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雛祭り(ひなまつり)は女子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事。 ひいなあそびともいう。 目次 [非表示] * 1 時期 * 2 形式 * 3 歴史 * 4 雛人形 o 4.1 種類 o 4.2 配置 o 4.3 飾り方 * 5 雛人形の生産地・販売地 * 6 雛祭りが祝日でない理由 * 7 特色ある雛祭り * 8 雛祭りを歌った楽曲 * 9 関連項目 時期 [編集] 和暦(太陰太陽暦)の3月の節句(上巳)である3月3日(現在の4月頃)に行われていたが、明治6年(1873年)1月1日の改暦以後は一般的にグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なう。しかし一部では引き続き旧暦3月3日に祝うか、新暦4月3日に祝う(東北・北陸など積雪・寒冷地に多い)。旧暦では桃の花が咲く季節になるため「桃の節句」となった。 形式 [編集] 「男雛」と「女雛」を中心とする人形を飾り、桃の花を飾って、白酒などの飲食を楽しむ節句祭り。本来「内裏雛」とは雛人形の「男雛」と「女雛」の一対を指すが、男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶ誤りは童謡「うれしいひなまつり」の歌詞から一般化してしまっている。関東雛と京雛では男雛と女雛の並ぶ位置は逆。三人官女以下のその他大勢の随臣、従者人形を「供揃い」という。 歴史 [編集] 「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。 江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。 江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。 雛人形 [編集] 最近の雛人形 「雛人形」は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している。 種類 [編集] * 親王(男雛、女雛)はそれぞれ天皇、皇后をあらわす * 官女(三人官女)は宮中に仕える女官をあらわす、内1人のみお歯黒、眉無し (既婚者を意味するが、生涯独身の女官の場合には年長者という意味であろう) * 五人囃子は能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、それぞれ「太鼓」「大鼓」「小鼓」「笛」「謡」である (能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もある) * 随身(ずいじん)の人形は随臣右大臣と左大臣と同時に衛士(えじ)でもある * 仕丁は従者をあらわし、通常3人1組である ※メーカーによっては、以下の追加がある * 三歌人(柿本人麻呂、小野小町、菅原道真) * 能の鶴亀 * 稚児2名 配置 [編集] ひな壇の例 九州大学病院にて 内裏雛や人形の配置に決まりごとはない。しかし壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがある。中国の唐や日本では古来は「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。しかし明治の文明開化で日本も洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。それが以降から皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。 それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。永い歴史のある京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、どちらでも構わないとしている。 飾り方 [編集] 飾り方にも全国各地で色々あるが、多くはこの三種の飾り方である。しかし、特に飾り方に決まりごとはない。 * 御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む) * 御殿の内の一室を拝しての飾り方 * 屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方 さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの道具を一緒に飾ることもある。上段の写真にあるような五段、七段(七段飾りは高度経済成長期以降、八段飾りはバブル期以降)の檀飾りが多かったが、最近では部屋の大きさに合わせたり雛人形を出し入れしやすいように段数を減らしたものが主流となっている。戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。 祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説は昭和初期に作られた迷信である。旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされる。 また、地域によっては「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける、などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という、躾の意味からもいわれている。 この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。 雛人形の生産地・販売地 [編集] 割と関東地方に集中した感じはあるが、生産地としては埼玉県のさいたま市岩槻区(以前の埼玉県岩槻市)が有名。また栃木県の佐野市や埼玉県鴻巣市も小規模ながら生産店が存在する。販売に関しては全国の商業施設で販売されているが、集中して軒を連ねるのは、東京都台東区の浅草橋が有名で、「人形の久月」「秀月」「吉徳大光(「顔が命の〜」のCMキャッチコピー)」らの専門店がある。これらの店舗は毎年正月から2月ぐらいにかけテレビCMを流す。ちなみに雛人形と共に手掛ける五月人形も3月3日以降にCMが流れる。 雛祭りが祝日でない理由 [編集] 江戸時代雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、明治6年の新暦採用が「五節句(=雛祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされる。 特色ある雛祭り [編集] 山梨県甲州市塩山・重要文化財・甘草屋敷に展示された吊るし雛 日本一のピラミッドひな壇(鴻巣びっくりひな祭り2011) ちらし寿司と蛤の吸い物 各地で、大量に雛人形飾りを公開したり、特色ある飾りを飾ったり、少年少女、又は成人の男女が雛人形に扮したりする祭り等が、この期間中に開催される。 * 1月末〜4月中旬:三十段飾り 千体の雛祭り- 長野県須坂市 * 3月上旬:くくり雛まつり- 岩手県奥州市水沢区 * 3月上旬:石段ひなまつり - 群馬県渋川市伊香保温泉 * 3月上旬:鴻巣びっくりひな祭り - 埼玉県鴻巣市 * 3月3日:ひなまつり子供大会@妙圓寺 - 東京都渋谷区 * 2月下旬:かつうらビッグひな祭り - 千葉県勝浦市 * 2月から4月にかけて 「吊るしびな」など、さまざまな雛人形が展示される。 - 山梨県甲州市 * 7月下旬:人間ジャンボひな壇@岩槻祭り - さいたま市岩槻区 * 4月3日:生きびな@水無神社 - 岐阜県高山市 * 3月3日:ひいな祭り@市比売神社 - 京都市下京区 * 3月3日:ひな流し@淡嶋神社 - 和歌山市 * 2月上旬〜3月上旬:中馬のおひなさん - 愛知県豊田市 * 2月下旬〜3月中旬:鞆町並ひな祭 - 広島県福山市鞆町 * 3月3日:流しびな - 鳥取市用瀬町 * 3月上旬:ビッグひな祭り - 徳島県勝浦町 * 2月下旬〜3月3日引田ひなまつり - 香川県東かがわ市 * 3月中旬:おひな様水上パレード - 福岡県柳川市 * 2月11日:おひな様始祭 - 福岡県柳川市 * 2月9日〜3月5日:城下町やつしろのお雛祭り - 熊本県八代市 * 2月11日〜3月22日:有田雛のやきものまつり - 佐賀県有田町 * 2月15日〜3月31日:天領日田おひなまつり - 大分県日田市 * 2月中旬〜3月下旬:佐賀城下ひなまつり - 佐賀県佐賀市 * 2月上旬〜3月上旬:真壁のひなまつり - 茨城県桜川市真壁町 雛祭りを歌った楽曲 [編集] * うれしいひなまつり(童謡、作詞:山野三郎(サトウハチロー)、作曲:河村直則(河村光陽)、1936年(昭和11年)ポリドール) * ひなまつり(童謡、作詞:海野厚、作曲:三宅延齢) * おひなまつり(童謡、作詞:斎藤信夫、作曲:海沼実) * ひなまつり(童謡、作詞:斉木秀男、作曲:三宅延齢) * ひなまつりの歌(童謡、作詞:与田準一、作曲:河村光陽) * おひなさま(童謡、作者不明) * 血塗られたひな祭り(人間椅子 (バンド)) * 雛祭(文部省唱歌、作者不明) * ひなまつり(文部省唱歌、作詞:林柳波、作曲:平井康三郎) * 雛祭り(童謡、作詞:林柳波、作曲:本居長世) * ひなまつり(童謡、作詞:水谷まさる、作曲:小松清) * 雛祭の宵(ひなのよい、童謡、作詞者不詳、作曲:長谷川良夫) * 雛の宵(長唄、作詞:松正子(松本白鸚夫人)、作曲:今藤政太郎) * 雛の宵(清元) * ミニモニ。ひなまつり!(J-POP、作詞:つんく、作曲:つんく) 関連項目 [編集] ウィキメディア・コモンズ ウィキメディア・コモンズには、雛祭りに関連するマルチメディアがあります。 * 吊るし飾り * 流し雛(この流し雛という風習の始まりは古代の祓い神事の人形であったといわれる) * 桃カステラ 参照:ウィキペディア「雛祭り」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%9B%E7%A5%AD%E3%82%8A 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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絹(きぬ、英 silk)は、蚕の繭からとった動物繊維である。独特の光沢を持ち、古来より珍重されてきた。蚕が体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800~1,200mとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。 蚕の繭(まゆ)を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・曹達など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。前者は化学染料、後者はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられはじめたのは明治維新以降であり、昔の文献や製品にあたる際、現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつことに注意が必要である。また、養殖して作る家蚕絹と野性の繭を使う野蚕絹に分けられる。 目次 [非表示] * 1 歴史 * 2 利用 * 3 利点と欠点 o 3.1 利点 o 3.2 欠点 * 4 絹鳴り * 5 関連項目 * 6 参考文献 * 7 外部リンク 歴史 [編集] 絹の生産は紀元前3000年頃の中国で始まっていた。伝説によれば黄帝の后・西陵氏が絹と織物の製法を築いたとされ、一説には紀元前6000年頃ともされる。少なくても前漢の時代には蚕室での温育法や蚕卵の保管方法が確立しており、現在の四川省では有名な「蜀錦」の生産が始められていたという。『斉民要術』によれば現在の養蚕原理がほとんど確立していた事が判明している。また、北宋時代には公的需要の高まりに伴って両税法が銭納から絹納へと実質切り替えられ(1000年)、以後農村部においても生産が盛んになった。 一方、他の地域では絹の製法が分らず、非常に古い時代から絹は中国から陸路でも海路でもインド、ペルシャ方面に輸出されていた。これがシルクロード(絹の道)の始まりである。紀元前1000年頃の古代エジプト遺跡から中国絹の断片が発見されている。古代ローマでも絹は上流階級の衣服として好まれ、紀元前1世紀にエジプトを占領すると絹の貿易を求めて海路インドに進出、その一部は中国に達した。だが、ローマでは同量の金と同じだけの価値があるとされた絹に対する批判も強く、アウグストゥスが法令で全ての人間に絹製の衣類着用を禁じ、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは絹製のローブが欲しいという后の懇願を拒絶して模範を示したが、それでも絹着用の流行は留まることはなかった。 6世紀に絹の製法は東ローマ帝国に入ったが、品質は中国製に及ばず、生産量も多くはなかった。このため中国絹は依然として東西貿易の重要な交易品であった。中世ヨーロッパでは1146年にシチリア王国のルッジェーロ2世が自国での生産を始め、またヴェネツィアが絹貿易に熱心で、イタリア各地で絹生産が始まった。フランスのフランソワ1世はイタリアの絹職人をリヨンに招いて絹生産を始めた。リヨンは近代ヨーロッパにおける絹生産の中心となる。ちなみに宗教改革で母国を追われたプロテスタントの絹職人を受け入れたイギリスでは、ジェームズ1世以来、何度も絹の国産化を計画したが本国で蚕を育てる事に悉く失敗し、漸く成功に漕ぎ着けた植民地もまたアメリカ合衆国として独立した。このため、他のヨーロッパ諸国よりも中国産の良質な生糸を求める意欲が強く、これが英清間の貿易不均衡、更にはアヘン戦争へと繋がっていく遠因となったとする説もある。 日本にはすでに弥生時代に絹の製法は伝わっており、律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたが、品質は中国絹にはるかに及ばず、また戦乱のために生産そのものが衰退した(室町時代前期には21ヶ国でしか生産されていなかったとする記録がある)。このため日本の上流階級は常に中国絹を珍重し、これが日中貿易の原動力となっていた。明代に日本との貿易が禁止されたため、倭寇などが中国沿岸を荒らしまわり、この頃東アジアに来航したポルトガル人は日中間で絹貿易を仲介して巨利を博した。鎖国後も中国絹が必要だったため、長崎には中国商船の来航が認められて、国内商人には糸割符が導入されていた。長年の衰退の影響で日本国内産の蚕は専ら綿の生産にしか用いる事が出来ない劣悪なものが多く、西陣や博多などの主要絹織物産地では中国絹が原材料として用いられていたが、鎖国が行われ始めた寛永年間から品質改良が進められた。また、幕府は蚕種確保のために代表的な産地であった旧結城藩領を天領化し、次いで同じく天領でより生産条件の良い陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みた。これに対して仙台藩・尾張藩・加賀藩と言った大藩や上野国や信濃国の小藩などが幕府からの圧力にも拘らず、養蚕や絹織物産業に力を入れたために徐々に地方においても生糸や絹織物の産地が形成された。この結果、貞享年間(1685年)には初めて江戸幕府による輸入規制が行われた。更に同幕府の8代将軍徳川吉宗は貿易赤字是正のために天領・諸藩を問わずに生産を奨励し、江戸時代中期には日本絹は中国絹と遜色がなくなった。幕末の開港後は絹が日本の重要な輸出品となる。養蚕業、製糸業は明治以降の日本が近代化を進める上で、重要な基幹産業であり、殖産興業の立役者のひとつである。