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73 :ひゅうが:2013/12/07(土) 16 11 51 日本大陸世界ネタSS――第1次世界大戦時の日本 「遣欧総軍」 【日本軍、西へ】 ――西暦1917年6月、フランス北部へ集結を完了した遣欧総軍は、陸上戦闘部隊のみで28個師団および5個独立混成旅団と5個軍団級砲兵団で成り立っていた。 しめて52万3000名。日露戦争時の満州総軍の前線部隊にほぼ匹敵する数である。 加えて、兵站を担うべく日本海軍から艦艇122隻および輸送船約1200隻が臨時に「欧州方面海上護衛司令部」とともに抽出され指揮下に入っていた。 また本土からは鉄道師団が工兵旅団を複数追加されたうえで「臨時鉄道軍団」として派遣されており、帝鉄出身技術者とともに無数の機関車と貨車が欧州入りしている。 彼らは兵站基地となる英国南部までの海上補給路と、英仏海峡を渡ってからの輸送網を維持することに細心の注意を払っていた。 連絡将校たちが驚いたのは、火砲の大きさではなくその数と足回りだった。 火砲1万2340門。数は実に日露戦争時の5倍となり、さらにはその足回りはほとんどすべてがゴム製タイヤを履いている。 あわせて持ち込まれた牽引車両は初期的な戦車のような装甲トラクターであった。 中には280ミリ以上の巨大な榴弾砲をけん引するための大型蒸気トラクターすらあったほどだ。 これら火砲だけではなく、歩兵の装備も日露戦争時とは大きく様変わりしていた。 小銃こそ日露戦争時のそれの改良型ボルトアクションライフルであったが、それだけではなく分隊あたり1丁の散弾銃および擲弾発射機、そして携行可能な短機関銃を装備していたのだ。 小隊ごとにいたっては、歩兵運用が可能なロケット砲(さすがにこれは2~3名で運用するが)すら持っている。 大隊にいたっては無線電話による通信機能すら有しており、有線電話を加えれば文字通り手足のように戦場を駆け巡ることが可能となっていた。 なるほどこれでは補給がなければ作戦不可能なはずであった。 これらを指揮していたのは、元帥陸軍大将乃木希典。旅順攻略や哈爾浜会戦で名高い猛将であるが、彼は自らをお飾りと称して実際の指揮権は陸軍部隊を束ねる秋山好古大将に任せていたという。(これは薩摩人に特有の総大将のスタイルである。) 秋山は、海軍部隊の指揮官であった広瀬武雄大将が弟を通じた知己であるという関係を持っており、またフランス留学経験を持つ騎兵出身でありながらも火力戦と歩兵戦に造詣が深いという異色の将官でもあった。 そのため、当初は派遣前後のゴタゴタもあって険悪な仲となりかけた連合軍総司令部にあって流ちょうなフランス語で少しばかり下品な冗談を飛ばしてたちまち多くの外国武官の心を掴んだという。 いかにプライドの高いフランス人とはいえ、英雄には英雄の遇し方がある。 その点において、フォシュ元帥からも敬意を払われた彼らの起用は正解だったといえよう。 同年8月3日、ドイツ軍は「士気は低い」とみて新たに出現した日本軍めがけて攻勢を開始。 日英両軍の結節点にあたるソンム・オイセ河間に向けてドイツ第5軍が殺到した。 しかし、川に挟まれた地形であったうえ、臨時鉄道軍によって敷設を完了していた軍用軌道を用いて輸送された大量の火砲の餌食となり衝力は失われてしまう。 それでも攻勢を強めるドイツ側だったが、ヴェルダンで日本軍に救われたペタン大将率いるフランス第8軍が戦場に駆けつけることで日本側の士気は劇的に向上。 最終的にはわずかな損害でドイツ側の攻勢を頓挫させることに成功したのである。 連合軍側にとって久しぶりの大勝利であった。 折しも、ロシア方面においてケレンスキー率いるロシア軍が攻勢に転じていたためにドイツ軍は東部方面において大反攻を実施しつつあり、西部戦線においては小康状態が訪れつつあった。(それでも中部方面において第2次ランス会戦という激戦が惹起している) しかし、10月のロシア10月革命(赤い十月事件)によってロシア臨時政府が倒れソ連が成立。 12月にはブレストリトフスク条約が締結され東部戦線が消滅するという緊張感の中で、連合軍は1918年を迎えることになるのである。 74 :ひゅうが:2013/12/07(土) 16 12 25 【大派兵――米軍参戦】 1918年1月はアメリカにおいてツィンメルマン電報と呼ばれる一通の電報の内容が暴露されることによって慌ただしく幕を開けた。 折しも中国大陸において孫文が米軍(軍事組織として再建されたばかりであったが最新の装備で身を固めていた)の助けを借りて北伐を成功させ、さらにはロシア革命からチェコ軍団を救出するという名目で米軍先遣隊が満州経由でシベリアに入ったばかりのころである。 メキシコ駐在ドイツ大使館からメキシコ政府に向けて送られた参戦要請とされるこの文章は、現在では本物であったということがわかっていたものの当時はその真実性に疑問がもたれていた。というのも、その当時の外務大臣はすでにツィンメルマンではなく休戦派のゲオルク・ミヒャエリスであったためである。 