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※注意事項 元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。 ※注意事項 生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。 ※注意事項 出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。 ※注意事項 兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。 ※注意事項 現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。 二階堂行秋(にかいどう ゆきあき)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】二階堂因幡守(寛永諸家系図伝) 【生年】 【没年】 【寿命】 【知行】 【官位】従五位下因幡守(石ヶ谷家家系図) 【役職】 【属性】 【実父】?二階堂下総守光貞(続群書類従)、?二階堂左衛門尉行朝(石ヶ谷家家系図) 【実母】 【義父】 【妻室】 【後妻】 【兄弟】二階堂行晴の母(寛永諸家系図伝)、二階堂貞宗(頓阿)、二階堂行秋、二階堂行豊(続群書類従) 【子息】 【養子】二階堂行晴(寛永諸家系図伝) 【法名】行欽(寛永諸家系図伝) 【略歴】 【備考】 『続群書類従』に記載される二階堂下総守光貞(二階堂貞宗(頓阿)の父)の子の二階堂因幡守行秋は法名を行欽とする。泉田氏の家祖である二階堂貞宗の嫡男二階堂因幡守行秋(法名道欽)は、応永元年(1394年)に没したとされる。『石ヶ谷家家系図』では二階堂左衛門尉行朝(二階堂筑前守行兼の子)が二階堂因幡守行秋の父とされている。この二階堂行秋が遠江国に居たとは特に記載されていない。行秋以前を考察するに当たっては、記録される官位・法名が同じである『続群書類従』に拠るのが無難であろうか。ただ、『石ヶ谷家家系図』にある二階堂左衛門尉行朝の後裔というのも、二階堂行朝が陸奥国に進出している事を勘案し、且つ二階堂氏家臣団に遠江出身の家臣が散見される事を考慮すると、信憑性が無いというわけでもない。いずれにしても二階堂氏の系譜は多数存在し、混乱も多く不明瞭である。(図書助論考) 二階堂行晴(にかいどう ゆきはる)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】右馬允(寛永諸家系図伝) 【生年】応永25年(1418年)(逆算) 【没年】文明16年(1484年)(寛永諸家系図伝) 【寿命】67歳(寛永諸家系図伝) 【知行】 【官位】従五位下右馬介(石ヶ谷家家系図) 【役職】 【属性】 【実父】西郷民部少輔(寛永諸家系図伝) 【実母】二階堂行秋の妹(寛永諸家系図伝) 【義父】二階堂行秋(寛永諸家系図伝) 【妻室】 【後妻】 【兄弟】 【子息】西郷行清、二階堂行捷(寛永諸家系図伝) 【養子】 【法名】宗印(寛永諸家系図伝) 【略歴】 遠江国西郷荘の住人西郷民部少輔の二男であったが、母である二階堂行秋の妹が二階堂行晴を産んだ後に死亡したので、二階堂行秋が養子として家督を継がせた。(寛永諸家系図伝) 【備考】 絶対にありえないというわけでもないが、『続群書類従』の二階堂行秋とこの二階堂行秋が同一人物だとすると、二階堂行晴の母は二階堂行秋の妹というよりも、年代的には娘の方が合う。母親の父親が記録されておらず、兄とされる二階堂行秋のみが記録されているのも聊か不自然。(図書助論考) 西郷行清(さいごう ゆききよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】太郎大夫(新訂寛政重修諸家譜)、民部少輔(寛永諸家系図伝)、西郷太郎太夫行清(袖師町誌) 【生年】文安3年(1446年)(逆算) 【没年】永正元年9月13日(1504年)(寛永諸家系図伝) 【寿命】59歳(寛永諸家系図伝) 【知行】1600貫(袖師町誌)、遠江国佐野郡石谷西郷五明1006貫。