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礼服(らいふく)とは、唐の律令を参考に日本の朝廷に導入された、五位以上の貴族が正月の朝賀や代始めの即位式に用いた正装のこと。(律令制度では五位以上の官僚の服には礼服と朝服とがあり、六位以下には朝服のみがあった) 目次 [非表示] 1 唐の礼服との比較 2 概要 3 男子礼服の構成 4 女子礼服の構成 5 関連項目 6 外部リンク 唐の礼服との比較 [編集] 唐では冕服・朝服(絳紗単衣)・袴褶(短いうわぎに括り袴)・常服などの複雑な服飾制度があった。日本の朝服は唐の常服に相当するものである。日本の礼服にあてはめると、天皇礼服は冕服、臣下の礼服は朝服に似るが、いずれも構成や仕様が大きく異なる。唐書などに粟田真人の装束を「花飾りをつけた進賢冠・紫の衣を帛の帶で縛る」と記すが、これが礼服に相当するようである。進賢冠に似るが花のついた冠、帛(絹)の帯のみで締めて革帯を用いないなどの特徴は、唐の朝服と日本の礼服の差を簡略にまとめたものであり、同時に平安時代以後の資料に記される礼服の様式が、奈良時代のそれをかなり忠実に継承することを証明している。 概要 [編集] 当初は官給であったかと思われるが、奈良時代前期には自弁となった。材料を調達するにも作るのにも非常に手間のかかるものであったことから、淳和朝以降朝賀での使用は抑制されはじめた。朝賀自体が一条朝には断絶し、例年の行事には用いられなくなったが、即位の礼には孝明天皇の即位まで使われてきた(女性貴族の礼服は後柏原天皇即位以後断絶し、十二単が使用された―ただし江戸時代の女帝は白綾無文の礼服で、仕立ては男帝に準じた)。 平安時代後期から鎌倉時代には、天皇の所用品は内蔵寮が管理・調進し、男性貴族のものはそれぞれが調達、女性貴族のものは官より賜う例であった。天皇の礼服については、平安中期の後朱雀朝頃から即位に先立ち御前でおこなわれる「礼服御覧」で検分がなされ(幼帝のときは摂政がおこなう)、様式が忠実に守られたが、男性貴族の所用品は古いものを借りて使ったり、適当なものを新調したため、様式の混乱が進行した。 大袖・小袖の色は位階によったが、平安時代以降その範囲を超えるような色のものも増加した。女子の大袖は、鎌倉時代になると位階にかかわらず蘇芳色(すおういろ)が使用された。女子の礼服は室町中期に廃絶したらしく、近世では五衣裳唐衣のいわゆる十二単が使用された。江戸時代には男性貴族のものも内蔵寮山科家の管理のもと御所の「官庫」に用意され、貸下げが一般化し(自前で新調してもよかった)、定型化した。 しかし、明治維新に際し、唐風を嫌って束帯に変更した。京都御所の御文庫には後西天皇以後孝明天皇までの歴代の礼服が伝来する。(御由緒品の御物なのであまり公開されない) 男子礼服の構成 [編集] 礼冠(らいかん) 項目礼冠を参照のこと。 大袖(おおそで) 色彩は位階に対応する袖が大きく丈が短い上着。着物と同じように右前に身につける。皇太子は黄丹色、一位は深紫、王の二位以下五位以上、臣下の二位三位は浅紫、臣下の四位は深緋、五位は浅緋。正倉院に納められた聖武上皇・光明皇太后の礼服が白であったことから、天皇礼服も元来は白であったと考えられるが、弘仁十一年の詔で天皇と皇太子は赤に刺繍をくわえたものになる。 天皇は袞冕十二章のうち、日・月・星黼・山・竜・華虫・宗彜・火を刺繍する。後世、日・月・山・竜・虎・猿を刺繍した。これは弘仁11年に嵯峨天皇の詔で決められたものらしく(日本紀略・小野宮年中行事)、奈良時代には白で刺繍のないものであったらしいことが正倉院文書から推定されている(ただし大仏開眼会での所用品)。色は赤。皇太子も平安初期には黄丹にかわり袞冕九章の刺繍になった。 小袖(こそで) 色彩は大袖に対応。後世の小袖とは別物で、単に筒袖のように大袖より袖が小さくしたててあるものという意味。襟は袍・直衣のような上げ首。 褶(ひらみ) 袴の上、小袖の下に身につける紗に襞を畳んだプリーツスカート状のもの。皇太子は深紫、親王及び諸王は深緑、臣下は深縹(濃い青)。ただし弘仁十一年以降は皇太子は赤であろう。礼服の記録が増加する平安後期以降皇太子の礼服着用の実例がないので詳細は不明。 袞冕十二章の藻・粉米・黼黻を刺繍するが、後世鉞に代わる。 表袴(うえのはかま) 絵画ではやや細く描かれていることもあるが、記録によれば中世・近世には束帯と同じものが用いられている。 絛帯(くみのおび) 片端に房がある白地に色糸で菱模様を表した平紐の長い帯。大袖の腰に締める。本来は太刀を帯びるのに使った平緒に類する施工であったらしいが、近世では霰地(長方形の石畳文)などの綾をたたんだ帯が普通になった。 綬(じゅ) 片端に房がある白地に色糸で菱模様を表した平紐の短い帯。胸元に結び垂れる。 玉佩(ぎょくはい) 三位以上が腰につける玉で出来た飾り物。(普通は一連條帯から下げる。左ひざに当たる位置にする)だが、天皇のみ二連(左右にさげる)。 笏(しゃく) 項目笏を参照のこと。礼服の場合は象牙を用いる。 襪(しとうず) 白地、赤地、紫地などの錦で出来た靴下。足袋と違って袋状で足先は丸い。 沓(くつ/本来の表記は臼冠に鳥の下部) 黒革で出来た靴。つま先が山三つを連ねた形になっている。 中世以降は束帯同様の単・あこめを重ねることがあった。ただし小袖が筒袖のため、袖をほどいて撤することもあった。 