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関係あるとみられるもの 九十九弁々(東方輝針城) 住所 滋賀県長浜市早崎町1664 JR北陸本線「長浜駅」より徒歩10分の長浜港から琵琶湖汽船乗船25分 JR湖西線「近江今津駅」より徒歩5分の今津港から琵琶湖汽船乗船40分 JR東海道本線「彦根駅」よりバス7分の彦根港から琵琶湖汽船またはオーミマリン乗船35分 JR北陸本線「木ノ本駅」よりバス6分の飯浦港からオーミマリン乗船40分 ※平成29年2月現在の情報です。お出かけの際に運航している保証はできないので、事前に調べてから行きましょう。 宝厳寺(ほうごんじ) 琵琶湖の中に浮かぶ竹生島にある真言宗の寺院で、日本三大弁天にも数えられる弁天信仰の聖地である。 縁起によると738年に行基がこの島で霊異を感じ、草庵をむすび四天王像を安置したのが始まりとされる。 現在では宝厳寺と都久夫須麻神社があるが、平安時代から神仏習合の信仰を行っており寺と神社はほぼ一体であった。 しかし近世に入り神仏分離令が出され、宝厳寺側は弁天は仏教の仏であると主張を譲らず廃寺の危機を迎えるも、宝厳寺と都久夫須麻神社に分離し、寺と神社の境界が明確にされ現在に至る。 神仏分離の際に弁天は神道の神であるとした場所は多く、現在神社に弁天が祀られていることが多かったりする。弁天は元々がインドの河の神だったこともあって水辺に多く生息しており、弁々のツインテールとか琵琶の弦とか川の流れっぽいよねとは筆者の談。 平家物語と琵琶 『平家物語』と琵琶は深い関係にある。琵琶引きながら語る琵琶法師は耳なしの彼が結構有名だったり、弁々もスペルカードにそれっぽい名前が見られたり、髪飾りは有名なあの沙羅双樹の花(?)など意識している。 作中の琵琶の名手であり、名器・青山(せいざん)を手にしていた平経正は『平家物語』の中でも「竹生島詣」「経正都落」で主役として描かれる。経正は竹生島で戦勝祈願に琵琶を引き、その音色で龍を呼び寄せたとかうんぬん。しかし現実は敗色濃厚になり都落ち、青山を仁和寺に返却、そしてついには一の谷合戦にて打ち取られてしまう。 青山は藤原貞敏が唐の国から持ち帰った3つの琵琶の名器のうちの一つとされる。(内の一つは海の藻屑になったそうな) この青山も鎌倉時代には失われたとか、黒田考高の所に送られて残ってるかもしれないとか、模造品だらけとか 宝厳寺の宝物庫には経正が使用したと言われる撥が伝わっているらしい。輝針城で弁々はなぜか琵琶の撥を手にしていない。琵琶のみが幻想入りし、撥はこちらの世界に残ったままだったのかもしれない。なんて考えも出来るだろう。(まぁその後鈴奈庵などで撥を何事もなかったように使用しているのだが) 名前
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ゲーム:刀剣乱舞、その07 3月15日めも。 とりあえず子牛、すまんかった…、イベントの手伝いする約束だったのに。 (携帯の電池がおかしくて、しばらく問題ないと思ってたのに急に来やがった。) 体力余ってたら新宿辺りで遊びの約束なので、先に演習やっておこうかな、むしろ演習の目的は【真剣必殺】ですよ、こないだ【御手杵】さんがたまたま出してくれたんですけどね、1巡めで体力が中傷以上に削られて後退してなくてあとランダム、面倒い。 ふくろうの本の『図説 源義経』を読んでたんですが、よく考えたらこのシリーズには特に図書館に平均的に入っててよくお世話になるものの、本当に初心者の時に読んだの初めてかもしれない、なんというか、図書館の棚にない限りわざわざ探さないというか…単語で絞るようになってからしか検索で引っ掛からないんだよね。 (そして武将だの戦国武将だの読んでいた時期は今まで一度もない!) (歴史趣味歴は長いですが、私の守備範囲はそこ以外全般みたいな感じです、日本史だと最後に近いジャンルとして読んでる、別に天邪鬼とかじゃなくてなんか自然に。) うん、面白かった、兵法を習っていたのかどうかは知らんですがそういう研究があることはいいことなんじゃないかなぁ、この手の初心者向けの本でこういう試行錯誤載せるってのはちょっと予想外でしたが、まあ実際あんまり資料がなさそうだからなぁ、義経。 異様に当人の身が軽かったらしいこと、そのせいなのか機動力重視で既存のタブーに拘らなかったよ、てまとめるのも簡潔じゃないのかと。ルックスがいいとか悪いとかはどっちでもいいんですが、正直悪口聞いててもわりと狐系ぽいんだろうなとは思うw 山岳信仰系の協力者がいて、それが奥州藤原との縁にもつながっている、と言われると、ああ確かになんかそれはありえるのかも。時々逸話に関わる陰陽道も山岳関係に近いんだよね。 3月16日めも。 『図説日本文化の歴史(5 鎌倉』を読んだんですけどね、小学館の、あれです、「日本刀+鎌倉」で検索したら引っ掛かってきたので! ざっくり言うと鎌倉幕府が作られる時点で全国から職工が吊り上げられた中に刀鍛冶もいて、それが正宗の時代くらいまでに相州伝として完成していったみたいな。 …ええと、正宗でいいんですかね本当にこれ、確かに信長秀吉の時代に正宗の評価が急激に上がったとか正宗が存在していないとまで言われるのはだいぶ雑な見解らしいものの。 相州伝の完成をさせたのが一定の時代までほとんど名前の出ないらしい正宗でいいのか。 ていうか呼び寄せられたのが「山城の国綱」のちに「備前の国宗・助真等」とあるんですが、国綱があれだよな、粟田口じゃなかったっけ。ちょっと覚えてないけど結構名前が出てくる人だと思ったのであとで確認しておこう。 あ、やっぱり天下五剣の鬼丸国綱の国綱だよね、出てくる可能性高いか。 ていうかやっぱり【粟田口】って鎌倉由来じゃなかったのね、相州伝なんかも鎌倉時代の終わりくらいに確立したって認識のようなので、山城刀工のルーツってことになるのかな。 別になにか確信があったわけでもないんですがなんというか、鎌倉時代のわりと初めの頃に鎌倉に刀工いたら出身は別かなぁ、という。 あと、藤四郎の剣(私は複数形の時に剣って言いますが、全く正確じゃない、両刃なのが剣、刀剣って場合は刀以外も含むって意味)って貴人向けのと武士向けのがあったんじゃないのかなー、と最近ぽつぽつ。そこまで地位高いところに向けて作ってないというか。 て、備前の国宗の弟子が新藤五国光?! あれ粟田口…ああ、両方のミックスなのか。 血統の説明ぐっちゃぐちゃやなー、この人が相州伝の祖ってのは納得、わかる。 3月17日めも。 なんか日付けみたいなのが激しく意味なくなって来てるけど、そもそもそこがビタ一文重要じゃないので気にしない! というか、前日3月16日に【長曽祢虎徹】【浦島虎徹】の実装が発表されました、今日3月17日にだって!!! 定期系メンテと一緒にぶっ込んで来るのかと思ってたのでさすがにびびった。 