約 20,991 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1266.html
「ある神話の背景」の研究 今日の訪問者 - 1968~1973を中心とする関係者経緯 1958 昭和33年の春ごろ。『週刊朝日』『サンデー毎日』 1961 曽野綾子、文芸春秋社の講演で今東光、中村光夫と共に沖縄行 1963.4号 『家の光』宮城初枝手記「沖縄戦最後の日」 1967.12 ※5曽野、仲宗根政善と三人の元師範生と会う 1968.1 防衛研修所戦史室『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』刊 渡嘉敷島赤松戦隊長、中村、富野、皆本中隊長の回想反映(引用文献に、「戦闘記録」赤松著(昭和21年1月浦賀復員時復員局に提出)はあるが『第3戦隊陣中日誌』はない) 1968.1.14 戦後23年目にはじめて開かれた「渡嘉敷島海上挺身(ママ)隊第三戦隊」の"同窓会" 1968.4.6号 ※1『週刊新潮』赤松氏談話(マスコミデビュー) 1968 4.8朝刊 ※2 『琉球新報』赤松氏緊急インタビュー 1968某月 ※6曽野、夫の三浦朱門と共に「ひめゆり小説化企画」でニューヨークのリーダース・ダイジェスト本社へ 1968某月 ※6曽野、リーダース・ダイジェスト社の企画を横取り講談社へ 1968夏 ※5曽野、『生贄の島』国内取材開始 1968.11 ※5※7べテラン記者4人と共に半月の沖縄取材 1969.4~7 曽野『生贄の島』「週刊現代」連載 ひめゆり部隊の愛と死 1969.7月号~ 「世界」、大江『沖縄ノート』連載 1970.3 曽野『生贄の島』講談社 初版 1970.3 赤松、渡嘉敷島での慰霊祭参加、阻止される 1970.6月号 「世界」、大江『沖縄ノート』最終12回、「罪の巨塊」という表現はこのとき 1970.8 「戦闘記録」赤松著(昭和21年1月浦賀に復員した時復員局に提出)を隊員の要請もあったのでタイプ印刷して配布 1970.8 曽野綾子、赤松・集団自決取材の為沖縄に入る(79年8月末発行の新沖縄文学)※3 1970.8 週刊朝日8月21日号「集団自決の島-沖縄・慶良間」中西昭雄。富山真順氏の案内で慶良間取材、「戦闘概要」の紹介など。また人物情報は網羅されている。 1970.9.17 曽野、週刊朝日中西記者の「引き合わせ」により大阪千日前「ホテルちくば」会合に出席。曽野は赤松と初の対面だという。谷本小次郎編著「第三戦隊陣中日誌」成立、配布 1970.9.21 大江『沖縄ノート』岩波新書初版 1971.4.10 曽野、豊田市での「赤松を囲む会」に出席 1971.4.28 沖縄戦通史「沖縄県史 第8巻」発行 琉球政府編集 1971. 沖縄戦証言上「沖縄県史 第9巻」発行 琉球政府編集 慶良間列島は第10巻(1974年刊) 1971.6月号 沖縄月刊誌『青い海』 赤松手記1 曽野の会合参加写真あり 1971.9 曽野『切りとられた時間』中央公論 初版 フィクション(この小説は、赤松と会ってから仕上げられたと思われる)※『切りとられた時間』抜粋。 赤松擁護の意思はあまり感じられない※4。 1971.9.25 「沖縄の証言(下)」中央公論発行 1971.10~1972.9 曽野『諸君』に「ある神話の背景」連載 1971.11月号 『潮』 赤松手記2 まるで「ある神話の背景」のシノプシス 1972.4.30号 サンデー毎日「渡嘉敷島住民・集団自決の真相」石田郁夫 1973.5 曽野『ある神話の背景』文芸春秋 初版 大江批判文はここで初めて挿入される 1974.3.31 沖縄戦証言下「沖縄県史 第10巻」発行 琉球政府編集 ※1 雑誌の先行発売は雑誌によって。 ※2 『8.8琉球新報』は「太田良博著作集Ⅲ」によるが、国会図書館マイクロフィルムで確認したら『4.8琉球新報』、週刊新潮の緊急フォロー記事で琉球新報記者が赤松商店を訪ねている。 ※3 阪神氏投稿http //d.hatena.ne.jp/yama31517/20081024による ※4 富村順一氏は、著書『隠された沖縄戦史』の中で、作品「切りとられた時間」によって赤松を擁護した曽野を、筆舌に尽くせぬ勢いで糾弾している。冨村氏は『ある神話の背景』と混同したか? ちなみに富村順一氏はいま中村粲氏「昭和史研究会会報」に寄稿している ※5 曽野綾子 『沖縄女性との記録 生贄の島』単行本のあとがき 文春文庫(1995.8.10)より http //keybow49okinawan.web.fc2.com/sono/ikenieatogaki.html ※6 沖縄との出会い 「特集●ヤマトの女性から見た沖縄」「新沖縄文学」42号(1979)より http //keybow49okinawan.web.fc2.com/sono/deai.html ※7 鈴木富夫「生贄の島」(文春文庫)への解説文 http //keybow49okinawan.web.fc2.com/suzukitomio/ikenie.kaisetu.html 赤松手記1:http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/840.html 赤松手記2:http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/767.html 「ある神話の背景」の研究 15年戦争資料庫
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/108.html
「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(3) 「限定した事柄」 曽野綾子さんの「お答え」に答えることにする。まず、曽野さんのジャーナリズム批判から始めよう。「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と私は書いたのである。この文章をよく読んでみたらわかる。この文章の分析はしないことにするが、私は、一つの条件を前提として、限定した事柄について言っているのである。新聞社があやまちをおかすことはないなどとは言っていない。 曽野さんは、この文章にとびついてきた。そして、世の主婦をバカにしたような文言をはさみながら、「太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある」と、見下したようなことを言う。「鉄の暴風」で、私の書いたものが、伝聞証拠によるものだ、と曽野さんが「ある神話の背景」のなかで言うから、そうではないと言っているにすぎないのだ。それだけのことが、どうして、「ジャーナリズムに対して、想像もできない甘い態度」ということになるのか、さっぱりわからない。 私の前述の文章を、別の言葉で、具体的に言えば、新聞は、記者が取材してきたものを、デスクという関門でチェックして編集されるが、その形式が、そのまま「鉄の暴風」の執筆や編集にも移されたということである。執筆が牧港氏と私、監修が豊平良顕氏(当時、常務)、つまり、牧港氏と私は先輩記者の豊平氏に対して、豊平氏は社に対して責任をもつ、つまり、一つの関門があって、私の勝手にはできなかったということである。 「鉄の暴風」は真実 ここでは、「鉄の暴風」が、曽野さんが言うように伝聞証拠で書かれたものか、そうでないかが重要な論争点である。「鉄の暴風」は伝聞証拠で書かれたものではない、直接体験者から聞いて書いたものだ、と私が言うと、こんどは、「新聞社の集めた直接体験者の証言なるものがあてになるか」と言い出す。子供が駄々をこねるようなことは言わないでほしい。おなじ直接体験者の証言でも、新聞社が集めたもの(「鉄の暴風」は信用できないが、自分が集めたもの(「ある神話の背景」)は信用できるのだ、と言っているのだろうか。 曽野さんは、新聞社がもち出す直接体験者の証言が、いかにアテにならないものかという引用例として、朝日新聞社の「誤報問題」なるものをもち出している。 「極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある」と、曽野さんは書いている。 毒ガス報道論議 そのことについて、私は、こう思う。朝日の写真を一目見ただけで、それが毒ガスでないことが分かったという「おおかたの戦争体験者」の証言そのものが、怪しい。彼らが、すぐ、毒ガスかどうかが分かるということは、日本軍がたえず毒ガスを使用していたということを意味する。毒ガスはジュネーブ条約で使用を禁止されており、使用したことが分かれば世界中の批難をうける。めったに使えない化学兵器である。戦場で毒ガスを実見したものは戦場体験者でもなかなかいないのではないか。一般兵が知っているのは防毒面の着けかたぐらいのものである。毒ガスというのは、相手が使えば、こちらも、といった“準備秘密兵器”だから、兵一般が毒ガスの知識を持っているわけではない。 特別に「ガス兵」としての訓練をうける者はたしかにいた。実は、何カ月か、私はその「ガス兵」の訓練をうけたことがある。その訓練は、相手からガス攻撃をうけたときの防御措置が主なる目的であった。ほとんど忘れてしまったが、ガスの種類と、その時の空気の状況によっては、煙状のものが高く立ちのぼることがある。それでも白黒写真ではガスかどうか判定はむずかしいのではないか。また、開闊(かいかつ)地でも使えないことはない。早朝など、気流の上下交代とか、空気の密度の関係などで、目には見えないが、地上低く、天井のような空気の層ができ、煙は一定の高さ以上に上昇しないときがある。そういう場合には、ガスが使われる可能性がある。 見方軍隊が前進攻撃する前方にガス弾を射ち込むはずがないというのは、まったくの無知である。そのときは、味方の軍隊には防毒面の着用を命ずるからである。新聞を批判する側の直接体験者の証言なるものも、かならずしもあてにはならない。 朝日新聞が、はじめからガス弾でないと分かっていて、例の写真をかかげたのなら、それは「虚偽の報道」ということになる。だが、知らないで、それをガス弾の写真と信じてのせたのであれば、それは「誤報」である。 たとえ、客観的事実とはちがっていても、報道の真実からはずれているとは思えない。 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/111.html
「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(6) 議論にならない ▼曽野さんは、沖縄の社会、教育、新聞なども批判している。皮相的な、困った偏見である。たとえば、「沖縄の社会は閉鎖的である」という。その理由は、なにも述べていないから、答えようがない。もし私が「本土は沖縄よりも閉鎖社会である。日本の地方の中で、沖縄ほど世界に開かれたところはない」と言ったとする。それだけでは議論になるまい。私なら、その理由を述べる。 今度の論争で、私は根本問題を踏まえて、土俵の真ん中に立っているのに、曽野さんは、枝葉末節のことや論点からはずれたことばかり言って、土俵のまわりを逃げまわっていたような気がする。 ▼住民処刑の明確な不当性を、私は証明した。これについては、いかなる人も反論できないはずだ。曽野さんも、沈黙して、曽野点は避けている。そうとわかれば、エチオピアの話をもち出す前に、不当に殺された人たちの遺族に対して、何らかの言葉があるべきだった。それがなかった。まったく、思いやりにかけている。 ▼赤松の弁護などは、作家本来の仕事ではあるまい。ドレフュス事件のゾラや松川事件の広津和郎の例はあるが、いずれも国家権力に対して被害者を弁護したのである。曽野さんの「ある神話の背景」は、国家権力の具現者であった赤松の不当な加害行為を弁護しているのである。こういう弁護はゾラや広津もさけるであろう。曽野さんは土俵をまちがえたと言わざるをえない。 “食言”する言動 「ある神話の背景」で、曽野さんは、つぎのように言う。「終戦のとき、自分は十三歳の少女だったが、すでに死ぬ覚悟があった」と。この言葉を、「だから、渡嘉敷島の人たちも強制されたのではなく、みずから死んだのだ」という理屈にむすびつける。だが、赤松弁護のくだりになると、「私が赤松の立場だったら、生きるために、あらゆる卑怯なことをしたかもしれない」と、まるで、ちがったことを言っている。「ある神話の背景」は、また、「頭かくして尻かくさず」といった背理や矛盾もたくさんあるが、いちいちふれないことにする。また、どういうつもりなのか、曽野さんは、外国の心理学者のマゾヒズム的な学説を引用して、「殺される喜び」について語ったり、「人間は人一人殺してみなければ、何もわからないのではないだろうか」とも書いている。 ▼赤松戦隊は、特殊な集団であった。隊長の赤松が二十五歳、学校を出て間もない。軍隊や戦場の体験が豊かだったとはいえない。隊員は、みな二十歳前後で、未成年者も多く、軍隊体験は一年内外、戦場に立つのは初めての連中である。いわば未熟兵の集団であったのだ。みんな若いから特攻に向いていたともいえる。だが、こういう集団は、本来の使命である特攻の機会を失うといった状況の激変に直面するとパニック状態におちいり狂暴となる。狂暴は、死を拒否し、生きるためにもがく行為である。ほんとに死を覚悟している人は狂暴にはならない。小禄の海軍根拠地隊とくらべてみると、その対照がはっきりする。根拠地隊は、所属のトラックで、小禄の全村民を、沖縄本島の北部に避難させ、小禄村全域を「無人の地帯」とした。軍隊だけ残って敵を待ち構える姿勢である。まことに苛烈な状況であった。米軍の記録は、のちに、小禄海軍部隊の善戦敢闘をつたえている。米軍の総攻撃をうけ、いよいよ玉砕が迫ったとき、司令官太田実少将(千葉県出身)は、「後退して、遊撃戦に移れ」と訓示して、部下の大半を、島尻南部に脱出させたが、戦線離脱と誤解されないように、摩文仁の軍司令官に打電した。部下を後退「残置」させた理由を述べ、その指揮下に入れてもらうように頼んだ。実は、部下将兵を死の道連れにしたくなかったのである。そして、幹部だけが小禄の海軍壕に残って、自決した。自決の直前、太田少将は海軍次官あてに打電する。伝聞内容は、沖縄県民の協力に関する内容で終始しており、「沖縄県民、カク戦エリ、県民ニ対シ、後世、特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という言葉で結んでいる。自分は犠牲になっても他人は犠牲にしないという、成熟した高潔な人格と勇者の姿を、真の太田少将にみる。自分のいのちを惜しむ者ほど、他人の生命を軽視する。 特攻の犠牲“食う” ▼赤松大尉は降伏のとき、米軍将校に向かって、「あと十年間は保てた」と、子供っぽい見えを切っている。隊員少年兵の記録にも「十年でも、三十年でも頑張るつもり」のことが書かれてある。赤松やその隊員たちには「玉砕」の気持ちはなかったのである。 特攻機で沈められた米艦隊からの漂着物(缶詰、その他の食糧)を、赤松隊員たちは「ルーズベルト給与」とよんで、一日千秋の思いで、それを待った、という。この「ルーズベルト給与」は味方の特攻機の犠牲によるものである。特攻崩れの彼らは、この給与について、心の痛み、いや胃袋の痛みを感じなかったのだろうか。その特攻の一人に、沖縄出身の伊舎堂中佐(当時大尉、二階級特進)がいた。彼は台湾から飛んできて、慶良間列島の米軍艦に突っ込んだのである。まことに、皮肉で、象徴的な事件である。 ▼「人を殺すな」「人を殺した人をゆるせ」----この教理の二律背反はわかりにくいが、「人を殺した人」がゆるされるのは、おそらく、悔い改めることによってであるはずだ。だが、曽野さんがかばっているのは、この教理でもなければ、赤松でもない。曽野さんは、赤松が悔い改めないことに手を貸しているからである。「ある神話の背景」に「本土人の指揮官」という言葉がある。曽野さんが各種の詭弁を駆使してかばっているのはこれだ。つまり、「本土人」と「日本の軍隊」である。----私が問題としているのは、あらゆる暴力、ことに権力や戦争による暴力と「人間」の関係である。 (おわり) 目次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/107.html