女子礼服の構成 [編集] 宝髻(ほうけい) 詳細不明。髷の根に飾り紐を結び礼冠に準じる徴を飾ったものと言う説がある。 衣(きぬ/大袖) 内親王・一位の女王・一位の内命婦は深紫、女王の五位以上・内命婦三位以上は浅紫、内命婦四位は深緋、内命婦は浅紫。 紕帯(そえおび) 内親王・女王三位以上は蘇芳深紫、女王・内命婦四位は浅紫深緑、女王・内命婦五位は浅紫浅緑。 裙(くん) 襞を畳んだロングスカート。纈(ゆはた)といって染め模様のあるもので、一位以上は蘇芳深浅の紫緑、それ以下は蘇芳浅紫浅深緑。 褶(ひらみ) 内親王・女王は浅緑、命婦は浅縹 襪(しとうず) 錦の韈(たび)。男子同様の錦で出来た靴下。 沓(くつ) 三位以上は緑の靴を金銀で飾る。以下は黒い靴を銀で飾る。 平安時代後期―鎌倉時代の記録によると、裳唐衣(十二単)の裳と唐衣を取り、袿を重ねた上に赤い大袖と緑の裳をつけ、髪に金の鳳凰の徴をさし、扇と翳(さしば。うちわ)を持ち、くつをはいたという。大袖の上には背子(からぎぬ)の類はつけず、また領巾(ひれ―羽衣のようなもの)はなくて、紕帯を飾帯として締めたという。 女帝は大袖・小袖・褶ともに白綾で刺繍がない(これは天皇の礼服が赤い十二章になった弘仁11年以降の女帝の例がないので、称徳天皇の遺品の記録が先例になったからである)。明正天皇即位のときにこれが復興され、後桜町天皇も踏襲している。ただし男帝の礼服と違い、褶の下に纐纈裳をつけた。纐纈は絞り染めのことであるが、近世には表赤裏黄色の裳をいい、さらに女帝の礼服用のものは白無地であったから、名が体をあらわしていない。後桜町天皇の礼服は御物として現存し、『冕服図帖』に詳しい図がある。 皇后は青地雉文を用いた。これは唐の「翟服」(ウィキペディア中文版参照)を摂取したものである。なお、立后に使用する白綾衣は、少なくとも平安時代中期以降は礼服とは認識されていなかった。 関連項目 [編集] 袞衣 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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神奈川県(かながわけん)は関東地方の南西端、東京都の南に位置する。 県庁所在地は横浜市。県名は東海道筋に古くから栄えた宿場町神奈川宿(現在の横浜市神奈川区)に由来する。 都道府県別の人口は東京都に次ぐ第2位。人口密度は東京都、大阪府に次ぐ第3位。 県内総生産は東京都、大阪府、愛知県に次ぐ第4位。政令指定都市数は3つと日本最多。面積は第42位の規模である。 概要 神奈川県は、関東地方の南西部に位置する県で、もとの相模国全域と武蔵国の一部にあたる。 県の人口は9,028,285人(2010年8月1日現在)[5]で、総人口の約6.9%を占め、面積は2415.84km²で、国土の約0.6%を占める。 県内の市町村数は33で、うち市は19、町は13、村は1。 県内の政令指定都市は横浜市・川崎市・相模原市の3市、中核市は横須賀市の1市、特例市は小田原市・大和市・平塚市・厚木市・茅ヶ崎市の5市である。 県東部の横浜市、川崎市は、都市化・工業化が進んでおり、東京湾に面した京浜工業地帯の一角を形成する。県西部は緑豊かな丹沢山地から足柄山地、箱根山が連なり、酒匂川が流れる足柄平野には小田原城の城下町・小田原市が開ける。県中央部は相模原市、海老名市などの平野部で都市化・工業化が進んでおり、相模川が流れ平塚市から相模湾に注ぐ。県南東部は、海沿いに茅ヶ崎市、藤沢市が開け、鎌倉幕府がおかれた鎌倉市から、明治以来の軍港都市・横須賀市がある三浦半島にかけて、三浦丘陵が連なる。 県域は、古くは相模国の中心である相模湾沿岸部と相模川流域部が栄えた。川崎市と横浜市の大部分を占める武蔵国の領域は、古東海道(矢倉沢往還)沿いと東京湾沿岸を中心に小規模な農漁村が形成された。古代には平塚市付近に国府が置かれたと推定され、大磯町には高句麗(朝鮮半島北部から中国東北部に至る古代国家)からの渡来人居住地が置かれた。 平安時代から武士団の活動が活発化し、鎌倉時代には鎌倉に鎌倉幕府が置かれた。 戦国時代には北条氏(後北条氏)の拠点である小田原が隆盛を誇った。江戸時代には江戸幕府の置かれた江戸への交通路として東海道が整備され、東京湾沿岸部の開発が進んだ。県域には幕府直轄の代官支配地と旗本・御家人の所領が多く配された。江戸時代中期以降、県域内に本拠を置いた大名領(藩)は西部の小田原藩(小田原市)及び規模の小さい2藩(荻野山中藩(厚木市中荻野)、武蔵金沢藩(六浦藩、横浜市金沢区))のみであるが、一方で県域外に本拠を置く大名の飛地領が多く置かれ(烏山藩(栃木県那須烏山市)、佐倉藩(千葉県佐倉市)、西大平藩(愛知県岡崎市)など)、県域内の支配はモザイク状に細分されていた。幕末には横浜港が開港され、明治時代に入ると東京湾沿岸部を中心として発展した。 戦前・戦後を通じて、京浜工業地帯周辺における商工業の発展と東京一極集中に伴うベッドタウン化などにより人口も増加したため、県内には過疎地域自立促進特別措置法によって指定された過疎地域がない。とは言え、後述(#人口)のように横須賀市や小田原市、三浦市など人口の停滞ないし減少が顕著な地域もあり、また足柄上地域などに中山間地域を抱えている点に他都道府県と変わりはない。 郷土料理&ご当地グルメ PR広告 ご当地グルメ 神奈川
