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武将名 いわきしげたか C岩城重隆 陸奥の大名・岩城氏当主。伊達稙宗・晴宗の親子間の争いである天文の乱では、晴宗に属して相馬家や田村家と争った。また晴宗の長男を養子に迎え、結びつきを強めるなど、戦乱の絶えない奥州においてしぶとく生き残りを図った。 「さあ、楽しい見世物の始まりだよお!」 出身地 陸奥国 コスト 1.0 兵種 槍足軽 能力 武力3 統率4 特技 計略 撃滅の構え 武力が上がる。さらに敵を撤退させるたびに武力が上がる。 必要士気3 Illustration 佐藤啓太 戦国時代において、弱小ながら外交でしぶとく生き残った岩城氏の代表として最初にカード化された武将。 伊達に佐竹に蘆名に豊臣にと、節操がないながら時勢を読んだ同盟で明治まで生き残った。 ちなみに政宗の実の 曾祖父 でもあり、伊達家の武将の中でも最も年長の部類。輝宗の祖父なので当然か。 …そんな彼だが、小悪党道化のような風貌と極めてインパクトの強い台詞から、一度見たら忘れられないイロモノキャラとしてキャラ付けされてしまっている。 生き様がピエロ的だった、という意味では一概にSSQとは言えないかもしれない。 無特技ながら3/4と武力と統率の数値はコスト1としては高め。 1コストの槍としては勢力でもハイスペックな部類なので、見た目とは裏腹にとても使いやすく「入れて間違いのない」タイプの武将。 計略の撃滅の構えは発動時点で武力+2。敵部隊を撤退させる度に武力+2されていく。 一体倒してやっと並の単体強化な性能だが、効果時間が18cと長いため大事に活用すれば1コストは思えない武力まで成長する場合も。 低士気で長時間とあって士気溢れ対策に活用できるが、伊達には竜騎馬強化計略に同じく低士気長時間効果のライバルが多い。 強いてこれをチョイスするかはデッキ次第だが、素のスペックの良さと併せて1コスト枠の採用候補としては十分アリだろう。
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武将名 だてはるむね 強奪の花婿 BSS伊達晴宗 伊達氏第15代当主。伊達領を割譲してでも勢力拡大を図った父・稙宗の手法に反発し、後に家督を奪った。奥州一の美女・久保姫に心奪われると、岩城家への輿入れ行列を襲撃して連れ去ったと言う。強引な手法で夫婦となった二人だが、中は非常に良かった。「欲しいものは奪い取る!俺に付いて来る奴は可愛がってやるぜ!」 出身地 陸奥国 コスト 2.0 兵種 竜騎馬隊 能力 武力7 統率8 特技 魅力 計略 花嫁の強奪? 武力と移動速度が上がり、敵に与えたダメージが大きいほど兵力が回復するようになり、突撃が成功するたびに敵の武力が一定時間下がるようになる。 必要士気5 Illustration ジョージ? pixiv まさに久保姫を強奪真っ最中な伊達晴宗。 スペックは2コスト竜としては及第点。 計略は自身の武力+4、移動速度上昇、更に相手に何かしらダメージを与えるたびに ダメージが多いほど自身の兵力が回復する。 また、突撃を当てると2.5cの間、突撃を当てた敵の武力がー4される。 効果時間は9c。武力低下時間は統率関係なく2.5c(3.10B) うまく立ち回れば武力差8をつけて突撃でき、兵力回復効果も大きくなる。
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西子氏について このページは、西子(にしこ・ニシコ)という名字でネット検索しても、ご先祖様の手がかりがない人のために、作ったものです。 もちろん、西子と言う名字だからといって、総ての方が本ページの西子氏に繋がるわけではありません。これは、名字というものの発祥に原因があります。通常、江戸時代の平民は名字を持っていなかったため、名字をつける制度が出来た際各々が、お寺や付近の実力者から名字を貰ったり、新設したり、勝手に名乗ったりしたためです。 本文はここから勝手に転載しています。そこ以外に私が調べた時なかったですし。 オリジナルのURLは清水市がなくなった際に消失しました。 資料 吉原地区 先祖の一人は平安時代の皇族 西子元氏 清水・高根神社 清水市郊外の中山間地、吉原地区の高根神社に伝わる約750年前の木版の裏からこのほど、吉原地区に住み着いた先祖の一人、西子元氏の名前が子孫らによって確認され、地元で話題となっている。 吉原地区は清水市でも最も歴史のある地域の一つで、現在、約120軒が暮らしている。地元の言い伝えによると、吉原地区のルーツは平安時代の村上天皇の第一皇子で、その後、鎌倉時代には西子中丞姫(さいこちゅうじょうのひめ)という人物が家臣2名を伴って住み着いたとされている。 西子元氏の名前のみつかった高根神社は、西子氏自身が延応元年(1239年)に建立。祠(ほこら)と社(やしろ)の小さな神社だが、地元では鎮守様として長年親しまれて来た。しかし、老朽化が激しいため、昨年秋、改築したところ、西子家を子孫を母にもつ村上周太郎さん(76)らが御神体の木版(縦30・、横9・)のうらに「宝治元年(1247年)9月8日 為家運長久謹請 西子元氏」戸掛れているのを発見した。村上さんの弟で吉原地区の歴史を調べている会社顧問(埼玉県坂戸市在)の村上利三郎さん(71)は、「5~6代前までの先祖はすることはできても過去帳がなかったり、資料などの紛失や処分ナ、それ以前のルーツ探しが困難な多いはず」と話している。 静岡新聞 『ふるさと静清』より 8月15日(水曜日) 論 結論から言うと、『よくわからない』というわけですね。私の見た静岡県の姓氏の類が書かれている本にも載ってなかったですし、主だった今川家臣の列にも入ってないですし。また、西子中丞姫って言っても誰だかわからないですしね・・・。 また、西子=さいこ、と呼ばれていますが、おそらく西子=にしこ、とルーツは同じだと思います(確証はありません)。単に、公文書では訓読みを使う(義経記=ぎけいき、信長公記=しんちょうこうき)と言う使い方の結果、音読みにした可能性もありますし、時代を経るにつれて名字の読みを変えた可能性もあります。また、西子(さいこ)氏にはばかって、西子(にしこ)氏と言うように変えたのかもしれません。まぁ、よくわかりませんが。 この記事には吉原の歴史を調べている方の名前も載ってますし、神社の名前も載っていますので、参考程度に置いておきます。詳しく知りたい方はご自身でお調べください。 トップページ
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【石ヶ谷家家系図】 『袖師町誌』の石ヶ谷家所有の系図。本紙は焼失。数十年前に学者が来て書き直した?もの。伝承される旗本石谷氏の系譜とは差異があるが、旗本家以外の流れが主になっている。 通説と異同のある中で、石谷政清の娘の一人が高天神城城主小笠原与八郎の妻となっている点が興味深い。 エクセルデータ @wikiで規制される1MB以上サイズの為、データ圧縮でzip形式にてアップロード。 ※手元の写真のブレで読み取れなかった藤原氏部分について一部未記載。 ただ、藤原氏関係は重要部分ではないので問題ないと考えます。 確認できた場合ファイル入れ替える予定。6/17ミス修正 エクセルのズレの確認用 戻る
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歴史的事件など *1 石谷政信系 700石旗本家 *2 石谷清定系 1,100石旗本家 *3 石谷貞清系 2,500石旗本家 *4 桑原政重系 800石旗本家 *5 石谷清重系 250石尾張藩士 その他 特記事項 慶長5年9月15日 1600年 関ヶ原の戦い 慶長5年 1600年 石谷清重*5(石谷政清の5男)が徳川秀忠に仕え関ヶ原戦の戦いに従軍。後、病気のため駿河国安倍郡足久保村に移住。 慶長6年 1601年 石谷政勝*1が徳川秀忠に仕え、小姓組番士となる。 慶長6年5月2日 1601年 石谷清定(五郎太夫)*2 死没 和泉村の泉龍寺に葬られた。 慶長7年 1602年 石谷清正*2が石谷清定(五郎太夫)*2の家督相続。徳川家康に仕え小姓となる。年代不明で徒歩頭となる。 慶長8年2月12日 1603年 徳川家康が征夷大将軍になる。江戸幕府開幕。 慶長10年2月 1605年 石谷政信*1が徳川秀忠に仕える。 慶長11年 1606年 石谷政勝*1が大番番士となる。 慶長14年 1609年 石谷貞清*3が徳川秀忠に仕えて大番番士となる。 慶長19年 1614年 大阪冬の陣 慶長20年 1615年 大阪夏の陣 慶長20年 1615年 石谷貞清*3が大阪夏の陣に土岐定義指揮下での江戸守備の命令を無視し徳川秀忠に従軍。意気込みを称され金子3枚を賜る。秀忠本陣で斥候を務めた。 元和2年 1616年 石谷清亮*2 生誕(石谷清正の長男、母は尾張徳川家家臣松井石見の娘、妻は旗本中山直定の娘) 元和2年12月9日 1617年 石谷貞清*3が上総国金剛寺村と山邊郡の内に300石の領地を与えられる。腰物持となる。 元和4年5月 1618年 石谷貞清*3が相模国愛甲郡に200石の加増を受ける。 元和5年7月15日 1619年 石谷政信*1 死没 和泉村の泉龍寺に葬られた。 元和6年 1620年 石谷成勝*1 生誕 (石谷政勝の長男、母は青木高頼の娘) 元和8年4月 1622年 石谷貞清*3が徳川秀忠の日光社参に従う。宇都宮からの急の帰還に徒歩で供を務める。 元和9年4月 1623年 石谷政勝*1が徳川家光の日光社参に従う。 元和9年6月 1623年 石谷政勝*1が徳川家光の上洛、将軍宣下に従う。 元和9年12月11日 1623年 石谷清重*5 死没 寛永2年7月27日 1625年 石谷貞清*3が領地の朱印状を賜る。 寛永4年 1627年 石谷武清*3 生誕 (石谷貞清*3の長男、母は板倉重昌の養女(牧野駿河守家臣槇定繁の娘)、妻は喜多見重恒の娘) 寛永7年6月10日 1630年 石谷成勝*1が徳川家光に拝謁する。 寛永9年7月5日 1632年 石谷貞清*3が徒歩頭となる。 寛永10年2月7日 1633年 石谷政勝*1が加増により500石を知行。 寛永10年4月16日 1633年 石谷貞清*3が目付となる。 寛永10年8月5日 1633年 石谷清亮*2が小姓組番士となる。 寛永10年8月26日 1633年 石谷貞清*3が畿内の洪水被害の検分調査を行う。 寛永10年12月26日 1634年 石谷貞清*3が甲斐国の山梨・八代の2郡で1000石の加増を受け、計1500石を領する。 寛永10年12月27日 1633年 石谷清正*2が500石を賜る。 寛永11年 1634年 石谷貞清*3が徳川家光の上洛に従う。 寛永13年2月25日 1636年 石谷貞清*3が京都に赴き、東福門院和子の病気に関する使いを務める。 寛永13年6月26日 1636年 石谷貞清*3が寛永銭鋳造の任務を受けて近江坂本に行く。 寛永13年10月27日 1637年 石谷成勝*1が大番番士となる。 寛永14年10月25日 1637年 島原の乱 寛永14年11月9日 1637年 石谷貞清*3が島原の乱で派遣された幕府軍上使、板倉重昌の副使を務める。諸将は板倉・石谷が少禄であるため軽視し命令に従わなかったという。 寛永14年 1637年 石谷清宣*5(石谷清春の子)が石谷貞清*3の手勢として島原の乱に従軍する。その後、尾張藩士として召出され付家老成瀬隼人正の同心となり、200石を賜る。 寛永14年 1637年 石谷貞清*3が柳生清厳を板倉隊に付属させる。 寛永14年 1637年 石谷貞清*3が雲林院弥四郎の訪問を度々受ける。 寛永15年1月1日 1638年 石谷貞清*3が島原城に強襲。負傷して後退。従士3名戦死。総指揮官であり強襲を指示した板倉重昌も戦死。同日、石谷貞清*3は敵軍の夜襲に備えて警戒を厳重にした。幕府軍大将の指揮権は松平信綱に移った。 寛永15年1月28日 1638年 石谷貞清*3が板倉重昌の子である板倉重矩と島原城に突撃し奮戦。 寛永15年3月5日 1638年 石谷貞清*3が駿府へ凱旋。島原の乱の不手際を咎められ蟄居。 寛永15年12月31日 1638年 石谷貞清*3が蟄居処分を解かれる。 寛永16年5月13日 1639年 石谷清正*2が致仕する。以前に350石を賜っており、武蔵国多摩、上総国武射、上総国香取、甲斐国山梨に1,100石を知行していた。 寛永18年3月29日 1641年 石谷政勝*1が御裏門番頭となる。 寛永18年12月15日 1642年 石谷貞清*3が与力10騎・同心50人を預けられた。 寛永20年2月20日 1643年 石谷武清*3が徳川家光に拝謁する。 寛永20年6月9日 1643年 石谷清亮*2が進物役となる。 寛永20年6月16日 1643年 石谷武清*3が小姓組番士となる。 正保2年9月23日 1645年 石谷貞清*3が近江国水口城の守備を任される。 正保2年12月28日 1645年 石谷武清*3が廩米300俵を賜る。 正保3年 1646年 石谷清信*2 生誕(石谷清亮*2の長男、母は中山直定の娘、妻は浅野氏恒の娘) 慶安元年 1648年 石谷清長*2 生誕 (石谷清亮*2の2男、母は中山直定の娘、妻は久松定久の娘) 慶安元年4月 1648年 石谷武清*3が徳川家光の日光社参に従う。 慶安2年 1649年 石谷清成*3 生誕 (石谷武清*3の長男、母は喜多見重恒の娘、妻は榊原職信の娘、後妻は稲垣信濃守家臣稲垣重章の娘) 慶安3年閏10月10日 1650年 石谷貞清*3が近江国・伊勢国の洪水被害の巡検を行う。 慶安4年6月18日 1651年 石谷貞清*3が江戸北町奉行に就任する。 慶安4年 1651年 慶安の変(由比正雪の乱) 慶安4年 1651年 石谷貞清*3が丸橋忠弥を捕縛。 慶安4年8月16日 1651年 石谷貞清*3が従五位下左近将監に叙任される。 慶安5年9月13日 1652年 承応の変 承応元年 1652年 石谷貞清*3が別木庄左衛門を捕縛。 承応元年 1652年 石谷成勝*1が二ノ丸より水泳の台覧を受け、時服を賜った。 明暦2年10月13日 1656年 石谷清正*2 死没 明暦2年12月21日 1657年 石谷清亮*2が石谷清正*2の家督相続。 明暦3年1月18日 1657年 明暦の大火 万冶元年3月6日 1658年 石谷武清*3が御徒頭となる。 万治元年6月1日 1658年 石谷政勝*1が御裏門番頭を辞去。 万治元年7月19日 1658年 石谷成勝*1が新番番士となる。 万冶元年閏12月25日 1658年 石谷武清*3が廩米300俵を加増された。 万冶元年閏12月28日 1658年 石谷武清*3が布衣を許された。 