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ストーリークエスト 開始条件:「燃える洛陽城」クエストをクリア 開始場所:洛陽城 真影「会話」 クエスト 備考 クエスト 上級神将(上) クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)河南省 洛陽城真影(63,297)会話 クエスト開始条件 「燃える洛陽城」クエストを完了している。 「荘園」を開設している。 討伐隊長として討伐隊「坎武」を一回以上クリアしている。 ※クリア後に討伐隊マップ内の坎武と[会話]コマンドで会話している必要がございます。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)河南省 洛陽城真影(63,297)謎の魔力 クエスト内容 真影と会話して、神将からの伝書について聞く。 ※会話終了後、自動的にチベットの祭壇に移動します。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)天神掌:天上界 鬼神掌:地下界天神掌:極楽神将(13,19) 鬼神掌:奈落神将(50,56)会話 クエスト内容 極楽/奈落神将と会話して、何が起こったのか聞く。 ※会話終了後、自動的に山西省 綿山入り口(6,10)に移動します。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山入り口門番(5,8)会話 クエスト内容 門番と会話して、綿山の入場条件について聞く。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 平遥古平遥古城長老(71,218)会話 クエスト内容 平遥古城長老と会話して、綿山の入場条件について聞く。 その後、匈奴族を50人討伐する。 ※匈奴族の対象は山西省マップ内のモンスター「朱猟」「梁脚」となります。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 平遥古平遥古城長老(71,218)会話 クエスト内容 平遥古城長老と会話して、次の頼みごとについて聞く。 その後、匈奴族突撃隊長のモンスター「郭煙」を討伐する。 【モンスター「郭煙」の出現状態について】 モンスター「郭煙」は、山西省マップ内のモンスター「朱猟」を討伐時、一定確率で出現します。 平遥古城長老と会話することで、「郭煙」の出現状態及び、出現している場合は座標を確認できます。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 平遥古平遥古城長老(71,218)会話 クエスト内容 平遥古城長老と会話して、最後の頼みごとについて聞く。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 平遥古平遥古城長老(71,218)会話 クエスト内容 「入魂の蠍の尻尾」を入手し、平遥古城長老に渡す。 【入魂の蠍の尻尾の入手方法について】 入魂の蠍の尻尾は、討伐隊の報酬にて獲得可能です。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 平遥古平遥古城長老(71,218)会話 クエスト内容 「入魂の蠍の尻尾」を入手し、平遥古城長老に渡す。 【入魂の蠍の尻尾の入手方法について】 入魂の蠍の尻尾は、討伐隊の報酬にて獲得可能です。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山入り口門番(5,8)会話 クエスト内容 門番と会話して、長老の許可証を渡す。 ※会話終了後、綿山内に移動します。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内馬漢会話 クエスト内容 馬漢と会話後、出現するモンスターを全て討伐し、第1~第3の関門を突破する。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内飛燕会話 クエスト内容 飛燕と会話後、出現するモンスターを全て討伐して、飛燕を守り抜く。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内馬猴会話 クエスト内容 馬猴と会話後、馬猴を討伐する。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内馬猴会話 クエスト内容 馬猴と会話後、馬猴を討伐する。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内馬猴会話 クエスト内容 馬猴と会話後、現れた八天鬼・尽月を討伐する。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内尽月会話 クエスト内容 尽月と会話する。 ※会話終了後、「走火入魔」状態となり、3分間の制限時間が開始されます。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内尽月会話 クエスト内容 現れた八天鬼・坎武と会話する。 ※会話終了後、自動的に綿山内の別マップに移動します。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内馬漢会話 クエスト内容 馬漢と会話後、出現するモンスターを全て討伐し、第4~第6の関門を突破する。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)山西省 綿山内時空術師会話 クエスト内容 時空術師と会話し、綿山から脱出する。 ※会話終了後、自動的に千蕁先生の元に移動します。 ▼ クエスト名マップNPC会話コマンド 上級神将(上)點蒼山 千蕁先生居所千蕁先生会話 クエスト内容 千蕁先生と会話し、走火入魔状態を治療してもらう。 【クエスト完了報酬】 傭兵「坤影」 ※傭兵は荘園内訓練所の出征にて確認、利用可能です。 黒穴功 x200個 力+1、熟練度+1 ※クエストを完了するには、荘園に訓練所を建設している必要があります。 ※千蕁先生のもとへは雲南省 密営料理屋の雲南省住人(45,210)と[会話]コマンドで会話することで移動できます。 上へ 備考 天上界 極楽神将「会話」 山西省 綿山 入口 門番「会話」 山西省 平遥古城長老「会話」 匈奴族50人を退治 山西省 平遥古城長老「会話」 匈奴族 突撃隊長 郭煙を退治 山西省 平遥古城長老「会話」 入魂の蠍の尻尾を入手 山西省 平遥古城長老「会話」許可証を取得 綿山 入口 門番「会話」 綿山 第1関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 第2関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 第3関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 中央 正門 飛燕「会話」制限時間の間 飛燕が死なないように守ってください 綿山 中央 正門 馬爺「会話」馬爺を退治 綿山 中央 正門 馬爺「会話」尽月を退治 尽月「会話」走火入魔状態です。制限時間内に脱出してください。 坎武「会話」綿山 中央 後門 綿山 第4関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 第5関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 第6関門 馬漢「会話」馬漢を退治 綿山 出口 時空術師「会話」 鮎蒼山 千蕁先生「会話」走火入魔状態が解除 上へ
