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一覧表浅井家 朝倉家 伊賀忍 今川家 上杉家 上田合戦 オウギ 大坂牢人衆 大友家 お地蔵様 織田家 御館の乱 鍛冶屋 家督 関白 丸薬 国衆 熊 黒田家 君側の奸 甲賀忍 甲相駿同盟 子飼い 雑賀衆 真田家 真田屋敷 山賊 賤ヶ岳七本槍 忍び 島津家 銃眼扉 銃眼砦 上洛 征夷大将軍 関ヶ原の戦い 太閤 大名 武田家 伊達家 反物 弾薬 茶屋 中国大返し 釣り場 出丸 徳川家 豊臣家 縄張り 南蛮 荷駄 幕府 畑 兵糧 笛 奉行 北条家 三方ヶ原の戦い 三日天下 密偵 名代 毛利家 矢沢家 山内家 与力 よろず屋 練兵 和議 一覧表 浅井家 北近江(現在の滋賀県北部)を治める大名家。 元当主は浅井長政である。 元は近江守護である京極家の家臣であったが、 長政の祖父・亮政の代に勢力を伸ばした。 この頃、南近江の六角家との争いで苦境に立たされた際、 同盟した越前(現在の福井県)の朝倉家に おおいに助けられている。 この朝倉との深い縁が、浅井の前途を暗いものとした。 朝倉家 越前(現在の福井県)を治める大名家。 元当主は朝倉義景である。 朝倉家は本来、但馬(現在の兵庫県北部)を本拠としており、 越前朝倉家はそこから分かれた系統である。 七代孝景の代に応仁の乱で活躍、勢力を伸ばした。 十一代義景の代に足利義昭に頼られ、 上洛を要請されるがこれに応えず。失望した義昭は 織田信長を頼り、信長に大義名分を与えることとなった。 伊賀忍 伊賀流の忍者。 伊賀(現在の三重県西部)を本拠地とした。 甲賀忍が主君への忠節を重んじるのに対し、伊賀忍は金銭の 契約以上のことは求めないとされる。また、要請があれば 雇い主が敵同士でも双方に忍者を派遣したという。 本能寺の変の際、堺から脱出する徳川家康を助け (神君伊賀越え)、この功から徳川に重用された。 最も有名なのは服部半蔵だが、史実では半蔵は忍者ではない。 今川家 駿河・遠江(ともに現在の静岡県の一部)を治める大名家。 現当主は今川氏真である。 足利将軍家の親族であり、宗家の相続権を持つ名門。 武田家・北条家と三国同盟を結び、氏真の父・義元の時代には 最盛期を誇ったが、義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると たちまち凋落。従属していた徳川家康に離反され、 三河(現在の愛知県東部)の支配権も失った。 このことから武田との関係も微妙となるが、 北条とは固い繋がりを保持している。 上杉家 越後(現在の新潟県)を治める大名家。 現当主は上杉謙信である。義を重んじる家風。 長きに渡る川中島の戦いも信玄に信濃(現在の長野県)を 追われた豪族に助けを求められた謙信が これに応えたことで幕を開けた。 実は越後は内乱が多く、家臣の謀反が相次ぐ地域であったが、 謙信の神がかった強さとカリスマ性でまとめ上げられていた。 上田合戦 真田昌幸が居城・上田城周辺で徳川の大軍を撃退した二度の戦い。 ◆第一次上田合戦 天正十三年(1585)、徳川から離反して上杉についた真田を 討伐するため、徳川軍が攻め寄せた。昌幸は地の利を生かした 戦術で数倍の敵を撃退。真田の名を天下にとどろかせた。 ◆第二次上田合戦 慶長五年(1600)、関ヶ原へ向かう徳川秀忠率いる別働隊を 足止め、ついに本戦に間に合わせなかった。 オウギ 生薬の一種。漢字で書くと「黄耆」。 強壮薬として効果がある。 信玄の死に気落ちしている勝頼を元気づけようと考えた幸村が 薬の材料として採取してきた。 大坂牢人衆 大坂の陣に当たって、豊臣方について戦った牢人たちの総称。 諸大名は豊臣恩顧の者たちも含め、皆、徳川の威を恐れて 豊臣方に味方しようとはしなかったが、関ヶ原の戦い以降没落し、 牢人となった武将たちは身を立てる最後の機会と考えて 大坂に参じた(当然、単に報酬目当ての食い詰め者も多かった)。 中でも有名なのが真田幸村・後藤又兵衛・明石全登・ 長宗我部盛親・毛利勝永の五人で、大坂城五人衆と呼ばれる。 大友家 豊後(現在の大分県)を治める大名。 現当主は義統であるが、実権は父・宗麟(義鎮)が 握り続けており、二元政治状態となっている。 鎌倉時代から続く名門。 宗麟の代には立花道雪など有力な家臣にも恵まれ、大友家は 北九州に大きな版図を誇った。しかし、やがて宗麟は家中に 不和を招き、今山の戦いや耳川の戦いで龍造寺・島津に大敗。 急速に勢力を縮小させていく。豊臣秀吉を頼ることで滅亡は 免れたが、以後、九州の雄たる地位を取り戻すことはなかった。 お地蔵様 地蔵菩薩が親しみをもって呼ばれた名称。 地蔵菩薩はサンスクリット語でクシティ・ガルバ。 無限の慈悲を持ち、人々を苦悩から救うとされる。 特に子どもの守り神としての面が強い。 日本では同祖神と習合し、路傍の石像としてよく見られる。 真田本城のお地蔵様にお供えをすると、 霊験により別の何かに成り代わるという。 村松殿「あらあら。不思議なこともあるものですね」 織田家 尾張(現在の愛知県西部)を治める大名家。 現当主は織田信長である。 元は尾張守護代の家老職に過ぎなかったが、次第に頭角を現し、 信長の父・信秀の代に大きく勢力を伸ばした。 信秀の急死後、うつけと評判であった信長を不安視して 一時家中が乱れるが、信長はこれをまとめ上げ、 さらに尾張を統一。 今川義元を桶狭間で破り、天下へと大きく躍進していく。 御館の乱 天正六年(1578)、上杉謙信の後継を巡り、 謙信の二人の養子、上杉景勝と上杉景虎が激突した戦い。 同年三月に謙信が急死した際、後継者が明確に定められていなかっ たため、跡目争いが勃発した。最終的に景勝が勝利したが、 この内乱で上杉家はおおいに衰退し、景勝側に加担したことで 北条と手切れとなった武田家もさらに苦しい立場となった。 ちなみに御館とは関東管領・上杉憲政を謙信が迎えたときに用意 した居館。春日山城を景勝が押さえたため、景虎は御館に入った。 鍛冶屋 武器を購入・強化することができる施設。 町に一軒はある基本施設であり、 戦国の世においては欠かせない場所である。 腕のよい鍛冶職人がいることが、 町の価値向上につながるといっても過言ではない。 家督 その家の地位や財産、つまり家そのものを継ぐ権利のこと。 