約 2,885,002 件
https://w.atwiki.jp/kusamura/pages/17.html
このページはhttp //bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65920からの引用です kusamura(叢)フォーラム ログインユーザ登録 メンバーリストグループ設定 トップ»ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972)» 第十一章 反抗者の人間性 All times are JST(+900) ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972) Page1of1 [ 9 posts ] 1 投稿者 メッセージ kusamura 題名 第十一章 反抗者の人間性 時間 2009-08-29 23 12 36 no rank Joined Posts ,,人間を構成する肝心の要素,,, 要するに、それは反抗できる能力である。 多種多様な人間が、不安と頼りなさの状態にとらえられている今日、 自分たちの見せかけの平安を乱すものは、 何人を問わず、われわれわれは冷たくあしらい、 都市の壁から投げ出してしまいがちである。,, しかしわれわれは、 その反抗者(rebel)を追い出すことによって、 自分たち自身の生命線をカットしてしまうのである。 というのも、反抗機能は、文化の生き血(life-blood)として、 まさに文明の根として必要なものなのである。 まず第一に反抗者と革命家との間を重要に区別しておかねばならない。 一方は、他方に対し根深い対立関係にある。 革命家の探し求めているのは 、極端な政治的変動であって、 ある政府ないし統治者を打倒するなりあるいは拒否することであり、 もう一つ別の政府が今の政府にとって変わることである。 他方、反抗者は、 「権威あるいは拘束に対抗する人であり、 できあがっている習慣ないし伝統と手を切る人」(『ウエブスター新国際英語大辞典』第3版1961)である。 Top リンク kusamura 題名 時間 2009-08-29 23 21 51 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 321 反抗者の顕著な特性は、絶えず落ち着きがないことである。 反抗者はとりわけ、内面的な変化や態度や情緒や 自分が忠誠を捧げている人びとの見解の変更をさがし求める。 反抗者はしばしば、一時的な成功や その成功のもたらす安易さを受け容れることができない。 反抗者はむだな抵抗をして大けがをする。 そして一つのフロンティアが征服されると、反抗者はやがて不安になり、 新しいフロンティアをめざしてどんどん進んでゆく。 というのは、反抗者は自分を役に立たないものにしてしまう抑制を 永遠に受け容れることができないからである。 (原註)《トーマス・ジェファーソンの 「私は神の祭壇にかけて、人間の心に加えられる あらゆる形の暴力に対して、永遠に反抗する旨を誓った」 という表現は、ほとんど反抗を認めていることを示す合言葉である》 反抗者は権威を拒否する者としての反抗者という意味通りに、,,自らおよび仲間にとって決定的に重要だ、と確信している人生観や 社会観のために、反抗するのである。 一切の反抗は暗々裏に何らかの価値を前提としている。 革命家が身の回りに力を集める傾向があるのに対し、 反抗者は、権力を最終のものとして求めるのではなく、 それを利用する才をほとんど持ち合わせておらず、 自分の権力を分け与えてしまう傾向がある。(反抗者が求めているのは、もうひとつの政治体制ではない。 それは反抗者の主目的ではない) 反抗者は、 ただ自分の仲間の救済のためだけに戦うのではなく、 自分の個人的な誠実さ(personal intigrity)を守るために 戦うのである。 Top kusamura 題名 第十一章反抗者の人間性 1.文明は反抗者を必要とする 時間 2009-08-30 06 23 00 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 321 1 文明は反抗者を必要とする 反抗の機能は、 文明のもつ固定された習俗や厳格な秩序を動揺させることである。 この動揺は苦しいものであるけれど、もしその社会が 退屈とアパティ(*無気力、無関心な態度・状態)から救われたいなら避けがたいものである。 ,, 文明はその最初の開花を反抗から得ているのである。 意識が生まれるには個人の対抗意志(counter will)の行使が必要である。 それは、各自の生活の中で生ずる衝突によって呼び起こされ、 鼓舞され、発達させられるのである。 この衝突によって人は、驚きを強いられ、 自分の持っていることを知らなかった力を頼むことを強いられるのである。 社会は、ある世代では反抗者を犠牲者として殺し、 次の世代ではその反抗者を崇拝する。 ソクラテス、イエス、仏陀、クリシュナなど、 こうした扱いを受けた人物のリストには事欠かず、数限りなく続く。,,彼らは社会の構造と安定に対し挑戦しているのである。 社会は、その社会の習俗や法律あるいは確立した行き方がある程度脅かされるについては寛容である。 もし文明が、成長を肥沃にするためのインプットを何も持たないなら ―ただ確立した道(習俗)だけを進むなら― 文明は受動性とアパティの中で停滞してしまう。 Top kusamura 題名 第十一章反抗者の人間性 2 反抗者と社会-ひとつの弁証法 (1 時間 2009-08-30 06 35 57 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 321 2 反抗者と社会 - 一つの弁証法 (1)反抗者は、自己のアイデンティティは尊重してもらいたいと主張し、 社会が抑圧してかかろうとする態度に対しては自らの知的・精神的な統一を保全するために戦うのである。 反抗者は、彼に向けられる画一主義や適合、あるいは 自分自身の独創性や自らの声を殺せと主張する集団に対しては反対の立場をとる。 人類史を見ても、各個人の生活史を見ても、絶えずそこに進行しているのは、個人と社会、個人と集団、人間とコミュニティとの弁証法的な過程である。 その弁証法のいずれかの極が無視されるとき、パーソナリティの貧困化というものが始まる。 だれもが時々、社会をぞっと言わせたいという衝動や、 自分の隣人に暴行を加えたいといったファンタジーを持つことがある。 大いに逆説的であるが、人間が絶えず心的な生命力を維持できるのもこれがためであり これもまた逆説的であるが、 コミュニティ自体、たとえその暴行(outrage)を非難しながらも、 その暴行から健康と生命力と新しい成長の糧とを得ているのである。 反抗にはまたその人間の社会が必要である。 言語や概念や他者へ関係の仕方、 全てこれらは、いま当人が反対しているその文化から出てくるものなのである。 (われわれは、文化から学んだそのまさに言語と知識でもってその文化に抵抗する) 彼はその社会から立ち上がり、それを批判し、 それを改革しようと試みる人たちと自分自身とを連合させるのである。 ずっといつでも、彼は自分が反対するまさにその文化の一員なのである。 ,, それは各極が他の極によって存在するダイナミックな関係である。 つまり、一方の極が変われば、 他の極も同じように変わるのである。 Top kusamura 題名 第十一章反抗者の人間性 2 反抗者と社会-ひとつの弁証法 ( 時間 2009-08-30 07 14 20 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 321 2 反抗者と社会-ひとつの弁証法 (2) 個人の人格を抑圧するのは、社会の本質である。 ,,一方で、社会はわれわれである。 