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倉吉絣(くらよしかすり)は鳥取県倉吉市に江戸時代末期から織られるようになった絣。 綿の糸を藍染めして、十字や井桁、などの幾何学模様を織りだした織物を「絣」と呼びぶが、倉吉絣は手で書いた絵のような柄を織った絵絣(えがすり)や、さらに高度な綾織り、浮き織など様々な組織織(そしきおり)も織られるようになりこのような織物を「風通織」といい幻の織物と呼ばれ評判を呼んだ。江戸末期に始まった倉吉絣は、明治になって盛んになり、西日本を中心に全国へ売り歩かれたが、大正時代へ入ると機械化の波や、その高度な技術の故に機械化も出来ず衰退していった。 戦後、もう織ることも織り方もわからなくなっていた風通織を戦後、染織家吉田たすくが苦心の末復活させる。また、絣研究家 福井貞子を代表とする「絣保存会」も生まれ、倉吉絣は現代にも受け継がれている。 目次 [非表示] * 1 倉吉 * 2 絣 * 3 絣の流通 * 4 風通織 * 5 現代へ * 6 関連項目 * 7 外部リンク 倉吉 [編集] 鳥取県倉吉市は人口5万人で江戸時代は伯耆国(ほうきのくに)久米郡(くめごおり)倉吉とよばれた古い城下町。奈良時代、伯耆国の中心として、国庁や国分寺が置かれ栄えた。その後は山名氏などにより城が築かれ文化の中心でとなり、江戸時代は鳥取藩主席家老荒尾志摩の領地として伯耆国の中心として交易が栄えた。今も鍛冶・ 研屋町(とぎやまち)・魚町・湊町などの地名が残っており、水路も引かれ、商業が盛んで今でも当時の面影を残す多くの蔵が残っており、日本の重要伝統的建造物群保存地区として打吹玉川(通称 白壁土蔵群)が指定された蔵の町 くらしよしまちである。そして古くから芸術活動も盛んである。 倉吉は、海に近いながら小さい盆地の中にあり、海の幸も山の幸も両方新鮮なものがすぐに手に入るという食にはめぐまれた贅沢な場所にある。 絣 [編集] 絣はインドなどの南方で生まれ、海路を経てタイ王国、インドネシア、琉球(沖縄)に伝わり、更に本州に伝わったようである。絣の歴史はそう古くなく、日本で織られるようになったのは江戸時代の末頃から明治にかけて急激に各地で広まった。綿の糸を藍染めして、所々白く抜いた糸で十字や井桁、細かい線などの幾何学模様を織りだした織物を総称で「絣」と呼び、それは後になりさらに複雑なものもどんどん考案されていった。倉吉絣の特徴は「絵絣」にあった。絵絣は字のごとく絵のような絣で、上手なものはまさに手で書いたような柄が織物で現されていた。 江戸末期に始まった倉吉絣は、明治になって盛んに織られるようになり、その当時倉吉地方の各家庭では自宅で使う木綿の着尺や布団生地はどれも、家の女手で織られており、呉服屋で買うというようなことはなかった。倉吉の娘は皆、機(はた)を習った。自分で糸を紡ぎその糸を紺屋へ持っていって染めてもらい、自分で織ったのである。織物の出来ることによって一人前の娘として認められたのである。機織りの出来ない者は結婚も出来なかったが、上手な者はそれが嫁入り道具とも見られ歓迎されたのである。 資料として、自分の織る織物の参考にしたり、新しく織った柄を集めて帳面に貼った「縞帳」が残っているが、倉吉の女は器用な者が多く、縞が織れるのはあたりまえで、器用な娘は平織りの絣とは違った織物「そしき織」や「風通織」、絵絣を織った。 絵絣は字のごとく絵のような絣で、上手なものはより細い糸を使いまさに手で書いたような柄が織物で現されていた。段々複雑なものが増えるに従い、「縞帳」は縞より絵絣が目立つようになっていき、松、竹、梅、鶴、亀、大黒や、様々な自然物、器具、字などを柄に取り入れたものが残っている。 絣の流通 [編集] 倉吉はかつて小さな城下町であった。明治初年頃稲を扱く稲扱千刃(いなこきせんば)[1]が倉吉で開発され、西日本を中心に全国に広まっていった。刀や鋤、鍬を作っていた鍛冶町には西日本の農家の需要を満たすため鍛冶屋が沢山出来、各地に販売の行商に出かけるものが沢山いた。 倉吉の絵絣は、稲扱千刃の行商人によって各地で売られ、全国へ広まっていったのである。その柄の巧みさで各地でもてはやされ、より複雑なものほど高価に売れた。そして更に複雑な織物をめざすようになっていく。これが倉吉の女達の貴重な内職収入源ともなった。 また、この高度な倉吉絣は技術までも流通して、美作(岡山県津山市周辺)では明治初期に倉吉絣の技術が持ち込まれ、絣が織られるようになり、作州絣とよばれた。 風通織 [編集] 織機は縦糸を上げたり下げたりしてその間に横糸を通して織っていくのであるが、その上げ下げする器具を綜絖(そうこう)といい、2枚使うものが平織りとなり、綜絖が多くなるほど複雑な織物が織れる。 倉吉では平織りの二枚綜絖でなく四枚綜絖で平織りでは出来ない綾織り、浮き織など様々な紋織りや浮き柄の地紋があらわれ、秋田織、八反織、一楽織、星七子織、鎖織、四目織等の名が残っている。中には六枚綜絖、更に高級な十枚綜絖の組織織(そしきおり)も織られるようになった。このような織物を風通織といった。 風通織の中には紺色の糸の間に白糸をうまく組み入れて小さな井桁の絣柄を織りでだした織り絣などもある。風通織は表裏別の糸を使い二重組織で織られ、表裏の糸が入れ替わり、交差しているところ以外袋状になっているのが特徴である。一般的に平織りしか織られていなかった時代に複雑な織物は大きな驚きであったろう、中でも不思議な織り方をする風通織に対しては憧れと畏敬の念をもたれたのである。 