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概要 モルコアの戦いとは、ザールック3325年3月、アーズ国と、モルコア国を支配していたアトレティア国ゲルジュ部隊との間で起きた戦いである。 戦闘に至るまでの背景 アトレティア国は、ダルスバード艦隊の圧倒的戦力を背景に、世界の各地に自国の部隊を駐屯させていた。部隊が駐屯されていた各国は、一応独立した国ではあったが、実際はアトレティア国の属国に近い存在となっていた。 アーズ国は、アトレティア色に染められていた勢力図を、自国の色に塗り替えるべく、これらの駐屯部隊と幾度となく戦っていた。 モルコアの戦いは、その中でも特に大規模で、後に六界戦争に繋がる基点となった戦いである。 両軍の戦力 攻撃側 守備側 アーズ国軍 軍勢 アトレティア国軍 ゲルジュ艦隊 総兵力84000 兵力 総兵力75000 サウラ 総指揮 ゲルジュ サルファー 軍師 主要参戦者 サウラ サルファー アリン トウリョ ゴルドバ ゲルジュ ベルマ ムガ ガバゼ ラシャ ファルケ 戦闘経緯 サウラとゲルジュは、互いにまだ若かった頃、一人の戦士として戦場で何度も衝突している。やがて時は流れ、互いの立場は「指揮官」にまで上り詰め、ここに数年ぶりの再戦を行うこととなった。 両軍の艦隊の一斉射と同時に幕を開けた決戦は、同時に地上戦の開始の合図ともなる。 艦隊戦で勝利すれば、地上部隊支援に専念できるため、艦隊はなるべく早急かつ軽微な損害で勝利することを目指さなければならないが、それは両軍共通のことであり、必ずしも理想が現実のものになるわけではなかった。 地上ではガバゼの猛突撃をかろうじてファルケが受け止めていたが、その猛攻は続き、ラシャが救援に駆けつける。 その一方でサウラ、トウリョとムガ、ベルマの激戦はこの戦い最大の混戦となり、これを支援する部隊をゴルドバ部隊が遮断するべく出陣し、混戦に拍車をかけていた。 艦隊決戦は、アーズ国第1艦隊がゲルジュ艦隊に突撃、これをゲルジュ艦隊が半月の陣形で半包囲しようとするが、それこそが第1艦隊軍師サルファーの策であり、第2艦隊を密かに移動させてゲルジュ艦隊の背後を取るべく動かしていた。 夕方になると、サウラがベルマを討ち取り、ムガ部隊も背走、そのまま一気に全軍を押し上げようとするが、アーズ国軍もファルケ部隊が半壊し、戦線を維持できなくなり、側面からの攻撃により、サウラ、トウリョは敵陣に踏み込めず、迎撃に回る。 アーズ国第1艦隊はゲルジュ艦隊と接近、白兵戦要員を出陣させるが、第1艦隊は最初から防御に徹していた為、半包囲された状態にしては軽微であったものの、それでも損害を蓄積させていた。 しかし、夕刻になると、第2艦隊の隠密行動による移動が形となって現れ、ゲルジュ艦隊の背後に出現。一斉射を開始する。完全に挟撃されたゲルジュ艦隊は混乱状態となり、それまで第1艦隊にあたえた損害を倍返しされる形となる。 ゲルジュは全軍の撤退を命じ、これに呼応して地上部隊も下がっていく。 戦いの結末 ゲルジュにとってこの場合の撤退とは、アトレティア国までの大きな後退を意味し、その為にはセロナバルス国を突破しなければならなかった。 この突破戦で、殿軍を勤めたガバゼが戦死、多大な損害を出しながらかろうじて脱出に成功したゲルジュであったが、ガザデルーに招集され、艦隊を没収、一兵卒への降格が命じられる。しかも、兵卒としての配属先は、手柄を争っていたジェルダー部隊という屈辱的な結末を迎える事となる。 また、半壊した彼の艦隊は、ガザデルー直属の部下であるガジャが引き継ぐ形となった。 アーズ国は、この勝利によってモルコア国の完全なる独立を支援するが、それは同時にモルコア国の新たな「主人」がアーズ国に変わるだけということも意味していた。 ただし、アーズ国はアトレティア国と異なり、部隊の駐屯はしなかった為、モルコア国の反発は「この時点では」なかった。
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概要 チャリオスの戦いとは、ザールック3328年2月、アーズ国、ビーストバリア国と、フレイミスト国の三国連合と、アトレティア国軍鬼龍軍の間で起きた戦いである。 戦闘に至るまでの背景 3328-0.JPG ラッツヘルトの戦いに代表されるセルカティーナの速攻に、ビーストバリア国は危機感を感じていた。 このままセルカティーナがアヤクリス国を支配すると、宿敵である鬼龍軍は、後方に安全地帯を築く事となり、ビーストバリア攻略にのみ全力を尽くすことができることとなる。 ビーストバリアの滅亡はアーズ国にとっても防波堤を失うこととなる為他人事ではなく、両国は共同して鬼龍軍と戦い、この戦力を削ぎ取る必要があった。 鬼龍部隊とセルカティーナ部隊がまだ完全な連携をとっていないうちにこの作戦は実行しなければならなかったが、更に万全を期すため、アーズ国はフレイミスト国にも共同戦線を申し出た。 こうして、本来ならビーストバリア軍と援軍対鬼龍軍となるべき戦いは、アーズ国と援軍対鬼龍軍という戦いになり、ビーストバリア国は、主役の座をアーズ国のアルスレーナに奪われることとなる。(ただし、アルスレーナ自身は神器衆の説得もあり、今回の戦いに出陣していない) 両軍の戦力 攻撃側 守備側 アーズ国軍 軍勢 アトレティア国軍 鬼龍軍 総兵力77000 兵力 総兵力62000 サルファー 総指揮 鬼龍 軍師 主要参戦者 サルファー サウラ ゴルドバ ラシャ ゲルジュ 鬼龍 飛翔 ウェンディ ガイラ アリン トウリョ トミラス ビーストバリア国軍 軍勢 主要参戦者 黒狼 火龍 霊虎 青龍 援軍 フレイミスト国軍 軍勢 主要参戦者 ガリュウ ロディ 戦闘経緯 三国連合軍の真の狙いはチャリオス岬の奪取であった。ここを抑えることで鬼龍軍の領土を分断することができる。 これまでの情勢では、この岬を占領したとしても、ビーストバリア国とフレイミスト国は互いに無関心であった為、それほど重要視されることはなかった。しかし、状況は変わり、モルコア、リゼルバがアーズ国の手に落ち、アーズ国が西に兵力を裂ける状態となり、また、昔は連携が希薄であったフレイミスト国とビーストバリア国も、五カ国連合会談、そしてディジィの戦い以後は、共同戦線が行われるまでになっていた。 そして、セルカティーナによる領土拡大が、それまで見逃されていたチャリオス岬を、三国に本気で攻略させる気にさせていた。 この戦いは長距離の移動を必要としたため、艦隊は戦力としてより地上部隊の輸送に徹した。 鬼龍軍は南方から迫るアーズ国、ビーストバリア国軍に対処するべく迎撃部隊を派遣したが、その隙に本命であるフレイミスト国軍がチャリオス岬に進軍、これを陥落させる。 更に、アーズ国軍は矛先をモルト国に向けると、南部の地域を次々と陥落させ、領土拡大に成功する。 ビーストバリア国軍はこの戦いの本来の主役であるはずにも関わらず、鬼龍主力軍と激戦を繰り広げたのみで、得るものは何もなかった。 戦いの結末 ビーストバリア国と鬼龍軍は元々同族の者であった。国主後継を争って内乱が生じてた時に、国外へ逃亡したのが鬼龍や飛翔の父親達であった。 この戦いで捕虜の身となった飛翔は、ベルーマの説得に当初頑なに拒絶していたが、ベルーマは元々同じ民族であった彼らが二つに分かれたいきさつとなる一族の跡目争いの愚かしさと、本来するべきことの道理を説き彼を味方とすることに成功する。
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autolink DC/W23-067 カード名:愛故の戦い ななこ カテゴリ:キャラクター 色:赤 レベル:1 コスト:0 トリガー:0 パワー:5000 ソウル:1 特徴:《メガネ》? 《漫画》? 【起】[①]そのターン中、このカードは次の能力を得る。『【自】このカードがリバースした時、このカードのバトル相手のレベルが1以下なら、あなたはそのキャラをリバースしてよい。』 レアリティ:C illust.
