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問題 表示 解答 補足 1582年に徳川軍と北条軍が戦った山梨県北杜市にあった城です 獅子吼城 ししくじょう 1582年の徳川家康との戦いで北条氏直が本陣とした山梨県の城 若神子城 わかみこじょう 1602年に細川忠興が築城した福岡県北九州市にあった城 小倉城 こくらじょう 1606年に陸奥国の戦国武将安蘇国重が築いた城です 人首城 ひとかべじょう 1609年に豊臣方の備えとして徳川家康が兵庫県に築城した城 篠山城 ささやまじょう 2012年の映画『のぼうの城』で舞台となっているお城です 忍城 おしじょう 「天空の城」として人気の竹田城跡がある兵庫県の都市 朝来市 あさごし ある有名なアニメに登場する城のモデルになったこの城は? アルカサル 石を自然な状態で積み上げたお城の石垣の積み方です 野面積 のづらづみ 石川県にあった穴水城の城主を務めた戦国武将 長続連 ちょうつぐつら 今川氏真が家臣の城を改修して支城にした、静岡市にあった城 丸子城 まりこじょう 岩手県にあるお城盛岡城の別名です 不来方城 こずかたじょう 越後上杉氏の家臣・大熊市が居城とした新潟県上越市にあった城 箕冠城 みかぶりじょう 江戸幕府が全国の諸大名に命令してお城などを作らせた土木工事 天下普請 てんかぶしん 岡山城の別名です 烏城 うじょう お城の中心をなすヤグラのことです 天守閣 てんしゅかく お城の天守や櫓の壁面にある鉄砲や矢で攻撃するための小窓 狭間 さま お城にある門の中で普段は使用してない門 不明門 あかずのもん お城の天守の形の種類です 長押形 なげしけい 織田信長が生まれた地とされる現在の愛知県稲沢市にあった城 勝幡城 しょばたじょう 鎌倉時代に茨城県水戸市に水戸城を築城した武将です 馬場資幹 ばばすけもと 鎌倉時代に栃木県那須郡那珂川町に築かれたお城 武茂城 むもじょう 関東七名城の一つにも数えられた群馬県前橋市にあった城です 厩橋城 まやばしじょう 京都にあるこのお城は○○○○城? ふしみももやま 九鬼氏が本拠とした、三重県志摩市の岬に築かれた城です 波切城 なきりじょう 熊本城の本丸御殿に入るための地下通路を○○通路という? 闇り くらがり 現在の群馬県にあった真田昌幸の沼田城の支城 名胡桃城 なぐるみじょう 坂上田村麻呂が現在の岩手県に築いた蝦夷制圧の拠点 胆沢城 いざわじょう 真田昌幸が城主を務める沼田城の支城だったお城 岩櫃城 いわびつじょう 滋賀県にある彦根城の別名 金亀城 こんきじょう 賤ヶ岳の戦いの際に柴田勝家が本陣を置いた滋賀県にあった城 玄蕃尾城 げんばおじょう 信濃守護・小笠原氏が本拠とした長野県松本市にあった城です 埴原城 はいばらじょう 島津氏と伊藤氏の争いの舞台となった宮崎県日南市にあった城 飫肥城 おびじょう 庄内平野の北部にあった山形県最古のお城です 新田目城 あらためじょう 承久の乱で活躍した逸見義重が現在の岐阜県山県市に築いた城 大桑城 おおがじょう 城の裏側の門の別名は○○門? 搦手 からめて 城の防御用に、先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べた柵 逆茂木 さかもぎ 世界遺産にも指定されている沖縄本島にあるお城です 今帰仁城 なきじんじょう 世界遺産にも登録されている沖縄の観光名所 しゅりじょう 関ヶ原の戦い後に消失した秋田県にあった小野寺氏の城 西馬音内城 にしもないじょう 戦国時代に浅利氏が居城とした秋田県大館市にあった城です 十狐城 とっこじょう 戦国時代に土肥氏が築いた富山県にあった城は○○城? 弓庄 ゆみのしょう 戦国時代の尼子氏の居城となった島根県にあった城は○○○○城? 月山富田 がっさんとだ 戦国大名・浅井氏の居城だった滋賀県長浜市にあったお城です 小谷城 おだにじょう 戦闘の際に兵や馬の移動に用られた、城の土塁の上部分 馬踏 まふみ 武田斐三郎が設計した日本初の洋式城郭 五稜郭 ごりょうかく 中の太鼓を鳴らすことで城下に刻を知らせた楼閣のこと 鐘楼 しょうろう 長野県長野市にあった武田信玄が築いたお城 松代城 まつしろじょう 南北朝初期に大崎家兼が築いた宮城県大崎市にあった城 名生城 みょううじょう 新潟県十日町市にあった上杉謙信の支城です 松代城 まつだいじょう 日本のお城の屋内にある柱に囲まれた居住空間のこと 身舎 もや 播磨三大城の一つに数えられた兵庫県姫路市にあったお城です 英賀城 あがじょう 播磨三大城の一つに数えられた兵庫県姫路市にあったお城です 御着城 ごちゃくじょう 姫路城などに見られる、土壁の表面に白漆喰を塗った壁のこと 塗籠 ぬりごめ 兵庫県の竹田城を包み込む川霧を発生させている川は○○川? 