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編集 駙は、副馬なり。正駕車に非ざれば、みな副馬と為す。一曰く駙は、近なり、疾なり。 駙馬都尉は、前漢代中期以降に置かれた職官。天子の駙馬(副馬、副車の馬)を司った。 天子の外出に随行する儀仗職であるが、武帝期の金日磾がこの官を以って寵愛を受けたことから、漢代では外戚等の要人が占めること奉車都尉に継ぐ顕官となった。後漢では明帝期に耿秉が拜し、奉車都尉竇固と共に匈奴を伐っている。 魏晋では尚書に加官された他、公主を娶った者や高官の子弟が任じられた例が多い。 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏・属官 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 武帝が置く。 武帝後元元年、侍中僕射の莽何羅(馬何羅)とその弟重合侯馬通が謀反し、駙馬都尉金日磾、奉車都尉霍光、騎都尉上官桀がこれを討つ。 中興後は、光禄勲に文属(書類上の所属)する。 明帝永平十五年、奉車都尉竇固、駙馬都尉耿秉が涼州に屯す。以後三年に渡り北匈奴を伐つ。 位 (前漢) 秩比二千石。 (後漢) 無員(或いは五人)、秩比二千石。 光禄勲に文属する。 職掌 駙馬を掌る。 前漢では、黄門駙馬という官があり、天子の駙馬は黄門に在ったという(*1)。 属吏・属官 不詳。 所属項目(タグ) 光禄勲 副馬 職官 軍官 都尉 駕車 駙馬都尉 関連項目・人物 駙馬都尉 詳説 編集 -
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二次兵科 [#p52df4f7] 三次兵科 精鋭兵科 四次兵科 修羅兵科 コメント欄 [部分編集] 二次兵科 名称 在庫数 朴刀兵転職令 槍兵転職令 騎兵転職令 弓兵転職令 剣兵転職令 蛮兵転職令 軽歩兵転職令 踊子転職令 女騎兵転職令 [部分編集] 三次兵科 名称 在庫数 大刀兵転職令 練鎚兵転職令 長槍兵転職令 戟兵転職令 鉄騎兵転職令 匈奴兵転職令 長弓兵転職令 弩兵転職令 長剣兵転職令 剣士転職令 藤甲兵転職令 猛獣兵転職令 近衛兵転職令 刺客転職令 遊騎兵転職令 弓騎兵転職令 舞姫転職令 歌姫転職令 [部分編集] 精鋭兵科 名称 在庫数 精鋭大刀兵昇進令 精鋭練鎚兵昇進令 精鋭長槍兵昇進令 精鋭戟兵昇進令 精鋭鉄騎兵昇進令 精鋭匈奴兵昇進令 精鋭弩兵昇進令 精鋭長剣兵昇進令 精鋭剣士昇進令 精鋭藤甲兵昇進令 精鋭猛獣兵昇進令 精鋭近衛兵昇進令 精鋭刺客昇進令 精鋭遊騎兵昇進令 精鋭弓騎兵昇進令 精鋭舞姫昇進令 精鋭歌姫昇進令 [部分編集] 四次兵科 名称 在庫数 神刀兵 戦鎚兵 神槍兵 鉄戟兵 強弓兵 強弩兵 重剣兵 剣豪 蛮甲兵 象兵 斧騎兵 虎豹騎 狼騎兵 神弓騎兵 親衛兵 暗殺者 戦姫 伶人 [部分編集] 修羅兵科 名称 在庫数 修羅神刀兵 修羅戦鎚兵 修羅神槍兵 修羅鉄戟兵 修羅強弓兵 修羅強弩兵 修羅重剣兵 修羅剣豪 修羅蛮甲兵 修羅象兵 修羅斧騎兵 修羅虎豹騎 修羅狼騎兵 修羅神弓騎兵 修羅親衛兵 修羅暗殺者 修羅戦姫 修羅伶人 コメント欄 Wikiの編集が苦手な方はこちらにお願いします。 名前
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梁剛 cast:久遠寺右京(らんま1/2)(匈奴大戦時) 紀家最精鋭の隊長。姐さんと呼ばれ慕われる。 主人公紀霊にとって初めての女性であったが、退役直前に李儒の策により命を落とした。
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能力値・特性 統率 武力 知力 政治 総合 槍兵 騎兵 弓兵 伝授特技 重臣特性 戦法 理想威名 初期値 99 91 85 79 354 B S S 神速 弓術調練 匈奴乱射 智勇兼備 順位 1 15 42 96 1
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登録日:2024/03/15 Fri 17 00 00 更新日:2024/06/19 Wed 08 16 11NEW! 所要時間:約 20 分で読めます ▽タグ一覧 リーボック 中国史 匈奴 名将 始皇帝の統一戦争を阻んだ武将 春秋戦国時代 李左車 李牧 趙 李牧とは、春秋戦国時代末期の人物。 趙国の武将。封号は武安君。なお、『戦国策』によると本来の名前は繓(さつ)で、牧は字だという。本稿では一般に知られている「李牧」で通す。 秦の始皇帝(皇帝となる前なので「秦王政」と王号で呼ばれることが多い)が中華統一を開始した時期に現れ、一時は秦軍を阻んだことで知られる。 生年は不明。前229年に没。 ▽目次 【生涯】◆前歴 ◆秦軍撃退 ◆破滅 【人物評】 【李牧の一族】 【各作品】 【余談】 【生涯】 ◆前歴 出身地は趙国の柏仁(現在の河北省は邢台市の隆尭県)。 しかし生年は不明。出自などほとんどのことは分からない。 長期間にわたって代(かつて独立国だったが武霊王の時代に併合した地域)の雁門郡に司令官として駐屯し、匈奴に対して防衛線を敷いていた。 現地一帯ではほぼ全ての権限を握っており、代郡・雁門郡の税収を(首都・邯鄲に収める以外は)自由に采配し、現地の役人の任免や、兵士への軍事訓練や待遇改善、狼煙台の整備、民衆情勢の視察など、全業務を指揮した。 また彼は匈奴に対しては防衛を徹底した。 「匈奴が侵入してくれば、住民は家畜や物資を持ってすぐに城や砦に帰還し、堅く守れ。もしも出撃するようなことがあれば斬刑に処す」 と、反撃も禁止していた。 そのため、匈奴は何度も侵入しながら、略奪してもほとんど収益を得られなかった。 しかしこうした徹底防衛は、敵の匈奴はおろか味方の趙軍将兵からさえ「臆病」と受け取られた。 当時の趙王もこれを問題視し、何度も譴責の使者を送ったが、李牧は頑として方針を変えなかった。 結局、趙王は李牧を罷免し、別の武将を後任の代郡太守とした。 後任太守は一年にわたって、匈奴の侵入に対して毎度出撃し、撃退していった。 しかし戦闘のたびに物資や兵士に対する損害が多く出てしまい、また農地や牧場は荒れ果てた。 趙王は慌てて李牧の再任を決定。 李牧は「病気」と称して門を閉ざして出仕しなかったが、これは一種のハッタリや交渉であり、 最終的に李牧は趙王に対して「王が私を再任するというのなら、私が従来の方針に戻すことを受け入れ、容喙しないでいただけますね」と言質を取った。趙王は受け入れた。 再び匈奴戦線の司令官となった李牧は、宣言通り方針を「専守防衛」に戻す。匈奴が侵入してきても民衆や物資を城に戻して、出撃を禁じて、守りに徹した。 それで匈奴は、略奪による収入こそ減ったが、敵がまた「臆病な司令官」に代わったと見て勢いづくようになった。 しかしその間に、李牧は将兵の訓練、武器の整備、物資の集積を行っていた。 そして、戦車1300輌、騎馬13000匹、勇士五万と弓兵十万、そしてそれらを指揮する将校が揃った時点で、李僕は反撃を決意した。 その時にも単純な力押しではなく作戦を練った。 まず、匈奴の侵入に合わせてわざと「逃げ遅れ」を作って住民や家畜を略奪させる。 李牧再任以来、略奪での収入が減っていた匈奴はいよいよ「攻め込み時が来た」と判断して、その主力部隊を総動員して攻め込んだ。当然「趙軍は今回も引きこもって出てこない」と確信している。 しかしその攻め込んできた匈奴の大群に対して、李牧は一年間増強し続けた軍隊を総動員。「まさか反撃されるはずがない」と油断していた匈奴を包囲し、一気に殲滅した。趙軍もこれまで戦う機会がなかったことで激しい戦意を見せたのである。 結果、匈奴は十万以上の騎馬と兵士を失い、以後十数年にわたって趙に攻め込むことができなくなった。 さらに李牧はこの機を逃さず北伐を開始。襜襤(せんらん)、東胡、林胡という三つの部族をあるいは滅ぼしあるいは併合して、北方を安定させ国力を増大させた。 『史記』にも記載された非常に有名なエピソードだが、実はこの李牧のエピソードは「いつ起きたのか」が分からない。 