約 583 件
https://w.atwiki.jp/mirrnagi/pages/85.html
フン族 匈奴 匈奴とは、トルコ、モンゴルにいた騎馬民族である。 一部が西進し、フン族に吸収されたといわれている
https://w.atwiki.jp/wagun35online/pages/37.html
匈奴兵 匈奴お得意の馬術戦技を習得した特殊騎兵。防御はやや低いが、攻撃は一般騎兵より高い。 体力 攻撃 防衛 武力 知力 反応 体格 要統率 1035 57 72 69 55 65 61 20 +660 +22 +35 +29 +23 +25 +27 +5 攻撃属性:斬傷40% 防御耐性:斬防30%射防40%火防20%妖防30% 注1:実際は、兵のレベルアップ時の能力値ボーナスが付くので、これよりも大きい値になる 注2:下の差分は、騎兵からみた基礎能力値の上昇数値 注3:精鋭化すると、攻撃+30、防衛+50、体力+800のボーナスがある。他の能力や必要統率は変わらない。 必殺技:血輪斬(単体攻撃 威力300%) ◆超高威力の必殺技が特徴 攻撃力だけをみるなら、匈奴兵系列の攻撃力はこの全兵科内で最強である。 必殺技300%のダメージは凄まじく、精鋭兵の時点で早くから600オーバーの必殺技ダメージを叩き出す可能性を秘めた兵士である。 通常の兵士で必殺技倍率最高200%までなので、必殺技で600ダメージを越えるには、通常攻撃300ダメージ必要。 これを精鋭兵時と限定すると、匈奴兵以外は四次兵並みの攻撃力が必要となり、かなり難しい状態である。 ちなみに、60レベル前後で通常攻撃200ダメージ前後、必殺技450ダメージ出す戟兵を確認済みだが、匈奴兵なら既に600近いダメージを理論上出すことが出来る。 上記の件から、敵からALT+左クリックで匈奴兵に本体をロックオンされたら死を覚悟しよう……。 防御面は、火防以外は何の変哲もない。 歩兵よりかは堅いが、それでも過信は禁物だ。 あと、本家wikiでは画像がかっこよく見えるが、実際のグラフィックはかなり格好悪い。 四次転職までの辛抱と思って、ひたすら必殺技で敵を一刀両断していこう。 そして、やはり転職令は入手困難なため、かなり高騰している。 流通している数も少ないため、自由市場で見かけたら貯金と相談して買ってしまったほうがいいだろう。 転職令で、虎豹騎へと転職できる。 転職令ゲットするならこいつを倒せ! 【匈奴兵令】 匈奴騎兵 匈奴重騎兵 【精鋭匈奴兵令】 匈奴騎兵隊長、匈奴重騎兵隊長 北方の九原周辺に出没する匈奴兵のみでしか手に入らない。 ボスも強力なので、仲間と隊列を組んで臨みたい。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/eirei/pages/57.html
頭曼単于(とうばん ぜんう)、攣鞮頭曼(れんてい とうばん)匈奴????~前209統率:C 武力:C 政治:C 知力:D 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------匈奴の指導者(単于)。月氏に息子の冒頓を人質に差し出すが、月氏に攻撃を仕掛けた。月氏から逃げ戻った冒頓はクーデターを起こして頭曼単于は殺害された。
https://w.atwiki.jp/eirei/pages/427.html
冒頓単于(ぼくとつ ぜんう)匈奴????~前174統率:A 武力:A 政治:B 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------匈奴の指導者(単于)。頭曼単于の子。父に疎まれ、月氏への人質となるが、逃げ出して、クーデターによって匈奴の単于となる。即位後は隣国の東胡を攻め滅ぼし、前漢の劉邦の軍も退け、領土を拡大させた。しかし、武帝の代になり、衛青と霍去病に敗北を続けた。
https://w.atwiki.jp/yuugen/pages/47.html
