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酒類 ワイン 販売地域 塩屋宗悦の店 詳細 価値 重量 買値/売値 8 0.1 700文/ 文 用途 飲むと価値×4の気合回復量が加算される。効果時間は2分15秒。 解説 ワインとは、葡萄から製作する酒の総称。 紀元前より記録があり、メソポタミアを発祥として広がり、生産地も現在の中国西部(西域)からイランといったペルシア、イスラム圏一帯、そしてギリシア、イタリアといった旧ローマ圏というぐあいに、ユーラシアの非常に広い地域で作られていた。 なお、葡萄自体は原産地には諸説があるものの現在でも不明であり、日本ではすでに鎌倉時代には栽培が開始されていた記録があり、さらには存在自体は縄文時代からある。 そのため有史初期の段階にはユーラシアのかなりの範囲に広がっていた作物であると考えられる。 また、ワインは麹といった外部酵母を使わなくてもアルコール発酵する。これはワインの素である葡萄自体に酵母が付いているためである。 そのため、米に麹をまぶしたりする日本酒等の穀物を基にするものに比べてはるかに製法は簡単であり、事実ぶどうジュースからワインを作ることが可能である(実際筆者の地元でもジュースから数百本のみ作って売り出したらしいが、売れたという話も、おいしいという話も聞かないため、コケたようである)。 こういった経緯から、ワインがユーラシア大陸において大きなシェアを占めていたのは当然であるといえよう。 なお、実は日本にもワインの記録があり、縄文時代には葡萄果汁から酒を造っていたというが、いつのまにか廃れたようである。 その他情報 名前 コメント
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猿橋 さるはし 山梨県大月市の桂川に架かる橋。国指定名勝。 日本唯一の刎橋である。 所在地 山梨県大月市猿橋町猿橋 料金 無料 刎橋 岸の岩盤に穴を開け、刎ね木を差し込んで斜め上空に突き出させる。 その上に少しずつ長い刎ね木を突き出させていき、これを足場に上部を組み上げる。 歴史 鎌倉時代にはすでに存在していたらしいが、その起源ははっきりしない。刎橋となった時期も不明。 1676年(延宝4年)以降は、橋の架け替えの記録が残っている。 少なくとも1756年(宝暦6年)からは類似した形式の刎橋である。 刎橋は当時他にもあったが、猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。 甲州街道に架かる重要な橋で、宿場に近く多くの往来があった。 1932年(昭和7年)に国の名勝に指定された。 1934年に上流に新猿橋が造られ、交通の主な役割を譲った。 現在の猿橋は、1984年(昭和59年)に架け替えられたもの。 1851年(嘉永4年)の橋を復元したものであるが、部材はH鋼に変更されている。 2010-09-26 関連項目 2010-09-26 2010年9月奥多摩 かずら橋 刎橋 日本一 神橋 タグ 2010年9月26日 国指定名勝 大月市 山梨県 日本一 橋梁 歴史
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禅宗様 ぜんしゅうよう 日本の伝統的な寺院建築の様式の一つ。和様・大仏様に対する言葉。 概要 飛鳥・奈良時代に中国から伝えられた建築様式は、平安時代を通じて日本化し、柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間が好まれるようになった。平安時代以降、日本化した建築様式を和様と呼ぶ。 鎌倉時代に入ると、中国との交易が活発になったことで、再び中国の建築様式が伝えられた。まず入ってきたのは東大寺再興の際に用いられた様式で、大仏様と呼ぶ。 その後、禅僧が活発に往来し、中国の寺院建築様式が伝えられた。