趙王から一度罷免されてから再任された、という話でも不思議と「趙王」とだけ記されており、孝成王(在位BC.265~BC.245)なのか悼襄王(在位BC.244~BC.236)なのか不明である。 また「李牧の兵権を一時交替した武将」も名前さえ記されていない。 ◆秦軍撃退 李牧の活動が年次とともに分かるのはBC.243から。趙国では悼襄王の二年、秦では始皇帝四年である。 このとき李牧は相国となり、秦国に使者として赴いて同盟を結び、秦が人質に取っていた趙国の太子と、趙が人質としていた秦の公子がそれぞれ帰国した。 ただ、二年後には趙は韓・魏・楚・燕(*1)と組んで秦に攻め込んでいるため、同盟は短期間で終わった模様。 さて、BC.245年に孝成王が没してから即位したのが悼襄王であるが、この悼襄王元年(BC.244)には趙国は大いに荒れた。 前年から大将軍の廉(れん)頗(ぱ)は魏国攻略に赴いていたが、即位した悼襄王は前から廉頗を嫌っていたため、彼の軍権を剥奪して楽乗という将軍に引き継がせようとした。 廉頗はこれに猛反発し、なんと楽乗を撃破。続いて側近を率いて今さっきまで敵対していた魏国に亡命した。 また廉頗に破れた楽乗も悼襄王からの叱責を厭ってか、逃亡して行方不明となる。 それ以前から趙国では、名臣と唄われた趙奢・藺相如が世を去っており、今また廉頗と楽乗をも失ったため、趙軍における李牧の重要性は増していた。 彼が相国に任命されたのもそれが原因であろう。 西に秦国と同盟を結んだのと同じBC.243年には、李牧は趙王からの命令で燕国に侵攻。燕国の武遂、方城の二県を制圧した。 翌BC.242年には再び燕国に侵攻。この時は老賢者・龐煖(ほうけん)と共に指揮を執り、燕の老将劇辛を討ち取っている。 ちなみに龐煖と劇辛は昔なじみだったという。しかし、劇辛はBC.312年に燕の昭王に仕えた人物であるといい、BC.242からすると七十年も前である。燕の昭王に仕えた時に二十歳だとすると劇辛は九十歳になり、かつ龐煖が劇辛と知り合ったのは「燕の昭王に仕える以前」らしいので、両者はほぼ同世代と思われる。 実際龐煖も趙の武霊王(在位BC.326~298)から諮問を受けたという逸話がある。武霊王の在位年数は四半世紀もあるので「何年のことか」ははっきりしないが、最晩年に諮問を受けたとしても56年前のこととなる。 やはりBC.242年時点で少なくとも七十代後半、「燕の昭王の時代に生きていた」というのが本当ならば九十代でもおかしくない年齢だろう。 また「韓非子」ではこの趙国と燕国(龐煖と劇辛)の戦いについて一カ所(飾邪篇)だけ触れられているが、ここでは李牧の名がない。 年齢差もあるので、李牧は龐煖の副将だったと思われる(あるいは参戦していなかったか)。 なお韓非子にとってはまさにリアルタイムで入手できた最新情報である。 このBC.242年の燕国攻略後、李牧の足取りは数年にわたって途絶える。 しかし商鞅の改革以来、一強となった秦国には相変わらず圧倒されっぱなしだった。 BC.236年、趙軍は龐煖を将軍として燕国に攻め込み六の城を制圧する(今回は李牧は不参戦)が、手薄になった趙国を秦軍(指揮官は王翦(おうせん)・桓(かん)齮(き)・楊端和)に攻め込まれて鄴・閼与など城を九つも失う。龐煖は急いで遠征軍を撤退させるが、すでに鄣水一帯の土地を失っていた(*2)。 この年に悼襄王が逝去して幽繆王(ゆうぼくおう)(趙王遷)が即位する(*3)が、BC.234年(幽繆王二年)に秦の大将・桓齮によって平陽・武城・武遂を落とされて将軍扈輒(こちょう)が討ち取られ、将兵十万を喪失。 翌BC.233年にはまたも桓齮に攻め込まれて上党を、続いて太行山を超えて趙国の後方、赤麗と宜安を落とされる。ここでも秦軍は趙軍十万を討ち取る。 すでに秦領となった鄴と合わせて、邯鄲は前後に秦軍に挟撃される形となった。 幽繆王も危機感を感じて代・雁門郡から李牧を招集、彼を大将軍に任命すると趙国全軍の指揮権を与え、秦軍撃退を命令した。 李牧は趙軍主力を率いて邯鄲から出撃すると、宜安付近から肥下にて秦軍と対峙。 連戦連勝を誇った秦軍に対して激しく戦い、ついに秦軍を撃破。桓齮は『史記』によれば撤退、『戦国策』では戦死したという。 時にBC.233年。この「肥下の戦い」の勝利で李牧は「武安君」に封じられた。 さらに翌BC.232年には、趙領の番吾に攻め込んできた秦軍を李牧が兵を率いて迎撃、これを打ち破る。 李牧率いる趙軍は、同年のうちに魏国・韓国にも攻め込み、国境線を南に押し広げていった。 ◆破滅 しかし、李牧が真に敵対していたのは桓齮ら秦の将軍たちではなかった。秦王政、いや秦の始皇帝である。 李牧が桓齮と戦っていたBC.233年、秦国では韓非子が始皇帝に謁見している。 韓非子はすぐに死没してしまったが、始皇帝が彼から受けた影響は大きく、ついに始皇帝は「天下統一」を本格的に視野に入れた。 そして韓非子は「趙国は以前から軍事力を増強し、また諸国の合従(反秦連合)を主導している」と指摘しており、また「秦趙の強弱は、今年にあるのみ」とも言及していた。 また秦国には尉繚子(うつりょうし)もいた。かつて魏国に仕えた尉繚子の子孫であり、自らも兵法家である。 彼はBC.237年に始皇帝に謁見し「六国にいる重臣たちに手厚く賄賂を送れば、六国の足並みを乱して諸侯を併合できるだろう。秦の損失はたかが三十万金ぐらいである」と指摘していた。 要するに、始皇帝は「天下統一」という戦略プランと「反間の計」という戦術プランを立てて行動を開始していた。 そして李牧は、あくまでも「秦軍迎撃」だけを考える戦術家であった。幽繆王には戦略眼はない。 この戦略と戦術の差が、李牧と趙国が敗れる最大の原因となる。 またBC.231年には代郡で大地震が、翌BC.230年には大飢饉が発生。不吉であった。 BC.229年(秦始皇18年)、始皇帝は大軍を発して趙国に攻め込んだ。大将王翦は井陘に、副将楊端和は河内に、次将羌瘣(きょうかい)は邯鄲もしくは代に、それぞれ軍を預かって進撃。もちろん、各方面を突破できれば、後は邯鄲を落とすのみである。 対する幽繆王は当然のように李牧を大将軍に起用し、また副将に司馬尚を任命して、全軍を与えて秦軍迎撃に当たらせた。 王翦も李牧には苦戦したが、始皇帝は尉繚子の策に基づき「反間の計」を実行に移す。 狙いは趙国の大臣・郭開。彼はBC.245年に廉頗の趙国帰参を妨害した人物だったが、十六年を経た現在は幽繆王の信任を得ていた。 また幽繆王の母・悼倡后も李牧を疎んでいた。 『列女伝』によれば、もともと彼女は低い身分で素行もよろしくなかったようだが(*4)、美貌ゆえに先王・悼襄王から後宮に迎えられ、ついには王妃となった経緯がある。 しかし李牧は、悼襄王が悼倡后を容れることに反対していた。 その悼倡后の産んだ子が幽繆王である。つまり彼女にとって、李牧が自分と息子を放逐することはあり得る話だった。 秦は彼らに大量の賄賂を送って味方に付けると、「李牧と司馬尚は秦軍と結託して邯鄲に攻め込み、王位を奪おうとしている」との噂を流させた。 もともと幽繆王自体が、兵権と人望を握り母と対立した李牧を警戒していたこともあり、幽繆王は李牧の粛清を決定。 王族の趙葱(ちょうそう)と、斉国からの亡命者・顔聚を派遣して李牧・司馬尚と交替させた。 李牧は驚きながらも邯鄲に戻って幽繆王に弁明するが、幽繆王は一切を聞き入れず即座に李牧を処刑。司馬尚は身の危険を察して逃亡した。 なお、李牧の最後は資料により差異がある。 『史記・廉頗藺相如列伝』では李牧は将軍解任の通達に抵抗したため、「抗命罪」により幽繆王が派遣した将校によって斬首された。直後に司馬尚も逃亡。その後に趙葱・顔聚を後任として派遣したとする。 一方『戦国策』では、李牧は悲嘆して自殺したという。なおこの『戦国策』では李牧は腕に障碍があり、拝礼も難しかった。そして剣を抜いて自殺しようとしたが、ちゃんと握れないので切っ先を口にくわえて柱に押しつけるようにして死んだという。とはいえ、その身体障害の描き方が「荘子」と似ており、さすがに寓話と推定される。 また李牧が粛清されるまでには『戦国策』には三つの話が記載されている。 『戦国策・欲見頓弱』では「秦大夫・頓弱が趙国に派遣され、万金を投じて工作して李牧処刑に誘導した」、 『戦国策・文信侯出走』では「幽繆王の寵臣・韓倉が李牧を讒言し、李牧に短刀を届けさせて死を賜った」、 『戦国策・秦使王翦攻趙』では「王翦が反間の計を用い、郭開に賄賂を送って李牧粛清に持って行った」、とする。 