約 20,991 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/885.html
『鉄の暴風』取材ノートを中心に 『太田良博著作集3』p159-166 『鉄の暴風』取材ノートを中心に沖縄で書かれた初の戦記 消えぬ「住民不在の戦争」 沖縄で書かれた初の戦記 一九七〇年にニューヨークで初版がでたジヨン・トーランド著『ザ・ライジング・サン』(副題、日本帝国の興亡、日支事変から終戦に至る太平洋戦争の全貌を日本側の資料をもとにして書かれたもの)の中に、「アイアン・タイフーン」と題する一項があって、沖縄戦にふれている。The Iron Typhoon のタイトルは、もちろん『鉄の暴風』の直訳で、内容は著者独自の取材によるもののようだが、題名は、沖縄タイムス社から出された『鉄の暴風』を借用したものと思われる。 『鉄の暴風』は、沖縄で書かれた最初の戦記である。それでも、同戦記が刊行されたのが一九五〇年、すでに終戦から五年の月日が流れていた。戦後の沖縄における文化の立ちおくれが、そのことからもうかがえる。 『鉄の暴風』の執筆に参加したいきさつは、こうである。私は沖縄民政府(在知念村)の財政部に勤めていたが、ある日、沖縄タイムス社の牧港篤三記者から、その企画をうち 159 あけられ、執筆参加を求められた。 その前に、同社発行の『月刊タイムス』に短編「黒ダイヤ」を発表したことがあって、同社とは寄稿者としてのつながりはあった。 『鉄の暴風』は、豊平良顕氏の監修で、牧港氏と私が執筆に当たることになり、それを契機に私はタイムス社に入社した。たしか、取材三カ月、執筆三カ月の予定で、ほぼ、その予定通りに仕事が完結したと記憶している。突貫作業だったわけである。一九四九年春から取材をはじめ執筆にとりかかったときは、とても暑い時期だったようにおぽえている。 当時、タイムス社は崇元寺の向かいにあって、社屋はカマボコ型トタン屋根だった。編集局と隣り合わせた総務局のかたすみで、ひとつの机をはさんで、牧港氏と私が向き合って、取材した資料を整理したが、夏の炎熱がトタン屋根にあたるため、部屋の中は、むし風呂のようであった。 牧港氏は、首にかけたタオルでときどき顔や、裸体になった上半身のあぶら汗をふきふき、黙々と鉛筆を動かしていた。巻紙のような長い新聞のザラ紙にさらさらと鉛筆を動かしていたが、私はザラ紙に書くのに慣れていないのでたまに不思議なものでも見るようにうつ向いて仕事をしている彼の方に目をやったものだ。執筆は、一種の苦行でどうという 160 記憶も残っていない。思い出すのは取材期間のことだけである。 常務取締役だった豊平氏が、ほとんど、この戦記編纂に専念していたところから、社をあげての事業だったのだろう。取材はインタビュー、座談会などがおもで、そのため南は糸満、北は大宜味村まで足を伸ばした。牧港氏と私が個々に、あるいは二人が共同で取材することもあったが、たいてい豊平氏が加わっての取材だった。どこかで昼食をとるときも、豊平氏は、時間が惜しいと思つたのか、世間話はほとんどせず、戦争体験や戦記編集の話に終始した。豊平氏と牧港氏は、沖縄戦の体験者で、戦記編纂に対する熱意も体験から出たものにちがいなかったが、体験者でない私は、なかば両氏の熱意に引きずられたような形であった。 執筆が終わると、原稿は全部きれいな楷書体で、アルバイトに清書させていた。 また、英文の全訳をアメリカ軍政府に提出する必要があったらしく、琉球大学の翁長俊郎氏に依頼して翻訳させたと聞いたが、私はその翻訳文は見ていない。結局、朝日新聞(東京)刊行となったわけだが、それには「現代人による沖縄戦記」というサブ・タイトルがついていて、心にひっかかるものを感じた。当時、あのていどの本を出版する設備が沖縄にはなかったのである。本の用紙はザラ紙で、日本の敗戦社会の香りがぷんぷんと漂うものだった。 161 それから、ちょうど二十年をへた一九七〇年、沖縄タイムス社から『鉄の暴風』第二版がでている。第二版では、初版の副題はとりのぞかれて、単に「沖縄戦記」としてある。第二版は同社で印刷製本したようだが、東京の朝日新聞で刊行された初版とくらべると、紙質といい印刷、製本といい、はるかによく、時代の進運というものを感じさせる。 『鉄の暴風』がでる前に、すでに古川成美氏の『沖縄の最後』がでていて、これが沖縄戦に関する最初の戦記だったと思う。『鉄の暴風』は、沖縄で最初に書かれ、住民の体験を主にした意味では最初の戦記とはいえる。 私は、執筆するまえに『沖縄の最後』を読んでいた。 兵隊として沖縄戦を体験した古川氏個人の行動が中心となっていて、文章が美しく、映画のシーンを見るような鮮やかな印象を与えられた場面がいくつかあった。 今日、沖縄戦に関する出版物は、百数十冊を数える。なかでも、いちばん書いてもらいたくて、いちばん書く可能性の少なかった八原博通氏(第三十二軍高級参謀、元大佐)の『沖縄決戦』が出るにおよんで、沖縄戦記に関する限り「戦後」は終わり、いちおうの区切りがついた感じがする。でも、沖縄戦記は、これからもなお書き続けられてゆくだろう。単なる体験記録ではなく、歴史的解釈も加えられてゆくにちがいない。 162 消えぬ「住民不在の戦争」 「沖縄戦の記録面だけでなく、それを超えた、なにか戦争の意味といったようなものまでさぐることができたら、たいしたもんだが……!」 誰かが、そんなことをいうのを聞いたことがある。その言葉に刺激されたかどうかおぼえていないが、戦争をテーマにしたトルストイの短編集を読んだ。あのころ、そんなのが、とこで手にはいったかは忘れてしまった。 しかし、豊平氏の方針は決まつているようだった。戦争体験の事実だけを記録するということだった。目次をふくめた編集方針は、取材、執筆の期間を通して、三人が話し合う中から浮かび上ってきたが、主として豊平氏の裁断によるものであった。 編集の特色は、沖縄を三つの様相に区分したことである。中・南部の激戦、北部山岳地帯の飢餓との戦い、沖縄戦が集約された形であらわれた離島の戦記、この三つが柱になつていて、それに、女子学徒看護隊(姫百合隊)の体験記録が加わり、戦記全体の主要部分をなしている。 姫百合隊に関する部分は、生存者の座談会や、金城和信氏が所持していた女子学徒の手記がもとになっている。 また、板良敷朝基氏の寄稿があり、「住民の手記」として掲載され、戦記に花を添えた 163 感じがあったが、なかなかの筆力で、たんなる手記というより、文学的な香りの濃いものであった。 付録の「戦闘経過概要」は、初め予定されていなかったが、あとでつけ加えられた。 沖縄戦に関する中央紙の記事の切抜き帳を持っている人がいて、その記事からまとめたものである。 私が執筆した部分は、第二章の「集団自決」、第三章の「神山島斬込み」の中の三項、神山島斬込みの部分、同章の「牛島・長の最期」、第四章の「女学生従軍」「南風原陸軍病院」「泥屍の道」、第五章の「第三外科の最後」「運命甘受」「女学生の手記」(これは女学生の手記に手を加えただけ)、「草むす屍」「平和への希求(姫百合之塔由来記)」、第六章の「武士道よさらば」、付録の「戦闘経過概要」で、その他大部分は、ほとんど牧港氏の執筆である。初版四三八ぺージのうち、だいたい七四ぺージが板良敷氏の手記、二三〇ぺージが牧港氏、一三四ぺージが私の執筆部分という割合である。 『鉄の暴風』の中の「集団自決」と題した渡嘉敷島戦記の部分が、曽野綾子氏の『ある神話の背景』で、「赤松神話」の原典とされて一つの問題を投げかけている。 曽野氏の『ある神話の背景』は、多くの関係者の証言を集めている点では圧巻で、渡嘉敷島の戦闘に関する貴重な記録といえる。 164 曽野氏は、ほかに渡嘉敷島の集団自決を扱った『切りとられた時間』があるが、宗教的な立場から渡嘉敷島の「集団自決」と「住民処刑」の問題を掘り下げようとしている。 『鉄の暴風』には、主要な事実で、もれたのもある。久米島の住民虐殺事件やトノキヤ(現在の大宜味村白浜)での日本兵による那覇疎開民集団虐殺事件などである。 久米島の事件は、当時、知らなかったが、トノキヤ事件は、ただひとりの生存者という中年の男が那覇の壷屋にいて、私が取材し、四百字詰原稿用紙で三十枚ていどと思われる記録を書いた。しかし、それは「没」になった。理由は、その事件には、那覇の疎開民と地元民とのアツレキがからんでいるようで、将来にシコリを残すおそれがあるということだったらしい。 トノキヤ事件の真相は、そのまま埋もれるものと思っていたが、さいきん、戦史研究者たちによって再調査されているようである。 対馬丸による疎開学童遭難については、一項を設けるべきだったと思う。 『鉄の暴風』は、いわば沖縄戦記に関する総論的なもので、その後、各論的な詳細な記録が続々と出版された。『鉄の暴風』は、戦争体験者の記憶がまだ生々しい時に記録しておかないと、未曽有の戦禍をうけた民族体験が歴史の中に埋もれるおそれがあるという気持ちもあって企画されたものと思うが、時が経つにつれて、沖縄戦の記録は、ますますく 165 わしいのが出てくるようになった。 『鉄の暴風』の序文で、米軍のヒューマニズムにふれた個所があるが、当時は、アメリカ軍政の牧歌時代で、まだ日本復帰運動は芽生えていなかった。その後、米軍人の行動は、アンチ・ヒューマニズムに転じた面が多く目につき、住民の反米運動と日本復帰運動がはげしくなって行った。 しかし、沖縄戦が「住民不在の戦争」であったという事実は消えない。かつての帝国主義的軍隊に対する沖縄住民の拒否反応も根強く残っている。 ただ次のことだけはいえると思う。 沖縄住民の目に映じた日米両軍の姿というのは、ある限定された状況の中でとらえられた現象的なものであった。民主主義国家の軍隊と軍国主義的超帝国主義国家の軍隊とは、その成立から言って根本的な差異はあるはずだが、沖縄戦で米軍の行動がヒューマンであったのは、多くは、その圧倒的勝利による「余裕」によるものと思われる。また、米軍の保護下で、「死」から「生」への道を歩み出した住民にとって米軍は「生命の恩人」のようにみえたであろう。だが、勝利なきベトナム戦争では追いつめられた立場の米軍はまことに狂暴性を発揮している。沖縄戦における「友軍」と住民の悲劇的関係は、追いつめられて「余裕」のない状況の中で生じたという一面のあることも否めない。 166 集団自決などをめぐって
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1381.html