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糸魚川の戦い 糸魚川の戦い(いといがわのたたかい)とは永禄11年から永禄12年の冬にかけて姉小路家と上杉家の間の起きた戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路家 (永禄11年11月10日) 富山城兵 第一弾幕隊:鉄砲隊12500 柴田勝家、小島職鎮、鈴木重兼 第二弾幕隊:鉄砲隊15500 伊吹萃香、黒田孝高、鵜殿長持 先陣本隊:騎馬隊13377 朝倉宗滴、朝倉景紀、朝倉義景 火力本隊:鉄砲隊9500 鈴木重秀、アリス・マーガトロイド、真柄直隆 第三弾幕隊:鉄砲隊9000 磯野員昌、レティ・ホワイトロック、鈴木重泰 第四弾幕隊:鉄砲隊4453 本願寺顕如、鈴木重意、原長頼 (11月15日) 築城隊:6500 海北綱親 (永禄12年1月15日) 援軍弾幕隊:鉄砲隊8500:佐々成政、百々安信、天野景貫 (1月20日) 後詰本隊:騎馬隊6000:浅井長政、八雲藍、紅美鈴 後詰弾幕隊:鉄砲隊9500 十六夜咲夜、レミリア・スカーレット、朝倉景鏡 最終投入兵力88327 上杉家 春日山城兵 留守居厄:最上義光(計略担当) 迎撃隊(12月10日) 上杉景勝、四季映姫・ヤマザナドゥ、富田氏実:騎馬隊14500 柿崎景家、斎藤朝信:騎馬隊9500 村上義清:騎馬隊9500 本庄繁長:騎馬隊8000 水原親憲、中条藤資:騎馬隊8000 (1月20日) 延沢満延:騎馬隊6500 2月10日 上杉景勝:騎馬隊6500 新発田重家、四季映姫・ヤマザナドゥ:騎馬隊6500 最終投入兵力69000 姉小路家として初めての対上杉攻勢作戦である。第三次越中防衛戦の勝利により上杉方の兵力を損耗せしめた姉小路にとって待ちに待った好機の到来と言えよう。北陸の主立った将達が一同に会し、士気旺盛である。 越中富山城・越後春日山城の距離が長いため、野戦となることは必至。上杉の騎馬隊は武田騎馬軍と並び称されるほどの精兵揃いである。 数度に渡る防衛戦はなんなくこなしたものの、攻勢作戦は困難となることが予想される。 合戦までの経緯 富山城を巡る合戦は、上杉家の一方的な敗北に終わった。 しかし、大被害ではあったものの素早い撤退により致命的打撃を免れ、春日山城にはそれなり以上の兵力を備えていた。 これまで越中の姉小路は越後の地に侵入してくることなかった為、上杉は東北を制圧した後に、完全編成で再び越中を狙えばいいと考えており、受けた傷を癒す時間は十分にあると考えていた。 一方の姉小路は中国地方の制定をほぼ終え、その戦略的指針を東方へと向ける余裕が出来た。 上杉が未だ東北を制圧していない状況、春日山城の戦力低下と合わせて、攻勢に出る機と判断し、出撃を決定した。 概要 春日山城は上杉にとって本拠であると同時に、何よりも重要な経済拠点であった。 頸城平野に広がる春日山の城下町は、元関東管領、上杉憲政が暮らす府中の町と合わせ戸数一万軒、人口七万を有しており、日本海側屈指の大都市であり、 隣接する直江津湊からは京へ名産の麻を送るなどし、貿易の拠点でもあり、佐渡島で産出される金の集積地点でもあった。 最も経済的に豊かであったのは春日山の東方、魚沼郡あたりであったが、西方からの侵略者に対して、春日山の重要性に変わりはなかった。 度重なる越中への進撃で、上杉軍はその戦力を大きくそぎ取られていたが、一連の越中戦に比べて、優位な点が数多く存在していた。 まず、春日山の地が上杉にとって本拠であったということ。そして多くの将が春日山の重要点を何よりも理解していたということだ。 その結果、上杉景勝という上杉家次代跡継ぎを中心とした、固い結束が生まれた。 揚北衆、本庄繁長も、春日山を失えば、自らの本拠である阿賀野川周辺の本拠が危機に陥ることを何よりも理解しており、反旗を翻すそぶりすらみせなかった。 特筆すべきは村上義清だろう。 経緯は省略するが、信玄によって奪われた国土の奪還を彼は何よりも重視していた。元本拠、北信濃の葛尾城への道は春日山と直結しており、春日山を失うことは彼にとって何よりも避けたいことであった。このことから村上の今回の戦にかける意気込みは凄まじいものであったという。 姉小路軍にも不利な材料はあった。豪雪の中を急行軍で進撃しており、寒波による総合的な戦闘力の低下が考えられた。 豪雪と悪路の影響は、補給部隊にも多大な影響をもたらした。山口館の戦いで得た教訓も、わずか半年の準備期間では解決は不可能であった。 このように、姉小路側も大きな不安要素を抱えての戦であった。 姉小路軍は不足が懸念される糧食に関して、越後国境に新規の城を築く一方、上杉家の砦や城塞の食料の回収に努めた。 越中攻防戦の際、上杉家は春日山西方の城、砦に食料をかなり備蓄しており、それらは残されたままであった。 この事実は上杉が、戦力の回復後、再び越中を狙っていたことを如実に物語っている。 これを油断と言ってしまえばその通りではあるが、裏を返せばそれだけ越後の冬が厳しく、その時期の侵略は常軌を逸しているのだといえるだろう。(皮肉にも謙信の父、長尾為信は1521年の12月に越中侵略を行っているが…)。 回収された物資は姉小路側の兵站事情を大いに助けることとなった。 しかし冬そのものの脅威が去ったわけではなく、多くの者は寒さに震える中での行軍となった。 上杉景勝以下の強力な騎馬部隊が出撃したのは12月10日。この時期には珍しい晴れの日の出撃となった。 姉小路軍はそれを確認すると、かねてからの作戦通り、引きつけて撃滅する為、一時西への撤退を開始。上杉もこれを追撃する様子を見せた。 しかし積雪の為か、朝倉宗滴隊への敵発見の報告が大きく遅れ、取り残される形になってしまった。 報告が遅れただけでなく、鉄砲隊の指揮官が撤退時の手間をなくそうと総大将宗滴に(撤退するという)伝令を送ると同時に後退を始めたことも原因の1つである。部隊を預かる将が優秀だったという証明だが、今回はそれが裏目に出てしまった。 結果、宗滴隊は孤立、上杉軍主力の矛は当然ながらこの隊に向いた。 宗滴は後退は困難、後続部隊の救援を頼りに耐え忍ぶよりほかないと判断し、防御戦を開始した。 一方、後退していた弾幕隊は宗滴隊が後退した様子がないことをここにきて認識し、救援の為、各部隊長の判断ごとに動き出した。 柴田勝家や鈴木重秀、黒田孝高、本願寺顕如といった将達の判断力が優れていたことをここでも証明した。 しかし、姉小路鉄砲隊の中核をなしていた鈴木重秀隊は突如反転し、魚津へと向かった。後続部隊との合流を図った説。最上義光など上杉方の謀略説など様々な説があるが、いずれも現実的にありえないとされ未だ明らかにはなっていない。 鈴木重家隊が後退した結果、宗滴の救援に駆けつけられるのは柴田、黒田、そして顕如隊の三隊となった。しかしこれらはいずれも鉄砲を主体とした部隊であり、騎馬隊相手に正面から殴り合うには策が必要であった。 特に気候が氷点下に至る極寒状況では流石の明智筒も安定性が低下し、騎馬隊への打撃力が低下していた。 まず、本願寺隊が上杉の暴風のような攻撃によって崩壊。顕如が捕らえられるほどの大敗北を喫した。 救援を急ぐあまり、乱戦に向かない銃兵で騎兵中心の編成に立ち向かったのがその敗因であった。 同様の攻撃に曝された柴田隊も瞬く間にその戦力をすり減らし、壊滅の危機に瀕したが、この部隊は奇跡的に後退に成功する。 機動力に劣る鉄砲隊、それも多数の負傷者を抱えた状況にも関わらず撤退が成功したのには、柴田勝家と参謀、小島職鎮の巧みな戦術判断によるところが大きかった。 しかし、その代償は大きかった。左翼を占めていた柴田隊の後退は隣で陣を敷いていた黒田隊が丸々孤立することを意味するからだ。 もちろん撤退することを柴田は黒田に連絡したが、乱戦の最中、伝令が届くことはなかった。 左翼の空白に突撃したのは柿崎景家であった。