また上述した悼倡后の話は主に『列女伝』の記述による。 一番上の『戦国策・欲見頓弱』の話は尉繚子が始皇帝に示した反間の政略と一致する。このことから頓弱とは尉繚子の別名とする学説もある……が、「反間の計を進言する人物が、必ずしも賄賂の送り方や宮廷工作の具体的なやり方に通じているとは限らない」と言うことで、「尉繚子の策略を実行した工作員として頓弱(あるいはそれに相当する人間)がいたのは事実だろうが、尉繚子本人が邯鄲まで出張ったというわけではなかろう」というのが通説。 いずれにせよ、趙国は最後の名将であった李牧を自らの手で消し去った。 そして李牧の死を確認した秦軍は趙国攻略を再開。 BC.228年、王翦は総攻撃を開始し、東陽の地で趙軍を大いに破る。趙葱は戦死して顔聚は邯鄲に逃亡した。 秦軍はそのまま邯鄲に攻め込むとこれを攻略し、幽繆王と顔聚を捕縛した。 幽繆王は房陵に流されたという。 趙国の公子嘉(幽繆王の異母兄)はかつて李牧が治めていた代に逃亡して代王を名乗るが天下の趨勢に影響をもたらすことはなく、BC.222年にやはり秦によって滅ぼされ、公子嘉も捕虜となり趙国は完全に滅亡した。 【人物評】 始皇帝の統一戦争を正面から阻む可能性のあった人物として、楚国の項燕とともに知られる人物。 唐朝・徳宗の建中三年(782年)には、礼儀使・顔真卿の建議で歴代の名将六十四人を讃えて「武廟」を設立した。その筆頭は太公望だが、続く諸将の中には李牧の名前も入っている。 (他の春秋戦国時代後期の武将からは、孫臏・田単・廉頗・趙奢・王翦が選出) 宋代の宣和五年には「武廟」は七十二人の武将が名を連ねるが、ここにも李牧の名がある。 匈奴に対しても強かったことから、北方騎馬民族の脅威を常に受けていた漢民族からの信仰も強かった。 例えば、前漢の名君・文帝は「廉頗や李牧がいま我が部下にいれば、匈奴など恐れることもなかったであろう」と延べ、その臣下の馮唐は「天下の将軍はただ廉頗と李牧のみだ」と嘆いた。 他にも彼に言及する人物は多いが、ほぼ全て賞賛一色。 唐初期の歴史家・司馬貞が「廉頗と李牧を用いなかったために趙国は滅んだ」と評したのを筆頭に、あまたの文章家が李牧を絶賛し、その死を惜しんだ。 もっとも、李牧がそこまで絶賛されたのは、やはり「儒教の理想に背く悪の帝国を作った極悪人・始皇帝の野望を、唯一阻める人物だったから」という点が最も大きかったのだろう。 「三国志」の王允も、どちらかというと狭量な逸話が多いのに「董卓を討ち果たした」の一点のみで美化されているところがある。 李牧への英雄視も「もしあのとき李牧が勝っていたら」という、一種の願望もあったと思われる。実際「秦は汚い謀略を使って罠に填めた」と罵倒をぶつける文人もいた。例えば、宋の司馬光は「虜帳方惊避、秦金已闇来(秦の金は闇より来たれり)」と書いている。 「秦の侵略を阻んだ」のは項燕も同じだが、彼の場合は「中国史上最強の暴れ武者」項羽のイメージがあまりにも強く、また「全力を出し切ってそれでも秦の大軍に負けた」という展開のため、「もし郭開のような佞臣がいなければ」というようなIFも見いだしにくかったのだろう。 【李牧の一族】 李曇(字:貴遠) 李牧の祖父。趙で武将として働き、柏人侯の封号を受けた。その後は秦に入朝して御史大夫となる。 さらに後には退官して趙に戻り、柏人(現在の邢台市隆尭県)に葬られた。 李璣 李牧の父親。李曇の第四子。活躍などは記録されていない。 李左車 李牧の孫。 楚漢戦争から前漢初期の時代の人物。 秦末に六国残党が蜂起した際、趙歇と陳余を中心とする趙国に参加。「広武君」の封号を受ける(*5)。 歴史における李左車の初登場は紀元前204年。漢の大将軍・韓信(&一緒にいる張耳)が三万の兵で趙に侵攻した。 趙はこれを迎撃するためにほぼ全軍、二十万(*6)を投入。趙王歇と陳余が自ら参戦していた。 李左車はこの際、陳余の副将として参戦。 「韓信軍は数こそ少ないが勢いに乗っていて手強い。しかし井陘(地名)にいるので、隘路に苦戦している。この道を前後から封鎖してしまえば韓信軍の兵站を断ち崩壊させられるだろう。私が趙軍から三万を率いて韓信軍の背後に回るので、陳余閣下は残る大軍で正面から出口を封鎖してください」 と献策した。 だが陳余は「敵は寡兵でこちらは大軍。このような時は数に任せて短期決戦にすべし」と却下。少数の敵に対して持久戦を展開すれば志気に関わるともしていた。 「趙国」といっても陳勝の反乱からの混乱のなか突貫工事で立ち上げた勢力であり(*7)、求心力を高めなければならないというのは切実な問題であった。 また陳余が短期決戦にこだわった理由として、西からの韓信軍に加えて南方で劉邦軍が旧魏領地に展開しており、言わば西と南の両面から挟撃されていたことも指摘される。つまりさっさと韓信を倒して劉邦に備える必要があったと言うこと。もっとも、劉邦が韓信と連携していたかは資料で一致しない。 しかし韓信は「背水の陣」を敷いて陳余と趙軍主力を「韓信隊など一戦にして壊滅させられる」と思い込ませて誘い出す。それで手薄になった趙軍本陣に、韓信が送り込んだ別働隊が襲撃、前後に敵を迎えさせて、ついに趙軍を壊滅させた。この「井陘の戦い」は趙軍の完敗となり、趙歇・陳余は前後して戦死、趙国は滅亡した。 この際に李左車も捕らえられた。 しかし韓信は李左車の見識が高いことを知っており、彼を説得して自らの幕僚に加えた。李左車も韓信軍の疲弊と再建の必要性、および燕・斉を直接的な武力ではなく威圧によって降伏させる戦略を進言し、韓信はこれを受け入れた。 彼は「広武君略」という兵書を書き記したと言うが、現在は散逸している。 なお「敗軍の将は戦を語らず」とは、李左車が韓信に捕縛された際の言葉。趙歇・陳余をよく補佐できなかったことを念頭に置いている。 それでも説得する韓信に対して、自分は愚者ではあるがという謙遜を表現した「智者には千慮すれども必ず一失あり。愚者には千慮すれば必ずや一得あり」という言葉もまた有名である。 「史記」や「漢書」などにおける李左車の記述は以上となる。劉邦が天下を取ってからの受勲者の中に李左車の名前はない。 ただ、民間信仰では非常に人気が高く、主に旧趙国こと河北でさまざまな説話に登場するほか「死後に雹の神となった」とも伝わる。 1977年には山東省で古代の墓が見つかり「李左車の墓か」と一時期大騒ぎになったという。 しかし調査の結果、前漢時代ではなく後漢時代のものであり、李左車とは無関係と判明した。 まあそれはそれとして考古学的資料としては大きな価値があったが。 ただ、実は李牧の親族関係、特に李左車を李牧の孫とするのは『新唐書』宰相世系表に拠っている。 そして『新唐書』の歴史書としての評価はやや低め。また成立は1060年、李牧や李左車の時代から1200年以上も経過しており、「李左車は李牧の孫」というのは否定的な見方をされる場合もある。 なにせ李という姓は中国には無数にあるわけで…… ただ、陳余や韓信への献策からして李左車が能力ある人物だったことは確か。 また趙国では求心力の向上に腐心していたはずであり、仮に本当に血縁がなかったとしても「こちらの李左車将軍はあの李牧将軍の血を引くものである!」というハッタリを利かせた可能性なら大いにあるだろう。 【各作品】 コーエー三國志 「いにしえ武将」として定番の一人。 統率力は90代後半、知力は90前後と文武両道。武力と魅力も70代半ばとこれまた悪くない。 政略で消されたためか政治力は60台とやや低めながら、全体的にバランスのとれた武将。 安能務「春秋戦国志」 麾下の兵士を分散・収束させて敵を攪乱し、隙を見せたところに奇襲を掛ける、戦場での駆け引きに長けた武将として描写される。 韓非子は「政治の世界に天才というのは現れないが、軍事の世界に天才というのは突然現れる。例えば楽毅がそうだった。秦国は確かに現在最強の国家だが、軍事力で逆転されることはあり得る。そうなる前に統一を急ぐべきだ」と教えていた。 そのため李牧の活躍を聞いた始皇帝は「これこそ韓非子が言っていた、楽毅に並ぶ軍事の天才だ」と懸念しつつも「韓非子は政治の世界に天才は現れないと言った。しかし、ここに俺がいる。ヤツは俺の手で倒してみせる!」と決意する。 