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昭和戦中期② 皇紀2602(昭和17/西暦1942)年 12月8日(日本時間) アメリカ合衆国は「度重なる日本の悪意ある行為」によって「アメリカ国民が犠牲」となり「交渉に於いて誠実な態度どころか痛罵した」ことを以て「アメリカの正義を示し政治的後進国である日本を民主化するため」、アメリカ・ワシントン時間12月7日16時を以て宣戦を布告。太平洋戦争勃発。 その外交文書を交わしている最中、アメリカ海軍が編成した空母機動部隊が大日本帝國の一大工業地帯である関東地方を薄暁奇襲する関東(大)空襲が発生。 大日本帝國側の被害は横須賀海軍工廠ドック内の大和級四番艦「甲斐」が小破した他、横須賀軍港に集結・在泊していた東日本方面軍艦隊の空母「翔鶴」と「神鶴」が甲板を小破。浦賀水道に夜明けを待って侵入中のタンカーが攻撃を受け大破炎上。流出した油にも引火し浦賀水道を火の海に変え、東京湾に艦船が閉じ込められる。 更に示威行為として東京の下町まで強引に侵入したアメリカ軍の焼夷弾装備機の攻撃により発生した火災が、乾燥していた空気と当日吹いていた強風に煽られ火災旋風を発生し、非戦闘員の死者行方不明者2000人という惨事に。街を焼き払うことで会戦早々に戦意を挫こうという企図から行われた焼夷弾攻撃であったが、関東大震災に於ける大火災のトラウマのある大日本帝國では臣民の激烈な怒りを買うことになる。 日本軍は土壇場で迎撃機の展開に成功し、陸海空共同でアメリカ艦隊の放った攻撃隊を五月雨式に襲撃し、甚大な被害を与え戦術的には辛勝したものの(アメリカ軍の2派に分かれた攻撃隊の帰還率は5割に届くか届かないかというレベル)、軍事的要衝どころか市街地への攻撃すら許し、米空母部隊の捕捉と撃滅には失敗したため、戦略的には敗北を喫する。その上前述した様に浦賀水道が火の海となり、火災に巻き込まれて大破漂流する船舶が続出したため、東京湾に一個機動部隊が丸々閉じ込められる事態となる。 一方で双方とも航空機を集中運用することで強力な攻撃力を発揮し、従来の主力艦である戦艦よりも長射程を発揮する優位性を再確認。アメリカ艦隊は高い損耗率を記録したため一時的に航空部隊が半壊し活動が低調になるも、後方から即座に予備戦力を回すことで回復に努める。 正面絶対数の差から両者当面互角状態になるが、日本海軍は横須賀での戦訓から急遽、現状では戦力の浪費であるとして、艦艇防空能力の更なる強化を決定。これにより多数の艦艇が改装工事に拘束されたため、太平洋上の制海権は拠点付近でもない限りアメリカ軍優勢となる。 尚、三年戦争が終わりこれで世情は不穏ながらも世界大戦は終わったとばかり思っていた各国は、冷や水を浴びせられた形となったものの、互いの都合(欧州で孤立する同盟国を抱えるアメリカと、後背に信用ならないソビエトを持つ日本)から二正面作戦を展開する愚を避けて日米は互いに互い一国のみを対象として宣戦布告を行い、各々の同盟国には一時的に参戦を留保させていたため、三年戦争では多数の参加国が入り乱れていたものの、太平洋戦争では大変分かり易い構図となる。また再び戦争(しかも国力に於いて世界の五指の中でも上位に入る二国の)が始まったことで、互いに自身の陣営への軍事的援助や物資の発注を行った為、欧州では経済的に一息吐ける事になる。 12月10日 サイゴンから出撃し、南シナ海上の大日本帝國の海上交通網の破壊活動に出たアメリカ海軍アジア艦隊の旧式戦艦「オクラホマ」「アリゾナ」を、訓練中に開戦の報を受けた日本海軍第一戦隊の戦艦「大和」「武蔵」が捕捉。射程外からの電探・光学複合照準により、最初に通信・指揮能力の撃破を目論んで3式弾を初弾から斉射。相手の電探及び通信装置(ついでに監視員)を破壊し、統制の取れた戦闘を困難にせしめる。優速を以て距離を詰めた「大和」「武蔵」は通常弾頭に換装し、距離3万3000メートルから「オクラホマ」を斉射、初弾命中という偉業での撃沈を成し遂げる(第一次南シナ海海戦)。 更に「アリゾナ」は海南島から航空機の傘をかけていた海南空の一団に殲滅され、史上初の航空機による戦艦撃沈という不名誉な記録を計上する。 アジア艦隊は手もなく即座に瞬殺されたため、大和級の戦闘力はアメリカ側へは漏れず。日本連合帝國軍は南洋に航空艦隊を進出させ、米軍を擦り減らしながら住民や政府が避難する時間を稼ぎ出しつつ、一大金属資源地帯であり、連合帝國の輸出入の大半を占める南洋航路の最後の壁となる呂宋と毬亞を最終防衛線(この時期荒れ狂う北太平洋沿岸は互いに戦場とするには不向きであり、陸伝いに侵攻するとしても間にはグレートブリテンの眷属たるカナダが横たわっているため、これまた論外とされた)として、この戦争に於ける主力である連合艦隊が、侵攻してくるアメリカ軍を粉砕する体制を整える時間的猶予を得るための遅滞戦闘を仕掛ける戦略を立てる。 皇紀2603(昭和18/西暦1943)年 1月 対日開戦に伴いアメリカは太平洋に主要艦艇を回航し、サモアからマーシャル(鳳舞)、マーシャル(鳳舞)からトラック(香凛)、トラック(香凛)からマリアナ(毬亞)へと進み、43年~44年までには日本を屈服させると言う何とも皮算用的なスケジュールの戦争計画を実行に移していく。 一方の大日本帝國も横須賀での被害により海軍主力がすぐには動けないため、そして三年戦争の戦訓から開戦直後より潜水艦隊による通商破壊活動を重視して展開し、三年戦争の余勢を駆って圧倒的物量で護衛艦隊を編成したアメリカ海軍との間に壮絶な通商破壊戦を繰り広げることになる。 1月27日 南シナ海上に進出した日本海軍の機動部隊は、南洋からの輸送船団の護衛任務を餌として、在仏印米軍とアジア艦隊を誘い出し、航空撃滅戦を仕掛ける(第二次南シナ海海戦)。輸送船団を狙って出撃した航空部隊を戦闘機で固めた機動部隊が迎撃し、アジア艦隊の残存する旧式戦艦とは日本海軍の四四四艦隊に於ける旧式戦艦組、扶桑級が対処。両者共に壮絶な戦闘を繰り広げたものの、最初から在仏印米軍の航空戦力を削いで南シナ海の安全を確保しようと戦闘機で固め、更に徹底にも程がある程の大改装の果てに、「速射砲」とまで言われる砲撃性能を獲得した扶桑級で猛打した日本海軍に軍配が上がる。 実質的にはこれ以降、同盟国ではあるものの一応の中立状態にあるフランスの中でも遠隔地にあり孤立しているフランス領インドシナ周辺では、戦力を運び込むことも出来ず、かと言って一応の中立国の領土であるため侵攻されることも無く、仏印戦線は各地の秘密港から出撃する米軍の潜水艦や魚雷艇との戦闘以外は、大した戦闘が起きることも無く収束していく。 2月2日 アメリカ軍はサモアに集結させた太平洋艦隊を大挙出撃させ、マーシャル(鳳舞)諸島に侵攻。日本軍は初手から全力で空襲を行い、多大な被害を与えたものの、米軍が第二次南シナ海海戦の戦訓から戦闘機の数を増やしており、更に主力艦を守るためその身を挺する護衛艦艇が相次いだこともあり、空母と戦艦には大した損害を与えられず。要塞化の進行も遅く、制海権の確保に必要な艦艇の数が不足していたため、4日間にも及ぶ航空戦の末に日本軍の航空部隊は半壊。米軍の接近と艦砲射撃を許すものの、その間に住民と政府の疎開は完了しており、深夜の内に残存部隊も撤退を果たし、5日間の攻防の末に鳳舞諸島は陥落する。 3月9日 約一ヶ月で損害を回復した(回復が容易な中小艦艇が被害の主だったこともある)アメリカ艦隊、トラック(香凛)へ侵攻。大日本帝國は既に住民と政府の疎開を終え、主要部隊は毬亞と呂宋に撤退していたこともあり、米軍はほぼ無傷でトラック(香凛)諸島を手に入れる。 3月29日 アメリカ軍はトラック(香凛)諸島の拠点化を進めつつ、トラック(香凛)諸島をほぼ無傷で手に入れられたことから、偵察によりほぼ無人と判明したパラオ(帛琉)へ侵攻。これを無血占領し、大量の航空戦力が犇めき要塞と化したマリアナ(毬亞)を避け、その先にあるフィリピン(呂宋)を攻め海上交通線を途絶させ締め上げる戦略に出る。一方の日本海軍もそれを狙っており、寧ろそうなる様に仕向けてきたことから、両者の決戦志向は急速に高まる。 4月13日 樹野(ジュノー)沖海戦。アメリカがカナダを避けてアラスカ(荒棲家)南部への侵攻を試み、樹野を根拠地としていた荒棲家方面軍との戦闘に発展。結果、現地航空部隊と水面下に展開する潜水艦の群れに翻弄された挙句、引き連れていた輸送艦を徹底して狙われ多大な被害を出した米軍が撤退。以後、フィリピン(呂宋)占領による南太平洋打通派が多数を占める米軍内では、アラスカ(荒棲家)侵攻は立ち消えになる。 5月20日 アメリカ海軍はフィリピン(呂宋)に展開する日本軍を激しく空襲。同時にアメリカ陸軍がフィリピン(呂宋)中部黎輝島への強襲上陸を開始。当時用意可能であった、工兵などの要塞化部隊を含めた侵攻用陸上兵力のほぼ全力である21万名を揚陸し、フィリピン(呂宋)を不落の要塞を成さしめて確実且つ早期に息の根を止めることを決意していたが故の全力出撃だった。しかし、予想以下の数しか展開しておらず、また艦隊による迎撃にも出て来ない日本軍に対し、アメリカ軍内で慢心が生まれる。 5月22日 日本軍は台湾・海南からの長距離航空攻撃を開始。侵攻軍北方に展開していた米機動部隊は警戒を強め、一時東方へ後退する。この隙を突いた日本海軍は、海南島に配置していた甲部隊(近代化改装により就役時とは別物の戦闘力を持った四四四艦隊の戦艦「長門」「陸奥」「加賀」「土佐」「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」「扶桑」「山城」「伊勢」「日向」+空母「赤城」「高雄」「芙蓉」「鳳仙」基幹)と豊後水道南方へ展開していた乙部隊(空母機動部隊。「飛龍」「蒼龍」「翔鶴」「天鶴」の4隻基幹)に対し攻撃を下令。 5月24日 昼遅く、日本海軍の乙部隊と、アメリカ軍の機動部隊が放った索敵機が互いの艦隊を発見し、史上初の空母同士の艦隊決戦が発生。艦載機はほぼ同数ながら、台湾から強引に進出してきた部隊に防空を任せほぼ全力をアメリカ軍へ差し向けた日本海軍が戦力集中度と練度で勝り、空母「飛龍」「翔鶴」の中破に対し、空母3隻の撃沈ないし大破という戦果を挙げる。日没後、両者が一時反転し戦力再編を図る間に空母部隊を切り離した日本海軍の甲部隊がスールー(洲潤)海から向かいつつあることをアメリカ軍側が察知、急遽アメリカ軍側は戦艦のみを分離し、サンベルナルジノ(桟縁成)海峡での迎撃に向かう。 5月25日零時 サンベルナルジノ(桟縁成)海峡を突破した日本海軍甲部隊は呂宋(フィリピン)海溝付近でアメリカ海軍戦艦部隊と交戦。新鋭艦で固められたアメリカ海軍有利となり、作戦の戦術通りアメリカ軍有利となった時点での艦隊保全を決めていた日本海軍は、被害が出る前に甲部隊を反転逃走させる。米艦隊が追撃を開始したその直後、台湾近海から夜間に一挙に距離を詰めた大和級3隻(「大和」「武蔵」「信濃」。「甲斐」はこの時点でまだドックから出ていない)からなる丙部隊が米艦隊背後より突入する。 未知の巨大戦艦による背後からの挟撃で大混乱に陥ったアメリカ海軍は、高速戦艦で固められた優位性を以て射程から逃れつつある甲部隊の戦艦群から、急速に距離を詰めてくる数で圧倒的に少ない丙部隊の戦艦群に移る。しかし前代未聞の巨大さと重装甲に固められた大和級の装甲は貫けず、「大和」「信濃」の中破と引き換えに、「ノース・カロライナ」以外の米艦隊は全鑑撃沈または大破鹵獲という結果に終わる。 夜明け頃から事態を察知した米機動部隊による空襲が行われるも、夜明けに丙部隊と合流するスケジュールで大神鎮守府から出撃した空母「瑞鶴」「神鶴」からなる丁部隊に、北方に退避していた甲部隊の「赤城」「高雄」が合流。局地的制空権を維持して撃退。さらに被弾損害と乙部隊護衛を理由として撤退した金剛級4隻以外の戦艦全ても合流し、上陸したアメリカ軍が犇めく黎輝湾へ突入。後世語り継がれることになる「殴り込み」を演出する。 36cm砲48門、41cm砲54門、46cm砲36門に及ぶ空前絶後の艦砲射撃により、極短時間の間にアメリカ軍死者は万単位を数え上げ、有史以来稀に見る破滅的損害を被る(侵攻艦隊の50%が何らかの決して無視出来ない損害を受けており、無傷の艦から数えた方が早いぐらいの一方的な打撃を受けた)。この時点でアメリカが戦場に攻勢戦力として投入可能な陸軍戦力の3割(6万3000人)が天国への転属を余儀なくされ、2割が行方不明。さらに2割が後送された結果、この2日間の戦闘で陸軍だけで計14万7000人が編成上から消え実質上、侵攻軍は全滅した。 更に黎輝湾殴り込み部隊に攻撃を仕掛ける米機動部隊の間隙を衝き、残存機動部隊の航空戦力全てを叩き付けた空襲により、米機動部隊も多大なる被害を受け撤退を決定。上陸部隊の生残者は孤立し、物資・戦力の窮乏により降伏する破目に。 一方の日本軍は事実上25%の戦力低下で済んでおり、またその後の潜水艦による夜間雷撃によりアメリカ海軍は更なる多数の被害艦艇を計上することとなり、早くも侵攻能力を喪失。アメリカ政府は国民に対し敗北を隠匿する。 6月1日 アメリカ軍はパラオ(帛琉)から撤退。 6月9日 日本軍は帛琉(パラオ)に無血上陸。 6月15日 アメリカ軍はトラック(香凛)諸島から撤退。この際、毬亞で温存されていた日本軍攻撃隊が大渡洋攻撃を行い、多数の艦艇を撃沈するが、同時に付け焼刃ながら強化された対空戦闘陣形の前に多数の未帰還機を出す。 7月10日 日本軍は香凛(トラック)諸島へ無血上陸。 8月1日 アメリカ軍はマーシャル(鳳舞)から撤退。 8月15日 日本軍は鳳舞(マーシャル)に無血上陸。 9月20日 アメリカ軍残存艦隊はハワイ(布哇)に集結。 10月10日 兵力と回復した領土の根拠地の守備体制も整えた日本軍はSA作戦を発動。アメリカ軍サモア守備隊は成す術もなく、日本艦隊の艦砲射撃により「文字通りの意味で」全滅する。 11月8日 日本海軍はあ号作戦(布哇攻略作戦)を発動。連合艦隊のほぼ全力を以って布哇へ殺到する。これを阻止しようと展開したアメリカ軍は、機動部隊と基地航空隊を空母10隻(「赤城」「高雄」「芙蓉」「鳳仙」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」「天鶴」「神鶴」)分の艦載機と、猛烈な対空射撃の前に磨り潰され、最後の望みを掛けて夜襲を行った戦艦部隊も、大和級4隻とそれに隠れながらの一斉砲撃を行う四四四艦隊という圧倒的な弾薬投射量の差により壊滅。艦隊陣形再編と弾薬の補給のため一時退避した日本軍を尻目に、唯一再び生き残ったノース・カロライナ」は命からがらに真珠湾に入港を果たすも、そこで力尽いて大破着底する。 11月10日 アメリカ軍との艦隊決戦により弾薬を消費していた日本海軍は、丸一日掛けて予め手配していた補給を行ない、再度布哇攻略を開始。激しい空襲をオアフ島各地に見舞う。アメリカ軍航空隊残存部隊も善戦したが、空母を2隻毎に分けて各方面から神出鬼没の飽和攻撃を仕掛け、更に個々の技量で圧倒する日本海軍航空隊の前に壊滅。 11月11日 日本軍は布哇諸島に対し上陸を開始。予てからのアメリカの圧制に不満が噴出した現地(有色)住民の叛乱により、アメリカ軍は周りの全てを敵として戦うことに。 12月8日 日本軍、あ号作戦に参加し損傷のため真珠湾に入稿していた戦艦「金剛」に、アメリカ軍ハワイ守備隊の工作員が仕掛けた時限爆弾攻撃により舵機を損傷し大破。海戦劈頭から丁度一年に当たる日に再び奇襲を成功させたとして、アメリカ軍は本攻撃を士気昂揚の為に喧伝する。 12月28日 アメリカ軍ハワイ守備隊は山間部に追い詰められた挙句、物資窮乏により降伏する。 皇紀2604(昭和19/西暦1944)年 1月6日 大日本帝國、アメリカに対し「名誉ある停戦と講和」を勧告。これに対しアメリカは「自由と正義が証明されるまで戦う」と徹底抗戦を宣言。 2月14日 大日本帝國政府の交換船である「対馬丸」が東太平洋上でアメリカ海軍潜水艦により撃沈され、多数の非戦闘員に死者を出す。アメリカ政府はこの事件を「アメリカ海軍による攻撃は存在せず、単なる不幸な沈没事故である」とし、日本の謝罪要求を突っぱねる。 2月15日 大日本帝國、は号作戦発動。 2月26日 日本軍、サンディエゴを空襲し米軍航空戦力を殲滅の後、危険を冒して夜間に高速接近した戦艦群の艦砲射撃によりサンディエゴ市街ごと軍港を破壊。石油槽(タンク)が破壊され、流出した石油に引火。手の付けられない大火災となる。アメリカ西海岸では恐慌状態に。 2月28日 日本軍、ロサンゼルスを空襲し米軍航空戦力と激しい戦闘に突入。更に夜間に拘束接近した艦隊による艦砲射撃によりロサンゼルス市街ごと港湾を破壊。 3月9日 日本軍、パナマを強襲し、空襲と艦砲射撃を加え、運河を通行中の大型船ごと運河を徹底破壊。その際、通過中の油槽船が運河上で撃沈され大量の油が流出炎上。運河施設が回復不能なまでの高熱で焼き払われる。 3月15日 アメリカ議会の上下院で和平派・親日派・知日派議員がルーズヴェルト政権は西海岸に攻撃を加えられるほど海軍が大敗しているにも拘わらず之を隠匿し、名誉ある講和をすべきであると促されていたにも拘わらずそのテーブルを蹴り、徒に国民の血を流させたとし、これをマスコミが激しく煽動。海軍戦力の全滅、サンディエゴ、ロサンゼルス、パナマの潰滅という真実と、フィリピン(呂宋)で短期間に積み上げられた遺体無き死者の数々を前に、アメリカ国民の反戦機運も一挙に高まる。 4月1日 日本軍、アメリカ本土に最も近い荒棲家南部樹野に上陸部隊を含めた艦隊を移動。更に戦略爆撃機「富嶽」を現地に展開。は号作戦に於いて唯一攻撃を免れていたシアトルに対し、態々カナダを迂回して侵入後に艦隊の進出と講話を勧告する宣言ビラを投下。迎撃に出た米軍機の更に上空を圧倒する高速で突進する「富嶽」による打電「我ニ追イツク米軍機ナシ」が有名となる。 4月2日 日本軍の荒棲家進出が決定打となり、本土決戦となる前にルーズヴェルト政権は議会の弾劾により崩壊。ヘンリー・A・ウォレスが副大統領から昇格し臨時に大統領となり、停戦交渉を開始。 4月7日 大日本帝國、「布哇王国の復古」「対馬丸事件に対する謝罪と賠償」「ハル・ノートの撤回」「支那大陸への武器輸出の停止」「正常な外交及び貿易関係の再開」を骨子とした講和条件を提示。 4月12日 大日本帝國、アメリカ合衆国は即時停戦に合意。サンフランシスコでの講和会議開催を決定。 4月29日 サンフランシスコ日米講和会議開催。大日本帝國の提示した講和条件を骨子として交渉開始。 9月9日 大日本帝國とアメリカ合衆国との間にサンフランシスコ講和条約が締結・発効。骨子をほぼそのまま履行したもので、これにより足掛け1年9か月、実質的には1年5か月戦われた第一次太平洋戦争(俗には一年戦争)は終結を見る。サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、布哇に入植した白人の内、帰化を選択した一部以外の大半は保有資産を買い上げ(そしてその金額に関しては全てアメリカ持ちとされた)の上でアメリカ本土に総引き揚げを行うことになる。また、ミッドウェー諸島が布哇王国へ割譲された。 10月 グレートブリテン委任統治領パレスチナに於いて、ユダヤ人組織によるテロが頻発。ドイツ三年戦争期間中、ユダヤ人を迫害したナチス・ドイツへの対抗から、聖地の座するパレスチナを委任統治するグレートブリテンに対しユダヤ人は協力してきたが、三年戦争に際しヨーロッパを逃れてパレスチナに逃れてきたユダヤ人は、アラブ人との間に多大な軋轢を生じていた。その上、三年戦争終結後、ユダヤ人によるパレスチナでのユダヤ人国家建設運動が勃発するも、中東地域の植民地統治に何かと気を使っていたグレートブリテンは、アラブ人の大規模な反発を招きかねないユダヤ人国家建設に前向きではなかったことが、ユダヤ人テロの原因。 11月7日 アメリカ合衆国大統領選挙に於いて、民主党政権であったルーズヴェルトを継いだ臨時大統領であったウォレスを破り、共和党のタフトが当選。一年戦争の敗戦に伴い、壊滅した西海岸の復興には戦争を主導した民主党ではなく共和党で、更に孤立(モンロー)主義的なタフトを選ぶことで海外情勢に関わることなく自国の復興に集中出来るだろうという見通しから。 12月7日 大日本帝國、東南海地震発生。死者2000人を出すものの、一年戦争当初の焼夷弾攻撃から防火帯の設置が行われるなどしていたため、火災被害は大きくならず。戦争終結直後の準戦時体制下ということもあり、官民を問わず初動が迅速だったことも被害を抑制した。主に建造物の倒壊での被害が大きく、また津波は慶長地震以来の大堤防が功を奏する形となり、地震・津波の規模に対して比較的被害が少なかった。 皇紀2605(昭和20/西暦1945)年 1月1日 布哇王国・オアフ島に於いて、明治時代に日本に亡命したカイウラニ王女と、カイウラニ王女と結婚した山階宮定麿王の孫に当たる布哇宮明陽王が布哇王国国王として即位。(意外なことに)日本史上初の日本人による外国元首となるも、莫大な戦費を前に「(アメリカとの)適度な対立」を政軍共に望んだことから、意図的に武装中立国として太平洋中央部を巨大な緩衝地帯とすべく、大日本帝國は布哇王国の特に軍備に深い影響力を保持しながらも、意図的に自主独立性を持たせる様に鋭意努力していくことになる。 またその第一陣として、大日本帝國は真珠湾に入港し修理中の艦艇を、支援の一貫として現物提供(正確には大日本帝國が布哇王国の再興に辺り軍事支援を行うために現物提供する方便として、形式上天皇からこの時点では未だ臣下である布哇宮明陽王に対し下賜した形になる)。真珠湾にドック入りしている金剛級4隻を中核とした布哇王立海軍が設立。更に日米という仲の良くない二大超大国に戦争をさせないために、布哇王国は国際連盟本部の移転を提案。欧州大戦の激戦地となり大国の都合に翻弄されたエルザス=ロートリンゲンとの誘致合戦となる。 2月 大日本帝國、動員解除を開始。艦隊も動員解除に伴い旧式艦の淘汰も兼ねて世代交代が行われ、以下の艦艇を中核とした編成に改められる。 戦艦 - 「大和」「武蔵」「信濃」「甲斐」「黒姫」「武尊」「長門」「陸奥」「加賀」「土佐」 空母 - 「赤城」「高雄」「芙蓉」「鳳仙」「翔鶴」「瑞鶴」「天鶴」「神鶴」「大鳳」「瑞鳳」 老朽化著しい扶桑級を除籍し、新世代戦艦(の試験艦)である黒姫級二隻と、(新世代戦艦の本命である)大和級四隻から成る六隻を水上打撃戦力の中核とし、長門級、加賀級を空母機動部隊として新設される戦略単位である機動艦隊の旗艦に充て、一機動艦隊辺り戦艦一隻、空母ニ~三隻(この辺り、偶数を戦隊単位としたがる日本軍の性癖が反映されていないことからも、時代が変わったと言われた)とし、常時一個機動艦隊を予備兼整備に充当し、三個機動艦隊を洋上に浮かべるという極めて贅沢な編成を行い、更にこれらを新設する方面軍の隷下に置き、陸海空の三戦力を統合運用する柔軟性を持たせた。 5月 パレスチナに於けるユダヤ人テロが激化。ユダヤ人とアラブ人によるテロ合戦に、委任統治者であるグレートブリテン人が武力行使に及ぶ三つ巴の無法地帯に。 8月 大日本帝國、国際連盟は二度目の大戦勃発に対し有効な権能を有しなかったとして、特に昨今テロ行為が頻発するパレスチナ地域を引き合いに出し、「実力のある調停者」を作ることで国家同士の戦争を防止することを提案。更に欧州と太平洋の二箇所を同格の組織として、その権能の及ぶ範囲の偏重を阻止してはどうかとも提案し、国連軍の設置と、国際連盟本部の誘致合戦の収拾に漕ぎ着ける。 12月24日 大戦中に何ら有効に機能しなかった国際連盟は、総会に於いて全会一致で「常設国連軍」と「国際連盟太平洋本部」「国際連盟ヨーロッパ本部」の設立を承認。国際連盟の活動資金には、各国の拠出金の他に、新たに設立された「世界銀行(国際復興開発銀行)」の利益の一部、「世界市民」からの供託金(寄付)を充当するものとし、一年後の活動開始を目指すものとした。 皇紀2606(昭和21/1946)年 3月 グレートブリテンは悪化するパレスチナの治安情勢に対し、抜本的改善を図るため、戦略爆撃機を含む陸空の大部隊を派遣し、武装組織の殲滅作戦を開始。 6月29日 グレートブリテンはパレスチナに於いて活動するユダヤ人組織の一斉拘禁を実行し3000名以上を逮捕。 7月22日 武装ユダヤ人組織がグレートブリテン軍パレスチナ司令部の置かれていたエルサレムのキング・ダビテ・ホテルを爆破。 7月30日 グレートブリテン軍は中東方面の爆撃機部隊を動かし、無双ユダヤ人組織の根城となっていた区画を空爆の後、戦車を押し立てた地上部隊によって蹂躙。多数の死者を出す。 9月3日 第二次世界大戦勃発に伴って順延されたオリンピックの次回開催地が、開催を逃した東京に決定。 9月23日 大日本帝國、沖ノ鳥島沖に於いて、廃船に搭載した核爆弾を起爆(げ号作戦)。史上初の核兵器実用化に成功する。尚、本作戦により発生した津波により沖ノ鳥島の一部が流失。軍が慌てて復旧・拡張工事を行うという珍事が発生している。 12月21日 大日本帝國、南海地震発生。死者2500人を出すものの、比較的被害が少なかった。頻発する大地震に対し、大日本帝國は災害対策として観測体制と都市部の道路拡幅、機能分散、交通網の多角化に真剣に取り組むことになる。 12月24日 再編された国際連盟(通称新国連)が始動。その最初の仕事は南海地震によって大きな被害(とは言え自力でも復興は可能な程度)を受けた大日本帝國に対する支援活動だった。
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国際連盟憲章 国際連盟憲章(こくさいれんめいけんしょう)とは、アセリア歴1919年4月2日に署名された条約である。発行は、アメリカ合衆国が批准書を付託したアセリア歴1920年1月17日となっている。この憲章は、第一大戦の惨禍を受けた連合国側が今後の戦争開始を不可とせんとした理想を掲げて、連合国の中心メンバーであった神聖アルティス帝國、アメリカ合衆国、両シチリア王国、フランス王国、グレートブリテン及びアイルランド連合王国及び大日本帝國の六カ国の代表が当時ドイツとの講和条約を審議していたベルサイユにおいて締結した条約である。国際連盟憲章によって、世界規模の平和維持組織である「国際連盟」が誕生する運びとなった。 現在は、合計38の加盟国が存在する。 1.条約の内容 条約は、前文と10章45条からなる。 第一章は、総則の規定であり、国際連盟設立の目的と 国際連盟加盟国の守るべき原則が規定されている。 第二章は、国際連盟加盟国の地位に関するの規定であり、加盟に際しての規定と脱会の規定が存在する。 第三章は、国際連盟の機関に関する規定である。国際連盟憲章によって総会、理事会及び事務局が設立された。総会は、国際連盟の加盟国の代表によって構成される国際連盟の最高議決機関である。理事会は、連盟の常置機関として、連盟の事務を速やかに遂行させるために設置されている。事務局は、総会及び理事会の事務を遂行するために各国政府から独立した職員を持つ国際機関である。国際連盟本部は、東京に設置されている。 第四章は、国際連盟による国際の平和のための行動の規定である。軍縮に関する規定や軍需私企業二款する規定がおかれている。 第五章は、国際連盟による紛争の平和的解決に関する規定である。紛争が発生したとき及び紛争が発生すると予見されるときは、理事会が中心となって紛争の平和的解決を図るための手段をとるよう規定されている。 第六章は、委任統治に関する規定である。 第七章は、常設国際司法裁判所に関する規定である。常設国際司法裁判所は、国際連盟加盟国通しの紛争を法律的観点から解決するためにアセリア歴1921年10月1日に開かれた裁判所である。この裁判所は、特設ではなく常設の裁判所となっている。総会や理事会に対して法律的側面からの助言を与えることが出来る。 第八章は、雑則規定であり、条約の登録制度や国際連盟職員に対する外交官特権の付与などが規定されている。 第九章及び十章は改正や捕捉の規定である。憲章の改正は、総会の過半数と全ての常任理事国を含む理事会の過半数の賛成が必要である。憲章の規定に反対した場合は、その後国際連盟に留まる権利を失う。これを「自動脱会」と証し、任意の脱会と区別している。 2.原加盟国・加入加盟国 原加盟国とは、国際連盟憲章に署名した国及び国際連盟憲章の付属書に示された国をいう。このうち国際連盟憲章に署名した六カ国は、特に第三条前段に言う国として常任理事国の地位を有するが、アメリカ合衆国においては、上院の批准審議の際に「モンロー主義」の観点から積極的に国際連盟にかかわることを嫌ったHenry Cabot Lodgeの条約に対する留保をつけた批准によって、アメリカ合衆国は国際連盟理事会における常任理事国の地位を放棄した(ロッジの留保事項・ロッジ修正)。 神聖アルティス帝國(常任理事国) アメリカ合衆国 両シチリア王国(常任理事国) フランス王国(常任理事国) グレートブリテン及びアイルランド連合王国(常任理事国) 大日本帝國(常任理事国) ベルギー ボリビア カナダ オーストラリア 南アフリカ ニュージーランド インド ウェスペルタティア王国 ペルー ポーランド ポルトガル連邦 ルーマニア タイ王国 アルゼンチン共和国 チリ コロンビア デンマーク オランダ ノルウェー パラグァイ イラン王国 スペイン王国 スウェーデン スイス ベネズエラ 加入加盟国とは、原加盟国以外で国際連盟に参加している諸国を言う。このうち特筆すべきは、ドイツ連邦であろう。加入加盟国として常任理事国入りを果たしているところにその地位の高さが伺える。 オスマン帝國 フィリピン共和国 仏自治領インドシナ マレーシア連邦 インドネシア共和国 満洲国 3.条約正文 国際連盟憲章 神聖アルティス帝國皇帝陛下、アメリカ合衆国大統領、両シチリア王国国王陛下、フランス王国国王陛下、「グレート、ブリテン」「アイルランド」及「グレート、ブリテン」海外領土皇帝印度皇帝陛下、大日本帝國天皇陛下は、 国際協力を推進し平和と安全保障を達成するためには、 戦争による解決を行なわないこと、諸国間に公開された正当な名誉ある関係を樹立すること、諸国間の行動への実際的規律として国際法理解を創造すること、そして互いに組織された国民を扱うに際して条約の責務を尊重し正義が維持されることが重要であることを理解し、 ここに、この理念に基づく国際組織を新たに創設することを希望せり。 ここに国際連盟憲章を締結することを決し、之が為左の如く其の全権委員を任命せり。 