万治2年1月28日 1659年 石谷貞清*3が職を辞す。 万治2年7月27日 1659年 石谷貞清*3が致仕。石谷貞清*3の家督は息子である石谷武清*3に与えられ、石谷武清*2の賜っていた廩米600俵は石谷貞清*3の養老料にされた。 万冶2年7月27日 1659年 石谷武清*3が父である石谷貞清*3の家督相続。 万治2年8月13日 1659年 石谷清成*3が徳川家綱に拝謁する。 万治3年12月3日 1660年 石谷清亮*2が増上寺知恩院の庵室の奉行の褒賞として時服三領と黄金二枚を賜る。 万冶3年12月29日 1660年 石谷清春*5(石谷清重*5の子) 死没。駿河国安倍郡足久保村在住浪人。 寛文3年 1663年 石谷清亮*2が進物役を解かれる。 寛文3年4月 1663年 石谷成勝*1が徳川家綱の日光社参に従う。 寛文3年4月 1663年 石谷武清*3が徳川家綱の日光社参に従う。 寛文3年9月8日 1663年 石谷政勝*1 死没 寛文3年12月11日 1663年 石谷成勝*1が父である石谷政勝*1の家督相続。 寛文4年9月30日 1664年 石谷成勝*1が新番組頭となる。 寛文4年12月25日 1664年 石谷成勝*1が蔵米200俵を加増される。 寛文5年 1665年 石谷清全*4 生誕 (紀州藩士岡本作之丞の子、妻は桑原長清の娘、後妻は紀州藩士海野治部右衛門の娘、桑原長清*4の養子となる) 寛文6年 1666年 石谷清信が*2が徳川家綱に拝謁する。 寛文7年10月7日 1667年 松室桂岩居士(五郎兵衛の父) 死没 寛文7年11月21日 1667年 石谷清信が*2が書院番番士となる。 寛文8年7月1日 1668年 石谷清亮*2が京極高盛の但馬国豊岡へ転封に伴い同地に派遣される。 寛文9年 1669年 シャクシャインの戦い 寛文9年 1669年 石谷清職*2 生誕 (永井元孝の4男、母は玉虫重茂の娘、妻は石谷清信*2の娘) 寛文11年2月 1671年 石谷清亮*2が屋敷改めを務める。 寛文11年3月26日 1671年 石谷武清*3が目付となる。 寛文12年9月12日 1672年 石谷貞清*3 死没 延宝元年3月19日 1673年 石谷武清*3が禁裏附となる。近江国の内に1,000石加増され、所領の合計は2,500石となった。 延宝元年4月3日 1673年 石谷成勝*1が納戸頭となる。 延宝元年7月1日 1673年 石谷武清*3が従五位下長門守に叙任された。 延宝元年7月7日 1673年 石谷清亮*2が屋敷改めを解かれる。 延宝元年12月28日 1673年 石谷成勝*1が布衣を許される。 延宝7年12月6日 1679年 石谷武清*3が寄合に入った。 延宝8年 1680年 石谷清定(兵四郎)*1 生誕 (久松定矩の子、母は加藤吉次の娘、妻は石谷清長*1の娘) 延宝8年7月27日 1680年 來明清本大姉(五郎兵衛の妻) 死没 延宝9年 1681年 石谷榮清*3 生誕 (石谷清成*1の長男、母は稲垣信濃守家臣稲垣重章の娘、妻は松平定隆の娘) 天和元年8月7日 1681年 石谷成勝*1が納戸頭の職を辞し小普請に入る。 貞享元年11月25日 1684年 石谷清亮*2が番士を辞し小普請となる。 貞享4年4月28日 1687年 石谷成勝*1 死没 元禄元年7月12日 1688年 石谷清長*2が石谷成勝*1の末期養子として家督相続。 元禄元年11月23日 1688年 石谷清長*1が徳川綱吉に拝謁する。 元禄2年4月29日 1689年 石谷清長*1が書院番番士となる。 元禄4年4月4日 1691年 石谷武清*3が近江国の領地を下総国豊田岡田両郡に移された。 元禄2年8月5日 1689年 石谷清成*3 死没 元禄7年閏5月13日 1694年 石谷清宣*5が致仕。 元禄7年7月10日 1694年 石谷清亮*2が致仕する。 元禄7年7月10日 1694年 石谷清信*2が父である石谷清亮*2の家督相続。 元禄8年1月27日 1695年 石谷清亮*2 死没 元禄9年 1696年 石谷清胤*2 生誕 (石谷清職*2の長男、母は石谷清信*2の娘、妻は倉橋久富の娘) 元禄9年4月15日 1696年 石谷清信*2 死没 元禄9年7月9日 1696年 石谷清職*2が養父である石谷清信*2の家督相続。 元禄9年8月13日 1696年 石谷清職*2が徳川綱吉に拝謁する。 元禄10年7月26日 1697年 石谷清長*1が知行500石と蔵米200俵を、武蔵国埼玉郡で700石の知行に改められる。 元禄10年9月4日 1697年 石谷清光*5(石谷清宣の子)が召出され尾張藩五十人組に入り、俸禄を賜る。 元禄11年6月 1698年 石谷武清*3が相模国の領地を上総国武射・山邊二郡に移された。 元禄14年3月14日 1701年 元禄赤穂事件(忠臣蔵) 元禄14年7月11日 1701年 叢岩常林居士(五郎兵衛) 死没 元禄14年9月15日 1701年 石谷清定(兵四郎)*1が徳川綱吉に拝謁する。 元禄15年 1702年 石谷清夤*1 生誕 (石谷清長*1の長男、母は久松定久の娘、妻は新井白石の娘) 元禄16年3月9日 1703年 石谷清職*2が書院番番士となる。 元禄16年1月18日 1703年 石谷清光*5 死没 元禄16年7月22日 1703年 石谷武清*3が致仕。 元禄16年7月22日 1703年 石谷榮清*3が祖父の石谷武清*3の家督相続。小普請となる。 元禄16年8月12日 1703年 石谷榮清*3が徳川綱吉に拝謁する。 元禄17年1月6日 1704年 石谷清長*1 死没 宝永元年2月27日 1704年 石谷清定(兵四郎)*1が石谷清長*1の家督相続。 宝永元年10月8日 1704年 石谷清定(兵四郎)*1 死没 宝永2年 1705年 石谷清職*2が甲斐国の領地を駿河国有渡安倍二郡へ移される。 宝永2年1月27日 1705年 石谷清宣*5 死没。 宝永2年2月19日 1705年 石谷清夤*1が姉婿である石谷清定(兵四郎)*1の末期養子として家督相続。 宝永2年5月 1705年 石谷榮清*3が甲斐国の領地を遠江国榛原・城東両郡に移された。 宝永3年1月27日 1706年 石谷清職*2が元禄赤穂事件で改易され、信濃諏訪にて病死した吉良義周の検死を務める。 宝永4年 1707年 宝永大噴火 宝永5年 1708年 石谷清候*2 生誕 (石谷清職*2の2男、父は永井氏からの養子で母不明の為、石谷氏の血を引くか不明。) 宝永5年7月25日 1708年 石谷清職*2が使番となる。 宝永5年12月18日 1708年 石谷清職*2が布衣を許される。 宝永6年 1709年 新井白石等による正徳の治開始 宝永6年9月28日 1709年 石谷清胤*2が徳川家宣に拝謁する。 宝永7年1月11日 1710年 石谷清職*2が目付となる。 宝永7年3月4日 1710年 石谷武清*3 死没 正徳元年7月18日 1711年 石谷清職*2が評定所での勤務を称され端物2端を賜る。 正徳3年 1713年 石谷眞清*3 生誕 (石谷榮清*3の長男、妻は松平康納の養女) 正徳4年1月11日 1714年 石谷清職*2が二ノ丸留守居となる。 宝永15年 1715年 新井白石らによる正徳の治終了 正徳5年 1715年 石谷清昌*4(石谷清全*4の長男、母は紀州藩士海野治部右衛門の娘、妻は新見正言の娘、後妻は大奥の侍女森野の養女) 生誕 正徳6年2月8日 1716年 石谷清勝(石谷清春*5の子) 死没。 享保元年3月22日 1716年 石谷清職*2が先手鉄砲頭となる。 享保元年10月6日 1716年 桑原(石谷)清全*4が御小納戸となり下野国都賀郡に領地500石を賜った。(元紀州藩士。徳川吉宗が将軍になった際御家人として従った) 享保元年12月18日 1717年 桑原(石谷)清全*4が布衣を許される。 享保3年3月16日 1718年 石谷榮清*3が小姓組番士となる。 享保4年10月18日 1719年 石谷清夤*1が書院番番士となる。 享保5年5月11日 1720年 本然自貞大姉(源八の妹) 死没 享保6年9月23日 1721年 石谷清職*2 死没 享保6年11月28日 1721年 石谷清胤*2が父である石谷清職*2の家督相続。 享保6年12月30日 1721年 覺心了夢居士(源八) 死没 享保8年 1723年 石谷清盈*1 生誕 (石谷清夤*1の長男、母は新井白石の娘、妻は武田信郷の養女、後妻は村上正道の娘) 享保9年 1724年 石谷清馨*1 生誕 (石谷清夤*1の3男、母は新井白石の娘。妻は能勢頼以の娘、後妻は高嶋廣行の娘) 享保9年5月 1724年 石谷榮清*3が下総国岡田郡の領地を分割され、下野国河内郡に移された。 享保9年7月19日 1724年 石谷榮清*3 死没 享保9年9月29日 1724年 石谷眞清*3が父である石谷榮清の家督相続。 享保9年10月9日 1724年 石谷清胤*2が書院番番士となる。 享保10年7月28日 1725年 桑原(石谷)清全*4が先手鉄砲頭となる。 享保12年10月 1727年 石谷清夤*1が徳川吉宗の日光社参の大宿割を勤める。 享保13年4月 1728年 桑原(石谷)清全*4が徳川吉宗の日光社参に従う。 享保14年 1729年 石谷澄清*3 生誕(石谷眞清*3の長男、妻は坪内定堅の娘) 享保14年6月15日 1729年 石谷清紹*5(石谷清宣の子)が致仕。それ以前に石谷清宣の家督相続。尾張藩付家老成瀬氏同心であった。 享保14年6月15日 1729年 石谷清章*5(石谷清紹*5の子)が石谷清紹*5の家督相続。尾張藩付家老成瀬氏同心となる。 享保14年9月24日 1729年 石谷清胤*2 死没 享保14年12月2日 1729年 石谷清候*2が兄である石谷清胤*2の家督相続。 享保15年4月1日 1730年 石谷清候*2が徳川吉宗に拝謁する。 享保16年11月23日 1731年 石谷清昌*4が徳川吉宗に拝謁する。 享保18年9月9日 1733年 歡窓妙喜大姉(五郎兵衛の母) 死没 享保18年12月16日 1733年 石谷清昌*4が小納戸となる。 享保18年12月18日 1733年 石谷清昌*4が布衣を許される。また、年月不明ながら、徳川吉宗の鷹狩りに従った際、鳥を射落として褒美を賜ったという。 享保19年7月1日 1734年 石谷清夤*1が西城徒歩頭となる。 享保19年12月18日 1734年 石谷清夤*1が布衣を許される。 享保20年3月29日 1735年 石谷清夤*1が徳川家重の鷹狩で浅草辺に従うが、勢子への指揮の不始末を咎められ、同僚青木信裕と供に拝謁禁止処分を受ける。 享保20年4月9日 1735年 石谷眞清*3が小姓組に入る。 享保20年5月1日 1735年 石谷清夤*1が拝謁禁止処分を解かれる。 享保20年7月12日 1735年 石谷清候*2が小姓組に入る。 享保20年12月22日 1735年 石谷清馨*1が石谷清候*2の養子となり家督相続。 享保20年 1735年 石谷清候*2 死没 元文2年9月18日 1737年 石谷清盈*1が徳川吉宗に拝謁する。 元文2年9月27日 1737年 石谷清盈*1が徳川家治の山王社参拝に騎兵として従う。 元文3年 1738年 石谷清茂*1 生誕 (石谷清夤*1の5男、妻は松波正英の娘) 元文4年1月11 1739年 桑原(石谷)清全*4が西ノ丸留守居となる。 元文4年12月16日 1739年 桑原(石谷)清全*4が従五位下豊前守に叙任される。 元文4年12月16日 1739年 桑原(石谷)清全*4が妻方の先祖石谷政清に由来する石谷氏を称する。 元文5年8月18日 1740年 石谷清昌*4が小姓となる。 元文5年12月21日 1740年 石谷清昌*4が従五位下備後守に叙任された。 寛保3年12月20日 1743年 石谷清全*4が寄合に入る。 延享元年7月8日 1744年 石谷清紹*5 死没 延享元年10月28日 1744年 石谷眞清*3 死没 延享元年11月20日 1744年 石谷清全*4が致仕。養老料として廩米300俵を賜わった。 延享元年11月20日 1744年 石谷清昌*4が父である石谷清全*4の家督相続。 延享元年12月22日 1744年 石谷澄清*3が父である石谷眞清*3の家督相続。 延享2年9月1日 1745年 石谷清昌*4が西ノ丸小姓となる。 延享3年 1746年 石谷清憐*1 生誕 (石谷清夤*1の6男、妻は土岐頼常の娘) 延享3年 1746年 石谷清定 (豊前守)*4(石谷清昌の2男、母は新見正言の娘、妻は新見正則の娘、後妻は高井綽房の養女) 生誕 延享3年6月4日 1746年 石谷清全*4 死没 寛延3年9月25日 1750年 大圓觀超居士(五良兵衛) 死没 宝暦元年閏6月11日 1751年 石谷清夤*1 死没 宝暦元年7月12日 1751年 石谷清昌*4が徳川吉宗の薨去に伴い役目を解かれ寄合入った。 宝暦元年9月3日 1751年 石谷清盈*1が石谷清夤*1の家督相続。 宝暦2年5月26日 1752年 石谷清昌*4が西ノ丸小十人頭となる。 宝暦2年8月13日 1752年 石谷清馨*2が西ノ丸書院番番士となる。 宝暦2年9月10日 1752年 石谷清盈*1が書院番番士となる。 宝暦3年3月15日 1753年 石谷清昌*4が西ノ丸目付となる。 宝暦3年7月7日 1753年 一色妙道大姉(五良兵衛の妹) 死没 宝暦6年1月11日 1756年 石谷清昌*4が佐渡奉行となる。 宝暦6年3月10日 1756年 心空智性大姉(五良兵衛の娘) 死没 宝暦6年4月10日 1756年 石谷澄清*3がに小姓組に入る。 宝暦6年10月13日 1756年 石谷清馨*2が進物役になる。 宝暦8年12月12日 1758年 石谷澄清*3が中奥番士となる。 宝暦9年 1759年 石谷因清*3 生誕 (石谷澄清*3の長男、母は坪内定堅の娘、妻は石谷清昌*4の娘) 宝暦9年10月4日 1759年 石谷清昌*4が勘定奉行となる。 宝暦10年4月28日 1760年 石谷清定 (豊前守)*4が徳川家重に拝謁する。 宝暦11年6月 1761年 石谷澄清*3が遠江国の領地を分割され、上総国長柄・山邊両郡に移された。 宝暦12年6月6日 1762年 石谷清昌*4が長崎奉行を兼務する。 宝暦12年9月28日 1762年 石谷清定 (豊前守)*4が小姓組に入る。 宝暦12年12月15日 1762年 石谷清定 (豊前守)*4が西ノ丸小姓組に移る。 明和3年2月27日 1766年 石谷清定 (豊前守)*4が小納戸となる。 明和3年3月27日 1766年 石谷清定 (豊前守)*4が西ノ丸小納戸となる。 明和3年9月15日 1766年 石谷清盈*1 死没 明和3年12月3日 1766年 石谷清茂*1が兄である石谷清盈*1の家督相続。 明和3年12月19日 1766年 石谷清定 (豊前守)*4が布衣を許される。 明和3年12月21日 1766年 石谷清茂*1が徳川家治に拝謁する。 明和4年 1767年 田沼時代開始 ⇒前に戻る ⇒次へ ⇒戻る