が、まあなんというか、リアルタイムで作ってんじゃないのかなー、感。 期間限定イベント来ないかな、と言われてるんですが、個人的にはそれじゃないほうが好きかも。ペースを自分で決められないのってたるいんですよね、たれぱんだなので。 ところで【検非違使】ってどんなだろうね、蜻蛉切さんの絵師さんがまたデザインされているんでしょうか、どのくらい人型なんだろう格好いいといいな、とか多分皆考えていると思います、表情がわかる幽鬼っぽい感じかなぁやっぱり(ノ´∀`*) うへへへ あと、条件ってなんでしょうね、どうやって出るんだろうね、どの辺のエリアで出没するんだろうね、今後もこういう感じの敵増えるんでしょうかね。とかいろいろ。 それと最初の1体が落ちたら次からは【鍛刀】になるとかにはならないのかなぁ。 実装直後はともかくとして、しばらくしたらそのほうがいい…、あ、いやそうでもないか、検非違使さんと遊び続けたいってのもありだな! ところで特にドロップ運はないのでしばらく難民楽しみます楽しみww そういやここ数日は【蛍丸】を育てているんですが、さすがに厚くんと薬研くんと一緒にってのは無理があるっぽいね、ごめんね…。メールBOXの宗三さんがあれ、期限切れるくらい満杯なのでさすがに消化しないと勿体無くて、そういう意味で少し急ぐ。 この状態だと新人くんは来るかね来ないかね、みたいな。 3月18日めも。 ふくろうの本『図説 織田信長』を読んでいたんですが、まあだいたい「vs今川」と「vs武田氏」に関してはわかったと思います、どっちかというと織田家そのものが一大勢力である今川氏に近すぎてある一定以上は動けないって思われてたんじゃないかなぁ。 武田氏の場合は、武田信玄があまりにもずば抜けて強すぎだった、みたいな話な気が。 いやこれ、信長の人生の序盤と終盤みたいな感じで間が完全にすっぽ抜けてんだけどね。 あとはまあ駆け引きだと思うんで、戦国時代全体の勢力図みたいなところを掴むような…目的なんだっけ(忘れんなよ)、ただ、前に読んでた源義経と違ってだいぶややこしくなってるなー、ということをしみじみ。 (まあ、義経は本当にひたすら戦ってただけだし、関わった権力も京都だけだしな。) 足利将軍家の位置とか三好三人衆とか、松永弾正とかさっぱりわからん。 あと正直、寺がどのくらいの勢力だったかとか、一揆関係もなぁ、昔はそれこそ「無辜の民衆が信長の突然の虐殺に」と説明されていたんではるかにマシなんですが、なんだ対等に戦ってんじゃん、しかも今はちゃんと説明してるらしいんだよね学校の段階で…。 なかなか辛い感じのあれですね、基礎知識から違って来てんぞおい。 んで、検非違使が出てきたんでとりあえず見学勢で( ゚×゚)ノ 艦これイベントみたくに期限が限られてないからいいですよね、ただまあ、1日5回撃破ノルマとか「検非違使マークが付くと消せない」とかはさすがに困る人もいるんだろうけど、まああれか、ボス戦を除いてのレベリングをすればいいってことになるかな? それと42人いて兵装が100制限なのに遠投兵装揃えるのはさすがにキツいぜ!? はさすがに正しいんじゃないかと思います、時間稼いだらなんとかしてね☆ 3月19日めも。 んーと、ふくろうの本の『図説 浮世絵 義経物語』、大雑把に言うと俗に言う「義経伝説」のほうの本ではないかと思うんですが(江戸の頃にわりと一般的な題材だったっぽいよなぁこれ、かなり知られた絵師がごろごろいるし)、解説に関してが史書から引かれているのでどっちかというと…だいぶ史実に忠実だよな、義経伝説って。 まあ、弁慶の刀の千本狩りだの、死に際の立ち往生だの、あと平清盛がどくろを見たとか、死ぬ時に高熱が出たとかそういう細かい怪異話もあるものの、正直全体の流れみたいなものを阻害するようなエピソードでもないからなぁ。 静御前が兄・頼朝の前で反逆者となった義経への思いを舞ったという辺りも確かなんか記録あったんだよね(伝説の類だと思っててごめんマジで、伝承が記録に残った弁慶絡みともまた違って史実の部類っぽいな)。 どっちかというと木曽義仲と巴御前の戦いからですがとにかく戦いが派手でエピソードに事欠かず、駆け抜けるようにして特に兄に対しての逆心すらなく、単純に「官位を得た」という程度で追われることになった悲劇の貴公子の人気が高かったのも当然か…。 しかも人気が高かったのは当時からだからすでに伝承もあったわけだしな、うん、江戸時代にかなり流行ってたのもなんかわかるわ。ただ正直、にこにこ動画みたいなの思い出したけどね!! 人気題材だから合戦ごとに新作が出たぞ、みたいな展開してたのかねww ↑の部分はわりと検非違使登場前後に何日分かまとめてわーっと書いてたんですが(1冊で1日分くらいは書くことにしてる、自分の脳内整理のためなので)、検非違使はボスに到達しやすい【4-1】でマーク付けて、あれこれ、ボス到達の回数で出没変わる?? なんか偏りが酷いのでなんかしらの法則があるような気もするけど、解明されるかなw 3月20日めも。 少し前から【薬研藤四郎】なんかの「藤四郎」という呼び方が気になっているんですが、銘打たれてる刀がわざわざ幼名で呼ばれてるのなんでかなぁ? みたいな。まあ、刀工で他に吉光って人もいるらしいんですが、鎌倉時代の刀工である粟田口の吉光が譲らなきゃならないほどの相手ってそんなにいるんだろうか、てのもあるし(南海道の人ですね、四国)。 あとどうも刀の名前が藤四郎と呼ばないと成立しにくい呼び名なのも気になる。 時々薬研くんの別名として「薬研通吉光」って紹介されているんですが、よく考えてみたら「やげん・とうし・ろう」なんだよね、正確な変換だと「とおし」になるべきだけど、あれ、駄洒落みたいって思ったら、正直江戸でこういう言葉遊びあったよな、とw あんまり文化等々に詳しくないんですが結構こなれた感じはするんだよね。 この質問は、ゲーム前提の場所じゃないと出来ないな!! てのはありますよね、さすがにゲームから入った人が知ってるとは思えないし。前に号ってどこに記述されたもの? と聞いたのもすまんかった、ボランティアガイドの人でも知ってるかどうか微妙。 ゲームは【検非違使】さんと遊んだり遊ばなかったり、なんかレベル差を儲けて出陣すると来るような気もするんだけど、微妙かなぁ、みたいな。 とりあえず、1日1回は会うようにしてます、5回会わないと美味しくないけど。 ただ、依頼札も手伝い札もあんまり使わない、うん、手入れ任務はこなしてる! 【4-1】でだけとりあえず検非違使マークを出してはいるものの、他のところでも出すかなぁ、でも回りにくくなるの嫌だし、とかいろいろ迷う。 相手に攻撃が通る通らないってのがものすごく違ってくるんだけど、どうもまだ戦闘に対して理解してない気がするなぁ。同じ刀種だとそこまで違いはないはずなんだけど。 3月21日めも。 