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礼服(らいふく)とは、唐の律令を参考に日本の朝廷に導入された、五位以上の貴族が正月の朝賀や代始めの即位式に用いた正装のこと。(律令制度では五位以上の官僚の服には礼服と朝服とがあり、六位以下には朝服のみがあった) 目次 [非表示] 1 唐の礼服との比較 2 概要 3 男子礼服の構成 4 女子礼服の構成 5 関連項目 6 外部リンク 唐の礼服との比較 [編集] 唐では冕服・朝服(絳紗単衣)・袴褶(短いうわぎに括り袴)・常服などの複雑な服飾制度があった。日本の朝服は唐の常服に相当するものである。日本の礼服にあてはめると、天皇礼服は冕服、臣下の礼服は朝服に似るが、いずれも構成や仕様が大きく異なる。唐書などに粟田真人の装束を「花飾りをつけた進賢冠・紫の衣を帛の帶で縛る」と記すが、これが礼服に相当するようである。進賢冠に似るが花のついた冠、帛(絹)の帯のみで締めて革帯を用いないなどの特徴は、唐の朝服と日本の礼服の差を簡略にまとめたものであり、同時に平安時代以後の資料に記される礼服の様式が、奈良時代のそれをかなり忠実に継承することを証明している。 概要 [編集] 当初は官給であったかと思われるが、奈良時代前期には自弁となった。材料を調達するにも作るのにも非常に手間のかかるものであったことから、淳和朝以降朝賀での使用は抑制されはじめた。朝賀自体が一条朝には断絶し、例年の行事には用いられなくなったが、即位の礼には孝明天皇の即位まで使われてきた(女性貴族の礼服は後柏原天皇即位以後断絶し、十二単が使用された―ただし江戸時代の女帝は白綾無文の礼服で、仕立ては男帝に準じた)。 平安時代後期から鎌倉時代には、天皇の所用品は内蔵寮が管理・調進し、男性貴族のものはそれぞれが調達、女性貴族のものは官より賜う例であった。天皇の礼服については、平安中期の後朱雀朝頃から即位に先立ち御前でおこなわれる「礼服御覧」で検分がなされ(幼帝のときは摂政がおこなう)、様式が忠実に守られたが、男性貴族の所用品は古いものを借りて使ったり、適当なものを新調したため、様式の混乱が進行した。 大袖・小袖の色は位階によったが、平安時代以降その範囲を超えるような色のものも増加した。女子の大袖は、鎌倉時代になると位階にかかわらず蘇芳色(すおういろ)が使用された。女子の礼服は室町中期に廃絶したらしく、近世では五衣裳唐衣のいわゆる十二単が使用された。江戸時代には男性貴族のものも内蔵寮山科家の管理のもと御所の「官庫」に用意され、貸下げが一般化し(自前で新調してもよかった)、定型化した。 しかし、明治維新に際し、唐風を嫌って束帯に変更した。京都御所の御文庫には後西天皇以後孝明天皇までの歴代の礼服が伝来する。(御由緒品の御物なのであまり公開されない) 男子礼服の構成 [編集] 礼冠(らいかん) 項目礼冠を参照のこと。 大袖(おおそで) 色彩は位階に対応する袖が大きく丈が短い上着。着物と同じように右前に身につける。皇太子は黄丹色、一位は深紫、王の二位以下五位以上、臣下の二位三位は浅紫、臣下の四位は深緋、五位は浅緋。正倉院に納められた聖武上皇・光明皇太后の礼服が白であったことから、天皇礼服も元来は白であったと考えられるが、弘仁十一年の詔で天皇と皇太子は赤に刺繍をくわえたものになる。 天皇は袞冕十二章のうち、日・月・星黼・山・竜・華虫・宗彜・火を刺繍する。後世、日・月・山・竜・虎・猿を刺繍した。これは弘仁11年に嵯峨天皇の詔で決められたものらしく(日本紀略・小野宮年中行事)、奈良時代には白で刺繍のないものであったらしいことが正倉院文書から推定されている(ただし大仏開眼会での所用品)。色は赤。皇太子も平安初期には黄丹にかわり袞冕九章の刺繍になった。 小袖(こそで) 色彩は大袖に対応。後世の小袖とは別物で、単に筒袖のように大袖より袖が小さくしたててあるものという意味。襟は袍・直衣のような上げ首。 褶(ひらみ) 袴の上、小袖の下に身につける紗に襞を畳んだプリーツスカート状のもの。皇太子は深紫、親王及び諸王は深緑、臣下は深縹(濃い青)。ただし弘仁十一年以降は皇太子は赤であろう。礼服の記録が増加する平安後期以降皇太子の礼服着用の実例がないので詳細は不明。 袞冕十二章の藻・粉米・黼黻を刺繍するが、後世鉞に代わる。 表袴(うえのはかま) 絵画ではやや細く描かれていることもあるが、記録によれば中世・近世には束帯と同じものが用いられている。 絛帯(くみのおび) 片端に房がある白地に色糸で菱模様を表した平紐の長い帯。大袖の腰に締める。本来は太刀を帯びるのに使った平緒に類する施工であったらしいが、近世では霰地(長方形の石畳文)などの綾をたたんだ帯が普通になった。 綬(じゅ) 片端に房がある白地に色糸で菱模様を表した平紐の短い帯。胸元に結び垂れる。 玉佩(ぎょくはい) 三位以上が腰につける玉で出来た飾り物。(普通は一連條帯から下げる。左ひざに当たる位置にする)だが、天皇のみ二連(左右にさげる)。 笏(しゃく) 項目笏を参照のこと。礼服の場合は象牙を用いる。 襪(しとうず) 白地、赤地、紫地などの錦で出来た靴下。足袋と違って袋状で足先は丸い。 沓(くつ/本来の表記は臼冠に鳥の下部) 黒革で出来た靴。つま先が山三つを連ねた形になっている。 中世以降は束帯同様の単・あこめを重ねることがあった。ただし小袖が筒袖のため、袖をほどいて撤することもあった。 