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資治通鑑巻第二十五 漢紀十七 中宗孝宣皇帝上之下 地節三年(甲寅、前六七) 1春,三月,詔曰:「蓋聞有功不賞,有罪不誅,雖唐、虞不能以化天下。今膠東相王成,勞來不怠,流民自佔八萬餘口,治有異等之效。其賜成爵關内侯,秩中二千石。」未及徴用,會病卒官。後詔使丞相、御史問郡、國上計長史、守丞以政令得失。或對言:「前膠東相成偽自增加以蒙顯賞。」是後俗吏多爲虚名云。 1. 2夏,四月,戊申,立子奭爲皇太子,以丙吉爲太傅,太中大夫疏廣爲少傅。封太子外祖父許廣漢爲平恩侯。又封霍光兄孫中郎將雲爲冠陽侯。霍顯聞立太子,怒恚不食,歐血,曰:「此乃民間時子,安得立!即后有子,反爲王邪!」復教皇后令毒太子。皇后數召太子賜食,保、阿輒先嘗之,後挾毒不得行。 2. 3五月,甲申,丞相賢以老病乞骸骨;賜黄金百斤、安車、駟馬,罷就第。丞相致仕自賢始。 3. 4六月,壬辰,以魏相爲丞相。辛丑,丙吉爲御史大夫,疏廣爲太子太傅,廣兄子受爲少傅。 太子外祖父平恩侯許伯,以爲太子少,白使其弟中郎將舜監護太子家。上以問廣,廣對曰:「太子,國儲副君,師友必於天下英俊,不宜獨親外家許氏。且太子自有太傅、少傅,官屬已備,今復使舜護太子家,示陋,非所以廣太子德於天下也。」上善其言,以語魏相,相免冠謝曰:「此非臣等所能及。」廣由是見器重。 4. 5京師大雨雹,大行丞東海蕭望之上疏,言大臣任政,一姓專權之所致。上素聞望之名,拜爲謁者。時上博延賢俊,民多上書言便宜,輒下望之問状;高者請丞相、御史,次者中二千石試事,滿歳以状聞;下者報聞,罷。所白處奏皆可。 5. 6冬,十月,詔曰:「乃者九月壬申地震,朕甚懼焉。有能箴朕過失,及賢良方正直言極諫之士,以匡朕之不逮,毋諱有司。朕既不德,不能附遠,是以邊境屯戍未息。今復飭兵重屯,久勞百姓,非所以綏天下也。其罷車騎將軍、右將軍屯兵。」又詔:「池□未御幸者,假與貧民。郡國宮館勿復修治。流民還歸者,假公田,貸種食,且勿算事。」 6. 7霍氏驕侈縱橫。太夫人顯,廣治第室,作乘輿輦,加畫,繡絪馮,黄金塗;韋絮薦輪,侍婢以五采絲輓顯遊戲第中;與監奴馮子都亂。而禹、山亦並繕治第宅,走馬馳逐平樂館。雲當朝請,數稱病私出,多從賓客,張圍獵黄山苑中,使倉頭奴上朝謁,莫敢譴者。顯及諸女晝夜出入長信宮殿中,亡期度。 帝自在民間,聞知霍氏尊盛日久,内不能善。既躬親朝政,御史大夫魏相給事中。顯謂禹、雲、山:「女曹不務奉大將軍餘業,今大夫給事中,他人壹間女,能復自救邪!」後兩家奴爭道,霍氏奴入御史府,欲蹋大夫門;御史爲叩頭謝,乃去。人以謂霍氏,顯等始知憂。 會魏大夫爲丞相,數燕見言事;平恩侯與侍中金安上等徑出入省中。時霍山領尚書,上令吏民得奏封事,不關尚書,羣臣進見獨往來,於是霍氏甚惡之。上頗聞霍氏毒殺許後而未察,乃徙光女婿度遼將軍、未央衞尉、平陵侯范明友爲光祿勳,出次婿諸吏、中郎將、羽林監任勝爲安定太守。數月,復出光姊婿給事中、光祿大夫張朔爲蜀郡太守,羣孫婿中郎將王漢爲武威太守。頃之,復徙光長女婿長樂衞尉鄧廣漢爲少府。戊戌,更以張安世爲衞將軍,兩宮衞尉、城門、北軍兵屬焉。以霍禹爲大司馬,冠小冠,亡印綬;罷其屯兵官屬,特使禹官名與光倶大司馬者。又收范明友度遼將軍印綬,但爲光祿勳;及光中女婿趙平爲散騎、騎都尉、光祿大夫,將屯兵,又收平騎都尉印綬。諸領胡、越騎、羽林及兩宮衞將屯兵,悉易以所親信許、史子弟代之。 7. 8初,孝武之世,征發煩數,百姓貧耗,究民犯法,姦軌不勝,於是使張湯、趙禹之屬,條定法令,作見知故縱、監臨部主之法,緩深、故之罪,急縱、出之誅。其後姦猾巧法轉相比況,禁罔浸密,律令煩苛,文書盈於幾閣,典者不能遍睹。是以郡國承用者駁,或罪同而論異,姦吏因縁爲市,所欲活則傅生議,所欲陷則予死比,議者咸冤傷之。 廷尉史鉅鹿路温舒上書曰:「臣聞齊有無知之禍而桓公以興,晉有驪姫之難而文公用伯。近世趙王不終,諸呂作亂,而孝文爲太宗。繇是觀之,禍亂之作,將以開聖人也。夫繼變亂之後,必有異舊之恩,此賢聖所以昭天命也。往者昭帝即世無嗣,昌邑淫亂,乃皇天所以開至聖也。臣聞春秋正即位、大一統而愼始也。陛下初登至尊,與天合符,宜改前世之失,正始受命之統,滌煩文,除民疾,以應天意。臣聞秦有十失,其一尚存,治獄之吏是也。夫獄者,天下之大命也,死者不可復生,絶者不可復屬。書曰:『與其殺不辜,寧失不經。』今治獄吏則不然,上下相驅,以刻爲明,深者獲公名,平者多後患,故治獄之吏皆欲人死,非憎人也,自安之道在人之死。是以死人之血流離於市,被刑之徒,比肩而立,大辟之計,歳以萬數。此仁聖之所以傷也,太平之未洽,凡以此也。夫人情,安則樂生,痛則思死,棰楚之下,何求而不得!故囚人不勝痛,則飾辭以示之;吏治者利其然,則指導以明之;上奏畏卻,則鍛練而周内之。蓋奏當之成,雖皋陶聽之,猶以爲死有餘辜。何則?成練者衆,文致之罪明也。故俗語曰:『畫地爲獄,議不入;刻木爲吏,期不對。』此皆疾吏之風,悲痛之辭也。唯陛下省法制,寬刑罰,則太平之風可興於世。」上善其言。 8. 9十二月,詔曰:「間者吏用法巧文浸深,是朕之不德也。夫決獄不當,使有罪興邪,不辜蒙戮,父子悲恨,朕甚傷之!今遣廷史與郡鞠獄,任輕祿薄,其爲置廷尉平,秩六百石,員四人。其務平之,以稱朕意!」於是毎季秋後請讞時,上常幸宣室,齋居而決事,獄刑號爲平矣。涿郡太守鄭昌上疏言:「今明主躬垂明聽,雖不置廷平,獄將自正;若開後嗣,不若刪定律令。律令一定,愚民知所避,姦吏無所弄矣。今不正其本,而置廷平以理其末,政衰聽怠,則廷平將召權而爲亂首矣。」 9. 10昭帝時,匈奴使四千騎田車師。及五將軍撃匈奴,車師田者驚去,車師復通於漢;匈奴怒,召其太子軍宿,欲以爲質。軍宿,焉耆外孫,不欲質匈奴,亡走焉耆,車師王更立子烏貴爲太子。及烏貴立爲王,與匈奴結婚姻,教匈奴遮漢道通烏孫者。 是歳,侍郎會稽鄭吉與校尉司馬喜,將免刑罪人田渠犁,積穀,發城郭諸國兵萬餘人與所將田士千五百人共撃車師,破之;車師王請降。匈奴發兵攻車師;吉、喜引兵北逢之,匈奴不敢前。吉、喜即留一候與卒二十人留守王,吉等引兵歸渠犁。車師王恐匈奴兵復至而見殺也,乃輕騎奔烏孫。吉即迎其妻子,傳送長安。匈奴更以車師王昆弟兜莫爲車師王,收其餘民東徙,不敢居故地;而鄭吉始使吏卒三百人往田車師地以實之。 10. 11上自初即位,數遣使者求外家;久遠,多似類而非是。是歳,求得外祖母王媼及媼男無故、武。上賜無故、武爵關内侯。旬月間,賞賜以巨萬計。 11. 四年(乙卯、前六六) 1春,二月,賜外祖母號爲博平君;封舅無故爲平昌侯,武爲樂昌侯。 1. 2夏,五月,山陽、濟陰雹如雞子,深二尺五寸,殺二十餘人,飛鳥皆死。 2. 3詔:「自今子有匿父母、妻匿夫、孫匿大父母,皆勿治。」 3. 4立廣川惠王孫文爲廣川王。 4. 5霍顯及禹、山、雲自見日侵削,數相對啼泣自怨。山曰:「今丞相用事,縣官信之,盡變易大將軍時法令,發揚大將軍過失。又,諸儒生多窶人子,遠客饑寒,喜妄説狂言,不避忌諱,大將軍常讎之。今陛下好與諸儒生語,人人自書對事,多言我家者。嘗有上書言我家昆弟驕恣,其言絶痛;山屏不奏。後上書者益黠,盡奏封事,輒使中書令出取之,不關尚書,益不信人。又聞民間讙言『霍氏毒殺許皇后』,寧有是邪?」顯恐急,即具以實告禹、山、雲。禹、山、雲驚曰:「如是,何不早告禹等!縣官離散、斥逐諸婿,用是故也。此大事,誅罰不小,奈何?」於是始有邪謀矣。 雲舅李竟民善張赦,見雲家卒卒,謂竟曰:「今丞相與平恩侯用事,可令太夫人言太后,先誅此兩人。移徙陛下,在太后耳。」長安男子張章告之,事下廷尉、執金吾,捕張赦等。後有詔,止勿捕。山等愈恐,相謂曰:「此縣官重太后,故不竟也。然惡端已見,久之猶發,發即族矣,不如先也。」遂令諸女各歸報其夫,皆曰:「安所相避!」 會李竟坐與諸侯王交通,辭語及霍氏,有詔:「雲、山不宜宿衞,免就第。」山陽太守張敞上封事曰:「臣聞公子季友有功於魯,趙衰有功於晉,田完有功於齊,皆疇其庸,延及子孫。終後田氏簒齊,趙氏分晉,季氏顓魯。故仲尼作春秋,跡盛衰,譏世卿最甚。乃者大將軍決大計,安宗廟,定天下,功亦不細矣。夫周公七年耳,而大將軍二十歳,海内之命斷於掌握。方其隆盛時,感動天地,侵迫陰陽。朝臣宜有明言曰:『陛下褒寵故大將軍以報功德足矣。間者輔臣顓政,貴戚太盛,君臣之分不明,請罷霍氏三侯皆就第;及衞將軍張安世,宜賜幾杖歸休,歸存問召見,以列侯爲天子師。』明詔以恩不聽,羣臣以義固爭而後許之,天下必以陛下爲不忘功德而朝臣爲知禮,霍氏世世無所患苦。今朝廷不聞直聲,而令明詔自親其文,非策之得者也。今兩侯已出,人情不相遠,以臣心度之,大司馬及其枝屬必有畏懼之心。夫近臣自危,非完計也。臣敞願於廣朝白髮其端,直守遠郡,其路無由。唯陛下省察。」上甚善其計,然不召也。 禹、山等家數有妖怪,舉家憂愁。山曰:「丞相擅減宗廟羔、菟、蛙,可以此罪也。」謀令太后爲博平君置酒,召丞相、平恩侯以下,使范明友、鄧廣漢承太后制引斬之,因廢天子而立禹。約定,未發,雲拜爲玄菟太守,太中大夫任宣爲代郡太守。會事發覺,秋,七月,雲、山、明友自殺,顯、禹、廣漢等捕得;禹要斬,顯及諸女昆弟皆棄市;與霍氏相連坐誅滅者數十家。太僕杜延年以霍氏舊人,亦坐免官。