円山 まるやま 平安末期に城資盛が築城した新潟県胎内市にあった城 鳥坂城 とっさかじょう 北条氏の家臣・遠山光景が築いた埼玉県比企郡にあった城です 小倉城 おぐらじょう 松本城の太鼓門にある高さ4m、周囲7mの巨石 玄蕃石 げんばいし 松本城の別名です 烏城 からすじょう 結城氏の重臣・水谷正村が築いた茨城県筑西市にあった城です 久下田城 くげたじょう
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ステータス 名前 忠義のトモエ レアリティ SR 属性 火 アクティブスキル 一人当千の弓 発動時間:5秒 クールタイム:300秒 パッシブスキル 天下無双3 真・軍師の戦略3 プロフィール スリーサイズ 76/55/77 血液型 O 誕生日 11月1日 身長 156cm 体重 48kg 好物 鮭の揚げ物 好きな動物 柴犬 CV 武田 羅梨沙 多胡 出典 平家物語 司書を主とし、忠誠を誓う番犬系図書精霊。自分が傷つくことを恐れず、主を常に第一に考える。古風で礼儀正しく、まじめな性格で、からかわれることには慣れていない。好物の大福を縁側で食べている時が至福の時間。 シナリオ 主の忠犬 (進化-1回で開放) (進化-2回で開放) (進化-3回で開放) 出典 「平家物語」は、鎌倉時代に成立したとされる平家の栄華と没落を描いた軍記物語。成立時期ははっきりしておらず、その内容から1212年から1309年の間とされている。平家物語の名は後年につけられた呼称であり、また作者については多くの説がありはっきりしていない。 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」の始まりで有名。 現存している諸本は、琵琶法師が各地を巡って口承で伝承されてきた語り本の系統と、読み物として見せるため加筆されてきた読み本の系統に大別される。 トモエの由来は、平家物語に登場する、源義仲に仕える強弓の女武者「巴御前」と思われる。平家物語で「巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり」と記された。 コメント 名前
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経塚山の太子堂と東福寺 (笹下) 笹下の東福寺は、このあたりでもっとも古いお寺です。その昔、京都の比叡山から一人のお坊さまが、背中にお薬師さんという仏像をせおい、はるばるこの地にやってきて、小さなお堂をひらいたことが、この寺のはじまりです。 でもある時、寺にかみなりが落ちて、ぜんぶ焼けてしまいました。とても貧しい村だったので、なかなか再建されず、永い間そのままになっておりました。ある時、またまたこの地に、密厳というお坊さんが訪れ、荒れはてたお堂を見ておどろき、さっそくお堂を建てて、お薬師さんをおまつりしました。 鎌倉時代には、親鸞上人というえらいお坊さんが、この地を訪れたとき、東福寺に三ケ月も滞在して、村の中をあちこちと、まわって歩きました。そして、いつのまにか、この寺のことを、三月院と言うようになったそうです。 ある時、親鸞上人の夢の中に、聖徳太子が現われて、近くにある経塚山に、自分で作ったという太子像があることを告げたそうです。 上人はさっそく山に行って、夢にみた場所を掘りおこしてみますと、何と夢の中に現われたものとそっくりの太子像が、土の中から姿を現わしたのです。上人は、大変よろこんで、その太子像を寺におさめたそうです。 その後、この太子像は、村の人たちの手でお堂が建てられ、そこにおさめられました。そして、経塚山の太子堂とよばれ、大切にされました。 また、この地をおさめていた間宮豊前守信元という殿様が、この太子像のことを知り、大変尊んで、村を守ってくださるようにとお願いしたそうです。しかし、経塚山の太子堂は、江戸時代に火事で焼けてしまいましたので、太子像は寺にうつされていましたが、今はもとの経塚山に帰っております。 太子像が一時移されていた東福寺の庭のかたすみには、見ざる、言わざる、聞かざる、の三猿が、ひっそりとこちらを見つめています。江戸時代に作られたもので、このへんでは一番古いものです。 また、山門を入るとめずらしい花塚もあります。このあたりは、明治から大正時代には、横浜の花どころといわれ、花かごをせおって商いする風景をよく見かけたものです。 この花塚は、村の人が花の精に感謝する気持で、作られたものです。
