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昨日 - 今日 - トップページ 橋下徹大阪市長の慰安婦妄言 ―― 「意に反して」ということでも必要ではあったということでしょうか? いい気はしないけれども、状況からして必要であったということですか? いや、意に反した、意に即したかということは別で、慰安婦制度っていうのは必要だったということですよ。意に反するかどうかに関わらず。軍を維持するとか軍の規律を維持するためには、そういうことが、その当時は必要だったんでしょうね。 5/13ぶら下がり取材夕方 ゴチャゴチャいってますが、これだけでアウト!っていうか没収試合でしょう。 橋下徹大阪市長の慰安婦妄言twitter 報道 根拠? 抗議声明 「世界中の軍隊が従軍慰安婦やってた」という橋下論の前提になる事実については、 新聞もだれも批判してないようですが、これっていかがなもんでしたっけ。 産経新聞の古森義久さんは、あまりそういうことはいわなかったかと。 twitter 橋下徹のtwilog 5/14 リンク 保存mht 橋下徹のtwilog 5/15 リンク 保存mht 未明まで 橋下徹のtwitter(現在) https //twitter.com/t_ishin 報道 時事通信「橋下氏の発言要旨=従軍慰安婦問題」 SYNODOS 橋下徹大阪市長「米軍の風俗業活用を」はいかなる文脈で発言されたのか(2013年5月13日)大阪市長・橋下徹氏ぶらさがり取材全文文字起こし 1 SYNODOS 橋下徹大阪市長「米軍の風俗業活用を」はいかなる文脈で発言されたのか(2013年5月13日)大阪市長・橋下徹氏ぶらさがり取材全文文字起こし 2 朝日新聞portal page 「橋下徹氏」 SYNODOS 橋下徹大阪市長「性風俗業と従軍慰安婦問題」についての発言(2013年5月16日)1 SYNODOS 橋下徹大阪市長「性風俗業と従軍慰安婦問題」についての発言(2013年5月16日)2 根拠? レイプ事例にしか見えないけど。 産経新聞記者・阿比留瑠比 世界各国にもあった慰安婦・慰安所 2007/03/09 抗議声明 沖縄の女性達による抗議声明 PDF1枚 橋下氏発言を非難する米政府当局者のコメント(全文) トップページ
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従軍慰安婦問題 ■ アメリカが日本に恫喝で口封じする理由。従軍慰安婦【拡散自由】 「BBの覚醒記録(2013.11.9)」より / 朴槿恵大統領が相変わらず頑ななまでの対日強硬路線です。 「日韓は未来志向の関係に向けて成長すべきだが、従軍慰安婦やその他の問題では、過去を向いた指導者もいる」 として、日韓首脳会談もしないほうがましという姿勢。 「過去の問題が解決しなければ日韓双方の国民が失望する」 そうですが、確かに失望します、朴槿恵大統領が言う意味ではなく、 いつまでも歴史の真実に朴槿恵大統領が向き合わないという 点に於いてです。 会談はじつのところなくていいです。いや、実はもっけの幸い。 これを機に日韓の関係が希薄になるなら、願ってもないこと。 国交断絶ならそれはそれで。しかし、断絶にはむしろ韓国のほうの 思惑で絶対にならないでしょうよ。お互いを失ってより傷を負うのは どちらかという話です。 日本のネットで「国交断絶」の言葉を見ない日はないのに あれだけ日本を侮辱し罵り倒す韓国が、そこだけはまず言いません。 韓国など離れていくなら歓迎ですが、しかし慰安婦問題の濡れ衣に ついては言われ放題してはなりません。 韓国の言うことは事実ではない、という否定形はもはや無力です。 やつらは、捏造を広めに広めて、もはやそれは世界中に 定着しつつあります。 それなら、彼らの・・・・・韓国とアメリカがいかに許されざるべきことを 韓国人慰安婦に対して行ったか、また慰安婦問題で日本に 発現するなと圧力をかけて来るアメリカが終戦後、日本女性を いかに性奴隷として蹂躙したか、その告発をして、守りから 攻撃に転じるべき時期でしょう。 従軍慰安婦 ~彼女たちの叫びが聞こえますか 高橋とみよさんのブログで、記事とともに紹介されていましたが、 http //tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-c8a4.html 大事な動画なので、こちらでもアップしておきますね。 アメリカが、日本に「河野談話を見直すな」とか「従軍慰安婦問題を持ち出すな」 と日本に圧力をかけてくるわけが、ここにあります。 日本の慰安婦施設は軍の管理下で、性病予防もきちんとされて、兵隊たちと ピクニックの日があるなど、ほぼ整然と営まれていましたが、アメリカ兵相手の 朝鮮人慰安婦たちは、暴力、性病と悲惨でした。 ピューリタニズム(清教徒主義)が、まだまだ倫理観の基底にある米国には 隠し通さなければならない大恥部なのです。 それゆえ戦勝国の特権をかさにきて、日本政府を恫喝してきます。 「言うなしゃべるな、従軍慰安婦のことは韓国に非難されっぱなしに、しておけ」 アメリカに脅されたら、日本の政府は、政治家は、何も出来ません。 性奴隷など実在していなかった、という訴えも大切ですが、米韓ともに 聞こえないふりをします。 ですから、もっと攻撃に転じましょう。米兵相手の韓国人慰安婦の悲惨さを 世界に広めましょう、語り続け、アメリカと韓国を非難し続けましょう。 アメリカに押さえつけられたら、政府は身動き取れません。 民間でやるしかありません。 (※ 以下略) .
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1.軍慰安所の設置 1)■をクリック→この稿の該当個所へ 2)資料名をクリック→資料の概要(予定)へ 1.軍慰安所の設置■ 恤兵金ノ処分二関スル件〔閣譲決定](昭7・7・19)(未作成) ■ 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・11~20)(未作成) ■ 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・21~30)(未作成) ■ 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・5・1~10)(未作成) ■ 北支那並満州国視察報告[工兵第4大隊中隊長](昭9・3)(未作成) ■ 昭和十一年中ニ於ケル在留邦人ノ特種婦女ノ状況及其ノ取締[在上海総領事館讐祭署沿革誌二依ル】(昭10)(未作成) ■ 昭和十三年中ニ於ケル在留邦人ノ特種婦女ノ状況及其ノ取締並ニ租界当局ノ私娼取締状況 [在上海総領事館讐祭署沿革誌二依ル】(昭13)(未作成) ■ 支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策[陸軍省副官](昭15・9・19)(未作成) ■ 昭和一七年四月陸軍々人軍属犯罪表[中支那派遣憲兵隊司令部](昭17)(未作成) ■ 昭和一七年四月陸軍々人軍属非行表[中支那派遣憲兵隊司令部](昭17)(未作成) ■ 軍人ノ変死ニ関スル件報告[第3飛行師団司令部](昭和17)(未作成) ■ 戦場生活ニ於ケル特異現象ト其対策[早尾乕雄](昭14・6)(未作成) ■ 軍人軍隊ノ対住民行為ニ関スル注意ノ件[北支那方面軍参謀長](昭13.6.27)(未作成) ■ 状況報告[独立攻城重砲兵第2大隊長](昭13・1・20)(未作成) ■ 慰安所ノ状況【波集団司令部](昭14.4)(未作成) ■ 第二軍状況概要[第2軍司令部(中支武漢地区)](昭13・12・10)(未作成) ■ 恤兵金ノ処分二関スル件〔閣譲決定](昭7・7・19)(未作成) 満州事変が昭和6年(1931年)にはじまったが、満州の日本軍は最初は軍が専用し、軍が管理する「慰安所」といったものをもっていなかったようだ。国立公文書館所蔵の閣議決定の資料の中に昭和7年7月18日の陸海軍大臣提案の「恤兵金ノ処分二関スル件」がある。そこには、民間から出征兵士によせられた355万4408円の使い道が報告され、「慰安施設ノ為現金ニテ直送シタルモノ」というような表現がある(4巻、147-148頁)。しかし、「慰安」という言葉自体がこのときはのちの時期のような意味をもっていなかった。 ■ 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・11~20)(未作成) ■ 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・21~30)(未作成) ■ 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・5・1~10)(未作成) 個別部隊の資料では、混成第14旅団司令部の『衛生業務旬報』昭和8年(1933年)4月中旬分をみると、旅団司令部のあった平泉には、 内鮮人娼妓三八名入リ来リ開業スルニ付キ(同、170頁) とあって、「慰安所」なるものはない。吉見義明氏は資料の中にある「防疫及衛生施設」(同、178頁)という言葉に注目して、これが「慰安所」だとしているが*1、これは旬報のたんなる見出しにすぎない。軍はこれらの娼妓に対して軍医に性病の検査をさせている。その実施要領は「混成第十四旅団芸娼妓酌婦健康診断実施要領」と題されている(同、187頁)。検査のべ人員が38人のところ、日本人が3人、朝鮮人が35人で、圧倒的に朝鮮人が多いことがわかる(同、170頁)。 ■ 北支那並満州国視察報告[工兵第4大隊中隊長](昭9・3)(未作成) 昭和9年(1934年)に工兵第4大隊中隊長の塩見久吉大尉が北支と満州を視察して報告を提出している。その中に次のような一節がある。 慰安法ヲ講スルコトハ駐満部隊ニ於テ最モ緊要ナリ折角守備ニ討伐ニ重大使命ヲ果シテ帰営セルモ之ニ対スル物質的慰安ナク待ツモノハ廃屋ノ如キ古兵営ノミニテハ軍心弛ミ易ク荒ミ易カラスヤ(同、239頁)。 この表現はここにはいまだ軍慰安所のようなものは存在していなかったことをうかがわせる。 ■ 昭和十一年中ニ於ケル在留邦人ノ特種婦女ノ状況及其ノ取締[在上海総領事館讐祭署沿革誌二依ル】(昭10)(未作成) ■ 昭和十三年中ニ於ケル在留邦人ノ特種婦女ノ状況及其ノ取締並ニ租界当局ノ私娼取締状況 [在上海総領事館讐祭署沿革誌二依ル】(昭13)(未作成) しかし、すでに確認されているように、昭和7年(1932年)第1次上海事変によって戦火が拡大された上海には、すでに軍慰安所ができていた。この地に派遺された日本海軍陸戦隊が「海軍慰安所」を設置したのが軍慰安所の最初のものであった。『在上海総領事館警察署沿革誌』に見える昭和13年の「在留邦人特種婦女」の状況、取り締まりにかんする記述によれば、以下の通りである。 昭和七年上海事変勃発ト共二我ガ軍隊ノ当地駐屯増員二依リ此等兵士ノ慰安機関ノー助トシテ海軍慰安所(事実上ノ貸席)ヲ設置シ現在二至リタル(1巻、449頁)。 昭和7年末になると海軍慰安所は17になっていた。これが昭和9年には14に減ったが(同、433頁)、昭和11年(1936年)末になると、「海軍慰安所タル料理店」は3軒とされている。「料理店」とは「酌婦」を置いて客に買春させる施設のことであるが、その総数は10軒、うち7軒が海軍下士官専用、のこり3軒が居留邦人を相手にするものであったというから、海軍慰安所が3軒、海軍下士官用のものがさらに4軒、その他の居留邦人相手のものが3軒ということになる。このとき「酌婦」の数は131名、うち内地人は102名、朝鮮人が29名であった(同、436頁)。ここでは日本人が多い。一般に兵士を相手とする店には陸戦隊員及び領事館警察官吏が立ち会って、毎週2回性病検査をした。海軍慰安所については、 海軍側トモ協調取締ヲ厳ニシ且新規開業ヲ許サザルコトトセリ(同、437頁) とある。 昭和12年(1937年)に日中戦争がはじまると、上海には大量の日本軍部隊が上陸した。「慰安所」業者たちは一時戦火をのがれて、日本国内に避難したが、その年11月頃には元に戻ってきた。昭和13年12月末日で海軍慰安所は7軒、貸席全体は11軒、「酌婦」総数は191名、うち日本人171名、朝鱒人20名であった。軒数の比例で海軍慰安所にいた慰安婦数を推測すると、148人となる。この他に「陸軍慰安所」があり、そこには「臨時酌婦約300名がいたとある(同、450頁)。「陸軍慰安所」1軒あたりの慰安婦数を上海の貸席の平均17.4人としてみれば、陸軍慰安所の数は17軒程度ということになり、海軍慰安所とあわせると、24軒ということになる。このときの上海の「慰安婦」総数は海軍、陸軍あわせて、約450人と推測される。 ■ 支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策[陸軍省副官](昭15・9・19)(未作成) このように上海に軍慰安所をっくったのは上海派遺軍参謀副長岡村寧次、同高級参謀岡部直三郎だとされている。既存の研究によれば、岡村らの動機は占領地で頻発した中国人女性に対する日本軍人によるレイプ事件によって、中国人の反日感情がさらに強まることを恐れて、防止策をとらねばならないとしたところにあった*2。そのことについては、陸軍省副官川原直一が昭和15年(1940年)9月19日に関係軍部隊に送った文書「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」にも、次のようにある。 事変勃発以来ノ実情二徴スルニ赫々タル武勲ノ反面ニ掠奪、強姦、放火、俘虜惨殺等皇軍タルノ本質ニ反スル幾多ノ犯行ヲ生シ為ニ聖戦ニ対スル内外ノ嫌悪反感ヲ招来シ聖戦目的ノ達成ヲ困難ナラシメアルハ遺憾トスル所ナリ 支那事変勃発ヨリ昭和十四年末ニ至ル間ニ軍法会議二於テ処刑セラレシ者ハ掠奪、同強姦致死傷四二○、強姦、同致死傷三一二、賭博四九四ニ達シアリ 兵営(宿舎)ニ於ケル起居ノ設備ヲ適切ニシ慰安ノ諸施設ニ留意スルヲ必要トス特ニ性的慰安所ヨリ受クル兵ノ精神的影響ハ最モ率直深刻ニシテ之カ指導監督ノ適否ハ志気ノ振興、軍紀ノ維持、犯罪及性病ノ予防等ニ影響スル所大ナルヲ思ハサルヘカラス」(2巻、49,50,53頁)。 これはすでに注目されている有名な資料だが、日中戦争開始の1937年7月から1939年末までの1年5ヶ月の間に強姦致死の罪によって軍法会議で裁かれ有罪判決を受けた日本軍将兵の数が732人であるとの記述が重要である。 ■ 昭和一七年四月陸軍々人軍属犯罪表[中支那派遣憲兵隊司令部](昭17)(未作成) ■ 昭和一七年四月陸軍々人軍属非行表[中支那派遣憲兵隊司令部](昭17)(未作成) ■ 軍人ノ変死ニ関スル件報告[第3飛行師団司令部](昭和17)(未作成) 『資料集成』には、軍人の犯罪非行にかんする資料として、中支那派遺軍憲兵隊司令部が作成した「陸軍々人軍属非行表」の昭和16年11月、12月、昭和17年2月、4月分、「陸軍々人軍属犯罪表」昭和16年12月、昭和17年1月、2月、4月分が含まれているが、慰安所、慰安婦にかかわる非行、犯罪の記述だけを切り取った資料であり、強姦事件に関する記述はとられていない。個別事件の報告の中に、昭和17年7月18日酔って深夜慰安所に行ったところ閉門していたので、帰途中国人の家に押し入り、15歳の少女を強姦した上等兵(第3飛行師団所属)が同家からの訴えで逮捕され、7月27日軍法会議にかけられ、懲役3年、一等兵への降等に処せられたことが見える(2巻、200-201頁)。慰安所行きと中国人女性への強姦とを同じレベルでとらえている兵がいることが分かるケースである。 ■ 戦場生活ニ於ケル特異現象ト其対策[早尾乕雄](昭14・6)(未作成) ところで日本陸軍の陸軍刑法には強姦致死罪は規定されていたが、強姦自体を罰する規定はなかったため、強姦罪は一般刑法上の犯罪として処罰されていた。普通刑法では法定刑の範囲が狭く、訴追は被害者の告訴を必要としたので、戦時の強姦をとりしまるには適当でなく、殺人をともなわない強姦は見逃されることも多かった、、陸軍刑法に強姦罪の規定が設けられ、これを非親告罪としたのはようやく昭和17年(1942年)の改正によってである*3。したがって日中戦争開始後、軍法会議にかけられた732人は日本兵の中国での強姦件数の中では、氷山の一角であった。上海事変に従軍した早尾乕雄軍医大尉が昭和14年(1939年)にまとめた文書「戦場ニ於ケル特殊現象ト其対策」もすでに有名な資料だが、そこにも次のようにある。 検挙サレタ者コソ不幸ナンデ蔭ニハドレ程アルカ解ラヌト思フ。憲兵ノ活躍ノナカツタ頃デ而モ支那兵ニヨリ荒サレズ殆ンド抵抗モナク日本兵ノ通過ニマカセタ市町村アタリハ支那人モ逃ゲズニ多ク居ツタカラ相当二被害ガアツタトイフ。加之部隊長ハ兵ノ元気ヲツクルニ却ツテ必要トシ見テ知ラヌ振リニ過シタノサヘアツタ位デアル(同、66-67頁) 早尾軍医大尉は、強姦の防止のために慰安所が設けられたが、それでも強姦事件はとまらなかったと述べている。 出征者ニ対シテ性欲ヲ長ク抑制セシメルコトハ自然二支那婦人ニ対シテ暴行スルコトヽナロウト兵站ハ気ヲキカセ中支ニモ早速ニ慰安所ヲ開設シタ。其ノ主要ナル目的ハ性ノ満足ニヨリ将兵ノ気分ヲ和ゲ皇軍ノ威厳ヲ傷ケル強姦ヲ防グノニアツタ。慰安所ノ急設ハ確カニ其ノ目的ノ一部ハ達セラレタ。然シアノ多数ノ将兵ニ対シテ慰安所ノ女ノ数ハ問題ニナラヌ。…地方的ニハ強姦ノ数ハ相当ニアリ亦前線ニモ是ヲ多ク見ル 日本ノ軍人ハ何故ニ此ノ様ニ性欲ノ上ニ理性ガ保テナイカト私ハ大陸上陸ト共ニ直チニ痛嘆シ戦場生活一ヶ年ヲ通ジテ終始痛感シタ。然シ軍当局ハ敢テ是ヲ不思議トセズ更ニ此ノ方面ニ対スル訓戒ハ耳ニシタ事ガナイ(同、66,72頁) ■ 軍人軍隊ノ対住民行為ニ関スル注意ノ件[北支那方面軍参謀長](昭13.6.27)(未作成) この事態を前にして、軍の上層部は事態を憂慮し、軍紀を厳正に保つことを命ずるとともに、強姦事件をふせぐために軍慰安所の設置を推進したのである。岡村の部下として上海の慰安所設置に働いた岡部直三郎が北支那方面軍参謀長として1938年(昭和13年)6月27日に出した名高い通牒がある。あらためてその一部分を引用する。文中「性的慰安ノ設備」とは軍慰安所のことである。 諸情報ニヨルニ、…強烈ナル反日意識ヲ激成セシメシ原因ハ各所二於ケル日本軍人ノ強姦事件カ全般ニ伝播シ実ニ予想外ノ深刻ナル反日感情ヲ醸成セルニ在リト謂フ 部下統率ノ責ニアル者ハ国軍国家ノ為メ泣テ馬謖を斬リ他人ヲシテ戒心セシメ再ヒ斯ル行為ノ発生ヲ絶滅スルヲ要ス 軍人個人ノ行為ヲ厳重取締ルト共ニ、一面成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整へ、設備ノ無キタメ不本意乍ラ禁ヲ侵ス者無カラシムルヲ緊要トス この通牒が各部隊に送られ、受けとめられたさまは、歩兵第9旅団陣中日誌やなどに書き写されている*4ところからうかがえる(同、23-26,32-36頁)。後者では、 本次事変ハ大日本国民ニ課セラレタル天ノ試錬ニシテ軍ハ既ニ幾多光輝アル戦績ヲ収メ得タリト難敵ノ死命ヲ制シ能ク聖戦ノ目的ヲ達成シ得ルト否トハ寧ロ懸リテ今後作戦ニ存ス という第2軍司令官稔彦王の訓示の次に書きこまれている。 ■ 状況報告[独立攻城重砲兵第2大隊長](昭13・1・20)(未作成) したがって、軍慰安所なるものは、日本軍の歴史の特定の段階で生まれたものであり、一般の業者が自らの営業として軍の駐屯地へ来て開いた「料理店」、「貸席」とは異なり、軍が必要とし、軍の判断で設置した施設であることは間違いない。上海の西の常州方面に向かう独立攻城重砲兵第2大隊本部の昭和12年12月の陣中日誌によると、 慰安設備ハ兵站ノ経営スルモノ及軍直部隊ノ経営スルモノノニヶ所アリテ定日ニ幹部引率ノ許ニ概ネー隊約一時間ノ配当ナリ(同、228頁) とある。兵站部と軍直部隊、すなわち大隊本部がそれぞれ慰安所を経営していることがわかる。 ■ 慰安所ノ状況【波集団司令部](昭14.4)(未作成) のちに広東の波集団*5司令部の「戦時旬報」昭和14年4月中旬分には次のようにある。 