八月,己酉,皇后霍氏廢,處昭台宮,乙丑,詔封告霍氏反謀者男子張章、期門董忠、左曹楊惲、侍中金安上、史高皆爲列侯。惲,丞相敞子;安上,車騎將軍日磾弟子;高,史良娣兄子也。 初,霍氏奢侈,茂陵徐生曰:「霍氏必亡。夫奢則不遜,不遜必侮上。侮上者,逆道也,在人之右,衆必害之。霍氏秉權日久,害之者多矣。天下害之,而又行以逆道,不亡何待!」乃上疏言:「霍氏泰盛,陛下即愛厚之,宜以時抑制,無使至亡。」書三上,輒報聞。其後霍氏誅滅,而告霍氏者皆封,人爲徐生上書曰:「臣聞客有過主人者,見其灶直突,傍有積薪,客謂主人:『更爲曲突,遠徙其薪,不者且有火患。』主人嘿然不應。俄而家果失火,鄰里共救之,幸而得息。於是殺牛置酒,謝其鄰人,灼爛者在於上行,餘各以功次坐,而不録言曲突者。人謂主人曰:『郷使聽客之言,不費牛酒,終亡火患。今論功而請賓,曲突徙薪無恩澤,焦頭爛額爲上客邪?』主人乃寤而請之。今茂陵徐福,數上書言霍氏且有變,宜防絶之。郷使福説得行,則國無裂土出爵之費,臣無逆亂誅滅之敗。往事既已,而福獨不蒙其功,唯陛下察之,貴徙薪曲突之策,使居焦發灼爛之右。」上乃賜福帛十匹,後以爲郎。 帝初立,謁見高廟,大將軍光驂乘,上内嚴憚之,若有芒刺在背。後車騎將軍張安世代光驂乘,天子從容肆體,甚安近焉。及光身死而宗族竟誅,故俗傳霍氏之禍萌於驂乘。後十二歳,霍後復徙雲林館,乃自殺。 班固贊曰:霍光受襁褓之托,任漢室之寄,匡國家,安社稷,擁昭,立宣,雖周公、阿衡何以加此!然光不學亡術,闇於大理;陰妻邪謀,立女爲後,湛溺盈溢之欲,以增顛覆之禍,死財三年,宗族誅夷,哀哉! 臣光曰:霍光之輔漢室,可謂忠矣;然卒不能庇其宗,何也?夫威福者,人君之器也。人臣執之,久而不歸,鮮不及矣。以孝昭之明,十四而知上官桀之詐,固可以親政矣,況孝宣十九即位,聰明剛毅,知民疾苦,而光久專大柄,不知避去,多置親黨,充塞朝廷,使人主蓄憤於上,吏民積怨於下,切齒側目,待時而發,其得免於身幸矣,況子孫以驕侈趣之哉!雖然,向使孝宣專以祿秩賞賜富其子孫,使之食大縣,奉朝請,亦足以報盛德矣;乃復任之以政,授之以兵,及事叢釁積,更加裁奪,遂至怨懼以生邪謀,豈徒霍氏之自禍哉?亦孝宣醞釀以成之也。昔椒作亂於楚,莊王滅其族而赦箴尹克黄,以爲子文無後,何以勸善。夫以顯、禹、雲、山之罪,雖應夷滅,而光之忠勳不可不祀;遂使家無□類,孝宣亦少恩哉! 5. 6九月,詔減天下鹽賈。又令郡國歳上繋囚以掠笞若瘐死者,所坐縣、名、爵、里,丞相、御史課殿最以聞。 6. 7十二月,清河王年坐内亂廢,遷房陵。 7. 8是歳,北海太守廬江朱邑以治行第一入爲大司農,勃海太守龔遂入爲水衡都尉。先是,勃海左右郡歳饑,盜賊並起,二千石不能禽制。上選能治者,丞相、御史舉故昌邑郎中令龔遂,上拜爲勃海太守。召見,問:「何以治勃海,息其盜賊?」對曰:「海瀕遐遠,不沾聖化,其民困於饑寒而吏不恤,故使陛下赤子盜弄陛下之兵於潢池中耳。今欲使臣勝之邪,將安之也?」上曰:「選用賢良,固欲安之也。」遂曰:「臣聞治亂民猶治亂繩,不可急也;唯緩之,然後可治。臣願丞相、御史且無拘臣以文法,得一切便宜從事。」上許焉,加賜黄金贈遣。乘傳至勃海界,郡聞新太守至,發兵以迎。遂皆遣還。移書敕屬縣:「悉罷逐捕盜賊吏,諸持鍺、鉤、田器者皆爲良民,吏毋得問;持兵者乃爲賊。」遂單車獨行至府。盜賊聞遂教令,即時解散,棄其兵弩而持鉤、金且,於是悉平,民安土樂業。遂乃開倉廩假貧民,選用良吏尉安牧養焉。遂見齊俗奢侈,好末技,不田作,乃躬率以儉約,勸民務農桑,各以口率種樹畜養。民有帶持刀劍者,使賣劍買牛,賣刀買犢,曰:「何爲帶牛佩犢!」勞來循行,郡中皆有畜積,獄訟止息。 8. 9烏孫公主女爲龜茲王降賓夫人。絳賓上書言:「得尚漢外孫,願與公主女倶入朝。」 9. 元康元年(丙辰、前六五) 1春,正月,龜茲王及其夫人來朝;皆賜印綬,夫人號稱公主,賞賜甚厚。 1. 2初作杜陵。徙丞相、將軍、列侯、吏二千石、訾百萬者杜陵。 2. 3三月,詔以鳳皇集泰山、陳留,甘露降未央宮,赦天下。 3. 4有司復言悼園宜稱尊號曰皇考;夏,五月,立皇考廟。 4. 5冬,置建章衞尉。 5. 6趙廣漢好用世吏子孫新進年少者,專厲強壯蜂氣,見事風生,無所迴避,率多果敢之計,莫爲持難,終以此敗。廣漢以私怨論殺男子榮畜,人上書言之,事下丞相、御史按驗。廣漢疑丞相夫人殺侍婢,欲以此脅丞相,丞相按之愈急。廣漢乃將吏卒入丞相府,召其夫人跪庭下受辭,收奴婢十餘人去。丞相上書自陳,事下廷尉治,實丞相自以過譴笞傅婢,出至外第乃死,不如廣漢言。帝惡之,下廣漢廷尉獄。吏民守闕號泣者數萬人,或言:「臣生無益縣官,願代趙京兆死,使牧養小民!」廣漢竟坐要斬。廣漢爲京兆尹,廉明,威制豪強,小民得職,百姓追思歌之。 6. 7是歳,少府宋疇坐議「鳳皇下彭城,未至京師,不足美」,貶爲泗水太傅。 7. 8上遷博士、諫大夫通政事者補郡國守相,以蕭望之爲平原太守。望之上疏曰:「陛下哀愍百姓,恐德之不究,悉出諫官以補郡吏。朝無爭臣,則不知過,所謂憂其末而忘其本者也。」上乃征望之入守少府。 8. 9東海太守河東尹翁歸,以治郡高第入爲右扶風。翁歸爲人,公廉明察,郡中吏民賢、不肖及姦邪罪名盡知之。縣縣各有記籍,自聽其政;有急名則少緩之。吏民小解,輒披籍。取人必於秋冬課吏大會中及出行縣,不以無事時。其有所取也,以一警百。吏民皆服,恐懼,改行自新。其爲扶風,選用廉平疾姦吏以爲右職,接待以禮,好惡與同之;其負翁歸,罰亦必行。然温良謙退,不以行能驕人,故尤得名譽於朝廷。 9. 10初,烏孫公主少子萬年有寵於莎車王。莎車王死而無子,時萬年在漢,莎車國人計,欲自托於漢,又欲得烏孫心,上書請萬年爲莎車王。漢許之,遣使者奚充國送萬年。萬年初立,暴惡,國人不説。 上令羣臣舉可使西域者,前將軍韓增舉上黨馮奉世以衞候使持節送大苑諸國客至伊循城。會故莎車王弟呼屠征與旁國共殺其王萬年及漢使者奚充國,自立爲王。時匈奴又發兵攻車師城,不能下而去。莎車遣使揚言「北道諸國已屬匈奴矣」,於是攻劫南道,與歃盟畔漢,從鄯善以西皆絶不通。都護鄭吉、校尉司馬喜甏皆在北道諸國間,奉世與其副嚴昌計,以爲不亟撃之,則莎車日強,其勢難制,必危西域,遂以節諭告諸國王,因發其兵,南北道合萬五千人,進撃莎車,攻拔其城。莎車王自殺,傳其首詣長安,更立它昆弟子爲莎車王。諸國悉平,威振西域,奉世乃罷兵以聞。帝召見韓增曰:「賀將軍所舉得其人。」 奉世遂西至大宛。大宛聞其斬莎車王,敬之異於它使,得其名馬象龍而還。上甚説,議封奉世。丞相、將軍皆以爲可,獨少府蕭望之以爲:「奉世奉使有指,而擅矯制違命,發諸國兵,雖有功效,不可以爲後法。即封奉世,開後奉使者利以奉世爲比,爭逐發兵,要功萬里之外,爲國家生事於夷狄,漸不可長。奉世不宜受封。」上善望之議,以奉世爲光祿大夫。 10. 二年(丁巳、前六四) 1春,正月,赦天下。 1. 2上欲立皇后,時館陶主母華婕妤及淮陽憲王母張婕妤、楚孝王母衞婕妤愛幸。上欲立張婕妤爲后;久之,懲艾霍氏欲害皇太子,乃更選後宮無子而謹愼者。二月,乙丑,立長陵王婕妤爲皇后,令母養太子;封其父奉光爲邛成侯。後無寵,希得進見。 2. 3五月,詔曰:「獄者,萬民之命。能使生者不怨,死者不恨,則可謂文吏矣。今則不然。用法或持巧心,析律貳端,深淺不平,奏不如實,上亦亡由知,四方黎民將何仰哉!二千石各察官屬,勿用此人。吏或擅興徭役,飾廚傳,稱過使客,越職踰法以取名譽,譬如踐薄冰以待白日,豈不殆哉!今天下頗被疾疫之災,朕甚愍之,其令郡國被災甚者,毋出今年租賦。」 3. 4又曰:「聞古天子之名,難知而易諱也;其更諱詢。」 4. 5匈奴大臣皆以爲「車師地肥美,近匈奴,使漢得之,多田積穀,必害人國,不可不爭」,由是數遣兵撃車師田者。鄭吉將渠犁田卒七千餘人救之,爲匈奴所圍。吉上言:「東懷去渠犁千餘里,漢兵在渠犁者少,勢不能相救,願益田卒。」上與後將軍趙充國等議,欲因匈奴衰弱,出兵撃其右地,使不得復擾西域。 魏相上書諫曰:「臣聞之:救亂誅暴,謂之義兵,兵義者王;敵加於己,不得已而起者,謂之應兵,兵應者勝;爭恨小故,不忍憤怒者,謂之忿兵,兵忿者敗;利人土地、貨寶者,謂之貪兵,兵貪者破;恃國家之大,矜民人之衆,欲見威於敵者,謂之驕兵,兵驕者滅。此五者,非但人事,乃天道也。間者匈奴嘗有善意,所得漢民,輒奉歸之,未有犯於邊境;雖爭屯田車師,不足致意中。今聞諸將軍欲興兵入其地,臣愚不知此兵何名者也!今邊郡困乏,父子共犬羊之裘,食草萊之實,常恐不能自存,難以動兵。『軍旅之後,必有凶年,』言民以其愁苦之氣傷陰陽之和也。出兵雖勝,猶有後憂,恐災害之變因此以生。今郡國守相多不實選,風俗尤薄,水旱不時。按今年計子弟殺父兄、妻殺夫者凡二百二十二人,臣愚以爲此非小變也。