製作工場」へと動員されたことを伝えている。しかし、これが名航に動員されたかどうかは確認できない。そして、この記事が伝える行き先には、次の3つの可能性がある。 第1は、「名古屋○○航空機製作工場」に行く予定が変更され、富山県の不二越工場に動員された可能性である。同時期に全羅南道から不二越に動員されていること、李 石の学籍簿調査によると1945年に名古屋に行った者が見つかっていないことも、その可能性が高いことを示している。 第2は、いったん「名古屋○○航空機製作工場」に動員されたのち、富山県の井波工場に転属した可能性である。大門・福野・井波の3工場で約650名の挺身隊らが敗戦まで働いていたという(金英達a、52)から、井波工場の約380名がそれかもしれない。 第3は、文字通り「名古屋○○航空機製作工場」である。しかし、そのころすでに、名航道徳工場の全羅南道隊135名は三菱第11製作所の分散工場である富山県の大門工場に、名航大江工場の忠清南道隊137名は富山県の福野工場に転属されていた(高橋、85。洪、128)のだから、この可能性は低いと言わざるをえない。 4 その他 現在までのところ、「半島女子勤労挺身隊」が動員されたことがはっきりとしている「内地」の工場は以上の3つである。そのほかに、以下のような情報があるが、いまのところ詳細はわからない。 『富山県警察史』下巻に「〔昭和〕二十年三月までに〔県内の〕朝鮮の女子挺身隊は二千八百名」という記述がある(230~231)。これが正しいとすれば、不二越の1090名と三菱名航の道徳工場と大江工場から富山の三菱第11製作所の分散工場に転属した272名とを差し引いた1538名が富山県のその他の工場で働いていたことになる。 和歌山県に動員されたという証言がある。林某が、忠清北道忠州のキョヒョン国民学校・南山国民学校から選ばれた20余名とともに、和歌山県(証人は「わたやま県」と言っている)の軍需工場に行ったというのである(『忠清日報』1992年1月16日付け)。 八幡にもいたことは、『毎日新報』1945年6月7日付けが、朝鮮総督府の局長会議で、八幡で「激讃されている半島女子挺身隊」の活躍ぶりについて報告されたことを伝えていることからも明らかである。木村秀明編『進駐軍が移したフクオカ戦後写真集』に出てくる写真の中の「全羅北道女子勤労挺身隊」約150名は八幡にいた可能性がある(戦後責任を問う「関釜裁判」を支援する会b、28)。ちなみに、この写真には、「群山から行った人は1人もいない」という(李泳禧b)。 また、長崎造船などにもいたらしい。「十余名の同胞被害者の話では、被爆1年前の1944年当時爆心地からわずか1キロと離れていない三菱長崎造船所、長崎兵器廠に強制労働のために連れてこられていた黄海道出身の朝鮮人労働者数千名、朝鮮女学生300余名が一瞬にして爆死したという」(『朝鮮新報』1965年8月19日付け)。長崎川並造船所で組長をしていた朝鮮人男性は、「女子挺身隊200名、韓国のピョンヤン(現北韓──原注)から来ていた。女の子達が苦しくて死にたいなどと言っていた」という証言もある(在日本大韓民国青年会、202)。 さらに、相模海軍工廠にもいた、との証言もある(樋口、13) どこへ動員されたかはわからないが、江原道の「春川国民学校の運動場には挺身隊として送られる女性たちが召集されて」いた、という証言がある(『江原日報』1992年1月16日付け)。 以上、いずれもくわしいことはわからない。しかし、それぞれの道を単位とする中隊は基本的に約150名で編成されていたと思われる。 参考文献 「半鳥女子勤労挺身隊」について(未作成)index
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/27.html
トップページ>韓国>韓国史学報 『韓国史学報』40、2010.8 論壇 尹京鎮「高麗太祖代鎮設置についての再検討:礼山鎮・神光鎮を中心に」 한기문「高麗時代僧侶出家の様相と思想的背景」 윤용혁「高麗都城としての江都の再問題」 申解淳「17世紀前後東班所属下級京衙前制度の変化:書吏を中心に」 홍기표「清陰金尚憲の『南槎録』所載記事の誤謬と争点」 金友哲「哲宗2年(1851)李明燮謀叛事件の性格」 鄭泰憲「朝鮮総督府の慶尚合同銀行経営権掌握過程と日本人銀行としての吸収」 特集:朝鮮前期高麗関係記録の分析を通じた高麗時代相の復元 金昌賢「高麗及び朝鮮前期道教の比較とそれを通じた高麗道教の復元:太一信仰を中心に」 이정란「高麗・朝鮮前期王室府の財政機構的面貌と運営方式の変化」 李正浩「麗末鮮初自然災害発生と高麗・朝鮮政府の対策」 金蘭玉「高麗・朝鮮前期雑類の構成と階層的異質性」 朴胤珍「高麗天台宗の宗派問題:朝鮮初天台宗の禅宗帰属の歴史的背景」 史料研究 校監訳註『破閑集』(3) 『韓国史学報』39、2010.5 