基本的に嫡子が継ぐことになっているが、 後継者が定まらぬまま、先代が死んでしまうなど きちんとした相続が行わわない場合、 家督相続争いが発生することが多い。 関白 天皇に代わって政治を行う役職。 実質的に公家の最高位に当たる。 天正十五年(1585)七月、羽柴秀吉は朝廷での 関白を巡る争いに介入し、強引に自ら関白に就任した。 丸薬 飲みやすいよう、練り合わせて球状にした薬剤。 「○○○丸」という名称が多い。 国衆 その国の有力名主。国人領主とも。 幕府や朝廷から任じられた領主とは異なる、在地の勢力。 鎌倉時代には支配勢力に反抗する「悪党」とも呼ばれた。 戦国時代に入り守護の弱体化が進むとさらに独立性を強化。 戦国大名の郎党となるものが多い一方で、 大名格にまで成り上がるものも現れた。 真田に限らず、長宗我部や毛利なども元は国衆である。 熊 城下町の外に時折現れる野生動物。 見た目は怖いが、実はおとなしい性格らしい。 どこかで出会う度に絆を深められる…かもしれない。 黒田家 筑前(現在の福岡県)を治める大名家。 現当主は黒田官兵衛である。 官兵衛は播磨(現在の兵庫県南西部)の豪族・小寺氏の家臣に 過ぎなかったが、羽柴秀吉に見出され、軍師として その天下取りにおおいに貢献した。 しかし、その働きに比べて領地は大きくはなかった。 一説には切れ者過ぎる官兵衛を 秀吉が警戒していたためだといわれる。 君側の奸 君主の側に侍り、 君主を意のままに操って悪事をなす奸臣のこと。 関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康の建前はあくまで 「君側の奸である石田三成を除き、豊臣家を守ること」であり、 だからこそ豊臣恩顧の諸大名も家康に従った。 無論、三成からすれば、五大老筆頭の地位にありながら 天下への野心を露わにする家康の方が君側の奸であった。 甲賀忍 甲賀流の忍者。 近江国(現在の滋賀県南部)を本拠地とした。 「惣」と呼ばれる自治組織を持ち、 合議制で郡の運営を定めていたという。 伊賀忍とは異なり忠義を重んじ、南近江を治める六角家に従って 織田信長とも戦った。結果、大きな痛手をこうむることとなる。 ちなみに甲賀は正しくは「こうか」と読む。 甲相駿同盟 武田家・今川家・北条家の間で結ばれた三国同盟。 甲は甲斐(現在の山梨県、武田の本拠地)、 相は相模(現在の神奈川県、北条の本拠地)、 駿は駿河(現在の静岡県、今川の本拠地)のこと。 同盟締結には今川義元の師・太原雪斎の功が大きかったとされる。 この同盟により武田は信濃攻略、北条は関東支配、 今川は東海への侵攻を後顧の愛いなく行えるようになった。 しかし、義元が桶狭間で敗死したことで同盟にも亀裂が入る。 子飼い 子供のときから引き取って養育すること。 または早くから教育や指導を行うこと。 豊臣秀吉にとっては、加藤清正や福島正則、石田三成らが 該当する。大谷吉継や藤堂高虎は言葉の厳密な意味では 子飼いとは言えない。 武田信玄に小姓時代から目をかけられ、 薫陶を受けた真田昌幸も信玄子飼いと言える。 雑賀衆 紀伊国(現在の和歌山県)北西部の地侍を中心とした傭兵集団。 多数の鉄砲で武装し、高い軍事力を誇った。 ほぼ一貫して織田信長の敵対勢力に与して立ち回り、 信長をさんざん苦しめた。 その結果、紀州征伐を招き、 仲間を多数殺された棟梁・雑賀孫市は復讐の鬼と化す。 なお、「雑賀孫市」は雑賀衆の棟梁が代々継承する名前である。 真田家 武田家に仕える、信濃の国衆の一族。 信玄が当主になってから武田家に仕え、 信玄の父・武田信虎に奪われた所領を回復した。 家紋の六文銭は、幸隆が身命を賭して武田家に仕えるという 覚悟を示すために使用したと考えられている。 六文銭は三途の川の渡し賃とされ、 戦場に死を覚悟して挑む真田の心意気がうかがえる。 真田屋敷 真田本城にある真田家の屋敷。 昌幸ら一族が居住する。 信之・幸村はともかく、娘の村松殿は立場上、 この屋敷からあまり出るものではないが、 気軽に城下に繰り出している。 村松殿「うふふ。だって屋敷に閉じこもっては気詰まりですもの」 山賊 盗賊の一種。野盗。山中に拠点を構え、旅人などを襲撃した。 自由な交通の妨げになるため、 大名や領主は取り締まりに腐心した。 落ちぶれた武士が山賊に身を落とすことも多く、 領主の統制の及ばない集落では非常な脅威となった。 賤ヶ岳七本槍 賤ヶ岳の戦いで活躍したとされる、羽柴秀吉配下の七人の武将。 加藤清正・福島正則・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・ 糟屋武則・片桐且元が該当する。 実際には石田三成や大谷吉継らも含めて、若手十四人の活躍が 記録されている。「七本槍」は語呂がよかったので使われた、 いわばキャッチコピー。譜代の家臣を持たない秀吉が配下の活躍を 強調するために作り出した虚名という面が強く、清正や正則は 七本槍というくくりで見られるのを嫌ったともいわれている。 ちなみに七本槍では平野長泰だけが大名になっていない。 忍び 忍者。大名や領主に仕え、 破壊活動や諜報活動、暗殺などを生業とした者たち。 伊賀、甲賀、風魔などが有名だが、こうしたプロ集団から 野盗と大差ない者まで、様々な忍びが暗躍した。 名称は地域によって、透破(すっぱ)、乱波(らっぱ)、 軒猿(のきざる)など多種多様。 女性の忍びは「くノ一」とも呼ばれる。 これは「女」という字を三文字に解体したもの。 島津家 薩摩・大隅(共に現在の鹿児島県)を治める大名。 現当主は義久である。 大友家同様、鎌倉時代から続く名門。 元々は日向(現在の宮崎県)も含めた三州の守護であったが、 大隅と日向はたびたび他家に奪われている。義久の代に 日向の伊東家を倒して三州統一を果たし、以後も耳川の戦いで 大友家の大軍を撃破、さらに沖田畷の戦いで龍造寺家をも破り、 九州最大の勢力となる。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け、 激しい抵抗を見せたものの降伏。薩摩・大隅の安堵に留まった。 銃眼扉 銃眼を設けた扉。 銃眼とは敵を射撃するために壁や砦などに空けた穴のこと。 元々は弓矢を構えるために使った。 狭間ともいう。 銃眼砦 銃眼を設けた砦。 銃眼とは敵を射撃するために壁や砦などに空けた穴のこと。 元々は弓矢を構えるために使った。 