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慰安婦問題・つかこうへい氏の本からの引用 私は、昨年7月3日のエントリ「上田知事発言と、つかこうへいさんの言葉」の中で、直木賞作家で在日韓国人2世のつか氏に、慰安婦問題で10年前にインタビューした際のことを書きました。つか氏は、マスコミの報道の影響で悲惨な境遇にあったと信じていた慰安婦たちが、元兵士や慰安所関係者らに取材し、勉強すればするほど必ずしもそうは言えなかった実態に気付き、見方が変わったことを話してくれました。 そこで本日は、そのつか氏の著書「娘に語る祖国 満州駅伝-従軍慰安婦編」(光文社、サイン本)から、そのまま文章を引用させてもらいたいと思います。愛娘に語りかける口調で書かれた文章がとても分かりやすく、説得力がありますので。 (前略) ふと見ると、隣の人が読んでいる新聞に「慰安婦」の文字が見えます。 それは、補償を求める団体の記事のようでした。 慰安婦の実態を考えると分からなくなってきます。この記事とパパが取材した話とのあまりの違いに、溜め息が出そうになりました。 戦争とは一体なんだったんでしょう。 (中略) その人は、今はある会社の社長さんをしているとのことでした。 取材をお願いしたパパに、とても快くいろいろと話して聞かせてくれたのです。 (中略) 「報道とはすこし違うという感覚でしょうか」 「はい。慰安婦はいましたが、そもそも従軍という言葉が違うんじゃないでしょうか。慰安婦は二通りあったんじゃないかと思います。騙した騙されたは知りませんが、慰安婦と知らずに連れてこられて、慰安婦にされてしまったという女と、最初から慰安婦だと言って募集して、その代わりおカネはこれだけやるんだと、ペイはするんだということで集められてきた女と。 どっちだか知っているのは、朝鮮の村のボスだけでしょうね。 ただ、少なくともわれわれ軍隊では、従軍なんて言わなかった。直接日本軍が関与したというよりも、言ってみりゃ女衒というか、仕切っていたのが朝鮮の人間であり、日本の商売人であったというのが本当のところじゃないでしょうか。 従軍なんて言葉ができたのはごく最近なんじゃないですかね。戦後になってからも、従軍という言葉はなかったですよ。おそらく新聞なんか見てみたって、従軍慰安婦なんていうのは書いてなかったと思います。 従軍記者とか、従軍看護婦ってのはいましたが、従軍看護婦なんて言っていないはずです。少なくともわれわれが軍隊時代にはピー屋って言って『おまえたち従軍慰安婦』なんて言ったことないです。 従軍と言うと、部隊が移動すると、慰安婦も一緒に移動してったというイメージがありますが、東寧ではそんなことはありませんでした。ですから、ピー屋というのもバラックづくりのようなものじゃなくて、ちゃんとした建物なんですね。それほど立派な建物ではないですが、ちゃんとそこで生活できるような施設になっていました。 私は将校でしたから、朝鮮半島出身の女のいるピー屋じゃなくて、日本人の、いわゆる三流芸者のピー屋に通っていました。将校専用っていうわけじゃないですが、将校は兵隊さんと一緒のとこで遊んではいけないという不文律があるんですよ。禁じられるとなおさらということなのでしょうが、若い将校が朝鮮の慰安婦と恋に落ちて、なんかゲーテのロマンスみたいなものはよく起こりましたよ」 「ロマンスですか」 「惚れ合っちゃって、別れられないというんで、自殺したの、心中するの、というような話を聞いたことがあります。 当時のカネでピー屋で遊ぶと5円ぐらいかかったかな。いや、そんなにかからなかったか。二、三円でしたか。将校の給料が、僕がいろんな手当てとか加算されて九十円。大学卒のサラリーマンが大体五十円から六十円でした。九十円仮にもらったとするでしょう。そのうち三十円が官舎の費用になっちゃうんですよ。官舎の費用というのは、食事とか、着るものとかで、将校になると、官費給付じゃなくなりますから。それが全部で月に三十円ぐらいかかったね。それから三十円が親元送金のために天引きされるんですよ。(中略)」 「ピー屋というのは、軍隊が管理していたんですか」 「いや、実質的には衛生面だけでした。これは性病が蔓延したら困るからということで、軍医が定期的に、半ば強制的に検査をして、という衛生管理はありましたよ。(後略)」》