http //okinawasen.web5.jp/html/kousai/2_syomen_03.html 被控訴人準備書面(3)2/3 2008年(平成20年)8月22日 (平成20年6月16日付控訴人ら「控訴理由書」に対する反論等) 準備書面(3)1/3 被控訴人準備書面(3)2/3第3 同第3(真実相当性に関する事実認定上の問題点)について4 同4(《隊長命令》と援護法の適用との関係にかかる認定の誤り)(33頁)について(7)同(7)(宮村幸延の『証言』書面及び梅澤陳述書の評価について)について (8)同(8)(『母の遺したもの』が示す援護用適用のための《梅澤命令説》作出)について 5 同5(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その1)―座間味島・渡嘉敷島共通部分―)(46頁)について(1)同(1)(『鉄の暴風』(甲B6、乙2))について (2)同(2)(米軍の『慶良間列島作戦報告書』(乙35の1、2))について 6 同6(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その2)―座間味島―)(51頁)について(1)同(1)(『母の遺したもの』に対する評価)について (2)同(2)(『沖縄史料編集所紀要』(甲B14)についての評価)について (3)同(3)(梅澤供述の信用性について―手榴弾の交付について―)について (4)同(4)(本田靖春『第一戦隊長の証言』(甲B26)(1987年)の評価)について (5)同(5)(宮村盛永『自叙伝』(乙28)の評価)について (6)同(6)(宮平春子の証言の評価)について (7)同(7)(上洲幸子の証言の評価)について (8)同(8)(宮里育江の証言の評価)について (9)同(9)(『潮だまりの魚たち』(甲B59))について (以下、準備書面(3)3/3)7 同7(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その3)―渡嘉敷島―)について 第4 同第4(宮平秀幸証言)について 第5 同第5(『沖縄ノート』による人格非難について)について1 同1(原判決の判示)について 2 同2(究極の故人攻撃)について 第3 同第3(真実相当性に関する事実認定上の問題点)について 4 同4(《隊長命令》と援護法の適用との関係にかかる認定の誤り)(33頁)について (7)同(7)(宮村幸延の『証言』書面及び梅澤陳述書の評価について)について 宮村幸延の「証言」書面(甲B8)が真意を表したものでないこと、及びこれに関する控訴人梅澤の陳述書(甲B33)が信用できないことについては、原判決(164頁以下)が、幸延から直接経緯を聴取した宮城晴美の証言、「母の遺したもの」(甲B5)、「仕組まれた『詫び状』」(乙18)、幸延の妻宮村文子の陳述書(乙41)、控訴人梅澤と新川明の会談録音(乙43の1、2)、甲B85(下書き)などに基づき判示するとおりである。 控訴人は、「家内に見せるためだけ」と控訴人梅澤が述べたというのは、幸延の苦しい弁明に過ぎないと主張するが、控訴人梅澤は、新川明との会談において、これに近い趣旨の発言をしている(乙43の2・5頁)。 また、控訴人は、「証言」の書きぶりから泥酔状態で書かせたとはいえないと主張するが、控訴人梅澤は、幸延が毎日朝起きてから寝るまで酒を飲み続け、当時も酒に酔っていたことを認めており(乙43の2・5~6頁)、幸延の妻文子は、当時幸延が酒に酔って見境がない状態だったと述べている(乙41)。控訴人梅澤は、新川明との会談で、幸延が当日飲んでいたのはビールだったから正気は失っていないなどと述べているが(乙43の2・6頁)、幸延は日頃からビールは一滴も飲まず、当日は前夜の酒が残った状態で朝から泡盛を飲まされ、何も覚えていないほど酔っていたものである(宮城晴美に対する宮村幸延夫妻の証言。乙18・117頁)。 座間味村も、昭和63年の沖縄タイムス及び沖縄県援護課あて公式回答(乙21の1、2)において、「集団自決が村の助役の命令で行われたとの記事等は事実無根である。宮村幸延氏は酩酊状態で梅澤氏に強要されて捺印した模様である。同氏は戦争当時山口県で軍務にあり、座間味村にはいなかったものである」「新聞記事にA氏(宮村幸延氏)の証言が記載されているが、同氏は飲酒中に梅澤氏から強要されたもので、妻子に肩身の狭い思いを一生させたくない、家族だけに見せるもので絶対に公表しないからと言われ、何の証拠にもならないことを申し添えていたもので、信憑性がないものである」としている。 控訴人は、集団自決があった当時宮村幸延は座間味村にいなかったから「証言」(甲B8)の内容を語れる立場になかったとの原判決の判示はあたらないと主張する。しかし、戦争を体験した座間味島の多くの住民が軍(梅澤隊長)の命令によって集団自決したと述べており、これらの住民の証言に基づき座間味村が作成した「座間味戦記」にも梅澤隊長が自決を命じたと記載されており、また、このような認識に基づき多数の住民が集団自決について援護法の申請をし、その適用を受けていたもので、戦争当時座間味島にいなかった宮村幸延が、体験者の認識を覆す事実認識を抱くことができたとは到底考えられない。したがって、「証言」が幸延が書いたものであるとしても、「証言」に記載された事項(①集団自決は梅澤隊長の命令ではなく助役の命令で行われた。②援護法適用のためやむを得ず隊長命令として申請した)は、酒に酔わされた幸延が、控訴人梅澤が懇願・強要するがままに、事実に反することを書かされたものというほかないものである。 (8)同(8)(『母の遺したもの』が示す援護用適用のための《梅澤命令説》作出)について 控訴人は、「真実は、梅澤隊長は自決命令は出していないから、私は虚偽の証言はしたくない」と初枝が述べたのに対し、「島のために虚偽の証言をせよ」と長老が強いたというやりとりがあったと主張するが、根拠のない憶測にすぎない。 すなわち、座間味島の多くの住民は梅澤隊長が自決命令を下したと認識し、その旨証言していたもので(宮城晴美証人調書2~3、8、11、23~24、27頁)、座間味村は、このような証言をもとに梅澤隊長が自決命令を下したと「座間味戦記」(乙3収録)に記していたものである。長老が隊長の自決命令が虚偽だと認識していた事実は全くない。また、初枝は、昭和20年3月25日夜の梅澤隊長と助役らとのやり取りから、梅澤隊長は自決命令を出していないと思い込んでいたものであるが、実際には、そのとき以外の日時・場所で、梅澤隊長が助役ら村の幹部らに対しどのような指示・命令を下していたのかについては知り得る立場になかったものである。そして、初枝は、上記のように思い込んでいたことを外部に表明することはなく、昭和37年の「家の光」への投稿(乙19)においても、自ら積極的に「座間味戦記」にしたがって梅澤隊長が自決命令を下したと記載していたもので、隊長命令がなかったとの告白は、昭和52年3月に初めて娘である宮城晴美に対し行ったものである(B5「母の遺したもの」及び乙104同書新版260頁)。 5 同5(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その1)―座間味島・渡嘉敷島共通部分―)(46頁)について (1)同(1)(『鉄の暴風』(甲B6、乙2))について 控訴人は、「鉄の暴風」について、原判決が「民間からみた資料として、その資料的価値は否定し難い」(原判決171頁)としていることについて、同書に誤記があること、取材対象の人数・氏名について触れていないことなどを理由に、資料価値を有しないと主張する。 しかし、「鉄の暴風」は、太田良博著「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、沖縄タイムス社が、集団自決の直接体験者を集めて、実際に集団自決の現場において集団自決を直接体験した人々から取材して、その証言を記録したものである。渡嘉敷島に関する記述についても、沖縄タイムス社の専務であった座安盛徳が那覇市内の旅館に、渡嘉敷村村長であった古波蔵惟好ら体験者を集め、取材を行ったものである(乙23「『鉄の暴風』周辺」223~224頁)。また、「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は、戦争当時国民学校校長であった宇久真成からも渡嘉敷島での体験を聞き、「鉄の暴風」にある記録を執筆しており(乙23・226~227頁)、「鉄の暴風」は直接体験者からの取材に基づいて執筆されたものである。沖縄タイムス社の編集局長、代表取締役社長、同会長を務めた新川明も、「鉄の暴風」は、1950年当時に、沖縄タイムス社の記者が直接多数の体験者から聞き取りをしてまとめたものであることを当時の担当者から確認したことを明らかにしている(乙22陳述書1頁)。 原判決は、「『鉄の暴風』は、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であり、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたものであ」り、「牧港篤三が記載した『五十年後のあとがき』によれば、体験者らの供述をもとに執筆されたこと、可及的に正確な資料を収集したことが窺われる上、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたこともあり、集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたことも窺われる」とし、執筆者である太田良博は、「『鉄の暴風』の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たこと、『鉄の暴風』が証言集ではなく、沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため、詳言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかった」(原判決169頁以下)としている。また、原判決は、このような「鉄の暴風」について、一部の誤記があることを認めたうえで、「『鉄の暴風』は、前記のとおり、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であるために生じた誤記であるとも考えられ、こうした誤記の存在が『鉄の暴風』それ自体の資料的価値、とりわけ戦時中の住民の動き、非戦闘員の動きに関する資料的価値は否定し得ないものと思われる」(原判決170頁)としている。 原判決の判断は正当であり、「鉄の暴風」に資料的価値がないなどといえないことは明らかである。 (2)同(2)(米軍の『慶良間列島作戦報告書』(乙35の1、2))について ア 控訴人は、原判決が、米軍の「慶良間列島作戦報告書」(乙35の1、2)の「明らかに、民間人たちは捕らわれないように自決するよう指導されていた」との記述について、「慶良間列島に駐留する日本軍が米軍が上陸した場合には住民が捕虜になり、日本軍の情報が漏れることを懸念したとも考えることができ、沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたに通じる」と判示したことについて、上記記述は慶伊瀬島に関するものであり、座間味島との関係が不明であり、また、原文(英文)が明らかでないと主張する。 