『武将と名刀』を検索しようとしたところついうっかり間違って「名刀と武将」と検索してたんですが、そうだね、私は刀メインで考えてたねww と爆笑したんですが、まあぶっちゃけて著者さんもそうだったと思うよ(*´∀`*) はははは ところで私には刀の格みたいなものがさっぱりわからないんですが、ところどころでそれを感じさせる内容はあったかなぁ、というか多分この本そのものがある程度そのことを弁えた人間が読むものだったのかもしれないと思わないでもないかな。 あれですね、細川家が【歌仙兼定】持ってたんだよんという話はあったものの「この程度の刀が表に出てる段階で多分武士として素朴に生きたからかもね」とか言い出すし、おうそうか! ところで歌仙拵えと言うみたいですが、むっちゃ愛されてんねホントにw というかどっちかというと実戦刀だから評価低いってことになるのか、36人斬ったのかはともかくとして、そのくらい斬れるんじゃないかなって言われたくらいだからなぁ…。 あ、そういや同じく細川忠興さんが愛したという刀工に「信長」って人がいるのでちょっとびっくりしましたが室町くらいの人で、こっちも実戦刀ぽい。 もろもろ、いろんな話が入ってたんですが、うーん、ちょっと難しいねまだ。 なんかこう、微妙に戦国武将に関しての認識が違うような気がする。そして記録の大部分がわりと江戸時代ぽい、仕方ないんですが仕方ないんですが、仕方ない!! まああれです、検非違使マークを付けた【4-1】にだいたいレベル55くらいを筆頭にした面子で2回くらい回って、遠征ぽちぽちして、鍛刀を1回くらいはして、それから【蛍丸】に錬結をするよん、みたいな日々です。 検非違使の出現のさせ方をコントロールしたい、です、なんかあるよねあれ!! 3月22日めも。 そういやわりとどうでもいいんですが土曜日に『聖闘士星矢』の新作配信アニメの試写会みたいなところに友人と一緒に行ってたんですが、うん、なかなかにカオスでした、第1回配信じゃなくて第2回配信狙っても良かったね! みたいな。 列形成が崩れて眼鏡の兄ちゃんが出てくるまでが酷かったです、ボーナスあげて。 でもまあ、あの兄ちゃんの采配が見れたので細かいことはわりと許せる気もします。 ところで蜂須賀さんに似てるのって誰だっけ、わかんなくなるんだよ、いや、青銅闘士はわかるの、たまに見た目ではわからなくなるのは黄金!!(黙ってようよ 友人が「そっかぁ、生き返っちゃうのかぁ…同人作家のすることががが」みたいなことを呟いていたのが十年来ジャンルっぽく。しかし、そんな年季の入ったところですらあんなに混乱するんだと旬ジャンルとか無理かもしれない、ととうらぶのことをほんのりと考えずにはいられませんでした、いや今書きながら考えたんだけどね、うん。 虎徹兄と弟に関してはどうにもこう、検非違使さんの出没率がどうにも偏りすぎで「うーん」というのが正直なところなんですが。やたらいろんな法則あるからなぁ、とうらぶ。 あとどうも、私の今の頭のレンジが戦国辺りに向いてるせいもあるのかも。 初期の頃だと結構新撰組関係とか読んでいたので、その頃だとうがああああ! になっていたのかもなぁ、とほんのり。恐ろしく。 そういや虎徹さんたちはやっぱりこれ「新刀」の代表格ってことでいいんですかね、【加州清光】だとか【大和守安定】なんかがこの辺ぽい。どうも刀の時代区分が普通の時代区分とかなりズレてるので私がきちんと把握し損ねてるみたいなんだけどね。 江戸に集まってた刀工の一人っぽいです、この頃のパトロンは大名と商人、かな? 3月23日めも。 カラーブックスの『刀剣』を読んでいたんですが(古い版のほうっぽい)、ああうん、これ手に入るなら手に入れちゃったほうがいいかもなぁ。【堀川国広】とか之定さんとかをきちんと系統別けしてくれてたの始めてかも、いや、単品でだと触れられてるんだけどね、粟田口なんかだとある程度は触れられてることもあるんだけど、やっぱり粟田口吉光が主だしなぁ、てか、こんな呼び方もすんのね。 虎徹なんかは前後触れられてたけど、と思ったら同じ人の本で読んだんだよごめん! 粟田口が京都から近江への関門、とあったので、とりあえず記憶だけしました、粟田口が鎌倉にあるのは事実なのよ、戦闘に巻き込まれててびびった口だからな。しかしあれだ、いつから粟田口派って呼ばれるようになったのかはまたわからなくなったな。 そういや五条とか三条も、ある程度触れられていたかも。 【三日月宗近】と「小鍛冶宗近」ってやっぱりなんか別人じゃないのかなぁ、とも。 そもそも複数いるんだよね、仕方ないよ、だってある程度以上の家格だと三条宗近の刀を所持しておく必要があったんだし、特に悪気もないよね、という文章を読んだのはどの本だったのかちょっと忘れたんですが。 要するにイヴ・サンローランとかココ・シャネルみたいな? と思ったんですが、あれだ、ブランドに近いんじゃないかと思ってすみませんでした。 ただこの本、奉納された神社で刀を示したり、国宝とか御物で示したりするのでどれかわかんないよww みたいな気持ちにはなりますね、藤四郎だと御物2振りある気がw 前から気になってたんだけど、やっぱり藤四郎の太刀は【一期一振】以外は全く現存してないぽく、室町時代にこの名前になったらしいですが、なんかちょい引っ掛かる。 3月24日めも。 現在27日時点、27日分の「日記」を書き終わったところです、日付けがえらいこと嘘になってますけどまあどうでもいい。この前の時点の23日の分の日記で【一期一振】さんに関しての違和感みたいなのに触れているんですが、それを創作という形でちょっと吐き出してきました、情報としてはちょっとねー、と思うけどまあ創作ならありだろみたいな。 で、そのまま続いて否定してくる予定だよ!! まあざっくりと概要を書いてしまうとそもそも鎌倉時代には太刀も短刀も概ね実用品であって(藤四郎吉光は違うような気もする、ていうかあの人の作品って好事家っぽい)、それが鎌倉時代に失われるんなら別になんの不思議もないんだよね、ゲーム中では長船の【燭台切光忠】さんが藤四郎兄弟と同時代ぽいんですが、あれも結局実戦刀であって、銘がないのはむしろ公的な依頼によるものではないかな、と言われてたんですが納得。 だから「短刀の名手である吉光の手になる太刀の中で、随一の作品」があるのは全然なんとも思わないんだけど、そう定義されたのがどうも室町時代のことらしく。 他の太刀が鎌倉時代に失われてるのは違和感ないものの、だったらそう書けよみたいな、なんか説明としての辻褄は完璧なんだけども、実際に前後考えるとおかしいんだよね。 そしてそもそもこの【一期一振】って秀吉どの以外の記述でほぼ全く出てこない、というか秀吉が出てくれば一期一振が出てくるし一期一振といえば秀吉なんだけども、他がほとんどない、というか来歴が微妙にあやふやになるという、わりと不思議な刀なのよ。 どうもそのことに違和感があったんだよん、みたいなことを創作に盛り込みまして。 続いて「それ」に対しての反証をして来ようと思います、そんなでっちあげしてなんになんねん誰も得しねーだろ?! みたいな。うん、我ながら趣味に走った。 (ゲーム:刀剣乱舞、その07) ゲーム:刀剣乱舞、その14 ゲーム:刀剣乱舞、その13 ゲーム:刀剣乱舞、その12 ゲーム:刀剣乱舞、その11 ゲーム:刀剣乱舞、その10 ゲーム:刀剣乱舞、その09 ゲーム:刀剣乱舞、その08 ゲーム:刀剣乱舞、その07 ゲーム:刀剣乱舞、その06 ゲーム:刀剣乱舞、その05 ゲーム:刀剣乱舞、その04 ゲーム:刀剣乱舞、その03 ゲーム:刀剣乱舞、その02 ゲーム:刀剣乱舞、その01