また魏国から来た尉繚子より「廉頗が魏国に亡命したのは、趙国で郭開の讒訴にあったから」と聞いていたこともあり、その郭開を買収(前金で一万金)して李牧を破滅させた。卑怯な政治工作と言うより、政治手腕による一騎打ちといった様相である。 なお、郭開は「李牧を始末したら趙都・邯鄲の城門も開ける」と約束していたのだが、李牧死後も彼は開門しなかった。というのも李牧死後も成功報酬が送られなかったことで、郭開が「秦は値切るか、踏み倒す気だ」と判断。徹底抗戦に及んだのだった。 キングダム 詳細はリンク先参照。 趙国の並み居る武将たちを総括する総司令官的な立場にあり、秦軍に対する強大な壁となる。 なお、李牧の史実の登場は(年次不明の匈奴迎撃戦を除けば)BC.243。しかしこの頃は、外交や対燕国戦線に投入されており、秦軍に対して投入されるのはBC.233である。 しかし本作では登場が大幅に前倒しされ、BC.244から対秦国戦線にて総指揮を執っている。 そのせいで数々の敗戦が李牧の責任にされ、読者からは「あれは李牧じゃない別人のリーボックだ」と揶揄されることに。 【余談】 『史記』では『趙世家』と『廉頗藺相如列伝』に記述があるが、なぜか『秦始皇本紀』には一切名前の記述がない。 アニヲタWikiを守るために追記・修正をお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 勝った… -- 名無しさん (2024-03-15 17 02 03) ん? -- 名無しさん (2024-03-15 17 16 23) 「身内における立ち位置の確保」と「対外戦闘の強さ」を両立できないと、武将というひとは長生きできない。大変なんだな。 -- 名無しさん (2024-03-15 20 49 13) 「守戦の名将」の印象が強かったけど、改めて読み直すと万能型の名将だったと感じられる。 -- 名無しさん (2024-03-16 00 19 28) 左遷されたり、疎まれたり、本人の能力は極めて高いのにさぞ悔いの残る生涯だったろうなぁ… -- 名無しさん (2024-03-16 01 39 45) まさかここの建て主が著作権をダシにしてエピソード項目の件を蒸し返すような残念な人柄だったなんて。もう二度とアニヲタwikiに関わらないでほしい -- 名無しさん (2024-03-22 10 29 47) 名前 コメント
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216年(建安21年) 司隷 河南尹 河内郡 河東郡 弘農郡 京兆尹 馮翊郡 扶風郡 豫州 潁川郡 汝南郡 梁国 沛国 孫権討伐に向かった曹操は(言焦)に到着。(魏書・武帝記) 陳国 魯国 冀州 魏郡 魏公→魏王:曹操 曹操は魏王となる。(武帝記) 鉅鹿郡 常山国 中山国 安平国 河間国 甘陵国 趙国 勃海郡 [亠兌]州 陳留郡 東郡 東平国 任城国 泰山郡 済北国 山陽郡 済陰郡 徐州 東海郡 琅邪国 彭城国 広陵郡 下[丕β]国 青州 済南国 平原郡 楽安国 北海国 東莱郡 済国 荊州 南陽郡 南郡 江夏郡 零陵郡 桂陽郡 武陵郡 長沙郡 揚州 九江郡 丹陽郡 廬江郡 会稽郡 呉郡 予章郡 益州 漢中郡 巴郡 広漢郡 蜀郡 [牛建]為郡 牂牁郡 越[山雋] 益州郡 永昌郡 広漢属国 蜀郡属国 [牛建]為属国 涼州 隴西郡 漢陽郡 武都郡 金城郡 安定郡 北地郡 武威郡 張掖郡 酒泉郡 敦煌郡 張掖属国 張掖居延属国 并州 匈奴南単于:呼廚泉? 匈奴右賢王:去卑? 曹操の魏王即位祝賀のため来朝。呼廚泉?は(業β)に引き止められ、去卑?が国を預かることになった。(魏書・武帝記) 上党郡 太原郡 上郡 西河郡 五原郡 雲中郡 定襄郡 雁門郡 朔方郡 幽州 [シ豕]郡 広陽郡 代郡 烏丸行単于:普富盧? 曹操の魏王即位祝賀のため来朝。(魏書・武帝記) 上谷郡 漁陽郡 右北平郡 遼西郡 遼東郡 玄菟郡 楽浪郡 遼東属国 交州 南海郡 蒼梧郡 郁林郡 合浦郡 交趾郡 九真郡 日南郡
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資治通鑑巻第二十五 漢紀十七 中宗孝宣皇帝上之下 地節三年(甲寅、前六七) 1春,三月,詔曰:「蓋聞有功不賞,有罪不誅,雖唐、虞不能以化天下。今膠東相王成,勞來不怠,流民自佔八萬餘口,治有異等之效。其賜成爵關内侯,秩中二千石。」未及徴用,會病卒官。後詔使丞相、御史問郡、國上計長史、守丞以政令得失。或對言:「前膠東相成偽自增加以蒙顯賞。」是後俗吏多爲虚名云。 1. 2夏,四月,戊申,立子奭爲皇太子,以丙吉爲太傅,太中大夫疏廣爲少傅。封太子外祖父許廣漢爲平恩侯。又封霍光兄孫中郎將雲爲冠陽侯。霍顯聞立太子,怒恚不食,歐血,曰:「此乃民間時子,安得立!即后有子,反爲王邪!」復教皇后令毒太子。皇后數召太子賜食,保、阿輒先嘗之,後挾毒不得行。 2. 3五月,甲申,丞相賢以老病乞骸骨;賜黄金百斤、安車、駟馬,罷就第。丞相致仕自賢始。 3. 4六月,壬辰,以魏相爲丞相。辛丑,丙吉爲御史大夫,疏廣爲太子太傅,廣兄子受爲少傅。 太子外祖父平恩侯許伯,以爲太子少,白使其弟中郎將舜監護太子家。上以問廣,廣對曰:「太子,國儲副君,師友必於天下英俊,不宜獨親外家許氏。且太子自有太傅、少傅,官屬已備,今復使舜護太子家,示陋,非所以廣太子德於天下也。」上善其言,以語魏相,相免冠謝曰:「此非臣等所能及。」廣由是見器重。 4. 5京師大雨雹,大行丞東海蕭望之上疏,言大臣任政,一姓專權之所致。上素聞望之名,拜爲謁者。時上博延賢俊,民多上書言便宜,輒下望之問状;高者請丞相、御史,次者中二千石試事,滿歳以状聞;下者報聞,罷。所白處奏皆可。 5. 6冬,十月,詔曰:「乃者九月壬申地震,朕甚懼焉。有能箴朕過失,及賢良方正直言極諫之士,以匡朕之不逮,毋諱有司。朕既不德,不能附遠,是以邊境屯戍未息。今復飭兵重屯,久勞百姓,非所以綏天下也。其罷車騎將軍、右將軍屯兵。」又詔:「池□未御幸者,假與貧民。郡國宮館勿復修治。流民還歸者,假公田,貸種食,且勿算事。」 6. 7霍氏驕侈縱橫。太夫人顯,廣治第室,作乘輿輦,加畫,繡絪馮,黄金塗;韋絮薦輪,侍婢以五采絲輓顯遊戲第中;與監奴馮子都亂。而禹、山亦並繕治第宅,走馬馳逐平樂館。雲當朝請,數稱病私出,多從賓客,張圍獵黄山苑中,使倉頭奴上朝謁,莫敢譴者。顯及諸女晝夜出入長信宮殿中,亡期度。 帝自在民間,聞知霍氏尊盛日久,内不能善。既躬親朝政,御史大夫魏相給事中。顯謂禹、雲、山:「女曹不務奉大將軍餘業,今大夫給事中,他人壹間女,能復自救邪!」後兩家奴爭道,霍氏奴入御史府,欲蹋大夫門;御史爲叩頭謝,乃去。人以謂霍氏,顯等始知憂。 會魏大夫爲丞相,數燕見言事;平恩侯與侍中金安上等徑出入省中。時霍山領尚書,上令吏民得奏封事,不關尚書,羣臣進見獨往來,於是霍氏甚惡之。上頗聞霍氏毒殺許後而未察,乃徙光女婿度遼將軍、未央衞尉、平陵侯范明友爲光祿勳,出次婿諸吏、中郎將、羽林監任勝爲安定太守。數月,復出光姊婿給事中、光祿大夫張朔爲蜀郡太守,羣孫婿中郎將王漢爲武威太守。頃之,復徙光長女婿長樂衞尉鄧廣漢爲少府。戊戌,更以張安世爲衞將軍,兩宮衞尉、城門、北軍兵屬焉。以霍禹爲大司馬,冠小冠,亡印綬;罷其屯兵官屬,特使禹官名與光倶大司馬者。又收范明友度遼將軍印綬,但爲光祿勳;及光中女婿趙平爲散騎、騎都尉、光祿大夫,將屯兵,又收平騎都尉印綬。諸領胡、越騎、羽林及兩宮衞將屯兵,悉易以所親信許、史子弟代之。 7. 8初,孝武之世,征發煩數,百姓貧耗,究民犯法,姦軌不勝,於是使張湯、趙禹之屬,條定法令,作見知故縱、監臨部主之法,緩深、故之罪,急縱、出之誅。其後姦猾巧法轉相比況,禁罔浸密,律令煩苛,文書盈於幾閣,典者不能遍睹。是以郡國承用者駁,或罪同而論異,姦吏因縁爲市,所欲活則傅生議,所欲陷則予死比,議者咸冤傷之。 廷尉史鉅鹿路温舒上書曰:「臣聞齊有無知之禍而桓公以興,晉有驪姫之難而文公用伯。近世趙王不終,諸呂作亂,而孝文爲太宗。繇是觀之,禍亂之作,將以開聖人也。夫繼變亂之後,必有異舊之恩,此賢聖所以昭天命也。往者昭帝即世無嗣,昌邑淫亂,乃皇天所以開至聖也。臣聞春秋正即位、大一統而愼始也。陛下初登至尊,與天合符,宜改前世之失,正始受命之統,滌煩文,除民疾,以應天意。臣聞秦有十失,其一尚存,治獄之吏是也。夫獄者,天下之大命也,死者不可復生,絶者不可復屬。