狭間ともいう。 上洛 京へ入ることを指す。 「洛」は中国の都である洛陽のこと。 平安京を洛陽になぞらえたことから来ている。 乱世にあっては、日本の都である京へ軍勢をもって入ることは、 すなわち天下取りを表した。 一方、都を制した政権がある場合は、 上洛はその政権への従属を示す行為となる。 豊臣政権下では北条は秀吉の上洛命令を拒み続け、反意を表した。 征夷大将軍 本来は文字どおり「夷(えびす)」を征伐する役割を負った職。 夷とは古代日本において、主に東国の朝廷にまつろわぬ者たち。 作戦行動中は天皇の代理人として全権を預かる身分であったため、 やがて武家の最高司令官たる権威を持つようになった。 この名目を最大限利用したのが源頼朝である。 頼朝は朝廷の臣であることを保ちつつ、武家の棟梁として 相対的に独立した政権を樹立した。以後、 征夷大将軍を長とする武家政権が七百年あまり続くことになる。 なお、征夷大将軍になれるのは源氏だけというのは俗説である。 関ヶ原の戦い 慶長五年(1600)九月十五日に美濃国(現在の岐阜県) 関ヶ原で行われた天下分け目の大戦。 徳川家康率いる東軍が、石田三成らを中心とする西軍を打ち破り、 徳川の天下を決定づけた。 後年、両軍の布陣を見たドイツ軍将校は西軍勝利と断じたという。 それだけ当初の戦況としては西軍有利であったわけだが、 小早川秀秋の裏切りに代表される西軍の不和 (あるいは家康の周到さ)が明暗を分けた。 太閤 関白を子供に譲った人のことをいう。 しかし、豊臣秀吉のイメージがあまりに強いため、 現在では太閤といえば秀吉を指す言葉とほぼ同義になっている。 大名 武家社会において、広域にわたる支配領域を持つ領主。 室町時代には、朝廷よりその国の軍事・行政を司るよう任命された 「守護」が領地の私物化を進め、「守護大名」となるものが 続々現れた。代表的なものが武田家や今川家、島津家などである。 戦国時代に入ると、下剋上の末、守護に成り代わり実力で大名に なる者たちが現れた。これが「戦国大名」である。 織田家や北条家などが該当する。 守護大名も多くは戦国大名化し、互いにしのぎを削った。 ちなみに江戸時代になると一万石以上を領する者を大名と呼ぶ。 武田家 甲斐(現在の山梨県)、信濃(現在の長野県)を治める大名家。 現当主は武田信玄である。 川中島において信濃を巡り上杉家と幾度も争っている。 関東を治める北条家、駿河(現在の静岡県の一部)を治める 今川家とは同盟関係にある。 伊達家 陸奥国南部(現在の宮城県)を中心とする一帯を治める大名家。 現当主は政宗である。 伊達家は鎌倉時代よりの名門で、一時は陸奥の覇権を握る勢いで あったが、政宗の祖父・晴宗と曾祖父・稙宗の間で起きた 天文の乱で勢力を衰退させていた。 政宗が十八歳で家督を継ぐと、積極的な対外政策に出る。 この動きは周囲の反発を買い、たびたび窮地に陥るが、ついには 奥州の覇者たる地位を築いた。しかしその活躍は豊臣秀吉の意向に 逆らうものであったため、新たな危機を招き入れることとなった。 反物 一反に仕上げてある織物。 大人の着物一着分を仕立てるのに必要十分な分量だとされる。 また、単に和服用織物の総称であることも。呉服。 弾薬 弾丸とそれを発射するための火薬の総称。 たまぐすり、とも呼ばれる。 現代では弾丸と火薬を一体化した実包が一般的だが、 鉄砲が使われ始めた頃は別々に用意され、 射撃時に二つを装填していた。 茶屋 休憩所の一種。路傍で休憩する人に茶を提供する。茶店とも。 縁台に赤い布をかけ、赤い野点傘を差すのが定番。 思いがけない出会いがあることも。 中国大返し 本能寺の変を知った羽柴秀吉が敢行した、歴史的な大行軍。 当時、秀吉は毛利討伐を命じられ、 備中(現在の岡山県西部)高松城の攻略に当たっていた。 本能寺の変の一日後、秀吉はその情報を得る。 一説には光秀から毛利へ差し向けられた密使を捕らえたともいう。 信長横死の報せに愕然としつつも、秀吉は直ちに毛利と和睦、 信長の敵討ちを掲げて約二百キロの距離を十日間で駆け戻った。 この迅速な動きは光秀の予想を超え、地盤固めも整わなかった 光秀は山崎の戦いで敗北。信長の仇討ちを成し遂げた秀吉は、 一気に織田家で最大の発言力を得ることとなる。 釣り場 川のほとりにある、そこそこ整備された魚を釣る場所。 釣りダンゴが常備されているが、 誰が補充しているのかわからない。 釣り場近くにいる釣り名人は、 必ず爆釣をすることができるという噂。 出丸 本城から張り出して築かれた曲輪。出曲輪。出城とも。 本城の弱点を補う目的で作られることが多い。 最も有名な例が、大坂冬の陣で真田幸村が作った真田丸である。 徳川家 三河(現在の愛知県東部)を治める大名家。 現当主は徳川家康である。 家康の父・広忠の代に内紛から弱体化、隣国の大大名・今川家の 傘下に入る。家康は今川の人質として幼少から苦労したが、 桶狭間の戦いで今川義元が討たれたのを機に独立。 以後、織田家の盟友として確固たる地位を築く。 かつて内紛があったとはいえ、基本的には忠義に篤い家臣が多い。 三河武士といえば、誰もが義理堅く勇猛な人物を想像するほど。 豊臣家 「豊臣」を姓とする大名家。 現当主は豊臣秀吉である。 豊臣姓は、天正十四年(1586)に羽柴秀吉が朝廷から賜った。 姓または姓氏とは家計を表す名称であり、古くから「源平藤橘」の 四姓が名族とされる。秀吉は元々「藤氏(藤原氏)」を名乗って いたが、秀吉は偉大な人物であるから、四姓に匹敵する新たな姓が 与えられるにふさわしい、と称して豊臣を創設した。 ちなみに姓と苗字は異なる。「羽柴」は苗字であり、 秀吉は羽柴秀吉から豊臣秀吉に改名したわけではない。 縄張り 城の設計を表す。 櫓や曲輪、門などをどこに配置するか、といったことを示す。 城を建てる上で最も重要になる要素。 上田城が堅城であったのは、 真田昌幸の縄張りが優れていたからである。 南蛮 戦国時代では、ポルトガルやスペインからもたらされた文物や 同国人を差す。 単に新規で珍しいものを指して使われる場合も。 ちなみに北欧系の人々は「紅毛」と呼ばれる。 荷駄 馬や人が運ぶ荷物のこと。 合戦の際に武器や食料、その他道具等々を運ぶ役割。 戦場でもよく見かけることになるが、荷駄隊を発見したら まずは近くに向かってみるとよいことがありそうだ。 