これは禅宗寺院の仏堂に多く用いられ、禅宗様と呼ぶ。 中世においては、禅宗以外では禅宗様を用いることはなかったが、近世に入ると様式の折衷化が進み、他の宗派でも禅宗様を一部取り入れるようになった。 禅宗様の特徴 一部は大仏様の特徴にも通じる。 構造的には、貫(ぬき)といわれる水平方向の材を使い、柱と強固に組み合わせて構造を強化している 柱の上部同士をつなぐ頭貫の上に水平材(台輪)を置く 柱の上端をすぼませる(ちまきという) 柱の下に礎盤を置く(そろばんの玉を大きくしたような形の部材) 貫の先端(木鼻)には繰形といわれる装飾を付けている 上部に複雑な曲線の付いた火灯窓がある 扇垂木 海老虹梁 詰組 など 禅宗様の建築は畳を敷かず、土間に平瓦を敷き詰める。天井を張らずに構造材をそのまま見せている。 代表的な建造物 功山寺仏殿(日本最古の禅宗様式) 善福院釈迦堂 円覚寺舎利殿 正福寺地蔵堂 建仁寺 建長寺 大徳寺 南禅寺 関連項目 和様 大仏様 建築・都市辞典 折衷様 木鼻 火灯窓 タグ 「せ」 仏教 建築用語 旅用語
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西明寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 西明寺(さいみょうじ)は、京都市右京区梅ヶ畑槇尾(まきのお)町にある寺院。山号は槇尾山。本尊は釈迦如来、宗派は真言宗?大覚寺派。開基(創立者)は、空海の十大弟子のひとりで甥にあたる智泉大徳。高雄(高尾)の神護寺、槇尾の西明寺、栂尾の高山寺を合わせ「三尾」とも呼ばれる。春に咲く三つ葉つつじの群生と秋の紅葉の見事さで知られる。 歴史 西明寺は神護寺の別院として天長9年(832)に智泉大徳によって創建された。鎌倉時代には荒廃したが、建治年間(1275~1278)に和泉国槇尾山寺の自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔などが建てられた。また、正応3年(1290)には「平等心王院」の号を後宇多法皇より賜わり、神護寺より独立することになる。永禄年間(1558~1570)に兵火によって伽藍を焼失し、一時的に神護寺と合併されていたが、明忍律師によって慶長7年(1602)に再興された。元禄13年(1700)には徳川綱吉の生母、桂昌院が本堂と表門を寄進して現在の寺容が整った。 伽藍 本堂 元禄13年(1700)に桂昌院の寄進により再建された。須弥壇にある厨子には運慶作と伝わる鎌倉時代の本尊、清凉寺式の釈迦如来像が収められている。脇陣には千手観音立像(寺伝によると智泉大徳作)や自性上人の念持仏という愛染明王像などを安置する。 客殿 江戸時代前期に移築された。本堂とは短い渡廊下で結ばれている。当時は食堂(じきどう)と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用された。慶長年間(1596~1615)から元和年間(1615~1624)に亘って制定された九ヶ条からなる「平等心王院僧制」の木札が掲げられている。 表門 本堂と同じく元禄13年(1700)の造営。主柱と控え柱の計4本の柱の上に切妻屋根を組み、屋根の棟の位置を中心からずらす、いわゆる薬医門形式の門。 文化財 国宝 なし 重要文化財(建造物) なし 重要文化財(美術工芸品) 木像釈迦如来立像 木像千手観音立像 拝観情報 住所 京都市右京区梅ヶ畑槇尾2 電話番号 075-861-1770 拝観時間 9:00~17:00 拝観料 境内自由、本堂拝観400円 アクセス JRバス「槙ノ尾」下車徒歩3分 駐車場 徒歩圏内(約1分)に私営駐車場あり 主な行事 その他 リンク 京都の寺社505を歩く 下 (PHP新書)