面倒な組織織は誰でも織れる者ではなく、ごく少数の人たちに織継がれていったが、その中の更にごく一部の人により織り方をつたえる伝書が書かれた。しかし大正時代になると手織りは工業生産に押されるようになり、また、倉吉絣はその柄が手で書いたように高度であったため機械化をすることも出来なかったために絣の仕事は消えていったのである。 倉吉地方で誇らしく織られた風通織は、古い家の片隅か、小裂の布として残っているだけとなっていったのである。 戦後では数人の老人が自分で使う簡単な絣を細々と織っているだけとなっていた。そして組織織の高度な風通織を織ることの出来る人も伝書を理解出来る人もいなくなっていた。 現代へ [編集] その幻となっていた風通織を苦労の末復活させ発展させたのが倉吉在住の染織家・吉田たすくである。吉田たすくは残された小裂きの風通織や絣のもつ奥深い美しさにいとおしさを感じ、なんとか倉吉で再現させようと考えるようになった。そして昭和30年頃倉吉の旧家から辛うじて数冊の織物の伝書を入手する。伝書の中には落丁しているものや虫食いで判読不能なものも多く、読むことすら難儀なものもあった。沖縄や日本各地、タイ・インドネシア・メキシコなどへ出かけて染織の研究をする中で何度も試織りを繰り返し20年の歳月を掛けようやく一冊の本 『倉吉地方明治中期 そ志き織と風通織』に仕上げて発表する。 吉田たすくは現代生活にあう新しい絣、新しい織物を作ろうと倉吉絣を発展させシルクや草花から採った染料を使い「綾綴れ織(あやつづれおり)」「たすく織」を開発し、東京銀座や日本各地で発表を行い、多くの方々に広め、新匠工芸会の稲垣賞を受賞するなど倉吉絣の発展に貢献した。さらに様々の所で講演をしたり実技指導を行い若手の育成にも努め、機を織る若者も少しずつふえている。 しかし、これからを嘱望されながら1987年に65歳で死去。たすくの織りは三男の吉田公之介に受け継がれた。吉田公之介は父たすくと同じ新匠工芸会の会員となり「綾綴れ織(あやつづれおり)」「たすく織」を織り続けながら「絣美術館」(鳥取短期大学 絣美術館)の館長も務め、倉吉絣の発展にも努めている。また、福井貞子を代表に「倉吉絣保存会」も発足して織り方の普及などを行い今では倉吉で手織りをする人もようやく100人弱まで増えている。 関連項目 [編集] * 倉吉博物館・倉吉歴史民俗資料館 - 常設展の民族内に倉吉絣と稲扱千羽掲載。美術内の戦後の美術2に吉田たすく作壁掛「四季」春 夏 秋 冬 掲載 * 倉吉ふるさと工芸館 - 倉吉絣展示即売処 参照:ウィキペディア「倉吉絣」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E5%90%89%E7%B5%A3 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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和服(わふく)とは、日本在来の衣服のこと。狭義の着物と同義(詳細は後述)。近年では日本における民族服ともされる。 目次 [非表示] 1 和服・着物・呉服の意味 2 歴史 2.1 縄文時代・弥生時代 2.2 古墳時代・飛鳥時代 2.3 奈良時代 2.4 平安時代 2.5 鎌倉・室町時代 2.6 江戸時代前期 2.7 江戸時代後期 2.8 明治・大正時代 2.9 昭和 1945年の終戦まで 2.10 昭和 1945年の終戦後 2.11 平成 3 和服の特徴 3.1 体型を隠す和服 4 和服の構造 4.1 長着を構成する部品(身頃と衽) 4.2 長着を構成する部品(襟・衿) 4.3 長着を構成する部品(袖) 4.4 長着の穴の名称 4.5 和服の一部分を指す名称 4.6 和服の寸法において基準となる位置 4.7 和服の寸法における長さの名称 4.8 和服の部品の模式図 4.8.1 反物の模式図 4.8.2 裁断の方法(裁ち方) 4.8.3 和服の部品の組み合わせかたの概観 4.9 和服の肩幅と袖幅 5 和服の種類 6 女性用の和服 6.1 女性用の正装の和服 6.2 女性用の正装の和服を選ぶ基準 6.3 女性用の普段着の和服 7 男性用の和服 7.1 男性用の正装の和服 7.2 男性用の普段着の和服 8 着付け 8.1 和服は右前 8.2 右前にする理由 8.3 着付けの準備 8.4 着付けの順番 8.4.1 長襦袢 8.4.2 着物 8.4.3 帯 8.5 男性 8.6 子供 9 紋 10 和裁(和服裁縫) 11 和服の畳み方 12 和服の洗濯の方法 13 衣服の様式を表す言葉 13.1 袖があるかないか 13.2 小袖か広袖(大袖)か 13.2.1 平安時代の公家の肌着としての小袖 13.3 袖の長さ 13.4 袖の形状 13.5 袂を身頃に繋げるか繋げないか 13.6 八つ口の有無 13.7 盤領か方領か 13.8 開襟かどうか 13.9 衽の有無 13.10 上半身を覆う服の裾が、下半身を覆う服に隠れるか、表面に現れるか 13.11 身丈の長さ 13.12 布が何枚重なっているか 14 和服の普及率の衰退 15 現在も和服が主流の分野 16 19世紀以前の和服の特徴を表す言葉 16.1 注意 16.2 用語集 17 種類 18 付属品 19 主な大手呉服チェーン店 20 脚注 21 関連項目 和服・着物・呉服の意味 [編集] 和服は、文字通り「和」の「服」、すなわち日本の衣服という意味である。