中には金銀財宝を積んだ荷駄もいるかもしれない。 幕府 武家による政権のこと。 征夷大将軍を首長とするのが一般的。 元々は征討軍などの現地の陣営を指したもので、 鎌倉幕府以降も政府の居館を表す言葉だった。 観念的な組織として幕府という言葉を使うようになったのは 江戸時代中期以降とされる。 畑 そこそこ良い土の畑。 種を植えれば作物が育つ。 畑近くの畑名人は昼夜を問わず踊っており、 その踊りで豊作を呼んでいるとの噂。 兵糧 合戦時の軍団の食料のこと。日本では主に米。 従来は、出陣時に兵糧は自前で用意するのが兵の義務であったが、 戦国時代後期、兵農分離が進むにつれて平時からの備蓄や 組織的な徴集・輸送などが行われるようになった。 「腹が減っては戦はできぬ」というとおり、 こうした兵站作業は合戦を支える重要な役割であり、 石田三成などの官僚が当たった。 しかし地味な功績ゆえに前線で戦う武将たちの理解を得がたく、 両者の溝を生む要因ともなった。 笛 甲高い音が出る笛。人を呼ぶのに適している。 お役目に励もうとする幸村に対し、 姉の村松殿が危険な目に遭うようなことがあったら、 これを吹いて人に知らせるようにと渡した。 奉行 武家の職名。 政務を分担して受け持つ担当官。 豊臣政権下では石田三成らの五奉行が有名。 ただし、当時特に「五奉行」という名称があったわけではなく、 人数も五人と定まっていたわけではない。 北条家 相模(現在の神奈川県)を治める大名家。 現当主は北条氏康である。 上杉謙信の攻撃さえ退けた難攻不落の名城・小田原城を本拠地とし 武蔵(現在の東京都・埼玉県)、下総(現在の千葉県)、 上野(現在の群馬県)等、関東に広く勢力を伸ばす。 「関東の民を守る」ことを第一としており、天下への野心は薄いが その分、侵攻してくる外敵への敵愾心は強い。 また、一族間の繋がりが非常に厚いことでも知られる。 三方ヶ原の戦い 元亀三年(1573)、 武田信玄と徳川家康が三方ヶ原で激突した戦い。 三方ヶ原は遠江国敷知郡(現在の静岡県浜松市北区)の一地域。 上洛のため西上作戦を進めていた信玄は、家康の居城・浜松城を 無視して進もうとしたが、家康が家臣の反対を押し切って これに挑んだ。応戦した武田軍は徳川軍をさんざんに打ち破り、 家康は逃げ帰る途中でたいへんな粗相をした。 合戦の際、気候的には通常考えられないが、 雪が降っていたという。 三日天下 明智光秀は本能寺の変で織田信長を倒し、天下を取ったが、 中国大返しを敢行した羽柴秀吉に瞬く間に討ち取られた。 このことから、 非常に短い期間しか政権や権力を保持できないことをいう。 ちなみに「三日」とはごく短い期間を指す用語であり (例:三日坊主)、 実際に光秀が天下を取っていたのが三日間というわけではない。 本能寺の変から山崎の戦いまで十一日間である。 密偵 相手の内情を密かに探り調べること。 その実行者そのものを指す言葉でもある。スパイ。 戦国時代では主に忍者が請け負ったが、 寝返ったふりをして密偵を働く武将や 婚姻先の情報を実家にもたらす姫も多数存在した。 名代 ある人の代わりを務めること。 真田昌幸は武田勝頼の名代として、御館の乱に参加した。 もちろん幸村が茶々に対して 「真田昌幸の名代」と称したのは単なる自称であり そんな権限は与えられていない。 毛利家 中国地方ほぼ全域を治める大大名。 現当主は輝元である。 大江広元を祖とする名門だが、 戦国時代には安芸(現在の広島県)の国衆に過ぎなかった。 その勢力を飛躍的に拡大させたのが、輝元の祖父・元就である。 元就は尼子家・大内家という二大勢力の間で巧みに立ち回りつつ、 謀略を駆使してこれらを打倒、中国地方をほぼ制した。 元就の子・隆元は早世したため輝元が後を継ぎ、隆元の弟である吉 川元春と小早川隆景が輝元を支える「両川体制」が敷かれている。 矢沢家 信濃(現在の長野県)の地侍。 諏訪氏の流れを汲み、隣接する真田家とは敵対関係にあったが、 昌幸の叔父・頼綱が養子に入ることでこれを解消した。 以後は主に沼田を守り、北条の侵攻をたびたび撃退。 頼綱の子・頼幸は関ヶ原以後、信之に従い、 矢沢家は明治まで真田家の筆頭家老格として存続した。 山内家 土佐(現在の高知県)を治める大名家。 当主は山内一豊である。 一豊は織田家、そして豊臣家に仕えて身を立てたが、 関ヶ原の戦いにおいて真っ先に居城・掛川城を 徳川家康に差し出した功が認められ、 長宗我部家が改易になった後の土佐一国を与えられた。 山内家は長宗我部家旧臣を「郷士」として差別した。その軋轢は 幕末まで及び、郷士から坂本龍馬をはじめ多くの志士を生んだ。 与力 下級武士や大名が有力武将の組下につくこと。 真田昌幸と徳川家康の関係は「与力大名」と呼ばれるもので、 軍団活動時に昌幸は家康の指図を受ける立場となる。 豊臣家臣という意味ではあくまで同等であり、 真田が徳川の家来になったわけではない。 よろず屋 様々なものを商う店。 大坂のよろず屋には評判の看板娘がいる。 練兵 兵を訓練すること。 和議 戦を収め、和睦をするための協議。 対等の条件で結ばれるとは限らず、 実質的な降伏勧告であることも多い。
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779年。 ヴァルム=アーチボルトの命を受けたドライセン城主ベオリウスは、デニン伯国への進軍を開始する。 報を受けたデニン伯ブレンダンは、直ちに軍を整え、ベオリウスを迎え撃つ。 しかし、ベオリウス率いる軍勢の志気は高く、ヴァルム=アーチボルトは、さらにサルデンからの援軍をエンドールに与えて向かわせた。 この際に、ベオリウスは、「誰が遣わされて来るかと思えば、若造ばかりではないか」とエンドールとシュルツを嘲った。 サルデン公国軍は、デニン伯国軍を破り、ブレンダンの本拠地の首都デニンまで迫った。 サルデン軍はデニンを包囲したが、この時、軍師シュルツの進言により、北東に位置するコレア城へ抜ける道の包囲の手を緩めていた。 シュルツの思惑通りブレンダンの軍は、包囲の薄い北部より逃れ、再起を図るためにコレアへ進んだ。 しかし、コレア城主トルヌー男爵は暗愚な人物である。 だからこそ、シュルツはデニス伯をコレア城へ進むよう仕向けたのだった。 コレア城主トルヌーは、デニス伯ブレンダンを迎え入れはしたものの、軍は城外に留まらせた。 さらに、サルデン軍との戦いにも難色を見せていた。 状況が好転しないまま時は過ぎる。 ベオリウス率いるサルデン軍はデニスで兵を整えると、デニス伯追撃のためコレアに迫った。 コレアの攻城戦が始まると城主トルヌー男爵は逃亡を図る。 しかし、すぐにサルデン軍に捕らえられた。 シュルツがコレア城の抜け路を知っていたからである。 指揮の執れない軍を率いつつ、デニス伯ブレンダンは、ベオリウス本陣にまで迫る戦いを見せるが、討死する。 占領されたコレア城には、予想以上の財宝があったという。 トルヌーの蓄財の多さが露見した。