城附近に都合3万石領有。(石ヶ谷家家系図) 【官位】朝散太夫(従五位下?)(石ヶ谷家家系図) 【役職】 【属性】 【実父】二階堂行晴(寛永諸家系図伝) 【実母】 【義父】 【妻室】 【後妻】 【兄弟】西郷行清、二階堂行捷(寛永諸家系図伝) 【子息】二階堂清長(寛永諸家系図伝)、石田左衛門尉行俊(石田家資料) 【養子】 【法名】三休(寛永諸家系図伝) 【略歴】 二階堂氏を改め、西郷氏を称する。(寛永諸家系図伝) 祖父の西郷民部少輔と同じ民部少輔を称する。(寛永諸家系図伝) 【備考】 上西郷村は掛川城の北部にあり、1677石9斗2升の石高である。(遠江国風土記伝) ※『(石ヶ谷家家系図)』に記載の所領3万石というのは信憑性に乏しい。しかしながら、遠江国佐野郡西郷は西郷荘が置かれる比較的肥沃な土地であり、寛政11年(1799年)頃に記録された『遠江国風土記伝』にあるように、石谷氏の史跡が残る上西郷村だけでも1677石9斗2升の石高があるので、石谷、西郷、五明の所領を合わせると、1006貫、1600貫、3千石(桁間違いで)と言うのであれば、あり得ないとは言えない。(図書助論考) 二階堂清長(にかいどう きよなが)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】左馬助 (寛永諸家系図伝)、行長、左馬介(石ヶ谷家家系図) 【生年】文明5年(1473年)(逆算) 【没年】天文2年2月9日(1533年)(寛永諸家系図伝) 【寿命】61歳(寛永諸家系図伝) 【知行】 【官位】 【役職】 【属性】 【実父】西郷行清(寛永諸家系図伝) 【実母】 【義父】 【妻室】 【後妻】 【兄弟】石田左衛門尉行俊(石田家資料) 【子息】石谷政清(寛永諸家系図伝) 【養子】 【法名】宗月(寛永諸家系図伝) 【略歴】 遠江国佐野郡西郷庄石谷村に生まれる。(寛永諸家系図伝) 祖父の二階堂行晴に養育され、元服の際に太刀を譲り与えられて二階堂氏を称した。(寛永諸家系図伝) 神石9つを以って家紋とした。(石ヶ谷家家系図) 【備考】 石谷政清(いしがや まさきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】十郎右衛門尉(寛永諸家系図伝)、十郎右衛門(干城録)、石谷重郎左衛門政清(新編武蔵風土記稿)、石ヶ谷十郎左衛門政清(袖師町誌)、石谷十郎左衛門尉(石ヶ谷家家系図)、西郷政清(看板) 【生年】文亀3年(1503年)(逆算) 【没年】天正2年4月15日(1574年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】72歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】 【官位】 【役職】西郷十八士の長(干城録) 【属性】今川家家臣、徳川家家臣(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】二階堂清長(寛永諸家系図伝) 【実母】 【義父】 【妻室】 【後妻】 【兄弟】 【子息】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図) 【養子】 【法名】龍月道隆(寛永諸家系図伝)、和光院殿盛山道隆居士(霊栄大明神社?)(掛川市誌) 【略歴】 遠江国佐野郡西郷庄石谷村に生まれる。(寛永諸家系図伝) 遠江国佐野郡西郷庄石谷村に居住しており、石谷村の西南方向に大岩があり、その側に八幡の廟があり、石谷政清はこれを崇めて、二階堂氏から石谷氏に改姓した。(寛永諸家系図伝) 今川義元の勢力拡大に伴い、その勢力下に入り、西郷十八士の長となった。(干城録) 今川氏真に仕えた。(干城録) 永禄12年1月26日(1569年)、徳川家康より遠江国飛鳥内一色名の采地を安堵する御黒印を与えられた。(新訂寛政重修諸家譜) 元亀2年3月10日(1571年)、嫡男の石谷政信と二男の石谷清定を伴い、徳川家康に召されて仕えた。(寛永諸家系図伝) 西郷局の呼称に憚り、石谷を家号とした。