「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(2) 一日分の弾量で ▼「沖縄方面陸軍作戦」という防衛庁から出た本がある。それに、赤松隊が所持していた銃器弾薬の数量が記載されている。その数量は、赤松大尉あたりが提供した資料にもとづいたものであるはずである。また、たしか、そう書いてあったようにおぼえている。この数量をみて、いまさらのように、ああ、そうだったのかと思った。それは、一日の激戦で射ちつくせるだけの弾量でしかなかった。 その中での、住民に渡された五十何発かの手榴弾のもつ重みもわかった。住民とともに玉砕するだけの弾量しかもっていなかったのだ。それで、住民が玉砕したあと、赤松隊は「持久戦」に転じたというわけである。「持久戦」というのは、それによって、敵に軍事的な損害をあたえるための兵法の一ツの型である。たくさんの米艦船にとり囲まれた小さな渡嘉敷島で、わずかな銃弾しかもたないで、どんな損害を米兵にあたえることができただろうか。兵隊が大量に武器を持っておれば「持久戦」という言葉が使えるかも知れない。 そうでない場合、「持久戦」の「戦」はとって、「持久」とすべきである。そして、「持久」とは、「生命の持久」のことで、事実、その通りの結果になっている。兵器は、住民玉砕、住民処刑、住民威圧に使われたのだ。そして、その兵器は、降伏のとき、全部、米軍に渡している。「持久」の目的が達成されて、不要になったからである。 赤松隊陣中日誌、沖縄方面陸軍作戦、赤松隊員の証言などから降伏状況をみると、赤松大尉が部下の隊員たちより一足さきに降伏していることが、はっきりしている。赤松大尉は昭和二十年八月二十三日に投降し、部下本隊が投降したのは八月二十六日である。難破船の船長が他の船員たちより、さきに救命ボートに乗り移ったようなものである。赤松は降伏のとき、確保してあった缶詰類を米軍にプレゼントしたようだ。「ある神話の背景」をみると、兵隊たちは餓死寸前であったことが強調されている。そうであれば、残った食料は部下の兵隊たちに分けあたえるべきであった。部下の証言によると、ひと足さきに投降した赤松大尉は、米軍からもらったタバコをプカプカふかしていたようだ。 責任逃れの赤松 ▼手榴弾による住民玉砕と伊江島住民の処刑事件に対する赤松大尉の言葉から関連づけて考えられるものがある。米軍にたのまれて、赤松の陣地に降伏勧告に行って殺された伊江島住民は六名、そのうち男三名は、私が処刑を命じた、と赤松は告白している。しかし、女たちは、自決しますと言うから、鈴木少尉が自決幇助(ほうじょ)をしたのだ。つまり、自決するというから自決を助けた(斬首した)にすぎない。処刑したことにはならない、というわけである。赤松は、こんな理屈を言う。 日本の封建社会で、大名が家臣に切腹を命ずることがあった。そのばあい、切腹した者がみずから自決したのだから、命令者に責任はない。切腹したものの自害行為だったと言えるだろうか。 渡嘉敷島住民の自決について、自分に責任はないと赤松は言う。女たちを殺したのは、あれは自決幇助だったという。「住民玉砕」も、伊江島住民の処刑についての言いわけと同じ意味での自決幇助ではなかっただろうか。私は、そいう思っている。玉砕場での住民の阿鼻叫喚の声を聞いて、赤松は「あの声をしずめろ」と兵隊に言ったようだ。住民の断末魔の苦しみの声が、赤松には耳ざわりだったのだろう。苦しんで泣き叫ぶ人たちにいくら声を大にして「静かにしろ」といったってききめがあるはずがない。「あの声をしずめろ」とは、「殺せ」ということである。「ある神話の背景」では、あとで住民の玉砕を知って、赤松は、早まったことをしてくれたと言ったというのである。住民の最後の悲鳴を聞いて、「うるさい」と感じ、自分の「心の不快」を取り除くことしか考えなかった赤松に、住民にたいする思いやりがあったとはおもえない。しかし、話しには矛盾がある。 住民を保護せず 赤松は、現に、住民の死の叫びを聞いている。だのに、あとで、そのことを知って、うんぬんというのはおかしい。「住民玉砕」の事実は、事前に知っていたはずである。手榴弾は軍から住民の手に渡されたのだから--。まさか手榴弾を米軍に投げつけなさいと言って渡したわけではあるまい。「あの声をしずめろ」(殺せ)という前に、別の言葉で、内容の同じことを言ったはずだ。 赤松隊の住民に対する態度は、〈住民は保護しない〉〈住民は米軍に投降させない〉という態度であった。住民の生きる道は、すべてふさがれていたのだ。それでも、赤松の陣地からはなれたものは助かった。赤松の陣地に接近した者たちだけが「玉砕」せざるをえない状況に追いこまれたのだ。「玉砕」と「住民処刑」は、おなじ理由、通敵のおそれがある。陣地を見たからには、という理由によるものであった。ほかの島民は「玉砕」しなかったのだ。「玉砕」は強制されたものであった。 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/106.html
「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(1) 手榴弾への疑問 曽野綾子さんの「お答え」を呼んで、一面、非常に満足している。渡嘉敷島の赤松問題については、だいたい白黒がはっきりしたと思うからである。というのは、私が出した、いちばん重要な問題――手榴弾が、なぜ、住民に渡されたか、同一行動(降伏勧告、逃亡)について、住民は殺され、兵隊は見逃されている事実――に関しては、なんの回答もないからである。この論争は、これでケリがついたようなものだ。他の面では、曽野さんの「お答え」には、がっかりした。もっと期待していたが、その調子が低いのには拍子抜けである。曽野さんの「お答え」にたいする答えは、あと回しにする。 まず、根本的な問題、手榴弾が住民に渡されたこと、その他について補足説明、または言及しておきたい。 ▼弾薬類は兵隊の手にかんたんに渡るものではない。昭和十一年の二・二六事件で、兵は夜間演習と称して出動させることができるが、叛乱将校たちにとって最後の難問は、兵器庫の銃弾をどうして持ち出すかということだった。兵器は、中佐、少佐を長とする将校・下士官で構成される兵器委員の管理下にある。ふつう兵器庫の鍵は、兵器委員の下士官が所持している。通常の手段では、兵器委員や連隊長に企画がもれる。結局、二・二六事件の場合は、叛乱軍の少尉ほか数名が、兵器委員の下士官に暴行を加えて鍵をうばった。鍵を奪われた兵器係軍曹は、その直後、責任を感じて自決している。 作戦中は、武器弾薬の処置はさらにうるさい。手榴弾などが住民の手にかんたんに渡るはずがない。赤松隊の隊員たちは、軍律がきびしかったように言っているから、なおさらのこと、武器弾薬の管理も厳格でなければならなかったはずだ。そういう状況を考えると、大量の手榴弾が住民に渡されたということは、ただ事ではないのである。また、手榴弾のようなものは、絶対に信頼できる者でなければ渡せないものである。信頼できないものに渡したら、逆に、自分らのところに投げつけられるおそれもあるからである。 ところで、赤松は住民を信頼していない。どの住民も通敵のおそれがあるとみている。たびたびの住民処刑にそれがあらわれている。それでは、信頼していない島の住民に、なぜ手榴弾を渡したかが問題である。「これで、死ね」というので渡したこと以外のことは考えられないのである。 一種の無理心中 ▼ここで、「集団自決」という言葉について説明しておきたい。『鉄の暴風』の取材当時、渡嘉敷島の人たちはこの言葉を知らなかった。彼らがその言葉を口にするのを聞いたことがなかった。それもそのはず「集団自決」という言葉は私が考えてつけたものである。島の人たちは、当時、「玉砕」「玉砕命令」「玉砕場」などと言っていた。「集団自決」という言葉が定着化した今となって、まずいことをしたと私は思っている。この言葉が、あの事件の解釈をあやまらしているのかも知れないと思うようになったからである。 「集団自決」の「自決」という言葉は、〈自分で勝手に死んだんだ〉という印象をあたえる。そこで、〈住民が自決するのを赤松大尉が命令する筋合いでもない〉という理屈も出てくる。「集団自決」は、一種の「心中」または「無理心中」である。しかし「心中」は、習俗として、沖縄の社会では、なじまないものである。まれではあるが、自殺はある。サイパンで、沖縄の女たちが断崖から飛びこむ記録フィルムを見たことがあるが、あれは「心中」ではない。 壕の中で、赤子の泣き声が敵に聞こえると、わが子を殺した母親の話があるがそれも兵隊から強要されたからである。なかには、それができず、兵隊が赤子の首をしめた。そして、母親は気が変になったという話もある。「無理心中」は、しかも、渡嘉敷島であったような悲惨な方法による殺し合いは、沖縄では、外部からのぬきさしならぬ強制がなければ起こりえないものである。自発的におこなわれるものではない。 目撃した米兵の証言 渡嘉敷島のあの事件は、じつは「玉砕」だったのだ。「玉砕」は、住民だけで、自発的にやるものではなく、また、やれるものでもない。「玉砕」は、軍が最後の一兵まで戦って死ぬことである。住民だけが玉砕するということはありえない。だが、結果としては、軍(赤松隊)は「玉砕」しなかった。PW(捕虜)になって生還した。軍もいっしょに玉砕するからと手りゅう弾を渡されたと思われる。いま、沖縄タイムスに連載されている米軍記録「沖縄戦日誌」の去る一月二十日の記事によると、あの住民玉砕の現場を目撃した米兵の証言がのっている。現場には日本兵が何人かいたようで、米兵は、その日本兵から射撃をうけている。 どうも、あの玉砕は、軍が強要したにおいがある。資料の発見者で翻訳者の上原正稔氏は、近く渡米して、目撃者をさがすそうである。目撃者の生存をたしかめているらしく、「さがせますか」ときくと、「そんなことわけはないですよ」という返辞だった。 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1061.html
http //blog.zaq.ne.jp/osjes/article/42/ 沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面(その1,2)目次 http //osj.jugem.jp/?eid 沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面 平成19年12月21日(金) 結審 (沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面はその1,その2の二つがある。以下にその目次を示す) 平成17年(ワ)第7696 出版停止等請求事件 原 告 梅 澤 裕 外1名 被 告 大江健三郎 外1名 原告最終準備書面(その1) 平成19年12月21日 大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中 原告ら訴訟代理人 弁護士 松 本 藤 一 弁護士 徳 永 信 一 弁護士 稲 田 朋 美 弁護士 高 池 勝 彦 その他おおぜい - 目 次 - 第1 家永三郎著『太平洋戦争』による不法行為について‥‥ 5 http //osj.jugem.jp/?eid=2 1 本件書籍一『太平洋戦争』と問題の所在 ‥‥‥‥‥‥ 5 2 問題記述の名誉毀損性 ‥‥‥‥ 5 3 原告梅澤の精神的苦痛等の損害 ‥‥‥‥‥‥ 6 4 摘示事実の真実性と相当性について ‥‥‥‥‥‥ 8 5 まとめ ‥‥‥‥‥‥ 9 第2 大江健三郎著『沖縄ノート』による不法行為について‥ 9 http //osj.jugem.jp/?eid=3 1 本件書籍三『沖縄ノート』と問題の所在 ‥‥‥‥ 9 2 『沖縄ノート』による原告梅澤に対する名誉毀損について‥13 3 『沖縄ノート』による原告赤松に対する人格権侵害について17 4 被告大江の弁明について ‥‥‥‥‥‥ 26 第3 座間味島における隊長命令の不在(1) ‥‥‥‥‥‥ 29 http //osj.jugem.jp/?eid=8 1 梅澤命令説の問題点 ‥‥‥‥‥‥ 29 2 梅澤命令説の成立 ‥‥‥‥‥‥ 30 (第3 座間味島における隊長命令の不在(2)) http //osj.jugem.jp/?eid=9 http //osj.jugem.jp/?eid=10 3 《梅澤命令説》の破綻と訂正 ‥‥‥‥‥‥ 34 (第3 座間味島における隊長命令の不在(3)) http //osj.jugem.jp/?eid=11 http //osj.jugem.jp/?eid=12 4 宮城晴美証言について ‥‥‥‥‥‥ 45 (第3 座間味島における隊長命令の不在(4)) http //osj.jugem.jp/?eid=13 http //osj.jugem.jp/?eid=14 5 新証拠なるものについて ‥‥‥‥‥‥ 53 (第3 座間味島における隊長命令の不在(5)) http //osj.jugem.jp/?eid=16 6 座間味島住民の証言について ‥‥‥‥‥‥ 62 7 梅澤部隊の行為の総体 ‥‥‥‥‥‥ 64 8 まとめ ‥‥‥‥‥‥ 67 第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(1) ‥‥‥‥‥‥ 68 http //osj.jugem.jp/?eid=17 1 赤松命令説の問題点 ‥‥‥‥‥‥ 68 2 赤松命令説の成立 ‥‥‥‥‥‥ 68 3 赤松隊長の反論 ‥‥‥‥‥‥ 70 4 赤松命令説の破綻 ‥‥‥‥‥‥ 71 (第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(2)) http //osj.jugem.jp/?eid=18 http //osj.jugem.jp/?eid=19 5 赤松命令説の削除と訂正 ‥‥‥‥‥‥ 73 6 太田良博の反論の顛末 ‥‥‥‥‥‥ 76 7 手榴弾交付=自決命令説について ‥‥‥‥‥‥ 77 (第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(3)) http //osj.jugem.jp/?eid=20 8 隊長命令不在説の定着 ‥‥‥‥‥‥ 84 (第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(4)) http //osj.jugem.jp/?eid=21 http //osj.jugem.jp/?eid=22 http //osj.jugem.jp/?eid=23 9 金城重明の証言にみる虚偽と責任転嫁 ‥‥‥‥‥‥ 95 10 知念証言について ‥‥‥‥‥‥ 100 11 皆本証言について ‥‥‥‥‥‥ 103 12 総括 ‥‥‥‥‥‥ 104 第5 沖縄タイムス等の「欺瞞と瞞着」 ‥‥‥‥‥‥ 105 http //osj.jugem.jp/?eid=24 1 はじめに ‥‥‥‥‥‥ 105 2 『鉄の暴風』の出版経過戸内容の杜撰さ ‥‥‥‥‥ 106 3 神戸新聞報道に対する沖縄タイムス社の対応の矛盾 ‥ 108 4 原告梅澤との交渉における沖縄タイムス社の不誠実‥‥ 109 5 林博史報告記事の恣意性 ‥‥‥‥‥‥ 111 6 援護法適用に関する記事の欺瞞 ‥‥‥‥‥‥ 113 7 沖縄タイムスに掲載されたその他の杜撰な記事 ‥‥‥ 113 8 結論 ‥‥‥‥‥‥ 116 第6 集団自決の実相 ‥‥‥‥‥‥ 116 http //osj.jugem.jp/?eid=25 1 はじめに ‥‥‥‥‥‥ 116 2 隊長命令説、軍命令説の根本的疑問 ‥‥‥‥‥‥ 117 3 米軍に対する恐怖 ‥‥‥‥‥‥ 119 4 家族愛 ‥‥‥‥‥‥ 123 5 パニック状態の群衆心理、同調圧力 ‥‥‥‥‥‥ 126 6 軍の命令は無関係との住民証言等 ‥‥‥‥‥‥ 129 7 「心中」としての集団自決 ‥‥‥‥‥‥ 130 8 捕捉とまとめ ‥‥‥‥‥‥ 132 沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面(その2) http //osj.jugem.jp/?eid=26 - 目 次 - 序論 本書面の目的と概要 http //osj.jugem.jp/?eid=27 第1 渡嘉敷島の巻(1) http //osj.jugem.jp/?eid=28 1 金城武徳 7 2 大城良平 11 3 富山(新城)真順 14 4 古波蔵(米田)惟好 16 第1 渡嘉敷島の巻(2) 5 比嘉(安里)喜順 20 第1 渡嘉敷島の巻(3) 6 知念朝睦 31 7 金城重明 35 8 山城盛治 39 9 小嶺園枝 41 10 小嶺幸信 42 第1 渡嘉敷島の巻(4)(未作成) 11 連下政市 43 12 富野稔 45 13 太田正一 47 14 若山正三 47 15 皆本義博 48 16 照屋昇雄 48 第1 渡嘉敷島の巻(5)(未作成) 17 小嶺源次 49 18 徳平秀雄 50 19 金城つる子 52 20 比嘉松栄 54 21 伊礼(古波蔵)蓉子 54 22 安座間豊子・ウシ 56 23 グレン・シアレス 57 24 小嶺栄 58 25 東恩納政吉 58 26 吉川勇助 58 27 金城ナヘ 60 28 金城徳三 61 29 大城昌子 62 30 総括 63 第2 座間味島の巻(未作成) http //osj.jugem.jp/?eid=29 1 上洲幸子 63 2 宮里峯子 64 3 宮村文子(旧姓 宮里) 65 4 宮平(宮村、宮里)春子 70 5 中村尚宏 78 6 宮里育江(旧・宮平菊江) 79 7 宮城初枝 81 8 宮里美恵子 97 9 宮平(宮里)米子 100 11 松本光子 102 11 宮里トメ 103 12 宮村盛栄 109 13 宮村幸延 112 14 石川重徳 113 15 関根清 114 16 宮平つる子 114 17 宮城恒彦 114 18 中村春子(渡慶次ハル子) 116 19 田中登 118 20 宮里正太郎 118 21 当間正夫 118 22 「A家の隆三」 119 23 伊是名毅 121 24 総括 121
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1134.html
第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(2) (※<藤色>部分は、曽野綾子の論拠借用と著書引用) 第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(2)5 赤松命令説の削除と訂正(1) 『沖縄県史10巻』(1974年)(昭和49年) (2) 『沖縄問題20年』(昭和40年)(甲A2) (3) 『沖縄戦を考える』(昭和58年) (4) 『太平洋戦争』(昭和43年・初版本) (5) 仲程昌徳著『沖縄の戦記』(昭和57年)ア イ ウ (6) 渡嘉敷村が発行した『渡嘉敷村史・資料編』(昭和62年) 6 太田良博の反論の顛末 7 手榴弾交付=自決命令説について(1) はじめに (2) 富山真順の証言の変遷ア イ ウ エ (3) 家永訴訟での手榴弾交付=自決命令説の登場ア 金城重明の証言(昭和63年2月9日) イ 安仁屋政昭の証言(昭和63年2月10日) ウ 曽野綾子の反論(昭和63年4月5日)(ア) (イ) (ウ) (4) 朝日新聞記事(昭和63年6月16日) (5) 『渡嘉敷村史通史編』の手榴弾交付説ア はじめに イ ウ エ (6) 軍の意思によらず手榴弾が住民の手に渡っていた現実ア イ ウ エ オ (7) 3月20日時点での赤松隊の状況ア はじめに イ ウ エ (8) 手榴弾交付説の破綻ア はじめに イ 金城重明の証言(ア) (イ) (ウ) 5 赤松命令説の削除と訂正 『ある神話の背景』の出版(昭和48年)は、決定的な影響を及ぼし、赤松命令説を記載した書物からは隊長命令が削除され、出庫終了による出版停止がされた。また研究者の間では、『ある神話の背景』により「赤松隊長の自決命令は確認できない」という評価が定着した。 (1) 『沖縄県史10巻』(1974年)(昭和49年) 『沖縄県史第8巻』(1971年)(昭和46年)には「赤松大尉は〈住民の集団自決〉を命じた。」と記載されていたが(乙8p410)、『沖縄県史10巻』では、「西山陣地の北方にいくと陣地外撤去を厳命された。手榴弾が配られた。どうして自決する羽目になったか知る者は居ないが、だれも命を惜しいと思うものはなかった。」と自決命令が削除された(乙10-689,690頁) 。 県史から自決命令が削除されたことの意味は重大である。 (2) 『沖縄問題20年』(昭和40年)(甲A2) 『沖縄問題20年』では、「住民約3百名に手榴弾を渡して集団自決を命じた。赤松大尉は、将校会議で〈持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している〉と主張した。」と記載されていたが、『ある神話の背景』を契機に出庫終了で出版されなくなった。『ある神話の背景』により自決命令の虚偽が露顕した結果であることは争う余地がない(被告準備書面(3)の第2の11の(2))。 (3) 『沖縄戦を考える』(昭和58年) さらに、沖縄の歴史家大城将保(嶋津与志)は『沖縄戦を考える』(昭和58年)で、「曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の神話に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説を覆した。『鉄の暴風』や『戦闘概要』などの記述の誤記や矛盾点などをたんねんに指摘し、赤松隊長以下元隊員たちの証言とをつき合わせて、自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。この事実関係については今のところ曽野説を覆すだけの反証は出て来ていない。」とし(甲B24p216)、隊長命令否定説に立つ曽野の『ある神話の背景』を高く評価した。 ところが、その後大城は、前記「今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない」部分が引用されることについて、「勝手に引用して、いかにも曽野説を積極的に指示しているかのような我田引水の歪曲をほどこしている」と批判し、さらに「兵事主任の手榴弾配布を捉えて、手榴弾を民間人に配るということは明らかに自決命令である。また軍隊の規律や指揮系統からして最高責任者の赤松隊長がこの事実を知らないはずがない。」と言い出した(乙44)。 しかし、これは記述についての具体的な論証がないまま論難し、争点ずらしを図るものである。また、大城は『沖縄戦を考える』では、さらに「私が軍の責任があったという場合、それは軍の作戦方針とか、軍隊の論理のことを言っているのであって、けっして一般将兵の個々人を指しているのではないことはご承知願いたい」と記載していた(甲B24p223)。そうであれば、隊長命令がなかったことを前提にしての立論という他はないのであり、結局、大城は、沖縄での批判に晒されて自説をねじ曲げたことは明らかである。 (4) 『太平洋戦争』(昭和43年・初版本) 昭和43年に発行された『太平洋戦争』初版本では「赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供給して自殺をとげよと命じ、従順な島民329 名は恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い集団自殺をとげた。」と記載されていたが(甲B7-213頁)、第2版(昭和60年)でも、その後の『太平洋戦争』でも、「赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供給して自殺をとげよと命じ、」の部分が削除された(甲A1p300)。 (5) 仲程昌徳著『沖縄の戦記』(昭和57年) 昭和57年に発行された仲程昌徳著『沖縄の戦記』は、『ある神話の背景』について、 ア 「本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって命令されたという集団自決神話をつき崩すということであった。そしてそれは、確かに曽野の調査が突き進んでいくに従って疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて『命令』説はよりどころを失ってしまう(甲B98p145)。 イ 「曽野綾子が「『ある神話の背景』で書こうとしたのは、赤松隊長の自決命令が、当事者たちによる証言からではなく、直接現場にいなかった二人からの伝聞証拠によって書かれていたこと、及びその後の集団自決に関する記載が、疑うこともせずに『鉄の暴風』を下敷きにしていることの誤りを指摘し、赤松隊長説を否定していくことにあった。曽野は、しかし、その記載の誤りを正し、赤松神話を崩壊させることによって終わったのではなく、同時に集団自決とのかかわりで問われる「責任」の問題をめぐって、沖縄側からなされる『責任』追及がいかに不合理で、現代的な思考によって行われているかという疑問も呈しているとし(同p154)、 ウ 「このあたりで、私はそろそろ沖縄のあらゆる問題をとり挙げる場合の一つの根本的な不幸に出くわすはずである。それは、常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土をすこしでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだ、というまことに単純な論理である。赤松隊の人々に、一分でも論理を見出そうという行為自体が裏切りであり、ファッショだという考え方である。」---『ある神話の背景』からの引用と沖縄に対する曽野の批判を取り上げて『ある神話の背景』の評価を締めくくる(甲B98p154)。 (6) 渡嘉敷村が発行した『渡嘉敷村史・資料編』(昭和62年) 昭和62年に渡嘉敷村が発行した『渡嘉敷村史・資料編』には赤松隊長から自決命令が出たという記載はない。渡嘉敷島民8人分の体験記録が記載されているが、何れにも赤松隊長の自決命令は記載されていない(甲B39)。 事情を知る島民に直接事情を聞けば、赤松隊長の自決命令はなかったことが自明になったということである。 6 太田良博の反論の顛末 『ある神話の背景』で赤松命令説を決定的に批判された『鉄の暴風』の著者太田良博は昭和60年4月、沖縄タイムス紙上に反論を掲載して挽回を図ったが、曽野の再反論を受け完敗し、『鉄の暴風』の虚偽は白日のものとなった(甲B40-1~10)。 太田は、「私は赤松の証言を信じない。渡嘉敷島の住民の証言に重きをおいた『鉄の暴風』の記述は改訂する必要はない」と主張するが(同4)、曽野は「この人は信用できる。この人のことは信用できないという感情的決めつけには問題がある。事実が何であったかこそ重要である。」と疑問を提起する(同13)。そして太田氏が知念は本当のことを言わないと批判しながら、『鉄の暴風』の中の記述で『事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している』と赤松隊長が語るのを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」(乙2p36)と記載したことに太田は曽野から分裂症かと激しい批判を受けたのである(同13)。 結果的に、赤松命令説が全くの虚構であったことを『鉄の暴風』の著者みずからが明らかにしたのである。 尚、詳細は原告準備書面(5)の第4の2以下参照 7 手榴弾交付=自決命令説について (1) はじめに 『ある神話の背景』(昭和48年)の周到な調査と真相に肉薄する情熱は自決命令がなかった事実を白日のもとに晒した。それは当然に集団自決が赤松隊長の命令で敢行されたと主張して来た人達、殊に沖縄の言論界に困惑を生じた。 そこで隊長命令による集団自決説の維持のため必死の巻き返しが図られた。 その初めは、富山真順の語る手榴弾交付説である。すなわち、「昭和20年3月20日に渡嘉敷島の17才未満の少年と役場の職員に〈1発は敵との戦いに1発は自決用に〉と手榴弾が配られた」というものである。 それまで、渡嘉敷島での集団自決の自決命令は昭和20年3月28日に出されたことを前提に論争されていたが、新たに3月20日に手榴弾を配ったことを根拠に自決命令があったとするものである。 しかし、富山真順は何度も沖縄戦の資料に登場するが、昭和63年まで一度も昭和20年3月20日の手榴弾配布を明らかにすることはなかった。 (2) 富山真順の証言の変遷 ア 例えば、富山真順が最初に登場する『戦闘概要』(昭和28年3月28日付)(乙10)では手榴弾のことに全く触れていない。 イ また星雅彦のルポ「集団自決を追って」(『潮11月号』(1971年)(昭和46年)でも手榴弾については全く触れられていない(甲B17p212上,中段)。 ※星雅彦「集団自決を追って」には次の記述がある。