約 20,990 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/96.html
「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載6回目 赤松大尉の言葉 赤松大尉の命令または暗黙の許可がなければ、手りゅう弾は住民の手に渡らなかったと考えるのが妥当である。それ以外のことは考えられない。 曽野綾子氏は軍隊の組織を知らないから単純に赤松の言葉を信ずるのである。軍の指揮官は、武器の所在と実数を確実に掌握していなければならない。武器の取り扱いについては、指揮官の命令(注:原文傍点)が絶対に必要である。防衛隊員が、指揮官の命令がないのに勝手に武器を処分することは絶対に許されない行為である。それがわかったら、それこそ大変なことになる。敵前歩哨が居眠りをするだけで、死刑、ときめられている陸軍刑法のなかで、軍の生命である武器を指揮官の命令なくして処分することが何を意味するか、容易に理解できることである。防衛隊員を通じて手りゅう弾が住民に渡された事実を、赤松が知らなかったはずはない。「知らなかった」とは白々しい言葉である。 あの状況の中で、住民の手に手りゅう弾が渡ったことは、なにを意味するか。「死」を目前にしての手りゅう弾は、心理的に「死」を誘発する「物」だったのである。それに、手りゅう弾は、住民が求めたものでなく、あたえられた(注:原文傍点)「物」だった。 追加された手榴弾 そして、そのあたえられた数にも問題がある。渡嘉敷島の集団自決者の数は、『鉄の暴風』では三百三十六人、沖縄タイムス社刊の沖縄大百科事典では三百二十九人となっている。だが、曽野氏は、その数を非常に少なく見積もろうとしている。そのため地形を説明したり、わずかの自決者しか目撃しなかったという兵隊の証言を引き合いに出す。二十人や三十人の自決なら手りゅう弾は四発か五発あればよい。何百人も自決したはずがないと曽野氏は疑っているが、住民に渡された手りゅう弾は五十二発である。一発の手りゅう弾が十人の自決用としても、この数は数百人分に当たる。 しかも、手りゅう弾の渡され方にも問題がある。自決用として住民に渡された手りゅう弾は、最初、三十二発だったが、さらに、二十発増加されたという。この「追加」は何を意味するか。最初の三十二発では足らないということで追加されたという。「足りない」と判断したのはだれかということになる。個々の防衛隊員が任意に判断したのか。個々の防衛隊員が勝手に渡すなら、まず、自分用の一個か、多くて二個である。防衛隊員が勝手に渡したのであれば、住民に渡された手りゅう弾全部の実数を個々の防衛隊員が知るはずがない。したがって、三十二発では足りないと判断したのは防衛隊員ではないはずだ。 ある統一した意志 防衛隊員が軍の掌握下から完全に離れておれば、個々任意に渡したとも考えられるが、あのとき防衛隊員は軍の完全な掌握下にあったのである。集団自決の時期は、米軍上陸の直後であり、小さい島では軍の統制から全く離れることはできなかった。防衛隊員は軍に強くひきつけられていたのだ。防衛隊員が勝手に手りゅう弾を住民に渡したなどとは考えられない。また、集団自決直前、住民は、赤松の陣地付近に集合させられている。住民が勝手に集まってきたのだと赤松は説明しているが、当時の状況から考えてありえないことである。十数人の住民が偶然、その陣地付近にやってきたというなら、そういうこともありうるかもしれないが、この場合は、何百人という住民が、それぞれのかくれていた場所から出てきて集合しているのである。任意に集まるはずがない。かり出されたのである。 集団自決の直前に、住民の集結という事実があった。ある統一した意志が働かなければ、あの状況の中で、軍陣地に多くの住民が集結することはおこりえない。集団自決は、この「住民集結」という状況によって準備されたのである。 米軍上陸、赤松隊の陣地への住民の集結、そして手りゅう弾が住民の手に渡り、その直後、集団自決がおこった。これら一連の事実関係は見逃すことができない。 陣地付近への住民集結には、ある強い意志が働いていたと私は判断する。 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/95.html
「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載5回目 『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録は、伝聞証拠によるもので、そのまま信ずることはできないという前提で、『ある神話の背景』は、集団自決の問題をもち出す。 渡嘉敷島住民の集団自決に関し、赤松大尉は命令を下したおぼえはないという。この“赤松証言”に曽野綾子は重点を置いている。しかし、その言葉の信憑(ぴょう)性をどう検証できるだろうか。もし、これが検証できないとすれば、『鉄の暴風』の記述を崩す根拠とはならないわけだが、『ある神話の背景』で、「赤松証言」の客観的真実性が証明されてはいない。たとえ赤松の命令があったとしても、赤松本人が「私が命令した」というはずはないのである。自分に不利な証言となるからである。命令は、あったとしても、おそらく口頭命令であったはずで、そうであれば、「命令された」「いや、命令しなかった」と、結局は水掛け論に終わるだけである。 共犯者の立場 この命令説の真相を知っていると思われる人物が二人いる。一人は、赤松の副官であった知念少尉であり、一人は赤松と住民の間に立って連絡係の役目をつとめた駐在巡査安里喜順氏である。この二人とも、『ある神話の背景』のなかで真相を語っているとは思えない。知念は赤松と共犯者の立場にあり、安里は自決命令を伝えたなどとは言い難いので、「自決命令」を否定するほうが有利なのである。 集団自決命令の有無をうんぬんする場合、物的な状況証拠となるのが、あのとき住民の手にわたった手りゅう弾で、それがなぜ住民の手に渡ったかということが問題である。『ある神話の背景』によると、手りゅう弾が住民の手に渡ったのは、防衛隊員が勝手に渡したのであって、「自分はあずかり知らぬ」といったような赤松の談話を載せてあるが、手りゅう弾は、戦力を構成する重要な兵器の一つであって、その取り扱いについては軍の指揮官が責任を負うべきものである。手りゅう弾が住民に渡されて、その手りゅう弾で、住民は集団自決を行っているのだ。その手りゅう弾は、住民の集団自決を結果するような状況をつくり出しているのだ。 武器管理の常識 昭和二十年三月二十五日、米艦船は慶良間列島に激しい砲撃を加え、翌二十六日、米軍の一部が渡嘉敷島に上陸、二十八日に集団自決が行われている。最初、陣地の近くに集まった住民たちが、陣地近くの恩納河原に追いやられたとき、米軍の迫撃砲の攻撃をうけて、住民たちは死と隣り合わせの状況にあったことは確かだが、それだけが集団自決を誘発したとは思えない。それを誘発したのは手りゅう弾である。切迫した状況のなかで、手りゅう弾五十二発が住民に渡されたのだが、そのことがいちばん重要な意味をもっている。 これだけの手りゅう弾は、装備劣悪な赤松隊にとって、かなりの比重をもつ火力であったはずである。赤松元大尉は、手りゅう弾は、防衛隊員が勝手に住民に渡したのであって、自分は知らぬと言っていたようだが、防衛隊員が、どういう理由で、自分の意思で、同じ島の住民である非戦闘員に手りゅう弾を渡すのか、その動機や理由が理解できないし、防衛隊員も、また、大切な武器である手りゅう弾を上官の許可なく他人に渡したりすると、軍規上、厳しい処罰を受けるおそれがあることを知らなかったはずはないのである。 武器の取り扱いについては防衛隊員も厳格な注意を受けていたはずで、軍隊の指揮官が武器の取り扱いについての注意もなしに武器をあたえることは考えられないのである。 手りゅう弾が、防衛隊員を通じて住民に渡されたことについては、軍の同意、許可、あるいは命令があったとしかおもえない。平時、ピストルの不当所持をさえ警察は血眼になって摘発する。敵前での手りゅう弾のもつ意味は、その比ではない。手りゅう弾は防衛隊員が勝手に渡したのだ、おれは知らぬ、と赤松が言ったとすれば、これは軍隊の常識からみて、まったくのでたらめとしか言いようがない。そんなはずはないのである。 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/99.html