女子礼服の構成 [編集] 宝髻(ほうけい) 詳細不明。髷の根に飾り紐を結び礼冠に準じる徴を飾ったものと言う説がある。 衣(きぬ/大袖) 内親王・一位の女王・一位の内命婦は深紫、女王の五位以上・内命婦三位以上は浅紫、内命婦四位は深緋、内命婦は浅紫。 紕帯(そえおび) 内親王・女王三位以上は蘇芳深紫、女王・内命婦四位は浅紫深緑、女王・内命婦五位は浅紫浅緑。 裙(くん) 襞を畳んだロングスカート。纈(ゆはた)といって染め模様のあるもので、一位以上は蘇芳深浅の紫緑、それ以下は蘇芳浅紫浅深緑。 褶(ひらみ) 内親王・女王は浅緑、命婦は浅縹 襪(しとうず) 錦の韈(たび)。男子同様の錦で出来た靴下。 沓(くつ) 三位以上は緑の靴を金銀で飾る。以下は黒い靴を銀で飾る。 平安時代後期―鎌倉時代の記録によると、裳唐衣(十二単)の裳と唐衣を取り、袿を重ねた上に赤い大袖と緑の裳をつけ、髪に金の鳳凰の徴をさし、扇と翳(さしば。うちわ)を持ち、くつをはいたという。大袖の上には背子(からぎぬ)の類はつけず、また領巾(ひれ―羽衣のようなもの)はなくて、紕帯を飾帯として締めたという。 女帝は大袖・小袖・褶ともに白綾で刺繍がない(これは天皇の礼服が赤い十二章になった弘仁11年以降の女帝の例がないので、称徳天皇の遺品の記録が先例になったからである)。明正天皇即位のときにこれが復興され、後桜町天皇も踏襲している。ただし男帝の礼服と違い、褶の下に纐纈裳をつけた。纐纈は絞り染めのことであるが、近世には表赤裏黄色の裳をいい、さらに女帝の礼服用のものは白無地であったから、名が体をあらわしていない。後桜町天皇の礼服は御物として現存し、『冕服図帖』に詳しい図がある。 皇后は青地雉文を用いた。これは唐の「翟服」(ウィキペディア中文版参照)を摂取したものである。なお、立后に使用する白綾衣は、少なくとも平安時代中期以降は礼服とは認識されていなかった。 関連項目 [編集] 袞衣 参照:wikipedia「礼服」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC%E6%9C%8D_%28%E5%AE%AE%E4%B8%AD%29 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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鬼丸(おにまる)は、天下五剣の一つに数えられる日本刀(太刀)。鬼丸国綱(おにまるくにつな)とも呼ばれる。 概要 鎌倉時代初期、山城国の京粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱の作。刃長二尺五寸八分(約78.2cm)、反り一寸一分(約3.2cm)。鎌倉時代に入り、太刀の刀身の反りが大きくなり、またそれまでの太刀に顕著であった「腰反り」から刀身全体が均等に反っている「輪反り」(「鳥居反り」とも)へと移行した時期の太刀で、先代、また後代の「太刀」と比べても大きな反りを持つ。 作風は、地鉄(じがね)がよく約(つ)み、地沸(じにえ)付き、地斑映り(じふうつり)が立つ。刃文は沸出来(にえでき)の小丁子乱れで、腰刃を焼く。目釘孔は1つ。目釘孔上の棟寄りに「国綱」の二字銘がある。 鞘と柄(つか)の全体を茶色皺革(しぼかわ)で包んだ上に金茶色の平糸巻きを施し、鍔を黒漆塗の革袋で覆った「革包太刀」様式の拵(こしらえ)が付属しており、室町時代初期の製作と推定される。この拵の様式を特に「鬼丸拵(おにまるこしらえ)」と呼び、「革包太刀拵」の代名詞となっている。 伝来 「鬼丸」という号の由来は太平記に記載がある。それによると、北条時政が毎夜毎夜、夢の中に現れる小鬼に苦しめられていた。ある夜、夢の中に老翁が現れ、「自分は太刀国綱である。ところが汚れた人の手に握られたため錆びてしまい鞘から抜け出せない、早く妖怪を退治したければ早く自分の錆を拭い去ってくれ」と言った。早速国綱を手入れし部屋に立てかけておいたところ、国綱が倒れかかって、火鉢の台に施された細工の首を切り落としたという。時政の部屋にあった火鉢の足は銀で作られた鬼の形であった。それ以来時政の夢に小鬼は現れなくなった。この事件によりこの太刀を「鬼丸」と命名したといわれている。 以来北条家の重宝であったが、北条高時自刃の後に新田義貞の手に渡り、新田義貞が討ち取られた際に鬼丸も鹵獲され、足利尊氏の下へ義貞の首級と併せて送られた。以後足利家の重宝として伝来し、その後は足利義昭より織田信長を経て豊臣秀吉へ伝わったという説と、直接秀吉へ贈られたという二説があるが、ともあれ秀吉の所有となり、後に本阿弥光徳に預けられた。さらに大坂の役の後に徳川家のものとなったが、徳川家康・徳川秀忠共にそのまま本阿弥家に預けたという。その後、後水尾天皇に皇太子が御誕生した節に御所に献上されたが、皇太子が崩御したので「不吉な太刀である」とのことで再び本阿弥家に戻されたという。 以後は京都の本阿弥家によって保管されていたが、第8代将軍徳川吉宗は本阿弥家に命じて江戸城に持参させたという記録がある。そして明治に至り、徳川家からも皇室からも所有権について明示がなされないことに困惑した本阿弥家が新政府に届け出、明治14年(1881年)に「後水尾天皇に献上されたものを徳川幕府を通じて本阿弥家に預けていたものである」として明治天皇の元に取り寄せられた。現在は御物として皇室の所蔵となっている。 なお、「天下五剣」のうち鬼丸国綱だけは御物であるために国宝及び重要文化財としての文化財指定を受けていない。御物としての性格上一般公開されることも少なく、書籍等に掲載される写真も数少ない機会に撮影されたものに限られている。 過去には以下の機会に一般公開されている。 「日本美術名宝展」(東京国立博物館・京都国立博物館、1986年) 特別展「日本のかたな」(東京国立博物館、1997)