クエスト目標 匈奴鬼兵の旗を200個収集 クエスト形式 一回限りのクエスト 関連npc 敦煌東門の兵士 冒胡 関連モンスター 匈奴鬼兵 クエスト報酬 経験値211000/スキル経験値40000 クエスト前文 見るからに腕が立つように見えるのだが、私の頼みを聞いてもらえないか? あそこの横に立っている兵士 合敦とどちらの武術が優れているのか勝敗をつける事になったのだが、その方法が匈奴の郷土にいつ匈奴鬼兵の旗をより多く集めるという事になった。 勝負事にはどうしても負けたくない性分でね。 何とかして勝ちたいので、私に代わって匈奴鬼兵の旗を200個集めて着て欲しいのだ。 どうだろう、引き受けてくれないだろうか? お礼は必ずする。もちろん合敦には絶対に内緒にしておいて欲しい。 受諾 ありがとう。敦煌の東にある匈奴の郷土で匈奴鬼兵を倒せば、旗を手に入れる事が出来る。 拒否 断ってもいいが、絶対に合敦には秘密にしておいてくれ。 関連シナリオ 見るからに腕が立つように見えるのだが、私の頼みを聞いてもらえないか? あそこの横に立っている兵士 合敦とどちらの武術が優れているのか勝敗をつける事になったのだが、その方法が匈奴の郷土にいつ匈奴鬼兵の旗をより多く集めるという事になった。 勝負事にはどうしても負けたくない性分でね。 何とかして勝ちたいので、私に代わって匈奴鬼兵の旗を200個集めて着て欲しいのだ。お礼は必ずする。 もちろん合敦には絶対に内緒にしておいて欲しい。 達成
https://w.atwiki.jp/22shisakki/pages/249.html
38.與蘇武同出使者 蘇武使匈奴,守節不屈,十九年始得歸,人皆知之。然是時守節絶域,或歸或不得歸,不止武一人也。先是長史任敞使匈奴,欲令單于爲外臣,單于怒,留敞不遣。又郭吉諷單于,單于亦留吉,辱之於北海上。路充國爲單于所留,且鞮侯單于立,始得歸。是諸人皆在武之先。又匈奴傳,匈奴欲和親,先歸蘇武、馬宏等以通善意。馬宏者,前副光祿任忠使西域,爲匈奴所遮,忠戰死,宏被擒,不肯降,至是得歸。是武之外,尚有馬宏也。趙破奴以浚稽將軍與匈奴戰,爲所得,在匈奴中十年,與其子定國逃歸。是破奴亦守節不屈者也。張騫先使月氏,道半爲匈奴所得,留十年,持漢節不失。後乃逃出,由大宛、康居至月氏、大夏。從羌中歸,又爲匈奴所得。歳餘,乘其國内亂乃脱歸。是騫之崎嶇險阻,更甚於武也。即與武同時出使者,有中郎將張勝及假吏常惠等。後勝爲匈奴所殺,惠仍在匈奴。教漢使言天子在上林射,得雁足書,知武等所在。故武得歸。是惠在匈奴亦十九年也。同時隨武還者九人,見於武傳者,常惠、徐聖、趙終根,然至今但稱武而已。惠後以軍功封長羅侯,尚在人耳目閒,聖、終根雖附書於傳,已莫有知之者,其餘尚有六人,並氏名亦不載,則同一使也,而傳不傳亦有命。又況是時二十餘年閒,漢留匈奴使,匈奴亦留漢使以相當,前後凡十餘輩,則其中守節不屈者,亦必有人,而皆不見於史籍,則有幸有不幸,豈不重可歎哉!
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/5449.html
331: 名無しさん :2018/11/06(火) 21 29 32 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp 大陸日本におけるコーカソイド系民族について (中編) 3 漢時代の匈奴 匈奴は紀元前4世紀~5世紀にモンゴル高原からユーラシア中央部にかけて活動していた遊牧民族である。 たびたび中華への侵入、攻撃を繰り返し漢の武帝による攻撃や様々な要因で大打撃を受けつつも北魏の時代まで存続し、やがてこれまでの異民族同様多くが中華の民へ同化され埋もれていった。 世界史の教科書などでも取り上げられるこの民族であるが、言語系統や民族系統などは現在に至るも決定的な説は出ておらず不明なままである。 一般的には、当時東胡と呼ばれていた後のモンゴル系、テュルク系のモンゴロイド、またはそれら様々な語族や部族が混在した勢力だったのではないかとされる。 しかし、実は匈奴はコーカソイド系、或いは様々な部族や民族が入り混じっているがコーカソイド系が主体ではなかったのかという説がある。 