「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載9回目 任務放棄に失望 赤松嘉次大尉の証言は信用しがたい。その一例をあげておく。赤松隊の任務は舟艇による特攻であった。だが、赤松隊は、渡嘉敷島に米軍が来攻したとき、みずから舟艇を破壊して、米艦船に対する特攻という本来の任務を放棄してしまった。 この任務放棄に関し、赤松は、慶良間巡視中の船舶隊長大町大佐の命令があったからだとしている。大町大佐は慶良間近海で戦死しているので死人に口なしである。大町大佐がわざわざ特攻中止を命ずるために慶良間巡視に出かけたとは思えないが、この出撃中止が軍司令部の意向ではなかったことだけはっきりしている。 沖縄守備第三十二軍の高級参謀であった八原博道大佐の手記『沖縄決戦』によると、慶良間の海上特攻に一縷の望みをかけていたことがわかる。「好機断固として海上に出撃すべきである。願わくば出撃してくれと祈る」云々の言葉がある(同書144ページ)。現地からの無線連絡で攻撃失敗がわかると、八原参謀は「意志が弱く、不屈不撓あくまで自己の任務目的を遂行せんとする頑張りが足りない」と慶良間の海上特攻隊に失望の色をみせている。 無電内容も疑問 たとえ大町大佐が出撃中止を命じたとしても、その場合、無電で、首里の軍司令部にその真相をたしかめる方法が赤松大尉には残されていた。慶良間群島に海上特攻を配置させたのは、高級参謀八原大佐だった。また、八原大佐は海上特攻の主任参謀でもあった。特攻の出撃中止が軍司令部の意志を無視しておこなわれたことは同大佐の著書で明らかである。 「出撃不可能」との軍司令部に対する慶良間現地からの無電内容にも疑問がはさまれる。出撃中止の時点で、赤松隊も舟艇も米軍の陸上攻撃をうけていないのである。出撃は、夜間に企画されたもので、米軍による夜間の陸上攻撃は考えられない。渡嘉敷島に対する米軍の攻撃が始まったのは三月二十五日未明、米軍の一部が渡嘉敷島に上陸したのは翌二十六日の未明、すると二十五日夜から翌日未明にかけての夜間は何をしていたのかということになる。赤松隊長が中止させたと『鉄の暴風』には記録されている。また、事実、わざわざ舟艇を自爆させるだけの余裕があったことがすべてを物語っている。ちなみに、沖縄本島周辺の他の海域では、随所で舟艇による果敢な海上特攻が実行されて戦果をあげている事実がある。慶良間の特攻隊の任務放棄はまったくの例外であった。 住民処刑の例 とにかく、赤松戦隊は、海上特攻という最重要の任務を放棄したからには、軍司令部から見れば、戦略的にも戦術的にも無意味な存在となったのである。その後、この戦隊には、陸上戦闘による戦果がほとんどなく、米軍はなんの損害もうけなかった。赤松隊は無力な島の住民との間にいろいろなトラブルをひき起こしているだけである。 じつは、赤松が、集団自決を命令した、命令しなかったという事件よりも、住民処刑のほうがもっと問題である。集団自決下命問題は、赤松が下命しなかったといえば、それで不確定性をもつ性格のものだが、住民処刑は否定できない事実である。曽野氏は、不確定性をもつ集団自決を前面に出して、一種の煙幕を張り、そのあとで、否定できない事実である住民処刑については、軍の綱領や軍法などを持ち出して各種の弁護を試みているが、その弁護は別の事実によって支離滅裂となるのである。その事実とは、住民処刑と矛盾する兵隊に対する赤松の処置である。 住民処刑について、二、三の例をあげる。 伊江島出身の若い女性たちが米軍にたのまれて赤松の陣地に行き、降伏勧告文を取りついだために斬首の刑をうけている。また、終戦の日の八月十五日、米軍の投稿勧告分を陣地近くの木の枝に結んで帰ろうとした与那嶺徳と大城牛の二人が捕えられて殺された。しかし、おなじ降伏勧告でも相手が日本の軍人であった場合は、赤松大尉はちがった態度をとっている。『ある神話の背景』の121ページ、122ページをみればわかる。 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1778.html
目次 戻る 通2-020 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及ぴ理由 第2 事案の概要等 第2の3 前提事実及び争点 【原判決の引用】 (原)第3 争点及びこれに対する当事者の主張 (原)4 争点4(真実性の有無)について (1)被控訴人らの主張 第3の4(1)ウ 渡嘉敷島について (原)第3・4(1)ウ(ア) 自決命令を示す文献等 (判決本文p46~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 (原)第3・4(1)ウ(ア) 自決命令を示す文献等a 「鉄の暴風」(乙2) b 「戦闘概要」(乙10「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛睴編」所収)(a) (内容)* (b) (「戦争の様相」との関係)* c 「秘録 沖縄戦史」(乙4) d 「沖縄戦史」(乙5) e 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6) f 「秘録 沖縄戦記」(乙7) g 「沖縄県史 第8巻」(乙8) h 「沖縄県史第 10巻」(乙9) i 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(乙11「裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収) j 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(乙11『裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収) k 「朝日新聞記事(昭和63年6月16日付けタ刊)」(乙12) l 「渡嘉敷村史」(乙13) m 米軍の慶良間列島作戦報告書 n (小括)* a 「鉄の暴風」(乙2) 「鉄の暴風」には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は, 山城安次郎と宮平栄治以外の直接体義者からも取材しており, 太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」(甲B18)の記述は誤りである。太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり, 「鉄の暴風」は, 沖縄タイムス社が体験者を集め, その人たちの話を記録して文章化したものである。 b 「戦闘概要」(乙10「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛睴編」所収) (a) (内容)* 「戦闘概要」は, 当時の渡嘉敷村村長や役所職員,防衛隊長らの協力の下, 渡嘉敷村遺族会が編集したものである。 「戦闘概要」には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 (b) (「戦争の様相」との関係)* 「戦闘概要」と「渡嘉敷島における戦争の様相」(甲B23及び乙3, 以下「戦争の様相」という。)との関係についての原告ら主張は根拠のない憶測にすぎない。 「戦閾概要」と「戦争の様相」の順序については, 伊敷清太郎が詳細に分析しているとおり, 「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用語, 表現等)を直したと思われる箇所が見受けられること, 当時の村長の姪が「戦争の様相」では旧姓の古波蔵とされているのに対し「戦闘概要」では改姓後の米田とされていることなどから, 「戦争の様相」が先に書かれたものであり, これを補充したものが「戦闘概要」であると考えられる(乙25, 「『ある神話の背景』における『様相』と「概要』の成立順序について」)。 (引用者注)『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同参照 したがって, 「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたものであり, 「戦闘概要」に赤松大尉の自決命令が明記されたとみることができる。 c 「秘録 沖縄戦史」(乙4) 「秘録 沖縄戦史」には, 「三月二十七日-『住民は西山の軍陣地北方の盆地に集結せよ』との命令が赤松大尉から駐在巡査安里喜順を通じて発せられた。安全地帯は, もはや軍の壕陣地しかない。盆地に集合することは死線に身をさらすことになる。だが所詮軍命なのだ。」 「西山の軍陣地に辿りついてホッとするいとまもなく赤松大尉から『住民は陣地外に去れ』との命令をうけて三月二十八日午前十時頃, 泣くにも泣けない気持ちで北方の盆地に移動集結したのであった。」 との記述があり, その後には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙4・217,218頁)。 d 「沖縄戦史」(乙5) 「沖縄戦史」には, 「大尉は」「西山A高地に部隊を集結し, さらに住民もそこに集合するよう命令を発した。住民にとって, いまや赤松部隊は唯一無二の頼みであった。