(干城録) 【備考】 若宮八幡宮との記載がある。(石ヶ谷家家系図) 『侍中由緒帳』から推測すると、小野田小一郎とは小野田為盛と考えられる。(図書助論考) 入澤行重(いりさわ ゆきしげ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】五右衛門(新訂寛政重修諸家譜)、入沢五右ェ門清宗(石ヶ谷家家系図) 【生年】 【没年】 【寿命】 【知行】 【官位】 【役職】 【属性】武田家家臣(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷政清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】 【義父】 【妻室】 【後妻】 【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図) 【子息】 【養子】 【法名】 【略歴】 入澤を称し、武田家に仕えたという。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 呑説(どむせつ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】孤峯呑雪(新編武蔵国風土記稿)、種松(出典不明) 【生年】 【没年】文禄3年7月3日(1594年)(新編武蔵国風土記稿) 【寿命】 【知行】 【官位】 【役職】 【属性】太平山天釣院龍淵寺、十二世の住職(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷政清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】 【義父】 【妻室】 【後妻】 【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図) 【子息】 【養子】 【法名】呑説(新訂寛政重修諸家譜)、呑雪(新編武蔵国風土記稿) 【略歴】 西郷氏を称しており、徳川家康が三河にいた際に御乎習の相手を勤めたという。(新編武蔵国風土記稿) 出家して武蔵国成田龍淵寺の住職となった。 (新訂寛政重修諸家譜) 天正18年(1590年)、石田三成率いる軍勢が忍城を攻めた際、龍淵寺の僧は一人も篭城に加勢しなかった為、忍城城代成田泰季が三河国出身である住職呑雪の内通を疑ったが、呑雪は、武術は巧みではなく兵糧を減らすだけで役に立たない、敵味方問わずに死者を弔うのが僧侶の務めである、と拒否し、その回答に成田泰季は納得して疑惑を晴らしたという。(龍淵寺だより第34号) 天正18年(1590年)、忍城攻めの際に浅野長政と大谷吉継が呑雪が高徳な僧であるとの噂を聞いたという。大谷吉継の兵が龍淵寺へ強盗に入った際に、呑雪らしき僧が悠然と現れ、欲しいものがあればなんでも持っていきなさいと心地良さそうに言ったため、兵達は何も取らずに帰ったという。これを聞いた浅野長政が徳川家康にこの件を報告したところ、徳川家康より御朱印が下されたが、呑雪は成田氏菩提寺の住職としては敵から御朱印を賜るわけにはいかないと拒否したため、徳川家康の使者は兵達の乱暴狼藉を防ぐためのものであり、新領地の安堵状では無いと言い換えた為、呑雪は御朱印を受け取り、結果龍淵寺が戦禍を受ける事は無かったという。(龍淵寺だより第35号) 天正19年(1591年)、徳川家康が狩りの際に太平山天釣院龍淵寺に立ち寄った際に、古馴染みである住職呑雪と再会し、寺の名前の縁起が良い事を合わせて、曹洞宗一派の総録を許すと言われたが、呑雪は総録の職になると仏道に支障があると辞去した。徳川家康は代わりに100石の寺領を許す御朱印を与えたという。(新編武蔵国風土記稿) 碧雲山梅岩院を開山し創建した。(新編武蔵国風土記稿) 【備考】 戻る