発掘された石像や毛織物の容貌が明らかに白色人種の風貌であることや、後漢時代に分裂したうちの片方である北匈奴が滅亡して中華圏から姿を消した後、康居(現カザフスタン)へと逃れ北部に居住し悦般となったことが北斉の『魏書』や唐の『北史』などに記されており、それが後にアフガニスタン北東部へと南下してエフタルとなりインドやペルシャから「白いフン」、中華からは「白匈奴」と呼ばれていたためだ。 少なくとも、史実においても匈奴には多数のコーカソイド系民族が含まれていたことは間違いないだろう。 しかしこの世界ではスキタイ人の大移動により活発となった草原の道を通り多くの金髪因子がやって来たため、匈奴は殆どが北方系コーカソイドの集団であった。 匈奴は戦国時代から趙・燕・斉・魏・韓などと共に秦への攻撃を行ったが、これらの五ヶ国は滅ぼされ趙・燕・斉の3ヶ国に住んでいた北方系コーカソイド民族達400万人以上が日本大陸西部へと逃れていった。 匈奴も軍勢を撃破され、内蒙古のオルドス地方を占領されると同時に長城も築かれるなど始皇帝の存命中は劣勢の状態が続いていた。 しかし始皇帝の死後、冒頓単于が即位すると再び勢力を拡大し、東の東胡を滅ぼした後に西の大月氏を敗走させ南の楼煩を併合。 そして楚漢戦争中の中華へと侵攻し、瞬く間に巨大な大帝国を築き上げた。 漢の初代皇帝劉邦も匈奴に大敗を喫し、毎年貢物を送る弱腰外交を取らざるを得なくなる。 だが漢で武帝が即位するとそれまでの弱腰外交から一転して攻勢に転じ、衛青や霍去病といった優れた将に恵まれた漢軍によって匈奴は打ち破られ、内蒙古の地まで奪わてしまい、漢から人質を要求されるなど完全に力関係が逆転してしまう。 その後も傘下諸部族や匈奴寄りの周辺諸国の離反、内紛による東西分裂など苦しい時代が続いたが、その後何とか国土を統一させしばしの間漢と匈奴は平和な時代を過ごすことができた。 そして漢の一時滅亡や新の建国、そして滅亡と後漢の成立といった中華地域の混乱が訪れると再び勢力を盛り返し、辺境地域を散々に荒らし回った。 しかし後漢建国から暫く経った46年、匈奴国内で異常なまでの日照りや蝗害に見舞われ前代未聞の大飢饉が発生した。 これにより、史実匈奴では国民の3分の2が餓死したと言われるほどの大打撃を受けたと言われている。 匈奴の人口は140万人~200万人ほどであったとされており、事実だとすれば90万人~130万人が死亡したことになる。 当然の如く匈奴は大幅に弱体化することとなった。 332: 名無しさん :2018/11/06(火) 21 31 36 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp しかし大陸世界においては史実と少し異なる展開を見せる。 日本東部に住んでいるスキタイ系の民族と匈奴は同じ北方系コーカソイド集団であり、かつて日本へ移り住んだ集団が通っていた経路を通じ活発ではないものの最低限の交流は維持されていた。 そして大飢饉により本来死すべきであった匈奴の民たちは、餓死するくらいならばと日本への移動を開始する。 本国での飢餓や日本への移動の最中に10万人あまりが死亡したものの、実に120万人もの人々が間宮海峡を渡り樺太、北海道、東日本へと移民した。 秦の統一による西日本へのコーカソイド移民には及ばないものの、空前の規模の民族大移動が再び行われたことになる。 当地にいたスキタイ人たちは、同じ系統の民族であったことや広大という言葉すら不足するほど土地が有り余っていたなどの要因から彼らを同朋として迎え入れ、自らの勢力へと組み込んでいった。 匈奴の君主であった単于蒲奴も、領域内の民の移動を黙認していた。 というより、重荷になるとむしろ積極的に口減らしとばかりに送り出してすらいた。 大飢饉から2年後の48年、匈奴は分裂し南匈奴が建国された。 南匈奴は北匈奴を攻撃し、本拠地をも陥落させ北匈奴は更に北方へと後退していった。 その後南匈奴は漢に臣従し、長城の内側に住むことを許されたり大飢饉の際に食料の援助を受けるなど厚遇された。 北匈奴も勢力を盛り返し辺境の地を荒らし回っていたものの、史実では南匈奴が漢に厚遇されていると聞くと年間数千人の投降者が出たとされている。 しかし大陸世界においては、裏切り者の南匈奴や宿敵の漢に降ることをよしとせず、史実の投降者たちは日本大陸へ移動していった。 