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和田義盛の関所跡 (最戸) 最戸と別所の境にある,餅井坂を登りきったあたりの両側に,小高い丘があります。 土地の人々は,この付近一帯を「和田山」と呼んでいます。 それは,この急な坂道を利用して,鎌倉幕府の要職にあった和田義盛が,関所を設けた 所との言い伝えがあるからです。 この「和田山」付近には,「和田義盛の仇討」という伝説もあるそうですが,詳しいことはわかっていません。 また,和田山には大きな塚があって,甘酒台にも,首塚と呼ばれるものがあったといわれています。 和田義盛は,頼朝に信頼されていたため,武士をまとめる役所である侍所の最高責任者の別当に任ぜられ,各地に鎌倉を守るための砦などをつくったといわれています。 起伏の激しいこの和田山をふくむ丘陵地帯は,関所として利用するには都合のよい地形であったのでしょう。 そして,ここを通る「鎌倉下の道」は,武蔵の国を通って,北関東やいまの東北地方にあたる奥州につながっている,重要な道でしたから,この道にそって,和田義盛が多くの関所や砦を設けたという,言い伝えが多く残っています。 その主な場所としては,いまの野庭団地のあたりに,「関城」と呼ばれる和田義盛が築いた大きなお城があったといわれています。 関城の北側から西側には,馬洗川の上流をへだてて,「鎌倉下の道」が通っているため,このあたりは鎌倉を守るための関所としても,たいせつなところであったわけです。 そして,今も和田義盛の館跡などの伝説は,「鎌倉上の道」である,境川周辺にもあり,また,金沢区や栄区の古い道筋にもあります。 とくに,和田氏の子の朝比奈三郎が,一晩で朝比奈の切り通しを造ったとの伝説は有名です。 鎌倉時代につくられた『吾妻鏡』には,和田義盛のことを,あまりよく書いていませんが,この遺跡分布の伝説を見ていきますと,ほんとうはとても頭の良い戦略家であったことがわかります。
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大鎧 大鎧(おおよろい)は、日本の甲冑・鎧の形式の1つ。馬上で弓を射る騎射戦が主流であった平安 - 鎌倉時代、それに対応すべく誕生・発達し、主に騎乗の上級武士が着用した。 地位が最も高い正式な鎧とされ、室町時代ごろには式の鎧、式正の鎧(しきしょうのよろい)、江戸時代には本式の鎧と呼ばれた。あるいは胴丸や腹巻などと区別して、単に鎧ともいう。また古くから着背長(きせなが)という美称もあった。 目次 [非表示] 1 歴史 2 特徴・構造 2.1 鎧 2.2 大袖(おおそで) 2.3 栴檀板(せんだんのいた)・鳩尾板(きゅうびのいた) 2.4 脇楯 2.5 草摺(くさずり) 2.6 兜 2.7 その他 3 用語 3.1 小札(こざね) 3.2 威毛(おどしげ) 3.3 絵韋(えがわ) 4 国宝の大鎧 5 ギャラリー 6 関連項目 7 外部リンク 歴史 [編集] 大鎧を着た武士たち(『平治物語絵詞』) 大陸の騎馬民族の鎧の影響が伺え、挂甲から発展したと考えられているが、仏具の制作技法が用いられるなど平安時代の国風文化の中で日本独特の甲冑として確立した。大陸風の挂甲から日本独特の大鎧形式への変化の過程やその正確な時期については、遺品が乏しく明らかでないが、おおむね平安時代中期頃にその基本形式が確立したと考えられており、馬上で弓矢を撃ち合う合戦形式が中心であった平安 - 鎌倉時代に主に騎乗の上級武将が着用する鎧として普及した。 南北朝時代頃に集団戦・接近徒歩戦が盛んになると、対応するべく大鎧の形状も変化してくるが、むしろ大鎧に代わって上級武士の間では胴丸・腹巻が多く用いられるようになった。それにつれて次第に実戦から姿を消していき、武威の象徴や奉納・贈答品としての性格を帯びてくるようになる。さらに室町時代末期になると当世具足が生まれ、ほぼ完全に実戦から駆逐された。 だが、その外見の華美さから絵画の中では当世具足の代わりに描かれることもあった。また戦乱のなくなった江戸時代には、復古調の鎧として大名家などで象徴的に用いられた。