今左右不憂此,乃欲發兵報纖介之忿於遠夷,殆孔子所謂『吾恐季孫之憂不在顓臾而在蕭牆之内也』。」上從相言,止。遣長羅侯常惠將張掖、酒泉騎往車師,迎鄭吉及其吏士還渠犁。召故車師太子軍宿在焉耆者,立以爲王;盡徙車師國民令居渠犁,遂以車師故地與匈奴。以鄭吉爲衞司馬,使護善阜善以西南道。 5. 6魏相好觀漢故事及便宜章奏,數條漢興已來國家便宜行事及賢臣賈誼、晁錯、董仲舒等所言,奏請施行之。相敕掾史按事郡國,及休告,從家還至府,輒白四方異聞。或有逆賊、風雨災變,郡不上,相輒奏言之。與御史大夫丙吉同心輔政,上皆重之。 丙吉爲人深厚,不伐善。自曾孫遭遇,吉絶口不道前恩,故朝廷莫能明其功也。會掖庭宮婢則令民夫上書,自陳嘗有阿保之功,章下掖庭令考問,則辭引使者丙吉知状。掖庭令將則詣御史府以視吉,吉識,謂則曰:「汝嘗坐養皇曾孫不謹,督笞汝,汝安得有功!獨渭城胡組、淮陽郭征卿有恩耳。」分別奏組等共養勞苦状。詔吉求組、征卿;已死,有子孫,皆受厚賞。詔免則爲庶人,賜錢十萬。上親見問,然後知吉有舊恩而終不言,上大賢之。 6. 7帝以蕭望之經明持重,議論有餘,材任宰相,欲詳試其政事,復以爲左馮翊。望之從少府出爲左遷,恐有不合意,即移病。上聞之,使侍中成都侯金安上諭意曰:「所用皆更治民以考功。君前爲平原太守日淺,故複試之於三輔,非有所聞也。」望之即起視事。 7. 8初,掖庭令張賀數爲弟車騎將軍安世稱皇曾孫之材美及征怪,安世輒絶止,以爲少主在上,不宜稱述曾孫。及帝即位而賀已死,上謂安世曰:「掖庭令平生稱我,將軍止之,是也。」上追思賀恩,欲封其塚爲恩德侯,置守塚二百家。賀有子蚤死,子安世小男彭祖。彭祖又小與上同席研書指,欲封之,先賜爵關内侯。安世深辭賀封;又求損守塚戸數,稍減至三十戸。上曰:「吾自爲掖庭令,非爲將軍也。」安世乃止,不敢復言。 8. 9上心忌故昌邑王賀,賜山陽太守張敞璽書,令謹備盜賊,察往來過客;毋下所賜書。敞於是條奏賀居處,著其廢亡之效曰:「故昌邑王爲人,靑黑色,小目,鼻末鋭卑,少鬚眉,身體長大,疾痿,行歩不便。臣敞嘗與之言,欲動觀其意,即以惡鳥感之曰:『昌邑多梟。』故王應曰:『然。前賀西至長安,殊無梟;復來,東至濟陽,乃復聞梟聲。』察故王衣服、言語、跪起,清狂不惠。臣敞前言:『哀王歌舞者張脩等十人無子,留守哀王園,請罷歸。』故王聞之曰:『中人守園,疾者當勿治,相殺傷者當勿法,欲令亟死。太守奈何而欲罷之?』其天資喜由亂亡,終不見仁義如此。」上乃知賀不足忌也。 9. 三年(戊午、前六三) 1春,三月,詔封故昌邑王賀爲海昏侯。 1. 2乙未,詔曰:「朕微眇時,御史大夫丙吉,中郎將史曾、史玄,長樂衞尉許舜,侍中、光祿大夫許延壽,皆與朕有舊恩,及故掖庭令張賀,輔導朕躬,修文學經術,恩惠卓異,厥功茂焉。詩不云乎:『無德不報』,封賀所子弟子侍中、中郎將彭祖爲陽都侯,追賜賀謚曰陽都哀侯,吉爲博陽侯,曾爲將陵侯,玄爲平台侯,舜爲博望侯,延壽爲樂成侯。」賀有孤孫霸,年七歳,拜爲散騎、中郎將,賜爵關内侯。故人下至郡邸獄復作嘗有阿保之功者,皆受官祿、田宅、財物,各以恩深淺報之。 吉臨當封,病;上憂其不起,將使人就加印紼而封之,及其生存也。太子太傅夏侯勝曰:「此未死也!臣聞有陰德者必饗其樂,以及子孫。今吉未獲報而疾甚,非其死疾也。」後病果愈。 張安世自以父子封侯,在位太盛。乃辭祿,詔都内別藏張氏無名錢以百萬數。安世謹愼周密,毎定大政,已決,輒移病出。聞有詔令,乃驚,使吏之丞相府問焉。自朝廷大臣,莫知其與議也。嘗有所薦,其人來謝,安世大恨,以爲「舉賢達能,豈有私謝邪!」絶弗復爲通。有郎功高不調,自言安世,安世應曰:「君之功高,明主所知,人臣執事,何長短而自言乎!」絶不許。已而郎果遷。安世自見父子尊顯,懷不自安,爲子延壽求出補吏,上以爲北地太守;歳餘,上閔安世年老,復征延壽爲左曹、太僕。 2. 3夏,四月,丙子,立皇子欽爲淮陽王。皇太子年十二,通論語、孝經。太傅疏廣謂少傅受曰:「吾聞『知足不辱,知止不殆。』今仕宦至二千石,官成名立,如此不去,懼有後悔。」即日,父子倶移病,上疏乞骸骨。上皆許之,加賜黄金二十斤,皇太子贈以五十斤。公卿故人設祖道供張東都門外,送者車數百兩。道路觀者皆曰:「賢哉二大夫!」或歎息爲之下泣。 廣、受歸郷里,日令其家賣金共具,請族人、故舊、賓客,與相娯樂。或勸廣以其金爲子孫頗立産業者,廣曰:「吾豈老悖不念子孫哉!顧自有舊田廬,令子孫勤力其中,足以共衣食,與凡人齊。今復增益之以爲贏餘,但教子孫怠墮耳。賢而多財,則損其志;愚而多財,則益其過。且夫富者衆之怨也,吾既無以教化子孫,不欲益其過而生怨。又此金者,聖主所以惠養老臣也,故樂與郷黨、宗族共饗其賜,以盡吾餘日,不亦可乎!」於是族人悅服。 3. 4穎川太守黄霸使郵亭、郷官皆畜雞、豚,以贍鰥、寡、貧、窮者;然後爲條教,置父老、師帥、伍長,班行之於民間,勸以爲善防姦之意,及務耕桑、節用、殖財、種樹、畜養,去浮淫之費。其治,米鹽靡密,初若煩碎,然霸精力能推行之。吏民見者,語次録繹,問它陰伏以相參考,聰明識事,吏悄不知所出,咸稱神明,豪厘不敢有所欺。姦人去入它郡,盜賊日少。霸力行教化而後誅罰,務在成就全安長吏。許丞老,病聾,督郵白欲逐之。霸曰:「許丞廉吏,雖老,尚能拜起送迎,正頗重聽何傷!且善助之,毋失賢者意!」或問其故,霸曰:「數易長吏,送故迎新之費,及姦吏因縁,絶簿書,盜財物,公私費耗甚多,皆當出於民。所易新吏又未必賢,或不如其故,徒相益爲亂。凡治道,去其泰甚者耳。」霸以外寬内明,得吏民心,戸口歳增,治爲天下第一,征守京兆尹。頃之,坐法,連貶秩;有詔復歸穎川爲太守,以八百石居。 4. 四年(己未、前六二) 1春,正月,詔:「年八十以上,非誣告、殺傷人,它皆勿坐。」 1. 2右扶風尹翁歸卒,家無餘財。秋,八月,詔曰:「翁歸廉平郷正,治民異等。其賜翁歸子黄金百斤,以奉祭祀。」 2. 3上令有司求高祖功臣子孫失侯者,得槐里公乘周廣漢等百三十六人,皆賜黄金二十斤,復其家,令奉祭祀,世世勿絶。 3. 4丙寅,富平敬侯張安世薨。 4. 5初,扶陽節侯韋賢薨,長子弘有罪繋獄,家人矯賢令,以次子大河都尉玄成爲後。玄成深知其非賢雅意,即陽爲病狂,臥便利,妄笑語,昏亂。既葬,當襲爵,以狂不應召。大鴻臚奏状,章下丞相、御史案驗。案事丞相史乃與玄成書曰:「古之辭讓,必有文義可觀,故能垂榮於後。今子獨壞容貌,蒙恥辱爲狂癡,光曜晻而不宣,微哉子之所托名也!僕素愚陋,過爲宰相執事,願少聞風聲;不然,恐子傷高而僕爲小人也。」玄成友人侍郎章亦上疏言:「聖王貴以禮讓爲國,宜優養玄成,勿枉其志,使得自安衡門之下。」而丞相、御史遂以玄成實不病,劾奏之,有詔勿劾,引拜;玄成不得已,受爵。帝高其節,以玄成爲河南太守。 5. 6車師王烏貴之走烏孫也,烏孫留不遣。漢遣使責烏孫,烏孫送烏貴詣闕。 6. 7初,武帝開河西四郡,隔絶羌與匈奴相通之路,斥逐諸羌。不使居湟中地。及帝即位,光祿大夫義渠安國使行諸羌;先零豪言:「願時度湟水北,逐民所不田處畜牧。」安國以聞。後將軍趙充國劾安國奉使不敬。是後羌人旁縁前言,抵冒度湟水,郡縣不能禁。 既而先零與諸羌種豪二百餘人解仇、交質、盟詛。上聞之,以問趙充國,對曰:「羌人所以易制者,以其種自有豪,數相攻撃,勢不壹也。往三十餘歳西羌反時,亦先解仇合約攻令居,與漢相距,五六年乃定。匈奴數誘羌人,欲與之共撃張掖、酒泉地,使羌居之。間者匈奴困於西方,疑其更遣使至羌中與相結。臣恐羌變未止此,且復結聯他種,宜及未然爲之備。」後月餘,羌侯狼何果遣使至匈奴藉兵,欲撃善阜善、敦煌以絶漢道。充國以爲「狼何勢不能獨造此計,疑匈奴使已至羌中,先零、罕、幵乃解仇作約。到秋馬肥,變必起矣。宜遣使者行邊兵,豫爲備敕,視諸羌毋令解仇,以發覺其謀。」於是兩府復白遣義渠安國行視諸羌,分別善惡。 7. 8是時,比年豐稔,穀石五錢。