ほぼ前後して清(中国)でも製糸業の近代化が欧米資本及び現地の官民で進められた。元々国内需要・消費が多く、生産者が多かった日中両国での機械化による生産量の増大は絹の国際価格の暴落を招き、ヨーロッパの絹生産に大打撃を与えた。なお、日本と中国における最初の近代的な製糸工場と言われる富岡製糸場と寶昌糸廠(上海)の技術指導を行ったのは、同じフランス人技師であるポール・ブリュナー(Paul Brunat)であった。 糸繰り機(市立岡谷蚕糸博物館所蔵) 1909年、日本は生糸生産量で清を上回り、世界最高となった。 生糸は明治、大正と日本の主要な外貨獲得源であったが、1929年以降の世界恐慌では、世界的に生糸価格が暴落したため、東北地方などを中心に農村の不況が深刻化した(農業恐慌)。 第二次世界大戦で日本、中国、ベトナムなど東アジア諸国との貿易が途絶えたため、欧米では絹の価格が高騰した。このためナイロン、レーヨンなど人造繊維の使用が盛んになった。戦後、日本の絹生産は衰退し、現在は主に中国から輸入に頼っている。1998年の統計では、日本は世界第5位の生産高ではあるが、中国・インド・ブラジルの上位3ヶ国で全世界の生産の9割を占め、4位ウズベキスタンや日本を大きく引き離している。2010年現在では、市場に提供する絹糸を製造する製糸会社は国内には2社のみとなっている。2社の年間生産量は不明だが現在の国の発表している「絹」生産量を賄うのは、社員数や資本金から推測して不可能に思われる。「国産の絹」と称するものについては、どの段階(製糸、織布)での国産なのか、注意するべきだろう。 利用 [編集] * 絹自体の光沢ある質感を最大限に生かした本しゅす織り(サテン)生地の材料にする。 * 東アジア、東南アジアでは楽器の弦の材料ともなる。日本でも箏、三味線、琵琶、胡弓、一絃琴、二絃琴などの弦楽器の弦(和楽器では糸と呼ぶ)はすべて絹製である。箏は近年テトロン、ナイロン製が主流となったが、音色では絹が最高である。 * 日本画などの絵画で描く材料として絹が使われることもある。それらで描かれた物は絹本と呼ばれる。 * カンボジアでは黄金色の絹を採取できる。 利点と欠点 [編集] 利点 [編集] * 軽い。 * 丈夫。 * 柔らかい。 * 吸湿性が良い。 * 染色性が良い。 * 通気性が良い。 欠点 [編集] * 家庭での洗濯が困難。水に弱い。 * 汗によりしみになりやすい。 * 変色しやすい。 * 虫に食われやすい。 * 日光で黄変する。 絹鳴り [編集] 絹の布をこすりあわせると「キュッキュッ」と音がする。これを絹鳴りという。繊維断面の形が三角形に近く、こすり合わせたとき繊維が引っかかりあうためで、凹凸のないナイロン繊維ではこの音はしない。 関連項目 [編集] * 養蚕業 o カイコ/ヤママユ/クワ * 絹織物 o 絁 o 西陣織/桐生織/博多織 o 羽二重/ちりめん o 旧国立生糸検査所/旧神戸生糸検査所/旧横浜生糸検査所(シルクセンター) o 女工哀史 * 絹貿易 o ジム・トンプソン o シルクロード/絹馬貿易 * 真綿/羊毛/化学繊維 参照:ウィキペディア「絹」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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セオドアは出自と経緯が死ぬほど重いから見逃されがちだけど、おもしれー男なんですよ(のんきとも言うが) セオドアの場合、愛称のつけ方は「(名前一文字)ーちゃん」みたいなことが多いです。 ルーネスならルーちゃん、クラサメならクーちゃんといったように。 なおアリエスからは「もっとナイスな呼び方でお願いします」と無茶振りされたので法則から外れた模様。クラサメのは本人の意向がソフトに伝わってたのですんなりヴィード呼びに切り替えてたけど。 いつかの思い出 セオドア「たとえば——本当にたとえばの話ですよ?なんというか、パッとしないものだと思うかもしれないけど…… もし俺が、貴方と同じぐらいの年頃で出逢っていたら、ちょっとぐらい何かが変わっていたのでしょうか」 バルドゥール「……そうだな。その時は……たぶん、善き友でいられたと思う。ああいや、今の関係を悪しとしているわけではないんだが。イムカやハルのような対等の友人、になっていたのかもしれないし、ひょっとしたら親友はセオドアだったのかもしれない」 セオドア「……そう思うと悔しいです」 バルドゥール「どうして?」 セオドア「親友にまで登り詰められていたら、貴方の本当の助けとかできたかもしれないのに」 バルドゥール「……嫉妬?」 セオドア「……変ですか?」 バルドゥール「ううん。なぜだろうな。お前がそういう顔を見せてくれると、なんだかほっとする」 セオドア「拗ねます」 バルドゥール「こら」 セオドア「むぬ……」 バルドゥール「しかしそうだな、親友か。もしそうなっていたら、セオドアは僕をどうしたかった?」 セオドア「……語弊を生みませんか、その言い回し」 バルドゥール「え?」 セオドア「なんでもないです。えっと、親友になったら……?そうだなぁ。 ……実は俺、一個だけ憧れていることがあるんです。友達になった人に、愛称をつけるという」 バルドゥール「愛称?」 セオドア「はい!ほら、愛称っていいものなんですよ?俺たちはちゃんと仲いいよって誰かに端的に示せるんですって」 バルドゥール「……イムカが似たようなこと言っていたな。もしかして影響受けた?」 セオドア「え?いや、初耳ですけど」 バルドゥール「じゃあ違うか、早合点した。うーんと、愛称か……セオドアに「ルディ」と呼ばれるのはむずがゆいかもしれない」 セオドア「ルディ?」 バルドゥール「エルに昔、そう呼ばれていた。今もわりと呼ばれてるけど」 セオドア「……ひょっとして、ジークさん?」 バルドゥール「鋭いな、正解だ。……僕の愛称がこの調子だと、セオドアは「セディ」になるのかな?ね、セディ」 セオドア「お、おお?」 バルドゥール「どうかしたか?」 セオドア「……た、確かにむずがゆいです!というか、なんだか恥ずかしいような!」 バルドゥール「あれ、そうなのか。じゃあ仲間だな」 セオドア「あはは……はい。……あの、バルドゥールさん」 バルドゥール「なんだ?」 セオドア「ルディ、かっこいいんですけど……せっかくなら、やわらかめの呼び方もしてみたい気持ちあります。バルドゥールさんなら「ルーちゃん」とか!」 バルドゥール「うぇ……っ!?」 セオドア「えっ!?」 バルドゥール「……、ワンモアプリーズ?」 セオドア「な、なんで疑問形なんですか」 バルドゥール「もう一回。いいから」 セオドア「……ルーちゃん?」 バルドゥール「…………、同い年ぐらいじゃなくてよかったかもしれないな」 セオドア「ど、どういう意味ですか!?」 バルドゥール「いろいろと(……危うかった……うっかり動悸が……)」
