約 5,368 件
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/322.html
后《きさき》などがお産の時に、甑《こしき》を落すのは、必ずしなければならないことではない。お胞衣《えな》が早くおりない時の咒《まじない》である。早くおりさえすれば甑落しはしない。本来下賤の社会からはじまったので、別だんに根拠のある説も無い。大原の里の甑をとくにお求めになる。古い宝物蔵の絵に、下賤の者が子を産んだ所で、甑を落しているのを描いていた。
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/348.html
下僕に酒を飲ませることは注意すべきである。宇治に住んでいた男が京都にいた具覚《ぐがく》坊といって風流な脱落した僧が小舅《こじゆうと》であったので常に仲のよい相手であった。ある時迎え馬をよこしたので、遠方の所を来たのだからまあ一杯やらせようというので、馬の口を曳いている男に酒を出したところが、杯をうけて垂涎しながら何杯も飲んだ。この下僕は太刀を佩いて威勢がいいので、頼もしく思いながら引き従えて行くうちに、木幡《こはた》の辺へ来た頃、奈良法師が兵士をたくさん引きつれたのに出逢ったので、この男が立向って日の暮れた山中に怪しいそ止まれといって太刀を引き抜いたので向うの人々もみな太刀を抜き弓に矢をつがえなどしたのを具覚坊が見て、揉み手をしながら本性もなく酔っております者です、まげてお宥《ゆる》し願いたいと言ったので人々は嘲りながら通りすぎた。この男は今度は具覚坊に向って来て貴公は残念なことをしてくれましたな。拙者は酔っぱらいなどした覚えはない高名手柄をいたしたいと思っておりましたものを、抜いた太刀をよくも役に立たずにしてくれましたなと怒って、めった打ちに斬り落した。それから山賊が出たとわめき立てたので、里人が興奮して出て来ると乃公《おれ》が山賊だぞと言って走りかかって斬り廻るのを、里人大勢で手を負わせ打ち伏せて縛り上げてしまった。馬は血に塗れたまま宇治大路にある主家へ駆け入ったので、家人はあきれ驚いて男どもを幾人も差し向け、走らせて見ると、具覚坊は梔原《くちなしばら》で切り倒されて呻き苦しんでいたのを連れ出して戸板で運んで帰った。具覚坊は危い命を取りとめはしたが腰を負傷して不具者になってしまった。
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/325.html
車の簾につける五緒《いつつお》の飾は、決して人によってつけるものではなく、何人《なんぴと》でもその分際として最高の官位に到達したら、それをつけて乗るものであると、ある人の話であった。
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/355.html
常磐井《ときわい》の太政大臣(西園寺実氏公)が出仕された際に、勅書を捧持している北面の武士が、実氏公に出会って馬からおりたのを、実氏公は後になって「北面の某は勅書を捧持しながら自分に下馬した者である。こんな者がどうして、主上のお役に立つものか」と申されたので北面を免職になった。勅書の捧持者は、勅書を馬上のままで捧げて示ぜばよい。馬からおりてはいけないそうであった。
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/302.html
五月五日、加茂の競馬を見物に行ったが、車の前に、雑人《ぞうにん》どもが多数立ちはだかって見えなかったから、一行はそれぞれ車を下りて埓《らち》のそばへすり寄ったけれど、特別に人が混雑していて割りこまれそうにもなかった。 こんな折から樗《おうち》の木に坊主が登って、木の股のところで見物していた。木に取っつかまっていて、よく眠っていて落ちそうになると目をさますことが度々であった。これを見ている人が嘲笑して「実に馬鹿な奴だなあ、あんな危い枝の上で、平気で居眠りしているのだから」と言っていたので、その時心に思いついたままを「われらが死の到来が今の今であるかも知れない。それを忘れて、物を見て暮している。この馬鹿さかげんは、あの坊主以上でしょうに」と言ったので、前にいた人々も「ほんとうに、そうですね、最も馬鹿でしたね」と言って、みな後をふり返って見て 「こちらへお入りなさい」と場所を立ち退《の》いて呼び入れた。 このくらいの道理を、誰だって気がつかないはずはなかろうに、こういう場合思いがけない気がして思い当ったのでもあろうか、人は木石ではないから時と場合によっては、ものに感ずることもあるのだ。