神聖アルティス帝國皇帝陛下 前外務大臣 Gilbert, Karl BailSchmidt アメリカ合衆国大統領Wilson, Thomas Woodrow 両シチリア王国国王陛下 Orland, Vittorio フランス王国国王陛下 Clemenceau, Georges 「グレート、ブリテン」「アイルランド」及「グレート、ブリテン」海外領土皇帝印度皇帝陛下 Lloyd George, David 大日本帝國天皇陛下 侯爵西園寺公望 第1章 総則 第1条 国際連盟の目的は、以下の通りである。 一 国際社会における平和と秩序を維持し、そのために、国際連盟はあらゆる国際紛争に、武力を使用せずに解決する方法を斡旋すること 二 国際社会における各国家間の友好関係を発展させ、国際協力を堅固なものにすること 三 経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること 四 これらの共通の目的の達成に当って諸国の行動を調和するための中心となること 第2条 国際連盟とその加盟国は、第1条の目的を達成するにあたっては、次の原則に従わなければならない。 一 加盟国は、そのすべての加盟国に対して主権平等の原則を適用し、これを尊重しなければならない。 二 加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。 三 加盟国は、国際連盟がこの憲章に従ってとるいかなる行動についても国際連盟に援助を与えるよう最大限の努力を払うべきものとする。 四 この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を国際連盟に与えるものではなく、また、その事項をこの憲章に基く解決に付託することを加盟国に要求するものでもない。 第2章 加盟国の地位 第3条 国際連盟の原加盟国は、1919年2月15日の神聖アルティス帝國皇帝陛下、両シチリア王国国王陛下、フランス王国国王陛下、「グレート、ブリテン」「アイルランド」及「グレート、ブリテン」海外領土皇帝印度皇帝陛下、大日本帝國天皇陛下の代理人及びアメリカ合衆国大統領によってヴェルサイユにおいて協議され、その後1919年4月2日に署名されたこの憲章の署名国及び国際連盟憲章の付属書であげられた他の国家とする。 第4条 付属書にあげられていないいかなる独立国、自治領、植民地も国際連盟の加盟国になることを妨げられない。ただし国際的義務を誠実に遵守することと陸海空軍およびその装備に関する国際連盟により定められた規則を承諾することについての実効的な保証が与えられねばならない。 第5条 加盟国の地位は対等である。但し、この憲章に定めるところにより、権利の得喪及びその停止を定めることができる。 第6条 連盟のいかなる加盟国も1年の事前通告のあと脱会することができる。ただし脱会の時点で国際的義務及びこの憲章における義務は全て履行されていなければならない。 第3章 機関 第7条 この憲章にもとづく国際連盟の行動は理事会若しくは総会又はこの両者を通して決定される。国際連盟の行動のために常勤の事務局をおく。 第1款 総会 第8条 総会は国際連盟の全ての加盟国の代表によって構成される。 二項 総会では国際連盟の加盟国は1票を保有し、代表を三人以内出席させることができる。 第9条 総会は、この憲章の範囲内にある問題若しくは事項又はこの憲章に規定する機関の権限及び任務に関する問題若しくは事項を討議し、このような問題又は事項について国際連盟加盟国若しくは理事会又はこの両者に対して勧告をすることができる。 第10条 総会は国際連盟本部または決定された場所で必要なときに応じてまたは定期的な間隔をもって開催される。 二項 総会は、理事会の要請並びに加盟国の4分の1以上の要求があったとき、事務総長が招集する。 第11条 総会は、その手続規則を採択する。総会は、その議長を会期ごとに選挙する。 第12条 総会は、その任務の遂行に必要と認める補助機関を設けることができる。 第二款 理事会 第13条 理事会は、第三条前段に挙げられた原加盟国および国際連盟の加盟国中の4ヶ国の代表から構成される。4ヶ国の代表は総会において時に応じて任意に選任される。 二項 理事会においては理事会出席国のいずれも1票を保有し、3名以下の代表を派遣することができる。 三項 国際連盟の加盟国の個別利害に関連することについて非理事国である国際連盟のいずれの加盟国も理事会に代表を派遣することができる。この代表の規定に関しては前項の規定を準用する。 第14条 理事会は国際連盟の行動に関することまたは世界平和に影響を与えることについて取り扱う。 第15条 総会の三分の二を越える賛成により理事会は常任理事国を追加的に指名することができる。 第16条 理事会は必要な時に応じてまたは少なくとも年一回連盟本部または決定された場所で開催される。 第17条 理事会は、議長を選定する方法を含むその手続規則を採択する 第18条 理事会は、その任務の遂行に必要と認める補助機関を設けることができる。 第三款 事務局 第19条 常勤事務局が連盟本部に設置される。事務局は事務総長と必要な局員により構成される。 二項 事務総長は理事会によって任命される。 三項 事務総長は、総会の承認を得て事務局長は局員を任命する。 第20条 事務総長は、総会及び理事会のすべての会議において事務総長の資格で行動し、且つ、これらの機関から委託される他の任務を遂行する。事務総長は、国際連盟の事業について総会に年次報告を行う。 第21条 事務総長は、国際の平和及び安全の維持を脅威すると認める事項について、理事会の注意を促すことができる。 第22条 事務総長及び職員は、その任務の遂行に当って、いかなる政府からも又はこの機構外のいかなる他の当局からも指示を求め、又は受けてはならない。事務総長及び局員は、この機構に対してのみ責任を負う国際的職員としての地位を損ずる虞のあるいかなる行動も慎まなければならない。 二項 国際連盟加盟国は、事務総長及び職員の責任のもっぱら国際的な性質を尊重すること並びにこれらの者が責任を果すに当ってこれらの者を左右しようとしないことを約束する。 第四章 国際連盟による国際の平和のための行動 第23条 国際連盟の加盟国は国際的義務を果たすための共通行動の実行と国家の安全保障に適応するための最低水準まで国防力を低下させる必要があることを認める。このために理事会は幾つかの政府の行動や指針のための軍縮計画を策定する。 二項 軍縮計画は少なくとも10年毎に見直され修正されるものとする。幾つかの政府によってそのような軍縮計画が採用されたあと、軍事制限は固定化され総会の了承を得ることなく、制限が拡大されることはない。 第24条 国際連盟の加盟国は私企業による武器の製造と戦争準備は国際平和の安定を損ねるために厳重に規制されねばならないことに同意する。 二項 理事会はそのような武器製造が悪い影響を及ぼすことについていかに防止するかについて勧告を行なう。その際自国の安全に必要な準備と武器の製造ができない場合についても考慮される。 三項 国際連盟の加盟国は戦争目的に使用されうる産業の状態、陸海空軍の計画、装備の状態について十分に率直に情報を交換することを約束する。 第25条 第1条と第23条の措置を担保し全般的な陸海空軍の問題について理事会に勧告するため常設の委員会を設置する。 第26条 国際連盟の加盟国は全ての連盟加盟国の既にある政治的独立と領土保全について尊重しかつ維持することを約束する。連盟加盟国による侵略が発生した場合及び侵略の危険または脅威が発生した場合理事会はこの防止義務を実現させるための手段を勧告する。 第27条 いかなる戦争や戦争の脅威も、それが国際連盟の加盟国に直接的影響があろうとなかろうと国際連盟にとり重大な関心事であることを宣言し、国際連盟は諸国間の平和を維持するための賢明かつ効果的とみなされる行動をとるべき義務が存在する。 第28条 総会は時に応じてもはや実際的でない条約について国際連盟の加盟国に再考を勧告し、またその継続が世界平和を危機にさらしかねない国際的取り決めを考慮することを勧告する。 第29条 国際連盟の加盟国はこの条約と整合しないいかなる条約や共同理解をも廃棄し今後この条約と整合しない契約には入らないことを約諾する。国際連盟に加入する前にこの条約と整合しない条約上の責務を課せられれているならば、そのような条約上の責務から離脱するための手続きを直ちにとらなければならない。 第五章 国際連盟による紛争の平和的解決に関する規定 第29条 国際連盟の加盟国は破局に導かれるような係争が発生した場合、仲裁裁判若しくは理事会の査察による平和的解決を図るべき努力をしなければならない。 第30条 前条に従って仲裁に持ち込まれないが、破局に導かねない係争が国際連盟の加盟国の間で生じたとき、加盟国はその件を理事会に提訴することに同意する。 二項 この条項に関するいかなる係争についても理事会は総会に報告する。 第31条 前二条の条文に違反し、国際連盟の加盟国が戦争に訴えた場合、それは事実上他の全ての国際連盟の加盟国に対する戦争行為を犯したものとみなす。 第32条 理事会は、国際連盟加盟国に対して、第30条の規定に該当する国家との間に直ちに通商及び金融関係を切断し、国民との交流を禁止し、全ての金融、通商、個人的交際の防止措置を速やかに実施するよう勧告を発することが出来る。但し、本条において採用される金融および経済的手段はそれに伴う損失および不便を最小限のものとするようにしなければならない。 二項 本条の規定は、国際連盟の加盟国でない国に対する措置にも準用される。 第33条 理事会は、前条の規定を遵守させるため、及び条文違反国が国際連盟の加盟国に特別な手段を講じてきた場合の対抗措置として、効果的な陸海空軍を組成し軍隊を使用を勧告することができる。 二項 本条の勧告に対して、加盟国は理事会の勧告を受諾し、勧告内容の実施に努めなければならない。 第34条 国際連盟憲章の条文に違反した加盟国は他の加盟国の賛同を得て理事会の議決により除名を宣告される。 第35条 国際連盟の加盟国と非加盟国、あるいは非加盟国同士の係争に際して、非加盟国もその係争に関連して、理事会が設定した国際連盟の加盟国の義務を受け入れることを条件に招請される権利を与えられる。 第六章 非自治地域に関する宣言 第36条 この戦争の結果として以前統治していた国家が統治を停止しまた近代社会の困難な条件の下で独力で立つことができない人々により居住されている植民地または領土に対しては繁栄し発展した民族が文明の崇高なる信託を形成し発展させるという原則が適用される。 二項 この信託の成果の保証は、この原則を実際的な効果に高めるまでに至る最良の方法は、資源や経験また地勢上の理由によりこの責任をもっとも良く果たせることができる先進国にこの後見役を任せることである。 三項 それらの先進国は喜んでこの役を引きうけ、後見役は連盟に代わって委任統治者として委託される。委任の性格はその民族の発展度合い、領土の地理的状況、経済的状況などなどにより異なる。 第37条 前条の規定を実施するために、その方法を理事会に勧告するため常設の委員会を設置する。 第七章 常設国際司法裁判所に関する規定 第38条 理事会は常設国際司法裁判所の設立計画について国際連盟の加盟国に立案し提示する。 第39条 裁判所は提訴された国際的性格をもつ係争について公聴し審決できる能力をもつものとする。 第40条 裁判所は、理事会または総会によって付された、法律にかかわる係争または疑問について意見を与えることができる。 第八章 雑則 第41条 全ての条約と国際的取決について国際連盟の加盟国は国際連盟事務局に登録しなければならない。 二項 前項の条約又は国際的取決協定規定に従って登録されていないものの当事国は、国際連盟のいかなる機関に対しても当該条約又は取決を援用することができない。 第42条 国際連盟の加盟国の代表及び国際連盟の事務員は外交官特権と免責特権が与えられる。国際連盟やその事務員または国際連盟の会議に使用される建物及び動産は不可侵権を有することを加盟国は了承する。 第九章 改正 第43条 この憲章の改正は総会を構成する国際連盟の加盟国の過半数の賛成及び理事会を構成する国際連盟の加盟国のうちの過半数の賛成が行われ、且つ批准された時に、すべての国際連盟加盟国に対して効力を生ずる。 二項 効力発生以降、改正に反対したいかなる国際連盟の加盟国も修正後の憲章に拘束されることはない。但し当該国の国際連盟の加盟国として地位は消滅するものとする。 第十章 捕捉規定 第44条 この憲章は、署名国によって各自の憲法上の手続に従って批准されなければならない。 二項 批准書は、大日本帝國政府に寄託される。同政府は、すべての署名国及び、この機構の事務総長が任命された場合には、事務総長に対して各寄託を通告する。 三項 この憲章は、神聖アルティス帝國、アメリカ合衆国、両シチリア王国、フランス王国、「グレート、ブリテン」及び「アイルランド」連合王国、大日本帝國及びその他の署名国の過半数が批准書を寄託した時に効力を生ずる。批准書寄託調書は、その時に大日本帝國政府が作成し、その謄本をすべての署名国に送付する。 四項 この憲章の署名国で憲章が効力を生じた後に批准するものは、各自の批准書の寄託の日に国際連盟の原加盟国となる。 第45条 この憲章は、アルティス語、フランス語、イタリア語、英語、スペイン語及び日本語の本文をひとしく正文とし、大日本帝國政府の記録に寄託しておく。この憲章の認証謄本は、同政府が他の署名国の政府に送付する。 以上の証拠として、第三条前段に挙げられた者は、この憲章に署名した。 Gilbert, Karl BailSchmidt Wilson, Thomas Woodrow Orland, Vittorio Clemenceau, Georges Lloyd George, David 侯爵西園寺公望 1919年4月2日にベルサイユにおいて作成した。 付表 条約の署名者でもある国際連盟の原加盟国 神聖アルティス帝國・アメリカ合衆国・両シチリア王国・フランス王国・グレートブリテン及びアイルランド連合王国・大日本帝國 国際連盟憲章に賛成した原加盟国 ベルギー・ボリビア・カナダ・オーストラリア・南アフリカ・ニュージーランド・インド・漢武国・ウェスペルタティア王国・ペルー・ポーランド・ポルトガル連邦・ルーマニア・タイ王国・アルゼンチン共和国・チリ・コロンビア・デンマーク・オランダ・ノルウェー・パラグァイ・イラン王国・スペイン王国・スウェーデン・スイス・ベネズエラ
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毎日新聞社「決定版昭和史 別巻1 日本植民地史」1985 p226 日本にとって植民地とは何であったか 初瀬龍平 日本にとって植民地とは何であったか植民地の獲得 植民地の経営 脱亜入欧の反省へ 植民地の獲得 戦前日本の領土には、「内地」と「外地」とがあった。内地とは、本土、沖縄、小笠原、千島のことであり、外地とは、台湾、朝鮮、南樺太、関東州、南洋諸島のことである。日本の植民地としては、日本領土であった上記の外地に加えて、領土ではなかったが、日本のカイライ国家であった満州国が挙げられる。 現在の私たちは、かつて日本の植民地がどこにあり、どのような統治をしていたか、を次第に忘れつつある。テレビで、中国残留孤児という四〇歳台の男女が肉親を探して来日するのをみて、涙する目本人は多い。しかし、そこから、かつての植民地政策を間い直そうというひとは少ない。 明治日本には、みずからが欧米の植民地になる危険があった。しかし、日本は西欧型の近代国家を打ち樹てることによって、その危険を回避しただけでなく、近隣地域をみずからの植民地とした。 台湾は、一八九五(明二十八)年日清戦争の勝利の結果、清国から獲得した 領土である。下関条約によって、台湾、澎湖(ほうこ)列島が日本の領土となった。その面積は、九州の八五パーセント程度の大きさである。住民は、原住の高山系台湾人(いわゆる高砂族)と、大陸からの移住者・漢族系台湾人とであった。人口は、一九三五(昭十)年に、高山族系が一五万人、漢族系が四八四万人であり、日本からの移住者は二七万人であった。なお、下関条約によって、遼東(りょうとう)半島も日本の領土となることになったが、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉にあって、遼東半島は放棄還付(かんぶ)せねばならなかった。この遼東半島の重要な一部分が、十年後に関東州として領土となる。 朝鮮は、一九一〇(明四十三)年韓国併合条約によって、形式上も実質上も日本の領土となった。しかしすでに一九〇五年日露戦争の後に、第二次日韓協約によって、朝鮮は外交権を失い、統監府を置かれ、日本の保護国にされた。さらに一九〇七年の第三次日韓協約によって、朝鮮は、軍隊、警察を含む一切の内政権を日本に譲り渡した。この時点で、朝鮮は実質上完全に日本の植民地となっていた。併合条約は、形式上の総仕上げであった。朝鮮の面積は、日本の本州とほぼ同じ大きさである。人口は、一九一〇年で朝鮮人一三一三万人、日本人一七万人、一九四〇(昭十五)年で朝鮮人二三五五万人、日本人七一万人であった。朝鮮の場合、日本への移住者が多かった。在日朝鮮人は、一九二〇年三万人、一九三〇年三〇万人、一九四〇年一一九万人、一九四五年日本敗戦時に二一〇万人であった。なお、一九三九年以降百万人以上が、強制連行されていた。 南樺太は、一九〇五年日露戦争の勝利の結果、ロシアから獲得した領土である。ポーツマス条約によって、北緯五〇度以南の樺太が日本の領土となった。面積は、九州の八六パーセント程度の大きさである。人口は、一九四一(昭十六)年に日本人(アイヌを含む)三九万人、朝鮮人二万人で、オロッコなど少数原住者は総計五〇〇人以下であった。 関東州は、目露戦争の勝利の結果、ロシアから移譲された清国領の租借(そしゃく)地である。ポーツマス条約によって、旅順口、大連を含む遼東半島の尖端部分(関東州)の租借権と、東清鉄道南部線(族順口・長春間、一九○六年から南満州鉄道、いわゆる満鉄)と、同付属地行政権が、ロシアから日本に移譲され、その後の日清満州条約によって清国から承認されている。関東州は奈良県程度の大きさであるが、満州への出入口として重要であった。満鉄は、鉄道であるだけでなく、企業経営(炭鉱、製鉄など)、付属地行政、沿線駐兵権(満州独立守備隊)、領事裁判権によって、バツクアツプされていて、独立国的であった。 この意味で、満鉄付属地を植民地とみることもできよう。関東州の住民は、一九四〇年で、中国人一一八万人、日本人二〇万人であった。 南洋諸島は、第一次世界大戦に際して、日本が一九一四(大三)年に対独参戦をして、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領し、一九一九年のパリ講和会議で国際連盟下の日本の委任統治領として承認されたものである。南洋諸島は、グアム島(米国領)を除くマリアナ、マーシャル、カロリンの三群島を総称したものである。そこには、マリアナ群島のサイパン、テニアン、マーシャル群島のヤルート、ビキニ、カロリン群島のパラオ、ヤツプ、トラツク、ポナペなどの島々が含まれていた。南洋諸島の総面積は、琉球諸島全域よりやや少なく、一番大きい島でも、淡路島の三分の二程度しかないが、その千四百余の島々は、アメリカ本土大の海域分散している。人口は一九二二(大十一)年で総数五万人で、原住者のカナカ人、チャモロ人が四万八○○○人、日本人三〇〇〇人であったのが、一九三五年には、日本移住者の方が、原住者の数をこえ、一九四三年には日本人(朝鮮人を含む)九万七〇〇〇人、原住者五万三〇〇〇人となっていた。 近年ベラウ(パラオ)共和国の非核憲法が有名となり、日本のテレビの現地取材も行われている。このときパラオの人々が、上手な日本語で、テレビのインタビューに応答しているのをみて、「あれ!? どうしてこの人たちは日本語を語すのか?」と首をかしげた日本の視聴者も多かったようである。 べルサイユ条約では、日本がドイツの旧山東権益(膠州(こうしゅう)湾租借地と山東鉄道)を引き継ぐことが、承認されたが、中国の民衆はこれに強硬に反対した。結局一九二二年のワシントン会議で、日本はこれを放棄した。もしも中国の強硬な反対がなかったならば、山東半島は遼東半島と同じく、日本の植民地となっていたであろう。 最後に満州であるが、関東軍(本来は関東州租借地及び満鉄沿線の警備軍)が一九三一(昭六)年九月、いわゆる満州事変(満州侵略の謀略)を引き起こして満州を占領すると、清朝の廃帝(宣統帝)・溥儀(プーイー)を引き出し、これを執政として一九三二年三月カイライ国家.満州国を樹立したものである(二年後に帝政)。満州国は名目上は独立国であるが、国防、治安維持は日本軍に委任するなど、実質上は日本人官吏によって完全に支配されていた。その最高権力者は、一九三三年以降、駐満大使及び関東州長官を兼務する関東軍司令官であった。満州の面積は日本本土の三倍以上であった。 人口はそもそも四〇〇〇万人台であったが、そこに多いときには、一〇〇万人以上の日本人が満鉄職員、満州国官吏、軍隊などで移り住んでいた。農業移民一〇〇万戸移住計画があったが、結局農業移民は三三万人程度に終わった。その半数程度が、敗戦の混乱のなかで死んでいる。なお満州には、日本人以上に多くの朝鮮人が移り住んでいた。 日本の植民地の総面積は、外地約三○万平方キロメートル、満州国約二二〇万平方キロメートルであり、これに対し本土の面積は約三八万平方キロメートルであった。日本は、広大な植民帝国であった。 以上に挙げた以外に、一九三一年以後十五年戦争(日中戦争から太平洋戦争へ)の時期に、日本は中国本部の一部や、東南アジア(インドシナ、タイ、マレー、ビルマ、インドネシア、フィリピン)を占領したが、これらの地域の支配は軍政の段階で終わっていた。 植民地の経営 明治日本は、植民地を保有することを夢みていたが、台湾を領有したとき、植民地経営策をもちあわせていなかった。植民地を保有したのは、いわば国際政治上のステータス・シンボルとしてであり、領土の拡大自体が何よりも好ましいと考えていたからである。しかしいったん植民地を領有すれば、これを経営していかねばならない。そのときのモデルは、明治国家に求める他はなかった。財政上の余力をもたない日本は、植民地税収の安定を必要とし、農業地域では、これを地租の増加に求めねばならなかった。そのために、土地調査と、米作など農業振興を強烈に進めねばならなかった。台湾では、これに加えて砂糖業を育成した。植民地の人びとの抵抗、反乱を押え込んで治安を維持するために、本国にならって、警察網を村落の駐在所という型で拡大していった。巡査は、警察業務以外に、土地調査、戸口調査、農業振興、公衆衛生、徴税、社会基盤整備など一般行政業務を受け持ち、それを通じても土地の人びとを監視した。台湾では、保甲(ほこう)制度という隣人監視制度が利用されたが、これにも巡査が関与していた。農業振興と警察国家の台湾モデルは、朝鮮をはじめ他の植民地にも応用されていった。 植民地官制をみると、朝鮮総督府、台湾総督府、関東都督(ととく)府(一九一九年関東庁と関東軍司令部とに分離)、南洋庁、樺太庁(一九四三年内地編入)となっていた。一番権限の強いのが朝鮮総督府、一番弱いのが樺太庁であった。朝鮮総督は、天皇に直隷(ちょくれい)し、陸海軍大将がこれに任命された。一九一九(大八)年の改正で、文官総督が可能となったが、最後まで武官総督が任命された。朝鮮総督には、法律的効力の制令を発する権限があった。朝鮮総督の権限が、日本政府から独立していたのは、日本が朝鮮支配を最も重要であるとみたからである。最後まで武官総督であったのは、治安が確立しなかったからである。台湾総督は、はじめ陸海軍大将、中将であったが、一九一九年に文官総督となり、再び一九三六(昭十一)年以降海軍武官が任命された。台湾総督が文官に替わることができたのは、治安が一応確立したからである。再び武官総督に戻ったとき、海軍武官であったのは、南進基地台湾という情勢の変化があったからである。台湾総督にも、法律相当の律令を発する権限があった。関東都督は、陸軍大、中将であった。都督府は、一九一九年に関東軍司令部と、民政の関東庁に分かれた。 さらに一九三四(昭九)年に、関東州は存続していたが、関東庁は廃止され、在満大使館に関東局が設置された。関東軍司令官が、在満大使と、関東州の業務監督を兼務した。関東州の官制には、つねに満州の軍事支配の基地としての性格が濃厚である。樺太庁は、初期の軍政を除いて、軍事的でなかった。南洋庁の場合は、太平洋戦争期に軍事色となり、戦闘場面となってしまったが、その統治は、むしろ日本人の多い移住植民地として安定していた。 日本は、関東州を除いて、同化政策をすすめた。しかし、植民地の人びとは、「日本臣民」どして、ひとしく明治憲法(大日本帝国憲法)の遭用を受けてはいなかった。まず関東州は租借地、南洋諸島は委任統治地域であるからとして、憲法の適用は間題外とされた。 朝鮮、台湾では、皇民化運動、一視同仁(いっしどうじん)、創氏改名(そうしかいめい)、日本語強要などによって、同化政策をすすめながらも、他方では、憲法を全面適用することで、参政権、地方自治権などを朝鮮人、台湾人に与えて、両地の独立運動を助長することを、日本の官民ともにおそれていた。憲法も、参政権も、地方選挙権もとりあげられている植民地の人びとは、「日本臣民」ではなかつた。 裁判所も、樺太を除いては、朝鮮総督府裁判所、台湾総督府裁判所、関東法院、南洋庁法院として別建てであった。一九〇九年十月、当時日本の「保護国」であった朝鮮人の安重根(アンジュングン)が、前韓国統監伊藤博文(いとうひろぷみ)を北満州のハルビン駅構内で狙撃(そげき)、殺害したが、この場合、その身柄は清国における日本の領事裁判権によって、日本の領事館に移され、旅順の関東・地方法院で「帝国刑法」によって死刑判決となった。被告は高等法院に控訴せず、死刑が執行されている。この例にもみられるように、植民地の裁判所は、独立運動、抵抗運動の弾圧機関でもあった。 農業振興に戻ると、台湾では、米作と砂糖業が順調に成長した。朝鮮でも、台湾ほどではないが、米作が一定の伸びを示した。これらの米や砂糖は、日本本土に輸出された。一九三〇年代後半には、本土の砂糖輸入の九割以上が台湾からであり、米の輸入のほとんど全部が朝鮮と台湾からであった。しかし朝鮮人と台湾人の食糧事情は、悪化していった。一人当たり産米消費量(年平均)は、朝鮮人の場合、一九一一~一二年に一〇〇キログラム、一九三七~三八年に七五キログラム詣と減り、台湾の場合でも同じ時期に、一三〇キログラムから一〇〇キログラムに減少している。不足分は、台湾ではいも類、朝鮮では粟・麦などで補った。台湾でも、台湾人用の外米を輸入したし、朝鮮は外米と粟などの雑穀を輸入した。農業振興によって、米の生産が増えたが、現地の人びとの食べる米は減っていた。食糧生産は増えたが、しかし食物は減った。土地所有でも、次第に日本人地主が増えていた。 日中戦争から太平洋戦争にかけて、戦時経済化していくと、植民地収奪、労働力徴用(強制連行、志願兵、徴兵を含む)の仕方が変わるが、これを論じる紙幅の余裕はない。 脱亜入欧の反省へ 日本の植民地は、もともと経済的関心から出発したのでなく、国家的威信とか、軍事戦略上の配慮とかから、獲得されたものである。しかし植民地を領有、経営しはじめると、植民地は必然的に日本の近代化のための後背地として位置づけられ、経済的に露骨な収奪が行われた。それと同時に、日本の植民地領有には、つねに戦略的配慮が隠されており、その点でいっそうの安全を求めて、植民地を限りなく拡大していくモメントが働いていた。 ふりかえってみると、明治日本が西欧の大国をモデルとする近代化の思想を採用したとき、その思想には植民地の思想が含まれていた。「脱亜論(だつあろん)」の代表者・福沢諭吉(ふくざわゆさち)は、植民地論者であった。新一万円札の福沢諭吉は、明治時代の啓蒙(けいもう)思想家として知られ、「天は人の上に人を造(つく)らず、人の下に人を造らず」という言葉は、有名である。しかし、福沢は、この言葉を対外関係に適用しようとはしなかった。 福沢は、一八八五(明十八)年に「脱亜論」と題する小論を書き、そのなかで「今日の謀(はかりごと)を為(な)すに、我国は隣国の開明を待(まち)て共に亜細亜を興すの猶予ある可からず、寧(むし)ろ其伍(そのご)を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈(えしゃく)に及ばず、正に西洋人が之に接するの風(ふう)に従て処分す可きのみ」と主張した。それは、近来ヨーロッパ諸国がアジアの諸地域に侵略し、これを植民地としてきているのと同様に、日本も中国、朝鮮を支配するようになれ、という主張である。 福沢は、幕末に都合三回も欧米に洋行しているが、二度めの一八六二(文久二)年にヨーロッパを訪れたときに、その往復路でヨーロッパ諸国のアジア侵略の状況を目撃した。彼は、イギリス人がインド、香港の人びとを傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に苦しめているのをみて、次のように決心した。「印度支那の人民が斯(か)く英人に窘(くるし)めらるヽは苦しきことならんが、英人が威権を擅(ほしいまま)にするは又甚(はなは)だ愉快なることならんとて、一方を憐(あわれ)むの傍(かたわ)らに又一方を羨(うらや)み、吾(わ)れも日本人なり、何(いず)れの時か一度は日本の国威を耀(かがや)かして、印度支那の土人等を御すること英人に倣(なら)ふのみならず、其英人をも窘(くるし)めて、東洋の権柄(けんぺい)を我一手に握らん」。この決心は、植民地論者への決心である。 植民地の目標は、意外にも早く実現した。一八九五(明二十八)年、日清戦争の勝利によって、台湾は日本の領土となった。このとき、福沢は、台湾統治の方針について「島民の如きは眼中に置かず」に、「無知蒙味(むちもうまい)の蛮民をば悉(ことごと)く境外に逐(お)ひ払ふて殖産(しよくさん)上一切の権力を日本人の手に握り、其全土を挙げて断然日本化せしむる方針」を主張した。このように、脱亜論者は植民地論者であった。 朝鮮、中国において、福沢の評判は必ずしも芳(かんば)しいものではない。それ以上に評判が悪いのは、旧一千円札の伊藤博文である。一九〇五(明三十八)年、日本が朝鮮を保護国としたとき、伊藤は初代統監として京城に乗り込み、一九一〇年の完全併合に向けてお膳立てをした人物である。朝鮮では、この伊藤を一九〇九年にハルビン駅で殺害した安重根の方が、「義士」なのである。 旧一千円札の伊藤、新一万円札の福沢に代表されるように、近代日本を創った政治家、思相家は、ほとんどのひとが脱亜入欧論者であり、植民地論者であった。植民地にされた方の人びとからみれば、伊藤や福沢を今回も紙幣の肖像画に使っている日本人の良識を疑い、日本人は相も変わらず脱亜論者であり、植民地論者であるとみえるのではなかろうか。講の肖像画が紙幣に選ばれるかについては、暗黙ではあるが、日本国民の合意があるからである。 戦後、日本は、旧植民地との関係を正しく解決していない。朝鮮は、大韓民国とのみ接触し、朝鮮民主主義人民共和国を敵視、無視してきた。中国も、長い間台湾の国民党政府を支持し、中華人民共和国を敵視していた。旧南洋諸島の関係でも、賠償はすっきりとしていないし、日本の核廃棄物を南太平洋に放棄する計画を現地の人びとの反対にもかかわらず、放棄できないでいる。旧植民地の被爆者にも、旧日本軍人・軍属にも補償しようとしない。在日韓国・朝鮮人(七〇万人)を国籍、在留資格、就職、生活保障、人権などの問題で優遇するどころか、むしろ差別をしている。外国人登録の指紋押捺(おうなつ)に在日外国人から強い抗議の声が起こっている。ごく最近にも、長野県が一九八五年度教諭に在日韓国人を採用内定したのに、これに文部省が圧力をかけて内定を取り消させている。 世界的には、植民地時代は終わっている。香港も中国に返ろうとしている。私たちも、注意深く植民地主義の残りかすを消していかねばならない。一九四五(昭二十)年八月六日、南洋諸島のテニアン島から、原爆搭載の米B29爆撃機が、広島に向けて発進した。八月九日、ソ連軍が満州に侵攻したが、このとき関東軍は壊滅した。内地でも外地でも植民地のつけが、日本人の大衆に回ってきたのである。 (神戸大学教授) 台湾の歴史・日台関係史