部隊の集結場所へ集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ, 西山A高地へ集合したのである。」 との記述があり, その後には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙5・48頁)。 e 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6) 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。 f 「秘録 沖縄戦記」(乙7) 「秘録沖縄戦記」には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。 g 「沖縄県史 第8巻」(乙8) 「沖縄県史 第8巻」には, 「昭和二十年(一九四四ママ:一九四五 )三月二十七日夕刻, 駐在巡査安里喜順を通じ,住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の陣地へ集合するよう命じられた。」 「赤松大尉は『住民は陣地外に立ち去れ』と命じアメリカ軍の迫撃砲弾の炸裂する中を,さらに北方盆地に移動集結しなけれぱならなかった。」 との記述があり, その後には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙8・410頁)。 h 「沖縄県史第 10巻」(乙9) 「沖縄県史 第10巻」には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙9・689, 690頁)。 i 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(乙11「裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収) 証人金城重明(以下「金城証人」という。)は, 家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時, 沖縄キリスト教短期大学学長であり, 戦争当時渡嘉敷島において, 自ら集団自決を体験した者である。 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙11・286ないし288頁)。 j 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(乙11『裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収) 安仁屋政昭は, 家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時は沖縄国際大学の歴史学の教授であり, 沖縄史料編集所に勤務した経歴を持ち, 渡嘉敷村史の編集にも携わった者である。 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙11・54,55,69頁)。 k 「朝日新聞記事(昭和63年6月16日付けタ刊)」(乙12) 「朝日新聞記事(昭和63年6月16日付け夕刊)」は, 渡嘉敷村役場の富山兵事主任の, 赤松大尉が指揮する日本軍の自決命令があった旨の供述を記載した新聞記事である。それには, 「 『島がやられる二, 三日前だったから, 恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ, と近くの国民学校にいた軍から命令が来た』。 自転車も通れない山道を四キロの阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年, とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて, 残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が, 定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだったろうか, と富山さんは回想する。 『中隊にいる, 俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ』 すでにない旧役場の見取り図を描きながら, 富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅ニメートルほどの道へ並んだ少年たちへ, 一人二個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。 『いいか, 敵に遭遇したら, 一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは, 残る一個で自決せよ』。 一兵たりとも捕虜になってはならない, と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに……。富山さんは, 証言をそうしめくくった。三月二十七日, 渡嘉敷島へ米軍上陸。富山さんの記憶では, 谷あいに掘られていた富山さんら数家族の洞穴へ, 島にただ一人いた駐在の比嘉(旧姓安里)喜順巡査(当時三○)が, 日本軍の陣地近くへ集結するよう軍命令を伝えに来た。『命令というより指示だった』とはいうものの, 今も本島に健在の元巡査はその『軍指示』を自分ができる限り伝えて回ったこと, 『指示』は場所を特定せず『日本軍陣地の近く』という形で, 赤松大尉から直接出たことなどを, 認めている。その夜, 豪雨と艦砲射撃下に住民は“軍指示"通り, 食糧, 衣類など洞穴に残し, 日本軍陣地に近い山中へ集まった。今は『玉砕場』と呼ばれるフィジ川という名の渓流ぞいの斜面である。“指示"は当然ながら命令として, 口伝えに阿波連へも届く。『集団自決』は, この渓流わきで, 翌二十八日午前に起きた。生存者の多くの証言によると, 渡嘉敷地区民の輪の中では, 次々に軍配布の手榴弾が爆発した。」 との記述がある。 l 「渡嘉敷村史」(乙13) 「渡嘉敷村史」は, 渡嘉敷村の公式な歴史書として, 平成2年3月31日,渡嘉敷村史編集委員会の編集により渡嘉敷村役場が発行したものである。そして, 「渡嘉敷村史」には, 渡嘉敷村役場の富山兵事主任による供述を主な内容とする次のような記載がある。すなわち, 「すでに米軍上陸前に, 村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり, 戦場においては, 軍の命令を住民に伝える童要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であつた新城真腹氏(戦後改姓して富山)は, 日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。 (1)一九四五年三月二○日, 赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し, 渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。新城真順氏は, 軍の指示に従って『一七歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。 (2)そのとき, 兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まっママ 二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ, 捕虜になるおそれのあるときは,残りの一発で自決せよ。〉 (3)三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日), 兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は, 住民を軍の西山陣地近くに集結させよ〉というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。 (4)三月二八日, 恩納河原の上流フィジガーで, 住民の〈集団死〉事件が起きた。このとき, 防衛隊員が手榴弾を持ちこみ, 住民の自殺を促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が, 住民の手に渡るということは, 本来ありえないことである。」 「渡嘉敷島においては, 赤松嘉次大尉が全権限を握り, 村の行政は軍の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」(乙1.3・197,198頁)。 