김경복「古墳壁画に表れた高句麗の竈と食事の風習」 김병인・김도영「高麗前期金属貨幣と店舗」 李在勲「太宗代節制使・牌頭と中央軍の指揮」 裵亢燮「19世紀支配秩序の変化と政治文化の変容:仁政願望の向方を中心に」 金素伶「純宗皇帝の南・西巡幸と忠君愛国論」 김기승「朴殷植の民族と世界認識:競争と共生の二重奏」 崔在聖「日帝強占期植民地金融機関の活動と驪州・順天地域の変化」 김인식「制憲議会期安在鴻の大韓民国輔成強化論」 이창현「韓国の民間人虐殺事件裁判研究:慶州内南面虐殺事件裁判事例を中心に」 史料研究 校監訳註『破閑集』(2) 『韓国史学報』38、2010.2 論壇 홍영호「『三国史記』地理志溟州領県棟隄県の位置比定と意味」 김학수「朝鮮後期嶺南地域士族家門の学派・政派的分化とその存在様相:松堂門人久庵金就文(1509~1570)家門を中心に」 宋亮燮「均役法施行期雑役価の詳定と地方財政運営の変化:忠清道地域を中心に」 崔妵姫「19世紀在地士族層の親族結集努力と内的亀裂様相:湖南地域善山柳氏家の親族活動を中心に」 洪俊和「大韓帝国期日本借款交渉とその性格(1898~1904)」 平井一臣「世界恐慌と帝国日本」 許殷「朴正煕政権下社会開発戦略と争点」 이정은「1970年代初中盤二度の経済危機と朴正煕政府の対応」 特集:朝鮮後期~日帝時期農村地域の伝統と近代 김건태「朝鮮後期契の財政運営様相とその性格:全羅道長興郡龍山面上金里の書契を中心に」 李庸起「日帝時期模範部落の内面とその記憶:全南康津郡城田面秀陽里の事例を中心に」 박종린「日帝時期康津の再編と社会運動の地域的様相」 史料研究 校監訳註『破閑集』(1) 『韓国史学報』37、2009.11 論壇 김상현「百済武王代仏教界の動向と弥勒寺」 정재윤「弥勒寺舎利奉安記を通じて見た武王・義慈王代の政治的動向」 최의광「新羅元聖王の王位継承と国人」 金甲童「高麗前期王妃の称外姓問題」 邊東明「高麗末麗水の長生浦歌」 尹晶「粛宗代神徳王后本宮追祔議論と本宮認識の変化」 이정일「朝鮮後期箕子認識に表れた儒教文明と普遍性」 趙允旋「朝鮮後期英祖31年乙亥獄事の推移と政治的意味」 임경석「コミンテルン高麗総局会議録研究」 김재웅「北韓の論理を通じて再構成されたアメリカの像(1945~1950)」 박정수「『東北朝鮮人民報』を通じて見た延辺朝鮮族の6・25戦争」 特集:韓国上古時代の信仰と祭祀 崔光植「韓国青銅器時代岩刻画の起源についての試論:内蒙古赤峰一帯岩刻画との関係を中心に」 鄭雲龍「韓国上古時代の祭祀意識とその継承」 박승범「扶余国の神話的変動と東明神話の私・公間的推移」 朴大在「三韓の「臘日祭祀」と竈信仰」 『韓国史学報』36、2009.8 論壇 한형주「朝鮮前期宗廟「同堂異室制」の批判と重建論争」 김경태「壬辰倭乱後強化交渉期国書問題の再検討」 趙成山「朝鮮後期少論系の東音認識と訓民正音研究」 김만일「本庵金鍾厚尚書論の性格:既存註釈書の受容と批判を中心に」 朴銀淑「開港期(1876~1894)漢城府五部の差別的変化と資本主義的都市化」 特集Ⅰ:韓国史における辺境、辺境としての韓国 篠原啓方「北燕を巡る高句麗の政策と国際秩序認識:対北魏、対宋関係を中心に」 李美智「1231・1232年対蒙表文を通じて見た高麗の蒙古に対する外交的対応」 정다함「麗末鮮初の東アジア秩序と朝鮮における漢語、漢吏文、訓民正音」 説林 손춘일「豆満江以北における朝鮮人社会の形成」 特集Ⅱ:益山百済弥勒寺址の再発見 朴賢淑「百済武王の益山経営と弥勒寺」 梁正錫「弥勒寺址塔址の調査過程についての検討」 나경수「薯童説話と百済武王の弥勒寺」 批評論文 芮大烈「アメリカ歴史学界の北韓史認識批判:Charles Armstrongを中心に」 『韓国史学報』35、2009.5 論壇 정호섭「高句麗王陵級大型積石塚の型式と編年」 백영미「三国及び統一新羅の戸口関連資料の検討と帳簿の作成」 都賢喆「宗法の観点から見た高麗末王権の変動」 박진훈「麗末鮮初原州地域における通婚様態:原州元氏を中心に」 김윤주「朝鮮初功臣冊封と開国・靖社・佐命功臣の政治的動向」 류창규「太宗代河崙の楽章創作とその政治的意味」 김현숙「19・20世紀坡平尹氏門中の農地所有と農業経営:忠南論山市魯城面丙舍里を中心に」 朴性俊「甲午改革~大韓帝国期公文書の保存期間起算と策定基準」 金允嬉「露日戦争期日本軍協力韓人研究:日本政府の勲褒賞者を中心に」 김주용「満州地域の都市化と韓人移住の実態:奉天と安東を中心に」 廉仁鎬「中国桂林で展開された朝鮮義勇隊隊本部の抗日運動(1938.11-1940.3)」 『韓国史学報』34、2009.2 論壇 李康漢「恭愍王代財政運用の検討及び忠宣王代政策志向との比較」 姜制勲「朝鮮初期正至会礼意識の整備と運用」 이정철「朝鮮時代貢物分定方式の変化と大同の語義」 