彼は米国かオランダを仲介にした和平を望んでいるとされていたため、それはそうとしても現在は関係ないと思われたのだ。 だが、内容は衝撃的だった。 「メキシコの対米戦争実施要請、見返りに米墨戦争で奪われた西海岸三州の割譲」 それだけでもアメリカ国民の中に根付いたぬぐい難い反メキシコ感情から反独感情が高まることは避けられなかった。 さらにはドイツ潜水艦によってニューヨーク近海においてアメリカ船籍の客船「コロンビア」が撃沈され多数の犠牲者が出た(これは旧称をブリタニックというタイタニック号の姉妹船でアメリカに売却されていた)こともあり、時のウィルソン大統領は俗に「大派兵法」と呼ばれる法案を議会に提出。 中国大陸で進行しつつある自由を守るための戦いをヨーロッパにおいても行う許可を求めた。 しかし審議は難航。 中国大陸からシベリアにかけてか、それとも欧州か、主戦力派兵を行うのをどちらにするのかでおおもめにもめていたのである。 前者は、列強諸国特に日本が全力で欧州に取り組んでいる間に可能な限りの勢力拡張を成し遂げるチャンスであったし、後者はウィルソンの好む「道義的責任」においてフランスを助けるというより直接的なものとなっていた。 そのため大統領は両方を望んでいたのであるが、それには500万ともいわれる動員が必要となると野党は批判していたのだ。 結局は1918年2月に法案が成立し、中国大陸派兵用に用意されていた兵力が練兵の末に1918年4月に海を渡り始めるのであるが、準備期間の短さと兵站活動見積もりの失敗から悲劇に終わるとはだれも予想だにしなかった。 この年、南部の一部において奇妙な風邪のような症状が断続的に流行しており、それがニューヨーク近郊においても発生しつつあったことなど、誰も気にも留めなかったのだ。 75 :ひゅうが:2013/12/07(土) 16 16 07 【あとがき】――というわけで投下いたしました。 フランスも頑張ってますよ!おや?アメリカのようすが――というお話です。 ちなみに史実では作中電報はあまりにアレなので偽電文とみられていましたが、当のドイツ外務大臣がふんぞり返って「アメリカの参戦をしないように望む(キリッ)!」といって認めちゃうという大ポカをやらかしてます。 もともとは英国人による暗号解読の結果なのですが、今回の世界ではアジアで好き勝手をする米軍を掣肘するために使われたと考えました。 しかし、史実では運よく手に入れられたコピーとか、その暗号が古いままだったという幸運は今回はありません。 ですので疑惑の電文どまりとなります。 ------------------------- 修正回:0(アップロード) 修正者:Call50 備考:誤字・空欄等を修正。 修正回:1 修正者: 修正内容: -------------------------
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予科練副団長cli8だ。 我が団は、その名を由緒正しき大日本帝国海軍 海軍飛行予科練習生、 通称「予科練」よりいただき、規律を重んじ、国家に忠誠を誓い、 日々飛行技術向上に邁進する者達の集団である。 毎日飛行時間8時間以上を強要され、容赦の無い対戦訓練に耐え得る者のみ来たれ! くりはちです。 _O_ ペコリ にゅうだんしんせいボタンをおせるひとは、みんなはいれます。....タブン ^^ おしてね ^^
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“黒獅子――Black Leo” エドガー・アルバート・ブリテン・ウィンザー 大英帝国の第一王位継承権を持つ女王の長男。39歳。 弱小国家に成り下がった英国を、軍事・外交の両面で力強く牽引する。 大英帝国海軍に於いては、元帥の称号を持つ(英国軍は豪国軍より1階級下に扱われる為大将相当) 腕を揮わせれば数倍の兵力差を正面から薙倒し、弁を揮わせれば絶望的な交渉を取りまとめる。 「英国に二つ過ぎたるモノあり。名だけの権威と黒獅子エドガー」とは、 かの天津晃一郎が言ったと言われる台詞として余りにも有名である。 “英国海兵隊――Royal Marine”と言う近衛隊を率いている。
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種族 ホエルオー 名前 莞爾(kanji) 性別 ♂ 年齢 29歳 身長 cm 性格 一人称 二人称 帝国海軍大佐。エリート士官。 目つきが悪い分析や。そろそろ三十路に入りそうということが最近の悩み 少し詳しい説明 +... 全身図 { ※ズボンの色が違ってますがどっちでも問題ないです。 (名前の由来と意味) (デザイン補足)