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資治通鑑巻第二十四 漢紀十六 孝昭皇帝下 元平元年(丁未、前七四) 1春,二月,詔減口賦錢什三。 1. 春、二月、詔があり、口賦銭を三割減らした。 2夏,四月,癸來,帝崩於未央宮;無嗣。時武帝子獨有廣陵王胥,大將軍光與羣臣議所立,咸持廣陵王。王本以行失道,先帝所不用;光内不自安。朗有上書言:「周太王廢太伯立王季,文王捨伯邑考立武王,唯在所宜,雖廢長立少可也。廣陵王不可以承宗嗣。」言合光意。光以其書示丞相敞等,擢郎爲九江太守。即日承皇后詔,遣行大鴻臚事少府樂成、宗正德、光祿大夫吉、中郎將利漢,迎昌邑王賀,乘七乘傳詣長安邸。光又白皇后,徒右將軍安世爲車騎將軍。 賀,昌邑哀王之子也,在國素狂縱,動作無節。武帝之喪,賀遊獵不止。嘗遊方與,不半日馳二百里。中尉琅邪王吉上疏諫曰:「大王不好書術而樂逸游,馮式撙街,馳騁不止,口倦虖叱吒,手苦於棰轡,身勞虖車輿,朝則冒霧露,晝則被塵埃,夏則爲大暑之所暴炙,冬則爲風寒之所匽薄,數以耎脆之玉體犯勤勞之煩毒,非所以全壽命之宗也,又非所以進仁義之隆也。夫廣廈之下,細旃之上,明師居前,勤誦在後,上論唐、虞之際,下及殷、周之盛,考仁聖之風,習治國之道,欣欣焉發憤忘食,日新厥德,其樂豈街橛之間哉!休則俛仰屈伸以利形,進退歩趨以實下,吸新吐故以練臧,專意積精以適神,於以養生,豈不長哉!大王誠留意如此,則心有堯、舜之志,體有喬、松之壽,美聲廣譽,登而上聞,則福祿其臻而社稷安矣。皇帝仁聖,至今思慕未怠,於宮館、囿池、戈獵之樂未有所幸,大王宜夙夜念此以承聖意。諸侯骨肉,莫親大王,大王於屬則子也,於位則臣也,一身而二任之責加焉。恩愛行義,纖介有不具者,於以上聞,非饗國之福也。」王乃下令曰:「寡人造行不能無惰,中尉其忠,數輔吾過。」使謁者千秋賜中尉牛肉五百斤,酒五石,脯五束。其後復放縱自若。 郎中令山陽龔遂,忠厚剛毅,有大節,内諫爭於王,外責傅相,引經義,陳禍福,至於涕泣,蹇蹇亡已,面刺王過。王至掩耳起走,曰:「郎中令善愧人!」王嘗久與騶奴、宰人遊戲飲食,賞賜無度,遂入見王,涕泣膝行,左右侍御皆出涕。王曰:「郎中令何爲哭?」遂曰:「臣痛社稷危也!願賜清閒,竭愚!」王辟左右。遂曰:「大王知膠西王所以爲無道亡乎?」王曰:「不知也。」曰:「臣聞膠西王有諛臣侯得,王所爲似於桀、紂也,得以爲堯、舜也。王説其諂諛,常與寢處,唯得所言,以至於是。今大王親近羣小,漸漬邪惡所習,存亡之機,不可不愼也!臣請選郎通經有行義者與王起成,坐則誦詩、書,立則習禮容,宜有益。」王許之。遂乃選郎中張安等十人侍王。居數日,王皆逐去安等。 王嘗見大白犬,頸以下似人,冠方山冠而無尾,以問龔遂,遂曰:「此天戒,言在側者盡冠狗也,去之則存,不去則亡矣。」後又聞人聲曰:「熊!」視而見大熊,左右莫見,以問遂,遂曰:「熊,山野之獸,而來之宮室,王獨見之,此天戒大王,恐宮室將空,危亡象也。」王仰天而歎曰:「不祥何爲數來!」遂叩頭曰:「臣不敢隱忠,數言危亡之戒;大王不説。夫國之存亡,豈在臣言哉!願王内自揆度。大王誦詩三百五篇,人事浹,王道備。王之所行,中詩一篇何等也?大王位於諸侯王,行汚於庶人,以存難,以亡易,宜深察之!」後又血汚王坐席,王問遂;遂叫然號曰:「宮空不久,妖祥數至。血者,陰憂象也,宜畏愼自省!」王終不改節。 及徴書至,夜漏未盡一刻,以火發書。其日中,王發;晡時,至定陶,行百三十五里,侍從者馬死相望於道。王吉奏書戒王曰:「臣聞高宗諒闇,三年不言。今大王以喪事征,宜日夜哭泣悲哀而已,愼毋有所發!大將軍仁愛、勇智、忠信之德,天下莫不聞;事孝武皇帝二十餘年,未嘗有過。先帝棄羣臣,屬以天下,寄幼孤焉。大將軍抱持幼君襁褓之中,布政施教,海内晏然,雖周公、伊尹無以加也。今帝崩無嗣,大將軍惟思可以奉宗廟者,攀援而立大王,其仁厚豈有量哉!臣願大王事之,敬之,政事壹聽之,大王垂拱南面而已。願留意,常以爲念!」 王至濟陽,求長鳴雞,道買積竹杖。過弘農,使大奴善以衣車載女子。至湖,使者以讓相安樂。安樂告龔遂,遂入問王,王曰:「無有。」遂曰:「即無有,何愛一善以毀行義!請收屬吏,以湔灑大王。」即捽善屬衞士長行法。 王到霸上,大鴻臚郊迎,騶奉乘輿車。王使壽成御,郎中令遂參乘。且至廣明、東都門,遂曰:「禮,奔喪望見國都哭。此長安東郭門也。」王曰:「我嗌痛,不能哭。」至城門,遂復言,王曰:「城門與郭門等耳。」且至未央宮東闕,遂曰:「昌邑帳在是闕外馳道北,未至帳所,有南北行道,馬足未至數歩;大王宜下車,郷闕西面伏哭,盡哀止。」王曰:「諾。」到,哭如儀。六月,丙寅,王受皇帝璽綬,襲尊號,尊皇后曰皇太后。 2. 3壬申,葬孝昭皇帝於平陵。 3. 4昌邑王既立,淫戲無度。昌邑官屬皆征至長安,往往超擢拜官。相安樂遷長樂衞尉。龔遂見安樂,流涕謂曰:「王立爲天子,日益驕溢,諫之不復聽。今哀痛未盡,日與近臣飲酒作樂,斗虎豹,召皮軒車九旒,驅馳東西,所爲悖道。古制寬,大臣有隱退;今去不得,陽狂恐知,身死爲世戮,奈何?君,陛下故相,宜極諫爭。」 王夢靑蠅之矢積西階東,可五六石,以屋版瓦覆之,以問遂,遂曰:「陛下之詩不云乎:『營營靑蠅,止於籓。愷悌君子,毋信讒言。』陛下左側讒人衆多,如是靑蠅惡矣。宜進先帝大臣子孫,親近以爲左右。如不忍昌邑故人,信用讒諛,必有凶咎。願詭禍爲福,皆放逐之!臣當先逐矣。」王不聽。太僕丞河東張敞上書諫,曰:「孝昭皇帝早崩無嗣,大臣猶懼,選賢聖承宗廟,東迎之日,唯恐屬車之行遲。今天子以盛年初即位,天下莫不拭目傾耳,觀化聽風。國輔大臣未褒,而昌邑小輩先遷,此過之大者也。」王不聽。 太僕丞河東張敝上書諫,曰:「孝昭皇帝早崩無嗣,大臣憂懼,選賢聖承宗廟,東迎之日,唯恐屬車之行遲。今天子以盛年初即位,天下莫不拭目傾年,觀化聽風。國輔大臣未褒,而昌邑小輩先遷,此過之大者也。」王不聽。 大將軍光憂懣,獨以問所親故吏大司農田延年。延年曰:「將軍爲國柱石,審此人不可,何不建白太后,更選賢而立之!」光曰:「今欲如是,於古嘗有此不?」延年曰:「伊尹相殷,廢太甲以安宗廟,後世稱其忠。將軍若能行此,亦漢之伊尹也。」光乃引延年給事中,陰與車騎將軍張安世圖計。 王出遊,光祿大夫魯國夏侯勝當乘輿前諫曰:「天久陰而不雨,臣下有謀上者。陛下出,欲何之?」王怒,謂勝爲示夭言,縛以屬吏。吏白霍光,光不舉法。光讓安世,以爲洩語。安世實不言;乃召問勝。勝對言:「在鴻範傳曰:『皇之不極,厥罰常陰,時則有下人伐上者。』惡察察言,故云『臣下有謀』。」光、安世大驚,以此益重經術士。侍中傅嘉數進諫,王亦縛嘉繋獄。 光、安世既定議,乃使田延年報丞相楊敞。敞驚懼,不知所言,汗出洽背,徒唯唯而已。延年起,至更衣,敞夫人遽從東廂謂敞曰:「此國大事,今大將軍議已定,使九卿來報君侯,君侯不疾應,與大將軍同心,猶與無決,先事誅矣!」延年從更衣還,敞夫人與延年參語許諾:「請奉大將軍教令!」 癸巳,光召丞相、御史、將軍、列侯、中二千石、大夫、博士會議未央宮。光曰:「昌邑王行昏亂,恐危社稷,如何?」羣臣皆驚鄂失色,莫敢發言,但唯唯而已。田延年前,離席按劍曰:「先帝屬將軍以幼孤,寄將軍以天下,以將軍忠賢,能安劉氏也。今羣下鼎沸,社稷將傾;且漢之傳謚常爲『孝』者,以長有天下,令宗廟血食也。如漢家絶祀,將軍雖死,何面目見先帝於地下乎?今日之議,不得旋踵,羣臣後應者,臣請斂斬之!」光謝曰:「九卿責光是也!天下匈匈不安,光當受難。」於是議者皆叩頭曰:「萬姓之命,在於將軍,唯大將軍令!」 光即與羣臣倶見,白太后,具陳昌邑王不可以承宗廟状。皇太后乃車駕幸未央承明殿,詔諸禁門毋内昌邑羣臣。王入朝太后還,乘輦欲歸温室。中黄門宦者各持門扇,王入,門閉,昌邑羣臣不得入。王曰:「何爲?」大將軍跪曰:「有皇太后詔,毋内昌邑羣臣!」王曰:「徐之,何乃驚人如是!」光使盡驅出昌邑羣臣,置金馬門外。車騎將軍安世將羽林騎,收縛二百餘人,皆送廷尉詔獄。令故昭帝侍中中臣侍守王。光敕左右:「謹宿衞!卒有物故自裁,令我負天下,有殺主名。」王尚未自知當廢,謂左右:「我故羣臣從官安得罪,而大將軍盡繋之乎!」 頃之,有太后詔召王。王聞召,意恐,乃曰:「我安得罪而召我哉!」太后被珠襦,盛服坐武帳中,侍御數百人皆持兵,期門武士陛戟陳列殿下,羣臣以次上殿,召昌邑王伏前聽詔。光與羣臣連名奏王,尚書令讀奏曰:「丞相臣敞等昧死言皇太后陛下:孝昭皇帝早棄天下,遣使征昌邑王典喪,服斬衰,無悲哀之心,廢禮誼,居道上不素食,使從官略女子載衣車,内所居傳捨。始至謁見,立爲皇太子,常私買雞豚以食。受皇帝信璽、行璽大行前,就次,發璽不封。從官更持節引内昌邑從官、騶宰、官奴二百餘人,常與居禁闥内敖戲。爲書曰:『皇帝問侍中君卿:使中御府令高昌奉黄金千斤,賜君卿取十妻。』大行在前殿,發樂府樂器,引内昌邑樂人撃鼓,歌吹,作俳倡;召内泰壹、宗廟樂人,悉奏衆樂。駕法駕驅馳北宮、桂宮,弄彘,斗虎。召皇太后御小馬車,使官奴騎乘,遊戲掖庭中。與孝昭皇帝宮人蒙等淫亂,詔掖庭令:『敢洩言,要斬!』……」太后曰:「止!爲人臣子,當悖亂如是邪!」王離席伏。尚書令復讀曰:「……取諸侯王、列侯、二千石綬及墨綬、黄綬以並佩昌邑郎官者免奴。發御府金錢、刀劍、玉器、采繒,賞賜所與遊戲者。與從官、官奴夜飲,湛沔於酒。獨夜設九賓温室,延見姊夫昌邑關内侯。祖宗廟祠未舉,爲璽書,使使者持節以三太牢祠昌邑哀王園廟,稱『嗣子皇帝』。受璽以來二十七日,使者旁午,持節詔諸官署征發凡一千一百二十七事。荒淫迷惑,失帝王禮誼,亂漢制度。