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ソース: 千田夏光「 高校生徹底質問!! 従軍慰安婦とは何か 」汐文社1992年5月 2-05 慰安婦の逃亡はなかったのか… 2-05 慰安婦の逃亡はなかったのか…コメント欄 いま話した"満州"の孫呉の場合は「子連れの慰安婦がいては軍紀の維持上好ましくない」と慰安所から放逐(ほうちく)つまり追い払われたわけだが、そこには"満州"に同じ朝鮮人の多く住んでいたという事情もあったのだろう。身を寄せる場所があるだろうという判断だ。また故郷にも近いからということもあったのだろう。しかし当時の日本内地の遊廓で働かされていた売春婦も同じだが、売春婦になった、もしくはならされた女性はまず故郷にも生家にも帰れなかった。したがって従軍慰安婦で逃亡した例はまずなかったといわれている。 なにより"満州"のような土地は別にし、まわりはすべて敵という所では、逃げても生命の保証などないし軍の監視が厳しいから不可能に近かった。ただし華北戦線の警備地域、つまりこちらから積極的攻勢にでないことになっている地域では、何ヵ月ものあいだ同じ土地に滞在するものだから従軍慰安婦と恋愛関係になる兵隊が出て手をとりあい逃亡した例が何件かあったようだ、 前にふれたビルマや東南アジア地域、とくに太平洋の島々ではたとえ逃げようと思っても不可能だった。このことは戦場に送られた兵隊たちも同じで、華北地区では戦闘中に八路(パーロ)32)とよばれた中共軍の俘虜(ふりょ)になりそこから逃げ出してきた者すら銃殺とされた事例が少なくなかったりしたから、逃亡はまず考えられなかった。 32) 八路=八路軍(ぱーろぐん) 中国国民革命軍第八路軍の略称。日中戦争における中国共産党軍の主力部隊。 FAQ目次 コメント欄 名前 コメント すべてのコメントを見る
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75回 日本は慰安婦の強制連行を認めていた 日中関係改善の努力がご破算になる可能性も 東京裁判で明らかにされていた従軍慰安婦の決定的証拠 友好的なアジアの国でも慰安婦問題は特別
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ソース: 千田夏光「 高校生徹底質問!! 従軍慰安婦とは何か 」汐文社1992年5月 2-03 戦地で慰安婦たちは危険にさらされなかったのか… 2-03 戦地で慰安婦たちは危険にさらされなかったのか…コメント欄 中国戦線の警備地区、防禦(ぼうぎょ)陣地でまわりを囲った所へ配属された慰安婦たちには直接的な戦闘による危険はなかったが、第一線のそれも日本軍が劣勢にたたされている地区へ配属された慰安婦たちは危険以上の危険にさらされた。 たとえばビルマの北端から中国領雲南(うんなん)省の騰越(とうえつ)地区まで侵出した第五十八師団の歩兵第百四十八運隊(三千二十五人)に配属された約六十数名の従軍慰安婦だ。この騰越地区はインド東北部から中国へ軍需物資を運ぶ滇緬公路(てんめんこうろ)という道路が走っているところだったが、一九四四年(s19)突如米軍武装備をもった約5万の中国軍が米空軍の支援を受けつつこの部隊に襲いかかってきた。 連隊はその地区の拉孟(らもう)、芒市(ぼうち)、龍陵(りゅうりょう)に分散していたが、つぎつぎに玉砕、たった一人の衛生兵伍長を残し全員が戦死した。ここで慰安婦たちも玉砕している。そのさい日本人従軍慰安婦が「あなたたちは逃げなさい」と朝鮮人従軍慰安婦を逃したという話も伝わっているが、ブーゲンビル島では日本軍の降伏後二人の骨と皮になった朝鮮人従軍慰安婦が米軍により救出されている。 この従軍慰安婦はブーゲンビル島の東八百キロにあり、送りこまれた三万人の日本軍将兵のうち二万が餓死もしくは半餓死で死亡したガダルカナル島へ一九四二年配属されることになった。ブーゲンビル島沖で輸送船が撃沈され命からがら同島へ泳ぎ着いた十数名(十七人ともいう)の従軍慰安婦の生き残りだった。同島もガダルカナル島と同じ飢餓の島となったが奇跡的に生きのびた人だった。敗戦後に米軍の手でラバウルまで連れてこられたとき連合国軍との連結将校をしていた元軍医大尉が確認している。 ビルマに話をもどすと騰越地区の玉砕、インパール作戦30)失敗以後日本軍はなだれをうって敗走するが、このとき足手まといになる従軍慰安婦を防空壕へ入れ手榴弾(てりゅうだん)をなげて殺した部隊もあったという。殺さないまでも全員を放置したので彼女らは体ひとつで戦場を逃げ回り、中には生まれてすぐの赤ン坊を背中にしばりつけたのもいたと二人の軍医が語っている。 30) インパール作戦(いんぱーるさくせん) 一九四四年三月~七月に行なわれた、ビルマ(現・ミャンマー)からインドヘの侵攻作戦。この戦いで日本軍は参加兵力、約十万のうち五万を失って大きく敗退した。 FAQ目次 コメント欄 名前 コメント すべてのコメントを見る
