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【名古屋叢書 三編第十二巻 名古屋市教育委員会 抜粋】 ○十一月十日、寄合組芸術書、武芸世話役へ差出す筈。 勇吉、原太郎共、各弐通づゝ出す。 芸術書(頭注 大半紙二枚に書。) 寄合組 細野勇吉 戌三拾五歳 一 神影流 兵法 寄合組 山高沢右衛門門弟 一 貫 流 鎗術 大御番組 三枝又吉門弟 一 日置流 射芸 大御番組 星野吉三郎門弟 一 常心流 馬術 御馬方 石谷又助門弟 一 転心流 組討 中奥寄合 岩本信太郎門弟 一 転心流 鞘離 右同人門弟 一 甲賀流 砲術 目録 大筒役 木村奥之助門弟 一 自知流 田村矢 目録 右同人門弟 一 大草流 鎌術 寄合組 山高沢右衛門門弟 一 鎖付 騎兵軍用 右同人門弟 右之通修行仕候 御目見之輩は 何役何誰子弟 御目見――― 原太郎芸術書は、彼、別に蔵す。 ※ 図書助覚書 文久二年の事らしい 戻る
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【史話と伝説 静岡中部 (飯塚伝太郎) 松尾書店 1970年5月 抜粋】 P175~ 安倍七騎 安倍山中の村々に安倍七騎の後裔だと称する家々がある。何村の誰れ彼れと数えるのに、人によってまちまちである。七人の住所姓名を記した古い記録は見ないが、足久保の石谷(いしがや)氏の宅で次のような文書を見た。 駿河国安倍七騎姓名覚 御神君御紋付頂戴 落合村 狩野 九郎兵衛 柿島村の内、上落合に塚あり 大村五郎左衛門 腰越村の内、菅沼と云所に塚有 長島甚太右衛門 平野村の向村、岡村に塚有 季(末)高石見守 俵峰村 杉山 仁左衛門 郷島村 海野 惣右衛門 足久保村 石谷重郎左衛門 右安倍七騎の儀は、永禄天正の頃、武田信玄公の幕下(はたもと)となり、遠州小山籠城其外甲斐は勿論、信州川中島高遠、所々に於て数度の軍功によって武田家より御朱印頂戴、其名隠れなきものなり、然りといえども年暦相たち巨細相わかりかね、各々その先祖の武功知れがたきにつき、古文書より写し取り今般石谷氏迄進上 嘉永七寅年十月 狩野九郎兵衛嫡男 当時駿府宮中に仮住居 駿府浅間流鏑馬役 兼高厚七源和章 花押 それから「駿河国風土記」には「此郡の俗説に安倍七騎の称あり。いづれの時よりいいしことにや詳かならず。また、其姓氏も一定ならず」として、続いて 「俵峯 杉山小太郎右衛門、望月四郎右衛門。足久保 石谷弥兵衛。落合 狩野弥八郎朝久。村岡村 末高某。柿島 朝倉六兵衛在重。中野村 海野弥兵衛本定等の七人なりと云う。此海野、朝倉は七騎より大家にて、家格七騎の上にありて、上落合の大石、牛妻村の森谷沢に一人(姓名不詳)この七人なりしとも云う。今川、武田の頃の諺の残れるなり。この七騎と云える者の内、石谷、末高はお旗本の士となり、狩野は紀州(徳川)の御家人となり、朝倉、海野は郷士にて今に存す。杉山のみは百姓にて此村に住す」と記してある。 「徳川実記」に「元和元年十一月六日、朝倉六兵衛在重死して、その子宣正家をつぐ」と見え、「寛政諸家譜」に「宣正郷士となる」とある。落合の狩野氏について、外の書に「里長(村長)富右衛門、先祖安倍七騎の内なり。家蔵の古文書武田氏の判形あり(永禄十三年二月、土屋右衛門尉、狩野弥次郎殿)又、同書に「俵峰、村長杉山氏は安倍七騎の一人なり。今川、武田両家の判形を家蔵す」とあり。 むかし、これら安倍七騎の連中が、駿府に出てくる時には、七、八人の従者を連れて歩き、村に帰るときには、途に多少の金銭を撒きながら歩いたものだといわれている。 戻る
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【遠江国風土記伝 内山真竜 明33.3 抜粋】 P453~ 〇飛鳥 在城西凡卅町、元禄高帳分中宿、高三百八拾石六升 〇永江院、朱符之寺田高八石七斗、末寺十二字、曹洞宗近江國伊香郡菅並村洞壽院末、以翼派、寺地号八幡箇谷 飛鳥之名義、古事記(垂仁段)曰、御子大中津日子命者、飛鳥君牟禮之別等祖也大和國飛鳥者、名義異也、牟禮當南鄕西鄕(註國号考) P455~ 西鄕 村三 〇南西鄕 在城南、高四百六拾三石七斗五升貮合 〇乗安寺、朱符之寺田高六石、曹洞宗下総國葛餝郡國符臺総寧寺末、通幼派 〇北西鄕 在城北、高四百五拾三石六斗 〇牛頭天王社、在天王山、 〇池一所、城北要害、 〇上西鄕 在城北、高千六百七拾七石九斗貮升 〇法泉寺、号瀧谷、朱符之寺田高拾石、末寺七字、曹洞宗相模國足柄郡飯澤村大慈院末、舂屋派 〇觀音寺、朱符之寺田高四石、法泉寺末、 〇五社明神社、除地高一石五斗 〇八幡社、除地高一石 上件西鄕三村在城南城北古事記所謂牟禮之別是也 戻る
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歴史的事件など *1 石谷政信系 700石旗本家 *2 石谷清定系 1,100石旗本家 *3 石谷貞清系 2,500石旗本家 *4 桑原政重系 800石旗本家 *5 石谷清重系 250石尾張藩士 その他 特記事項 明和4年 1767年 田沼時代開始 明和4年2月20日 1767年 石谷清茂*1が書院番番士となる。 明和4年12月26日 1767年 石谷清昌*4が長崎から江戸に戻る際、摂津国、河内国の水害地域を巡検し、畿内の収納を沙汰をした褒美として時服3領を賜る。 明和7年 1770年 石谷清暠*2 生誕 (神田正之の4男、妻は石谷清憐*2の娘) 明和7年3月23日 1770年 石谷清馨*2 死没 明和7年6月5日 1770年 石谷清憐*1が先に養子に出されていた兄である石谷清馨*2の養子となり家督相続。 明和7年6月17日 1770年 石谷清昌*4が長崎奉行の兼務を解かれ、下野国都賀郡の内に300石の領地を加えられた。 明和8年 1771年 石谷清豊*4(田沼意誠の5男、妻は石谷清定 (豊前守)の娘) 生誕 明和8年5月1日 1771年 石谷澄清*3が御徒頭となる。 明和8年12月18日 1771年 石谷澄清*3が布衣を許される。 安永元年12月11日 1772年 雪林照光大姉(源八の母) 死没 安永2年3月25日 1773年 石谷因清*3が徳川家治に拝謁する。 