『一方、渡嘉敷村の女子青年団は、不断から日本軍に献身的につくしていたので、いざとなったら皇国のために死ぬ覚悟ができていて、それぞれ懐中にカミソリを隠し持っていた。また防衛隊の過半数は、何週間も前に、日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった。』 ウ 同号の『潮』所収の富山真順の手記では「幹部候補生の学生にあうと涙を流して『あなた方は、生きのびてください。米軍も民間人まで殺さないから』と言われた」と記載されており、手榴弾の配布があった事実は全く出て来ない(甲B21p122)。 エ 渡嘉敷村史資料編(昭和62年3 月31日出版)では富山真順の戦闘体験の手記があるものの、「17才未満の少年に手榴弾を配った」という事実の記載そのものが全くない(甲B39p369 ~372) 。 (3) 家永訴訟での手榴弾交付=自決命令説の登場 ところが、手榴弾配布=自決命令説が東京地裁の家永訴訟で昭和63年に唐突に公言された。これは、渡嘉敷島の隊長命令がなかったことが定説化しつつあった流れを、揺り戻す試みとして持ち出されたものである。 ア 金城重明の証言(昭和63年2月9日) 「集団自決が起きる数日前ですね、日にちは何日ということはよくわかりませんけれども、日本軍の多分兵器軍曹といっていたのでしょうか、兵器係だと思いますけれども、その人から役場に青年団員や職場の職員が集められて、箱ごと持ってきて、手榴弾をもうすでに手渡していたようです。1人に2個ずつ、それはなぜ2個かと言いますと敵の捕虜になる危険性が生じたときには、1個は敵に投げ込んで、あと1個で死になさいと、さらに集団自決の現場では、それに追加されてもう少し多く手榴弾が配られていると。」(乙11p287,質問57への回答) イ 安仁屋政昭の証言(昭和63年2月10日) 「3月28日に集団自決が行われた。米軍の上陸前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって、いざという時にはこれで自決するように命令を受けていた。」(乙11p53,質問89への回答) 「渡嘉敷村史の編集を担当しており、1972年〈昭和47年〉以来の調査で言いましても、20年近い調査活動をやっている中で曽野さんの説を覆す反証が出てきている。兵事主任の証言を得ている。赤松部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡されて、いざというときには、これで自決しろと命令を出している。」(乙11p69,質問111への回答)。 ウ 曽野綾子の反論(昭和63年4月5日) (ア) 曽野は「村の兵事主任(富山真順)に対し、昭和20年3月25日(ママ)に17才未満の青少年や役場の職員に非常召集を掛けて役場に集まらせたという事実を知っているか」との原告代理人の質問に、「村の兵事主任がそれだけのことを知っているということを誰も言わなかったし、兵事主任に会った記憶もない」と証言した(乙24p218,質問89に対する回答)(同p220,質問96に対する回答)。 このことから、件の非常招集が『ある神話の背景』の出版の為の調査時には村民に知られていなかったことが明らかである。 (イ) 富山真順が集団自決なり、避難命令の問題なり、手榴弾の問題なりを話されたとしたら、「それほどおもしろいことでございましたら、私は必ず記憶しております」(乙11p 220,質問94に対する回答)、「そのことが大変重大なことであれば、もう飛びついて、きちんと書いたと思います」と答え(同,質問95に対する回答)、そのような事実がなかったことを曽野は証言する。 (ウ) 曽野が事実を察知したならば、まず富山真順にあって話を聞き、さらに『ある神話の背景』にも記載したことは確実である。曽野の証言を、偏ったものとする批判があるが、大城将保が「今のところ曽野説を覆すだけの反証は出て来ていない。」とし、仲程昌徳が「完膚なきまでにつき崩されて『命令』説はよりどころを失ってしまう」として曽野の執筆姿勢の客観性と真摯さを高く評価している事実からすれば、これら批判は、その根拠も示さず、まさに主客転倒の批判をしているにすぎない。 (4) 朝日新聞記事(昭和63年6月16日) 富山真順が、手榴弾を配った事実について曽野の調査時に全く明らかにしていなかったことと、渡嘉敷村民の誰も、富山真順の話を知らなかったことが曽野の証言から判明した。富山真順の手榴弾交付=自決命令説が捏造の疑いが濃厚となったことから、手榴弾配布命令説を補強するために朝日新聞に手榴弾交付の記事が掲載された。昭和63年6月16日付「17才未満の青少年や役場の職員に昭和20年3月20日に非常召集を掛けて役場に集まらせ、1発を敵に、1発を自決用に手榴弾を配った」という記事である(乙12)。 (5) 『渡嘉敷村史通史編』の手榴弾交付説 ア はじめに 1990年(平成2年)3月31日に渡嘉敷村から発行された渡嘉敷村史通史編は、「渡嘉敷の兵事主任であった富山真順(旧姓新城)が自決命令があったことを明確に証言した。」と記載している(乙13p197)。 村史の該当箇所の執筆者安仁屋政昭は「手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえない。―中略― 住民が密集している場所で、手榴弾が実際に暴発し、多くの死者が出たことは冷厳な事実である。これこそ『自決強要』の物的証拠というものである」と解説した(乙13p197下段~p198上段)。 しかし、それは執筆者である安仁屋の評価であって「事実」ではない。安仁屋は、手榴弾交付=自決命令という詭弁的修辞を使って命令を強弁しているにすぎない。問題は自決命令があったか否かである。 イ 富山真順が当時これほど重大な事実を、経験していたのであれば、村史資料編の富山真順の戦闘体験の手記にも、その余の資料にもその事実が記載されない理由はない。村史資料編等を含めてそれまでその事実が全く、記載されなかったのは、富山真順にその体験がなかったからに相違ない。 ウ 渡嘉敷村史資料編(甲B39)と同村史通史編(乙13)の戦争編は、何れも安仁屋政昭が執筆した。昭和62年作成の村史資料編中の富山真順の手記に、全く影も形も無かったものを「17才未満の少年らの呼集、手榴弾の配布、自決の指示」として村史通史編に書き込んだのは安仁屋政昭教授、富山真順、朝日新聞による隊長命令による集団自決説維持のために工作がされた疑いが濃厚である。 エ 殊に安仁屋は第3次家永訴訟の東京地裁の審理に証人として供述しており、赤松隊長の自決命令が虚偽として定着した状況を打破するために手榴弾配布説の流布を企図したと考えられる。 しかし、手榴弾が住民の手に渡ったことを、即自決命令に結び付けることはいかにも短絡的で根拠がない。 (6) 軍の意思によらず手榴弾が住民の手に渡っていた現実 しかし、現実には軍の意思によらずに手榴弾が住民の手に渡っていた事実がある。 ア 小峰園枝氏は「義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を2個持ってきた」と語っている(甲B39p374 )。 イ また金城武徳の証言には「だからその手榴弾をですね、結局泥棒しているわけですよ。だから隊長そう言ってましたよね。大阪で。兵器係から手榴弾が2箱盗難にあっていますという報告があったそうです。」「軍が手榴弾を配布したわけではなく、」「一番悪かったのは、防衛隊なんです。防衛隊が盗んできた。」というものがある(甲B52の2p16下から5行目~p17の2行目まで)。ここからは手榴弾が大量に盗み出されていたことが窺える。 ウ また、古波藏村長がどうするかという話になったとき、「みんなが死ぬにしては、手榴弾が足りないということになって、一人の防衛隊が、〈友軍の弾薬貯蔵庫から手榴弾をとってきましょうか〉と申し出たことから、それに一決して、不断から親しく兵隊と接触している防衛隊3人が出掛けることになった」という証言もある(甲B17p210中段末尾から下段に掛けて)。 ※星雅彦氏は、上記を「証言」として表現してはいない。http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/766.html エ これらの事実は、防衛隊の意思で手榴弾を取得できるほどに管理が杜撰になっていたこと、指揮命令系統も崩壊した混乱の中にあったことを物語る。 オ またさらには「私の弟が自分は死なんぞと、手榴弾を捨てて逃げてしまいました」(乙9p788上段)という例もある。 これは住民の手に手榴弾があっても、それだけで村民が死ぬものではないことを明らかにしている。手榴弾の交付は住民に自決を強制する命令にはなりえないのである。 (7) 3月20日時点での赤松隊の状況 ア はじめに 従来は昭和20年3月28日にあったか否かで議論された赤松隊長の自決命令説が破綻したことから、自決命令説に立つ者は、昭和63年6月16日の朝日新聞以来自決命令を昭和20年3月20日に遡らせて主張するようになった。 イ しかし、赤松部隊は3月20日の時点では、まもなく特攻隊として敵艦隊に突入する予定であり、守備隊に転身し、持久戦を闘うことは全く予定していなかった。また出撃する特攻隊であるから当然に「村民のことには全く関心をもっていなかった」(甲B18-p36)。 赤松部隊は3月25日までに米軍の攻撃で舟艇の大部分を喪失し、その後止むなく守備隊に転身し持久戦のために山に登ったのである。 ウ また、32軍も赤松部隊も3月23日の空襲とそれに続く艦砲射撃まで沖縄へ西方から上陸する米軍を背後から攻撃することを予定しており、渡嘉敷島に米軍が上陸することは予想していなかった(乙11p51の上部注(29)(皆本調書p2)。 それにも拘わらず、昭和20年3月20日の段階で役場の職員である兵事主任が米軍上陸を予測して手榴弾を配ったことになり、富山真順の話はあり得ない荒唐無稽なことである。 エ 仮定の話として赤松部隊が特攻のために出撃し、村民に手榴弾が残され「一発は敵をやっつけ、一発は自決のため」ということだったとしても、「捕虜になるよりは死を」という村民の意思に応えたものに過ぎない。しかし、将兵の意思は出来るだけ生きのびよとの思いであったことは、幾多の事例が証明している。そうであれば、手榴弾の交付=自決命令とは言えない。 (8) 手榴弾交付説の破綻 ア はじめに 原告はこれまで『ある神話の背景』の出版で隊長命令がないことが定着した状況を打破するために仕組まれた工作の一環としての手榴弾配布説を主張してきた。しかし、これらの工作は露顕した。 イ 金城重明の証言 (ア) 金城重明は、平成19年9月11日の所在尋問で「昭和20年3月20日の手榴弾の配布は渡嘉敷の役場で行われた。阿波連の住民であった金城重明は呼ばれていないし、阿波連の人は誰も手榴弾の配布を受けていない。渡嘉敷の同じ年代の誰からもこの時の手榴弾交付を聞いたことはない」と証言した(金城調書p26~30参照)。 (イ) さらに「富山真順氏が兵器軍曹らから手榴弾を配られた話は家永訴訟の打合せの中で、安仁屋政昭氏から教えられて初めて知った。そして富山真順と連絡をとった」と証言した(同調書p25~27参照)。 (ウ) 昭和20年3月20年の手榴弾の配布の話をそれまで一度も聞いたことがなかったにも拘わらず、昭和63年に突然家永訴訟の打合せの中で安仁屋氏から情報として提供されたということは、あまりに唐突で不自然である。 しかも阿波連の人は呼ばれておらず、渡嘉敷の青年と役場の人だけに手榴弾が配られたという事実は命令の一貫性から考えてあり得ない。 またその事実を昭和63年まで一度も聞いたことがなかったし、同年代の者からも全く聞いたことがないというのであるから、昭和63年の時点で捏造された可能性が強い。 戻る
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/640.html
原告準備書面(2)全文2006年3月24日その3 ソース:http //www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page022.html 原告準備書面(2)全文2006年3月24日その1 原告準備書面(2)全文2006年3月24日その2 原告準備書面(2)全文2006年3月24日その3 原告準備書面(2)全文2006年3月24日その4 原告準備書面(2)全文2006年3月24日その3第2 渡嘉敷島における集団自決の神話と実相1 渡嘉敷島の集団自決の神話 2 渡嘉敷島における集団自決の経過の概要(1) 集団自決があったのは3月28日の午後 1時頃であった。 (2)安里巡査は、27日午後、夕方近くになって西山の谷間の日本軍陣地で (3)渡嘉敷村の約2/3 の人の人達が大雨の中を恩納川にそって (4)具体的にどうするかという段になって。みんなが死ぬにしては (5)逃げ出す集団もあった。集団から立ち去った約300 人が、 (6)西山盆地でほとんど無傷でいた阿波連のひとたちのあいだでは 3 『鉄の暴風』と赤松命令説(1)赤松命令説の発端 (2)『鉄の暴風』に登場した赤松命令説a)赤松隊長の自決命令で集団自決が行われたと断定した最初の資料である『鉄の暴風』は b)『鉄の暴風』を作成した沖縄タイムス社は昭和23年に設立され c)これによれば、太田良博は渡嘉敷島には自らは行かなかった。 (3)「軍命令による集団自決」の証言者a) 証言者の一人は、 b)しかし、軍の関係者で、何らかの取材を受けた人は、 c)軍と島民との間で連絡役などもした安里喜順元巡査は、 c)しかし沖縄タイムスが、『鉄の暴風』の「まえがき」に嘔うように、 (4)『鉄の暴風』の本質的な誤り 4 自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在(1)『鉄の暴風』の記述 (2)赤松元大尉は自決命令を出したことを明確に否定している(甲B2)。 (3)赤松隊長から自決命令が出されるとすれば、 (4)また『鉄の暴風』で「27日、地下壕内の将校会議で (5)自決命令と間違われる可能性のあるものに (6) 仮に、自決命令が出たとすれば (7)渡嘉敷島の村長は古波藏惟好、兵事主任は富山真順、 5 赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』(1)『戦闘概要』は古波藏惟好と (2)『戦闘概要』( 乙10)と極めて類似している資料に、『戦争の様相』がある(乙3)。 (3)『戦闘概要』は渡嘉敷村遺族会編著となっており、 (4) 仮に『戦闘概要』が「戦傷病者戦没者遺族等援護法」( 以下「援護法」という) (5) そのような空気の中で昭和32,3年まで、 6 自決命令の言い換え(1)古波藏惟好の場合a)古波蔵(米田)惟良元村長は、 b)また古波藏(米田)惟好元村長は、 c)また、『渡嘉敷村長の証言』供述に記載された経過 d)古波藏惟好元村長は、『沖縄県史第10巻』における (2)富山真順元兵事主任の場合a)富山(新城)真順元兵事主任は b)しかも、富山真順元兵事主任によれば、 c)さらに富山真順元兵事主任は、 d) また手榴弾は防衛隊に配付されたものであるが、 e)星雅彦著『集団自決を追って』に記載される f)どうやら富山真順元兵事主任は、 g)捕虜になる不名誉を避けるというのは h)防衛隊長の屋比久孟祥は 第2 渡嘉敷島における集団自決の神話と実相 1 渡嘉敷島の集団自決の神話 本件書籍三『沖縄問題20年』(甲A2)は、渡嘉敷島の集団自決について次のように記述している。 