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和裁(和服裁縫) 和裁とは、和服裁縫の略語であり、和服を制作することやその技術のことである。「和服の仕立て」ともいう。詳しくは、和裁を参照。 和服の畳み方 「本だたみ」と言われる畳み方が一般的に普及しており、着付け方を紹介した本などにも多く取り上げられている。その他礼装用などで本畳みにすると刺繍など折り目が付いてしまうことを避けるために行う「夜着畳み」という畳み方もある。仮仕立てと呼ばれる仮縫いの状態や仮絵羽になっている着物を畳む畳み方(絵羽畳みなどと呼ばれる)もある。また仮に衣桁などに架ける場合や一時的に畳んでおく肩畳みなどと呼ばれる背中心から折り込み、衿が肩方を向く畳み方があり、これは洋服を畳む時に似ていると言え、本だたみのような技術は要しない。(なお、この畳み方を本だたみであるとする専門家もいる)また、襦袢や羽織などは本畳みにせずそれぞれの畳み方によって畳む。 和服の洗濯の方法 一般家庭には、礼装の和服を洗濯する技術がない。一般的には、和服のクリーニングを専門に扱うクリーニング店に洗濯を依頼することが多い。縮緬や綸子など高価な正絹で作られている礼装の和服の洗濯の料金は高いので、正装の和服を洗濯する頻度は少ない。一方木綿や麻などの普段着の和服は、一般家庭で容易に洗濯できるものが多い。家庭での洗濯にも耐えるように「水通し」をしてあらかじめ生地を収縮させて仕立てる方法と、洗濯による生地の収縮を見込んだ仕立てを行う方法がある。古代においても持統天皇の御製『春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山』に見える通りである。正式には、洗濯の際に和服の糸をほどいて分解して洗濯し、染み抜きを行い、洗濯が終わったら大きな板に生地を張り付け上から薄く糊を引いて乾かした後に縫い直すことを行う。この洗濯方法を、洗い張り(あらいはり)または洗張(あらいはり)と呼ぶ。縫い直すときに、服の寸法を直すことや弱くなった所の補修や弱った所を目立たない所に置き換える「繰り回し」などを行うこともある。これらの作業をする分、洗い張りの料金は高価になるのが一般的である。現在ではより安価なドライクリーニングの手法も多用されるようになっている。 衣服の様式を表す言葉 和服の特徴を表す言葉を中心に、衣服の様式を表す言葉をここに集めた。 袖があるかないか 肩衣(かたぎぬ) 袖のない身頃だけの衣服。 小袖か広袖(大袖)か 小袖(こそで) 小さい袖口。または、小さい袖口がある服。 袖の様式としての小袖 広袖(ひろそで) 大袖(おおそで)ともいう。広い袖口。 広袖または大袖 現在、小袖は和服の長着を指す言葉であるといわれることが多い。しかし元々「小袖」という言葉は、袖口が小さいという特徴をとらえた言葉だった。小袖の発生に関する研究は、極めて学術的で専門的な学問の研究対象であり、簡単に答えが出せるものではない。現在確認できる書物の中で、「小袖」という言葉が日本で最初に現れたのは、10世紀に源高明が書いた『西宮記』だといわれる。しかし、『西宮記』の小袖は、公家が肌着として着用した小袖とは別の物だといわれる。 平安時代の公家の肌着としての小袖 平安時代に公家が使った「小袖」という言葉が、現在の日本語の「小袖」と同じ意味なのかどうかは、研究の対象である。一般的に言って、昔のことを研究するときは、現在と同じ言葉が昔使われていたとしても、同じ意味を持つとは限らないことを念頭に研究すべきである。平安時代の公家の肌着としての小袖に関して、次のことがいわれている。 「小袖」という言葉が発生した時期は、少なくとも平安時代の後期からであるといわれている。しかし、平安時代の後期よりも以前から、という可能性もある。 小袖は、袖口が小さい袖が付いた、上半身を包む服。円筒状の袖が腕を包む、筒袖といわれる袖だった。 公家が肌着として着た服と、盤領(あげくび)の服の2種類の服のどちらも、公家は「小袖」と呼んでいたのではないかといわれている。 「小袖」は、まず公家が使い始めた言葉だった。当初は、公家以外の人にとって「小袖」という呼び方は一般的ではなかった。 平安時代後期に公家は、袖口が大きい服を大袖と呼び、大袖に対して袖口が小さい服を小袖と呼んでいた。大袖と小袖は、袖の面積が広いか狭いかの特徴をとらえた言葉ではなく、袖口が大きいか小さいかという特徴をとらえた言葉だった。仮にある2つの服の袖の面積が同じであったとしても、その内1つの服の袖の左右の端の一部を縫って、袖口の長さを短くすれば、その服は小袖であり、端を全く縫わなかった方の服は大袖である。たとえ現在の振袖の袖のように面積が広い袖でも、袖口の長さが20cmくらいであれば、袖口が小さいという特徴を持っているといえるので、小袖であるといえる。平安時代の後期から鎌倉時代にかけて、公家以外の人の間に「小袖」という言葉が少しずつ広まったのではないかといわれている。平安時代の後期から、公家が、肌着として着ていた小袖に華やかな色を付けるようになったといわれる。肌着なのに、なぜ華やかにしたかはよく分かっていないが、襟と首の間から肌着が少し見えるから、という説がある。武士や庶民が既に着用していた服は、公家が肌着として着ていた小袖と形が似ていたらしく、武士や庶民は既に自分達が着ていた服を「小袖」と呼ぶようになっていったと推測されている。 袖の長さ 半袖(はんそで) 腕の手首に近い部分が包まれない袖。 袖の形状 筒袖(つつそで) 円筒状の袖で、腕と袖の布の間にあまり空間がない袖。服飾の研究では、特に和服に限らず洋服においても、筒袖の特徴を持った袖を筒袖と呼んでいる。洋服の多くは筒袖である。現在一般的な正装の和服の多くは筒袖ではない。 筒袖の模式図 その1 筒袖の模式図 その2 船底袖 元禄袖(げんろくそで) 袖丈が25cmから30cmくらいで、袂の輪郭の丸みが大きい袖。元禄袖の「元禄」の語源は、日本の元号の元禄である。昭和の内1945年頃まで、布の資源を節約する目的で、和服の袖丈が短い袖が「元禄袖」と称されて宣伝された。これは、元禄時代を再現する目的ではなかったので、昭和の元禄袖と元禄時代の元禄袖は別のものである。昭和の時代に、筒袖の洋服を元禄袖に作り替えることはなかった。 角袖(かくそで) 角に丸みを付けない四角い袖。 角袖の模式図 広い肩幅と狭い袖幅 広い肩幅と狭い袖幅の図 室町時代後期から江戸時代初期にかけて、裕福な庶民の間に、少し変わった形状の袖を持つ絹の和服が流行した。当時それは「小袖」と呼ばれたものの、平安時代の小袖とも現在の小袖とも違う特徴を持つ。その袖は、袖幅が短く(肩幅の約半分)、袖口が小さく、袖の下の輪郭が大きく膨らんで緩やかなカーブを描いている。半袖ではない。これは現在の寸法と違い当時の着物の前幅・後幅などが現在よりもかなり大きくたっぷりしているため、相対的に袖の寸法(袖幅)が短くなってしまっているのである。現在、この服を「初期小袖」と呼ぶのが間違いなのは、平安時代に既に「小袖」が登場していたからである。しかし現在、この服を「初期小袖」と呼んで解説している書物がある。 英語で "Kimono Sleeves" という、洋服の袖の様式を指す言葉がある。 Kimono Sleeves を直訳すると「着物の袖」だが、洋服の袖の様式を指す言葉の Kimono Sleeves は、和服の袖を指す言葉ではない。 この Kimono Sleeves とは、袖と身頃が縫わなくても繋がっている袖で、ゆったりとした大きな袖のことである。 袂を身頃に繋げるか繋げないか 長い袂を身頃に縫い付けずに、離してあることを、「振り」があるということがある。 八つ口の有無 身八つ口が開いているかいないか、また振八つ口が開いているかいないかによって、和服の様式が特徴付けられる。 盤領か方領か 盤領(あげくび・ばんりょう・まるえり) 首の周りが丸い円周の形をした襟で、左の襟を右の肩の近くに固定させて着る。 方領(ほうりょう) 角襟(かくえり)ともいう。上前と下前の縁に沿って縫い付けられている襟。 垂領(たりくび) 方領の服を、上前と下前を重ね合わせる着用の方法。または、盤領の服を、首の前が露出するように、工夫して着用する方法。 開襟かどうか 開襟(かいきん) 外側に向けて一回折った襟。 現在の和服に開襟はない。昔の和服には、極めてまれだが、開襟の和服があった。現在までに見付かった開襟の和服は、室町時代の末期と桃山時代の道服(どうふく)と、平安時代の唐衣(からぎぬ)だけである。 衽の有無 衽がない服も存在する。通常、肌襦袢(はだじゅばん)、関東仕立ての長襦袢(ながじゅばん)、羽織(はおり)を作るときは、衽を作らない。 上半身を覆う服の裾が、下半身を覆う服に隠れるか、表面に現れるか 上半身を覆う服の裾を下半身を覆う服の外に出して垂らすのは、和服では羽織、洋服ではスーツのジャケットやコートなどがある。上半身を覆う服の裾を下半身を覆う服に隠すのは、和服では袴を履くときの長着、洋服では、男性のスーツのワイシャツなどがある。 身丈の長さ 対丈(ついたけ) 身体の肩から足までの長さを参考に身丈の長さを決めて服を作ること。対丈の長さを決めるときの前提に、次のものがある。