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そういやあ、伝承通りの童子斬りの使い手は現時点ではいないな - 2014-09-19 16 54 27 「童子斬り」が生まれた時代「同時」と云う用語が存在したのだろうか? - 2014-09-19 23 47 34 「啐啄同時」という言葉が、禅の書物にあるようだから、鎌倉時代にはあったんじゃない? - 2014-09-20 00 17 23 剣を使う流派なら誰でも発想するような秘伝。ダンシング・ブレイズの方が性能がいいような気がする。 - 2016-02-28 13 26 22 ミリオンエッジやダンシングブレイズの方が強そう (2022-07-28 16 08 24) 再現したと言うが摩利や修次には起動式を作る技術はない。移動系魔法で剣を操り、圧斬りで威力を補ってるだけで、ドウジ斬りという魔法の魔法式や起動式を使ってるわけではないだろう。 (2022-07-29 14 50 12) 古式魔法なら起動式ではないかもしれないけど同じことだな。二人が失伝した魔法を再現したと考えるよりは既知の魔法の組み合わせで似たことができたとする方が納得できる。 (2022-07-29 22 02 46) 嫌いなキャラが成果を上げているのが気に入らないだけか。 (2022-08-01 09 57 15) 元の魔法は剣を動かすだけで、自分の剣を同時に振るのがポイントなんじゃない?再現したというのはクイックドロウとかと同じ魔法以外の技術で魔法を効果的に使う方法ってことだと思う。 (2022-07-31 23 19 43)
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根城(ねじょう) 所在地八戸市根城 別称 築城年鎌倉時代、建武元年(1334)か 築城者工藤氏、南部師行 城主変遷根城南部氏(1334-1590)-南部氏[八戸氏](1590-1627) 廃城年寛永四年(1627) 現状根城の広場、八戸市博物館 概要 根城は青森県八戸市に所在した城館跡であり、陸奥国北部に大きく勢力を拡大した南部氏一族、根城南部氏(八戸南部氏、八戸氏)の本拠であった。国指定史跡。日本100名城の一。 歴史 建武元年(1334)陸奥国司北畠顕家の国司代として南部師行が当地に下向、築城したとされるが、本丸跡からは師行入部前のものとみられる建物跡も検出されており、鎌倉時代に北条氏の地頭代工藤三郎兵衛尉が構築した居館跡を利用して築城したものと考えられている。 根城南部氏は、南部氏初代光行の三男実長を祖とし、4代師行の時代に大きく勢力を伸ばした。元弘三年(正慶二・1333)北畠顕家が義良親王を奉じて奥州へ下向した際に国司代として同行、翌年糠部郡八森に城を築き、南朝方の根本となる城という意味から根城と名付けたという。 明徳四年(1393)には根城南部氏8代政光が甲斐国の本領を去って糠部郡を本拠地と定め勢力を拡大、その頃から八戸氏を称したとされる(13代政経の頃とも)。以降閉伊、久慈、鹿角、比内、津軽郡などにも大きく勢力を拡大したが、天正十八年(1590)18代政義(政栄)の頃、宗家である三戸南部氏26代信直が豊臣秀吉より朱印状を受けてからはその家臣と位置付けられる。そして元和四年(1618)盛岡藩2代藩主南部利直より「知行宛行目録」を与えられ、完全に家臣である事を明文化された。 寛永四年(1627)、利直により八戸氏22代直義(直秀?)が遠野への所替えを命ぜられる。その理由は仙台藩主伊達氏の侵攻、そして旧領主和賀氏家臣たちの叛乱に備えるためというものだったが、海に開けた八戸の地を直支配地としたい利直の野心もあったという。以降八戸氏は遠野南部氏とも言われ、鍋倉城1万2500石の領主として明治維新まで存続した。 現状・感想 本丸、中館、東善寺館、岡前館、沢里館などから構成され、土塁、堀などによって区画されている。現在は「根城の広場」として整備されており、本丸内の主殿などが復元され、また八戸市博物館と東善寺館の間には八戸城東門が移築されている。この八戸城東門はもともと根城にあったものが八戸城に移されたと伝承され、安政六年(1857)大風で倒れたのち家臣である木幡氏の門として建て替えられていたという。 関連項目 青森県の城館一覧 南部氏の城館一覧 日本100名城