反抗者は、自分の社会が自分を養い育て、 自分にパーソナリティを発展させるための確信を与えたことを実感として承知し、 しかも、社会の拘束に苦しみ、社会が窒息するのを見ている、という点で、 分裂せるパーソナリティである。 反抗者は、社会をコミュニティにしてしまおうと絶えず努力する。 反抗者は機械化せる官僚主義的な傾向に対して、戦いを挑んでいるのである。 これは、そうした傾向それ自体が悪だからというのではなく、それらが 人間を非人間化し、人間の統一を役に立たなくなるまで喪失させ、 人間に侮辱を与えるために最高の近代的なチャンネルであるという理由からである。 反抗者は似たような理由で富裕なるものにたいしても戦いを挑む。 というのは「富の豊かさが権力をむしばむこと、それに共和国の幸福にとっては 富はとりわけ危険なものであることを反抗者は知っているからである」(ハナ・アレント) 反抗者は,,学校を中途退学したものの中にも見られる。 若者は、非人間化という脅威をまともに感じ、 しばらくの間、反抗者の行動は、 社会の厳格さに対する抵抗であるが、また自分自身を見いだせる時間でもある。 (それは仏陀が山に、イエスが荒野に引きこもったのに似ている。),,このように引きこもることによって、 新しいパースペクティブや、 後ほど大へん自分のために役立つかもしれない新しい自己認識に 達することができるのである。私はヒッピーの人たちと話したとき、次のような印象を抱いた。 彼らの何人かは、ドロップアウトしたその一年そこそこは、 精神病になってしまうのを防いだ、という印象である。 ,,しばしばこの中途退学することが、精神分析に似た目的を果たしているのである。 ,,彼が、自分自身および自分の社会に対し、新しいまじめな態度を持して、 見かけ上は気楽な放浪の旅からもどってくるということは、ありそうなことである。 われわれの心理学教科書には、被実験者が指示に「従った」ばかりに、 当人の行為の「犠牲者」を傷つけたり殺すことまであるような数多くの実験に 事欠かない。しかも実験者はその犠牲者が苦痛で身もだえするのを隣室で ガラス越しに見ているのである。 人間というものは服従の形にも あるいは植民地の蟻のような組織にも条件付けられる、 と結論してもよいかもしれない。 しかし、同時に忘れてならないことは、 時々、大衆から身を引き離す個人があること、 さらに自らの危険を引き受け、もし必要ならば捕らわれの身になっても 集団に反対する反抗者のいることである。 (*例としてダニエル・エルズバーグが取り上げられている.リンク先の「2」) Top kusamura 題名 第十一章反抗者の人間性 2反抗者と社会-ひとつの弁証法(3 時間 2009-08-30 07 48 51 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 321 2反抗者と社会-ひとつの弁証法(3)個人と社会との間の弁証法的な葛藤を生き抜くことから、 逃れることはできない。 ,, われわれには、権威を嘲笑する方法が必要である。 われわれ(*アメリカ人)はハロウィンやエイプリル・フールを持っている。 しかし、われわれは、隣人をおこらせ、 町の親父どもを憤慨させるひそかな夢を水路づけることが必要である ―この興味ある例が身代わりの王様である。 その王は一切の権威が嘲笑されるある奔放な底抜け騒ぎの間に、 殺されることを承知で王位につくのである。 アメリカ人の生活の中に見られる行き過ぎはディオニソス的儀礼の欠除に 関係あるのではなかろうか。 その行き過ぎのひとつが暴力である。 探偵もの、ギャング映画の主人公との同一化、禁酒運動後に見られたような犯罪人の神格化 ―これら全ては、部分的には 「自分たちの行く手をはばみ、閉じ込めておく社会に対するひそかな復讐の夢」を 発散させるための健全な機会の欠けていることの症候である。 (*現在の日本ではアニメとゲームが西部劇やギャング映画を代行していると思われる) 反抗者の価値を認めるということは、 こうしたデーモン的な力を建設的な方向に水路づけるという点で、 長い道のりをたどることになる。 というのは、反抗者は 我々他のものがやりたいが敢えてやろうとしないことをやる。 (キリストは、われわれ皆のために活動し、生き、そして身代わりになって死ぬ。)これが彼を反抗者にしてしまうのである。 そのとき、反抗者と救済者は同一人物であるという結果になる。 反抗を通して反抗者はわれわれを救ってくれるのである。 ここにわれわれは ――文明は犯行を必要とするということ―― のもう一つのあらわれを見るのである。 Top kusamura 題名 3 反抗者としての芸術家 時間 2009-08-30 08 11 51 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 321 3 反抗者としての芸術家 パリのノートルダム寺院の屋根の真下の止まり木から横目で見ているガーゴイルを 眺めたとき、それに対して驚きと当惑にとらえられない者があろうか。 他の動物を生きたまま食する半ば動物で半ば人間的なこうした被造物、しかも 下の市の広場にいる人の群れに向かって舌をつきだし、軽蔑の表情を石に刻み込んだ このサタン的な像は、広い日の光の中で腰をおろしてパリを見つめている。 ,,それらは、われわれだれにも存在する緊張の表現であり、光と闇、善と悪との間の 弁証法を示しているのである。こうしたデーモン的なものの表現は、このフランスという国家が こうした美を発散する大寺院を建設できたという事実に対してきわめて重要なことである。 というのは、こうした彫刻家が行ったように、 われわれの世界を明るくする芸術家は デーモン的なもとのともに生き、呼吸しているということである。 もし、われわれが、このいずれの世界とも結びつきを切り離してしまうならば、 われわれが美と言いならわしてきたことは不可能になる。 芸術家はあの十戒の古代的で有力な禁制(interdiction)に直面する。 「汝は自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、 下は水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない」 これは偶像崇拝を禁止する禁制である。 これはまた、古代ヘブライ人に対して向けられた呪術の禁制であり、 砂の上に似姿を描くことで動物ないし人間を支配しようとする原始的な方法を 禁止したものである。 美術は暴力の代用(substitute for violence)である。 ある人間を暴力に駆り立てるその同じ衝動 ―意味への飢餓、エクスタシーへの要求、一切を危険にさらす衝動― が美術家を創造に駆り立てるのである。 芸術家はわれわれの中の大反抗者である。 私は,,芸術家の仕事全体が社会の現状 ―つまり、社会を平凡なもの、画一的なもの、沈滞したものにする現状 に対する反抗であると言っているのである。 その反抗の本質は 自然および人生についての新しい見方ということにある。 美術家は、創造できる限り、暴力に訴える必要はないのである。 (しかし),,彼ら(*マーク・ロスコやアーシル・ゴーキー)その他の美術家の自殺は 多くのことを意味しているかもしれない。,,美術家は実際には、二流の市民であって ケーキにつける「砂糖の花」で生命の糧ではないのである。 Top kusamura 題名 4 反抗者の限界 時間 2009-08-30 09 02 56 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 321 4 反抗者の限界(1)反抗者は仕込まれた拘束のもとで活動していると知ったら、 たいていの人は驚くであろう。 実際、それが反抗者と革命家との主たる相違点なのである。 革命家は、政治的変革に関心を持っているので、 ただ外面的な拘束を経験するのみである。 しかし、 人びとの態度や動機に関心のある反抗者は、内的制限をもっている。 