服の裾がだいたい足首辺りになるようにすること、おはしょりを作らずに着ること、そして服の裾が地面を引きずらないことである。現在の女性の和服の長着を着るときはおはしょりを作るので、この服は対丈ではない。現在の男性の和服の長着を着るときはおはしょりを作らないので、この服は対丈である。昔の和服には、床の上を引きずるくらいの、身長に比べてかなり長い服もあった。 布が何枚重なっているか 単(ひとえ) 単衣ともいう。布を重ねずに作った服。 袷(あわせ) 服の裏に布を重ねるように付けて、布が2枚重なっている服。 和服の普及率の衰退 七五三や成人式のような人生の晴れの節目の儀式・催事のときに正装の和服を好んで着用する人達は今も少なくない。しかし、20世紀から現在までの日本を全般的に見ると、和服の普及率が衰退していることは疑う余地がない。衰退の主な原因として、正装の和服が非常に高価であること、着付けに手間が掛かること、活動性に欠けること、温度調節がしにくく、現代の日本、特に夏場の気候には不向きであることなどが挙げられる。安価な古着の和服を専門に扱う呉服店も出てきている。 普段着の和服には、大量生産されて安価な物もある。普段着としての和服は、洗濯もしやすく、着付けも簡単で活動に便利なものである。上半身と下半身部分に分かれたセパレート型のものもある。それでも現在、日本では一部の業種を除いて、甚兵衛や浴衣以外の普段着としての和服を見かける機会は非常に少なくなった。祭りにおける神輿の担ぎ手の股引ですら、スパッツやジーンズで代用されることが多くなっている。 参照:ウィキペディア「和服」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%9C%8D 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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およげ!たいやきくん およげ!たいやきくん(AGC38 feat. 東京プラススタイル) #ref error :画像URLまたは、画像ファイル名を指定してください。 BASIC ADVANCED EXTREME LEVEL 3 5 8 Notes 185 321 495 BPM Time Artist AGC38 feat. 東京プラススタイル Version plus この曲で手に入る称号 【全難易度クリア】○○ 【全難易度フルコンボ】○○ 解禁方法 動画 +譜面動画 譜面動画 譜面動画 EXTREME (シャッター) +プレー動画 プレー動画 攻略・解説 各譜面の攻略に関する情報はこちらへ 名前 コメント ※攻略の際は、文頭に[BSC] [ADV] [EXT] のいずれかを置くと、どの譜面に関する情報かが分かりやすいです。 ※体感難易度を書き記す際は、クリア難度・スコア難度のどちらかなのかを明記してください。 また、攻略と関係ない投稿・重複した内容は削除の対象になります 攻略とは無関係の話は該当する欄(情報交換&雑談) にてどうぞ。 コメント(感想など) 名前 コメント ↑攻略と無関係の曲に対するコメントはこちらでお願いします。あまりにもかけ離れた内容は削除される場合があります。
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雛祭り(ひなまつり)は女の子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事。 ひいなあそびともいう。 目次 [非表示] * 1 時期 * 2 形式 * 3 歴史 * 4 雛人形 o 4.1 種類 o 4.2 配置 o 4.3 飾り方 * 5 雛人形の生産地・販売地 * 6 雛祭りが祝日でない理由 * 7 特色ある雛祭り * 8 雛祭りを歌った楽曲 * 9 関連項目 時期 [編集] 和暦(太陰太陽暦)の3月の節句(上巳)である3月3日(現在の4月頃)に行われていたが、明治6年(1873年)1月1日の改暦以後は一般的にグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なう。しかし一部では引き続き旧暦4月3日に祝うか、新暦3月3日に祝う(東北・北陸など積雪・寒冷地に多い)。旧暦では桃の花が咲く季節になるため「桃の節句」となった。 形式 [編集] 「男雛」と「女雛」を中心とする人形を飾り、桃の花を飾って、白酒などの飲食を楽しむ節句祭り。本来「内裏雛」とは雛人形の「男雛」と「女雛」の一対を指すが、男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶ誤りは童謡「うれしいひなまつり」の歌詞から一般化してしまっている。関東雛と京雛では男雛と女雛の並ぶ位置は逆。三人官女以下のその他大勢の随臣、従者人形を「供揃い」という。 歴史 [編集] 「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。 江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。 江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。 雛人形 [編集] 最近の雛人形 「雛人形」は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している。 種類 [編集] * 親王(男雛、女雛)はそれぞれ天皇、皇后をあらわす * 官女(三人官女)は宮中に仕える女官をあらわす、内1人のみお歯黒、眉無し (既婚者を意味するが、生涯独身の女官の場合には年長者という意味であろう) * 五人囃子は能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、それぞれ「太鼓」「大鼓」「小鼓」「笛」「謡」である (能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もある) * 随身(ずいじん)の人形は随臣右大臣と左大臣と同時に衛士(えじ)でもある * 仕丁は従者をあらわし、通常3人1組である ※メーカーによっては、以下の追加がある * 三歌人(柿本人麻呂、小野小町、菅原道真) * 能の鶴亀 * 稚児2名 配置 [編集] 内裏雛や人形の配置に決まりごとはない。しかし壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがある。中国の唐や日本では古来は「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。しかし明治の文明開化で日本も洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。それが以降から皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。 それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。永い歴史のある京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、どちらでも構わないとしている。 飾り方 [編集] 飾り方にも全国各地で色々あるが、多くはこの三種の飾り方である。しかし、特に飾り方に決まりごとはない。 * 御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む) * 御殿の内の一室を拝しての飾り方 * 屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方 さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの道具を一緒に飾ることもある。