安永3年2月15日 1774年 石谷澄清*3が西ノ丸目付となる。 安永4年4月14日 1775年 石谷清憐*2が書院番番士となる。 安永4年9月20日 1775年 石谷清昌*4が徳川家治が日光社参に伴う宿場道を監視するため同地に赴く。 安永4年11月4日 1775年 石谷清昌*4が田安徳川家家老を兼務する。 安永5年4月 1776年 石谷清昌*4が日光社参の際、街道の監視を承り先導となった。 安永5年4月 1776年 石谷清茂*1が徳川家治の日光社参の際に諸道具奉行を勤める。 安永5年 1776年 石谷清憐*2が徳川家治の日光社参に従う。 安永5年6月27日 1776年 石谷清昌*4が日光社参の先導の褒美として時服3領と黄金5枚を褒美として賜った。 安永6年4月21日 1777年 石谷清茂*1が御徒頭となる。 安永6年11月25日 1777年 石谷澄清*3が西ノ丸先手鉄砲頭となる。 安永6年12月18日 1777年 石谷清茂*1が布衣を許される。 安永7年 1778年 石谷直清*3 生誕 (仁賀保誠善の3男、母は小出英好の娘、妻は石谷因清*3の娘) 安永7年5月6日 1778年 石谷澄清*3が務めを辞して寄合に入る。 安永8年4月15日 1779年 石谷清昌*4が留守居となる。 安永8年4月18日 1779年 石谷清定 (豊前守)*4が徳川家基の薨去に伴い寄合に入る。 安永9年1月24日 1780年 石谷澄清*3 死没 安永9年4月4日 1780年 石谷因清*3が父である石谷澄清*3の家督相続。 天明元年4月21日 1781年 石谷清定 (豊前守)*4が小納戸となる。 天明元年5月7日 1781年 石谷因清*3が小姓組番士となる。 天明元年5月28日 1781年 石谷清定 (豊前守)*4が西ノ丸小納戸となる。 天明2年10月27日 1782年 石谷清昌*4が職を辞して寄合に入った。 天明2年11月10日 1782年 石谷清昌*4 死没 天明2年12月24日 1782年 石谷清定 (豊前守)*4が父である石谷清昌の家督相続。 天明4年11月18日 1784年 石谷清豊*4が小納戸となる。 天明4年12月16日 1784年 石谷清豊*4が布衣を許される。 天明5年9月 1785年 石谷因清*3が遠江国榛原郡の領地を遠江国豊田・城東二郡に移された。 天明5年9月21日 1785年 石谷清豊*4が小姓となる。 天明6年 1786年 田沼時代終了 天明6年閏10月7日 1786年 石谷清定 (豊前守)*4がより本丸小納戸となる。 天明6年閏10月7日 1786年 石谷清豊*4が徳川家治薨去に伴い小納戸に戻る。 天明8年 1788年 石谷清茂*1が西ノ丸目付となる。 天明8年4月1日 1788年 石谷清豊*4が小姓となる。 天明8年7月7日 1788年 安窓貞意大姉(兵蔵の母) 死没 寛政2年 1790年 石谷清香*4(石谷清豊*4の長男) 生誕 寛政3年5月11日 1791年 石谷清茂*1が禁裏付になる。 寛政3年7月11日 1791年 石谷清茂*1が従五位下肥前守に叙任される。 寛政3年12月16日 1791年 石谷清豊*4が従五位下周防守に叙任された。 寛政4年12月24日 1792年 石谷清定 (豊前守)*4が徳川家治の養女種姫の用人となる。 寛政6年2月25日 1794年 石谷清豊*4が使番となる。 寛政6年3月末日 1794年 石谷清定 (豊前守)*4が種姫逝去により用人の勤めを解かれた。 寛政6年5月6日 1794年 石谷因清*3 死没 (年代不明:的を射て時服を賜った。) 寛政6年8月3日 1794年 石谷直清*3が石谷因清*3の娘を娶り末期養子として家督相続。 寛政7年6月8日 1795年 石谷清定 (豊前守)*4が西ノ丸小納戸となる。 寛政8年9月4日 1796年 石谷清憐*2 死没 寛政8年12月3日 1796年 石谷清暠*2が養父である石谷清憐*2の家督相続。 寛政9年2月9日 1797年 石谷清暠*2が徳川家斉に拝謁する。 寛政9年7月13日 1797年 石谷清豊*4が駿府目付代となる。 寛政9年9月19日 1797年 石谷清茂*1が持筒頭となる。 寛政9年11月18日 1797年 石谷清定 (豊前守)*4が従五位下豊前守に叙任された。 寛政10年3月15日 1798年 石谷清順*1 (石谷清茂*1の長男、妻は有田貞勝の娘)が徳川家斉に拝謁する。 寛政10年5月25日 1798年 石谷清茂*1 死没 寛政10年8月3日 1798年 石谷清順*1が石谷清茂*1の家督相続、小普請に入る。 寛政10年8月26日 1798年 石谷清香*4が徳川家慶の御伽となる。 寛政11年5月22日 1799年 石谷清順*1が小納戸となる。 享和2年1月21日 1802年 石谷清豊*4が火事場見廻を兼務する。 享和2年10月8日 1802年 石谷清豊*4が西ノ丸目付となる。 享和3年12月23日 1803年 石谷清豊*4が本丸目付となる。 享和4年1月26日 1804年 石谷清香*4が徳川家慶の小姓となる。 文化2年5月 1805年 石谷清香*4が本丸小姓となる。 文化2年11月5日 1805年 石谷清順*1が西ノ丸小納戸となる。 文化4年1月11日 1807年 石谷直清*3が書院番より使番となる。 文化6年4月29日 1809年 石谷清豊*4が田安徳川家家老となる。 文化9年12月16日 1812年 石谷直清*3が火事場見廻を兼務した。 文化11年9月28日 1814年 觀宗益靜居士(兵蔵) 死没 文化14年1月11日 1817年 石谷清豊*4が大目付分限帳改となる。 文化14年5月20日 1817年 石谷直清 死没 文化14年8月4日 1817年 石谷穆清*3(石谷直清*3の子)が石谷直清*3の家督相続。小普請となる。 文政8年12月7日 1825年 石谷左内*4(石谷清豊の子)が新規召出で小納戸となる。 文政10年12月14日 1827年 石谷左内*4が小姓となる。 文政13年 1830年 石谷又助*5が尾張藩士録に御馬預の記載あり。250石。 文政13年 1830年 石谷喜太八*5が尾張藩士録に小十人の記載あり。30俵 天保2年3月23日 1831年 石谷穆清*3が書院番番士となる。 天保3年6月24日 1832年 石谷清豊*4 死没 天保8年1月11日 1837年 石谷穆清*3が使番となる。 