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キク(菊)はキク科キク属の植物。ここでは、狭義のキク(イエギク、栽培ギク)について詳述する。 イエギク(家菊、学名 Chrysanthemum × morifolium syn. Chrysanthemum × grandiflorum Kitam.)は、キク科キク属の植物。 野生種は存在せず、中国で1500年ほど前にチョウセンノギク(C. zawadskii var. latilobum)とハイシマカンギク(C. indicum var. procumbens)を親に交配によって生まれたとされている。 秋に咲く花であるが、短日性植物で、電照などを用いた作型の分化により、周年供給されている(電照菊を参照)。食用にする「もってのほか」などの品種もある(食用菊を参照)。花言葉は「高貴」である。一般に、日本で観賞用多年草植物として発展した系統、品種群を和菊、西ヨーロッパに渡り育種されて生まれた系統、品種群を洋菊と呼ぶ。一般に洋菊のほうが丈夫である。鑑賞園芸的には和菊、生産園芸的には洋菊が中心に栽培されている。また、切花としては温室での電照栽培で周年出荷されている。バラ、カーネーションとともに生産高の多い花卉である。 日本では、薬草や観賞用植物として平安時代より用いられ、宮中では菊の節句とも呼ばれる重陽の節句(旧暦9月9日)が明治時代まで行われ、現在でも皇室園遊会(観菊御宴)として行われている。日本で菊の栽培が盛んになったのは、栽培のプロセスが冬に芽をとり、春に植え、夏に成長させ、秋に観賞するといった具合で、イネの栽培と類似していることが影響しているとの説がある。現在では各地に愛好会ができる一方で、秋にはそれらが主催の品評会が開かれている。 物品への意匠として用いられることも多く、後鳥羽上皇が身の回りのものに施したことにより天皇および皇室の紋となったといわれ[1]、鎌倉時代には蒔絵や衣装の文様として流行した。日本の南北朝時代以降には天皇より下賜されることにより公家や武家の間で家紋として使用されるようになった。(詳細は「菊花紋章」を参照のこと。) 一方、フランス、ポーランド、クロアチア等の一部のヨーロッパ諸国において白菊が墓参に用いられる。日本や中国、韓国でもこの影響を受けて葬儀の際の献花には菊が用いられることが多く、この習慣の影響で病気見舞いに菊の花を贈ることはタブーとされることがある。 キクの花弁が放射線状に並んだ形状に由来する慣習的な呼び名があり、アンモナイトの化石のことを「菊石」といったり、また陶芸やそば打ちでの材料の練り方に「菊練り」がある。 日本にも350種ほど野菊(下記参照)が自生しているが、ヨモギのように食用とされ、観賞の習慣は平安時代頃、中国から秋の重陽の節句とともにもたらされる。万葉集には現われないが、古今集あたりから盛んに歌にも詠まれるようになった。 「心あてに折らばやをらむ初霜のおき惑わせる白菊の花(凡河内躬恒 - 小倉百人一首 第29番)」 春のサクラに対して日本の秋を象徴する花となるが、それが決定的になったのは、鎌倉時代の初め後鳥羽上皇が菊の花の意匠を好み、「菊紋」を天皇家の家紋とした頃からである。また、九州の豪族菊池氏も家紋に「菊花」もしくは「菊葉」を使用している。 江戸時代前期から栽培熱が高まり、育種が進んで多数の品種が生み出され、正徳頃からは「菊合わせ」と呼ばれる新花の品評がしばしば行なわれた。また、江戸、伊勢、京都、熊本などでそれぞれ独自の品種群、系統が生じた。「三段仕立て」などの仕立ての様式やその丹精の仕方なども発達し、菊花壇、菊人形など様々に仕立てられた菊が観賞された。これらは江戸時代から明治、大正時代にかけて日本独自の発展をした古典園芸植物の1つとして、現在では「古典菊」と呼ばれている。全般に花型の変化が極めて顕著であるのが特徴で、「江戸菊」には咲き初めから咲き終りまでの間に、花弁が様々に動いて形を変化させるものすらある。このように発展した日本の菊は幕末には本家の中国に逆輸入され、中国の菊事情を一変させた。明治時代になると、花型の変化よりも大輪を求める傾向が強まり、次第に「大菊」が盛んになった。花型としては厚物、管物、大掴み、一文字などに収束し、花の直径が30センチメートルに達する品種も現れた。この傾向は菊を日本の象徴として見る思想と関係していると思われ、戦後にまで続いている。 ヨーロッパへは18世紀後半に中国からもたらされたがなかなか人気が出なかった。しかし、その後幕末の日本から様々な品種がもたらされると、これが大変な人気を呼び、以後イギリスを中心にヨーロッパでも菊の育種が盛んになった。特にイギリスでは、最後のフローリスツ・フラワーの一つとなった。このように、日本美術が西欧美術に多大な影響を与えたのと同じく、菊をはじめとする日本の園芸植物もまた西欧の園芸育種に大きな影響を与えたと言われている。その後西欧では切り花用や修景用など生産園芸分野での育種が進み、スプレーギクなどが生まれている。 参照 wikipedia キク http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%AF 花 販売 花ギフト プリザーブドフラワーギフト ファンシーギフト