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【新編武蔵風土記稿 抜粋】 四十二 多磨郡巻三十八之巻四十 寺院 泉龍寺 境内一萬六千九百坪御朱印地ナリ村ノ東ヨリ中程ナリ雲松山と號ス曹洞宗相州高座郡遠藤村寳泉寺ノ末御朱印二十石開山鐡叟瑞午慶長十七年十一月九日遷化開基ハ此村ノ地頭石谷重郎左衛門政淸天正二年四月十五日死セリ是ニヨリテ按スレハ御打入ノ前ヨリ此所ヲ領セシヤ詳ナラス下ノ舊蹟アハセミルヘシ客殿十一間ニ六間半南向二間ニ九尺ノ向拜ヲ造レリ本尊釋迦木ノ坐像一尺餘ナルヲ安セリコノ外ニ地藏一軀アリコレハ木ノ坐像臺座共一尺五寸許厨子ニ入タリ安永年中ヨリ近村ノ民信心ノアマリコノ像ヲ己カ宅ヘウツシテ祈念セシコトアリニシ其シルシアリシカハ傳ヘキヽ今ハ江戸ニテモ己々カ家ニ迎ヘテ祈念セリサレハ月ノ二十三日トイヘルニコヽヘ歸ルノミニテ其他ハ都鄙ヲ巡行セリト外ニ辨天一軀ヲ本堂ニ置ケリ當寺ノ世代ノウチニ長辨トイヘルノ作ナリト 鐘樓境内ニアリ九尺四方樓作リ高サ一丈餘鐘ノ大サ一尺五寸高サニ尺許考證ニ便リナケレトモ慶安年間ノ銘ナレハ姑ノ全文ヲノセタリ 南瞻部州摩訶日 本國關東武藏州多東郡泉江北谷山雲松院泉龍禪寺二世欄室堯大和尚之時爲月安秋譽大禪定尼菩提奉鑄撞鐘 銘日 乃至法界平等利益者也 施主石谷市右衛門尉正勝 慶安元戌子歳八月三日 鑄師 御石火矢作者九州豊後國住人於武州江戸造之 渡邊石見守藤原康直 嫡子 善右衛門尉康種 七十 埼玉郡巻十七之巻二十 龍淵寺 太平山天釣院ト號ス禪宗曹洞派越前國南條郡宅良谷慈眼寺末始ハ近江國高嶋新豊寺ノ末に隷セシト云當寺ハ成田氏代々ノ葬地ニシテ開基ハ成田左京亮家時ナリ應永十八年郡中皿尾村ノ阿彌陀堂ニ寓居セシ和尚淸順ト云僧ヲ請テ草創シ則淸順ヲ開山トシテ龍淵寺ト號ス家時ハ應永廿七年三月七日卒ス法諡休院功山宗勇ト稱ス淸順ハ寛政五年十一月十五日寂セリ其後永享十二年家時ノ孫下總守顕泰再興スコノ人法名淸岳成安ト號ス文明十六年四月八日卒セリ後永祿五年失火シテ本堂以下烏有トナリシカハ明ル六年顕泰ノ孫肥前守泰季諸堂建立アリト云御入國後天正十九年東照宮此邊御遊獵ノ時當寺へ渡ラセタマヒ時ノ往僧呑雪ハ西鄕氏ニテ三河ニ在セラレシ時御手習ノ御相手ナリシ故古キ御馴染ヲオホシ召出サレ御懇ノ仰コトアリ且當寺ノ山號ヲ問セ給ヒ御入國ノ始太平山ニ入セ給フ事御吉瑞ナリトテ曹洞一派ノ總錄ヲ許サルヘシトノコトナリシカ總錄ノ職トナリテハ佛道ノ懈トモナレハトテ辭シ奉リシ故重テ命アリシトナリ御朱印ノ文ハ左ニ錄ス 寄進 龍淵寺 武蔵國太田庄成田内百石之事 右如先規令寄附訖殊寺中可爲不入彌守 此旨佛法相續不可有怠慢之者也仍如件 天正十九年辛卯十一月日 大納言源朝臣御書判 其後モ此邊御放鷹ノ節ハシハ〻當寺へ成セラレシトナリ本尊釋迦ヲ安ス 以下省略 戻る
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【ふるさと探訪 掛川の古城址 (林隆平) 昭和54年10月1日】 P131~ 石谷氏と西郷氏の城砦 所在地 掛川市字 美人ヶ谷 字 滝ノ谷 創築年代 応仁年間(一四六七―六八) 創築者 西郷氏・石谷氏 形式 山城・館 遺構 曲輪・土塁・空堀 関係文献 掛川誌稿・姓氏家系大辞典・寛政重修諸家譜・家康文書 地理的考察 標高五一四㍍の粟ヶ岳を基点とする山脈が松葉の里から桜木の知連山中へと、掛川市内の北部を東西に継断しているが、上西郷にある美人ヶ谷城と滝ノ谷城は、その支脈が舌状に南に延びて比高七〇㍍ほどの丘陵を成している先端にある。 口碑に前者を「シロノダン」と称し、後者を「ジョウヤマ」と呼ぶ地誌にも記録されていない創築期も城主もさだかでない城址である。したがって地名に基づき表記のように仮称する。城址は掛川の市街地から北方へ約四キロ、掛川駅前から居尻行きのバスに乗ると約十五分で美人ヶ谷のバス停に着く。滝ノ谷は更にそれから五分である。 「国土地理院」の地図「掛川(二万五千)」で美人ヶ谷城は東径一三八度一分三秒、北緯三四度四八分四五秒、滝ノ谷城は東径一三八度一分一三秒、北緯三四度四九分一一秒に位置している。 上西郷地域には、字石畑を中心として北から西南にかけて約八〇〇㍍の扇状を描いて、この地域に輩出したと伝える土豪達に関する遺跡が「遺跡分布図」に示したように数ヶ所点在している。 即ち、北方八〇〇㍍に美人ヶ谷城があり、その山麓には石谷氏の宅跡と伝える殿垣戸がある。美人ヶ谷城の北側八〇〇㍍には滝ノ谷城があってその北側山麓に、西郷の局の両親という西月祐泉と玉窓妙全大姉の位牌を祀る曹溪山法泉寺がある。石畑の北西五〇〇㍍には石谷、西郷両氏が出自の祖という二階堂氏の館址と伝えるところに二階堂神社がある。その西北四〇〇㍍に石谷氏の家紋石という九個の巨石が存在する石谷の里である。 西南に廻って五〇〇㍍の北袋にある構江の公会堂附近を西郷の局の屋敷址という。その西側の西郷川を隔てて二〇〇㍍の処に平塚山古墳があって、地元では此処を『武徳編年集成』に録されている西郷清員が築いた古要の砦と称している。平塚山の東南山麓には観音寺の廃寺址があり、此処にも西郷の局の父や石谷十蔵の位牌が祀られていたと伝える。 観音寺から南に四〇〇㍍字構江には石谷氏の屋敷址と伝える石田氏の宅地内に、石谷氏の霊を祀る「霊栄大明神」の廟がある。霊廟から二五〇㍍南には、天正二年(一五七四)の高天神城落城のとき城兵の中に名をとどめている糟屋善左衛門則高の子孫といわれる粕谷氏の屋敷がある。 このように石谷、西郷両氏に関連する遺跡が数多く交差している上に、西郷氏を三河の出自とする説が所伝の奥深くに浸透していて、事跡と遺跡の分類解明が難しい現状にある。 史料の考察 二階堂氏の考察 美人ヶ谷城と滝ノ谷城に関する事跡を知るには所伝の多い石谷、西郷氏の事跡を検討するのが適切であろう。両氏の出自を『姓氏家系大辞典』に見ると石谷氏については 遠江二階堂流の石谷氏はイシガヤと読めど美濃の石谷氏はイシタニなり、遠江石谷氏は藤原南家二階堂氏を称す(寛政系図)もと二階堂を称し、行清外祖父西郷の家号を用い、其子清長また二階堂、其子政清石谷村に居住し石谷を称す。 と石谷氏は遠江と美濃を出自とするが、語韻の違いによって地域の異なることを指摘しているが、現在その説によって出自を分類することは不可能なほど混同して地方に分布しているであろう。西郷氏については、 藤原南家二階堂氏族、(寛政家譜)に代々佐野西郷庄に居住せしより行清がとき西郷と改む。 とどちらも『寛永諸家系図伝』を引用して一族の如き関係を録して後世誤認の因を成すと思われる記述をしている。更に『掛川市誌』はこの二階堂氏流の出自を肯定するが如く次のように録している。 二階堂美啓(よしひろ)=鎌倉将軍頼朝より五代、源頼嗣落城の節、三家の侍二階堂民部少輔美啓は、御側用人戸塚平内左衛門辰信と同道流浪致した。この時正嘉元年三月十日遠江国佐野郡掛川在西郷村に落着き、美啓は六十一歳の老年に及び仏法に帰依し、持合せの金子もあったから庄屋右京の取持により堂を建立、出家剃髪して庵主となり、二階堂と名付けた。 この記述に関連するかのように地元に次のような系図が写蔵されている。 傍系その他を省略して記述したが、『国史大系』に所収されている「尊卑分脈」の二階堂氏系図に類似の系図で、行盛の添書に美人谷二階堂とあることと、傍系の行秋・行清などを『寛政家譜』が録す石谷氏に推定していることに創意性のみられる系図である。 二階堂行盛は元仁元年(一二二四)閏七月廿九日に、伊賀光宗の政所執事罷免に伴ってその職に任命され、建久五年(一二五三)十二月九日七十二歳で歿するまで政所執事として鎌倉幕府の要職にあり、遠江に来り上西郷美人ヶ谷に隠棲して石谷・西郷両氏の祖となることは考えられないことである。 二階堂美啓の美人ヶ谷居住に関連する説として『掛川誌稿』に次のようにある。 上西郷村観音寺=美人ヶ谷の口、殿垣戸と云所の山にあり、二階堂と呼ぶ、此所の畠を二階と呼ぶ故也、此堂旧山頂にあり、後中段に移して更に下段に移す。 佛像長五尺餘、左右に四佛あり地蔵長二尺五寸、薬師一尺餘、其餘の二佛は三尺五寸許あり、皆彩色もなき殊勝の古像なり、幾とせ三百年外のものと見えたり。 とある。二階という地形的呼称とも思われる場所にあった観音堂を、美啓が建立した二階堂に擬して二階堂氏居住の説が伝えられるのも、江戸初期に編纂された『寛永諸家系図伝』によると二階堂氏流系図を導因した石谷・西郷両氏の系譜に素因があるのではなかろうか。誤認の要因とも考えられる『寛政重修諸家譜』の藤原氏為憲石谷氏の条に 寛永系図家伝を引いていはく、もと二階堂を称し、行清がとき外祖父西郷が家号を用い、其子清長がときまた二階堂を称し、その子政清遠江国石谷村に居住す。 村の西南におほいなる岩石あり。その岩の頭に八幡の廟あり、これ村の氏神なり。政清氏神のまします所を尊崇す。この故に二階堂をあらためて石谷と称す。今の呈譜に代々遠江国佐野郡西鄕の庄に居住せしにより、行清がときあらためて西鄕と称し、政清めされて東照宮に奉仕するにをよび、西鄕の局の称呼を諱て石谷に改む。 と、ときに応じて二階堂・石谷・西郷を称していることを録し、後世両氏の出自を混同させる要因を成している。このように石谷・西郷とその出自がさだかでないため西郷氏を三河の西郷氏とする説も生ずる。 西郷氏の考察 『掛川誌稿』に 西郷斉宮故宅 =構(かまえ)村にあり、今殿屋敷とも構(かまえ)とも云、其中に図書屋敷・東門・三ヶ月堀等の名を存す、明和元年までは土手なども残りしと云へども今はなし、按に西郷氏は世々三州にありしが、いつの頃より此に移居せしか詳ならず、此に西郷と云地名は享徳四年法泉寺の舂屋和尚が譲興状にみえしを初とす、明応十年神谷天棟札に、佐野郡西郷庄長間郷など庄名のようになり、上西郷・下西郷と称せしも、みな西郷氏の知行する所なるべしされば早く応永の頃にも参州より移り来りしものならん。 と、西郷氏の地名を享徳四年(康正元年一四五五)の譲興状を以って初見とし、応永の頃西郷氏が三河から乗住したことによるものと誤りを録している。 三河の西郷氏は額田郡幸田の出自で、三河の守護仁木右京太夫義長の目代であったが、享徳年間(一四五二 ― 五五)弾正左衛門尉稠頼が岡崎の菅生(すごう)郷竜燈山に城(岡崎城)を築いたのが、戦国武将として史籍に表れた初めであろう。 したがって、応永の頃、上西郷に来住することは考えられないことである。土着の西郷氏と考えられるものについては後述する山科家礼記によって明らかと思われる。 西郷の地名については次の文書によって、三河西郷氏の来住説も否定されるであろう。 足利尊氏下文冩 下 富樫介高家 可令早領知・加賀國守護職 竝遠江國西郷庄・小櫟孫四郎・同弥次郎 中原弥次郎跡 信濃源志介跡 事 右人為勲功之賞 所充行也 者、守 先例可致沙汰状 如件 建武二年九月二十七日 右の文章によって西郷庄が建武の頃すでに成立していたことが立証される。 三河の西郷氏と違って土着と推考される西郷氏について『山科家禮記』に次のようにある。 昨夕智阿ゝ一貫持来候、西郷年貢無沙汰御奉書飯賀州被下候也、其案文也、山科家雑掌申遠江國西郷年貢事、 去應仁元年以来一向無沙汰云々太不可然所詮於年々未進分者、如先ゝ不日悉令究済、可被執進請取、尚以及 難渋者、可有異沙汰由、被仰出候也、仍執達如件。 文明三 為信 判 十二月廿七日 之種 判 西郷殿 文書の西郷氏は翌四年二月五日の文書には西郷八郎と録されている。このように山科家から年貢の遅延に関する文書が再々西郷氏宛に発注されていることは、この西郷氏が上西郷にあった山科家の所領地を管理する立場の地頭代の存在であったことを示すものであろう。年次的推考からこの西郷氏を後述する石谷氏の系図にある西郷民部少輔に関連するものと思われる。 三河の西郷氏が上西郷に関わりを持つのは、前述の「西郷斉宮故宅」を録した斉田茂先(しげとき)が『掛川誌稿』の編纂なかばにして文化十一年(一八一四)九月歿したので、その後を補輯した山本忠英(ただふさ)が次のように録していることによる。 西郷斉宮故宅 以貴小伝云、於愛の方は西郷局と云、戸塚五郎大夫忠春の女なり。忠春西郷弾正左衛門正勝が女にそいて局をまふけたり、天文廿三年忠春遠江国大森の軍に討たれければ内室は再び服部平太夫正尚に嫁し、於愛どのも継父正尚のもとに在りしを外祖弾正左衛門正勝が、右京進義勝にめあわせて女一人男一人を産給ふ・・・・・・・・・中略・・・・・・御父戸塚忠春が子四郎左衛門忠家は局の異母兄なり。初め今川家に随り後に御家人になりて薩摩守殿に仕ふ、其次の御兄は仏門に入りて心翁と云、牛込護本山天竜寺を再興して寺主となり、父の忠春が墳墓をも遠江国滝谷法泉寺よりうつせしとぞ・・・・・・中略・・・・・・按に戸塚氏此の西郷に住して三州の西郷氏を娶ることは因縁あるにや、『武徳編年集成』に永禄五年浜名郡宇津山城主朝比奈紀伊守泰長、三州賀茂郡西郷中山の五本松城主西郷弾正入道正勝、同孫九郎元正父子を討取り、正勝が庶子孫六郎清員は逃れて死をのがる。此事上聴に達せしかば清員に父が旧領を賜り、西郷の古要宇と云所に砦を築いて居住すとあれば、三州の西郷氏国初以前遠州に来り住せしことはなきなり。西郷局は西郷の戸塚に住せし戸塚五郎太夫忠春の女なれば戸塚の家にて生れ給えること論なし、然るに西郷に住せし西郷の女なる由、又美人谷と云所あるは局の生れ給える村なる故に此名ありと云は、附会のこと也。土人の説に惑うなかれ。 又、西郷の構村に西郷斉宮の神を祀ると云祠あり。其の子孫ならんと見ゆるもあれど、西郷局の生れ給える家にはあらず、然れども斉宮を祀ると云、又図書屋敷など云所あれば久しく西郷に住して村名を以って氏とせし人なり。抑西郷局の御事は知る者多しといへども西郷村土人の説に依て或は人の惑を生ぜんことを恐る故切に是を詳かにす。 と、西郷の局が戸塚忠春の家で出生したことを強調し、斉宮については西郷の局に関係ないことを録している。又西郷氏に関しては、正勝の戦死により庶子清員が父の旧領を賜り、西郷の古要(こよう)字に砦を築いて住したれば三河の西郷氏が遠州に来ることなし、とこの時期において三河西郷氏の遠江在住を否定しているにも拘らず、西郷の古要宇とある記述を掛川市上西郷にある平塚山を古要宇に擬して誤れる所伝を伝えているむきもある。