間髪入れず姉小路の前線部隊と後方支援部隊の狭間に滑り込み、前線部隊を背後から襲撃した。 黒田隊にとり、これは非常に驚異となった。ただでさえ柴田隊が後退したことによって前面の担当すべき防御範囲が広がっており、火力の集中が不可能になっていたのに加え、本来安全なはずの背後からも攻撃を受けることになったのだ。 黒田も独自に柴田隊の後退を察知していたが、対策を打つには時間と兵があまりに不足していた。 これを機と見計らったのか、斉藤隊、村上隊などの上杉の将が一気に黒田隊を押しつぶそうと果敢に攻め寄せた。 黒田はこれを雪壕による仮設陣と限定的な火力集中、そして伊吹萃香を中心とした一部の精鋭隊によって逆襲を駆使、退路が確保されるまでの時間稼ぎを図った。 しかし、上杉方がその時間稼ぎに感づき、損害を顧みず黒田隊への攻撃の手を緩めなかったのが災いした。 後方の磯野隊、そして再配置をすませた柴田隊は懸命に柿崎隊の排除を試みたが、その排除を待たずして、黒田隊は崩壊。 黒田は負傷した伊吹萃香と共にわずかな護衛を引き連れ富山へと退いた。 「もし和泉守(柿崎景家)に分別さえあれば、越後七郡に敵無し」と謙信にいわれた柿崎であったが、今回はその分別のなさが黒田隊を壊滅させたのだから、皮肉としかいいようがないだろう。 それとほぼ同時に柿崎隊も壊滅。これによって柿崎隊がそのまま朝倉隊の背面を襲撃し、前線が完全崩壊することだけは免れた。 これは黒田と伊吹と鵜殿の戦線離脱を大いに助けた。何よりも黒田隊を崩壊させた斉藤、柿崎、村上隊が宗滴隊に殺到したのが3人の命を救った。 姉小路の後詰め部隊は既に戦場に加入したのはこの前後になる。上杉景勝も一時城へ退き戦力を立て直した後再度出撃。負傷しながらも四季映姫も新発田隊の与力として戦場へと舞い戻った。 宗滴隊はこのとき、上杉景勝隊、中条藤資隊と連戦し、さらに側面から水原隊からの攻撃を受けつつも粘り強く抗戦を続けており、上杉方に損害を与え続けていた。 それどころか逆に宗滴は策を弄し、上杉部隊を攪乱し水原隊を崩壊させるほどの打撃を与えた。 村上、本庄もまた黒田隊を壊滅させる際に受けた損害が大きく、撤退。 再度出撃した新発田、景勝隊も疲弊しきった馬では状況を打破することができず、撤退した。 戦闘は姉小路の勝利だったが、受けた損害はあまりに大きく、春日山城の制圧は困難と判断し、新規に築かれた魚津へと撤退した。 多数の負傷兵を抱えた状況下の撤退は困難を極めたが、勝ち戦と各将の鼓舞も手伝い、最小限の被害での撤退に成功した。 部隊が帰還したとき、魚津城では海北綱親の指揮のもとに作られた、温かい味噌汁と白米が待っていたという。 この戦いの影響 姉小路の目的が春日山城の制圧であったのならば、戦術的辛勝、戦略的敗北といえる戦であったといえる。 しかし、春日山城の戦力をすり減らすという目的ならば姉小路側の勝利といえるだろう。 上杉家は越中再侵攻はおろか、春日山の防御にも不安が残る程の損害を被った。再度姉小路が越後に侵入した際は城を盾に戦う策をとるしかなく、作戦の自由度を大きく失うことになった。 逸話 この合戦は姉小路良頼にすら事後報告しか行われていない。現場の判断で行われた合戦である。 北方軍の軍団長にはそれだけ大きな権限が与えられていた。 これは、姉小路家の領地が広大であることもさることながら、 冬季の越中の交通の便が悪いことからの配慮である。 そのような電撃戦であるにも関わらず、各地から越中への物資の補給は円滑であった。 これは姉小路家の奉行衆が量的質的共に優秀である事の証左であろう。 姉小路家が各地で電撃作戦を行う事ができたのは、 前線基地への円滑な物資の補給があってこそである。 この合戦は現場の独断ではあるが、一部の将には予想の範囲内であったようだ。 第三次越中防衛戦が終了した折、姉小路領内の御用商人や諸将から越中に戦勝祝いの品が届けられた。 多くは宗滴が文化人であることから、茶器などの美術品や名刀古刀であった。 姉小路良頼からは褒賞の石見銀や生野銀、飛騨金などが送られたようである。 そんな中、竹中重治は2000着もの木綿の陣羽織を送った。これは越後侵攻が近いことを察した 竹中重治が寒さの厳しい遠征になることを予想して防寒具を送ったのだと言われている。 明智家からは500帖もの油紙が贈られている。これは、河川や海の付近を移動する際、 水に弱い鉄砲弾薬を保護するための必需品である。この合戦の行われた糸魚川では雪が多く、 移動の際も海や川が多かったので重宝したといわれている。 その他、羽柴秀吉の提案で材美濃の諸将からは寒冷地で暖をとるための良質の飛騨木炭、 それとは別に美濃衆を代表して斉藤義龍から防寒対策の美濃和紙が贈られた。 魚津城築城は後世の魚津の発展の要因の一つである。 この戦いまでは魚津城周辺は名目上姉小路領であったといえ、 実質は上杉氏と姉小路氏の両方に属していた。 魚津は上杉家の侵攻に度々晒されていたが姉小路氏はこの地域の防衛をするのが困難と判断。 また、上杉氏も魚津が陸の孤島であり、富山城を落とさない限り維持が困難であると判断していた。 このために両家領の緩衝地帯となっていたのである。 しかし、今回の合戦に勝利して魚津城が築城されたため、名実ともに完全な姉小路領となった。 これまで姉小路家にとって危険な土地であったため、姉小路領の松倉金山から産出される金は、 魚津港を避けて移送されるなど、長年交通の要所で恵まれた地形のわりに不遇であった魚津も、 城下町としていよいよ発展していくこととなる。 この合戦では携行食糧についてさまざまな試みがなされた。 中でも、たったの四粒で一日に必要な栄養をほぼ摂取できる兵糧丸は既存の糒(ほしいい)などと比べて 携行性や栄養価が上回っていたために、兵糧事情改善に大いに期待されていた。 実際にも大きな効果があったのだが、蜂蜜や鰹節など一部材料が高価であること、満腹感に欠けること、 味が良くないことなど将兵の不満が高まり、その後は既存の兵糧との併用という形で収まった。 この後の合戦では、間食、非常時の栄養補給用として利用されていたようである。 兵糧丸はその後も改良を加えられた。生産初期に比べて安価になり、 特に味については飛躍的な進歩がみられた。 なぜ味の改善が重点的に行われたかと言うと、 姉小路の兵糧丸がまずいことで有名になってしまったからである。 よほど印象深かったのであろうか、この合戦の参加者の苦労話には強敵上杉、越後の冬の寒さに続いて 大抵この兵糧丸が登場していた。この話が各地に伝播したようである。 兵糧がまずいというのは不名誉であることのみならず、募兵や士気にも差し障る恐れがあった。 そこですぐに味の改善が図られたという次第である。 幸いなことに募兵や士気には影響は見られなかった。 ただし、その努力に関わらず、この後も兵糧についての冗談話のオチとして扱われる事となったのである。 他には味付き糒といって糒自体に味噌を染み込ませて味噌を携帯する手間を省く物があったが、 この合戦の後の採用は見送られた。表向きは保存性にやや問題があるという理由であった。 しかし本当のところは、当時の兵士は配給された糒の一部を酒に加工するということをしていたのだが、 味付きだと酒にも味がついてしまって不味くなるからであったという。 なお、戦後にこの味付きの糒は味噌味や甘みをつけて御菓子として売られるようになった。 後の雷おこしの原型である。