つまり反抗者は、 「自分が申し立てる秩序」に内在する境界線によって拘束されるのである。 その第一のものは、反抗者の見透し(ビジョン)と普遍性である。,, エゴの陶酔(ego trip)による興奮は、反抗者にとって二次的なものであって、 彼の主として関心のあるのは、自分の見透し(ビジョン)である。 この世界についての見透しのなかには、自分の行為に対する拘束が存在する。 ソクラテスがスパルタと密約をしなかったのは、自らが個人的に選んだ倫理観の 要求に従ったのである。反抗者は遺恨によって動かされるのを卑しむ。(現実には、それ(*遺恨)が反抗心を培い、 自分自身のプライドが傷つけられたという気持を育てる。 これは十分な根拠のあることだが、本当の反抗心の基礎にはならない) 反抗者は、復讐を要求する権利を持たず、 さらにそれをするだけの時間をもたない。 反抗者の本質的な性格は、 自分の民衆や自分の抱いている普遍的な理想と同一化することによって、 自分自身の特定の傷つけられた誇りを超越できることである。 もう一つの制限は、反抗者の同情心(compassion)である。 反抗者の同情心こそは、 まず第一に彼を反抗者にしたてたものの一つである。 反抗者は苦悩し、 この苦悩をめぐって何かをしたいという情熱的な願望を抱いている人びとと 同一化する。 これは、彼の見透し(ヴィジョン)を活気づけてくれる他人に対する自分の 感受性および共感(empathy)から生ずる。 事実、反抗者はときどき、 自分の抱く理想を普遍的に適用することに没頭してしまい、 自分自身の家族をも無視してしまうほどである。 さて、われわれと同様、 反抗者は、善悪両方の特性をそなえた人間であることに 変わりはない。 自分の共感能力によって、反抗者は、いよいよ人びとに対し同情的になっていき-(家族に対してではないにしても)― 人びとをして自分の見透しを形成できるようにする。 こうした制限はまた、 反抗者の心が他人の心にふれあう、という事実から出てくる。 他の人たちの現実観が彼の現実感を拘束し、鋭利にする。 すなわち、両者間が出会うことによって、 彼らは両者にとって価値ある何かを成し遂げるのである。 これこそ、反抗者にとって対話がかくも重要なものとなる理由である。 (*イエスやソクラテスと人びとや弟子との対話など)この対話には、もろもろの情動や気質や実際のやりとりの中に起こるさまざまな 目標の一切のからみあいが含まれる。 本物の反抗者は、自分の敵対者全員を黙らせることが、 地上で彼の望んでいる“最後”のものであることを知っている。 敵対者を絶滅することは、反抗者や生き残っているものがだれであれ、 そのものからそのユニークさやその独創性、 およびこれらの敵も人間である以上、彼と共有し、 かつ分かち合うことのできる洞察能力を 奪ってしまうことになる。,,敵との対話のチャンスを失うことによって、われわれはより貧弱なものになるのである。 Top kusamura 題名 4 反抗者の限界 (2) 時間 2009-08-30 09 12 04 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 321 自己実現というような個人的な目標にも、一定の制約はつきものである。 人間の潜在能力開発の運動は、 アメリカで支配的なイノセンス形態を相続してきた。 即ち、われわれはますます立派な道徳的完成をめざして成長してきたのである。 四六時中、善人であろうと努力することは、 人間をして倫理的な巨人にするのではなく、 口やかましい人にしてしまうことになる。 われわれはむしろ、悪と善双方にたいして、より大きな感受性をもつように 成長しなければならない。道徳生活は善と悪との間の対話である。 とりわけ暴力を理解する上で必要なことは、 われわれ各自の中には善と悪とがあることを意識することである。 われわれがどこへ出かけようと、孤独の見出されるような場所では 人間の心情の中には過剰さ(excess)が場所を占めている。 しかしわれわれの仕事は、それらをこの世界にぶちまけることではない。 われわれの仕事は、わが内なり、他者の内なるそれら(*過剰さ)と戦うことである。 反抗、つまり屈服しないという世俗的な意志は,,今日なお戦いの基本にある。 (カミュ)われわれ全ての中に善と悪が存在するいう事実は、 何人をしても道徳的に尊大にさせてはくれない。 何人も、当人自身の道徳的優位性を主張することはできない。 許しの可能性が生じてくるのは、この抑制感覚からである。 Top リンク Page1of1 [ 9 posts ] 1 新しい記事有り 新しい記事無し 重要トピック 新しい記事有り(人気) 新しい記事無し(人気) 告知トピック 新しい記事有り(ロック) 新しい記事無し(ロック) 新規投稿 不可 返信 不可 自分の記事の編集 不可 自分の記事の削除 不可 投票への参加 不可 Powered by SuwaBB as @BB like phpBB ©2013 atfreaks
https://w.atwiki.jp/elvis/pages/1927.html
I Will Never Forget You Frida Kahlo And Nickolas Muray Chronicle BooksSalomon GrimbergNickolas Muray Ich werde Dich nie vergessen ... Briefe Fotografien Schirmer /Mosel Verlag Gm?Frida Kahlo?Nickolas Muray Celebrity Portraits of the Twenties and Thirties Dover Pubns?Nickolas Muray The Covarrubias Circle Nickolas Muray's Collection of Twentieth-Century Mexican Art (Harry Ransom Humanities Research Center Imprint Series) Univ of Texas Pr?Kurt Heinzelman?Peter Mears? Ich werde Dich nie vergessen ... Briefe Fotografien Schirmer /Mosel Verlag Gm?Frida Kahlo?Nickolas Muray
https://w.atwiki.jp/kusamura/pages/23.html
このページはhttp //bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65915からの引用です kusamura(叢)フォーラム トップ»ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972)» 第五章 権力の意味 Ⅱ (権力と愛-親子・暴力・嫉妬) [4posts] 投稿者 メッセージ kusamura 題名 第五章 権力の意味 Ⅱ (権力と愛-親子・暴力・嫉妬) 時間 2009-08-16 16 49 11 no rank Joined Posts 4 権力と愛 愛と権力は、(伝統的には)お互いに相対立するものとして引き合いに出される。 普通はこう論ぜられる。――権力をふりまわせばふりまわすほど愛はいよいよ薄れていく、 ――また、愛が増えれば権力が後退する。 ――愛は無力なもの、権力は愛情のないものとみなされる。 ――愛を容れる力を発展させるにつれて、権力への関心は薄れてゆく。 ――権力は支配と暴力へつながり、愛は平等と人間的福祉につながる。 ヴィクトリア朝から受けついだこの議論は、しばしば、 平和主義者(pacifist)の立場の基本とされている。 この議論は、表面的な推論に基づくもので われわれを大きな誤りや果てしないトラブルへまき込む、と私は思う。 