天保8年2月19日 1837年 大塩平八郎の乱 天保8年4月2日 1837年 石谷左内*4が西ノ丸小姓となる。 天保8年9月10日 1837年 石谷穆清*3が布衣を許される。 天保11年11月17日 1840年 稱善慈孝大姉(五左衛門の母) 死没 天保12年3月23日 1841年 石谷左内*4が西ノ丸小納戸となる。 天保12年5月12日 1841年 石谷左内*4が思召有之御役御免となる。 天保14年2月19日 1843年 石谷穆清*3が火事場見廻を兼務する。 天保14年7月17日 1843年 秋覚了天居士(五左衛門の父) 死没 天保15年1月11日 1844年 石谷清倚*2(父は石谷主水、石谷氏との血縁関係不明)が西ノ丸書院番使番となる。 天保15年9月10日 1844年 石谷穆清*3が目付となる。 弘化3年10月6日 1846年 石谷金之丞*4(石谷佐内*2の子)が石谷佐内*2の家督相続。小普請となる。 嘉永元年5月27日 1848年 石谷清倚*2が職を辞す。 嘉永2年1月4日 1849年 梅林智香居士(五左衛門の子) 死没 嘉永2年12月24日 1849年 石谷穆清*3が堺奉行となる。 嘉永2年12月25日 1849年 石谷穆清*3が諸大夫となる。 嘉永5年5月19日 1852年 石谷穆清*3が大坂西町奉行となる。 嘉永6年 1853年 黒船来航 嘉永7年11月4日 1854年 安政東海地震 安政元年 1855年 石谷清倚*2が寄合であった記載がある。 安政元年 1855年 石谷錬蔵*1が石谷清順*1の家督を相続し小普請に入っていたという記載がある。 安政元年5月20日 1854年 石谷穆清*3が普請奉行となる。 安政2年8月9日 1855年 石谷穆清*3が勘定奉行となる。 安政3年7月26日 1856年 石谷帯刀*2(丹羽氏福の子、石谷清倚の養子となる。石谷氏との血縁関係不明)が、養父である石谷清倚*2の家督相続。 安政5年 1858年 安政の大獄開始 安政5年5月24日 1858年 石谷穆清*3が江戸北町奉行となる。 安政5年5月29日 1858年 石谷帯刀*2が小姓組に入る。 安政5年5月29日 1858年 石谷鉄之丞*3(石谷穆清*3の子)が小姓組番士となり切米300俵を賜る。 安政5年5月29日 1858年 石谷金之丞*4が小姓となる。 安政5年 1858年 石谷穆清*3が五手掛として安政の大獄の処断に関与。 安政6年 1859年 安政の大獄終了 安政6年6月2日 1859年 石谷鉄之丞*3が進物番を兼務する。 安政6年12月14日 1859年 石谷鉄之丞*3が小納戸として役料300俵を与えられた。 安政6年12月16日 1859年 石谷鉄之丞*3が布衣を許される。 安政6年12月28日 1859年 石谷穆清*3が留守居次席となる。 安政7年3月3日 1860年 桜田門外の変 万延元年 1860年 石谷帯刀*2が中奥番となる。 文久元年8月24日 1861年 石谷鉄之丞*3が小姓となる。 文久2年6月5日 1862年 石谷穆清*3が一橋徳川家家老となる。 文久2年8月24日 1862年 石谷穆清*3が講武所奉行となる。 文久2年閏8月25日 1862年 石谷穆清*3が西ノ丸留守居となる。 文久2年11月23日 1862年 石谷鉄之丞*3が父である石谷穆清*3の家督相続。 文久2年11月23日 1862年 石谷穆清*3が江戸北町奉行時代の飯泉喜内に対する取調べに問題があったとして隠居謹慎を命じられる。 文久3年1月14日 1863年 石谷穆清*3が謹慎命令を解かれる。 文久3年1月19日 1863年 石谷鉄之丞*3が諸大夫となる。 文久3年9月1日 1863年 石谷鉄之丞*3が使番となる。 元治元年 1864年 長州征伐 元治元年6月22日 1864年 石谷鉄之丞*3が小姓となる。 元治2年1月20日 1865年 石谷穆清*3が再び講武所奉行となる。 元治2年4月10日 1865年 石谷鉄之丞*3が頭取介となる。 慶応元年閏5月16日 1865年 石谷穆清*3が勤労を賞され切米300俵を賜る。 慶応2年6月 1866年 石谷鉄之丞*3が第二次長州征伐の御進発供奉御役人付に名前を挙げられる。 慶応2年11月6日 1866年 石谷鉄之丞*3が寄合に入った。 慶応2年11月18日 1866年 石谷穆清*3が講武所奉行を免職。 慶応3年10月15日 1867年 大政奉還 慶応3年10月末日 1867年 石谷鉄之丞*3が再び使番となる。 慶応4年 1868年 戊辰戦争開始 慶応4年5月15日 1868年 上野戦争 明治元年 1868年 石谷清倚*2が上野戦争において入間村の油屋清兵衛の道案内で泉龍寺まで退去。 明治2年 1869年 戊辰戦争終結 明治23年8月25日 1890年 白蓮妙光大姉(五左衛門の妻 没年81才) 死没 明治29年1月6日 1896年 大圓覚道居士(五左衛門 没年90才) 死没 明治32年12月27日 1957年 石應連谷居士(五郎作) 死没 明治33年1月22日 1900年 狐室自操大姉(五郎八の妻 ゲン 没年69才) 死没 明治43年10月9日 1910年 悟岳明道居士(五郎七) 死没 明治43年10月13日 1910年 延山宗壽居士(五郎八 没年80才) 死没 昭和14年1月2日 1939年 至孝道誠大姉(五郎七の妻 とね 没年83才) 死没 昭和19年11月15日 1944年 天運院至道豊儉居士(豊吉 没年27才) 死没 昭和31年2月21日 1956年 梅岳妙香大姉(五郎造の娘 八重子 21才) 死没 昭和38年9月8日 1963年 明光道安大姉(五郎造の娘 安津子 33才) 死没 昭和47年3月3日 1972年 慶雲寿徳大姉(のよ 93才) 死没 昭和47年6月28日 1972年 直翁寿昌居士(五郎七の子 直作 91才) 死没 昭和54年9月29日 1979年 麗山謙心大姉(ミヨ 77才) 死没 昭和63年10月21日 1988年 永岳慈源居士(五郎造 没年90才) 死没 ⇒前に戻る ⇒戻る