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ソース: 千田夏光「 高校生徹底質問!! 従軍慰安婦とは何か 」汐文社1992年5月 2-01 慰安所における慰安婦の生活のようすはどんなものだったのか… 2-01 慰安所における慰安婦の生活のようすはどんなものだったのか…コメント欄 第一号である楊家宅陸軍娯楽所の場合をみると三畳弱(約九平方メートル)の個室がずらり軒をつらねる長屋があり、その一つ一つに一人ずつ配属されていた。そこが寝起きする居室であり客である兵隊の相手をする場だった。では兵隊とどのように接したか。これは第十一兵姑司令部が入口に掲げた『陸軍娯楽所規則』を一読してもらった方が早い。 一、本慰安所ニハ陸軍軍人軍属(軍夫28)ヲ除ク)外入場ヲ許サズ。入場者ハ慰安所外出証ヲ所持スルコト。 一、入場者ハ必ズ受付ニオイテ料金ヲ支払イ之ト引替二入場券及ビ"サック"一個ヲ受取ルコト。 一、入場者ノ料金左ノ如シ。 hbr下士官、兵、軍属、金弐円。 一、入場券ノ効カハ当日限リトシ入室セザルトキハ現金ト引替ヲナスモノトス。但シ一旦酌婦ニ渡シタルトキハ返戻セズ。 一、入場券ヲ買求メタル者ハ指定セラレタル番号ノ室ニ入ルコト。但シ時間ハ三十分トス。 一、入室ト同時ニ入場券ヲ酌婦ニ渡スコト。 一、室内ニ於テハ飲酒ヲ禁ズ。 一、用済ノ上ハ直チニ退室スルコト。 一、規定ヲ守ラザル者及ビ軍紀風紀ヲ紊(ミダ)ス者ハ退場セシム。 一、サック使用セザル者ハ接婦ヲ禁ズ。 28) 軍夫(ぐんぷ) 軍隊に所属して雑役を行なう人夫。 言葉の意味からすると酌婦とは酒の相手をする女性のことだが、当時の日本では遊廓にいた女性(売春婦)をそう呼びならしていたのでそれを流用したのだろう。従軍慰安婦のことだ。また「下士官、兵、軍属」は「弐円」とあるが、これら下級者は昼間しか入場できず、将校はその下士官、兵や軍属がそれぞれの部隊にもどった後の夜間に利用することになっていたことを示し、その料金は規則書にないが五円で三十分以上の滞在を許されていた。 さらに入口の看板に「娯楽所」とありながら規則文に「慰安所」とあるのは発足当初の混乱を示しているが、すぐ「慰安所」で通されるようになっていき、酌婦も慰安婦と呼ぱれるようになっていった。それはともかく昼も夜も将兵の相手をさせられていたということだ。 その数は、楊家宅の場合一日二十名前後だったというがはっきりしたことはわからない。後の"大東亜戦争"(太平洋戦争)のとき日本本土から東南へ四千五百キロ離れたラバウルに初めて従軍慰安婦が送られてきたときに、数百メートルの兵隊の行列ができたといわれている。慰安婦たちは寝っころがり兵隊の相手をしながらおむすびを食べていたとい う。一九四二年(S17)のことだ。 衣服は兵站司令部が集めてきた和服を着せられ、髪は当時の日本婦人の大半と同じ束髪(そくはつ)29)にさせられていた。楊家宅慰安所の場合その和服は上海の古着屋から兵站司令部で買いもとめてきたというが、以後どこの慰安所でも和装が制服となり移動などのときはアッパッパ(木綿のワンピースの簡単着のこと)か、最前線では兵隊服のこともあった。食事はふれたようにすべて軍の支給だったから兵隊と同じものだった。 29) 束髪(そくはつ) 髪をたばねて結うこと。特に明治時代女性の間に流行した髪型。 FAQ目次 コメント欄 ひどい -- (名無しさん) 2012-02-18 13 33 08 名前 コメント すべてのコメントを見る