臣敞等數進諫,不變更,日以益甚。恐危社稷,天下不安。臣敞等謹與博士議,皆曰:『今陛下嗣孝昭皇帝後,行淫辟不軌。「五辟之屬,莫大不孝。」周襄王不能事母,春秋曰:「天王出居於鄭,」由不孝出之,絶之於天下也。宗廟重於君,陛下不可以承天序,奉祖宗廟,子萬姓,當廢!』臣請有司以一太牢具告祠高廟。」皇太后詔曰:「可。」光令王起,拜受詔,王曰:「聞『天下有爭臣七人,雖亡道不失天下。』」光曰:「皇太后詔廢,安得稱天子!」乃即持其手,解脱其璽組,奉上太后,扶王下殿,出金馬門,羣臣隨送。王西面拜曰:「愚戇,不任漢事!」起,就乘輿副車,大將軍光送至昌邑邸。光謝曰:「王行自絶於天,臣寧負王,不敢負社稷!願王自愛,臣長不復左右。」光涕泣而去。 羣臣奏言:「古者廢放之人,屏於遠方,不及以政。請徒王賀漢中房陵縣。」太后詔歸賀昌邑,賜湯沐邑二千戸,故王家財物皆與賀;及哀王女四人,各賜湯沐邑千戸;國除,爲山陽郡。 昌邑羣臣坐在國時不舉奏王罪過,令漢朝不聞知,又不能輔道,陷王大惡,皆下獄,誅殺二百餘人。唯中尉吉、郎中令遂以忠直數諫正,得減死,髡爲城旦。師王式繋獄當死,治事使者責問曰:「師何以無諫書?」式對曰:「臣以詩三百五篇朝夕授王,至於忠臣、孝子之篇,未嘗不爲王反覆誦之也。至於危亡失道之君,未嘗不流涕爲王深陳之也。臣以三百五篇諫,是以無諫書。」使者以聞,亦得減死論。 霍光以羣臣奏事東宮,太后省政,宜知經術,白令夏侯勝用尚書授太后,遷勝長信少府,賜爵關内侯。 4. 5初,衞太子納魯國史良娣,生子進,號史皇孫。皇孫納涿郡王夫人,生子病已,號皇曾孫。皇曾孫生數月,遭巫蠱事,太子三男、一女及諸妻、妾皆遇害,獨皇曾孫在,亦坐收繋郡邸獄。故廷尉監魯國丙吉受詔治巫蠱獄,吉心知太子無事實,重哀皇曾孫無辜,擇謹厚女徒謂城胡組、淮陽郭征卿,令乳養曾孫,置閒燥處。吉日再省視。 巫蠱事連歳不決,武帝疾,來往長楊、五柞宮,望氣者言長安獄中有天子氣,於是武帝遣使者分條中都官,詔獄繋者,無輕重,一切皆殺之。内謁者令郭穰夜到郡邸獄,吉閉門拒使者不納,曰:「皇曾孫在。他人無辜死者猶不可,況親曾孫乎!」相守至天明,不得入。穰還,以聞,因劾奏吉。武帝亦寤,曰:「天使之也。」因赦天下。郡邸獄繋者,獨賴吉得生。 既而吉謂守丞誰如:「皇孫不當在官。」使誰如移書京兆尹,遣與胡組倶送;京兆尹不受,復還。及組日滿當去,皇孫思慕,吉以私錢雇組令留,與郭征卿並養,養月,乃遣組去。後少内嗇夫白吉曰:「食皇孫無詔令。」時吉得食米、肉,月月以給皇曾孫。曾孫病,幾不全者數焉,吉數敕保養乳母加致醫藥,視遇甚有恩惠。吉聞史良娣有母貞君及兄恭,乃載皇曾孫以付之。貞君年老,見孫孤,甚哀之,自養視焉。 後有詔掖庭養視,上屬籍宗正。時掖庭令張賀,嘗事戻太子,思顧舊恩,哀曾孫,奉養甚謹,以私錢供給,教書。既壯,賀欲以女孫妻之。是時昭帝始冠,長八尺二寸。賀弟安世爲右將軍,輔政,聞賀稱譽皇曾孫,欲妻以女,怒曰:「曾孫乃衞太子後也,幸得以庶人衣食縣官足矣,勿復言予女事!」於是賀止。時暴室嗇夫許廣漢有女,賀乃置酒請廣漢,酒酣,爲言:「曾孫體近,下乃關内侯,可妻也。」廣漢許諾。明日,嫗聞之,怒。廣漢重令人爲介,遂與曾孫。賀以家財聘之。曾孫因依倚廣漢兄弟及祖母家史氏,受詩於東海澓中翁,高材好學;然亦喜遊俠,鬥雞走狗,以是倶知閭里姦邪,吏治得失。數上下諸陵,周遍三輔,嘗困於蓮勺鹵中,尤樂杜、鄠之間,率常在下杜。時會朝請,捨長安尚冠里。 及昌邑王廢,霍光與張安世諸大臣議所立,未定。丙吉奏記光曰:「將軍事孝武皇帝,受襁褓之屬,任天下之寄。孝昭皇帝早崩亡嗣,海内憂懼,欲亟聞嗣主。發喪之日,以大誼立後,所立非其人,復以大誼廢之;天下莫不服焉。方今社稷、宗廟、羣生之命在將軍之壹舉,竊伏聽於衆庶,察其所言諸侯、宗室在列位者,未有所聞於民間也。而遺詔所養武帝曾孫名病已在掖庭、外家者,吉前使居郡邸時,見其幼少;至今十八九矣,通經術,有美材,行安而節和。願將軍詳大義,參以蓍龜豈宜,褒顯先使入侍,令天下昭然知之,然後決定大策,天下幸甚!」杜延年亦知曾孫德美,勸光、安世立焉。 秋,七月,光坐庭中,會丞相以下議定所立,遂復與丞相敞等上奏曰:「孝武皇帝曾孫病已,年十八,師受詩、論語、孝經,躬行節儉,慈仁愛人,可以嗣孝昭皇帝後,奉承祖宗廟,子萬姓。臣昧死以聞!」皇太后詔曰:「可。」光遣宗正德至曾孫家尚冠里,洗沐,賜御衣;太僕以軨獵車迎曾孫,就齋宗正府。庚申,入未央宮,見皇太后,封爲陽武侯。已而羣臣奏上璽綬,即皇帝位,謁高廟;尊皇太后爲太皇太后。 侍御史嚴延年劾奏「大將軍光擅廢立主,無人臣禮,不道。」奏雖寢,然朝廷肅然敬憚之。 5. 6八月,己巳,安平敬侯楊敞薨。 6. 7九月,大赦天下。 7. 8戊寅,蔡義爲丞相。 8. 9初,許廣漢女適皇曾孫,一歳,生子奭。數月,曾孫立爲帝,許氏爲婕妤。是時霍將軍有小女與皇太后親,公卿議更立皇后,皆心擬霍將軍女,亦未有言。上乃詔求微時故劍。大臣知指,白立許婕妤爲皇后。十一月,壬子,立皇后許氏。霍光以後父廣漢刑人,不宜君國;歳餘,乃封爲昌成君。 9. 10太皇太后歸長樂宮。長樂宮初置屯衞。 10. 中宗孝宣皇帝上之上 本始元年(戊申、前七三) 1春,詔有司論定策安宗廟功。大將軍光益封萬七千戸,與故所食凡二萬戸。車騎將軍富平侯安世以下益封者十人,封侯者五人,賜爵關内侯者八人。 1. 2大將軍光稽首歸政,上謙讓不受;諸事皆先關白光,然後奏御。自昭帝時,光子禹及兄孫雲皆爲中郎將,雲弟山奉車都尉、侍中、領胡、越兵,光兩女婿爲東、西宮衞尉,昆弟、諸婿、外孫皆奉朝請,爲諸曹、大夫、騎都尉、給事中,黨親連體,根據於朝廷。及昌邑王廢,光權益重,毎朝見,上虚己斂容,禮下之已甚。 2. 3夏,四月,庚午,地震。 3. 4五月,鳳皇集膠東、千乘。赦天下,勿收田租賦。 4. 5六月,詔曰:「故皇太子在湖,未有號謚,歳時祠;其議謚,置園邑。」有司奏請:「禮,爲人後者,爲之子也;故降其父母,不得祭,尊祖之義也。陛下爲孝昭帝后,承祖宗之祀,愚以爲親謚宜曰悼,母曰悼後;故皇太子謚曰戻,史良娣曰戻夫人。」皆改葬焉。 5. 6秋,七月,詔立燕刺王太子建爲廣陽王;立廣陵王胥少子弘爲高密王。 6. 7初,上官桀與霍光爭權,光既誅桀,遂遵武帝法度,以刑罰痛繩羣下,由是俗吏皆尚嚴酷以爲能;而河南太守丞淮陽黄霸獨用寬和爲名。上在民間時,知百姓苦吏急也,聞霸持法平,乃召以爲廷尉正;數決疑獄,庭中稱平。 7. 二年(己酉、前七二) 1春,大司農田延年有罪自殺。昭帝之喪,大司農僦民車,延年詐增僦直,盜取錢三千萬,爲怨家所告。霍將軍召問延年,欲爲道地。延年抵曰:「無有是事!」光曰:「即無事,當窮竟!」御史大夫田廣明謂太僕杜延年曰:「春秋之義,以功覆過。當廢昌邑王時,非田子賓之言,大事不成。今縣官出三千萬自乞之,何哉?願以愚言白大將軍。」延年言之大將軍,大將軍曰:「誠然,實勇士也!當發大議時,震動朝廷,」光因舉手自撫心曰:「使我至今病悸。謝田大夫曉大司農,通往就獄,得公議之。」田大夫使人語延年。延年曰:「幸縣官寬我耳,何面目入牢獄,使衆人指笑我,卒徒唾吾背乎?」即閉閣獨居齋舍,偏袒,持刀東西歩。數日,使者召延年詣廷尉。聞鼓聲,自刎死。 1. 2夏,五月,詔曰:「孝武皇帝躬仁誼,勵威武,功德茂盛,而廟樂未稱,聯甚悼焉。其與列侯、二千石、博士議。」於是羣臣大議庭中,皆曰:「宜如詔書。」長信少府夏侯勝獨曰:「武帝雖有攘四夷、廣土境之功,然多殺士衆,竭民財力,奢泰無度,天下虚耗,百姓流離,物故者半,蝗蟲大起,赤地數千里,或人民相食,畜積至今未復;無德澤於民,不宜爲立廟樂。」公卿共難勝曰:「此詔書也。」勝曰:「詔書不可用也。人臣之誼,宜直言正論,非苟阿意順指。議已出口,雖死不悔!」於是丞相、御史劾奏勝非議詔書,毀先帝,不道;及丞相長史黄霸阿縱勝,不舉劾;倶下獄。有司遂請尊孝武帝廟爲世宗廟,奏盛德、文始五行之舞。武帝巡狩所幸郡國皆立廟,如高祖、太宗焉。夏侯勝、黄霸既久繋,霸欲從勝受尚書,勝辭以罪死。霸曰:「朝聞道,夕死可矣。」勝賢其言,遂授之。繋再更冬,講論不怠。 2. 3初,烏孫公主死,漢復以楚王戊之孫解憂爲公主,妻岑娶。岑娶胡婦子泥靡尚小,岑娶且死,以國與季父大祿子翁歸靡,曰:「泥靡大,以國歸之。」翁歸靡既立,號肥王,復尚楚主,生三男、兩女。長男曰元貴靡,次曰萬年,次曰大樂。昭帝時,公主上書言:「匈奴與車師共侵烏孫,唯天子幸救之。」漢養士馬,議撃匈奴。會昭帝崩,上遣光祿大夫常惠使烏孫。烏孫公主及昆彌皆遣使上書,言:「匈奴復連發大兵,侵撃烏孫。使使謂烏孫『趣持公主來!』欲隔絶漢。昆彌願發國精兵五萬騎,盡力撃匈奴。唯天子出兵以救公主、昆彌!」先是匈奴數侵漢邊,漢亦欲討之。