このため小規模ではあるものの東日本への移民が断続的に到来することとなった。 しかし87年に北匈奴へ東の鮮卑族が侵入し当時の単于が殺害され、更に蝗害による飢饉まで発生し北匈奴は大混乱に見舞われた。 このため北匈奴の民は鮮卑を避けて大きく北を迂回し日本へと逃れる動きを加速させた。 これに乗じて南匈奴と漢は連合軍を結成し、89年に北匈奴への攻撃を開始する。 史実ではこの攻撃に北匈奴は敗北し、20万人もの投降者を出したと言われているがこれらも大陸世界では鮮卑を避ける北方迂回ルートで日本へと逃げ延びていった。 そして91年、遂に北匈奴は漢の攻撃により決定的な打撃を受けた。 北匈奴の単于は日本へと逃げようとしていたが、漢に臣従していた東の鮮卑が今まで領域を北周りに通って日本へ逃げる一般の民は放っておいたものの、今回ばかりは逃がさないと南の漢や南匈奴と包囲網を張っていたため、単于に率いられた北匈奴は西への逃走を開始する。 これにより北匈奴は中華圏から完全に姿を消し、悦般やエフタルとして活動を続け、現代ではパキスタン北部やイラン北部、アフガニスタンの一部などで僅かにその痕跡が見られるのみとなっている。 しかし大陸日本においては数十年に及ぶ移動で実に150万人あまりもの匈奴の民がスキタイ勢力下の東日本へと流入した。 これにより当時100万人ほどであった人口が一気に250万人にまで増加し、数的には西の大和朝廷に劣勢であるものの大幅な国力増進を成し遂げることとなった。 333: 名無しさん :2018/11/06(火) 21 35 25 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp 4 五胡十六国時代 後漢の滅亡後に三国時代の戦乱を終わらせ中華を統一した西晋だが、当初有能であった初代皇帝の司馬炎は統一しただけで満足してしまい、急速に政治への興味を失うと同時に女遊びに耽るなど統一までの頃の姿が嘘のように堕落していき、国家基盤の整備を怠った。 その子司馬衷も暗愚であり、皇后である賈南風はそれを利用し国政を自分たちの一族が握るため、各地の皇族たちによる八王の乱と呼ばれる内乱を引き起こした。 それと同時に各地の諸侯は傭兵として異民族を国内に引き入れたため、内乱と合わせて西晋は大混乱に見舞われた。 これを期に隋統一までの300年あまりにわたり、中華は再び動乱の時代を迎えた。 この頃中華へと侵入、胎動した異民族は主に匈奴・鮮卑・羯・・羌の5つであり、これらは五胡と呼ばれた。 このうち氐と羌はチベット系の民族であったとされている。 しかし羌に関しては当時印欧語族であったという説が存在したり、羌の構成種族であった小月氏(大月氏と違い中華に留まった者たち)はコーカソイド系だという話が存在する。 だが現在の四川省で羌の子孫と言われる少数民族のチャン族はモンゴロイド系の外見でチベット・ビルマ語派のチャン語を話しており、正確な所は不明である。 匈奴は分裂し漢に臣従することで生き延びていた南匈奴のことであり、この世界においてはコーカソイド系の集団であった。 羯は匈奴や小月氏から派生した集団であるとされており、漢民族からは「白羯」と言われ印欧語族に分類されるコーカソイド系であったと見られている。 鮮卑は後漢までの歴史書ではモンゴル系の集団であったとされているが、西晋時代に流入してきた鮮卑族は「白虜」、要するに肌が白かったと言われており「赤髯碧眼」など明らかにコーカソイド的な容貌をしていたという。 また南朝時代の宋で編纂された説話集「異苑」において、東晋の二代目皇帝である司馬紹の政敵だった軍人の王敦は、司馬紹のことを「黄頭鮮卑奴(金髪の鮮卑野郎)」と呼んでいたと記されている。 司馬紹の母親であった荀氏は北方の燕(現在の遼寧省付近)に居住していた鮮卑族の出身であったとされており、司馬紹の金髪は母親からの遺伝と見られる。 このように、少なくとも西晋時代以降の鮮卑は北方系コーカソイドの集団であった。 つまるところ五胡と呼ばれた異民族のうち3つがコーカソイド系異民族であったということになる。 八王の乱によって中央が乱れると、各地への威令が届かなくなると同時に不運にも毎年のように飢饉が続き西晋は急速に弱体化していった。 