조형열「協同組合運動社の組織過程と主導層の現実認識(1926-1928)」 特集:日帝時期経済法令の植民地性とその遺産Ⅱ 許英蘭「生活市場関係法令の植民地性と脱植民地化:「市場規則」と「市場法」の比較」 曺銘根「朝鮮銀行法に内在した植民地中央銀行制度の矛盾:監督権の所在を巡る議論を中心に」 批評論文 朴元熇「「東アジア史としての韓国史」構想のための再論」 『韓国史学報』33、2008.11 論壇 朴大在「扶余の王権と王位継承:2-3世紀を中心に」 金徳原「元暁と義湘の女性観についての考察」 趙法鍾「高仙芝と高句麗紙「蠻紙」についての検討」 김종복「8-9世紀渤海と日本の外交的葛藤と解消」 金昌謙「高麗顕宗代東宮官の設置」 金昌賢「高麗時代西海道地域の位相と寺院」 韓基汶「高麗時代開京報恩寺の創建と太祖真殿」 金友哲「仁祖24年(1646)安益信謀叛事件とその意味」 呉恒寧「尤菴宋時烈文集の編纂と刊行」 권기중「朝鮮後期郷吏層の婚姻ネットワーク:『慶尚道丹城県戸籍大帳』を中心に」 裵亢燮「露館播遷時期(1896-1898)朝鮮人のロシア認識」 김명구「中日戦争期朝鮮における「内戦一致論」の受容と論理」 特集:遺物・遺跡を通じて見た百済社会 우재병「3-5世紀百済地域素環頭刀を通じて見た百済・加耶・倭の交易体系」 이남석「百済の冠帽・冠飾と地方統治体制」 윤용혁「公州松山里6号墳の使臣図壁画について」 史料研究 『三国遺事』點校(5) 書評 朴宰佑「高麗政治制度の構造と運営:李貞薫『高麗前期政治制度研究』, 혜안、2007年 」 『韓国史学報』32、2008.8 論壇 이동희「最近研究成果で見た漢江・臨津江流域積石塚の性格」 정요근「元干渉期駅利用受容の急増とその対策」 李益柱「『牧隠詩藁』を通じて見た高麗末李穡の日常:1379年(禑王5)の事例」 金日宇「高麗・朝鮮時代外部勢力の済州進入と済州女性」 차장섭「朝鮮後期女性の譜学教育」 宮嶋博史「朝鮮後期支配階層の再生産構造:比較研究のための初歩的な探究」 李成妊「朝鮮後期同姓村落構成員の婚姻関係:丹城県法勿也面商山金氏の事例を中心に」 최병택「日帝下戦時体制期(1937-1945)林業動員策と山林資源供出」 特集:日帝時期経済法令の植民地性とその遺産Ⅰ 문영주「朝鮮総督府の西欧協同組合模倣と植民地的変容:金融組合法令を中心に」 김명수「解放後韓国信託業の動向と信託法規の整備:1968年韓国信託銀行の設立まで」 宋圭振「日帝下「日本関税法」の朝鮮適用と変容」 이송순「植民地朝鮮の食料管理制度と解放後良穀管理制度の比較:食糧管理法令についての分析を中心に」 史料研究 『三国遺事』點校(4) 『韓国史学報』31、2008.5 論文 이동훈「高句麗遺民『高徳墓誌銘』」 박명호「神文王の教書を通じて見た金軍官の政治的性格:骨品貴族の官僚化の視角から」 尹京鎮「高麗末朝鮮初西海・南海僑郡事例の分析:全羅道・忠清道・西海道地域の事例」 정호훈「朝鮮後期『小学』刊行の推移とその性格」 한지희「粛宗初「紅袖の変」と明聖王后金氏の政治的役割」 成淑璟「大韓帝国期「怠け者の朝鮮人」談論と近代的労働者の創出」 이주철「1950年代北韓農業共同化の穀物生産成果研究」 『韓国史学報』30、2008.2 論壇 하문식「支石墓の特異型式についての研究:「変形卓子式支石墓」問題と関連して」 蔡美夏「中国大学歴史教材の「統一新羅」叙述とその内容分析」 이창섭「11世紀初東女真海賊に対する高麗の対応」 崔聖銀「13世紀高麗木造阿弥陀仏像と腹蔵墨書銘」 任松子「1950年代労働組織と李承晩・自由党権力との関係」 林鍾明「脱植民地時期(1945-1950)南韓の地理教育と国土表象」 崔光植「『孫晋泰遺稿集』の内容と性格」 特集:1907年ハーグ平和会議と大韓帝国、そして列強 崔徳寿「第2次ハーグ平和会議(1907)と大韓帝国言論の世界認識:『皇城新聞』と『大韓毎日申報』を中心に」 Koen De Ceuster「1907年ハーグ特使の成功と挫折」 최덕규「1907年ハーグ平和会議とロシアの対韓政策」 韓承勲「乙巳勒約を前後したイギリスの対韓政策」 최정수「第2次ハーグ平和会議とアメリカの「世界平和戦略」:「国際警察」と「弱い国家」処理問題を中心に」 『韓国史学報』29、2007.11 論壇 朴賛興「満鮮史観における韓国古代史認識研究」 김두진「『三国遺事』板本の校勘と訳註本」 李貞信「高麗時代瓦生産体制とその変化」 尹晶「在位前半期(1725-1746)英祖の君臣関係の理解:「君臣分義論」の適用と志向を中心に」 김경란「朝鮮後期良役政策の展開と匠人把握の変化」 金素伶「甲午改革期(1894-1895)教科書の中の「国民」」 高珽休「上海臨時政府の初期財政運営と借款交渉:臨時大統領李承晩の役割を中心に」 特集:補遺 趙明哲「独島の領有権についての戦略的考察:日本の対独島方針を中心に」 