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概要 ドルリア砦の戦いとは、アルファ684年、バルディゴス討伐連合軍とルディック帝国軍の間に起きた戦いである。 ここでは、前哨戦となった戦いも併せて表記する。 戦闘に至るまでの背景 ▲684年6月における勢力図 バルディゴス討伐連合軍の侵攻をしったバルディゴスは、ルディック帝国の兵力を総動員して迎撃の態勢をとった。ルディック城への道は天然の山地に阻まれ、数少ない街道にはドルリア砦、レッド・ロウ砦という拠点がその道を塞いでいた。 バルディゴスは、ドルリア砦にガリィ、ゾニバリーという歴戦の将を派遣、これに対して連合軍は、ドルリア砦方面にゴルを総大将にライグ、キャルス、サリーア、メスロー、ディアルを派遣した。 両軍の戦力 攻撃側 守備側 バルディゴス討伐連合軍 軍勢 ルディック帝国軍 総兵力59000 兵力 総兵力32000 ゴル 総指揮 ガリィ ライグ 軍師 バロム 主要参戦者 アゾル国 ゴル ラディア リヴァ ガリィ ゾニバリー バロム ★ゴルディア ★ゴズ リューグ国 ライグ ★ゼノス シャリアル国 メスロー ケリス ドラグゥーン ギディス イージル国 キャルス レニース ギラス ゾリメック国 サリーア グルディア ★シーザルス国 ★ディアル ★ルーディア ★ヴィルガス ★オルリア ★は前哨戦となるガズス砦、ジース砦の戦いにのみ参戦した将。ゴルディア、ゴズは前哨戦で戦死、ゼノスはドルリア砦ではなく、本国に後退(これはカルディスの命令による)。シーザルス国軍は、ジース砦の戦い終了と同時に、ドルリア方面から、レッド・ロウ砦方面に移動している為、ドルリア砦の戦いそのものには参戦していない。 戦闘経緯 ドルリア砦に到着するまでに二つの砦が存在していたが、この二つの砦の戦いも全て含めて「ドルリア砦の戦い」と呼ばれている為、ここでは併せて表記する。 。 6月18日前哨戦としてはじまった第一の砦ガズス砦の戦い、攻め手はシャリアル国の猛将ギディス、守るはルディック国のゴルディアであった。武勇に自信を持つゴルディアは砦から打って出る。これを待ち構えたギディスは、まずゴルディアの副将ゴズを討ち取るとゴルディアを挑発、彼を誘い出して退路を断ち矢の雨を食らわせて討ち取った。 砦に撤退したルディック軍に対して、ギディスはわざと退路を残して包囲、彼等の撤退を黙認するという一面も見せた。 続いて6月23日、ジース砦はリューグ国軍、イージル国軍が包囲していたが、ジース砦には後に蜉蝣時代最強の男とも呼ばれることになるゼノスが立て篭もり、寡兵ながら彼の鬼神の如き突撃を仕掛け、二国の軍勢は被害を受けて後退。ガズス砦を攻略した連合軍の他部隊に援軍を頼み込んだ。これに応じたのがシーザルス国であり、国主ディアル、軍師ルーディア、猛将ヴィルガスを含めた精鋭部隊がジース砦へと向かう。 猛将ヴィルガスとゼノスが壮絶な一騎打ちを始めるが、それこそがディアルの策であった。偶発的に見せたこの一騎打ちでゼノスを指揮官から一介の猛将へと引きずり出し、指揮官不在の砦を難なく攻め落とす。 ゼノスは囲みを突破して後退し、こうしてドルリア砦攻略戦への道は開けた。 その直後、ジース砦で戦っていた筈のシーザルス国軍が、今度は一転してレッド・ロウ砦の戦いに現れることとなる。 これは、総指揮官であるボルゾックが、いざ戦いが近づくと、自分の指揮に不安を覚え始め、少しでも兵力を増強したいと考え出し、突然発生した命令である。ドルリア方面軍は、自分達の戦いが目前に迫っている為、この突然の命令を拒否したが、ディアルは一夜にして合流を果たし、レイディックはその進軍速度に感心した。 シーザルス国軍を移動させたとはいえ、兵力で勝っていた連合軍は、そのままドルリア砦への攻撃を開始した。 イージル国主キャルスが先陣を申し出るが、先の前哨戦での戦いから既に彼の将としての力量に不安を持った諸将は、彼を補佐する形で密かに布陣する。仁君で知られるゴルやサリーアが戦いが始まる前から真剣にキャルス救出の策を立てている姿を、この時点ですでに乱世の到来を予期していたメスローは冷笑を浮かべて見守っていた。 7月2日早朝、日の昇りと同時に始まったドルリア攻略戦、イージル国軍はレニース、ギラスという二人の武将が突撃を敢行するが、砦を落とせずに戦いは昼を迎える。攻め疲れたイージル国軍の一瞬の隙をついてドルリア砦からゾニバリーの軍勢が出陣、この攻撃にひるんだイージル国軍は四散、ギラスはゾニバリーに挑むものの討ち取られれ戦死。 この報告を聞いたイージル国軍本陣は撤退が献策されるが、他の国主への体面を考えたキャルスは全軍の再編成と突撃を決定。しかしその瞬間にアゾル国軍がゾニバリー軍を側面から遮断、そのままドルリア砦へと向かう、更にシャリアル国軍も加わりゾニバリーの軍勢は分断されて各個撃破される。急いで砦に戻ろうとするゾニバリーだが、待ち構えたのは後に「風の舞姫」と呼ばれることとなるラディア。彼女の剣技によってゾニバリーは討ち取られ、ガリィ、バロムは急ぎ撤退していく。 戦後の宴、姫の様な衣装を纏ったラディアを各国の将軍が持て囃すが、シャリアル国主メスローと軍師ケリスだけは、ラディアを後の障壁になると認知していた。 戦いの結末 ドルリア方面軍は、そのまま進軍、レッド・ロウ砦の戦いで友軍が勝利するとの報告を受けると、決戦の地となるルーズの戦いへと赴いた。
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概要 グラウスの戦いとは、クルーディア帝国、共和国サムルトンが連合軍を組んでリアムス自治国家に攻め込んだランドヴァルク作戦の中で行われた戦い。 首都にまで肉薄されたリアムス軍が、起死回生を賭けて行った奇襲作戦である。 詳細はランドヴァルク作戦に記載。 関連項目 CHAOS CROWN