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第二次世界大戦中、日本軍はアジア各国から強制的に女性を連行し、従軍慰安婦として働かせていたといわれている。この問題は古くから中国や韓国を中心に、アジアの国々から批判されていたのだが、近ごろは米国でも大きく取り上げられるようになった。 その一つがワシントンポストに掲載された記事である。そこでは「北朝鮮による日本人拉致問題には積極的な安倍首相が、慰安婦問題については目をつぶっている」と指摘し、「安倍首相のダブルスタンダード」と批判している。なるほど、客観的に見れば従軍慰安婦もまた拉致問題である。なのに「北朝鮮による拉致は駄目で、戦争中に日本軍がやった拉致は問題にしない」というのであれば、第三者からはダブルスタンダードと揶揄(やゆ)されても仕方がないだろう。 そもそも安倍首相になってからの政府は、右よりの発言が急に増えてきたように感じる。従来の日本政府は、日本軍が慰安婦に関与していたことを認める、いわゆる「河野談話」を支持してきた。ところが安倍首相や彼の周辺にいる下村博文官房副長官のような人たちは「軍が従軍慰安婦を強制的に連行したという証拠はない」と、日本の関与を否定する発言を繰り返しているのだ。このような発言を繰り返していたらどうなるか。いまや米国経済にとって一番の「上客」は日本ではなく中国である。となれば米国は今後、中国の意向をくんで、日本に対して今以上に強い態度で批判してくるだろう。 安倍首相およびその周辺からは、従軍慰安婦の問題だけでなく、第二次世界大戦での日本軍を正当化するような発言も多い。では仮に、米国の大統領などが同じようなことを言い始めたらどうだろうか。「第二次世界大戦での原爆投下は正しい」「東京大空襲は間違いではなかった」と発言したら。恐ろしく不愉快な気分になるであろうが、日本軍を正当化する以上はそれも甘受せねばなるまい。 実は「仮に」どころか、原爆や東京大空襲を正当化する米国政府筋の人間はたくさん存在しているのである。彼らは、日本が第二次大戦に至る道筋を正当化するようなことがあれば、それはやがてポツダム宣言以降に原爆を落とした非人間的行為に日本が言及することになるであろうことを恐れている。それは、パンドラの箱を開けるような際限のない過去の非難合戦になることは間違いない。
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このページ名は下記Youtube動画のKouyou Asagamiさんのコメント欄から拝借しました。 従軍慰安婦問題 ■ 従軍慰安婦 ~彼女たちの叫びが聞こえますか ■ 【衝撃事実発覚】元従軍慰安婦の告白! ■ アメリカが日本に恫喝で口封じする理由。従軍慰安婦【拡散自由】 「BBの覚醒記録(2013.11.9)」より / 朴槿恵大統領が相変わらず頑ななまでの対日強硬路線です。 「日韓は未来志向の関係に向けて成長すべきだが、従軍慰安婦やその他の問題では、過去を向いた指導者もいる」 として、日韓首脳会談もしないほうがましという姿勢。 「過去の問題が解決しなければ日韓双方の国民が失望する」 そうですが、確かに失望します、朴槿恵大統領が言う意味ではなく、 いつまでも歴史の真実に朴槿恵大統領が向き合わないという 点に於いてです。 会談はじつのところなくていいです。いや、実はもっけの幸い。 これを機に日韓の関係が希薄になるなら、願ってもないこと。 国交断絶ならそれはそれで。しかし、断絶にはむしろ韓国のほうの 思惑で絶対にならないでしょうよ。お互いを失ってより傷を負うのは どちらかという話です。 日本のネットで「国交断絶」の言葉を見ない日はないのに あれだけ日本を侮辱し罵り倒す韓国が、そこだけはまず言いません。 韓国など離れていくなら歓迎ですが、しかし慰安婦問題の濡れ衣に ついては言われ放題してはなりません。 韓国の言うことは事実ではない、という否定形はもはや無力です。 やつらは、捏造を広めに広めて、もはやそれは世界中に 定着しつつあります。 それなら、彼らの・・・・・韓国とアメリカがいかに許されざるべきことを 韓国人慰安婦に対して行ったか、また慰安婦問題で日本に 発現するなと圧力をかけて来るアメリカが終戦後、日本女性を いかに性奴隷として蹂躙したか、その告発をして、守りから 攻撃に転じるべき時期でしょう。 従軍慰安婦 ~彼女たちの叫びが聞こえますか 高橋とみよさんのブログで、記事とともに紹介されていましたが、 http //tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-c8a4.html 大事な動画なので、こちらでもアップしておきますね。 アメリカが、日本に「河野談話を見直すな」とか「従軍慰安婦問題を持ち出すな」 と日本に圧力をかけてくるわけが、ここにあります。 日本の慰安婦施設は軍の管理下で、性病予防もきちんとされて、兵隊たちと ピクニックの日があるなど、ほぼ整然と営まれていましたが、アメリカ兵相手の 朝鮮人慰安婦たちは、暴力、性病と悲惨でした。 