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【元ネタ】史実 【CLASS】アサシン 【マスター】 【真名】鈴木孫一(すずき まごいち) 【性別】男性 【身長・体重】182cm・75kg 【属性】中立・中庸 【ステータス】筋力D 耐久C 敏捷B 魔力E 幸運D 宝具D 【クラス別スキル】 気配遮断:D サーヴァントとしての気配を断つ。隠密行動に適している。 ただし、自らが攻撃態勢に移ると気配遮断は解ける。 【固有スキル】 カリスマ:D 軍団を指揮する天性の才能。団体戦闘において、自軍の能力を向上させる。 カリスマは稀有な才能で、一団の指導者としてはDランクで十分と言える。 仕切り直し:C 戦闘から離脱する能力。 また、不利になった戦闘を戦闘開始ターン(1ターン目)に戻し、技の条件を初期値に戻す。 直感:C 戦闘時、つねに自身にとって最適な展開を”感じ取る”能力。 敵の攻撃を初見でもある程度は予見することができる。 【宝具】 『八丁念仏団子刺し(はっちょうねんぶつだんござし)』 ランク:D 種別:対人宝具 レンジ:1~2 最大捕捉:1人 斬られた相手が念仏を唱えながら八丁(約900m)進んだところで真っ二つになって絶命したという刀。 この刀は与えたダメージを現在から未来へと送り込むという特性を持っている。 そのため、最初にダメージを与えた時から、最大10ターンの間、全てのダメージを蓄積させておき、 10ターンの後に、全ダメージが一気に襲いかかる。 『守本尊身代り像(まもりほんぞんみがわりぞう)』 ランク:D 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人 斬られた孫一の代わりに血を流したという阿弥陀如来尊像の巻物。 この宝具は孫一とパスによって繋がっており、孫一の受けたダメージをパスを通じて肩代わりする。 ダメージの許容量は、孫一の最大HPの一割ほどであり、 その上限を超えた瞬間、この宝具は破壊される。 【Weapon】 『八咫烏』 孫一が愛用した火縄銃。 八咫烏の加護が宿っており、命中とダメージロールに有利な判定を得ることができる。 【解説】 雑賀衆の有力者の一人。雑賀孫市という名でも知られる。 石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめた。その後、関ヶ原の戦いでは鳥居元忠を討ち取るなどの軍功を挙げ、浪人を経て水戸藩に仕官した。 正体について不明な部分も多く、鈴木重意(佐大夫)を指すとする説や、重意の息子、鈴木重兼(平井孫一という別名あり)や鈴木重秀、鈴木重朝(関ヶ原の合戦・水戸藩への仕官などの経歴はこの人物と重なる)を指すとする説などがある。しかし、「孫一」が活躍した年月に開きがあり、鈴木氏の当主は代々「孫一」を名乗っていたという資料もあることから、複数の人間の伝記が混在した可能性が高い。 また、鈴木氏の定紋が「ヤタガラス」であるため、孫一は自身の火縄銃にヤタガラスと命名している。 和歌山県和歌山市平井の蓮乗寺内に孫一の墓と伝わるものがあり、法名は「釋法誓」。三重県熊野市には孫一終焉の地として供養塔がある。
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一覧表浅井家 朝倉家 伊賀忍 今川家 上杉家 上田合戦 オウギ 大坂牢人衆 大友家 お地蔵様 織田家 御館の乱 鍛冶屋 家督 関白 丸薬 国衆 熊 黒田家 君側の奸 甲賀忍 甲相駿同盟 子飼い 雑賀衆 真田家 真田屋敷 山賊 賤ヶ岳七本槍 忍び 島津家 銃眼扉 銃眼砦 上洛 征夷大将軍 関ヶ原の戦い 太閤 大名 武田家 伊達家 反物 弾薬 茶屋 中国大返し 釣り場 出丸 徳川家 豊臣家 縄張り 南蛮 荷駄 幕府 畑 兵糧 笛 奉行 北条家 三方ヶ原の戦い 三日天下 密偵 名代 毛利家 矢沢家 山内家 与力 よろず屋 練兵 和議 一覧表 浅井家 北近江(現在の滋賀県北部)を治める大名家。 元当主は浅井長政である。 元は近江守護である京極家の家臣であったが、 長政の祖父・亮政の代に勢力を伸ばした。 この頃、南近江の六角家との争いで苦境に立たされた際、 同盟した越前(現在の福井県)の朝倉家に おおいに助けられている。 この朝倉との深い縁が、浅井の前途を暗いものとした。 朝倉家 越前(現在の福井県)を治める大名家。 元当主は朝倉義景である。 朝倉家は本来、但馬(現在の兵庫県北部)を本拠としており、 越前朝倉家はそこから分かれた系統である。 七代孝景の代に応仁の乱で活躍、勢力を伸ばした。 十一代義景の代に足利義昭に頼られ、 上洛を要請されるがこれに応えず。失望した義昭は 織田信長を頼り、信長に大義名分を与えることとなった。 伊賀忍 伊賀流の忍者。 伊賀(現在の三重県西部)を本拠地とした。 甲賀忍が主君への忠節を重んじるのに対し、伊賀忍は金銭の 契約以上のことは求めないとされる。また、要請があれば 雇い主が敵同士でも双方に忍者を派遣したという。 本能寺の変の際、堺から脱出する徳川家康を助け (神君伊賀越え)、この功から徳川に重用された。 最も有名なのは服部半蔵だが、史実では半蔵は忍者ではない。 今川家 駿河・遠江(ともに現在の静岡県の一部)を治める大名家。 現当主は今川氏真である。 足利将軍家の親族であり、宗家の相続権を持つ名門。 武田家・北条家と三国同盟を結び、氏真の父・義元の時代には 最盛期を誇ったが、義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると たちまち凋落。従属していた徳川家康に離反され、 三河(現在の愛知県東部)の支配権も失った。 このことから武田との関係も微妙となるが、 北条とは固い繋がりを保持している。 上杉家 越後(現在の新潟県)を治める大名家。 現当主は上杉謙信である。義を重んじる家風。 長きに渡る川中島の戦いも信玄に信濃(現在の長野県)を 追われた豪族に助けを求められた謙信が これに応えたことで幕を開けた。 実は越後は内乱が多く、家臣の謀反が相次ぐ地域であったが、 謙信の神がかった強さとカリスマ性でまとめ上げられていた。 上田合戦 真田昌幸が居城・上田城周辺で徳川の大軍を撃退した二度の戦い。 ◆第一次上田合戦 天正十三年(1585)、徳川から離反して上杉についた真田を 討伐するため、徳川軍が攻め寄せた。昌幸は地の利を生かした 戦術で数倍の敵を撃退。真田の名を天下にとどろかせた。 ◆第二次上田合戦 慶長五年(1600)、関ヶ原へ向かう徳川秀忠率いる別働隊を 足止め、ついに本戦に間に合わせなかった。 オウギ 生薬の一種。漢字で書くと「黄耆」。 強壮薬として効果がある。 信玄の死に気落ちしている勝頼を元気づけようと考えた幸村が 薬の材料として採取してきた。 大坂牢人衆 大坂の陣に当たって、豊臣方について戦った牢人たちの総称。 諸大名は豊臣恩顧の者たちも含め、皆、徳川の威を恐れて 豊臣方に味方しようとはしなかったが、関ヶ原の戦い以降没落し、 牢人となった武将たちは身を立てる最後の機会と考えて 大坂に参じた(当然、単に報酬目当ての食い詰め者も多かった)。 中でも有名なのが真田幸村・後藤又兵衛・明石全登・ 長宗我部盛親・毛利勝永の五人で、大坂城五人衆と呼ばれる。 大友家 豊後(現在の大分県)を治める大名。 現当主は義統であるが、実権は父・宗麟(義鎮)が 握り続けており、二元政治状態となっている。 鎌倉時代から続く名門。 宗麟の代には立花道雪など有力な家臣にも恵まれ、大友家は 北九州に大きな版図を誇った。しかし、やがて宗麟は家中に 不和を招き、今山の戦いや耳川の戦いで龍造寺・島津に大敗。 急速に勢力を縮小させていく。豊臣秀吉を頼ることで滅亡は 免れたが、以後、九州の雄たる地位を取り戻すことはなかった。 お地蔵様 地蔵菩薩が親しみをもって呼ばれた名称。 地蔵菩薩はサンスクリット語でクシティ・ガルバ。 無限の慈悲を持ち、人々を苦悩から救うとされる。 特に子どもの守り神としての面が強い。 日本では同祖神と習合し、路傍の石像としてよく見られる。 真田本城のお地蔵様にお供えをすると、 霊験により別の何かに成り代わるという。 村松殿「あらあら。不思議なこともあるものですね」 織田家 尾張(現在の愛知県西部)を治める大名家。 現当主は織田信長である。 元は尾張守護代の家老職に過ぎなかったが、次第に頭角を現し、 信長の父・信秀の代に大きく勢力を伸ばした。 