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■基本情報 名称 瑞鹿山 円覚興聖禅寺 かな ずいろくさん えんがくこうしょうぜんじ 宗派 臨済宗 円覚寺派 大本山 本尊 宝冠釈迦如来坐像 創建 1282年(弘安5年) 開山 無学祖元 開基 北条時宗 (鎌倉幕府8代執権) 補足情報 鎌倉五山第二位 ■見所 山門 天明三年(1783年)に大用国師誠拙和尚が再建。楼上に観世音菩薩・羅漢像が安置されている。「円覚興聖禅寺」の額は伏見上皇の勅筆とされる。 仏殿 昭和三十九年に再建。本尊は宝冠釈迦如来。 百観音 江戸時代、拙叟尊者が百対の観音石像を奉安し、その後、荒廃したが、明治時代に洪川老師によって整備された。以前は、松嶺院にあったが現在は方丈の庭園に移されている。 舎利殿 国宝。源実朝がそうの能仁寺から請来した仏牙舎利を奉安する堂宇。鎌倉時代に中国から伝えられた唐様式を代表し、その最も美しい建造物として国宝に指定されている。 白鹿洞 落慶開堂の日、この洞中より一群の白鹿が現れたという。この奇瑞によって、山号を「瑞鹿山」と言う。 黄梅院 境内最奥に位置する塔頭寺院。時宗夫人の覚山尼が、時宗の菩提のために建立した華厳塔の地に、足利尊氏が夢窓疎石(円覚寺15世住持)の塔所として文和3年(1354年)に建立した。 洪鐘 国宝。1301年(正安3年)北条時貞が国家の安泰を願って寄進した。鎌倉時代の代表的な梵鐘。 ■アクセス 最寄り駅 JR横須賀線「北鎌倉駅」 住所 神奈川県鎌倉市山之内409 拝観料 300円(2006.4.1) Webサイト http //www.engakuji.or.jp/index.shtml ■ご朱印 ■訪問記録 2006年4月8日、午前に参拝。意図せずして、訪れた日が花まつり当日で、仏殿で降誕会が開かれており、ありがたい甘茶をいただく。ご本尊の前で頂く甘茶はすこぶる美味。境内の桜は散り始めといった風情だが、九割がたは残っておりとても美しい。時折、強い風にあおられ、伽藍に桜吹雪の舞うさまは、春ならではの贅沢な光景。仏殿でご本尊にお参りしたあと、選佛場の薬師如来にお参り。薬師さまの右側には観音さま(観音菩薩半坐像)も安置されており、その美しさにしばし見惚れる。特に由来の記述はないが、私の目には厳しすぎず、優しすぎず、お顔と身体、足元に至るまで調和がとれて見える。とても美しい仏さまだと思う。その後、正続院境内の国宝「舎利殿」を門外から拝見(残念ながら非公開のため、門外からうかがい見るのみ)。続いて落慶開堂の日に、白鹿の一群が現れたという白鹿洞へ。仏日庵を横目に黄梅院のお庭を拝見した後、美しい唐門のある方丈を訪う。方丈の前庭には、無学祖元手植えと伝えられるビャクシン(白槙、和名イブキ)と、百観音と呼ばれる石造の観音群。山門右手の山頂にある国宝の洪鐘(おおがね)を見た後、納経所でご朱印をいただく。これまでの経験上、禅宗寺院にはたとえ公開されている寺院でも、人を拒む雰囲気を強く感じることも多かったのだが、円覚寺には不思議と訪れるものを受け入れてくれる寛容さがあるように感じた。これまで私が訪れた禅宗寺院のなかで、もっとも懐の深さを感じさせる寺院かもしれない。