ピューリタニズム(清教徒主義)が、まだまだ倫理観の基底にある米国には 隠し通さなければならない大恥部なのです。 それゆえ戦勝国の特権をかさにきて、日本政府を恫喝してきます。 「言うなしゃべるな、従軍慰安婦のことは韓国に非難されっぱなしに、しておけ」 アメリカに脅されたら、日本の政府は、政治家は、何も出来ません。 性奴隷など実在していなかった、という訴えも大切ですが、米韓ともに 聞こえないふりをします。 ですから、もっと攻撃に転じましょう。米兵相手の韓国人慰安婦の悲惨さを 世界に広めましょう、語り続け、アメリカと韓国を非難し続けましょう。 アメリカに押さえつけられたら、政府は身動き取れません。 民間でやるしかありません。 (※ 以下略)
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「慰安婦」問題調査報告・1999 インドネシアにおける慰安婦調査報告 倉沢愛子 ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p089_105.pdf 【目次】 はじめに(倉沢) Ⅰ 戦後補償問題としての慰安婦問題 1 インドネシア社会における「慰安婦問題」認識 2 慰安婦問題に関するマスコミ報道の始まり 3 日弁連弁護士のインドネシア訪問 4 法律援護協会への登録 5 兵補協会による慰安婦の登録 6 アジア女性基金の償い金に関する情報 7 インドネシア政府の態度 Ⅱ インドネシアの従軍慰安婦──歴史的実態── 1 慰安婦募集の過程 2 軍管理慰安所の状況 3 私設慰安所の場合 4 終戦後 Ⅲ 面接した元慰安婦たちの現状と償い金に対する立場 1 登 録 2 社会省の決定に対する態度 3 兵補協会の会長交代 おわりに──調査を終えて感じたこと── (付録)兵補協会登録慰安婦数 『「慰安婦」問題調査報告・1999』index
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ATIS調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー 【復刻】産経古森義久記者の「歴史ロンダリング」(その1) 2007年5月作成のサイトなので、各所にリンクエラーがあります。 TITLE 古森さん「歴史ロンダリング」。(その1) TAGS 偽報,古森記者,慰安婦,歴史ロンダリング DATE 05/19/2007 00 27 00 やったねコモリン「歴史ロンダリング」 またまたやってしまいました産経ワシントン特派員のY.Kさん。「またまた」と敢えて申し上げるのは、この方、つい最近のAP記事の翻訳贋造につづいてのことだからです。 ここで取り上げるのは次の2つの記事のことです。 (1)5.14付けブログ 「米軍も日本側の慰安婦は民間調達と認めていた。」 (5月12日付記事の再現) (2)5・18付け記事 「慰安婦「契約の下で雇用」 米陸軍報告書、大戦時に作成」 どちらも、ビルマ北部のミッチナ地区の慰安所経営者の尋問証書からのようです。しかしこれらの記事はちょっと酷いです。この尋問調書の中身を読めば軍関与を実証する資料だということが一目瞭然です。なのに、古森氏はこれを「民間の商取引に過ぎない」資料だとしています。 記事の見出しに引用した資料内容とは逆のキャプションをつける。そうすれば中身を読まず多くの読者がそう思ってしまう。中身は黒いけど白い風呂敷でくるんでしまえば、中身も白いと思い込んでしまう。簡単なトリックですが効果はテキメンです。人間とは一度思い込んでしまえば、あとは相当な努力をしない限り修正がむづかしいものです。ですから、手法は単純だけど効果はテキメンです。 『ワシントン発記事』という新聞公器のシステムを使って英文資料の意味を逆転させてしまう、これは「歴史ロンダリング」とでも呼ぶべきテクニックなのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~ では、問題点を具体的に指摘します。 まず(1)の記事。見出しは、 「民間が慰安婦集め」 米軍調査「日本軍は利益得ず」 記事本文は次のとおりです。 【ワシントン=古森義久】戦時の日本軍の慰安婦に関して、日本側の民間業者が慰安婦候補とした女性家族にまず現金を支払って彼女らを取得していたことを示す米陸軍の調査報告書があることがわかった。