書曰:『與其殺不辜,寧失不經。』今治獄吏則不然,上下相驅,以刻爲明,深者獲公名,平者多後患,故治獄之吏皆欲人死,非憎人也,自安之道在人之死。是以死人之血流離於市,被刑之徒,比肩而立,大辟之計,歳以萬數。此仁聖之所以傷也,太平之未洽,凡以此也。夫人情,安則樂生,痛則思死,棰楚之下,何求而不得!故囚人不勝痛,則飾辭以示之;吏治者利其然,則指導以明之;上奏畏卻,則鍛練而周内之。蓋奏當之成,雖皋陶聽之,猶以爲死有餘辜。何則?成練者衆,文致之罪明也。故俗語曰:『畫地爲獄,議不入;刻木爲吏,期不對。』此皆疾吏之風,悲痛之辭也。唯陛下省法制,寬刑罰,則太平之風可興於世。」上善其言。 8. 9十二月,詔曰:「間者吏用法巧文浸深,是朕之不德也。夫決獄不當,使有罪興邪,不辜蒙戮,父子悲恨,朕甚傷之!今遣廷史與郡鞠獄,任輕祿薄,其爲置廷尉平,秩六百石,員四人。其務平之,以稱朕意!」於是毎季秋後請讞時,上常幸宣室,齋居而決事,獄刑號爲平矣。涿郡太守鄭昌上疏言:「今明主躬垂明聽,雖不置廷平,獄將自正;若開後嗣,不若刪定律令。律令一定,愚民知所避,姦吏無所弄矣。今不正其本,而置廷平以理其末,政衰聽怠,則廷平將召權而爲亂首矣。」 9. 10昭帝時,匈奴使四千騎田車師。及五將軍撃匈奴,車師田者驚去,車師復通於漢;匈奴怒,召其太子軍宿,欲以爲質。軍宿,焉耆外孫,不欲質匈奴,亡走焉耆,車師王更立子烏貴爲太子。及烏貴立爲王,與匈奴結婚姻,教匈奴遮漢道通烏孫者。 是歳,侍郎會稽鄭吉與校尉司馬喜,將免刑罪人田渠犁,積穀,發城郭諸國兵萬餘人與所將田士千五百人共撃車師,破之;車師王請降。匈奴發兵攻車師;吉、喜引兵北逢之,匈奴不敢前。吉、喜即留一候與卒二十人留守王,吉等引兵歸渠犁。車師王恐匈奴兵復至而見殺也,乃輕騎奔烏孫。吉即迎其妻子,傳送長安。匈奴更以車師王昆弟兜莫爲車師王,收其餘民東徙,不敢居故地;而鄭吉始使吏卒三百人往田車師地以實之。 10. 11上自初即位,數遣使者求外家;久遠,多似類而非是。是歳,求得外祖母王媼及媼男無故、武。上賜無故、武爵關内侯。旬月間,賞賜以巨萬計。 11. 四年(乙卯、前六六) 1春,二月,賜外祖母號爲博平君;封舅無故爲平昌侯,武爲樂昌侯。 1. 2夏,五月,山陽、濟陰雹如雞子,深二尺五寸,殺二十餘人,飛鳥皆死。 2. 3詔:「自今子有匿父母、妻匿夫、孫匿大父母,皆勿治。」 3. 4立廣川惠王孫文爲廣川王。 4. 5霍顯及禹、山、雲自見日侵削,數相對啼泣自怨。山曰:「今丞相用事,縣官信之,盡變易大將軍時法令,發揚大將軍過失。又,諸儒生多窶人子,遠客饑寒,喜妄説狂言,不避忌諱,大將軍常讎之。今陛下好與諸儒生語,人人自書對事,多言我家者。嘗有上書言我家昆弟驕恣,其言絶痛;山屏不奏。後上書者益黠,盡奏封事,輒使中書令出取之,不關尚書,益不信人。又聞民間讙言『霍氏毒殺許皇后』,寧有是邪?」顯恐急,即具以實告禹、山、雲。禹、山、雲驚曰:「如是,何不早告禹等!縣官離散、斥逐諸婿,用是故也。此大事,誅罰不小,奈何?」於是始有邪謀矣。 雲舅李竟民善張赦,見雲家卒卒,謂竟曰:「今丞相與平恩侯用事,可令太夫人言太后,先誅此兩人。移徙陛下,在太后耳。」長安男子張章告之,事下廷尉、執金吾,捕張赦等。後有詔,止勿捕。山等愈恐,相謂曰:「此縣官重太后,故不竟也。然惡端已見,久之猶發,發即族矣,不如先也。」遂令諸女各歸報其夫,皆曰:「安所相避!」 會李竟坐與諸侯王交通,辭語及霍氏,有詔:「雲、山不宜宿衞,免就第。」山陽太守張敞上封事曰:「臣聞公子季友有功於魯,趙衰有功於晉,田完有功於齊,皆疇其庸,延及子孫。終後田氏簒齊,趙氏分晉,季氏顓魯。故仲尼作春秋,跡盛衰,譏世卿最甚。乃者大將軍決大計,安宗廟,定天下,功亦不細矣。夫周公七年耳,而大將軍二十歳,海内之命斷於掌握。方其隆盛時,感動天地,侵迫陰陽。朝臣宜有明言曰:『陛下褒寵故大將軍以報功德足矣。間者輔臣顓政,貴戚太盛,君臣之分不明,請罷霍氏三侯皆就第;及衞將軍張安世,宜賜幾杖歸休,歸存問召見,以列侯爲天子師。』明詔以恩不聽,羣臣以義固爭而後許之,天下必以陛下爲不忘功德而朝臣爲知禮,霍氏世世無所患苦。今朝廷不聞直聲,而令明詔自親其文,非策之得者也。今兩侯已出,人情不相遠,以臣心度之,大司馬及其枝屬必有畏懼之心。夫近臣自危,非完計也。臣敞願於廣朝白髮其端,直守遠郡,其路無由。唯陛下省察。」上甚善其計,然不召也。 禹、山等家數有妖怪,舉家憂愁。山曰:「丞相擅減宗廟羔、菟、蛙,可以此罪也。」謀令太后爲博平君置酒,召丞相、平恩侯以下,使范明友、鄧廣漢承太后制引斬之,因廢天子而立禹。約定,未發,雲拜爲玄菟太守,太中大夫任宣爲代郡太守。會事發覺,秋,七月,雲、山、明友自殺,顯、禹、廣漢等捕得;禹要斬,顯及諸女昆弟皆棄市;與霍氏相連坐誅滅者數十家。太僕杜延年以霍氏舊人,亦坐免官。八月,己酉,皇后霍氏廢,處昭台宮,乙丑,詔封告霍氏反謀者男子張章、期門董忠、左曹楊惲、侍中金安上、史高皆爲列侯。惲,丞相敞子;安上,車騎將軍日磾弟子;高,史良娣兄子也。 初,霍氏奢侈,茂陵徐生曰:「霍氏必亡。夫奢則不遜,不遜必侮上。侮上者,逆道也,在人之右,衆必害之。霍氏秉權日久,害之者多矣。天下害之,而又行以逆道,不亡何待!」乃上疏言:「霍氏泰盛,陛下即愛厚之,宜以時抑制,無使至亡。」書三上,輒報聞。其後霍氏誅滅,而告霍氏者皆封,人爲徐生上書曰:「臣聞客有過主人者,見其灶直突,傍有積薪,客謂主人:『更爲曲突,遠徙其薪,不者且有火患。』主人嘿然不應。俄而家果失火,鄰里共救之,幸而得息。於是殺牛置酒,謝其鄰人,灼爛者在於上行,餘各以功次坐,而不録言曲突者。人謂主人曰:『郷使聽客之言,不費牛酒,終亡火患。今論功而請賓,曲突徙薪無恩澤,焦頭爛額爲上客邪?』主人乃寤而請之。今茂陵徐福,數上書言霍氏且有變,宜防絶之。郷使福説得行,則國無裂土出爵之費,臣無逆亂誅滅之敗。往事既已,而福獨不蒙其功,唯陛下察之,貴徙薪曲突之策,使居焦發灼爛之右。」上乃賜福帛十匹,後以爲郎。 帝初立,謁見高廟,大將軍光驂乘,上内嚴憚之,若有芒刺在背。後車騎將軍張安世代光驂乘,天子從容肆體,甚安近焉。及光身死而宗族竟誅,故俗傳霍氏之禍萌於驂乘。後十二歳,霍後復徙雲林館,乃自殺。 班固贊曰:霍光受襁褓之托,任漢室之寄,匡國家,安社稷,擁昭,立宣,雖周公、阿衡何以加此!然光不學亡術,闇於大理;陰妻邪謀,立女爲後,湛溺盈溢之欲,以增顛覆之禍,死財三年,宗族誅夷,哀哉! 臣光曰:霍光之輔漢室,可謂忠矣;然卒不能庇其宗,何也?夫威福者,人君之器也。人臣執之,久而不歸,鮮不及矣。以孝昭之明,十四而知上官桀之詐,固可以親政矣,況孝宣十九即位,聰明剛毅,知民疾苦,而光久專大柄,不知避去,多置親黨,充塞朝廷,使人主蓄憤於上,吏民積怨於下,切齒側目,待時而發,其得免於身幸矣,況子孫以驕侈趣之哉!雖然,向使孝宣專以祿秩賞賜富其子孫,使之食大縣,奉朝請,亦足以報盛德矣;乃復任之以政,授之以兵,及事叢釁積,更加裁奪,遂至怨懼以生邪謀,豈徒霍氏之自禍哉?亦孝宣醞釀以成之也。昔椒作亂於楚,莊王滅其族而赦箴尹克黄,以爲子文無後,何以勸善。夫以顯、禹、雲、山之罪,雖應夷滅,而光之忠勳不可不祀;遂使家無□類,孝宣亦少恩哉! 5. 6九月,詔減天下鹽賈。又令郡國歳上繋囚以掠笞若瘐死者,所坐縣、名、爵、里,丞相、御史課殿最以聞。 6. 7十二月,清河王年坐内亂廢,遷房陵。 7. 8是歳,北海太守廬江朱邑以治行第一入爲大司農,勃海太守龔遂入爲水衡都尉。先是,勃海左右郡歳饑,盜賊並起,二千石不能禽制。上選能治者,丞相、御史舉故昌邑郎中令龔遂,上拜爲勃海太守。召見,問:「何以治勃海,息其盜賊?」對曰:「海瀕遐遠,不沾聖化,其民困於饑寒而吏不恤,故使陛下赤子盜弄陛下之兵於潢池中耳。今欲使臣勝之邪,將安之也?」上曰:「選用賢良,固欲安之也。」遂曰:「臣聞治亂民猶治亂繩,不可急也;唯緩之,然後可治。臣願丞相、御史且無拘臣以文法,得一切便宜從事。」上許焉,加賜黄金贈遣。乘傳至勃海界,郡聞新太守至,發兵以迎。遂皆遣還。移書敕屬縣:「悉罷逐捕盜賊吏,諸持鍺、鉤、田器者皆爲良民,吏毋得問;持兵者乃爲賊。」遂單車獨行至府。盜賊聞遂教令,即時解散,棄其兵弩而持鉤、金且,於是悉平,民安土樂業。遂乃開倉廩假貧民,選用良吏尉安牧養焉。遂見齊俗奢侈,好末技,不田作,乃躬率以儉約,勸民務農桑,各以口率種樹畜養。民有帶持刀劍者,使賣劍買牛,賣刀買犢,曰:「何爲帶牛佩犢!」