「立ち上がることもなければ、戦うこともなく、民衆を殺しただけの軍隊もあった。ほとんどすべての沖縄戦記に収録されている、慶良間の赤松部隊の話がもっとも顕著な例である。那覇港外に浮かぶ慶良間列島は、晴れた日には琉球大学のある丘から一望のもとに見渡せる美しい島々で、戦前は野性の鹿の住み屋として知られていた。この慶良間列島の渡嘉敷島には、赤松大尉を隊長とする海上特攻隊130 名が駐屯していた。この部隊は船舶特攻隊で、小型の舟艇に大型爆弾2 個を装備する人間魚雷であった。だが赤松大尉は船の出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した。そして住民約3 百名に手榴弾を渡して集団自決を命じた。赤松大尉は、将校会議で『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』と主張したという。」 そしてこれがあたかも事実であるかのように喧伝された。 2 渡嘉敷島における集団自決の経過の概要 しかし、安里喜順元巡査(甲B16・沖縄県警察史2巻772~775頁)や星雅彦記者(甲B17・1971年『潮』11月号『集団自決を追って』210~213頁) によると、赤松隊長による自決命令はなく、現実の渡嘉敷島の集団自決の経過は概ね以下のようなものであったことがわかる。 (1) 集団自決があったのは3月28日の午後 1時頃であった。 3月23日には初めて本格的渡嘉敷島への空襲で村の役場や郵便局が焼けた。25日には艦砲射撃も加わった。古波藏村長(33 歳) は在郷軍人であった。安里巡査は、沖縄本島に妻子を置いて単身1 月下旬に赴任したばかりであった。小学生まで陣地構築に協力してきた村民が、これからどうするか赤松隊長に相談するために安里巡査は、27日朝から赤松隊長を捜し回った。 (2)安里巡査は、27日午後、夕方近くになって西山の谷間の日本軍陣地で 陣地構築の指図をしていた赤松隊長にあった。陣地壕はまだほとんど掘られていなかった。赤松隊長は安里巡査に「島の周囲は敵に包囲されているから、逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難したほうがよい。」といった。そこで安里巡査は、居合わせた防衛隊員に西山盆地への集合の伝達を依頼し、自らも各壕を回って伝えた。防衛隊の一人から村長へ伝達をし、村長からも同様な伝達が出た。 (3)渡嘉敷村の約2/3 の人の人達が大雨の中を恩納川にそって 北上した。米軍に追われた阿波連の人たちは1 時間遅れて西山に到着した。3 月28日、朝7 時ころ、防衛隊の数人が「西山盆地」に集まれと叫び、村民は命令どおり200 m離れた平坦な場所に移動した。3時間の間、集団の中で村長、郵便局長、校長、助役や巡査や録場の幹部十数人が協議していた。これからどうするかを意見を出し合ったが、話し合ううちに「玉砕するほかない。」という結論になってしまった。しぜんに玉砕ということになって、その恐怖心から逃れられらなくなった。 (4)具体的にどうするかという段になって。みんなが死ぬにしては 手榴弾が足りないということになり、一人の防衛隊が、「友軍の弾薬貯蔵庫から、手榴弾を取ってきましょう」と申出、防衛隊3人が出掛けた。 それから1時間後に防衛隊によって村民に対する玉砕する話がひろめられた。村の指導者はそれぞれ家族や親戚の人に玉砕の話をした。古波藏村長がみんなの中央に立って「敵に取り囲まれてもう逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」と言った。手榴弾の炸裂音が起こった。 (5)逃げ出す集団もあった。集団から立ち去った約300 人が、 日本軍陣地へ向かってなだれたが、300mも行かないうちに米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。村長は逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい」と叫んだ。その意思をうけた防衛隊長屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順が集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ「住民を撃ち殺すから、機関銃を貸して欲しい」と願い出たが「そんな武器は持ち合わせていない」とどなりつけられた。なだれ込んだ集団は日本軍陣地100 mまで来ていた。泣き叫ぶ村民を将校は抜刀して立ち去るように威嚇した。 村民は恩納川の谷間へと散っていった。 (6)西山盆地でほとんど無傷でいた阿波連のひとたちのあいだでは 300 人の集団が立ち去ったあとで無残な殺し合いが始まっていた。迫撃砲の炸裂を聞きながら、ナタやカマを借りて生木を切ってこん棒を作り、ベルトで家族を殺していた。 手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では農具を凶器に殺し合った。渡嘉敷島では、このとき多数の人が集団自決したと言われる。 3 『鉄の暴風』と赤松命令説 赤松隊長が出したとされる渡嘉敷島の自決命令は、どのようにして現れたか、誰が言い出したものかが問題である。 (1)赤松命令説の発端 渡嘉敷島の自決命令について、最初に記載された資料は『鉄の暴風』(乙2 )と『慶良間列島渡嘉敷島戦闘概要』(以下『戦闘概要』という)(乙10・資料1)であるが『戦闘概要』と同じ機会に同一人により作成されと思われる『慶良間列島戦況報告書の渡嘉敷島戦争の様相』(以下『戦争の様相』という)(乙3)には自決命令の記載がない。その後に作成された渡嘉敷島の自決命令にふれるに関する文書は、『鉄の暴風』か『戦闘概要』を引写し、あるいは脚色を一部加えたものに過ぎない。 以下、『鉄の暴風』を曽野綾子作『ある神話の背景』(以下『神話の背景』という)(甲18) や関係資料をもとに検討する。 (2)『鉄の暴風』に登場した赤松命令説 赤松元隊長が否定する自決命令はどういう経過で、『鉄の暴風』に記載されたのだろうか。 a)赤松隊長の自決命令で集団自決が行われたと断定した最初の資料である『鉄の暴風』は 沖縄タイムス編著で朝日新聞から昭和25年8 月2 日に発行された(甲B7) 。 『鉄の暴風』によると、 「翌3月26日の午前6 時米軍の一部が渡嘉敷島に上陸した。住民はいち早く各部落の退避壕に避難し、守備軍は、渡嘉敷島の西北端、恩納河原付近の西山A 高地に移動したが、移動完了とともに、赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対して「住民は捕虜になる怖がある。軍が保護して直ぐ西山A 高地の軍陣地に避難終結せよ」と命令を発した。さらに住民に対する赤松大尉の伝言として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」ということも駐在巡査から伝えられた。さらに28日には、恩納河原の住民に対して思いがけない自決命令が赤松大尉からもたらされ『ことここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに5日目だった」、「住民には自決用として、32発の手榴弾が渡されていたが、さらにこの時のために、20発増加された」、「翌27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』と主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身) は悲憤のあまり、慟哭して軍籍にある身を痛感した。」 と記載されている。 b)『鉄の暴風』を作成した沖縄タイムス社は昭和23年に設立され 『鉄の暴風』の編纂を企画したのは、翌24年であった。「まえがき」には、「壕中で新聞開発の使命に生きた、旧沖縄新報社全社員は、戦場にあって具に体験した苛烈な戦争の実相を世の人々に報告すべき責務を痛感し‥‥」と書かれている。また「まえがき」は、執筆者が牧浜篤三、伊佐良博、沖縄タイムス記者であったとしている。 曽野綾子氏は『神話の背景』(甲B18)で執筆者の「太田良博氏」に取材したことを紹介している。太田良博と『鉄の暴風』の「まえがき」の伊佐良博とは同一人物である。 c)これによれば、太田良博は渡嘉敷島には自らは行かなかった。 辛うじて那覇で捕らえた二人の証言者から取材した。一人は「当時の座間味村の助役であり、現在の沖縄テレビ 社長である山城安次郎」もう一人は「南方から復員して帰ってきていた宮平栄治」という。山城安治郎は目撃していない渡嘉敷島の事件についてどんな証言をしたのであろうか。もう一人の宮平栄治は「そのような取材をうけた記憶はない」と言っているのである(甲B18・『神話の背景』51p )。 (3)「軍命令による集団自決」の証言者 『鉄の暴風』で渡嘉敷島の「軍命令による集団自決」を証言した者は誰であろうか。 a) 証言者の一人は、 座間味村の助役山城安次郎であり、もう一人は、自身は取材をうけた記憶はないという戦後南方から復員した宮平栄治であった(甲B18・『神話の背景』51p )。 どちらも渡嘉敷の惨劇の立会者ではなく、「証言」したとしても、間接的なものでしかない。実際に証言できる人は、直接事件を体験し、または目撃した島民と、当時島に駐留していた軍人だけである。 b)しかし、軍の関係者で、何らかの取材を受けた人は、 赤松隊長はもとより、隊長の副官で隊長の命令はすべて承知している立場にある沖縄出身の知念朝睦元少尉も含めて、一人もいない。 c)軍と島民との間で連絡役などもした安里喜順元巡査は、 知念元少尉と同様沖縄出身だが地元ジャーナリズムの取材は昭和45年まで一切受けたことがないという。 残るは古波蔵元村長以下、事件を体験、または目撃した渡嘉敷島民だけであるが、事件の起こった当時の異常な状況を考えれば、軍の命令があったかなかったか、あったとしたら誰を介して、誰に命令が来たかなど証言できる人は村長、助役等、ごく小数のはずである。 山城安次郎、宮平栄治の両名が『鉄の暴風』の取材に実際に協力したとしても、事件の現場にいて指導的立場にあった古波蔵元村長や屋比久元防衛隊長等に証言を求めざるを得なかったであろう。 ところが古波蔵元村長の自決命令に関して説明するところは極めて曖昧であり、屋比久元防衛隊長が自決命令について発言している事実は確認出来ない。 c)しかし沖縄タイムスが、『鉄の暴風』の「まえがき」に嘔うように、 「苛烈な実相を、世の人々に報告すべき責務を痛感した」のであれば、戦後は内地に復員していて連絡が取りにくかったであろう赤松元大尉はともかく、少なくとも、沖縄在住の知念元副官や安里元巡査にすらインタビューした形跡もないということは沖縄タイムスの編集方針が当初から、政治的で偏ったものであったか、または地元住民側からこれらの人々を排除する働きかけがあったかのいずれかとしか考えられない。 地元住民側からこれらの人々を排除する働きかけがあったとは考えにくい。けだし、渡嘉敷島の住民と赤松部隊の元隊員と戦病死隊員の遺族は昭和25年から渡嘉敷島民との合同慰霊祭を5年ごとに行って、往時を偲び、戦死者、戦没者の霊を弔い交流を深め60周年にあたる平成16年 3月28日まで続けられた事実がある。また赤松元隊長の恩賜の時計や浮田堅次郎軍医の聴診器が渡嘉敷村の資料館に記念品として展示されている事実からして渡嘉敷島の村民と赤松部隊の関係者との間に溝があったとは考えがたい。そうすれば、『鉄の暴風』が当初から沖縄タイムスの政治的で偏った編集方針により作成された疑いが強いものといえる。 (4)『鉄の暴風』の本質的な誤り さらに『鉄の暴風』には、渡嘉敷島の記述に本質的な誤りがある。 『鉄の暴風』は米軍の渡嘉敷島への上陸が3月26日午前6時頃であったとするが、米軍の渡嘉敷島への上陸は防衛庁防衛研修所戦史室による『沖縄方面陸軍作戦』においては3月27日の午前9時8分から9時43分とされている。 米軍上陸という決定的に重大な記録的事実が間違って『鉄の暴風』に記載され、さらにその後に作成された『戦闘概要』や『戦争の様相』においても米軍上陸が3月26日と間違って引用されている。これは事実調査の杜撰さと合わせて、『鉄の暴風』、『戦闘概要』、『戦争の様相』が一様に信用できないことを示している。 4 自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在 赤松元大尉から自決命令が出されたかを、別の視点で検討する。 (1)『鉄の暴風』の記述 前述のとおり赤松元大尉からの自決命令にふれる最初の資料は『鉄の暴風』であり、そこでは「恩納河原に避難中の住民に対して思い掛けぬ自決命令がもたらされた。『ことここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに5日目だった」(乙2・34 頁) 、「住民には自決用として、32発の手榴弾が渡されていたが、さらにこの時のために、20発増加された( 乙2・35頁) 、「翌27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉( 沖縄出身) は悲憤のあまり、慟哭して軍籍にある身を痛感した」と記載されている( 乙2・36頁) 。 (2)赤松元大尉は自決命令を出したことを明確に否定している(甲B2)。 さらに恩納河原に避難中の住民にもたらされたとされる自決命令はだれを通じて、住民側の誰に伝えられたか全く不明である。命令者も受領者も伝達者も分からない命令はあり得ないにもかかわらず、『鉄の暴風』では自決命令があったとされる。 (3)赤松隊長から自決命令が出されるとすれば、 副官であった知念元少尉を通じてであるはずであるが、知念元少尉は自決命令が出た事実を否定する。 『沖縄県史第10巻』所収の手記『副官の証言』で、知念元少尉は、「赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けてはやまったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。私は赤松の側近の一人ですから赤松隊長から私を素通りしていかなる下命も行われないはずです。集団自決の命令なん私はきいたことも、みたこともありません。最も、いま現存しているA氏が機関銃を借りにきていました村民を殺すためだというので赤松に追い返されていました」という(乙9・773頁上段)。 副官が知らない自決命令ということはあり得ない。そうすると赤松隊長から自決命令が出た事実がないことになる。 (4)また『鉄の暴風』で「27日、地下壕内の将校会議で 自決命令が出た際に、自決命令を聞いた」とされる知念元少尉はこの事実を否定する。