m 米軍の慶良間列島作戦報告書 米軍の「慶良間列島作戦報告書」については, 前4(1)イ(ア)i記載のとおりである。 n (小括)* 以上の文献等からも, 渡嘉敷島の集団自決の経緯が次のとおりであることは明らかである。すなわち, 渡嘉敷島においては, 米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日, 赤松隊から伝令が来て, 富山兵事主任に対し, 住民を役場に集めるよう命令した。富山兵事主任が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると, 兵器軍曹と呼ぱれていた下士官が, 部下に手榴弾を2箱持ってこさせ, 集まった20数名の住民に対し手榴弾を2個ずつ配り, 「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ, 捕虜になるおそれのあるときは残りの1発で自決せよ。」 と訓示した。 そして, 米軍が渡嘉敷島に上陸した昭和20年3月27日, 赤松大尉から兵事主任に対し 「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ。」 との命令が伝えられ, 安里喜順巡査(以下「安里巡査」という。)らにより, 集結命令が住民に伝えられた。さらに, 同日の夜, 住民が命令に従って, 各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり, 同月28日, 村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ, 軍の正規兵である防衛隊員が手榴弾を持ち込んで住民に配り, 集団自決が行われた。 渡嘉敷島において, 軍を統率する最高責任者は赤松大尉であり, 陣中日誌(甲B19)から明らかなように, 弾薬である手榴弾は, 軍の厳重な管理の下に置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松大尉の意思と関係なく, 手榴弾を配布し, 自決命令を発するなどということはあり得ないし, 証人皆本義博(以下「皆本証人」という。)も, 「軍の最高責任者である赤松隊長の了解なしに防衛隊員に手榴弾が交付されるはずはない」 旨証言している(皆本証人調書25頁)。したがって, 手榴弾配布の時点で, あらかじめ赤松大尉による自決命令があったのである。なお, この点について, 原告らは, 小峰園枝の 「義兄が, 防衛隊だつたけど, 隊長の目をぬすんで手榴弾を二個持つてきた」 との供述(甲B39・374頁)を挙げて反論するが, わずか1人の, しかも, 盗んだとされる者とは別の人間の供述にすぎないし, また, 盗んだとされる者は防衛隊員という手榴弾を正式に入手できる立場にあったから, 手榴弾が軍の厳軍な管理の下に置かれていなかったことの根拠とはならない。 赤松大尉が具体的にどのように自決命令を発したかは必ずしも明確でないが, 前記第3・4(1)のとおり, 軍は, 住民に対し, 軍官民共生共死の一体化の方針のもと, いざというときには捕虜となることなく玉砕するようあらかじめ指示していたから, この点からも, 軍の自決命令すなわち赤松大尉の自決命令があったことは明らかである。 目次 戻る 通2-020 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1115.html
通038 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第3 争点及びこれに対する当事者の主張 第3・4 争点4(真実性の有無)について 第3・4(2)原告らの主張 第3・4(2)エ 渡嘉敷島について 第3・4(2)エ(ウ) 文献に対する反論 第3・4(2)エ(ウ) 文献に対する反論a (文献間の関係)* b 「鉄の暴風」について c 「戦闘概要」について d 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について a (文献間の関係)* 渡嘉敷島における住民の集団自決が赤松大尉の命令によるとの記述は,「鉄の暴風」(乙2),「戦闘概要」(乙10),「戦争の様相」(乙3,但し,これには赤松大尉の自決命令それ自体の記載はない。)に記載され,その後に出版された「秘録 沖縄戦史」(乙4),「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6),「沖縄県史 第8巻」(乙8)の記載は,「鉄の暴風」等を下敷きにして記載された。 b 「鉄の暴風」について 「鉄の暴風」の記述は,原告梅澤を不明死扱いにした初版の記述(甲B6)や,沖縄タイムス社自ら調査不足を認めていること(甲B10)から,風聞に基づくものが多く信頼性に乏しい。 また,渡嘉敷島の集団自決の真相について調査した曽野綾子の「ある神話の背景」(甲B18)によれば,「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は、自らは渡嘉敷島に行かず,座間味村の助役であった山城安次郎と戦後南方から復員した宮平栄治を取材しただけであった。この2人はどちらも渡嘉敷島の集団自決を直接体験した者ではない。 さらに,「鉄の暴風」には,その記途に本質的な誤りがある。「鉄の暴風」は,米軍の渡嘉敷島への上陸を3月26日午前6時ころとするが,防衛庁防衛研修所戦史室の「沖縄方面陸軍作戦」によれば,3月27日午前9時8分から43分とされている。米軍上陸という決定的に重大な事実が間違って記載され,その後に作成された「戦闘概要」や「戦争の様相」においても,米軍上陸が3月26日と誤って引用されている。※ ※沖縄第32軍や大本営自身が米軍上陸日時を誤報している。壕の中にこもっていた住人の証言が「26日上陸」であっても不思議ではない。「沖縄方面陸軍作戦」(昭和43年)の上陸日時「3月27日午前9時8分から43分」は後々の米軍資料に拠っている。米軍資料の公開は「鉄の暴風」公刊よりずっと後のことである。 ※ 「三月二六日 ---- 午前八時三〇分、本部との交信で、「本日八時五分ヨリ、慶良間列島へ熾烈ナル艦砲射撃支援ノモト一、優勢ナル敵ノ先遣部隊ガ上陸ヲ開始セリ。所在ノ我ガ部隊ハ、直チニコレヲ邀撃(ようげき)敢闘中ナリ」との電信が入った。ついに! との思いが、期せずして見合わす皆の面を走った。 なんといっても離島の小部隊である。われわれは乳井小隊はじめ友軍部隊を案じ、かつその健闘を念じた。 だが、午後二時に至って本部より、「慶良間列島守備隊トノ通信杜絶セリ」との絶望的な入電があった。分隊長以下、暗然として声もなかった。 」(野村正起 『沖縄戦負兵日記』) 米軍上陸という重大な事実を誤記するようでは戦史としての信頼性は全くなく,事実調査の杜撰さと併せて,「鉄の暴風」「戦闘概要」「戦争の様相」が一様に信用できないことを示している。 また,「鉄の暴風」には「西山A高地に陣地を移した翌二十七日,地下壕内において将校会議を開いた」との記載があるものの,知念証人は,西山A高地に地下壕がなかったことや,同日に将校会議など開かれていないことを明確に証言しているのであって(知念証人調書6頁),この点でも「鉄の暴風」は信用性に乏しい。 c 「戦闘概要」について 「戦闘概要」は「戦争の様相」と前後の文章が全く同じであり,その内容が極めて酷似しているが,「戦闘概要」の「時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」との一文だけは,「戦争の様相」には記載されていない。「戦闘概要」は私的な文献であり,「戦争の様相」は公的な文献であるから,「戦闘概要」という私的文書では自決命令が記載されていたのが,「戦争の様相」という公的文書とする段階で削除されたことは明らかである。 d 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について 「慶良間列島作戦報告書」についての反論は,座間味島に関する主張と同旨である。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/100.html