勞來循行,郡中皆有畜積,獄訟止息。 8. 9烏孫公主女爲龜茲王降賓夫人。絳賓上書言:「得尚漢外孫,願與公主女倶入朝。」 9. 元康元年(丙辰、前六五) 1春,正月,龜茲王及其夫人來朝;皆賜印綬,夫人號稱公主,賞賜甚厚。 1. 2初作杜陵。徙丞相、將軍、列侯、吏二千石、訾百萬者杜陵。 2. 3三月,詔以鳳皇集泰山、陳留,甘露降未央宮,赦天下。 3. 4有司復言悼園宜稱尊號曰皇考;夏,五月,立皇考廟。 4. 5冬,置建章衞尉。 5. 6趙廣漢好用世吏子孫新進年少者,專厲強壯蜂氣,見事風生,無所迴避,率多果敢之計,莫爲持難,終以此敗。廣漢以私怨論殺男子榮畜,人上書言之,事下丞相、御史按驗。廣漢疑丞相夫人殺侍婢,欲以此脅丞相,丞相按之愈急。廣漢乃將吏卒入丞相府,召其夫人跪庭下受辭,收奴婢十餘人去。丞相上書自陳,事下廷尉治,實丞相自以過譴笞傅婢,出至外第乃死,不如廣漢言。帝惡之,下廣漢廷尉獄。吏民守闕號泣者數萬人,或言:「臣生無益縣官,願代趙京兆死,使牧養小民!」廣漢竟坐要斬。廣漢爲京兆尹,廉明,威制豪強,小民得職,百姓追思歌之。 6. 7是歳,少府宋疇坐議「鳳皇下彭城,未至京師,不足美」,貶爲泗水太傅。 7. 8上遷博士、諫大夫通政事者補郡國守相,以蕭望之爲平原太守。望之上疏曰:「陛下哀愍百姓,恐德之不究,悉出諫官以補郡吏。朝無爭臣,則不知過,所謂憂其末而忘其本者也。」上乃征望之入守少府。 8. 9東海太守河東尹翁歸,以治郡高第入爲右扶風。翁歸爲人,公廉明察,郡中吏民賢、不肖及姦邪罪名盡知之。縣縣各有記籍,自聽其政;有急名則少緩之。吏民小解,輒披籍。取人必於秋冬課吏大會中及出行縣,不以無事時。其有所取也,以一警百。吏民皆服,恐懼,改行自新。其爲扶風,選用廉平疾姦吏以爲右職,接待以禮,好惡與同之;其負翁歸,罰亦必行。然温良謙退,不以行能驕人,故尤得名譽於朝廷。 9. 10初,烏孫公主少子萬年有寵於莎車王。莎車王死而無子,時萬年在漢,莎車國人計,欲自托於漢,又欲得烏孫心,上書請萬年爲莎車王。漢許之,遣使者奚充國送萬年。萬年初立,暴惡,國人不説。 上令羣臣舉可使西域者,前將軍韓增舉上黨馮奉世以衞候使持節送大苑諸國客至伊循城。會故莎車王弟呼屠征與旁國共殺其王萬年及漢使者奚充國,自立爲王。時匈奴又發兵攻車師城,不能下而去。莎車遣使揚言「北道諸國已屬匈奴矣」,於是攻劫南道,與歃盟畔漢,從鄯善以西皆絶不通。都護鄭吉、校尉司馬喜甏皆在北道諸國間,奉世與其副嚴昌計,以爲不亟撃之,則莎車日強,其勢難制,必危西域,遂以節諭告諸國王,因發其兵,南北道合萬五千人,進撃莎車,攻拔其城。莎車王自殺,傳其首詣長安,更立它昆弟子爲莎車王。諸國悉平,威振西域,奉世乃罷兵以聞。帝召見韓增曰:「賀將軍所舉得其人。」 奉世遂西至大宛。大宛聞其斬莎車王,敬之異於它使,得其名馬象龍而還。上甚説,議封奉世。丞相、將軍皆以爲可,獨少府蕭望之以爲:「奉世奉使有指,而擅矯制違命,發諸國兵,雖有功效,不可以爲後法。即封奉世,開後奉使者利以奉世爲比,爭逐發兵,要功萬里之外,爲國家生事於夷狄,漸不可長。奉世不宜受封。」上善望之議,以奉世爲光祿大夫。 10. 二年(丁巳、前六四) 1春,正月,赦天下。 1. 2上欲立皇后,時館陶主母華婕妤及淮陽憲王母張婕妤、楚孝王母衞婕妤愛幸。上欲立張婕妤爲后;久之,懲艾霍氏欲害皇太子,乃更選後宮無子而謹愼者。二月,乙丑,立長陵王婕妤爲皇后,令母養太子;封其父奉光爲邛成侯。後無寵,希得進見。 2. 3五月,詔曰:「獄者,萬民之命。能使生者不怨,死者不恨,則可謂文吏矣。今則不然。用法或持巧心,析律貳端,深淺不平,奏不如實,上亦亡由知,四方黎民將何仰哉!二千石各察官屬,勿用此人。吏或擅興徭役,飾廚傳,稱過使客,越職踰法以取名譽,譬如踐薄冰以待白日,豈不殆哉!今天下頗被疾疫之災,朕甚愍之,其令郡國被災甚者,毋出今年租賦。」 3. 4又曰:「聞古天子之名,難知而易諱也;其更諱詢。」 4. 5匈奴大臣皆以爲「車師地肥美,近匈奴,使漢得之,多田積穀,必害人國,不可不爭」,由是數遣兵撃車師田者。鄭吉將渠犁田卒七千餘人救之,爲匈奴所圍。吉上言:「東懷去渠犁千餘里,漢兵在渠犁者少,勢不能相救,願益田卒。」上與後將軍趙充國等議,欲因匈奴衰弱,出兵撃其右地,使不得復擾西域。 魏相上書諫曰:「臣聞之:救亂誅暴,謂之義兵,兵義者王;敵加於己,不得已而起者,謂之應兵,兵應者勝;爭恨小故,不忍憤怒者,謂之忿兵,兵忿者敗;利人土地、貨寶者,謂之貪兵,兵貪者破;恃國家之大,矜民人之衆,欲見威於敵者,謂之驕兵,兵驕者滅。此五者,非但人事,乃天道也。間者匈奴嘗有善意,所得漢民,輒奉歸之,未有犯於邊境;雖爭屯田車師,不足致意中。今聞諸將軍欲興兵入其地,臣愚不知此兵何名者也!今邊郡困乏,父子共犬羊之裘,食草萊之實,常恐不能自存,難以動兵。『軍旅之後,必有凶年,』言民以其愁苦之氣傷陰陽之和也。出兵雖勝,猶有後憂,恐災害之變因此以生。今郡國守相多不實選,風俗尤薄,水旱不時。按今年計子弟殺父兄、妻殺夫者凡二百二十二人,臣愚以爲此非小變也。今左右不憂此,乃欲發兵報纖介之忿於遠夷,殆孔子所謂『吾恐季孫之憂不在顓臾而在蕭牆之内也』。」上從相言,止。遣長羅侯常惠將張掖、酒泉騎往車師,迎鄭吉及其吏士還渠犁。召故車師太子軍宿在焉耆者,立以爲王;盡徙車師國民令居渠犁,遂以車師故地與匈奴。以鄭吉爲衞司馬,使護善阜善以西南道。 5. 6魏相好觀漢故事及便宜章奏,數條漢興已來國家便宜行事及賢臣賈誼、晁錯、董仲舒等所言,奏請施行之。相敕掾史按事郡國,及休告,從家還至府,輒白四方異聞。或有逆賊、風雨災變,郡不上,相輒奏言之。與御史大夫丙吉同心輔政,上皆重之。 丙吉爲人深厚,不伐善。自曾孫遭遇,吉絶口不道前恩,故朝廷莫能明其功也。會掖庭宮婢則令民夫上書,自陳嘗有阿保之功,章下掖庭令考問,則辭引使者丙吉知状。掖庭令將則詣御史府以視吉,吉識,謂則曰:「汝嘗坐養皇曾孫不謹,督笞汝,汝安得有功!獨渭城胡組、淮陽郭征卿有恩耳。」分別奏組等共養勞苦状。詔吉求組、征卿;已死,有子孫,皆受厚賞。詔免則爲庶人,賜錢十萬。上親見問,然後知吉有舊恩而終不言,上大賢之。 6. 7帝以蕭望之經明持重,議論有餘,材任宰相,欲詳試其政事,復以爲左馮翊。望之從少府出爲左遷,恐有不合意,即移病。上聞之,使侍中成都侯金安上諭意曰:「所用皆更治民以考功。君前爲平原太守日淺,故複試之於三輔,非有所聞也。」望之即起視事。 7. 8初,掖庭令張賀數爲弟車騎將軍安世稱皇曾孫之材美及征怪,安世輒絶止,以爲少主在上,不宜稱述曾孫。及帝即位而賀已死,上謂安世曰:「掖庭令平生稱我,將軍止之,是也。」上追思賀恩,欲封其塚爲恩德侯,置守塚二百家。賀有子蚤死,子安世小男彭祖。彭祖又小與上同席研書指,欲封之,先賜爵關内侯。安世深辭賀封;又求損守塚戸數,稍減至三十戸。上曰:「吾自爲掖庭令,非爲將軍也。」安世乃止,不敢復言。 8. 9上心忌故昌邑王賀,賜山陽太守張敞璽書,令謹備盜賊,察往來過客;毋下所賜書。敞於是條奏賀居處,著其廢亡之效曰:「故昌邑王爲人,靑黑色,小目,鼻末鋭卑,少鬚眉,身體長大,疾痿,行歩不便。臣敞嘗與之言,欲動觀其意,即以惡鳥感之曰:『昌邑多梟。』故王應曰:『然。前賀西至長安,殊無梟;復來,東至濟陽,乃復聞梟聲。』察故王衣服、言語、跪起,清狂不惠。臣敞前言:『哀王歌舞者張脩等十人無子,留守哀王園,請罷歸。』故王聞之曰:『中人守園,疾者當勿治,相殺傷者當勿法,欲令亟死。太守奈何而欲罷之?』其天資喜由亂亡,終不見仁義如此。」上乃知賀不足忌也。 9. 三年(戊午、前六三) 1春,三月,詔封故昌邑王賀爲海昏侯。 1. 2乙未,詔曰:「朕微眇時,御史大夫丙吉,中郎將史曾、史玄,長樂衞尉許舜,侍中、光祿大夫許延壽,皆與朕有舊恩,及故掖庭令張賀,輔導朕躬,修文學經術,恩惠卓異,厥功茂焉。詩不云乎:『無德不報』,封賀所子弟子侍中、中郎將彭祖爲陽都侯,追賜賀謚曰陽都哀侯,吉爲博陽侯,曾爲將陵侯,玄爲平台侯,舜爲博望侯,延壽爲樂成侯。」賀有孤孫霸,年七歳,拜爲散騎、中郎將,賜爵關内侯。故人下至郡邸獄復作嘗有阿保之功者,皆受官祿、田宅、財物,各以恩深淺報之。 吉臨當封,病;上憂其不起,將使人就加印紼而封之,及其生存也。太子太傅夏侯勝曰:「此未死也!臣聞有陰德者必饗其樂,以及子孫。今吉未獲報而疾甚,非其死疾也。」後病果愈。 張安世自以父子封侯,在位太盛。乃辭祿,詔都内別藏張氏無名錢以百萬數。安世謹愼周密,毎定大政,已決,輒移病出。