知念元少尉は「地下壕は3月27日当時掘られていなかったし、従って地下壕の将校会議は開かれた形跡はない」というのである(甲B4) (甲B18・『神話の背景』112 ~123頁)(甲B17・1971年『潮』11月号星雅彦の『集団自決を追って』208頁上段から中段) 。 なによりも、赤松隊長の命令を聞いたとされる知念元少尉に沖縄の報道関係者から昭和45年までにインタビューをした形跡が全くないのである (甲B18 ・『神話の背景』123 頁) 。 知念元少尉に確かめないで、しかも知念元少尉が経験したこともない地下壕、将校会議について記述する『鉄の暴風』は、その部分については全く信用性がないことになる。そうであれば、当然にその際の自決命令も、虚偽ということになるし、他の部分の記述にも信用性がないことになる。 (5)自決命令と間違われる可能性のあるものに 赤松隊長が安里巡査に「避難したほうが良い」といった言葉がある。これを、あるものは「赤松隊長の命令」とよび、またあるものは「指示」と呼ぶ(甲B17・星雅彦著『集団自決を追って』208頁下段)。 赤松元隊長も、これが、自決命令と曲解されるきっかけとなったかもしれないというが(甲B2・217上段) 、安里巡査は曽野氏の取材に対し「集合命令」は隊長の命令ではなく、「あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きてくれ、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから部隊の近くのどこか避難させておいてくれ」と隊長にいわれ、住民を「生かすために」山の中に避難させたところ「村長以下、みな幹部もね、捕虜になるより死んだほうがいい」と半狂乱になり、恐怖に駆り立てられた状況を説明している(甲B18・『神話の背景』124 ~127頁)(甲B16・沖縄県警察史2 巻773 ~775 頁) 。 そうすると集合命令と部下集合指示の差があっても「赤松隊長が自決命令を出した」と結論づけることは到底、不可能である。 (6) 仮に、自決命令が出たとすれば その命令が村に伝達される経過が必要である。そうすると軍から渡嘉敷村の村民側に伝達するのは誰かということになる。 伝達役として考えられるものに、役場で招集等軍関係の事務を担当していた兵事主任、臨時招集された住民からなる防衛隊の隊長、村の駐在巡査がある。 古波藏元村長によれば、「軍からの命令は安里喜順を通じて村長に伝えられるのであって、それ以外の方法では伝えられない」と断言する(甲B18・『神話の背景』122 頁)。 そうであれば安里喜順が赤松元隊長の命令を伝達しなければ、命令は村長に届かないはずである。 ところが、安里喜順は赤松隊長から自決命令が出た事実を認めていない(甲B16・沖縄県警察史第2 巻) 。『神話の背景』でも、安里喜順巡査は、赤松隊長が自決命令を出したことを否定し、むしろ「あんたたちは非戦闘員だから、生きられる限り生きてくれ」と言ったと証言している(甲B4)(甲B18・『神話の背景』124 頁) 。 命令を伝達するはずの安里元巡査は自決命令が出たことを認めていないのであるから、自決命令を伝達していないことは明らかである。 安里元巡査は敵からの攻撃の中で「村民が混乱の中で、死ぬしかないということで、自決を始めた。その方法は手榴弾であったり、剃刀、桑、棒であった」 というのであり(甲B20・週刊朝日1970年8 月21日号21頁5 段目~22頁4 段目迄) (甲B16・沖縄県警察史第2巻772 ~775頁) 、命令で自決したこと を明確に否定している。 そうであれば、自決命令で集団自決したとする結論を導くことは到底不可能である。 (7)渡嘉敷島の村長は古波藏惟好、兵事主任は富山真順、 防衛隊長が屋比久孟祥であるが、このうち誰が赤松元隊長からの自決命令を受領したのか明らかにした資料はない。 古波藏元村長は、自決命令がどのようにして自分に伝えられたのか、誰から伝えられたのかを明確にしない。『神話の背景』でも、自決命令があって自決に至った経過を明らかにしない。むしろ「敵が上陸したということが、まあいけないということですね。何にしてももう決行しようということになって」「喋ったわけではなくて、そういう気持ちになっているわけです」と極めて歯切れが悪く、自決命令があった事実そのものを明確にしない(甲B18・『神話の背景』118 ~119 頁) 。 5 赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』 (1)『戦闘概要』は古波藏惟好と 渡嘉敷村吏員防衛隊長屋比久孟祥等の記憶を辿って作成したものであると記載され、作成は昭和28年3月28日となっている(乙10・6頁上段) 。 その内容は「昭和20年3月28日午前10時頃、樹民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地へ集まったが、島を占領した米軍は友軍陣地北方2,3 百米の高地に陣地を構え、完全に包囲態勢を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」というものである( 乙10・12 頁下段) 。 この防衛隊員が誰かは不明である。自決命令が下されたのであれば、防衛隊長である屋比久孟祥が防衛隊員を通じて赤松隊長の自決命令を把握していないとは考えられないが、屋比久孟祥が自決命令を認めた資料はこれまで確認できない。 しかし、3 月28日に住民の混乱のなかで自決が始まり、失敗した者を殺すために機関銃を借りに軍陣地に行って追い返されたのが兵事主任富山真順と防衛隊長屋比久孟祥であるとする星雅彦の『集団自決を追って』よりすれば(甲B17・1971年『潮』11月号『集団自決を追って』212 頁上段)、自決命令が無かったことは明らかである。自決命令が出ていたとすれば、機関銃を貸さないことは説明がつかないのである。 (2)『戦闘概要』( 乙10)と極めて類似している資料に、『戦争の様相』がある(乙3)。 『戦闘概要』と『戦争の様相』はその内容が「一方が、他方をひき写したことが確実な程に両者は酷似している。」のである。 ところが、前後の文章は戦『戦闘概要』と全く同じであるにもかかわらず、『戦闘概要』には「時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」と記載された一文だけが『戦争の様相』では完全に抜けている( 乙10・12 頁下段) 。 (3)『戦闘概要』は渡嘉敷村遺族会編著となっており、 私的な書物の体裁であるが、『戦争の様相』は慶良間列島戦況報告書渡嘉敷村座間味村と両村が共同製作した公的文書の体裁である(甲B23・慶良間戦況報告書) 。 そうすると、『戦闘概要』という私的文書では自決命令が記載されていたところが『戦争の様相』という公的文書とする段階では自決命令を削除したことは明らかである。しかし、『戦争の様相』では古波藏惟好と渡嘉敷村吏員防衛隊長屋比久孟祥という少なくとも公的立場にいた二人が公的な文書に、「赤松隊長の自決命令」を記載させなかった事実は、「赤松隊長の自決命令」がなかったことを推測させるに十分である。けだし、『戦争の様相』には、古波藏惟好と渡嘉敷村吏員防衛隊長屋比久孟祥等の記憶を辿ってその概要をまとめたとあるところから、「赤松隊長の自決命令」は二人の記憶になかったと思われるからである。 遺族会編の『戦闘概要』には自決命令が記載されたのは、遺族会編の私的文書であれば、確認されていない、あるいは事実に反する自決命令が記載されても構わないと考えたとものと推測される。 (4) 仮に『戦闘概要』が「戦傷病者戦没者遺族等援護法」( 以下「援護法」という) の適用を当時の厚生省に申請した際、資料として提出した文書の一部であったとしても、『戦争の様相』を作成する際、その記載を避けた事情は推測に難くない。座間味村の宮里盛秀元助役兼防衛隊長のように自決命令を下した本人が集団自決によって死亡していて、その実弟が、原告梅澤を「軍命令」の責任者に仕立て上げた場合とは事情が異なるからである。 ただ、当時軍命令で自決したことにしないと、島民で死んだ人たちの遺族に年金が降りなかったという背景がある。 厚生省援護局調査課沖縄班の話によると、援護法ができたのは昭和27年であり、渡嘉敷の場合は軍の要請で戦闘に参加したということで島民全体が準軍属とみなされ、気の毒で戦死とみなした。その判定が行われたのは昭和32年から33年にかけてであるが、適用は27年にさかのぼっている。集団自決が行われたのは事実であり、それは戦争なしでは惹起されたものではなかった。多くの人が死んだ。多くの家庭で生きていてもらわねばならない人が死んだ。生きている人を、死者よりも大切にするために、年金は必要であった(甲B18:『神話の背景』169,170 頁) 。 (5) そのような空気の中で昭和32,3年まで、 渡嘉敷をめぐる周囲の関係者が「軍命令による玉砕を主張することは年金を得るために必要であり、自然であり、賢明であったと言える」という指摘もある( 甲B18 号証・『神話の背景』169,170 頁) 。 しかし、遺族が年金を取得する目的であったとしても赤松元隊長の自決命令がなかったにもかかわらず、長い年月にわたり「赤松隊長の自決命令」を前提に集団自決が語られ、赤松元隊長に対する誹謗中傷が続けられることは赤松元隊長や親族には耐えがたいことであり、赤松元隊長が死亡した現在もその遺族には耐えがたい苦痛によって苦しみ続けているのである。 6 自決命令の言い換え (1)古波藏惟好の場合 a)古波蔵(米田)惟良元村長は、 「自決命令はしなかった、と赤松はいっているが、住民を部隊の陣地へ集合させておきながら、出ていけというのは、住民に死ねというのと同じではありませんか」という( 甲B20:週刊朝日22頁4 段目) 。 しかし、部隊の陣地は戦闘のためのものであって、住民が避難すれば敵の攻撃をもっとも受けやすいところであり、住民の避難場所としては危険すぎるし、軍の活動に支障が生じることから、部隊の陣地への集合を命じるはずがない。住民が軍陣地に押しかけたとしたら住民の安全の為に退去を求めるのは当然のことである。 そうであれば、古波藏元村長のいう「軍陣地からの退去要求」が即、自決命令とするのは明らかに無理な論理である。 b)また古波藏(米田)惟好元村長は、 『沖縄県史第10巻』の『渡嘉敷村長の証言』において「軍の陣地の裏側の盆地に集合するようにといわれた。命令とあらばと、村民をせかせて、盆地へ行った。米軍は西山陣地千メートルまで迫っていた。赤松の命令は、村民を救う何か得策かも知れないと私は心の底でそう思っていた。上流で防衛隊員と合流した。その時米軍はA高地を占領し、そこから機銃を乱射して私たちの行く手を拒んでいるようであった。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった。防衛隊員の持ってきた手榴弾があちこちで爆発した」と述べている( 乙9・768 頁上段) 。 そうすると古波藏元村長は週刊朝日の記事では「軍陣地に集合させておきながら、軍陣地から出ていけということは、自決せよということだ」といいながら、『沖縄県史第10巻』に収録された供述(乙9・768頁上段) では、「軍の陣地の裏側の盆地に集合するようにといわれた」「盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった」というのである。赤松元隊長が村民を「軍陣地に集合させ」たのではなく、陣地から「出て行け」と言われたのでもないことは明らかである。 c)また、『渡嘉敷村長の証言』供述に記載された経過 からみれば、集団自決が始まった段階までは、古波藏元村長は、盆地への集合は、住民を救う赤松の得策と考えていたのであり、赤松元隊長から自決命令が出たという認識がなかったことを明確に物語っている。 むしろ、安里巡査が沖縄県警察史で説明するところからすれば、軍の陣地に押しかけたのは集団自決が始まった後で、自決に失敗したため、あるいは恐怖に駆られて逃げ出した住民が、軍陣地に押しかけた際に、将校から退去を求められたことを指している可能性が強い。 そうであれば、集団自決の後に軍陣地に押しかけて退去を求められたことを死ねということだと古波藏元村長は言っていることになる(甲B16:沖縄県警察史2 巻774,775 頁) 。だから、集団自決が始まるまで赤松元隊長から自決命令が出ていなかったことは明らかである。 少なくとも古波藏惟好元村長には自決命令が届かなければ、自決命令があったと考えることはできない。村長が知らない自決命令で村民の多くが自決するということはありえないのである。 d)古波藏惟好元村長は、『沖縄県史第10巻』における 供述では「盆地への集合命令」は認めているものの、「赤松隊長の自決命令」を認めてはいない。それだけでなく、新たに防衛隊員から手榴弾を交付されたことに問題を向けるのである(乙9・768 頁上段、769 頁上段) 。 古波藏元村長は「自らに送達された赤松大尉からの自決命令があったか、否か」という決定的事実についてすら曖昧な供述に終始し、事実を明らかにしないまま、防衛隊員から手榴弾を交付されたことを自決命令に結び付けたいものと推測されるのである。 これは明らかに争点をずらしているに過ぎないし、論理の飛躍である。 結局、命令の村民側の最終的受領者である古波藏惟好元村長が命令の受領を明確にできない以上、同人の証言から赤松元隊長の自決命令を認定することは不可能である。 (2)富山真順元兵事主任の場合 a)富山(新城)真順元兵事主任は 手榴弾を兵器軍曹が配付した際に一発は敵と戦うために、一発は捕虜になる時には、自決せよと言って渡したという( 乙12:1988年6 月16日付朝日新聞) 。 しかし、その兵器軍曹が15才から17才未満の少年と役場の職員に手榴弾を渡した事実そのものが疑わしい。仮に事実だとしても、そのことから赤松隊長から自決命令が出たことにはならない。 b)しかも、富山真順元兵事主任によれば、 手榴弾を渡したのは3月20日頃のことであるという。手榴弾を渡したことが自決命令なら、古波藏元村長や村民にはこの時点で、自決命令をうけたとの認識がなければならないであろう。ところが古波藏元村長を始め、渡嘉敷村民でこの時、自決命令があったと認識した者はいない(『沖縄県史第10巻』所収の村民供述参照)。 『鉄の暴風』の記述によれば、自決命令は3月27日から3月28日にかけて軍の陣地の北側の盆地に移動を開始してからという認識だったはずである(乙3・34~36頁) 。 さらに古波藏元村長、屋比久孟祥元防衛隊長らの記憶をもとに作成されたとされる『戦闘概要』によれば、「3月28日午前10時頃、迫撃砲は赤松陣地に迫り、住民の住の終結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」というのである(乙10・12 頁下段)。自決命令は3月28日に出されたものであったはずである。 それより1週間も前に自決命令が出た事実を他の村民や村長が認識した事実がないにもかかわらず、富山真順元兵事主任は、手榴弾を配布した際のやり取りから自決命令があったとするのである。 