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SDIN無料ゲーム)http //sdin.jp/ <ボードゲーム一覧(12種類)> リバーシ(オセロ) 相手の駒を挟んでひっくり返すお馴染みのゲーム。超単純ルールなので誰でも楽しめます。 将棋 一般的に親しまれている本将棋。現在「将棋」と言えばコレです。 囲碁 自分の石で囲んだ領域の広さを争うゲーム。19路盤を使用した中国ルールに対応。 チェス 世界中で楽しまれているゲーム。6種類16個の駒を使って相手のキングを追い詰めます。 シャンチー 主に中国で盛んな将棋系ゲーム。9×10マスの盤と7種類の駒を使ってプレイします。 連珠(五目並べ) 五目並べの進化形。当サイトオリジナルルールの連珠です。 コネクト6(六目並べ) 六目並べとも呼ばれるゲーム。先手が1手目を打ち、その後双方が交互に2手ずつ打っていきます。 中将棋 主に公家の間で流行していた古将棋。盤は12×12マスで21種類の駒が登場。 大将棋 鎌倉時代に成立したとみられている古将棋。盤は15×15マスで29種類の駒が登場。 5五将棋 盤が5×5マスでサクッと遊べる将棋。一見単純そうですが、意外と奥が深いです。 はさみ将棋 相手の駒を挟んで取る将棋系ゲーム。相手の駒を挟んで取る…ただそれだけのゲームです。 四人将棋 4人プレイの将棋です。シングルスとダブルスがあります。 12種類から42種類に増えましたが、大将棋(https //sdin.jp/browser/board/daishogi/)がなくなりました。 <ボードゲーム一覧(42種類)> (定番ゲーム) リバーシ 将棋 囲碁 大富豪 麻雀ソリティア 四川省 フリーセル スパイダー 花札 (オリジナルゲーム) セフィロティックタワー ロストエリシュ戦記 グロリアスキングダム デュエル・オブ・レジェンド タイピングバトル タイピングディフェンス (CPU戦&2人対戦可能) チェス 連珠 中将棋 はさみ将棋 シャンチー コネクト6 5五将棋 (CPU戦&4~5人対戦可能) 四人将棋 ナポレオン ババ抜き ポーカー 百人一首 七並べ 麻雀 (ランキング付カジノゲーム) ビデオポーカー ブラックジャック ルーレット スロットマシン ミニバカラ (ランキング付トランプゲーム+α) クロンダイク モンテカルロ 神経衰弱 百人一首 ピラミッド ゴルフ スピード 広東省
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星頂山 妙福寺 せいちょうざん みょうふくじ 東京都大田区にある日蓮宗の寺院。 洗足池に面している。 所在地 東京都大田区南千束2-2-7 URL … 1282年に日蓮が身延山から常陸国へ向かう途中に、池のほとりの松に袈裟をかけ、池の水で足を洗って休憩をとった。その際に池から七面天女があらわれたとされる。 後にこのことを記念しようと鎌倉時代に七面天女を安置するお堂を建て、御松庵と呼ばれた。 一方、妙福寺は日慈が、現在の中央区の日本橋馬喰町に寛永年間以前に草創した寺である。 1657年の明暦の大火のなどで本堂などが焼失し、浅草に移転した。 1923年の関東大震災でまたも焼失して、1927年に当地に移転。既存の御松庵を合併という形で、再建された。 2022-09-10 2022-09-04 #ref error :画像URLまたは、画像ファイル名を指定してください。 関連項目 2022-09-10 東京サイクリング 洗足池 この項目のタグ 2022年 2022年9月 国登録有形文化財 大田区 寺院 東京都 歴史 歴史的建造物 タグ「大田区」がついた項目 2011-01-10 / 2022-08-27 / 2022-09-04 / 2022-09-10 / 穴守稲荷神社 / 池上本門寺 / 内川 / 大森ふるさとの浜辺公園 / 御鮓所醍醐 / 勝海舟記念館 / 蒲田八幡神社 / 急坂 / 国道15号 / 金春本館 / 桜坂 / 城南島海浜公園 / 志ら井 / 洗足池 / 洗足池公園 / 多摩川スカイブリッジ / 多摩川浅間神社 / 多摩川台公園 / 七辻交差点 / 南国酒家羽田空港店 / ニーハオ本店 / 西六郷公園 / 呑川 / 羽田可動橋 / 羽田空港 / 妙福寺 / 六郷水門 / 六郷用水 タグ「東京都」「寺院」がついた項目 新井薬師 / 池上本門寺 / 円融寺 / 尾崎観音 / 海福寺 / 寛永寺 / 世田谷観音 / 吉祥寺(文京区) / 九品仏浄真寺 / 講安寺 / 高円寺 / 高岩寺 / 豪徳寺 / 広徳寺 / 護国寺 / 西澄寺 / 柴又帝釈天 / 正覚寺 / 承教寺 / 深大寺 / 誓閑寺 / 清土鬼子母神堂 / 泉岳寺 / 浅草寺 / 雑司ヶ谷鬼子母神堂 / 増上寺 / 大円寺(目黒区) / 大悲願寺 / 高尾山薬王院 / 高幡不動尊 / 築地本願寺 / 東禅寺(港区) / 等々力不動尊 / 西新井大師 / 梅岩寺 / 深川不動堂 / 法明寺 / 妙正寺 / 妙福寺 / 目黒不動尊 / 薬王寺(青梅市) / 祐天寺 / 野沢龍雲寺 / 龍珠院