上段の写真にあるような五段、七段(七段飾りは高度経済成長期以降、八段飾りはバブル期以降)の檀飾りが多かったが、最近では部屋の大きさに合わせたり雛人形を出し入れしやすいように段数を減らしたものが主流となっている。戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。 祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説は昭和初期に作られた迷信である。旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされる。 また、地域によっては「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける、などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という、躾の意味からもいわれている。 この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。 雛人形の生産地・販売地 [編集] 割と関東地方に集中した感じはあるが、生産地としては埼玉県のさいたま市岩槻区(以前の埼玉県岩槻市)が有名。また栃木県の佐野市や埼玉県鴻巣市も小規模ながら生産店が存在する。販売に関しては全国の商業施設で販売されているが、集中して軒を連ねるのは、東京都台東区の浅草橋が有名で、「人形の久月」「秀月」「吉徳大光(「顔が命の〜」のCMキャッチコピー)」らの専門店がある。これらの店舗は毎年正月から2月ぐらいにかけテレビCMを流す。ちなみに雛人形と共に手掛ける五月人形も3月3日以降にCMが流れる。 雛祭りが祝日でない理由 [編集] 江戸時代雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、明治6年の新暦採用が「五節句(=雛祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされる。 特色ある雛祭り [編集] 山梨県甲州市塩山・重要文化財・甘草屋敷に展示された吊るし雛 ちらし寿司と蛤の吸い物 各地で、大量に雛人形飾りを公開したり、特色ある飾りを飾ったり、少年少女、又は成人の男女が雛人形に扮したりする祭り等が、この期間中に開催される。 * 1月末〜4月中旬:三十段飾り 千体の雛祭り- 長野県須坂市 * 3月上旬:くくり雛まつり- 岩手県奥州市水沢区 * 3月上旬:石段ひなまつり - 群馬県渋川市伊香保温泉 * 3月上旬:鴻巣びっくりひな祭り - 埼玉県鴻巣市 * 3月3日:ひなまつり子供大会@妙圓寺 - 東京都渋谷区 * 2月下旬:かつうらビッグひな祭り - 千葉県勝浦市 * 2月から4月にかけて 「吊るしびな」など、さまざまな雛人形が展示される。 - 山梨県甲州市 * 7月下旬:人間ジャンボひな壇@岩槻祭り - さいたま市岩槻区 * 4月3日:生きびな@水無神社 - 岐阜県高山市 * 3月3日:ひいな祭り@市比売神社 - 京都市下京区 * 3月3日:ひな流し@淡嶋神社 - 和歌山市 * 2月上旬〜3月上旬:中馬のおひなさん - 愛知県豊田市 * 2月下旬〜3月中旬:鞆町並ひな祭 - 広島県福山市鞆町 * 3月3日:流しびな - 鳥取市用瀬町 * 3月上旬:ビッグひな祭り - 徳島県勝浦町 * 2月下旬〜3月3日引田ひなまつり - 香川県東かがわ市 * 3月中旬:おひな様水上パレード - 福岡県柳川市 * 2月11日:おひな様始祭 - 福岡県柳川市 * 2月9日〜3月5日:城下町やつしろのお雛祭り - 熊本県八代市 * 2月11日〜3月22日:有田雛のやきものまつり - 佐賀県有田町 * 2月15日〜3月31日:天領日田おひなまつり - 大分県日田市 * 2月中旬〜3月下旬:佐賀城下ひなまつり - 佐賀県佐賀市 * 2月上旬〜3月上旬:真壁のひなまつり - 茨城県桜川市真壁町 雛祭りを歌った楽曲 [編集] * うれしいひなまつり(童謡、作詞:山野三郎(サトウハチロー)、作曲:河村直則(河村光陽)、1936年(昭和11年)ポリドール) * ひなまつり(童謡、作詞:海野厚、作曲:三宅延齢) * おひなまつり(童謡、作詞:斎藤信夫、作曲:海沼実) * ひなまつり(童謡、作詞:斉木秀男、作曲:三宅延齢) * ひなまつりの歌(童謡、作詞:与田準一、作曲:河村光陽) * おひなさま(童謡、作者不明) * 雛祭(文部省唱歌、作者不明) * ひなまつり(文部省唱歌、作詞:林柳波、作曲:平井康三郎) * 雛祭り(童謡、作詞:林柳波、作曲:本居長世) * ひなまつり(童謡、作詞:水谷まさる、作曲:小松清) * 雛祭の宵(ひなのよい、童謡、作詞者不詳、作曲:長谷川良夫) * 雛の宵(長唄、作詞:松正子(松本白鸚夫人)、作曲:今藤政太郎) * 雛の宵(清元) * ミニモニ。ひなまつり!(J-POP、作詞:つんく、作曲:つんく) 参照:ウィキペディア「雛祭り」 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%9B%E7%A5%AD%E3%82%8A 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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結城紬(ゆうきつむぎ)とは、茨城県・栃木県を主な生産の場とする絹織物。単に結城ともいう。国の重要無形文化財(指定要件は後述)。近現代の技術革新による細かい縞・絣を特色とした最高級品が主流である。元来は堅くて丈夫な織物であったが、絣の精緻化に伴い糸が細くなってきたため、現在は「軽くて柔らかい」と形容されることが多い。 目次 [非表示] * 1 生産地 * 2 歴史 * 3 重要無形文化財の指定要件 * 4 制作行程 o 4.1 真綿 o 4.2 糸つむぎ o 4.3 整経 o 4.4 柄制作 + 4.4.1 絣くくり + 4.4.2 すり込み o 4.5 糸染め o 4.6 糊付け o 4.7 品質検査 * 5 脚注 * 6 参考文献 生産地 [編集] 栃木県側では小山市から下野市付近まで、茨城県側は結城市周辺(筑西市・下妻市など)が生産範囲である。小山ものを「結城」と呼ぶのには抵抗がある市民もいるが、もともと小山氏とその傍系である結城氏が支配した歴史を持つ地域のため、産地の者は違和感は覚えないという。 元々この地方では養蚕が盛んであって、農閑期に副業として紬が作られたのが創始とされている。かつて鬼怒川は「絹川」と呼ばれており、生産中心集落の一つである小森は「蚕守」と表記された時代もあるなど、結城地方では養蚕にまつわる地名が多く見られた。 歴史 [編集] 伝承によれば、崇神天皇の時代に、多屋命(おおやのみこと)という人物が三野(美濃)の国から久慈郡に移り住み、長幡部絁(ながはたべのあしぎぬ)と呼ばれる織物を始めたという。絁とは太い絹糸で織った粗布のことである。それが結城地方に伝わり結城紬となったとされる(なお、結城という地名は、鎌倉時代にこの地域を支配始めた結城氏の姓に由来する)。絁は「常陸紬」と呼ばれ、1322年(延元元年)に発行された『庭訓往来』で諸国の名産品の一つとして名が記されている。1601年(慶長6年)にこの地方の代官となった伊奈備前忠次が、京都・信州における織物技術を取り入れるなどして改良を行い、知名度を高めた。結城紬の名を確認出来る最古の書物は、1638年に刊行された『毛吹草』である。1712年には最上級の紬として『和漢三才図絵』に紹介された。 1865年に初めて絣の結城紬が制作される。1873年にはウィーン万国博覧会に出品され、世界的に名を知られるきっかけとなる。 1953年、平織と縮織が茨城県無形文化財に指定される。その後1956年4月24日に重要無形文化財へ指定(平織のみ)。同時に従事者6名が技術保持者に認定された。1961年に結城市を中心とした各市町村により、財団法人重要無形文化財技術保存会が設立された。 1974年にNHK朝の連続テレビ小説で放映された『鳩子の海』で一部結城市が舞台となり、結城紬の知名度も高まった。 