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【彦根藩史料叢書 侍中由緒帳2 (彦根市教育委員会) 1995年3月 抜粋】 P141~ 三千石当御知行 小野田小一郎 四代目小野田小一郎(小野田為氏)書出シ之趣 一曽祖父小野田彦右衛門(為盛)儀、前者小次郎与申候、代ゝ今川家ニ罷在候処、氏真ニ故有、飯尾豊前守旗下ニ罷ニ罷在候処、引馬城(静岡県浜松市)内乱之儀有之、其節彦右衛門働キニ依而 権現様(徳川家康)御入城被遊、引馬城御手ニ入、依之御旗本(下)ニ被召加、直ニ引馬城ニ被指置、其後岡崎江被召寄相勤罷在候処、天正十二年(一五八四)長久手御出馬前 権現様上意ニ而 直政様(初代藩主)江御附ヶ被遊、長久手・小田原・九戸(岩手県二戸市) 御陣御供仕、文禄年中(一五九二~九六)於箕輪(群馬県群馬郡)御足軽大将被仰付、関ヶ原御陣御供仕候、御知行七百石被下置候、其以後実子無之ニ付、祖父小一郎為躬儀 御旗本(下)ニ被居候石谷市右衛門(政勝)次男ニ御座候「而」旧縁茂有之ニ付、養子ニ仕候、祖父小一郎年若之時分ゟ御足軽大将被仰付、大坂冬・夏両御陣 直孝様(二代藩主)御供仕、御着陣後弐百石御加増被下置、引続キ百石御加増被下置、都合千石ニ罷成候、都而御陣参節ゝ働之儀者御触無之ニ付書出シ不申候、家来とも并御預ヶ同心働之儀茂右同様書出シ不申候 ※『寛政重修諸家譜』には為一(ためかづ)とある。 一祖父小一郎并親小一郎(為定)両代共ニ養子ニ而家相続仕候故、伝承候通を書記申候 一私親小一郎儀、十七歳ニ而 直孝様御小姓ニ被召出申候、祖父小一郎実子無之ニ付、親小一郎儀大久保新右衛門二男ニ御座候、則養子ニ仕候、廿五歳之時、祖父小一郎相果家督無相違御知行千石被下置、翌年廿六之鉋炮(鉄砲)同心三拾人組被仰付、其以後 直澄様(三代藩主)御代四拾人組御同心組替被仰付延宝元年(一六七三)癸丑十一月七日、御鑓奉行御長柄組被仰付候 戻る
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【寛永諸家系図伝 第十 (太田資宗/ほか編 斎木一馬/ほか校訂) 1986 抜粋】 藤原氏爲憲流 石谷(いしがや) 家伝にいはく、もとは二階堂と号す、大織冠(藤原鎌足)十一代遠江守爲憲の後胤なり、政清遠江国石谷村に住す、村の西南に大岩石あり、其岩側に八幡の庿あり、是村の氏神なり、政清氏神のましますところを崇、このゆへに二階堂をあらためて石谷と称す。 行秋(ゆきあき) 二階堂因幡守 法名行欽。 行晴(ゆきはる) ※行秋の後 右馬允 遠州西江(さいごう)庄の住人西江民部少輔が二男。民部少輔は行秋が妹婿なり。そのいもうと行晴をうミて死す。行秋、行晴をやしなひて子とし、家督をつがしむ。文明十六年、六十七歳にて死す。法名宗印。 行清(ゆききよ) ※行晴の後 西江太郎大夫 遠江西江の庄に生る。 二階堂をあらためて西江と称し、祖父民部少輔の称号をもちゆ。行清が弟行捷は二階堂と称す。永正元年九月十三日、五十九歳にて死す。法名三休。 清長(きよなが) ※行清の後 二階堂左馬助 西江庄石谷村に生る。 祖父行晴、清長を養育しそのひとヽとなるにをよびて元服せしむるとき、太刀をゆづりあたへ、二階堂をもつて称号とす。天文二年二月九日、六十一歳にて死す。法名宗月。 政清(まさきよ) ※清長の後 石谷十郎右衛門尉 生国同前。 元亀二年三月十日、政清ならびに嫡男政信・二男清定一同にめされて東照大権現につかへたてまつる。 天正二年四月十五日、七十二歳にて死す。法名龍月道隆。 政信(まさのぶ) ※政清の後 十右衛門尉 生国同前。 元亀二年三月十日、父政清ならびに政信・二男清定父子三人めされて大権現(家康)につかへたてまつる。 慶長十年二月より台徳院(秀忠)殿につかふまつる。 元和五年六月五日、七十五歳にて死す。法名、良完。 清定(きよさだ) ※政清の後 五郎大夫 生国同前。 元亀二年三月十日、父政清とともにめされて大権現(家康)につかへたてまつる。 慶長六年五月二日、五十五歳にて死す。法名道無。 清正(きよまさ) ※清定の後 友之助 生国同前。 慶長七年、めされて大権現につかへたてまつる。元和二年より台徳院殿・将軍(家光)家につかへたてまつる。 貞清(さだきよ) ※清定の後 十蔵 武州多東和泉村に生る。 慶長十四年、めされて台徳院殿につかへたてまつり、今将軍家につたふまつる。 