聞有詔令,乃驚,使吏之丞相府問焉。自朝廷大臣,莫知其與議也。嘗有所薦,其人來謝,安世大恨,以爲「舉賢達能,豈有私謝邪!」絶弗復爲通。有郎功高不調,自言安世,安世應曰:「君之功高,明主所知,人臣執事,何長短而自言乎!」絶不許。已而郎果遷。安世自見父子尊顯,懷不自安,爲子延壽求出補吏,上以爲北地太守;歳餘,上閔安世年老,復征延壽爲左曹、太僕。 2. 3夏,四月,丙子,立皇子欽爲淮陽王。皇太子年十二,通論語、孝經。太傅疏廣謂少傅受曰:「吾聞『知足不辱,知止不殆。』今仕宦至二千石,官成名立,如此不去,懼有後悔。」即日,父子倶移病,上疏乞骸骨。上皆許之,加賜黄金二十斤,皇太子贈以五十斤。公卿故人設祖道供張東都門外,送者車數百兩。道路觀者皆曰:「賢哉二大夫!」或歎息爲之下泣。 廣、受歸郷里,日令其家賣金共具,請族人、故舊、賓客,與相娯樂。或勸廣以其金爲子孫頗立産業者,廣曰:「吾豈老悖不念子孫哉!顧自有舊田廬,令子孫勤力其中,足以共衣食,與凡人齊。今復增益之以爲贏餘,但教子孫怠墮耳。賢而多財,則損其志;愚而多財,則益其過。且夫富者衆之怨也,吾既無以教化子孫,不欲益其過而生怨。又此金者,聖主所以惠養老臣也,故樂與郷黨、宗族共饗其賜,以盡吾餘日,不亦可乎!」於是族人悅服。 3. 4穎川太守黄霸使郵亭、郷官皆畜雞、豚,以贍鰥、寡、貧、窮者;然後爲條教,置父老、師帥、伍長,班行之於民間,勸以爲善防姦之意,及務耕桑、節用、殖財、種樹、畜養,去浮淫之費。其治,米鹽靡密,初若煩碎,然霸精力能推行之。吏民見者,語次録繹,問它陰伏以相參考,聰明識事,吏悄不知所出,咸稱神明,豪厘不敢有所欺。姦人去入它郡,盜賊日少。霸力行教化而後誅罰,務在成就全安長吏。許丞老,病聾,督郵白欲逐之。霸曰:「許丞廉吏,雖老,尚能拜起送迎,正頗重聽何傷!且善助之,毋失賢者意!」或問其故,霸曰:「數易長吏,送故迎新之費,及姦吏因縁,絶簿書,盜財物,公私費耗甚多,皆當出於民。所易新吏又未必賢,或不如其故,徒相益爲亂。凡治道,去其泰甚者耳。」霸以外寬内明,得吏民心,戸口歳增,治爲天下第一,征守京兆尹。頃之,坐法,連貶秩;有詔復歸穎川爲太守,以八百石居。 4. 四年(己未、前六二) 1春,正月,詔:「年八十以上,非誣告、殺傷人,它皆勿坐。」 1. 2右扶風尹翁歸卒,家無餘財。秋,八月,詔曰:「翁歸廉平郷正,治民異等。其賜翁歸子黄金百斤,以奉祭祀。」 2. 3上令有司求高祖功臣子孫失侯者,得槐里公乘周廣漢等百三十六人,皆賜黄金二十斤,復其家,令奉祭祀,世世勿絶。 3. 4丙寅,富平敬侯張安世薨。 4. 5初,扶陽節侯韋賢薨,長子弘有罪繋獄,家人矯賢令,以次子大河都尉玄成爲後。玄成深知其非賢雅意,即陽爲病狂,臥便利,妄笑語,昏亂。既葬,當襲爵,以狂不應召。大鴻臚奏状,章下丞相、御史案驗。案事丞相史乃與玄成書曰:「古之辭讓,必有文義可觀,故能垂榮於後。今子獨壞容貌,蒙恥辱爲狂癡,光曜晻而不宣,微哉子之所托名也!僕素愚陋,過爲宰相執事,願少聞風聲;不然,恐子傷高而僕爲小人也。」玄成友人侍郎章亦上疏言:「聖王貴以禮讓爲國,宜優養玄成,勿枉其志,使得自安衡門之下。」而丞相、御史遂以玄成實不病,劾奏之,有詔勿劾,引拜;玄成不得已,受爵。帝高其節,以玄成爲河南太守。 5. 6車師王烏貴之走烏孫也,烏孫留不遣。漢遣使責烏孫,烏孫送烏貴詣闕。 6. 7初,武帝開河西四郡,隔絶羌與匈奴相通之路,斥逐諸羌。不使居湟中地。及帝即位,光祿大夫義渠安國使行諸羌;先零豪言:「願時度湟水北,逐民所不田處畜牧。」安國以聞。後將軍趙充國劾安國奉使不敬。是後羌人旁縁前言,抵冒度湟水,郡縣不能禁。 既而先零與諸羌種豪二百餘人解仇、交質、盟詛。上聞之,以問趙充國,對曰:「羌人所以易制者,以其種自有豪,數相攻撃,勢不壹也。往三十餘歳西羌反時,亦先解仇合約攻令居,與漢相距,五六年乃定。匈奴數誘羌人,欲與之共撃張掖、酒泉地,使羌居之。間者匈奴困於西方,疑其更遣使至羌中與相結。臣恐羌變未止此,且復結聯他種,宜及未然爲之備。」後月餘,羌侯狼何果遣使至匈奴藉兵,欲撃善阜善、敦煌以絶漢道。充國以爲「狼何勢不能獨造此計,疑匈奴使已至羌中,先零、罕、幵乃解仇作約。到秋馬肥,變必起矣。宜遣使者行邊兵,豫爲備敕,視諸羌毋令解仇,以發覺其謀。」於是兩府復白遣義渠安國行視諸羌,分別善惡。 7. 8是時,比年豐稔,穀石五錢。
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ストーリークエスト 開始条件:「燃える洛陽城」クエストをクリア 開始場所:洛陽城 真影「会話」 クエスト 備考 クエスト 上級神将(上) クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)河南省 洛陽城真影(63,297)会話 クエスト開始条件 「燃える洛陽城」クエストを完了している。 「荘園」を開設している。 討伐隊長として討伐隊「坎武」を一回以上クリアしている。 ※クリア後に討伐隊マップ内の坎武と[会話]コマンドで会話している必要がございます。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)河南省 洛陽城真影(63,297)謎の魔力 クエスト内容 真影と会話して、神将からの伝書について聞く。 ※会話終了後、自動的にチベットの祭壇に移動します。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)天神掌:天上界 鬼神掌:地下界天神掌:極楽神将(13,19) 鬼神掌:奈落神将(50,56)会話 クエスト内容 極楽/奈落神将と会話して、何が起こったのか聞く。 ※会話終了後、自動的に山西省 綿山入り口(6,10)に移動します。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山入り口門番(5,8)会話 クエスト内容 門番と会話して、綿山の入場条件について聞く。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 平遥古平遥古城長老(71,218)会話 クエスト内容 平遥古城長老と会話して、綿山の入場条件について聞く。 その後、匈奴族を50人討伐する。 ※匈奴族の対象は山西省マップ内のモンスター「朱猟」「梁脚」となります。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 平遥古平遥古城長老(71,218)会話 クエスト内容 平遥古城長老と会話して、次の頼みごとについて聞く。 その後、匈奴族突撃隊長のモンスター「郭煙」を討伐する。 【モンスター「郭煙」の出現状態について】 モンスター「郭煙」は、山西省マップ内のモンスター「朱猟」を討伐時、一定確率で出現します。 平遥古城長老と会話することで、「郭煙」の出現状態及び、出現している場合は座標を確認できます。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 平遥古平遥古城長老(71,218)会話 クエスト内容 平遥古城長老と会話して、最後の頼みごとについて聞く。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 平遥古平遥古城長老(71,218)会話 クエスト内容 「入魂の蠍の尻尾」を入手し、平遥古城長老に渡す。 【入魂の蠍の尻尾の入手方法について】 入魂の蠍の尻尾は、討伐隊の報酬にて獲得可能です。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 平遥古平遥古城長老(71,218)会話 クエスト内容 「入魂の蠍の尻尾」を入手し、平遥古城長老に渡す。 【入魂の蠍の尻尾の入手方法について】 入魂の蠍の尻尾は、討伐隊の報酬にて獲得可能です。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山入り口門番(5,8)会話 クエスト内容 門番と会話して、長老の許可証を渡す。 ※会話終了後、綿山内に移動します。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内馬漢会話 クエスト内容 馬漢と会話後、出現するモンスターを全て討伐し、第1~第3の関門を突破する。