「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載10回目 終戦直後、日本の中尉と下士官が赤松のところに降伏勧告にきている。しかも、下士官は米軍の服装をしていた。降伏勧告にきた住民がことごとく殺された事実からすれば、相手が軍人であれば、なおさら厳格に対処すべきである。だが、赤松は降伏勧告にきた二人の軍人をおとなしく帰している。 大城訓導は民間人 また、家族に会いに行ったというだけの理由による大城訓導の処刑がある。渡嘉敷国民学校の大城徳安訓導が、島内の別の場所にいた妻にこっそり会いに行ったという理由だけで、縄でしばられて陣地に連行され、斬首(ざんしゅ)されたのである。この事件について、曽野綾子氏は、大城訓導が「招集された正規兵」(曽野氏は、防衛隊員を正規兵と解釈している)だったことをあげて、赤松の処置が「民間人」に対するものでなく、軍律により軍人に対してとられた処置(処刑)で、不当ではなかったと弁護する。 防衛隊員が「正規の軍人」であったとする解釈には同意できないが、大城訓導は、正式な防衛隊員でもなかった。防衛召集は満十七歳以上、四十五歳までの男子が対象で、武器をあたえられず、飛行場建設や陣地構築に使役され、戦場では弾丸運び、まったくの補助兵力であった。召集の時期は、昭和十九年十月から十二月までと、昭和二十年一月から三月までの二回だが、この二回の防衛召集で大城訓導は召集を受けていない。 渡嘉敷国民学校の校長だった宇久眞成氏から私が直接きいた話によると、大城訓導は、当時、教頭であり、年齢も四十九歳、防衛召集年齢の上限(四十五歳)をこえていた。(小学校教員は、普通、防衛召集の対象からはずされていた)。その大城訓導を、赤松大尉が勝手に防衛隊員にしたらしい。これは、甚だしい越権行為であった。召集は国家行為であるからである。大城訓導は、殺されるまで「民間人」であったのだ。 赤松批判で私兵に なぜ、赤松は勝手に大城訓導を防衛隊員にしたのか、そのことについて、宇久氏は、大城訓導があからさまに赤松隊のやりかたを批判したことに原因があったのだと説明した。赤松批判が知れて強制的に赤松大尉個人の「私兵」とされたようである。大城訓導は、親子ほど年齢差のある若い兵隊たちから相当いじめられたらしく、苦役と精神的苦痛にたえられなかったが、妊娠中の妻(おなじく教員)のことが心配で、無断で妻に会いに行き、陣地を勝手に離れたとして殺されたのである。 戦争体験への暴挙 ところが、赤松隊から隊員である二人の兵隊が逃亡するという事件があった。このとき、部下の兵隊二人の逃亡を赤松は見逃している(『ある神話の背景』230ページ)。この兵隊逃亡に対して、赤松大尉は「去る者を追うのはよそう」と言った、というのである。部下の兵(身内)に対しては、なんという「寛大な処置」であろう。指揮官が部下兵の逃亡を見逃すのは「逃亡幇助」であって、軍律上、許せない行為である。兵隊の「敵前逃亡」は陸軍刑法では死刑である。 住民処刑は、たいてい「通敵のおそれがある」という理由によってなされている。住民をスパイ視していたわけだ。たとえ住民をスパイとして利用することにしても、敵である米軍よりも味方である赤松隊のほうが、言葉も通じるし、同国民でもあるという立場からみて、はるかに有利な条件を備えていたはずで、住民は、敵情をさぐらせるのに好都合で、その意味では、補助戦力に転化できたはずだが、それはあくまで赤松隊に敵攻撃の意志があった場合にかぎられる。その意志がなければ、住民は、逆に、陣地の所在を敵に通報するのではないかという危惧の対象にしかならない。赤松隊は、まさに、その危惧の目で住民を見ていたのである。 この事実は、赤松が攻撃の意志を全く失い、自己陣地の暴露と敵の攻撃だけを極度に恐れていたことを雄弁に物語っている。古波蔵樽(たる)という男が家族全員を失い、悲嘆にくれて山中をさまよっているところを、スパイの恐れがあると言って、高橋伍長が軍刀で斬殺したという事件もある。 沖縄戦に「神話」などというものはない。沖縄戦は今日的な出来事であるし、沖縄にいたすべての住民が自分の目で見て体験したことである。『鉄の暴風』は、まさにこの体験の記録である。曽野氏の『ある神話の背景』は、沖縄住民の戦争体験の重さを甘くみた暴挙であり、とくに住民処刑についての全面的な赤松弁護はまったく軽率である。 (おわり) 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/109.html
「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(4) 侮辱した言葉 曽野綾子さんは、さる五月三日の本紙面で、「太田氏という人は分裂症なのだろうか」と書いてある。しかも、そう思わせる文脈の中で、そう書いてあるのである。これは、たんに言論の自由のワクをふみはずしたという程度では、すまされない言葉である。論争の相手に、そういう言葉を投げるのは、品がよくないだけでなく、読者公衆の面前で、相手を侮辱し、相手の名誉を毀損したことになる。しかも、新聞に書かれたものは、いつまでも残るのである。私の近親者に「綾子」という名の娘がいる。その母親の話によると、「曽野綾子さんにあやかってつけた名前」らしい。その娘は、いま、東京の両国高校(旧府立三中)の三年生である。私の身近にも、曽野さんのファンがいたわけだ。言葉はつつしむべきである。 知念少尉について、「鉄の暴風」では、同情的なことを書いた私が、こんどの反論では、おなじ知念少尉を「赤松の共犯者」と、きめつけている。これは矛盾ではないかというのが、曽野さんの攻撃点である。あの侮辱的な言葉もそこから出ている。一見、矛盾に見える私の記述も、以下の理由で、なにも矛盾ではないことがわかる。 「鉄の暴風」の中で、私が知念少尉について同情的なことを書いたのは、つぎのような事情からである。渡嘉敷島の直接体験者たち(古波蔵元村長一人だけではない。たしか十数名)の話を聞きながら、沖縄出身の知念少尉は、軍と住民の間にはさまれて、苦しかったのではないか、とふと思った。そこで、そのことを質問してみた。すると「そう言えば、知念さんが、そういうことで悩んでいたような話を聞いたことがある」といった意味のことを、証言者の一人が言ったので、「鉄の暴風」のなかの、あの表現となったのである。あとで、二十数年もたってから、「ある神話の背景」のなかで、知念少尉が、伊江島の女性を斬ったという動かしがたい事実を知った。そこで、昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで、琉球新報朝刊に連載した「渡嘉敷島の惨劇は果して神話か」と題する、曽野さんへの反論の中で、つぎのように注記しておいた。 すべて過去的か 〈「鉄の暴風」で私として訂正しておきたい点がある。沖縄出身の知念少尉が上官と住民の板ばさみで悩んだように書いたが、事実に反する。知念少尉は伊江島の女性を殺害している。彼をして同郷人を斬らしめるほどの異常な空気が赤松隊にあったのがわかる。〉 琉球新報にのせた私のその反論は、歯科医の平良進氏(故人)から手渡されて、曽野さんは読んでいるはずだ。私の言動のどこに「分裂症」うんぬんといわれるほどの矛盾があるだろうか。また、「鉄の暴風」のなかの渡嘉敷島の戦記は改訂の必要がないと、私が言ったのは、「住民玉砕」や「住民処刑」など重要事項に関してのことで、あの戦記が、細部まで完ぺきだと思っているわけではない。 ――曽野さんにつぎのことを聞きたい。 ▼曽野さんが言うように、「エチオピアでトラコーマや結膜炎の患者に目薬をさしてやる」ことは、「死にかけている人々に命を与えるために働いている人々のことを、世間に知らせる」ことが、尊いことであることは、私も知っている。だからと言って、渡嘉敷島で、沖縄の住民たちが同じ国の軍隊によって、死に追いやられ、屠殺されたことについて、論議することが、どうして「とるに足りない小さなこと」なのか。 ▼四十年前の第二次大戦を、いつまでも語り継ぐだけでもあるまい、と曽野さんは言う。また、そうすることを「回顧」と見ているようだ。広島や長崎の原爆被害を語るのも、そうなのか。すべて、それらのことは“過去的”であって、現在的、未来的ではないというのか。 反戦平和とは ▼曽野さんは言う。「反戦が、抗議と反対運動に集約されていた時代はもう古い」「反戦や平和というものは口で言うものではなく…」うんぬん。 ヨーロッパやアメリカその他の反核反戦運動の抗議や叫びについても、そう言えるのか。 ▼赤松だけが悪いとは言わない。沖縄戦では、各地で日本兵による住民虐殺、その他の犯罪行為があった。住民の食糧をうばったあと、百人近い、それら住民を殺害した例、ある若い女性を兵隊や住民の見ている前で、じつにむごたらしい方法で殺した例など、おびただしい数の事件がある。これらを集めると、「沖縄戦における日本兵犯罪行為の記録集」という一冊の分厚い本ができ上がるだろう。 それらの諸事実をふまえて、沖縄の住民は、渡嘉敷島の事件も見ている。曽野さんが赤松隊のやったことを弁護することは、赤松隊に殺された人たちを、こんどは、曽野さんのペンで、二重に殺すことになる。 ▼「私が赤松氏をかばう理由は何もない」と曽野さんは言う。では、「ある神話の背景」では、なにをかばっているのか。なんのために、その本は書かれたのか。 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1376.html