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815 :641,642:2015/02/19(木) 17 05 34 アメリカ海軍艦艇…色々と修正しています。御免なさい。 コロラド級戦艦…『コロラド』『メリーランド』『ウエストヴァージニア』 日本無世界での、アメリカ兼世界初の41cm砲戦艦。史実同様連装4基。最大速力は史実より1ノット増えた22ノット。対35.6cm砲レベルの防御力だった史実とは違って、一応41cm砲レベルの防御力を備えている。かなりの老齢戦艦の為、額面通りのスペックを発揮できるかと言われると正直不安な部分も有る旧式艦。 サウスダコタ級戦艦…『サウスダコタ』『ワシントン』『アラバマ』『マサチューセッツ』 コロラド同様の艤装である41cm連装4基が主武装の、最大速力25ノット。軍縮条約開けに旧式艦の代替艦として就役した戦艦。そしてパナマ運河に縛られた設計である最後の戦艦でもある。正直特筆する様な事は無いが…この戦艦は枢軸国との戦争に備えて建造されたのでは無く、殆ど景気対策の為に建造された様な戦艦と言う面白い経歴持ちで有る事ぐらいか? アイオワ級戦艦…『アイオワ』『ニュージャージー』『ミズーリ』『ウィスコンシン』 41cm三連装三基、最大速力28ノット。この戦艦が建造されたのも半分くらいは景気対策である。ドイツが(ヒトラー排除後の)混乱からようやく立ち直ったころから軍事費の増大に併せて(確度の高い情報として)46cm砲戦艦、51cm砲戦艦の建造、また同砲口径の列車砲も製作するとの誤報が飛び込んで来た事から、アイオワ級は4隻で打ち止め、モンタナ級やユナイデットステーツ級への建造へ移行した経緯がある。 …ちなみに、史実では艦が細すぎて主砲砲撃の振動を受け止め切れなくて命中率が低い等と言われていたが、この世界のアイオワ級はパナマ運河通行を諦めた事によりそんな事は無い設計になっている。別に太平洋側に仮想敵国海軍なんて皆無なのだし、特に問題は無かった。 日本が来るまでは。 816 :641,642:2015/02/19(木) 17 09 32 モンタナ級戦艦…『モンタナ』『オハイオ』『メイン』『イリノイ』『ニューハンプシャー』『ケンタッキー』 アメリカ兼世界初の46cm砲戦艦。46㎝三連装砲三基搭載し、最大速力27ノットで大海原を駆ける、アメリカ海軍渾身の傑作艦である。 この六隻だけでも圧倒的なのに、コレで慢心せずにユナイデットステーツ級を建造した事は…まあ、やる時は徹底的にやるアメリカさんらしいですなぁ(遠い目)。 ユナイデットステーツ級戦艦…『ユナイデットステーツ』『アラスカ』『ハワイ』『テキサス』 モンタナ級戦艦を元に、51cm砲を連装三基搭載した、自他共に認める世界最強戦艦である。イメージは紀伊型戦艦?最大速力27ノット弱。 枢軸国との海戦による戦訓にて、(他戦艦群もだが)不燃化対策も徹底的に進められた、米国大鑑巨砲主義者のみならず、航空主平主義者ですら『アメリカの誇りたる不沈戦艦』と断言する(せざる負えない)弱点や穴が見受けられないモンスターである。正直酸素魚雷を何十発叩き込んだら沈むのか、それ以前に戦闘不能になるには何発必要なのだろうかこの戦艦… エンタープライズ級航空母艦…『エンタープライズ』『ヨークタウン』 史実のヨークタウン級空母相当の性能の二隻である。独伊との戦争では大した大物を食らう事が出来ず、海軍内では空母勢は少し冷遇的扱いを受けている。だが海軍とは違って陸軍や海兵隊からの評価や人気は戦艦たちと比べてかなり高い。(精度的に仕方が無いとはいえ)支援砲撃中に時たま何度も味方部隊を誤射しかけた(そして数回本当に誤射した)戦艦とは違い、電話一本で殆ど間を開けずに、陸上部隊の指示の元精密な支援銃爆撃をしてくれ、又上空偵察や防空に重砲の弾着観測もこなしてくれる艦載機部隊とどちらが人気が出るか、答えは明白であろう。別に戦艦を嫌っていたり認めていない訳では無いが エセックスタイプ航空母艦六隻『エセックス』『イントレビッド』『バンカーヒル』『シャングリラ』『ベニントン』『レプライザル』 これまた史実と大して変わらない性能である。全艦共通で…前級のエンタープライズ級もだが…水面下の攻撃に弱い弱点は史実より改善されているが、夢幻会所属の日本艦載機部隊から言わせてみれば『史実と五十歩百歩』程度である。雷撃機が複数攻撃、雷撃に成功すればたやすく撃沈できると思われる。ただ米軍空母の艦載機は多くが多数の戦闘機と偵察用の爆撃機に一応積んである雷撃機と言う編成の為、雷撃するためには対空砲火の前に先ずは大量の戦闘機の迎撃を突破する必要がある。日本戦闘機が烈風なのに米軍の戦闘機ヘルキャットだけど。 818 :641,642:2015/02/19(木) 17 14 17 ミッドウェイ級空母…開戦時点建造中 日本の大鳳型航空母艦の存在に衝撃を受けたアメリカ軍が全力で建造を始めた装甲空母。ただ、この世界のアメリカは、戦艦が発展した代わりに史実の様に空母の多数建造に運用や研究があまり進んでいなかった事も有り、ミッドウェイ級空母の能力や完成度は…史実と比べても…割かし低い。…だが、何せアメリカの事である。時間を与えたら一体どのような代物を吐き出して来るのか想像も付かない状況である。 まあ艦は兎も角として、前提として大鳳が乗っけてくる疾風に対抗できるような艦載機をどうするのかと言う問題が付いて回るのだが。 ベアキャットやF-80に初代ファントムでどうにかする気なのだろうか。 フレッチャー級駆逐艦 米海軍主力駆逐艦。