われわれの失敗は、 われわれが愛を純粋に感情と見なさないことと、 それを存在論的(ontological)な存在の状態と見ないとことに起因する。(*親の権力) たとえば、子どもの養育に当たっての伝統的な議論では、親がこどもを愛することが多ければ多いほど、 子どもはそれだけ自己を主張することが少なく、 あるいは他の仕方で権力を示すこともそれだけ少なくなるというものである。 これは過去数十年にわたる 多くの親子関係の特性をなしている無構造な「許容性」(stoructureless permissivence)の一部であった。 私は総体としての許容性を非難するつもりはない。 その許容性の多くは、ヴィクトリア朝の権威主義に対する反動であり、 結果として、若者たちには健全な自由が生まれ、責任の増大が見られた。 しかしこれは主として、親が自分の権力を抑えることなく、 子どもをして(親がそれによって生きてきた)構造を率直に見られるようにした場合である。 他方、 愛は権力の放棄であるとの仮定に立って愛を示し続けようとする親は、 子どもに操作されてしまうのである。 壁に押されぎみの親は、より精出して努力するが、 自分の子どもにたいする憤然たる態度ゆえに、より激しい罪意識を覚えるのである ―そしてこの悪循環のなかで、怒りになって爆発し、暴力もふるいかねない。 おそらく権力抜きで愛情を与えているこうした無構造な家族は、 根のない子どもを育ててしまうことになる。 こうした子どもは、後年、 親が自分に対して「ダメ」を言ってくれなかったかどで親をなじるようになる。 権力を放棄した上で人を愛しようとする努力は、偽似的イノセンス傾向の所産である。 それは愛することのむずかしさを過小評価するものであり、 愛はつねに-それがいかに深い永続的なものであるにせよ- その不誠実なものがまじることによって傷つきやすいものである事実を見落とすものである。 このような愛は、アーサー・ミラーの言葉を借りれば、 人間生活の複雑なアンビバレンツに気づいていないことから出てくる。 権力と愛が相互に連関しているということ,,,つまりわれわれは まず第一に愛しうる(権)力を自分自身の中に持たねばならないのである。,,, 人は、 完全に運び去られたり、あるいは、取るに足らないものとして吸収されないために、 与えるべき何ものかを持たなければならないのである。 愛と権力を併置することの誤りは、 愛というものを純粋に感情と見たり、権力を単に強制の力と見たりすることから 出てくるのである。 われわれに必要なものは、それらを 存在状態ないしプロセスとして、存在論的(ontological)に理解することである。 Top リンク kusamura 題名 第五章 権力の意味 Ⅱ (暴力) 時間 2009-08-16 17 24 33 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 4 権力と愛 2(*暴力) 権力と愛との経験的な関係は、権力の逆用ともいうべき暴力(を)問題にするとき 両者がいかに近接するものであるかがよくうかがえる。 暴力は、感情的に緊密な関係にあり、それゆえ お互いに傷つきやすい人たちの間でもっとも起こりがちである。フィラデルフィアでの殺人に関する統計的研究によると、 殺害行為の大部分は家族構成員に対しておこなわれている。 フィラデルフィアで起こった殺人の見込み予測から判断すると もっとも危険な部屋は寝室である。 「もしあなたが十六歳を超えた女性であるなら、あなたを殺害する人物は、 夫なり恋人あるいは親戚の者でありうる公算がもっとも高い」 とヴォルフガングはこの研究の中で書いている。 結婚や恋人同志の関係の中には、 愛と権力との関係に似たようなものがあるのがわかる。 性行為の中でも自己主張(=self asser)(即ち権力)と思いやり(=tenderness)(即ち愛)との 結びつきが必要である。 他人の気持ちやよろこびに対する心づかい(caring)や感受性(sensitibity)というものは 思いやりなしには存在しないし、また、 自己主張なしには、自らの自我を完全に行動に移せる能力が湧いてこないのである。 愛と権力が相対立するものと見られるとき、 「愛」は一方のパートナーの卑劣な(abject)降伏となり、 他方によって巧みに(あるいは不手際に)支配される傾向がある。 こうしたものは、しばしばサド・マゾヒスティックな結婚となる。 そのねらいがただ愛によって導かれるときには、 主張と攻撃は明らかに、あまりにも権力に汚染されているとして除外されてしまう。 そこに結果として出てくることは、お互いにしがみつくことであり、お互いに 吸収されてしまうことになる。 このような関係は、愛の形態としての服従から、 権力の一形態としての暴力へと、後先ゆれるかもしれない。 いかに献身的な妻なり夫が...突然その配偶者に手斧をふりあげるかは、 新聞の切り抜きでだれもがよく承知していることである。 この極端な例は、 「愛」のなかに問題があることを示している。 つまり、権力の現実的な主張をそのなかに持たない愛のことである。,,, 素直で抑制のききすぎている人やいつでも親切そうに見える人は、 その攻撃性を一度に大きく爆発させる人になりうる。 このことは、ある人間が正当な方法で自らの権力欲求を生き抜くことができないときに 暴力が生じる、 というわれわれの命題にも一致する。 Top kusamura 題名 権力の意味 Ⅱ (嫉妬) 時間 2009-08-16 18 04 14 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 4 権力と愛 3(*嫉妬) 権力と愛という問題のもつもう一つの興味ある面は、 嫉妬(jealousy)の現象である。 他人に心を配り価値を認める機能としての嫉妬、 の持つある要素が正常で健康的なもの(*だとしても)―― 一般に「嫉妬」と呼ばれているものは、その正常な思いやりの域を超え出てしまう。 個人の無気力さ加減と直接関係のあるものは所有欲(possessiveness)である。 他人を失ったときに感ずる脅威の程度は、 当人がどれほど相手に対して嫉妬を感じているかによる。人は何もできない。なぜなら 人は、自分の中に愛しているものを取り戻すだけの力を全然持ってないし、 自分を完全に冷たく無視された(liave out)ものとして体験するからである。 こうした状況では、嫉妬はある形の暴力になりうるのである。 ある若い男は,.ロンドンにいる恋人に電話をかけることができず、 嫉妬の発作にとらわれていた。彼はただちに、ロンドンへ飛行機で かけつけた――なかば、他の男とベッドにいる彼女を想像しながら(hoping)。 この青年はひどく脅えていた。 それは彼の無力感があまりにも大きかったからである。 嫉妬というものはしばしば人間関係のアンビバレンスから出てくる。 つまり、彼は相手を愛しているが、また憎んでもいるのである ――すなわちこの青年は、もし彼女がもうひとり別の男を抱くことによって、 いままでの関係を断つよう強いていたならば、彼にはむしろ その方がよかったのであろう。 嫉妬というものは、その人の探し求めているのが、 愛よりはるかに権力であるような人間の間柄を如実に示すものである。 嫉妬が起こってくるのは、その人物が、 十分自尊心や自分自身の権力を――もしマーシデスの言葉を使うなら―― 彼女自身の「生きる権利」を確立できなかった時である。 神経症的な嫉妬がもっとも強く起こってくるのは、 その愛がそれほどしっかりしたものでないか、あるいは十分に 基礎が固められていないときである。 嫉妬は、その人物が相手を 「取り戻す」(with back)ことができないと感じていることの反映である。 これはうまくゆかなっかった権力であり、きわめて時間のかかる しかも破壊的なものである。 嫉妬深い人間は、自分の全エネルギーを嫉妬発作に投入する必要があるように思われる。 