だがそれら江戸時代において新造されたものは当世具足の形状が入ったものが多く、大鎧ではなく、大鎧を模した当世具足として分類されることがある。 特徴・構造 [編集] 黒小札紅絲縅大鎧(明治時代の複製品) 兜・鎧(胴)・袖の3つの部品で一揃えとし、腹巻や胴丸と同じく多くの部分が小札(こざね、後述)により形成されている。平安時代の戦闘は一騎駆けの騎馬戦が主であり、馬上から敵を左に見て矢を射掛けるのが基本であった。そのため大鎧は矢の攻撃に対する防御を重視した構造となっており大袖(おおそで)・鳩尾板(きゅうびのいた)・栴檀板(せんだんのいた)等の部品が付属し、兜の吹返しも大きい。 鎧 [編集] 馬上での防御に重点を置く乗馬戦闘のための鎧で、徒歩戦には向かない構造である。胴の腰部は絞られておらず台形状の外見をしているため、鎧の重量は大部分が肩にかかる。大鎧を着て立つと肩で重量を支えることになるが、馬上では鎧の重量は鞍にかかって安定する。時代が下るにつれて、徐々に台形状から腰部を絞った形になっていった。 鎧本体は平面状の構造をしており、広げると一枚の板になる。(着用者から見て)正面~左側面~背面までの3面が一続きとなり、空いた右面は脇楯(わいだて)と呼ばれる別部品により覆われる。また背面には鎧の構造を柔軟にするための逆板(さかいた)を設け、肩に掛ける肩上(わたがみ)の上には障子の板(しょうじのいた)を垂直に立て、袖が着用者の頭部や首に当たることを防いだ。腰部には大腿部を守る草摺(くさずり)が付属する。 鎧の下には鎧直垂(よろいひたたれ)という細身に仕立てた直垂を着用する。 大袖(おおそで) [編集] 鎧の胴の左右に垂下し、肩から上腕部を防御する楯状の部品。胴と同様に小札で作られ、通常6段の小札を使用するが、鎌倉時代には7段となった。飛来する矢を防ぐため、後世の袖に比べ大きい。左の袖を射向の袖(いむけのそで)、右の袖を馬手の袖(めてのそで)と呼び、敵対する左の袖の方をより堅牢に作ってある。 栴檀板(せんだんのいた)・鳩尾板(きゅうびのいた) [編集] 弓を射る時に開く脇と胸部を防御する楯状の部品。鎧の胴の前面に垂下する形で付属する。右脇が栴檀板、左脇が鳩尾板。右の栴檀板は、弓を引く際に屈伸可能なよう、3段からなる小札で構成され、急所に近い鳩尾板は1枚の鉄板とする例が多い。元来は両板とも栴檀板と呼ばれていた。 脇楯 [編集] 体の右に当てて、鎧の間をふさぐ部品。壺板(つぼいた)とよばれる鉄製の板の下に、革製の蝙蝠付(こうもりづけ)を付け、そこから草摺を垂らした構造をしている。壺板は、脇や胴体になじむように曲線を描いた形状で作られている。 草摺(くさずり) [編集] 草摺は前後左右の4枚からなり平面的な形状である。上述のように右の1枚のみ脇楯から下がっている。5段の小札で作られ、騎乗の際に邪魔になるので前部の前の草摺(まえのくさずり)と後部の引敷の草摺(ひっしきのくさずり)の最下部は左右2つに分かれている。またそのためか、前・後が4段で作られた例も少数ながらある。左部のものを弓手の草摺(ゆんでのくさずり、「太刀懸の草摺」・「射向の草摺」とも)、右部のものを脇楯の草摺(わいだてのくさずり)と呼ぶ。 兜 [編集] 乱髪の武士。他の部分にも後期(南北朝時代ころ)の様式が混じった大鎧姿。 主に星兜、のちに筋兜が大鎧とともに用いられた。いずれも鉄板を張り合わせた兜鉢の裾に、小札で構成した「しころ」(漢字は「革」扁に「毎」)を付ける。大鎧に付属する兜は、顔面の両側を防御する吹返(ふきかえし)が大きく張り出しており、顔面への矢に対する防御が図られている。 兜の下には捼烏帽子(なええぼし)という軟らかい烏帽子を着用し、後の時代には鉢巻も同時に着用するようになった。毛髪は髻(もとどり)として、烏帽子とともに頂辺(てへん、兜の頭頂部)の穴から出していたが、鎌倉時代中期ころから髻にせず乱髪(らんぱつ)にして烏帽子をかぶるようになった。 その他 [編集] 通常、籠手は左手のみに着用する片籠手(かたごて)という様式をとり、右手は直垂の袖口を絞り弓懸(ゆがけ)という皮手袋を着ける。両手に籠手を着用する場合は両籠手(もろごて)と呼ばれた。脚部は脛巾(はばき)という脚絆の上に臑当を着け、足袋と貫(つらぬき)という毛皮の靴を履く。 以上に、太刀と腰刀、弓、矢を入れた箙(えびら)、予備の弦を巻きつけておくためのドーナツ形の器具弦巻(つるまき)を身に着け、大鎧の正式の姿になるとされる。 