しかし、上記の「明らかに、民間人たちは捕らわれないように自決するよう指導されていた」との記述は、「歩兵第77師団作戦報告 アイスバーグ 段階1 慶良間列島・慶伊瀬島」(乙114の1、2)に、座間味島の集団自決の生存者について記載されているものであり、座間味島の集団自決に関する記述である。なお、慶伊瀬島は、慶良間列島より沖縄本島寄りに存在する島であるが、渡嘉敷村に属しており、日本軍は駐留していなかったものであり(乙55沖縄方面陸軍作戦224~227頁)、上記記述が慶伊瀬島に関するものではないことはこのことからも明らかである。 また、控訴人は、「(米軍に)尋問された民間人たちは、3月31日に、日本兵が、慶留間島の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよと命じたと繰り返し語っている」との同作戦報告書の記述は、慶留間島のものであり、座間味島に関するものではなく、また、同作戦報告書には渡嘉敷島のことは記載されていないと主張するが、上記作戦報告書記載の慶留間島住民の証言や座間味島住民の証言は、慶良間列島(座間味島、渡嘉敷島、阿嘉島、慶留間島など)の日本軍が、住民に対し、捕虜となることを禁止し、米軍が上陸したときは捕虜とならぬよう玉砕することを命じていたことを裏付けるものにほかならない。 すなわち、原審被告最終準備書面(25~34頁)に詳述したとおり、沖縄の第32軍司令部は、軍官民共生共死の一体化の総動員体制のもと、防諜体制を強化し、住民に対し捕虜となることを許さず、玉砕を強いていたものであり、秘密部隊である船舶特攻隊が配備されていた慶良間諸島においては、特に厳しく捕虜となることを禁止し、玉砕(自決)を強いていたものであり、この点については、大詔奉戴日での日本軍の言動(甲B5「母が遺したもの」97~98頁、宮城証人調書18~19頁、皆本証人調書22頁、甲B66皆本陳述書19頁)、慶留間島での野田隊長や座間味島での小沢基地隊長の訓示(乙48與儀九英回答書、乙9・730頁大城昌子手記、乙105垣花武一陳述書、乙41宮村文子陳述書、宮城証人調書20~22頁、乙74図)、渡嘉敷村役場前庭での兵器軍曹の手榴弾交付と自決指示(乙11、乙12)、手榴弾を交付するなどしての日本兵からの自決指示(甲B5・97~98頁、乙13・199頁、宮城証人調書18~23頁、乙9「沖縄県史」746頁宮平初子手記、738頁以下宮里とめ手記、甲B5「母の遺したもの」46頁宮城初枝手記、乙50「座間味村史」下巻61頁宮里育江手記、乙62・宮里育江陳述書、乙51宮平春子陳述書、乙52上洲幸子陳述書、乙53・2007年5月14日付朝日新聞朝刊記事、乙98沖縄タイムス記事での宮川スミ子の証言)など、多数の証拠がある。 イ また、控訴人は、林博史教授が「沖縄戦と民衆」(甲B37)で《赤松命令説》を虚偽であることをはっきり認めていたと主張するが、同教授は、上記著書で、「3月20日、村の兵事主任を通じて非常呼集がかけられ、役場の職員と17歳以下の青年あわせて20数人が集められた。ここで兵器軍曹が手榴弾を2個ずつ配り、いざというときはこれで『自決』するように指示した」「軍による事前の徹底した宣伝によって死を当然と考えさせられていたこと、軍が手榴弾を事前に与え、『自決』を命じていたこと、島民を1か所に集めその犠牲を大きくしたこと、防衛隊員が手榴弾の使い方を教え、『自決』を主導したこと、島民が『自決』を決意したきっかけが『軍命令』だったこと、日本軍による住民虐殺にみられるように投降を許さない体質があったことなどが指摘できる」とした上で、「花綵の海辺から」(甲B36)の大江志乃夫の感想を引用し、「なお、赤松隊長から自決せよという形の自決命令は出されていないと考えられる」(160、161頁)としているものである(「花綵の海辺から」の記述は、特段の根拠なく「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。」「挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる」と記述しているのみで、単に大江志乃夫の感想を述べたものにすぎない)。 すなわち、林博史教授は、渡嘉敷島の「集団自決」が日本軍の指示・命令によるものであるとの明確な認識に到達していたもので、渡嘉敷島の「集団自決」が現地の日本軍の最高責任者である赤松隊長の意思に基づくものであることを否定したものではない(なお、控訴人指摘の甲B37の「15歳の少年の話」は、慶留間島の住民の話であり、渡嘉敷島の赤松隊長の自決命令の有無にかかわるものではない)。 6 同6(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その2)―座間味島―)(51頁)について (1)同(1)(『母の遺したもの』に対する評価)について ア 同ア(梅澤は住民の自決申し出に対し逡巡していただけなのか)について 昭和20年3月25日夜、助役らが集団自決を申し出、弾薬の提供を求めた際に、「決して自決するでない。共に頑張りましょう」などと言ったとの控訴人梅澤の供述が信用できず、宮城初枝が述べるとおり「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と言ったにすぎないことは、初枝のノート(甲B32)や証人宮城晴美の証言などにもとづき原判決(173頁以下)が詳細に認定しているとおりである。 控訴人は、原判決(174頁以下)が、「母の遺したもの」収録の初枝の手記に、助役らと控訴人梅澤との面会後の記述として、「唐突に盛秀助役が宮平恵達に伝令を命じた部分があること」などから、「今晩は一応お帰りください。お帰りください」との発言は控訴人梅澤の逡巡を示すものにすぎないとみることも可能であると判示しているのは趣旨不明であると主張するが、座間味島の日本軍の最高指揮官であった控訴人梅澤が、その支配下にある助役らに対し「決して自決するでない」と自決の中止を命じたのであれば、面会直後に助役が、隊長の命令に反し、住民を自決させるため忠魂碑前に集まるよう宮平恵達に伝令を指示することはありえないことであり、助役がこのような伝令を指示したということは、すなわち控訴人梅澤から自決を中止するようにとの指示・命令がなかったことを意味し、「今晩は一応お帰りください。お帰りください」との発言は、せいぜい控訴人梅澤の逡巡を示すものにすぎないものということになる。 イ 同イ(宮城初枝が直接に自決命令の有無を語る立場にあること)について 控訴人は、原判決が「初枝は、座間味島の集団自決の際、現場である忠魂碑前にいなかったことになり、原告梅澤と面談した以後、原告梅澤はもちろん、集団自決に参加した者との接触も断たれていたのであるから、直接的には原告梅澤の集団自決命令の有無を語ることのできる立場になかったこととなる」と判示したことについて、控訴人梅澤が自決命令を村民側に発した可能性がある場面は、唯一、宮里盛秀助役や初枝が本部壕を訪ねた3月25日の夜のことだけであると主張する。 しかし、初枝は控訴人梅澤との面談後、助役らや自決をした村民らとは離れて行動していたもので、面談後に隊長の自決命令が村幹部や村民にどのように伝えられたかを知る立場になかったことが明らかである。また、3月25日の面談以前においても、助役ら村の幹部は、軍からの指示を受けるため本部壕の控訴人梅澤のもとをしばしば訪れていたものと考えられるが(乙62宮里育江陳述書)、初枝は助役ら村幹部とともに控訴人梅澤のもとに赴く立場になかったもので、このような機会に同控訴人などから助役らに対し住民の自決について指示・命令がなされたことを知りうる立場になかったものである。 なお、宮里盛秀助役(防衛隊長、兵事主任を兼任)は、妹の宮平春子や宮村トキ子に対し、「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」(乙51宮平春子陳述書、乙98沖縄タイムス記事での宮村トキ子の証言)と述べており、かねてより日本軍から住民の自決を命じられていたことが明らかである。当時座間味村の郵便局長であった石川重徳も、座間味村幹部から「米軍が上陸した場合は住民を玉砕させるよう軍から命令されている」と打ち明けられていた(当審における新証言・乙105垣花武一陳述書)。 ウ 同ウ(唯一の証人による《梅澤命令》の完全否定)について 控訴人は、「母の遺したもの」(甲B5)において、著者宮城晴美が《梅澤命令》はなかったと判断を下したと主張するが、そのような事実はない。著者は、集団自決で未遂に終わった人たちのほとんどが「隊長から玉砕(自決)命令があった」と述べていることを話題にした際、初枝から「直接隊長からの命令を聞いたのか、もう一度確認してから書きなさい」と言われたので、確認したところ、直接隊長から命令を聞いたという明確な答えがなかったので、記録から削除したもので、隊長命令はなかったと判断したものではない(宮城晴美証人調書27頁、甲B5・259頁、乙104新版259~260頁)。 また、控訴人は、宮城初枝が《梅澤命令》の唯一の直接証人であり、初枝の告白を収録した「母の遺したもの」(甲B5)によって《梅澤命令》は完全に否定されたと主張する。 しかし、座間味村が住民の証言をもとに作成したと考えられる「座間味戦記」(乙3収録)には、「夕刻に至って梅澤部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又、老人、子供は村の忠魂碑の前に於いて玉砕するようにとの事であった」(7頁)と記載されている。乙3自体には、作成年月日は記載されていないが、乙3に収録されている「渡嘉敷島の戦闘の様相」はその記載内容から、乙10収録の「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(昭和28年3月)より以前のものと推定され(乙25伊敷清太郎論文)、乙3収録の「座間味戦記」も昭和28年3月以前に作成されたものと推定される。また、昭和30年12月発行の「地方自治7周年記念誌」(乙29)にも「座間味戦記」に依拠したと思われる同様の記載がなされている。 このように、宮城初枝が厚生省引揚援護局職員から事情聴取を受けた昭和31年12月8日(乙104・255~256頁)以前に、多くの住民が梅澤隊長から自決が命じられたと語っていたものであり、宮城初枝もそのような住民の証言を多数聞いていたものである(宮城晴美証人調書8頁、甲B31初枝手紙)。