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郡 ぐん 日本の行政区画の一種。 古代 律令制の行政区画で、国(律令国)の下に置かれた。 郡には郡衙(ぐんが)が置かれ、郡司が治め、律令制度下の中央集権的行政の末端に位置した。 郡の下の地理的区分としては郷、その下に里が置かれた。 10世紀には郡の機能が低下し始め、11世紀には荘園が国の支配から自立する。 国は行政区画を再編成し、国の下に郡、郷、保、院、条、別名などが並立する体制となった。これらには管理者として郡司、郷司、保司などが任命された。 中世・近世 鎌倉時代になると、国内に並列する荘園、郡、郷、保などは、管理者である荘司、郡司、郷司、保司らの多くが御家人となり、地頭に任命され、武士たちの基礎的な領地の単位となった。 戦国時代には、大名の領国に対する支配強化の一環として、郡単位での支配郡ごとに郡代がおかれるようになった。江戸時代にも、各藩と江戸幕府は、郡を地方統治の単位として用いた。 近代 明治の最初は地理的区分だった。 1878年の郡区町村編制法で行政区画としての郡が復活した。 府県の下に郡を置いて、郡長を任命する事を定めた。この時に、大きな郡を分割したり、小さな郡同士で合併したりした。 郡は自治体ではなく、郡長以下は中央政府の官僚であった。郡の役人が勤務する役所は、郡役所といった。 1890年に郡制が公布された。郡は府県と市町村の中間の地方公共団体として規定され、郡会が置かれ、郡会議員が選挙された。1896年に沖縄県に郡が編成された。 しかし1921年に郡制廃止法が発布され、1923年に郡会が廃止され、1926年に郡長と郡役所が廃止されると、郡は再び地理的区分になった。 現代 戦後の1947年施行の地方自治法では、地方事務所・支庁などの都道府県の出先機関は、各都道府県が条例によって設置・廃止する事ができるようになり、地方事務所を廃止した県や、区割を変更した県もある。 現在の郡は、住所表記や、広域連合体(広域行政圏)の範囲、都道府県議会選挙区の区割などに用いられるに留まる。地方自治法には郡に関する規定は設けられていないが、郡の廃置分合は都道府県が権限を持ち、条例で行う事となっている。尚、島嶼部である伊豆諸島と小笠原諸島は、東京都に編入されているが、郡は設置されていない。 実効的な行政区分として機能していた時期が長くないため、地域の概念の変動は少なく、奈良時代以来の名称や区域を継承している土地も多い。但し、明治初期に行われた郡の合併の際に、旧郡名を合成して新しい郡名が作られたものもあり、又、合併・分割を繰り返して、本来の郡域とは異なる郡域となっている郡もある。 明治以降の郡に、市や東京23区は属しない。そのため、町村に市制が施行されると、その範囲は郡域から除かれる。はじめのうち市の範囲は純粋に都市部に限られており、市部と郡部は市街化された地域とそうでない地域に対応していた。 しかし後に合併によって市町村の面積が広がると、市も広い農山村部を抱え込むようになり、郡との区別の意義は薄れた。こうなっても市が郡から除かれることに変わりなかったため、市の増加・拡大にともなって多くの郡が消滅した。平成の市町村合併では、合併でできた市が明治時代の郡に相当する面積を持つこともめずらしくない。 関連項目 建築・都市辞典 タグ 「く」 建築用語 旅用語
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仏教・密教・真言宗 真言立川流 (1)『邪教立川流』と言う名でも呼ばれ、醍醐寺の僧『仁寛』が開祖とされる。陰陽道の者達の手により、現在の東京都立川市が拠点となっていたとされる。『髑髏本尊』や『荼吉尼天法』と呼ばれる業法が、その存在をさらに『邪教』として認識する基となったとされている。 真言立川流は一時爆発的な人気を呼び、一時期国内の主要寺院は立川流となったとされる。しかし、高野山門主である宥快と言う僧が『邪教』として批判したため、立川流に関する書物を全て焚書されてしまった。その火は三日間燃え尽きる事は無かったと言われる事から、立川流に関する書物がどれだけ多く存在していたかを物語っている。しかし、立川流の一部は高野山の勢力が届かない地方で細々とでは有るが伝わっていったが、後自然消滅してしまった。 (2)立川流の特徴は、性欲・性愛といった、仏教ではタブー視されていたものを表に出す所がある。これはチベット系の密教でも見られる特徴である。 (3)この思想は陰陽思想を基に発展したものであるとされるが、もう一つの理由として密教の大衆化を図った物ではないかともされる。 鎌倉時代に起こった仏教の発展により、浄土宗・浄土真宗・日蓮宗?・臨済宗・曹洞宗などの宗派が爆発的な人気を呼び、民衆に広く支持されるようになったため、密教ひいては真言宗の立場が危ういと考えられるようになり、その流れで覚鑁は念仏信仰を広めたとされる。 立川流もその流れの中で発生した物で、『金剛界曼荼羅』『胎臓曼荼羅』の二つの曼荼羅を簡略的に説明することが立川流では安易であった。 髑髏本尊 ①高貴な者(将軍・行者・高僧・長者・国王・大臣)の髑髏を用意し、人工のあごや舌、歯、唇、眼球を飾り付け漆を塗る。 ②人が通わない秘密の場所に、美食と美酒を用意する。子の刻(深夜0時)から牛の刻(午前2時)の間、反魂香を焚き、その煙を髑髏に浴びせ、了解を得た美女と連夜交わり、精液を混ぜ合わせたモノ(和合水)を髑髏に塗重ね、その数を120は繰り返す。その間『反魂の真言』を1000回繰り返す。 ③髑髏の中に因縁のあるモノを入れ、秘密の符をいれる。その上から銀箔と金箔を三重に押し、和合水で曼荼羅を描き、金箔を塗続けるという作業を繰り返す。 ④顔面を絶世の美女、又は童子の様に細工を施す。あくまで、表情は柔和でなくてはならない。 ⑤出来上がった髑髏本尊を壇上に安置し、山海の珍味を供えて、反魂香を焚き、子の刻から虎の刻の間祭儀を行う。そして、卯の刻になると錦の袋に修める。 ⑥その後、昼は壇に据え髑髏を養い、夜は行者が肌で抱いて眠る。これを八年間続ける事で、髑髏は未来を予知する法力を宿す。 参考 学研 真言密教の本
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関係あるとみられるもの 小野塚小町(東方花映塚) 四季映姫・ヤマザナドゥ(東方花映塚) 住所 〒605-0811 京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町595 京阪鴨東線「出町柳」より徒歩12分 京都市バス 80, 100, 202, 206, 207系統「清水道」より西へ徒歩5分 六道珍皇寺 臨済宗で薬師如来を本尊とする寺院。「ちんのうじ」あるいは「ちんこうじ」と読む。 本堂 京都市が設置した看板には次のように書かれている。 大椿山と号する建仁寺の塔頭で「六道さん」 として親しまれている。 この付近は、かつて死者を鳥辺野(東山区南 部の阿弥陀ヶ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野 に至る丘陵地)へ葬送する際の野辺送りの場所 で、「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世の境 といわれていた。六道とは、仏教で、すべての生 き物が生前の善悪の行いによって必ず行くとさ れる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種 の冥界のことで、本堂の裏にある井戸は、昼は嵯 峨天皇、夜は閻魔大王に仕えた小野篁が冥土へ 通った入口であったという伝説が残されている。 