史実と比べると対空、対潜攻撃力を削ってその分対艦攻撃力に回した、アメリカ版陽炎型駆逐艦とも言える駆逐艦 である。まあ史実陽炎型よりよっぽど良質なソナーを搭載してはいる。それでも大陸日本軍の伊号潜水艦を確実に捕捉できて撃沈出来るかと言うとかなり厳しいのだが。むしろヘタしたら伊号に逆に喰われそうだ。 ガトー級潜水艦 現時点でのアメリカ海軍主力潜水艦。新規艦艇建造は既に中止済み。…ドイツの遺産が少なかった事、戦艦や巡洋艦だけで無く駆逐艦等の軽快艦艇すらも水上艦艇に沈められた経緯が有り、また戦前から戦艦への対抗心の強さも有って、大型化に高速化、攻撃力の強化に走った事も有り、騒音がかなり酷い事になっている。実際開戦後にガトー級と交戦したとある夢幻会員は『まさかアメリカ海軍の潜水艦に向かって『お前んトコの潜水艦、楽団乗せてやーんの!』と煽れる日が来るとは…』と何とも言えない表情で呟いていた。ただ単に日本海軍の対潜能力が異常過ぎるだけとも言えるが。 現在静粛性重視で小口径砲を取っ払った後継艦のパラオ級潜水艦を必死に建造し、一部訓練に入り始めた艦もいるが、開戦後暫くはこのガトー級で戦うことになる。…ガトー級、終戦までに何隻生存しているのだろうか… ソ連海軍 モスクワ級戦艦…『モスクワ』『スターリングラード』『レニングラード』『キエフ』 ソ連海軍が初めて手にした新鋭の高速戦艦。41㎝連装砲3基という控えめな攻撃力の代わりに、速力は30ノットと言う高速を誇る優秀艦である。防御力も41㎝砲戦艦として必要十分な物を有しており、ソ連と言うかロシア初自力建造での強力な近代主力艦艇建造艦としては出来過ぎな位に優秀と評価できるだろう。ただ戦訓不足の為に艦に可燃物がちょこちょこ満載されているのはご愛嬌である。 ソビエツキー・ソユーズ級戦艦…『ソビエツキー・ソユーズ』『ソビエツカヤ・ウクライナ』『ソビエツカヤ・ペルルーシア』『ソビエツカヤ・ロシア』 ソ連海軍がモスクワ級の次に手に入れた新しい戦艦(玩具)。46㎝連装砲三基と、モスクワ級と同じように攻撃力が控えめな代わりに、最大速力30ノット近いと言うアメリカの最新鋭戦艦群とはまた違った意味での驚異的性能を誇る。ただこちらもモスクワ級と同じく可燃物が結構乗っている為、炎上したらかなり脆い。 819 :641,642:2015/02/19(木) 17 16 34 カリーニン級軽空母…『カリーニン』『ダゲスタン』『クイビシェフ』『ゴーリキー』 アメリカの同志の『厚意』により入手出来たインディペンデンス級軽空母の設計図を元に自国風に建造された軽空母。艦隊の防空と対潜哨戒が任務である。艦名は州名と自治国から採用された。とりあえず搭載機数は50機弱であるが、艦載機は陸戦機のヤコブレフYak-7を改造したものである。流石に同志達もヘルキャットなどは提供出来なかった。こちらも海上航法などは一応マスターしてはいるが、戦艦部隊以上に戦訓が皆無なので、仮に日本機動艦隊の所在を偵察できて、尚且つ第一撃を生き残る事が出来たら良く頑張ったと褒めても良いだろう。ちなみにカリーニン級に所属している彼ら全員この戦争が初実戦になるのだが。 K型潜水艦 ソ連海軍の主力潜水艦。初めから小口径砲を搭載せずに建造された為か静粛性はガトー級よりまだいい方。だが対潜の鬼たる日本海軍から見れば『新人の良い練習相手』程度と言う物だったが。なにせ水上艦に予算や熟練の水兵を優先的に回されたせいで中身の連度が… 820 :641,642:2015/02/19(木) 17 19 37 投下終了で御座いまするー。 よし、次回より戦争開幕と行きます。長々とこんなの羅列して すみませんでした。 台湾沖航空戦から東南アジア電撃戦。そこからフィリピン沖海戦 辺りの流れで考えてみます。
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ジパング 大日本帝国海軍(大日本帝国) コメント かわぐちかいじによる日本の漫画作品。2000年から2009年49号(2009年11月5日発売)にかけて講談社の『モーニング』にて連載された。 2002年には第26回講談社漫画賞一般部門を受賞。また2004年10月7日から、漫画を原作としたアニメがTBS系で放送開始されたが、全26話・漫画のストーリー途中で放送を終了した。 連載終盤の2009年5月、作者骨折により休載したが、2009年26号(6月11日号)より連載が再開された。 大日本帝国 海軍(大日本帝国) オニゴーリ:立石良則 異名が「対潜の鬼」から コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る