座間味村当局も、沖縄タイムス社等からの照会に対し、そのように証言する多数の住民がいることをその氏名を明示して回答している(乙21の1、2)。また、宮城晴美が座間味村の集団自決の体験者から聞取り調査を行った際にも、ほとんどの人が「隊長から玉砕(自決)命令があった」と述べていたことは前記のとおりである(宮城晴美証人調書2~3、8、11、23~24、27頁)。大城将保も、直接座間味で調査した結果として、「部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言からほぼ確認できるのである」としている(甲B25)。 以上のとおり、初枝が唯一の証人だったことはなく、また、初枝の告白が、《梅澤命令》を否定することにならないことは前記イ記載のとおりである。 なお、初枝は厚生省引揚援護局職員から聴取された際には、自ら語ることはせず、「住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか」との質問に「はい」と答えただけであった(甲B5・252頁、乙104・256頁)。初枝が、昭和20年3月25日夜助役らと梅澤隊長のもとに赴いた際に隊長が自決を命じたと証言していた事実はなく、「家の光」への投稿(乙19)でも、「夕刻、梅澤部隊長(少佐)から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子どもは全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべし、という命令があった」と、「座間味戦記」と同様の記述をしていたにすぎない。また、村の長老は、他の多数の住民と同様、隊長の自決命令があったと認識していたもので、初枝に対し虚偽の証言をするよう求めたものでは全くない。 エ 同エ(梅澤との面談前後の初枝の体験事実)について 控訴人は、初枝らが梅澤隊長と面談する以前から自決の覚悟を固めつつあったと主張するが、前記のとおり、慶良間列島の日本軍は、住民が捕虜となり軍の秘密が漏れることを防ぐため、米軍に捕まったら虐殺・虐待されると脅し、米軍上陸の際には捕虜となることなく自決をするよう住民に指示し、自決用の手榴弾を交付するなどしていたものであり、軍が捕虜となることを禁止し、自決を指示・命令していたからこそ、住民は自決を覚悟するしかなかったものである。 また、控訴人は、初枝らが兵隊から食糧をもらっており、自決を迫るような言動がなかったことを理由に、《梅澤命令》はなかったと主張するが、軍の任務に従事していた初枝らが兵隊から食糧をもらうのはおかしなことでなく、また、日本軍は、米軍が上陸した際には、捕虜とならぬよう自決せよと指示・命令していたのであり、捕虜となりそうな状況にないときに自決を迫らなかったからといって、自決命令がなかったことにはならない。 オ 同オ(初枝の語る木崎軍曹らとの間のエピソード)について 控訴人は、「母の遺したもの」に、内藤中尉から弾薬の運搬を指示され、木崎軍曹から自決用の手榴弾を渡された宮城初枝が、その後部隊に帰還した際に梅澤隊長や内藤中尉から「無事でなによりだった」などと労をねぎらわれたと記載されていることについて、《梅澤命令》を否定する根拠となると主張する。 しかし、初枝は女子青年団員として、梅澤隊長が指揮する軍と行動を共にし、弾薬運搬などの任務に従事していたもので、任務を終えて部隊に合流した初枝の無事を喜ぶのは当然のことである。木崎軍曹は、弾薬運搬の任務に出かける初枝に対し、「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさい」と言って、米軍の捕虜とならぬよう自決用に手榴弾を渡したもので(甲B5・46頁)、梅澤隊(梅澤隊長)が自決を命じたことは明らかである。無事を喜ぶことと、万一のときに捕虜にならぬよう自決を命じたこととは、なんら矛盾するものではない。 カ 同カ(住民側において自決命令を否定すべき根拠となるエピソード)について (ア)同①(宮村文子の場合)について 控訴人は、宮村文子が目撃した自決には《梅澤命令》の影響はうかがえないと主張するが、その根拠は不明である。 前記5(2)ア(25~26頁)記載のとおり、沖縄の第32軍司令部は、軍官民共生共死の一体化の総動員体制のもと、防諜体制を強化し、住民に対し捕虜となることを許さず、玉砕を強いていたもので、秘密部隊である船舶特攻隊が配備されていた慶良間諸島においては、特に厳しく捕虜となることを禁止し、住民に玉砕(自決)を強いていたものであり、慶良間列島の集団自決は日本軍の隊長の指示・命令によるものである。 また、控訴人は、座間味、渡嘉敷の集団自決は、手榴弾で自決を遂げた者は極めて少ないなどと主張するが、事実に反する。座間味島でも、渡嘉敷島でも、自決用に手榴弾が配布された事実が多数ある(前記5(2)ア26頁)。 なお、原判決129頁7行目に「宮村文子は」とあるのは、「宮里育江は」の誤記である(乙50座間味村史下巻61頁参照)。 (イ)同②(宮平春子の場合)について 控訴人は、「母の遺したもの」(甲B5・219頁)に、宮里盛秀の自決について「住民を敵の『魔の手』から守るために」と記載されていることを指摘し、米軍に殺されるという恐怖から自決したと主張するかのようである。しかし、日本軍はまさに敵の「魔の手」を強調し、捕虜となることなく自決するよう指示・命令していたのである。なお、上記部分は、宮平春子の証言によって軍の命令が明確になったことから、「新版・母の遺したもの」(乙104・220頁)では削除されている。 (ウ)同③(宮里美恵子の場合)について 控訴人は、宮里美恵子の手記に「玉砕命令がくだった」とあり、「軍の命令」であるとはされていないこと、住民が自決の覚悟を固めていく様子が記載されていると主張するが、日本軍が全権を事実上掌握していた座間味島で、「玉砕命令がくだった」といえば、軍の命令を指す以外ありえないことである。また、軍が捕虜となることを禁止し、自決を指示・命令していたからこそ、住民は自決を覚悟するしかなかったものであることは、前記のとおりである。 (2)同(2)(『沖縄史料編集所紀要』(甲B14)についての評価)について 控訴人は、原判決が「沖縄史料編集所紀要」、末尾の6行部分を控訴人梅澤が執筆したものであると認定したことは明らかな誤認であると主張する。 しかし、「紀要」末尾6行部分は、控訴人梅澤の手記の後半部分が主観的記述であったため、大城将保が控訴人梅澤と電話や手紙で調整し、手記の後半部分をカットし、その代わりに、電話で控訴人梅澤から聞き取った結論的見解を大城が加筆し付加したものである(乙45大城将保陳述書)。(なお、甲B10の神戸新聞掲載の大城の談話は本人への取材によるものではなく、事実に反するものである。) 控訴人は、甲B115号証の末尾に、「紀要」にある「以上により」以下の部分が記載されていないことから、「紀要」の「(戦記終わり)」との記載は場所的な誤植であると主張するが、「紀要」の末尾6行部分が加筆されたのは上記の経緯によるものであり、同部分は控訴人梅澤の結論的見解であって、「(戦記終わり)」は場所的な誤植ではない。控訴人は、控訴審において新たに甲B115、128、129、130を提出しているが、いずれも大城が陳述書で述べている「紀要」末尾6行部分の作成経緯についての主張を否定するものではない。 したがって、「紀要」末尾の6行部分を控訴人梅澤が執筆したものであるとした原判決の認定は正当である。 (3)同(3)(梅澤供述の信用性について―手榴弾の交付について―)について 控訴人は、原判決が、梅澤隊の木崎軍曹が宮城初枝に自決用の手榴弾を交付したこと、日本兵が住民に自決用の手榴弾を交付したことについて、戦隊長である控訴人梅澤の了解なしに交付したというのは不自然であるなどと判示したことについて、個人的配慮として分けてやったのであると主張するが、なんら根拠のない主張である。 原判決が指摘するとおり、手榴弾は座間味島、渡嘉敷島に駐留する日本軍の重要な武器であり(乙55沖縄方面陸軍作戦・232、244頁、甲B5・203~204頁)、部隊において厳重に管理されていたもので、戦隊長の了解なしに住民に交付するなどということはありえなかったものである。控訴人梅澤は、米軍上陸の際には住民を捕虜にされ軍の秘密が米軍に漏れるのを防止するため、住民を自決させることにしていたからこそ、手榴弾を住民に交付することを認めたものである。 控訴人は、赤松隊の中隊長であった皆本証人が、手榴弾の住民への交付について、「戦隊長の了解なしにやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言したことについて、渡嘉敷島での手榴弾交付はすべて戦隊長の了解のもとで行われたことを認めたが、渡嘉敷島と座間味島とでは事情が異なると主張する。しかし、皆本証人の証言は、座間味島の日本軍を含む当時の日本軍の武器管理の状況を明瞭に物語るものというべきである。 (4)同(4)(本田靖春『第一戦隊長の証言』(甲B26)(1987年)の評価)について 控訴人は、原判決において、本田靖春「第一戦隊長の証言」(甲B26)の検討・評価がほとんど欠落していると非難する。 しかし、同書証は、宮村盛永の「自叙伝」(乙28)、宮村幸延の「証言」(甲B8)、宮城初枝の証言などについての本田靖春の検討・評価が記載されているものであり、裁判所が判決において本田の評価について言及しなければならない性質のものでないことは明らかである。 (5)同(5)(宮村盛永『自叙伝』(乙28)の評価)について 控訴人は、宮村盛永「自叙伝」(乙28)には、自決の意思を自ら徐々に固めていくことが記載されていると主張するが、仮にそうであるとしても、前述したとおり、軍が捕虜となることを禁止し、自決を指示・命令していたからこそ、住民は自決を覚悟するしかなかったものである。 (6)同(6)(宮平春子の証言の評価)について 控訴人は、原判決が宮平春子の証言(乙51陳述書)の検討・評価をほとんど脱漏していると非難するが、原判決は、131頁で春子の証言内容を詳細に紹介した上で、203頁において「自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有する」と述べ、これを評価している。 なお、宮里盛秀助役の妹である宮平春子及び宮村トキ子の証言(乙51、乙98)は、宮里盛秀助役ら座間味村幹部が、日本軍(梅澤隊長)から、米軍上陸時には敵の捕虜とならぬよう住民を自決させるよう指示・命令されていたことを示す極めて重要な証言である。 (7)同(7)(上洲幸子の証言の評価)について 控訴人は、上洲幸子証言(乙52)は、筒井中尉から「もし敵に見つかったら、(中略)捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい」と、仮定的な条件をつけているので、《梅澤命令》を否定するエピソードであると主張するが、日本軍は、捕虜とならぬよう自決を指示・命令していたのであり、筒井中尉が「もし敵にみつかったら」と述べたことは、自決命令を否定するものとは到底言えない。 