http //blog.zaq.ne.jp/osjes/article/62/ http //nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=2836 forum=1 viewmode=flat order=ASC start=2010 控訴人準備書面(3) 平成20年(ネ)第1226号出版差止等請求控訴事件 (原審大阪地方裁判所平成17年(ワ)第7696号) 控訴人:梅澤裕、赤松秀一 被控訴人:株式会社岩波書店、大江健三郎 控訴人準備書面(3) 平成20年9月9日 大阪高等裁判所第4民事部ハ係御中 控訴人ら訴訟代理人 弁護士:松本藤一 弁護士:徳永信一 弁護士:岩原義則 弁護士:大村昌史 弁護士:木地晴子 弁護士:中村正彦 弁護士:高池勝彦 弁護士:本多重夫 [他、26名略] 目次 控訴人準備書面(3)第1立証された《赤松命令》の虚偽性1.沖縄における『ある神話の背景』の評価と影響 2.『鉄の暴風』の資料的価値再考 3.『沖縄県史第10巻』と『太平洋戦争』から削除された《赤松命令説》 4.事前の手榴弾交付と《赤松命令》との決定的な違い 5.結論の再確認 第2本件訴訟の目的について1.控訴人らの真意 2.命令説の果たした役割 第1立証された《赤松命令》の虚偽性 1.沖縄における『ある神話の背景』の評価と影響 曽野綾子著『ある神話の背景』は、出版直後から沖縄においても高い評価がなされ、沖縄の良心的な言論人に強い反省をもたらした。 小林よしのり編著『誇りある沖縄へ』(甲B139)の中で、宮城能彦沖縄大学教授は『ある神話の背景』が出版された昭和48年当時の、同書に対する地元沖縄の言論空間での評価の高さを指摘している。 当時琉球大学の助教授であった岡本恵徳は、昭和48年6月8日付『沖縄タイムス』において、『ある神話の背景』につき、「あたう限りの時間と労力を注ぎ込み、現存する資料や、渡嘉敷島の生存者、さらに自決命令を下したと伝えられる赤松嘉次氏やその部下、また赤松氏の責任を追求する人達にまで幅広く接触して、真相を追求しようとする著者の姿勢には迫力さえ感じさせるものがあった」とし、「視線はあくまで冷静で文章も理性的に抑制されており、その点でかなり説得力のあるものとなっている」 と評価したうえで、「結論では注意深く断定は避けてはいるものの、赤松元大尉が自決命令を下した可能性のないことを浮き上がらせており、このような惨劇のなかでの人間のありかた、そのような人間のありかたに対する人間の責任追及ということのもつ意味を奥深い所で問いかけているのである」と正しく分析している(甲B135)。 更に、昭和48年6月10日付沖縄タイムスでは、「何故、沖縄の圧倒的に多数の人々が、事実を確かめようとすることなく、赤松元大尉が命令を下したと信じたのかということは、赤松元大尉の責任の問題とは別種のことがらであろう。そのような“信仰”が成立した背景には、沖縄の本島の戦争の体験のなかで同種の事件が広範に存在したからであり、そのことが、事実を確かめるまでもないことだという判断を生んだに違いない」(甲B136)と推測している。 そこで岡本は、集団自決における命令の有無にかかわりなく、軍が責任を免れ得ないことを論じようとしているが、そのことは、『沖縄ノート』が論評の前提としている《赤松命令》の真偽とは別次元の議論であり、「別種のことがら」である。あくまでも、岡本は、当時信じられてきた《赤松命令》が事実を確かめることなく成立した虚偽の信仰であることを認めているのである。 沖縄の作家である星雅彦は、同年6月13日付沖縄タイムス紙上において、『ある神話の背景』について、「ともかく曽野綾子の切れ味はみごとというべきである。多くの沖縄戦記の集団自決をあつかった章が、まちがいであったことを、一網打尽のごとく、立証したのだから。それは沖縄問題のあらたな転機を予見させるかのごとく、前代未聞である」と評価している(甲B137、甲B139p183)。 地方公務員のいれいたかしは同年6月20日付沖縄タイムス紙上で、「著者は、集団自決に果たして赤松命令があったかどうかを執拗に追い続ける。もちろんそれはあるはずがない」と述べている(甲B138、甲B139p183)。 これらは要するに、『ある神話の背景』が出版された昭和48年当時、沖縄の言論空間においても、『鉄の暴風』で描かれ、『沖縄ノート』で事実として引用されるに至った《隊長命令》の有無という事実問題については、「こうした軍命はなかった」という見解が一般化していたことを示すものである(同p184、5~7行目)。 2.『鉄の暴風』の資料的価値再考 宮城教授は、『鉄の暴風』の執筆者の1人である太田良博が、「自分は誰から取材したか覚えていない」と述べていることについて、「ハッキリ言って、誰から話を聞いたか記録をとっていないということは、新聞記者に限らず私たち聞き取り調査をする人間にとっては致命的なことであり、そういう証言はもはや資料的価値がない。使えないはずなんです。聞き取り調査というものは、話者の名前や職業、社会的地位だけでなく、経歴その他、そして、誰がどんな状況でどんな訊き方をしたのかまでが問われる。もちろん、そこまで記事に書くわけではないのですが、裏付けとしてそういう記録は何より大切なはず。それを、開き直って堂々と『忘れた』とか記録がないとか言える神経が私には全くわからない」と酷評している(甲B139p186)。 研究者の種稲秀司も、宮城教授と同様の見解を述べている(甲B141)。「『鉄の暴風』は、証言者たる住民の氏名が記載されていないため情報源が不明であり、証言の真偽についてウラのとりようがない。曽野綾子氏によると沖縄タイムス社から依頼されて執筆者となった太田良博氏が、渡嘉敷・座間味両島の集団自決を書く際に、山城安次郎・宮平栄治の両氏から証言を得た。しかし、宮平氏は当時南方に出征中であり、山城氏は座間味島にいた。この二人の「伝聞」が集団自決の証拠として固定された(『ある神話の背景』)。太田氏自身は、後年、渡嘉敷・座間味両島の記述は住民側の証言をそのまま信じたもので、梅澤戦隊長が死亡したとの誤記もこれによるもの、と語っている(『太田良博著作集』第三・五巻)。つまり、住民の証言が正しいか否か、十分な検証をしていなかったのである。」(甲B141p26上段最後から6行目~)。 「歴史史料としての価値判断に欠かせないことの一つが、史料における誤記の有無であるが、『鉄の暴風』は、①米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日を3月26日と間違っており、?座間味島の日本軍は最終的に『全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの2人と不明の死を遂げたことが判明した』とあるが、梅澤氏は健在であり、『全員投降』の事実もない(座間味島の部隊の損害は大きく、戦死者は210数名に上った)」(甲B141p26 下段最後から2行目~p27の対照表)。 原判決が事実認定において資料的価値を有するとして重視した『鉄の暴風』に 歴史を検証する資料的価値のないことは余りにも明らかである。 3.『沖縄県史第10巻』と『太平洋戦争』から削除された《赤松命令説》 少なくとも渡嘉敷島においては、《赤松命令説》、即ち、『鉄の暴風』が描き、これを下敷きにした上地一史著『沖縄戦史』に記述され、これを『沖縄ノート』が事実として引用した「日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令」(甲A3p69)の事実がないことは、沖縄における歴史研究においても定着し、昭和59年3月に発行された『沖縄県史第10巻』(乙9)においては、従来の立場がはっきり見直され、それまであった「渡嘉敷島でいよいよ敵の攻撃が熾烈になったころ、赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」という《赤松命令》は削除され、係争中だった家永教科書訴訟において集団自決が軍の命令に基づくものだとして争っていた家永三郎も、昭和61年9月に発行された『太平洋戦争』(第2版)において初版本の立場(甲B7p213)を変更し、《赤松命令》を同書から削除したことは(甲A1p300)、こうした歴史研究を踏まえたものであった。 4.事前の手榴弾交付と《赤松命令》との決定的な違い 昭和62年に出版された『渡嘉敷村史資料編』(甲B39)には、「自決の直接的な動機についても不明な点が多い。『生キテ虜囚ノ辱メヲウケズ』という皇民化教育のもとにあったとはいうものの、島の『日本軍指揮官や指導者層の命令あるいは何らかの示唆』が、自決の誘引になったことも数多く指摘されている」としているだけで、日本軍指揮官(赤松隊長)による命令についてはその内容が特定されず、「何らかの示唆」と同列に論じられており、しかもそれは自決の「誘因」となったとしてあげられているだけで、軍の命令がもっているはずの強制力については触れられていない(p365下段)。 