信秀の急死後、うつけと評判であった信長を不安視して 一時家中が乱れるが、信長はこれをまとめ上げ、 さらに尾張を統一。 今川義元を桶狭間で破り、天下へと大きく躍進していく。 御館の乱 天正六年(1578)、上杉謙信の後継を巡り、 謙信の二人の養子、上杉景勝と上杉景虎が激突した戦い。 同年三月に謙信が急死した際、後継者が明確に定められていなかっ たため、跡目争いが勃発した。最終的に景勝が勝利したが、 この内乱で上杉家はおおいに衰退し、景勝側に加担したことで 北条と手切れとなった武田家もさらに苦しい立場となった。 ちなみに御館とは関東管領・上杉憲政を謙信が迎えたときに用意 した居館。春日山城を景勝が押さえたため、景虎は御館に入った。 鍛冶屋 武器を購入・強化することができる施設。 町に一軒はある基本施設であり、 戦国の世においては欠かせない場所である。 腕のよい鍛冶職人がいることが、 町の価値向上につながるといっても過言ではない。 家督 その家の地位や財産、つまり家そのものを継ぐ権利のこと。 基本的に嫡子が継ぐことになっているが、 後継者が定まらぬまま、先代が死んでしまうなど きちんとした相続が行わわない場合、 家督相続争いが発生することが多い。 関白 天皇に代わって政治を行う役職。 実質的に公家の最高位に当たる。 天正十五年(1585)七月、羽柴秀吉は朝廷での 関白を巡る争いに介入し、強引に自ら関白に就任した。 丸薬 飲みやすいよう、練り合わせて球状にした薬剤。 「○○○丸」という名称が多い。 国衆 その国の有力名主。国人領主とも。 幕府や朝廷から任じられた領主とは異なる、在地の勢力。 鎌倉時代には支配勢力に反抗する「悪党」とも呼ばれた。 戦国時代に入り守護の弱体化が進むとさらに独立性を強化。 戦国大名の郎党となるものが多い一方で、 大名格にまで成り上がるものも現れた。 真田に限らず、長宗我部や毛利なども元は国衆である。 熊 城下町の外に時折現れる野生動物。 見た目は怖いが、実はおとなしい性格らしい。 どこかで出会う度に絆を深められる…かもしれない。 黒田家 筑前(現在の福岡県)を治める大名家。 現当主は黒田官兵衛である。 官兵衛は播磨(現在の兵庫県南西部)の豪族・小寺氏の家臣に 過ぎなかったが、羽柴秀吉に見出され、軍師として その天下取りにおおいに貢献した。 しかし、その働きに比べて領地は大きくはなかった。 一説には切れ者過ぎる官兵衛を 秀吉が警戒していたためだといわれる。 君側の奸 君主の側に侍り、 君主を意のままに操って悪事をなす奸臣のこと。 関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康の建前はあくまで 「君側の奸である石田三成を除き、豊臣家を守ること」であり、 だからこそ豊臣恩顧の諸大名も家康に従った。 無論、三成からすれば、五大老筆頭の地位にありながら 天下への野心を露わにする家康の方が君側の奸であった。 甲賀忍 甲賀流の忍者。 近江国(現在の滋賀県南部)を本拠地とした。 「惣」と呼ばれる自治組織を持ち、 合議制で郡の運営を定めていたという。 伊賀忍とは異なり忠義を重んじ、南近江を治める六角家に従って 織田信長とも戦った。結果、大きな痛手をこうむることとなる。 ちなみに甲賀は正しくは「こうか」と読む。 甲相駿同盟 武田家・今川家・北条家の間で結ばれた三国同盟。 甲は甲斐(現在の山梨県、武田の本拠地)、 相は相模(現在の神奈川県、北条の本拠地)、 駿は駿河(現在の静岡県、今川の本拠地)のこと。 同盟締結には今川義元の師・太原雪斎の功が大きかったとされる。 この同盟により武田は信濃攻略、北条は関東支配、 今川は東海への侵攻を後顧の愛いなく行えるようになった。 しかし、義元が桶狭間で敗死したことで同盟にも亀裂が入る。 子飼い 子供のときから引き取って養育すること。 または早くから教育や指導を行うこと。 豊臣秀吉にとっては、加藤清正や福島正則、石田三成らが 該当する。大谷吉継や藤堂高虎は言葉の厳密な意味では 子飼いとは言えない。 武田信玄に小姓時代から目をかけられ、 薫陶を受けた真田昌幸も信玄子飼いと言える。 雑賀衆 紀伊国(現在の和歌山県)北西部の地侍を中心とした傭兵集団。 多数の鉄砲で武装し、高い軍事力を誇った。 ほぼ一貫して織田信長の敵対勢力に与して立ち回り、 信長をさんざん苦しめた。 その結果、紀州征伐を招き、 仲間を多数殺された棟梁・雑賀孫市は復讐の鬼と化す。 なお、「雑賀孫市」は雑賀衆の棟梁が代々継承する名前である。 真田家 武田家に仕える、信濃の国衆の一族。 信玄が当主になってから武田家に仕え、 信玄の父・武田信虎に奪われた所領を回復した。 家紋の六文銭は、幸隆が身命を賭して武田家に仕えるという 覚悟を示すために使用したと考えられている。 六文銭は三途の川の渡し賃とされ、 戦場に死を覚悟して挑む真田の心意気がうかがえる。 真田屋敷 真田本城にある真田家の屋敷。 昌幸ら一族が居住する。 信之・幸村はともかく、娘の村松殿は立場上、 この屋敷からあまり出るものではないが、 気軽に城下に繰り出している。 村松殿「うふふ。だって屋敷に閉じこもっては気詰まりですもの」 山賊 盗賊の一種。野盗。山中に拠点を構え、旅人などを襲撃した。 自由な交通の妨げになるため、 大名や領主は取り締まりに腐心した。 落ちぶれた武士が山賊に身を落とすことも多く、 領主の統制の及ばない集落では非常な脅威となった。 賤ヶ岳七本槍 賤ヶ岳の戦いで活躍したとされる、羽柴秀吉配下の七人の武将。 加藤清正・福島正則・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・ 糟屋武則・片桐且元が該当する。 実際には石田三成や大谷吉継らも含めて、若手十四人の活躍が 記録されている。「七本槍」は語呂がよかったので使われた、 いわばキャッチコピー。譜代の家臣を持たない秀吉が配下の活躍を 強調するために作り出した虚名という面が強く、清正や正則は 七本槍というくくりで見られるのを嫌ったともいわれている。 ちなみに七本槍では平野長泰だけが大名になっていない。 忍び 忍者。大名や領主に仕え、 破壊活動や諜報活動、暗殺などを生業とした者たち。 伊賀、甲賀、風魔などが有名だが、こうしたプロ集団から 野盗と大差ない者まで、様々な忍びが暗躍した。 名称は地域によって、透破(すっぱ)、乱波(らっぱ)、 軒猿(のきざる)など多種多様。 女性の忍びは「くノ一」とも呼ばれる。 これは「女」という字を三文字に解体したもの。 島津家 薩摩・大隅(共に現在の鹿児島県)を治める大名。 現当主は義久である。 大友家同様、鎌倉時代から続く名門。 元々は日向(現在の宮崎県)も含めた三州の守護であったが、 大隅と日向はたびたび他家に奪われている。義久の代に 日向の伊東家を倒して三州統一を果たし、以後も耳川の戦いで 大友家の大軍を撃破、さらに沖田畷の戦いで龍造寺家をも破り、 九州最大の勢力となる。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け、 激しい抵抗を見せたものの降伏。薩摩・大隅の安堵に留まった。 銃眼扉 銃眼を設けた扉。 銃眼とは敵を射撃するために壁や砦などに空けた穴のこと。 元々は弓矢を構えるために使った。 狭間ともいう。 銃眼砦 銃眼を設けた砦。 銃眼とは敵を射撃するために壁や砦などに空けた穴のこと。 元々は弓矢を構えるために使った。 狭間ともいう。 上洛 京へ入ることを指す。 「洛」は中国の都である洛陽のこと。 平安京を洛陽になぞらえたことから来ている。 乱世にあっては、日本の都である京へ軍勢をもって入ることは、 すなわち天下取りを表した。 一方、都を制した政権がある場合は、 上洛はその政権への従属を示す行為となる。 豊臣政権下では北条は秀吉の上洛命令を拒み続け、反意を表した。 征夷大将軍 本来は文字どおり「夷(えびす)」を征伐する役割を負った職。 