慰安所ハ所管警備隊長及憲兵隊監督ノ下ニ警備地区内将校以下ノ為開業セシメアリ近来各種慰安設備(食堂、カフェー、料理屋、其他)ノ増加ト共ニ軍慰安所ハ逐次衰微ノ徴アリ 現在従業婦女ノ数ハ概ネ千名内外ニシテ軍ニ於テ統制セルモノ約八五○名、各部隊郷土ヨリ呼ヒタルモノ約一五○名ト推定ス(同、39-40頁) これによると、軍慰安所は、警備隊、憲兵隊の監督のもとに、すなわち波集団司令部の統制のもとに警備地区内において業者に開業させたものであるが、憲兵のいないところで各部隊が郷土から業者と女性を呼んで開業させている慰安所もあるようである。 ■ 第二軍状況概要[第2軍司令部(中支武漢地区)](昭13・12・10)(未作成) 中支武漢地区を制圧した第2軍の昭和13年12月10日付け「第二軍状況概要」によれば、漢口及び漢陽の警備について述べた箇所で、 外出ハ警備第一主義ニ基キ当分ノ間引率外出、慰安所出人ノ為ノ外出以外之ヲ認メス慰安所ハ十一月二十五日ヨリ之ヲ開設シ切符制度ニヨリ混雑ヲ防止シ以テ皇軍ノ面目ヲ維持スルコトニ努メツツアリテ概ネ所期ノ目的ヲ達シアルモノト信ス(同、302頁) とある。 軍が直轄経営するといっても、実際の経営主体は民間業者であった。軍が業者に依託して、女性を調達してもらい、軍の監督のもと開設させるという形が普遍的であった。このような軍直営の慰安所の他に、軍が民間業者の施設を慰安所に指定し、軍専用慰安所とする場合もあった。 :原注(1)吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995年、19頁。 :原注(2)同上、16-17頁。吉見義明・林博史編『共同研究日本軍慰安婦』大月書店、1995年、16頁。典拠は、稲葉正夫編『岡村寧次大将資料』上巻(戦場回想篇)、原書房、I970年、302頁。『岡部直三郎大将の日記』芙蓉書房、1982年、23頁。 :原注(3)陸軍省軍務局長「大東亜戦争間軍法会議処刑掠奪強姦等犯罪事例ニ関スル件」、別冊「日本軍ノ軍紀粛正ニ就テ」、昭和20年10月3日、永井均篇『戦争犯罪調査資料』東出版株式会社、1995年、210-212頁。 :歩兵第9旅団陣中日誌と歩兵第41連隊陣中日誌に転記されている :原注(4)政府発表では南支23軍となっているが、吉見氏の考証で南支21軍とされている。吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、214頁。 和田論文index
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8 慰安婦の帰還 (*1) ■をクリック→この稿の該当個所へ 資料名をクリック→資料の概要(予定)へ 8 慰安婦の帰還《フィリピン朝鮮人慰安婦捕虜尋問記録》 ■ 「俘虜名票」に関する調査結果概要[厚生省社会・援護局](昭22・1・9)(未作成) 《方善柱氏の論文》 《沖縄から韓国へ送還された朝鮮半島出身者の名簿》 《フィリピンから送還された軍人と民間人の名簿》 (低い保護率、帰還率) 《帰還率の推定》 《フィリピン朝鮮人慰安婦捕虜尋問記録》 慰安婦の帰還も時期と場所によって大きく異なっていると考えられる。南方で日本軍が玉砕した場合、慰安婦も多くが死亡した。玉砕に当たって、慰安婦を殺した場合も知られている。北ビルマの状況については、本論集に収められた浅野豊美氏の論文が詳しく明らかにしている。ここでは、在米韓国人学者方善柱氏の論文に発表された米軍の捕虜尋問記録(*2)からフィリピンでのケースに触れておく。 ルソン島ディンガラン湾で保護された5人の朝鮮人慰安婦の場合である。この5人は2組の姉妹を含んでいる。浅野氏が調査したところによると、園田姉妹は姉が28歳、妹が19歳であり、金本姉妹は姉が28歳、妹が22歳であった。もう1人の松本某女は24歳であった(*3)。5人は貧ゆえに「芸者ハウス」に売られていったが、そこで台湾の台中市に連れて行かれ、陸軍の慰安所にいた。一度朝鮮に戻り、1944年4月29日に全体62名の集団でフィリピンに連れて行かれた。到着すると、いくつかのグループに分かれ、各地のキャンプに分散した。5人は他の5人と共に、クラーク飛行場付近のヒグチ部隊に送られ、タニグチなる人物が経営する慰安所で働いた。それから同飛行場の地区司令部に配属になり、44年10月にはサン・フェルナンドの中村部隊に配属になった。45年1月10日、ここを退却する過程で鈴木部隊に合流し、イボめざして行軍した。途中で慰安婦1人が死亡し、病気の2名はイボに放置された。1月下旬にイボを捨て、4月にイロイロに到着した。部隊は山中を逃げて、ウミライに向かうことになったが、まず2人が逃げた後、のこる5人も部隊を離れ、海岸線を北上した。5月18日米軍の上陸用舟艇が接近したのをみて、手を振り、救助されたのである。 10人の集団の内、5人が救出されたことになり、他の5人は死亡ないし行方不明である。なおNHKの取材チームは5人中3人の帰国を確認し、園田妹が米国に居住していることを明らかにした(*4)。 ■ 「俘虜名票」に関する調査結果概要[厚生省社会・援護局](昭22・1・9)(未作成) 慰安婦の帰還については米軍がつくった捕虜名簿が手がかりとなる。『資料集成』には厚生省が所蔵する捕虜名票の関連内容が公表されている i (4巻、363-366頁) /i 。これは同省社会・援護局が原名票を精査・点検して平成5年(1994年)10月8日に作成した報告である。これによると、原資料は 連合軍作成の英文資料で、個人ごとに出身地、職業等を記載した個人別カード である。この名票の総数は16万4395人であり、うち女性は829人であり、出身地別に日本786人、台湾24人、朝鮮半島19人である。Comfort Girl(慰安婦)と書かれているのは、日本19人、朝鮮11人(Comfort Unit 1 をふくむ)である。 i (4巻、363頁) /i 。日本出身者の中で看護婦と書かれている者がもっとも多く、435人ある。タイピスト、秘書、事務員、遠記者など合わせて142人で、他はウェイトレス20人、慰安婦19人、芸者9人、主婦9人、農婦6人などが挙がっている。台湾出身者は看護婦10、農婦5、ウェイトレス3、メード、主婦、Prostitute、店員、タイピスト、無職が各1である。朝鮮半島出身者は慰安婦の他、農婦2、主婦、看護婦、ウェイトレスが各1、無職3である。職業は本人が申告したものであり、ウェイトレス、主婦、農婦、メードはみな慰安婦である可能性が高い。日本人は看護婦と事務職を除いた191人は慰安婦であったとみることができる。台湾と朝鮮は全員慰安婦であったとみても、24人と19人だから、ほぼ10分の1である。 《方善柱氏の論文》 しかし、この捕虜名粟が全体のいかなる部分を占めるものなのか、資料の性格が明らかにされなければならない。この資料について最初に注目したのは方善柱氏である。氏の論文によると、米国は1954年12月17日にジュネーヴ条約第77条により捕虜名簿と個人別調査書類を日本側に送り、捕虜名簿一部を国家記録保管センターに残した、それは List of Japanese Prisoner of War; Records Transferred to the Japanese Govermnent と題されるものである。名簿は6巻に製本され、17万9498人の姓名、認識番号のみが記載されている。身上調書、すなわち名票は340箱に収められて、日本側に引き渡されたと記録されているとのことである。方氏は日本側が保管する資料を見れば、朝鮮人、その中の慰安婦であった人について知りうるのではないかと述べておられたが(*5)、厚生省が調査した結果は上記の通りであった。 《沖縄から韓国へ送還された朝鮮半島出身者の名簿》 方氏はすでにこの資料の性格を考えるために、他ののこる名簿と比較しておられる。まず沖縄から韓国へ送還された朝鮮半島出身者の名簿がある。Headquarters Okinawa Base Command, Okinawa Prisoner of War Camp No.1 で編纂されたもので、朝鮮人収容所第1から第8までに収容されている非戦闘員 1587人が収録されている。うち戦争犯罪嫌疑者46人については別に名簿がつくられている。この嫌疑者を含め、ある程度の人々は上記6巻の捕虜名簿に含まれているようだと方氏は書いている(*6)。方氏はこの沖縄の名簿には女性が含まれているのかどうか、明らかにしていないが、実はこの名簿は本岡昭次議員が1991年3月31日国会でその内容について質問した資料である。本岡氏は女性と確認できるのが51人、また女性とみられるのが47人含まれていると明らかにした(*7)。方氏はそれと別に沖縄から韓国に送還された朝鮮人慰安婦147人の名簿も発見され、こちらは全員6巻の名簿には含まれていないと指摘しておられる(*8)。こちらの名簿も国会図書館所蔵のGHQ文書の中から本岡議員が発見した(*9)。 《フィリピンから送還された軍人と民間人の名簿》 つぎに方氏はフィリピンから送還された軍人と民間人の名簿を検討して、この名簿の人々は6巻の名簿に入っている、女性はかなり多いとのみ書かれている。そして韓国行きの送還船Etrufd号の乗船者名簿245人中に女性2人の名があるが、その人々は6巻の名簿に載っているとされている(*10)。 (低い保護率、帰還率) 以上のことからすると、厚生省発表資料の捕虜名票には沖縄とフィリピンでの捕虜が含まれていることが明らかである。しかし、沖縄とフィリピンの捕虜が悉皆的に収録されているわけではない。沖縄の慰安婦147人は含まれていない。フィリビンで保護された慰安婦と思われる朝鮮人女性は浅野氏が米軍尋問記録から21人をすでに数えているので(*11)、フィリピンの捕虜も完全にカヴァーしていないことがわかる。したがって、この資料から断定的なことは何も言えないが、16万4395人の捕虜集団の中に191人の日本人慰安婦、朝鮮人慰安婦19人、台湾人慰安婦24人がいるとしたら、これは朝鮮人、台湾人慰安婦が少ないことを示すのではなく、彼女らの低い保護率、帰還率を示しているということであろう。 《帰還率の推定》 沖縄には朝鮮人慰安所が40ヶ所、朝鮮人と沖縄人混合の慰安所が5ヶ所あったと言われる(*12)。