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概要 フィードの戦いとは、蜉蝣時代の戦乱の中で、アルファ693年7月、ロードレア国軍とシャリアル国軍の間に起きた戦いである。 戦闘に至るまでの背景 ▲693年2月における勢力図 この頃、大陸中に奇妙な噂が流れた。カルディスが生きているという噂である。 この噂の真相については蜉蝣時代最大の謎とされている。アルディア著の蜉蝣戦記にも噂の事ははっきりと書かれているが、その後カルディスが歴史の表舞台に立つことがないことから、単なる噂だったという説が有力である。 しかし、近年アルディアの日記が発見され、全身に傷を負いながらも奇跡的に生還を果たしたカルディスが、山奥で隠遁生活を送り、たずねてきたアルディアと接触。彼の性格が穏やかになっていたこと、二度と乱世の表舞台に立つつもりのないこと、更にはその後、アルディアの従者として、共に旅をしたこと等が書かれている。 これが本当にアルディアの日記ならば、彼の生存は間違いないものであり、カルディス本人の希望により、存在を抹消してもらったことが想像できるが、日記が発見された場所がアルディアと所縁のない土地だったことから、名もなき作家がアルディアの名前を借りて作った後世の創作という説も否定できず、結局は謎のままである。 しかし、乱世の覇者達は、そんな噂に流されることなく情勢を動かしていく。 7月28日、ロードレア国は、ロー・レアルス国との戦いから一旦離れ、シャリアル国との決戦に挑む事となった。 これは、ベルザフィリス国と友好関係(同盟には至らず)を結び、ルーディア包囲網を背後から牽制するという意味もあったが、ベルザフィリス国に目線を向け、比較的手薄になっていたシャリアル国に攻め込みたいというのが本音であった。 これに対して、シャリアル国は、切り札とも言うべきシャリアル三牙王を召集し、更にディグドが総大将として、最強の布陣で迎え撃つ。「手薄」という当初の目論見は思わぬメスローの対応の早さで挫かれるが、ロードレア国も、レイディック自らが、ヴェリア、アレス、アリガル、ラディアの、いわゆる「ロードレア四天王」を揃えて出陣することで、牽制などではない、本気の決戦に挑むこととなった。 両軍の戦力 攻撃側 守備側 ロードレア国軍 軍勢 シャリアル国軍 総兵力58000 兵力 総兵力52000 レイディック 総指揮 ディグド ヴェリア 軍師 主要参戦者 レイディック ヴェリア アレス ラディア アリガル ディグド ドラグゥーン サイリオス リガリオン 0.JPGバンガーナ アルヴァドス ラドゥ レイアス ボルゴス ナッシュ ファクト 戦闘経緯 まずはアリガルが真正面から突撃、ドラグゥーン部隊を突き破る勢いで、ディグド本陣に迫りつつあるが、サイリオス、リガリオン部隊が、すぐさまこのアリガル部隊に蓋を閉める形で包囲、これはシャリアル三牙王が得意とした策で、この罠にかかった部隊は壊滅するまで脱出することすら許されなかった。 しかし、今回はそれまで彼らが相手をしてきた敵将とは、格そのものが違っていた。 アリガルは、軍師ヴェリアからあらかじめこうなることは聞かされていた為、慌てる事もなく、そのままドラグゥーン部隊への突撃を継続。彼を包囲しようとしたサイリオス、リガリオン両将は、ボルゴス、ラドゥ、レイアス、ラディア、ナッシュ部隊によって包囲網を作る事を許されず、本来ならこれを妨害する筈のバンガーナも、ロードレア国の精鋭に手玉にとられ、逆に混戦へと持ち込まれていった。 しかし、流石はシャリアル国の誇る三牙王と軍師ディグドであった。本格的な混戦を避け、すばやく撤退命令を下すと、損害らしい損害も出さずに戦場から引き上げ、にらみ合いの体勢をとった。 8月15日、このにらみ合いに耐え切れなくなったナッシュ部隊が、独断専行して敵部隊への奇襲を敢行した。 ナッシュを副将として預かっていたラディアは、その無謀さを指摘するが、一方でその動機を聞かされて悩んでいた。 ナッシュはかつてリディアニーグの策により、ラディアの祖国アゾル国を滅亡させている。その後、紆余曲折を経て二人はロードレア国の将として並ぶ事となるが、過去のいきさつから、ラディアはナッシュとの会話を職務上の最低限に留めていた。ナッシュもまた、ラディア本人に語る事はなかったが、いつか手柄をたててそれをラディアに献上し、過去の罪滅ぼしとしたいと他の者に語っていた。 その事実を知ったラディアは、ナッシュ救援の部隊を率いて出陣する。 罪滅ぼしの覚悟はあったとはいえ、ナッシュの将としての器は、三牙王には遠く及ばず、彼の奇襲は看破されて反撃を受けていた。そこにラディア部隊が現れ、突撃により敵軍を一瞬混乱させると、そのままナッシュ部隊を回収して後退していく。 二人は帰還後、レイディックに呼ばれ査問を受ける。軍令にそむく事は重罪ではあるが、戦乱の時代においては軍令に背いたとしても手柄を上げれば相殺、場合によっては恩賞の対象ともなる風習があった。しかし今回の件は完全なナッシュの失敗であり、軍令違反は免れないと思われたが、これをラディアが弁護して彼を救う、ここに二人の過去は清算され、以後二人は私情を挟むことなく互いの職務に打ち込むこととなる。また、全てを承知で罪なしとしたレイディックも、器の大きさを見せた。 その後も両国の軍勢は数度にわたり激突するが、ついに決着が付かないまま8月29日を迎える。 最初の戦い以後、軍勢の采配を副軍師アレスに任せ、戦場から姿を消していた軍師ヴェリアが密かに行っていた策がここにきて動き始め、ディグドは戦いの最中、突如本国に召集命令を受ける。 メスローの元に駆けつけたディグドが目にした光景は、処刑された自らの妻子の亡骸であった。 ヴェリアの反間の計によって、ディグド反乱の噂を、国主メスローは信じてしまったのだ。 ヴェリアやアレスは、常時いかなる策でも実行できる様に、子飼いの隠密、または共にエザリアンの元で学んだ隠密達を、各国の将やその身の回りの世話をする者、更には一般市民にまで潜ませていた。 そして彼らを使って「ディグドが国境で長期戦の構えを見せたのは時間稼ぎであり、自らの息のかかった部隊を用意し、時がくればロードレア国軍と同時にシャリアル本国へ攻め込む」という噂を流させた。 