清充(きよみつ) ※清正の後 七之助 尾州那古屋に生る。 寛永十年八月十五日、将軍家につかへたてまつり、御小姓の番をつとむ。 政勝(まさかつ) ※政信の後 市右衛門尉 生国同前。 慶長六年九月、台徳院殿に謁したてまつり、御小姓の番をつとむ。 慶長十一年十月より大御番をつとむ。 寛永十八年三月、御裏門の番頭となる。 将軍家にいたりて四十一年の間つかへたてまつる。 成勝(なりかつ) ※政勝の後 兵四郎 武州江戸に生る。 寛永七年六月、将軍家の謁したてまつる。 同十四年正月より大御番をつとむ。 家紋九曜 戻る
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【静岡県史 資料編7 (静岡県) 1994 抜粋】 P1375~ 永禄12年(1569) 正月二十六日、徳川家康、遠江国飛鳥内一色の内を、石谷政清に与える。 三五九九 徳川家康判物写 記録御用所本古文書一○内閣文庫所蔵 今度被行知行事 (遠江国佐野郡) 右、五石半之飛鳥内一色百弐拾俵弐斗俵也、井前々屋敷分有由緒、令訴訟候間、為新給恩出置畢、永不可有相違、守此旨弥於令奉公者、重而可加扶助者也、仍如件、 永禄十二年己巳 (徳川家康) 正月廿六日 御名乗御書判 (政清) 石谷十郎右衛門殿 P1375~ 永禄12年(1569) 正月二十八日、今川氏真、遠江国天王小路における西郷信房の戦功を賞する。 戻る
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【掛川誌稿 全翻刻 (翻刻・発行者 中村育男) 平成9年5月23日 抜粋】 P37~ 掛川誌稿 巻二 (静岡県立中央図書館所蔵の写本・「S230-10」を底本とする) 斎田茂先纂輯 佐野郡二 日根上郷 倭名鈔ニ所謂日根郷ハ、掛川古駅家左右ノ諸村ヲ指テ云フニヤ、建久ノ頃ニハ小高郷ト稱セシトミヘテ、神鳳抄ニ小高御厨、注ニ上郷内宮領、下郷外宮領トアリ、今ノ西郷上下地ナルヘシ、又、小松御厨(外宮領)、山口御厨(小高同所)トアリ、小松モ山口モ皆古郷名ナレハ、小高モ其ノ郷名タル知ルヘシ、小高郷ト云事ハ、寛正六年、永正十七年、五明村二所權現棟札、天正十二年、十五年、飛鳥村大行事祠棟札ニ存セリ、上西郷ハ、享徳四年、法泉寺宗能和尚遺状ニ見ヘ、下西郷ハ明應五年、奥野長松院、今川家文書ニ載セタルヲ以テ古シトス、サレハ日根郷モ建久ヨリ承久ノ間ニ至リ、ツカ小高ト稱シ、三百年前ニハ又西郷ト呼ヒシ處モ有レト、皆古ノ日根郷中タリ、日根ト云所ハ、今何レノ地ニ當ルト云事ハ前輩ノ説ヲ聞カス、是和名鈔ノ後ニハ所見ナキ故ナラン、今延喜式(兵部式)、本州駅傳馬ノ條ニ載タル郡名ト駅名ト、倭名鈔ノ駅家ニ係ル郷名ヲ併セ考レハ、古駅ノ在ル所掌ヲサス如シ、倭名抄ニ、佐夜郡ニ日根駅家トアルハ、兵部式ニ所謂佐野郡横尾ノ駅家ナリ、横尾ハ鎌倉以来懸河ト呼フ所ニテ、今ノ駅家ヲ距ル十町許西北、西宿中宿ト呼フ所アリ、其古駅ハ即日根郷ニ在テ、日根ハ駅家ノ左右ヲサシタル事明ケシ、故ニ、今古駅路以北、上西郷初馬栃沢西山倉真五明飛鳥中宿大池新村ノ十村ヲ以テ上郷ト為テ、此ニ隷シ、北西郷南西郷水垂仁藤道脇増田杉谷上張結縁寺亀甲下股長谷ノ十二村ヲ以テ下郷トス、 ○日根ハ日ニ向ヒ山ニ倚リシ地ヲサスニヤ、駅北ノ地形南ニ向ヘル所ニシテ、大悲山ナト云モ、小日根ト云轉訛ニモヤアラン、(今大悲山ト書事ハ、観音堂ヲ建シヨリ後ニ附會セシ字ナルヘシ)、凡上古ハ日ニ向ヘル地ヲ稱セシ事多ク見ユレハ、日根ト云モ、日向、日代、日田(ヒノタ)、陽田(ヒナタ)、日野、日根野ナト云類、皆同シ義ノ地名ナルヘシ、(古事記ニ、朝日之直刺(タタサス)国、夕日之日照ル国、又朝倉宮段歌ニ、麻岐牟久能比志呂乃美夜波、阿佐比能比傳流美夜、由布比賀氣流美夜、太神宮儀式帳ニ、朝日ノ来向国、夕日来向国、龍田風神祭祝詞ニ、吾宮者朝日乃日向處、萬葉集、朝日弖流佐太乃岡部爾搆屋之、ナト見ユ、皆日影ノサスヲ以テ其地ヲ美タル詞ナリ、) ○此ニ西郷ト云ハ、本郡ノ中央ニアリテ、東郷西郷ト對セシ名ニモアラス、中世西郷氏の有セシ地ニテ、庄名ナルモノニ似タリ、按西郷齋宮ナル者曽テ此ニ居ス、今