それは、 部分的には心の底できわめて疑わしいと感じている愛の存在することを 「証明」するためである。 Top kusamura 題名 権力の意味 Ⅱ 時間 2009-08-17 19 38 11 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 4 権力と愛 4 (*ラスト) 権力と愛との境界線はお互いに重なり合うものである。愛というものは、愛してる側の人間をして、相手から影響されたい気持をおこさせ、 愛されている方の人間が望んでいることをやりたい気持にさせてくれるものである。 つまり、両人は相手の人格的尊厳に心を配り、 相手の独立せる自我の保持に配慮するのである。 愛と権力のからみ合いは、 ものわかりのいい成人が子どもに与える、 確固としたこどもの育て方にもあらわれている。 自我の主張や自我の確認、 それに、攻撃さえ、時には避けがたいものであるだけではなく、 愛情関係の発展という点では健康なものである。われわれは、巨大技術(giant technology)の支配する世界に立っている。 そして男も女も、いやしくも生き残りたいなら、 自分たちのはっきり意識し自覚された権力を主張できなければならない。ニーチェはこう主張する。よろこびの出所は、屈服や拒否ではなく、主張からである。
https://w.atwiki.jp/xevs/pages/22.html
インドのパズルサイトLMIにて 6/16-6/18に行われるパズル大会です。 定番パズルを4つ合体させたものが7つ出題されます。 【出題パズル】 バトルシップ ひとりにしてくれ スターバトル? ABCプレース? しろまるくろまる? マインスイーパー スリザーリンク 大会ページ
https://w.atwiki.jp/kusamura/pages/25.html
このページはhttp //bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65922からの引用です kusamura(叢)フォーラム トップ»ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972)» 第三章 コトバ―その最初の被害者 [ 8 posts ] 投稿者 メッセージ kusamura 題名 第三章 コトバ―その最初の被害者 時間 2009-09-06 16 28 48 no rank Joined Posts ある時代が激しい過渡期の苦悩にさらされるとき、 最初に解体するものはコトバである。 ビリー・バッドは、握り拳で先任衛兵伍長(*艦内で警察権を握る)を殺した後、 (*艦内の)裁判でこう叫んでいる。「もし僕に、自分の舌を用いることができてたなら、 僕は彼をなぐってなかった。,,, 僕はただ(*舌の代わりに)一撃をくらわすことで、ものが言えただけだ。」 (ひどい吃りのため)ものを言うことができず、 彼は自分の情熱を身体的表現によってのみ表出することができたのである。 暴力とコミュニケーションは相互排除的なものである。 誰であれそれがあなたの敵である限り、彼と話すことはできない。 もしあなたが彼と話ができるようなら、彼はあなたの敵ではなくなってしまう。 そのプロセスは相互的なものである。 もしある人間が他人に対し暴力をふるいたくなるようなとき ―わきたつ怒り、あるいは、 即座に復讐が必要となるほどにプライドが傷つけられたような場合―話す能力は、神経的なメカニズムによって自動的に阻止されるのである。 (アドレナリンが分泌し、 原始的な戦闘態勢に入れるようエネルギーが筋肉の方へ移される。) Top リンク kusamura 題名 時間 2009-09-06 16 50 15 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 幼児における権力の起源について、*サリバンは次のように指摘している。 幼児はその最強な道具として泣き叫ぶという手を持っている。 その叫びは、口の装置である唇、口、のど、頬、声帯、肋関節、横隔膜 の活動である。 この叫び声から展開するのが、もっともと有力な道具の大集合体(コトバ)である。 人は自分の仲間との間柄を無事安全に保ってゆけるようにこの道具を使うのである。 私は、コトバを含む操作である言語活動(全体*)について触れているのである。 コトバは、基本にある複雑に入り組んだ理解の可能性、 人間間の共感的な結びつき、 組織の共有、 他人と同一化できる能力 から出てくるものである。 この理解可能性ということは、単なるコトバ以上のものである。 それは母の子宮内での懐胎(gestation)という事実や、 誕生のプロセスの原型ともいえる潜在的に人びとを結びつけるきずな、 われわれ性(we-ness)の状態を意味する。 もしその中ではじめ胎児として成長した子宮というものがなかったなら、 コトバはできなかったであろうし、 またもし誕生ということがなかったらコトバは必要でなかったろう。 人間関係のきずなが切れるとき、 ――即ち、コミュニケーションの可能性が壊れるとき―― 攻撃や暴力が起こるのである。 Top kusamura 題名 1 コトバへの不信 (1) 時間 2009-09-06 18 34 39 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 1 コトバへの不信 (1)コトバに対する深い疑惑と、それが原因でもありまた結果でもある 自分自身および仲間同士の間柄の貧困化といったものが、 今日の社会にはびこっている。 カレッジの図書館の書架は、他の本が書かれたがゆえにこの本が書かれ、 その他の本はさらに別の本が書かれているがゆえに書かれる、 といった調子で書きためられた本の重みでたれ下がっている ―そうした本は、真理に触れて味わう興奮とはなんの関係もなくなってしまい、ただ書いた人の地位や威信との関係を持つだけのものとなるまでに、 食肉同様中身のますます薄いものとなりつつある。 しかもアカデミックの世界では、実際には今あげた 地位と威信という二つの価値が力を発揮するものになりうるのである。 このようなとき、疎外と孤独にさらされているわれわれが切望しているものは、 自分の感情を単純に直接他人に表明することであり、 他人の存在と直接関係を持つことである。たとえば、相手を眺め体験するために相手の顔をのぞき込んだり、 あるいは静かに彼のかたわらに立つというようなことをしたくなるのである。 われわれの憧れていることは、彼あるいはわれわれのムードや感情を、 何のさまたげもなく直接に表明することである。 われわれは、人間進化とともに古いが新しいものとしてわれわれのところに やって来る、ある種のイノセンス、 即ち再びパラダイスにいる子どものようなイノセンスを探し求めているのである。 ,,われわれの欲しているのは、われわれの肉体を通して話すことであり、 たとえそれが部分的なものであるということを知りながらも、 他人との同一化に直接とびこみたいのである。 かくて、話すこととは対照的に、今日、行動療法に向かう傾向が強いが、 それは死せる概念に踏み迷うよりも、むしろ、 筋肉的活動や体験を生き抜くことができるとき、真理は出現してくる という確信である。 したがって、そこに見られるのは、行き当たりばったりの集団化であり, マラソンであり、ヌードセラピーであり、LSDその他の薬物使用である。 要するにこれは、人間同士が「何のかかわりも合いない」ときに 肉体をしてある関係にもち込むことである。 どんな関係があるにせよ、それはつかの間のものである。 こうした関係づくりは今日(1972年のアメリカ*)、 多彩かつはなやかに湧き立っている。 しかしそれはしばしば一夜明ければ、われわれの手中で 海の泡沫と蒸発してしまうしばし潤いの場を提供しているにすぎないであろう。 私のねらいは、こうした治療形態を取り除こうというのでも、 肉体の使用を軽んずるものでもない。 