創建についての詳細は明らかではないが、平 安・鎌倉時代には東寺に属して隆盛し、その後 衰退した。室町前期の正平年間(一三四六~七 〇)に建仁寺の僧、良聡によって再興され、臨 済宗に改められた。 薬師堂に本尊の木造薬師如来坐像(重要文化 財)を安置し、閻魔堂に小野篁の作と伝わる閻魔 大王像と等身大の小野篁像が祀られている。 毎年八月七日から十日までの四日間は「六道 まいり」が行われ、先祖の精霊をこの世へ呼び 戻す「迎え鐘」を撞く参拝者でにぎわう。 門をくぐって参道右手には閻魔・篁堂があり、格子のガラス越しに小野篁像と閻魔大王像を見ることができる。撮影禁止。 参道左手には水子地蔵尊があり、数多くの地蔵が祀られている。これについての説明は特に見られなかった。 「冥土通いの井戸」へは本堂右脇から行くことができる。 閻魔・篁堂 小野篁(たかむら)は平安前期の実在の人物で、高級官僚であったと同時に文人・歌人としても知られ、小倉百人一首では「参議篁」として選ばれている。 系図集『尊卑分脈』によれば小野小町の祖父にあたるとされている。 「閻魔・篁堂」の説明書きによると、小野篁が昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔大王に仕えていたという奇怪な伝説は「江談抄」や「今昔物語」などの説話集のほか 「元亨釈書」等にも数多くにも見られることから、平安末期頃には篁が、独特の神通力を有しつねに現世と冥府の間を往来する閻魔帳における 第二の冥官であると語り継がれていたらしい。 日本で「三途の川」信仰が広まったのは平安末期ごろとされることから、篁の時代には一般には知られていなかったと考えられる。 小野塚小町との関連が明言されたことはないが、名前と役職は十分似ていると思う(主観)。 閻魔大王像のところにあった「浄玻璃の鏡」は目測で直径20~30cmの円形のものだった。 「浄玻璃の鏡」は姿見のような大きなものとして描かれることもあることを考えると、映姫の「手鏡」に近いと言えなくもない。 名前
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時代に抗う戦士たち [部分編集] 第9弾 COMMAND 09D/C BK062S 4-黒2 ユニーク (○常駐):このカードがGである場合、このカードのGサインの色は、青としても扱う (攻撃ステップ):セットカードがセットされていない、全てのユニットを破壊する。 破壊 黒-SENTINEL イラスト違いの「コレクタブルレア」が存在する。通常版はKazuyukiHayashi、イラスト違いはCrimsonである。 商品情報より。
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ヴィルヘルムが信号待ちの際洋服の青山の看板に書かれていた謎の台詞 ポーズを取ってその場を震撼させた恐ろしい言葉。 場が冷める事この上ないのでむやみに使うことはあまりお勧めしない。
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オカルトに戻る 問題文 文字 答え 1972年、高知市の中学生が謎の飛行物体を捕まえた事件の舞台 介良 けら 1977年にニューネッシーと呼ばれる死骸を引き上げた漁船 瑞洋丸 ずいようまる 2003年に亡くなった、霊能者として一世を風靡した女性 宜保愛子 ぎぼあいこ UFOで町おこしをしている石川県の都市です 羽咋市 はくいし 「UMA(未確認動物)」という言葉を初めて使用した動物学者 実吉達郎 さねよしたつお 「国際気能法研究所」代表で精神世界研究の第一人者です 秋山眞人 あきやままこと 「サイエンス・エンタティナー」という肩書きで活躍する漫画家 飛鳥昭雄 あすかあきお 「聖徳太子の地球儀」にある伝説の大陸を意味する文字 墨瓦臘泥加 メガラニカ 「竹内文書」の写本を残したとされる、竹内宿裲の孫 平群真鳥 へぐりのまとり 「デジャ・ヴュ」と呼ばれる感覚を日本語ではこう称します 既視感 きしかん 「都市伝説テラー」としておなじみのお笑いタレントです 関暁夫 せきあきお 「人魚のミイラ」で有名な和歌山・西光寺の学文路○○○? 苅萱堂 かるかやどう 『アガスティアの葉』などで日本にサイババを紹介 青山圭秀 あおやままさひで 『オーラの泉』にも出演したスピリチュアルカウンセラー 江原啓之 えはらひろゆき ノストラダムスの予言集はこの名前で紹介されることが多い 諸世紀 しょせいき ベストセラー『ノストラダムスの大予言』の著書は? 五島勉 ごとうべん 宇宙服を着ている姿という説が有名になった○○○土偶? 遮光器 しゃこうき 鎌倉時代に大友義能が編纂したとされる古文書 上記 うえつふみ 漢字伝来以前の古代日本で使用されていたとされる文字の総称 神代文字 かみよもじじんだいもじ 金剛力士像の怒りに触れて海に沈んだという鹿児島沖の島 万里ヶ島 まんりがしま 恵美須像の怒りに触れて海に沈んだという別府湾の島 瓜生島 うりゅうじま 現代怪談『新耳袋』の題名の元になった随筆『耳袋』の著者 根岸鎮衛 ねぎししずもりねぎしやすもり 古文書『東日流外三群誌』に登場する遮光器土偶の姿をした神 荒覇吐 アラハバキ 庚申(かのえさる)の日に人間の体から出てくるという虫 三尸 さんし 江戸の「本所七不思議」の中でも有名な話の一つ 燈無蕎麦 あかりなしそば 雑誌『ムー』の愛読者のことをこう呼びます ムー民 むーみん 三途の川で亡者の着物をはぐといわれています 脱衣婆 だつえば 児童向けオカルト本の名著『ふしぎだがほんとうだ』作者 斎藤守弘 さいとうもりひろ 術者などが用いる、両端の尖った法具 独鈷 とっこどっこ 生きたまま魂が抜け出す心霊現象のことです 幽体離脱 ゆうたいりだつ 太古史研究家の三浦一郎が世に問うた『○○文書』? 九鬼 くかみ 超能力者として注目されたエスパー清田の名前 益章 ますあき 突然に大きな音が鳴り響く「天狗倒し」で有名な山の一つ 英彦山 ひこさん 肉体は滅びても魂は永遠に継続するという仏様の考え 輪廻転生 りんねてんしょう 日本のピラミッドの調査で知られる研究家 酒井勝軍 さかいかつとき 風が切り傷を作る現象 鎌鼬 かまいたち 明治期の都市伝説で幽霊機関車をさした言葉 偽汽車 にせきしゃ 明治神宮内にあるパワースポットとして話題となりました 清正井 きよまさのいど