夷とは古代日本において、主に東国の朝廷にまつろわぬ者たち。 作戦行動中は天皇の代理人として全権を預かる身分であったため、 やがて武家の最高司令官たる権威を持つようになった。 この名目を最大限利用したのが源頼朝である。 頼朝は朝廷の臣であることを保ちつつ、武家の棟梁として 相対的に独立した政権を樹立した。以後、 征夷大将軍を長とする武家政権が七百年あまり続くことになる。 なお、征夷大将軍になれるのは源氏だけというのは俗説である。 関ヶ原の戦い 慶長五年(1600)九月十五日に美濃国(現在の岐阜県) 関ヶ原で行われた天下分け目の大戦。 徳川家康率いる東軍が、石田三成らを中心とする西軍を打ち破り、 徳川の天下を決定づけた。 後年、両軍の布陣を見たドイツ軍将校は西軍勝利と断じたという。 それだけ当初の戦況としては西軍有利であったわけだが、 小早川秀秋の裏切りに代表される西軍の不和 (あるいは家康の周到さ)が明暗を分けた。 太閤 関白を子供に譲った人のことをいう。 しかし、豊臣秀吉のイメージがあまりに強いため、 現在では太閤といえば秀吉を指す言葉とほぼ同義になっている。 大名 武家社会において、広域にわたる支配領域を持つ領主。 室町時代には、朝廷よりその国の軍事・行政を司るよう任命された 「守護」が領地の私物化を進め、「守護大名」となるものが 続々現れた。代表的なものが武田家や今川家、島津家などである。 戦国時代に入ると、下剋上の末、守護に成り代わり実力で大名に なる者たちが現れた。これが「戦国大名」である。 織田家や北条家などが該当する。 守護大名も多くは戦国大名化し、互いにしのぎを削った。 ちなみに江戸時代になると一万石以上を領する者を大名と呼ぶ。 武田家 甲斐(現在の山梨県)、信濃(現在の長野県)を治める大名家。 現当主は武田信玄である。 川中島において信濃を巡り上杉家と幾度も争っている。 関東を治める北条家、駿河(現在の静岡県の一部)を治める 今川家とは同盟関係にある。 伊達家 陸奥国南部(現在の宮城県)を中心とする一帯を治める大名家。 現当主は政宗である。 伊達家は鎌倉時代よりの名門で、一時は陸奥の覇権を握る勢いで あったが、政宗の祖父・晴宗と曾祖父・稙宗の間で起きた 天文の乱で勢力を衰退させていた。 政宗が十八歳で家督を継ぐと、積極的な対外政策に出る。 この動きは周囲の反発を買い、たびたび窮地に陥るが、ついには 奥州の覇者たる地位を築いた。しかしその活躍は豊臣秀吉の意向に 逆らうものであったため、新たな危機を招き入れることとなった。 反物 一反に仕上げてある織物。 大人の着物一着分を仕立てるのに必要十分な分量だとされる。 また、単に和服用織物の総称であることも。呉服。 弾薬 弾丸とそれを発射するための火薬の総称。 たまぐすり、とも呼ばれる。 現代では弾丸と火薬を一体化した実包が一般的だが、 鉄砲が使われ始めた頃は別々に用意され、 射撃時に二つを装填していた。 茶屋 休憩所の一種。路傍で休憩する人に茶を提供する。茶店とも。 縁台に赤い布をかけ、赤い野点傘を差すのが定番。 思いがけない出会いがあることも。 中国大返し 本能寺の変を知った羽柴秀吉が敢行した、歴史的な大行軍。 当時、秀吉は毛利討伐を命じられ、 備中(現在の岡山県西部)高松城の攻略に当たっていた。 本能寺の変の一日後、秀吉はその情報を得る。 一説には光秀から毛利へ差し向けられた密使を捕らえたともいう。 信長横死の報せに愕然としつつも、秀吉は直ちに毛利と和睦、 信長の敵討ちを掲げて約二百キロの距離を十日間で駆け戻った。 この迅速な動きは光秀の予想を超え、地盤固めも整わなかった 光秀は山崎の戦いで敗北。信長の仇討ちを成し遂げた秀吉は、 一気に織田家で最大の発言力を得ることとなる。 釣り場 川のほとりにある、そこそこ整備された魚を釣る場所。 釣りダンゴが常備されているが、 誰が補充しているのかわからない。 釣り場近くにいる釣り名人は、 必ず爆釣をすることができるという噂。 出丸 本城から張り出して築かれた曲輪。出曲輪。出城とも。 本城の弱点を補う目的で作られることが多い。 最も有名な例が、大坂冬の陣で真田幸村が作った真田丸である。 徳川家 三河(現在の愛知県東部)を治める大名家。 現当主は徳川家康である。 家康の父・広忠の代に内紛から弱体化、隣国の大大名・今川家の 傘下に入る。家康は今川の人質として幼少から苦労したが、 桶狭間の戦いで今川義元が討たれたのを機に独立。 以後、織田家の盟友として確固たる地位を築く。 かつて内紛があったとはいえ、基本的には忠義に篤い家臣が多い。 三河武士といえば、誰もが義理堅く勇猛な人物を想像するほど。 豊臣家 「豊臣」を姓とする大名家。 現当主は豊臣秀吉である。 豊臣姓は、天正十四年(1586)に羽柴秀吉が朝廷から賜った。 姓または姓氏とは家計を表す名称であり、古くから「源平藤橘」の 四姓が名族とされる。秀吉は元々「藤氏(藤原氏)」を名乗って いたが、秀吉は偉大な人物であるから、四姓に匹敵する新たな姓が 与えられるにふさわしい、と称して豊臣を創設した。 ちなみに姓と苗字は異なる。「羽柴」は苗字であり、 秀吉は羽柴秀吉から豊臣秀吉に改名したわけではない。 縄張り 城の設計を表す。 櫓や曲輪、門などをどこに配置するか、といったことを示す。 城を建てる上で最も重要になる要素。 上田城が堅城であったのは、 真田昌幸の縄張りが優れていたからである。 南蛮 戦国時代では、ポルトガルやスペインからもたらされた文物や 同国人を差す。 単に新規で珍しいものを指して使われる場合も。 ちなみに北欧系の人々は「紅毛」と呼ばれる。 荷駄 馬や人が運ぶ荷物のこと。 合戦の際に武器や食料、その他道具等々を運ぶ役割。 戦場でもよく見かけることになるが、荷駄隊を発見したら まずは近くに向かってみるとよいことがありそうだ。 中には金銀財宝を積んだ荷駄もいるかもしれない。 幕府 武家による政権のこと。 征夷大将軍を首長とするのが一般的。 元々は征討軍などの現地の陣営を指したもので、 鎌倉幕府以降も政府の居館を表す言葉だった。 観念的な組織として幕府という言葉を使うようになったのは 江戸時代中期以降とされる。 畑 そこそこ良い土の畑。 種を植えれば作物が育つ。 畑近くの畑名人は昼夜を問わず踊っており、 その踊りで豊作を呼んでいるとの噂。 兵糧 合戦時の軍団の食料のこと。日本では主に米。 従来は、出陣時に兵糧は自前で用意するのが兵の義務であったが、 戦国時代後期、兵農分離が進むにつれて平時からの備蓄や 組織的な徴集・輸送などが行われるようになった。 「腹が減っては戦はできぬ」というとおり、 こうした兵站作業は合戦を支える重要な役割であり、 石田三成などの官僚が当たった。 しかし地味な功績ゆえに前線で戦う武将たちの理解を得がたく、 両者の溝を生む要因ともなった。 笛 甲高い音が出る笛。人を呼ぶのに適している。 お役目に励もうとする幸村に対し、 姉の村松殿が危険な目に遭うようなことがあったら、 これを吹いて人に知らせるようにと渡した。 奉行 武家の職名。 政務を分担して受け持つ担当官。 豊臣政権下では石田三成らの五奉行が有名。 ただし、当時特に「五奉行」という名称があったわけではなく、 人数も五人と定まっていたわけではない。 北条家 相模(現在の神奈川県)を治める大名家。 現当主は北条氏康である。 上杉謙信の攻撃さえ退けた難攻不落の名城・小田原城を本拠地とし 武蔵(現在の東京都・埼玉県)、下総(現在の千葉県)、 上野(現在の群馬県)等、関東に広く勢力を伸ばす。 「関東の民を守る」ことを第一としており、天下への野心は薄いが その分、侵攻してくる外敵への敵愾心は強い。 また、一族間の繋がりが非常に厚いことでも知られる。 三方ヶ原の戦い 元亀三年(1573)、 武田信玄と徳川家康が三方ヶ原で激突した戦い。 三方ヶ原は遠江国敷知郡(現在の静岡県浜松市北区)の一地域。 