私の肉体は、そこで私の自我が自己表現できる一つの方法にすぎず ―この意味では私は(=)私の肉体であり― そして確かに肉体は評価さるべきものである。 が、私はまた(=)私のコトバでもある。 私の指摘しておきたいことは、 まさに暗々裏にコトバのバイパスを造ろうとする試みに見られるような、行動療法に代表される破壊的傾向である。 というのは、こうした行動療法は暴力と密接な関係にある。,, つまり、集団そのものの内部に発生する活動性と、 外面的には、参加者が反-知性主義の構えになってゆくという点である。,, それは親しくなるのに必要な時間幅をとび越えようとする努力であり、 他人の希望や夢や恐怖を直接感じ、かつ、体験しようとする試みである。 だが、人間が親しくなるのには歴史が必要だ。 われわれは、危険なことに、 人間はシンボルを作るものである、ということを忘れている。 もしそのシンボル(あるいは神話)が 不毛で死んだものに見えるなら,,シンボルの破産は、 絶望への道の一里塚と見るべきである。 Top kusamura 題名 コトバへの不信 (2) 時間 2009-09-06 20 37 21 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 コトバへの不信は 「メディアはメッセージである」(*マクルーハン)ということを体験することによって、 われわれの中にはぐくまれる。 テレビに出てくるコトバのほとんどが,,ある意味を伝えるというよりもむしろ スピーカーのパーソナリティを売るというサービスの意味で用いられている。 これは、コトバの「意味」ではなく、コトバのもつ「PR的価値」を強調するという、より狡猾な表現形態である。 コトバは信頼すべき人間的な目標のためには用いられてはいない ―つまり何か独自なもの、あるいは人間的な暖かみを分かちあうためには 用いられてはいない。 そのとき、メディアはあくまでメッセージであり、 つまりメディアが働くかぎりおいてはメッセージは全然ない。 戦時中、顕著にあらわれるが、またその他のときにも見られる 「不信感」(credibility gap)という語句は、 単に他をあざむこうという意図以上により根の深いものになっている。 われわれはニュース速報に耳を傾けながら、,, 真実はほんとうはどこにあるのか、なぜ我々にそれが知らされないのか、 ということに疑いを抱いている自分に気づくのである。 今日しばしば見られることであるが、ごまかしがコミュニケーションの手段として受け容れられてきた。,, すなわち、コトバが、そこで論ぜられている事柄とはますます関係が薄くなり、 その底にある論理に対してはいかなる関係もなくなって、 コトバというものの根拠が相互の分かちあい構造にあるという事実が すっかり無視されているのである。 (*例-ラオス侵攻がまだアメリカでは伏せられていた時期の レーアド国防長官と記者たちの会話) 記者たち(*ラオス侵入の噂は)ほんとうですか? レアード長官 私はいま軍事委員会の会議から出てきたばっかりで 申し上げておきたいことは、われわれの徴兵についての議論は たいへん有益なものでなごやかな話し合いに終始したということである。 記者たち そんなことは聞いておりません。閣下、 『イズベスチャ』(ソ連の新聞)も、すでにこの侵入を報じています。 レアード(ほほえみながら)『イズベスチャ』が真実を書かないことはご存じの通りです。 記者たち (再度最初の質問) レアード 私は、戦場にあるわが兵員諸君の生命を守るために必要な 一切の手をうつつもりである。これ以上は言えない。(立ち去る) だれも、レアード長官が虚偽を述べているとは言えない。 彼の述べている一切は事実に関するものである。 ただ眼目は、彼のコトバはコミュニケーションの全体構造を否定している点である。 彼の解答は、質問項目とは何の関係もない。 これが極端に走り固執された形をとると分裂病の一種になる。 しかし、今日、それは単に政策と呼ばれている。 Top kusamura 題名 4 コトバと体験 時間 2009-09-07 20 17 28 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 4 コトバと体験 (1)重要な問題は、体験(experience)と、 若い世代が「単なる思考」あるいは「単なるコトバ」と呼んでいるものとの間の区別である。 体験とは、A.マクレーシュのコトバを借りれば 「人間が自分の口で、りんごを味わうのとちょうど同じように」行動にアクセントを置き、何かを生き抜くなり、あるいは何かを感じ取ることである。 何かを体験することによって、われわれはその意味をあらゆるレベルで われわれに浸透させるのである。 われわれは、感じ、行動し、考え、究極的には決断するのである。 決断は自分のトータルな自我を危うくする行為である。体験への情熱は、より多くの自我をその情景の中へ含みこませようという努力である。 われわれはトータリティとして体験するのである。 体験は部分的な人間観に相対立するものである。 たしかに行動主義は体験の一部である。 しかし行動主義が人間理解や人生哲学の全てになってしまうときには ―それは結局知的な素朴さになってしまうものだが― それは破壊的なものになってしまう。 Top kusamura 題名 4 コトバと体験 (2) 時間 2009-09-07 20 51 52 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 4 コトバと体験 (2)われわれは経験を「反映」(reflect)することができるし、 また反映しなければならない。 これは思考に力を与えるだけでなく、存在をコミュケート(*伝達)するのである。私の受けた教育で、もっとも重要かつ飲み込まれるような体験は、*ポール・ティリッヒの講義であった。 ドイツ人で、第一級の学究であったティリッヒは、講義することに信頼を寄せていた。 しかし彼はまた、人生や真理にコミットする人間であった。 それにすぐれた論理的能力をもった思索家であり、その論理的能力を利用することを ためらってはいなかった。かくて一切のレクチャーがティリッヒの存在の表現となり、 それが私の存在を目覚めさせた。 私は彼のレクチャーに接することによって、レクチャーとは何をなすべきか ということについての私の理想ができていった。 反省もまた体験の一部であるという表現は、きまぐれで混乱を惹き起こしやすい。 われわれは思考というものをそれ本来のあり方で働かせてゆかねばならない。 その誤りというのは、思考をシャットアウトしてしまうことと、 あるいは歴史の持つ含蓄をはらいのけるために「直接」経験に訴えることをいう。 若い世代は「単なる」思考や「単なる」コトバなどを攻撃している点で正しい。 (*しかし)若い世代は「人生を体験する」という変装の元で、 「単なる」感情や「単なる」行為、あるいは人間の他のいずれかの部分的活動に 身をゆだねるときに同じ過ちを犯すことになる。 そのときの「体験」は、知的怠惰になり、実行をぞんざいにすることの言い訳になっている。*高貴な野蛮人という幻想をもっていたルソーは、 たいへん有害な影響を与えることにもなる。とコンラッド・ローレンツはいう。 この高貴な野蛮人とは、せいぜい白痴(cretin)であろう。 一切を無効にして新たに出発しようとする若者は、 それが石器時代以前のクロマニヨン時代の人間に遡ることを意味する と考えるのが一番よい。 概念というものが生命を失ってきている今日のような時代にあっては、 概念的思考を投げ出してしまいたい、という 気分的にはよく了解できる傾向が見える。 しかし概念なくしては本物の体験はない。 また、およそ、経験をぬきにして生きた概念はあり得ない。 概念は経験に力を与えるが、概念に内容と生命力を与えるためには 経験が存在しなければならないのである。 