この情勢にまずは中華西方の奥地にいた氐族と羌族が反乱を起こし、氐族の李特が成都を占領した後その息子李雄が皇帝を称し成漢(後蜀)の建国を宣言する。 それに乗じ匈奴の酋長であった劉淵が漢王を名乗り、漢を建国した。 劉淵は聡明であると同時に非常に寛容な英傑であり、漢族や白羯を傘下に加え瞬く間に勢力を拡大。 これら異民族の反乱「永嘉の乱」が五胡十六国時代の本格的な幕開けとなった。 もはや西晋の衰退ぶりは目を覆わんばかりの惨状であり、遂に漢国五代目の劉聡が西晋の首都洛陽を陥落させる。 この際洛陽は焼き払われ皇族・貴族・市民らの多くが殺戮、当時の皇帝であった司馬熾も連行され2年後に毒殺される。 これによって西晋は完全に滅亡し残党も華北から撤退、甥の司馬睿を擁立し江南の地で東晋を建国する。 西晋を滅亡させた劉聡は皇帝に即位し国号を漢から趙(前趙)に改めたが、その子劉曜の時代に白羯出身で奴隷から将軍に成り上がった石勒と対立し反乱を起こされる。 劉曜は投降後の振舞いが原因で暗殺され、その子劉煕も将校や王、公卿もろとも皆殺しの目に遭い、前趙は漢の時代も含めてわずか25年で滅亡し後趙が建国された。 334: 名無しさん :2018/11/06(火) 21 39 37 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp この頃の華北の地は漢人の多くが駆逐され、完全に異民族の土地になっていた。 特に中部から東部にかけてその地を闊歩しているのは匈奴、白羯、鮮卑といった北方系コーカソイドの集団であった。 当初の後趙は漢民族の知識人などを登用し華北の安定を成し遂げたものの、その後帝室内部での抗争が頻発するようになると 国内は不安定化すると同時に漢民族も冷遇されるようになり、華北の漢民族の不満は年を経るごとに蓄積された。 そんな中第三代皇帝石虎の養孫で石閔と名乗っていた漢民族出身の武将冉閔は傀儡とした皇帝を相次いで擁立するなど権勢を誇っていたがその態度から擁立した相手に排除されそうになると今度は漢民族に呼びかけて反乱を決行する。 首都の鄴で始まったこの反乱により、胡人が老若男女問わず20万人も虐殺されたと言われている。 それだけでなく漢民族でも体格が大きかったり鼻が高い、髭が多いなどの特徴をしたものが胡人とされて多数殺害されるほどの酷さであったという。 冉閔は皇帝に即位して国号を大魏(冉魏)と定め、後趙との戦争を開始。 後趙は鮮卑族の前燕にも援軍を要請し共同で冉魏の討伐を行ったものの撃退され、さらに最後の皇帝石祗が部下に殺害され後趙は滅亡した。 また冉閔は建国にあたって『殺胡令』という「国内外に関わらず武器を持った胡人は殺せ」「胡人を殺害した漢民族は官位を授与、または位を上げる」などといった漢民族による積極的な胡人殺害を推奨する命令を天下に公布し、徹底的な漢民族至上主義の国家建設を推し進めていった。 史実ではこの命令により華北各地で漢民族による胡人に対する凄まじい暴虐の嵐が吹き荒れた。 特に白羯などはその後中華の歴史に殆ど名前が登場しなくなるほどの大打撃を受けた。 またこの混乱で各地で盗賊も跋扈するようになったため、華北は大飢饉に見舞われ人肉を喰らい合うこともあったという。 最終的に数百万人もの胡人が漢民族による虐殺や飢饉などで命を落としたとされ、華北は酷く荒廃した。 だがここでこの時代の日本にいた転生者たちが再び暗躍し、現地のコーカソイド系遊牧民を救うため渤海湾から日本への脱出を決行する。 また鮮卑族の西燕にも協力を要請し、同国の領域であった遼東半島に避難民を移動させそこにも大規模な脱出船団を何度も派遣した。 なお、当時朝鮮半島南端に居住していた戦国時代に中華から逃れてきた趙・燕・斉の遺民たちも自分たちと同じ民を漢民族による蛮行から救うべきだと協力を表明し、こちらも脱出船団を派遣するなど日本の動きを支援した。 現地の胡人たちも、この地から逃れることができるのであればと日本への亡命を選択した。 冉魏は当然の如くそれを防ごうとしたが、国内の混乱や前燕の攻撃によって頓挫。 