上洛のため西上作戦を進めていた信玄は、家康の居城・浜松城を 無視して進もうとしたが、家康が家臣の反対を押し切って これに挑んだ。応戦した武田軍は徳川軍をさんざんに打ち破り、 家康は逃げ帰る途中でたいへんな粗相をした。 合戦の際、気候的には通常考えられないが、 雪が降っていたという。 三日天下 明智光秀は本能寺の変で織田信長を倒し、天下を取ったが、 中国大返しを敢行した羽柴秀吉に瞬く間に討ち取られた。 このことから、 非常に短い期間しか政権や権力を保持できないことをいう。 ちなみに「三日」とはごく短い期間を指す用語であり (例:三日坊主)、 実際に光秀が天下を取っていたのが三日間というわけではない。 本能寺の変から山崎の戦いまで十一日間である。 密偵 相手の内情を密かに探り調べること。 その実行者そのものを指す言葉でもある。スパイ。 戦国時代では主に忍者が請け負ったが、 寝返ったふりをして密偵を働く武将や 婚姻先の情報を実家にもたらす姫も多数存在した。 名代 ある人の代わりを務めること。 真田昌幸は武田勝頼の名代として、御館の乱に参加した。 もちろん幸村が茶々に対して 「真田昌幸の名代」と称したのは単なる自称であり そんな権限は与えられていない。 毛利家 中国地方ほぼ全域を治める大大名。 現当主は輝元である。 大江広元を祖とする名門だが、 戦国時代には安芸(現在の広島県)の国衆に過ぎなかった。 その勢力を飛躍的に拡大させたのが、輝元の祖父・元就である。 元就は尼子家・大内家という二大勢力の間で巧みに立ち回りつつ、 謀略を駆使してこれらを打倒、中国地方をほぼ制した。 元就の子・隆元は早世したため輝元が後を継ぎ、隆元の弟である吉 川元春と小早川隆景が輝元を支える「両川体制」が敷かれている。 矢沢家 信濃(現在の長野県)の地侍。 諏訪氏の流れを汲み、隣接する真田家とは敵対関係にあったが、 昌幸の叔父・頼綱が養子に入ることでこれを解消した。 以後は主に沼田を守り、北条の侵攻をたびたび撃退。 頼綱の子・頼幸は関ヶ原以後、信之に従い、 矢沢家は明治まで真田家の筆頭家老格として存続した。 山内家 土佐(現在の高知県)を治める大名家。 当主は山内一豊である。 一豊は織田家、そして豊臣家に仕えて身を立てたが、 関ヶ原の戦いにおいて真っ先に居城・掛川城を 徳川家康に差し出した功が認められ、 長宗我部家が改易になった後の土佐一国を与えられた。 山内家は長宗我部家旧臣を「郷士」として差別した。その軋轢は 幕末まで及び、郷士から坂本龍馬をはじめ多くの志士を生んだ。 与力 下級武士や大名が有力武将の組下につくこと。 真田昌幸と徳川家康の関係は「与力大名」と呼ばれるもので、 軍団活動時に昌幸は家康の指図を受ける立場となる。 豊臣家臣という意味ではあくまで同等であり、 真田が徳川の家来になったわけではない。 よろず屋 様々なものを商う店。 大坂のよろず屋には評判の看板娘がいる。 練兵 兵を訓練すること。 和議 戦を収め、和睦をするための協議。 対等の条件で結ばれるとは限らず、 実質的な降伏勧告であることも多い。
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概要 ノアルスの戦いとは、アルファ1737年4月に、ラ・ディアス帝国の南方侵攻からはじまった戦いである。 これが、後に続くラ・ディアス帝国の南伐に繋がる。 戦闘に至るまでの背景 物語におけるこの戦いと、史実におけるこの戦いは、開戦のきっかけに若干の差異が生じる。 物語では、ヴァン・フレイ国のルナティスが、世界の裏で蠢く存在がガルゾーマではないかと睨み、フェローラ国進軍の橋頭堡確保としてアリアス国へ攻め込む。これに呼応してガルゾーマは、同胞シャラダンにアディス国進軍を要請、ラ・ディアス帝国南部の魔族系諸国にも同様の要請を送ることで、「人間対魔物」の図式を作りあげ、互いの旗色を明確にしていき、ガルゾーマは彼らを用いた「チェス」を楽しんだ……となっている。 しかし、史実においてガルゾーマの要請は、信頼できる資料が発見できず、あくまでもラ・ディアス帝国の南方侵略によって起きた戦いだと思われる。 ガルゾーマとシャラダンが援軍として到着したのは、南方諸国の魔族系の国から援軍要請があったのは事実だが、そこに何の裏もなく、単に彼ら自身が、時に理由なく戦場を欲する性格だったからかもしれない。 両軍の戦力 攻撃側 守備側 ラ・ディアス帝国軍 軍勢 南方諸国連合軍 総兵力71000 兵力 総兵力53000(援軍含む) ロンディーナ 総指揮 スレイナ 軍師 主要参戦者 ou.PNGロンディーナ スレイナ クリスアーノ ボーン ホルス ストライア 援軍 軍勢 フェローラ国軍 総指揮 ガルゾーマ 軍師 主要参戦者 ガルゾーマ ガミラン ヴィル マルン エミリィ 援軍 軍勢 リヴォル帝国軍 総指揮 アスタル 軍師 イズ 主要参戦者 アスタル ボルド イズ ラスコップ 戦闘経緯 南方へ次々と進軍するラ・ディアス帝国軍は、まさに負け知らずであった。 しかし、彼らはフェローラ、リヴォル連合軍が用意した死地へと誘い込まれていた。 勝利に驕り、前線部隊は必要以上に敵地に切り込み、本隊との距離を作ってしまう。 そこに突如として姿をあらわすフェローラ、リヴォル連合軍。 逃亡する敵軍を追いかけている筈が、脱出口のない山地に誘い出されたことに気付くが時既に遅く、そこに命令を受けたラスコップが火攻めを決行。この火攻めによりホルスは全身に火を受け、以後人格まで崩壊するほどの傷を負う。 更にラ・ディアス帝国軍の本陣にフェローラ国軍が奇襲を仕掛ける。 ここまで用意周到な敵軍の動きから、本陣に救援に向かえば更なる罠があると察したスレイナ、ストライア、クリスアーノは、ただちに撤退を決意した。 スレイナは、この時点で後に起こす政変を既に考えいた為、ここで皇帝ロンディーナが戦死しても構わないと考えていた節がある。 兵法を熟知していた筈の彼らが不用意に本隊との距離をあけたのも、意図的だったのでは?という説がある。 戦いの結末 南方侵攻の出鼻をくじかれ、命からがら帰国したロンディーナだが、彼は侵略を諦めるどころか、復讐心を駆り立て、これより先、長き侵略戦争をはじめることとなる。 だが、ロンディーナを守っていた帝国の主だった譜代の将軍は、二人の魔王によって多くが討ち取られほぼ全滅する。 スレイナ達先行部隊は、距離があった為幸運にも損害を軽微なもので済ますことができ、これが以後彼らの発言力を強めることとなり、皮肉にもスレイナの政変への布石となる。
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采配のゆくえ 機種:NDS 作曲者:中村新一郎、吉松洋二郎 発売元:コーエー 発売年:2008年 概要 天下分け目の合戦・関ヶ原の戦いを西軍側の視点で描いたアドベンチャーゲーム。 音楽は後に『ポケモン+ノブナガの野望』を手掛ける中村新一郎氏と当時新人だった吉松洋二郎氏が担当。 次々と情勢が変化する戦場に合わせた熱いBGMの評価は高い。 サントラは公式設定集に付属していたが、後にiTunesでも配信された。 収録曲 曲名 作・編曲者 補足 順位 采配のゆくえ 中村新一郎 タイトル曲 マイナーゲーム127位NDS188位 みなさき方のお心のままにて… 語り 幕は切って落とされた 吉松洋二郎 勇壮 いざ戦へ! 合戦開始ジングル 天下分け目の戦い —関が原— 中村新一郎 合戦 合戦 優勢転換 合戦 緊迫 吉松洋二郎 合戦 劣勢 説得は鍵 中村新一郎 この言ノ葉のゆくえ 説得 劣勢 この言ノ葉にかける! 説得 優勢 合戦 優勢 大一大万大吉の旗のもと 合戦勝利 合戦勝利ジングル 敗北 合戦敗北ジングル つかの間の安息 吉松洋二郎 勝利 断たれた絆 ゲームオーバー 幕間 中村新一郎 セ—ブ 静かな城下町 平穏 悲しみの采配 悲壮 夜半の襲撃 陰謀 待つか攻めるか… 葛藤 奇襲 緊迫 宰相殿の空弁当 楽観 一蓮托生 —みんなの誓い— 吉松洋二郎 誓い そばにいる者 祈り みなは一人のため 一人はみなのため —石田三成— 石田三成のテ—マ 梅だいふくと相棒 —たまき— たまきのテーマ 過ぎたる名軍師 —島左近— 中村新一郎 島左近のテ—マ 病身の天才 —大谷吉継— 吉松洋二郎 大谷吉継のテ—マ 鬼の咆哮 —島津家— 島津家のテ—マ 笑顔の裏側 —小早川秀秋— 小早川秀秋のテ—マ 天下を狙うタヌキ —徳川家康— 中村新一郎 徳川家康のテ—マ 亡き天下人の影 —淀殿— 淀殿のテ—マ 最後の采配 最後合戦 最後の言ノ葉 最後説得 戦国の世明け 吉松洋二郎 最後勝利 そして歴史は… 中村新一郎 スタッフロ—ル サウンドトラック 采配のゆくえ オリジナルサウンドトラック 公式設定集に付属。 ω-Force 20th Anniversary Complete CD-BOX Disc52に収録。