用語 [編集] 小札(こざね) [編集] 大鎧の主体部は小札と呼ばれる牛の皮革製、または鉄製の短冊状の小さな板で構成されている。小札には縦に2列または3列の小穴が開けられ、表面には漆が塗られている。これを横方向へ少しずつ重ねながら連結した板状のものを、縦方向へ幾段にも繋ぎ合わせる(威す・おどす)ことにより鎧が形成されている。こうした構成により、着用者の体の屈伸を助ける。なお、重量軽減のため、革小札を主体として、要所に適宜鉄小札を混じえる例が多い。これは金交(かなまぜ)と呼ばれる。 威毛(おどしげ) [編集] 上述の小札を、色糸やなめし革の紐を用いて縦方向に連結することを「威す」といい(「緒通す」がその語源とされている)、連結したものを縅と言う。小札の穴を通して繋ぎ合わせる組紐(絲)や韋(かわ)。威の色・模様・材質等により紺絲威(こんいとおどし)、匂威(においおどし)、小桜韋黄返威(こざくらがわきがえしおどし)等と呼ばれ、色彩豊かな国風の鎧が形成された。 絵韋(えがわ) [編集] 鎧や兜の吹返し表面に張られた鹿の皮革。「画韋」とも記される。斜めに交差する線を基調とした襷格子(たすきごうし)柄や獅子、不動明王等の模様が型染めで描かれた。胴前面には弓の弦や腕が小札に引っかかるのを防ぐ為に弦走韋(つるばしりのかわ)と呼ばれる絵韋が張られ、平面状に仕上げられている。 国宝の大鎧 [編集] 製作年代については、研究者や文献により若干の違いがある。また、「糸」「絲」の表記は便宜上前者に統一した。 平安時代前期 沢潟威鎧(大山祇神社蔵) 平安時代後期 赤糸威鎧(武蔵御嶽神社蔵) - 伝・畠山重忠奉納 小桜韋威鎧 兜・大袖付(菅田天神社蔵) - 武田家伝来 紺糸威鎧(厳島神社蔵) - 伝・平重盛奉納 小桜韋黄返威鎧(厳島神社蔵) - 伝・源為朝所用 紺糸威鎧(大山祇神社蔵) - 伝・河野通信所用 赤糸威胴丸鎧(兜欠)(大山祇神社蔵) - 伝・源義経奉納 赤韋威鎧(岡山県立博物館蔵) 鎌倉時代前期 紫綾威鎧(兜欠)(大山祇神社蔵) 鎌倉時代後期 赤糸威鎧(菊金物)(櫛引八幡宮蔵) 赤糸威鎧(梅鶯金物)(春日大社蔵) 赤糸威鎧(竹雀虎金物)(春日大社蔵) 白糸威鎧(日御碕神社蔵) 浅葱綾威鎧(厳島神社蔵) 南北朝時代 白糸威褄取鎧(櫛引八幡宮蔵) - 伝・南部信光奉納 ギャラリー [編集] 『後三年合戦絵詞』の中の大鎧。 『蒙古襲来絵詞』の中の大鎧。 絵画における威儀的表現としての大鎧(池田恒興の肖像)。 明治時代に描かれたとされる大鎧の武者絵。臑当が新しい様式をしている。 関連項目 [編集] 弓術 騎射 参照:wikipedia「大鎧」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%8E%A7#.E5.A4.A7.E8.A2.96.EF.BC.88.E3.81.8A.E3.81.8A.E3.81.9D.E3.81.A7.EF.BC.89 榎本劍修堂 / 劒人倶楽部 埼玉県さいたま市見沼区大谷399 剣道具 通販 / 竹刀 通販
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経塚山の太子堂と東福寺 (笹下) 笹下の東福寺は、このあたりでもっとも古いお寺です。その昔、京都の比叡山から一人のお坊さまが、背中にお薬師さんという仏像をせおい、はるばるこの地にやってきて、小さなお堂をひらいたことが、この寺のはじまりです。 でもある時、寺にかみなりが落ちて、ぜんぶ焼けてしまいました。とても貧しい村だったので、なかなか再建されず、永い間そのままになっておりました。ある時、またまたこの地に、密厳というお坊さんが訪れ、荒れはてたお堂を見ておどろき、さっそくお堂を建てて、お薬師さんをおまつりしました。 鎌倉時代には、親鸞上人というえらいお坊さんが、この地を訪れたとき、東福寺に三ケ月も滞在して、村の中をあちこちと、まわって歩きました。そして、いつのまにか、この寺のことを、三月院と言うようになったそうです。 ある時、親鸞上人の夢の中に、聖徳太子が現われて、近くにある経塚山に、自分で作ったという太子像があることを告げたそうです。 上人はさっそく山に行って、夢にみた場所を掘りおこしてみますと、何と夢の中に現われたものとそっくりの太子像が、土の中から姿を現わしたのです。上人は、大変よろこんで、その太子像を寺におさめたそうです。 