c)さらに富山真順元兵事主任は、 『潮の1971年11月号』の手記では赤松隊長からの自決命令に全く触れていないにもかかわらず (甲B21:『潮』1971年11月号122頁) 、『1988年6月1日の前記朝日新聞』(乙12) では、俄に、手榴弾を配付したことが自決命令であるといい出したものである。1971年11月号の『潮』で自決命令にふれなかった者が何故、手榴弾の配付で自決命令があったと言いだすのであるか、不可解である。「後で考えてみれば、手榴弾を配られた時が、自決命令があった時だ」というような曖昧な自決命令はありえない。 そもそも、いつ出たか明確でない自決命令ということはありえないであろう。出た時が明らかでないということは、自決命令の時期が自決命令と受け止める人によって異なることを意味するからである。こんな曖昧な命令はありえない。 問題になる命令は自決せよという「赤松隊長の命令」なのである。 d) また手榴弾は防衛隊に配付されたものであるが、 西山陣地の北の盆地に避難した後、敵軍の迫撃砲などの攻撃を受けて大混乱になった村民が進退極まった中で自決するしかないという話になった時、防衛隊の持っている手榴弾を配付し、手榴弾での自決が始まったというのが安里喜順元巡査や作家の星雅彦氏の明らかにする経過である(甲B17:1971年『潮』11月号210 ~213 頁)(甲B16:沖縄県警察史2 巻774,775 頁) 。 自決命令が出たから自決したのではなく、手榴弾を使って自決したから命令があったことになるという富山真順の主張は明らかに無理な論理である。 e)星雅彦著『集団自決を追って』に記載される 安座間豊子の母ウシらから見た経過は以下のとおりである。 「『西山盆地に集まれ』といわれ、雑木林にたどり着いた。・・その間村長を中心とする郵便局長や校長や助役や巡査や役場の人たちと防衛隊の幹部ら十数人が寄り集まって協議していた。これからどうするかという意見を出し合ったが、話し合っていくうちに玉砕するほかはないという結論になってしまった。自然に玉砕ということになって、その恐怖から逃れられなくなってしまった」( 比嘉(改姓後は安里) 喜順らの証言) 。 結局、皆が死ぬにしては、手榴弾が足りないということになった。一人の防衛隊が「友軍の弾薬貯蔵庫から手榴弾をとってきましょうか」と申し出たことから、不断から親しく防衛隊と接触している防衛隊3人が出掛けることになった。・・・間もなくして古波藏村長がみんなの中央に立って「敵にとり囲まれてもう逃げられない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」と声をふるわせながら言った。手榴弾の爆発する音が聞こえた。・・村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい」と叫んだ。その意思を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城(富山)真順は集団より先がけて日本軍陣地に駆け込み「住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせていない」とどなりつけられた。(甲B17:1971年『潮』11月号210 ~213頁) 。 f)どうやら富山真順元兵事主任は、 赤松元隊長が、住民に自決命令を出していないことを知っていながら、3月28日の経過からは自決命令を導き出すことが出来ないと判断して、3月20日の手榴弾の配布を持ち出して自決命令をこじつけようとしているものである。 赤松隊長から自決命令が出ていたのならば、兵事主任富山真順と防衛隊長屋比久孟祥が、死ねない住民を殺すために機関銃を借りに行ったとき赤松元隊長から「そんな武器は持ち合わせていない」と拒絶されるはずがないのである。それにもかかわらず富山真順が3月20日に手榴弾を配ったことで自決命令があったと強弁を続けるとしたら、あるいは古波藏元村長が陣地からの退去を要求することが自決命令と同じだと主張し、あるいは防衛隊員が自決の際に手榴弾を配布したのが解せないとして自決命令に結び付ける態度をとることからすると複数の自決命令が存在することになる。人により、時により自決命令が存在したり、しなかったり、複数存在したりする曖昧な自決命令とはそもそも存在しないことを物語る。 g)捕虜になる不名誉を避けるというのは 当時の国民の多くが共通に感じていたことであり、米軍にどのような扱いを受けるのかという恐怖もあった。捕虜になるなら自決する覚悟を国民の多くが持っていたのであり、そのことは『沖縄県史第10巻』所収の村民らの供述からも明らかである。兵器軍曹が〝万一の時〟には自決用に使えというのはこのような国民の多くの考えを確認したものであって、自決命令などではない。だから赤松隊長の自決命令があったことにはならない。そもそも、手榴弾を配ることを自決命令にあたるとするのは牽強付会の極みである。それでは手榴弾を配られなかった阿波連の住民の集団自決は説明がつかなくなるであろう。 h)防衛隊長の屋比久孟祥は 自決命令の受領の事実を明らかにしない。しかし、その理由も明らかである。3月28日に自決命令など無い状態で、住民の混乱のなかで自決が始まり、失敗した者を殺すために機関銃を借りに軍陣地に行って追い返された事実からすれば、自決命令があったと強弁することは出来ないからである。 ところが、防衛隊長の屋比久孟祥が関与した渡嘉敷村の遺族会編の『戦闘概要』では自決命令があったと記載し、同じく屋比久孟祥が関与した渡嘉敷村の作成にかかる『戦争の様相』では自決命令が削除されていることは前述した通りである。 このように自決命令は関係者の思惑で、如何様にも記載され、主張される用語と化しているのである 戻る | index | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1133.html
第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(1) (※<藤色>部分は、曽野綾子の論拠借用と著書引用) 第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(1)1 赤松命令説の問題の所在 2 赤松命令説の成立(1)『鉄の暴風』(昭和25年)(乙2)の記載ア イ ウ (2) 『戦闘概要』(昭和28年)(乙10)の記載ア イ (3) 『慶良間島・座間味村及び渡嘉敷村「戦況報告書」戦争の様相』 と呼ぶ(乙3)の記載ア イ ウ (4) その後の出版物の類似性 (5) 3 赤松隊長の反論(1) 『私は自決を命令していない』ア イ (2) 赤松隊長の「血の叫び」ア イ 4 赤松命令説の破綻(1) 『ある神話の背景』の内容ア イ ウ エ オ カ キ 1 赤松命令説の問題の所在 渡嘉敷島において発生した住民の集団自決については、かつて赤松隊長から発せられた《部隊の行動を妨げないため、また、部隊に食糧を供給するため、住民はいさぎよく自決せよ》との無慈悲な命令によるものだとする《赤松命令説》が定説とされていた。 かかる《赤松命令説》の記述は、『鉄の暴風』(昭和25年)(乙2)、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)(以下『戦闘概要』と呼ぶ)、『秘録沖縄戦史』 (昭和33年)(乙4)、『沖縄戦史』(昭和34年)(乙5)、『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(昭和43年)(乙6)、『沖縄県史8巻』(昭和46年)(乙8)に認められる。 《赤松命令説》に対し、赤松隊長自ら『私は自決を命令していない』(昭和46年)(甲B2)と題する手記を発表して異議を唱えている。 2 赤松命令説の成立 (1)『鉄の暴風』(昭和25年)(乙2)の記載 ア 「翌26日の午前6時ころ米軍の一部が渡嘉敷島に上陸した。―中略―住民に対する赤松大尉の伝言として〈米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう〉ということも駐在巡査から伝えられた。」(乙2p33)。 イ 「同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けない自決命令が赤松からもたらされた。〈こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、軍に出血を強いてから、全員玉砕する〉というのである。」(同p 34)。 ウ 「翌27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍は最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、自給態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉〈沖縄出身〉は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。」(同p36)。 (2) 『戦闘概要』(昭和28年)(乙10)の記載 ア 「昭和20年3月26日、敵は海空援護の下に渡嘉志久、阿波連より上陸を開始したが、赤松隊は西山陣地に引っ込んだ。」「27日夕刻、駐在巡査安里喜順を通じて住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた。」(同p12)。 イ 「昭和20年3月28日午前10時頃、住民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地に集まったが、―中略―住民の終結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された。」「危機は刻々と迫りつつあり、事ここに至っては如何ともし難く、全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死のうと悲壮の決意を固めた」「老若男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された」(同p12,13) (3) 『慶良間島・座間味村及び渡嘉敷村「戦況報告書」戦争の様相』 と呼ぶ(乙3)の記載 ア 「3月27日夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよとの赤松隊長の命令が伝達された」(同p 22)。 イ 「28日午前10時住民は涙を呑んで軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集まった。―中略―瞬時にして老若男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された」(同p23) 。 ウ しかし、『戦争の様相』には赤松隊長の自決命令は記載されていない。 (4) その後の出版物の類似性 その後に出版された『秘録 沖縄戦史』(昭和33年)(乙4)、『沖縄戦史』(昭和34年)(乙5)、『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(昭和43年)(乙6)、『沖縄県史 8巻』(昭和46年)(乙8)の記載は、同様に『鉄の暴風』『戦闘概要』や『戦争の様相』を下敷きにして記述された。 (5) 本件で問題になる『太平洋戦争』『沖縄問題二十年』『沖縄ノート』もこれらの記載をもとに作成されたものである。 3 赤松隊長の反論 (1) 『私は自決を命令していない』 自決命令をだしたとされる赤松隊長は、『私は自決を命令していない』と題する手記を執筆し、自決命令を出していないと明言する(甲B2・『潮』昭和46年11月号)。 ア 「〈昭和20年3月〉26日夜、私たちは寝ていると、十時過ぎ、敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が上陸は多分明日だと伝えると〈では住民は?住民はどうなるんですか〉という。正直な話26日に特攻する覚悟だった私には住民の処置は頭になかった。そこで〈部隊は西山の方に移るから、住民も終結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう〉と示唆した。これが軍命令を出した、自決命令を下したと曲解される原因だったかも知れない」(同p216下段末尾からp217上段) 。 イ 「27日、米軍の上陸開始、28日には部隊も住民も完全に包囲されてしまった。われわれ陣地のほうからは、集結した住民の姿も見えなかった。」29日になって(住民が)自決したことが分かった(同p217 中、下段) 。 (2) 赤松隊長の「血の叫び」 ア 赤松隊長は、「村当局がまとめた戦記がマスコミの目にとまるや次々と刊行される沖縄関係の書物のいたるところに、赤松という大隊長が、極悪無残な鬼隊長として登場することになった。戦記の作者の何人かは沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに、なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。かれらの書物を孫引きして、得々として良心的な平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしたい」と現地調査もしないままの無責任な報道を批判する。 イ そして、「兵士の銃を評論家のペンにたとえれば、事情は明白だ。ペンも凶器たりうる。『三百数十人』もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば、資料の質を問い、さらに多くの証言に傍証させるのがジャーナリズムとしての最小限の良心ではないか〉とみずから「血の叫び」を訴えている(同p221)。 4 赤松命令説の破綻 (1) 『ある神話の背景』の内容 曽野綾子は『ある神話の背景』(昭和48年)(甲B18)で赤松命令説の疑問点を明らかにした。 ア 『鉄の暴風』、『戦闘概要』に赤松隊長の集団自決命令は記載され、これらが、その後の書物に子引き、孫引きの形でそのまま引用された。 イ 軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われたと最初に記載したのが沖縄タイムスの『鉄の暴風』、これを基に作成したのが『戦闘概要』である。 『戦闘概要』に『鉄の暴風』と酷似する表現、文章が多数見られ、偶然の一致ではあり得ず、引用した際のものと思われる崩し字が『戦闘概要』に見られることなどをその理由としてあげる。さらにこれらをもとに作成されたものが『戦争の様相』(乙3)であるとする(甲B18p48) 。---『ある神話の背景』からの引用 ウ そして、『戦闘概要』に記載のある自決命令が『戦争の様相』に記載されていないことについて、村が作成した資料にこれほど重大な事実が、不注意で欠落することはありえない。