よって煩雑になれど誤謬を正すために『武徳編年集成』の巻五、永禄五戌壬年七月の条を収録してみると、 遠州嵩山ノ城主、奥山修理貞澄今川ヲ叛キ、神君ニ倚頼ス、氏眞怒リテ兵ヲ発シ彼城ヲ陥ス、十二日遠州浜名郡宇津山ノ城主朝比奈紀伊守泰長不意ニ兵ヲ参州ニ発シ、加茂郡西郷ノ中山五本松城主ヲ抜キテ城主西郷弾正正勝入道・同孫九郎元正父子ヲ討捕ル、正勝が庶子孫九郎孫九郎清員 或ハ吉員ニ作ル ハ虜ト成リシガ捕ル者ノ手ヲ挽放チ満丈ノ渓ヘ飛落ル所、幸ニ死ヲ遁レ、野田ノ菅沼新八郎定盈ハ従父兄弟ユヘ野田ヘ忍ビ来ル、此事上聰ニ達セシカバ大ニ賛美セラレ亡父ノ旧領ヲ賜リ、清員西郷ノ古要宇ト云所ニ砦ヲ設ケ居住ス。 とある。このように浜名湖西岸にある宇津山城主朝比奈氏が、今川氏の命で西北進して三河と遠州の境にある嵩山城の奥山氏を討伐した勢で、更に五本松城を攻略して西郷正勝父子を戦死せしめた合戦に関連する古要宇の砦が、三河と正反対の東方四〇キロも離れた掛川市の上西郷に築かれる道理がない。これらの説は明らかに三河の西郷氏を地元に導入するべく誤った所伝である。 三河の西郷氏が遠江に所領地を持って関係するのは榛原郡に替地を賜ったことを知る次の文書に確認される永禄末期である。 替地宛行状 為河邊替地遠州之内七百貫文遣置上者、永不可有相違者也、仍如件 永禄十二年(巳己)年 三月二日 家康 (花押) 西郷左衛門佐殿 以上によって三河の西郷氏の中世における上西郷土着説は極めて信憑性も乏しく、戸塚忠春の女とする西郷局に関する事跡が『山科家禮記』に見る西郷氏を、三河の西郷氏に結び付けて異なった所伝に育成されたとみるべきである。 美人ヶ谷城に中世山城の形態を見るのも、この『山科家禮記』に見る土着性の可能が多い石谷氏に関連すると思われる西郷氏の創築によるものと推察される。 滝ノ谷城の北側にあって城主など菩提寺として、何らかの関係があるのではないかと思われる法泉寺には、西郷の局の両親の位牌を祀るという。『掛川誌稿』には、 曹渓山法泉寺 寺を法泉と云、瀑布あるによる開山を舂屋和尚と云、相伝、昔此地に二人の比丘尼あり雲江、栴巌と云、舂屋和尚初めてここに来りし時両尼より此地を受けしとぞ、享徳四年十月二日二世即安和尚へ授けし譲興状には雲江、栴巌之菩提懇に御訪候者何事か可過之哉。身之本願可満足候也とあり、寺後に二碑あり。其一には雲江妙慶、貞治五年四月廿日とあり其の一栴巌花慶、應安二年二月朔日と刻して当時のものと見えたり。應安二年には御朱印を賜りしなり、正徳四年總寧寺英峻和尚御朱印を請奉る状に曰、西月祐泉居士、玉窓妙全大姉之尊霊碑安置此精舎、今有之處歴然也、とあれば此二本碑は即、西郷斉宮と云し人の夫婦にて西郷局の雙親なるにより慶安年の御朱印をも賜りしか。 と、舂屋和尚が両比丘尼から法泉寺を譲り受けた経緯を録し、法名西月祐泉居士の俗名を西郷斉宮として西郷局の父親なるため、慶安年に御朱印を賜ったことを記述している。 しかし斉宮については前述山本忠英が輔輯『西郷斉宮故宅』において否定している説である。図書屋敷、東門などと呼ぶところは残るがその事跡は皆無で人名かそれとも祭祀の照合かさだかでない。試み『広辞苑』にてその字義を見ると、斉宮(いつきのみや)の場合は伊勢神宮または大嘗祭のとき新穀を奉る国の一つ、或いは伊勢、賀茂の斉宮(いつきのみや)の住所とあり、斉宮(さいぐう)と読む場合、天皇即位ごと卜定(うらない)を以ってきめられる伊勢神宮に奉仕する未婚の内親王とある。 西郷庄は古く、「遠江国佐野郡日根郷(西郷庄)有小高御厨」と録されて、伊勢神宮の奉祀をつかさどる小高御厨が成立していたことを伝えていることから、西郷斉宮の場合、おそらく斉宮(いつきのみや)に関係するものの屋敷が、何時の頃か土豪の屋敷となり、移り変わる館の重複が所伝の混同となって西郷斉宮という人名に伝えられたのではなかろうか。 法号西月祐泉を西郷斉宮とする法泉寺の記述に疑問があり、本筋から外れるが法泉寺について振れてみよう。 比丘尼から寺域を譲られたと伝える舂屋和尚は陸奥の人、農家で米を舂(つ)く音を聞いて、忽然と悟ったというので師の大網から舂屋(しょうおく)の号を授けられたという。晩年相模の義雄山報思院を開創して康正二年(一四五六)七十五歳で歿した。しかしこの説に従ふと舂屋和尚が法泉寺を譲られたと伝える両比丘尼が歿してから十余年を経た永徳二年(一三八二)に舂屋和尚が出生したことになり不合理な所伝である。 この年次矛盾を解明するものとして磐田市見付の慈恩寺が所蔵する雲板銘がある。 銘雲板 遠江國上西郷庄滝泉禅寺長板 (八月)(廿) 于時應永廿六(亥已)年南呂念七日誌之 往持 比丘明通 寺院で食事を衆僧に知らすため打ち鳴らすこの雲板は縦径四五㌢、横径四三㌢ほどあるが、上西郷からどうして見付の慈恩寺に移り所蔵されているのか詳かでない。 銘雲板にある滝泉禅寺を、地名と名称から法泉寺の前身と推考すると、年次推定により両比丘尼から寺域を譲られたのがおそらく比丘明通であろう。舂屋和尚はその後に何らかの理由で滝泉寺に入り、寺を法泉寺と改称して中興の開山になったのではないかという推測が成り立つ。 法泉寺で舂屋和尚の事跡が確認されるのは境内にある白山神社の棟札で、両比丘尼歿後八十余年、雲板銘から三十余年後の年次である。 表 伊勢天照大神 裏 于時享徳三季(戌甲)五月廿七日御遷宮 往持 比丘宗能記 舂屋和尚の歿年から推察して白山神社遷宮の後、舂屋は二世即安和尚に法泉寺を譲り相模に移って報恩院を開創するとともに歿したものと考えられる。 法名西月祐泉を西郷斉宮として、更にそれを西郷の局の父に擬する、戸塚忠春と混同しているような法泉寺に関する所伝が、果して戸塚忠春の霊か否かさだかでない。天正十八年(一五九〇)徳川家康が江戸に移封するとき、側室の父として忠春の墓も位牌とともに法泉寺から江戸に移され、忠春の次男心翁和尚によって現在東京都新宿の高層ビル街の谷間にある「護本山天竜寺」が開創されて、其処に忠春の霊も祀られ、位牌に西月友船大禅定門とあるという。にも拘らず尚且、この法名が忠春かさだかでないと論ずるのは、舂屋和尚が法泉寺を二世即安和尚に譲って以来、西郷氏に関する戸塚忠春が戦死したと伝える天文廿三年迄約一世紀、その間法泉寺に関する事跡は詳かでない為である。 忠春の菩提寺を江戸に開創した心翁を法泉寺七世と録す天竜寺の由緒書によって、西月祐泉を戸塚忠春の法名と論説するのみでその論拠は極めて薄いといわざるを得ない。西郷の局の父に関しては、遠州の住人秋山十郎の女、或いは戸塚作左衛門某の女、歿年についても天正十七年五月十九日駿府にて歿す年二十八とするのが通説となっている。 『掛川市誌』には戸塚五郎太夫忠春 先祖は清和源氏為義流、遠州戸塚に住むにより戸塚を家号とする。忠春は万松院足利義晴に仕えて都に登ったが、後遠江国に帰り大森城に住んだ。妻は西郷弾正左衛門正勝の女、夫忠春が天文二十三年大森の軍に討たれければ蓑笠之助正尚に再嫁し、後に営中に召された長男を四郎左衛門忠家といい、はじめ今川義元に属し、後に三河国におり徳川家康に拝謁、松平忠吉に付属、天正十八年関東に移り忍城城代をつとめ文禄四年六十歳で歿す。 二男は出家して心翁といい、滝ノ谷村法泉寺の住職であったが、家康が関東に入国のとき江戸に召され牛込に土地を賜り天竜寺の住職となった。 と異説の氏名や所在不明の大森城の戦いを録し、更に局の歿年次を逆算すると忠春が戦死の数年後に局の誕生という年次矛盾もあって、戸塚忠春は名も知れない一介の豪士であったのが、西郷の局の父親として上西郷で創造された偶像的氏名ではなかろうか。したがって西月祐泉の法名にも信憑性が問われるのである。尚、異名ながら戸塚五郎大夫に擬せられるものに次の文書がある。 観音寺朱印下附願書 遠江國佐野郡上西郷村碧獄山観音寺 一、省略 一、西郷殿御先祖之菩提所ヽ而。台徳院様、御袋様、御親父富塚五郎大夫殿御位牌石、塔于今在之竝、石谷十蔵殿先祖旋菩提所、依之十蔵殿添状被下候。 右之通少も偽無御座候。若偽御座候者、曲事可被仰付候。何様々も今度御朱印頂戴仕候様奉仰候。 慶安貳年 観音寺 丑六月三日 順太□黒印 寺社御奉行所 富塚氏についてはすでに永正年間、上西郷の西方約一・五キロ離れた垂木村の六所神社に奉懸した鰐口に次のような刻銘があって、忠春と同世代に存在した土豪と思われるので戸塚五郎右衛門を富塚五郎大夫の誤りであるとする説、又、地域的に別人であり観音寺側の誤記であるとする説もある。 遠江州佐野郡垂木六所明神 永正十一年八月 大檀那 興津濃州守久信 二俣八郎左衛門長富 富塚五郎右衛門久行 石谷氏の考察 藤原二階堂氏流を出自として、ときには西郷も称せしという複雑な出自を伝える石谷氏に関する所伝を『掛川誌稿』から抜粋すると、 石谷氏故宅 石谷十蔵貞清は世々西郷に居りしとて中島と云所に石谷氏の古墳ありて其の辺りを宅跡とも云、又ビンゼガヤ谷殿垣戸(とのかいど)も石谷氏の宅跡と云、何れが是なることを知らず、慶長五年の関ヶ原の役に御供して西郷には婦人のみ残れりとぞ、その後いつしか駿府に移居せしものなるべけれど口碑にのみ伝えたれば詳なることなし。又石谷の山に九巨石あり俚俗是を名字石と呼び兜石・碁盤石・目付石などの名あり。今石谷氏の九曜を以て家紋となすも一に是石によると云、旧石谷を有せし人なれば称号にもなせしものなるべし、石谷十蔵貞清は石谷十郎右衛門の次男五郎太夫清定が次男也。後左近将監と称し、寛文十三年九月十一日江戸にて卒す年七十九。 この記述が前述の「地理的考察」による多角的な遺跡を伝える要因となったと考えられるが、土俗的な所感も多く、この地域すべてを石谷氏の所領地とは断じ難い。中島の宅跡について同署は、 霊栄大明神 中島の平八と云ものの居る所は石谷十蔵の故宅にして、其の先營(せんえい)に七基の碑ありしが正徳三年にあつめて一丘となし、祠を建て霊栄大明神と云、爾来石谷氏より年々扶持米などを贈りて其の祠を守らしむ。 と録し、上西郷構江(かまえ)の石田氏の宅地内にある霊栄大明神創建の由緒を伝えている。祠を祭祀する石田氏が写蔵している左記の石谷氏系図は 傍系その他を省略したが『寛政家譜』に類似の系図である。 為憲流二階堂氏のから西郷氏、更に石谷氏と複雑な呼称を伝えているこの系図に見られる二代目行晴の歿年次から推考されるのは、前述の山科家禮記に録されている西郷八郎が、この行晴の父西郷民部少輔に関係があるのではないか、ということである。 憶測すれば上西郷の有力者で山科家の所領地管理の地頭代であった西郷氏が、二男を石谷氏の養嗣子とした後、何らかの理由で没落して家系を詳かにしないため、三河の西郷氏と混同して伝えられるのではなかろうか。 尚、「教言卿記」によれば応永十二年(一四〇八)十二月遠江の西郷より年貢の到来していることを録しているが、このときの地頭代が西郷氏か否か年次においては該当するが詳かでない。 石谷氏の館址として伝えるビンゼガ谷の殿垣戸について『掛川誌稿』は、 鬢ぜが谷 鬢ぜが谷をいま美人ヶ谷と云は転語也。昔於愛の方の出処なれば名づくと云は土俗の付会なり、検地帳にビンゼガ谷に作る。鬢ぜとは俗に鬢の禿げたるものを云、山間の地名なれば山のはげたる所などありて名づけしにやあらん。 と録し、地名の出処を明らかにしているが城砦址の見解はなされていない。次に記述する同書の殿垣戸の項において武家屋敷に関連して城砦の可能性を知ることが出来る。 殿垣戸 ビンゼガ谷の口を殿垣戸と云、垣戸は人家の垣の内をさして云、屋後を背戸と云が如し。古き俗語とみえて諸国に多くみゆ、今村里の小地名に倉カヒト、鍛冶カヒトの類都で屋舎のありし址をさして云、此に殿垣戸と云所は石谷氏の宅趾とも云、いずれ武家の故宅とみえて山頂を櫓の趾といひ、平城を城のだんと云、東を太鼓の谷といひ寛政の末とか甚五郎と云百姓、此山際崩れて功果たる古刀の類を堀得たり、其上に長六尺許の石ありしと云、是必上古の墳墓なるべし。 とある。殿垣戸について現在その位置はさだかではないが、美人ヶ谷城址の東南山麓にある斉藤氏の屋敷附近を小字「保戸貝戸」という。おそらく殿垣戸が転訛したものであろう。 斉藤家の西側に二㍍ほど高く高さ七〇㍍平方の台地がある。古松と竹薮が北側を囲むこの台地を、土地の古老は明治の頃、私学舎の塾があった学校屋敷の跡という。 北裏側の山頂にある中世山城の形態を残す美人ヶ谷城との関連性から、往昔はこの地域の地頭代を兼ねた有力者西郷氏の館が、後に石谷氏に引継がれて石谷氏館と称せられるその跡ではなかろうか。 石谷氏については郷土史学研究において、貴重な参考史料ともいうべき『掛川誌稿』も左記のように美濃国石谷(いしたに)村に起る石谷氏を混同して録している。 西郷村石谷氏古墟 按に、天文五年義輝将軍御元服のとき御供衆に、石谷兵部太夫光政と云人あり。又永禄六年諸役人附には外様衆、石谷孫九郎頼辰、御番衆石谷兵部太輔光政あり。この二人は父子なるが共に遠江国の人と見えたり。石谷氏西郷氏の石谷に住して数世伝えたりと見ゆれば、その古墟も一所にてはあるべからず。 と、永享御番帳などにも名を録している美濃国土岐系石谷(いしたに)氏を、遠江国上西郷に導因して誤った記述を録している。 地方の一土豪にすぎない石谷氏が、寛永十四年(一六三七)十月の島原の乱には征討軍の副使として下向したり、慶安四年(一六五一)には将軍家光の遺命で江戸の町奉行に任じ、江戸騒擾を企でた由比正雪の一味を召捕るなど、徳川幕府の要職に就いて史籍に名をとどめた左近将監貞清のような傑物を輩出したのも、祖父の十郎右衛門政清が今川家滅亡の後、徳川家康に仕えたのが家名復興のはじめであり左の文書を見るかぎり政清を以って遠江石谷氏の中興の祖といえよう。 十郎右衛門政清は石谷に住し、天正二年(一五七四)四月十五日七十一歳にて没し、和光院殿盛山道隆と諡名して石谷村に葬ると伝えるが、葬地も墓碑も詳かでない。東京都北多摩郡狛江町の雲松山泉竜寺は政清を開基として左近将監貞清の子孫が創建したという。 結論 上西郷の土豪達の間で美人ヶ谷城と滝ノ谷城に関係するのではないかと思われる石谷・西郷の両氏、竝に戸塚忠春の事跡を検討したが、二階堂氏流の出自を伝える両氏に関してそれを立証する史料は管見にして見ることを得ない。これは両氏に関する家譜が寛永十八年(一六四一)徳川幕府の要請に基づき、諸家から提出された系図をもとに幕府の学問所で作制された、『寛永諸系図伝』やそれを続集編纂した寛政十一年(一七九九)の「寛政重修諸家譜」によって伝えられている信憑性にも疑問のある編纂史料に頼っているためである。さだかでない中世における両家の事跡には、創意も多分に含まれて提出されていると考えられるからである。特に西郷氏については、肥前国高来郡西郷の庄より発し弾正左衛門忠昌のとき、清和源氏義光流の大内義時の三世木工助惟時の子信治を嗣子としてから源氏と改め、数世代の後、弾正左衛門盛正が三河国八名郡に移り住したものである。西郷局の祖父正勝は更に数世代を経ており、この三河西郷氏を西郷局の因縁を以って上西郷の西郷氏云々は誤れる所伝であろう。 遠江の西郷庄土着の郷士として可能性があるのは山科家禮記に録されている西郷八郎で、年次的にも石谷氏の家譜にある民部少輔の父祖の世代である。