この言葉は明治時代に、西洋の衣服すなわち「洋服」に対して日本の衣服を表す語として生まれた。後述するように「着物」という単語は本来衣服一般を意味するため、特に曖昧さを避けたい場面においては「和服」という語がよく用いられる。 着物(きもの)は、「キるモノ」(着る物)という意味であり、本来は単に「衣服」を意味する語である。実際、洋服が日本で普及する以前は、日本人は衣服一般を「着物」と呼んでいて、着物という言葉に日本文化と西洋文化を区別する意味はなかった。しかし明治時代以降、洋服を着る人が日本で増え始めたため、洋服と区別するために日本在来の衣服を和服と呼ぶようになっていった。現在一般的には、「着物」には2つの意味があり、1つ目の意味は、和服である。「着物」と「和服」と「呉服」が同義語として使われることが多い。2つ目の意味は、衣服である。裸の子供に「着物を着なさい」というときの「着物」は衣服の意味だと解釈する人がいるが、そうではなく和服の意味だと解釈する人もいる。「着物を着なさい」の「着物」が衣服と和服のどちらを指すのかは、世代・方言によって違う可能性がある。 呉服の語源は、中国が三国時代のときに呉の織物や着物の縫製方法が日本に伝わったことにあるとされる。元々は絹製品を呉服、綿製品は太物(ふともの)と称し、昔は扱う店も別であった。和服そのものを指す語としては「和服」「着物」に比べ使用頻度は低いが、和服を扱う店は「呉服屋」と呼ばれることが多い。 日本で和服という言葉が生まれる明治時代よりもずっと前の16世紀の時点で、日本人が衣服のことを指して呼んだ着物(kimono)が、現在で言う和服を表す語としてヨーロッパ人に知られるようになり、現在ではヨーロッパに限らず世界の多くの言語で日本で和服と呼んでいる物を kimono と呼んでいる。kimono は、日本の和服だけではなく、東アジア圏全般で見られる前合わせ式の服全般を指すこともある。 現在の一般的な日本語では、服飾とは、衣類と装身具を指す総称である。服飾は、和服にも洋服にも用いられる言葉である。 歴史 [編集] 縄文時代・弥生時代 [編集] 縄文時代の身体装飾については石製や貝製の装身具などの出土事例があるが、衣服に関しては植物繊維などの有機質が考古遺物として残存しにくいため実態は不明である。ただし、編布の断片やひも付きの袋などの出土事例があり、カラムシ(苧麻)・アサ(麻)などの植物繊維から糸を紡ぐ技術や、できた糸から布地を作る技術はあったことがわかる。この編布から衣服が作られて着られていたと推測されている。 縄文時代には人形を模した土偶の存在があるが、土偶の造形は実際の身体装飾を表現したとは見なしがたい抽象文様で、実際の衣服の実態をどの程度反映しているかはっきりしない。 弥生時代の衣服についても、出土事例は少なく、『魏書』東夷伝の一部の「魏志倭人伝」によって推測されているのみである。魏志倭人伝の記述によると、倭人の着物は幅広い布を結び合わせている、男性は髪を結って髷にしているとある。 古墳時代・飛鳥時代 [編集] 高松塚古墳の女子群像 古墳時代の日本の衣服については、ほとんど分かっていない。7世紀の中頃までについては、日本列島で書かれた最古の歴史書である『古事記』及び『日本書紀』、そして『風土記』のみが、この時代の歴史学上の資料となっている。考古学資料としては、埴輪だけが、古墳時代の衣服を知る上での手掛かりになる。これらの資料から、男女ともに、上半身を覆う服と、下半身を覆う服の2つに分かれていたと推測されている。しかし『古事記』と『日本書紀』に服の図は描かれていないし、現存する当時の資料が極めて少ないため、分からないことが多い。 603年に、聖徳太子が、優れた人を評価する冠位十二階を定めて、役人の位階によって冠の色を分けて、役人を区別した。ただし、『日本書紀』に冠位十二階を定めたときの記述があるものの、その記述中には、それを定めたときにどの位階にどの色を使って区別したのかが書かれていない。『日本書紀』に、服の図は描かれていない。 7世紀末ごろに、国号が日本と決められた。7世紀末から8世紀初めに作られた高松塚古墳の壁画が1972年から研究された。飛鳥時代の人々の姿が描かれたもので現在も残っているのは、高松塚古墳の壁画だけである。その壁画の一部に描かれていた男子と女子の絵と、『日本書紀』の記述が、飛鳥時代の衣服の考古学上の資料である。現在の研究者達の報告によると、高松塚古墳の壁画の人物像では、男女ともに全ての衿の合わせ方が左衽(さじん)、つまり左前だったという。その壁画では、上半身を覆う服の裾が、下半身を覆う服と体の間に入っていないで、外に出て垂れ下がっているという。その壁画に描かれた服の帯は革でなく織物ではないかと推測されている。 奈良時代 [編集] 孝明天皇の袞衣(天子御礼服)。江戸時代。 この時代の日本の衣服については、はっきりしたことは分かっていない。令義解、令集義解、『続日本紀』(しょくにほんぎ)、『日本紀略』(にほんぎりゃく)などの書物と、正倉院などに現在残っている資料が、奈良時代の衣服について研究するための主要な資料である。令義解・令集義解・『続日本紀』に、服の図は描かれていない。 701年に制定された大宝律令と、大宝律令を改めて718年に制定された養老律令には、衣服令が含まれていた。大宝律令は現在残っていない。養老律令も現在残っていないが、令義解と令集義解から養老律令の内容が推定されている。