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The New Order 軍事委任 アイコン編集 英名 Military Mandate 別名 登場作品 The New Order 上位イデオロギー 父権主義 主要なイデオローグ 軍事委任とは、外国の軍事力によって国家が統治される体制であり、多くの場合、支配国の高位の軍人が指導を行う。ほとんどの場合、侵略や併合の結果として軍事委任政権は非常に権威主義的になり、現地のレジスタンスの排除に夢中になる。軍事委任は、戦略的目的のための単なる地域の保護、統合の促進、あるいは新政権への円滑な移行の援助のための一時的な体制である場合が多い。 外国の軍が政府を完全に掌握しているため、これらの政権には文民の閣僚がほとんどおらず、支配国政府の利益と野心に政策を支配されることが多い。このような軍事委任政権が、真の独立性を持つことはほとんどない。主人が政権の安定性を失うような命令の遂行を要求すれば、彼らはそれに従う。主人が政権の解体と帰国を要求すれば、彼らはそれに従う。 しかし、任務の成否を決するものは、現地民の支持ではなく兵士や将校の能力だ。無能な政権なら、すぐに占領国の資源を大量に浪費し、逆効果になる。強力な軍隊だったとしても、状況や国民の要求に適応することができなければ、崩壊する可能性がある。非対称戦闘がますます目立つようになり、現状が崩れゆく中、これらの軍事委任政権は来たる嵐に備えなければならない。 (TNO日本語化Modより引用)
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第2次世界大戦で既に(劣化)ウランが弾芯に利用されていた、ということでしょうか? 第2次世界大戦時の各国の国力を知りたいのですが? WW2の直接原因は? ドイツはロカルノ条約を破ってラインラントへ兵を進めたり等,条約を破りまくりなんですが,それらについて,当時の国際機関であった国際連盟は具体的なことは出来なかった,ととらえてよいのでしょうか? 管制塔---塔の上に管制官の詰め所を備えた構造物---は戦後に生まれたものであって、大戦中には存在しなかったのでしょうか。 トルコ共和国3軍の基本ドクトリンとは、親独反ソ、ただし中立堅持だったと、単純に理解していいのでしょうか? 第2次世界大戦のとき、アラブ諸国は何をしていたのでしょうか? 枢軸(AXIS)という言葉が日独伊にどうして使われたのか教えて下さい。 日系米人の強制収容などに代表される、第二次世界大戦の人種間戦争的な側面について、現在ではどのような評価が一般的なのでしょうか。 日独伊三国同盟は、イタリアではドイツとイタリアどちらの方が最初に来るのでしょうか? 第2次世界大戦で連合軍側の兵士が戦争犯罪人として裁かれた例はありますか? 第2次世界大戦中に他国で日本のような学徒出陣はあったのですか? 第二次大戦で大都市が戦場になった場合、そこの市民はどうしているのでしょうか? せっかく支援したのにWWII参戦しなかった南の国ってどの国なんでしょうか? 三国同盟のメリットを教えてください。 日伊連絡作戦って何ですか? WWIIは、太平洋戦線とヨーロッパ戦線のどちらが規模が大きかったんですか? カナダやアフリカやブラジル、その他中東の国や小さな国々は大戦に参加してたんでしょうか? WWⅡでの独軍や英軍などの中に突撃○○隊などがいますが、何故突撃などと名付けられているのですか? タイがどこの国の植民地にならなかったのはどうしてですか。 国家社会主義ドイツ労働者党の幹部(ヒトラー以外)とスターリンの著書ってないんですか? 第二次大戦当時、陸軍と海軍てどっちが多かったんですか? WWⅡで枢軸国側にハンガリー、ルーマニア、アルバニア、フィンランド、ブルガリア、リトアニア、タイ等が参戦していたそうですが 第二次世界大戦前後に行われていた「子供を増やせ政策」って意味あったのですか? WW2時、撃墜記録ってどうやって確認してたの? 1939.9.1ドイツのポーランド侵攻に始まる一連の戦争を、最初に世界大戦と呼んだのは誰 第二次大戦中ドイツと日本は軍事的な交流があったのですか? 世界恐慌が起きなかったら第2次世界大戦は起きなかったの? 枢軸国側として参戦した国は日本・ドイツ・イタリアのほかはどの国なんでしょうか? 第二次世界大戦で、地上兵の訓練期間はどのくらいだったんでしょうか? 第二次大戦中のアラブ諸国ってどんな状態だったですか? 第二次大戦では欧州・アジアを問わずに無差別爆撃が行われましたが、国際法的にはどのようにして正当化したのでしょうか。 ムッソリーニにはファシスト党、ヒトラーにはナチ党がありますが、他のファシスト国家にはどんな政党と総統がありますか? WW2で市街戦を行う必要ってあったんですか? 第2次大戦前のドイツ・フランス・英国はそれぞれどこから石油を輸入していたのでしょうか? WW2で、最大の激戦地だったのはどこですか? 第二次世界大戦中、各国のマフィアは何をしていたのでしょうか? 第二次世界大戦の時スペインは何してたんですか? WW2における、主用参戦国の作戦名一覧みたいなものがある本があったら教えてください。 日本がアメリカと戦争した理由に石油がありますが、当時の中東の石油事情はどうだったんでしょう? WW2のとき独立国家はいくつあったのか? 第2次世界大戦当時の参加国の一覧ありますか? 第2次世界大戦で一番死者が多かった国は? 第2次世界大戦中の北アフリカ以外のアフリカはどうなっていたのですか? 大戦中最も多くの人が死んだ場所ってどこでしょう? ポルトガルのサラザール大統領は同じファシストでありながら、なぜナチを支援しなかったの? 第2次世界大戦中の中南米諸国(といっても10ヶ国以上あるが…)ってどういう状況だったんでしょうか? 第2次世界大戦の記録を見ると、ひょいひょい新型の戦車や航空機といった新兵器が開発されているような気になります。 WW2当時の携帯食料ですが、カロリーメイトのような料理せずに高カロリーを得られるような食料を配布していた国はあるのでしょうか? アメリカ兵はドイツ兵のことを「クラウス?」と呼んだり、日本兵のことを「ジャップ」と呼んだりしています。 こういった呼び名はどういった意味があるのですか? 第2次世界大戦中の水兵さんは制服や私物などの荷物を全て艦内に持ち込んでいたのでしょうか?(479 538) 一般論としてWW2時の歩兵師団では、戦闘部隊と後方部隊の比率はどの程度なんでしょうか? 急降下爆撃機ってのはどのくらいの角度で急降下してどのくらいの高度で投下してどのくらいの命中率なの?ついでに急降下時に速度はどれくらい出るもんなの? マレー沖海戦で九六陸攻、一式陸攻が英国の戦艦を沈めるまでは、航空機が軍艦を沈めることができるなんて誰も思っていなかったの? 第2次世界大戦では生物化学兵器は使われましたか? 2chでイタリア軍はなぜネタにされるんですか? 日本軍の兵は、何日戦って何日休みを貰えたんですか?また、米軍ではどうでしたか? アメリカの戦中プロパガンダに出てくる日本人 反日プロパガンダ絵とか見ると、大抵丸めがねで出っ歯でネズミというふうに日本人が表現されてます。これは東條のルックスも関係してますか? 大戦中、日本の鉱山や炭鉱では労働者が兵役に就いたために朝鮮半島などの徴用者を働かせたそうですがアメリカ、英国やドイツ、ソビエトの鉱山や炭鉱の事情はどうだったのでしょうか? イタリアやハンガリーといった、日独以外の枢軸国はB-17やB-24などの絨毯爆撃を受けましたか? レインボー作戦ってどういう作戦だったんですか? 第2次世界大戦のエースパイロットって世界中で何人くらいいるんですか 第2次世界大戦当時、片腕の司令官はいたのでしょうか?? ドイツと日本、連合軍によって投下された爆弾はどちらが多かったか 大戦中の各国の鉄鋼生産量は? 大戦前の各国の交通手段普及状況は? 大戦時は各国に女性の前線兵はいたのでしょうか? スペイン内乱時、フランスは戦闘機を送ったそうですが 第2次世界大戦中、空対空ロケットはどれくらい普及していたんでしょうか? 太平洋戦争時、米軍の一個師団は一日300トンの補給物資を必要としたと聞いたんですけど、本当ですか? リリーマルレーンて米軍の軍歌ですか? 日本は大本営発表で国民に嘘ぶっこいていましたが、同様のことはアメリカ、ドイツ、ソ連などでもあったんでしょうか? 第2次世界大戦のとき、米英独ソでは熟練工員は徴兵されなかったのでしょうか? 第2次世界大戦時にエチオピアに侵攻したイタリアの表向きの開戦理由は何だったのでありましょうか? WW2にリモコン航空機あったんですか? 先の大戦においては枢軸国に連合国軍の最新兵器を横流しして売り込んだとかの事例はあったんでしょうか? ドイツ軍内ソ連軍のウクライナ解放軍のウラソフ将軍達は、寝返ったとはいえウクライナの仇敵である旧ソ連軍と戦ったからウクライナでは英雄扱いというのは本当でしょうか? 第2次世界大戦時の南米で、アメリカ軍の基地があった国はありますか? 第2次世界大戦中、レーダー妨害で鉄くずみたいなのを飛行機からばら撒いて妨害するという作戦はなかったのでしょうか? カチンの森事件ですが、何故わざわざそんなところまで捕虜を移送して殺害したのでしょうか? 米海軍の艦船には第2次世界大戦前から、CA-28やらBB-64やら艦の種類と番号が振られていますが、他の国ではこのような艦種記号や番号は用いられなかったのですか? ワシントン条約やロンドン条約非加盟国は代艦枠を使って新型艦の建艦競争をしていたのですね? ドイツ軍ってやたらとオートバイ/サイドカー使ってるイメージがあるのですが、他の国が重視しなかった理由は何なのでしょうか? WW2軍服着用の指導者 北欧ってWW2当時はどこから石油仕入れていたんでしょう? 30年代や40年に立案されていたソ仏独の大建艦計画実現の公算は大きかったのでしょうか 大戦中の日米の艦艇の建造数を知りたいのですが。 第2次世界大戦中のアラブ諸国ってどんな状態だったですか? 第2次世界大戦中、各国のマフィアは何をしていたのでしょうか? 第2次世界大戦時、各地の空でフーファイターと呼ばれるものがパイロットによって目撃されたと本で読んだのですが、正体は何だったのでしょうか? 第2次世界大戦中連合国の指導者が色々なところで会談していますが、どうやって移動したのでしょうか? 第2次世界大戦の時スペインは何してたんですか? 空対空爆撃戦って何ですか? 戦時中、敵同士での通信(艦対艦とか艦対空で)は行われましたか? サンフランシスコ講和条約で、イタリアとスイスは何を理由として日本に賠償を求めたのでしょう? 第2次世界大戦最後の戦闘ってどこで行われたものですか? 第2次世界大戦で最後の海戦って、いつのどんな戦いなんでしょうか? 第2次世界大戦の敗戦国で、植民地の兵士を徴用していた国はありますか? WW2において、アメリカ陸軍だけが全歩兵の機械化と全車両の無線化を成し遂げたという話をどこかで聞いた気がするのですが、本当でしょうか? 日本やドイツの兵器生産全般は、終戦のその日にストップしてしまったんですか? 日本が92オクタンを標準としたのに、より進んでそうなドイツやイタリアが87オクタンを常用してたのはどういう事情からなんでしょうか? イタリア・ドイツなど枢軸国に駐留していた在外邦人はどのような処遇がなされていたのでしょうか。 自由フランスのド・ゴール政権などは対日戦勝国なのですか? 第2次世界大戦で倒した敵兵の装備を戦利品として持ち帰る兵隊がいたそうですが、銃や刀剣を持ち帰ったりする場合に問題は無かったのでしょうか 第2次世界大戦での主要国の軍用航空機生産数はそれぞれどれくらい? ワシントン、ロンドン軍縮における代艦建造と廃艦の順番について教えてください。 日本が南進せずにソ連に侵攻しても日本の機甲部隊の実力では、独ソ戦線にさほど影響は及ぼさなかったんでしょうか? なんでドイツと日本の防空能力に無茶苦茶な差があるんでしょう? 日独伊三国同盟って、なんか意味あったんですか? ワシントン海軍軍縮条約が潜水艦の開発競争にどのような影響を与えましたか? 第2次世界大戦で既に(劣化)ウランが弾芯に利用されていた、ということでしょうか? 確か弾芯にウランを使用していたはずです。実戦に使用したかは分かりませんけど。 この頃になるとドイツでは原爆開発の目処が当面は立たないと判明したため、 原爆開発のために備蓄していたウランを他の用途に転用したと聞いたことがあります。 その一つに弾芯の素材としてウランを転用したことがあると聞きました。 (6 564) 第2次世界大戦時の各国の国力を知りたいのですが? 主要国国力については,こちら http //www.eurus.dti.ne.jp/~freedom3/ww2-gdp-sai-axx.htm WW2の直接原因は? 戦争が始まった直接の原因は,ドイツがポーランドに,ダンツィヒ割譲とその周辺のポーランド回廊に交通網の施設と使用を要求して拒否されたんで,攻め込んだことかね. 中止しないと戦争するぞと英仏が警告したが,ドイツは何とかなると思って警告を無視した. WW2の開始は,中止の期限が切れた瞬間とみなされる. (世界史板) ドイツはロカルノ条約を破ってラインラントへ兵を進めたり等,条約を破りまくりなんですが,それらについて,当時の国際機関であった国際連盟は具体的なことは出来なかった,ととらえてよいのでしょうか? 何もできませんでした. まあ,ラインラントはドイツの領土――ロカルノ条約により,非武装地帯にされていただけ――ですし,国民は進駐を熱狂的に支持しましたから…. ラインラント住民にとっても,いつフランスやイギリスから占領されるか分かりませんでしたからね. 加えて言うなら,英国の世論は概してドイツに同情的でしたし,フランスは政情不安でとても出兵できる状態でなかったということを考えれば,じゃあどこの国が制裁するのよ?ということになりますわね. それを見越してヒトラーも進駐に踏み切ったんですが. ただ,いざ実行するに際しては,ドイツ側もおっかなびっくりだったようで,( ロカルノ条約では違反時に武力制裁が認められていましたから)英仏軍が攻撃してきた場合には,すぐに撤退できるよう準備をしていたそうです. 当時の独軍には実戦を耐え得るだけの実力はありませんでしたので. (世界史板) 管制塔---塔の上に管制官の詰め所を備えた構造物---は戦後に生まれたものであって、大戦中には存在しなかったのでしょうか。 airfield control towerで検索してみれ。けっこう引っかかるよ。 (6 48) トルコ共和国3軍の基本ドクトリンとは、親独反ソ、ただし中立堅持だったと、単純に理解していいのでしょうか? 45年2月に対ドイツ参戦してますから中立堅持とは言いがたいと思います 洞ヶ峠といったところではないでしょうか (6 217) 第2次世界大戦のとき、アラブ諸国は何をしていたのでしょうか? 中東はイギリス領でしたから、イギリス軍として参加していました。 ロンメルの北アフリカ戦線について調べてみると、よく分かると思いますよ。 それと、イギリスの二枚舌外交と、無責任さにも・・・ (14 960) 1940年頃の中東は…。 英国の影響下にあったものが、独立国(或いは保護国)ではイラク、エジプト、 トランスヨルダン(今のヨルダン)、パレスチナ(今のイスラエル)、湾岸諸国、イェメン、オマンです。 このうち、イラクは1941年にガイラニ首相が枢軸寄りの外交政策を採ろうとして、軍部が王室打倒クーデターを起こし、 ドイツがそれを支援しましたが、失敗して英国の影響下に置かれました。 エジプトでもナセルやサダトが率いる若手将校団がクーデターを計画しましたが、発覚して、彼等の身柄は拘束されました。 イランは1942/1/29にソ連が北半分を、英国が南半分を占領し保護下に置き、 サウジアラビアは自立してましたが、いずれも1943年に米国と協定を結んで 両軍は一部が撤退して米軍を駐留させました。 イェメンはアラブ陣営唯一の中立国でしたが、これも1943年に連合国に参加しています。 シリアとレバノンは「サイクス・ピコ協定」によってフランスの保護下に置かれ ていましたが、1940年のフランス崩壊でヴィシー政権に属し、1943年に自由 フランスの影響下に置かれた後、相次いで独立しました。 アフリカは独立国がほとんど無く、前述のエジプトを除けば、リベリア、南アフリカ、 モロッコ、エチオピアのみが独立しています。 このうち、モロッコはフランスの保護国、エチオピアはイタリアの占領下にありました。 このほかの地域は、南アフリカ、ボツワナ、ジンバブエ、ナミビア、ケニア、マラウィ、 スーダン、エジプトを結ぶ線とガーナ、ナイジェリア、ニジェールの一部などが英国の植民地でした。 南アフリカはアフリカ、イタリア戦線の主力として活躍し、ジンバブエも兵士の供給源になっていました。 また、ケニアはエチオピア奪還の根拠地となりました。 フランスがモロッコ、アルジェリア、チュニジア、マリ、中央アフリカ、ギニア、セネガル マダガスカルなどを植民地にしており、カサブランカ、ダカールでは連合国とヴィシー政府軍との戦闘が行われています。 なお、英国占領後のマダガスカルでは、日本の特殊潜航艇が英戦艦「ラミリーズ」を大破させました。 イタリアの植民地はエリトリア、リビア、ソマリアの他、大戦前に占領したエチオピア がありましたが、1941年から43年に掛けて連合国に占領されました。 このほかはコンゴ、ルワンダ、ブルンジがベルギーの、セウタ、赤道ギニアがスペインの、 モザンビーク、アンゴラなどがポルトガルの植民地でした。 (14 眠い人 ◆ikaJHtf2) 枢軸(AXIS)という言葉が日独伊にどうして使われたのか教えて下さい。 ベルリン・ローマ枢軸関係成立の際に ムッソリーニが「枢軸演説」をしたと。 それで「枢軸」が一般的に使われるようになったようです (15 241) goo辞書から すうじくこく 【枢軸国】 第二次大戦前から戦中にかけて,日本・ドイツ・イタリアを中心に連合国と対立した諸国家。 〔1936 年イタリアのムッソリーニの,ヨーロッパの国際関係はローマとベルリンを結ぶ線を 「枢軸」として転回するとした演説に由来する語〕 (102 785) 1936年10月25日にドイツとイタリアの間で防共協定が結ばれ、ムッソリーニが その協定に対して、同年11月1日の演説で"asse"(イタリア語でaxis "枢軸"の意) という語を用いたのがそもそもの由来です。 ムッソリーニはこのasseという語を「ヨーロッパの枢軸」という文脈で用いたのですが、 独伊のヨーロッパでの地理的位置を考えれば、この語が用いられた意味は おわかりいただけると思います。枢軸というのは車軸、中心軸の意ですから。 では日本語で「枢軸」が独伊間の協定をさして使用されたのはいつか、というと これがよくわからないのですね。おそらく、ムッソリーニ演説は日本でも報道された でしょうから、その時に使われた可能性があるのですが。 (102 786) 「イタリアとドイツが欧州の枢軸となりましょう」という両国の合意のもと、 イタリア元首ムッソリーニが1936年11月の演説で「独伊枢軸」という言葉を使ったため、 以後、日独伊(およびその同盟国)が枢軸側と呼ばれるようになったのです。 ちなみに英語では「AXIS」と呼ばれます。 (102 787) 日系米人の強制収容などに代表される、第二次世界大戦の人種間戦争的な側面について、現在ではどのような評価が一般的なのでしょうか。 パパ・ブッシュのときに正式に謝罪して、強制収容の経験者で存命中の方は一人 当たり当時の日本円で200万円ほどの補償金を受けていたと思います。 公式には解決済みなのではないでしょうか。 (18 ふみ) 日独伊三国同盟は、イタリアではドイツとイタリアどちらの方が最初に来るのでしょうか? 自分の国を頭に持ってこない国は通常ないかと ですからイタリアでは伊独日ないし伊日独三国同盟のようです。 世界史的には独が先頭で伊日の順はまちまちのようです。 (25 769) 第2次世界大戦で連合軍側の兵士が戦争犯罪人として裁かれた例はありますか? それってただの軍法会議になるのでは…。 まあ、なにをもって戦争犯罪とみなすかですがね。 (30 113) 第2次世界大戦中に他国で日本のような学徒出陣はあったのですか? ドイツやソ連は、13歳くらいまで戦場に送っています。 (32 732) 第二次大戦で大都市が戦場になった場合、そこの市民はどうしているのでしょうか? 大都市が市民ごと包囲された話で最も有名なのはレニングラード包囲戦でしょう。 1941年9月8日~1944年1月27日までの900日間、レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ) はドイツ軍によって包囲されました。食物・燃料の補給路を断たれ、冬の寒さと飢えの中で 多くの市民が犠牲になりました。独ソ開戦前の市の人口約300万人、包囲戦で犠牲になった 兵士や一般市民は、最近の発表で80~100万人といわれています。 ソ連は凍結したラドガ湖を利用して物資を搬入し、また市民を疎開させましたが、 残っていた市民は軍と協力して陣地や塹壕を建設し、また市内で生産された武器を使って 義勇志願兵として戦闘にも参加しています。 終戦後のベルリンの状況はよくわかりませんが、占領下で配給に頼らなければ生きていけない状況では、 都市に住んでいた人間は逃げたところで生活が出来なかったのではないでしょうか。 (65 名無し軍曹) せっかく支援したのにWWII参戦しなかった南の国ってどの国なんでしょうか? スペイン(これは確実) (65 589) 三国同盟のメリットを教えてください。 当時の新聞によると、独伊を血盟の同志と位置付け 全体主義による世界のため自由主義陣営を妥当する栄誉を分かち合うとなっています つまり全体主義合同による世界秩序の構築の推進力増加のメリットであるわけです (67 329) 日伊連絡作戦って何ですか? Savoia-Marchetti SM82 Canguroを用いて行われたもので、飛行距離12,910km の冒険です。 イタリアのローマと日本の東京を結ぶ隠密飛行で、1942年に行われたものです。 ローマから東欧諸国を経由してコーカサスからカスピ海を抜け、天山山脈を越えて 満州に抜け、東京まで飛行したもので、確かウクライナと満州で補給しただけの 飛行だったかと。 搭載したのは、カプロニが開発したエンジンが数基だったそうです。 (SM.82自体は発動機6基または、ガソリン2,270lか、CR42戦闘機1機を搭載出来る 大型輸送機で、エンジンをP Wに換えて1950年代まで使用されました) (69 眠い人 ◆gQikaJHtf2) WWIIは、太平洋戦線とヨーロッパ戦線のどちらが規模が大きかったんですか? 規模の大きさって何を指すのかな 参加国の多さじゃヨーロッパ 死人の数なら太平洋戦線 作戦域の面積なら太平洋戦線 基地外指揮官の数は均衡 基地外作戦は太平洋戦線 人体実験ならヨーロッパ (78 363) カナダやアフリカやブラジル、その他中東の国や小さな国々は大戦に参加してたんでしょうか? 欧州諸国はほぼ何処も戦場で、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、リヒテンシュタイン、 ギリシャ、ユーゴスラビア、デンマーク、ノルウェー、アンドラ、アルバニア、ポーランドは ドイツ軍などに占領されていました。 オランダは、第二次大戦でドイツと共に日本とも戦っています。 バルト三国はソ連に併合され、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、スロヴァキア、フィンランド、 クロアチア、モンテネグロは枢軸国の一員として参戦しています。 中立国でも、スウェーデンはドイツ、英国と綱渡りの外交を展開し、スイスも臨戦態勢を敷いていました。 比較的平和だったのは、イベリア半島とエール自由国(アイルランド)くらいです。 アフリカ大陸に目を転じますと、南アフリカが連合国側に立って参戦し、その他の英国植民地 (ローデシア、東アフリカ)が将兵を送り込んでいます。 東アフリカの部隊はイタリア領だったエチオピア解放に動いています。 モロッコは連合国に占領され、自由フランスの基地となり、西アフリカでは自由フランスと ヴィシーフランスの衝突がありました。 エジプトは参戦に消極的でエジプト陸軍内には親ドイツ派の将校によるクーデター計画がありました。 実際にイラクでは、親独政権が打ち立てられましたが、英国の侵攻でおじゃんになり、 イランは英国とソ連により分割占領され、サウジには米国の基地が置かれました。 トルコも中立維持に腐心した国の一つです。 トランスヨルダン、パレスチナ、クウェート、マスカットオマン、イェメンは英国の影響下にあり、 シリア、レバノンは最初、ヴィシー政権に忠誠を誓いますが、後に英国と、自由フランス軍に占領され、後に独立します。 インドはインド帝国で英国の植民地、ビルマ以西は日本に占領されました。 豪州はアフリカと太平洋で、枢軸各国と対峙し、ニュージーランドも同様です。 当時、インドネシアは蘭印と呼ばれ、オランダの植民地でした。 日本占領後は、兵補と言う準軍隊が募集されています。 インドシナ三国はフランスの植民地で、タイと1941年に国境紛争を起こしています。 タイは、日本と紛争を起こしますが、当初は日本寄りに、後に軸足を連合国寄りに換えています。 フランスからカンプチア国境地帯の割譲を受けますが、マレーの国境地帯割譲は受けませんでした。 中国も満州の他、各地に軍閥を吸収した日本の傀儡政権が成立しています。 一番有名なのは、汪政権でしょう。 最後に南米のうち、アルゼンチンは英国に穀物、畜産物を輸出して多大な利益を上げ、 ブラジルは1942年に枢軸国に対して宣戦布告を行い、海上護衛、 1945年にイタリア戦線に陸空軍部隊を派遣して、実戦に参加させています。 また、メキシコは1945年に南太平洋戦線にP-47部隊を展開させる予定でした。 なお、ノルウェーは国土占領後、船乗りは連合国の輸送任務に携わり、カナダで 訓練を受けたノルウェー人部隊が、アイスランドを拠点に沿岸哨戒任務に就いています。 これはギリシャも同じです。 カナダは米国と同じく英国の兵器廠として活動し、大西洋戦線と英国戦線で軍が活動しています。 また、カナダに限らず、英国の大きな植民地では空軍兵士の養成が積極的に行われてたりします。 (79 眠い人 ◆gQikaJHtf2) WWⅡでの独軍や英軍などの中に突撃○○隊などがいますが、何故突撃などと名付けられているのですか? 格好いいからです。 ソ連の狙撃兵師団みたいなものです。 (80 454) タイがどこの国の植民地にならなかったのはどうしてですか。 極東軍事裁判で実質上日本の植民地と認定されて敗戦国から免除されております。>>泰 (83 93) ビルマ、マレーは英国の勢力圏… インドシナ半島はフランスの勢力圏… 間にあるタイは緩衝地帯… そういうことです。 (83 94) 英国とオランダがけん制し合ったからだと聞いた事が有る。 (83 剣恒光 ◆YR1Hskt.M.) 全土が植民地化された訳ではなく、一部地域はThailandから切り離されています。 元々、ThailandはLaos、Cambodiaも含んで一円的に支配していましたが、 19世紀半ばから、英国が侵入して、北部と半島部を支配され、1887年には、Franceが LaosとCambodiaを占領し、現在のThailand東部も一円支配しました。 (なので、現在でもThailandとLaos、Cambodiaの間には緊張関係が有る訳です) ただ、1855年にモンクット王が英国とタイの間で欧州の植民地にならないことを定めた ボーリング条約を締結したため、他国がThailand本土の完全支配が出来なかった経緯があります。 (83 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 国家社会主義ドイツ労働者党の幹部(ヒトラー以外)とスターリンの著書ってないんですか? スターリンの著作なら、 「スターリン全集 」「レーニン主義の基礎」「レーニン主義の諸問題」等々。 大月書店という書店から出版されているそうですよ。 (85 名無し軍曹) 有名どころではナチのイデオローグで東方占領地域大臣だった アルフレット・ローゼンベルクの思想書「二十世紀の神話」 啓蒙宣伝大臣だったヨーゼフ・ゲッベルスの ヒトラー内閣成立までのドキュメント「勝利の日記」などがあります。 またスターリンに関しては戦後大月書店でスターリン全集が出版されていますので、 それを確認されるのが確実だと思われます。 より詳細が知りたければ世界史板で質問される方がいいと思いますよ (85 351) シュペーアが「第三帝国の神殿から」と言う回顧録を出しています。 ジュガシヴィリは、「レーニン主義の諸問題」と「スターリン全集(13巻但し、未完)」 を著わしています。 元々が、Pravdaの編集に当たっていた人ですからね。 (85 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第二次大戦当時、陸軍と海軍てどっちが多かったんですか? 普通は陸軍が多い。 (85 一等自営業 ◆BVruYgneoI) 国家とは通常陸にあります。 陸を護るので陸が多いに決まってる。 海は準備軍なのだよ。 使い走りだよ。 海上自衛隊がその典型。 (85 470) WWⅡで枢軸国側にハンガリー、ルーマニア、アルバニア、フィンランド、ブルガリア、リトアニア、タイ等が参戦していたそうですが これらの国は日独伊に比べると非常に微々たる力だったのでしょうか? それとも前線で米英相手に善戦していたのでしょうか? フィンランドがソ連に痛撃を与え続けたのは有名。 タイは連合国に宣戦する一方、密かに講和を打診する面従腹背戦略。 東欧諸国は東部戦線で二線級の活躍。 スターリングラードで同盟軍があっさり崩壊したため第6軍が包囲されてしまった。 まあ、日独とこれら小国を比べるのがそもそも間違ってる。 連合国だって数十国が戦列に加わっているのだが、 目立ってるのは英米だけだし。 (86 699) 第二次世界大戦前後に行われていた「子供を増やせ政策」って意味あったのですか? 旧ソ連では未亡人や結婚できない女性に子供を与え、せめて生きがいを与えようというものだった みたいなことをアメリカ人が書いてました 実際人口が激減した国では戦後の国力UPに人手がいるでそ 日本人のように負ければすべて終わりとは考えないのでしょうかねえ (87 322) WW2時、撃墜記録ってどうやって確認してたの? 連合軍の場合は複数人の目撃者があることが前提でした。 あとガンカメラの映像とか。 ドイツ軍は覚えていませんが、かなり基準的には曖昧だったような。 (93 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 米軍 → パイロットの申告、僚機2人以上の証言、ガンカメラ 日本 → パイロットの申告(個人撃墜は認めていなかったので部隊として撃墜数を 確定すればそこで御終い) 独軍 → 米軍と同じ+地上に落ちた残骸の確認(東部戦線のみ) フィンランド軍 → 地上に落ちた残骸の確認(回収)、僚機の証言(しばしば採用されなかった) イタリア軍 → ? 仏軍 → とても複雑でよくわからんが、最終的にはドイツ側被害数とつじつまが合う仕組みだった (93 255) じゃあ日本のエースって本人の証言のみですか… 本人、だけではなく僚機パイロットの証言も参考にされまつ。 ベテランパイロットが多かった頃は戦果の検証も厳密で、かなり正確だったでつ。 (93 261) 1939.9.1ドイツのポーランド侵攻に始まる一連の戦争を、最初に世界大戦と呼んだのは誰 あるいはどこで、いつのことなんでしょうか? 「誰」の答えはチャーチルだが、「いつ」「どこで」は不明 ヨーロッパでは第1次大戦終了直後から第2次大戦がいつ勃発 してもおかしくないとされておったわけで、ポーランド戦開始 直後に英仏が対独宣戦布告したとたん、「世界大戦が始まった」 と捉えるのは欧州一般市民の共通認識でもあった (93 864) ええと、864は英米圏だけの見解で仏独ソでは別の見方があるかも (93 865) 日本では「欧州大戦」と呼ばれてたしね。 (93 866) 第二次大戦中ドイツと日本は軍事的な交流があったのですか? ヨーロッパ戦線で戦った日本軍兵士っているんですか? 一応インド洋で日独共同作戦やっている。 欧州では日本兵戦っていないはず。 (93 934) 戦闘には参加していませんが、ドイツに潜水艦を派遣してますね。 あとはドイツ軍に徴兵された在独日系人がいます。 (93 936) 世界恐慌が起きなかったら第2次世界大戦は起きなかったの? 単一の原因で起きたワケではないが 第二次世界大戦は発端だけに着目すれば 第一次世界大戦で生まれた歪を正そうとした 「余震」のようなものとして始まったとは言えるかも。 (100 651) 枢軸国側として参戦した国は日本・ドイツ・イタリアのほかはどの国なんでしょうか? ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア (103 202) クロアチア、スロバキア フィンランドもかな? (103 203) 満州国 (103 205) ※満州国は宣戦布告を行ってないが、連合国の攻撃を受けている。また、当時独立国ではない韓国・台湾は削除。 タイもな (103 207) 第二次世界大戦で、地上兵の訓練期間はどのくらいだったんでしょうか? 旧日本軍を例にして挙げれば、地上兵ですが、入隊後、3、4ヶ月目に、 「一期の検閲」と呼ばれる連隊長の検閲を受けるのですが、それまでが基本教育の期間とされていました。 (103 742) 第二次大戦中のアラブ諸国ってどんな状態だったですか? 第二次大戦当時、現在のレバノンとシリアはフランス領、 エジプトを含むその他の中東諸国はイギリス領の植民地で、 独立国はトルコ共和国だけでした。 これらの国々が独立し「中東問題」となったのは戦後のことです。 「侵攻」という点では、イタリアが英領エジプトを攻撃し、 またドイツはイラクやエジプトの国内反英勢力を支援していました。 (105 28) アラブ諸国ではありませんが、イランに関しては、国家として中立を模索したものの、ソ連が北半分を、 英国と米国が南半分を占領し、援蘇物資のルートとして使用しています。 ソ連は、この地に緩衝国家を作りたかったようで、タブリーズに人民共和国を打ち立てようとしていました。 イラクは、英国の委任統治領でしたが、1921年に独立国になっています。 英国軍が駐留していましたが、元々軍部を中心に反英勢力が根強くあり、1941年にドイツの後押しで、 軍部のクーデターが起き、一度親英政権は打ち倒されます。 しかし、英国が即座に対応して、カウンタークーデターを起こしたため、反乱の芽は摘まれ、親独政権は あっけなく倒れました。 以後は、英国軍の管理下の下で親英政権を維持しています。 シリアは1918年に王国として独立しますが、1920年にフランスの委任統治領となり、ダマスクス、アレッポ、 アラウィー派、ドルーズ派の各自治区に分けられます。 1939年にトルコとの交渉で、イスラム托鉢修道会領の返還を行なったことで、住民の反発が起きますが、 第二次大戦の勃発でうやむやになり、フランスの降伏で、ヴィシー政権に付きます。 しかし、1941年、ヴィシー政権軍と主にパレスチナから侵攻した自由フランス軍と、イラクから侵攻した英国 軍によって戦闘が行なわれ、数度の戦闘の結果、ヴィシー政権軍は降伏しました。 1941年4月にシリアは自治国として独立し、1944年に正式独立しました。 ただ、その後、国境を接する全ての国と、国境紛争を起こしています。 レバノンは、1926年に委任統治領シリアから自立し、1940年にヴィシー政権への支持を行ないました。 その後はベイルート付近で、ヴィシー政権軍と自由フランス軍との戦闘が行なわれ、1941年12月に自治 国となり、1944年に正式独立しました。 パレスチナは、英国の委任統治領でしたが、祖国帰還事業による移入ユダヤ人の増加と従来住んでいた アラブ人の軋轢が強まり、1936年から39年にかけて内乱状態となります。 そこで、1939年に英国は「白書政策」というものを行なって、ユダヤ人の流入と土地購入を制限し、アラブ人を 懐柔しますが、これにユダヤ人が反発。 ハガナなどの武装勢力が英国軍の襲撃などを行ないます。 ところが、第二次大戦勃発に伴い、今度はユダヤ人は英国側に立って、パレスチナを近東に於ける連合軍の 補給基地として提供し、1942年以降は英軍の一部として、ユダヤ人志願兵旅団を供出します。 これに対し、アラブ人は一連の出来事に反発し、親枢軸への傾斜を強めていきますが、これが、後の中東問題 のひとつの引き金になってきています。 1945年以降、英国は再び「白書政策」を行なったため、再びユダヤ人が反発し、駐留英国軍を襲撃したため、英 国はこの統治を放棄し、国連に付託してしまいました。 ヨルダンは当時、トランスヨルダンと言い、英国の委任統治領となりましたが、サウド家との抗争に敗れたメッカ太守 及びへジャズ王だったハシミテ家が国王となって統治を行なう王国となっています。(ちなみに、イラク、シリアの国 王はトランスヨルダンの国王と兄弟にあたります。) このため、隣国サウド家とは常に緊張関係にあり、英国委任統治領との緩衝国家として機能すべく、英国との軍事 同盟を結び、英国軍の将軍の指揮下にアラブ軍団を作って、参戦しています。 サウジアラビアは、ハシミテ家を追放したサウド家によって成立した国家で、1926年にヘジャズとネジドの王となり、 1932年に王国として統一されました。 1934年には、国境線を巡ってイェメンと戦争となって、これは1936年まで続いています。 第二次大戦中は、英国からも働きかけを受けていましたが、イブン・サウド王はハシミテ家を支援する英国を余り 好まず、米国からの援助と基地建設を容認しています。 米国による、武器援助で、サウジアラビア軍は近代化を果たし得ました。 エジプトは、1922年に英国の保護国となり、1936年に独立します。 但し、運河地帯は20年間の英国軍の駐留を認め、スーダンは英国との1889年条約以来、共同統治権を認める と言うもので、民族主義者はこれに不満を持っていました。 第二次大戦では、イタリアがリビアから侵攻し、後一歩の所まで追いつめますが、補給に失敗して撤退します。 なお、この際、後に王制打倒クーデターを指揮する国軍の若手将校(ナセルとかサダト)による、王制打倒クーデター が企図されますが、イラクの失敗で懲りた英国によって察知され、彼らの反乱は未然に防がれます。 このほか、マグレブ諸国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)は米国の欧州に於ける最初の大規模作戦、トーチ作戦 で制圧され、リビアは英国軍によって占領、スーダンはエジプトと英国の共同統治によって大戦の影響を余り受けず (戦力の提供は行なっていますが)、西サハラ、タンジール、イフニはスペインの統治下によって、かなりの圧力を連合国 から受けていますが、一応維持しています。 また、クウェート、中立地帯、湾岸諸国、マスカットオマン、イェメンについては、英国保護下の諸国であり、イェメン領アデン が英国の中東向け補給の最前線基地となったほかは、特に大戦の影響を受けていません。 (105 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第二次大戦では欧州・アジアを問わずに無差別爆撃が行われましたが、国際法的にはどのようにして正当化したのでしょうか。 簡単に言えば「防守都市」の拡大解釈 (106 157) ハーグ空戦規則案(批准が行われていないため、法としての効力は発生して いないものの、空戦に関して各国はこれに準拠している)では、24条1で、 軍事目標に対する爆撃のみが適法であるとされています。ここでいう軍事目標とは、 「その破壊もしくは毀損が明らかに軍事的利益を交戦者に与えるような目標」と 規定されています。また、24条3では、陸上軍隊の作戦行動の直近地域でない 都市への爆撃は禁止され、4では、直近地域にある場合には、「兵力の集中が 重大であって、爆撃により普通人民に与える危険を考慮してもなお爆撃を正当と するに十分であると推定する理由がある場合に限り」適法である、とされています。 25条では、4の場合にも爆撃の対象とならない施設と、その施設を明示する標識、 および標識の不正な使用の禁止について述べられています。 第二次世界大戦以前の法的な状況は以上のようなものなのですが、問題は、 第二次世界大戦において総力戦が遂行されるとともに、文民やあらゆる産業が 戦争遂行体制に組み入れられるとともに、航空機および防空能力が飛躍的に向上した ことです。この流れの中から現れたのが「目標区域爆撃」という概念で、これは、 軍需工場(戦争の遂行に必要な産業)の密集地域で個々のの軍事目標の選択が 不可能な場合、その地域全体を一つの軍事目標とみなす、とする考え方です。 これを最初に提出したのはイギリスですが、日本では、都市全体を防護する防衛施設 や軍隊が駐屯する都市を、それが戦場から遠く離れていても防守都市とみなし それへの無差別攻撃を正当とする拡張された防守都市の概念もあらわれました。 第二次世界大戦中の法概念の変遷は、概略以上のようなものです。ちなみに、戦後は、 ジュネーブ条約の第一追加議定書において「紛争国当事国の軍事行動は、軍事目標 のみを対象とする」(48条)とされており、51条5(a)で、目標区域爆撃は無差別攻撃として 禁止されています。また同時に同議定書においては、軍事目標の定義についても、 空戦規則のものより更に精密なものになっています(52条2)。また、爆撃の被害を避ける 予防措置についても、攻撃側に一定の義務を課し(57条2a-c)、同時に、被攻撃側にも 攻撃の影響から文民が被害を受けることを予防する義務を課しています(58条)。 # 58条絡みでこないだのイラク戦争でフセイン政権がやった「人間の盾」が非難の対象 # になったのは記憶に新しいところ。 以上、国際人道法(藤田久一著)pp.109-117より (106 158-159) ムッソリーニにはファシスト党、ヒトラーにはナチ党がありますが、他のファシスト国家にはどんな政党と総統がありますか? スペインはファランヘ党 (111 143) 他にハンガリーの矢十字党、ルーマニアの鉄衛団などが有名どころでしょうかね。 (111 眠い人 ◆gQikaJHtf2) WW2で市街戦を行う必要ってあったんですか? 迫撃砲とかで完全に破壊してしまえばいいと思うのですが 都市の破壊って半端じゃない労力が要ると思うんだが。 (111 375) それで済む時はそうする。 対要塞砲や列車砲まで持ち出して街区ごと消し飛ばしたワルシャワ蜂起の時のドイツ軍みたいに。 (111 376) 必要があるか無いか以前に、実際に数多くの市街戦が行われています。 スターリングラード、ベルリン、マニラ、カーン、ワルシャワ、挙げればきりがない。 市街(大都市)は多くの場合、人口と建物が密集し、商工業の中心であり、 国民生活の基盤を形成しています。 従って、攻める側から見れば戦略上の目標となりやすい。 守る側から見れば、死守すべき価値がある、といえます。 だから市街戦は発生する。 市街そのものを物理的に破壊してしまえばよい、との指摘ですが、 これは過去にも同様のことを考えた作戦家はいました。 砲爆撃によって建物すべてを破壊してしまおうとしたんですね。 しかし、ヨーロッパの石造建築はきわめて強固であり、 その多くを破壊することはできても完全破壊には至らない。 地上の建築を破壊しても、下水道までは破壊できない。 これらを成し遂げようとすれば、現在でも核攻撃以外にはないでしょう。 でも、完全破壊された都市はすでに都市ではなくなってしまいますね。 作戦目標自体が消滅してしまうのです。 それでもよい、と攻撃側が判断(あるいは血迷った)ときには実行に移されるかもしれません。 (111 377) 街を壊したら占領した側が利用できなくなるしね (111 379) 第2次大戦前のドイツ・フランス・英国はそれぞれどこから石油を輸入していたのでしょうか? 独逸は主にロシアからだったと思う。 (111 ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E) 英国はイラクが主。 フランスもイラク、それとバクー。 ドイツは、初期はバクー、その後ルーマニアにシフトしていたはずです。 (111 眠い人 ◆gQikaJHtf2) WW2で、最大の激戦地だったのはどこですか? 東部戦線 (111 839) トータルの死人の数だけなら東部戦線 一日で死んだ人間の数だけなら広島 (111 842) 一度に使われた資材や兵器の数なら、ノルマンディー上陸作戦かな。 映画「プライベートライアン」やね。 あの映画見ると、あんまりそういう感じしないけど。 (111 847) 第二次世界大戦中、各国のマフィアは何をしていたのでしょうか? 日本では満州浪人とか右翼団体とかいかがわしく暴力的に戦争協力していました。 韓国の暴力団とかも、貧民を日本に連れて行ったりとか。 ヨーロッパで有名なのはドイツ占領下のフランスで、レジスタンス側について トンネルに爆薬を仕掛け、列車のドイツ兵を大量に生き埋めしたり、 あるいは逆にゲシュタポ側について拉致や殺人・防諜の手伝いしたり いろいろと。 それと、アメリカのイタリアンマフィアが、ドンの釈放と交換条件に 米海軍に協力し、イタリアへの上陸の手伝いとか政権転覆 (ファシスト政権はマフィアを弾圧したため)謀ったりとかしていたらしいです。 (112 695) 闇物資の取引、仲介、調達行為。 日本を例に取れば戦争相手国の中国から取引で希少金属類を調達した右翼まで居た。 (112 696) 第二次世界大戦の時スペインは何してたんですか? フランコ政権 でぐぐるといいよ。 スペイン内戦の関わりで一応親ナチスだったが、公式には中立だった。 (121 945) Spainは1939年に終了した内戦の影響で、国力が枯渇し、その復興に多大な力を必要としたので、 第二次大戦に参加出来ませんでしたし、英国からの陰に陽に掛けられる圧力のため、正式参戦しませんでした。 しかしながら、枢軸国潜水艦への密かな便宜供与や、スペイン義勇軍「青い旅団」 (うろ覚え)が東部戦線に派遣されたりしています。 (121 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ヒトラーが参戦を促す会談を申し込んだ時も、 ヒトラーの専用列車との待ち合わせ場所にフランコの列車が遅れてきたり、 午後になるとヒトラーがイライラして待ってるのに、おかまいなしにシェスタをとったり、 参戦の代償にジブラルタルや北アフリカをちょうだい。あ、あたくの最新兵器も供与してねと足元をみるような要求をしたりと、 最初からやる気がなかったという話もある。 そのかわり 947で書かれてるように中立ながら親独的な立場をとり、 ドイツ諜報部の活動やドイツ商船のUボートへの補給を見て見ぬふりをしてたりする。 また義勇兵、つまりあくまで個人の意思で参加したという名目で送り込まれた兵士で編成された通称「青」師団は、 東部戦線で多数の損害を出しながらも勇戦している。 (121 954) WW2における、主用参戦国の作戦名一覧みたいなものがある本があったら教えてください。 コーエーの作戦名辞典買うがヨロシ (124 402) 日本がアメリカと戦争した理由に石油がありますが、当時の中東の石油事情はどうだったんでしょう? 中東は当時イギリスとフランスの植民地 (125 312) 中東で油田が発見・開発されるようになったのは1920年代後半からですが、WW2当時は 未だ開発途上にあり、大規模な油井が掘られ主要な原油供給地となったのは戦後になってからでした。 1940年の中近東産原油のシェアは約5%で、米の1/15 ソ連の1/2.5 欄印の1.5倍 程度です。 (125 317) イラン… 英国人鉱山王ダーシーにより調査開始。英国の肝入りでビルマ石油が経営参加。 1908年5月、イラン南部のマスジッド・イ・スレイマンにて油田を発見。 アングロ・パーシャン石油(APOC)が設立される。 1921年にコサック兵団長レザ・ハーン大佐がクーデターを起こし、テヘランへ進撃。 カジャール朝の最後の王、アフマド・シャーはフランスに逃亡。 1925年、パフラヴィ朝成立。1932年、国内統一。 英ソの圧力を嫌い、独に接近。大戦中は厳正中立を宣言するも、対ソ援助ルートの確保を狙った英軍、ソ連軍が侵攻。 レザ・シャーは退位。王位は息子のモハマド・レザ・パフラビィが継ぐ。 以後、終戦まで両国の占領下に置かれる。 イラク… 1914年、APOCが50%、ドイツ銀行とロイヤル・ダッチ・シェルがそれぞれ25%を出資し、トルコ石油(後のイラク石油)が設立される。 第1次世界大戦の終結によりドイツ資本が追い出され、代わってフランスと米国が参入。 1927年10月、キルクーク近郊のババ・グルグルで油井発見。 1920年、英国によりファイサルがイラク王に封じられるも、国民には反英感情が根強く、 大戦中はラシュッド・ガイラニらが反乱を起こしたりしてますが、あっさり英軍に鎮圧されています。 バーレーン… 「赤線協定」により、当初は大手石油会社の開発の対象外。 ニュージーランド人鉱山技師ホームズ少佐が油井の存在を確認。 ソーカル(カルフォルニア・スタンダード)が権利を獲得。 1931年より採掘開始。 大戦中は英国の保護下。 サウジアラビア… 「赤線協定」により、当初は大手石油会社の開発の対象外。 1938年にダンマーンで油田発見。採掘権を獲得したソーカルはテキサコを加え、 販売会社カルフォルニア・テキサス石油(カルテックス)を設立。 大戦中は、アメリカが石油の重要性を鑑み、同国への武器貸与法の適用を承認。 ルーズベルト「私はここに、サウジアラビアの防衛が合衆国の防衛にとって死活的に重要であることを認める」 クウェート… ガルフ石油とAPOCが折半で出資、クウェート石油を設立。 1938年にクウェート市南方のブルガンで世界最大級の油田発見。 戦争勃発とともに開発は中断。そのまま終戦を迎える。 カタール、UAE、オマーン… 大戦終了までに石油の生産は始まってません。 (125 イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME) いやそれでも石炭から石油に切り替えを始めてた時代の英国には魅力的なんだけどね。 (125 333) WW2のとき独立国家はいくつあったのか? 1944年の時点で世界の独立国は78カ国です。 (318 丼炒飯 ◆HY/YgdSbHM) 日本帝國、満州帝國、中華民国(蒋介石、汪精衛の二つ)、中華ソヴェト(毛沢東)、タイ王国、ビルマ、フィリピン共和国、 ソヴィエト連邦、トルコ共和国、イラン王国、アフガニスタン王国、サウジ・アラビア王国、イラク王国、イェメン王国、 クウェート王国、オーマン王国、ブータン、シリア共和国、レバノン共和国、ポーランド共和国、エストニア共和国、 ラトビア共和国、リトアニア共和国、ドイツ共和国、ダンツィッヒ自由市、英国、アイルランド自由国、フランス共和国、 イタリア王国、アルバニア王国、スペイン共和国、ルーマニア王国、ユーゴスラヴィア王国、ハンガリー王国、ベルギー王国、 オランダ王国、ポルトガル共和国、ギリシャ王国、スウェーデン王国、ブルガリア王国、スイス連邦、デンマーク王国、 アイスランド共和国、クロアチア共和国、フィンランド共和国、ノルウェー王国、スロヴァキア、ルクセンブルク王国、 モナコ王国、サンマリノ共和国、リヒテンシュタイン公国、アンドラ公国、ヴァチカン市国、セルボガ公国、米国、 メキシコ共和国、キューバ共和国、ハイチ共和国、グアテマラ共和国、サルヴァドル共和国、ドミニカ共和国、 ホンジュラス共和国、モンテネグロ王国、ニカラグア共和国、コスタリカ共和国、パナマ共和国、ブラジル連邦共和国、 アルゼンチン共和国、コロンビア共和国、ペルー共和国、チリ共和国、ヴェネズエラ共和国、ボリヴィア共和国、 エクアドル共和国、ウルグアイ共和国、パラグアイ共和国、エジプト王国、リベリア共和国、エチオピア帝国、 モロッコ王国、サロ社会主義共和国、タンヌ・トゥーバ共和国、チベット、東トルキスタン共和国、 イランの北西部にもソ連の傀儡国家があったっけ。 (WWIIのマイナーな軍について語るスレ 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次世界大戦当時の参加国の一覧ありますか? http //encyclopedia.lockergnome.com/s/b/Participants_in_World_War_II(リンク切れ) によれば,第二次世界大戦で参加した,もしくは大きな影響を受けた国は61カ国です. 国の数自体は61より多いですよ.リンク先の国の数を見てみると(番号が振ってあるので数える手間はありません)すぐ分かります. たとえばこの一覧表ではタイはありませんし.タイは植民地になったことがありませんしね. 61ヶ国の内,枢軸国は,日本,ドイツ,イタリア,アルバニア,タイ,ハンガリー,フィンランド,ブルガリア,リトアニア,ルーマニアの11ヶ国. それ以外が連合国側です. (「はてな」) 第2次世界大戦で一番死者が多かった国は? たしか,ソ連は民間人込みで1千万人以上やられてます. 数年前に出てた,ダニガンのWW2の余話集(文庫本で翻訳にけっこう誤りのあったやつ)に,各国の人的被害について軍人・民間人別でまとめられています. うろ覚えだけど被害の多かったのは中国,ソ連,ポーランドあたりだった覚えがあります. 1913年(この数字信頼性ゼロや)生まれのソ連人全男性の80%以上が戦死したとか. 死傷者数を見るよりも,恐ろしさを実感した覚えがある. その前後の世代も似たような戦死率で,50年代になって,未亡人や結婚適齢期を逃した女性の為の政策に政府が悩んだと覚えてます. あと,ポーランド人300万人も絶滅収容所で死んでますね. まさに,「世界は地獄を見た」ですな. 第2次世界大戦中の北アフリカ以外のアフリカはどうなっていたのですか? フランス領やベルギー領などあったと思いますが. 南アフリカ連邦(含.ナミビア) 第二次大戦参戦に当たっては、ボーア人との確執が有るも、結局対独宣戦を行う。 空軍は、第二次大戦参戦後は、英国空軍に協力し、東アフリカ戦線、北アフリカ、中東、地中海、バルカン半島の各戦線で主に戦闘を行う。 また、空軍要員の育成の拠点となり、1944年2月までに操縦士5,000名、観測員5,000名、航法士2,000名、爆撃手2,000名、機銃手2,000名を養成。 海軍は、南大西洋地区、インド洋地区の対潜警備を実施。 陸軍も、空軍と同様に東アフリカ、北アフリカ、イタリア各戦線で戦闘を繰り広げる。 南ローデシア 南アフリカと同じく、空軍兵士の養成拠点として機能。 なお、此処では、英国だけでなく、英国のアフリカ植民地、ベルギー領コンゴ、中東、連合国各国から 初等教育を受けに、この地にやってきている。 空軍は、西部戦線に2個スコードロン(爆撃機、戦闘爆撃機)、中東戦線に1個スコードロン(戦闘機)を 展開。 英国領ケニア 1940年のイタリア参戦時に、アビシニアのイタリア軍の侵攻を受けるが、これを撃退。 その後、アビシニア侵攻の拠点の一つとして、南アフリカ軍が展開。 アビシニア解放後は英国の空軍要員養成拠点として機能。 英国領西アフリカ ナイジェリア、ゴールド・コーストに連隊、シエラ・レオネ、ガンビアに中隊規模の兵力を展開。 1941年のエチオピア解放に従軍し、帰国後、ナイジェリアに3個旅団、ゴールド・コーストに1個旅団、 シエラ・レオネ、ガンビアに各1個大隊に増強され、自国防衛に当たる。 なお、これらの都市はセネガル侵攻の拠点ともなっているし、南大西洋ルートの中継地点ともなって いる。 英領(半分エジプト領)スーダン エジプト軍、英国軍が駐屯し、1941年のエチオピア解放の拠点となった。 フランス領西アフリカ 拠点はダカールで、此処には1940年のフランス崩壊時に遁走した戦艦Richelieu、軽巡2隻、駆逐艦3隻、 通報艦6隻、潜水艦3隻などが在泊していたが、戦艦は、英空母Hermesの雷撃機の攻撃を受け、行動不 能となる。 9月に英国海軍の指揮の下、自由フランス海軍による上陸作戦が行われたが、3日間の海戦で、潜水艦2隻、 大型駆逐艦1隻と引き替えに、Richelieuの砲撃、Martin167攻撃機の爆撃も含めて、英戦艦Resolusion、 英巡洋艦Cumberlandに損傷を与え、上陸作戦を阻止した。 なお、この際、英国海軍はSwordfish8機、Squa2機、Wallus1機を失っている。 11月上旬には、自由フランス海軍はガボンを攻略し、同型艦同志が戦闘を行った。 最終的に、1943年までにアフリカの仏植民地が自由フランス側になる。 フランス領ソマリア 1940年にイタリアによって占領されていたが、1941年に自由フランス軍が英国の支援を得て解放し、後に、ジブチの 封鎖を実施。 フランス領マダガスカル 1942年5月5日、英国軍が上陸し、占領。 この時、補助巡洋艦1隻、潜水艦3隻、通報艦1隻撃沈される。 なお、この間、マダガスカルの港に停泊中の英戦艦Ramilliesが日本の特殊潜航艇の攻撃を受け、大破着底すると言う 出来事もあった。 イタリア領東アフリカ(アビシニアまたはエチオピア) 参戦時に、東アフリカの各国植民地に侵攻するが、英仏領ソマリアを除いて撃退される。 エリトリアのマッサワに拠点を置いて、空軍機323機(うち飛行不能81機)、海軍兵力は駆逐艦7隻、水雷艇2隻、潜水艦8隻、 スループ2隻、砲艦2隻、魚雷艇2隻を保有していたが、大型艦は、1941年7月までに全て撃沈され、空軍機は1941年4月末の 時点で、S.79が4機、Ca.113が4機、C.R.42が5機、C.R.32が1機のみ残存。 連合軍は、1941年1月19日からスーダンより2個インド師団と亡命アビシニア愛国軍が、24日に南アフリカ軍3個師団と西アフ リカ国境部隊からなる兵力がケニアからそれぞれ侵攻し、総勢7万人で3ヶ月の戦闘の後、最終的に5月19日に降伏。 連合国側損害は500名で、イタリア兵5万名を捕虜とし、全土を占領(実際には散発的抵抗は11月まで続いているが)。 これにより、亡命政権は帰還。 なお、エリトリアは1952年まで英国が管理している。 