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【元ネタ】日本・史実 【CLASS】セイバー 【マスター】 【真名】卜部季武 【性別】男 【身長・体重】 【属性】混沌・善 【ステータス】筋力B 耐久C 敏捷B 魔力C 幸運C 宝具B+ 【クラス別スキル】 対魔力:D 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。 魔力避けのアミュレット程度の対魔力。 騎乗:C 騎乗の才能。大抵の乗り物、動物なら人並み以上に乗りこなせるが、 野獣ランクの獣 は乗りこなせない。 【固有スキル】 勇猛:B 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉を無効化する能力。 また、格闘ダメージを向上させる効果もある。 直感:C 戦闘時、つねに自身にとって最適な展開を”感じ取る”能力。 敵の攻撃を初見でもある程度は予見することができる。 単独行動:D マスターからの魔力供給を断ってもしばらくは自立できる能力。 ランクDならば、マスターを失っても半日間は現界可能。 仕切り直し:D 戦闘から離脱する能力。妖怪産女の追撃を振り切ってみせた逸話がある。 【宝具】 『美濃国不破渡(みののくにふわのわたし)』 ランク:B+ 種別:結界宝具 レンジ:1~99 最大捕捉:1000人 産女という妖怪が出現し、「一人で千人の兵に相対するよりも恐ろしい」という夜の渡(川の渡り場)を一人で渡り、 産女の子を奪って帰ったという逸話に由来した宝具。 産女が勇気を示した相手に大力を与えるという伝承から筋力を1ランク上昇させ、 一人で千人に相対するが如き行動をとったことから、敵に一太刀浴びせれば目の前の相手全員に斬撃が及ぶ効果が発生する。 【Weapon】 『打出の太刀』 伝未詳。新作の太刀の意か。当時は優れた武者の象徴であった。 『無銘・弓箭』 『無銘・甲冑』 『無銘・馬』 【解説】 一説に姓は平。源頼光配下の武将として平安時代には平貞道、平季武、下毛野公時が知られており、それぞれ碓井貞光、セイバー、坂田金時のモデルとされる。 鎌倉時代に成立した「源頼光の四天王」の内、セイバーと貞光は渡辺綱、坂田金時と比較して影が薄く、伝承を集めた事典類でも独自項目が立てられない場合がある。 Wikipediaからして、2013年2月3日現在の本文は5行だけという有様。 この場で序に書いておくと、上述の産女との遭遇は頼光が美濃守であった頃というから、 年代設定は1001年頃であり、その頃には仕えていたことが知られる。 碓井貞光のモデルとされることがある平貞道の方は、平安時代後期に成立した『今昔物語集』ではメイン回2回と、それなりに活躍していた。 セイバーのメイン回は1回、公時はメイン回ゼロ、綱は登場回自体がゼロ。
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松島青龍山 瑞巌円福禅寺(瑞巌寺) しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ(ずいがんじ) 宮城県松島町の松島にある臨済宗妙心寺派の寺院。 所在地 宮城県宮城郡松島町松島字町内91 拝観料 700円 URL http //www.zuiganji.or.jp/ 地図 歴史 平安時代に天台宗の寺院、延福寺として創建されたと伝えられる。現在の瑞巌寺とは別の場所にあり、その位置は不明である。 鎌倉時代に天台宗の僧徒を追い、禅宗へ転換し、臨済宗円福寺となった。 将軍家に保護され発展したが、戦国時代の終わりに火災により廃墟同然にまで衰退した。 江戸時代に入って伊達政宗が禅僧虎哉宗乙の勧めにより円福寺を復興した。 慶長9年(1604年)から14年(1609年)までの工事により、現存する桃山様式の本堂などが建てられた。このとき寺の名を現在の名称に改めた。 以降、伊達氏の保護もあって隆盛をきわめた。 明治の初めに寺領が没収され、廃仏の風潮が盛んになると、収入を失った瑞巌寺は窮乏した。付属の建物が多く荒廃して失われた。 明治9年(1876年)に明治天皇東北巡幸の際に下賜金があってから徐々に財政難を脱した。 昭和28年(1953年)に本堂が国宝に指定されたほか、建築物等多くの文化財を有する。昭和43年(1968年)に大書院が完成し、昭和48年(1974年)には宝物館を開設した。宝物館には発掘調査などで出土した円福寺時代の遺物など約3万点が収められている。 2014-09-06 総門 参道のスギ。 東日本大震災の津波による浸水で多くが立ち枯れ、伐採されている。 東日本大震災で崩落したところ。 