秋,大發兵,遣御史大夫田廣明爲祁連將軍,四萬餘騎,出西河;度遼將軍范明友三萬餘騎,出張掖;前將軍韓增三萬餘騎,出雲中;後將軍趙充國爲蒲類將軍,三萬餘騎,出酒泉;雲中太守田順爲虎牙將軍,三萬餘騎,出五原;期以出塞各二千餘里。以常惠爲校尉,持節護烏孫兵共撃匈奴。 3. 三年(庚戌、前七一) 1春,正月,癸亥,恭哀許皇后崩。時霍光夫人顯欲貴其小女成君,道無從。會許后當娠,病,女醫淳於衍者,霍氏所愛,嘗入宮侍皇后疾。衍夫賞爲掖庭戸衞,謂衍:「可過辭霍夫人,行爲我求安池監。」衍如言報顯,顯因生心,辟左右,謂衍曰:「少夫幸報我以事,我亦欲報少夫,可乎?」衍曰:「夫人所言,何等不可者!」顯曰:「將軍素愛小女成君,欲奇貴之,願以累少夫。」衍曰:「何謂邪?」顯曰:「婦人免乳,大故,十死一生。今皇后當免身,可因投毒藥去也,成君即爲皇后矣。如蒙力,事成,富貴與少夫共之。」衍曰:「藥雜治,當先嘗,安可?」顯曰:「在少夫爲之耳。將軍領天下,誰敢言者!緩急相護,但恐少夫無意耳。」衍良久曰:「願盡力!」即搗附子,繼入長定宮。皇后免身後,衍取附子併合太醫大丸以飲皇后,有頃,曰:「我頭岑岑也,藥中得無有毒?」對曰:「無有。」遂加煩懣,崩。衍出,過見顯,相勞問,亦未敢重謝衍。後人有上書告諸醫侍疾無状者,皆收繋詔獄,劾不道。顯恐急,即以状具語光,因曰:「既失計爲之,無令吏急衍!」光大驚,欲自發舉,不忍,猶與。會奏上,光署衍勿論。顯因勸光内其女入宮。 1. 2戊辰,五將軍發長安。匈奴聞漢兵大出,老弱奔走,驅畜産遠遁逃,是以五將少所得。夏,五月,軍罷。度遼將軍出塞千二百餘里,至蒲離候水,斬首、捕虜七百餘級;前將軍出塞千二百餘里,至烏員,斬首、捕虜百餘級;蒲類將軍出塞千八百餘里,西至候山,斬首、捕虜,得單于使者蒲陰王以下三百餘級。聞虜已引去,皆不至期還。天子薄其過,寬而不罪。祁連將軍出塞千六百里,至雞秩山,斬首、捕虜十九級。逢漢使匈奴還者冉弘等,言雞秩山西有虜衆,祁連即戒弘,使言無虜,欲還兵。御史屬公孫益壽諫,以爲主可。祁連不聽,遂引兵還。虎牙將軍出塞八百餘里,至丹餘吾水上,即止兵不進,斬首、捕虜千九百餘級,引兵還。上以虎牙將軍不至期,詐增鹵獲,而祁連知虜在前,逗遛不進,皆下吏,自殺。擢公孫益壽爲侍御史。 烏孫昆彌自將五萬騎與校尉常惠從西方入,至右谷蠡王庭,獲單于父行及嫂、居次、名王、犁汙都尉、千長、騎將以下四萬級,馬、牛、羊、驢、橐佗七十餘萬頭。烏孫皆自取所虜獲。上以五將皆無功,獨惠奉使克獲,封惠爲長羅侯。然匈奴民衆傷而去者及畜産遠移死亡,不可勝數。於是匈奴遂衰耗,怨烏孫。 上復遣常惠持金幣還賜烏孫貴人有功者。惠因奏請龜茲國嘗殺校尉賴丹,未伏誅,請便道撃之。帝不許。大將軍霍光風惠以便宜從事。惠與吏士五百人倶至烏孫,還,過,發西國兵二萬人,令副使發龜茲東國二萬人,烏孫兵七千人,從三面攻龜茲。兵未合,先遣人責其王以前殺漢使状。王謝曰:「乃我先王時爲貴人姑翼所誤耳,我無罪。」惠曰:「即如此,縛姑翼來,吾置王。」王執姑翼詣惠,惠斬之而還。 2. 3大旱。 3. 4六月,己丑,陽平節侯蔡義薨。 4. 5甲辰,長信少府韋賢爲丞相。 5. 6大司農魏相爲御史大夫。 6. 7冬,匈奴單于自將數萬騎撃烏孫,頗得老弱。欲還,會天大雨雪,一日深丈餘,人民、畜産凍死,還者不能什一。於是丁令乘弱攻其北,烏桓入其東,烏孫撃其西,凡三國所殺數萬級,馬數萬匹,牛羊甚衆;又重以餓死,人民死者什三,畜産什五。匈奴大虚弱,諸國羈屬者皆瓦解,攻盜不能理。其後漢出三千餘騎爲三道,並入匈奴,捕虜得數千人還;匈奴終不敢取當,滋欲郷和親,而邊境少事矣。 7. 8是歳,穎川太守趙廣漢爲京兆尹。穎川俗,豪桀相朋黨。廣漢爲缿筒,受吏民投書,使相告訐,於是更相怨咎,姦黨散落,盜賊不敢發。匈奴降者言匈奴中皆聞廣漢名,由是入爲京兆尹。廣漢遇吏,殷勤甚備,事推功善,歸之於下,行之發於至誠,吏咸願爲用,僵仆無所避。廣漢聰明,皆知其能之所宜,盡力與否;其或負者。輒收捕之,無所逃;案之,罪立具,即時伏辜。尤善爲金句距以得事情,閭里銖兩之姦皆知之。長安少年數人會窮里空捨,謀共劫人;坐語未訖,廣漢使吏捕治,具服。其發姦手適伏如神。京兆政清,吏民稱之不容口。長老傳以爲自漢興,治京兆者莫能及。 8. 四年(辛亥、前七〇) 1春,三月,乙卯,立霍光女爲皇后,赦天下。初,許后起微賤,登至尊日淺,從官車服甚節儉。及霍后立,輿駕、侍從益盛,賞賜官屬以千萬計,與許后時縣絶矣。 1. 2夏,四月,壬寅,郡國四十九同日地震,或山崩,壞城郭、室屋,殺六千餘人。北海、琅邪壞祖宗廟。詔丞相、御史與列侯、中二千石傅問經學之士,有以應變,毋有所諱。令三輔、太常、内郡國賢舉良方正各一人。大赦天下。上素服,避正殿五日。釋夏侯勝、黄霸,以勝爲諫大夫、給事中,霸爲揚州刺史。 勝爲人,質樸守正,簡易無威儀,或時謂上爲君,誤相字於前;上亦以是親信之。嘗見,出道上語,上聞而讓勝,勝曰:「陛下所言善,臣故揚之。堯言佈於天下,至今見誦。臣以爲可傳,故傳耳。」朝廷毎有大議,上知勝素直,謂曰:「先生建正言,無懲前事!」勝復爲長信少府,後遷太子太傅。年九十卒,太后賜錢二百萬,爲勝素服五日,以報師傅之恩。儒者以爲榮。 2. 3五月,鳳皇集北海安丘、淳于。 3. 4廣川王去坐殺其師及姫妾十餘人,或銷鉛錫灌口中,或支解,並毒藥煮之,令糜盡,廢徙上庸;自殺。 4. 地節元年(壬子、前六九) 1春,正月,有星孛于西方。 1. 2楚王延壽以廣陵王胥,武帝子,天下有變,必得立,陰附肋之,爲其後母弟趙何齊取廣陵王女爲妻,因使何齊奉書遺廣陵王曰:「願長耳目,毋後人有天下!」何齊父長年上書告之,事下有司考驗,辭服。冬,十一月,延壽自殺。胥勿治。 2. 3十二月,癸亥晦,日有食之。 3. 4是歳,於定國爲廷尉。定國決疑平法,務在哀鰥寡,罪疑從輕,加審愼之心。朝廷稱之曰:「張釋之爲廷尉,天下無冤民。於定國爲廷尉,民自以不冤。」 4. 二年(癸丑、前六八) 1春,霍光病篤。車駕自臨問,上爲之涕泣。光上書謝恩,願分國邑三千戸以封兄孫奉車都尉山爲列侯,奉兄去病祀。即日,拜光子禹爲右將軍。三月,庚午,光薨。上及皇太后親臨光喪,中二千石治塚,賜梓宮、葬具皆如乘輿制度,謚曰宣成侯。發三河卒穿復土,置園邑三百家,長、丞奉守;下詔復其後世,疇其爵邑,世世無有所與。 御史大夫魏相上封事曰:「國家新失大將軍,宜顯明功臣以填籓國,毋空大位,以塞爭權。宜以車騎將軍安世爲大將軍,毋令領光祿勳事;以其子延壽爲光祿勳。」上亦欲用之。夏,四月,戊申,以安世爲大司馬、車騎將軍,領尚書事。 1. 2鳳皇集魯,羣鳥從之。大赦天下。 2. 3上思報大將軍德,乃封光兄孫山爲樂平侯,使以奉車都尉領尚書事。魏相因昌成君許廣漢奏封事,言:「春秋譏世卿,惡宋三世爲大夫及魯季孫之專權,皆危亂國家。自後元以來,祿去王室,政由塚宰。今光死,子復爲右將軍,兄子秉樞機,昆弟、諸婿據權勢,在兵官,光夫人顯及諸女皆通籍長信宮,或夜詔門出入,驕奢放縱,恐寢不制,宜有以損奪其權,破散陰謀,以固萬世之基,全功臣之世。」又故事:諸上書者皆爲二封,署其一曰「副」,領尚書者先發副封,所言不善,屏去不奏。相復因許伯白去副封以防壅蔽。帝善之,詔相給事中,皆從其議。 3. 4帝興于閭閻,知民事之艱難。霍光既薨,始親政事,厲精爲治,五日一聽事。自丞相以下各奉職奏事,敷奏其言,考試功能。侍中、尚書功勞當遷及有異善,厚加賞賜,至於子孫,終不改易。樞機周密,品式備備,上下相安,莫有苟且之意。及拜刺史、守、相,輒親見問,觀其所由,退而考察所行以質其言,有名實不相應,必知其所必然。常稱曰:「庶民所以安其田里而亡歎息愁恨之心者,政平訟理也。與我共此者,其唯良二千石乎!」以爲太守,吏民之本,數變易則下不安;民知其將久,不可欺罔,乃服從其教化。故二千石有治理效,輒以璽書勉厲,增秩,賜金,或爵至關内侯;公卿缺,則選諸所表,以次用之。是以漢世良吏,於是爲盛,稱中興焉。 4. 5匈奴壺衍鞮單于死,弟左賢王立爲虚閭權渠單于,以右大將女爲大閼氏,而黜前單于所幸顓渠閼氏。顓渠閼氏父左大且渠怨望。是時漢以匈奴不能爲邊寇,罷塞外諸城以休百姓。單于聞之,喜,召貴人謀,欲與漢和親。左大且渠心害其事,曰:「前漢使來,兵隨其後。今亦效漢發兵,先使使者入。」乃自請與呼盧訾王各將萬騎,南旁塞獵,相逢倶入。行未到,會三騎亡降漢,言匈奴欲爲寇。於是天子詔發邊騎屯要害處,使大將軍軍監治衆等四人將五千騎,分三隊,出塞各數百里,捕得虜各數十人而還。時匈奴亡其三騎,不敢入,即引去。是歳,匈奴饑,人民、畜産死者什六七,又發兩屯各萬騎以備漢。其秋,匈奴前所得西□辱居左地者,其君長以下數千人皆驅畜産行,與甌脱戰,所殺傷甚衆,遂南降漢。 5.
