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名聞《みようもん》利益のために心を支配されイ丶落ちついた時もなく一生を苦しみ通すのは馬鹿げたことである。財産が多くなると一身の護りのためには不充分なものである。危害を求め、煩悶を招く媒《なかだち》になる。白氏文集にあるように黄金を積み上げて北斗に柱をするほどの身分になってみても他人に迷惑をかけるだけのことである。俗人の目を喜ばせる慰《たの》しみというのもつまらぬ。大きな車や、肥えた馬、黄金や珠玉も、心ある人にはいやな馬鹿げたものと思われるであろう。金は山に捨て、玉は淵へ投げるがいい。古人が言うように利慾に惑うのは最も愚かな人である。 不朽の名を世に残すことは望ましい。位が高く身分が貴いからといって、かならずしもすぐれた人とは言えまい。愚者迂人でも貴い家に生れ、時にあえば商い位にも上り驕奢を極めるものである。立派な聖人であった人でも、自分から辞退して低い位にいたり時代にあわないでしまった人も多かった。いちずに高位高官を希望するものも利慾に惑うにつづいて第二の馬鹿である。智恵と精神とにおいてこそ世に勝れた名誉をも残したいものであるが、熟考してみると名誉を愛するというのはつまりは人の評判を喜ぶわけである。褒める人も、毀《そし》る人も、いつまでもこの世に留っているわけではない。伝え聞く人々だとてまたさっさとこの世を去ってしまう。誰に対して恥じ、誰に知られようと願おうか。誉れは同時に毀りの根本である。死後の名が伝わったとていっこう無益ではないか。これを願うのも第三の愚かである。 しかし強いて智恵を求め、賢くなりたいと思う人のために言ってみるとすれば、なまなかの智恵が出るので虚偽が生じた。才能というのも煩悩の増長したものである。聞き伝えたり、習って覚え知ったのはほんとうの智[恵ではない。どんなのを智恵といったものだろうか。可も不可も一本のものである。どんなものを善といったものだろうか。真人は智もなく、徳もなく、功名もなく、名誉もない。誰がこれを理解し、これを世に伝えようや。べつに徳を隠し、愚を守るというわけでもない。本来が賢愚得失の境地には住んでいないのだからである。迷いの心を抱いて名聞《みようもん》利得を求めるのはこの通りである。すべて皆間違いである。言うに足らず。願うにも足りない。
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宮中で正月に行われる後七日《こしちにち》の御修法に、阿閣梨《あざり》が武者を集めることは、いつぞや盗人に襲われたことがあったので、宿直人という名義でこのように物々しく警固させることになったものである。一年中吉凶はこの御修法中の有様に現われるものなのに、武人など用いるのは不穏当なことである。
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鯉の羮《あつもの》を食べた日は鬢《びん》の毛が乱れないということである。膠《にかわ》にさえ製造するほどの物だからねばりけのあるものにちがいない。鯉ばかりは主上の御前でも料理されるものであるから、貴い魚である。鳥では雉《ききじ》が、無類の結構なものである。雉や松茸などはお料理座敷の上にかけてあっても差つかえはないが、その他のものは入れるわけには行かぬ。中宮の東二条院のお料理座敷の黒棚に雁のおかれてあったのを、中宮のおん父の北山入道殿が御覧になって、御帰邸の後すぐお手紙で、このような品がそのままの形でお棚におりますことは異様に感じられました。無作法のことと思われます、識見のある侍女がおそばにおつかえしておられないためかと思われます。と書き送った。
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世に言い伝えていることは、真実では興昧のないものなのか多くはみな虚言である。人間というものは、実際以上に拵《こしら》え事を言いたがるのに、いわんや、年月を過ぎて、世界も代っているから、言いたい放題を虚構し、筆でさえ書き残しているからそのまま事実と認定された。 それぞれの道の達人のえらかったことなど、わけのわからぬ人でその方面に知識のない輩《やから》は、無闇に神様のように崇めて言うけれど、その方面に明るい入は、いっこうに崇拝する気にもならない。 評判に聞くのと、見るのとは何事でも相違のあるものである。そばからばれるのも気がつかず、口まかせに喋り散らすのはすぐに根も無いことと知れる。また、 自分でも本当らしくないと知りながら、人の言ったままを鼻をうごめかしながら話すのは、別段その人の虚言ではない。尤もらしく所々は不確かそうによくは知らないと言いながら、それでいて、つじつまを合せて話す虚言は恐ろしいものである。自分の名誉になるように話されている嘘は何人《なんぴと》も強いて取消そうともしない。人がみな面白がっている嘘は自分ひとり打消すのも変なものだと、黙って聞いているうちに、つい証人にまでされてしまって、いよいよ事実と決定してしまう。ともかくも嘘の多い世の中である。それ故、人があまり珍奇なことを言ったら、いつも本当は格別珍らしくもない普通の事に直して心得てさえおけば間違いはないのである。下賤な人間の話は耳を驚かすものばかりである。立派な人は奇態なことは言わない。 こうはいうものの、神仏の奇蹟や。高僧の伝記などを、そんなふうに信じてはいけないというのとは違う。これらは、世俗の嘘を本気で信じる間抜けだが、まさかそんな事実はあるまいと争論したとてはじまらないから、大体は本当のこととして相手になっておいて、無闇に迷信したり、また無闇に疑い嘲ったりしてはならない。