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【掛川市史 上巻 (掛川市史編纂委員会) 1997.08 抜粋】 P520~ イ 倉真城主の松浦氏 つぎに、倉真城の松浦氏であるが、国人領主としてのランクは、川井氏よりもう一段下である。それは川井氏の居城である松葉城と松浦氏の居城である倉真城を比べれば一目瞭然である。国人領主と土豪の中間と表現した方がよいかもしれない。 ただ、野辺一雲斎の有名な川僧慧済の弟子以翼長祐を招いて永江院を開いているところをみると、単なる土豪ではなく、やはり国人領主の範疇に入るものと思われる。ちなみに、永江院を開いたのは、文明十七年(一四八五)のことであった。 どういうわけか、この松浦氏のルーツについては全くわかっていない。苗字の地も不明であり、室町末期の松浦兵庫助の名前が知られているだけで、彼の名乗りも伝わっていない状況である。『掛川誌稿』では、「松浦氏古城」という項目をたて、つぎのように述べている。 里在家と云所に長さ二丁許の孤山あり、松浦兵庫助の古墟なりと云、東北の低所に大手の路、御泉水、甲石、持仏堂など云ふ地名遺れり、兵庫助の事蹟伝ふる所なし、明応六年十一月十三日卒せしと云により考えば、今川家の士にや、当村世楽院、飛鳥村永江院は共に松浦氏の剏立なるよし、又永江院の後山に兵庫助が墳墓なりとて古松樹あり、開基松と呼ぶ、是に據れば永江院に葬りしと見ゆ、五明村松浦五兵衛、領家村松浦惣大夫と云百姓は、共に兵庫助が後なりとて、今両寺の旦那頭たり、古く民家となりしとみゆれば、或は兵庫助が一族の後なるべし、 『掛川誌稿』の編者も「兵庫助の事蹟伝ふる所なし」とお手上げの態である。しかし、松浦兵庫助が今川氏の家臣だったというとらえ方はどうであろう。 仮に、今川氏の家臣としての戦死であったならば、その子孫は今川氏に取り立てられたはずである。ところが、今川氏の家臣でのちに松浦氏の名がみえるのは、駿河国志太郡鵜綱村(島田市)出身の松浦氏で、この松浦兵庫助の系統ではない。そのことを考えると、松浦兵庫助は今川氏親の遠江侵攻に抗して戦い、戦死したとみえるのが自然であろう。この点についても、つぎの第八章でみることにする。 以下略 P554~ ウ 原氏の没落 そのあと、早雲率いる今川軍は、原氏に与するこの地域の在地領主たちの城を一つひとつ落としていった。美人ヶ谷の美人ヶ谷城、滝ノ谷城などもこのころ落とされたものと思われる。その意味では、倉真城主の松浦兵庫助が、明応六年(一四九七)一一月一三日に没したという伝承は興味深いものがある。 もっとも、この倉真城主の松浦兵庫助については、『掛川誌稿』が「今川家の士にや」と記したため、以後、その考え方が継承され、「今川方だった松浦兵庫助が原氏との戦いで戦死した」ととらえられていた。しかし、五二〇ページで見たように、もし、松浦兵庫助が今川家臣として戦死したのであるならば、その後、その子孫が今川家臣として取り立てられていたはずで、そうした微証がないことからすれば、松浦兵庫助は早雲に攻められて戦死したと考える方が自然である。 そして、実は、この松浦兵庫助が没したという明応六年一一月一三日は、原氏滅亡の日と考えられるのである。ただ、原氏は、その後も家としては存続するので、滅亡という表現ではなく、没落とすべきなのかもしれない。しかしいずれにせよ、国人領主原氏は明応六年に滅亡した。それは、つぎの今川氏親の知行宛行状(「孕石文書」『県史』資料編7)によって明らかである。 以下略 P581~ 第四節 今川時代の懸川付近居住の家臣たち (1) 永正三年の遠江衆 ア 「三河物語」にみえる遠江武士 では、今川時代、懸川城主朝比奈氏とその家臣の他には、懸川周辺にはどのような家臣たちが居住していたのだろうか。 比較的初期の状況を示す史料として、大久保彦左衛門忠教が著した「三河物語」(『日本思想体系』26)がある。ここに、松平長親との戦いのときの北条早雲率いる今川衆の名前がリスト・アップされている。この戦いは永正三年(一五○六)のことなので、その時点の家臣団ということになる。 そこには、東三河衆、駿河衆、「北条之新九郎」の旗本、すなわち北条早雲の旗本と並んで、遠江衆の面々が見える。 ……遠江衆ニハ宇豆山・浜名・堀江・伊野谷・奥野山・乾・二俣・浜松・蚖塚(まむしづか※字が無いため塚で代用)・原河・久野・懸河・蔵見・西郷・角笆・天方・堀越・見蔵・無笠・鷺坂・森・高天神・蠅(榛)原衆・其外小侍共。 角笆は名和氏で、このように、居城と苗字が一致している場合はよいが、蔵見、すなわち倉見を誰とみるかなど、遠江衆を確定していくことは容易ではない。この場合、懸河は、懸川城主の朝比奈氏である。現在の掛川市域では、懸川、倉見、西郷、名和の四武士団が松平氏との戦いに参陣していたことがわかり、懸川周辺の今川家臣団として有力なものだったと思われる。 イ いわゆる「遠江三十六人衆」 今川氏親の遠江平定以前、遠江に「遠江三十六人衆」とよばれる武士団が割拠していたと言うことが諸書にみえる。例えば、原田和の『遠江資料集』所収「原氏孕石氏略説」には、 遠江三十六人衆 初馬 河合宗忠 西郷 西郷殿 倉真 松浦兵庫 掛川 鶴見因幡守 本郷 原殿 原谷 孕石主水 袋井堀越 堀越殿 平川 赤堀主膳 小山 増田周防守 と、九人の名前をあげている。また、山崎常磐「掛川城攻防戦と原川大和守関係者の顛末」(『静岡県郷土研究』第十六輯)には、この九人のほかに、増田の松浦次郎右衛門の名前をあげ、一〇人としている。 原田・山崎両氏ともに、石川依平の「柳園雑記」に「遠江三十六人衆」とあることを典拠としているが、これら九名ないし一〇名の武士で、存在したことがかくじつなものもいれば、「遠江三十六人衆」として語られるときにのみ名前がでてくる者もいて、たしかなことは不明というしかない。 しかも、ここに名前を列挙したほとんどは、今川氏親の遠江進攻に抗し、逐われたり、滅ぼされていった者である。例外的な存在が、今川氏の一族だった堀越氏と、原氏の一族と思われる孕石氏であった。堀越氏は掛川市城からはずれるので、あとで孕石については詳しくみていくことにする。 以下略 P595~ ウ 西郷氏と石谷氏 今川時代懸川周辺居住の有力武士として西郷氏がいた。しかし、この西郷氏については、長いこと、謝った認識が定着してきた。誤った認識をつくったもとは、『掛川誌稿』である。同書に、「按に西郷氏は世々三州にありしが、いつのころより此に移居せしか詳ならず」とあるのが出発点であった。