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鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、かの境にはさうなきものにて、この比(ごろ)もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄りの申し侍りしは、「この魚、おのれら若かりし世までは、はかばしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は下部も食はず、切りて捨て侍りしもなり。」と申しき。かやうな物も、世も末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。 口語訳 鎌倉の海岸で、鰹とか言っている魚は、あの(鎌倉)の地域では類のないものとして、この頃珍重するものである。それも、当地の古老が申しましたことは、「この魚は、私どもが若かった頃までは、身分の高い立派な人の前には、先ず出ることはありませんでした。また、頭などは、召使でも見向きもせずに食べずに、切って捨てましたものです。」と申しました。 このような物でも、世が乱れ衰えてきたものだから、しきたりがあやふやになり上流社会にまで、入りこむことでございます。 この話も前の章と同じく鎌倉に関係する話題であるが、兼好が二回ほど鎌倉に来ているが前回よりも前、即ち初めて鎌倉に来たときに見聞した話題だと思われる。この段に対する大方の解説書は、当時鰹節など加工したもの以外では食べなかったらしい鰹を鎌倉では堂々と生で食べている有様を見て食の変化にも現れる末世の乱れの様相を強く感じ取って批判したとものと説かれている。京文化の目から見れば世も末の絶望的な現世に写ったに違いない。短い文章ながらも驚きの中にかなりきつい語調で、「鰹と言ふ魚は」とか「かの境には」とか「さうなきもの」とか最後まで一貫して突き放した批判的な文言で終始している。兼好にとってはカルチャーショックの一事だったのであろう。鰹を生で食べることのみならず、鎌倉では庶民ばかりかじんわりと上層部の人々にまで広がりを見せている事実に驚きを隠せなかったのではなかったか。鰹は古くから干して堅くしたものを用いるのが普通で生では食べることはなかったか、あったとしても限定された漁村の周辺だけではなかったか。熱処理して食すとか調味料的なものとか塩辛類的な食べ物としての役割りを果たしていたのであろう。 ところが兼好のこの一文に対して、異説を唱えている人が居る。宮下章氏で自著の鰹節(法政大学出版局)の中で述べている。「平安時代には、都では天皇家をはじめとする『はかばかしき』人々の食膳に、生カツオが煮るか焼くか、ヒシオ(塩辛状)にするかして上せられていたものである。」として、兼好は太平洋側のたくさんのカツオの獲れる浦のある浦の一人の年寄りの思い出話を聞いて書いているに過ぎない。カツオ食のとくに「上ざま」の習慣ともなれば、京の町で尋ねるべきものであろうとしている。更に、『徒然草』は、とくに生食について言及しているわけでなく、昔のはかばかしき人はカツオ自体を食べなかったといっているのだから、兼好の書くところをまともに受け取れば、彼の認識不足だったということになる。としている。宮下氏によれば平安おろか奈良、それ以前の古代から生カツオは食べられていたと記している。神饌(神々に捧げる供物)の必須品目には鰹の製品は欠かせられないものとして重視されていたと書く。黒潮に洗われる海産国であれば古代よりカツオが食されていたことは想像がつく。しかし、天皇制のもと律令制がまだ生きていた頃ならいざ知らず、鎌倉時代になってから朝廷の権威が著しく低下してからはどうであったであろうか。ましてや兼好の時代は幕末の混乱期である。都までの租の品々の流通はスムーズに行っていたのであろうか。カツオのような日保ちのしない魚は生のままでは都に届きにくい状況にあったのではないか。宮下氏自身もページを変えて生カツオは焼くか、煮るか熱処理して食すると認識しているのであって、決して生のままで食するとは言及していない。その延長で兼好も生食に限定しているわけではなく、カツオ自体の食について書いているのであるから、カツオ自体を否定するようで認識不足と指摘しているのであるが、むしろ逆にカツオの生食を目の当たりに見聞したからこそ目を白黒させて仰天したのではないかと考える。兼好も若いとき数年ほど後二条天皇が急逝するまで蔵人として奉仕したことがあるから「上ざま」の習慣はある程度心得ていたであろう。神饌の品々の中にカツオがあることも、或いは焼いて、煮て、ヒシオなどで口にすることも知識では知っていたであろう。当時何かと経済的に不如意な宮中の台所には、傷みやすい生カツオが食膳に上がる機会がなかったとするのは穿ちすぎか。少なくとも兼好レベルまでには手間のかかる傷みやすい生カツオには手が届かなかったであろう。彼は恐らく鎌倉に来てカツオの生食を始めて知ったのではあるまいか。そうして食の乱れひいては世の中の乱れとして批判的に兼好は受け止めたのである。宮下氏のように兼好がとくに生食に言及しているわけでないと決め付けてしまうのは如何なものであろうか。 現代でもチルドという冷蔵技術があまり発達しない頃までは、サバなどの刺身は水揚した産地以外では当たるからといって都会などの消費地では食することは敬遠された。冷蔵技術の向上と、それと輸送手段がきちんと整備されるようになってからチルド食品として産地からサバ・イワシ・サンマなどが都会に送られて、刺身として食べられるようになったのは最近のことでそう古いことではない。生ものの食の広がりは地域によってパラツキがあり、特に昔ほどその傾向が顕著であったと思う。「生堅魚」(生カツオ)の木簡が発見されたから、或いは神饌に大いにカツオが供せられたといって、現代のような刺身として広く一般に食したかどうかははっきりしないのである。 また、宮下氏は当時わがもの顔に振る舞っていた鎌倉武士(カツオ)─「おのれら若かりしころまでは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき」として以前は天皇や公家の前に出ることはなかった─に対する痛烈な風刺が潜んでいるとの見方をしている人々がいると紹介して、徒然草の一文を正面から解釈しないとする説を援用しているが、鎌倉末期の武士社会の批判として捉えるのは同感できる。 鎌倉時代百五十余年の長き歴史の中に、初期・中期あたりまでは武士の食事は上級クラスでも質素で、平素はいわしの丸干し・梅干しなど一汁三菜が基本で一日二食と決まっていた。それが変化し出したのは後期である。鎌倉末期になると前章でも触れたように酒宴が頻繁に開かれ、メニューも八品、十二品、十五品、十八品、二十品…とエスカレートしていき、食の風景が豪華・華美に変化してきた。珍味・美味なるものを求めて食材の広がりも見せたであろう。カツオを刺身にして食するという伝統にとらわれない調理も過度の酒宴と連動して、漁港をお膝元に抱えた権力の中枢・鎌倉の地であったればこそ可能になったわけで、何事も京の文化の尺度で物事を測る兼好の嗜好からは到底受け入れられない食材であった。兼好の心底には鎌倉の洗練されない文化の後進性を感じていたかもしれない。