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三次兵科 [部分編集] 名称 在庫数 大刀兵転職令 練鎚兵転職令 長槍兵転職令 戟兵転職令 鉄騎兵転職令 匈奴兵転職令 長弓兵転職令 弩兵転職令 長剣兵転職令 剣士転職令 藤甲兵転職令 猛獣兵転職令 近衛兵転職令 刺客転職令 遊騎兵転職令 弓騎兵転職令 舞姫転職令 歌姫転職令
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名稱:呼廚泉 伺服器及顏色:5服綠 類型:文 性別:男 生命值:456 武力:32 智力:21 防禦:12 敏捷:29 運勢:83 敘述: 呼廚泉,南匈奴單於於夫羅之弟,於夫羅死後繼任成為單於,曾派右賢王去卑幫助漢獻帝東歸,其後還於本國。後曹操借呼廚泉入朝朝見之際,將其留在鄴城,派去卑去管理其國。
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編集 戊己校尉は、漢代後記以降に西域に置かれた軍官。概ね車師国内に駐屯して屯田兵を擁した。 諸国を護し朝貢を受ける朝廷の使者としての性格が強い西域都護とは異なり、諸国の乱や匈奴の襲来に備える 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏戊己丞 戊己司馬 戊己候 領兵 属官戊部候 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 元帝初元元年置く。 新の始建国五年、恩信の失が積もり、西域諸国が背いて西域都護但欽を殺す。以後西域への影響力を失う。 明帝永平十七年、中興して初めて西域都護、戊己校尉を置く。 翌十八年、焉耆、龜茲が西域都護の陳睦を攻め没(ほろぼ)し、匈奴、車師が戊己校尉を囲む。 翌章帝建初元年、戊己校尉を罷めて迎還する。 和帝永元三年、また西域都護騎都尉、戊己校尉の官を置く。 後漢末の混乱で西域との通行が失われる。 魏文帝横初三年、鄯善、龜茲、于闐の王が使を遣わして奉献する。西域と通じ、戊己校尉を置く。 位 不詳。後漢では他の校尉の例に倣えば、秩比二千石か。 職掌 (前漢元帝期) 車師前王庭に屯田す。 (後漢和帝期) 車師前部の高昌壁に居る。また戊部候を置き、車師後部候城に居る。相い去ること五百里。(*1) 別説に、戊己校尉を置き、車師後部を鎮す、とも(*2) 属吏 (前漢) 戊己丞 一人、秩比六百石。 戊己司馬 一人、秩比六百石。 戊己候 五人、秩比六百石。 (後漢和帝時) 領兵 五百人。 属官 (後漢) 戊部候 戊己校尉とは別に車師後部候城に居る。 所属項目(タグ) 屯田 戊己校尉 校尉 職官 西域 車師 軍官 高昌 関連項目・人物 戊己校尉 詳説 編集 -
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精鋭兵科 [部分編集] 名称 在庫数 精鋭大刀兵昇進令 精鋭練鎚兵昇進令 精鋭長槍兵昇進令 精鋭戟兵昇進令 精鋭鉄騎兵昇進令 精鋭匈奴兵昇進令 精鋭弩兵昇進令 精鋭長剣兵昇進令 精鋭剣士昇進令 精鋭藤甲兵昇進令 精鋭猛獣兵昇進令 精鋭近衛兵昇進令 精鋭刺客昇進令 精鋭遊騎兵昇進令 精鋭弓騎兵昇進令 精鋭舞姫昇進令 精鋭歌姫昇進令
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更新履歴:南陽のBoss未実装Boss削除 あげ 9/6 毒龍Boss追加 追加してほしいBOSSは、<女神>まで連絡ください。(今はシードに連絡ください。…追加更新亀かもですが) 結界法(軍師・方士) 南陽将軍(楊弘、陳紀 袁術取巻 ) 益州将軍(劉巴、鄒靖、鄧賢、劉璋 全国 ) 冀州将軍(許攸、荀諶、逢紀、沮鵠、審配、陳琳、郭圖、袁熙) 涼州将軍(王昌、李封、薛蘭、張?、田儀、李肅、董?、李儒) 匈奴将軍(伐同、令居、速僕丸、那樓、左賢王) 南蛮将軍(董荼那、朵思大王、朱褒、孟節、木鹿大王) ローマ将軍(卡利恩努斯 カリウス 、賽維爾) 行軍 首領将軍(首領-弓) ローマ将軍(帕卡緹亞努斯、艾爾拜倫 アルビヌス 、凱達 ゲタ 、高盧斯 ガイウス ) 七星 首領将軍(首領-長兵) ローマ将軍(希班納古斯、巴爾比努斯 バルビヌス 、哥迪亞、卡利恩努斯 カリウス ) 軍師 武将技 雷球光陣(軍師) 益州将軍(張任 全国 ) 療術結界(軍師) 匈奴将軍(治元多 骨進 育延 厥機 越吉 素利 能臣) 南蛮将軍(劉冑 高定 忙牙長 孟節) 首領将軍(首領-短兵) ローマ将軍(迪亞杜曼尼安、朱利安努斯 ユリアヌス 、馬克希姆 マクシムス ) 豪傑 武将技 凍結氷峰(豪傑) 南陽将軍(紀霊 全国 ) 益州将軍(冷苞) 寒冰洞(冰霜巨人) 毒龍潭(計蒙(藍),奔龍(藍)、鰲龍(藍)) 妖刀天舞(豪傑) 南陽将軍(袁術 全国 ) 方士 武将技 大地怒吼(方士) 南陽将軍(紀霊 全国 ) 益州将軍(張任 全国 劉璋 全国 ) 毒龍潭(鰲龍(黑)) 地獄の門(方士) 南陽将軍(袁術 全国 ) 必殺技封印(方士) 南陽将軍(樂就、韓暹、楊奉) 毒龍潭(計蒙(黃)、計蒙(紫)) 必殺技 4次必殺技 (猛将・豪傑) 分身 南陽将軍(紀霊 全国 ) 5次必殺技 散弾 南陽将軍(袁術 全国 ) 名前 コメント
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名稱:劉閼陋頭 伺服器及顏色:5、6服綠 類型:武 性別:男 生命值:630 武力:43 智力:11 防禦:17 敏捷:45 運勢:22 敘述:劉閼陋頭,一作劉閼頭,生卒年不詳,十六國時期匈奴支系鐵弗部首領,為劉烏路孤之子,前任首領劉務桓之弟。356年(東晉永和十二年、前秦壽光二年),務桓去世,閼陋頭繼立。
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57.王莽時起兵者皆稱漢後 漢自高、惠以後,賢聖之君六七作,深仁厚澤,被於人者深。即元、成、哀三帝稍劣,亦絶無虐民之政,祇以運祚中衰,國統頻絶,故王莽得乘便竊位。班彪所謂危自上起,傷不及下,故雖時代改易,而民心未去,加以莽政愈虐,則思漢之心益堅。王常曰:「莽政令苛酷,失天下心。民之謳吟思漢,非一日也。」(常傳)鄭興説更始曰:「天下同苦王氏虐政,而思高祖之舊德。」(興傳)馮衍説廉丹曰:「海内潰亂,人懷漢德,甚於詩人之思召公也。」(衍傳)馮異説光武曰:「天下同苦王氏,思漢久矣。」(異傳)歴觀諸説,可見當日之民心也。故羣雄之起兵者,無不以劉氏舉號。劉聖公在平林羣盜中爲安集掾,軍雖衆而無所統一,諸將以聖公本漢裔,遂立爲天子,建元曰更始。更始初都洛陽,將大封功臣,朱鮪以爲高祖約非劉氏不王,是諸將初起事,即守漢祖法也。(更始傳)赤眉樊崇起兵,已屢勝,聞更始立,即往洛陽降。後仍亡歸,因齊巫言城陽景王云:「當爲縣官,何故作賊?」遂奉劉盆子爲帝。(劉盆子傳)平林人方望謂弓林等曰:「莽簒奪而孺子嬰尚在,今皆云劉氏更當受命,嬰故漢主也。」乃求得嬰立之。(光武傳)卜者王郎僞稱成帝子子輿,有趙王子林欲立之,會赤眉將至,林乃宣言,赤眉來當立子輿爲帝,以觀衆心。百姓果信之,遂立郎於邯鄲,於是趙國以北,遼東以西,皆從風而靡。(王郎傳)盧芳因人心思漢,乃詭自稱武帝曾孫劉文伯,謂曾祖母匈奴谷蠡渾邪王之姊,爲武帝后,生三子,遭江充之亂,小子回卿流出在外,再傳生文伯,以此誑惑人。諸豪傑以其爲劉氏子孫,遂立爲上將軍,使人與匈奴通和,匈奴即立芳爲帝。而是時五原人李興,朔方人田颯,代郡人石鮪等,各自起兵者,聞芳係漢後,即迎入塞奉之。(芳傳)劉永亦漢後,更始封爲梁王。更始敗,永據睢陽起兵,遣使拜董憲、張歩爲王。憲、歩本特起,不借劉氏爲號者,以永係漢後,遂受其爵命,爲之盡力。(永及張歩等傳)公孫述雖自帝於蜀,然其先亦借輔漢起事。時宗成、王岑皆以應漢爲將軍,述在成都,迎之。而成等暴掠,述乃謂少年曰:「天下同苦新室思漢,故聞漢將到即迎之,今反肆虐,此寇賊,非義兵也。」乃使人詐稱漢使者自東方來,假述輔漢將軍益州牧印綬,遂撃破成等,自立爲蜀王,尋稱帝。(述傳)隗囂後雖割據天水諸郡,然初起時亦思奉漢,因王莽尚在長安,隔更始不得通,即立高帝廟,稱臣奉祠。莽死,更始至長安,囂即入謁,見更始政亂,遂逃歸。後又受光武將鄧禹所封官號,並遣子入侍。末年,惑於王元之説,始懷貳志。(囂傳)歴觀諸起事者,非自稱劉氏子孫,即以輔漢爲名,可見是時人心思漢,舉天下不謀而同。是以光武得天下之易,起兵不三年,遂登帝位,古未有如此之速者,因民心之所願,故易爲力也。 前頁 『廿二史箚記』巻三 次頁 王莽之敗 57.王莽時起兵者皆稱漢後 王莽自殺子孫