ポルトガル領アンゴラ 中立を保つ。 ポルトガル領モザンビーク 中立を保つ。 特にロレンソ・マルケソ港は、日米、日英などの交換船が両国の国民を交換するための 港として使用されている。 日本の外交官は此処から欧州に赴任したケースもあり。 リベリア 長らく中立を保っていたが、末期に宣戦布告。 ベルギー領コンゴ 本国占領後は亡命政権の影響下に置かれる。 なお、この地域で産出されたウラン鉱石1,250t以上が1940年10~11月に掛けて、ポルトガル領 アンゴラのカビンダ港から米国に向けて輸出され、これらのウラン鉱石が、広島、長崎の原爆 製造の原材料となった。 (216 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大戦中最も多くの人が死んだ場所ってどこでしょう? ベルリン?南京?ドレスデン?スターリングラード?東京? レニングラード包囲戦で、市民を含めて67万人(ソ連政府発表)、一説によると100万人以上が死亡したと言われる レニングラード攻囲戦についてはハリソン・ソールズベリの「攻防900日」がおすすめ。 大都市が包囲されるとどれだけ悲惨なことになるか、読んでると背筋が寒くなってくるよ。 けっこう重要なポストの役人の奥さんが友達から譲ってもらった皮のバッグでゼリーを作ってたり、家族をボール紙の棺おけに入れて運んできた人がそのまま墓地で行き倒れたりとか。 そして町の往来で「解体」された人間の生首だけが転がっていたとか、行きずりの人に頼まれてアパートに行った少女がドアを開けたら血抜きされた人体がぶら下がっていたとか。 攻囲がようやくとけて郵便配達が始まっても、住民が全員餓死していて受取人がいないアパートがあったとか。 (339 770,795) ポルトガルのサラザール大統領は同じファシストでありながら、なぜナチを支援しなかったの? 逆に1940年には米軍に基地を無償提供しているようだが. サラザールは反ナチというよりは反近代主義者で、農村主体の社会を理想としていたそうだ。 秘密警察の訓練でゲシュタポの協力を仰いでいたそうだけど、ナチとは思想的にはかなり違うところにいたようだ。 この辺の出典は中公新書ラクレの「世界ファシスト列伝」(長谷川公昭)より。 フランスのファシスト達についてもかなり詳しく紹介してるので、安いし買って損はないと思う。 ちなみにサラザールは昼寝中にハンモックから落ちて寝たきりとなり、晩年は公務を遂行できなくなっていた。 しかし側近たちは偽の書類を作って署名を求めたり、彼が安心するような内容の偽新聞を毎朝届けたりしていた。 だから彼は死ぬまで自分がポルトガルを指導していると信じていたそうだ。 まあある意味最も幸せな死を迎えた独裁者といえるかもしれない。 (128 428) 第2次世界大戦中の中南米諸国(といっても10ヶ国以上あるが…)ってどういう状況だったんでしょうか? 大半の国が末期に駆け込みで参戦したり、ブラジル軍がイタリアで戦ってたことぐらいしか聞いたことがない… 第一次大戦のときは、ツィンメルマン事件なんてのがあったけど。 全体としては親独的傾向が強かったものですが、余りドイツ支持を明確にすると、経済界から政府(殆どが軍事政権)が 支持されなくなるので、表だった形はありません。 1939年に中南米諸国の代表がパナマに集まり、パナマ会議が開かれます。 この会議では、カナダを除く南北両アメリカ大陸の周囲300マイル幅の安全中立海域を宣言し、その海域での交戦行動を 禁じる宣言を出しています。 しかし、ドイツ(日本も)が対米宣戦をしたことに伴い、1942年にリオ・デ・ジャネイロにて中南米諸国の外相会議を開き、 枢軸国に対する宣戦布告を決議し、まず、対枢軸国断交が行われました。 全体の流れは以上の通りですが、個々の国を見ていきますと、アルゼンチンは、英国や米国との農産物貿易で大儲けし、 第2次世界大戦後、暫くの間は、世界的に見ても大金持ちの国になって独自の超音速ジェット戦闘機を開発したりしています。 1943年に対独・伊宣戦を行っていますが、航路帯から外れていた所為で、周辺海域の対潜哨戒くらいで、軍は積極的に 動かしていません。(対日宣戦は1945年…大抵の国は対日は1945年に入ってからです) ただ、1943年6月4日にクーデターが勃発し、新大統領に枢軸国寄りの元陸相P.ラミレス将軍が就任しますが、米国の圧力 (貿易停止)によって、中立の維持は困難になっていました。 ブラジルは、G.ヴァルガス独裁政権が共産党とファッショを禁じ、米国と良好な関係を保っていた関係と、自国艦船が潜水艦 の脅威を受けていたため、1942年8月22日に独・伊に宣戦を布告し、米国からの軍事援助を得て、自国沿岸、自国沖の哨戒を 手始めに、1943年2月に陸軍部隊を北アフリカ戦線に派兵しています。 1945年には欧州戦線にP-47戦闘機中隊を送り、イタリアで戦闘を繰り広げています。 メキシコは、1941年4月に米国と基地と地上設備の相互扶助協定を締結し、1942年5月29日に対枢軸国宣戦を行っています。 しかし、装備は旧式なものが多く、その更新に時間が掛かったため、1945年まで戦争参加はずれ込み、1945年にP-47Dの 部隊が南太平洋戦線で対日戦に参加を準備中に終戦となりました。 中米諸国は米国の干渉政策を恐れていずれも共同歩調をとり、グアテマラは1941年12月12日に対独伊宣戦布告、ホンジュラスは、 1941年12月9日に対日、12日に対独伊宣戦布告、サルヴァドルも同様、ニカラグアは8日に対日、12日に対独伊、コスタリカもニカラグア と同様、キューバは12月9日に対日、1942年3月12日に対独伊宣戦布告。 パナマについては軍事的な要衝であることから、運河地帯は元より、全国土に米軍が進駐し、警戒に当たっています。 宣戦は他の国々と同様。 エクアドル、パラグアイ、コロンビア、ヴェネズエラ、チリ、ウルグアイは1944年まで宣戦布告をせず、中立を保っていました。 ボリヴィアは1943年4月7日に対枢軸国宣戦を行い、ペルーは各国と同様に対枢軸国断交を行った後、米国と軍事協定を1943 年2月に締結し、国内に米国の陸軍航空隊基地を建設することに同意しています。 なお、ペルーとエクアドルとの間では、エクアドルの経済的混乱に起因して、その不満を外に向けるべく、1941年に大規模な国境 紛争が発生しています。 この紛争は、1942年のリオ・デ・ジャネイロ会議で取り上げられ、結果的に係争地の領土がペルー有利に裁定されました。 (159 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次世界大戦の記録を見ると、ひょいひょい新型の戦車や航空機といった新兵器が開発されているような気になります。 ガンダムのモビルスーツじゃあるまいし、そんなに簡単に新兵器は開発できるのでしょうか? 戦争が始まってから新型の兵器を開発してるわけじゃありません。 それ以前からの努力の結晶が、新型兵器なので。 また、戦時中は新型兵器の採用基準が甘くなるということも影響しております。 戦時中は数ラインの新兵器開発を同時に行うし採用基準も甘いため。 負けている方は、試験的に作った兵器や珍兵器までありったけ投入する傾向がある。 (94 753-755) WW2当時の携帯食料ですが、カロリーメイトのような料理せずに高カロリーを得られるような食料を配布していた国はあるのでしょうか? 米軍では大戦当時Dレーションと呼ばれるチョコレートバー風の個人携帯用非常食を支給してました。 美味しくない上に本来非常用であるものが一般食として支給されたので、評判は最悪だったとか。 その他にKレーションと呼ばれる缶詰肉料理やビスケットなどで構成される戦闘用レーションも 支給されています。 (333 名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE) また,日本陸軍の航空糧食については,カルピス・ドリコノのような飲料,チョコレート(固形・絞り出しの2種),羊羹,ガム,ドロップなんかが戦時中も配給されていました(もちろん場所によるけど). (軍事板) アメリカ兵はドイツ兵のことを「クラウス?」と呼んだり、日本兵のことを「ジャップ」と呼んだりしています。 こういった呼び名はどういった意味があるのですか? また、各国兵が敵国兵士のことをどんな呼び方をしていたのか教えてください。 ドイツ人の蔑称は「クラウツ」だね。 ドイツ辺りのキャベツの漬物、ザウアークラウトを捩ったもの。 邦訳される時はまんま「クラウツ」か「キャベツ野郎」だね。 民族的蔑称。 たとえばフランス人は「フロッギー」(カエル野郎)「ジョニー・クラポー」(カエルのジョニー) イギリス人は「ジョンブル」 イスラエル人は「ゴイ」 アメリカ人は「ヤンキー」とか 他に知られたやつだと 英海軍をライミー(ライム野郎)。水兵にライムを支給してたから。 フランス人を蛙食い(フランスには蛙料理がある)なんてのも。 (481 634-637) 第2次世界大戦中の水兵さんは制服や私物などの荷物を全て艦内に持ち込んでいたのでしょうか?(479 538) 水兵は、支給された被服いっさいと食器などを衣嚢と呼ばれる袋に入れて保管していて、 転勤するときはこれを担いで移動していました。 この他には針糸や石鹸などの入った手箱と、帽子をしまう帽子缶があるだけです。(479 557) 一般論としてWW2時の歩兵師団では、戦闘部隊と後方部隊の比率はどの程度なんでしょうか? WW2の歩兵師団について(国や時期などによって変化があるのは知っていますが) 独、米などの歩兵師団は凡そ12000~16000人程度で構成されていますよね。 1)これは輜重部隊や野戦病院などを含む数字でしょうか? 2)一般論としてWW2時の歩兵師団では、戦闘部隊と上記のような後方部隊の比率はどの程度なんでしょうか? 検索したところ、日本陸軍の歩兵師団では戦闘部隊1万、後方部隊5千との数値を見つけました。 1) 含む 2) 編成によってかなり違ってくるので一概にはいえない。そういうあいまいな聞き方すると回答が返ってきにくいよ。 WW2ドイツ歩兵連隊なら3000人中1200人ぐらいが戦闘要員 1)師団隷下の輜重部隊(段列など)や野戦救急部隊などは含まれる。軍団や軍直轄の輜重部隊や野戦病院は含まれない。 2)時代、国、種類によって異なるが、だいたい2 1。 (485 912,919*一部改編) 急降下爆撃機ってのはどのくらいの角度で急降下してどのくらいの高度で投下してどのくらいの命中率なの?ついでに急降下時に速度はどれくらい出るもんなの? 国によっても違うが、WW2のころなら、30度くらいの角度で高度300m~1000mくらい。速度は500km弱。命中率は20%~80%ってところ。 (369 117) マレー沖海戦で九六陸攻、一式陸攻が英国の戦艦を沈めるまでは、航空機が軍艦を沈めることができるなんて誰も思っていなかったの? 第一次大戦直後の1920年には米海軍が老朽化した戦艦インディアナを航空爆撃で撃沈する実験を行い成功している。 さらに1921年には米陸軍のビリー・ミッチェル将軍が旧ドイツ海軍戦艦オストフリースラントの爆撃撃沈実験に成功。 ド級戦艦であっても航空攻撃で撃沈しうることを証明してみせた。 ということで、大戦前から試みは為されている。 (501 138) 昭和15年の日本海軍の演習では、戦艦部隊は航空攻撃で大打撃を受けたことになってる。 (501 157) 第2次世界大戦では生物化学兵器は使われましたか? 兵器として優れていないのであまり大規模には使われなかった。 日本軍が青酸ガスなどをちょこちょこ使ったらしい。 ただ日本軍の化学生物兵器関連の情報は残虐性を強調する為に誇張されまくってるので注意が必要。 明らかなねつ造や非致死ガスと区別がついてない例が少なくない。 細菌兵器には日本軍が飛行機から病原菌入り麦をまいたという主張があったが、真偽のほどは知らない。 とりあえずそんな方法じゃ伝染病を発生させれる可能性が低い。 (514 967 モッティ ◆uSDglizB3o) 細菌兵器はノモンハンで日本軍が使用していますね。 といっても、チフス菌を培養した寒天をハルハ川に流したという程度で、 却って散布した隊員に感染による死者を出したりしてます。 もちろん効果はほとんどありませんでした。 (514 967:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 2chでイタリア軍はなぜネタにされるんですか? ここを見れば君もイタリア軍が好きになると思うよ http //2chart.fc2web.com/itaria.html (355 542) 石油と産業基盤が無かった。しかし、ドイツが拡大志向でそれにファシストの先輩にして インテリのムッソリーニが張り合おうと頑張ったあたりが不幸の元だと思う。 小さい部隊、例えば魚雷に跨ったフロッグマン部隊とかは頑張っています。 だけど、戦車や航空機とも開発が他国に後れ取ってたり、東部戦線ではドイツから 酷い扱いを受けて徒歩で帰還したりとか、数と質で劣るイギリス艦隊に撃ち負けたりとか、 軍港に戦艦並べておいたら複葉機に夜間雷撃を食らったとかのエピソードが一杯。 (355 555) 日本軍の兵は、何日戦って何日休みを貰えたんですか?また、米軍ではどうでしたか? 米軍の場合は、例えば、アイゼンハワー将軍は、欧州で戦闘している全陸軍の古参兵に 10日間の休暇を交代で与える様命令を出しています。 歩兵の場合は難しかったりしますが、それでも、それなりの対応が出来ました。 この休暇では、例えば、イタリア戦線で戦っている兵士達は主にカプリ島へ、西部戦線で 戦っている兵士達は、パリやロンドンで過ごすことが出来ました。 平時の日本陸軍の場合は、軍隊の休暇日は日曜日、大祭日など国民一般の休日の他に、 慰労、褒賞などによる休暇が与えられる場合がありました。 この休暇が幾日か続く場合は、帰省、外泊も認められます。 海軍も同様で、日曜日は艦内生活でも普通休日になっていますが、演習や特別作業が ある場合はその限りではありませんし、上陸は乗組員の半数が許されるだけです。 また、土曜日は艦内掃除の後、午後に半舷上陸が認められますが、大抵は艦内掃除は 午後にまで掛かることも珍しくありません。 勿論、当直などがある場合は此の限りにありませんし、戦闘中は言わずもがなです。 (530 眠い人 ◆gQikaJHtf2) アメリカの戦中プロパガンダに出てくる日本人 丸ぶち眼鏡と細目に出っ歯とチョビ髭の日本人ってヒットラーとムッソリーニに並べて出てくる ところを見ると指導者(東条か天皇)と思われますが日本人全体のイメージを擬人化した様にも見えます 果たして特定の個人なのか日本人全体なのかどちらなんでしょうか? 両方です。 片やナチの先棒を担ぐ軍国日本の象徴、片やそれを操る(とされていた)指導者。 大抵の日本人は出っ歯、ひしゃげた鼻、つり上がった目、高い頬骨で顔を描かれ、 独伊ソ(1941年6月まではソ連もあちら側と思われていた)に比べると殊更に小人 として描かれています。 特定の個人となると、先ず1941年12月22日には、Timeの表紙が山本五十六中将でした。 但し、彼の顔は、尖った耳、険しい目、意志を示す厚い唇で描かれていて、凡そ本人に 似ても似つかぬもの。 あと、Colliersと言う雑誌の表紙には、昭和天皇をカリカチュアにした作品が良く出て来ます。 こうした作品を描いたのはポーランド系ユダヤ人の画家であるArther Szykと言う人物で、 彼はヒトラー憎さの余り、それに協力する者全てを人非人として描いたのでした。 彼の作品は、1941年12月以降、米国民がその憤怒を表したものとして絶賛され、各地で 巡回展示などが行われています(尤も、そうした風潮を冷ややかに批判していた人々も いた訳ですが)。 (535 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 反日プロパガンダ絵とか見ると、大抵丸めがねで出っ歯でネズミというふうに日本人が表現されてます。これは東條のルックスも関係してますか? 眼鏡ちびの出っ歯猿という日本人のイメージを作ったのはディズニーの漫画だそうな 短編アニメに眼鏡ちびの出っ歯猿のキャラを出した際、米人なら誰でもイメージする 日本人独特の英語(RとLの区別ができない、つづり字通りに読み上げるなどなど)を しゃべらせたことが原因だとか まぁ根本的にはディズニー自身が人種差別主義者で、特に日本人が大嫌いだったから なんだが 上の説のソースは小野耕生氏のエッセイね (343 256) 大戦中、日本の鉱山や炭鉱では労働者が兵役に就いたために朝鮮半島などの徴用者を働かせたそうですがアメリカ、英国やドイツ、ソビエトの鉱山や炭鉱の事情はどうだったのでしょうか? ドイツはフランスなど占領地から労働者を徴用したり、ロシア兵捕虜や強制収用されたユダヤ人を働かせてた。 ソ連はドイツに比べれば人口の点で労働力は大きなアドバンテージがあったし、女性労働者を大量に動員した。 炭鉱はともかくとして、世界で女性の社会進出が進んだのは 第2次世界大戦のおかげっていう話はあるよな (353 587,588) イタリアやハンガリーといった、日独以外の枢軸国はB-17やB-24などの絨毯爆撃を受けましたか? 絨毯爆撃の名称はベトナム戦争からです。 それ以前は無差別爆撃、西欧ではドレスデン爆撃が有名です。 ハンガリーのプロエスチ(カタカナ書きってこれでよかったっけ?)が爆撃されたのは有名。 もっとも連合軍側もこの爆撃行でかなりの損害を出した。 イタリアならドイツ軍が立て篭もった有名な修道院(今なら確実に歴史遺産)が爆撃されて跡形もなくなった話とか。 (538 342,343) レインボー作戦ってどういう作戦だったんですか? 太平洋戦争の真珠湾攻撃を阻止するため? そんな作戦は存在しません。 レインボー計画というのは、米国が立案してた戦前の対枢軸戦争計画の総称。 特に真珠湾攻撃を意識した計画ではありません。 当時の米国は、平時に戦争計画をする際に、 仮想敵国などに色名を当てはめた呼称をしており、総称をカラー計画と呼んでいました。 例えばオレンジ色というと日本のことで、オレンジ計画というのが対日戦の想定でした。 そのうち枢軸国が形成されてくると、対枢軸戦を想定したレインボー計画に発展しました。 (543 ◆yoOjLET6cE) 第2次世界大戦のエースパイロットって世界中で何人くらいいるんですか 残念ながらすべてのエースの数を把握しているわけではありませんが、 例えば、アメリカでは陸軍航空隊だけで大戦中に1300人以上のエースを輩出しています。 ドイツ空軍のエース、騎士十字章以上を叙勲した戦闘機パイロットは総数で566人だそうです。 また、フィンランド空軍は96名のエースを生んでいます。 日本陸海軍はヘンリー・サカイダの著書ではそれぞれ百数十名が挙げられていますが、 これらの多くは記録があいまいなので注意が必要です。 (543 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 第2次世界大戦当時、片腕の司令官はいたのでしょうか?? 隻腕の司令官と言うと、日本海軍に塚原二四三大将がおられました。 塚原大将は第一連合航空隊司令(少将)として漢口に赴任していた昭和14年10月3日、 新機材の領収を見届けるために一連空の主だった幹部と一緒に飛行場の戦闘指揮所に いたところを中国空軍のSB爆撃機に空襲され、左腕に重傷を負って切断しました。 これによって塚原中将(14年11月に進級)は艦隊司令の道を断たれましたが、 航空畑の将官として貴重な存在だったために退役することもなく現役を続行、 昭和16年9月に陸上基地部である第十一航空艦隊司令長官としてマレー沖海戦・ 比島・蘭印方面作戦を戦い、ラバウルにも進出しています。 のち航空本部長・横須賀鎮守府司令長官を経て昭和20年5月に大将に進級。 これは井上成美とともに日本海軍最後の大将進級でした。 (564 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) ドイツと日本、連合軍によって投下された爆弾はどちらが多かったか 第二次大戦全期 連合軍爆弾投下総トン数(原子爆弾TNT換算量含む) 対独戦1,643,398t 対日戦 155,000t 太平洋戦争中、連合国軍機によって投下された爆弾総量は656400トンだった。 そのうち24%160800トンは日本本土に投下された。海軍機により6800トン、 B29以外の陸軍機により7000トン、B29により147000トンだった。対照的にヨーロッパ戦線 における総爆弾量は2700000トン、うち1360000トンがドイツ国内に投下された。 ttp //www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/ussbs15.html Rolling Thunder作戦。北ベトナム領内とHo Chi Minh trailの空爆開始。 (当初8週間で終了するはずだったこの作戦は3年続いた。第2次世界大戦の4倍 の爆弾・計800万トンが投下され、この数字は史上最大である) ttp //gold.natsu.gs/WG/ST/239/index.html ベトナム1965 (もう少し特攻隊が頑張っていたら 32) 大戦中の各国の鉄鋼生産量は? 独は大戦中にソ英両国を合わせたぐらいの鉄鋼生産量があった 41年 独3250万t 日700万t ソ1450万t 英1250万t 米7520万t 42年 独3340万t 日760万t ソ1000万t 英1310万t 米7800万t 43年 独3570万t 日880万t ソ1200万t 英1320万t 米8060万t それに「歴史群像アーカイブ」第7巻独ソ戦に書いてあるように ソ連はトラック、鉄道車輌、レール、アルミニウム、発電設備、工作機械など工業製品、食糧に至るまで 米英加のレンドリースに頼っていたから独より下と評価せざるを得ない (列強の総合力2 14) 大戦前の各国の交通手段普及状況は? 1939年時の各国の主要幹線の道路舗装率 国名 舗装率 日本0.9% アメリカ39% イギリス44% ドイツ36% フランス31% イタリア28% 主要国交通機関概要表 ①鉄道延長mm/一万人 ②機関車数,客車数,貨物車数 ③自動車数自動車台数/人口千人 日本 ①3.7万m3.9m/一万人 ②0.4万1.1万7.3万 ③20.9万3/人口千人 アメリカ ①63.3万m34.1m/一万人 ②4.5万2.4万179.0万 ③2616.7万213/人口千人 イギリス ①8.1万m12.0m/一万人 ②2.0万4.2万61.9万 ③202.8万45/人口千人 ドイツ ①13.8万m11.9m/一万人 ②2.0万6.3万57.3万 ③110.0万17/人口千人 フランス ①6.6万m15.8m/一万人 ②1.9万3.2万49.4万 ③218.0万52/人口千人 イタリア ①2.9万m4.9m/一万人 ②0.6万0.7万12.5万 ③39.0万10/人口千人 ソ連 ①8.5万m- ②・・ ③34.5万2/人口千人 (列強の総合力2 51-53) 大戦時は各国に女性の前線兵はいたのでしょうか? ソ連は戦時中から多数の女性兵士が前線勤務に就いていた。 リディア・リトヴァクなど、女性の戦闘機エースも誕生している。 その他の主要国は、基本的に後方勤務のみ。 ただ、工場から前線に新造の飛行機を輸送する女性パイロットなんてのは結構いたりする。 ソ連軍第54狙撃兵連隊の女狙撃兵リュドミラ・パブリチェンコ WW2で309人をヒットし、うち36人がドイツ軍の狙撃兵だそうな 他にも2000人程度の女狙撃兵がいたそうで、終戦時生き残っていたのはうち500人程度だとか http //en.wikipedia.org/wiki/Lyudmila_Pavlichenko 戦後の写真もあるが、いかにもスラブ系のたくましいおっかさんって感じ (343 672,726) スペイン内乱時、フランスは戦闘機を送ったそうですが ブルムが首相になって、英国と協調して、Dewoitine D.372戦闘機14機、Potez 54爆撃機6機を 引き渡しています。 但し、あくまでも民間機としての引渡しでしたので、兵器装備無しの状態でした。 その後、更に19機のDewoitineを送り込みますが、これまた兵器装備の無い状況でのもの でしたので、スペイン人民戦線軍は自己の老朽化兵器のストックの中から使えるものを探して 装備しています。 13機のDewoitine戦闘機は、兵器装備無し、パイロット無し、予備部品無しの状態で到着し、 その内5機は破壊されました。 これを修理するのに、Toulouseからメーカーのメカニックが来ましたが、彼等は現金払いで ないと動きませんでした。 以後、Potez544爆撃機1機、BlochMB210爆撃機1機、Loire46戦闘機が5~6機、BlochMB200 爆撃機が2乃至4機引き渡されています。 最終的に、フランスからの援助は26~33機程度しか戦力にならなかったりします。 後、D.510戦闘機はエンジン無しの状態でスペインに送られ、ソ連製のM100エンジンを取り付けて 使用されましたが、これはヘジャズ王国(現在のサウジアラビア)向けとして表向き輸出されたもの でした。 (569 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次世界大戦中、空対空ロケットはどれくらい普及していたんでしょうか? ペイロードが許せば必ず搭載するような代物だったのか、対空バズーカのような変わり種だったのかが知りたいです。 第2次世界大戦当時だと、ロケット弾はほとんどが空対地、空対艦で、空対空のものはごく少ない。 一番使ってるのが第2次世界大戦末期のドイツ本土防空部隊。地上用の重い21cmロケット弾を積み重爆撃機の編隊めがけて発射。 直撃させるのは難しいが、編隊が崩れて攻撃がかけやすくなる。あと有効だったのがジェット戦闘機Me262用のR4Mロケット弾で、 これは小型のを一斉発射するもので米軍の重爆撃機に深刻な被害を与えた。ただし、無誘導ロケットは戦闘機など軽快に機動する 敵に当てるのは難しい。 これ以外にも、ソ連軍(対地用だけど、一応爆撃機に対しても撃てる)、日本海軍でも空対空ロケット弾を使っている。 (573 834) 太平洋戦争時、米軍の一個師団は一日300トンの補給物資を必要としたと聞いたんですけど、本当ですか? ついでに、日本軍の場合は何トンくらい必要だったのでしょうか? 一個師団を20000人とすれば一人あたり15キロにしかならないんだよね。 食料・弾薬・燃料・車両・修理用のパーツ・その他諸々であっという間にそれくらいになるのでは? 日本軍の場合、インパール作戦時に第十五軍の兵站部では列兵団に 一日10トンの糧秣の補給を予定していたとか…。 あくまで作戦時の緊急輸送で糧秣のみですので、実際の弾薬などを含めた 補給必要量はそれよりはるかに多いでしょうが。 (40 644) リリーマルレーンて米軍の軍歌ですか? 元々はドイツの歌です。最初はあまり流行らなかったのですが、戦時体制 になって急に流行りだし、兵士のリクエストはいつもリリーでした そのうち連合軍もこれに夢中になり、トミーやGIも聞いていました 邦書なら「リリーマルレーンを知っていますか」とかいう本に詳しいです (51 716) 日本は大本営発表で国民に嘘ぶっこいていましたが、同様のことはアメリカ、ドイツ、ソ連などでもあったんでしょうか? もちろんアメリカやソ連も戦局がよくなければ情報操作をやっていますが 当然、負けが込んでいる国ほどその重要性も増します。 原書房の『ヒトラーの遺言』には、 戦争末期のドイツの状況を分かりやすくするため 当時(1945年2月~4月)のベルリンでのラジオ放送の ニュースの内容が載っていますが それをみるとドイツはベルリンに攻め込まれるまで、毎日ソ連軍に勝利し続けていますよ。 (608 883) 第2次世界大戦のとき、米英独ソでは熟練工員は徴兵されなかったのでしょうか? 日本は熟練工員を徴兵したため、ただでさえ良くなかった品質がさらに悪くなったそうですが、 ソビエトは戦車を納品に来た工員までそのまま徴兵して、戦場に送ったのは有名な話。 アメリカも熟練工以外は徴兵したけどマニュアルを整備して、女性でも標準的な製品ができる ようにした。 あと日本では、戦闘機工場などは工場の判断で熟練工の徴兵免除とかやっている。 (618 789) 第2次世界大戦時にエチオピアに侵攻したイタリアの表向きの開戦理由は何だったのでありましょうか? Ethiopia戦の場合は、Italyが1887年の協定、1896年の協定、1900年の協定文書と、1908年の 大権力協定をを改竄して、国際連盟に提訴します。 1896年の協定では、Eritreaの港を確保した後、ショア王を擁してEritrea奥地に兵を進めようと しますが、失敗しますが、1889年に皇帝が戦死したために、ショア王が皇帝となり、Italyとウッチャリ 協定を結びます。 この協定は二種類あり、イタリア語では協定によりEthiopiaを保護領とすると規定し、アムハラ語では そんなことはおくびにも触れていません。 後にItalyが第2次戦争に敗れ、1896年の協定でAddis Ababa条約を結びます。 これで、Ethiopiaの独立は認められ、Eritrea沿岸地域だけがItalyの保有を認められました。 1900年の協定もこれの追認。 ところが、これらの文書を改竄して国際連盟に提訴した結果、国際連盟はそれを真に受け、 ItalyにEthiopiaの国土の大半を与えるホア・ラヴァル案を出したわけで。 1934年にSomaliland国境沿いの街で武力衝突が起き、其れを受けてEthiopiaがEritrea境界 から30km退却させたのを譲歩と見たDuce殿が、敵は弱腰と見て一気に武力行使をした訳で。 ちなみに、宣戦布告は無し。 (319 眠い人 ◆gQikaJHtf2) WW2にリモコン航空機あったんですか? あの当時のラジコンのような物ってゴリアテかリモコン機銃かどっかで研究してた無人潜水艦?しか思いつかないんですけど ドイツ空軍に例があります。 「ミステル(宿り木)」と呼ばれる機体があり、これはいわゆる親子飛行機で、 子機はユンカースJu88爆撃機を改造して爆薬と無線操縦装置を取り付け、 機体の上部に連結器を装備して親機の Bf109 を載せたものである。 