おそらく西郷庄の有力郷士として美人ヶ谷の山麓に屋敷を構えて、山科家などの代官補を勤めて年貢の徴収などにあたっていたのであろう。しかし応仁の乱という地方にまで波及した争乱によって、荘園制の秩序も乱れ、併せて今川氏の駿遠における戦国大名の形成に西郷氏もその寄子となったもので、永正三年(一五〇六)伊勢新九郎の三河侵攻の遠江衆の中に西郷氏とあるのはこの西郷氏であろう。 遺構の考察 美人ヶ谷城 美人ヶ谷城址は大和田山系の支脈が南に延びた先端にあって、北西に三〇〇㍍ほど湾曲した標高一〇三㍍の独立丘陵を成している尾根上に構築されている。 大別して曲輪(くるわ)、中央の本曲輪、北曲輪の三つに分けられるが、これも幅が一〇㍍から一五㍍ほどある尾根を三ヶ所で断切っている空堀によって推定区分されるのである。 殿垣戸の北側から登る大手口と推定される先端の辺りは、茶園や畠地に開墾されて全く原形をとどめておらず遺構の確認は難しい。 図面による一合堀切りは南側で六〇㌢、北側で一・五㍍の落着が付いているが、現状は埋没している様子である。幅は底辺で二㍍ある。 この堀切の北側に一五㍍平方の削平地があり、これまでを南曲輪と仮称した。 南曲輪の北側は幅四㍍の空堀を隔てて五㍍の高さに本曲輪がある。東西五五㍍、南北が南端で一三㍍、北側で五㍍の台形曲輪は、山容をそのままに削平しているためか、僅かな較差を付けて三つに区分され不自然な傾斜をしている。 西側の五㍍下方に東西二二㍍、南北が中央で七㍍の半円形袖曲輪(そでくるわ)があるのも比較的ゆるやかな西側傾斜の備えであろう。主郭の北は幅四㍍の三号堀切りであるが、落差が五〇㌢という現状が、埋没かその他の理由によるものかが断定至難い遺構である。しかし北側に続く東西一二㍍、南北一〇㍍、更にその西側三㍍下方にある東西二〇㍍、南北一五㍍の北曲輪の構成を見ると、この空堀も二号堀切りのような施備が成されていたことが容易に推察出来よう。 滝の谷城 滝ノ谷城は美人ヶ谷城と尾根を一つ隔てた東側にある標高一一四㍍の城山(じょうやま)と、その北側にある前山の山頂を物見台にした両峰から成る周囲約一・二キロの孤山である。 東側を谷沢(やざわ)川が流れ、北側から西南に廻って法泉寺川が流れている。この両川は下流一五〇㍍の多貴神社の背後、堰ノ口と呼ばれるところで合流して滝ノ谷川となり倉真川に這入る。したがって堰ノ口で両川を堰止めると滝ノ谷城の濠ともなる。 城址へのコースは滝谷バス亭の一〇㍍ほど前方(北側)にある中山家の横にある小径を登り、茶畠の間を二〇㍍ほど進むと東西二〇㍍、南北が中央で八㍍の半月形の曲輪がある。 大手曲輪と推定される所であるが、西側先端が掛川―川根線の県道に開発されて崖になっており、東側は幅一〇余㍍の崖崩れの現状でいずれも原状の確認が難しい。口碑によればこの崖崩れは明応八年(一四九九)と大正十年の二度にわたる崩壊の後で埋没した山麓附近を「やなめ屋敷」と呼び、武家屋敷のあった跡と伝えるが真偽のほどはさだかでない。 山腹に滝ノ谷城主中山祐斉と刻された碑が建っているが、これを史実的に立証する資料はない。崩壊した崖上に幅一㍍から三㍍ほどの不整形な削平地が北端まで続いている。大手から搦手口に通じる曲輪の跡とも考えられる。大手曲輪から五㍍上にある山頂の本郭に至る出入口(虎口)でもあろう。 山頂には東西二〇㍍、南北五五㍍の長方形の曲輪がある。南端から北に向かって一五㍍ほどゆるい傾斜が付いているのが土塁などを崩して均したのか詳かでない。北西の隅に一・五下に南北三㍍、東西一二㍍の木戸口の形態を残す削平地があって此処から二〇㍍ほどS字形に降ると、城山と前山の鞍部で幅一〇㍍、東西が二〇㍍の堀切兼用の曲輪がある。東側は谷となって谷沢川に落ち、西側は開墾されたと思われる削平地がある。北側一五㍍上の前山の山頂には東西七㍍、南北一五㍍の物見台がある周囲は急斜面で人工を加えた防備の様子はない。西側から北を廻って東側に降る小径をたどると山麓に古い堀井戸がある。城址に関係するか否かも所伝もない。 自然の山容を利用して、曲輪の形態も粗雑な広報で区別し難く、総体的に人工による構築規模の少ない遺構は、地方における小土豪の所領経済力も推考させる必要を示唆する城址である。 石谷・西郷両氏に関する略年表 一二五七 正嘉元年 二階堂民部少輔美啓上西郷に住す 掛川市誌 一三三五 建武二年 足利尊氏下文写遠江国西郷庄とある 四天王寺蔵 一三六六 貞治五年 雲江妙慶の墓、滝ノ谷法泉寺 掛川誌稿 一三六九 応安二年 栴厳花慶の墓、滝ノ谷法泉寺 〃 一四一九 応永廿年 法泉寺住持比丘明通の雲板銘あり 慈恩寺蔵 一四五二 享徳元年 三河の西郷清海入道稠頼岡崎に城を築く 参河志 一四五四 享徳三年 法泉寺境内白山神社棟札に比丘宗能とある 掛川誌稿 一四五五 康正元年 舂屋宗能和尚より二世即安和尚に与えた譲状 〃 一四五五 康正二年 舂屋和尚歿す七十五歳 江戸名所図絵 一四七一 文明三年七月 松平信光岡崎城主西郷弾正左衛門頼嗣を降す 参河志 一四七一 文明三年十二月西郷氏遠江国西郷の年貢無沙汰を催促さる 山科家礼記 一四八四 文明十六年 西郷民部少輔某の二男石谷行晴歿す六十七 寛政家譜 一五〇五 永正元年 石谷行晴の子行清歿す五十九 〃 一五〇六 永正三年 西郷氏伊勢新九郎に従って三河へ侵攻す 大日本史料九編 一五一四 永正十一年 富塚五郎大夫久行上垂木六所神社に鍔口奉懸 県史料 一五二三 大永三年 三河の西郷信貞山中に城を築く 参河志 一五二三 大永四年 松平清康山中城を攻め西郷信貞を降す 家康の族棄 一五三三 天文二年 石谷清行の子清長二階堂を称す 寛政家譜 一五五一 天文二十年 三河の西郷弾正左衛門正員歿す四十二 寛政家譜 一五五四 天文二十三年 戸塚五郎大夫忠春大森城に戦死、法号西月祐泉 掛川誌稿 一五六一 同十月六日付 西郷清員家康より下知状を受く 家康文書 一五六二 永禄五年九月 五本松城落城正勝父子戦死 家康の族棄 一五六九 永禄十二年 正月石谷政清家康より遠江に所領を贈る 家康文書 一五六九 永禄十二年 三月西郷清員に替地宛行状を受く 〃 一五七四 天正二年 石谷政清歿す七十二 寛政家譜 一五八四 天正十二年 報思院梁木外二名連署置状に舂屋和尚とある 県史料 一五九四 文禄三年 西郷清員歿す、池上本門寺に葬す 寛政家譜 一五九五 文禄四年 戸塚忠春の子忠家歿す。牛込天竜寺に葬す 掛川市誌 一六四九 慶安二年 富塚五郎太夫を西郷局と親と録す 観音寺文書 一七一四 正徳四年 西月祐泉、玉窓妙全大姉西郷局の親という 掛川誌稿 戻る
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※注意事項元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。 ※注意事項生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。 ※注意事項出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。 ※注意事項兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。 ※注意事項現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。 石谷貞清(いしがや さだきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】十蔵(新訂寛政重修諸家譜)、左近将監藤原貞清(干城録) 【生年】文禄3年(1594年)(逆算) 【没年】寛文12年9月12日(1672年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】79歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】1500石(新訂寛政重修諸家譜) 【官位】従五位下左近将監(新訂寛政重修諸家譜) 【役職】大番、御腰物持、御徒頭、御目付、水口城在番、江戸北町奉行(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷清定 (五郎大夫)(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】今川家家臣久嶋與平の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】 【妻室】板倉内膳正重昌の養女(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷清平、野間与五右衛門政次の妻、久嶋權右衛門の妻、石谷清正、石谷貞清(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷武清、都筑彌左衛門爲基の妻、本多百助信賢(孫十郎。本多百助信次の養子となる)(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】 【法名】土入(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 武蔵国多東和泉村で生まれる。(寛永諸家系図伝) 慶長14年(1609年)、16歳の時に徳川秀忠に召出され大番となる。(新訂寛政重修諸家譜) 慶長18年(1613年)、18歳の時、 辻忠兵衛久吉に「武功を挙げる気質ではない」と惜しまれた時、石谷貞清は憤り、「どうしてそのような事を言うのか。未来の事は判らないだろう」と応じた。是に対し辻忠兵衛久吉は、「武辺を心がける者は命を惜しむものだ。石谷貞清の友人はみな命を軽く見るものばかりなので、どうでもいい時に命を落とすであろう。武功を挙げる機会が来ても、その頃には命は無く残念な事になるだろう。」と答えた。石谷貞清はこの後心を改めたという。(干城録) 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣の際、兄の所領の土民7~8人を従士とし、騎兵に混じって従軍した。(干城録) 元和元年(1615年)、大坂夏の陣では土岐山城守定義の指揮下で江戸城の守備をするように命じられたが、命令を破り徳川秀忠の行軍に徒歩侍として付き従った。(新訂寛政重修諸家譜) 元和元年(1615年)、徳川秀忠の駕篭を追いかけていた際、家僕1人に具足櫃を持たせて居たという。(干城録) 元和元年(1615年)、石谷貞清は、駿府で徳川秀忠の軍勢に追いつき、かねてから親しい近習の士に会い、「江戸の守備に残された事が悔しく推参した。重い法令を破ったため処刑されれても悔しくは無い。徳川秀忠に参上を伝えて欲しい。」と願ったが、「主君は法令を堅守させる。どうして許すものか。もしこんな事を許したら、命令を無視して後に付き従ってくる者がたくさん現れるであろう。それで処刑が行われればよくない事である。」と諭すものが多かった。(干城録) 元和元年(1615年)、浜松まで付従った際、徳川秀忠より名前を尋ねられた。(干城録) 元和元年(1615年)、舞坂に到着した際に、徳川秀忠が「これまで側を離れず付従っていた者に十蔵という者が居るが、これは誰だ?」と訊ねられた。御側の者が、彼は石谷九十郎の弟ですと答えた。(兄の石谷友之助清正が九十郎を称したかは寛永諸家系図伝にも記載が無く不明だが、原文のまま記載する。)石谷貞清は「この度の従軍を許してもらえなかった事が悔しく、此処まで参上しました。」と徳川秀忠に伝えた所、徳川秀忠は頷いただけだった。(干城録) 元和元年(1615年)、京都に到着した際、この行動に感心した徳川秀忠より黄金三枚を賜った。(新訂寛政重修諸家譜) 元和元年(1615年)、伏見に到着した後、老中が石谷貞清を呼び出した。石谷貞清は命令違反の処罰を受けるのであろうと思っていたが、命令違反を犯しても従軍した奇特さを評価されて黄金3枚を賜った。(干城録) 元和元年(1615年)、合戦では徳川秀忠本陣にて斥候を務めた。(新訂寛政重修諸家譜) 元和元年5月7日(1615年)、前橋旧蔵聞く書には、大阪城に火がついた際、石谷貞清は徳川家康に従っていたと記録がある。(干城録) 元和元年5月8日(1615年)、大阪城が陥落した日の夜は雨が激しかった。石谷貞清は永井直勝の陣屋に居たが心もとなく思い、徳川秀忠の寝所に近侍し、むしろや畳を持って雨を防いでいた。徳川秀忠はこれを怪しく思い、灯り障子を開けて名を尋ねることが2回あった。(干城録) 元和2年1月9日(1617年)、上総国金剛寺村、上総国山邊郡に300石の領地を与えられ、御腰物持を務めた。(新訂寛政重修諸家譜) 東金への御遊猟より帰る際に石谷貞清は篭の側に付き従っていたが、徳川秀忠の意に反する事があり恐怖しながら付き添っていた。新宿に着いた際に、石谷貞清が宿にて風呂屋に入ろうとした所、老中より召出しがあった。老中からは「先ほどの罪を反省し謹慎蟄居せよ。」と言われたが、石谷貞清は「それは徳川秀忠の命令なのか、老中の考えなのか。」と問い返した。老中は「主命では無いが、先の状況を察するに謹慎蟄居するべきである。」と答えたので、石谷貞清は「しかしなるほど、小身の者が蟄居謹慎してしまったら、誰が見つけ出してくれるのか。」と言って、結局老中の命令に従わなかった。翌日の移動時には徳川秀忠の駕篭のすぐ脇から離れて、駕篭の先にて付き従った。この日ある池に白鳥が降り立った際に、徳川秀忠がそれを鉄砲で撃ち止めた。石谷貞清は裸になって池に飛び込み、大森半七もそれに続いたが、石谷貞清の方が白鳥を捕らえて徳川秀忠に差出した。その後、鹿狩をしようといって板橋に移動した時、徳川秀忠より石谷貞清に対して刀を持てとの命令が下り、御刀の役を務めたが、この時より徳川秀忠の機嫌が直った。徳川秀忠には、この頃御鷹野に出る際に御刀の役を勤めさせる厳選された麾下の士10人がいたが、石谷貞清はこの内の1人であった。(干城録) 諸侯に確執が起きて反乱が発生しようかという際に、旗本の中で武勇の者を遣わし宥めたら良かろうと評定した結果、久世三左衛門広宣か石谷貞清を除いてはその任に耐える者は居ないだろうとの話になり、先ずは石谷貞清を召出した。年寄衆は石谷貞清に向かい「このような命令を与えるには誰が良いだろうか?」と、その考えを訊ねたので、石谷貞清は「久世広宣が適任であろう」と答えた。人々もそうであろうと思い、また、「もう1人追加するとしたら誰か」と聞いた。石谷貞清は「決めがたいので答えられない」と答えたが、「強いて答えるなら誰か」と言われるので、「久世広宣の副使となるのは石谷貞清しかいない」と自ら答えた。