1ヶ所の慰安婦数を10人、混合の場合5人とすれば、朝鮮人慰安婦の総数で425人と推定される。沖縄から帰還した朝鮮人慰安婦のリストには147人が挙げられている。沖縄米軍政府活動報告(1945年11月23日)によると、 沖縄本島以外の琉球諸島から来た慰安婦一一○名に、本島各地から集められた四○名が合流して、朝鮮への出航を待っている(*13) とのことである。425人中147人なら、ここでは帰還率は34.6パーセントだということになる。 この問題については、さらに研究が深められなければならない(*14)。 :朝鮮人慰安婦の帰還率の低さについて :原注(32)方善柱「米国資料に現れた韓人〈従軍慰安婦〉の考察」(ハングル)、『国史舘論叢』37号、1992年10月、224頁。 :原注(33)浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」平成10年1月23日、12頁。 :原注(34)NHK・ETV特集「アジアの従軍慰安婦・51年目の声」1996年12月28日放映。 :原注(35)方善柱、前掲論文、221-222頁。 :原注(36)同上、222-223頁。 :原注(37)『朝日新聞』1991年4月1日。 :原注(38)方善柱、前掲論文、223頁。 :原注(39)『朝日新聞』1991年8月10日。文書はSCAP文書のBox1967にある。国立国会図書館マイクロフィッシュ版では、LS40637~40638である。 :原注(40)方善柱、前掲論文、223-224頁。 :原注(41)浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」12頁。 :原注(42)吉見・林編、前掲書、129頁。 :原注(43)この資料は毎日放送が入手した。『毎日新聞』1991年11月29日。引用は吉見編『従軍慰安婦資料集』582頁より。 :原注(44)秦郁彦氏は全体としてみれば「九五%以上が生還した」と主張している(秦郁彦「『慰安婦伝説』を見直す」、『「慰安婦」問題とアジア女性基金』東信堂、1998年、198頁)。本稿でみた極限的な事例だけでなく、広く検討していくべきであろう。 和田論文index
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韓国軍とベトナム戦争 / ライダイハン +ブログサーチ〔ベトナム韓国軍慰安所〕 #blogsearch +ニュースサーチ〔ベトナム韓国軍慰安所〕 ライダイハン ベトナム戦争時の韓国軍の所業を英BBCが報道 - 産経ニュース 【メガプレミアム】韓国軍が数千人ベトナム女性を強姦し、慰安婦にしていた…米国メディア「日本より先に謝罪すべきだ」 - 産経ニュース 韓国メディア「腹立たしいが反論は困難」 文春ベトナム韓国軍慰安所報道 - 産経ニュース 【歴史戦 第11部 もう一つの慰安婦問題(2)】ベトナム戦争時の韓国軍慰安所「売春宿、だまされて来た女性も」 - 産経ニュース +ブログサーチ〔韓国軍慰安婦〕 #blogsearch +ニュースサーチ〔韓国軍慰安婦〕 2021年海外の主なニュース - 読売新聞 韓国に残され韓国経済に貢献した日本資産の行方 - 東洋経済オンライン 慰安婦〝批判〟禁止法案が物議「尹美香保護法だ」と非難続出 - 産経ニュース 韓国の慰安婦運動30年 抗議主導団体が内幕語る - 産経ニュース 慰安婦団体前トップ、初公判で起訴内容否認 韓国地裁 - 産経ニュース 韓国慰安婦集会1500回 デモ禁止も「無法地帯」 - 産経ニュース 日韓 外交当局の局長級協議 慰安婦問題などで平行線 - NHK NEWS WEB 日韓局長協議“元徴用工や慰安婦”平行線|日テレNEWS24 - 日テレNEWS24 元慰安婦訴訟、日本政府の資産開示命じる…ソウル中央地裁 - 読売新聞 「従軍慰安婦」は誤解招く 政府、答弁書を決定 - 日本経済新聞 判決一転、主権免除適用 元慰安婦訴訟で韓国地裁(写真=共同) - 日本経済新聞 元慰安婦訴訟、4月21日に判決 ソウル中央地裁(写真=共同) - 日本経済新聞 【ソウルからヨボセヨ】反日種族主義ついに米国へ輸出 - 産経ニュース 「慰安婦問題、ICJ付託を」韓国の元慰安婦(写真=共同) - 日本経済新聞 韓国の慰安婦訴訟、日本政府への賠償命令が確定(写真=共同) - 日本経済新聞 慰安婦訴訟「日韓合意踏まえ協議を」 文大統領が言及(写真=AP) - 日本経済新聞 慰安婦訴訟、日本政府に賠償命令 ソウル中央地裁 - 日本経済新聞 韓国慰安婦団体の不正疑惑、何が問題なのか - 東洋経済オンライン ライダイハン ベトナム戦争時の韓国軍の所業を英BBCが報道 - 産経ニュース 日本と韓国、なぜ争いが続く? 癒えない古傷 - BBCニュース 【歴史戦】英団体、韓国兵の性暴行追及へ 米議会議事堂での慰安婦像計画に合わせ - 産経ニュース 【エンタメよもやま話】韓国兵は3回も私を襲った…ベトナム戦争の残虐を英紙が報道、欧米で怒り・驚き噴出 - 産経ニュース ライダイハン、韓国社会に衝撃 ベトナム派兵、徐々に汚点 対日批判ブーメランも - 産経ニュース 「慰安婦」の動画、初公開 米公文書記録から発見 - BBCニュース 【メガプレミアム】韓国軍が数千人ベトナム女性を強姦し、慰安婦にしていた…米国メディア「日本より先に謝罪すべきだ」 - 産経ニュース 【エンタメよもやま話】慰安婦、虐殺、強姦…自軍の犯罪を隠す「韓国」 国定「被害者マゾ」歴史教科書、ベトナム激怒 - 産経ニュース 韓国メディア「腹立たしいが反論は困難」 文春ベトナム韓国軍慰安所報道 - 産経ニュース 【歴史戦 第11部 もう一つの慰安婦問題(2)】ベトナム戦争時の韓国軍慰安所「売春宿、だまされて来た女性も」 - 産経ニュース ● 韓国軍慰安婦〔Wikipedia〕 ★ 韓国メディア「腹立たしいが反論は困難」 文春“ベトナム韓国軍慰安所 「産経ニュース(2015.5.13)」より / 韓国軍がベトナム戦争中に、サイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた-という「週刊文春」のスクープ記事の余波が、韓国国内で広がっている。同国メディアが、朴槿恵(パク・クネ)政権に対し、軍による慰安所運営の実態を調査するよう注文をつけたのだ。自国の恥部を、明らかにできるのか。(夕刊フジ) 「週刊文春の『韓国軍トルコ風呂』報道、腹立たしいが反論は困難…」 ハンギョレ新聞(日本語電子版)は4月25日、こんな神妙なタイトルの記事を掲載した。問題としたのは、同誌4月2日付春の特大号に掲載された、TBSの山口敬之ワシントン支局長(当時)による衝撃リポートだ。 文春記事は、山口氏が米国で発見した公文書に「韓国軍による韓国兵専用の慰安所」の存在が明示されていたという内容で、これを裏づける元米軍海兵隊幹部の証言なども盛り込まれている。 朝日新聞が大誤報を認めたことで、日本の慰安婦問題の核心(強制連行)は崩壊している。それでも、韓国が「解決」を求め続けていることを念頭に、山口氏は「もし韓国政府がこの問題を黙殺したり、調査もせず否定したりするなら、彼らこそ都合の悪い事実に背を向け、歴史を直視しない国家であることを、国際社会に対して自ら証明することになる」とリポートを結んでいる。 ハンギョレは「腹立たしくはあるが反論しにくい主張だ」と指摘し、韓国政府に対して「慰安所の運営・管理に軍当局がどこまで介入したのかなどを明らかにするための調査と後続措置に乗り出さなければならない」と促しているのだ。 夕刊フジで「新・悪韓論」を連載する、ジャーナリストの室谷克実氏が背景を分析する。 「私の知る限り、文春報道を取り上げた韓国メディアはハンギョレだけだ。同紙は韓国内では左派メディアと位置づけられており、軍に対して批判的な報道が目立つ。『アンチ軍』の立場から文春のスクープに飛びついたのだろう。一方、他の韓国メディアの中には『軍と対立したくない』という空気が強く、ハンギョレの報道を追いかける可能性は低い」 ハンギョレはこれまでにも、韓国の恥部といえる、韓国軍によるベトナム民間人虐殺疑惑や、「基地村女性」「洋公主(ヤンコンジュ)」などと呼ばれた米軍慰安婦の問題を取り上げてきた。 今回の報道が、政府や軍への本格的追及につながるとは考えにくい。ただ、報道がなければ「韓国の人々は、軍の慰安所に言及した公文書の存在を全く知らされなかった」(室谷氏)だけに、その意義は大きいといえそうだ。 ★ 米公文書が暴いたベトナムの「韓国軍慰安所」 「週間文春web(2015.3.25)」より / ベトナム戦争当時、サイゴン(現ホーチミン市)に韓国軍の慰安所が存在したことが、アメリカの公文書によって初めて明らかになった。 日韓間に横たわる慰安婦問題に新たな視点を供する歴史的資料を発見したのは、TBSワシントン支局長の山口敬之氏。山口支局長は2013年9月から、約1年をかけて米国立公文書記録管理局のベトナム戦争に関する膨大な資料を調査。その中から、サイゴンの米軍司令部が、同じくサイゴンの韓国軍最高司令官・蔡命新(チェ・ミュンシン)将軍に送った「書簡」を発見した。 同書簡は1969年に書かれたもので、主題は韓国兵が関与した経済事件。その中で、同事件の舞台となったサイゴン市中心部の「The Turkish Bath」(トルコ風呂)について、以下のように記されていた。 「この施設は、韓国軍による、韓国兵専用の慰安所(Welfare Center)である」 (The Turkish Bath was a Republic of Korea Army Welfare Center for the sole benefit of Korean Troops.) 山口支局長が語る。 「韓国側はこれまで、日本軍の慰安所について国際社会で厳しく糾弾し続けてきました。ベトナム戦争当時、韓国軍の慰安所がサイゴンに存在した事がアメリカの公文書によって明らかになった今、韓国側がこの問題にどう対処していくのかが注目されます」 山口支局長の「韓国軍慰安所」に関するレポートは「週刊文春」に掲載される。 .