控訴人は、神戸新聞に掲載された上洲幸子の話に言及しているが、神戸新聞の記事は、控訴人梅澤の意向にしたがい、その主張に沿って恣意的に記述したものといわざるをえず、信用できない(原審被告準備書面(7)11~13頁参照)。 (8)同(8)(宮里育江の証言の評価)について 控訴人は、宮里育江の手記(乙50座間味村史下巻)に、部隊長の命令であるとして、伝令が、女性の軍属のみなさんは、食糧の持てるだけのものを持って移ってくださいと伝えたと記載されていることをもって、控訴人梅澤が自決命令を出していたのなら考えられない行動であると主張するが、育江は軍属であり、軍と行動する必要があり、また、前述のとおり、日本軍は、米軍の捕虜とならぬよう自決を指示・命令していたのであり、未だ米軍に遭遇しておらず、捕虜になるおそれが現実化していない段階で、軍属に対し食糧を持って移動するよう指示したことは、自決の指示・命令と矛盾するものではない。長谷川少尉が育江たちのことを気遣ったことも同様である。 (9)同(9)(『潮だまりの魚たち』(甲B59))について 控訴人は、「潮だまりの魚たち」掲載の住民の証言に、住民が自ら自決を決断したこと、米軍に対する恐怖感を抱いていたこと、怪我をした水産学校2年生が隊を離れ家族のもとに行くことを認められたこと、兵士から食糧を分けてもらったことなどが記載されていることを理由に、住民は隊長命令とは無関係に自決したのだと主張するが、前記のとおり、日本軍は、米軍に対する恐怖心を煽り、捕虜となることを禁じ、米軍が上陸し捕虜になりそうなときは自決するよう指示・命令していたものであり、上記の事実は軍の自決命令を否定するものではない。 (以下、準備書面(3)3/3) 7 同7(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その3)―渡嘉敷島―)について 第4 同第4(宮平秀幸証言)について 第5 同第5(『沖縄ノート』による人格非難について)について 1 同1(原判決の判示)について 2 同2(究極の故人攻撃)について 前へ | 次へ | 沖縄集団自決訴訟第2審
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1415.html
今日の訪問者 - 沖縄戦資料index 【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」 証言記録「沖縄住民虐殺」―日兵逆殺と米軍犯罪 沖縄戦と民衆(目次) 歴博「集団自決」展示問題 大田昌秀講演「沖縄戦と集団自決裁判について」 読める判決「集団自決」=大阪地裁判決と裁判資料 読める控訴審判決「集団自決」 =大阪高裁判決と裁判資料 「ある神話の背景」の研究 「海上挺進第三戦隊陣中日誌」の研究 Index 沖縄戦資料index地理渡嘉敷村ガイド 文献 沖縄戦根元史料作戦と戦闘経緯 沖縄戦前夜 慶良間諸島の戦闘と集団自決 住民虐殺 体験証言沖縄県史渡嘉敷 座間味 阿嘉 慶留間 渡嘉敷村史 座間味村史 その他 軍政と住民動員 富山証言と手榴弾配布 朝鮮人軍夫と朝鮮人慰安婦 援護法 米軍資料 戦時報道 防衛研究所資料 論争史戦後ルポ 潮1971年11月号 青い海1971年6月号 曽野・太田論争など 家永教科書裁判の頃 「ある神話の背景」分析 否定派の裁判提起裁判を起こした右翼の経緯 産経新聞「正論」 雑誌「正論」「WILL」 日本会議学生が行ったアンケート 藤岡信勝氏が発した闘争指令 原告関係者資料梅澤証言 赤松嘉次・赤松隊資料 安里証言 海上挺進第2戦隊関係 照屋「証言」 世界日報特集 その他関係者資料大江健三郎氏関連資料 その他 狼魔人歪曲関係 星雅彦、上原正稔 最近の論評書評 07教科書検定 9.29沖縄県民大会 リンク その他 地理 渡嘉敷村ガイド 渡嘉敷村なんでもデータより 渡嘉敷村サイト・集団自決について01.慶良間諸島の沖縄戦(未作成)(PDF保存) 02.渡嘉敷島戦跡案内図(未作成)(PDF保存) 03.白玉之塔(未作成)(PDF保存) 04.自決跡地(未作成)(PDF保存) 05.戦跡碑(未作成)(PDF保存) 戦跡碑 白玉之塔 特攻艇秘匿壕 阪神さんの写真記録 文献 沖縄戦と民衆(目次) 戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦 鉄の暴風・悲劇の離島・集団自決 渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』 沖縄戦根元史料 作戦と戦闘経緯 wikipedia沖縄戦 公刊戦史を写真と地図で探る 「戦闘戦史」 読谷村史 戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦New 第三十二軍の戦備の度 海上挺進戦隊の運用 海上挺進戦隊、特幹生、マルレ 慶良間駐留部隊の戦没将兵数 座間味戦記 竹田宮と第84師団派遣中止 沖縄戦前夜 3月20日頃は決戦必至緊迫の時期八原博通など 「沖縄決戦 高級参謀の手記」前夜 p131 慶良間諸島の戦闘と集団自決 鉄の暴風・悲劇の離島・集団自決 『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同New 渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』New 渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』New 座間味戦記 渡嘉敷村史資料編:慶良間諸島の戦争(解説)(未作成) 沖縄県史より渡嘉敷村(未作成) 沖縄県史より座間味村(未作成) 赤松元戦隊長の認識と態度 海上挺進隊出撃後の島民は? 「新沖縄県史」について→沖縄県教育委員会 事実を追いかける(4)1次資料:座間味村史を読む 住民虐殺 沖縄戦における「集団自決」と「住民虐殺」の事例一覧 「日の丸」ときくと、すぐ思いうかべる事件がある。太田良博 証言記録「沖縄住民虐殺」―日兵逆殺と米軍犯罪佐木隆三 パンフレット『これが日本軍だ』 われらの「内」なる戦争犯罪田口汎 座間味島でも住民虐殺は起きていた 体験証言 沖縄県史 渡嘉敷 字渡嘉敷徳平秀雄『渡嘉敷島の集団自決』(未作成) 字渡嘉敷米田惟好『渡嘉敷村長の証言』(未作成) 本部付警戒小隊長知念朝睦『副官の証言』 阿波連金城ナヘ『集団自決とそのあと』 阿波連大城良平『渡嘉敷島で起こったこと』(未作成) 字渡嘉敷小嶺源次『渡嘉敷島防衛隊』(未作成) 匿名座談会『渡嘉敷女子青年団』(未作成) 座間味 字座間味宮里とめ『座間味島の戦闘』(未作成) 字座間味宮里美恵子『座間味の集団自決』 字座間味宮平初子『集団自決』(未作成) 字座間味宮里ナヘ『壕生活』(未作成) 字座間味中村春子『爆弾を受けて』(未作成) 字座間味宮平カメ・高良律子『山の中へ避難』(未作成) 字座間味宮城初枝『女子青年団』 字座間味吉田春子『軍と共に』 阿嘉 字阿嘉中村仁勇『青年義勇隊』 字阿嘉宮平ウメ子『炊事班』(未作成) 字阿嘉金城初子『南洋引揚者』(未作成) 字阿嘉中島フミ『戦場で出産』(未作成) 字阿嘉与那嶺康永『防衛隊の戦闘参加』(未作成) 字阿嘉仲地和子『自決を思いとどまって』(未作成) 字阿嘉垣花武一『阿嘉島の戦闘経過』(未作成) 字阿嘉照喜名定盛『食糧問題』(未作成) 慶留間 字慶留間中村米子『慶留間の集団自決』(未作成) 字慶留間大城昌子『自決から捕虜へ』 字慶留間兼城三良(父)大城昌子(娘)『集団自決』(未作成) [[]] 渡嘉敷村史 金城武徳『パイン缶詰は戦争の味』 山城盛治『私は後ろからささえる役だった』 玉城源二『巡査に連れ出され処刑された二人の少年』 小嶺勇夫『集団自決の重傷者を救け出した』渡嘉敷村史より 小嶺幸信『一〇・一〇空襲と戦場になった島』渡嘉敷村史より 富山眞順『一〇・一〇空襲・沈められた連絡船と……』 小嶺園枝『後生(グソー)スガイ(死装束)で雨の山道を』 富里安江『赤ん坊のミルク代りに椎の実を噛み砕いて…』 座間味村史 宮平貞子『死んではいけない』New その他 知花くらら、祖父の沖縄戦集団自決体験(YouTube) 友軍兵士がわが子を殺した 空襲そして艦砲射撃 山の中へ 自決未遂… 朝鮮人軍夫のこと 日本軍国主義と沖縄人 友軍にやられたよ 吉川勇助さん 吉川嘉勝さん 宮平春子さんと宮村トキ子さん姉妹の証言 上洲幸子さん 女性たち 「中尉」と「隊長」 毒おむすび渡された仲里議長 「沖縄の証言」(上)より 「沖縄の証言」(下)より 集団自決などをめぐって(論争史) 証言の意味するもの・・・谷川健一 写真集沖縄戦より 生き残った沖縄県民100人の証言 軍政と住民動員 沖縄戦について―戦時警備と総動員警備、軍命令の2種類 宮崎日誌に見る戒厳令検討 国頭国士隊の文書綴『秘密戦ニ関スル書類』 報道宣伝・防諜等ニ関スル県民指導要綱 防衛隊について 32軍による沖縄県民に対する戦争指導 沖縄新報:昭和19(1944)年12月8日第2面 住民動員それぞれの体験3防衛隊・男子学徒隊読谷村史 住民動員「義勇隊」文書発見/「根こそぎ」実態示す 警察官の秘密戦活動に関する日記 富山証言と手榴弾配布 3月20日頃は決戦必至緊迫の時期 「沖縄決戦 高級参謀の手記」前夜 p131 軍の自決命令 私は聞いた朝日新聞1988年6月16日夕刊 兵器軍曹とは 手榴弾 「元鰹節加工場敷地の顛末記」 朝鮮人軍夫と朝鮮人慰安婦 「集団自決」論争の陰に隠れて 沖縄県内の慰安所 渡嘉敷島に送られた朝鮮人軍夫の名簿(未作成) 援護法 「集団自決」早期認定/国、当初から実態把握 「軍命捏造」証言に反論/「集団自決」訴訟 「捏造」証言の元援護課職員人事記録で指摘/国の方針決定時担当外 米軍資料 沖縄タイムス:宣伝ビラ 戦況応じ配布/沖縄戦時の米軍文書発見 New OKINAWA THE LAST BATTLE Seizure o f the Kerama Islands New 戦時報道 沖縄新報Archives New 防衛研究所資料 防衛研究所資料<沖台 沖縄> <沖台 沖縄>トピック 論争史 戦後ルポ 集団自決の島――沖縄・慶良間25年目の暑い夏New 潮1971年11月号 琉球弧に住んで十六年島尾敏雄 日本人による植民地支配の原型大城立裕 生き残った沖縄県民100人の証言 集団自決を追って星雅彦 《私記》私は自決を命令していない赤松嘉次 青い海1971年6月号 私たちを信じてほしい赤松嘉次 曽野・太田論争など 集団自決などをめぐって 論争点(某ブログにて)本文 家永教科書裁判の頃 