大宝律令と養老律令の衣服令により、朝廷で着る服が定義され、礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服が定められた。現在、奈良時代の礼服は、「れいふく」ではなく「らいふく」と読む。養老律令の衣服令によると、奈良時代の礼服は、重要な祭祀、大嘗祭(おおなめのまつり,だいじょうさい)、元旦のときに着る服である。養老律令の衣服令によると、朝服は、毎月1回、当時朝庭と呼ばれた場所で朝会と呼ばれるまつりごとをするときと、当時公事と呼ばれたことを行うときに着る服である。奈良時代の朝会は現在の朝礼の意味ではない。武官の朝服には、ウエストを固定するための革のベルトがあったと考えられている。奈良時代の制服は、特別な地位にない官人が朝廷の公事を行うときに着る服であるという説がある。大宝律令と養老律令の衣服令は、朝廷と関わりのない庶民の衣服については定めていない。養老律令の衣服令によると、礼服・朝服・制服の形式・色彩は、それぞれの地位や役職によって違うものだった。 養老律令の衣服令によると、武官の礼服と朝服の規定に、位襖(いおう)が含まれていた。研究者達により、位襖は、地位によって違う色を使った襖(おう)であることが分かっている。位襖の服の形状は、襖と同一である。『古記』によると、襖とは、襴(らん)がなく、腋線の部分を縫わない服である。後の時代に闕腋の袍(けってきのほう)と呼ばれる服とこの時代の襖は、襴がない点と、腋線の部分を縫わない点が、共通している。 養老律令が制定された718年の時点で、文官の礼服を構成する物の中に、襴が付いた服があったと推定されている。文官の襴が付いた服は、後の時代に縫腋の袍と呼ばれる服の原形であろうといわれている。 奈良時代の服飾は、中国大陸の唐の影響を受けたものであった。この頃の中国大陸では襟の合わせ方は右前(右衽)だったという説が多い。『続日本紀』(しょくにほんぎ)によると、719年に行った政策の記述の中に「初令天下百姓右襟」という文がある。「初令天下百姓右襟」の意味は、全ての人々は衿の合わせ方を右前(右衽)にしなさい、という意味である。 平安時代 [編集] この時代の日本の皇族・貴族の服飾については平安装束を参照。現在、平安時代の庶民の衣服についてはよく分かっていない。 鎌倉・室町時代 [編集] 庶民が着ていた水干が基になって直垂(ひたたれ)ができた。鎌倉時代、直垂は武家の礼服になった。室町時代へ入ると直垂は武家の第一正装となった。 大紋(だいもん)、素襖(すおう)が出現した。 女性用の衣服も簡易化の一途をたどった。裳(も)は徐々に短くなり袴へと転化、やがて無くなった(女子服飾のワンピース化)。この後は小袖の上に腰巻き、湯巻きをまとう形になった。小袖の上に丈の長い小袖を引っ掛けて着る打掛ができた。 姫路城の千姫人形 江戸下町の端切屋(深川江戸資料館) 江戸時代前期 [編集] 江戸時代になると一層簡略化され、肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)とを組み合わせた裃(かみしも)が用いられた。庶民の文化として小袖が大流行した。歌舞伎などの芝居が流行し、錦絵や浮世絵で役者の服飾が紹介されると、庶民の装いは更に絢爛豪華なものとなった。これに対して幕府は、儒教的価値観から倹約令にて度々規制しようとしたが、庶民の服飾への情熱は収まらず、茶の湯の影響もあって、見た目は地味だが実は金の掛かっているものを好むようになった。 帯結びや組みひもが発達し、帯を後ろで結ぶようになった。 江戸時代後期 [編集] 鎖国政策により、国外から絹を輸入しなくなったため、日本で使用される絹のほとんどは国産のものとなった。江戸時代に絹でありながら比較的安価な縮緬を着用する庶民もいたが、1783年から1788年頃にかけて天明の大飢饉が発生したため、幕府は1785年に庶民が絹製品を着用することを禁止した。庶民は木綿製もしくは麻などの衣服を着用した。下町には端切屋の行商がたびたび訪れ、庶民は買い求めた端切れの布で補修しながら大切に衣装を使用した[1]。 女子服飾は長い袂(たもと)の流行から婚礼衣装の振袖ができた。 1864年には、禁門の変を理由に長州征伐の兵を挙げた幕府が、その時の軍服を西洋式にすることを決め、小伝馬町の商人である守田治兵衛が2000人分の軍服の製作を引き受け、試行錯誤しながらも作り上げた。日本においての洋服の大量生産は、記録に残る限りこれが最初だといわれる。 明治・大正時代 [編集] 1870年頃の和服の日本人女性 明治時代になると、政府の産業育成の動きも手伝って、近代的な絹の製糸工場が建設され、絹の生産量が一層高まった。日本は開国したため国外との貿易が発展し、絹糸(生糸)と絹製品の輸出額は全輸出額の内大きな割合を占め、世界的に日本は絹の生産地と見なされるようになった。絹糸の大量生産に伴って、絹は他の商品と比べてそれほど高価ではなくなった。女性の和服に様々な種類の生地が用いられるようになった。それに伴い絹織物も、縮緬・綸子・御召・銘仙など種類が増えた。出来上がった生地は染色技術の発達により二次加工され、今までにない友禅文様が可能になった。絹の小紋染めの流行は、江戸時代から引き続き、伝統的な晴着として大いに人気を集めたが、あらかじめ先染めの糸で文様を織り出した縞や絣も好まれた。 明治時代以降、華族や西洋人と接する機会の多かった人々の間では比較的早く洋服が定着した。