報告書は、この業者が朝鮮で商業利益を目的に慰安婦の徴募に直接あたっていたことを示し、現在の米側の一部の「日本軍が女性を組織的に強制徴用していた」という主張とは異なる当時の実態を明らかにしている。 報告書は米国陸軍の戦争情報局心理戦争班により第二次大戦中の1944年9月に作成された。「前線地区での日本軍売春宿」と題され、同年8月にビルマ(現ミャンマー)北部のウェインマウ付近で米軍に拘束された日本人の慰安所経営者(当時41歳)の尋問結果が主に記録されている。 この経営者は、日本人の妻(同38歳)と朝鮮女性の慰安婦20人とともに米軍に捕まった。この慰安婦の尋問結果をまとめた報告書は別に存在し、日米両国の研究者などの間で参照されてきたが、経営者だけについての報告書は公開の場で論じられることが少なかった。 報告書によると、経営者は朝鮮のソウルで妻とともに食堂を開き、ある程度の利益を得ていたが、景気が悪くなり、新たに収入を得る機会の追求としてソウルの日本軍司令部に慰安婦を朝鮮からビルマに連れていくことの許可を求めた。この種の提案は朝鮮在住のほかの日本人ビジネスマンたちにも軍から伝えられていたという。 同経営者の慰安婦集めについては「彼は22人の朝鮮女性に対し個々の性格、外見、年齢による区分で1人あたり300円から1000円の金をまずその家族たちに支払い、取得した。22人の女性は年齢19歳から31歳までで、経営者の占有する資産となった。日本軍は(この取得から)利益は得ていない。ソウルの日本軍司令部は同経営者に対し(ビルマまでの)ほかの日本軍各司令部あてに輸送、配給、医療手当などの必要な援助を与えることを認めた書簡を与えた」と記している。 このように報告書では、この慰安婦採用の過程については日本軍が「許可」あるいは「提案」したとされ、経営者の女性集めはすべての個々人に現金をまず渡していることが明記され、「日本軍が女性たちを組織的に強制徴用して性的奴隷化した」というような米国議会の決議案の解釈や表現とはまったく異なる事情を伝えている。 報告書によると、この日本人経営者は妻や22人の朝鮮女性とともに1942年7月10日に釜山を船でたち、台湾、シンガポール経由で同8月20日にビルマの首都ラングーン(現ヤンゴン)に到着した。女性たちはその後、北部のミッチナ(当時の日本側の呼称はミイトキーナ)地区の日本軍歩兵114連隊用の慰安所に送られたという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~(記事おわり) この記事は下記の資料原文に照らすと、意味が巧妙にずらされています。まず、 >新たに収入を得る機会の追求としてソウルの日本軍司令部に慰安婦を朝鮮からビルマに連れていくことの許可を求めた。この種の提案は朝鮮在住のほかの日本人ビジネスマンたちにも軍から伝えられていたという。 これでは、まるで朝鮮からビルマに連れていくことを計画したのはこの業者のように誤解されますが、そうではないのです。M.739という業者は、朝鮮総督府の計画に応募(applied to )したのです。人身売買とビルマ移送の内示計画(the suggestion)は総督府によって立てられた(originated from Army H.Q.)とはっきり書かれています。 古森氏は、原文にある the suggestion originated from Army (示唆は軍より発せられ)をわざわざ脱落させています。これがあると、「民間調達」という見出しが成り立たなくなるからでしょう >日本軍は(この取得から)利益は得ていない。 これは、売買益を得なかったということで、慰安婦・慰安所経営からは「性」という兵站の恩恵を得ていたことは否定できないのです。 >ソウルの日本軍司令部は同経営者に対し日本軍各司令部あて(ビルマまでの)ほかの日本軍各司令部あてに輸送、配給、医療手当などの必要な援助を与えることを認めた書簡を与えた 書簡は、日本軍各司令部が同経営者を積極的に支援するよう求めたものです。「援助を与えることを認めた」といった消極的なものではありません。 (H.Q. Korea Army gave him a letter addressed to all military H.Q. of the Japanese Army, requesting them to furnish any assistance he might require, transport, rations, medical attention, etc.)