目標上空で切り離し、親機が子機を誘導して目標に体当たりさせる仕組みになっていた。 無論子機は無人であり、言うなれば大型のミサイルである。 ミステルは若干ながら戦果を挙げ、 更なる組み合わせとして親機にFw190を使用した型も生産された。 しかし、速度の遅いミステルは通常の爆撃機以上に敵戦闘機の好餌であり、 間もなく敵目標に対する攻撃は中止され、 敵の進撃経路に当たる橋梁や道路を爆破するのに使用されたという。」 下記、特別攻撃隊のドイツを参照ください。 http //wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/24697/%93%C1%95%CA%8DU%8C%82%91%E0/24/ (621 霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.) 先の大戦においては枢軸国に連合国軍の最新兵器を横流しして売り込んだとかの事例はあったんでしょうか? 第2次世界大戦であれば、国家総力戦に移行しているので兵器の生産に必要な 資源そのものが国家によって管理されている。武器商人の提議が曖昧ではあるが、 武器を枢軸側に売るとして、資源、工場、人員、輸送手段が必要となるが、 資源は政府ががっちりおさえ、工場を持ってれば政府が生産計画をたてて品目も指定してくる。 人員も戦争に関係ないと政府が判断すれば場合によっては廃業しての転換を命じたし、 輸送手段も政府が統制しているから船もなければ燃料も手に入らない。 (俺初質スレ431 ふみ ◆Y.QUKJBduY) ドイツ軍内ソ連軍のウクライナ解放軍のウラソフ将軍達は、寝返ったとはいえウクライナの仇敵である旧ソ連軍と戦ったからウクライナでは英雄扱いというのは本当でしょうか? ウラソフはロシア人であり、ウクライナ人分離主義者にとっては自民族を抑圧する連中の一人に過ぎない。 武装親衛隊にはウクライナ人部隊(第14SS所属武装擲弾兵師団)があったが、ロシア人部隊と統合するような動きはなかった。 戦後も反ソテロを続けたウクライナ蜂起軍のステパン・バンデラと間違えているんじゃないだろか。 彼を含めた戦中戦後に反ソ活動を行った連中は、ウクライナの極右民族主義者からは英雄扱いされているっていう話がある。 (315 167) 第2次世界大戦時の南米で、アメリカ軍の基地があった国はありますか? 中米なら、Cuba(Guantanamo)、Panama(Canal Zone)、Dominica、Mexicoがあります。 また、南米では、1943年2月にPeruと航空基地建設の軍事協定を締結、Brazilにも 船団護衛の為の基地がありました。 (309 眠い人 ◆gQikaJHtf2) トリニダード・トバゴと英領ギアナ(現ガイアナ)に航空基地がありました。 あとパナマ運河入口のバルボアにも大規模な軍港が設置されてます。 (309 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 第2次世界大戦中、レーダー妨害で鉄くずみたいなのを飛行機からばら撒いて妨害するという作戦はなかったのでしょうか? 主にやっていたのはイギリス軍で、しかも鉄じゃなくアルミ。 折り紙の銀みたいなのを細く切ってバラ撒くと、空中を漂って敵のレーダーには 飛行機の編隊のように映る。 鉄なんかじゃすぐに自由落下しちまって爆撃してんのと変わらないぞw アルミ箔による欺瞞紙は陸軍で開発されて実用化されてました。 製造段階で出るアルミの研磨屑を集めて作った……らしいです。 大きさは3cm角、厚さ0.5~0.1mmもしくは幅2.7cm、長さ70cmの2つです。 散布方法は砲弾に詰める。飛行機からバラ撒くなどです。 (308 677,678) カチンの森事件ですが、何故わざわざそんなところまで捕虜を移送して殺害したのでしょうか? ポーランドの地名だと思っていたのですが、カチンの森とはロシアのスモレンスクの郊外にあるのですよね http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6 「その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、 ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され 彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフあての文書も含まれている。」 (以上英文wikipediaと同内容) ソ連国内の収容所に一旦収容してから1940年の春にカチンに移送して殺害。 捕虜にして即殺害したわけじゃない。 ttp //en.wikipedia.org/wiki/German_camps_in_occupied_Poland_during_World_War_II "Many of the 400,000 Polish prisoners of war captured by Germans during the 1939 invasion of Poland were also confined in these camps, although many of them were also sent as forced labourers in Germany." 労働収容所で強制労働。 その途上で死んだ者が大勢いた。 (636 346) 米海軍の艦船には第2次世界大戦前から、CA-28やらBB-64やら艦の種類と番号が振られていますが、他の国ではこのような艦種記号や番号は用いられなかったのですか? 隻数の少ないドイツはもとより、英国、日本でも一部の艦にしかそうした艦種記号は適用されていません。 英国の場合は、集団機動する駆逐艦にHとかDと言う記号と番号が振られていました。 日本の場合も、略号として或る程度使っていた様ですが、一般的ではありませんでした。 英国については、戦後に復活し、空母は、R+数字、巡洋艦がC+数字、駆逐艦がD+数字、フリゲートがF+数字、 潜水艦がS+数字、敷設艦がN+数字、掃海艦艇がM+数字、哨戒艦艇がP+数字、揚陸艦艇がL+数字、その他、A、 K、Yなどが特務艦に割り当てられています。 但し、数字については、適当に振っているので、例えば、R05はInvincibleに適用されていたのですが、これは元々 Eagleに割り当てられたものだったりします。 (306 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ワシントン条約やロンドン条約非加盟国は代艦枠を使って新型艦の建艦競争をしていたのですね? 違います。 フランスもイタリアもロンドン条約に調印しています。 一般的に理解されている質的制限や代艦建造の制限についてのみ、参加しなかったのであって 立派にロンドン条約に名を連ねています。 ただしイタリアはリットリオ級が排水量制限枠を大幅超過していることを百も承知で建造を強行したし ドイツもまたベルサイユ条約どこ吹く風といわんばかりにシャルンホルストの建造に着手しようとしました (後に英独海軍協定締結によって事後的に承認されたようなものです)。 ドイツがシャルンホルストの前に構想していた装甲艦Dを見ても、もはやベルサイユ条約の制限に従う気などなかったことは明白です。 これはヒトラー登場以前のことですよ。 条約未締結国ではなく イタリア・フランスはワシントン&ロンドン条約、 ドイツはベルサイユ&英独海軍協定というそれぞれ条約に参加した国同士での建艦競争です。 代艦枠、というのは合ってますが額面通りの使い方をしていなかったのはイタリア、ドイツの例を挙げた通りです。 なお、ソビエト連邦も遅ればせながらこの建艦競争に加わっています。 そしてソ連の膨張に一定の歯止めをかけるべくイギリスが動き、英ソ海軍協定を締結しています。 この協定はかなり知名度が低いですが、欧州の建艦競争を理解する上で覚えておいて損はありません。 あまり言うまでもないことなのですがワシントン&ロンドン条約と英独海軍協定の質的制限は同じです。 さらに、英独海軍協定でドイツが認められた保有量は事実上フランス・イタリアと同等の水準です。 いわば仏・独・伊は質的にも量的にも対等の土俵の中で近代化競争に突っ走っていたことになります。 (642 ゆうか ◆u8WC078ef5ch) ドイツ軍ってやたらとオートバイ/サイドカー使ってるイメージがあるのですが、他の国が重視しなかった理由は何なのでしょうか? 例えば、ソ連は、ドイツと戦争をしている際に、米国にサイドカー付オートバイを多数注文しました。 しかし、米国は、生産の近代化と合理化(特に合理化)の為にジープを供給するからとソ連を説得して います。 米国は単車を数千台単位でしか生産していません。 寧ろ、英国の方が多数生産しており、戦争勃発時に21000台を保有し、6345台を徴用しています。 この数は、1940年6月までに50000台に達し、最終的には勃発時の10倍以上の270000台を保有するに 至っています。 ドイツの場合、それなりに生産していますが、独ソ戦頃から徐々にVWにシフトしていっています。 (303 眠い人 ◆gQikaJHtf2) WW2軍服着用の指導者 現役同等 東条大将 フランコ 将官以上 スターリン、ブルガーニン、ベリヤ、フルシチョフ・・・ソ連多数 ムッソリーニ ペタン 裕仁天皇 その他多数 非着用系 毛沢東 ヒトラー ルーズベルト その他多数 大佐 チャーチル(名誉) (299 123) 北欧ってWW2当時はどこから石油仕入れていたんでしょう? ドイツから買っていました。 ドイツの石油は、ルーマニアからの輸入や石炭の液化でまかなっていました。 戦争中に他国に売る余裕は、少ないです。 当然に、スウェーデンでも、石油不足となりました。 下記バイオマスからエネルギー from スウェーデンを参照ください。 http //blog.livedoor.jp/bioenergyken/archives/51587846.html スウェーデンの石油の輸入業者が、連合国のスパイとなりました。 ドイツの石油生産状況を細かく報告して、爆撃の効果を高めたそうです。 それを元に、映画が作られました。 『偽りの売国奴 』 「第二次大戦中、石油ビジネスを行いながら密かにドイツ国内で軍事情報を収集して連合国に知らせていた人物の物語。」 下記、の売国奴 を参照ください。 http //www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_review_new/jap_review_traitor.html (660 霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg) 少々違う ドイツ軍に占領された国に囲まれた、スウェーデンは中立国なので、 スウェーデンはイェーテポリより戦時禁制品等の指定やドイツ軍の嫌がらせ等様々な邪魔はあるにしても 中立国といっても実質は連合国よりのポルトガル等の中立国を相手に交易を行うことは可能だった。 また、有名なSFKのボールベアリングはさまざまな手段により連合国に輸出されている。 このSFKのボールベアリングのドイツへの供給を減らす代わりに ドイツに代わって米英が石油を支援する等で石油を連合国からも入手している エリック・エリクソン http //en.wikipedia.org/wiki/Eric_Erickson_(spy) (660 749) 30年代や40年に立案されていたソ仏独の大建艦計画実現の公算は大きかったのでしょうか ソ連の場合は、第2次世界大戦が無ければ国力的に問題はありません。 但し、その技術が伴っていませんので、米国なりイタリアの協力を得る必要があります。 フランスに関しても同様ですが、彼の国の場合は政治が問題になります。 政治の混乱が無ければ、実現した可能性は高いでしょう(つまり実現する可能性が低い)。 ドイツの場合は、初期計画であれば同様の状況では実現する可能性が高いでしょう。 後のH44とかH45などの計画は机上の空論ですけどね。 (284 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大戦中の日米の艦艇の建造数を知りたいのですが。 日米艦艇建造数比較 日本 米国 戦艦 2隻 10隻 128,000㌧ 375,000㌧ 正規空母 5隻 17隻 140,000㌧ 459,000㌧ 軽空母 6隻 9隻 95,000㌧ 99,000㌧ 護衛空母 4隻 76隻 61,000㌧ 630,000㌧ 重巡洋艦 0隻 11隻 0㌧ 143,000㌧ 軽巡洋艦 5隻 36隻 53,000㌧ 690,000㌧ 護衛駆逐艦 32隻 412隻 40,000㌧ 510,000㌧ 潜水艦 117隻 203隻 150,000㌧ 310,000㌧ (103 352) 第2次世界大戦中のアラブ諸国ってどんな状態だったですか? 大国が攻めたりしなかったのかな 第2次世界大戦当時、現在のレバノンとシリアはフランス領、 エジプトを含むその他の中東諸国はイギリス領の植民地で、 独立国はトルコ共和国だけでした。 これらの国々が独立し「中東問題」となったのは戦後のことです。 「侵攻」という点では、イタリアが英領エジプトを攻撃し、 またドイツはイラクやエジプトの国内反英勢力を支援していました。 (105 28) 補足を。 アラブ諸国ではありませんが、イランに関しては、国家として中立を模索したものの、ソ連が北半分を、 英国と米国が南半分を占領し、援蘇物資のルートとして使用しています。 ソ連は、この地に緩衝国家を作りたかったようで、タブリーズに人民共和国を打ち立てようとしていました。 イラクは、英国の委任統治領でしたが、1921年に独立国になっています。 英国軍が駐留していましたが、元々軍部を中心に反英勢力が根強くあり、1941年にドイツの後押しで、 軍部のクーデターが起き、一度親英政権は打ち倒されます。 しかし、英国が即座に対応して、カウンタークーデターを起こしたため、反乱の芽は摘まれ、親独政権は あっけなく倒れました。 以後は、英国軍の管理下の下で親英政権を維持しています。 シリアは1918年に王国として独立しますが、1920年にフランスの委任統治領となり、ダマスクス、アレッポ、 アラウィー派、ドルーズ派の各自治区に分けられます。 1939年にトルコとの交渉で、イスラム托鉢修道会領の返還を行なったことで、住民の反発が起きますが、 第2次世界大戦の勃発でうやむやになり、フランスの降伏で、ヴィシー政権に付きます。 しかし、1941年、ヴィシー政権軍と主にパレスチナから侵攻した自由フランス軍と、イラクから侵攻した英国 軍によって戦闘が行なわれ、数度の戦闘の結果、ヴィシー政権軍は降伏しました。 1941年4月にシリアは自治国として独立し、1944年に正式独立しました。 ただ、その後、国境を接する全ての国と、国境紛争を起こしています。 レバノンは、1926年に委任統治領シリアから自立し、1940年にヴィシー政権への支持を行ないました。 その後はベイルート付近で、ヴィシー政権軍と自由フランス軍との戦闘が行なわれ、1941年12月に自治 国となり、1944年に正式独立しました。 パレスチナは、英国の委任統治領でしたが、祖国帰還事業による移入ユダヤ人の増加と従来住んでいた アラブ人の軋轢が強まり、1936年から39年にかけて内乱状態となります。 そこで、1939年に英国は「白書政策」というものを行なって、ユダヤ人の流入と土地購入を制限し、アラブ人を 懐柔しますが、これにユダヤ人が反発。 ハガナなどの武装勢力が英国軍の襲撃などを行ないます。 ところが、第2次世界大戦勃発に伴い、今度はユダヤ人は英国側に立って、パレスチナを近東に於ける連合軍の 補給基地として提供し、1942年以降は英軍の一部として、ユダヤ人志願兵旅団を供出します。 これに対し、アラブ人は一連の出来事に反発し、親枢軸への傾斜を強めていきますが、これが、後の中東問題 のひとつの引き金になってきています。 1945年以降、英国は再び「白書政策」を行なったため、再びユダヤ人が反発し、駐留英国軍を襲撃したため、英 国はこの統治を放棄し、国連に付託してしまいました。 ヨルダンは当時、トランスヨルダンと言い、英国の委任統治領となりましたが、サウド家との抗争に敗れたメッカ太守 及びへジャズ王だったハシミテ家が国王となって統治を行なう王国となっています。(ちなみに、イラク、シリアの国 王はトランスヨルダンの国王と兄弟にあたります。) このため、隣国サウド家とは常に緊張関係にあり、英国委任統治領との緩衝国家として機能すべく、英国との軍事 同盟を結び、英国軍の将軍の指揮下にアラブ軍団を作って、参戦しています。 サウジアラビアは、ハシミテ家を追放したサウド家によって成立した国家で、1926年にヘジャズとネジドの王となり、 1932年に王国として統一されました。 1934年には、国境線を巡ってイェメンと戦争となって、これは1936年まで続いています。 第2次世界大戦中は、英国からも働きかけを受けていましたが、イブン・サウド王はハシミテ家を支援する英国を余り 好まず、米国からの援助と基地建設を容認しています。 米国による、武器援助で、サウジアラビア軍は近代化を果たし得ました。 エジプトは、1922年に英国の保護国となり、1936年に独立します。 但し、運河地帯は20年間の英国軍の駐留を認め、スーダンは英国との1889年条約以来、共同統治権を認める と言うもので、民族主義者はこれに不満を持っていました。 第2次世界大戦では、イタリアがリビアから侵攻し、後一歩の所まで追いつめますが、補給に失敗して撤退します。 なお、この際、後に王制打倒クーデターを指揮する国軍の若手将校(ナセルとかサダト)による、王制打倒クーデター が企図されますが、イラクの失敗で懲りた英国によって察知され、彼らの反乱は未然に防がれます。 このほか、マグレブ諸国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)は米国の欧州に於ける最初の大規模作戦、トーチ作戦 で制圧され、リビアは英国軍によって占領、スーダンはエジプトと英国の共同統治によって大戦の影響を余り受けず (戦力の提供は行なっていますが)、西サハラ、タンジール、イフニはスペインの統治下によって、かなりの圧力を連合国 から受けていますが、一応維持しています。 また、クウェート、中立地帯、湾岸諸国、マスカットオマン、イェメンについては、英国保護下の諸国であり、イェメン領アデン が英国の中東向け補給の最前線基地となったほかは、特に大戦の影響を受けていません。 (105 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次世界大戦中、各国のマフィアは何をしていたのでしょうか? 日本では満州浪人とか右翼団体とかいかがわしく暴力的に戦争協力していました。 韓国の暴力団とかも、貧民を日本に連れて行ったりとか。 ヨーロッパで有名なのはドイツ占領下のフランスで、レジスタンス側について トンネルに爆薬を仕掛け、列車のドイツ兵を大量に生き埋めしたり、 あるいは逆にゲシュタポ側について拉致や殺人・防諜の手伝いしたり いろいろと。 それと、アメリカのイタリアンマフィアが、ドンの釈放と交換条件に 米海軍に協力し、イタリアへの上陸の手伝いとか政権転覆 (ファシスト政権はマフィアを弾圧したため)謀ったりとかしていたらしいです。 闇物資の取引、仲介、調達行為。 日本を例に取れば戦争相手国の中国から取引で希少金属類を調達した右翼まで居た。 (112 695-696) 第2次世界大戦時、各地の空でフーファイターと呼ばれるものがパイロットによって目撃されたと本で読んだのですが、正体は何だったのでしょうか? 1945年4月、川崎を焼夷弾空襲する為に飛行していたB-29の何機かのクルーから、「自機の後を何百 mileも火の玉が幾つか付けてきた」という報告があり、その後東京を空襲した機体でも、「数個の火の玉を 確認した」という報告があった。 夏に入ると、不可思議で潜在的に危険な飛行物体に関する報告がますます多くなり、飛行前の ブリーフィングでは、クルー達に対し、「敵の最新兵器に注意せよ」という警告が発せられた。 それは、強力なサーチライトを持つ母機か誘導機で、B-29の所在を突き止め、夜間戦闘機を支援 するのだと言われていた。 パイロットはこの敵機を振り払う為、荒っぽい、急激な運動をしたが、この敵機は離れず、射手の中 には、サーチライトを撃って光を消す、或いは母機を破壊しようと、実際に機銃を発射した者も居た。 奇妙なことに、この敵機は、日本本土に侵入する時は右翼側に現れ、基地に帰投する際は、左翼に 現れると言うのだ。 7月半ば、全B-29搭乗員は情報部から次のような説明を受けた。 「空の何処を飛ぼうと、好きなだけ撃とうと、これを撃墜する訳にはいかない。 諸君が見た火の玉は惑星の金星だ。 世界でもあの一帯では、年間でもこの時期に金星は極度に明るく輝くのである」 (信じられないが、本当だ8 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次世界大戦中連合国の指導者が色々なところで会談していますが、どうやって移動したのでしょうか? ニューファンドランドで米英首脳が会談した時は、Rooseveltは重巡洋艦(Augusta)、 Churchillは戦艦(Prince Of Wales)で移動しています。 その後、ChurchillはC-54Bを使用し、大戦末期にAvro Yorkに乗換、Rooseveltは、 C-54C("Sacred Cow"号、専用エレベータを持つ)を使用して会談に向かっています。 また、英国で連合国の首脳会議が行なわれた時、ソ連のMorotov外相は、自国製の Pe-8大型爆撃機でMoscowからWashingtonで、帰途にLondonに寄ったものでした。 (115 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次世界大戦の時スペインは何してたんですか? Spainは1939年に終了した内戦の影響で、国力が枯渇し、その復興に多大な力を 必要としたので、第2次世界大戦に参加出来ませんでしたし、英国からの陰に陽に掛け られる圧力のため、正式参戦しませんでした。 しかしながら、枢軸国潜水艦への密かな便宜供与や、スペイン義勇軍「青い旅団」 が東部戦線に派遣されたりしています。 (121 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ヒトラーが参戦を促す会談を申し込んだ時も、 ヒトラーの専用列車との待ち合わせ場所にフランコの列車が遅れてきたり、 午後になるとヒトラーがイライラして待ってるのに、おかまいなしにシェスタをとったり、 参戦の代償にジブラルタルや北アフリカをちょうだい。あ、おたくの最新兵器も供与してねと足元を見るような要求をしたりと、 最初からやる気がなかったという話もある。 そのかわり上で書かれてるように中立ながら親独的な立場をとり、 ドイツ諜報部の活動やドイツ商船のUボートへの補給を見て見ぬふりをしてたりする。 また義勇兵、つまりあくまで個人の意思で参加したという名目で送り込まれた兵士で編制された 通称「青」師団は、東部戦線で多数の損害を出しながらも勇戦している。 (121 954) 空対空爆撃戦って何ですか? 空対空爆弾を使った迎撃戦闘のことじゃないかなぁ。 日本陸海軍では、対飛行機用の攻撃兵器として空対空爆弾を保有していました。 海軍には昭和14年に完成した九九式三号爆弾がありました。 総重量30キロの爆弾の中に144個の弾子が詰められており、敵編隊上空でこれを 投下すると時限発火装置により爆発して、弾子が散布される親子爆弾でした。 黄燐と鉄片でできた弾子は一発75グラム、傘上に広がって落下し、 命中すれば防弾タンクを発火させることが可能でした。 一方陸軍では、ト二弾、ト三弾と言われる空対空爆弾がありましたが、実戦で使える ものではありませんでした。 のちに「タ弾」と呼ばれる空対空爆弾が陸海軍共通で使用されました。 これは元々陸軍が地上の航空機攻撃用に開発したもので、700グラム(1キロ)の 小型の成型炸薬弾をコンテナに仕込み、目標上空で投下、散布して目標を破壊するものでした。 これを対空用に用いるようにしたものです。 実戦では、投下位置の判断が難しく、また機体性能や爆弾の重量のせいで 敵機の上方に占位する事が困難なため、戦果はさほど上げられなかったようです。 またドイツ空軍でも同様の戦法を採用しており、Wgr.21空対空ロケット弾を使った 空対空戦闘に発展しています。 「空対空爆撃戦隊」?みたいな題名を聞いたことがあるんですが 「空対空爆撃戦隊」は元ドイツ空軍のハインツ・クノーケによって書かれた戦記です。 第11戦闘航空団第Ⅱ飛行隊第5中隊に所属していたクノーケ中尉は、 戦死した同僚が構想していたBf109に爆弾を搭載して米軍機の密集編隊に投下する アイデアを実施すべく、自機に爆弾を搭載して出撃しました。1943年3月のことです。 彼は見事に爆弾でB-17を撃墜することに成功し、その戦果はゲーリングの耳に達しました。 第5中隊長に昇進した彼はさらに研究を続け、中隊は多数の戦果を上げました。 しかし、護衛戦闘機の増大などで爆撃戦法は危険を増し、8月には中隊は ロケット弾を使用し始めています。 面白いことに、迎撃された米重爆の方では爆撃戦法に全く気がつかず、損害を ロケット弾によるものと見ていたそうです。 (138 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 戦時中、敵同士での通信(艦対艦とか艦対空で)は行われましたか? 行われました。 第2次世界大戦初期のUボートは、無警告で連合軍徴用船舶を撃沈することを許されておらず、 1936年締結のロンドン協定に依って、まず、信号灯などで、停戦命令を発します。 次いで、臨検部隊が対象船舶に移乗し、積荷と航海日誌を調べ、必要に応じて積荷は押収、 軍用品を輸送していた場合、船舶は乗組員退去の後、撃沈する形を取っていました。 これは、仮装巡洋艦でも同じです。 使われたのは主に信号灯、信号旗で電信は自らの位置を暴露するため、積極的に用いられて いません。 また、飛行機同士の場合、降伏を行う印として、翼を振る、車輪を出すなどの所作でそれを明らか にすると言ったことがありました。 (139 眠い人 ◆gQikaJHtf2) サンフランシスコ講和条約で、イタリアとスイスは何を理由として日本に賠償を求めたのでしょう? スイスの場合、彼の国の国民が、日本政府に抑留されたことを根拠として賠償請求をしています。 イタリアの場合は、1943年の降伏時に接収された艦艇、商船の喪失に際しての賠償請求と、国民が 日本政府に抑留されたことを根拠として算出したのでしょう。 南米のABC諸国は、日系人抑留の経費とかでしょうか。 その他のアジア諸国は、国内が戦場となった際の復興費用とか。 (151 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次世界大戦最後の戦闘ってどこで行われたものですか? 敗残兵のゲリラ的戦闘を別にすれば、ソ連軍の満州侵攻作戦ということになると思います。 侵攻が始まったのが8月9日、大陸命により停戦命令が出たのが8月18日。 しかし戦闘はまだ各所で続いており、虎頭要塞の陥落は8月26日、 興安嶺で戦闘中だった第百七師団が停戦に同意したのは実に8月29日です。 その後も九月になるまで小規模な戦闘が満州各所であったはず。 (324 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 部隊同士の本格的な戦闘なら、昭和20年8月18日~21日にかけて行われた、北千島・占守島の戦い。 昭和47年10月19日、フィリピンのルバング島で、現地警察と銃撃戦の末死亡した小塚金七一等兵を、最期の戦死者と呼ぶこともある。 (321 595) 第2次世界大戦で最後の海戦って、いつのどんな戦いなんでしょうか? 無名のものまで入れると、 1945年8月22日に、中国沿岸で、日本軍と米中連合軍の武装ジャンク同士が交戦したのが、 第2次世界大戦最後の水上戦闘だといわれてるようです。 結果は日本側が撃ち負けて、乗員の大半が死傷して拿捕されています。 (614 ◆yoOjLET6cE) 第2次世界大戦の敗戦国で、植民地の兵士を徴用していた国はありますか? まあ日本の場合、朝鮮人士官は普通にいたし、朝鮮人兵士は昭和13年から志願兵を募集して昭和19年から徴兵対象になる。 台湾人は昭和17年から志願兵募集、昭和20年から徴兵対象。 それ以前の時期だと、軍属として設営隊とか日本人を徴兵して不足した分の労働力を補った。 満州人は一部満州軍として末期の対ソ戦に参加したのはいるが、その他の戦線には流用していない。 後はマレーとかで捕虜にしたインド人をインド国民軍にしたり、ビルマ人の義勇軍もあったな。 中国人捕虜の一部は、汪精衛の南京政府軍に参加させて地方の治安部隊にしたり。 軍属として荷物持ちや通訳をやらせたりしたけど、スパイがよく紛れ込んでた。 (俺初質スレ433 353) WW2において、アメリカ陸軍だけが全歩兵の機械化と全車両の無線化を成し遂げたという話をどこかで聞いた気がするのですが、本当でしょうか? 米国は、1939~45年の間に、3,200.436台の軍用車両、88,410輛の装甲車輌(ちなみに、英国は24,803台、ドイツは24,360輛 の装甲車輌を生産)、ハーフトラックは41,170台、トラクタは82,099台、これに特装車が数千台の単位で続きます。 トラックの大多数は、1/4t~3/4tのLight Classで、988,167台、次いで2 1/2tのLight Heavy Classで、812,262台、1 1/2tの Medium Classが428,196台、2 1/2t以上のHeavy Classが153,686台で、これら全生産量の1/3が補給部隊の手に入りました。 ちなみに、カナダは815,729台のトラックと、50,663輛の装甲車両を生産し、英国に引き渡しています。 