批評論文 김보광「高麗・モンゴル(元)関係研究における『元高麗紀事』の活用と価値」 『韓国史学報』28、2007.8 論壇 梁正錫「営繕令を通じて見た『三国史記』屋舎条」 洪俊和「雲南・大韓シンジケート借款と列強の介入(1901-1902)」 신용옥「右派勢力の軍政立法の試みと朝鮮臨時約憲制定の政治的性格」 김재웅「北韓の38線接境地域政策と接境社会の形成:1948-1949年江原道麟蹄郡を中心に」 전현수「解放直後北韓の国家予算(1945-1948)」 曺銘根「解放後韓国中央銀行制度改編の議論:朝鮮銀行案と財務部案を中心に」 批評特集:韓日両国の独島研究現況と課題 申東珪「近世時期(朝鮮後期・江戸時代)韓・日間独島研究の争点と問題点の考察」 엄찬호「開化期独島の研究成果と争点」 韓哲昊「明治時期日本の独島政策と認識についての研究の争点と課題」 具仙姫「解放後連合国の独島領土処理に関する韓・日独島研究の争点と今後の展望」 『韓国史学報』27、2007.5 論壇 邊東明「朝鮮時代突山島防踏鎮の設置とその構造」 姜制勲「朝鮮成宗代朝会儀式と朝会運営」 朴性淳「勉菴崔益鉉の心主理説研究:尤庵宋時烈の心説に対する彼の態度を中心に」 임경석「1922年ヴェルフネウジンスク大会の決裂」 류시현「解放後崔南善の活動と彼に関する「記憶」」 廉仁鎬「中国国共内戦期満州国民党地区韓人の動向(1948):瀋陽居住韓人の脱出と帰還を中心に」 特集:人的関係情報の活用方案と中世の社会構成原理 李正浩「高麗後期別墅の造成と機能」 金蘭玉「麗末鮮初政治変動と排他的家門意識:鄭道伝を中心に」 이정란「辛旽党与家門の祖上隠しと褒貶論」 육정임「宋代祖上祭祀と祭礼の再構想:階級の表象における宗族結集の手段から」 『韓国史学報』26、2007.2 論壇 金貞培「『三国史記』宝臧王紀史論に見える「柳公権小説」問題」 朴京哲「麗羅戦争史の再検討」 洪琦杓「高麗前期詔書現況と分類」 李鐵漢「高麗時代本品行頭制の運営と変化」 임용한「朝鮮後期首領善政碑の分析:安城・竹山・果川の事例を中心に」 宋亮燮「1896年智島郡創設と西南海島嶼支配構造の再編:呉宖黙の『智島郡叢瑣録』を中心に」 朴性俊「大韓帝国期海税管轄権を巡る葛藤と内蔵院の海税管轄権掌握」 崔善雄「1920年代初韓国共産主義運動の脱自由主義化過程:上海派高麗共産党国内支部を中心に」 『韓国史学報』25、2006.11 論壇 趙法鍾「中国学界の古朝鮮研究の検討:東北工程前後時期の研究を中心に」 李永植「加耶と高句麗の交流史研究」 辛善惠「新羅中古期仏教界の動向と僧政」 윤용혁「軽部慈恩の百済古墳調査と遺物」 李貞信「高麗時代銅の使用現況と銅所」 신수정「武臣政権期定安任氏任濡系の婚姻網」 박진철「朝鮮後期郷校の青衿儒生と在地士族の動向:羅州『青衿案』分析を中心に」 崔鎮旭「申櫶(1811-1884)の内修禦洋論研究」 李憲柱「第2次修信使の活動と『朝鮮策略』の導入」 金允嬉「露日対立期(1898-1904)『皇城新聞』の二重志向性と自強論:連帯と排除の接合」 김미정「東学・天道教の女性観の変化」 車美姫「3次教育過程期(1974-1981)中等国史科の独立背景と国史教育内容の特性」 特集:『輿地図書』を通じて見た朝鮮後期国家の地方体制 변주승「『輿地図書』の性格と道別特性」 이상식「『輿地図書』を通じて見た地方行政体系の構成及び運営原理:忠清道地域を中心に」 文勇植「『輿地図書』を通じて見た18世紀朝鮮の還穀運営の実態」 李哲成「『輿地図書』に表れた田結税項目のテキスト的理解」 徐鍾泰「『輿地図書』の物産条項研究」 金友哲「『輿地図書』「姓氏」条の検討」 批評論文 장경희「朝鮮後期王室工芸史研究の成果と課題」 『韓国史学報』24、2006.8 論壇 朴大在「弁韓の「王」と狗邪国:3世紀前半を中心に」 朴龍雲「儒州(始寧・文化)柳氏の事例を通じて見た高麗社会の一断面:「嘉靖譜」を参考にして」 尹薫杓「朝鮮初期附過法の施行」 정다함「朝鮮初期壮勇隊の設置背景と運営実態」 呉恒寧「朝鮮前期史禍の様相とその性格:制度と現実の相互規定についての小考」 鄭泰憲「京城府財政の歳入構成と時期別特徴」 尹海東「日帝時期面制の実施と近代的官僚・行政制度の導入」 特集:渤海の中央と地方 임상선「渤海の都城体制とその特徴」 金東宇「渤海の地方統治体制運営とその変化」 김은국「8-10世紀東アジアの中の渤海交通路」 『韓国史学報』23、2006.5 論壇 박선미「近代史学以後の古朝鮮史研究の現況と争点」 우재병「5-6世紀百済住居・暖房・墓制文化の倭国伝播とその背景」 李仁在「高麗前期弘慶寺創建と三教共存論」 李益柱「墓誌銘資料を通じて見た高麗後期官人の生涯:金賆(1248-1301)の事例」 金順南「朝鮮世祖代体察使韓明澮について」 