1975年の文化財保護法改正に伴い、翌1976年、技術保持者6名の認定が解除され、保持団体の認定に変更となる。171名で本場結城紬技術保持会が設立され、同会が重要無形文化財「結城紬」の保持団体として認定された。1977年3月30日には経済産業指定伝統工芸品として承認された。また同年、結城紬伝統工芸士が認定された(この年の認定者は染2名、絣くくり6名、織り6名であった。以後規定を満たした者が順次認定されている)。1986年には栃木県伝統工芸品、1988年には茨城県郷土工芸品の指定を受けている。 2004年、品質検査の際に重要無形文化財の指定要件を満たしていない反物にも「重要無形文化財指定」証票が不正交付されていたことが明らかにされた。文化庁が保存会に改善を指導し、翌2005年6月3日分の検査合格品から全反物が「重要無形文化財」表記のない証票へと変更された。 2010年にユネスコ無形文化遺産リストに登録された[1]。 重要無形文化財の指定要件 [編集] 結城紬の地機(いざり機) 重要無形文化財に指定された際、定められた要件は以下の3つである。(※重要無形文化財保持団体認定書より抜粋) * 使用する糸はすべて真綿より手つむぎしたものとし強撚糸を使用しないこと * 絣模様を付ける場合は手くびりによること * 地機で織ること 以上の3要件のすべてを満たさない場合は重要無形文化財とはみなされないが、「本場結城紬」であることには相違ない(「本場結城紬」は元々は高機で織られたものにも証紙を貼るためにつけられた登録商標である)。現在は絹紡糸、絹糸と交ぜて織る半工業製品も生産されている。 2004年に発覚した「重要無形文化財指定」証票の不正交付は、絣が手くびりではない「すり込み」(以下参照)に対して行われていた。他の2項目は満たしており、価値は重要無形文化財に相当すると結城紬技術保存会が判断したためと思われる。翌年から「重要無形文化財」の表示はなくなったが、認定を取り消されたわけではない。 制作行程 [編集] この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 真綿 [編集] 元来結城紬は、結城周辺の養蚕業で出される屑繭(蛾の出殻や汚れなどにより売り物にならない繭)を使って作られていたが、江戸時代中期から福島県保原町一帯で作られる入金真綿(いりきんまわた)も使用するようになった。1723年の五十里洪水で結城一帯の桑畑は壊滅的な被害を受け、以後現在は原料の99%を入金真綿が占めている。結城での養蚕も数軒ではあるが現存する。 茨城県は2001年に「大鷲(おおわし)」という繭の新品種を開発し、結城紬のブランドシルクとする計画を発表した。飼育数や時期が限られており、2006年現在年間約100反ほどの生産ではあるが、開発が進んでいる。丈夫な糸が取れる上に粒が大きく、1反当りに飼育される蚕の数を削減することに繋がるとして期待が持たれている。 糸つむぎ [編集] 繭は重曹を加えた湯で2時間程煮込み、柔らかくした後たらいに移し、ぬるま湯の中で5 - 6粒程をこぶしで広げながら重ねて1枚の真綿を作る。中の蛹が生きた状態で煮たものを「生掛け糸」と呼び、ツヤのある丈夫な糸になるというが、以前は保冷技術が未発達だったため希少品であった。乾燥させた真綿約50枚(約94g、1匁)を1秤とし、約7秤で1反の結城紬を制作する。 真綿をさらに両手で広げ「つくし(竹筒にキビガラを取り付け台座に立てたもの)」と呼ばれる器具にからみつけ、その端から糸を引き出す。片方の手で糸を引き、唾液をつけたもう片方の指先で真綿を細く捻るようにしてまとめ糸にする。均一な太さを保つためには熟練した技が必要であり、特に40 - 50歳の女性のつむぎ手の唾液には粘りがあり照りのある良い糸ができるという。引いた糸は「おぼけ」という容器に溜めてゆき、一秤分の真綿が全て糸になった状態を1ボッチと呼ぶ。個人差はあるが1ボッチの糸つむぎにかかる日数は7 - 10日、長さは約4 - 5千メートルである。その後、糸あげと呼ばれる作業で枷の状態にする。 整経 [編集] 整経と呼ばれる作業で糸を決められた長さと本数に揃え、経糸(たていと)を作る。結城紬1反は品質検査の規定で3丈7尺(約12.3 m)と決まっているため、それに余裕を持たせた約14 m程とする。本数は上糸640本、下糸640本、計1280本が必要であり(無地や縞柄の場合)、これは反物の幅約9寸5分に相当する。 柄制作 [編集] 亀甲柄 絣くくり [編集] 経糸を枠に巻き付け、図案に従って竹のへらで墨をつけてゆく。墨をつけた部分を綿糸で縛る作業を「絣くくり」または「絣くびり」という。縛った部分には染料が入らないので色がつかない。この無染色の部分の組み合わせで絣模様となる。縛りが弱いと染色中に綿糸が取れたり染料が入ってしまうため、絣くくりは一般的には男性が行う。反物一幅に入る亀甲の数で柄の細かさは概ね4段階に分けられるが、縛りは一番単純とされる80亀甲(反物の幅に80個入る)で160箇所、最高の細かさである200亀甲では約 400箇所にもなる。1反全体で数万カ所の縛りが必要となる場合もあり、絣くくりだけで数カ月かかる場合もある。また、複数人での仕事は縛る強さが変わってしまうため、最初から最後まで1人が行わなければならない。 すり込み [編集] 戦後、「すり込み」という染色法が開発された。これは墨付けをした部分に直接染料で色をつけてゆく技法である。戦前は染料が滲む上に色が定着しにくい点があったが、染料に混ぜる糊の量を通常の約2.5倍に増やし、粘りを加えたことで実用化となった。絣くくりは染まらない部分を模様とするため、地は藍色・黒などの濃色にならざるを得なかった。対して刷り込みは淡色の経糸に模様を入れることが可能であり、現代の好みに即した明るい色の反物を制作できるようになった。 糸染め [編集] 元々は木藍によって染色した紬糸を使用したものが多かったため、今でも染業者は「紺屋」と呼ばれることが多いが、化学染料の使用が主である。太平洋戦争期、食料確保のために藍畑から転換を迫られたことや、戦後藍では染められないような細かい絣が主流になったことが、化学染料への移行の原因である。女性向けに明るい色の反物が好まれるという理由も大きい。また、藍染めの糸は糸が毛羽立ち扱いづらくなり織りにも影響が出るため、反物としての価格も3割程高くなる。2007年現在、結城で藍瓶を持つ染屋は1軒のみとなった。草木染めを行う業者もわずかではあるが存在する。 絣模様を綺麗に出すには、絣くくりをされた箇所と箇所の間にしっかりと染料が入らなければならない。染料に浸すだけでは難しいため、枷を地面に叩き付けて染める「叩き染め」が、結城紬独特の技法として定着している。 糊付け [編集] 撚りをかけずに紡いだ糸は力をかけるとすぐに切れてしまう。強度を増すために、整経と機巻きの前に糊付けをする。小麦粉と水を混ぜて糊状にしたものに糸を浸し、よく捌いて風通しの良い日陰に干す、これを3回程繰り返す。糸の太さや作業時の天候等で仕上がりが左右される作業である。糊が強すぎると逆に糸同士が密着して織りづらくなるため、経験と勘が必要とされる。一生習いと言われる程であり、糊の濃度などは他の家には簡単に教えないという。 糊は基本的には着物に仕立てる前に「湯通し」と呼ばれる作業で落とされる。たらいに45度前後の湯をはり、反物を浸しては湯を変えて徐々に糸そのものの風合いに戻してゆく。糊付は織り元が行うが湯通しは専門の業者があり、結城紬制作の最後の仕上げを担っている。 品質検査 [編集] 重要無形文化財指定の技法が用いられたか否かに関わらず、本場結城紬として生産された反物は全て同様に検査され、長さ、打ち込み数、色斑の有無や堅牢度など15項目の規定を満たしたものにのみ合格証紙が貼付され割印が押される。 1887年の結城物産織物商組合結成時に反物の検査が開始され、合格したものだけに商標ラベルを貼ることが定められた。1933年に検査は県営へ移行、1962年以降は生産者検査となった。