ドイツは、先に述べられているように、1940年にオランダに侵攻したとき、多数のドイツ歩兵は馬に乗っていましたし、この時から 敗戦までの間、民間車両と軍用トラックとの比率は100対1だったそうです。 (238 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本やドイツの兵器生産全般は、終戦のその日にストップしてしまったんですか? ドイツは自国が戦場になっているから、敗戦と共にその生産もストップしています。 日本の場合は、8月17日に工事中止命令が出て、以降の軍需生産は行われず、民需産業への転換模索、 動員学徒の解除、動員女子の解雇などの人員整理が行われました。 例えば、海軍艦艇ですが、8月16日に、波216号潜水艦、第160号海防艦が竣工しています。 (228 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本が92オクタンを標準としたのに、より進んでそうなドイツやイタリアが87オクタンを常用してたのはどういう事情からなんでしょうか? 元々、オクタン価を上げる技術は米国がリードしていました。 これは、高温高圧下で水素添加して改質すると、加鉛効果が良くなってオクタン価を高めることが出来る、 と言う技術で、この高温高圧を実現するための特殊鋼製造がイタリアでは難しかったこと、また、その技術は 更に改良され、高温高圧の作業が少なく、と言うことはそれに耐えうる特殊鋼の使用量が少なくて済む、所謂 フードリー法が開発されています。 これらの特許は、米国が保有していた訳で、仮想敵国たるドイツやイタリアには輸出が為されなかったと言う ことになります。 更に添加剤についても、英国では開発されていたものが、ドイツでは開発出来なかった、と。 (184 眠い人 ◆gQikaJHtf2) イタリア・ドイツなど枢軸国に駐留していた在外邦人はどのような処遇がなされていたのでしょうか。 2.枢軸国に帰化した日本人も徴兵や兵役が課せられたのでしょうか。 3.ロシアに駐留していた日本人・日系帰化人は、ソ連参戦までは、どのような処遇がなされていたのですか。 4.日本在留の、米英人だけでなく、ソ連人も強制送還されたのでしょうか。 1.については、基本的に居所さえ申告していればOKだったみたいです。 また、その生活も余り窮屈なものでなく、例えば、イタリアの例ですが、1942年4月に 「ローマ日本友の会」という組織が出来たときは突然、Mussoliniが現れたりしています。 概ね、イタリア人の場合は寛容だったみたいですし、ドイツ人もそれなりに対応していたよう です。 ただ、イタリア降伏の後には、イタリア駐在海軍武官や商社マンがPartisanに殺される例も ありました。 詳しくは、木村裕主の一連の著書(特に「ムッソリーニの処刑」)辺りとか、ドイツに滞在していた 日本人の手記とかを参照するのが良いか、と。 2. 枢軸国での帰化は庶民レベルではなく、有名どころではクーデンホーフ・光子くらいしか居ないような…。 少なくとも、日系ドイツ人ニーゲム大土木さん(ぉぃは居なかったはず。 3. 岡田嘉子など、日本人は1937年前後に軒並み、「日本のスパイ」として逮捕・拘留され、100名前後が シベリアなどに流刑になったり、銃殺されています。 流刑になった日本人は1945年から最長で1950年代まで出所出来ませんでした。 従って、無事な日本人は殆どいません。 4. そもそも、特別高等警察や憲兵の任務は防諜ですから、疑わしいことをすれば、国外追放になりました。 まぁ、ソ連も同じことをしていたので、どっちもどっちです。 (200 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 自由フランスのド・ゴール政権などは対日戦勝国なのですか? 一応、日本の外務省的対応としては、中国の重慶政権、フランスのド・ゴール政権、 ユーゴ、ポーランド、エチオピア、チェコスロバキアなどの亡命政権、イタリアのバド リオ政権などは、日本政府が承認している政権ではないため、彼らが行った宣戦 布告は国際法上無効として交戦関係を認めていません。 但し、国交が無くても日本が否認していない限り、宣戦布告は有効となります。 なので、ニュージーランド、インド、ドミニカ、ハイチ、シリア、レバノン、サウジアラビア については、対日戦勝国となっています。 ちなみに、ルクセンブルクも連合国の一員という理由で、対日宣戦をしたわけでは ありませんが、対日戦勝国の一つに数えられていたりします。 (208 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次世界大戦で倒した敵兵の装備を戦利品として持ち帰る兵隊がいたそうですが、銃や刀剣を持ち帰ったりする場合に問題は無かったのでしょうか 武器もそうですが、頭蓋骨を恋人に送りつけることもしています。 当然、国内で批判が高まり、幾度も禁止令が出ており、太平洋戦争では、本国に帰る 兵士達が必ず立ち寄るハワイなどで持ち物検査が行われていました。 ただ、米兵の場合は、記念品を集めるのが戦いの主目的になっていたりするので、 なかなか守られなかった様です。 (338 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ヨーロッパ戦線終結時にドイツ軍のモーゼルが人気となり、持ち帰ろうとする イギリス兵が大問題となり、帰国時に所持してたら処罰と通達が出て、 みんな帰国する船から捨てたそうだ。 バグダッド陥落の直後、大統領宮殿を略奪して金ぴかの物を逆さにしたヘルメットに入れて持ち運ぶ米兵の映像が、 テレビで流れていた その後どうなったかは知らないが、略奪が問題になっているというニュースがあったような (338 545,556) 第2次世界大戦での主要国の軍用航空機生産数はそれぞれどれくらい? 1941~44年の統計だけんど。 日本:58,822機(1945.8までは69,888機) 米国:261,826機 英国:96,400機 ドイツ:92,656機 (334 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ワシントン、ロンドン軍縮における代艦建造と廃艦の順番について教えてください。 代艦起工前か、完成までか、どの時期までに対象艦を廃艦にすれば良いのでしょうか。 ご自分の目で確かめてください。 http //ja.wikisource.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E5%82%99%E5%88%B6%E9%99%90%E3%83%8B%E9%97%9C%E3%82%B9%E3%83%AB%E6%A2%9D%E7%B4%84 (607 ゆうか ◆u8WC078ef5ch) 日本が南進せずにソ連に侵攻しても日本の機甲部隊の実力では、独ソ戦線にさほど影響は及ぼさなかったんでしょうか? いわゆる「関東軍特別演習(関特演)」を実行していたら、ソビエトは 極東軍区から増援を欧州方面に回せないので、兵力の確保に苦労すること になる。 また、仮にウラジオストクを脅かされるような事になれば、アメリカから の援助物資が届かなくなる。 ウラジオが無事でも、シベリア鉄道を遮断されたら物資を西に輸送できないし、 日ソ開戦となったらアメリカの輸送船団は日本海やオホーツク海に入ることが 困難になるし。 なので、ドイツがモスクワを陥落させることくらいはできたかもしれない。 ただ、それでソビエトが敗北して崩壊したかといえば、そこまでの影響は なかっただろう。 (608 320) なんでドイツと日本の防空能力に無茶苦茶な差があるんでしょう? 以下のドイツと日本の戦果は本当でしょうか? 【連合軍の戦略爆撃の規模 】 期間 投下爆弾量 死者 連合軍の爆撃機の損失 ドイツ 35ヶ月 170万トン 30万5千人 米1万機 英1万2千機 日本 約10ヶ月 16万トン 30万+原爆21万人 約450機 【日独高射砲の配備数】 ドイツ '39年 2800門 '43年 1万5000門 '44年 2万6000門 日本 '41年 880門 '43年 850門 爆撃機の損失については、ドイツはB-17とか比較的撃墜し易いのが中心だったのに 対して日本はB-29というオーパーツが使われたから。もちろん防空態勢が根本的に アレだったってのもあるけど。 高射砲については、日本が初めて爆撃食らったのが42年4月18日のドーリットル空襲、 本格的な大規模空襲は1944年6月からなんで、それ以前の配備が少ないのは勘弁して くんろ。海軍にも防空を手伝ってもらえるということもあるし。 まあ、日本の高射砲生産数自体が、合計で4000門に届かないらしいけどね……。 日本は八八式高射砲だけでも2000門は作ってます 次期主力の九十九式で1000門 更に本土爆撃をしてきたB-29に対しては高度1万以上の射程が必要で既存の高射砲は役に立たなかったんです 量産型で対抗できたのは三式12cm高射砲でしたけど120門しか製造できなかったんです B-29が高高度爆撃を行ったのはサイパンからの初期。しかも7000~8000m 中期から後は中高度だから1万mの射程は必要な場面はほとんどない・ なんて言うのは言い尽されて今や常識。 日本側の撃墜数が少ない要因の一つは迎撃時間、回数が少なかったのも一因。 欧州戦はドーバー越えてから何度でも迎撃に遭う。 実際最も初期の中国重慶から場合は中国大陸を飛んでくるので情報も早く 対処もし易すかったので損害が大きかった。 (701 831-848) 日独伊三国同盟って、なんか意味あったんですか? 日独伊にソ連を加え、アメリカへの抵抗力。 しかし独ソ戦で破綻。 ドイツ下フランスの領土に進駐する契機。 しかしアメリカと対立を生み禁輸~戦争へ。 ドイツにとっては、日本と共にソ連を挟みたかった? その後の日本の行動は不本意と思われる。 (戦争板初質スレ7 336) あれはもともとは反共のための同盟。だから対ソ連が基本方針。 そこにソ連を加えて対米、というのは松岡外相の構想でしかなかったはず。 四国同盟構想は、日本だけでなくドイツとソ連にもあったようです。 (戦争板初質スレ7 423,425) ワシントン海軍軍縮条約が潜水艦の開発競争にどのような影響を与えましたか? ほぼ何もなし ワシントン会議で潜水艦については確かに討議の対象に上がり、保有量の制限が加えられる可能性もありましたが 結局人道的な運用を配慮しよう、というただの紳士協定で終わってます 日本が戦艦の勢力的劣勢を補う為に潜水艦の研究開発に力を入れたとか。 それもなし すでに相当な力を入れて戦利Uボートの解析や戦訓分析に取り組んでいた日本ですから 持てる最大限の努力を行っていたと評価して構いません あれ以上はありません (782 ゆうか("”復帰”"リハビリ中) ◆u8WC078ef5ch)
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★2007年度・・・やや難 http //www.ne.jp/asahi/wh/class/toudai2007.html 大論述 『農業生産の変化』難度:★★★★☆ 自分の出来栄え:△ 11~19世紀の農業関連とまぁ、取っつきにくい感じがする 指定用語を見ると、「湖広熟すれば天下足る」をもう一つの方と間違えてはいけませーん。 こっちは明代で長江中流域(下流域では織物などの手工業が発達) 一方、宋代の「蘇湖~」は、長江下流域。まぁ、これは頻出基本事項。 アイルランド、ジャガイモ飢饉また来ましたね。 「農業革命」の使い方に一番悩みました・・・ なんだっけって忘れてました。 答えはイギリスの話。 となると、ノーフォーク農法とかですね! 穀物法廃止とも絡めることができます。 まぁ、指定用語をざっと見る感じ、西欧、特にイギリス、中国について書けばいいことが分かります(+東欧もあり) 小論述 『歴史上の暦』 (1)(a)『古代エジプトとメソポタミアの暦』難度:★★☆☆☆ 自分の出来栄え:○ どちらも肥沃な大地ですね。農業が盛んです。 書き漏らしやすいのが、メソポタミアでの占星術。 (b)『イスラームの暦』難度:★★☆☆☆ これも非常に単純。太陰暦と知っていれば、ずれがあることが分かります。 では、何に不便なのか。生活に影響がある農作業などです。 (2)(a)『フランスの暦』難度:★★★★☆ 「国民公会」が反キリスト教の立場から、グレゴリウス暦→革命暦 ナポレオンがグレゴリウス暦復活 (b)『ロシアの暦』難度:★★★☆☆ これは知ってるかどうかの問題。 革命政府はそれまでずっと使っていたユリウス暦(外国からすれば時代遅れ)からグレゴリウス暦(主流)にかえました。 (3)『元~清代の暦』難度:★★★★★ これは東大、ちょっと出題ミスった感があります。 というより悪問の類に近いです。 ただ、これだけ大問2の問題数を増やしているのなら、一問ぐらい差がつく問題が出るのもありかなーとも思いますし・・・難しいですね。 出来なくても、仕方がないと思います。 ともあれ、考えてみましょう。 最低限思い出さなくてはならないこと。 授時暦、崇禎暦書の二つ。崇禎暦書はとっさに思い出しにくいかもしれない。 まぁ、みんなここら辺までは書けるはずです。崇禎暦書の方を正しく使えてるかは怪しいけど。 でも、こんなんじゃ絶対に120字には到達しません。 てか、40字とか書いたところで採点の範囲外じゃないですかね?もしかすると0点。 暦の変化を聞かれているので、各時代ごとに考えてみます。 元・・・授時暦 明・・・???、崇禎暦書 清・・・??? となります。崇禎暦書はあくまで西洋の暦を用いた暦法書であって、これ自体が暦ではないです。 ちなみに実はこれ、明代で発行されたにもかかわらず、これをベースとした暦が作られたのは清代です。 まず、明代に何が用いられていたのか。 雰囲気からして授時暦を元に改良されたものっぽいですよね。 分かんなかったら、そう書いとけばいいんです。 でも、正確には「大統暦」と言います。 (※ここら辺は、実は用語集の「授時暦」の解説に載っています。日本の貞享暦も仲間) 次は清代は何が用いられていたのか。 明末の崇禎暦書で西洋風が入ってきたばっかでしたよね。 ここから想像するに西洋風太陽暦であると考えられます。 (※授時暦や大統暦はイスラーム天文学が元になった陰陽暦) なら、そう書いとけばいいんです。 正確な暦の名前が分かんなくとも。「時憲暦」と言いますが。 (※ここら辺も、実は用語集の「崇禎暦書」の解説に載っています。) 上記のようにここら辺の詳しい名前を書かずにうまくまとめることもできます。 そしてさらに実は。 気づいた人も多かったはず。 東京書籍の教科書にも、山川書籍の教科書にも、 『暦』をテーマにしたコラムがちょこっと最初の方に載っています!!! あ、大統暦とか時憲暦とかは載ってないけどね。 それと、用語集には一応解説ページには載っていた・・・ 調べてないと分からないということですが。 要するにこれを出した東大の先生が言いたかったのは、 「教科書のはじめの方のコラム馬鹿にして飛ばしてんだろ?ああ?ちゃんと読んでるの?」 ってことと、 「そういうのに興味持って調べてる?」 ってことと、 「用語集なんかいらないとか言ってる奴、ちょっと出てこい」 ってことだと思う。 一問一答 『植民地競争と民族主義運動』難度:★★☆☆☆ 正解数 13/15 論述が少しいやらしいテーマだった分(えっちという意味ではなくw)、 こっちの一問一答は教科書基本レベルのオンパです。 あっ、引っかかりやすいのが問6。 ルワンダetc統治・・・と聞いて、普通は真っ先にベルギーが思い浮かぶ。 しかし、それは×になる。よく見ると、「19世紀末に」とある・・・ この頃はまだドイツ領!そして、WW1の敗戦でベルギー領になる。 それとベルギーの統治と民族対立云々、これも大論述テーマとして絡んでくることがありえます。 カタンガ州資源とか、ツチ族を上位に扱い統治に利用だとか・・・もろもろ。 ミュンヘン会談参加者。 イギリスを聞くのではなく、ここはフランスを聞いとけよw ダラディエさんです。(用語集レベ7) まぁ、答えはネヴィルの方のチェンバレンさん。 問10は難問。ポツンと変なの混ぜんなwww もしかすると地理選択の人は普通に知ってるのかな? 人民革命党が一党独裁を放棄し、国名がモンゴル国になり、市場経済へ。 要するに社会主義からの脱却ですね。 ★2008年度・・・普通~やや難 http //www.ne.jp/asahi/wh/class/toudai2008.html 大論述 『パクス・ブリタニカ』難度:★★★★☆ 自分の出来栄え:○ すごく東大らしいこのグローバルすぎる問題。 イギリスを中心に、ヨーロッパ諸国、アメリカ、オスマン帝国、インド、中国、日本と全部触れなくてはいけないというスケールのでかさ。 もちろん、その他の国でも進出と抵抗を書けるならおk。 無論、最低限上のことには触れたうえでね。 それだけ大英帝国が世界帝国であり、影響を与えていたということですね。 こんだけたくさん要素がある時の長所・短所があります。 長所→それぞれ一つずつについての知識は少しずつで良い。 短所→全体のバランス(それぞれの内容の濃さ)をそろえるのが大変。後、つなぎ方(構成)が難しい。 正直言って、短所の方がでかいです。だから、この問題は難しい。 とりあえず毎回のように表を書いてみましょう。 組み込まれた動きと対抗を横に取り、それぞれの地域を縦に取って・・・ んで、例のごとく用語を表の各枠の左上にでも埋めていきます。 そして、埋まらなかったところには何が入るのかを考えます。 注意しなくてはならないのが、指定された時代範囲です。 1850年ころ~1870年代となっています。 ここ以外のことを書かないように。そこの部分が採点の対象外、もしくは減点要素です。 むしろ、これは大ヒントです!だって、その幅狭い年代にあったことを書けばよいのだから。 ワードとして悩みそうなのは「日米修好通商条約」ぐらいでしょうか。 何でイギリスとの絡みのはずが、アメリカと???となるかもしれませんが、 日本はこれと同等の内容をイギリスとも結んでいます。 イギリス中心の資本主義国際社会に引っ張り出されたわけですね。 後は、トルコが組み込まれていく過程とかは埋まらなかったはずですが、 これはクリミア戦争の戦費や1873年不況、タンジマートなどの「外債を西洋(特にここではイギリス)に頼った」結果、西洋資本に経済的依存する事態を招いています。 最後に「パクス・ブリタニカ」について。 この言葉はかのパーマストン外交で知られるパーマストンが自画自賛の意味で、 「パクス・ロマーナ」にならって名づけたものだそうです。 小論述 『領土と境界の画定』 (1)『ロシア・清間の条約』難度:★★★☆☆ 自分の出来栄え:○ もうこれはちゃんと覚えてたかどうかですべてが決まります。 アイグン条約はいつ?背景は?どこを獲得・割譲?その他補足は? 北京条約はいつ?背景は?どこを獲得・割譲?その他補足は? ちなみに、問題文中にある黒竜江(アムール川)上の中洲とはどこ? 答え:珍宝島(ダマンスキー島)、1969年にソ連・中国間で武力衝突。 そして、1991年に国境が再画定されました。 (2)(a)『イスラエルとシリア』難度:★☆☆☆☆ 自分の出来栄え:◎ あえて、この難度としてみました。 旧オスマンの支配地域を英仏で分割委任統治。それぞれどこ治めたの?で終わり。 (b)『第三次中東戦争』難度:★★☆☆☆ 自分の出来栄え:○ まず、これが第三次と分かんなきゃいけない。 そしたら、イスラエルがどこを攻撃して、どこを占領したかを考える。 ちゃんと全部言えるかどうか・・・エジプト・シリア・ヨルダンを攻撃。 ヨルダン書き忘れました、さーせん。 他の中東戦争も要確認。 (3)『アルザスの帰属』難度:★★☆☆☆ 自分の出来栄え:◎ まぁ、すごく係争地ですよね・・・ 仏独の対立構造は西欧の軸でもありました。(以前は英仏の対立) このことはよく出題されるテーマ。 書くことと言えば、三十年戦争、普仏戦争、第一次世界大戦、とこれぐらい。 本当なら、大戦後のECSCにつながるところも入れた問題にしたらもっと面白かったと思う。 字数的に無理なのかな・・・^^; 一問一答 『交通のあり方』難度:★★☆☆☆ 正解数 11/11 何ていうか、年を重ねるごとにどんどん易しくなっていく・・・ また交通がテーマ。しかし、以前ほどマニアックではなく教科書レベル。 サンチャコ=デ=コンポステラは、十二使徒の一人ヤコブの遺骨が発掘された場所で、巡礼者がたくさん訪れます。 このワードは近年注目度が少し上がった模様。 まぁ、ここだけやや難というぐらい。 2009年02月24日01 12 mixiより
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第一次グロスクロイツ・ベリオン戦争 年月日:1684年3月~1689年10月 場所:ゲルデン宙域、バデラム星系、メヒテオン星系、惑星ゾラック、惑星イェッジカワーディカ 結果:ベリオン側の勝利ブラーメル終戦協定 交戦勢力 ベリオン軍 アバローン連盟軍 ベリオン共和国タプナパキ義勇軍 グロスクロイツ社会主義共和国マーカス連邦 指導者・指揮官 ベリオン軍 アバローン連盟軍 バラチェ・ダムラクゲスター・ブレシュケール・セルベントメシュトル・マーデンクロッツモッシュ・ジュラウェント・ツェアーバシャ・プコンギンタンタ・ニコパキ・プトマカプシャ・ヌポラ(ヌポラ三世)ウシャファ・ンクナ・ムバロ セント・カディーン・イェッジガワードオイヤー・スレドゲール・スクローフェンベルテル・ハウアーシュベートキュシュテン・フェアデゼクルース・ウォーラー・ニッテンカサール・グリーサン・ポーロスゴンター・ネルゼン・クファールストレクター 戦力 ベリオン軍 アバローン連盟軍 総戦力 280万人戦艦 38隻中小宇宙艦艇 80隻宇宙戦闘機 1400機地上軍 180万人 総戦力 455万人戦艦 44隻中小宇宙艦艇 200隻宇宙戦闘機 1100機地上軍 259万人 損害 ベリオン軍 アバローン連盟軍 138万人 191万人 第一次グロスクロイツ・ベリオン戦争 ダヴラムイ星系侵攻第一次ユラーシュ艦隊戦ドールヴェー=ズリヤート地上戦ドールヴェー首都攻防戦ゾラック周辺宙域の戦いD作戦サロシェク作戦第二次ユラーシュ艦隊戦ブロンジット攻勢ゼディアス強襲光の矢作戦エシュケ艦隊戦ニカ=ブリョーデン降下作戦デロン宙域の戦いニカ=ブリョーデン陥落ベルトフェン作戦 第一次グロスクロイツ・ベリオン戦争はシンテーア暦1684年から1689年に起こったゲルデン宙域での戦争である。惑星ゾラックの領有権を巡る争いが原因となって引き起こされ、当時グロスクロイツ領だったバデラム星系、メヒテオン星系などが主戦場となった他、大宇宙連合会議旧ボルガード宙域委任統治領モンタク代理政府ダクラーシュ民族評議会の監視宙域で大規模艦隊戦が行われた。 ダヴラムイ終戦協定の中でベリオン共和国はグロスクロイツ領バデラム星系とメヒテオン星系を獲得することに成功し、また当時建設中だったゲルデン航宙公社のゲルデン周辺路線を譲渡した。なお、ダクラーシュ・旧ボルガード宙域の権益については一切の要求を承認されることはなかった。 目次 レーウス・バブル ダーケフオス危機 8月クーデター 宣戦布告 ダヴラムイ星系侵攻 第一次ユラーシュ艦隊戦 ドールヴェー=ズリヤート地上戦カミーシャフ陥落(ドールヴェー首都攻防戦) ゾラック周辺宙域の戦い D作戦(ダスタニア星系) サロシェク作戦(メヒテオン星系) 第二次ユラーシュ艦隊戦 ブロンジット攻勢(スーディベリネーグ解放) ゼディアス強襲 光の矢作戦(ダスタニア・メヒテオン) エシュケ艦隊戦 ニカ=ブリョーデン降下作戦 デロン宙域の戦い ニカ=ブリョーデン陥落 ベルトフェン作戦(バーラム) 戦後 関連項目 レーウス・バブル ゴルギアの時代後、さらに領土問題が複雑怪奇と化したゲルデン宙域であったが、一時は小康状態を保っていた。1670年から続くヴァルエルク好景気はゲルデン諸国にも伝播し、1672年にグロスクロイツ政府主導の元、ゲルデン宙域初の星系間航宙産業としてゲルデン航宙公社が設立された。好景気のため、これに続々とエルミアとドルムントの民間企業が援助、資金提供を行い、さらには共同開発に参加。ゲルデン航宙公社は公社としては異例の国際産業として注目を浴びた。ゲルデン航宙公社は次々に路線の設定、航宙機の開発を進めていた。 ダーケフオス危機 しかし、1679年にダーケフオス危機が発生。経済不況の煽りを受けゲルデン諸国の国際情勢は再び悪化し始めた。ゲルデン航宙公社に参入していたエルミア・ドルムント企業の相次ぐ撤退やベリオン・ダクラシェート支部の閉鎖など、窮地に立たされた。危機感を抱いたグロスクロイツ社会主義共和国セント・カディーン・イェッジガワード書記長はゲルデン航宙公社を純粋国有化するように命じ、公的資金援助で経営破綻を阻止した。 このことが決定打となりベリオン経済は元々の外交的孤立も相まって失業率が増加するなど深刻な打撃を受け、危機的な状況にあった。これを立て直すべく当時のダムラク首相は旧ボルガード宙域の領土問題を解決すべく設立されたダクラーシュ民族評議会の外縁部の中立惑星ゾラックへの介入を実行し、経済開発を行った。これには、公共事業によって失業者を減らす目的と自国の景気回復、そしてゾラックを自国領土に組み込み、ベリオン経済に刺激を与える狙いがあった。 しかし、領土問題の続くこれらの地域で大規模な介入をするのは国際社会の目はこれを快く思わなかった。1680年に大宇宙連合会議ゲルデン宙域安全保障理事理事会エドガー・フィッツジェラルド最高理事によって制止通告を受けた。これに続いてゴルギアの時代が終わってからゾラック星代表政府の自治を支援していたグロスクロイツ社会主義共和国政府はベリオン共和国に対し、「不当な支配」と非難した。 1682年までにベリオン政府はジエール帝国連邦に接近し、同盟軍を結成した。ジエール・サーヴァリア戦争が勃発すると、グロスクロイツも同盟関係を模索し始め、ヴァルエルク・サーヴァリア両国と連合軍を結成した。ここでついに、両国の関係悪化は決定的なものになった。 8月クーデター 1683年、ベリオン政府はグロスクロイツとゾラック星代表政府との結びつきを断つために、ゾラックの一部の将校に支援しクーデターを起こさせた。8月クーデターの発生である。 ゾラックの将校たちはベリオン製の高性能な武器を持っていたため、ゾラック星政府はこれを鎮圧できず政治機能を失った。1682年、軍政ゾラックを樹立する。 この話を聞いたグロスクロイツ社会主義共和国セント・カディーン・イェッジガワード書記長は大宇宙連合臨時総会を開催しベリオンを公然と非難する演説を行った。その後14月には再三の非難、改善要求等に関わらずベリオンがゾラックの開発を進めたとして有名な「14月禁輸」を発表。グロスクロイツ政府はベリオンに対する食料輸出を全面的に禁止するとの方針を打ち出した。 宣戦布告 ベリオン政府にとって、この14月禁輸は戦争を不可避なものにした。 そしてついにシンテーア暦1684年3月19日、ダムラク首相の発表によりベリオン共和国はグロスクロイツ社会主義共和国に宣戦布告した。間もなくベリオンがバデラム星系に突入し、バデラム宙域会戦が引き起こされた。 ダヴラムイ星系侵攻 「艦長、各艦に打電。"さあ、奴らが隣国に生まれたことを後悔させてあげましょう。各員義務を遂行しなさい"」 ―メシュトル・マーデンクロッツ提督 ベリオン軍中央宙軍集団は1684年3月19日、飛び地となっていたグロスクロイツ領ダヴラムイ星系に侵攻を開始した。 ダヴラムイ星系の惑星ドールヴェーには戦艦2隻からなるグロスクロイツ軍第7艦隊が停泊していた。グロスクロイツ元帥オイヤー・スレドゲール・スクローフェンはベリオン軍の猛攻を前にしてはほぼ無力に等しいと判断していた。 スクローフェン元帥は増援艦隊をエシュケ・スヴォリキから緊急出撃させたが、増援を先読みしていたベリオン軍の別働艦隊がワープ先のワームホールレーンで待ち伏せしていたため、増援艦隊はダヴラムイの第7艦隊への合流を諦めた。 ダヴラムイのグロスクロイツ軍第7艦隊は援軍の到着を待ち続けたがついに来ることはなく、ベリオン軍中央宙軍集団戦艦26隻の猛攻を受け戦艦2隻、巡洋艦6隻が撃破され、巡洋艦3隻と駆逐艦等の小型艦艇は自爆ないし放棄された。ダヴラムイは3月19日から4月2日まで行われ、その後も小規模の衝突が続いたものの、ダヴラムイ星系の制宙権はベリオンのものとなった。 第一次ユラーシュ艦隊戦 「突撃だけで勝利するのであれば、このような戦いは起こり得ない」 ―モッシュ・ジュラウェント・ツェアー提督 1684年4月10日、グロスクロイツ軍主力の第2艦隊はベリオン領(旧リーエス領)ユラーシュ星系に侵攻。 ベリオンのゲスター・ブレシュケール・セルベント元帥はグロスクロイツがダヴラムイ奪還に固執するものと考え、ユラーシュ宙軍集団を後方に下げていたため、この侵攻は想定外のものであった。 ユラーシュを防衛していたのはツェアー提督率いる戦闘機母艦、戦艦各4隻からなるユラーシュ艦隊と呼ばれる中規模艦隊だった。 ツェアー提督はユラーシュ星系の重力井戸の外側でグロスクロイツ艦隊を迎撃し、ユラーシュ星系の惑星スーディベリネーグからの戦闘機隊の反復出撃を駆使して遅滞戦術を実行し、主力のユラーシュ宙軍集団の到着まで時間を稼ぎ、グロスクロイツ軍のユラーシュ攻略を諦めさせた。 ドールヴェー=ズリヤート地上戦 ベリオン勝利 カミーシャフ陥落(ドールヴェー首都攻防戦) ベリオン勝利 ゾラック周辺宙域の戦い 引き分け D作戦(ダスタニア星系) グロクロ勝利 サロシェク作戦(メヒテオン星系) グロクロ勝利 第二次ユラーシュ艦隊戦 グロクロ勝利 ブロンジット攻勢(スーディベリネーグ解放) ベリオン勝利 ゼディアス強襲 ベリオン勝利 光の矢作戦(ダスタニア・メヒテオン) ベリオン勝利 エシュケ艦隊戦 ベリオン勝利 ニカ=ブリョーデン降下作戦 ベリオン勝利 デロン宙域の戦い 引き分け ニカ=ブリョーデン陥落 ベリオン勝利 ベルトフェン作戦(バーラム) ベリオン勝利 戦後 関連項目 大宇宙の歴史 大宇宙の歴史/戦争 第一次宇宙大戦 ジエール・サーヴァリア戦争