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646 :長月:2013/05/30(木) 00 30 00 憂鬱pedia 南雲忠一 南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年3月25日 - 19○○年○月○日)は大日本帝国海軍の軍人である。最終階級は海軍大将。 生い立ち 山形県米沢市信夫町出身。旧米沢藩下士南雲周蔵、志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。1908年(明治41年)、海兵36期を191人中5番の成績で卒業。海軍少尉候補生となり軍艦「宗谷」乗組。 1918年12月、海軍大学校甲種学生18期生となり、1920年、次席で卒業。同年12月に海軍大佐に昇進。 この時期にイタリアから帰国した嶋田繁太郎と個人的に親交を結んだことが知られている。 対潜戦研究 嶋田から第一次世界大戦で活躍した欧米の新兵器について聞いた南雲は、嶋田が航空機に着目したのに対して、潜水艦に着目。嶋田や山本五十六が主導し、航空機の研究が推進される中、南雲は潜水艦、特に水雷を専門に学んだ立場から、敵潜水艦の発見と迎撃の研究を行った。これは、南雲が嶋田の研究を補完しようとしたためと考えられている。 この研究のレポートには以下のような事項で盛り込まれ、非常に先進的であった。 ・欧米でも導入されたばかりのソナーに着目し、その運用方法として艦艇搭載や飛行艇搭載、ソノブイ、吊り下げソナーなどの構想を記している。 ・対潜哨戒航空機に要求される性能として、「低速、低空、長時間飛行」と、探査機器や航空魚雷を搭載するための「積載量」を挙げている。 ・運用面では、レーダー、ソナー等の機器を搭載し探査を担当する「探査機」と、航空魚雷による攻撃を担当する「迎撃機」の二機を一組として運用する方式を構想しているが、探査機器の小型・高性能化に努め、将来的には一機で二役をこなせるようになることが望ましいと付記している。 ・当時、机上の物でしかなかった回転翼機に関して、対潜哨戒分野での有望性を論じている。 ・鉱脈探査法として研究されていた磁気探知技術を潜水艦探査に応用する方法を模索している。 これらの研究は伏見宮博恭王軍令部総長に高く評価され、以後、日本海軍の対潜戦の基礎となる。 1924年、海軍大学校の教官に就任。この時、嶋田繁太郎と同僚になり、航空機と対潜作戦という互いの得意分野に関して活発な意見交換を行った。また、共に陸海軍合同運動会、文化祭の企画・実行にあたっている。 647 :長月:2013/05/30(木) 00 30 30 海上保安庁出向 1933年、第二次五か年計画の中で、運輸省に海上保安庁が創設されると、南雲は海上保安庁へ出向。これは、海上保安庁の任務は主として領海内の通商護衛や犯罪船舶の取り締まり、海難救助等とされたが、哨戒任務等において海軍と職域が重なるため、その調整や指導のが必要だったためである。南雲は積極的に両者の仲介を行い、そのバランス感覚に優れた調整者としての働きは、一部の反発はあったものの、海軍、海上保安庁双方から高く評価されている。 1936年、海上保安庁への出向から戻ると、ソナーや飛行艇の開発に携わる。特に川西航空機の九七式飛行艇の開発に深く関与した。この時に南雲によってもたらされた開発思想が菊原静男らに大きな刺激を与え、後に傑作機として有名な二式飛行艇を開発する基礎となった。 冬戦争 1939年、フィンランドとソビエト連邦の間で冬戦争が勃発すると、日本はフィンランドに対し、大規模な支援を行うことを発表。南雲は援軍として派遣される遣欧艦隊の司令官に任命された。これは、この派遣軍が新兵器のテストという目的も持っていたため、艦隊運用に優れていることに加え、技術に明るく効率的なデータ収集を計れる能力を持っていることが評価されたためである。 南雲は「浮かぶ航空工廠」と呼ばれた龍驤型航空工作艦、九六式艦上戦闘機、九七式双発戦闘機などの新兵器の能力を引き出し、大きな成果を上げた。なお、この遣欧艦隊の航空部隊は坂井三郎、笹井醇一、柴田武雄らのエースパイロットを輩出したことでも知られている。 また、仮想敵国であったドイツの勢力圏内を通過する際、駆逐艦に搭載した新型ソナーや、レーダー搭載の哨戒機によるUボートの発見を試み、大きな成果を上げていたことが当時の記録から判明している。 1940年に冬戦争が終結し、帰国すると、海軍技術会議議員に就任。冬戦争で収集したデータを基に各機器・機体の改良や哨戒任務のノウハウ、ソナー員の養成法の確立に尽力した。 太平洋戦争 対米戦争が不可避の情勢となり、嶋田内閣が発足すると、嶋田は海上保安庁と海援隊を海軍の指揮下に入れ、一括運用することを決定した。これは海上保安庁長官、海援隊総長に海軍からの出向者を就けることで実施され、南雲がこの両職を兼務した。先の海上保安庁出向の際に大きな信頼を受けていたこともあり、これによる反発はほとんど起こらず、むしろ南雲の指揮下で戦えることを喜ぶ物が多かったという。 南雲の指揮する海上保安庁、海援隊は、商船護衛、対潜哨戒を主とする航路警備任務に従事。南雲が開発を主導した探査機器や哨戒機が有効に働き、米軍の潜水艦隊による通商破壊はほとんど効果を挙げることができず、逆に捕捉・撃沈され、戦力を漸減することとなった。 648 :長月:2013/05/30(木) 00 31 16 戦後 1943年に太平洋戦争が終結し、1944年にサンタモニカ会談で戦後秩序の枠組みが決定される。