『掛川誌稿』が「此」といっているのは上西郷のことであるが、上西郷居住の西郷氏が、三河から移り住んできたとする解釈をしているのである。 実は、『掛川誌稿』の編纂者がそう考えた理由が存在する。それは徳川家康の側室で、二代将軍秀忠を生んだ於愛の方が、西郷局とよばれ、彼女の出身地が上西郷であり、しかも、彼女は、三河出身の西郷弾正左衛門正勝の孫ということで、出身地と出自によって西郷局といわれ方になったとされてきたからである。 たしかに、彼女は係累としては、三河の西郷氏の血を引いている。しかし、三河の西郷氏が、上西郷に移り住んできたわけではないのである。このあたりの詳細については、あとで西郷局について記述するところでふれることにしたい。 四九三ページでみたように、すでに室町時代、京都の山科家の荘園としての西郷があり、西郷八郎という人物がいた。『山科家礼記』の文明四年(一四七二)二月五日の項につぎのようにみえる。 五日 雨下 一御構へより弥六下る、飯賀(飯尾為信)状有り、西郷の事に候、飯尾美作守(久晴)西郷方へ状之を出す、その案文、 山科家領当郷年貢の事について、度々若党林七郎左衛門尉申し候のところ、御返事に預からず、心元なく候、未だ林罷り上らず候といへども、木所よりわざわざ仰せ下さるべきの旨仰せを蒙り候間、状をまいらせ候、しからば、寮在るごとくに候、御年貢以下未進、ことごとく彼の御方へ渡しまいらせ候はゞ、もっともしかるべく候、ゆめ〳〵御無沙汰の儀有るべからず候、恐々謹言、 二月五日 久晴 判 西郷八郎殿 御宿所 この文書からもうかがわれるように、西郷居住の西郷八郎はかなりの力をもっていたわけで、この西郷氏と三河の西郷氏はあるいは同族だったかもしれないが、三河の西郷氏が遠江に移り住んだということにはならない。 なおのちにふれる石谷氏の系図に西郷民部少輔という名前がみえるので、この西郷八郎の係累に民部少輔がいたものと思われる。 ところで、この西郷氏で注目されるのは、その居城と考えられるのが美人ヶ谷城(掛川市上西郷字美人谷)だという点である。これは詰の城で、平地の居館がどこかにあったはずで、それはわからないが、単なる土豪の城ではない。しかし、原氏の殿谷城ほどは大きくなく、国人クラスと規定するのもむずかしく、国人と土豪の中間的な位置づけになるのではないかと思われる。 もっとも、近くの滝ノ谷城(掛川市上西郷字滝ノ谷)を美人ヶ谷城の属城と考えれば、かなり大きな勢力だったことが想定され、小規模国人領主と規定してもよいかもしれない。 ところで、この西郷氏と密接な関係にあったのが石谷氏である。もともとは二階堂氏だったことから、一説には西郷氏の強大化にともなって包摂され、西郷氏の同族にされてしまったともいうが、その詳細についてはわからない。ただ、幸いなことに、この石谷氏の子孫は、江戸時代、幕臣となって、書院番、七〇〇石として存続し、その系譜が『寛政重修諸家譜』巻第八九〇に所収されており、出自と系譜がある程度わかってくるのである。そこでまず、石谷氏の系譜を引用しておこう。 藤原氏 為憲流 石谷(いしがや) 寛永系図家伝を引いていはく、もと二階堂を称し、行清がとき外祖父西郷が家号を用ひ、其子清長がときまた二階堂を称し、その子政清遠江国石谷村に居住す。村の西南におほいなる岩石あり。その岩の頭に八幡の廟あり、これ村の氏神なり。政清氏神のまします所を尊崇す。この故に二階堂をあらためて石谷と称す。今の呈譜に代々遠江国佐野郡西郷の庄に居住せしにより、行清がときあらためて西郷と称し、政清めされて東照宮に奉仕するにをよび、西郷の局の称呼を諱て石谷にあらたむといふ。 行秋(ゆきあき) ―――@1 因幡守 法名行欽 @1―行晴(ゆきはる)―――@2 右馬允 実は西郷民部少輔某が二男。母は行秋が妹なり。行晴幼にしてその母死するにより、舅(はヽかたをぢ)行秋が養子となりて其家を継、文明十六年死す。年六十七。法名宗印。 @2―行清(ゆききよ)―――@3 太郎大夫 永正元年九月十三日死す。年五十九。法名三休。 @2―行捷(ゆきかつ) 二階堂を称す。 @3―清長(きよなが)―――@4 左馬助 祖父行晴に養育されて人となり、元服のとき行晴より太刀を譲りあたへられ、ふヽたび二階堂を称し、天文二年二月九日死す。年六十一。法名宗月。 @4―政清(まさきよ)―――@5 十郎右衛門 母は某氏。 今川義元をよび氏真につかへ、氏真没落のヽのち、永禄十二年正月二十六日その請にまかせられ、遠江国飛鳥内一色名の采地永く相違あるべからざるのむね、東照宮より御黒印を下され、元亀二年三月十日男政信清定とヽともにめされて仕へたてまつり、天正二年四月十五日死す。年七十二。法名道隆。 @5―行重(ゆきしげ) 五右衛門 入澤を称す。 武田家につかふ。 @5―呑説(どむせつ) 出家して武蔵国成田龍淵寺の住職となる。 @5―政信(まさのぶ) 十右衛門 母は某氏 元亀二年三月十日父とおなじくめされて東照宮に奉仕し、天正十八年関東にいらせたまふの時、武蔵国多摩郡の内にをいて采地二百石をたまひ、慶長十年二月より台徳院(秀忠)殿につかへたてまつる。元和五年六月五日(今の呈譜十月八日)死す。法名良完。(今の呈譜良石) 多摩郡泉村の泉竜寺に葬る。のち代々葬地とす。(後略) この系譜がいう行晴が文明一六年(一四八四)の死なので、今川氏親の遠江侵攻は、次の行清の代のことであろう。そのとき、西郷氏・石谷氏がどのような態度をとったかは明らかではない。対抗していれば家名の存続があぶなかったのではないかと思われる。『寛政重修諸家譜』によるかぎり、今川氏に仕えるようになったのは政清のときからということになる。 以下略 P649~ ウ 掛川周辺を与えられた武士 懸川城攻めにあたって、家康は今川家臣の切り崩しをはかっているが、たいていの場合は、本領安堵という餌をちらつかせながら誘降工作を行っている。家康に内応し、さきにみたように天竜川の船は橋架橋で奔走した久野城主久野宗能は、「今度忠節については、本地駿州のごとく宛行う所永く相違あるべからず」という家康からの「久野一門同心本知行の事」と題する判物をもらい、垂木のうち50貫文など合わせて二一〇〇貫文を安堵されている(「久野文書」『静岡県史』資料編7)。 また、本領安堵というだけでなく、戦闘が本格化するにつれ、武将たちからの要求によって新恩給が与えられるというケースもある。