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/401.html
死後に財宝をのこすようなことは智者のせぬところである。よくないものを蓄えておくのも品格を下げるし、立派なものは執蒼のほどを思わせるので趣味性ならぬ、人生観を浅薄に思わせる。ましてさまざまなものがごたごたとあるのはいよいよいけない。自分が手にいれたいという人々が現われて、争いになるのは不体裁である。後に誰に譲りたいと思うものがあるなら、生存中に譲るべきである、毎日欠くべからざるものは無くてはなるまい。それ以外のものはなに一つ持たないでいたいものである。
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/358.html
その物に附着して、その物を毒するものが無数にある。例えば、人体に虱、家に鼠、国に盗、小人に財、君子に仁義、僧に法など。
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/373.html
明日は遠国へ旅行すると聞いている人に対って、落ちついてしなければならない用事を、頼む者があろうか。切迫した大事に着手しているとか、切実な悲歟に暮れている人などは、他人のことなど耳に入れず、他人の喜びや悔みごとにも行かない。行かないからといってうらみとがめる人もあるまい。それ故、年もだんだんとって来たり、病身になっていたり、ましてや出家している人などももちろん、同じことであろう。人間の礼儀、何が無視できないものがあろうか。世間がうるさいからといって何事も、義理で仕方がない、これを果そうと言っていたら、願望は増すし、身体は苦しむ、心は忽忙になる、 一生涯は世俗の些雑な小さな義理に妨害されてむなしく終るであろう。日が暮れたが前途がまだ遠い、わが生ももはやよろめく力なさである。一切の世俗関係をうっちゃらかしてしまうべき時機である。約束も守るまい。礼儀をも気にかけまい。この心持を感じない人は、われを狂人と言うならば言え、放心者、冷血漢などなんとなりと思え。そしられたって苦にはしない。誉めたって耳に入れるがものもない。
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/284.html
衰えた末の世ではあるが、それでも雲の上の神々しい御様子は世俗を離れて尊貴を感じるのである。 露台、朝飼《あさがれい》、何殿、何門などは立派にも聞えるであろう。下々《しもじも》にもある小蔀《こじとみ》、小板敷、高遣戸《たかやりど》などでさえ高雅に思われるではないか。「陣に夜のもうけせよ」というのはどっしりしている。夜御殿《よんのおとど》をば「かいともし、とうよ」などというのもまた、有難い。上卿《しようけい》の陣で事務を執《と》っておられる様は申すにおよばぬこと、下役の者どもが、得意振った容子《ようす》で事務に熟達しているのも興味がある。すこぶる寒い頃の徹夜にあちらこちらで居睡をしている者を見かけるのがおかしい。「内侍所の御鈴の音はめでたく優雅なものです」などと、徳大寺殿の基実太政大臣が申しておられる。 (一) 節会の折の諸卿の席ハ陣)に燈火の用意を命令する言葉である。 (二) 主上の御寝所をということをただ「掻燈疾うよ」といっていることをさしている。
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/308.html
ある人が清水へお詣りをした時、年寄りの尼に道つれになったことがあったが、尼は途中「くさめ、くさめ」と言いながら歩くので、「尼さん何をそんなに言っていらっしゃるのですか」と問うたけれど返事もせずに、やはり言いつづけていたのを、たびたび問われて腹を立てて、「え、鼻のつまった時に、このおまじないをしないと死ぬと言いますから、乳をお飲ませ申した方が比叡山に児《ちこ》になっておいで遊ばすのが、今日でもお鼻をつまらせてはおいでにならぬかと思ってこういうのですよ」と言った。めずらしく殊勝な志ではないか。