人々は最初からそう思っていたので、良く自ら言い出したと石谷貞清を評価し、その両名が仰せを承り使いを務めた所、無事確執は止んだ。(干城録) 元和4年5月(1618年)、相模国愛甲郡に200石を加増される。(新訂寛政重修諸家譜) 元和8年4月(1622年)、徳川秀忠が日光社参の際に急遽宇都宮から帰還する事があり、徒歩で供を務めた。(新訂寛政重修諸家譜) 元和8年4月(1622年)、徳川秀忠が日光社参の際に故ありて急遽下野国宇都宮から帰還する事があった。この時書院番の某と石谷貞清が徳川秀忠の馬の左右にあった。極めて逸物であったので鐙にあわせて馳せて付き従ったが、某は大手御門の所で力尽きた。石谷貞清は少しも怯まず玄関まで同行したので、とても関心され褒賞を賜った。(干城録) 寛永2年7月27日(1625年)、領地の朱印状を賜わる。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永9年7月5日(1632年)、御徒頭となる。(新訂寛政重修諸家譜) 御徒組の徒士の家に鶴が降りた際に、薪割りの男が木片を投げた所、それが当たって鶴が死んでしまった。驚いて騒ぎになったが生き返らなかった。その問題の報告を受けたので、組頭がその者を捕らえて、その家の主人を軟禁し、急ぎ石谷貞清の所へ報告に来た。石谷貞清はこの日他所に招かれており夜遅くに帰宅したが、この世の終わりかというような顔で組頭は待っていた。石谷貞清は声を掛け、「鶴は死んで落ちたのか?」と言ったが、組頭は「いいえ、殺してしまいました。」と答えた。石谷貞清は声を張上げて「死んで空から落ちたというのなら、毒などに当たったのかもしれない。明日登城して報告しよう。」と言ったので、組頭はその真意を察して落ち着いた。そうして翌日、石谷貞清は前述のように報告し、問題無く事は済んだ。その上、鶴は毒に当たったという理由で食べるには危険なので、その鶴は下賜され、組の某に与えたので、人々はこの処置に感心しあった。(干城録) 寛永10年4月16日(1633年)、御目付となる。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永10年8月(1633年)、徳川家光が品川に御出でになり麾下の士の乗馬を御覧になった際に、石谷貞清は命令を受けてこの指揮を行った。(干城録) 寛永10年8月26日(1633年)、洪水により被害を受けた畿内の堤防の検分調査を行った。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永10年12月26日(1634年)、甲斐国山梨郡、八代郡に1000石の加増を賜り、合計1500石の知行となった。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永11年4月(1634年)、徳川家光の御遊猟の供を務めた。(干城録) 寛永11年6月(1634年)、徳川家光の上洛の際に供を務めた。(干城録) 寛永12月10月(1635年)、徳川家光の御遊猟の供を務めた際に、獲物の鳥を賜った。(干城録) 寛永13年2月25日(1636年)、東福門院和子の病気に関連して、京都に赴き御使いを務めた。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永13年6月26日(1636年)、新たに寛永銭を鋳造する事となり、命令を受けて東海道に赴き近江国坂本に到った。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永14年10月(1637年)、松倉豊後守の領地である領地肥前国高来郡にてキリシタンの賊徒が蜂起し、有馬原の旧城に籠城したと報告があったため、板倉内膳正重昌が御使に任命され、石谷貞清は御目付として遣わされた。この時同地に到達したら、有馬玄蕃頭豊氏、立花飛騨守宗茂、鍋嶋信濃守勝茂などの兵を集めて賊徒を誅伐せよ、もし兵が足りなければ細川越中守忠利、松平筑前守忠之の兵も集兵せよとの命令を受け、その夜江戸を発って同地に赴いた。(干城録) 寛永14年11月9日(1637年)、島原の乱が発生したため、命令を受けて上使板倉内膳正重昌の副使となり同地に赴いた。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永14年12月6日(1638年)、風波に遮られてこの日嶋原に着陣した。(干城録) 寛永14年12月20日(1638年)、暁頃に先ず賊兵の様子を見てみようと、板倉重昌と石谷貞清は相談し、鍋島勝茂、立花宗茂に内容を伝え、少し鉄砲を撃ち掛けたところ、立花宗茂の兵が思いのほか外城近くに進軍したので、城中から激しく鉄砲を撃ち掛けられたので、寄せ手に戦死者が多数出た。石谷貞清は軍勢を制して、最初から城攻めにするわけではないと兵を整え、石火矢を用意し、近いうちに総攻めにしよう、と命令を下した。(干城録) 寛永15年1月1日(1638年)、攻城戦の時に賊徒が鉄砲を使用して防御したため、友軍に戦傷者が多く発生し敗走した。板倉重昌と供に馬を巡らせて諸卒を督戦したが、進軍が停滞したため自ら塀を乗越えて城内に突入しようとした。この時に板倉重昌は鉄砲に当たり戦死した。石谷貞清も奮戦したが、槍を切り折られ甲冑指物も損傷し負傷もしたため撤退した。この日石谷貞清の従士3人が戦死し、全軍においても戦傷者が多数発生した。友軍の損害が大きかったため敵の夜襲を想定し、石谷貞清は負傷に耐えて諸陣を巡見し、不慮の自体が発生しないように警戒厳重にし、細川越中守忠利、松平(黒田)右衛門佐忠之、松平(嶋津)大隅守家久達に援軍の依頼を出し、その上で江戸に合戦の戦況を報告した。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永15年1月1日(1638年)、軍備は総て整ったとの報告があったので、東雲の頃から諸軍一斉に攻め込んだ。賊兵も弓、鉄砲で激しく防御したので、寄せ手は乱れ撤退しようとした。板倉重昌、石谷貞清は馬を乗廻して督戦したが、進軍しかねる形勢であった。やがて両人は三ノ丸と出丸の間の5~6間ほど南の方の堀に取り付き城内に乗入れようとしたところ、鉄砲が雨よりも激しく、石もまた多く投げつけられたので、ついに板倉重昌は鉄砲に撃たれ、石に押し潰されて死んでしまった。石谷貞清は携えていた鑓を斬り折られ、賊徒の攻撃で鑓疵を受けたが、家臣の湯浅角大夫が助けに来て、鑓でその賊徒を突き落とした。城中からは激しく鉄砲を撃ち掛けられたので、湯浅角大夫はこのために深手を受けて戦死した。こんな次第で石谷貞清はなお諸軍を督戦したものの、取って返して戦う者は居なかった。賊兵は石谷貞清の指していた幟を取ろうとして争いあっていた。このような激しい戦いに、石谷貞清は兜は砕け、鎧は千切れ、手傷をも受けてはいたが、従士の助けによって、かろうじて自分の陣地に帰る事ができた。この時左右より鉄砲を放たれ大変であったが、巧妙に撤退した手腕を、人は皆は美称した。この戦いで石谷貞清の家人で戦死する者は3人、負傷する者は多かった。このように石谷貞清は手傷を受けてはいたが、夜襲の可能性を考慮し、傷に耐えて4回諸軍の陣を見廻った。(干城録) 寛永15年1月1日(1638年)、この日、板倉重昌の子である板倉主水佑は父の弔い戦をしようと思ったが、士卒を多く討たれて思い通りにならなかった。石谷貞清に頼み諸軍に加勢を頼んだが、負傷者が多くどこも承諾しなかったので、むなしく思い留まった。(兵家茶話には、板倉主水佑が弔い戦をしようと石谷貞清に願出た所、石谷貞清は承諾したと言って、細川忠利の陣から突き出した柵を引き除けて、思う存分戦って敵の首を取り、一揆衆を城内に追い込んだと記しているが、2月28日の戦いを混同した物であろう。)このような状況であったので、寄せ手の戦死負傷が多かったため、細川越中守忠利、松平筑前守忠之などに急いで援軍を差し向けるように指示を下した。また、この様子を江戸に報告した。(干城録) 寛永15年2月26日(1638年)、三浦志摩守、村越七郎左衛門が御使として嶋原に着陣した。石谷貞清は両人を伴い船に乗り、海に出て城の様子を偵察し、戸田左門氏鉄のところに行って、「今日、海上より城を偵察したところ、賊徒が海岸に出てきて海草を取っていた。これは兵糧が尽きたのでないだろうか。また本丸に引っ込んでいる様子であったので、近いうちに総攻めをしよう」と言った。(干城録) 寛永15年2月27日(1638年)、夜、榊原飛騨守職直が本丸に討ち入り賊徒を撃殺し、榊原左衛門佐職信も乗り込んで火を放ったので、諸軍は一斉に攻めかかった。石谷貞清はその際、戸田氏鉄のところに居て離れていたので、この様子を見て馳せ参じた頃には賊徒は本丸に入り、程なく夜になってしまったので、敵には遭わなかった。(干城録) 寛永15年2月27日(1638年)、諸軍が敵城に攻入った。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永15年2月28日(1638年)、暁天、板倉主水佑と石谷貞清は伴に、細川忠利の陣の方から進んで柵を破り、たくさんの賊徒をことごとく平定した。(干城録) 寛永15年2月28日(1638年)、石谷貞清は板倉主水佑重矩と供に城に突入し、この日賊軍は平定された。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永15年3月5日(1638年)、石谷貞清は島原より江戸に帰還し、使用した甲冑指物等を御覧に入れた。その後、島原の乱における軍令違反を咎められ、蟄居処分となった。(新訂寛政重修諸家譜) このような状況で、ある時、老中は石谷貞清を招き、「この度の板倉重昌の戦死は石谷貞清が逸り過ぎたせいでは無いかと聞いたが、どういうことか」と、訊ねられたので、石谷貞清は「私の采配が悪いとは言うが、松平信綱、戸田氏鉄を派遣したと聞いた以上、急いで城を攻め落とさないとならなかったのです。その両人は戦後の仕置きをするために派遣された、と聞いたので、冷静で居られるわけが無い。ひたすら年内に城を攻略しないとならないと思っていたが、その甲斐無く元旦の戦いで板倉重昌を戦死させてしまった。かれは戦死という冥加を叶える事は出来たが、石谷貞清は生き長らえて、みっともなくもこんな事を言われるのは悔しいことです。」と、言った所、この後この謹慎処分が解除されたという。(干城録) 寛永15年12月30日(1639年)、蟄居処分を解かれた。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永18年12月15日(1642年)、与力10騎、同心50人を預けられた。(新訂寛政重修諸家譜) 正保2年9月23日(1645年)、命令により近江国水口城を守備した。(新訂寛政重修諸家譜) 慶安2年(1649年)、畿内の洪水調査のための同地に赴いた。(干城録) 慶安3年閏10月10日(1650年)、洪水被害の調査のため、畿内及び近江国・伊勢国などを巡見した。(新訂寛政重修諸家譜) 慶安4年6月18日(1651年)、に江戸北町奉行に就任した。(新訂寛政重修諸家譜) 慶安4年8月16日(1651年)、従五位下左近将監に叙任された。(新訂寛政重修諸家譜) 慶安4年(1651年)、油井正雪、丸橋忠弥等の反乱計画が判明した際、石谷貞清は騎兵を連れて丸橋忠弥を捕らえた。油井正雪は駿河において自殺した。(干城録) 万治2年1月28日(1659年)、職を辞す。(新訂寛政重修諸家譜) 万治2年7月27日(1659年)、致仕。養老料として廩米600俵を賜る。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 板倉内膳正重昌の養女(牧野駿河守家臣槇定繁の娘。)(新訂寛政重修諸家譜)※板倉氏の項。 石谷貞清の子孫は代々雲松山泉龍寺を菩提寺とした。(新訂寛政重修諸家譜) 石谷武清(いしがや たけきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】五右衛門、五兵衛、五右衛門(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】寛永4年(1627年)(逆算) 【没年】宝永7年3月4日(1710年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】84歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】2500石(近江国→下総国豊田郡、下総国岡田郡。相模国→上総国武射郡、上総国山邊郡)(新訂寛政重修諸家譜) 【官位】布衣、従五位下長門守(新訂寛政重修諸家譜) 【役職】御小姓組、御徒頭、御目付、禁裏附、寄合(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷武清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】板倉内膳正重昌の養女(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】 【妻室】喜多見五郎左衛門重恒の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷武清、都筑彌左衛門爲基の妻、本多百助信賢(孫十郎。本多百助信次の養子となる)(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷清成、佐野内蔵丞政信の妻、喜多見重政(喜多見五郎左衛門重恒の養子となる)、内藤十之丞忠廣の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】高木貞右衛門爲治の妻(嫡子石谷清成の子)、京極伊織高沖の妻(嫡子石谷清成の子)、稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重治の妻(嫡子石谷清成の子)(新訂寛政重修諸家譜) 【法名】宗英(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 寛永20年2月20日(1643年)、徳川家光に御目見。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永20年6月16日(1643年)、御小姓組に入る。(新訂寛政重修諸家譜) 正保2年12月28日(1646年)、廩米300俵を賜る。(新訂寛政重修諸家譜) 慶安元年4月(1648年)、徳川家光の日光社参に従った。