「裁かれた沖縄戦」安仁屋政昭 赤松元戦隊長の認識と態度 「ある神話の背景」分析 沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実 index 1968~1973の関係者経緯 曽野綾子に関するiza 戦争を知っていてよかった なぜ日本人は成熟できないのか 曽野綾子に関するメモ 沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄 『切りとられた時間』抜粋 いわば馥郁たる優しさ田村隆一 石川水穂による沖縄戦闘争宣言(未作成) PHP文庫「ある神話の背景」田村隆一解説 否定派の裁判提起 裁判を起こした右翼の経緯 特集・沖縄集団自決:虚構の軍命令 軍命令はなかったことを教える、授業実践報告服部 剛 沖縄戦集団自決についての取り組み昭和史研究所 沖縄集団自決冤罪訴訟と教科書検定との関係を初めて知る方に南木隆治 2005/7/24産経新聞記事 2007/1/1「靖國応援団の歩みと皆様への感謝」南木隆治 産経新聞「正論」 再論・沖縄集団自決・良心の欠けた不誠実な弁明秦郁彦 沖縄戦の集団自決と大江氏裁判秦郁彦 沖縄集団自決をめぐる理と情秦郁彦 集団自決と検定・沖縄集会「11万人」の怪秦郁彦 集団自決と検定それでも「命令」の実証なし 曽野綾子 集団自決と検定「正確さ」犠牲にはできない八木秀次 再論・沖縄集団自決藤岡信勝 「政治的妥協」の愚を繰り返すな藤岡信勝 集団自決と検定“トリック報道”で世論誘導藤岡信勝 なんのための教科書修正か岡本行夫 雑誌「正論」「WILL」 教科書検定に「沖縄条項」の創設を許してはならない藤岡信勝 完全に破綻した大江健三郎の論理藤岡信勝 大江裁判:失笑“大弁解”採録 日本会議学生が行ったアンケート 藤岡信勝氏が発した闘争指令 文科省に抗議の電話を! 原告関係者資料 梅澤証言 沖縄集団自決、梅澤隊長の濡れ衣櫻井よしこ 座間味島集団自決事件に関する隊長手記(沖縄史料編集所紀要11) 関西の防衛を支える会機関紙「國の支え」32号より 梅澤裕インタビュー平成21年9月12日(土) 赤松嘉次・赤松隊資料 海上挺進第三戦隊の配備地図(赤松戦隊長らの回想による) 渡嘉敷島に残留した別部隊員 赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本New 赤松隊「陣中日誌」改竄の一端 赤松嘉次 本人文書 & 反映文書一覧表(仮) 赤松隊関係「史実調査参考資料報告」 赤松資料:「戦史資料 昭和二十一年一月九日調整」 海上挺進基地第3大隊戦闘概要 沖縄作戦 殉国日記 index 赤松元戦隊長の認識と態度 赤松氏デビュー1968.4.6週刊新潮 赤松氏デビュー1968.4.8琉球新報 1970.3.27沖縄タイムス(未作成) 私たちを信じてほしい青い海1971年6月号 《私記》私は自決を命令していない潮1971年11月号 渡嘉敷島隊長は「自決命令」を不本意でも認めたことはない 1970年3月赤松來沖時の報道(未作成) 安里証言 安里喜順氏の証言 海上挺進第2戦隊関係 海上挺進基地第2大隊第3中隊陣中日誌 照屋「証言」 「軍命令」は創作だった・元琉球政府職員が勇気ある告白証言藤岡信勝 「軍命令は創作」初証言・元琉球政府の照屋昇雄さん<産経新聞>平成18年8月27日 正論:軍命令を否定する証言元琉球政府の照屋昇雄さん産経新聞2006.8.27 真相を墓場まで持ち込んだ二人 世界日報ネット販売店/飛び出した証言(下)-辞令書を示し、照屋氏反論 世界日報特集 【簡単なまとめ】 妄説に断! 渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった 照屋ビデオ採録 照屋昇雄氏に関するメモ 世界日報特集 沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防 New その他関係者資料 大江健三郎氏関連資料 人間をおとしめるとはどういうことか 抜粋「沖縄ノート」 その他 沖縄戦負兵日記 写真図説:日本の侵略 狼魔人歪曲関係 源哲彦 沖縄タイムス「論壇」投稿 沖縄新報:昭和19(1944)年12月8日第2面 星雅彦、上原正稔 星、上原両氏のチャンネル桜出演に思う 最近の論評 林博史教科書検定への異議 林博史教科書検定制度の「詐欺」 janjan軍隊は住民を守らない・今、なぜ沖縄戦の事実を歪曲するのか 2007/09/17 雑誌正論沖縄集団自決冤罪訴訟が光を当てた日本人の真実弁護士・徳永信一 「沖縄」はなぜ歪曲、攻撃されるのか大城将保 アエラ記事の誤りを指摘して勉強するコーナー 世界日報鴨野守による座間味島民への人格攻撃記事 チェック資料:「集団自決に軍命はなかった」と口に出せない沖縄「言論封鎖社会」週刊新潮 櫻井よしこ チェック資料: 沖縄戦、県民疎開に尽力した知事 櫻井よしこ 週刊新潮 世界2007年6月号 世界2007年7月号 検証「集団自決」ジェンダーの視点から 宮城晴美 「集団自決(強制集団死)」森住卓 書評 『沖縄戦 強制された「集団自決」』 丹念な分析で「真相」に迫る 出版:狙われた「集団自決」 沖縄の涙…怒りの声 シリーズ:『沖縄・問いを立てる』(全6巻)紹介 07教科書検定 リンク「けーし風」読者の集い(3) 沖縄戦特集 「軍の強制」明記/執筆者坂本氏申請へ沖縄タイムズ2007年10月28日 事実を追いかける(2)検定意見と修整内容について 沖縄集団自決・教科書から「軍命令」削除検定撤回狙うNHK報道中村粲 文科省最終承認~検定審第2部会日本史小委員会の報告(平成19年12月25日) 共同アピール 「あぶない教科書」を子どもたちに渡してはならない 9.29沖縄県民大会 県議会意見書 9.29沖縄県民大会大会決議 座間味・宮平春子さん(代読) 渡嘉敷・吉川嘉勝さん 高校生の発言 沖縄・集団自決日本軍関与:教科書検定撤回もとめて11万人のうねり 集会の虚構と実体日本会議熊本理事長 多久善郎 リンク:かつぼたつ 大会運営 リンク 戦争と沖縄 「戦争と沖縄」8参考文献のページ 沖縄戦の記憶・本館 沖縄戦の記憶・沖縄戦体験の証言 大田昌秀講演「戦後沖縄の挑戦」 西浜楢和さん「沖縄通信」 その他 月刊ビューポイント■ダイジェスト版世界日報 1945年3月の月暦 TOP | 沖縄戦庫
https://w.atwiki.jp/traindriveats/pages/77.html
小田良 こだら Kodara こだら Kodara 駅番号 IT26 キロ程 29.4km(稲城中央起点) 稲鉄於部屋(1.1km) 平尾団地(1.4km) 対向式ホーム2面2線を有するカーブ上にある高架駅。 この駅の日中の停車列車は20分に1本である。 当駅付近から新平尾方には平尾の街並みが広がる。 乗降客数15,338人/日 停車列車 日中は快速が毎時3本停車する。 隣の駅 特急 ・ 通勤急行 ・ 急行 通過 通勤快速 ・ 快速 ・ 普通 稲鉄於部屋-小田良-平尾団地 (通勤快速は上新田から、快速は百村から、新平尾まで各駅に停車する。)
https://w.atwiki.jp/baccano/pages/69.html
別名、成田良悟と2chファミリーガイド。 ネタなんでお遊び全開でいきまヒャッハァ! 『英数』 「S市」埼玉県さ○ま市?さいたま市じゃないよ。 というのはありがちな間違い。 成田がプレイヤーとして参加していた(らしい)遊演体のネットゲーム「こうもり城へようこそ!」のシスタージョウン市か、「勇者110番」の桜崎市のどちらか、らしい。 「1934アニメ化決定」定期的に話題になるが、今のところその予定は無さそうだ。 情報発信源は某書店のHP。単なるミスと思われるが放置されている 「200冊」2008年2月、瀕死状態の成田が「あと200冊は出したい…」と胸に抱く野望。 でも60歳で定年だとしたら最低年6冊以上は出さないといけないんですが。 100歳まで書くと言っても年3冊ですよね。 まあ不死者だし、5人組だし関係ないか。成田ファイト! 「2002【C-side】」幻のバッカーノ! 当初成田は『バッカーノ!2002』を3部作にする予定で執筆していたようだが、「大人の事情」により2巻構成にせざるを得なくなったらしい。 そのため200ページ近くが削れたとか。そのことについてはファミリーの間でも賛否両論があった。 C-sideをseasideと掛けているのはガチでしょう。 『あ行』 「あえて言おう」『バッカーノ!』に出てくるナイルというキャラの口癖。元ネタはガンダムではない。 正確には「あえて」までが口癖なので色々発展の余地があるネタである。 「アルカディア」エンターブレイン発行のアーケードゲーム専門誌『月刊アルカディア』のこと。 川上稔氏により、かつて成田がこの雑誌に投稿したハガキが発掘された(『遭えば編するヤツら』) 「エイプリルフール」ネットでネタを発表する日になりつつある昨今。成田もよく黒胡椒でネタを披露する 黒胡椒内「もの」参照2008年はゲームメーカー「ワルゴヤ」および、『FAKE/states night』――聖杯戦争INアメリカ――というFateの二次創作小説を発表。 その分量は『だいたい電撃文庫換算で140ページ弱』であり、2chファミリーを色々な意味で驚愕させた。 しかもその後タイプムーンエースで付録として付属することが決定。まさに嘘から出た真 もしかしたら「電撃April Fool」および収録短編を指す事もあるかもしれない 「エナミカツミ」『バッカーノ!』『ヴぁんぷ!』シリーズのイラストレーターエナミカツミさん。 女じゃないよ、男だよ。 成田とは対照的に「エナミ先生」「エナミ氏」などと敬称で呼ばれる事も多い。 絵が素敵すぎるので、2chファミリーの中にはエナミ先生の絵を拝みたいがためだけにアニメ主題歌のCDやDVDを購入(CDの帯、DVD特典の設定資料集にはエナミ先生のオリジナルイラストが用いられている)する輩もいる。これはもはや愛だあああ! 成田に負けず劣らずご多忙の模様。っていうか成田のせい? 『か行』 「くだらない上に馬鹿な話。だが、面白い」成田作品に対する最高の褒め言葉であり成田の目標(?) 「首」『デュラララ!!』の愛称。驚くべきことに首無しライダーが主人公だから。 というより俺は、首無しの生物がアイルランドで妖精として信仰されている事実に驚いたぜ!アイルランドクオリティたかす! 「黒胡椒」成田の公式サイト「RESISTANCE黒子SHOW」の通称 ヘッダのタイトル名がよく変わる~2/20は「修羅場・オア・ダイ。そしてまた血尿の季節」 2/20~7/30は「たりらり乱」 7/30~12/17は「かっくら菌」 12/17~09/01/16は「クロ高のバスケ」 09/01/16~は「『怪奇☆ザックバラン侯爵現る現る』」 お気に入りやブックマークのタイトルで、ファンになった時期がある程度わかるらしい。 