その後、この太子像は、村の人たちの手でお堂が建てられ、そこにおさめられました。そして、経塚山の太子堂とよばれ、大切にされました。 また、この地をおさめていた間宮豊前守信元という殿様が、この太子像のことを知り、大変尊んで、村を守ってくださるようにとお願いしたそうです。しかし、経塚山の太子堂は、江戸時代に火事で焼けてしまいましたので、太子像は寺にうつされていましたが、今はもとの経塚山に帰っております。 太子像が一時移されていた東福寺の庭のかたすみには、見ざる、言わざる、聞かざる、の三猿が、ひっそりとこちらを見つめています。江戸時代に作られたもので、このへんでは一番古いものです。 また、山門を入るとめずらしい花塚もあります。このあたりは、明治から大正時代には、横浜の花どころといわれ、花かごをせおって商いする風景をよく見かけたものです。 この花塚は、村の人が花の精に感謝する気持で、作られたものです。 ----
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「マクデブルクへようこそ。――三十年戦争における最悪の敗戦を生む戦場へ、な?」 【所属】 M.H.R.R. 【役職】 生徒会:書記 【名前】 巴御前 【読み方】 ともえごぜん 【種族】 鬼型長寿族幽霊 【元ネタ】 巴御前マルティン・ルター 【字名】 不明 【戦種】 聖譜顕装所持者 【HN】 午前様 【登場巻】 3巻・上~ 【詳細】 鬼型長寿族の幽霊の女性。A.H.R.R.S.の書記でもある。 人の身に近い姿は、始祖の血統故らしい。(なお、鬼型長寿族は、男性の方が特徴を発現しやすい) 「巴御前」は木曾義仲と共にあった女武将。 また、改派の創設者、「マルティン・ルター」を二重襲名している。 何故彼女がルターを襲名したかと言えば、推測ではあるが7巻下で明らかになった。 聖譜顕装 意欲の慈愛・旧代 を扱い、聖譜の写本と二つのハンマーを振るい戦う。 歳のことを言われると、素であろう粗暴な言葉遣いになる。 マクデブルクを訪れた武蔵と交渉を行い、改派の武蔵への助力を約束した。 7巻では旧派の側がネルトリンゲンの戦いを開始すると宣言したため、戦士団を率いてネルトリンゲンに向かう。 その際、歴史再現のためにクリスティーナに会いに長岡屋敷に行った。 彼女との会話で、かつて鎌倉時代に自分たちが行った成功して失敗した歴史再現についてを語った。 その経験上、歴史再現には否定的な立場とみられている。 歴史再現の準拠で『夫』源・義仲を亡くした彼女がルターを襲名したのは、殉教がある旧派で殉教などを緩和できないかと考えたためと推測される。 そして7巻下で今、歴史再現を強要する何かがあることを知り、かつての夫がM.H.R.R.の機動殻となり、戦うこととなった
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東大寺 とうだいじ 奈良県奈良市にある、華厳宗大本山の寺院。 「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」ともいう。 本尊は「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)。 現境内を含む約12ヘクタールが東大寺旧境内として国指定史跡になっている。 多くの建造物、工芸品が国宝、重要文化財に指定されている。 古都奈良の文化財の一部として、ユネスコの世界遺産に登録されている。 所在地 奈良県奈良市雑司町406-1 料金 境内自由、大仏殿・法華堂・戒壇堂は各500円 時間 8 00~16 30(季節により30分前後する) URL http //www.todaiji.or.jp/ 地図 より大きな地図で 奈良県 を表示 伽藍 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。 南大門 国宝 竣工:1199年(正治元年) 平安時代の962年に台風で倒壊したものを再興。 俊乗坊重源が宋から伝えたといわれる大仏様を採用した。 門内左右には金剛力士像(国宝)と石造獅子1対(重文)を安置する。 中門 重要文化財 竣工:1716年(享保元年) 屋根形状:入母屋 階数:2階 金堂(大仏殿)の手前にある楼門。 金堂(大仏殿) 国宝 竣工:1691年 屋根形状:寄棟、一重裳階付 屋根材:瓦葺 規模:高さ46.8m、間口57m、奥行50.5m 近年まで世界最大の木造建築であった。現在でも木造軸組建築としては世界最大。 