これにより東南アジアが日本の勢力圏として認められ、他の列強は順次撤退することとなった。日本は東南アジアの各国を独立させることを決定。これに伴い、植民地の警備に従事していた海援隊は解体されることとなった。 一方で、これらの国々は自国の軍事組織、特に海軍が人員・装備共に未熟であり、地勢的な要因も重なり、海賊の温床となることが危惧された。そのため、各国が自国の領海警備を行える体制を整えるまでの間、日本がこれを代行することとなり、海上保安庁がその任に充てられた。 これに伴い、シンガポール島のイギリス軍基地跡地を流用する形で、日本海軍シンガポール鎮守府と海上保安庁東南アジア管区保安本部が設置された。また、この際、活動領域が大幅に拡大したこと、アメリカ風邪の防疫のために海上警備体制を強化する必要に迫られたことから、解体された海援隊隊員の大部分が、海上保安庁に再雇用されることとなった。 これらの再編成を行うに際して、戦時体制解除の一環として、海上保安庁は文民統制の原則に立ち返り、大久保武雄を長官に任命。一方で東南アジア管区の体制構築には南雲の手腕が必要とされ、南雲は出向を解かれることなく、東南アジア管区保安本部長に任命される。形式上は降格となるこの人事には、さしもの南雲も難色を示したが、嶋田や大久保の懸命の説得により、受諾した。 海上保安庁東南アジア管区保安本部長に就任した南雲は、まずは日本人によって構成される海上警備組織を構築し、列強の植民地警備の緩みから跳梁を始めていた海賊に対し、徹底的な掃滅を行った。この当時、海上保安庁は元海援隊隊員を主とする陸戦隊を保有しており、拠点を突き止めると積極的に攻勢をかけた。一方で、降伏した海賊の社会復帰にも力を入れ、外務省を通じて各国政府と協議し、海賊行為を行わなくても生活していける環境を作ることに協力を惜しまなかった。 また、併設されたシンガポール海上保安学校の校長も務め、日本の手で海上警備体制を構築する一方、東南アジア各国の海上保安庁が自立できるよう、各国の人材を集め、教育した。この功績から「海上保安庁の父」と称される。また、海上保安学校を卒業後、海上保安庁に務めた者の中から、選抜された人員がシンガポール鎮守府に併設されたシンガポール海軍学校に入学し、各国海軍の中核を担ったことから、「海軍の祖父」と呼ばれることもある。 1952年、退役。退役直前に海軍大将に昇進した。 649 :長月:2013/05/30(木) 00 31 52 評価 組織間の調整を得意としたこと、対潜戦術を一つの体系として作り上げてしまったことなどから、「嶋田繁太郎の最も忠実な弟子」と称される。自身で設計図を書き、技術論文を執筆した嶋田ほど技術に明るいわけではなかったが、前線の一兵士や前線指揮官の立場から運用を構想すること、その構想を過不足なく技術者に伝えることに長けており、自身の知識の不足を人脈で補う能力を持っていた。 世界に先駆けて系統だった対潜戦体制を築き上げた。その功績は先端技術の情報収集に始まり、構想の立案、機器の導入・開発、戦術の考案・教育、組織の構築まで、対潜戦術・戦略の全領域に及ぶ。このことから「対潜戦術の父」と呼ばれる。 水雷屋や鉄砲屋などの呼称に対応して、南雲は対潜屋と呼ばれた。 海上保安庁の設立に深く関わり、大きく貢献したことから、軍政家としても高く評価されている。国内での名声は嶋田繁太郎や山本五十六の影に隠れて目立たないが、東南アジアにおいては山本を凌ぎ、嶋田と同等かそれ以上の名声を誇る。 逸話 海上保安庁創設前より、南雲は海上警備や海難救助の分野における第一人者であり、優れた見識と能力を持っていた。海上保安庁が創設されたばかりの頃、これらノウハウの面に関して海上保安庁から南雲に相談が持ち込まれることが多々あり、海軍との調整の面でも南雲を頼ることが多かったことから、海上保安庁内では半ば公然と「困ったときの南雲様」と言われていた。 嶋田繁太郎と親交が深く、南雲は嶋田を尊敬し、嶋田は南雲を信頼していた。それぞれ航空、対潜の専門家として意見交換を頻繁に行った他、私人としての交流を深く、夜の居酒屋等で南雲が嶋田の愚痴に付き合う姿が度々目撃されている。真面目で面倒見が良く責任感の強い嶋田が、年下の相手に愚痴をこぼすのは南雲だけだったと言われている。 東南アジアの海賊の掃討を行っていた時期には、、南雲自ら、艦に乗り込み作戦を指揮することもしばしばで、その際は乗艦に海上保安庁旗と共に日章旗を掲げた。この旗を見た途端に降伏する海賊もいたと伝えられている。 「海上保安庁の父」として名高いが、退役に至るまで、正式な所属は日本海軍であった。本人も日本海軍の軍人である意識が強く、提督として艦隊を指揮して活躍することを常に強く望んでおり、またその能力もあったが、それ以上に海上保安庁の方に能力の適正があったため、その希望が叶うことはついに無かった。 そのことを嘆く発言が多数あり、「南雲の愚痴で一冊の本ができる」とまで言われ、死後、実際にそれらの発言をまとめた『南雲忠一の愚痴 ―「海保の父」の素顔―』が刊行された。これはかつての南雲の部下たちが南雲への哀悼の意を込めて共同執筆した物で、偉人として有名な南雲の極めて人間的な一面が、敬愛の念のこもった文章で綴られており、部下に深く慕われた南雲の人柄を後世に伝えている。