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武将名 すずききんべえ C鈴木金兵衛 鈴木重秀の子で、重朝の弟といわれている。小牧・長久手の戦いに秀吉側として参戦。本願寺分裂の際には教如を支持した。関ヶ原の戦いでは兄・重朝とは反対に、東軍に味方したといわれている。「アニキが正しいか、オレが正しいか……        決着をつけようぜ!」 出身地 紀伊国 コスト 2.0 兵種 鉄砲隊 能力 武力8 統率2 特技 狙撃 猛襲 計略 恍惚乱弾? 武力と弾数の回復速度が上がり、射撃時の攻撃回数が増える。さらに特技「車撃」効果を持つようになる。ただし射線が固定される。 必要士気4 Illustration 三村勇貴? 計略の恍惚乱弾は「トリガーハッピー」と読む。 武力+2で弾数回復速度と攻撃回数の増加、更に車撃が可能となる。効果時間は約8c 士気4で武力+2は少々物足りないが、特技『車撃』同様、移動しながらの射撃ができるようになり、 また弾数の回復速度と射撃回数が上昇(合計8発)と、破格の計略内容となっている。 テキストにある『射線が固定される』というのは、 部隊が発射後に移動すると、射線も直線状態を維持したままになる、というもの。 車撃とは少々勝手が違うために、そちらを使っていたプレイヤーは混乱するかもしれないが、 純粋に『逃げる敵部隊を追撃する』という意図で使用する場合、十分な威力を発揮する。 局地戦で荒らしたり、兵力ミリ残りで逃げる敵部隊を確実に落として足並みを乱すような使い方が望ましい。
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概要 ドルリア砦の戦いとは、アルファ684年、バルディゴス討伐連合軍とルディック帝国軍の間に起きた戦いである。 ここでは、前哨戦となった戦いも併せて表記する。 戦闘に至るまでの背景 ▲684年6月における勢力図 バルディゴス討伐連合軍の侵攻をしったバルディゴスは、ルディック帝国の兵力を総動員して迎撃の態勢をとった。ルディック城への道は天然の山地に阻まれ、数少ない街道にはドルリア砦、レッド・ロウ砦という拠点がその道を塞いでいた。 バルディゴスは、ドルリア砦にガリィ、ゾニバリーという歴戦の将を派遣、これに対して連合軍は、ドルリア砦方面にゴルを総大将にライグ、キャルス、サリーア、メスロー、ディアルを派遣した。 両軍の戦力 攻撃側 守備側 バルディゴス討伐連合軍 軍勢 ルディック帝国軍 総兵力59000 兵力 総兵力32000 ゴル 総指揮 ガリィ ライグ 軍師 バロム 主要参戦者 アゾル国 ゴル ラディア リヴァ ガリィ ゾニバリー バロム ★ゴルディア ★ゴズ リューグ国 ライグ ★ゼノス シャリアル国 メスロー ケリス ドラグゥーン ギディス イージル国 キャルス レニース ギラス ゾリメック国 サリーア グルディア ★シーザルス国 ★ディアル ★ルーディア ★ヴィルガス ★オルリア ★は前哨戦となるガズス砦、ジース砦の戦いにのみ参戦した将。ゴルディア、ゴズは前哨戦で戦死、ゼノスはドルリア砦ではなく、本国に後退(これはカルディスの命令による)。シーザルス国軍は、ジース砦の戦い終了と同時に、ドルリア方面から、レッド・ロウ砦方面に移動している為、ドルリア砦の戦いそのものには参戦していない。 戦闘経緯 ドルリア砦に到着するまでに二つの砦が存在していたが、この二つの砦の戦いも全て含めて「ドルリア砦の戦い」と呼ばれている為、ここでは併せて表記する。 。 6月18日前哨戦としてはじまった第一の砦ガズス砦の戦い、攻め手はシャリアル国の猛将ギディス、守るはルディック国のゴルディアであった。武勇に自信を持つゴルディアは砦から打って出る。これを待ち構えたギディスは、まずゴルディアの副将ゴズを討ち取るとゴルディアを挑発、彼を誘い出して退路を断ち矢の雨を食らわせて討ち取った。 砦に撤退したルディック軍に対して、ギディスはわざと退路を残して包囲、彼等の撤退を黙認するという一面も見せた。 続いて6月23日、ジース砦はリューグ国軍、イージル国軍が包囲していたが、ジース砦には後に蜉蝣時代最強の男とも呼ばれることになるゼノスが立て篭もり、寡兵ながら彼の鬼神の如き突撃を仕掛け、二国の軍勢は被害を受けて後退。ガズス砦を攻略した連合軍の他部隊に援軍を頼み込んだ。これに応じたのがシーザルス国であり、国主ディアル、軍師ルーディア、猛将ヴィルガスを含めた精鋭部隊がジース砦へと向かう。 猛将ヴィルガスとゼノスが壮絶な一騎打ちを始めるが、それこそがディアルの策であった。偶発的に見せたこの一騎打ちでゼノスを指揮官から一介の猛将へと引きずり出し、指揮官不在の砦を難なく攻め落とす。 ゼノスは囲みを突破して後退し、こうしてドルリア砦攻略戦への道は開けた。 その直後、ジース砦で戦っていた筈のシーザルス国軍が、今度は一転してレッド・ロウ砦の戦いに現れることとなる。 これは、総指揮官であるボルゾックが、いざ戦いが近づくと、自分の指揮に不安を覚え始め、少しでも兵力を増強したいと考え出し、突然発生した命令である。ドルリア方面軍は、自分達の戦いが目前に迫っている為、この突然の命令を拒否したが、ディアルは一夜にして合流を果たし、レイディックはその進軍速度に感心した。 シーザルス国軍を移動させたとはいえ、兵力で勝っていた連合軍は、そのままドルリア砦への攻撃を開始した。 イージル国主キャルスが先陣を申し出るが、先の前哨戦での戦いから既に彼の将としての力量に不安を持った諸将は、彼を補佐する形で密かに布陣する。仁君で知られるゴルやサリーアが戦いが始まる前から真剣にキャルス救出の策を立てている姿を、この時点ですでに乱世の到来を予期していたメスローは冷笑を浮かべて見守っていた。 7月2日早朝、日の昇りと同時に始まったドルリア攻略戦、イージル国軍はレニース、ギラスという二人の武将が突撃を敢行するが、砦を落とせずに戦いは昼を迎える。攻め疲れたイージル国軍の一瞬の隙をついてドルリア砦からゾニバリーの軍勢が出陣、この攻撃にひるんだイージル国軍は四散、ギラスはゾニバリーに挑むものの討ち取られれ戦死。 この報告を聞いたイージル国軍本陣は撤退が献策されるが、他の国主への体面を考えたキャルスは全軍の再編成と突撃を決定。しかしその瞬間にアゾル国軍がゾニバリー軍を側面から遮断、そのままドルリア砦へと向かう、更にシャリアル国軍も加わりゾニバリーの軍勢は分断されて各個撃破される。急いで砦に戻ろうとするゾニバリーだが、待ち構えたのは後に「風の舞姫」と呼ばれることとなるラディア。彼女の剣技によってゾニバリーは討ち取られ、ガリィ、バロムは急ぎ撤退していく。 戦後の宴、姫の様な衣装を纏ったラディアを各国の将軍が持て囃すが、シャリアル国主メスローと軍師ケリスだけは、ラディアを後の障壁になると認知していた。 戦いの結末 ドルリア方面軍は、そのまま進軍、レッド・ロウ砦の戦いで友軍が勝利するとの報告を受けると、決戦の地となるルーズの戦いへと赴いた。