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ni0615さん吉見義明『従軍慰安婦資料集』をお持ちなのですか? -- (stiffmuscle) 2007-05-27 19 05 42 誰か持ってる人はいませんかねえ? -- (ni0615) 2007-05-27 19 13 14 税込価格 :6,825 で絶版です。 -- (ni0615) 2007-05-27 19 25 21 ところで「アメニティー」の方のコンテンツ(目次)はご存知ですか? -- (ni0615) 2007-05-27 19 49 25 p.190 です。 -- (stiffmuscle) 2007-05-27 21 26 25 ありがとうございました。p190の画像添付しリンクしておきました。 -- (ni0615) 2007-05-28 06 27 52 吉見義明『従軍慰安婦資料集』の方ですが、ここまで分かった以上、図書館でコピーしてこなければなりませんね。これも・・・できれば・・・どなたか・・・ -- (ni0615) 2007-05-28 06 29 30 金曜日に実家に帰った際に吉見義明『従軍慰安婦資料集』を持ってきたら05/12土曜日に古森記事が載ったというシンクロニシティ. -- (dempax) 2007-05-29 02 34 52 dempaxさんおはようございます。青い書き込み拝見しました。http //d.hatena.ne.jp/dempax/20070512 br()古森氏のコメント欄まで詳しくチェックして下さり、恐れ入ります。ところで、いま、史料解題の混乱(半分古森氏のおかげ)から、このサイトとの中身の閲覧権を『メンバーのみ』にしています。ぜひ、吉見『資料集』お持ちの方はメンバーになってください。臥してペコ -- (ni0615) 2007-05-29 07 17 27 トップページの下段のメールフォームからメールをいただけば、メンバーになる方法をお知らせします。 -- (ni0615) 2007-05-29 08 20 15 急報 5/17とあるのは5/27の誤記では? このサイトとの中身の閲覧権を『メンバーのみ』にしています公開されている内容がどれなのかわかるようにしてあればありがたいです.-- (dempax) 2007-06-04 01 44 41 >急報 5/17とあるのは5/27の誤記では?そのとおりです。すぐ直します。>メンバー以外公開されている内容がどれなのかわかるようにしてあればありがたいです左上の方の「ページ一覧」を開いて、クリックしたとき「ログイン」を求められるものが「メンバーには公開されてるがメンバー以外には公開されてないもの」です。 -- (ni0615) 2007-06-04 12 07 11 メンバー以外に公開してるものは「トップページ」と「ATIS調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー」ぐらいです。「No49」は英文テキストを吟味しなおすためメンバ以外非公開にしてます。なお、後から知ったhatenaのianfuグループhttp //ianhu.g.hatena.ne.jp/がアップした資料とのすり合わせの必要を感じてます。いま、私はあまり時間がとれませんでご迷惑をおかけしてます。-- (ni0615) 2007-06-04 12 21 13 ni0615さん、古森ブログで奮闘中ですね。Japan Forum にマイク・ホンダのインタビュー記事(英語)があります。こないだ読んでて、気になった部分だけ訳した文章つきで、ファイルをアップしておきます。 -- (stiffmuscle) 2007-06-05 21 24 45 ni0615さん、申し訳ありませんが、Mike.pdfのほうは削除しておいていただけませんか。 -- (stiffmuscle) 2007-06-05 21 53 51 >Mike.pdfのほうは削除しておいていただけませんか簡単に削除できます。下の「アップロード」から御願いします。>ファイルをアップしておきますぜんぜん気が付きませんでした。左欄にも表示されませんし。また、せっかくwikiにしたのですからwikiでアップしていただけないでしょうか。PDFからwikiへの転載作業は、とくに人様の文章はしんどうございます。 -- (ni0615) 2007-06-07 08 19 58 stiffmuscle さん、もしwikiでのアップ(書き込み)に難があるのでしたら、添付ファイルは作業のし易いTXTファイルにしていただけませんか?PDFファイルからの処理は時間ばかりかかって困ります。もし、PDFファイルとして開示することをお望みなら、このサイトは全く選択ミスです。通常のHTMLスペースをレンタルする必要があります。-- (ni0615) 2007-06-07 08 32 20 管理者でないと削除ができません。Mike.pdf および Mike_2.pdf の削除をお願いします。ほかに連絡の取りかたがなかったので、情報として揚げました。-- (stiffmuscle) 2007-06-07 09 33 18 stiffmuscleさん、失礼しました>管理者でないと削除ができません。いま2 files削除しておきました。 -- (ni0615) 2007-06-07 09 42 37 ありがとうございました。 -- (stiffmuscle) 2007-06-07 09 54 39
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2007年5月 ビルマ・ミッチナの従軍慰安婦の尋問調書(その1-3) ビルマ・ミッチナの従軍慰安婦の尋問調書(その1-2)のつづき 文書A ATIS Research Reports No. 120 Amenities in the Japanese Armed Force, Nov. 15, 1945, 連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー 1945年11月15日 の b. BURMA の項 のさらにつづきです。小見出しは私がつけたものです。 【メイヨーでの規則】 “In MAYMYO similar regulations were in force, but owing to the large number of units stationed there, some of the houses had definite scheduled days for specific units. For example, a house of Japanese girls, the DAI ICHI FURUSA, had the following schedule -- Sunday -- 18 Division Headquarters Staff Monday -- 18 Division Cavalry Regiment Tuesday -- 18 Engineer Regiment Wednesday -- Day-time medical inspection then free. Evenings, officers only Thursday -- 18 Division Medical Unit Friday -- 18 Maintenance Artillery Regiment Saturday -- 18 Division Transport Regiment メイミョーでも、同じような規則が実施されていたが、多くの部隊が駐留していたため、部隊ごとに日を決めていた慰安所もあった。例えば、日本人慰安婦がいる慰安所、ダイイチ フルサのスケジュールは以下の通りであった。 日曜日 第18師団 司令部スタッフ 月曜日 第18師団 騎兵連隊 火曜日 第18師団 工兵連隊 水曜日 昼間-検査、後自由時間 夜間-将校のみ 木曜日 第18師団 衛生隊 金曜日 第18師団 山砲兵連隊 土曜日 第18師団 輜重兵連隊 “Another brothel, the SUIKO EN, was reserved for officers only. もうひとつの日本人女性の売春宿、スイコエンは将校専用であった。 【避妊具と性病】 “There was a strict order for the use of contraceptives; so that according to prisoner of war, cases of venereal diseases were due only to the carelessness of the solders themselves. During the one and one-half years prisoner of war was running the house in MYITKYINA, there were only six cases of venereal disease, who were sent to the Medical Officer of 2 Field Hospital, 18 Division for treatment. There were some cases of venereal disease among the soldiers of 114 Infantry Regiment, but prisoner of war never had any trouble with regimental headquarters on this score. 避妊具の使用については厳重な命令があった。そのため、捕虜(楼主)の言によれば、性病は兵士自身の不注意によるもののみであった。一年半に渡り、捕虜はミッチナで慰安所を経営していたが、性病は6例しかなく、患者は、治療のため、第18軍の第2野戦病院の軍医将校のもとに送られた。歩兵第114連隊の兵士の中にも性病は数例みられたが、この点に関して捕虜(楼主)と連隊司令部との間にいかなるトラブルも起きなかった。 