関連項目 2014年度/行った所写真 三聖堂 五大堂 円通院 松島 歴史的建造物写真 水主町民家 この項目のタグ 2014年 2014年9月 2014年9月6日 スギ 宮城県 寺院 松島町 植物 歴史 タグ「松島町」がついた項目 2014-10-26 / 円通院 / 水主町民家 / 五大堂 / 三聖堂 / 瑞巌寺 / 松島 / 松島さかな市場 / 宮城県道27号 タグ「寺院」がついた項目 新井薬師 / 池上本門寺 / 岩本寺 / 永保寺 / 円覚寺 / 円融寺 / 尾崎観音 / 甲斐善光寺 / 戒壇院 / 海福寺 / 覚翁寺 / 崖ノ観音 / 笠森観音 / 川崎大師 / 寛永寺 / 観世音寺 / 世田谷観音 / 観音寺 / 吉祥寺(文京区) / 紀三井寺 / 清水寺 / 九品仏浄真寺 / 講安寺 / 光前寺 / 光泉寺 / 広徳寺 / 豪徳寺 / 光明禅寺 / 粉河寺 / 護国寺 / 五大堂 / 西澄寺 / 佐竹寺 / 三居沢不動尊 / 慈照寺 / 柴又帝釈天 / 出釈迦寺 / 松月院 / 常堅寺 / 正覚寺 / 承教寺 / 常幸院 / 深大寺 / 真如堂 / 神野寺 / 浄光寺 / 瑞巌寺 / 誓閑寺 / 西願寺 / 清見寺 / 清澄寺 / 清土鬼子母神堂 / 泉岳寺 / 千光寺 / 浅草寺 / 善光寺 / 善通寺 / 早雲寺 / 増上寺 / 大円寺(目黒区) / 大善寺 / 大悲願寺 / 誕生寺 / 中尊寺 / 築地本願寺 / 天龍寺 / 東禅寺(港区) / 東大寺 / 桃林寺 / 等々力不動尊 / 成田山新勝寺 / 南禅寺 / 西新井大師 / 日本寺 / 仁和寺 / 根来寺 / 梅岩寺 / 橋立堂 / 深川不動堂 / 富貴寺 / 布施弁天 / 普門寺(つくば市) / 豊楽寺 / 宝泉寺 / 法然院 / 法明寺 / 法養寺 / 法華経寺 / 萬徳寺 / 三瀧山不動院 / 明善寺 / 妙正寺 / 妙福寺 / 目黒不動尊 / 薬王寺 / 薬王寺(青梅市) / 山寺 / 祐天寺 / 野沢龍雲寺 / 蓮華王院
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武将名 ひらのながやす 賤ヶ岳七本槍 C平野長泰 若くして秀吉に仕え、各地の戦に従軍する。柴田軍と戦った賤ヶ岳の戦いでは、活躍が認められ七本槍の一人に選ばれた。その後も武功を重ね、大和国で五千石の知行を与えられる。しかし七本槍の中で唯一、大名にはなれなかった。「まあ、戦ってやらんでもない」 出身地 尾張国(愛知県) コスト 1.5 兵種 槍足軽 能力 武力5 統率4 特技 防柵 豊国 計略 七本槍・奮攻 【七本槍】(計略発動時、他の「七本槍」計略を持つ武将を選択して計略ボタンを押すことで、3つまで同時発動できる。重複した計略の数によって必要士気が変化する)武力が上がり、兵力が徐々に回復する。 必要士気3 Illustration ともひと 平均的な武力・統率、特技の柵も豊臣家では1.5コス槍だけで3枚も存在するなど、スペック面では目立たない。 しかし他2人は日輪であり、計略面で競合しないため住み分けは出来ている。 特に同じ七本槍で柵持ちのUC加藤嘉明と組めば、柵を複数並べる事が出来るのが強み。 計略は七本槍系強化。武力+1で追加効果は兵力を徐々に回復する(約3.3%/c)というもの。効果時間は約7.5c。統率依存は約0.6c。(3.10J) 効果だけ見ればそこそこだが、七本槍全員が持っている特技・豊国の回復と効果が重複するため、粘り強さを発揮出来る。 また七本槍の追加効果で唯一、単純な乱戦での強さが強化されるので使用状況を問わず効果が見込める。 戦略性や爆発力には欠けるものの、安定感があるのが長所と言えるだろう。 Ver2.00Aでの登場当初はその汎用性の高さと、豊国との合わせ技による驚異的な回復力で戦場を席巻した。 だがあまりにも暴れすぎた為か、直後のVer2.00Bにて武力上昇値低下、兵力回復量減少、兵力回復間隔延長、効果時間短縮と 計略の全要素が弱体化するという強烈な下方修正を受け、程なくランキングから姿を消してしまった。 因みに平野氏は鎌倉時代に執権として権威を振るった北条家の庶流の一族と言われている。 また関ヶ原の戦いでは東軍に属したものの、大坂の陣では豊臣家に合流しようとした事が発覚したため 徳川家から江戸にて留守居役の旗本として置かれ、七本槍でただ一人大名となる事が出来なかった。 ただ明治新政府の高直しで9代目当主・長裕の代に廃藩置県に到るまでの僅か3年だが、大和・田原本藩の大名となっている。
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辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 助動詞 (活用は「ま・◯・む・む・め・◯」。四段型活用。平安時代中期には mu の発音が m となり、さらに n に変わったので、「ん」とも書かれる。また m は ũ から u に転じて鎌倉時代には「う」を生み、やがて u の発音は前の語の末の母音と同化して長音化するようになった。活用語の未然形に付く。→う) 推量の助動詞。現実に存在しない事態に対する不確実な予測を表わす。① 話し手自身の意志や希望を表わす。…しよう。…するつもりだ。…したい。 ※古事記(712)中・歌謡「繊細(ひはぼそ) 撓(たわ)や腕(がひな)を 枕(ま)か牟(ム)とは 吾(あれ)はすれど」※土左(935頃)承平四年一二月二六日「みやこいでて君にあはんとこしものをこしかひもなく別れぬるかな」 ② 相手や他人の行為を勧誘し、期待する意を表わす。遠まわしの命令の意ともなる。…してくれ。…してもらいたい。 ※古事記(712)下・歌謡「い及けい及け 吾(あ)が愛(は)し妻に い及き逢は牟(ム)かも」※宇津保(970‐999頃)春日詣「などかくはいそぎ給ふ。