現在は、機屋(織り元)が指定された日時に反物を組合に持ち込み、茨城県工業技術センターの職員が検査をするという体制である。検査を受けた反物は問屋へ納品され、市場へ出ることとなる(かつて結城紬は縞柄が多かったことから、産地では問屋を「縞屋」と呼ぶ)。 脚注 [編集] 1. ^ 時事ドットコム 組踊、結城紬の登録決定=ユネスコ無形文化遺産 参考文献 [編集] * 『新品種の繭「大鷲」を利用し結城紬 ブランドシルクをPR』 毎日新聞、茨城南版25面、2001年6月21日。 * 『結城紬に"ほころび"』 読売新聞、2004年12月4日。 (以後読売新聞茨城版では特集が3回連載で掲載された。12月8日〜10日) * 野村 耕 『歴史の中に生き続ける結城紬』 繊維学会誌、Vol. 60、 No. 11, P540ーP542 、2004年。 * 『日本の自然布』 別冊太陽、平凡社、p120-123、2004年1月5日。 * 『栃木県立博物館 平成16年度企画 展結城紬〜紬織りの技と美』、栃木県立博物館友の会、2004年3月30日。 * 『結城紬 Yuki Tsumugi Guide』 結城市産業経済部商工観光課作成パンフレット。 * 「本場結城紬 結びの会」 参照:ウィキペディア「結城紬」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%B4%AC 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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Q 古布と古裂の違いは何ですか?? 古布は昭和10年以前のものとインターネットで調べました。しかし、古裂について調べると・・・ここでは戦前以前が古裂、以降を古布にしています。とかいてあり、わからなくなりました。布の自体の事を古布?作品を古裂??どなたかお分かりになる方がいらっしゃればお教えいただけると幸いです。よろしくお願い致します。 ちなみに、古布の読みはなんでしょうか・・。 A たとえば今日使っていた茶碗が嫌いになって捨てるとするとそれはゴミです。 その茶碗が市場に出回れば中古品です。 30年後にその茶碗は古道具屋に並んでいるかもしれません。 100年後に出回るときは骨董とかアンティークとして珍重されます。 ただの布が最初の役割を負えればボロ 次の役割を期待されれば古布 尊ばれれば古裂。 廃品回収にでているのがボロ リサイクルショップやイベントの骨董市で売られる古布 骨董屋、お茶道具屋にならぶのが古裂。 同じような例に、紙くず-古本-古書、というのもあります。 伝統工芸繊維製造従事者です。 「布」と「裂」の違いなんですが、 「布」より「裂」の方が値打ちがあると業界の先輩から聞いた事があります。 ですから、「裂」は織物が多いです。 「布」の方はどちらかというと生活に密着した物で、 「常使い」の物という感じです。 そう考えると、 古布=日常着や生活用品等の布製品の古い物(年代は問わず) 古裂=衣裳、儀式用品等の布製品(絹素材が圧倒的に多い)の古い物(年代は問わず) 「古い物」という曖昧な言い方をしましたが、 だいたい太平洋戦争以前の物が値打ちがありますね。 特に絹製品は絹統制令以前の物がいいです。 戦後の物は大量生産化していて、丁寧に作った物が少ないです。 (戦後の物が単純に悪いとは言いませんが・・・) アンティークなものを「古布」=「こふ」と呼ぶという説もあるようで… ふるぬのとは呼ばない様です。訂正します。 何度もすいません。 no2の方が、ふるぬのだと 書いていましたので 私のは間違いかと思います(笑) しかし、その私を笑った知人が 「古布家」(こふや)という 古布専門店のオーナーなもので てっきり、こふ と読むものとばかり、、、 すいませんでした^^; 由来する着物によって区別した布自体の種類の区別です。古裂とは新しくても戦前までのもので、時代を経た布のことで古い着物や風呂敷やのれんをばらしたものであったようです。戦後から現在のものを古布というようです。 「古布」ふるぬのと呼びます。 古布はこふと読むはずです。 私は「ふるぬの」と呼んで 知人に爆笑されました。 私の今、住んでいる町には 裂織(さきおり)という民芸が盛んです。 その説明を読むと 「古布・古裂を裂いて、機織りしたものが裂織」 と書かれています。 ちなみに、発祥は江戸の前期だそうです。 という事は、ほぼ同じものを指し 時代の流れで、呼び方が変わっていた。 という事でしょうか? 自信はないのですが、、、、 参照:教えてgoo「古布と古裂って??」より http //oshiete.goo.ne.jp/qa/562535.html 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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染織(せんしょく)とは、布を「染める」ことと「織る」ことの総称である。「染物(そめもの)」「織物(おりもの)」と両者を区別することが出来る。しかし、布は何らかの繊維を織らなくては存在し得ないので、「織物」の「織る」という過程無くしては「染物」も存在しえないため、「染織」は「織物」と実体としては同一と考えてよい。しかし、「織物」が成果物のみを指すのに対し、「染織」はその製作過程を含めたより広い概念であり、同一概念ではない。また、「染織」の用語の方が専門家の正式用語として一般的である。 工芸もしくは工業に属し、優れた手工芸品は美術品と認識される。また、世界各地に多種多様な染織の様式が有り、衣装等という形で民族文化を象徴する場合がある。 染織を専門に行う人を「染織家」と呼ぶ。 分類 [編集] 1. 全く染めない。 2. 繊維を染めてから織る。 3. 繊維を織ってから染める。 の三種に分類できる。 「染物」は普通 3 を指す場合が多い。2 も染めてはいるが、普通「染物」とは言わない。 この場合「織物」は全てに該当する。 種類 [編集] 先染め 和装用語のひとつで、糸の段階で染め、その染めた糸を用いて織りあげる生地。色の付いた糸を、配置を計算して織り上げることで、様々な模様を織り出す。(無地のものもある)。絣模様、西陣織、博多織などが有名。縞模様も通常は先染めであり、縞帳という見本帳が作られ、各家庭や問屋で継承されていた。 なお、例えば、京都の丹後産の繻子織は後染め、京都市の西陣産の繻子織は先染めというように、同種の織り方でも産地によって染めの手順は異なることがあり、注意が必要である。 糸の配置を精密に計算・設計・実行しなければならないため、ジャガード織機が登場するまでは、職人の高い技術に拠る手法であり、非常な手間と時間がかかった。和服において、織りの方が染めよりも格が高いとされるのは、このような希少価値の流れを引きずっている可能性がある。 だが、ジャガード織機の登場と、さらにはコンピューターの活用により、現在では機械で容易に大量生産ができるようになり、職人の高い技術は使われることがなくなり、現在では既に喪われたに等しい。 あと染め 和装用語のひとつ。染めていない糸で織り上げた織物(白生地)を染めること。または、そのようにして製造した和装品。後染め。 模様のない染めのみの生地、あるいはその生地で仕立てた着物を色無地という。 模様を描いたものを絵羽といい、友禅染めなどがその技法の代表格。 絵羽ものは手間がかかるため高価であり、江戸初期頃までは、公家や武家の上流階級しか着用できなかったが、中期頃から富裕な商人・町人層にも広がっていく。「ひいながた」(雛型)と呼ばれる、今のデザイン・カタログにあたるものが作られ、人々はその中から好みの模様を選び、あるいは誂えた1点ものを注文した。 参照:ウィキペディア「染織」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%93%E7%B9%94 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