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335: 影真似 :2021/03/31(水) 15 14 25 HOST 121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp 投下無いので以前行っていたネタを投下。 (注)ここの連合は日本に対してクッソ塩対応なのをご了承ください。。 大陸日本連合ネタSS 鎖国再来ルート年表(仮) 2016年7月 大西洋、インド洋、太平洋にゲート開通 2016年8月 日本連合の情報に「軍国主義の再来」「悪の帝国の侵略」とマスメディアが一斉に騒ぎ始める。特定アジア諸国も日本連合への非難を強める。 2016年9月-10月 日本連合への及び腰の対応に、野党とマスメディアの激しい追及、限定的に開示された日本連合の情報から、「戦前の悪の大日本帝国」をイメージした民衆の声により与党へのバッシングが高まり、複数の民間団体によるデモが急激に増加。 (特定アジアも在日や工作員を利用し、この動きを扇動)更に、沖縄において米軍基地反対運動が「対連合米中協力運動に切り替わり激しさを増す。日本連合、「天沼矛計画」の検討に入る。 2016年11月 内閣総辞職発生。その後、対日本連合として民進党、維新、自由党などの与党以外の政党と自由民主党からの鞍替えした議員(主に親中、親韓、二重国籍、売国奴等)による連合政権が発生。親中、親韓、親米を掲げた左派政権として成立したこの政権に対して、日本連合の対応が硬化。各世界線の日本間で「天沼矛計画」の最終調整に入る。 2016年12月 日本連合による情報の開示が進み、日本内で混乱が発生。世論の分裂と極左、極右勢力の衝突が各地で相次ぐ。また、明らかに特定の国を優遇する政権に不満の声が増加。 それを揶揄するかのように「民主党政権から何も学ばない馬鹿」との声がインターネットを中心に拡散され世論の分裂と混乱が加速。日経株価は最低値を更新し、特定アジア各国は支援を対価にした介入の検討が日本政府に相次ぐ。 336: 影真似 :2021/03/31(水) 15 16 05 HOST 121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp 2017年1月 連合政権は特定アジアに対する更なる連携と日本連合との関係断絶を正式に発表し、その一時間後に見切りをつけた日本連合よる「天沼矛計画」が発動。無数の無人化された戦艦と空母、航空機。膨大な数のロボット兵器の物量攻勢により半日もかからず占領。 自衛隊と米軍はあまりの速度に麻痺しており、オバマ大統領は中国と韓国にコンタクトを取るもまともに会話が成り立たないため、日本の前与党首相とのコンタクトによって事態を把握。 その後、日本連合と米国との交渉(という名の日本連合の切り捨て)によって、日本を日本連合の委任統治領とする一方で、沖縄を「琉球共和国」として独立することで合意。 オバマ大統領は日本の民主主義を守ったとして勇退する一方、中国、韓国は日本制圧の勢力を見て発狂していた(なお、全て意図的に技術レベルを落としたものであるが、彼らからすれば驚愕すべきものであった)。 2017年2月 日本連合による日本国内の教育・法律などの国そのものの改革が開始、二重国籍や売国奴の議員、各省庁、マスメディア、民間団体(PTA,や朝鮮連邦、ジャスラックなど)の大規模な解体、粛清などが相次ぐ。また、グレーゾーン(犯罪歴は無いが日本に対して害を成す人々)の誘導が精力的にされ、民主主義活動家、マスメディアの生き残り、反日日本人・在日、不法残留者などが追放された。(追放には極右団体や自称愛国主義者も含まれており、連合の人々は日本に対して、「名前だけ同じ何か」という印象だった一方、彼らは「愛すべき国土を売り渡した売国奴」と言った印象であった。まあ、連合からすれば彼らは連合の威を借りて現実味の無い妄想を叫ぶ迷惑な団体でしかなかった) 2017年4月 各世界線から治安維持や警備を目的として剣牙虎が動員され、治安維持に大きく貢献。また、同時に自称動物愛護家兼大学教授が剣牙虎を「解放」しようとした事件が発生。同時期に日本連合による、スパイ行為や破壊活動、日本大陸連合に対する妨害行為などを行った 人間や団体などの情報の逐次公表による世論操作を開始。 また、交渉によって某動画や某青い鳥の日本支部を連合が買いたたき、グー〇ルに代わるプラットフォームを始め日本独自のSNSのサービスを開始。海外からは悪の軍事帝国の加速と揶揄される。 更に、琉球共和国や海外への自主的な亡命が完了した時点で、連合は各世界線の情報の完全な開示と琉球共和国との断交を発表。この時点で、海外の日本国籍保持者は大半が琉球共和国に変更していたものの、その後の日本連合の各世界線の情報により各国が発狂する中で一部の人々は手のひら返しをするが、連合からすれば日和見で国籍を変更する者など必要なく、手遅れであった。 337: 影真似 :2021/03/31(水) 15 17 26 HOST 121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp 2017年6月 中国が領土係争地における侵犯を繰り返したことで、警告の後撃墜。中国は発狂。 その後、一帯一路政策を対連合への足掛かりとして重視し、日本連合を敵視する米勢力の後押しもあって更に精力的に進める。 2017年10月 各省庁の再配置と共に、東京にあった臨時日本大陸連合大本営が国防的観点から見た地理的情報から岡山に正式な本部が設立される。また、各大陸の皇族の集う皇居、日本大陸連合派遣皇宮警察本部、日本大陸連合派遣警察隊本部が、かつての平城京が存在した奈良に設置される。この流れの中で、東京の皇居が京都に移動するのでは、というツイートからデマが広まり、東京が「都落ち」などと揶揄される事件が発生。最終的に連合が「皇居の移動は検討していない」と発表することで一応収まり、SNSでつぶやいた主犯は、ただ思ったことをツイートしただけであったので厳重注意に収まったが、余波で東京と京都間での口論が激化し溝が発生。連合は敵意がこちらに向かないことや「いつものマウントの取り合い」と判断し放置。 2017年11月 鹿児島県与輪島―沖永良部島間に巨大な軍事基地を整備したことで在琉米軍とにらみ合いになる。 2018年頃 第四次台湾海峡危機発生 338: 影真似 :2021/03/31(水) 15 19 22 HOST 121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp 2019年12月 改革が進んでいたことによって日産のゴーンが空港で現行犯逮捕。これを機に連合は更なる企業改革を実施。(親中・親韓の企業や拝金主義、連合のやり方に反対する企業は琉球共和国や海外に本社を移していた。特にパソナグループの竹中代表は、中国海南島に新たな本社を設立し、元日本人や中国・韓国人が働く奴隷等を作り上げていた。) 2020年1月 新型ウイルスに対して連合は厳戒令を発令。完全に外部との関係を遮断。また、これを機に日蘭世界の若返り技術などの史実世界にとっては一部革新的な技術の導入を開始。 2020年5月 漆黒世界においてワクチン完成。なお、あまりの速さに後に製薬会社を調べた所、漆黒世界の企業連合や孤立世界、日米枢軸世界のテロ組織など各世界線でのテロネットワークが築かれていることが発覚。史実世界の拡大を懸念。 2020年8月 トランプ大統領。連合との交渉でワクチンの獲得に成功。今後対中方針や在韓米軍の引き上げなどに積極的な検討を示す。 2020年11月-1月 大統領選挙。ワクチン獲得などの功績もあり、米国世論が二分し対立が激化。最終的にバイデン側の異常なほどの投票増加によって民主党勝利。その後も国内で混乱が続く。 2021年2月 武漢事件。夢幻会の知識における各世界線での同ウイルス特定という裏技によって、史実中国に対する調査受け入れを突きつける。米国は親中・リベラル・フェミニズム・ポリコレ泳力が連合を敵視していることもあって混乱が加速。 2021年3月 レバノン懲罰が無かったバタフライエフェクトとして、中国・ロシア・北朝鮮・韓国、一路一帯加盟国の一部が宣戦布告の後、連合に対して先制核攻撃。更に、琉球共和国からも核攻撃が行われる(後にスパイであった中国系米軍人と民主党親中勢力の共謀と発覚)。全段撃墜後、報復として純粋水素爆弾、電子勃起爆弾の絨毯爆撃。半島は消滅、中国は内蒙古などの各自治区、香港を除いて崩壊、琉球・ロシアは地上の全軍事基地、各主要都市の消滅という結果となった。 2021年4月1日 連合と敗戦国の間で「エイプリルフール条約」締結 339: 影真似 :2021/03/31(水) 15 25 48 HOST 121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp 以上です。各作者様のネタをふんだんに取り入れさせて頂きました。 この後は、崩壊した上に各自治区に独立された中国の残骸がいつもの恒例行事したり、欧州が発狂したり、東南アジアが手のひら返ししたり、アメリカでの内部分裂が加速したり、中東が核融合炉の影響から反連合になって欧州にすり寄ったり、中国が消えたアフリカが混乱したり、琉球が日本の一部にしろと運動起こしたりするかもしれません。 でも、ここの日本は他の連合諸国と共に一人で先に進んでいくでしょう。
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524 :641,642:2015/07/28(火) 22 47 43 …何者かによる陰謀か、はたまた奇跡的確率で発生した自然現象によってか、日本帝国が勢力圏ごと異世界に丸々飛ばされ、その後日本が生き残る為に世界相手に大戦争を始めざる負えなくなった頃、日本が元々所属していた世界では… 西暦 1942年 4月3日 春の暖かい日差しと陽気に包まれ『東洋の海に浮かぶ魅惑の国』日本から送られた桜並木が美しい花弁を咲き散らしている此処アメリカ合衆国のワシントンD.C.。 どこぞのピンクの魔王が主人公のアニメの舞台の国の説明文の一節が浮かぶ情景であるこの河川敷には、例年なら居る筈の“人”や“物”が存在しなかった。 1910年に東京から桜が多数寄贈され、その後の米日友好関係の発展に伴い、1933年頃より自然発生し、今では…役所すらも巻き込んだ…ワシントンD.C.地域における春の名物行事となった『SAKURA Festival』 その名物行事が、今年は開催される事は無かった。それどころか、今この桜並木に居る人間は、既に隠居しているような年頃のご老体や、ジュニアハイスクールに通っているような若い少年少女が殆どであり、休暇を取って家族サービスに精を出すお父さん方やその家族連れの様な存在は…例年と比べると…異様に少なかった。 さもありなん、『ステイツに並び立つ国力を誇り、世界の共同管理者である日本帝国が前触れも予告も無しに突如消滅』して、僅か一年と二日しか経過していないのである。『東アジアの警察官』『東洋最大の重石』等と俗称される日本が消えて全世界の政治、経済、軍事…それら全てが完全にパニック状態に陥ったのを、このステイツのお父さん方が(友人たちと共に)『現在も』必死に立て直しているのである。マトモに休暇を取れる余地や暇何ぞ存在しなかった。 そしてそのお父さん方以上に『世界の管理者』として歴史上空前絶後の激務に襲われている男たちが、アメリカ合衆国で一番有名な『白い家』に集まっていた。 ホワイトハウス 「お久しぶりです、首相閣下。…やはりお疲れのようですね。欧州は現在安定している、と聞きましたが…」 「『一応』安定している…と言った所ですね。フランスとイタリアがアレな状況になった時は流石に危機感を覚えましたが、ヒトラー首相が辣腕を振るっている為に想像以上に素早く落ち着きつつある状況ですね」 現在、ホワイトハウスの一室でお互いの近況報告的な事を行っているのは、『アメリカ合衆国 第32代大統領 フランクリン・デラノ・ルーズベルト』と『大英帝国 第61代首相 ウィンストン・チャーチル』。両名とも『世界帝国の指導者』として、昨年度の『Extinction of Japan(日本消失)』によって発生した諸問題の対処に駆けずり回った人間である。まあ今も諸問題は完全には解決出来てはいないのだが。 525 :641,642:2015/07/28(火) 22 50 28 この会談の一年と二日前の1941年4月1日の明け方。日本帝国の本土と多数の諸島群、樺太や台湾にマーシャル等の委任統治領が紫の霧に小一時間包まれたかと思えば、一瞬でその霧が掻き消え、日本が消えた…との報告を受けた各国政府は…初めは真面目に取り合わなかった。当たり前である。 『大陸が消滅した』とか言う戯言を真に受ける人間は普通表社会には居ない。頭が固い事の多い役人方なら尚更でもあり、しかもこの報告がなされたのがエイプリルフール当日だったと言うのが余計に各国政府の初動が遅れる原因だったと後世に結論つけられている。 だが、日本が消滅してから半日近くも経てば、朝鮮半島に居た各国大使や東南アジア各自治政府、そして日本を目指していた客船、貨物船、軍艦などから一度も途絶える事無く送られる『日本消滅』の電文、各国に有る日本大使館からの『本土との通信途絶』が各国政府首脳の耳に飛び込み、このファンタジー染みた現象が現実で有ると認識させられた。本当に世界(特に各国の民衆)がこの非常事態を認識したのは、ニューヨークタイムス等のアメリカ報道機関が(採算度外視で)全世界に送り届けた『朝鮮半島の向かい側に海しか無い航空写真』を新聞で見てからだったが。 そしてその後の世界の反応だが…端的に言って『大パニック』の一言であった。 元々、夢幻会の指導や工作によって日本の国力は(恵まれた国土状況も有って)アメリカに匹敵する物を誇っており、その事は即ち膨大な貿易環境が列強各国と形成されているのと同義である。欧州大戦でフランスやイギリス等の既存列強が一時的に没落している状況では、アメリカからのドル箱と日本原産の『黄金色の大海』が世界経済の成長を牽引せざる負えなかった。そして欧州各国の体力が本格的に復活して来たか否かと言う時節にこの『日本消滅』である。 事実暴露前に一定度準備期間を挟んだとは言え、皮肉にも夢幻会の工作で経済的な恐慌、混乱に対処するノウハウが少なすぎた事も、この『大パニック』を押し留められなかった一因でもあった。 最悪の場合に予測された『列強国家破綻からの周辺地域を巻き込んだ無政府状態』こそ発生しなかったが、人口や工業力、国力的に奇襲的大規模不景気への対処能力が致命的に不足していたイタリア王国。欧州大戦で国土に多数の日本人や日本資本を受け入れており、その後も流れで日本からの投資を受け入れる事が多かった為に日本への依存度が比較的高かったフランス共和国が、この『消滅恐慌』で発生した大規模不景気の津波の直撃をモロに喰らい、自国領や東南アジア開発景気で何とか経済を持ち直したアメリカ合衆国や大英帝国にオランダ王国、首相の圧倒的カリスマによる指導力によって大規模公共投資で不死鳥の如く飛躍してのけたドイツ帝国が支援するまでの間、政情不安でイタリア、フランス国内が『少しばかり』荒れる事となって仕舞った。 …まあ歴史に残る世紀の大不況の中、『少しばかり』荒れる程度で抑え込めたと言うのは、やはり腐っても列強クラブの一員。そんじょそこらの国家とは格が違う、と言う事なのであろうか。 526 :641,642:2015/07/28(火) 22 53 10 「…経済的な問題は一定度対処出来ましたが、代わりに新たに浮かび上がった中華騒乱、日本人問題は…」 「中華騒乱は之まで通りに国際連盟軍による治安維持活動の継続と強化。『消失』により取り残された日本人は友好国たる我が国が保護する。無論、本人の希望を優先するが…」 …中華騒乱は如何でも出来るから良いとしても、やはり日本人の保護(と言う名の自国取り込)は急務だな…。散々日本に世話になってきた国家の面子的にもだが、『日本消失』時に海外に居た日本人の殆どは何かしらの優秀な能力を保持している者が多い。ステイツだけでなく、殆どの国家が日本人を取り込もうとして争奪戦を始めようとしている。早く対策を練らねば… 表向きはアメリカ合衆国の国力の増大の前に押され気味、取り残され気味だった大英帝国が、この『消失恐慌』を機として優秀な日本人を多数自国に吸収し、『パックス・ブリタニカをもう一度』とばかりに急速に国力や自勢力圏の再建に各方面への積極的外交攻勢を推進している裏で、日本消失による世界経済の救援の為に世界を走り回っていた為に日本人取り込みには遅れを取ったアメリカ合衆国。 大英帝国に移籍した日本人(転生者)が驚異的収穫量と品質を誇る新品種の小麦、大麦などを開発したと言うニュースを先日知ったルーズベルト大統領にとっては『何故日本が消失しなければならなかったのか…神よ、ステイツが一体何をしたと言うのですか…』等と己の主神や今は無き日本に愚痴りたい気分であった。 彼…ルーズベルト大統領は知らない。『消失』したと思われた日本は、実は自分達の世界と良く似た異世界に呼び出された事を。 彼は知らない。異世界に飛ばされた日本が、平行世界の自分達の同位体とも言える存在を相手取っての生存戦争をせざる負えない状況へとなっている事を。 彼は知らない。本能レベルで刻み込まれた脅威の一方である日本が突如消失した事で、朝鮮人の精神状態が想像を絶する規模で揺れ動いている事を。 彼は知らない。中華民族の手が届く地域に居る日本人に対して『日帝討滅』『故地奪回』をお題目に、実際は日本人対象の略奪、虐殺を目的に漢民族が大挙襲撃を仕掛けようとしている事を。 …この『演説は上手いが片足が不自由で杖を使わなければ歩けない大統領』が、己のブレーンたちと共に…胃腸と寿命を犠牲にして…あらゆる難題に奮闘し続けた結果、後世『世界の正義と平和の守護者』と世界史の教科書で称えられる事になる事は、この時のルーズベルトには全く分からない未来の話であった… 527 :641,642:2015/07/28(火) 23 01 13 …はい、『あの人は今』的な感じの日本焼失後の世界の一端を 描写にて今回は以上になりまするー。…次はちゃんとできる筈ですので(オイ) 実際の所、大陸日本がいきなり消えたら史実のブラックうんたらが児戯に思える程の恐慌が発生しそうですけど、まあ日本の経済成長や改革に引っ張られる形で各国の国力も強化されているでしょうし『各国財務大臣と国家首脳を墓地に送って世界平和を特殊召喚』すれば何とかしてくれるでしょう。武器史上なら中華が有りますし。 …日本と夢幻会の枷が無くなって、ある意味自暴自棄になっているであろう転移時に外国に居た転生者の暴走の方がよっぽど怖い気がしますがまあ何とかなるでしょう。
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WWⅡ発生以前もWWⅠは「第一次」と呼ばれていたのでしょうか? http //kiwi-us.com/~knp3/judge/cs.shtmlによると『第一次世界大戦に中国が参戦したのは一般常識』らしいのですが,そうなんですか? WW1で毒ガス・戦車・飛行機が登場しましたが,これら新兵器は戦争の勝敗を左右するものだったのですか? 第一次世界大戦の時に流行したスペイン風邪は,大戦にどれくらい影響を与えたのでしょうか? オスマン帝国はなぜ同盟国側に参戦したの? 第一次世界大戦では毒ガスも戦車も飛行機も決定打となっていないそうですが,それなら何が決め手となって勝敗が決まったのでしょうか? 何故,日本帝国は第一次大戦で,欧州に大兵力を派遣しなかったのでしょうか? 日本が第1次大戦のロシア軍に武器を輸出していたのは本当ですか? シベリア出兵は日本にとって失敗に終わりましたが,このシベリア出兵の日本側勝利条件といいますか,日本側が目標としていた戦の終わり方とはどのようなものだったのでしょうか? 日本統治下の南洋群島について,統治内容等を知りたいのですが,ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授ください. WWⅡ発生以前もWWⅠは「第一次」と呼ばれていたのでしょうか? 「the great war」と呼ばれていました. http //kiwi-us.com/~knp3/judge/cs.shtmlによると『第一次世界大戦に中国が参戦したのは一般常識』らしいのですが,そうなんですか? 19世紀末から中国本土にドイツの租借地がありました. 中国が対独国交断絶と宣戦布告となると,当然,中国国内に於けるドイツの諸権益は没収されることになります. 1917年8月14日に中国は三国同盟の独墺に正式に宣戦布告をしています. その付属書で日本に対し, 「支那と独墺両国との間に締結せる一切の条約は,何種の事項に関するに論無く等しく一律に廃止し,1901年9月7日締結の条件及び其の他同類の国際協議にして支那と独墺両国との関係あるものに至りては同時に廃止し,尚支那政府はハーグ平和会議の条約及び其の他国際協約に対しては戦時文明皇后に関する一切の条款を遵守して渝ざる旨を以て生命致候」 としています. つまり独墺両国と中国間の条約は無効で,日本支配の山東半島利権は総て中国に帰すと言うことを言ってたり. ちなみにその前の2月6日の時点で,米国大使が中国に国交断絶を進言しています. この時点で宣戦布告をしていたら,対華二十一箇条は無かったかもしれませんが. (眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板) WW1で毒ガス・戦車・飛行機が登場しましたが,これら新兵器は戦争の勝敗を左右するものだったのですか? いずれも当時決定打とはなっていない. 毒ガス: 膠着する戦線を打開するために開発された.致死性の猛毒ガス(青酸ガス)は持続性を持たせられず,ホスゲン,イペリット等が多用された.死者はそれほど多くない反面,負傷者は多数(数十万人単位.ヒトラーもその一人と自称している)で,効果は絶大.反面,条約で禁止されるまで延々とお互いに使用しあう泥仕合だったので,どちらか一方の勝敗の決定打とはいえない. 戦車: 敵塹壕を強行突破するために開発された.イギリスのマークIが元祖で,ソンム会戦で多少の戦果を挙げるも,主に信頼性にまだ難があったため,大局を変えるには至らず. ただ,心理的効果は大きかったらしい. 別の流れとして,ルノー軽戦車があるが,こちらは終戦半年前位にようやく実戦投入された程度なので,こちらも大きな影響を与えてるとは思われない. 1919年まで戦争が行われていたら,戦車はまた違った評価になったと思う. ドイツ軍の最後の反攻作戦が失敗した後,戦車隊を中心とした逆襲が行われている. また,フラーなどの手によって攻撃計画「1919計画」が企画され,上層部で承諾を得ていた. もし仮に反乱が起こらずに1919年までドイツががんばっていたら,戦車は戦争を終わらせた決戦兵器として名を残し,その後の戦術理論も違ったものになっていたかもしれない. 飛行機: 最初は偵察機として運用され,その行程で敵戦線にちょっとした爆弾を落とす「嫌がらせ爆撃」が発達して爆撃機へ. それを撃ち落すための戦闘機が生まれ,戦闘機同士の空中戦が発生. が,基本的に地上軍と連携して動く戦術そのものが未発達だったので,こちらも戦局を変えるには至らず. なお,その後,破竹の侵攻速度を持った陸空共同のドイツ電撃作戦や,一式陸攻でPOWを葬ったマレー海戦までは,まだ飛行機は軽く見られていた. あの強大な戦艦が,ぶんぶん飛び回る飛行機「ごとき」に沈められるというのは,当時としては凄い衝撃だった. まあ戦車にしろ戦闘機にしろ,それまでに使った事がない代物なので,どう使えば効率がいいか,どの程度使うとどの程度で故障が出て,どの程度お手入れに手間がかかるか等等,全く未知数だったのです. 要するに,機械はできたけど運用ノウハウがゼロで,これから実地で学習しなきゃならない状態だったのです. 第一次世界大戦の時に流行したスペイン風邪は,大戦にどれくらい影響を与えたのでしょうか? 大流行で,ただでさえ公衆衛生のよくない前線で猛威を振るったと伝えられている. http //ww1.m78.com/honbun/kaiser%20battle.html を参照. 両軍ともインフルエンザによる被害は甚大で,戦闘単位として不適切なまで兵員が減少した部隊が続出した. ドイツは予定していた攻勢の延期を考えるくらいだった. 戦争の遂行に悪影響があると恐れたのか,各国とも被害の情況を隠し,アメリカ以外に正確な被害の記録は残っていない. 全世界で2000万~6000万人が死亡. 大戦による栄養状態の悪化が,流行に拍車を掛けた公算が高く,この事が大戦末期に両陣営で蔓延した厭戦気分に影響した可能性は高い. オスマン帝国はなぜ同盟国側に参戦したの? 汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するため、同様にスラブ主義と対抗していたドイツと友好関係にあったから。 第一次世界大戦では毒ガスも戦車も飛行機も決定打となっていないそうですが,それなら何が決め手となって勝敗が決まったのでしょうか? 武器弾薬の製造能力,人員の動員数,それらを動かすインフラ,資本力と言った総合的な国力,その全てが世界最強であったアメリカが参戦したから連合国側が勝利しました. 厳密には無制限潜水艦作戦に怒ったアメリカが参戦した際に, 「アメリカが本格的に参戦したら絶対負ける →なら今の内に勝負を決めないとマズイ」 と言った感じで,焦ったドイツが攻勢を仕掛けて失敗してしまったのが,決定的な敗因となっています. この敗北で,攻勢前はほぼ互角だった兵力差が一気に逆転してしまった為,銃後の反乱を含めて一気に前線が瓦解していしまいました. 第一次世界大戦において,極一部の例外を除いけば攻勢を仕掛けた側が負けると言う構図が展開されていますので,その不文律を犯さざるを得ない状況に追い込まれた時点で,ドイツの敗北は決定付けられていました. (ue◆WomMV0C2P in 軍事板) 何故,日本帝国は第一次大戦で,欧州に大兵力を派遣しなかったのでしょうか? まず,ドイツと日本との関係.日独関係はその当時もかなり友好的な関係にありました.このため,出来る限りドイツと事を構えたくないと言う考えが働いています. また,欧州に兵力を送るとなると非常に費用がかかること,食体系が欧州のそれとはまるで違うので,その補給が問題となること,それに日本としては,欧州列強のいない間に中国大陸に出て,米国の利益とぶつからないように,揚子江に至る華北の諸権益を確保しようとしていたので,欧州に兵力を回す余裕が無かったこと. ロシアとの間で1916年に日露秘密条約を締結し,中国防衛に関して日本とロシアは共同で防衛の義務を負ったこと. また,幼児期とはいえ産業界でも,欧州の戦争で活況を呈していましたので,欧州に向けるような兵力調達状況(産業界でも労働力を必要とする)に無かったこともあります. (眠い人 ◆gQikaJHtf2) 詳しくは, 「第一次世界大戦と日本海軍 外交と軍事との連接」 平間洋一 慶應義塾大学出版会 をおすすめします.タイトルには「海軍」とありますが,政府首脳や陸軍の動きにも触れているし. 日本が第1次大戦のロシア軍に武器を輸出していたのは本当ですか? 日露戦争後から二月革命まで,日本とロシアは満州利権を北満,南満と住み分け,英米の満州進出に対抗する為,1907年の日露秘密協定を結び,仲良くパイを分け合うほどの仲です. この協定は数々の追加事項を増やし,1916年までに4回,結ばれています. 梅本弘著「雪中の奇跡」(大日本絵画)の中で,フィンランドで売られている三八式歩兵銃が紹介されていますが,それも対露輸出の名残です. そういえば,三八式歩兵銃用の銃弾を使用するフェデロフ自動小銃なんてのもありましたね. シベリア出兵は日本にとって失敗に終わりましたが,このシベリア出兵の日本側勝利条件といいますか,日本側が目標としていた戦の終わり方とはどのようなものだったのでしょうか? まずは,白衛軍の勝利です. 次いで,白衛軍の残党が打ち立てた,極東共和国と沿海州共和国の独立維持と,駐兵権,各種利権の維持(一種の満州化). それが叶わなくなると,ポーツマス条約のソ連の承認による,日本側勢力圏の認定と,北部サハリン油田からの石油安定供給になっていきます. (眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本統治下の南洋群島について,統治内容等を知りたいのですが,ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授ください. 南洋群島は,Versailles条約で日本の国際連盟C式委任統治区域となりました. これは,土着人民の利益の為に一定の保証を与えることが要件となりますが,受任国領土の構成部分として,その国法の下に施政を行なうものです. 但し,地域の詳細情報,施政諸般の措置は国際連盟理事会に報告する義務があります(これは,日本の連盟脱退後も継続されています.) 1922年の勅令第107号南洋庁官制により,パラオ諸島コロール島に南洋庁を設置,南洋庁長官は,一般行政は拓務大臣の指揮監督を受け,他に一部の行政に関しては逓信,大蔵,商工の各大臣の監督を受けます. 1942年,拓務省廃止の後は,大東亜省所管となります. 南洋庁の組織としては,最初は課制でしたが,後に内務部,経済部,交通部,そして各島に支庁を設置,大きな島には法院を置いています. 支庁は警察を兼ね,法院の無い島であれば,民事裁判を行うほか,軽微な刑事事件も即決裁判を開催します. 法院は1922年の勅令第133号南洋群島裁判令によって設置され,高等法院,地方法院の二審制となっています. 教育は内地人については,内地と同様とし,島民に対しては,初等教育機関として本科三年,補習科二年の公学校を設置します. 授業の半分は日本語の習得に充てられましたが,五年でも平仮名が書ける程度でした. 自治体は1931年に,南洋庁令第七号南洋群島部落規定により,部落と言う自治体が置かれ,総代を長官が任命し,総代の諮問機関として,協議会を置きます. 協議会員は,独立の生計を営む25歳以上の男子からの完全普通公選制です(但し,選挙民は内地人のみ). 島民に対しては,1922年の南洋庁令第三四号南洋群島島民村吏規程により,島民を村吏に任命,カナカ族は総村長,村長,チャロモ族は区長,助役を設置しています. 1938年には勅令第224号南洋群島地方費令が公布,南洋群島は一つの自治体となりますが,諮問機関,議決権は設けられていません. (眠い人 ◆gQikaJHtf2)