花を見てこそ帰り給はめ」 ③ 推量の意を表わす。(イ) 目前にないこと、まだ実現していないことについて想像し、予想する意を表わす。…だろう。 ※古事記(712)上・歌謡「山処(やまと)の 一本薄(ひともとすすき) 項傾(うなかぶ)し 汝が泣かさ麻(マ)く 朝雨の 霧に立た牟(ム)ぞ」※枕(10C終)三六「端にこそたつべけれ。おくのうしろめたからんよ」 (ロ) 原因や事情などを推測する場合に用いる。…だろう。…なのであろう。 ※古事記(712)下・歌謡「かくの如 名に負は牟(ム)と そらみつ 大和の国を 蜻蛉(あきづ)島とふ」※伊勢物語(10C前)二三「をとここと心ありてかかるにやあらむと思ひうたがひて」 (ハ) (連体法に立って) 断定を婉曲にし、仮定であること、直接経験でないことを表わす。…であるような。…といわれる。…らしい。 ※古事記(712)中・歌謡「命(いのち)の 全(また)け牟(ム)人は 畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)にさせ その子」※徒然草(1331頃)五九「大事を思ひ立たん人は、去りがたく心にかからん事の本意を遂げずして」 [語誌](1)原形をアムとする説がある。(2)未然形「ま」は、上代のいわゆるク語法の「まく」の形に現われるものだけである。(3)形容詞型活用や助動詞「ず」には、「あり」を介して付くのが常であるが、上代では、形容詞型活用にはその古い未然形語尾「け」に付く。「大魚(おふを)よし 鮪(しび)突く海人(あま)よ 其(し)が離(あ)れば うら恋(こほ)しけ牟(ム) 鮪突く海人」〔古事記‐下・歌謡〕、「逢はずして行かば乎思家(をしけ)牟(ム)まくらがの許賀(こが)漕ぐ舟に君も逢はぬかも」〔万葉‐三五五八〕など。(4)助動詞「けむ」は、もと過去の助動詞「き」の未然形にこの「む」が結合したという説がある。そのほか、「らむ」「まし」なども、この「む」に関係あるといわれる。(5)「む」は接続助詞「ば」が下接しないこと、「き」「つ」などの「過去・完了の助動詞」が下接しないことなど、「けむ」「らむ」と共通している。(6)断定の助動詞「なり」(「にあり」を含む)に下接するときに「原因推量」を表わすように思われることがあるが、これは「なり」の働きによって成立する用法で、「む」そのものが単独で「原因推量」を表わしているのではない。(7)「む」は中古以降、徐々に「う」へと変化していき、室町時代には「う」が一般化する。 広辞苑 助動詞 (活用は不完全な四段型。[活用]○/○/む/む/め/○)活用語の未然形に付き、まだ起こらない事を想像して述べる語。平安中期以降、発音に従って「ん」とも表記されるようになる。鎌倉時代に「う」の形が生じ、現代語の「う」となる。江戸時代以後、四段動詞・形容詞以外の型の活用に続く場合に「よう」の形が生じた。①今より後の事態を推量する。…だろう。 古事記下「明日よりはみ山隠りて見えずかもあらむ」。源氏物語若紫「人の国などに侍る海山の有様などを御覧ぜさせて侍らばいかに御絵いみじうまさらせ給はむ」。源氏物語少女「式部卿の宮明けむ年ぞ五十になり給ひけるを」。「泣き出さむばかりの顔つき」 ②話し手の動作に付いてその実現を思う。(意志・決意)…しよう。 万葉集1「熟田津に船乗せむと月待てば」。源氏物語桐壺「朝夕のことぐさに羽をならべ枝をかはさむと契らせ給ひしに」 ③相手の動作に付いてその実現を期待する。(勧誘・軽い命令)…しよう。…するのがよい。…してほしい。 万葉集18「居りあかしも 今夜 (こよい)は飲まむ」。源氏物語夕顔「いざ、ただこのわたり近き所に心やすくてあかさむ」 ④時に関係なく一般的な推量もしくは空想を表現する。…だろう。 万葉集3「こもりくの泊瀬の山の山の 際 (ま)にいさよふ雲は妹にかもあらむ」。源氏物語帚木「 実 (じち)には似ざらめど、さてありぬべし」。源氏物語夕顔「委しきことは下人のえ知り侍らぬにやあらむ」 ⑤事態を仮定していう。仮想する。(名詞の前に使われる時は多くこの意味に解されるが、これを婉曲とする解もある)もし…であるなら。たとえば…であろう。 万葉集4「恋ひ死なむそこも同じそ何せむに人目人言こちたみ吾がせむ」。古今和歌集恋「飛鳥川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ」。枕草子7「思はむ子を法師になしたらむこそ心苦しけれ」。「あらむかぎりの力を出す」 ⑥適当・当然を表す。…するのがよい。…すべきはずである。 万葉集3「言はむすべせむすべ知らず極りて貴きものは酒にしあるらし」。古今和歌集雑「よのなかにいづら我が身のありてなし哀とやいはむあな 憂 (う)とやいはむ」 大言海 助動詞 動作ヲ未來ニ云フ助動詞。卽チ、行カむ、落チむ、受ケめ、見め、ナドノ如キナリ。コノむヲ多クハ音便ニんト記シ、古ク、又、東國方言ニテハ、もト用ヰキ。 萬葉集、一 十九 「見レドアカヌ、吉野ノ川ノ、常滑ノ、絕ユルコトナク、又カヘリ見牟」同、十二 廿三 「春日野ニ、淺茅シメ結ヒ、 斷米 (タエメ)ヤト、我思フ人ハ、イヤ遠長ニ」催馬樂、 酒飮 (サケヲタウベ)「 飮 (タ)ベ醉ウテ、 多懲 (タフト)リんゾヤ」萬葉集、廿 廿六 「吾ガ 面 (モテ)ノ、忘レ 母時 (モシタ)ハ、筑波嶺ヲ、フリサケミツツ、妹ハシヌバネ」 將 検索用附箋:助動詞 附箋:助動詞