漢民族の絶え間ない攻撃や盗賊の跋扈、飢饉や疫病の蔓延により膨大な犠牲者を出しつつも150万人以上の胡人が日本へと逃れることに成功する。 冉魏も西燕の攻撃により僅か2年で攻め滅ぼされ、その西燕もチベット系の氐族に建国された前秦に滅ぼさるなど目まぐるしい展開が続いたが前秦による華北統一と漢民族の登用や匈奴、鮮卑の積極的な移住政策により一時的に平穏を取り戻すことができた。 しかし南北統一を強行し東晋へ侵攻するも大敗を喫したことにより、各地の統制が緩み異民族も次々に離反するなど前秦は急速に弱体化した。 その後鮮卑族によって建国された後燕や西燕、攻め込んだ東晋といった国々によってあっけなく滅ぼされ、再び戦乱の世に逆戻りしてしまう。 ここで鮮卑族の一派である拓跋部の中核氏族である拓跋氏に率いられた北魏が台頭。 華北に割拠していた国々を次々に滅ぼして回り、遂に華北を統一して五胡十六国時代を終結させ、中華は南北朝時代へと突入していく。 また統一過程で後燕、西燕、北燕、南燕といった拓跋部とは別の鮮卑族の国家(北燕は鮮卑化した漢人状軍によって建国されたが)も北魏や東晋によって滅ぼされていき、この過程で大量の鮮卑族がかつての後趙滅亡時のように大量に日本へと逃げ延びていった。 五胡十六国時代の終結までに、日本大陸に亡命したコーカソイド系異民族300万人余りに上ると言われている。 その後中華で中心を占めるようになった拓跋部を中心とする鮮卑族は漢化しつつも唐の時代に至るまで支配層として存続したが、やがて匈奴同様に完全に漢民族へと取り込まれてしまい現代ではその痕跡は歴史書以外では一切見られない。 しかし日本へと亡命した鮮卑、白羯、匈奴といった面々は混血しつつも当時の容貌を保ったまま現代へとその血脈を繋げることに成功している。 335: 名無しさん :2018/11/06(火) 21 48 15 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp 以上になります。 予定が詰まってしまったことと色々あってプライベートが上手く行かなかったので遅くなってしまいました。 五胡十六国時代に活動していた異民族たちも、史実では同化や民族浄化で消えていきましたが、この世界では 大陸日本に多くの人々が逃れることに成功しています。 ほんと歴史上虐殺や民族浄化は多々見られますけど中国の場合古代からもうスケールというか次元が違うんですよね。 漢民族の方がいくら多数派とは言え数百万人もいた異民族たちが現代では一切その痕跡は表面上見られなくなっているという点も 中華における残虐行為の凄まじさというものを象徴しているのではないでしょうか。 しかし大陸日本と転生者という存在によって、史実の過酷な運命から異民族たちは逃れることができています。 殆ど転生者たちの派手な髪をした美少女たちが欲しいという何とも言えない欲望のせいですが、 まあ異民族たちも安全な場所へ逃れることができるので双方win-winでしょう(笑) 後編では南北朝時代から唐までの時代を書きたいと思います。 344: 名無しさん :2018/11/06(火) 23 22 47 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp 見返してみたら氐という漢字が?として表示されていますね。 ?になっているところはチベット系部族の氐、首都のところは鄴です。 見にくくてすいません。 346: 名無しさん :2018/11/06(火) 23 26 15 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp あれ、表示されない… 殆ど使われない常用外の漢字なのでちゃんと表示されないんでしょうか。 もしあれだったらwiki掲載してもらった時に何とか直しましょうかね。 あと、wiki掲載もokです
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/4357.html