上西郷に古墟アリ、搆村ト呼フ、台徳大君ノ御産母西郷ノ局、出玉ヘル所ナリ、享徳四年、法泉寺舂屋和尚ノ譲與状ニ、遠州上西郷曹溪山法泉寺、明應五年、奥野村長松院文書ニ、下西郷ノ内佛堂寺、同十年、神谷村牛頭天王棟札ニ、西郷荘長間郷ナトアルニ據リテ考レハ、西郷ノ名ハ掛川築城前ニアリテ、西郷氏ノ三州ヨリ移リ來リシハ、迥ニ前ノ事ニモヤ有ケン、其頃知行スル所、古駅路ノ左右ヲ西郷下西郷ト呼ヒ習ハシタルハ、築城ノ後モ下西郷ノ内仁藤懸河ナト(奥野長松院、天文六年、十一年ノ文書ニ、仁藤内堂脇、懸河内堂脇)稱セシカ、其餘飛鳥村五明村ノ如キハ其境ニ入ラサレハ、天正ノ頃マテ小高ノ名ヲ傅ヘ、山間ノ諸村モ所知ニアラサレハ、西郷ト云名ヲモ受ケサリシモノナルヘシ、 ①底本の「ヲ」は誤写と思われるので、その外の写本に倣って「ノ」とする。 ②底本の「ヨ」を他の写本に倣って「タ」とする。 ③その外の写本に倣って、底本の「齊」を「齋」に訂正する。 上西郷村 上西郷ハ、他村ニ比スレハ其境濶シ、故ニ在ル所ノ地名甚多ク、ミナ某村ト呼フ、西郷川ノ西ニアルヲ西谷田、小市、中原ト云、東ヲ鹿嶋、堀ノ端’(ホウノハシ)、柳原、中村、中島、構村、川久保ト云、東ノ山際ヲ戸塚、八幡、下山、御堂ヶ谷(ミドガヤ)、宮脇、石畑ト云、川ノ北ヲ蛇食、前ノ谷、滝ノ谷、次ヲ鬢セヶ谷、石谷(イシガヤ)ト云、五明村界ヲ平塚ト云、其南ヲ北袋ト云、寛永十九年マテハ、粕屋善左衛門ト云者一人庄屋タリシカ、其翌年ヨリ四組ニ分リ、庄屋ヲ粕谷善左衛門、岩清水惣兵衛、佐藤喜左衛門、石山左衛門ト云シ、今モ中嶋ノ平八、中村ノ善左衛門、石谷ノ善左衛門、石畑ノ平大夫ト云モノ庄屋ニシテ、村中四組ニ分レタリ、 行程 廿六町許、 田 二千百十五石六斗三升ニ合、 戸 三百三十一、内佃戸二十五、 口 千六百十八、内男八百二十五、女七百九十三、 平塚 北袋村ノ北ニ孤山アリ、平塚山ト云、今観音寺ノ境内タリ、近年古鏡ナト堀出セシ事モアリシトイヘハ、古墳アリシ地ト見ヘタリ、然ルニ諸國ノ地名ニ、塚東等ノ字ニ従フモノハ、平塚、冨塚、掛塚、鎌塚、狹束、千束ノ類甚多シ、皆川ニ臨メル地形ナレハ、津賀ト云義ニシテ、必古墳ニ據レル地名ニハアラサルヘシ、 高荻川 西郷ノ川ハ倉真村ニ発源シ、高荻ト云所ヲ経、故ニ高荻川ト云、下流ハ飛鳥村ヲ経テ大池村ニ至リ、掛川ノ流ニ合ス、又初馬村ヨリ出ル川有リ、戸塚ヨリ西シテ西郷川ニ入ル、今此流ヲ以テ西郷上下ノ境トス、 国―「萩」を「荻」とする。山―「荻」に修正 瀧谷瀑布 法泉寺ノ後山ニ二瀑アリ、土人雌滝、雄滝ト云フ、山本葱翠峭壁斗絶、高サ各五六丈許アリ、故ニ瀧ノ谷ト呼フ、民戸四十烟アリ、 西郷村石谷氏古墟 按ニ天文五年、義輝将軍御元服ノ時、御供衆ニ石谷兵部大輔光政ト云人アリ、又永祿六年諸役人附ニハ、外様衆石谷孫九郎頼辰、御小袖御番衆石谷兵部大輔光政トアリ、此二人ハ父子ナルカ、共ニ遠江國ノ人ト見エタリ、石谷氏西郷ノ石谷ニ住シテ、数世傅ヘタリト見ユレハ、其古墟モ一所ニテハアルヘカラス、 戻る
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【袖師町誌 (袖師町誌編纂委員会) 1961.6 抜粋】 石ヶ谷家家系図(石ヶ谷五郎造蔵) 嶺の石ヶ谷五郎造家に石ヶ谷一族の系図がある。近世に古い系図から書き写したものと思われる。天児屋根命から藤原不比等を経て遠江権介為憲に至り、その子孫にあたる西郷太郎太夫行清が、遠州佐野郡西郷、五谷、五明にて千六百貫の知行を領し、その孫石ヶ谷十郎左衛門政清より代々石ヶ谷を姓とした。その長男は石ヶ谷十助清道と言い、幕府御書院御番をつとめ七百石を領した。政清の三男清重は海野又太夫と称し五百石御書院御番をつとめたが、病身の故をもって駿州足久保に退去した。その孫弥兵衛清勝は正徳六年二月八日没し(法名禅得現清信士)、清勝の次男清升は朽木周防守(六千石旗本)の家臣となり百石を領したが、病を得て駿州に退去し、その子孫が現在の石ヶ谷五郎造であり、当町の石ヶ谷一族はみなその血統であると誌されている。掛川誌によると、「西郷村上西部に江戸南町奉行石谷十蔵貞清の故宅地がある。石谷十蔵は代々西郷に住し、中島に石ヶ谷の古墳ありその辺りを宅跡と言い、石谷の山に九つの大石があり、名字石と呼び、兜石、ごばん石などの名がついている。石ヶ谷氏の九曜の家紋はこの石によると言われている。石ヶ谷十蔵は十郎右衛門の次男五郎太夫清定の次男で、後左近将監と称し、寛文十三年(一六七三)九月十一日江戸に没した。行年七十七」とあり。幕末の旗本、石谷鉄之丞(三百俵)、石谷帯刀(千百石)はその子孫であろう。この系図の本紙は東京で焼失した由である。この石ヶ谷十蔵貞清と袖師の石ヶ谷一族は同一家系に属する。 【袖師町誌 抜粋】 戻る