「ゲーム」狭義では「DS電撃文庫ADVバッカーノ!」を指す。 成田の趣味。昔からどこにそんな時間があるのかと仲間の作家達から不思議がられているくらいプレイする。 「削殺天使クレアちゃん」藤原祐によって成田に贈られた壊れ系小説? 黒胡椒「もの」内で公開中 この用語集では「けずごろてんし」の読みを採用した 「血尿」現在のところ、四年連続で出ているらしい。 大絶賛記録更新中。 「小気味いい男」シュコン♪シュコン♪ 『バッカーノ!1931特急編』139Pの「シュコンという小気味いい男が響いてきた」という誤字から生まれたネタ。 もちろん正しくは「小気味いい音」である。 残念ながらゲーム化に合わせてか第十版以降では修正されてしまっている。 変わりにゲームではエルマーが『小気味良い男』と紹介され、エルマー編は小気味良い男編として本編の裏で進行した物語となっている。 「誤字・脱字」成田作品には誤字や脱字、誤記が多いとよくネタにされる。 実際、多い。 ミスとして指摘するものでなく、共に愛でるもの。 「セラード・クォーツ」「小気味いい男が響いた」「イブ・ガンドール」などが有名。 竜ヶ崎? メルヒオル? ヴァルシュタイン? クァーツ? クォーツ? その程度はもう気に留めるまでもあるまい。 デビュー作ではアイザックがダラスになったりしていた。なんというイリュージョン。 「これ成田のせいじゃないよね系誤字」ドラマCD『1931』のトールケース背表紙(?)に書かれた『BACCNO!』 アニメ『バッカーノ!』公式サイトのキャラクター相関図にて、フェルメートやベグ、グレットとシルヴィにカーソルを当てると……? カラオケDAM配信の『BAKKANO!』 「成田病」の項を参照 『さ行』 「酒」『バッカーノ!』の愛称その2。馬鹿と並んでよく使われる。 「でも、お酒がメインの話は1作目だけなんだよなあ。東洋のことわざでは確か…」 「始まりよければ、全てよし!ってヤツだねッ」 「爺ショタ」成田が開拓した(?)新たなる究極の萌え領域。 代表的な爺ショタコンにフェルメートがいる。 「チェスぅぅぅぅぅぅぅぅ」 「シックルに蹴られて来る」自分が何か失敗をしてしまった時に、ツンデレカポエイラ使いのシックル女史の足蹴りを喰らうことで、反省の意を表明することができる。 間違ってageてしまったときに、よく使われる。 誰ですか?「快感…」なんて言っている人は。 「実際にあった事にします」成田は電撃作家によるパロディ作品やメディアミックスのオリジナルキャラ等を自作の公式設定として取り入れることで知られている。 代表例としては東雲迅氏による『バッカーノ!』の4コママンガのネタを『1933<上>』で「実際にあったこと」として語った等。 その他、黒胡椒内「もの」で閲覧できる『デュラララ真伝・二人は仲良し(作:おかゆまさき)』も公式設定としている。 また、『電撃h』『電撃p』や『電撃hPa』などの電撃公式海賊本には『学園キノ』に代表されるパラレル・パロディ作品が多く掲載されているが、成田が海賊本のために書き下ろした作品はほぼ全てが「実際にあったこと」とされており、本編と密接に関与していることも多い。 ただし、全てというわけではない。 『斬九郎→ザンク・ローワン』のように成田自身の誤字から生まれたと思われるキャラクターも存在する。 アニメのオリジナルキャラをアニメ放送前に原作に逆輸入し、オリジナルなのか何なのか分からないというカオスを生み出した。 尚、『がるぐる!』における麗蕾や『バッカーノ!』におけるレイル、フランク、シックル、「詩人」のようにイラストから生まれたキャラクターも存在する。 成田の懐はどこまで広いのか……! 「締め切り」作家達の敵…と見せかけて無いと困るもの。成田は特に熾烈な戦いを繰り広げるようだ。 成田いわく「好きなギャンブル:締め切り」 好きなの? 「修羅場」成田の日常。 アニメ放送中はよく言われる「作家は年中夏休みだけど毎日8月31日のような状態」に対して「毎日が9月1日のような状態」と語っていた 「好きな○○は●●! 成田良悟です。」黒胡椒内の日記の書き出しの1文。最近は常にこの形。 趣味さらけ出し。 「そんなのはまだいい方です」アンケート質問『締め切り前日なのに原稿が真っ白!どうする?』に対する成田の回答。 『た行』 「血」『ヴぁんぷ!』の愛称。吸血鬼を舞台にした原作のストーリー設定から。 「デュラアニメ化」①絶賛希望中。 ②一時期2chファミリーの間を駆け巡った都市伝説。 誰か当時の経緯詳しく覚えてるヤツいたら書いてくれ。電撃15年祭のイベントにてコ○パがデュラのセルティTシャツ発売 そのPOPに「デュラララアニメ化希望」と書かれていた。 だが希望の文字は小さく、うpされた写真も光の反射加減で「希望」が読めない。証拠写真はこちら→http //www5.atwiki.jp/baccano?cmd=upload act=open pageid=69 file=POP.jpg 「童貞」90歳を過ぎても固く純潔を守るギャングスター、フィーロ・プロシェンツォさんの愛称。 「あれはもはや男のDNAへの挑戦だな」by 同僚のランディさん(ペッチョだったっけ?) そんなんだから魔法使いを通り越して不死者になっちゃいました。 フィーロ?いいえ、俺です。 『な行』 「成田」『酒』『橋』『血』『首』『針』等、多岐に亘るシリーズを一手に担うライトノベル作家。 2chでは「成田先生」「成田さん」のように敬称で呼ばれることは少なく呼び捨てにされることが多いが、フランクな親しみの込められた呼称である。 ゲームや漫画に詳しく、漫画家大亜門との鼎談に(ギャグ作品の書き方というテーマなのに何故か)おかゆまさきと共に呼ばれた事もある。電撃文庫の8割を読んでいると語っていた事も。 執筆時期以外も常に新しいキャラクター設定を生み出し続けており、ヴぁんぷのキャラ設定が100を超えたとか言っていたのは既にだいぶ前のことである。 脇役愛に溢れている。溢れすぎている。 だからファミリーの皆は熱烈にあなたを愛しています。 働きすぎのため近年では、その生死が危ぶまれている。 「成田お願いだから休んでくれ」成田がHP上などで健康不良や忙しさをネタにすると書き込まれる言葉。 たぶん実際に長いこと休んだら休んだでガッカリする。ファンって残酷だよね いや、でも本当に死なないで。 「成田病」感染すると誤字脱字が多くなってしまう病気。 成田作品関係では成田の責任範囲外にも誤字が目立つ(気がする)事から生まれた言葉。 使用例「また成田病患者が…」 電線するので気を付けよう アニメ第1幕WOWOW初回放送のEDクレジットでルノラータが「ルノターラ」と表記された時は流石にスタッフのネタなんじゃないかとう疑う者も出た カラオケのDAMの本にも誤字が確認された。感染はどこまで拡大するのか…… タイプムーンエースでも付録表3のコピーライト表記がTPYE-MOONになっており、さっそく感染が確認された。 「成田・良子」成田・悪悟の妹。和服。 兄の世話係で至って常人。……本当ですよ? 「成田・悪悟」『遭えば編するヤツら』の主人公。衝撃文庫作家にしてカモッラ。 カモッラなので普段着は縦縞スーツにサングラス。 代表作にスタイリッシュ全裸アクション『宇宙の中心マッパダ!さん』等。 割とアレな作家仲間に恵まれている。なんというかこう、内臓とかロボとか全裸とか。 作家仲間の七月隆文などからは成田良悟自身のあだ名として使用される事もある。 「二次創作」成田自身はHP上などで歓迎と公言している。 2006年3月に同人誌即売会のオンリーイベントが開かれたこともある 「寝ゲロ」成田死なないで。 『は行』 「馬鹿」『バッカーノ!』の略称その1。 もしくは褒め言葉の一種。 「馬鹿ップル」『バッカーノ!』に出てくる二人組みのキャラクター「アイザック」「ミリア」を指す。普通に「バカップル」と書かれる事が多い。 「○○ってやつだ!」「○○だね!」などというレスがあったらそれは大抵馬鹿ップルのレスである。 本来のミリアはただアイザックの言った内容を繰り返すだけのキャラではないが、なかなか上手い事ネタで返すのは難しい。 「橋」『越佐大橋シリーズ』の愛称。 成田作品で今のところ唯一完結している。 各巻のタイトルは、動物の鳴き声になっています。 バッシャーノ進行『灼眼のシャナ』と『バッカーノ!』の新刊が同月発売だったとき、うまれた造語らしい どちらがよりはやく×××を●●●するかがあまりにキワどくギリギリの進行だったため、その競争具合を見て名付けられたとか。 素人がやると火傷するので絶対に真似してはいけない。 『電撃h&p』掲載の『灼眼のシャナガ全テ』内の用語集より。 この余裕のない進行が誤字の原因である可能性は高い。 「和田さん」電撃文庫の担当編集。ぱぴおさん。 某ネットラジオではダジャレ将軍と名を馳せたり、メルマガ給湯室ではうにまること編集三木氏とgdgdトークを披露したりしている。 その実態は編集傭兵(ルビ:フリー)出身の超強者らしい。 DVDスタンプラリー特典のDJCDにも出演。 「針」『世界の中心、針山さん』の愛称。 名前だけ聞くとグロそうだけど、そうでもないよ? 「バルルルルルルルルrrrrrrr」チェンソーの稼動音。(『越佐大橋』より) 主に場の雰囲気を変えたいときに使う。 「ヒャッハァ!」成田ファンの合言葉。意味や用途は無限大。(『バッカーノ!』より) 「ひゃっはぁ!」基本的に「ヒャッハァ!」と用途は同じ。「ひゃっはれ!」等の活用形も存在するが使用頻度は少ない 「二つ名メーカー」http //pha22.net/name2/ 成田が自分のHPでキャラ名を入れて遊んでいた。 「フェリックス・ウォーケン」「ニース・ホーリーストーン」「エルマー」の二つ名は成田イチオシ 『ま行』 「まあいい」悪魔のつぶやき。 使用方法は、自分の意見を述べた後に自虐的に「別にどーでもいいけど」みたいに付け加える感じでおk? まあ「ヒャッハア!」と同じく意味や用途は無限大ということで。 「目隠れ」成田は前髪やその他の要因で普段目が隠れているキャラクターを好むようだ 越佐大橋の「砂原潤」は実際メインキャラにも関わらず成田のお気に入りキャラとなっている。 「目隠れ」と「目隠し」は違うんじゃないか?などと言われる事もあるが成田的にその辺どうなのかは分かっていない。 グラハムについては「目隠れと言うより前髪長い」という見解が主流だが、フェルメートが成田の目隠れ萌えに入るかどうかは議論の分かれるところである。 『や行』 「友人」成田のリアル友達たち。 黒胡椒の日記や小説の著者紹介の欄にちょくちょく登場する。 成田の作品を頻繁にいじったり、二つ名メーカーの結果を送りつけたりする。 みんな成田が好きなんだな、きっとw 「よくわかるあらすじ」ヤスダスズヒトの作る作品紹介ページ。 デュラララや越佐大橋などの文庫発売前に公開されることがある。 基本的にデタラメなので注意。だがそれがいい。 ところでイカ子さんって誰なんですか? 『ら行』 「ラッツネタ」『越佐大橋』に登場する集団「ラッツ」の会話を模したかけあい。 「かけあい?」 「それって何するの?」 「痛くないのかな」 「ネジロに聞いてみようよ」 「そうだねネジロなら知ってるかも」 2chファミリーでも安易に多用すると煙たがられるので注意。ただのオウム返しではない。 たまにミリアが混ざる 「良一です!良二です!良三です!あと二人合わせて成田良悟です!!」おかゆまさきのブログのリンク集のデタラメサイト名 これで速筆の説明が付く……!!? 『わをん』 「脇役」物凄く大事にされる。『バッカーノ!1933』が出るまで誰もチックが表紙を飾る事になるとは思っていなかっただろう。 成田作品ではいつメインキャラになるか分からないので絵師達にとってもデザインは気が抜けない 『その他』 「 1乙」いちおつ。新スレッドが立った時にスレ立て人をねぎらう言葉。 2chファミリーでは台詞改変ネタが頻出する。(「あえて言おう、 1乙」などが最もポピュラー) ネタに自信があっても一人でIDを変えて何度も 1乙したりするのは本末転倒だからやめましょう。そのネタは次スレで。 コピペ用 「」 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/13300.html