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内飛燕会話 クエスト内容 飛燕と会話後、出現するモンスターを全て討伐して、飛燕を守り抜く。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内馬猴会話 クエスト内容 馬猴と会話後、馬猴を討伐する。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内馬猴会話 クエスト内容 馬猴と会話後、馬猴を討伐する。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内馬猴会話 クエスト内容 馬猴と会話後、現れた八天鬼・尽月を討伐する。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内尽月会話 クエスト内容 尽月と会話する。 ※会話終了後、「走火入魔」状態となり、3分間の制限時間が開始されます。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内尽月会話 クエスト内容 現れた八天鬼・坎武と会話する。 ※会話終了後、自動的に綿山内の別マップに移動します。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内馬漢会話 クエスト内容 馬漢と会話後、出現するモンスターを全て討伐し、第4~第6の関門を突破する。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内時空術師会話 クエスト内容 時空術師と会話し、綿山から脱出する。 ※会話終了後、自動的に千蕁先生の元に移動します。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)點蒼山 千蕁先生居所千蕁先生会話 クエスト内容 千蕁先生と会話し、走火入魔状態を治療してもらう。 【クエスト完了報酬】 傭兵「坤影」 ※傭兵は荘園内訓練所の出征にて確認、利用可能です。 黒穴功 x200個 力+1、熟練度+1 ※クエストを完了するには、荘園に訓練所を建設している必要があります。 ※千蕁先生のもとへは雲南省 密営料理屋の雲南省住人(45,210)と[会話]コマンドで会話することで移動できます。 上へ 備考 天上界 極楽神将「会話」 山西省 綿山 入口 門番「会話」 山西省 平遥古城長老「会話」 匈奴族50人を退治 山西省 平遥古城長老「会話」 匈奴族 突撃隊長 郭煙を退治 山西省 平遥古城長老「会話」 入魂の蠍の尻尾を入手 山西省 平遥古城長老「会話」許可証を取得 綿山 入口 門番「会話」 綿山 第1関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 第2関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 第3関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 中央 正門 飛燕「会話」制限時間の間 飛燕が死なないように守ってください 綿山 中央 正門 馬爺「会話」馬爺を退治 綿山 中央 正門 馬爺「会話」尽月を退治 尽月「会話」走火入魔状態です。制限時間内に脱出してください。 坎武「会話」綿山 中央 後門 綿山 第4関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 第5関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 第6関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 出口 時空術師「会話」 鮎蒼山 千蕁先生「会話」走火入魔状態が解除 上へ
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【元ネタ】史実 【CLASS】ライダー 【マスター】 【真名】衛青 【性別】男性 【身長・体重】184cm・85kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力C 耐久D 敏捷B 魔力C 幸運D 宝具A 【クラス別スキル】 対魔力:E 魔術に対する守り。 無効化は出来ず、ダメージ数値を多少削減する。 騎乗:B 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、 魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。 【固有スキル】 服従:A 主君に対する服従。 令呪の範囲および効果が強化され、命令行動に伴なう判定に補正がかかる。 軍略:C 一対一の戦闘ではなく、多人数を動員した戦場における戦術的直感力。 自らの対軍宝具の行使や、逆に相手の対軍宝具に対処する場合に有利な補正が与えられる。 貧者の見識:A 相手の性格・属性を見抜く眼力。 言葉による弁明、欺瞞に騙されない。 奴隷同然の身から甘泉宮(刑務所)での出来事を経て、 遂には大将軍に登りつめた衛青が持つ、相手の本質を掴む力を表す。 【宝具】 『何と言う皮肉か!(イメージ・イレイズ)』 ランク:D 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人 大将軍に就任後、かつて主人として仕えた平陽公主(武帝の姉)を、 妻に迎えた皮肉を具現する宝具。 召喚後自動で発動する宝具であり、マスターがライダーに対して抱く 印象の“最底辺”を設定し、暗示によってそれ以下の感情を抱かないようにする。 これによって、最低でも自害させられるようなことはなくなるが、 確固たる絆を築くには、宝具に頼らず、マスターとの相互理解に努めるのが賢明である。 魔術の心得を持つ者ならば、精神判定によっては容易に抵抗可能。 『躙匈成し得る車騎の軍勢(シュンヌゥ・チエンター)』 ランク:B 種別:対軍宝具 レンジ:1~40 最大捕捉:300人 匈奴の虚を突き、大将軍への道筋を築いた車騎将軍・衛青の率いる軍勢。 事前に真名解放することが可能な稀有な宝具であり、 ライダー自身の設定したサインによって、空間から兵団による援護弓撃を発生させる。 発動後に時間を置けば消費魔力の回復もでき、ノーコストでの発動を偽装することも可能。 匈奴の右賢王(単于に次ぐ有力者)は、衛青を目前にしながら慢心したがために、 王10余人、男女1万5千、家畜約10万頭を奪われることとなった。 【Weapon】 『汗血馬』 血のような汗を流す馬。 『無銘・弓矢』 騎射の腕前も、奴隷脱却に一役買ったと言ってよい。 【解説】 前漢時代、武帝に仕えた武将で、驃騎将軍・霍去病の伯父。 幼少期は異母兄や父親らから奴隷同然に扱われ、 ある人につき従って甘泉宮(刑務所)に行った時に、囚人に 「貴人の相がある。将来アンタ出世するよ」と言われた時も、 「今の扱い(奴隷同然の)から抜け出せれば、もうそれでいい」と答えるだけであった。 姉の衛子夫が武帝に寵愛されていたことや、騎射の名手であったことなどから、 衛青自身も引き立てられるが、衛子夫を恨む陣営に命を狙われたこともあった (友人の公孫敖に助けられ、事なきを得た)。 その後は徐々に将軍としての才覚を伸ばし、紀元前124年には3万の騎兵を率いて匈奴を大いに討った。 凱旋後には大将軍に任じられるが、甥・霍去病の台頭によって人気を失ってゆく。 その出自ゆえに飾らない性格の持ち主で、一兵卒に対しても威張ることなく接していたが、 霍去病の台頭時にはそれらの振る舞いが「謙っている」と見られ、人気の低迷に繋がった。
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名稱:北宮純 伺服器及顏色:5服綠類型:武 性別:男 生命值:624 武力:43 智力:12 防禦:15 敏捷:35 運勢:25 敘述:西晉大臣,官職為西涼督護,直屬於西涼刺史張軌。著名的事跡包括兩次擊退匈奴大軍。