【機密保持】 “During their visits to the brothels, troops rarely discussed military subjects, preferring to escape from their normal military surroundings. Prisoner of war said he never had a chance to overhear any interesting military “secrets”, and considered this was due to the presence of the military police, and that the men were afraid to talk freely, even if they had anything to say. The usual subjects of complaint among the men were criticisms of their officers, lack of supplies and homesickness. 慰安所にいる間、兵士たちは軍隊について話をすることは稀で、自分たちが置かれている日々の軍隊生活からむしろ逃避したいようであった。捕虜(楼主)は、興味を引くような軍事機密を偶然耳にすることもなかった供述し、それは憲兵の存在によるものだそうだ。また、兵士たちはたとえ言うべきことがあったとしても、自由に話すことを恐れていたとも供述している。兵士たちの間でよく口にのぼる愚痴の内容は、将校に対する批判、補給物資の不足、それに、郷愁の想いであった。 【連合国側宣伝の受け止め】 “The girls had seen some Allied propaganda leaflets but had not read them, except that one girl remembered one about the hopeless situation in MYITKYINA, which at the time she did not believe. They had not heard any Forward Broadcasts, but remembered the men openly discussing a ‘radio broadcast’. 女性たちは連合国側の宣伝ビラを幾枚かは見た事はあるが、読んだことはない。ただし、ひとりがミッチナの絶望的な状況についてのビラは覚えていたが、彼女は、当時その内容を信じることができなかったそうだ。女性たちはForward Broadcastsも一度も聞いたことはなかったが、兵士たちが「ラジオ放送」についておおっぴらに話し合っていたことを覚えていた。 ※ この尋問そのものが、日本軍への今後の宣伝戦略を研究するためのものであったようだ。 【戦闘と避難】 “On 31 July, about midnight a party of 63 girls from the three brothels in MYITKYINA, and the brothel owners, etc., began their evacuation from MYITKYINA. The girls wore dark green Army clothing on top of their civilian clothes. They crossed the IRRAWADDY in ten small boats. The majority of the remaining troops had already departed from MYITKYINA, but the sick and wounded were left behind. The girls remarked on this point. ‘ It was no use to get them across, because once across these soldiers couldn’t walk. It was better to float them down the river with the hope that they might get through.’ They landed north of Waingmaw where they remained in the jungle until 4 August. The party then began to trek in the wake of the retreating troops. On 7 August, they became involved in a skirmish and in the confusion the party split up. 7月31日、真夜中ごろ、ミッチナにある3軒の売春宿から63名の女性たち、売春宿の経営者たちなどから成る一団が、ミッチナからの避難を開始した。女性たちは、民間人の服の上に深緑色の陸軍の衣服をまとっていた。一団は、小船10艘でイラワジ河を渡った。残っていた軍隊の大部分はすでにミッチナから退去していたが、傷病兵たちは置き去りにされた。 この点について女性たちは次のように言っている。「傷病兵に川を渡らせても無駄でした。渡れたとしても歩くことができなかったんですから。生き残るかもしれないという望みを託して、傷病兵を川に流したほうがマシだった。」 一団はワイモウの北に着岸し、8月4日までジャングルの中に留まっていたが、その後、撤退した軍隊の跡を追って何とか歩き始めた。8月7日、一団は小戦闘に巻き込まれ、混乱の中、バラバラになってしまった。 “The 20 Chinese girls remained behind in the jungle, and gave themselves up to Chinese troops. One party of about 30 Korean girls followed on in the wake of the Japanese troops, and were seen by another prisoner of war on 19 August, a small disconsolate group still following on. Prisoner of war’s party took shelter in an abandoned native house where they remained for two days while prisoner of war tried to construct a raft with them was a wounded Japanese soldier. On 10 August, the house was surrounded by a number of Kachins under the command of an English officer, and they were captured. Of the original party of 63 girls, four had died during the journey and two had been shot, mistaken for Japanese soldiers.” SEATIC Interrogation Bulletin No. 2, dated 30 November 1944, pages 10-13 中国人女性20名はジャングルに留まり、その後中国軍に保護された。30名ほどから成る朝鮮人女性の一団は、日本軍の跡を追い続けた。8月19日に、さらに後を追っていた絶望に打ちひしがれた小集団(彼らも捕虜となった)に目撃された。捕虜(楼主)がいる一団は現地住民がうち捨てた家に避難し、そこに2日間とどまった。その間に、かれらはいかだを組もうとした。また、日本軍傷病兵が1名一緒にいた。8月10日、その家は、イギリス人将校指揮下の多数のカチン族に取り囲まれ、一団は捕獲された。もとの女性63名のうち、移動中に4名が死亡し、2名が日本軍兵士と誤認されて射殺された。 (SEATIC Interrogation Bulletin No.2, dated 30 November 1944, page 10-13) 【丸山大佐の評判】 (2) Extract from letter written by prisoner of war, a well-educated man of 23 years, nominally a sergeant wireless operator, who had spent the greater part of five years in service either in the cookhouse or under training “Brothers-in-arms “While the fighting was still going on at MYITKYINA, Colonel MARUYAMA was having a good time with the comfort girls in the shelter-trench almost every day. Later he arranged that the girls should cross the river ahead of the wounded soldiers. This is the truth.” Source available on request (2)(教養のある23歳男性、公称は通信軍曹、5年間の大半を調理場と訓練に費やした、という捕虜の手紙からの抜粋 「戦友たちへ ミッチナではいまだ戦闘が続いていたというのに、丸山大佐は避難豪でほぼ毎日、慰安婦たちといちゃついていた。 その後、丸山大佐は傷病兵より先に慰安婦たちが渡河するよう段取りしたのだ。 これは嘘ではない。」 (以上、文書Aの引用終わり) (3)~(5)は別の部隊の捕虜の尋問です 2007年5月 .