政府の要人の場合は、洋服を着ることにより、日本が西欧の進んだ科学技術を学び近代化を目指す意欲を西洋の外国人にアピールし、交渉などを有利に進める目的があったといわれている。庶民は、洋服がまだ高価だったことや、伝統への美意識やこだわりなどから江戸時代以来の生活の様式を保持し続けた。西洋からの服飾の輸入がなされ、間もなく日本国内でも洋服が作られるようになった。以前は日本在来の衣服を「着物」と呼んでいたが、元々着物には服という意味しかない。そこで洋服と区別するために、以前「着物」と呼んでいた服を「和服」と呼ぶようになった。 洋服が登場し始めた頃は、貸衣装屋から洋服を借りて着用するのが普通だった。明治時代には洋服は主に男性の外出着や礼服であり、日常はほとんど和服が使われた。小規模ながらも各地に洋服の貸し出し店や洋服販売店ができるようになった。 1871年に陸軍や官僚の制服を西洋風に改めることを定めた天皇の勅諭(太政官布告399号「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」)が発せられた以後、警官・鉄道員・教員などが順次服装を西洋化していった。男性は、軍隊では軍服の着用が義務付けられたが、このときの軍服は洋服である。また陸軍の軍服を規範に作られた詰め襟の洋服である学生服が男子学生の制服として採用された。 明治・大正時代に学校の内外で女学生が日常的に着る服として、女性用の行灯袴を好んで着用し、女学生の袴姿が流行した。袴は、和服である。これが日本文化として定着し、現在でも、入学式・卒業式などで、袴を正装の一部として好んで着用する女学生がいる。女性は華族や女子教育にあたる教員など一部を除きもっぱら和服であったが、大正時代後期から、女学校の制服にそれまでの袴に代えて洋服であるセーラー服が採用される例が増える。 日本の女性の衣服を洋服に変えていこうと主張・運動する女性達がいた。1922年5月4日から11日までに開かれた生活改善講習会において、塚本はま子は「衣服の改善」という題の講習の中で、「現代社会に適合した美的且つ便利、経済的な改善を斬新的に行っていくこと。方向としては洋服のみの生活を示唆している」と述べ、また嘉悦孝子は『經濟改善 是からの裁縫』(けいざいかいぜん これからのさいほう)(日本服装改善会出版部、1922年)の序文で「私は日本服装改善の到達点は、洋服か洋服に近いものであらうと存じます」と書いた。 1923年の関東大震災では、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かったことから、翌1924年に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装にも西洋化が進むことになる。 なお和服は元々中国の漢服の影響を受けて発達したためデザインが似ており(実際の構造はかなり異なるが)、1900年ごろ清の朝廷から逃れて日本で革命運動をしていた中国人活動家の中には、満州族が支配する清朝に対する漢民族の抵抗のシンボルの1つとして、漢服の代用品として和服を愛用した活動家も多かった。 参照:ウィキペディア「和服」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%9C%8D 次回、「昭和 1945年の終戦まで」より 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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絹 絹(きぬ)は、蚕の繭からとった天然の繊維。英語ではシルク(silk)。独特の光沢を持ち、古来より珍重されてきた。主成分は蚕が体内で作り出すたんぱく質・フィブロイン。蚕の繭から抽出された極細の糸を数本揃えて繰り糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)ともいう。これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・曹達など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除いてより光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。前者は化学染料、後者はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられはじめたのは明治維新以降であり、昔の文献や製品にあたる際、現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつことに注意が必要である。また、養殖して作る家蚕絹と野性の繭を使う野蚕絹に分けられる。1個の繭から約800~1,200mとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維である。 歴史 絹の生産は紀元前3000年頃の中国で始まっていた。伝説によれば黄帝の后・西陵氏が絹と織物の製法を築いたとされ、一説には紀元前6000年頃ともされる。少なくても前漢の時代には蚕室での温育法や蚕卵の保管方法が確立しており、現在の四川省では有名な「蜀錦」の生産が始められていたという。『斉民要術』によれば現在の養蚕原理がほとんど確立していた事が判明している。また、北宋時代には公的需要の高まりに伴って両税法が銭納から絹納へと実質切り替えられ(1000年)、以後農村部においても生産が盛んになった。 