名稱:蘇武 伺服器及顏色:5服紫類型:文 性別:男 生命值:2047 武力:52 智力:62 防禦:27 敏捷:56 運勢:130 敘述:西漢大臣,字子卿。公元前100年,匈奴新單于即位,漢武帝為了表示友好,派遣蘇武出使匈奴祝賀。不料,匈奴上層發生了內亂,蘇武被扣匈奴牧羊達19年之久,氣節尤存不忘漢朝,終于回歸長安。後因其子參與上官桀、桑弘羊等人謀反被罷官,再後因擁立之功被宣帝賜爵關內侯。
https://w.atwiki.jp/kansangokushi/pages/181.html
var KeyName = 於扶羅 編集 於扶羅(または於夫羅)は、後漢後期の匈奴人。南単于の羌渠の子。 中平年間、漢が匈奴の兵を発した際、兵を率いて漢を助けたが、匈奴本国の反に会い、父が殺され、於扶羅はその衆を率いて中国に留まり群雄諸侯と勢力を競うこととなった。 弟に呼廚泉。子に劉豹。孫は前趙の始祖劉淵。 情報 於扶羅 種族 南匈奴 家柄 新興匈奴 父 羌渠 位歴 右賢王 南匈奴単于 死去 興平二年(195年)、立ちて七年にて死。 諡号 持至尸逐侯単于 子 劉豹 事跡 南単于の羌渠の子として右賢王となる。 中平年間(184-189年)、黄巾の乱が起きると、匈奴の動員発令を受け、兵を率いて漢を助けた。 中平四年(187年)、魚陽郡で張純らが叛乱し、鮮卑を率いて辺郡を寇した。漢が匈奴兵を動員して幽州牧の劉虞の下に配した。羌渠は左賢王を遣わした。 五年(188年)、南匈奴の国人は発兵がやまないのを恐れ、右部の䤈落が休著各胡・白馬銅らと共に十余万人で叛乱し、羌渠を攻め殺し、須卜骨都侯を単于に立てた。 於扶羅は洛陽宮の闕に詣って訟え、南単于に立った。その後本国へ帰れずに中国に留まった。 六年(189年)、霊帝が崩御して天下が乱れると、叛乱して白波賊と連合し、太原郡、河内郡を破り、さらに諸郡を略奪した。しかし、当時は民衆がみな集まって勢力を保ち、略奪の利益がなく、兵も損害を受けた。須卜骨都侯は即位一年で死去しており、於扶羅は本国に帰還することを願ったが、国人に受け入れられず、河東郡平陽県に留まった。以後、南庭(南匈奴の政堂)に主はなくなり、老王によって国事が行われた。 初平元年、討董卓の兵が起きると張楊と共に袁紹に附き、漳水に駐屯した。 初平二年(191年)、袁紹が韓馥の冀州牧の地位を欲し、韓馥が自ら譲ろうとした。冀州都督従事の趙浮と程奐が反対し、韓馥に曰く、 「袁本初の軍には斗の糧も無く、各己に離散しております。張楊・於扶羅が有って新たに附いたと雖も、未だ肯えて(自ら進んでは)用を為さず、敵とするに足りません。小従事(わたくし)らが請いますに、自ら見兵(領兵)を以ってこれを拒みたくおもいます。旬日(十日)の間に必ずや土が崩れるように瓦解することでしょう。明将軍(韓馥)は、ただまさに閤を開き枕を高くしておくべきであり、何の憂い、何の懼れでしょうか」 韓馥は受け入れず、袁紹に州牧を譲ったが、於扶羅は後に叛いた(*1)。 袁紹・張楊が従わなかったため、於扶羅は張楊を執(とら)えて袁紹の許から去った。袁紹は麹義を使わして追撃した。於扶羅は魏郡鄴県の南で破れ、張楊を執えたまま黎陽県へ至り、度遼将軍耿祉の軍を攻め破ってまた軍衆を振るわせた。 初平三年(192年)、魏郡内黄県で曹操と戦ったが敗れた。 初平四年(193年)、袁術が軍を率いて陳留郡に入り、封丘県に屯した。於扶羅は黒山賊の余賊と共に袁術を佐け、曹操と匡亭で戦ったが大敗した。 興平二年(195年)、死去。弟の呼廚泉が単于に立って跡を継いだ。 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 位 南匈奴単于 位 右賢王 種族 南匈奴 関連項目・人物 「於扶羅」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
https://w.atwiki.jp/22shisakki/pages/63.html