『戦争の様相』作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから、記載から外したものである(甲B18p48) 。---『ある神話の背景』からの引用 そうすると渡嘉敷村でも隊長命令がなかったことは認めていることになる。 エ さらに曽野は米軍上陸の期日昭和20年3月27日をこれら3つの資料は3つとも同じく3月26日と間違って記載していると指摘する(甲B18p49)。米軍上陸という重大な日を間違えるようでは戦史としての信頼性は全くない。---『ある神話の背景』からの引用 オ 最初の資料『鉄の暴風』は太田良博が当時座間味村の助役の山城安次郎と南方から復員した宮平栄治の2人から取材して作成した。宮平は事件当時南方にあり、現場を見ていない。また山城が目撃したのは渡嘉敷島ではなく隣の座間味島の集団自決である(甲B18p50,51 ) 。---『ある神話の背景』からの引用 事情は聞いたとしても、しょせんは伝聞証拠である。しかも太田はこれほど複雑で事実の曖昧な渡嘉敷の集団自決を含む沖縄全体の戦史を3ケ月調べ、3ケ月で作成したのである(甲B18p51)。---『ある神話の背景』からの引用その結果、沖縄タイムス社の役員牧志伸宏みずからが、調査不足があったことを認めている程である(甲B10)。 カ 決定的なのは赤松元隊長の副官知念元少尉の話である。『鉄の暴風』に隊長命令説を裏付けるくだりとして「3月27日に地下壕で将校会議を開いたが、その時赤松大尉は〈持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員を潔く自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している〉とし、これを聞いた沖縄出身の知念少尉は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。」と記載する(乙2p36) 。 しかし、曽野が昭和47年7 月に那覇で会った際、知念元少尉は「地下壕はなく、将校会議が開かれた事実もない」と否定した。加えて知念元少尉は「昭和45年まで沖縄の報道関係者から一切インタビューを受けたことがない」と明言した(甲B18p112,113)。---『ある神話の背景』からの引用尚、知念元少尉は法廷においても同旨の証言をしている(知念調書p6,9)。 結局、『鉄の暴風』は知念元少尉に取材せずに知念元少尉の内面的経験を記載したことになる。これでは隊長命令を決定的に裏付ける事実が存在しないことになり、赤松命令説が虚偽であるといわれても仕方がない。 キ また自決に失敗した村民に赤松部隊が治療をしている事実がある。古波藏(米田)村長もこの事実を認めるし、若山元衛生軍曹は治療が「軍医や隊長の意向であった」ことを認めている(甲B18p121)。---『ある神話の背景』からの引用 自決命令が出ていたならば、治療をするはずがないのであり、赤松部隊が負傷者の治療をしたことは、自決命令が出されていない何よりの証拠である。 戻る
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/650.html
原告準備書面(5)要旨2006年11月10日 http //blog.zaq.ne.jp/osjes/article/25/ 原告準備書面(5)要旨2006年11月10日1 (《梅澤命令説》) 2 (《赤松命令説》)(1)まず、はじめに。 (2)続いて、 (3)さらに、 (4)太田氏は 原告準備書面(5)の要旨 1 (《梅澤命令説》) 本日、原告から提出しました準備書面(5)の前半では、座間味島での集団自決に関する《梅澤命令説》という虚構を、この期に及んでもまだ押し通そうとする被告らの弁解や原告主張への反論に対する再反論を、徹底的に行っています。提出書面は50頁を超えるものですが、時間の関係上、そこから重要な部分を2点ご紹介します。 ひとつは、 「《集団自決隊長命令神話》が通説になったのは援護法適用のための方便だいうが、それでは、昭和27年施行の援護法施行以前の、昭和25年に初版が発行された『鉄の暴風』に、その神話が述べられている理由が説明つかないではないか」 という、被告らの反論への再反論です。 座間味島では、確かに援護法以前から、《隊長命令神話》が風説としてありました。それはなぜでしょうか。 住民の手記や宮村盛永氏の『自叙伝』などの資料をみますと、多くが「忠魂碑前での玉砕」に向けた集合命令を受けたことを証言しています。しかし、そこには命令の主体が書かれていません。ただ、多くの村民は、「忠魂碑前に集合し玉砕する」という命令を、軍命令と受け取り、それが後に風説のもととなったと考えられるのです。宮城晴美さんは『母の遺したもの』においてこう解説します。 「『命令は下った。忠魂碑前に集まれ』と恵達から指示を受けた住民のほとんどが、梅澤戦隊長からの命令と思った。というのも、これまで軍からの命令は防衛隊長である盛秀を通して、恵達が伝令を務めていたからある。」 宮城初枝さんが 「真実の歴史を残す為には此れから私のやるべきことが残っております。」 として原告梅澤さんに宛てた手紙の中で、 「忠魂碑前の集合は、住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。」 と述べ、住民の誤解と村の方針のために虚偽に加担したことを梅澤さんに謝罪し、こう結びます。 「お許し下さいませ。すべてが戦争のでき事ですもの」 と。 真実、玉砕命令を下したのは梅澤部隊長でも軍でもありませんでした。 それを明らかにしたのが、まさに宮城初枝さんの勇気ある証言でした。その証言をもとにして娘の晴美さんが書いた『母の遺したもの』には、自決のための弾薬をもらいに行ったところ梅澤部隊長に「お帰り下さい」とはっきりと断られた助役の宮里盛秀氏らが、次にどういう決断をしたかが、こう語られています。 「その帰り道、盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉は初枝には聞き取れなかったが『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして盛秀は初枝にも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に運ぶよう命じた。 盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」 宮里盛秀助役が、その単独の判断か、宮平正次郎収入役及び玉城盛助国民学校長らとの協議の上での決断かは不明ですが、自らの判断を「軍の命令」ととれるかのような形で、村内に指示したというのが実態だったのです。 この点とも深く関連するのですが、2つ目の重要な原告からの再反論は、宮里盛秀助役の父親であった宮村盛永氏の『自叙伝』についての評価です。 被告らは、この『自叙伝』には、梅澤部隊長による自決命令があったことを示す記述があると主張します。 しかし、きちんと読みさえすれば誰にでもわかるように、この『自叙伝』には、梅澤部隊長による自決命令はどこにも書かれていません。 逆に、宮村盛永(当時の姓は宮里)が、一族とともに玉砕する覚悟を固めていく過程が、次のとおりなまなましく記載されているのです。 「明くれば二四日午前九時からグラマン機は益々猛威を振い日中は外に出る事は不可能であった。敵の上陸寸前である事に恐怖を感じながら、此の調子だと今明日中に家族全滅するのも時間の問題であると考へたので、せめて部落に居る盛秀夫婦、直、春子らと共に部落の近辺で玉砕するのがましではないかと、家族に相談したら皆賛成であった。」 「丁度午後九時頃、直が一人でやって来て『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した。明日は愈々座間味に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか。』と持ちかけたので皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ。」 この文章から明らかなように、まず一族で「玉砕」するのがましではないかと言い出したのは盛永氏であり、相談した家族は皆賛成し、玉砕の覚悟を固めて部落へと急いだのでした。「玉砕」が、軍の命令によるものではなく、むしろ住民の自然な発意がもととなっていたことがはっきり表れています。 さきほど述べました宮里盛秀氏らが発した《忠魂碑前集合玉砕命令》は、激しい戦闘のなかで追い込まれ、死を覚悟した住民の自然な発意や感情を背景にしてなされたものだったのです。 2 (《赤松命令説》) 準備書面(5)の後半部分は、渡嘉敷島での集団自決に関する《赤松命令説》の神話をいまだに主張する被告らに対する反論です。 (1)まず、はじめに。 前回の法廷で紹介した照屋昇雄さんの《人間の良心》に基づく勇気ある証言によって渡嘉敷島の神話もまた、援護法適用のための方便として村の公式見解になっていったことが明らかになりました。赤松隊長が自決命令を出したという《赤松命令説》は、すでに曽野綾子氏の『ある神話の背景』によって根拠のない神話であったことが明らかになっていますが、最後に、なぜかかる神話が、援護法適用以前に『鉄の暴風』に記述されたのかという疑問が残ります。 渡嘉敷島では、敵に包囲されて逃げ場を失い、渡嘉敷村の幹部が協議するうちに自然と玉砕するしかないという話となり、古波藏村長が音頭をとって、防衛隊が配った手榴弾などによる集団自決がなされました。そのことは『鉄の暴風』以外の多数の資料によっても確認されています。 ところが、集団自決で死なずに生き残った者もいました。生き残った者は集団自決さえしなければと死者への哀惜の念が一挙に吹き出したのです。 曽野綾子氏が『ある神話の背景』で語るところでありますが、 「本当の渡嘉敷の悲劇は、戦争が終って、出征していた兵士や島を出ていた人たちが帰って来た時に始まった。」 「生存者の中には、その立場上、事件について説明責任を免れぬ人たちもある。」 典型的な人物は古波蔵元村長でした。集団自決の音頭をとっていながら生き残った村長として、これらの責めを受けたことは当然予想されます。古波藏村長はその責め苦を少しでも軽くするために、存在しない隊長命令を主張せざるをえなかったことが推測されるのです。 琉球政府で援護業務を担当して渡嘉敷島の村民の聴き取り調査をした照屋昇雄氏は、 「古波藏村長は、住民を集めて全部死ねと言って演説もしているが」、 自己の責任を否定し、軍に責任をかぶせることに奔走した結果、村民から信用がなくなった事情を明らかにしています。 さて、今回新たに提出した重要な証拠のなかに、沖縄出身の作家上原正稔氏が記述した『沖縄戦ショウダウン』があります。上原氏は、琉球新報に「沖縄戦ショウダウン」を連載中、当時の集団自決の生き残りである金城武徳氏らを調査した結果、渡嘉敷村民の自決について、 「国のために死ぬのだ。だれも疑問はなかった。村長が立ち上がり音頭をとり、『天皇陛下万歳』と皆、両手を上げて斉唱した」 ことを確認しています。 (2)続いて、 被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありますが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。 (3)さらに、 『鉄の暴風』の著者太田良博氏による『ある神話の背景』批判に対する反批判を行いました。 太田氏は、著書『戦争への反省』に収録した沖縄タイムス上での論戦において『ある神話の背景』に対して縷々反論を試みています。例えば、新聞社が直接体験者でない者の伝聞証拠を採用するはずがないという建前論を述べています。しかし、これに対し、曽野氏は「新聞社の集める『直接体験者の証言』なるものの中には、どれほど不正確なものがあるか分からないとし、例えば「直接体験者の売り込みだという触れ込みの中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真として朝日新聞が掲載した、直ちに間違いを認め撤回した例を指摘し、太田氏を「新聞は間違えないものだ、と素人のたわごとのようなことをいうべきではない。」と批判しています。太田氏は「自決命令の真相を知っている思われる2 人の人物、知念少尉と安里喜順がいるが、真相を語っているとは思われない。」としていますが、『鉄の暴風』では「地下壕内の将校会議で非戦闘員を自決させ、軍人は食糧を確保して、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している』という赤松隊長の発言に副官知念少尉は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」と記載しています。知念氏が真相を語るはずがない、だから取材していないとしながら、知念氏の内面の葛藤まで踏み込んだ描写を知念氏自身から確認しないまま記載したことこそ、『鉄の暴風』の赤松命令説が捏造によるものであることを如実に物語っているといえます。太田氏の強弁と詭弁を交えた弁解が、自己撞着で捻転した挙げ句に破綻を来していることは明らかです。 (4)太田氏は 沖縄タイムス上での論戦において、 「あの玉砕は軍が強制したにおいがある。アメリカ兵が目撃した集団自決の資料の発見者で翻訳者である上原正稔は、近く渡米して目撃者を探すそうである」 と記載しています。その上原正稔氏こそ、先に紹介した『沖縄戦ショウダウン』の著者でした。 上原氏は、『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない金城武則氏、大城良平氏、安里喜順氏、そして知念朝睦氏といった集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく真実に気がつきました。そして、 「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」 と断ったうえで、 「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」 と告白しているのです。 さらに、 「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」 「一人の人間をスケープゴート(いけにえ)にして『集団自決』の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い」 と結論しています。 『沖縄戦ショウダウン』の記事が沖縄の有力紙琉球新報に掲載されている意味は重大です。そのことは、沖縄の言論人にも事実を調査し、真実を見極めようという誠実な人がいること、そしてそうした沖縄でも赤松隊長命令説の虚偽が自明なものとして知られていたことを意味しているからです。 いま、上原氏の「沖縄の人々の責任は限りなく重い」という言葉に込められた沖縄の良心の叫びを、噛みしめる時が来ているのです。 以上 index