一例として、石谷十郎右衛門政清の例をあげておこう(「記録御用所本古文書一」『静岡県史』資料編7)。 今度行わる知行の事 右、五石半の飛鳥一色百弐拾俵弐斗俵也、 ならびに前々屋敷分由緒有り、訴訟せしめ候間、新給恩として出し置きおわんぬ、永く相違あるべからず、この旨を守り、いよいよ奉公せしむるにおいては、重ねて扶助を加うべき者也、よってくだんのごとし、 永禄十二年己 巳 (徳川家康) 正月廿六日 御名乗御書判 (政清) 石谷十郎右衛門殿 この石谷政清の例は、恐らく、本領の安堵のほかに、「屋敷分も加えて欲しい」と訴え出たために、新給恩として宛行われたものと思われるが、本領安堵ではなく、今川方にとどまった家臣の所領を取り上げ、家康方となった元今川武将に知行が与えられたというケースもある。例えば、朝比奈十左衛門尉らに対する家康の知行宛行判物(「朝比奈文書」『静岡県史』資料編7)には、 以下略 戻る
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【寛政譜以降旗本家百科事典 (小川恭一) 1997.11-1998.7 抜粋】 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ [諸家](その他) [幕府人](その他) [柳補](その他) 392 石谷三蔵清順「いしがやさんぞうきよのぶ」 [寛政譜]14-230 [干城録]1-218 《禄》700石 下野 〔本国〕遠江 〈参〉[旗人]4-48-中 1. 石谷三蔵(清順)「いしがやさんぞう」・石谷隼人 〈先〉(父)石谷肥前守(「文政元年武鑑」) 〈禄〉700石(「文政元年武鑑」) 〈屋〉牛込逢坂(「文政元年武鑑」) 〈役〉寛政10(1798)8.3家督(小普請入) 寛政11(1799)5.22 小納戸(6-98) 文化2(1805)11.5 西丸小納戸(「文政元年武鑑」迄)(6-149) 2. 1260頁 石谷練蔵「いしがやれんぞう」 〈禄〉700石 〈屋〉居屋敷 小日向竜慶橋 250坪 拝領屋敷 四谷内藤宿新屋敷 300坪余 右は地守附置 〈役〉安政(1855) 小普請大島支配 3. 〔埼〕231頁 石谷房之丞「いしがやふさのじょう」 〈先〉(祖父)石谷織之丞・□□ (父)石谷錬蔵・□□ 〈禄〉756石42502(700石) 〈屋〉四谷大番町 393 石谷庄之助清暠「いしがやしょうのすけきよあき」 [寛政譜]14-233 [干城録]1-220 《禄》1,100石 駿河・武蔵・上総・下総 〔本国〕遠江 〈参〉[旗人]4-49-前 1. 783頁 石谷友之助(清倚) 「いしがやとものすけ」 〈禄〉1,100石 〈屋〉居屋敷 市谷加賀屋敷 976坪 拝領屋敷 青山権田原 288坪 〈役〉安政(1855) 寄合 〈備〉315頁使番にも重複記載あるが、嘉永元年の辞任である。 石谷友之助清倚 「いしがやとものすけせいき」 〈先〉(父)石谷主水(「弘化5年武鑑」) 〈禄〉1,100石 〈屋〉市谷加賀屋敷 (「弘化5年武鑑」) 〈役〉天保15(1844)1.11 西丸書院番より使番 嘉永元年(1848)5.27 辞(3-221) 2. 1-102-上 石谷帯刀「いしがやたてわき」 申49歳 〈先〉(養祖父)石谷主水・小姓組 (養父)石谷友助・寄合 (実祖父)丹羽式部少輔・大阪使番(大名) (実父)丹羽空閑斉・□□ 〈禄〉1,100駿河・武蔵・上総・下総 〈本国〉遠江 〈役〉安政3(1858)7.26 家督小普請入 安政5(1858)5.29小姓組入 万延元年(1860)12.11 中奥番 石谷主水・石谷帯刀「いしがやもんど」 〈先〉(父)石谷大助(「元治元年武鑑」) 〈禄〉1,100 (「柳補」) 〈屋〉市谷加賀屋敷 (「元治元年武鑑」) 〈役〉万延元年(1860)12.11 小姓組より中奥番 年代不詳 (御役)御免(「元治元年武鑑」迄)(2-293) 394 石谷善次郎直清「いしがやぜんじろうなおきよ」 [寛政譜]14-235 [干城録]1-221 《禄》2,500石 上総・下総・下野・遠江 〔本国〕遠江 〈参〉[旗人]4-48-後 1. 石谷十蔵直清「いしがやじゅうぞうなおきよ」 〈先〉(父)石谷十蔵(「文化13年武鑑」) 〈禄〉2,500石(「柳補」) 〈屋〉麹町貝坂(「文化13年武鑑」) 〈役〉寛政6(1794)8.3家督(小普請入)(「寛政譜」) 文化4(1807)1.11 書院番より使番 文化9(1812)12.16 (火事場)見廻兼帯 文化14(1817)5.20 卒(3-205・4-216) 2. 276頁 石谷因幡守 「いしがやいなばのかみ」 〈禄〉2,500石 〈屋〉居屋敷 麹町貝坂 1,110坪 〈役〉安政(1855) 普請奉行 1-102-上 石谷大和守(穆清)「いしがややまとのかみ」 寅66歳 〈先〉(祖父)石谷十蔵・小姓組 (父)石谷十蔵・使番 〈禄〉300俵隠居御手当 〈本国〉遠江 〈役〉文化14(1817)8.4 家督小普請入 天保2(1831)3.23 書院番入 天保8(1837)1.11 使番(「柳補」3-217) 天保8(1837)9.10 布衣 天保14(1843)2.19 火事場見廻兼帯(4-222) 天保15(1844)9.10 目付(3-119) 嘉永2(1849)12.24 堺奉行(5-84) 嘉永2(1849)12.25 諸大夫 嘉永5(1852)5.19 大阪町奉行(5-47) 嘉永7(1854)5.20 普請奉行(2-84) 安政2(1855)8.9 勘定奉行(2-52) 安政5(1858)5.24 町奉行 安政6(1859)12.28 緒留守居次席(扱) 文久2(1862)6.5 一ツ橋家老 席之儀是迄(御留守居次席)之通(2-11) 文久2(1862)8.20 (24) 講武所奉行(5-196) 文久2(1862)壬8.25 西丸留守居(2-204) 文久2(1862)12(11).23 町奉行中 飯泉喜内吟味取調方不宜 隠居差扣 文久3(1863)1.14 差扣御免 慶応元年(1865)1.20 講武所奉行 同様、可相勤(隠居) 慶応元年(1865)壬5.16 御手当300俵(隠居に付)(5-196) 〈備〉[柳補]の記事重複につき併記する。 