Top kusamura 題名 3 コトバとシンボル 時間 2009-09-07 21 28 36 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 コトバとシンボル(0) (*この章の他項でシンボルに関係していた部分をここに移動) -------------------------------------------------個人は、同時に、他人に束縛されているとともに他人から独立している。 この人間の二重性から、コトバの基礎でありそのきずなを再び確立するための 人間間の関係の橋渡しをする役を果たすシンボルと神話が生まれてくる。 シンボル(symbol)のもつこの「橋渡し」の機能は、 「シンボル」の語源であるギリシア語súrn=with 、bállein=to throw からきており,,それは文字通り、近づいてくる(draw together)を意味する。 これは 意識と無意識とか、 個人的なものと社会的なもの、 歴史的過去と直接の現在、 といったような(*互いに)経験の相異なる面を引き寄せるのである。 シンボルは、 もろもろの意味の合流せるものを伝えるものである。 それゆえ、それはまた大きなエネルギーを開放する。 たとえば、若者の長髪やヒッピータイプの衣服は、アメリカの総体的に 競争的で利益追求的(acqisitive)経済に対立するものを象徴している。 アイデンティティ喪失の底にあるものは、 アイデンティティおよびコトバがそこに基礎をおく、 シンボルと神話の持つ説得力の失われていることである。 Top kusamura 題名 3 コトバとシンボル(本編) 時間 2009-09-07 21 51 38 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 コトバとシンボルコミュニケートするということは、お互い理解しあうための方法である。 もしかかる方法がないなら、われわれの各自は、 自分のまわりで 言われてることについては何も理解できず、 自分の隣にいる人からは何も感じられない。本当に人の孤立は大きいのである。 (*当時月面着陸報道において使われていた“宇宙船外での活動”というコトバについて)その語句は,,きわめてテクニカルなもので,,詩らしきものは何もないし,, 人間的なものを何も含まない。われわれは最終的に、その多音節の語句は、 「月の上を歩くこと」を意味するものである、ということに気づく。 意味深長な個人的コミュニケーションにおいて、 それに応じた発展がないのに、いたずらにテクニカルになれば、 それだけ、われわれもまたますます疎外されてゆくようになる。 そのときコミュケーションはコミュニケ(公式発表)にとって代わられる。 コミュニケーションの崩壊は精神的な損傷である。 コトバが、そのコミュニケーションの力を獲得するのは、 それらのコトバがシンボルに参加するという事実からである。 いろんな意味を一つのゲシュタルト(形態)にまとめることによって、 シンボルはシンボルそれ自体よりもはるかに大きな実在を指向するような 神秘的な(numinous)性格を獲得するのである。 シンボルは、コトバというものに、 ある人間に他の人間の抱いている情緒から何らかの意味を伝えるような シンボルの力を与える。 それゆえシンボルの崩壊は精神的な悲劇である。シンボルはつねに それが述べている以上のものを意味している。 シンボルは本質的には内包的である。 このように、コトバがシンボル的であるかぎりにおいて、 コトバはそれが個別的に語り得る以上のものを指摘している。 重要なことは、その残照(afterglow)であり、 湖の中に落とされた石のようにあらわれてくる意味のさざ波(ripples)であって、 コトバのもつ外延的な面よりもむしろ内包的なものである。 それは、詩人が使うそれに似たゲシュタルトである。 コトバを口にして話すというまさにその所作を通して 形態というものが出てくるのである ―これは人びとが圧力をかけられて何かを報告するときなぜより詩的になるか、 という理由を説明する。 これは全て、われわれに教えられてきたこととはまさに正反対のことである。 われわれに教えられてきたことは、あるコトバが専門化し 限定されればされるほど、より正確に話せるということであった。 たしかにコトバはより正確になる。 しかし、より真実に近づくとはいえない。 というのは、この観点から言えば、われわれは、 自分たちのコトバをますますテクニカルで非人間的で客観的なものにしてゆく傾向にあり、 そうしてついに純粋に科学的な用語で語るようになる。 それは、正当なコミュケーションの方法であり、たしかに技術時代に発展する方法である。 しかしそれはコンピュータ言語に終わってしまう。 即ちそれは、自分の国で、私のそばを歩いている自分の友人について ほんとに知りたいことが、 われわれ両人があたかも二つの真空管の中にいるもの同志のように、知り得ないのである。
https://w.atwiki.jp/bfbc2/pages/312.html
Clan muramatsu #ref error :ご指定のページがありません。ページ名を確認して再度指定してください。 活動機種:PlayStation®3 メンバー数: 10人(2010年5日15日現在) http //www20.atpages.jp/muramatsu2/ 代表者: muramatsu-HIEN クラン紹介文 初めてwikiに投稿させていただきます。 うちらのクランは、リアフレ&リア後輩で結成された部隊です。 日々、皆で面白おかしくBFBCをやっています。 どうぞ、よろしくお願いします。 クラン員募集中!!!! 5月15日現在、クラン員を2名 臨時募集しております。 入隊希望の方は公式HPの募集要項を確認の上、アクセスしてください。
https://w.atwiki.jp/retrogamewiki/pages/12895.html
今日 - 合計 - HOMURAの攻略ページ 目次 基本情報 [部分編集] ストーリー [部分編集] 攻略情報 [部分編集] Tips [部分編集] プチ情報 [部分編集] 関連動画 [部分編集] 参考文献、参考サイト [部分編集] 感想・レビュー 基本情報 [部分編集] ストーリー [部分編集] 攻略情報 [部分編集] Tips [部分編集] プチ情報 [部分編集] 関連動画 [部分編集] 参考文献、参考サイト [部分編集] 感想・レビュー 名前 コメント 選択肢 投票 役に立った (0) 2012年10月12日 (金) 13時17分55秒 [部分編集] ページごとのメニューの編集はこちらの部分編集から行ってください [部分編集] 編集に関して
https://w.atwiki.jp/samurai8/pages/12.html
人気商品一覧 @wikiのwikiモードでは #price_list(カテゴリ名) と入力することで、あるカテゴリの売れ筋商品のリストを表示することができます。 カテゴリには以下のキーワードがご利用できます。 キーワード 表示される内容 ps3 PlayStation3 ps2 PlayStation3 psp PSP wii Wii xbox XBOX nds Nintendo DS desctop-pc デスクトップパソコン note-pc ノートパソコン mp3player デジタルオーディオプレイヤー kaden 家電 aircon エアコン camera カメラ game-toy ゲーム・おもちゃ全般 all 指定無し 空白の場合はランダムな商品が表示されます。 ※このプラグインは価格比較サイト@PRICEのデータを利用しています。 たとえば、 #price_list(game-toy) と入力すると以下のように表示されます。 ゲーム・おもちゃ全般の売れ筋商品 #price_list ノートパソコンの売れ筋商品 #price_list 人気商品リスト #price_list