噂だけならばメスローも信じる事はなかったが、ヴェリアはディグドの家にロードレア国からの使者を送り、わざと捕らえさせたりと、周到に状況証拠を数多く作り上げた。 元々部下に対して猜疑心を持っていた独裁者タイプのメスローは、これをヴェリアの策と見破る事もなく、ディグドの反乱を信じ込み、見せしめのために一族を処刑し、召集に応じて帰国したディグドを捕らえた。しかし、幼き頃の自らの兵法の師であったディグドを即刻処刑することはさすがに気が乗らなかったのか、とりあえず牢内に閉じ込めることとした。 9月5日、戦局は一変した。ディグドを戦場から引き離したヴェリアがロードレア国本隊と合流。 ディグド捕縛の報告が届き、シャリアル三牙王は完全に動揺、兵士達の士気も揺らぎ、そこにロードレア国軍の総攻撃が開始される。 三牙王といえども、炎に飲み込まれていく運命からは逆らえず、サイリオスはアリガルに討ち取られ、リガリオンは全身に槍を受けて戦死、ドラグゥーンは兵士達の裏切りにあい、背後から矢を受けて命を落とした。 戦いの結末 国境での戦いに完全勝利したロードレア国軍は、そのままシャリアル国へ侵入、ギードロモの戦い、グロリスグの戦い、ニィザイアの戦いでロードレア四天王がそれぞれ手柄をたて、完全勝利を収めて軍勢は進み、ついにシャリアル国首都に迫る勢いであった。 だが、このまま手を拱いているメスローではなかった。すぐさまリューグ国とロー・レアルス国に、手薄となったロードレア国の背後を突いてほしいと使者を送る。2国がシャリアル国を助ける義理などないが、確かに手薄となったロードレア領土は彼らにとって魅力的な餌であった。それを視野に入れてのメスローの外交戦略であった。 事実、2国はメスローの為ではなく、自らの為、しかしそれが結果的にメスローの為となる形で軍勢を出陣させ、ロードレア国軍もこれにあわせてシャリアル国を滅亡させるには至らず、国境にレイアス、ナッシュの2将を配備して残りの全軍を持ってこのリューグ、ロー・レアルス国連合軍と対陣した。 しかし、リューグ国のキルレイツ、ロー・レアルス国のドゥバは、合同軍議において口論となり、結局この連合軍は機能する事無くロードレア国軍を動かしたという最低限の役目だけを終わらせて解散した。 皮肉なことにこのメスローの外交戦略は、かつて彼がディグドこそ兵法の師と仰いでいた頃に教わったものであった。
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武将名 どいとしかつ C土井利勝 徳川家臣。徳川家康の落胤という説もある。7歳で徳川秀忠の養育係に任じられ、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも同行した。家光の傅役や老中に任じられ、本多正純の失脚により、最高権力者となってからも公正な政治を行い続けた。「時は金、いや命なり。天下静謐のため、自ら動かねばならん」 出身地 駿河国 コスト 1.5 兵種 騎馬隊 能力 武力4 統率7 特技 伏兵 計略 大炊頭の征旗? 武力と移動速度が上がる。自身が戦場にいる場合、さらに戦旗ゲージの上昇速度が早くなる。 必要士気2 Illustration 池田宗隆 秀忠・家光の二代に渡って傅役を務め、側近中の側近として絶大な影響力を有した徳川幕府初期屈指の名官僚が参戦。 コストおよびレアリティがパッとしないのは、幕臣として大きな活躍を始めるのが大坂の陣よりも何年も後だからだろうか。 コスト比武力は低いが戦旗ゲージの上昇速度を上げる計略を持ち、 更に自身が騎馬隊なので戦場に継続している事が容易なのが他の2枚の征旗持ちと違う所。 とは言え武力強化はわずかに+1とおまけ程度であり元々の武力の低さも相まって 無理に攻撃用として使うよりは戦場に滞在しやすい事を活かしてゲージを貯めていこう。 カード裏にも記された徳川家康御落胤説は当時から囁かれていたらしく、利勝当人はこの噂を大層嫌っていたと言われる。
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武将名 ほんだただまさ UC本多忠政 徳川家臣。本多忠勝の長男。小田原征伐などに従軍し、岩槻城を攻め落とし武功を挙げる。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠と共に中山道を進み、本戦に遅参する失態を犯す。父・忠勝の隠居後は家督を相続して、桑名藩の第2代当主となった。「こう見えて、ケンカは強いんだぜ」 出身地 三河国(愛知県) コスト 1.5 兵種 弓足軽 能力 武力6 統率4 特技 計略 紅煌の遠弓 【三煌:紅/発動時点灯】(点灯している葵紋に応じて効果が変わり、紅葵点灯時は紅煌に変化させる)射程距離が伸びる。紅:さらに武力が上がる 必要士気2 Illustration オンダカツキ 計略効果 カテゴリ 士気 葵紋 武力 統率 速度 兵力 効果時間 その他 紅煌強化 2 - - - - - 14.2c(統率依存0.4c) 射程距離が伸びる +紅煌 +2 - - - (以上3.00C) (最終修正3.00A) 解説 徳川家の1.5コスト武力弓兼紅煌役。 特技こそ持たないが数値スペックは高め。 計略は自身の射程が上昇する単体強化。紅煌点灯時に武力が上昇する。 先制・追撃・横弓防衛・マウント等、弓射程の延長でできることはかなり多いので場面を選ばず使用できる。 また軽い士気で紅煌を点灯できるのも嬉しいところだが、長い効果時間に比べて単体での紅煌点灯時間は短いので、単体での紅煌維持は難しい。 備考 絆 中山道別働隊・弐 台詞 \ 台詞 開幕 計略 - タッチアクション - 撤退 復活 伏兵 - 虎口攻め └成功 攻城 落城 熟練度上昇