石谷鉄之助穆清「いしがやてつのすけぼくせい」・石谷因幡守・石谷長門守・石谷大和守 〈先〉(父)石谷十蔵(「慶応2年武鑑」) 〈禄〉2,500石(文久2年隠居・慶応元年より300俵) 〈屋〉西の久保(「慶応2年武鑑」) 〈役〉(隠居以前[幕人]に傍記) 元冶2(1865)1.20 小姓安芸守父・隠居・元西丸留守居□□講武所奉行(ママ) 慶応元年(1865)壬5.16 出精相勤に付切米300俵 慶応元年(1865)6.19 講武所奉行並同様(ママ) 慶応2(1866)11.18 御役御免(5-197) 3. 1-101-中 石谷安芸守「いしがやあきのかみ」(由緒書による) 卯30歳 〈先〉(祖父)石谷十蔵・使番 (父)石谷大和守(看亮)・講武所奉行同様(隠居) 〈禄〉2,500石遠江・上総・下総・下野 〈本国〉遠江 〈役〉安政5(1858)5.29 部屋住より小姓組切米300俵 安政6(1859)6.2 進物番兼務 安政6(1859)12.14 小納戸・役料300俵 安政6(1859)12.16 布衣 文久元年(1861)8.24 小姓 文久2(1862)11.23 家督 父長門守(大和守)町奉行勤役中吟味取計不宜に付24日御目通差扣 文久3(1863)1.19 諸大夫 文久3(1863)9.1 使番 元治元年(1864)6.22 小姓 慶応2(1866)11.6 (御役)御免 勤仕並寄合 慶応3(1867)10.晦 使番 石谷鉄之丞「いしがやてつのじょう」・石谷安芸守 〈先〉(父)石谷因幡守(「慶応2年武鑑」) 〈禄〉2,500石(慶応2年武鑑」) 〈屋〉西の久保(「慶応2年武鑑」) 〈役〉安政6(1859)12.14 町奉行因幡守伜 小姓組より小納戸(6-209) 文久元年(1861)8.24 小姓 文久3(1863)1 諸大夫(6-187) 文久3(1863)9.1 使番(3-237) 元治元年(1864)6.22 小姓 元治2(1865)4.10 頭取介(慶応2.11.6勤仕並寄合)(6-189) 慶応3(1867)10.晦 勤仕並寄合より元小姓 使番再役(3-246) 395 石谷豊前守清定「いしがやぶぜんのかみきよさだ」 [寛政譜]14-237 《禄》800石 下野 〔本国〕遠江 〈参〉[旗人]4-49-中 1. 石谷次郎左衛門清定「いしがやじろうざえもんきよさだ」・石谷左衛門・石谷豊前守 〈禄〉800石(「寛政12年武鑑」) 〈屋〉小川町(「寛政12年武鑑」) 〈役〉宝暦12年(1762)9.28(部屋住)小姓組入(12.15)西丸 寛政9(1797)1.晦 (小納戸)頭取格(6-145) 寛政10(1798)2.27 小納戸頭取 享和元年(1801)9.6 辞(6-144) 2. 石谷直三郎清豊「いしがやなおさぶろうせいほう」・石谷式部・石谷周防守・石谷備後守 〈父〉石谷豊前守(「天保2年武鑑」) 〈禄〉800石(「柳補」) 〈屋〉小川町(「天保2年武鑑」) 〈役〉天明4(1784)11.18 (部屋住より)小納戸(12.16)布衣 天明5(1785)9.21 小姓 天明6(1785)壬10.(7) 小納戸 寛政6(1794)2.25 使番 寛政9(1797)壬7.13 駿府目付代(「寛政譜」) 享和2(1802)1.21 (火事場)見回兼帯(3-200・4-214) 享和2(1802)10.8 西丸目付(此以前家督年月不明)(3-140) 享和3(1803)12.23 (本丸)目付(3-113) 文化6(1809)4.29 右衛門督殿(田安)家老(2-5) 文化14(1817)1.11 大目付分限帳改 天保3(1832)6.24 卒(2-22) 3 石谷直吉「いしがやなおきち」・石谷淡路守 〈父〉石谷周防守(「文化13年武鑑」) 〈禄〉300俵(部屋住)(「文化13年武鑑」) 〈屋〉小川町(「文化13年武鑑」) 〈役〉寛政10(1798)8.(26) 使番周防守惣領(部屋住より)家慶公御伽(6-82) 享和4(1804)1.26 家慶公小姓(6-68) 文化2(1805)5 本丸小姓 年月不記 卒(部屋住)(6-52) 〈備〉「文化13年武鑑」迄部屋住として記載あり。 4. 石谷左内「いしがやさない」・石谷市正・石谷讃岐守 〈父〉石谷備後守(「天保11年武鑑」) 〈禄〉800石(「天保11年武鑑」) 〈屋〉小川町(「天保11年武鑑」) 〈役〉文政8(1825)12.7 大目付備後守惣領(部屋住)新規召出 小納戸(6-115) 文政10(1827)12.14 小姓(6-55) 天保8(1837)4.2 西丸小姓(6-73) 天保12(1841)3.23 西丸小納戸 天保12(1841)5.12 思召有之御役御免(6-133) 5. 1260頁 石谷金之丞 「いしがやきんのじょう」 〈禄〉800石 〈屋〉居屋敷 元飯田町九段坂下 578坪 内10坪小普請安藤儀兵衛に貸置 拝領屋敷 四谷南寺町 500坪 右は地守附置 拝領屋敷 本所四目茅場町 400坪 右は地守附置 〈役〉安政(1855) 小普請大島支配 〈備〉居屋敷の借地は、№293の安藤儀兵衛である。坪数不審。 1-101-下 石谷金之丞 「いしがやきんのじょう」 寅□7歳 〈先〉(祖父)石谷備後守・大目付 (父)石谷市正・西丸小姓 〈禄〉800石下野 〈本国〉遠江 〈屋〉宿 元飯田町九段坂下 〈役〉弘化3(1846)10.6 家督小普請入 安政5(1858)5.29 小姓組入 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------戻る