裵亢燮「中・後期義兵戦争時期羅州地域郷吏層の動向」 河元鎬「韓末栄山江流域と木浦の商品流通」 이주철「1950年代朝鮮労働党の下部組織再編」 特集:8-10世紀東アジアの文物交流 윤재운「8-10世紀渤海の文物交流」 방병선「羅末麗初韓中陶瓷交流」 강봉룡「新羅末~高麗時代西南海地域の韓・中海上交通路と拠点浦口」 『韓国史学報』22、2006.2 論壇 邊東明「城隍神金忍訓孫兢訓と梁山・蜜陽」 金仁昊「高麗時代聖俗の境界と個人的な行き来」 朴晋勲「高麗人の贅沢・虚栄と倹約認識」 권내현「朝鮮初期奴婢宗族と均分の実状」 양홍준「統監府時期刑事警察制度と犯罪捜査」 류시현「植民地時期ラッセル(Bertrand Russell)の『社会改造の原理』の翻訳と受容」 特集:東アジア中世の族譜編纂と官人社会 陸貞任「宋元代族譜修撰とその社会的意義」 李鎮漢「『成化安東権氏世譜』に記載された高麗後期の官職」 車長燮「綾城具氏族譜の刊行とその特徴」 『韓国史学報』21、2005.11 論壇 琴京淑「高句麗古墳壁画に表れた人物像と身分」 李康来「『三国史記』と『三国遺事』の王代暦比較研究」 趙成山「17世紀中・後半ソウル・京畿地域西人の経世学と政策理念」 손병규「甲午時期財政改革の意味:朝鮮王朝財政システムの観点から」 韓哲昊「開港期日本の治外法権適用論理と韓国の対応」 特集:韓国中世の社会構成論理 金蘭玉「麗末鮮初墓誌銘の家系記録方式」 신수정「高麗時代慶源李氏家門の政治的変化における婚姻網:李資義・李資謙の乱と関連して」 이정란「政治都監活動に表れた家の中の個人とその行動方式」 李正浩「高麗後期安東権氏家門の経済的基盤:権仲時-権守平系列を中心に」 朴元熇「崔溥『漂海録』翻訳譯述評」 1-20 21-40 41-60
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/125.html
トップページ>韓国>韓国文化 『韓国文化』60、2012.12 論文 정병삼「文殊寺蔵経碑と元干渉期仏教信仰の一傾向」 李鍾書「高麗国王と官吏の服飾が反映する国家位相と自意識の変動」 안대회「朝鮮後期趣味生活と文化現象」 조계영「『五経百篇』の繕写と奎章閣の文書行政」 鄭然泰「韓日共学中等学校卒業生の日帝下進路と解放後の変化:忠南江景商業学校の事例」 백두현「韻音変化から見た河生員『酒方文』の筆写年代」 特集:東アジア民衆運動史の新しい模索 윤대원「19世紀変乱参加層の社会的関係網と存在様態」 呉洙彰「朝鮮後期体制認識と民衆運動試論」 檜皮瑞樹、宮川卓也(訳)「19世紀民衆運動とマイノリティ:暴力の歴史叙述を中心に」 『韓国文化』59、2012.9 特集:西洋文物の伝来と世界観の変化 황재문「『万国事物紀原歴史』の成立過程と知識体系の特性」 전용훈「伝統的易算天文学の断絶と近代天文学の流入」 김연희「電気導入による伝統の亀裂と新しい文明の学習:1880~1905年を中心に」 論文 尹京鎮「『高麗史』地理志高麗初期外館設置及び領属関係編成記事の分析」 김인규「日本出土高麗青磁の製作時期についての研究:鎌倉及び九州地域を中心に」 沈載祐「19世紀前半平安道地域流配人の性格と流配行政:『平安監営啓録』純祖代記事分析」 문중양「創造的逸脱の想像:19世紀初李圭景の天と地に対する事由」 박대윤「朝鮮時代国王胎峰の風水的特性研究」 이진호「金澤庄三郎の『朝鮮語発音篇』について」 『韓国文化』58、2012.6 特集:朝鮮後期科挙を通じた差別の再生産と緩和 朴賢淳「朝鮮後期文科に現れた京郷間の不均衡問題の検討」 鄭海恩「朝鮮後期武科及第者の進路に現れた差別の問題:1784年(正祖8)冊封慶科を中心に」 李南姫「朝鮮後期雑科の位相と特性:変化の中の持続と凝集」 論文 李鍾書「朝鮮前期と後期の血縁意識比較:「族」関連用語と権利義務関係を中心に」 盧永九「16-17世紀鳥銃の導入と朝鮮の軍事的変化」 최병택「朝鮮総督府の火田整理事業」 정승철「安廓の『朝鮮文法』(1917)について」 방민호「孫昌渉小説の外部性:長編小説を中心に」 『韓国文化』57、2012.3 特集1:朝鮮後期経済生活と海:奎章閣所蔵資料の再読 조영준「朝鮮後期旅客主人及び旅客主人権再論:京畿・忠清荘土文績の再構成を通じて」 양선아「19世紀宮房の干拓:扶安三間坪龍洞宮荘土を中心に」 송경은「英祖代水産物産と租税徴収の地域的特質:『輿地図書』の分析を中心に」 特集2:18世紀東アジア社会の学術と知識集成 정호훈「『奎章総目』と18世紀後半朝鮮の外来知識集成」 宋芝媛「18世紀朝鮮音楽知識集成の方式:『東国文献備考』「楽考」を中心に」 양위레이「『天地全図』と18世紀東アジア社会の世界地理知識」 柳向春「康煕末年の学術と『古今図書集成』」 論文 김건태「19世紀農民経営の推移と志向:慶尚道安東金渓里義城金氏家の作人達」 