業者は、軍による完全アゴアシ付だったのです。 そのうえ、女性たちの船内での食費は業者が払ったとも記されています。彼女たちには収入がないのですから、食費分は前借金の増加となったことは容易に想像できることです。 この文書は、 「軍が発案し管理した上での人身売買、軍主導の移送、慰安婦女性の捕虜扱いなど」の実態が記された文書です。 「民間が慰安婦集め」 米軍調査「日本軍は利益得ず」 といった軍傍観者的文書では、決してありません。 【参考】 Y.Kさんが提示した原資料(冒頭部分)は以下のとおりです。私の試訳を添えます。 A JAPANESE ARMY BROTHEL IN THE FORWARD AREA. Note The following is derived from interrogation at C.S.D.I.C.(I) of M.739, and from O.W.I. Interrogation at Ledo Base Stockade of 20 Korean “comfort girls”, Report dated 21 Sept. 1944. 外地における日本軍慰安所 註 以下はat C.S.D.I.C.(I) での M.739に対する尋問とLedo Base Stockade における20人の軍慰安婦に対するO.W.I. 尋問から作成された。 作成日 1944年9月21日 M.739, his wife and sister-in-law had made some money as restaurant keepers in Keijo, Korea, but their trade declining they looked for an opportunity to make more money and applied to Army H.Q. in Keijo for permission to take “comfort girls” from Korea to Burma. According to P.W. the suggestion originated from Army H.Q. and was passed to a number of similar Japanese “business men” in Korea. M.739と彼の妻と義理の妹は、京城で食堂経営し金をいくらか蓄えたが、商売が縮小してきたので金儲けのチャンスを求めて、京城の朝鮮総督府に応募して慰安婦を朝鮮からビルマに連れて行く許可を求めた。捕虜によれば、示唆(内示計画)は総督府が発案し、朝鮮にいる多くの同じ日本人業者にも伝えられた。 M.739 purchased 22 Korean girls, payig their families from 300 to 1,000 according to the personality , looks and age of the girl. These 22 girls were of ages from 19—31. They became the sole property of P.W. and the Army made no profits from them. H.Q. Korea Army gave him a letter addressed to all military H.Q. of the Japanese Army, requesting them to furnish any assistance he might require, transport, rations, medical attention, etc. M.739は22人の朝鮮人女性を、性格、容姿、年齢などによって、300円から1000円で買い取った。22人の年齢は19~31歳であった。彼女達は捕虜(M.739のこと)の占有財産となり、軍は彼女たちから利潤(手数料)を得なかった。朝鮮総督府は移送にかかわる全ての外地司令部宛ての手紙をM.739にもたせた。手紙は、移動手段でも食料でも医薬品でも、M.739が要求するものはどんな援助もするように、各司令部に要請するものであった。 