一方、他の地域では絹の製法が分らず、非常に古い時代から絹は中国から陸路でも海路でもインド、ペルシャ方面に輸出されていた。これがシルクロード(絹の道)の始まりである。紀元前1000年頃の古代エジプト遺跡から中国絹の断片が発見されている。古代ローマでも絹は上流階級の衣服として好まれ、紀元前1世紀にエジプトを占領すると絹の貿易を求めて海路インドに進出、その一部は中国に達した。だが、ローマでは同量の金と同じだけの価値があるとされた絹に対する批判も強く、アウグストゥスが法令で全ての人間に絹製の衣類着用を禁じ、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは絹製のローブが欲しいという后の懇願を拒絶して模範を示したが、それでも絹着用の流行は留まることはなかった。 6世紀に絹の製法は東ローマ帝国に入ったが、品質は中国製に及ばず、生産量も多くはなかった。このため中国絹は依然として東西貿易の重要な交易品であった。中世ヨーロッパでは1146年にシチリア王国のルッジェーロ2世が自国での生産を始め、またヴェネツィアが絹貿易に熱心で、イタリア各地で絹生産が始まった。フランスのフランソワ1世はイタリアの絹職人をリヨンに招いて絹生産を始めた。リヨンは近代ヨーロッパにおける絹生産の中心となる。ちなみに宗教改革で母国を追われたプロテスタントの絹職人を受け入れたイギリスでは、ジェームズ1世以来、何度も絹の国産化を計画したが本国で蚕を育てる事に悉く失敗し、漸く成功に漕ぎ着けた植民地もまたアメリカ合衆国として独立した。このため、他のヨーロッパ諸国よりも中国産の良質な生糸を求める意欲が強く、これが英清間の貿易不均衡、更にはアヘン戦争へと繋がっていく遠因となったとする説もある。 日本にはすでに弥生時代に絹の製法は伝わっており、律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたが、品質は中国絹にはるかに及ばず、また戦乱のために生産そのものが衰退した(室町時代前期には21ヶ国でしか生産されていなかったとする記録がある)。このため日本の上流階級は常に中国絹を珍重し、これが日中貿易の原動力となっていた。明代に日本との貿易が禁止されたため、倭寇などが中国沿岸を荒らしまわり、この頃東アジアに来航したポルトガル人は日中間で絹貿易を仲介して巨利を博した。鎖国後も中国絹が必要だったため、長崎には中国商船の来航が認められて、国内商人には糸割符が導入されていた。長年の衰退の影響で日本国内産の蚕は専ら綿の生産にしか用いる事が出来ない劣悪なものが多く、西陣や博多などの主要絹織物産地では中国絹が原材料として用いられていたが、鎖国が行われ始めた寛永年間から品質改良が進められた。また、幕府は蚕種確保のために代表的な産地であった旧結城藩領を天領化し、次いで同じく天領でより生産条件の良い陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みた。これに対して仙台藩・尾張藩・加賀藩と言った大藩や上野国や信濃国の小藩などが幕府からの圧力にも拘らず、養蚕や絹織物産業に力を入れたために徐々に地方においても生糸や絹織物の産地が形成された。この結果、貞享年間(1685年)には初めて江戸幕府による輸入規制が行われた。更に同幕府の8代将軍徳川吉宗は貿易赤字是正のために天領・諸藩を問わずに生産を奨励し、江戸時代中期には日本絹は中国絹と遜色がなくなった。幕末の開港後は絹が日本の重要な輸出品となる。養蚕業、製糸業は明治以降の日本が近代化を進める上で、重要な基幹産業であり、殖産興業の立役者のひとつである。ほぼ前後して清(中国)でも製糸業の近代化が欧米資本及び現地の官民で進められた。元々国内需要・消費が多く、生産者が多かった日中両国での機械化による生産量の増大は絹の国際価格の暴落を招き、ヨーロッパの絹生産に大打撃を与えた。なお、日本と中国における最初の近代的な製糸工場と言われる富岡製糸場と寶昌糸廠(上海)の技術指導を行ったのは、同じフランス人技師であるポール・ブリュナー(Paul Brunat)であった。 糸繰り機(市立岡谷蚕糸博物館所蔵) 1909年、日本は生糸生産量で清を上回り、世界最高となった。 生糸は明治、大正と日本の主要な外貨獲得源であったが、1929年以降の世界恐慌では、世界的に生糸価格が暴落したため、東北地方などを中心に農村の不況が深刻化した(農業恐慌)。 第二次世界大戦で日本、中国、ベトナムなど東アジア諸国との貿易が途絶えたため、欧米では絹の価格が高騰した。このためナイロン、レーヨンなど人造繊維の使用が盛んになった。戦後、日本の絹生産は衰退し、現在は主に中国から輸入に頼っている。1998年の統計では、日本は世界第5位の生産高ではあるが、中国・インド・ブラジルの上位3ヶ国で全世界の生産の9割を占め、4位ウズベキスタンや日本を大きく引き離している。2010年現在では、市場に提供する絹糸を製造する製糸会社は国内には2社のみとなっている。2社の年間生産量は不明だが現在の国の発表している「絹」生産量を賄うのは、社員数や資本金から推測して不可能に思われる。「国産の絹」と称するものについては、どの段階(製糸、織布)での国産なのか、注意するべきだろう。 利用 * 絹自体の光沢ある質感を最大限に生かした本しゅす織り(サテン)生地の材料にする。 * 東アジア、東南アジアでは楽器の弦の材料ともなる。