이영경「国語温度表現語彙の発達について」 『韓国文化』56、2011.12 論文 장지연「朝鮮時期州県社稷壇設置の意味とその実際」 김홍백「『大義覚迷録』と朝鮮後期華夷論」 安大會「『二十四詩品』と18・19世紀朝鮮の士大夫文芸」 이경하「叙事巫歌採録の問題点と翻訳の可能性:「パリ公主(바리공주)」を中心に」 盧官汎「大韓帝国期進歩概念の歴史的理解:言論媒体の用例分析を中心に」 이경미「大韓帝国期外国公使接見礼の服飾考証に関する研究」 조희진「生涯譚から現れる「アイデンティティ再現」の様相とメカニズム:旧役村に居住する班家出身女性の経験と自己認識を中心に」 권혁양「「*사가-/*사바-」(희다, 붉다, 빛나다, 밝다)系列語彙の語源について」 『韓国文化』55、2011.9 論文 박성현「浦項中城里新羅碑碑文の形式と紛争の性格」 尹晶「仁祖前半期の旧闕(昌慶宮)の重建と宮闕経営:『承政院日記』仁祖臨御記事の分析」 김수진「家蔵本『雷象観藁』小考」 沈載祐「朝鮮時代縁坐制の実像:『縁坐案』分析を中心に」 김건태「19世紀ある性理学者の家作りとその志向:金興洛家の事例」 趙仁哲「朝鮮後期に制作された輪図に関する研究:奎章閣所蔵輪図の構成方式と論理体系を中心に」 송민호「開化啓蒙時代「演説」と「講演」の分化と非政治的公論場形成の背景」 呉永賛「朝鮮古蹟研究会の設立と運営:1931-1932年を中心に」 이정선「植民地朝鮮・台湾における「家制度」の定着過程:「戸主・家族」と「戸主相続」概念を中心に」 오현숙「日帝末期朴泰遠小説のジャンル遷移様相研究:少年探偵小説と私小説を中心に」 卞恩真「日帝戦時ファシズム期(1937-45)朝鮮民衆の「不穏落書」研究」 『韓国文化』54、2011.6 特集:歴史指標として見た19世紀朝鮮社会 金芝英「19世紀前半期国家儀礼及び国王行次の推移」 朴賢淳「19世紀文科についての考察」 金仁杰「19世紀「勢道政治期」の求言教と応旨疏:「蕩平政治期」との比較を中心に」 문중양「前近代という名の罠に嵌った19世紀朝鮮科学の歴史性」 鄭在薫「19世紀朝鮮の出版文化:官撰書の刊行を中心に」 論文 卞東波「朝鮮の『斎居感興二十首』の流通と受容様相研究」 정민「18、19世紀朝鮮知識人の并世意識」 張伯偉「朝鮮の書目を通じて見た東アジアの漢文書籍交流」 정병설「『無情』の近代性と情育」 남기혁「徐廷柱の「新羅精神」論に対する再論:倫理意識と無意識批判を中心に」 조영준「『賦役実摠』の雑税統計についての批判的考察:巫税・匠税・海税・場税を中心に」 전용훈「正祖代の暦法と術数学知識:『千歳暦』と『協吉通義』を中心に」 『韓国文化』53、2011.3 論文 이명미「恭愍王代初盤君主権再構築の試みと奇氏一家:1356年(恭愍王5)改革を中心に」 김동경「鄭道伝の『陳法』と太祖代軍事力再建」 백두현「19世紀初期全羅方言資料『睡雲亭悲懐遺録』研究」 유가현、성종상「朝鮮後期の文献『四宜堂志』に現れた古宅の立地及び空間構成に関する考察」 윤대원「1910年併合「勅諭」の文書上の欠陥と不法性」 목수현「亡国と国家表象の意味変化:太極旗、李花、無窮花を中心に」 김승구「1910年代京城映画館の活動様相」 장문석「植民地朝鮮の「性」と笑い:植民地公共領域と才談(集)の近代」 김우영「『第三の現場』と推理小説の文法」 『韓国文化』52、2010.12 論文 李賢煕「近代韓国語の剰余的派生接尾辞付けの現象」 배주채「国語辞典用言活用表の音韻論的研究」 김윤섭「金時習晩年期の内面意識に関する小考:『関東日録』『溟洲日録』の詩を中心に」 강혜규「朝鮮前期方外人の山水遊覧:秋江南孝温を中心に」 安大会「正祖御諱の改定:「李祘(이산)」と「李祘(이성)」:『奎章全韻』の編纂と関連して」 차은정「韓末貢人の礼物交換と社会関係:『荷斎日記』を中心に」 김만태「朝鮮前期以前四柱命理の流入過程についての考察」 이세영「朝鮮時代陳田開墾と土地所有権」 宋殷碩「朝鮮後期応元・印均派の活動:応元、印均、三忍」 特集:強制併合100年前を振り返る 윤대원「造作された「朝鮮総督報告韓国併合始末」」 玄光浩「国権喪失前後時期(1905-1918)東アジア国際情勢の変動と韓民族の国権回復運動」 황재문「伝統的知識人の亡国認識:金允植・金澤栄・朴殷植の場合」 特集:ジェームズ・B・パレ、彼の批判者と同調者 李栄薫「ジェームズ・B・パレの奴隷制社会説の検討」 『韓国文化』51、2010.9 特集1:英祖代国政・生活・交流の鳥瞰図 조영준「英祖代均役海税の収取と上納:『輿地図書』の集計分析」 연갑수「英祖代対清使行の運営と対清関係についての認識」 이숙인「『家政』を通じて見た18世紀の生活世界」 特集2:朝鮮後期~大韓帝国期量案の再検討 金仁杰「朝鮮後期~大韓帝国期量案研究の現況と展望」 朴賢淳「朝鮮後期量案の作成と活用」 