Leaving his sister-in-law to carry on the restaurant, M.739 and his wife, with their 22 girls, embarked at Fusan on 10 July 1942 in a group of 703 girls, all Korean, and some 90 Japanese men and women, all of them of the same base sort as himself. They sailed on a 4,000 ton passenger ship in a convoy of 7 ships. Free passage Tickets were provided by Army H.Q., but P.W. paid for all meals during the voyages. 義理の妹を食堂経営のために残して、M.739 と妻は22人の女性を連れて10 July 1942 、全て朝鮮娘からなる703人の慰安婦、そして90人ほどの彼と全く同じ立場の日本人男女とともに船に乗り込んだ。彼等は7隻の船団のうちの4,000トンの客船で運ばれた。総督府から無料乗船券は与えられたが、捕虜は航海中の全ての食事代を支払った。 They called at Formosa, where 22 other girls bound for Singapore were taken on board, and at Singapore where they transferred to another ship, arriving at Rangoon on 20 Aug 1942. 彼女らが台湾に上陸したとき、22人の別の女性たちがシンガポールまで合流し、シンガポールの上陸では、そこから彼女たちは別の船に乗り換えラングーンには20 Aug 1942に到着した。 At Rangoon they were divided into groups of 20—30 girls in each and dispersed to various parts of Burma, each group being attached to various regiments, units or formations, so that each had its own brothel (s). ラングーンで女性たちは20—30 人のグループに分けられ、ビルマの多くの地に分散された。各グループは、それぞれの売春宿を有する連隊、部隊、編隊に属することとなった。 古森さん「歴史ロンダリング」(その2) ATIS調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー ,
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http //japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/03/08/20070308000012.html 日本の安倍晋三首相は第2次世界大戦当時、韓半島(朝鮮半島)や中国から従軍慰安婦が動員された際に強制性があったかどうかを再調査する方針、と共同通信が8日報じた。 共同通信は、政府・与党の複数の関係者の話として、旧日本軍による従軍慰安婦動員の強制性を認めた「河野談話」の前提となる事実関係について、安倍首相は再調査する方向で検討している、と伝えた。 関係者によると、再調査は歴史学者などの有識者機関に依頼する方向で検討されているという。 このような再調査について、同通信は「日本政府が前回の調査を実施して以来14年が経過しており、“新たな資料や証言”が出てきたため、従軍慰安婦動員の強制性に対する追加の検証が必要になったとの判断によるもの」と説明している。 しかし、安倍首相が「河野談話」を基本的に継承するとしている状況で再調査が行われれば、調査結果によっては談話修正につながる可能性も否定することができず、場合によっては韓国や中国などの関連国が反発する可能性もある、と同通信は強調した。 こうした中、自民党の議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は9日、従軍慰安婦問題の再調査などを求める提言を安倍首相に提出する方針だ。 これに先立ち安倍首相は今月5日、従軍慰安婦問題で旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していないと主張し、波紋を呼んでいた。 NEWSIS/朝鮮日報JNS