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武将名 ねこごぜん SR猫御前 伊達政宗の側室。飯坂城主・飯坂宗康の二女。もっとも早く、政宗の側室になったといわれる。息子の秀宗は側室の子であるという理由で伊達家当主にはなれなかったが、伊予国宇和島藩初代藩主となった。「アタシの歌、あんたに聞かせたげる!」 出身地 陸奥国(福島県) コスト 1.0 兵種 竜騎馬隊 能力 武力1 統率4 特技 防柵 魅力 計略 速射の陣 【陣形】(発動すると陣形が出現し、その中にいる間のみ効果が発生する。陣形は複数同時に使用できない)伊達家の味方の竜騎馬隊の弾数の回復速度が上がる。 必要士気4 Illustration hakus 政宗の最初の側室で、長男の秀宗を産んだ(側室の子であったため秀宗は家督は継げなかった)。 歌手をイメージしたイラストになっており、計略時や落城時などにはそれに沿った台詞を聞かせてくれる。 担当声優は金元寿子。 スペックは同じく最低武力竜騎馬のSR愛姫に近く、こちらは統率4となり伏兵と柵が交換された形。 柵はあればあるほど嬉しい特技なので低武力はそこまで目立たない。 速射の陣は竜騎馬版弾丸補給陣形といった感じの計略。 勢力限定と兵種限定があるが、そもそも現状では伊達以外に竜騎馬隊がおらず、 伊達にも竜騎馬隊以外の鉄砲隊はいないので単色ならば特に気にする必要はない。 陣形はやや縦長の長方形で、横にぎりぎり8部隊並べて入るぐらい。(範囲拡大) 通常の竜騎馬隊のリロードが約5cかかるのに対し、速射の陣内にいる竜騎馬隊は約2cでリロードが完了する。 効果時間は24cと長く、コストパフォーマンスは非常に良い。これだけでは大した破壊力は出ないが、竜騎馬強化計略と共に使うと有効。 効果時間が長いので士気フローでとりあえず撃ち、竜騎馬の射撃をヒット アウェイで撃ちながら敵の計略を引き出す、という扱い方もできる。 なお、猫御前というインパクトのある名前は大河ドラマから有名になった名で、 本来は「飯坂の局」と「新造の方」と呼ばれる二人の側室をフィクションとして勝手に一つにまとめたもの。 大河では天真爛漫で虚言好きな性格から目付役の喜多と対立するなど、愛姫の恋敵としてキャラクター付けされている。 猫御前という愛称は鼠を扇で追いかける彼女が猫のようであったために政宗が付けたものであるといわれている。 しかしモデルの一人である飯坂の局は疱瘡を患い美貌を失ってから、自分から身を引くことを提案して田舎に移り住んだほどの、奥ゆかしい女性であったという。 政宗も同じ病気だったゆえか彼女には厚く接し、朝鮮の役後に近くに来た折に彼女の庵を訪問している。 星の意匠が散りばめられている衣装は、政宗の月との対比だろうか。
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武将名 いしかわあきみつ UC石川昭光 伊達晴宗の四男。伊達家一門衆。当初、政宗と対立していたが、天正17年に政宗の幕下に加わり、以降は伊達家一門筆頭として政宗を支えた。関ヶ原の戦いでは石川家中を率い、白石城の戦いなどに参陣した。「どうだ? 俺のこの傷、  この体……お前の痛みも、    引き受けてやっていいんだぜ……?」 出身地 出羽国 コスト 2.0 兵種 槍足軽 能力 武力8 統率1 特技 猛襲 計略 狡猾な槍撃? 武力と槍撃ダメージが上がる。その効果は敵軍の士気が低いほど大きい。 必要士気3 Illustration 白茶葉? 約7c