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サコン(さこん) 登場作品 + 目次 ファンタジア(PS) 関連リンク関連種ファンタジア(PS) ネタ ファンタジア(PS) 作中説明 No. 071 レベル HP 17500 TP 0 攻撃力 600 防御力 230 回避 75 敏捷 命中 攻撃属性 物 重さ 2 気絶耐久 EXP 2105 ガルド 3200 状態付加 - 異常耐性 落とすアイテム SWORD?(デュエルソード)きゃらこう 盗めるアイテム どなべ 出現場所 未来ダオス城 防御属性 無 地 水 火 風 雷 光 闇 物 無効化率 0% 0% 0% 0% 0% 0% 0% 0% 20% 耐性率 0% 0% 0% 0% 0% 0% 0% 0% 40% (※基準はNormal) 行動内容 前方の相手を斬りつけて攻撃する。 横斬りで前方の相手を攻撃する。 踏みこみながら斬りつけて前方の相手を攻撃する。 踏みこみながら多段HITする横斬りで攻撃する。 総評 未来のダオス城に出現する刀を持ち、鎧兜を身に纏った人型モンスター。 サムライやハタモトの強化版。 ハタモトかニンジャマスターを3体率いて出現する。 この系統の例にもれずHPと攻撃力が高いので、こちらもTP切れに注意しつつ、大技で対抗したいところ。 名前の由来となる武将にちなんだ故か、本陣にて僅かの手勢を率いて正々堂々戦う様は武将として天晴と言える。 ▲ 関連リンク 関連種 ファンタジア(PS) サムライ ハタモト キヨマサ ▲ ネタ サコン(日:左近)とは、家系や親、本人の官職名を通称として用いることを言う百官名の一種。 武将が由来ならば「島左近(島清興)」か。戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。1600年の関ヶ原の戦いにて討死。享年61歳。 ▲
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《歴史》 ノーストリリアの最高国家エウテルペに対抗して建国された、ダナエ国が起こした宇宙戦争。戦いの結果、科学文明の栄華は滅び去り、生き残った人々からは過去の忌まわしい思い出とされている。 +出典 『ミサ』 『ミサ』 戦いの経過は、エウテルペ王子のメフィスト、ダナエ王子のマクベスがともにノーストリリアの超科学力を尽くした泥仕合に近く、最終的にメフィストの発射した悪魔のミサイルによって両国家がともに消滅、人類文明は終焉を迎えたらしい。 この戦いで活躍したトロス・ミルテの兄妹は「二人の悲歌」と呼ばれ恐れられた。 この戦いでシルヴィアは全身を負傷した。 この戦いにはパーパラスやヒルダといったロボット兵器・生物兵器も投入されたが、ごく少数を残してほぼ全滅した。 この戦いでエリス・シシは死亡した。
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概要 ディジィの戦いとは、ザールック3326年10月、ビーストバリア国と、アトレティア国軍鬼龍軍との間で起きた戦いである。 戦闘に至るまでの背景 3326-0.JPG リゼルバ攻略戦における大敗により戦力を失ったビーストバリア国は、その後長年の宿敵である鬼龍軍に苦しい戦いを強いられ、国境部隊は次々と撃破されていた。 前回のフォルッカの戦いにおいては、商人であるコルディアの情報が有効に使われたが、その後、コルディアは、アーズ国の使者を買収して偽の書状を送ったり、リゼルバ攻略戦においてモルコア国が出陣できなかった事態を作ったりと、自身の商売を潤すため、戦いをわざと長引かせていることが発覚、追手を逃れてビーストバリア国から姿を消した。 情報源も失い、完全に後手に回ったビーストバリア国に対して、鬼龍軍は首都を一気に陥落させるべく、全軍を出陣させる。 これを迎え撃つべく、ビーストバリア国軍も全軍を出陣させ、ディジィ平原に布陣する。 既に同盟国アーズ国の援軍を期待できない彼らは、国主の名代として、ベルーマまでもが戦意高揚のため陣頭に立ち、ここでなんとしても敵軍を食い止めなければならなかった。 鬼龍軍という存在は、その立ち位置が複雑である。 所属する者のほぼ全員が、もともとはビーストバリア国の民であり、対立からビーストバリア国北部の領土へ移り渡った者達だった為、ビーストバリア国の内乱というのが本来の呼び方であるが、その鬼龍の力を利用できると考え、アトレティア国は、将軍位とダルスバード艦隊を与え、鬼龍自身もアトレティア国への忠誠を口にした。その為、鬼龍軍が駐屯する地域は、「アトレティア国の飛び地領土」とも呼べ、「ビーストバリア国」対「アトレティア国」という呼び方も当てはまる。今回は、後者で統一する。 両軍の戦力 攻撃側 守備側 アトレティア国軍 鬼龍軍 軍勢 ビーストバリア国軍 総兵力45000 兵力 総兵力24000 鬼龍 総指揮 ベルーマ 軍師 主要参戦者 鬼龍 飛翔 バリ ウェンディ ガイラ ベルーマ 黒狼 火龍 青龍 戦闘経緯 兵力の差は歴然であった、にも関わらず、両軍は見通しのいい平原に布陣したのである。 これを、正面からの決戦と正直に信じるほど鬼龍はあまくはなく、ビーストバリア国軍が密かに艦隊を背後に動かし、奇襲を仕掛けようとしていることを見破り、自軍の艦隊を背後に伏せておいた。 そして決戦は幕を開け、ビーストバリア艦隊は、その予測通り背後に回ろうとするが、背面に展開されていた艦隊に邪魔されて奇襲は完全に失敗、地上部隊は兵力の差から押し込まれていく。 首都防衛の士気から序盤こそ優勢に戦うが、長期戦になれば数の差は覆いきれず、もはや決戦の敗北とそこから首都への進撃は防ぎきれないと誰もが覚悟した。だがそのとき、鬼龍部隊が一斉に撤退していく。 何が起きたかわからないビーストバリア国軍だが、それは霊虎が使者として向かったフレイミスト国が援軍を派遣した為ということを知ることとなる。 フレイミスト国軍は、全軍出陣により手薄になった鬼龍軍の領土を堂々と渡ると、背後から迫り、守備軍として待機していたバリ部隊を撃破し戦死させる、そして、退路を絶たれて挟撃される事を恐れた鬼龍部隊が速やかに撤退したことを知ると、全軍を引き上げさせた。 戦いの結末 フレイミスト国に、ビーストバリア国を救う義理はなかった。だが、使者として単独でやってきた霊虎の説得により、リョウは動いたといわれている。リョウは、援軍を派遣すると、「獣は、餌を喰らい強くなっていく……奴らはまだ餌を食べていないだけだ。今は弱い、だが、将来強くなるかもしれん……少なくとも、あの霊虎という男は強かった。もっとも、未来の事は誰にもわからん、明日には別の獣の餌にされるかもしれないがな」と語った。 この時点では誰も知る由はなかったが、後に両国は敵対することとなる。フレイミスト国は、この戦いから、潜在的に「ビーストバリア国は弱い」という意識があった為、相手を侮り、勝利を逃すことになったと言われる。