日本でも箏、三味線、琵琶、胡弓、一絃琴、二絃琴などの弦楽器の弦(和楽器では糸と呼ぶ)はすべて絹製である。箏は近年テトロン、ナイロン製が主流となったが、音色では絹が最高である。 * 日本画などの絵画で描く材料として絹が使われることもある。それらで描かれた物は絹本と呼ばれる。 * カンボジアでは黄金色の絹を採取できる。 利点と欠点 利点 * 軽い。 * 丈夫。 * 柔らかい。 * 吸湿性が良い。 * 染色性が良い。 * 通気性が良い。 欠点 * 家庭での洗濯が困難。水に弱い。 * 汗によりしみになりやすい。 * 変色しやすい。 * 虫に食われやすい。 * 日光で黄変する。 絹鳴り 絹の布をこすりあわせると「キュッキュッ」と音がする。これを絹鳴りという。繊維断面の形が三角形に近く、こすり合わせたとき繊維が引っかかりあうためで、凹凸のないナイロン繊維ではこの音はしない。 参照:ウィキペディア「絹」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%B5%B9 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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付属品 和傘 頭巾 宗十郎頭巾 烏帽子 綿帽子 角隠し(つのかくし) 帽子(ソフト帽、カンカン帽、麦わら帽子など) ハットピン ショール 襦袢 鯉口シャツ Tシャツ スタンドカラーシャツ カフリンクス アームバンド カラーステイ ボタンカバー 裾除け 褌(ふんどし) ステテコ 股引 猿股 腹巻 腰巻 腹掛け 前垂れ 半衿 湯文字(ゆもじ) 伊達襟 晒 帯 丸帯 袋帯 名古屋帯 袋名古屋帯 半幅帯 角帯 兵児帯(へこおび) 石帯(せきたい) 袋帯 単帯 踊り帯 腹合わせ帯 掛下帯 祝帯 抱え帯 軽装帯 扱帯 伊達締め 男締め 帯揚げ(おびあげ) 羽織紐 帯板(おびいた) 帯締め 帯留 ウエストベルト コーリンベルト 根付 簪(かんざし) 笄(こうがい) 櫛(くし) スペイン櫛 根掛 手絡 扇子 団扇 ハンドバッグ 巾着 雪駄(せった) 下駄 田下駄(たげた) ぽっくり下駄(ぽっくりげた) 草履 草鞋 かんじき 輪かんじき 革靴 ブーツ 足袋 手甲 脚絆(きゃはん) 手拭い ハンカチ 畳紙(たとうがみ) 懐紙 風呂敷(ふろしき) 帛紗(ふくさ) 袱紗(ふくさ) 袱紗挟み 茶道具 [[1]] 文具四宝 ポケットティッシュ 魚袋(ぎょたい) 懐剣(かいけん) 眼鏡 指輪 腕時計 懐中時計 手袋 グローブホルダー 菊綴 組み紐 真田紐 数珠 腕輪念珠 イヤリング リボン シュシュ バレッタ ヘアピン 勾玉 下緒 主な大手呉服チェーン店 和服をショッピングセンターなどで比較的たやすく入手できる、主な大手チェーン店を列挙する。 京都きもの友禅,さが美,鈴乃屋,ほていや,やまと,三松,東京山喜,新健勝苑,京ろまん,ヤマノリテーリングス 脚注 ^ 深川江戸資料館 ^ 男と女の婚礼衣裳の歴史と変遷を見る, BP net. 関連項目 ウィキメディア・コモンズ ウィキメディア・コモンズには、和服に関連するマルチメディアがあります。 抜衣紋 - 和服の着付け方の1つ 服飾 洋服 ファッション きもの文化検定 日本きもの文化美術館 - アンティーク着物を展示する美術館。 居敷当 漢服 - 奈良時代の和服の装飾には唐の漢服の影響も指摘される。 振袖等着物の解説・用語 参照:ウィキペディア「和服」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%9C%8D 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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古布のお勉強シリーズ。 ネットで研究してみると、古布の主な種類について解説されているサイトがある。 下記のサイトに記述があったので、引用させていただきました。 古布・骨董の店 藤原 様 http //www.kofuneko.com/ 絣(かすり) かすりとは、糸にあらかじめ模様を想定した染色を施し、織り上げて図柄を表現したもので、 起源はインド、中央アジア、東アジアあたりだと言われています。 かすりが一般に普及しだしたのは江戸時代で、 特に幕末から明治にかけて最も普及し、技術が進展しました。 かがすり(蚊絣) 蚊のように小さいかすりのことです。 細かいほど価値があると言われています。 雪がすり 雪が降るように見える所からの名称だと 思います。これも細かい方が珍重されます。 刺し子 刺し子とは、刺繍を施す事によって布を丈夫にすると同時に美しく装飾するという、 実用性とおしゃれを両立させたもので、その装飾性、表現の豊かさが最近注目を浴びています。 半纏(はんてん)、長着、もんぺなどによく使われており、防寒、補強などの意味があったと思われます。 型染 型染とは、主に型紙を用いて模様を染める染色方法のことです。 手書染と違って同じ模様を繰り返し染めることができるのが特徴です。 東北の型染はアイヌ文化の影響も受けていて素朴な感じのするものが多く、布団皮、着物などに多く使われています。 種類はたくさんありますが、最近古いものが少なくなってきたように思えます。 更紗 更紗の起源はインドとされていて、ペルシャ、ジャワなどに伝搬しました。 