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武将名 すずきもとのぶ 伊達国老 C鈴木元信 伊達家臣。主君・政宗の厚い信任を受けて、国老として家中の財政を支える。政宗とは、固い主従の絆で結ばれており、徳川家康亡き後の天下は、政宗が獲ると信じていた。その準備として式目などの草案を作るも、臨終の際に「無用の長物」と称し、焼却させた。「政宗様……  舞台はほら、整いましたよ?」 出身地 不明 コスト 1.5 兵種 竜騎馬隊 能力 武力5 統率6 特技 制圧 計略 伊達幕府の野望? 敵の武力を下げ、計略の必要士気を上げる。 必要士気4 Illustration 玄丞 伊達家内政の大黒柱が、レアリティを落としつつも二枚目の参戦。 内政を司った経歴だが、武力5と十分に戦闘もこなせ、 コスト1の自分と同じく、伊達家には多くない制圧持ちなので、竜騎馬の機動力を生かして、 戦闘に大筒の制圧にと忙しく働いてもらおう。 計略は、範囲内の敵部隊の武力を-3、必要士気を+2するというもの。 範囲は自身の前方円で敵の2~3部隊なら十分に入れられる。 武力低下はさほどではないが、必要士気上昇がかなりの曲者。 相手が計略コンボを狙うデッキでは、士気捻出が相当厳しくなってしまう。 また、混色デッキにおいては、最大士気の問題から、単純な計略コンボではなくても、 計略使用後の二の矢がほとんど出せない状況になる。 特に試合終盤で、士気差や消費士気より、相手の攻勢を凌ぐor守勢を突き破る方に重きを置く場面では、 相手部隊の戦闘力を下げつつ、消費士気上昇で大型計略を使わせない、 といった試合を決定づける局面を生み出せるだろう。 そのためにも、場面場面で、相手がメイン計略として使いたい武将は誰なのか、 狙いを読みきり、確実に計略範囲に入れる柔軟さを考えていきたい。 ただし統率6と中程度なので、計略時間は同統率相手に6c程と数値相応。 武力低下を生かして、竜騎馬隊お得意の機動力と集中射撃で、 キーカードを速やかに排除する必要がある。 UC時代よりは、音声面ではだいぶ男らしくなったとの評判。 しかし、イラストの表情は相変わらず中性的で、 衣装はボディラインを強調する上半身に深いスリットの入った下半身と、 むしろきわどくなったとの声も……。
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武将名 いしもだかげより UC石母田景頼 政宗の父、輝宗の代より伊達家に仕え、政宗の下、数々の戦場で功を立てた。政宗に庶長子・秀宗の後見を命ぜられ、のちに伊予宇和島藩で筆頭家老となった。「命知らずな奴ぁ、嫌いじゃないぜ」 出身地 陸奥国 コスト 2.0 兵種 槍足軽 能力 武力8 統率2 特技 計略 超突貫の構え 武力と城攻撃力が上がる。 必要士気6 Illustration タケダサナ ついに伊達家に登場した2コスト武力8槍。 統率2に無特技は寂しいが、バランス型が多い伊達槍では珍しい武力重視のスペック。 計略は、武+7、効果時間7c程度。攻城ダメージは城門で59.5%(兵糧庫攻めが通っていると80.6%)(ver2.22E) 突貫の構えと比較すると士気+2、武力上昇+3、強制前進が削除。 そこそこ高い武力上昇値に、突貫のデメリットであった強制前進が無いため 相手の攻城妨害に対して、撤退させたり、攻城位置をずらしたりと攻城を成功させやすくなっている。 特にデメリットも無いため、単純に+7の単体強化として防衛やぶつかり合いの場面でも使用可能。 一方で、攻城が出来なければ士気6で+7と士気効率の悪い強化計略に過ぎず かといって攻城確定時に使うだけなら、突貫の構えより士気2重いだけでメリットが無い。 攻城以外の場面でも使える汎用性や、攻城妨害部隊の殲滅しやすさ、攻城力が不足しがちな伊達家所属という事がポイントになるか。 ver2.1で竜騎馬の攻城力が大きく下方された伊達家において、攻城役を一身に背負ったようなカード。 竜騎馬の殲滅力・攻城アシスト能力は十分なので、士気に余裕があるなら勝負を決めに行ってみるのも良いだろう。