(新訂寛政重修諸家譜) 万冶元年3月6日(1658年)、御徒頭となる。(新訂寛政重修諸家譜) 万冶元年閏12月25日(1659年)、廩米300俵を加増される。(新訂寛政重修諸家譜) 万冶元年閏12月28日(1659年)、布衣を許される。(新訂寛政重修諸家譜) 万冶2年7月27日(1659年)、父である石谷貞清の家督相続。先に賜った廩米600俵は、父である石谷貞清の養老料に宛てられた。(新訂寛政重修諸家譜) 寛文3年4月(1663年)、徳川家綱の日光社参の供をした。(新訂寛政重修諸家譜) 寛文11年3月26日(1671年)、御目付となる。(新訂寛政重修諸家譜) 延宝元年3月19日(1673年)、禁裏附となり、近江国内に1,000石加増され、合計で2,500石を領有した。(新訂寛政重修諸家譜) 延宝元年7月1日(1673年)、従五位下長門守に叙任された。(新訂寛政重修諸家譜) 延宝7年12月6日(1680年)、務めを辞し寄合に入った。(新訂寛政重修諸家譜) 元禄4年4月4日(1691年)、近江国の領地を下総国豊田郡、岡田郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 元禄11年6月(1698年)、相模国の領地を上総国武射郡、山邊郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 元禄16年7月22日(1703年)、致仕。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 板倉内膳正重昌の養女(牧野駿河守家臣槇定繁の娘)(wikipedia) 延宝元年3月19日(1673年)における1000石の加増は、寛文12年9月12日(1672年)に死没した父の石谷貞清の養老料廩米600俵を改めたものであろう。(新訂寛政重修諸家譜) 石谷清成(いしがや きよなり)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】三大夫(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】慶安2年(1649年)(逆算) 【没年】元禄2年8月5日(1689年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】41歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】 【官位】 【役職】 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷武清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】 【義父】 【妻室】榊原左衛門職信の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重章の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【兄弟】石谷清成、佐野内蔵丞政信の妻、喜多見重政(喜多見五郎左衛門重恒の養子となる)、内藤十之丞忠廣の妻、高木貞右衛門爲治の妻(義妹)、京極伊織高沖の妻(義妹)、稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重治の妻(義妹)(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷榮清、高木貞右衛門爲治の妻(石谷武清の養女となる)、京極伊織高沖の妻(石谷武清の養女となる)、稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重治の妻(石谷武清の養女となる)(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】 【法名】 【略歴】 万治2年8月13日(1659年)、11歳の時に徳川家綱に御目見。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 家督相続前に死没した。石谷清成死没時(元禄2年8月5日(1689年))に息子の石谷榮清は8歳(生年、延宝9年(1681年))と幼く、石谷清成の父である石谷武清が孫達を養子として引き取ったようである。(図書助論考) 石谷榮清(いしがや よしきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】十郎右衛門、十蔵(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】延宝9年(1681年)(逆算) 【没年】享保9年7月19日(1724年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】44歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】(甲斐国→遠江国榛原郡、城東郡、下総国岡田郡→下総国岡田郡、下野国河内郡)(新訂寛政重修諸家譜) 【官位】 【役職】小普請、御小姓組番士(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷清成(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重章の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】 【妻室】松平源大夫定隆の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷榮清、高木貞右衛門爲治の妻(石谷武清の養女となる)、京極伊織高沖の妻(石谷武清の養女となる)、稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重治の妻(石谷武清の養女となる)(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷眞清、徳永頼母昌主の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】 【法名】祐山(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 元禄16年7月22日(1703年)、祖父である石谷武清の家督相続。小普請となる。(新訂寛政重修諸家譜) 元禄16年8月12日(1703年)、徳川綱吉に御目見。(新訂寛政重修諸家譜) 宝永2年5月(1705年)、甲斐国の領地を遠江国榛原郡、城東郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 享保3年3月16日(1718年)、御小姓組の番士となった。(新訂寛政重修諸家譜) 享保9年5月(1724年)、下総国岡田郡の領地を割って、下野国河内郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 石谷眞清(いしがや さねきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】主膳、十蔵(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】正徳3年(1713年)(逆算) 【没年】延享元年10月28日(1744年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】32歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】 【官位】 【役職】御小姓組(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷榮清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】 【義父】 【妻室】松平主計頭康納の養女(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷眞清、徳永頼母昌主の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷澄清、斧之助(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】 【法名】道麟(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 享保9年9月29日(1724年)、12歳の時に父である石谷榮清の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜) 享保20年4月9日(1735年)、御小姓組に入った。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 石谷澄清(いしがや すみきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】五右衛門、十蔵(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】享保14年(1729年)(逆算) 【没年】安永9年1月24日(1780年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】52歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】(遠江国→遠江国、上総国長柄郡、上総国山邊郡)(新訂寛政重修諸家譜) 【官位】布衣(新訂寛政重修諸家譜) 【役職】御小姓組、中奥番士、御徒頭、西ノ丸目付、西ノ丸御先鉄砲頭、寄合(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷眞清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】松平主計頭康納の養女(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】 【妻室】坪内伊豆守定堅の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷澄清、斧之助(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷因清、坪内主税定安の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】 【法名】義豊(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 延享元年12月22日(1745年)、父である石谷眞清の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜) 宝暦6年4月10日(1756年)、御小姓組に入る。(新訂寛政重修諸家譜) 宝暦8年12月12日(1759年)、中奥番士となる。(新訂寛政重修諸家譜) 宝暦11年6月(1761年)、遠江国の領地を割って、上総国長柄、山邊両郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 明和8年5月1日(1771年)、御徒頭となる。(新訂寛政重修諸家譜) 明和8年12月18日(1772年)、布衣を許される。(新訂寛政重修諸家譜) 安永3年2月15日(1774年)、西ノ丸目付となる。(新訂寛政重修諸家譜) 安永6年11月25日(1777年)、西ノ丸御先鉄砲頭となる。(新訂寛政重修諸家譜) 安永7年5月6日(1778年)、役を辞去して寄合に移った。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 石谷因清(いしがや よりきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】榮蔵、十蔵(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】宝暦9年(1759年)(逆算) 【没年】寛政6年5月6日(1794年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】36歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】(遠江国榛原郡→遠江国豊田郡、遠江国城東郡)(新訂寛政重修諸家譜) 【官位】 【役職】御小姓組番士(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷澄清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】坪内伊豆守定堅の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】 【妻室】石谷清昌の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷因清、坪内主税定安の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】豊吉、榮次郎、石谷直清の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】石谷直清(新訂寛政重修諸家譜) 【法名】宗石(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 安永2年3月25日(1773年)、15歳の時、徳川家治に御目見。(新訂寛政重修諸家譜) 安永9年4月4日(1780年)、父である石谷澄清の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜) 天明元年5月7日(1781年)、御小姓組番士となる。(新訂寛政重修諸家譜) 天明5年9月(1785年)、遠江国榛原郡の領地を遠江国豊田・城東二郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 的を射て時服を賜った。