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478. 名無しさん 2010/10/02(土) 01 03 17 初の書き込みです 攻龍さんの作品に感化され書いてみました 旧軍並み無為無策で書いてしまいましたので内容についてはご容赦のほどを 戦闘を開始してからどれほど時が経っただろうか 体の彼方此方から煙を吐き左舷に集中した死棘は確実に私を蝕んでゆく 喫水をどっぷり沈め既に纏わりつく蚊蜻蛉を振り払うこともできない 最強の矛で在れと造られ突き出すそれは何時も空を切った ズーン 今度は何処に被弾したのか 艦橋での被害報告に耳を澄ます 「注排水装置全損、復元不能」 最早自分の足で立つことも叶わない 急速に平衡感覚が失われていく 「総員退艦」 それが私が聞いた最後の言葉 その後には怒号や悲鳴 私には最早ノイズにしか聞こえない 灰色の雲が低く垂れ下がった空を見上げ思った 空が遠い 次の瞬間私の体は倒れた そして幾度かの爆発のち海底へと引きずり込まれていく 苦痛は無かった体が泡となり弾けていくような感覚 そして私の意識も底へ底へと沈んでく 私の名は「大和」大日本帝国海軍最強の矛 それからいくほど時が経っただろう 私には1分後も100年後とも感じられる曖昧な体感時間を経て急速に意識が浮き上がっていく 懐かしい音が聞こえる ドックの騒音 私にとって母親の心音にも等しいその音で私は目を覚ました 周りの状況を確認する 見えるものは呉の港ドック町並み先輩方の勇姿 そして自分の竣工式 一瞬過去に戻ったのかと思ったが違う 元より二周りは小さくなった自分の体 記憶より立派な造船所や町並み この身に刻まれた名前 そして自分の建造意図も理解した それは空母機動艦隊の盾となれ なんと意地の悪い世界の矛盾 誰も守ることの出来なかった私への中て付けなのだろうか しかしそれはそれでいいと思った 明らかに目減りした主砲の口径と門数 排水量は言うに及ばず それ故に得た快速 標準装備となった電子の目は昼夜を問わず遥か彼方の水平線と空を見渡す 少し空が近く感じた 己の身が盾ならば正に矢面 しかしそれこそ私の望むべきものに相違ない 私の名は「伊吹」大日本帝国海軍最強の盾
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285 :ひゅうが:2016/07/10(日) 22 00 20 艦こ○ 神崎島ネタ――「接触」その5 「おい…こりゃぁ…」 「大都会じゃないか。誰だ?艦隊が立派でも島は立派とは限らないとかいった奴は?」 「そりゃお前だよ。」 「ああ俺か。そりゃすまん。」 兵たちがわいわい声を上げている。 士官たちも同様だったが、一時期の緊張が嘘のように艦隊の雰囲気は和らいでいた。 「見目麗しい娘さんたちが操る艦が相手となると、戦艦の乗組員でもほほが緩むものですな。」 「本来は困るのだが、ああも手をふってこられてはなぁ…」 米内GF長官は苦笑をもって接触3日目の朝を迎えていた。 連合艦隊司令部の参謀たちや、艦長たちも同様である。 昨日、演習と称して艦隊運動や砲戦演習を行った艦隊は、いずれも18ノットで南下。 艦隊の案内で、神崎島鎮守府の首府への入港を許されることになっていた。 彼らが接触したのが、地図によれば蓬莱諸島沖。 そこから本島沿いに南下し、兜率島の沖合で2日目を過ごしたのちに神崎島西南の池間岬をまわり、朝早くに補陀落湾の奥に位置する神崎市へと達したのが、日本標準時において午前6時30分だった。 なんでも、フィリピンのマニラ湾からアジア艦隊の出動が確認されており、英国海軍の中国艦隊も抜錨したという。 一昼夜飛ばせば、南波照間諸島沖に達すると予想されており、現地で警戒中の神崎島鎮守府第二艦隊が接触後こちらへ案内することになっているという。 やはり、見せつけるつもりであるらしい。 そして、見せつけられようとしているのは… 「先導の駆逐艦『夕雲』より発光信号! 針路そのまま。神崎市港湾管制へ誘導を引き継ぐ。」 「了解。返信、『先導感謝す。』」 先頭を進む大型の駆逐艦の艦橋上からは、妙に大人びた少女の笑みが米内たちに向けられ、やがて手をふりつつ先導から離れていった。 兵どもは歓声を上げてそれを見送る。 「やれやれ。女が云々といっていたプライドの高い奴らが鼻の下を伸ばしているな。」 「申し訳ありません。」 「いやいや、健全なことだと思うし私も他人の事をいえぬ。それにあの様子を見せつけられてしまってはなぁ。」 「あれは、なんというか反則でしょう。」 長門艦長の言葉に、参謀どもも頷いた。 確かに反則だった。 昨日実施された「演習」において、神崎島側の妙に甲高い声の艦長率いる軽巡「阿武隈」と第一水雷戦隊は、連合艦隊の前で一糸乱れぬ艦隊行動を披露。 こちらよりもひとまわりも大きな大型駆逐艦群が距離10以下ですれ違い、速度35ノットで標的艦に突っ込んでいく様子は連合艦隊側を瞠目させていた。 