ところで、『渡嘉敷村史資料編』には、「(渡嘉敷島では)すでに、上陸前に、村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が配られており、『いざという時』にはこれで自決するように指示されていたといわれるが、誰が『いまが自決の時だ』と判断し自決を指示したかは不明である」(p366下段)ともある。 ここで指摘しておきたいことは、『沖縄ノート』に書かれている《隊長命令》、即ち、「日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令」は、有無を言わさぬ強制であり、『いざという時』のため、米軍による暴行・虐殺を免れ、人としての尊厳を守るために手榴弾を渡して自決を示唆し、その誘因となったという類のものとは全然違うということである。『沖縄ノート』では、赤松隊長は、「およそ人間がなしうるものとは思えぬ決断」としての自決命令を発し、「余りに巨きな罪の巨塊」を犯したものと断定され、「屠殺者」と呼ばれ、「アイヒマンのように裁かれるべきだった」とされているのである。それは、何よりも部隊が生き延びるため、住民に犠牲を強いる非情の命令であった。そして、そこでの命令は、住民の意思を制圧するだけの強制力を伴うものであったと一般の読者は理解するのである。 『鉄の暴風』で描かれ、『沖縄戦史』で記述され、『沖縄ノート』に引用された軍隊の命令は、かかる非情の命令であり、?部隊が生き延びる目的のために、?住民の犠牲を、?強制するもののことである。 かかる非情かつ無慈悲な自決命令としての《赤松命令》が存在しなかったことは明らかであって、『いざという時』のための手榴弾の交付と自決の指示は、それとは全く別のものである。それは、集団自決という悲劇に対する赤松隊長の責任、あるいは軍の責任を問うことはできても、『沖縄ノート』に事実として引用された自決命令とは、重要な点において異なっているばかりか、赤松隊長に対する「罪の巨塊」や「屠殺者」や「アイヒマン」などといった一方的な人格非難を正当化できるものではないのである。 なお、米軍上陸前の「3月20日」に「村役場」に「17才以下の少年達を集め」、村の兵事主任を通じて軍が手榴弾を配布したという富山証言が極めて疑わしいものであることは、金城重明証言及び吉川勇助の陳述書から明らかになっており、このことは控訴理由書p108以下で詳しく述べたところである。 5.結論の再確認 事前の手榴弾交付を自決命令の根拠だとする被控訴人らの議論は、実態としては、「示唆」であり、「誘因」に止まるものを、強制力を伴う「命令」と強弁するものであった。集団自決の原因としては、米軍に対する恐怖、鬼畜米英の刷り込み、皇民化教育、戦陣訓、家族愛、部隊や兵士そして教員や村幹部からの『いざというとき』の自決の示唆というものがあったことは、これまで提出された証拠から明らかである。それらは、軍や赤松隊長の集団自決の「責任」を論じる根拠とはなっても、事実としての自決命令、即ち、?部隊が生き延びるために、?住民の犠牲を、?強制する「命令」ではない。 被控訴人らは、集団自決に関する軍の責任の有無という規範的評価に関する問題を、隊長からの発せられた自決命令の存否という事実の証明の問題とすり替えようとしているのである。 もはや『沖縄ノート』に事実として書かれた渡嘉敷島における《隊長命令》が事実でないことは明らかであり、その虚偽性は完全に立証されている。 第2本件訴訟の目的について 1.控訴人らの真意 被控訴人らは、本件訴訟が、控訴人らの自発的な意思によるものではなく、特定の歴史観に基づき歴史教科書を変えようとする政治運動の一環として行われていることが明らかであると非難するが、控訴人らが自らの意思で本件訴訟を提起し、出版差止等を求めていることは、彼らが法廷で述べたところからも明らかである。 また、控訴人梅澤が提訴前に『沖縄ノート』を通読していなかったことや、控訴人赤松が、これを飛ばし飛ばしで読んだことを取り上げて非難しているが、名誉毀損訴訟においては、名誉を毀損し、敬愛追慕の情を侵害する記述が存することの認識があれば十分であり、事前の通読を必要とするかのような被控訴人らの主張は全く理解しがたいところである (因みに、新聞記事や週刊誌による名誉毀損訴訟において、誹謗箇所とは関係のないテレビ欄や社説、別事件の記事を読んでいなくとも名誉毀損を問うことの障害にならないことと同じである)。 そもそも控訴人らの提訴の動機は、単なる自己の名誉や敬愛追慕の情の侵害に止まらず、権威をもって販売されている本件各書籍や教科書等の公の書物において、沖縄における集団自決が赤松隊長ないし控訴人梅澤が発した自決命令によって強制されたという虚偽の記載がなされていることに対する義憤であり、このまま放置することができないという使命感であった。そのことは、また、代理人らも月刊誌等において広く訴えてきたところである(乙116)。そしてその意味では、昨年の教科書検定を通じて教科書から「命令」や「強制」が完全に削除されたことは、勇気をもって提訴に及んだ訴訟の目的の一つを達したと評価できる事件であった。 世間の耳目を集める訴訟が個人の権利回復に止まらず、より大きな政治的目的を併有していることは珍しいことではない。著名な薬害エイズ訴訟や薬害肝炎訴訟もまた、原告本人に対する損害賠償という目的のほかに、被害者全員の救済(そこにはエイズ治療や肝炎治療に係る医療体制の充実や真相究明による再発防止も含まれていた。)という政治目的を掲げていたことはよく知られている。 被控訴人らによる前記主張は、控訴人らを冒涜するものであり、裁判所に予断と偏見を持ち込まんとするものである。証拠に基づく審理がなされるべき司法において持ち出すべきものではないだろう。 2.命令説の果たした役割 本件訴訟を通じて思うことは、集団自決の歴史を伝えていくうえで『命令』説が果たしてきた役割のことである。すでに論じてきたように、集団自決の原因は、島に対する無差別爆撃を実行した米軍に対する恐怖や鬼畜米英の思想、皇民化教育や戦陣訓、死ぬときは一緒にとの家族愛、そして防衛隊や兵士から『いざというとき』のために渡された手榴弾など様々の要因が絡んだものである。これを軍の命令としてくくってしまうことは過度の単純化、図式化であり、かえって歴史の実相から目をそらせるものである。 そもそも仮に、「住民は自決せよ」という軍の命令があったとしても、果たしてそれにやすやすと従って、愛する家族や子供を手榴弾やこん棒やカミソリで殺せるものであろうか。それは、現在に生きる一般人の想像を超えている。そこでの村民は、『沖縄ノート』に描かれているように、「若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者」であり、近代的自我や理性のかけらもない「『土民』のようなかれら」としてしか認識できないことになるのである。 それは日本がかつて経験したことのない地上戦としての沖縄戦において集団自決という悲劇を経験した沖縄県民の尊厳を貶めるものにほかならない。 集団自決の歴史を正しく伝えていくことの意味は、軍命令という図式ではなく、米軍が上陸する極限状況のなかで住民たちが、その時、何をどのように考え、どのような行動の果てに自決していったのかを伝えていくことにある。 そのことが本件訴訟の目的である。 以上 沖縄集団自決訴訟第2審
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1784.html