https://w.atwiki.jp/twitterbot/pages/683.html
SameuraDam / 早明浦ダム Web 自己紹介 早明浦ダムの貯水率をお知らせ。お問い合わせは@HyphenTまで。自分でもよくわかってないですが。 最近のつぶやき 新着記事は見つかりませんでした。
https://w.atwiki.jp/asigami/pages/2311.html
Samurai Shogun vs. Master Ninja(激)のページへ 同じbpmのDROP OUTはもちろん、それよりちょっと速い鯖と比べてもこっちのがムズいんじゃねって感じだわ。ニンジャナンデ… - 2015-03-11 01 58 25 どこが侍で将軍で忍者なのか?和風でもないいつもの96ちゃん曲なのに - 2015-03-11 18 28 48 適当にハイスピを2.5倍をかけたらクッソきつかった 後で計算したらBPM700相当だった - 2015-03-22 18 00 09 BPMや譜面要素など、電池クリアであれば足15通常鯖の少しだけ下位互換(鯖はノーツこそ500だが体力のツラい終盤で捻り8分滝連発、一応ソフランもあり電池難度はやや上)に感じた。クリア後のスコア上げ&フルコンも鯖より簡単で、ゲージ制になれば鯖へのいい練習曲となりそう。 - 2015-03-22 23 15 05 ↑追記:普通鯖の電池クリアは、当時Goodもライフ減少で条件違いでした。レプリDの電池(Goodがセーフ扱い)条件では優劣不明、スコア難度と緑フルコンに関しては鯖がやや上と再評価します。 - 2015-04-08 23 21 09 交互難の箇所が多い一方で捻るべき箇所もあり。↑の方とは逆に、こいつより速いはずの激鯖より体力面も配置面もキツく感じる。あっちは滝以外正面で踏めるからかな - 2015-03-29 11 39 06 10回くらい踏んでみましたが、上の←↓↑←↓↑から始まる配置は直前の滝から普通に逆足入りが可能でしたよ。 - 2015-04-22 12 00 05 解説に手を加えてみた。 - 2015-07-23 21 23 55 同時の頻度の高さと捻り、一部交互難を考えると劣化激鯖というより劣化鬼鯖と考えたほうがしっくりくるかもしれない。 - 2015-04-22 15 16 21 だとしたら「かなり劣化させた鬼鯖」ですね。どちらもクリアしてる経験上、これと鬼鯖ではクリア難度に差がありすぎて全く比較にならない。 - 2015-04-22 23 55 01 公式はこのぐらいの速さの曲の難易度付けが苦手なのだろうか。比較対象(近いBPM帯の曲)が少ないから仕方ないといえばそれまでだけど、それならそれでそういう曲がもっと増えてもいい気がする…EDITするかぁ - 2015-07-24 15 51 35 スコア難度は適正だと思うんで、上級者が難易度判定したんじゃない? 多分だけどAAまでは遠くて、AA~PFCは近いと思う。んで、初見からAA~の人は14適正だと思ってるんでは? - 2015-07-26 09 16 35 自分スコア800k乗らないクリア適正のクソ雑魚だけど、15や16から戻ってみるとクリア難度でも14最上位に収まってるよこれ。逆に14って難易度は英断だと思った - 2016-01-08 08 57 48 2↑近いbpmの曲数が少ないために「プレイヤー側がこのぐらいの速さを苦手にしている」という見方もできるのでは?恐らく、プレイヤーもKONAMIもこのbpm付近の経験値が低いんだと思う。 - 2015-07-27 22 57 44 このBPM帯が少ないってのもあるけど捻り譜面なのが問題なんだよね。正面乱打メインだったらBPM帯関係無しに簡単だと思う(鯖のラスト以外を見てもそう思う) - 2015-07-27 23 18 41 明らかに14を逸脱している。これよりBPMが低いchrnos並にノーツを流しつつ15の中でも認識し難い部類の長めの捻りが中盤にいくつも出てくる。同時も多く休める部分も皆無なため15でも中堅以降に余裕で入る強さがある。 - 2016-07-18 14 19 19 同じ足14の高BPM8分捻りがメインの譜面(宇宙戦争、ストライド、888、ネフィリム)より1段階上の難易度。原因は260という高速もあるが認識のし辛さ。スコアは出やすいが詐称と思って良いかと。 (2018-12-22 14 22 02) ひねり滝がしつこい、にしてはBPMが初音ミクの消失より早い、8分3連単⇒同方向の厳しい同時が絡むとなぜこいつだけ15に行かなかったのか未だに謎。なっがい滝がない、鬼配置同時後は1.5拍の猶予があると温情はみられるけど休憩地帯はないしストライド昇格ならこっちもそうするべきだったと思う。 (2019-04-24 09 04 27) 滝に加えて(BPM130換算で)8分同時がちょいちょい来るのが地味にキツい。同時も1ノーツだからと過小評価されてる気が......これがクリアできたら胸を張って15へ (2020-03-26 13 06 47) 8分滝の最後と次の滝の最初を同じ足で踏ませるのが想像以上にしんどい (2020-03-29 03 49 32) 解説にもある422コンボ目からの捻り配置は16以上でもほとんど見られないレベルの難解さ。ここ以外は踏みやすい配置がほとんどなのでスコアは意外と出るもののクリアや接続は15中位以上は確実にある、というか14最強候補なのになぜ残留してるのか (2020-06-08 23 55 49) 登場から時間の経った曲はもう難易度Lvを再定義しないことに決め込んでるんじゃないか仮説 (2020-07-06 13 00 25) 1st曲でも難易度変更あるのでダウト (2020-07-06 15 47 58) アイエエエ (2020-07-06 17 49 52) 2.0速(520)が見えるようになって、ようやく譜面の全容が理解できた。ぐねぐねに捻るんだねぇ (2020-09-18 12 31 40) 腐れ外道を15と言い張るなら、BPMが同じで捻りがより複雑なこの譜面を15に上げるべきでは (2020-09-18 16 31 18) BPMが270なら間違いなく足15だったはず。クリアなら足14最上位仲間のVegaより楽かな…もちろん個人差あり (2021-02-19 16 03 21) これマジでいつになったら昇格するの? (2021-08-31 04 12 22) A3稼働に至るまで幾度の難易度改定をもすり抜け未だに足14に居座る超詐称譜面。Chronos鬼が足15である限りこの譜面に足14の要素はどこにも無く、クリア、スコア、接続ともに足15中程度あると思って挑む方がいい。 (2022-03-26 23 30 44) bpm260の速さを改めて認識させられるゴリゴリの詐称譜面 (2022-04-14 07 54 49) 満場一致で詐称認定されてるのすげー珍しいぞ (2022-06-03 01 27 11) こいつだけは本当に頭おかしい。譜面読み取るだけでこんなに苦労するLv14は他にない (2022-08-02 18 41 16) ここ最近の難易度修正を見たところ 足13〜の激・鬼譜面は基本的に前作〜前々作の譜面までしか修正してないっぽいから、収録から一定期間が過ぎた高難易度譜面は数作に1度の大規模修正で直すって感じなのかな。 (ここのコメ見た感じからしても) 時間が経つにつれて詐称扱いが強くなってる譜面だから、冗談抜きで運営側が気付いてない説ありそうなのよね…。 (2022-06-28 11 24 50) 速さに追いつければAAAは出るけど、驚きの接続難。後半はスライドじゃないとLIFE抜けられなかった…… (2024-05-19 23 03 58) 漸く足15に連行された模様 (2024-06-12 12 22 18) エレトリが15に行ってから長らく14最強の座に居座ってきたが、ようやくお役御免に (2024-06-12 12 40 47)