スプーンおばさん DVD-BOX デジタルリマスター版 上巻 廉価版DVD-BOX発売日:8月29日 子どもから大人まで楽しめる上質のファンタジック・アニメーションがHD画質DVD-BOXで登場! ●全話・特典映像ともにHDネガテレシネによるデジタルリマスターから作成したハイクオリティなDVD化を実現! ●豪華声優・スタッフ陣が作り上げた世界に通用する作品! 八奈見乗児、島本須美、千葉繁、玄田哲章といった声優陣、 そして、シナリオ・絵コンテとして『攻殻機動隊』『イノセンス』の押井守もスタッフの一員として参加し、 “世界に通用する作品を"という意志のもとに制作された作品。 1983年放送。2012年8月29日、廉価版DVD-BOXが発売。 http //pierrot.jp/archives/tv_list_1980/tv_005.html チーフディレクター 早川啓二 補佐 長谷川康雄 原作 アルフ=プリョイセン キャラクターデザイン 南家こうじ 作画監督(総作監) 古瀬登、山内昇寿郎 美術監督 中村光毅 撮影監督 若菜章夫 編集 森田清次、宮内季美子 録音監督 斯波重治 音楽監督 あかのたちお 効果 石田秀憲 調整 桑原邦男 アニメーション制作 スタジオぴえろ 脚本 馬場民子 照沼まりえ あけどようこ 十品薫 なかはらまき 坂本雄作 高木良子 富田義明 松島利明 朝倉千筆 松岡志奈 出口勝 桜井正明 海老沼三郎 小出一巳 押井守 宮本昌孝 川崎智子 田部俊行 今泉俊昭 案納正美 まるおけいこ 杉原恵 絵コンテ 早川啓二 長谷川康雄 立場良 平田敏夫 野田作樹 山田まや 吉田健次郎 出崎哲 佐藤博暉 木暮輝夫 橋本直人 網野哲郎 古沢日出夫 斉藤宏治 益田津和 遠藤克己 小和田良博 家本泰 昆進ノ介 藤原良二 押井守 八敷哲夫 阿部司 伊藤幸松 北原健雄 案納正美 山本明 玉野陽美 古瀬登 演出 早川啓二 長谷川康雄 佐藤博暉 網野哲郎 吉田健次郎 橋本直人 古沢日出夫 野田作樹 矢沢則夫 立場良 作画監督 古瀬登 山内昇寿郎 三原武憲 千葉順三 近藤宏幸 松崎郁江 昆進ノ介 平田敏夫 阿部司 山崎隆生 藤原万秀 吉原彰雄 平村文男 石井邦幸 白川忠志 岸義之 小和田良博 朝倉隆 小川博司 木暮輝夫 広瀬和子 山本明 山岸博 土橋博 赤堀幹治 若山佳幸 丹内司 大坂竹志 北原健雄 鈴木寿美 ■関連タイトル 廉価版 スプーンおばさん DVD-BOX デジタルリマスター版 上巻 サウンドトラック ニルスのふしぎな旅 / スプーンおばさん 原作童話 新しい世界の童話シリーズ アルフ・プリョイセン ビョールン・ベルイ/小さなスプーンおばさん
https://w.atwiki.jp/wrtb/pages/5840.html
寺田良 出演作品 レコード ふしぎの国のアリス(とびら)※キングレコード版
https://w.atwiki.jp/game_staff/pages/591.html
池田 良磨 【いけだ りょうま】 1994 スーパーストリートファイターII X Grand Master Challenge CPS-2 カプコン Programmer CHABIN 上山真一, Min, 城戸保行, Mitsu, Garaman, 新留義博, 大内淳司, 池田良磨, 木本龍己, 稲葉博 1996 スターグラディエイター EPISODE I FINAL CRUSADE ZN-1/PS カプコン System Program CHABIN TYPE-M 新留義博, Meijin, 池田良磨 1997 私立ジャスティス学園 LEGION OF HEROES ZN-1 カプコン Special Thanks CHABIN TYPE M 1998 スターグラディエイター2 ナイトメア オブ ビルシュタイン ZN-2 カプコン Programmer CHABIN type M ・Main Programmer Hiro・Demo Programmer HERO HERO, 加藤茂・Player Programmer HERO HERO, Hiro, 加藤茂, 片岡正樹・Programmer 新留義博, 秋山幸平, 池田良磨, 香川雄一, Fuku 2 超鋼戦紀キカイオー ZN-2 カプコン プログラマー 池田 良磨 秋山幸平, KATSUO, 池田良磨, 山口健二, 山脇和男 Programmer CHABIN 25GT TURBO 秋山幸平, 池田良磨, Igossou!! Katsuo, HERO HERO, 山脇和男|Fuku2, 染谷勝彦, 香川雄一, Meijin, 新留義博 1999 私立ジャスティス学園 熱血青春日記2 PS カプコン プログラム協力 池田 良磨 2000 超鋼戦紀キカイオー DC カプコン プログラマー 池田 良磨 秋山幸平, KATSUO, 池田良磨, 山口健二, 新留義博, 山脇和男, 高橋幸男 Programmer CHABIN 25GT TURBO 秋山幸平, 池田良磨, Igossou!! Katsuo, HERO HERO, 山脇和男, Fuku2, 染谷勝彦, 香川雄一, Meijin, 新留義博, 小松多恵, Omake2Goh, 瀬田宗治 2001 機動戦士ガンダム 連邦vs.ジオンDX PS2 バンダイ Programming RYOMA IKEDA 木村嘉宏, 山脇和男, HERO HERO, 池田良磨, Igossou Katsuo, YOU!, 稲田義信, 葛野誠, Motsu 2003 Devil May Cry 2 PS2 カプコン Software Design Ryoma Ikeda 葛野誠, 池田良磨, Igossou Katsuo, Kobuta, 木村嘉宏, 染谷勝彦, 蓑宮正哲, 尾澤豪 2004 モンスターハンター PS2 カプコン Software Design Ryoma Ikeda 廣瀬紀生, YOU!, 池田良磨, 染谷勝彦, 伊野前幸子, 向井廣樹 2005 モンスターハンターG PS2 カプコン Software Design Ryoma Ikeda 廣瀬紀生, 池田良磨, 染谷勝彦, 伊野前幸子, 向井廣樹, 小松多恵, Nathanael Yam MONSTER HUNTER PORTABLE PSP カプコン Software Design Ryoma Ikeda 中尾義治, 田口陽子, 実兼大祐, 多田英樹, 眞延厚司, 澤田一紀, 西村幸雄|廣瀬紀生, 池田良磨, 染谷勝彦, 向井廣樹, Taro Akabane 2006 モンスターハンター2(dos) PS2 カプコン Software Design Ryoma Ikeda 廣瀬紀生, 小松多恵, 池田良磨, 染谷勝彦, 伊野前幸子, 向井廣樹, Chua Peiling, Taro Akabane 2007 MONSTER HUNTER PORTABLE 2nd PSP カプコン Software Design Ryoma Ikeda 染谷勝彦, 池田良磨, 多田英樹, 片岡正樹, 澤田一紀, 矢高達司, 実兼大祐, 眞延厚司, 北垣内聖子 2009 モンスターハンター3(tri-) Wii カプコン Software Design Ryoma Ikeda 廣瀬紀生, 小松多恵, 池田良磨, 三膳正, 樫本明広, 伊野前幸子, 向井廣樹, 田辺剛, 冨永紘二, 伊豆丸幸侍, 石原健太, 福本和徳
https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/15962.html
1996年10月放送開始。 監督 望月智充 監修 芝山努 助監督 根岸宏樹 原作 あべゆりこ キャラクターデザイン 山田みちしろ、池沼有美 総作画監督 山田みちしろ 美術監督 古谷彰 撮影監督 松澤浩之 編集 西山茂 音響監督 小林克良 音楽 堀井勝美 文芸担当 小野田博之 アニメーション制作 亜細亜堂 脚本 桜井正明 米村正二 菅良幸 岸間信明 剣持亘 絵コンテ 望月智充 芝山努 谷田部勝義 矢野篤 青木悠三 秦義人 木村哲 岩崎知子 河本昇悟 根岸宏樹 岡崎幸男 演出 根岸宏樹 谷田部勝義 矢野篤 椛島義夫 秦義人 木村哲 河本昇悟 岡崎幸男 作画監督 山田みちしろ 木村文代 椛島義夫 小和田良博 山本天志 小野隆哉 野館誠一 進藤満尾 高橋英吉 菊池城二 武内啓 石川修 浅野文彰 ■関連タイトル 原作コミック あべゆりこ/わんころべえ
https://w.atwiki.jp/taronja/pages/2074.html
中田良はヴェルスパ大分所属のMF 基本情報 国籍 日本 名前 ナカタ リョウ 生年月日 1990年2月9日 出身地 神奈川県 身長 172cm 体重 57kg ポジション MF 背番号 24 所属クラブ 2005年 - 2007年 日本大学高校 2008年 - 2011年 東海大学 2012年 - 現 在 HOYO AC ELAN大分/HOYO大分/ヴェルスパ大分 個人成績 シーズン クラブ 番号 リーグ リーグ リーグカップ オープンカップ 通算 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 2012 HOYO 30 JFL 0 0 - 0 0 0 0 2013 25 0 0 - 0 0 0 0 2014 V大分 24 0 0 - 0 0 0 0 通算 日本 JFL 0 0 - 0 0 0 0 総通算 0 0 - 0 0 0 0