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【静岡県姓氏家系大辞典 (静岡県姓氏家系大辞典 編纂委員会) 角川書店 平成7年12月8日 抜粋】 P294~ 石谷政清 いしがやまさきよ (一五〇三~七四) 戦国期の武将。通称十郎右衛門。二階堂清長の子。遠江国佐野郡西郷の石谷(掛川市)に住み、石谷を称したという。今川義元・氏真に仕え、永禄十二年に徳川家康に従った。居城したという石谷城跡は掛川市上西郷美人ヶ谷にある。 P454~ 石貝 いしがい 駿河国足久保(静岡市)に、平安末期の寿永年間ごろから住むという土豪の石貝氏がある。永禄年間には石貝弥兵衛が安倍七騎の一人に数えられている。 P455~ 石谷・石ヶ谷 いしがや 遠江国佐野郡西郷石谷(掛川市)に由来する石谷氏がある。藤原為憲流で、二階堂行清が外祖父の西郷氏を称し、子の清長が二階堂氏に復し、その子政清が遠江国石谷に住んで石谷氏を称したという。また、西郷に住んだことから行清が西郷氏を称し、徳川家康に仕えた政清が西郷局に憚って石谷氏に改めたともいう。政清は、今川義元、氏真に仕えたのち、永禄十二年徳川家康から遠江国飛鳥郷一色(掛川市)を与えられた。子孫は旗本として続く(寛政譜)。同国佐野郡上西郷村(掛川市)に石ヶ谷明神があり、石谷十蔵の氏神という(遠淡海地志)。 ■駿河国安倍郡足久保村(静岡市)に、戦国期の安倍七騎の一つに数えられた石谷氏がある。遠江石谷氏と同族という。今川氏に仕えたが、重郎左衛門は今川氏滅亡後に武田氏に仕え、のち徳川家康に仕えた。 ■駿河国庵原郡袖師(清水市)に、石谷政清の五男清重を祖とする石谷氏がある。清重は海野又太郎と称して幕臣となり、のち一族の住む足久保に閑居した。その孫の清勝の次男清升は朽木氏家臣となるが病を得て駿河に戻り、子孫は袖師に永住したと伝えられる(静岡県の名字)。 ■現在、石谷姓は静岡市、小笠郡大東町、石ヶ谷姓は清水市に多い。 戻る
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武将名 おににわさげつさい 鬼の左月 R鬼庭左月斎 伊達家重臣。晴宗の代より仕える。晴宗の代では、遠藤基信とともに政権の中枢を担った。嫡男・綱元に家督を譲った後も、政務に従事する。人取橋の戦いでは高齢の身ながらも殿軍を務め、政宗に与えられた金色の采配をふるって奮戦するも、討ち死にした。「死に花、鮮やかに 咲かせてみせようぞ!」 出身地 陸奥国(福島県) コスト 2.5 兵種 槍足軽 能力 武力8 統率7 特技 気合 計略 左月斎の逆鱗(さげつさいのげきりん) 【逆計】(効果範囲内の敵が計略を使用してきたときのみ使用可能。逆計を逆計することはできない)自身の武力と移動速度が上がり、槍が長くなるが、兵力が徐々に下がる。 必要士気4 Illustration Daisuke Izuka 計略効果 カテゴリ 士気 武力 統率 速度 兵力 効果時間 その他 逆計 4 +7 - +40% -2%/0.6c(2.22E) 7.5c(統率依存0.4c) 槍長さ+2.5(3.02H) 範囲は自身中心の円形。 (以上3.10B) (最終修正3.10B) 逆計については こちら を参照。 解説 伊達家で数少ないの2.5槍であり、統率の高さ・特技の気合もあって単体での堅さは随一。 ただ伊達家の中で最も堅いとはいえ、他の武家で見かける2.5コスト武力9気合槍に比べると、 単純な武力のぶつかり合いになるとやや寂しい。 計略は、範囲内の敵武将が計略を使用した場合に使用可能となる、自身の武力と移動速度と槍の長さが上昇する単体強化。 逆計のためか、士気4の計略としては武力・移動速度・槍長さの全てがかなり上昇するため、 相手の攻勢への反撃としては不発に終わりにくく威力も上々。 ただし効果時間中は兵力が徐々に減少し、戦闘ダメージ以外でも最終的には兵力が4割弱減少する。 比較的長時間の武力16の気合槍+長槍+高速化という状態は非常に打たれ強く、 並の大名采配相手でも一方的に潰される事は少ない。 やはり史実通り、こちらの戦線が押し込められている中で、相手の大型計略に対して、 撤退前提で城ダメージ等の被害を最小限に抑える目的で使用するのがベストか。 その場合、壁役のコスト2.5槍兵を失う事から、可能な限り、相手部隊を道連れにしてやろう。 相手が逆計後に後退していくようなら、左月斎の方も素直に城に帰還して撤退を防ぎたいところ。 いぜれにせよ、発動後にデメリットも生じる、逆計の中では珍しい計略。 当然ながら、逆計が使える状況下でもスルーするのが賢いケースも、他の逆計以上に多くなる。 反射的に逆計を発動させるのではなく、強化後に単騎で戦果を挙げられる状況にあるか、 戦場全体を見渡しながら、発動の機会をうかがっていこう。 備考 2.01A 効果時間延長(8.3c→9.2c) 2.12D 武力上昇値増加(+6→+7)、移動速度上昇値増加(+50→+70) 2.20A 統率力上昇(5→7)、計略効果変更(効果終了時に撤退する→兵力が徐々に下がる) 統率上昇による効果時間延長(9.2c→10.0c)、移動速度低下(+70→+??)(未記載) 2.22B 計略範囲拡大、効果時間延長(10.0c→10.4c) 2.22D 武力上昇値増加(+7→+8)、兵力減少間隔延長(-2/0.4c→-2/0.6c)、効果時間短縮(10.4c→9.8c) 2.22E 移動速度上昇(+??→+60) 3.00C 兵力低下値減少、兵力低下間隔短縮(-2/0.6c→c) 3.10B 効果時間短縮(9.8c→7.5c)、武力上昇値減少(+8→+7) 移動速度上昇値減少(+60→+40)、兵力減少値増加 台詞 \ 台詞 開幕 戦場往来幾十年、我が生き様を見せてやろう 計略 死に花、鮮やかに咲かせて見せようぞ タッチアクション - 撤退 後は任せたぞ…… 復活 巻き返すぞ 伏兵 - 虎口攻め 一花咲かせてやろう └成功 鬼の名は伊達ではない! 攻城 掛かれい! 落城 鬼の左月、ここにあり! 熟練度上昇 まだまだ戦うぞ
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トップページ>日本史>日本史の勉強の仕方 伊達の速効日本史最勝王 1 政治・経済・外交史 (代々木ゼミ方式)[amazon] レビュー メリット:情報量が多い。小さくて持ち運びやすい。早慶まで対応可。まとめる手間が省ける。 デメリット:空欄に書き込む場合、解答番号が邪魔になる。いきなりこの本だと穴がある。 対象:早慶志望者や独学でまとめるのに苦労している受験生 コメント 名前 コメント
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[百足跳奔]伊達成実-出龍- レベルMAX 攻10750 防10030 知9720 --