さらに、主力戦艦部隊の砲撃もまた反則級の命中率だった。 演習時の命中率において連合艦隊は実に15%近い高い命中率を誇ったが、彼ら――いや彼女らは少なく見積もって3割を超えていた。 しかも標的戦艦(無線操縦らしい)は回避運動を機敏にしている中で。 おまけに水柱の高さは見慣れた三年式41糎砲よりさらに高い。 こんなものを見せつけられては、「女の海軍」と陰口をたたきはじめかけていた行儀の悪い古参の特務士官たちも手のひらを返さざるを得ない。 彼らは、訓練で死者が続出するというこの時期の帝国海軍特有の狂った状況に適応していた。 すなわち、実力がある奴には素直に従う。 そうでもしないと、やっていられないのだった。 286 :ひゅうが:2016/07/10(日) 22 00 52 それに――と米内は思う。 本土の基準より発育がやたらいいとはいえ、艦長…いや、艦を一人で統括制御する「艦娘」という存在は見るからに善良そうで、かつ見目麗しいのだ。 男所帯であるからにはその効果は絶大。 訓練終了後に、ある艦長や元艦長たちに「会いに」きた艦娘たちがまとわりつく姿… というよりも父に甘える娘のような姿や、お嫁にいった娘が久しぶりに里帰りしたような姿は、彼らの父性本能を大いに刺激していたのだ。 そして、おそるおそる尋ねた艦長らに伝えられる、彼女らの悲劇。 慌てて止めようとしたGF司令部の動きも無駄に終わり(何しろ彼女らは海の上を「歩いて」きたのだ)、彼女らの「正体」は少なくともこの艦隊に浸透しつつあった。 「うちの艦には、あんないい娘たちが宿っていたのですねぇ。」 「しかも、一度沈んでからも再び誰かのために海に出るとは、鶴の恩返しみたいですなぁ。」 そんなことを、日頃厳しいことばかりを言う士官たちが言ってしまうのだからまったくもって男というものは… 「港湾管制より通信!12番錨泊地と埠頭のいずこを希望されるや?」 「泊地につけよう。この開放感のままに町に繰り出すと羽目を外しすぎる奴が出るだろう。 むろん、交代で上陸はさせる。」 「了解しました。空母はどうされます?」 「空母もだな。島側が飛行場と埠頭を貸してくれるらしい。飛行艇をつければ本土への物資運搬は間に合うだろう。」 しかし…と米内は、島の中心都市を観察しながらいった。 「とんだ未来都市だな。」 その通りだった。 神崎提督いわく、「気づいたらなぜかここにいた」というこの島の首府は、横須賀のような赤レンガ施設の外側を妙に機械じみた高層ビルヂングが取り囲み、さらに外縁部に要塞地帯が構築された軍港だった。 米国へいったことのある連中なら、ニューヨークの摩天楼をゴシック教会じみた装飾で満たしたようなと形容するかもしれない。 あるいは、どこかの平行世界の存在なら「大砲の町」とか「択捉経済特区」と評したかもしれない。 ある意味雑多なこの光景は、欧米列強が築いた植民都市のようであり、また上海のような奇妙なアジア的混合を示す都市のようだった。 「人口は30万ほどだとか。」 「彼らの説明によれば『ここで暮らしていた記憶もあれば、また別の場所で過ごした記憶もある』か。」 「まったく何を信じればいいのかわからない、というのはどういう感覚なのでしょうね?」 「ジキル博士とハイド氏が常に表に出ているような感覚かな?」 「ぞっとしないな。」 まったくだった。 特に、米内たちにとっては未来の事項に属する悪夢のような大戦争を人間に操られて過ごしことごとくが沈んだというあの娘たちは… 「閣下!神崎島鎮守府旗艦『大和』より入電。 『わが鎮守府第二艦隊は、南波照間諸島沖において米アジア艦隊と会同。これより神崎市へ誘導す。』」 「おいでなすったな。」 「これも、神崎提督からの圧力でしょうか?」 「早く何らかの地位確定を行わなければ米国側にも飴を見せるというのだろうな。 やれやれ。あの若い提督、とんでもないタヌキだぞ。 まぁこちらに配慮しているのは分かるが。」 ――この日、連合艦隊司令長官名義で神崎島鎮守府との相互不可侵協定が締結。 このときをもって、世界史に「カンザキトウチンジュフ」という存在が登場する。 287 :ひゅうが:2016/07/10(日) 22 01 45 【あとがき】――帝国海軍士官の皆さん「駆逐艦は天使。はっきりわかんだね」 おかしい…なんかほのぼのした話になってしまった。
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基本データ 艦級:戦?艦?、同型艦なし 建造場所:クランプ造船所 起工:1898年12月?日 進水:1900年10月23日 就役:1902年3月25日 ロシア帝国海軍レトヴィザンとして 捕獲:1905年1月1日 日本海軍により 編入:1905年9月24日 日本海軍戦艦肥前として 類別変更:1921年9月1日 戦艦→一等海防艦 除籍:1923年9月20日 実装状況:2015年6月28日現在未実装 史実情報 オリジナル艦娘の状況 2015年6月28日現在未確認。 同型艦 なし 関連項目 外部リンク Wikipediaにおける該当記事レトヴィザン 肥前 名前