5.褚少孫が『史記』を補ったのは十篇にとどまらない 5.褚少孫補史記不止十篇 漢書司馬遷傳謂:「史記内十篇,有録無書。」顏師古注引張晏曰:「遷沒後,亡景紀、武紀、禮書、樂書、兵書、漢興以來將相年表、日者列傳、三王世家、龜策列傳、傅靳、蒯成列傳,凡十篇。元、成間,褚少孫補之,文詞鄙陋,非遷原本也。」是少孫所補,衹此十篇。然細按之,十篇之外尚有少孫增入者。如外戚世家:增尹、邢二夫人相避不相見。及鉤弋夫人生子,武帝將立爲太子,而先賜鉤弋死。又衛青本平陽公主騎奴,後貴爲大將軍,而平陽公主寡居,遂以青爲夫等事。田仁傳後增:仁與任安,皆由衛青舍人,選入見帝。二人互相舉薦,帝遂拔用之等事。又張蒼、申屠嘉傳後增記征和以後爲相者。車千秋之外,有韋賢、魏相、丙吉、黄霸,皆宣帝時也。韋元成、匡衡,則元帝時也。此皆少孫別有傳聞,綴於各傳之後。今史記内,各有「褚先生曰」以別之,其無「褚先生曰」者,則於正文之下,另空一字以爲識別。此少孫所補,顯然可見者也。又有就史遷原文而增改者。楚元王世家後,敘其子孫有至地節二年者,則宣帝年號也。齊悼惠王世家後,敘朱虚侯子孫,有至建始三年者,則成帝年號也。此皆在遷後,而遷書内見之,則亦少孫所增入也。李廣利之降年考又史記匈奴傳:「太初四年,且鞮侯單于立。其明年,浞野侯亡歸。又明年,漢使李廣利撃右賢王於天山。又使李陵出居延陵,敗降匈奴。」則天漢二年也。「又二年,漢使廣利出朔方,與匈奴連戰十餘日。廣利聞家已族滅,遂降匈奴。」則應是天漢四年事。然漢書武帝紀:「天漢二年,李陵降匈奴。」此與傳同。而「廣利之降,則在征和三年」。距「天漢四年」,尚隔七年,殊屬歧互。不知者,必以史遷爲及身親見,與班固事後追書者不同,自應以史記爲準。然征和元年,巫蠱事起。三年,太子斬江充,戰敗自殺。而廣利之降,則以太子既死之明年。廣利出撃匈奴,丞相劉屈氂餞於郊外。廣利以太子既死,屬屈氂勸上立昌邑王爲太子。昌邑王者,廣利妹李夫人所生子,廣利甥也。此語爲人所告發,帝遂誅其家。廣利聞之,乃降匈奴。是廣利之降,在衛太子死後。而太子之死,實在征和二年。此等大事,漢書本紀,編年紀載,斷無差誤。則廣利之降,必不在天漢四年明矣。再以漢書匈奴傳核對。則李陵降匈奴以前,皆與史記匈奴傳同。「陵降後二年,廣利出兵,與單于連戰十餘日,無所得,乃引還。」並未降匈奴也。「又明年,匈奴且鞮侯單于死,狐鹿姑單于立,是爲漢太始元年。狐鹿姑立六年,遣兵入寇上谷、五原、酒泉,漢乃又遣廣利出塞,戰勝追北,至范夫人城。聞妻子坐巫蠱事被收,乃降匈奴。」計其歳年,正是征和三年之事。與武帝紀相合。則知史記匈奴傳末所云「天漢四年,廣利降匈奴者」,非遷原本也。遷是時目撃其事,豈有錯誤年歳至此。蓋遷所作傳,僅至李陵降後二年,廣利出塞不利引還便止。(遷自敘謂訖於太初,則並在陵降匈奴之前)而褚少孫於數十年後,但知廣利降匈奴之事,不復細考年代,即以係於天漢四年出兵之下,故年代錯誤也。可知史記十篇之外,多有少孫所竄入者。 按史公自敘:「十二本紀、八書、三十世家、七十列傳,共百三十篇,五十二萬六千五百字。」是史公已訂成全書。其十篇之缺,乃後人所遺失,非史公未及成而有待於後人補之也。班固作遷傳,但云:「十篇有録無書」,而不言少孫所補。然班書内燕王旦等封策,及平陽公主以衛青爲夫等事,皆採少孫語入列傳。則知少孫所補,久附史記並傳矣。 又案史公自序,作武帝紀,謂:「漢興五世,隆在建元,外攘夷狄,内修法度,與封禪,改正朔,易服色,故作今上本紀。」是遷所作武紀,凡征匈奴、平兩越、收朝鮮、開西南夷,以及修儒術、改夏正等事,必按年編入,非僅侈陳封禪一事也。今少孫所補,則係全取封禪書下半篇所敘武帝事,遂以作武帝本紀。凡封禪書中所云「今上」,皆改曰「武帝」(中尚有一「今上」字未改),其文字稍異者,惟「亳人謬忌」,武紀改云「薄誘忌」。「少翁以書置牛腹中,天子識其手書。」武紀改云「天子疑之,有識其手書者」而已。武紀贊亦全用史公封禪書後文,無一字改易。因思少孫所補,大概多鈔録舊文,不必自作。如龜策傳内「宋元王與衛平論龜之文」,皆是韻語,此必掌故中本有此文字。其後所云:「首仰首俛,足開肣開」之類,亦是當時龜卜成法,特少孫鈔入以補缺耳。至扁鵲、倉公傳,雖非少孫所補,然淳于意答文帝詔問之語,所治何人,所療何症,自成一篇。亦必當時有此現成文字而鈔入者。使史遷爲之,必不如此瑣屑。竊意扁鵲傳,史遷原文也;倉公傳,亦少孫鈔入者也。 褚少孫,沛人。嘗受詩於王式。後應博士弟子選。由是魯詩有張、唐、褚氏之學。(張長安、唐長賓與少孫同受業王式。漢書儒林傳) 前頁 『廿二史箚記』巻一 次頁 史記編次 5.褚少孫補史記不止十篇 史記有後人竄入處