오인택「庚子量案研究の現況と課題」 서태원「朝鮮後期軍営屯土の研究と量案」 김종준「光武量案の資料的性格の再考察」 論文 최종석「高麗時代朝賀儀儀礼構造の変動と国家位相」 鄭演植「朝鮮時代観天台と日影台の沿革:昌慶宮日影台と関連して」 Eugene Y. Park「朝鮮後期の文科制度と韓国の近代性」 김명호「日本東洋文庫所蔵『燕巌集』についての考察」 김주리「蔡萬植の「冷凍魚」と内鮮恋愛の問題」 『韓国文化』50、2010.6 論文 李康漢「1325年箕子祠祭祀再開の背景と意味」 송웅섭「朝鮮成宗代前半言論の動向と言論慣行の形成:成宗代言論発達の要因と関連して」 안유림「明清交代期瀋陽館の役割」 이경미「写真に現れた大韓帝国期皇帝の軍服型洋服についての研究」 김종수「日帝植民地近代出版市場における李光洙の位相」 조희진「近代的服飾流行に関する重層的評価と二分法的認識:1920年代~1930年代流行関連記事を中心に」 김은경「朴景利小説に現れた母性性の脱神話化様相と家父長制についての対応方式」 特集:英祖代国政・生活・交流の鳥瞰図 정호훈「英祖代『続大典』の編纂論理とその性格」 宋芝媛「英祖代儀礼整備と『国朝続五礼儀』編纂」 조계영「英祖代『璿源系譜記略』の修正と木版刊印」 『韓国文化』49、2010.3 特集:朝鮮社会の図像的記録としての甘露幀画 연제영「朝鮮時代甘露幀画下段場面と社会相の相関性」 박은경「朝鮮16世紀甘露図の危難イメージを通じて見た社会像」 이향순「甘露図に現れた朝鮮の比丘尼僧伽」 홍선표「朝鮮時代甘露会図の宴会イメージ」 김승희「19世紀甘露図の人物像に見える新しい様相」 論文 尹京鎮「高麗文宗21年南京設置についての再検討:恭讓王2年漢陽遷都の合理化」 도현철「李穡の儒教教化論と日本認識:新しく発見された対策文を中心に」 申炳周「官僚学者李山海の学問と現実対応」 강혜선「正祖の文体批判再論」 盧大煥「1880年代文明概念の受容と文明論の展開」 이영아「1910年代朝鮮人の他者の身に対する視線考察:雑誌『青春』『学之光』を中心に」 김미영「「移植」議論を通じて見た林和の新文学史論」 서지영「近代的愛の裏面:「情死」を中心に」 『韓国文化』48、2009.12 論文 정병설「朝鮮時代漢文とハングルの位相と性格についての一考:心身寓言の比較を通じて」 조계영「朝鮮後期中国書籍の購入と装潢の変化」 李栄昊「朝鮮後期干拓地の所有と運営:京畿道安山・仁川石場屯の事例」 이지영「事典編纂史の観点から見た『韓仏字典』の特徴:近代国語の類解類及び19世紀『国漢会語』『韓英字典』との比較を中心に」 安鍾哲「中日戦争勃発前後神社参拝問題と平壌のキリスト教系中等学校の動向」 김석봉「開化期叙事文学の読者専有様相研究」 윤영실「李箱の『終生記』に現れた愛、死、芸術」 손유경「『三千里』に現れた人物再現の政治学:「主義者」関連記事を中心に」 곽명숙「『文章論新講』の特徴と文筆教育論」 特徴:朝鮮儒学者達の儒家教典理解 権五栄「朝鮮後期儒学者の『大学』理解:明徳説を中心に」 鄭一均「正祖の『論語』論(1):『魯論夏箋』を中心に」 『韓国文化』47、2009.9 特集:朝鮮儒学者の儒家経典理解 문석윤「朝鮮後期性理学における『孟子』「浩然章」論争とその意義:宋時烈の「浩然章質疑」を中心に」 姜文植「趙翼の『書経』認識と『書経浅説』の特徴:経世論の側面を中心に」 李俸珪「朝鮮時代『礼記』研究の一特色:朱子学的経学」 論文 옥영정「朝鮮時代印刷官庁の活字印刷匠人研究:均字匠を中心に」 정호훈「16・17世紀『小学集註』の成立と刊行」 김은정「侍講院付設機関を通じて見た朝鮮後期王室教育」 박희병「朝鮮後期知識人とベトナム」 조성산「18世紀後半~19世紀前半朝鮮知識人の語文認識傾向」 조영준「朝鮮後期王室財政の構造と規模:1860年一司四宮の財政収入を中心に」 박준형「清日戦争勃発以後東アジア各地における清国人規制規則の制定と施行:日本・朝鮮・台湾の事例を中心に」 장신「1920年代朝鮮の言論出版関係法改定議論と「朝鮮出版物令」」 조은주「林和の「批評的主体」の定立過程と批評の倫理」 이혁화「慶尚方言疑問形語尾「-는교」の用法と起源」 『韓国文化』46、2009.6 論文 권준희「唐服飾導入以前の団領衣」 이숙인「朝鮮中期社会の女性認識」 김성혜「高宗在位前期講官の構成(1864-1876)」 김종준「大韓帝国期「学校費紛争」の様相」 신문수「東方の他者:イザベラ・ビショップの『韓国とその隣国』」 이준희「日帝時代軍国歌謡研究」 김미영「日帝強占期文学人の絵研究」 『韓国文化』45、2009.3 特集:文献交流と知識の疎通 金文京「高麗本孝行録と中国の「二十四孝」」 李鍾黙「17-18世紀中国に伝わった朝鮮の漢詩」 李春姫「19世紀朝鮮文人と清常州派後継文人の交遊:藕船李尚迪を中心に」 