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従二位藤原|公世《きんよ》の兄の、良覚僧正と申された方は、とても怒りっぽい人であった。寺のそばに大きな榎の木があったので人々が榎の僧正と呼んだ。こんな名は怪しからぬというので、その木は伐ってしまった。その根があったので切杭《ぎりくい》の僧正と呼んだ。僧正はますます立腹して切杭を掘りかえして捨てたのでその跡が大きな堀になってあったから、堀池の僧正とつけた。
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斎宮《いつきのみや》が野宮《ののみや》におらせられるおん有様こそ至極優美に興趣のあるものに感ぜられるではないか。経、仏などは忌《い》んで、「染め紙」「中子《なかご》」などと言うのもおもしろい。元来が、神社というものはなんとなく取柄のある奥ゆかしいものだ。年を経た森の景色が超世間だのに、玉垣をめぐり渡して榊《さかき》に木綿《ゆう》をかけてあるところなど堂々たらぬはずはない。わけてもすぐれているのは伊勢、加茂、春日《かすが》、平野、住吉、三輪、貴船、吉田、大原野、松の尾、梅の宮である。 (一) 伊勢の大神宮に奉仕される内親王が嵯峨の有栖《ありす》川の御殿で潔斎される時のことをいうのである。
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后《きさき》などがお産の時に、甑《こしき》を落すのは、必ずしなければならないことではない。お胞衣《えな》が早くおりない時の咒《まじない》である。早くおりさえすれば甑落しはしない。本来下賤の社会からはじまったので、別だんに根拠のある説も無い。大原の里の甑をとくにお求めになる。古い宝物蔵の絵に、下賤の者が子を産んだ所で、甑を落しているのを描いていた。
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下僕に酒を飲ませることは注意すべきである。宇治に住んでいた男が京都にいた具覚《ぐがく》坊といって風流な脱落した僧が小舅《こじゆうと》であったので常に仲のよい相手であった。ある時迎え馬をよこしたので、遠方の所を来たのだからまあ一杯やらせようというので、馬の口を曳いている男に酒を出したところが、杯をうけて垂涎しながら何杯も飲んだ。この下僕は太刀を佩いて威勢がいいので、頼もしく思いながら引き従えて行くうちに、木幡《こはた》の辺へ来た頃、奈良法師が兵士をたくさん引きつれたのに出逢ったので、この男が立向って日の暮れた山中に怪しいそ止まれといって太刀を引き抜いたので向うの人々もみな太刀を抜き弓に矢をつがえなどしたのを具覚坊が見て、揉み手をしながら本性もなく酔っております者です、まげてお宥《ゆる》し願いたいと言ったので人々は嘲りながら通りすぎた。この男は今度は具覚坊に向って来て貴公は残念なことをしてくれましたな。拙者は酔っぱらいなどした覚えはない高名手柄をいたしたいと思っておりましたものを、抜いた太刀をよくも役に立たずにしてくれましたなと怒って、めった打ちに斬り落した。それから山賊が出たとわめき立てたので、里人が興奮して出て来ると乃公《おれ》が山賊だぞと言って走りかかって斬り廻るのを、里人大勢で手を負わせ打ち伏せて縛り上げてしまった。馬は血に塗れたまま宇治大路にある主家へ駆け入ったので、家人はあきれ驚いて男どもを幾人も差し向け、走らせて見ると、具覚坊は梔原《くちなしばら》で切り倒されて呻き苦しんでいたのを連れ出して戸板で運んで帰った。具覚坊は危い命を取りとめはしたが腰を負傷して不具者になってしまった。
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車の簾につける五緒《いつつお》の飾は、決して人によってつけるものではなく、何人《なんぴと》でもその分際として最高の官位に到達したら、それをつけて乗るものであると、ある人の話であった。
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常磐井《ときわい》の太政大臣(西園寺実氏公)が出仕された際に、勅書を捧持している北面の武士が、実氏公に出会って馬からおりたのを、実氏公は後になって「北面の某は勅書を捧持しながら自分に下馬した者である。こんな者がどうして、主上のお役に立つものか」と申されたので北面を免職になった。勅書の捧持者は、勅書を馬上のままで捧げて示ぜばよい。馬からおりてはいけないそうであった。