日本には室町時代~桃山時代ごろからジャワなどの更紗が入ってきたようです。 日本では江戸中期ごろから日本風の更紗が作られていました。 室町時代~江戸時代に東南アジア、インドなどから入ってきた更紗、縞などを 「古渡更紗」として珍重されています。 そして、メジャーな種類である縮緬。 これは、角山幸洋さんという方による解説をそのまま引用させていただきます。 縮緬(ちりめん) 緯(よこ)糸に強撚糸(きょうねんし)を交互に打ち込んだ絹織物の総称。一般には経(たて)糸に撚(よ)りのない生糸、緯糸に強撚の生糸を用いて平織に製織したのち、ソーダを混ぜたせっけん液で数時間煮沸して縮ませ、水洗いして糊(のり)けを去り乾燥させて仕上げたもの。この強撚の緯糸を縮緬緯といい、一般に右撚り2本、左撚り2本を交互に織り込むが、品種により1本または3本を交互に入れることもあり、縮緬のしぼの大きさに変化をもたせることがある。たとえば一越(ひとこし)縮緬は、左右の撚糸を一越(緯糸1本)ごと交互に織り込んだものである。 この縮緬の製造に際しては、撚糸法の改良が問題となる。蚕糸自体は長繊維なので、製織のため撚りをかける必要はなく、古代では一部のものを除いてほとんどのものが無撚(むより)であるが、13世紀ごろ中国で「大紡車」(一度に多くの撚糸が製造できる道具で、水車動力を利用する。日本の撚糸八丁車(よりいとはっちょうぐるま)に相当するもの)が発明されてからは、蚕糸に撚りをかけることが一般化してくる。このような事情が縮緬の製造に拍車をかけたものとみられる。日本へは天正(てんしょう)年間(1573~92)に中国の織工が堺(さかい)に技術を伝え、それが西陣(にしじん)へ伝わったとされている。一方、西欧へ伝わったものは一般にクレープとよんでいるもので、多くの種類を生んでいった。 縮緬は原糸、用途、糸使いなどによって、西陣縮緬、丹後(たんご)縮緬、岐阜縮緬、浜(はま)縮緬、桐生(きりゅう)縮緬、足利(あしかが)縮緬などが各地方に生まれ、鬼縮緬、鶉(うずら)縮緬、絽(ろ)縮緬、紋縮緬、錦紗(きんしゃ)縮緬などがある。用途は広く、着尺地、羽尺地、帯地などに使われる。また広幅のものは、クレープとよび、フラット・クレープ、ジョーゼット・クレープなどがあって、婦人服地として用いられている。 参照:古布の種類 トビウオのビジネスブログより http //yaplog.jp/tosihiro/archive/270 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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股布 股布(またぬの)とは、ズボンの二重布、パンティー(ショーツ)の股部にある補強目的の生地を2重に縫製した部分。一般的には「クロッチ」「シック部」等と呼ばれる。 歴史 [編集] クロッチの始まりは、19世紀ヨーロッパの乗馬ズボンの補強布といわれている。アメリカでは極端に布が手に入り難かった開拓時代初頭、合理的に弱った布の部分だけ繕えるようズボンの身頃と股布を型紙別にパターン取りし、縫製したズボン「モンキーパンツ」がカウボーイに広まった。現代でも男性用のタイツ、ステテコ、猿股、パッチ等にこの股布が縫製されるのは、明治時代に導入された洋装の余波と推測される。 パンティーの股布 [編集] パンティーの場合、ナイロン製などの素材でも、この部分の裏は尿やおりものなどの膣分泌物が付着して汚れやすい(底部が2重になっているのはこれらの汚れを受ける役割もある)ことから綿製であることも多く、たいていの場合白色が多い(身生地と同色・同柄の場合もあり)。この部分におりものシートを貼り付け予防する女性が多い。 トイレットトレーニング用のトレーニングパンツ、軽失禁ショーツ、老人用パンツ、介護パンツ、サニタリーショーツでは、この部分よりもっと広い面積や全体にベビービニールあるいはその他の防水布を施したり、老人用には尿などを吸収するおむつを組み込んだ製品もある。 参照:wikipedia「股布」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A1%E5%B8%83 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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更新履歴 @wikiのwikiモードでは #recent(数字) と入力することで、wikiのページ更新履歴を表示することができます。 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/17_117_ja.html たとえば、#recent(20)と入力すると以下のように表示されます。 取得中です。
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えのんくん 都道府県 神奈川県 肩書き 江ノ島電鉄マスコットキャラクター 攻略難易度 ★易。えのでんはうすに休日を中心に登場。 イベント情報 えのでんはうす(江ノ島電鉄江ノ島駅から徒歩3分)に休日を中心に登場。
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保険きくね ほけんきくね (形)生活に支障をきたすほどひどいさま。顔や性格等、変えるのが難しい物に対して用いることが多い。