念仏堂 重要文化財 竣工:鎌倉時代 地蔵菩薩坐像(重要文化財)を安置する。 鐘楼 国宝 竣工:鎌倉時代、13世紀初頭 吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼と同年の天平勝宝4年(752年)の制作で、中世以前の梵鐘としては最大のもの(高385センチ、口径271センチ)。 法華堂(三月堂) 国宝 竣工:743年(天平15年)以前 境内の東方、若草山麓にある。東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の羂索堂(けんさくどう)として建てられたもので、記録により743年(天平15年)までには完成していたと思われる。 二月堂 国宝 竣工:1669年 旧暦2月に「お水取り」が行われることからこの名がある。 平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火には焼け残ったが、1667年(寛文7年)お水取りの最中に焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。 本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも秘仏である。 開山堂 国宝 竣工:内陣1200年(正治2年)、外陣1250年(建長2年) 開山(初代住職)良弁(ろうべん)の肖像を安置するための堂。 南大門とともに、大仏様建築の数少ない遺作。 本尊木造良弁僧正坐像(国宝)は平安初期9世紀の作品で、良弁の命日の12月16日のみ公開される。 三昧堂(四月堂) 重文 本尊千手観音像(重文)、阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。 大湯屋 重文 竣工:鎌倉時代 内部に鉄湯船(重文)が残る。 転害門 国宝 境内西北、正倉院の西側にある八脚門。 平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火に焼け残った寺内で数少ない建物の1つ。鎌倉時代に修理されているが、基本的には奈良時代の建物である。 歴史 733年(天平5年):若草山麓に創建された金鐘寺(こんしゅじ)が東大寺の起源であるとされる。 742年(天平14年):前年の国分寺建立の詔(みことのり)により、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、金光明寺と改められた。 747年(天平19年):大仏の鋳造が始まる。この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。 752年(天平勝宝4年):大仏開眼会(かいげんえ)が挙行され、その後大仏殿の建設工事が始められる。 758年(天平宝字2年):大仏殿竣工 1180年(治承4年):平重衡の兵火で、近隣の興福寺とともに壊滅的な打撃を受け、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った。 1190年(建久元年):大仏殿を再建 1567年(永禄10年):三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。 1691年(元禄4年):大仏の修理が完成 1709年(宝永6年):大仏殿を再建。この3代目の大仏殿(現存)は、高さは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の3分の2に縮小されており、徳川幕府の援助をもってしても、当初の規模を再現することは不可能だった。また、講堂、食堂、東西の七重塔などは近世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石のみが残されている。 関連項目 八脚門 タグ 世界遺産 国宝 奈良市 奈良時代 奈良県 寺院 歴史 重要文化財