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 石谷直清(いしがや なおきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】善次郎(新訂寛政重修諸家譜)、十蔵(寛政譜以降旗本家百科事典) 【生年】安永7年(1778年)(逆算) 【没年】文化14年5月20日(1817年)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【寿命】40歳(逆算) 【知行】2500石(上総国、下総国、下野国、遠江国)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【官位】 【役職】小普請、書院番、使番、火事場見廻(寛政譜以降旗本家百科事典) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】仁賀保大膳誠善(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】小出織部英好の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】石谷因清(新訂寛政重修諸家譜) 【妻室】石谷因清の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】豊吉(義兄)、榮次郎(義兄)、石谷直清、石谷直清の妻(義妹)(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷穆清(寛政譜以降旗本家百科事典) 【養子】 【法名】 【略歴】 仁賀保大膳誠善の3男として生まれる。(新訂寛政重修諸家譜) 石谷因清の死の間際にその娘を妻として養子となった。(新訂寛政重修諸家譜) 寛政6年8月3日(1794年)、17歳の時に石谷因清の2500石の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜) 寛政6年8月3日(1794年)、小普請となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文化4年1月11日(1807年)、書院番より使番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文化9年12月16日(1813年)、火事場見廻を兼務した。(寛政譜以降旗本家百科事典) 【備考】 石谷穆清(いしがや あつきよ(ぼくせい))(寛政譜以降旗本家百科事典) 【呼称】鉄之助、因幡守、長門守、大和守(寛政譜以降旗本家百科事典) 【生年】 【没年】 【寿命】 【知行】2500石(上総国、下総国、下野国、遠江国)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【官位】諸大夫(因幡守?)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【役職】小普請、書院番、使番、火事場見廻、目付、大阪町奉行、普請奉行、勘定奉行、江戸北町奉行、御留守居次席扱い、一橋家老、講武所奉行、西ノ丸留守居、講武所奉行(寛政譜以降旗本家百科事典) 【属性】旗本(寛政譜以降旗本家百科事典) 【実父】石谷直清(寛政譜以降旗本家百科事典) 【実母】 【義父】 【妻室】 【後妻】 【兄弟】 【子息】石谷鉄之丞(寛政譜以降旗本家百科事典) 【養子】 【法名】 【略歴】 文化14年8月4日(1817年)、父である石谷直清の家督相続。小普請となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 天保2年3月23日(1831年)、書院番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 天保8年1月11日(1837年)使番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 天保8年(1837年)9月10日、布衣を許される。(寛政譜以降旗本家百科事典) 天保14年2月19日(1843年)、火事場見廻を兼務する。(寛政譜以降旗本家百科事典) 天保15年9月10日(1844年)、目付となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 嘉永2年12月24日(1850年)、堺奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 嘉永2年12月25日(1850年)、諸大夫となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 嘉永5年5月19日(1852年)、大阪町奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 嘉永75月20日(1854年)、普請奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政2年8月9日(1855年)、勘定奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政5年5月24日(1858年)、江戸北町奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政5年(1858年)、安政の大獄では五手掛として処断に関与。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政6年(1859年)、安政の大獄では五手掛として処断に関与。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政6年12月28日(1860年)、御留守居次席扱いとなる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年6月5日(1862年)、一橋家老を兼務する。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年8月20日(1862年)、講武所奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年閏8月25日(1862年)、西ノ丸留守居となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年(1862年)12月23日、江戸北町奉行時代に、飯泉喜内の取調べ中に問題があったとして隠居、謹慎を命じられる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久3年1月14日(1863年)、謹慎を解除される。(寛政譜以降旗本家百科事典) 元治2年1月20日(1865年)、 再び講武所奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 慶応元年閏5月16日(1865年)、隠居手当てとして300俵を賜る。(寛政譜以降旗本家百科事典) 慶応2年11月18日(1866年)、御役御免。(寛政譜以降旗本家百科事典) 【備考】 井伊直弼とは親交があったと言われる。安政5年(1858年)に始まったとされる安政の大獄では、井伊直弼に反抗的な幕府官僚が排除されている。石谷穆清は、この時期に重要な江戸北町奉行に就任し行政や司法を預かり、寺社奉行松平宗秀、勘定奉行池田頼方、大目付久貝正典、目付神保長興などと伴に五手掛として安政の大獄における一連の処断(主な受刑者として吉田松陰、飯泉喜内、橋本左内など)に関わったとされる。井伊直弼側の人物と見られる一方で橋本左内などの処分に関して流罪を主張するなど、井伊直弼に対して必ずしも従順であったわけではない様子が見て取れる。安政7年3月3日(1860年)に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、文久2年6月5日(1862年)に南紀派の井伊直弼と対立していた側の一橋家老を僅かな期間ながら勤めており、文久2年に行われた文久の改革で安政の大獄の処断に関わった者が処分されているが、この際も文久2年12月23日(1862年)に隠居謹慎が命じられたものの、文久3年1月14日(1863年)には謹慎が解除されている。この時に息子である石谷鉄之丞に恙無く家督相続が行われており、石谷鉄之丞は文久3年1月19日(1863年)に諸大夫(従五位下安芸守?)に任じされている事から、処分は形式的なものに過ぎなかったものと考えられる。また石谷穆清は、ペリー来航に伴い危機感を覚えた江戸幕府による、軍備の西洋式の近代化のため安政3年(1856年)に正式に発足された、講武所奉行を務めている。(図書助論考) 石谷鉄之丞(いしがや てつのじょう)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【呼称】安芸守(寛政譜以降旗本家百科事典)、公清(史料徳川幕府の制度) 【生年】 【没年】 【寿命】 【知行】2500石(上総国、下総国、下野国、遠江国)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【官位】諸大夫(安芸守?)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【役職】小姓、進物番、小納戸、使番、小姓、頭取介、寄合、使番(寛政譜以降旗本家百科事典)、小姓頭取(史料徳川幕府の制度) 【属性】旗本(寛政譜以降旗本家百科事典) 【実父】石谷穆清(寛政譜以降旗本家百科事典) 【実母】 【義父】 【妻室】 【後妻】 【兄弟】 【子息】 【養子】 【法名】 【略歴】 安政5年5月29日(1858年)、小姓となり、切米300俵を賜る。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政6年6月2日(1859年)、進物番を兼務する。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政6年12月14日(1860年)、小納戸として役料300俵を賜る。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政6年12月16日(1860年)、布衣を許される。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久元年8月24日(1861年)、小姓となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年11月23日(1863年)、父である石谷穆清の家督相続。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年11月24日(1863年)、父である石谷穆清が、北町奉行を務めていた頃の取調べ中に問題があったとして免職となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久3年1月19日(1863年)、諸大夫となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久3年9月1日(1863年)、使番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 元治元年6月22日(1864年)、再び小姓となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 元治2年4月10日(1865年)、頭取介となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 慶応2年6月(1866年)、第二次長州征伐の陣容の中で、御小姓頭取衆に名前が記載される。(御進発供奉御役人付) 慶応2年11月6日(1866年)、御役御免となり寄合に入った。(寛政譜以降旗本家百科事典) 慶応3年10月31日(1867年)、再び使番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 【備考】 戻る
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【江戸城下武家屋敷名鑑 上 人名編 (朝倉治彦) 1988 抜粋】 人名 地域名 No. 年代 石谷因幡守 西久保之内(港区虎ノ門2~4丁目) 83 文久2戌年(1862年) 石谷金之丞 雉子橋御門・清水御門外(千代田区九段南1丁目) 21 文久元酉年(1861年) 四谷之内(5)(新宿区信濃町、大京町、霞岳町) 103 文久2戌年(1862年) 石谷左衛門 小石川御門内(千代田区三崎町2・3丁目、飯田橋2・3丁目) 28 寛政4子年(1792年) 石谷七之助 竹橋御門・清水御門・田安御門内/半蔵御門内(千代田区北の丸公園) 16 延宝年中より元禄11寅年以前(1673頃~1698年以前) 四谷之内(5)(新宿区信濃町、大京町、霞岳町) 103 享保5子年(1720年) 石谷十助 番町之内(5)(千代田区一番町、麹町1・2丁目) 35 延宝頃より元禄9子年迄(1673頃~1696年) 元禄10丑年(1697年) 元禄11寅年(1698年) 元禄12卯年以後(1699年以後) 石谷十蔵 半蔵御門外(千代田区麹町1~3丁目、隼町、平河町1・2丁目、永田町1・2丁目) 39 享保年中以後(1716~1736年以後) 石谷周防守 小石川御門内(千代田区三崎町2・3丁目、飯田橋2・3丁目) 28 文化5辰年(1808年) 文政7申年(1824年) 天保4巳年(1833年) 天保5午年(1834年) 石谷鉄之丞 半蔵御門外(千代田区麹町1~3丁目、隼町、平河町1・2丁目、永田町1・2丁目) 39 文政10亥年(1827年) 天保6未・7申年(1835・1836年) 石谷隼人 番町之内(1)(千代田区九段北1~3丁目) 31 享和元酉年(1801年) 市谷之内(3)(新宿区市谷加賀町1・2丁目) 111 天保元寅年(1830年) 石谷肥前守 番町之内(1)(千代田区九段北1~3丁目) 31 寛政4子年(1792年) 寛政6寅年(1794年) 石谷備後守 牛込之内(1)(新宿区北町、中町、南町、横寺町、箪笥町、細工町、納戸町、北山伏町、南山伏町、二十騎町) 114 宝暦,明和年中(1751~1772年) 戻る
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