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従軍慰安婦という言葉は日本人なら話題にもしたくないことかもしれません。 でも、できれば聞いてください。 日本政府は慰安婦問題で「日本軍が現地の売春業者と契約した」と認めています。 このことは隠された事実というわけでもなく、当時の新聞広告を使って朝鮮半島だけでなく日本でも広く募集されていました。 しかし、韓国が主張する「日本軍が現地人を人間狩りによってSEXスレイブとした」ようなことは絶対にありません。 ソウル大の安秉直教授が2013,8,7発表した資料ですら、売春婦の平均収入は日本軍下士官を超え、高いものは陸軍大将を超える600円以上となり、休暇には映画を観にいったりしたとなっています。 これでも人間狩りで連れ去られたSEXスレイブというのでしょうか? 戦後に調査した米軍ですら慰安婦を「奴隷」ではなく「娼婦」と判断しています。 強制連行(人間狩り)はなくても「性サービス自体が問題」と思われる方もいると思います。 それについては同感です。 しかし、日本は「女性のためのアジア平和国民基金」を設立して、女性の「尊厳」に対し誠意を持って対応しています。 既に日韓基本条約で賠償済にも係わらず、国際的にみてかなり誠意ある対応だと思います。 読売新聞が慰安婦問題は「朝日新聞の誤報」だとスクープし、大騒ぎになったので関心がある方も多いと思います。 ですが、韓国政府はその事実を無視し、韓国政府は強制連行(人間狩り)だったと執拗に繰り返し主張するだけで、国際司法の場へ訴え出ることはしません。 これは韓国政府に事実関係を究明する気はなく、印象操作だけが目的で、誰も救おうとしていないのではないでしょうか。 そして当の韓国政府は、日韓基本条約で受け取った賠償金すら未だに慰安婦へ払っていません。 韓国は女性の尊厳を守ろうとする人権派の誠実さをも裏切っているように思えるのです。 これら韓国の行いを黙認すると、今以上に不毛な民族憎悪・対立が高まるだけでなく、未来の子供たちも同じように誹謗中傷をうけることになるでしょう。 声を上げなければ認めたと判断されるからです。 既に海外では「深刻な人権問題」として認識されつつあり、韓国の過激な主張のシンボルともいえる「慰安婦像」がカルフォルニアやニューヨークに次々と建てられています。 関連ページ 全ては「朝日新聞」誤報と「河野談話」から始まりました。 >> 【ネット署名】朝日新聞、河野氏の証人喚問 アメリカ人男性がホワイトハウスWEBで署名を受け付けています。 >> 【ネット署名】カルフォルニア州(グレンデール市)慰安婦像の撤去 記事発信者:BrotherPiyo [ぴよ兄貴,ブラザーピヨ,ぶらぴ]
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2.「慰安婦」の募集 ■をクリック→この稿の該当個所へ 資料名をクリック→資料の概要(予定)へ 2.「慰安婦」の募集■ 支那渡航者ニ対スル身分証明番発給ニ関スル件[福岡県知事](昭12・12・15)(未作成) ■ 時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件[和歌山県知事](昭和13・2・7) ■ 醜業帰渡支ニ関スル経緯[内務省](期日不明)(未作成) ■ 時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件[和歌山県知事](昭和13・2・7) ■ 上海派遺軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌帰募集ニ関スル[群馬県知事](昭和13・1・19) ■ 北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件[山形県知事](昭和13・1・25) ■ 上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件[茨城県知事](昭和13・2・14)(未作成) ■ 支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件〔内務省警保局長](昭和13・2・23)(未作成) ■ 軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件[陸軍省副官](昭13・3・4)(未作成) ■ 支那渡航婦女ニ関スル件伺[内務省瞥保局警務課長・外事課長](昭和13・11・4)(未作成) ■ 南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件[内務省警保局長](昭和13・11・8)(未作成) ■ 南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件[内務省警保局長](昭和13・11・8)(未作成) 慰安所の設置に当たって最大の間題は「慰安婦の確保であった。現地軍は業者を日本や朝鮮、台湾に派遺して、女性を調達させたが、そのさいあらゆる便宜の提供を日本政府関係官庁に要請し、女性の渡航に対する証明書の給付の確保、女性の輸送といったすべての面で、積極的に関与したのである。昭和12年末から大々的な調達がはじまった。 ■ 支那渡航者ニ対スル身分証明番発給ニ関スル件[福岡県知事](昭12・12・15)(未作成) 女性は最初はもっぱら日本本土から集められた。昭和12年12月15日付けの福岡県知事の報告によると、11月30日に日本人の業者の勧誘で上海北四川路海軍慰安所の酌婦として渡航を求める女性2名に身分証明書が発給されている(1巻、115頁)。これは史料に墨が塗られているが、政府発表のさいにこの2名の本籍は朝鮮であることが明らかにされた(5巻、7頁)。 ■ 時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件[和歌山県知事](昭和13・2・7) 実は上海では、軍と領事館が合議して、軍慰安所設置のために協力する態勢が出来上がっていた。昭和12年12月21日の上海総領事館警察署長の長崎水上警察署長あての依頼によると、 将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中ノ処、 このたび 当館陸軍武官室、憲兵隊合議ノ結果施設ノー端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ…設置スルコトトナレリ とある。そのさい各機関が任務を分担しているさまが資料から明らかになっている。領事館は、営業を願い出る者に対する許可、不許可の決定、慰安婦渡航のための便宜取りはからい、上海到着後ただちに憲兵隊に引き渡すことを担当し、憲兵隊が引継をうけた女性を就業地まで輸送する手続きをとり、業者と女性に対する「保護取締」を引き受けた。最後に武官室が就業場所と家屋等の準備を分担した。業者が依頼を受けて、日本と朝鮮に女性を募集しに赴いた。彼らが携帯する身分証明書の中に軍の依頼をうけて、女性を募集する者であると明記されているので、上海総領事館警察署長としては関係当局に「乗船其他二付便宜供与方」お取りはからい願いたいと求めていた。とくに「酌婦」として募集される女性については、 前線ニ於ケル貴殿指定ノ軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(娼妓同様)ヲ為スコトヲ承諾 するとの承諾書をとることが義務づけられていた(1巻、36-44頁)。 ■ 醜業帰渡支ニ関スル経緯[内務省](期日不明)(未作成) 上海の軍の要請を受けて、まず上海の徳久、神戸市の中野という2人の業者が日本へ出発した。この2人は内務省に援助を要請し、内務大臣の秘書官から紹介の名刺をもらい、かつ警務課長から兵庫県警察部長に要請をしてもらうことに成功した。内務省警務課長は12月26日 事情聴取ノ上何分ノ便宜ヲ御取計相成度 と兵庫県警察部長に電報を打った。2人は12月27日に兵庫県警察部長を訪問し、「最少限五百名ノ醜業婦」を募集したい、周旋業の許可が無いが黙認してほしい、かつ年末年始の休暇中だが渡航手続きをしてほしいと表明した。兵庫県警察部長は一般渡支者と同じように証明書を所轄警察署で発給することを指令した。陸路長崎へ赴きそこで乗船した者が約200名に達した。年が明けて昭和13年1月8日、神戸発の臨時船丹後丸で渡支した40~50名のうち、湊川讐察署で身分証明書を発行した者20名がいた(「醜業婦渡支ニ関スル経緯」、同、105-109頁)。 ■ 時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件[和歌山県知事](昭和13・2・7) ■ 上海派遺軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌帰募集ニ関スル[群馬県知事](昭和13・1・19) ■ 北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件[山形県知事](昭和13・1・25) ■ 上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件[茨城県知事](昭和13・2・14)(未作成) また両名の依頼で内務省は「非公式ナガラ」大阪府警察部長にも協力方を依頼したことが大阪九条警察署長の13年1月8日付けの書簡から明らかである。この依頼をうけた大阪府では 相当便宜ヲ与へ既ニ本月三日渡航セシメタ のである(同、45-46頁)。大阪からも女性が上海へ向かっている。彼女らと長崎へ向かった200名と神戸発の20名が彼らの獲得した女性であろう。 別の業者、神戸の大内は同じ時関東から東北にかけて女性の募集をおこなっていた。彼は年の初め、上海の陸軍特務機関の依頼だとして「上海皇軍慰安所」のために同僚中野とともに3000人の女性を集めるので、とりあえず500名を募集したい、1月26日には神戸から第2陣を軍用船で送ることになっていると語った。兵庫県や関西方面では県当局も了解し応援してくれているとも語ったが(同、12-13頁)、群馬、茨城、宮城の各県では、拒絶反応にあった。群馬県知事は、1月19日に 果シテ軍ノ依頼アルヤ否ヤ不明且公序良俗ニ反スルカ如キ事業ヲ公々然ト吹聴スルカ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ厳重取締方 を警察に命じたと報告した(同、12頁)、山形県知事は1月25日に、 軍部ノ方針トシテハ俄カニ信シ難キノミナラス斯ル事案カ公然流布セラルヽニ於テハ銃後ノー般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ホス悪影響少カラス更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スルモノトシテ 説得し、大内への協力を取りやめさせたと報告した(同、24頁)。茨城県知事は2月14日にほぼ群馬県知事の言葉を繰り返して、厳重取締方を命じたと報告した(同、49頁)。 ■ 支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件〔内務省警保局長](昭和13・2・23)(未作成) こうなって放置も出来ないと考えた内務省警保局長は昭和13年(1938年)2月23日付けで通達「支那渡航婦女ノ取扱二関スル件」を出した。 婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ。警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルル しかし 募集周旋等ノ取締ニシテ適正ヲ欠カンカ帝国ノ威信ヲ毀ケ皇軍ノ名誉ヲ害フノミニ止マラズ銃後国民特ニ出征兵土遺家族ニ好マシカラザル影響ヲ与フルト共ニ婦女売買ニ関スル国際条約ノ趣旨ニモ悖ルコト無キヲ保シ難キヲ以テ 以下のように定めるとしている。慰安婦となる者は内地ですでに「醜業婦」である者で、かつ21歳以上でなければならず、渡航のためには本人が警察署に出頭し、親権者の承諾をとるべしと定めた(同、69-75頁)。21歳以上という規定は当時日本も加入していた国際条約で、未成年の婦女に醜行をさせることを禁じた規定があったためである。 ■ 軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件[陸軍省副官](昭13・3・4)(未作成) 3月4日には陸軍省副官も「軍慰安所従業婦等募集二関スル件」として北支方面軍、中支派遣軍参謀長に通牒を出している。 支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業帰等ヲ募集スルニ当リ、故ラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且ツー般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ 或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スル ので、 将来是等ノ募集等ニ当リテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニ せよと述べている(2巻、5-7頁)。この通牒は吉見氏が発表し、「陸軍省の関与を示したもっとも重要な文書」と言われているが、この流れの中において見られるべき資料である。業者と軍の結びつきが誇示されることはこまるし、誘拐同様のやり方をする者もこまるので、慎重にことを進めて、軍の方から憲兵や警察には了解をとるようにせよというのが通牒の内容であった。 ■ 支那渡航婦女ニ関スル件伺[内務省瞥保局警務課長・外事課長](昭和13・11・4)(未作成) ■ 南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件[内務省警保局長](昭和13・11・8)(未作成) ところが、戦火は華南に拡大し、慰安所の数が急速にふえてくると、中央の内務省も軍当局もますますコミットせずにはおられなくなっていった。この年10月21日には日本軍は広州を占領した。その直後の11月4日には、警保局の内部で次のような文章が起案されている。 本日南支派遺軍古荘部隊参謀陸軍航空兵少佐久門有文及陸軍省徴募課長ヨリ南支派遣軍ノ慰安所設置ノ為 醜業ヲ目的トスル婦女約四百名 を渡航させるように「配意」ありたしとの要請があったので、 適当ナル引率者(抱主)ヲ選定、之ヲシテ婦女募集セシメ現地ニ向ハシムル様取計 をお願いしたいという通牒の案文が起草された。資料の中に久門少佐の名刺が入っているので、彼が命を帯びて、東京の陸軍省を訪れて、徴募課長に会って、慰安婦の募集援助を要請したのである。2人が連れ立って、警保局を訪問して、警保局の協力を要請した結果、警保局も動き出したというわけである。警保局では400名を分けて、大阪100名、京都50名、兵庫100名、福岡100名、山口50名と各県に割り当てている。もとより、女性は 現在内地二於テ…醜業ヲ営ミ屠ル者ニシテ満二十一才以上 に限るとされ、本人にかならず仕事の内容を説明すべしと指示されている(1巻、95頁)。台湾総督府にはすでに依頼して、同地より300名渡航の手配が終わっているとある。南支派遺軍は台湾総督府に別個要請していたことがわかる。あるいは東京に来る前に久門少佐が台湾により、総督府に要請してきたのかも知れない。 ■ 南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件[内務省警保局長](昭和13・11・8)(未作成) 11月8日、さらに踏み込んだ警保局長通牒「南支方面渡航婦女ノ取扱二関スル件」が起案され、警保局警発甲第136号として大阪、京都、兵庫、福岡、山口県知事に送られた。そこには 南支方面二於テモ…醜業ヲ目的トスル特殊婦女ヲ必要トスル模様ナルモ未ダ其ノ渡航ナク現地ヨリノ希望ノ次第モ有之事情已ムヲ得ザルヤト認メラルルニ付テハ本件極秘ニ左記ニ依リ之ヲ取扱フコトト致度 いと露骨に切り出されている。まず「抱主タル引率者ノ選定」であるが、 南支方面二於テ軍慰安所ヲ経営セシムルモ支障ナシト認ムル者ヲ…選定シ、 希望があれぱ関係方面に推薦するとして、 何処迄モ経営者ノ自発的希望ニ基ク様取運 ぶよう要請している。人数と県への割り当てはすでに示された通りだが、慰安所経営希望者が出れば、すぐに氏名、経歴、「引率予定婦女数」をただちに内務省に通知せよ、そうすれば軍部の証明書を送付するので、「婦女ヲ密ニ募集スルコト」、内地出発のさいは、「引率者氏名、渡航婦女ノ数、内地出港地名、予定月日及台湾高雄到着予定月日」を内務省に通知せよ、そうすれば、「台湾ヨリノ便船ヲ手配ス」と述べている。婦女の条件は上記の通りで、その身分証明書を県知事が発給することが求められている。ただし、 婦女子ニ対シテハ必ズ現地ニ於テハ醜行ニ従事スルモノナルコトヲ説明セシムルコト と念を人れている(同、87-100頁)。このように募集される女性の条件(すでに醜業に従事していることと年齢21歳以上)と仕事の説明の義務は引き続き維持されているが、こんどは内務省の要請で、各県知事に業者を選定させ、業者に軍の証明書を与えて、女性を募集させ、募集ができたら、各県知事が女性に渡航の証明書を発給し、内務省が台湾軍に連絡して船をよびよせ、その軍用船が女性たちを南支へ送り込む、というような南支派遣軍と台湾軍、内務省と関係5県知事を結びつける国家的推進体制が非公然の形で整えられていることがわかる。 日本の国内からの女性の調達がこのように進められたとすると、台湾や朝鮮からの調達はどのように進められたのであろうか。総督府や道知事、末端警察はどのように反応したであろうか。この年のはじめの日本内地の警察や東北・関東の県当局が募集業者に示したような反発を示したかどうかは疑わしいといわざるをえない。総督府は東京の内務省よりはもっと中国現地の軍の要請に応える姿勢を示した可能性が高い。少なくとも朝鮮からは21歳以下の女性が渡航していることは知られており、21歳以下の女性に売春させてはならないという国際条約は植民地には適用されないという考えが日本の政府にあったこともすでに知られている*1。とすれば、総督府は内務省警保局長の通達の昭和13年2月23日通牒「支那渡航掃久ノ取扱ニ関スル件」には縛られていなかったと考えられる。 醜行ニ二従事スルモノナルコトヲ説明セシムルコト も義務付けられていなかったかもしれない。 1:原注(5)吉見『従軍慰安婦』165-166頁。 和田論文index
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慰安婦問題・つかこうへい氏の本からの引用 私は、昨年7月3日のエントリ「上田知事発言と、つかこうへいさんの言葉」の中で、直木賞作家で在日韓国人2世のつか氏に、慰安婦問題で10年前にインタビューした際のことを書きました。つか氏は、マスコミの報道の影響で悲惨な境遇にあったと信じていた慰安婦たちが、元兵士や慰安所関係者らに取材し、勉強すればするほど必ずしもそうは言えなかった実態に気付き、見方が変わったことを話してくれました。 そこで本日は、そのつか氏の著書「娘に語る祖国 満州駅伝-従軍慰安婦編」(光文社、サイン本)から、そのまま文章を引用させてもらいたいと思います。愛娘に語りかける口調で書かれた文章がとても分かりやすく、説得力がありますので。 (前略) ふと見ると、隣の人が読んでいる新聞に「慰安婦」の文字が見えます。 それは、補償を求める団体の記事のようでした。 慰安婦の実態を考えると分からなくなってきます。この記事とパパが取材した話とのあまりの違いに、溜め息が出そうになりました。 戦争とは一体なんだったんでしょう。 (中略) その人は、今はある会社の社長さんをしているとのことでした。 取材をお願いしたパパに、とても快くいろいろと話して聞かせてくれたのです。 (中略) 「報道とはすこし違うという感覚でしょうか」 「はい。慰安婦はいましたが、そもそも従軍という言葉が違うんじゃないでしょうか。慰安婦は二通りあったんじゃないかと思います。騙した騙されたは知りませんが、慰安婦と知らずに連れてこられて、慰安婦にされてしまったという女と、最初から慰安婦だと言って募集して、その代わりおカネはこれだけやるんだと、ペイはするんだということで集められてきた女と。 どっちだか知っているのは、朝鮮の村のボスだけでしょうね。 ただ、少なくともわれわれ軍隊では、従軍なんて言わなかった。直接日本軍が関与したというよりも、言ってみりゃ女衒というか、仕切っていたのが朝鮮の人間であり、日本の商売人であったというのが本当のところじゃないでしょうか。 従軍なんて言葉ができたのはごく最近なんじゃないですかね。戦後になってからも、従軍という言葉はなかったですよ。おそらく新聞なんか見てみたって、従軍慰安婦なんていうのは書いてなかったと思います。 従軍記者とか、従軍看護婦ってのはいましたが、従軍看護婦なんて言っていないはずです。少なくともわれわれが軍隊時代にはピー屋って言って『おまえたち従軍慰安婦』なんて言ったことないです。 従軍と言うと、部隊が移動すると、慰安婦も一緒に移動してったというイメージがありますが、東寧ではそんなことはありませんでした。ですから、ピー屋というのもバラックづくりのようなものじゃなくて、ちゃんとした建物なんですね。それほど立派な建物ではないですが、ちゃんとそこで生活できるような施設になっていました。 私は将校でしたから、朝鮮半島出身の女のいるピー屋じゃなくて、日本人の、いわゆる三流芸者のピー屋に通っていました。将校専用っていうわけじゃないですが、将校は兵隊さんと一緒のとこで遊んではいけないという不文律があるんですよ。禁じられるとなおさらということなのでしょうが、若い将校が朝鮮の慰安婦と恋に落ちて、なんかゲーテのロマンスみたいなものはよく起こりましたよ」 「ロマンスですか」 「惚れ合っちゃって、別れられないというんで、自殺したの、心中するの、というような話を聞いたことがあります。 当時のカネでピー屋で遊ぶと5円ぐらいかかったかな。いや、そんなにかからなかったか。二、三円でしたか。将校の給料が、僕がいろんな手当てとか加算されて九十円。大学卒のサラリーマンが大体五十円から六十円でした。九十円仮にもらったとするでしょう。そのうち三十円が官舎の費用になっちゃうんですよ。官舎の費用というのは、食事とか、着るものとかで、将校になると、官費給付じゃなくなりますから。それが全部で月に三十円ぐらいかかったね。それから三十円が親元送金のために天引きされるんですよ。(中略)」 「ピー屋というのは、軍隊が管理していたんですか」 「いや、実質的には衛生面だけでした。これは性病が蔓延したら困るからということで、軍医が定期的に、半ば強制的に検査をして、という衛生管理はありましたよ。(後略)」》