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【元ネタ】史実 【CLASS】ライダー 【マスター】 【真名】竹崎五郎季長 【性別】男 【属性】混沌・中立 【ステータス】筋力D 耐久C 敏捷C 魔力E 幸運B 宝具A 【クラス別スキル】 騎乗:C 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、 魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。 【固有スキル】 単独行動:C マスターからの魔力供給を断ってもしばらくは自立できる能力。 ランクCならば、マスターを失ってから一日間現界可能。 勇猛:C 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉を無効化する能力。 また、格闘ダメージを向上させる効果もある。 神々の加護:C 甲佐大明神の加護。 危機的な局面において優先的に幸運を呼び寄せる能力。 【宝具】 『高名先駆(こうみょうのさきがけ)』 ランク:B+ 種別:対人宝具 レンジ 40 最大捕捉:7人 日本軍数千の中で、なべての持ち場に就くことをよしとせずに 敵を探索し、六人の一門・郎等と共に数千の蒙古兵に一番駆けを敢行した逸話から生まれた宝具。 軍勢宝具や結界などの障害を突っ切って、目標とするマスター・サーヴァントまで到達し、直接攻撃することが出来る。 『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』 ランク:A 種別:対軍宝具 レンジ 1~99 最大捕捉:1000人 周囲を「自らが手柄を立てるための舞台」に塗り替えてしまう宝具。 あらゆる難航、難行が“不可能なまま”“実現可能な出来事”となり、 霊格の差や相性の不得手を乗り越える可能性が発生する。 【Weapon】 無銘・弓矢 無銘・太刀 蒙古軍と戦った際に身につけていた武器。 無銘・甲冑 無銘・馬 恩賞奉行であった安達泰盛がライダーに与えたという逸物。 【解説】 鎌倉時代に文永・弘安の役で活躍した、肥後国の御家人。 大軍相手に少数で一番駆けを敢行し、恩賞を貰うために鎌倉まで行って「奇異の強者(珍しい頑固者)」と賞賛されて肥後国海東郡を与えられ、 『蒙古襲来絵詞』を制作した上に寺院も建立するなどの思い切りのよさを貫徹することで歴史に名を刻んだ。
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澪「小野妹子のモノマネをします」 澪「オノノイモコ!」 澪「どう?似てる?」 唯「知らない、だって会った事無いし…」 澪「私はこの前会ったよ」 唯「どんな人だった?」 澪「オノノイモコ!」 澪「こんな人だった」 唯「ふぅん」 澪「なんかね、芋が好きな人だったよ」 唯「おいしいもんね」 澪「私と会ってる時はいつも里芋の煮っころがし食べてた」 唯「そんなに好きなんだ、里芋」 澪「……あ!」 唯「?」 澪「山芋も食べてた…」 唯「里芋と一緒に?」 澪「あ、でもサツマイモは嫌いなんだって」 唯「えー、おいしいのにー」 澪「憎いって言ってたよ」 澪「オノノイモコ!オノノイモコ!」シュピッシュピッ 澪「イモッコォォォォ!」シュピッ 澪「どうだ?唯」 唯「あのね、言いにくいんだけど、なんだか凄く醜悪な顔になってるよ?」 澪「だってこんな顔してたんだもん。モノマネだからね、真似しないと」 唯「でもでも、なんか凄く残念な感じがするよ……」 澪「小野妹子は鎌倉幕府の役人なんだ」 唯「へぇ…?」 澪「イイクニ作ろう鎌倉ガバメント」 唯「? ガバメントは政府って意味だから、鎌倉ガバメントは違うんじゃないかなぁ?」 澪「よく勉強してるな、唯。偉いぞ」ナデナデ 唯「えへへ///」 澪「じゃあ幕府は英語で何て言うんだろうな?」 唯「さぁ?」 澪「こういうのって1度気になると尾を引くな……」 唯「今度調べたらいいよ」 澪「そうだな」 唯「あ」 澪「なんだ?」 唯「そういえばなんで澪ちゃんは鎌倉時代に生きてた小野妹子さんを知ってるの?どうやって会ったの?」 澪「家が近所だったんだ。私が幼稚園を出るまでよく遊んでもらってたんだけど、引っ越して行っちゃった」 唯「残念だね」 澪「ああ、惜しい人を亡くしたよ……」 唯「でも私が知ってる小野妹子さんは飛鳥時代の人だから、その鎌倉ガバメントの小野妹子さんは私が思ってる小野妹子さんとは別人かなぁ?」 澪「唯も小野妹子さんと知り合いだったのか。世の中って案外狭いもんだな」 唯「びっくりだね!」 澪「私も、とってもベリーサプライズだ」 唯「不思議だね」 澪「小野妹子は、芋子・オノノっていう弟が居たらしいよ」 唯「弟なんだ、芋子なのに」 澪「小野妹子も妹子なのに男だろ? 唯「言われてみればそうだね」 おわり 戻る