Jiwon Shin「堂号を通じて見た19世紀初蘇東坡関連書画文化と対清文化交流」 特集:第1回奎章閣国際学術会議の基礎講演 韓永愚「ソンビ文化の歴史的展開と未来:生命、平和、公益、百姓、愛国」 論文 김태년「『巍巖遺稿』の編纂過程と版本の特徴」 최종성「初期東学の神学と儀礼学:天祭と守心正気」 이광호「韓国語連想語辞書構築のための試験的研究:コーパス内の隣接単語を利用した計量的接近」 『韓国文化』44、2008.12 論文 정요근「後三国時期高麗の南方進出路分析」 이승희「「純元王后ハングル手紙」の資料的特性についての一考察」 손정희「19世紀博物学の趣向と絵画の新しい傾向」 李羲煥「東アジアに浮かぶ金玉均叙事:金玉均研究の序説」 権泰檍「1910年代日帝の朝鮮同化論と同化政策」 이영아「1900~1920年代女性の「修身」談論の変遷過程研究」 金珠理「韓国近代小説の中の都市公園の表象」 김미영「植民地時代文人達の美術評論のふたつの様相:林和と権九玄を中心に」 이진호「「独立」類漢字語の音韻論」 노명희「漢字語の意味範疇と漢字形態素の配列順序」 特集:古代韓日の言語文化比較研究 李丞宰「吏読解読の方法と実際」 山本真吾(尹幸舜 訳)「変体漢文解読の方法と実際:変体漢文訓点資料の諸相」 赤尾栄慶(尹幸舜 訳)「日本古写経の調査・研究について」 池田証寿(呉美寧 訳)「日本古辞典の研究方法と実際」 小助川貞次(呉美寧 訳)「訓点資料解読の方法と実際:有隣館所蔵『春秋経伝集解巻第二』を中心に」 朴鎮浩「口訣資料解読の方法と実際」 『韓国文化』43、2008.9 嚴連錫「性理学の修養論における敬と静の相関的意味:朱熹と李滉を中心に」 陳昭瑛「李退渓の『聖学十図』に内包された詩的知恵と形象的事由」 林月惠「李栗谷の「人心道心」説」 姜文植「宋時烈の『朱子大全』研究と編纂:『朱子大全箚疑』『節酌通編』を中心に」 李明輝「李玄逸の四端七情論」 조남호「霞谷学の特徴」 琴章泰「17世紀末朴世采と鄭斉斗の陽明学論変」 허남진「張載の気一元論と任聖周の気一分殊説」 김영우「茶山と戴震の『孟子』解釈比較研究」 蔡振豊「丁茶山の人性論」 楊儒賓「遭遇性倫理学としての仁説:丁若鏞と阮元」 羅喜羅「統一新羅と羅末麗初地獄観念の展開」 李康漢「高麗忠宜王の政治改革と元の影響」 이유진「坊刻本ハングル歌集『南薫太平歌』の書誌研究」 이경현「『青春』を通じて見た崔南善の世界認識と文学」 조윤정「『廃墟』同人と柳宗悦」 노연숙「廉想渉の『万歳前』研究:脱植民主義資格から見た「私」の場所探しと「日本人の表象」を中心に」 『韓国文化』42、2008.7 論文 朴賢淳「17世紀地方儒生の士林儒罰」 이승수「朴文秀伝承の歴史的基盤探索」 盧大煥「勢道政治期山林の現実認識と対応論:老論山林呉煕常・洪直弼を中心に」 한길연「英雄小説と大河小説の主人公の幻想体験の違いとその意味」 윤영실「崔南善の修身談論と近代偉人伝記の誕生:『少年』『青春』を中心に」 최형강「合成用言における語源分離と否定素挿入」 特集:古代韓日の言語文化比較研究 小林芳規(尹幸舜 訳)「日本語訓点表記の起源と展開過程:白点・朱点の始元を中心に」 金永旭「韓国語表記の起源と展開過程」 沖森卓也(康仁善 訳)「万葉歌解釈の方法と実際」 黄善燁「「安民歌」解読のための新しい試み」 森博達(康仁善 訳)「『日本書紀』:その典拠(資料)研究の方法と実際」 권인한「『三国史記』『三国遺事』資料研究の方法と実際:固有名詞異表記による古代韓国漢字音研究を中心に」 『韓国文化』41、2008.6 第1部:近代国家形成と民族アイデンティティ 金鳳珍(이경미 訳)「徐載弼のナショナル・アイデンティティの形成と相克」 李栄(김종학 訳)「中村敬宇の道徳と自由」 出原政雄(이병철、이경미 訳)「明治日本における「愛国心」論の形成と展開」 이헌미「民主主義とナショナリズムの内的緊張:「愛国啓蒙運動」再考試論」 서호철「国民/民族想像と市民権の蹉跌、蹉跌としてのアイデンティティ」 第2部:帝国とアイデンティティ 米原謙(김동명、이경미 訳)「よっつの戦争と日本ナショナリズムの変容:徳富蘇峰を素材に」 Sven Saaler(김종학 訳)「国際関係の変容とナショナル・アイデンティティ形成:1880年代~1920年代の「アジア主義」の創造」 区建英(김종학 訳)「中国の国粋派と日本の国粋主義」 강해수「「道義の帝国」と植民地朝鮮のナショナル・アイデンティティ」 第3部:戦後東アジアとナショナル・アイデンティティ 赤澤史朗「占領期日本ナショナリズムの様相:山田風太郎を中心に」 남기정「冷戦イデオロギーの構図化とナショナル・アイデンティティの形成の相関関係:韓日比較」 박명규「韓国ナショナル談論の意味構造と政治的志向」 1-20 21-40 41-60 61-80