目次 戻る 通2-036 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第2 事案の概要等 第2の3 前提事実及び争点 【原判決の引用】 (原)第3 争点及びこれに対する当事者の主張 (原)4 争点4(真実性の有無)について (2)控訴人らの主張 第3・4(2)エ 渡嘉敷島について (原)第3・4(2)エ(ウ) 文献に対する反論 (判決本文p78~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 (原)第3・4(2)エ(ウ) 文献に対する反論a (文献間の関係)* b 「鉄の暴風」について c 「戦闘概要」について d 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について a (文献間の関係)* 渡嘉敷島における住民の集団自決が赤松大尉の命令によるとの記述は, 「鉄の暴風」(乙2), 「戦闘概要」(乙10), 「戦争の様相」(乙3, 但し,これには赤松大尉の自決命令それ自体の記載はない。)に記載され, その後に出版された「秘録 沖縄戦史」(乙4), 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6), 「沖縄県史 第8巻」(乙8)の記載は, 「鉄の暴風」等を下敷きにして記載された。 b 「鉄の暴風」について 「鉄の暴風」の記述は, 控訴人梅澤を不明死扱いにした初版の記述(甲B6)や, 沖縄タイムス社自ら調査不足を認めていること(甲B10)から, 風聞に基づくものが多く信頼性に乏しい。 また, 渡嘉敷島の集団自決の真相について調査した曽野綾子の「ある神話の背景」(甲B18)によれば, 「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は、 自らは渡嘉敷島に行かず, 座間味村の助役であった山城安次郎と戦後南方から復員した宮平栄治を取材しただけであった。この2人はどちらも渡嘉敷島の集団自決を直接体験した者ではない。 さらに, 「鉄の暴風」には, その記途に本質的な誤りがある。「鉄の暴風」は, 米軍の渡嘉敷島への上陸を3月26日午前6時ころとするが, 防衛庁防衛研修所戦史室の「沖縄方面陸軍作戦」によれば, 3月27日午前9時8分から43分とされている。米軍上陸という決定的に重大な事実が間違って記載され, その後に作成された「戦闘概要」や「戦争の様相」においても, 米軍上陸が3月26日と誤って引用されている。※ ※ 沖縄第32軍や大本営自身が米軍上陸日時を誤報している。壕の中にこもっていた住人の証言が「26日上陸」であっても不思議ではない。「沖縄方面陸軍作戦」(昭和43年)の上陸日時「3月27日午前9時8分から43分」は後々の米軍資料に拠っている。米軍資料の公開は「鉄の暴風」公刊よりずっと後のことである。 ※ 「三月二六日 ---- 午前八時三〇分、本部との交信で、「本日八時五分ヨリ、慶良間列島へ熾烈ナル艦砲射撃支援ノモト一、優勢ナル敵ノ先遣部隊ガ上陸ヲ開始セリ。所在ノ我ガ部隊ハ、直チニコレヲ邀撃(ようげき)敢闘中ナリ」との電信が入った。ついに! との思いが、期せずして見合わす皆の面を走った。 なんといっても離島の小部隊である。われわれは乳井小隊はじめ友軍部隊を案じ、かつその健闘を念じた。 だが、午後二時に至って本部より、「慶良間列島守備隊トノ通信杜絶セリ」との絶望的な入電があった。分隊長以下、暗然として声もなかった。 」(野村正起 『沖縄戦負兵日記』) ※ また、艦砲射撃を浴びて壕に篭っていた住民は三月二六日に米軍上陸したと思っていたことが、金城武徳氏の手記によって理解できる。(金城武徳『パイン缶詰は戦争の味』渡嘉敷村史所収の三月二六日の記述 米軍上陸という重大な事実を誤記するようでは戦史としての信頼性は全くなく, 事実調査の杜撰さと併せて, 「鉄の暴風」「戦闘概要」「戦争の様相」が一様に信用できないことを示している。 また, 「鉄の暴風」には「西山A高地に陣地を移した翌二十七日, 地下壕内において将校会議を開いた」との記載があるものの, 知念証人は, 西山A高地に地下壕がなかったことや, 同日に将校会議など開かれていないことを明確に証言しているのであって(知念証人調書6頁), この点でも「鉄の暴風」は信用性に乏しい。 c 「戦闘概要」について 「戦闘概要」は「戦争の様相」と前後の文章が全く同じであり, その内容が極めて酷似しているが, 「戦闘概要」の「時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」との一文だけは, 「戦争の様相」には記載されていない。「戦闘概要」は私的な文献であり, 「戦争の様相」は公的な文献であるから, 「戦闘概要」という私的文書では自決命令が記載されていたのが, 「戦争の様相」という公的文書とする段階で削除されたことは明らかである。 d 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について 「慶良間列島作戦報告書」についての反論は, 座間味島に関する主張と同旨である。 目次 戻る 通2-036 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/110.html
「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(5) 現在の世情を憂う 面倒だから簡略に答える。 ▼エチオピアその他の悲劇は、世界平和体制の中の局地的な悲劇である。悲劇が世界的に拡がったのが第二次大戦である。その最後の本格的地上戦闘があった沖縄で、物を考えるということは、大戦を二度とあらしめないための営みであるという意味で、今日的であり、未来的でもある。沖縄からも開発青年隊の若者たちがアフリカ各地で二年、三年と活し、彼と彼女たちは帰ってくると沖縄で静かに活している。一週間そこらのエチオピア体験で、いきなり、地球的視野から、沖縄戦が四十年過去のものとしてかすんだり、責任をもつべき自著をめぐる論議がとるに足らないものになったり、戦争賛成平和反対に反対する運動が無意味に見えたりするとは、どういうことか。現在のことなら、心配すべきは、日本の世情である。まるで末世の状態ではないか。何日か前に、京都だったか、アパートの一室で、若い母親と幼児がミイラ化したのが発見され、餓死とわかった。「ある神話の背景」の冒頭に「慶良間は見えるがマツゲは見えない」(遠くは見えても目の前は見えない)という沖縄の諺の引用があるが、その諺を思い出してほしい。 「鉄の暴風」の中で、「赤松氏が沖縄戦の極悪人、それもその罪科が明白な血も涙もない神話的な極悪人として描かれていた」と曽野さんは言うが、どこにそんなことが書かれているか。また、曽野さんが引用した私の文章のどこが、どういう理由で「講談」なのか意味がわからない。 赤松の言葉に矛盾 ▼私が会ったのは元村長古波蔵氏だけではない。そのことを前の反論に書いてある。あわてないで人の文章をよく読んで欲しい。元村長と言う重要証言者の名を、曽野さんと会ったときに私が憶い出さなかったのはおかしい、と曽野さんは言う。終戦直後の沖縄は、なにもかも転倒し、混乱していた。集った十数名の証言者の中で、特に「元村長」をくっきり記憶していなければならない特別の理由はなかった。私達取材者は、どの証言者も、その証言も、平等に重視していた。曽野さんと会ったのは、一時間そこら、その短かい時間に、二十数年経過した事柄について、いきなり聞かれたのである。これだけは、はっきり記憶しているべきはずだと言われても、それはムリな話。それに、私は物をよく忘れるくせがありましてな。取材を専業とする新聞記者の立場からみれば、曽野さんの言い分は、泣きベソのようにおもわれる。新聞記者は、取材でたえず失敗する。と言って、取材の相手を責めるわけにはいかない。取材の手落ちを反省するだけである。 ▼私が「赤松の言葉を信用しない」と言ったのは「住民玉砕」(集団自決)や「住民処刑」についての彼の言葉が信用できないとの限定した意味で使ったのであって、ほかのことで、赤松が、一市井人として正直なことを言おうが、それは私とは関係のないことである。「住民玉砕」や「住民処刑」についての赤松の言葉にはいろいろ矛盾がある。 的はずれの解釈 ▼赤松を「悪人とは思えない」と言ったおぼえはないと曽野さんは反論する。では、どう思って「ある神話の背景」を書いたのか。引用はさけるが、文芸春秋発行の同書の二十八ページ末尾から二十九ページの文章は、どういう意味か。--私が赤松を完ぺきな悪人に仕立てているというが的はずれの解釈である。私が問題にしているのは、当時二十五歳の青年だった赤松君(私より二歳若い)のことではない。陸軍大尉の官職をもち、国家権力を背景に、彼が無力な住民に対してとった行動そのものである。また、なにか木に生ったものを食べたといって老婆をリンチにかけたという、その部下たちの行為である。 ▼戦後二十何年もたって、曽野さんが取材した証言を、私が無視している、失礼ではないかという話だが、私はその証言を無視したおぼえはない。どの証言であれ信用すべきかどうかを判断するのは私の自由である。ただ、戦後四年、「鉄の暴風」に収録した、戦争の生々しい証言に信をおいているだけである。また、これからでも、私が取材したらどんな証言がとび出すかわからない。曽野さんは、ご自身の取材した証言に私が同意しないからと、それを失礼と言っているが、私に「分裂症」という言葉を投げたことは、失礼とは思っていないらしい。 ▼渡嘉敷島の村や遺族会が出した二つの記録は、いずれも、「鉄の暴風」のなかの私の文章の引き写しで、著作権侵害になる、盗作だと、曽野さんは言うが、私は、それを否定する。私の文章には、創作性がみとめられるほどのものはほとんどない。また、被害者で原告であるはずの当の私が、そういうのだから問題にならない。ご主人が長官である文化庁の著作権課あたりにきいたらよい。しかし、「ある神話の背景」はうかつに引用できまい。創作性ありとみとめられる部分が各ページのいたるところにあるからである。 目次へ | 次へ