帰洛するや、このことは書きとめるのは無論のこと歌や友人の仲間内で大いに吹聴してまわったであろう。何かと朝廷のことに干渉して天皇すらねじ伏せてしまうおぞましい存在の鎌倉幕府に一矢報いる気持があったのではないか。あの腐りやすいカツオを生で食するなんてグロテスクにも程がある。…というぐらいの感想は持ち、世も末だと嘆いたことであろう。 徒然草の影響もあってか鎌倉時代以前までは上流の人々の間では、鰹は生で食べなかったとする説が流布されていたが、時代がさがって江戸時代になるとカツオの評価も一変する。食の広がり・進化が見せた変化である。江戸の庶民はおろか上流の人々までが熱狂的に歓迎するのである。特に初鰹に対するこだわりは江戸っ子の気風と相俟って尋常でないものがあった。加えて徒然草が江戸時代に入って大いに読まれたことが影響して、兼好に対する反撥や皮肉もある。それを川柳や俳句で熱狂ぶりや反撥ぶりの一端を垣間見ることとしよう。 初鰹なに兼好が知るものか (徒然草の百十九段の文章に対する素直な反応である) つれづれに鰹は食ふな鯉を食へ (同、徒然草の百十八段の、鯉の羹(あつもの)食ひたる日は鬢そそけずとなん。…による) 鎌倉からの早乗りは初鰹 (鎌倉からの早乗りは、政治的・軍事的な重大な用件ではなく初鰹の輸送とは) 鎌倉を生きて出でけむ初鰹 芭蕉 (鎌倉のみなとを出たときはまだ生きていて、さぞ生きのいい初鰹が江戸に着くことだろう) 藤咲いて鰹食ふ日かぞへけり 基角 (藤の花が咲いてそろそろ初鰹を食べられる日を数えて、待ち遠しいことよ) 芝浦や初鰹から夜が明ける 一茶 (魚市場の芝浦は初鰹の入荷から夜が明けて活気づていく) 「目に青葉山ほととぎす初鰹」 (素堂) 初鰹を詠んだ代表作であるが、「初鰹むかでのような船に乗り」、「あてがあるようにかけ出す鰹売り」、「昼までの勝負と歩く初鰹」、「初鰹妻に聞かせる値ではなし」、「初鰹一両までは買ふ氣なり」、「初鰹女房食った上小言」などなど江戸市中は初鰹狂騒曲で包まれてしまう程のフイーバー振りで、地下の兼好もさぞかしびっくりの変貌である。鎌倉末期、食べ物に対する批判が出ることは、一方で食べ物がそれだけ多彩になり、それなりに豊かになってきて新しいものが出現してきた事の証しでもあるといえる。 話題は飛躍するが、現代の食事情を兼好ばりに考察すると如何なことに相成るであろうか。食べ物が和風・洋風と多種多様にわたり豊富になることはいいことであるが、斬新さが常識を飛び越えて奇抜や過激になり過ぎると批判や反動が起きるものである。ある調査で、戦後二十世紀のメイド・イン・ジャパンの最大の製品は即席めん(インスタントラーメン)だとの説があるが意外と真面目に肯定する向きもあって広く支持されているそうである。ちなみに、第二位はカラオケで、第三位はソニーの開発したヘッドホンステレオ(ウォークマン)という結果が出たとのことである。どれも海外に輸出されて各国で支持されている品々である。 特に即席めんが世に出たときは賛否両論で、反対する側には食べ物ではないとの酷評も出たほどである。京都のある著名な老舗の料理家は「あんなもの食い物じゃないよ。食いたいと思わないね」と極めて悪し様にテレビで言ったのを覚えている。しかし、伝統的な和を重んじる料理家の反対の叫びにも拘らず、即席めんは確実に地歩を着々と固め、やがて絶大なる支持を得て国民食といわれるまでに成長をしている。 即席めんは、安藤百福氏によって開発された。昭和58年に発売されてから高度経済成長の波にも乗って、残業や受験勉強の夜食、単身赴任者、母親の社会進出よるカギっ子向け、登山やレジャーのお供に需要は急増して時代にマッチした手軽な食べ物と歓迎された。国際的にも広がりを見せ、平成17年度(2005年)のデータでは、世界の44国・地域で消費された即席めんの数は857億食(半数は中国・香港)で、日本からの輸出は8700万食及んでいるとのことである。(世界ラーメン協会)また、国内での総生産は54.4億食で、日本人一人当たりの消費は42.4食になる。(平成17年度、日本即席食品工業協会) 平均で一人42.4食であるから好きな人ならきっと毎日でも食べる人もいる勘定であろう。日本のラーメン狂騒曲は尋常ではないことを物語っている。 即席めんの生みの親である安藤百福氏は日清食品を創業し即席めんの更なる開発および普及に心を砕き、平成19年1月5日に会長職のままで亡くなった。享年96才である。即席めんに殉じ、戦後の闇市からスタートして食を通して昭和の時代に彩りを添えた生涯であった。もって瞑すべしである。 日本の即席的な食の変化はラーメンだけにとどまらず、その他の食べ物にも波及していった。宇宙食に象徴されるように湯を注ぐだけで食べられる食品は多岐にわたりほとんどの食べ物が可能になった。スープ類などは正にその典型である。 回転寿司も日本食の革命として名をとどめる出来事であろう。これも出現した当初は、衝撃的で喧喧諤諤(けんけんがくがく)の騒動で、特に寿司職人のアレルギー反応は激しかった。反対の理由は一言で突き詰めれば、「あれは寿司あらず」であった。機械がにぎって、不味くて別の範疇の食べ物であると言うのが理由であった。しかし、回転寿司側の挑戦も続く。機械の改良と味の改善をし、清潔感と値段の透明性を高めて、おいしさと廉価を目指した。庶民ではなかなか味わえない高級なネタも容易に味わえるようになり、サラリーマンやファミリー、若者などを中心にどんどんと浸透していった。そればかりではなく、日本食ブームに乗り欧米などの海外で回転寿司が意外と受け入れられ好評であった。今では、回転寿司もすっかり市民権を得て定着して全国的に或いは国際的に広がりを見せて、伝統のにぎり寿司とは違った世界を構築している。 兼好の鎌倉での鰹料理の話から始まって現代の新しい食べ物・食べ方の出現をほんの一寸垣間見たが、現在では即席めんも回転寿司も最早驚くことではなくゴク普通のこととして受け入れられていている。むしろこれからどんな新しい食べ物が出現して、人々がどんな好奇心で接するか否かが興味のあるところである。今も若者や女性が推進役となってトレンドな食べ物、奇抜な食べ物を次々開発して世上を賑わしているが、確たる国民的な支持を得るまでには至っていないが、挑戦は絶えることなく続いている。今後、百年後、二百年後の日本人はどんな新しい食べ物を口にしているのか、伝統をさして重んじない国民性のなせる技で兼好的な驚愕やショックがあるのか興味のあるところである。時代は絶えず変わって行くものであり、兼好が批判したような末法的な社会現象は招来するのか否か、ひとへにわれわれ自身かかっていることである。 ■参考文献 鰹節 宮下章著 法政大学出版局 「徒然草の歴史学」 五味文彦著 朝日選書 ■データー 世界ラーメン協会【IRMA】、日本即席食品工業協会 「唐の物は、薬の外はなくとも事欠くまじ…… (百二十段)」に続く。