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組み紐(くみひも)とは、日本伝統の工芸品で、細い絹糸や綿糸を編んで織り上げた紐。「角打ち紐」とリボン状に平たい「平打紐」と、丸い「丸打紐」の3種類に大きく分けられる。 日本には仏教の伝来により、仏具、経典、巻物の付属品の飾り紐として渡来した。奈良時代には細い色糸による組み帯などの男女の礼服として普及、鎌倉時代には武具の一部、安土桃山時代には茶道具の飾り紐として使われた。この時代には、豊臣秀吉が美術工芸を奨励したことから組み紐を職業とする者が現れた。現在でも伊賀などでは伝統的に、組み紐業が盛んである。 江戸時代のはじめには組み紐製造の内規台が作られ、より美しい色彩や模様も考案された。男性中心の武家社会に浸透した「真田紐」や「三分紐」は武具や刀剣の飾り等に盛んに用いられ、武士達の美的センスと伊達男ぶりを示すアイテムのひとつとされた。江戸末期の文化年間には女性の装いの帯締めとしての用途にも使われるようになった。これらの組み紐は熟練の職人による一点ものの手工芸品だったが、1882年ドイツのバーメンから、工業用の組み紐製造機が輸入され、組み紐業が産業として成立するようになった。明治の廃刀令以降、刀剣の飾りとしての需要はなくなったが、帯締めの用途を中心に和服の装身具として定着した。 * 現代では伝統工芸と西洋文化の融合が図られる事例もあり、アメリカのスポーツブランドナイキはスポーツ・シューズのストリングの紐に伝統的な平打ちの組み紐の「三分紐」を採用した。この話を受けた京都の老舗 組み紐店は、伝統の維持と、前例のない事からこの話を一度は断るが、後に承諾、画期的なシューズは2001年に発売された。 現在は設備のある文化教室で手芸として習うこともできる。 参照:ウィキペディア「組み紐」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%84%E7%B4%90 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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☆このページでは、霧雨の野望に関する名所・名跡を紹介します。 稲葉山城 後の岐阜城。築城は鎌倉時代に遡るが一度は廃城となり15世紀頃に再建。 戦国時代に入り道三以下斎藤氏三代がその居城とすると歴史の表舞台に登場。 「岐阜」は信長が大陸の故事にちなみ天下への大望を込めてつけた名とされる。 後の天下人・徳川家康はその名を嫌い関ヶ原戦後の1601年に岐阜城を廃城。 各種創作では難攻不落の名城として語られる事が多いが、史実ではなんと竹中半兵衛による電撃占拠も含めて6回も落城が記録されていたりする。 今の模擬天守は標高329mの位置にあり観光客は麓からロープウェイを使う。 資料館や展望台等が完備されており、史跡と言うより観光名所の性格が強い。 ちなみに最近の研究では『斎藤道三』は父子二人いた、とする説が有力になっていたり。 つまり、この説が正しい場合は稲葉山を支配した斎藤(長井)家は四代続いたという事に。 この血筋は長井道利の位置づけも未だはっきりしなかったり、まだまだ謎が多いらしい。 なお、最後の落城は関が原の合戦の時。城主は織田信長の孫、かつて三法師と呼ばれた秀信だった。 城兵二千五百は池田・福島らかつての織田系武将を先鋒とする東軍の攻撃によく防戦したが、衆寡敵せず敗退。 戦後、岐阜十三万石は没収されて秀信は高野山に送られ、織田宗家はここに断絶した。 清洲城 清洲は清須とも表記。築城は1405年。 室町時代には尾張の首府として栄えたが後に徳川家康によって廃城とされ中部地方の中心の座は名古屋に移る。 戦国時代には尾張守護代織田宗家の当主である織田信友が入城していたが、信長が奪い大改修を加えて本拠とした。信長死後の清洲会議の舞台でもある。 現在の清洲城は再建された模擬天守。しかし、櫓・門など当時の建築物は多くが移築再利用され愛知県内各地に残る。跡地・清洲公園は桜の名所として有名。 なお、尾張領内には太郎太刀の現存でも有名な熱田神宮がある。革新の全国一枚マップにはこう言った各地の名所が配置されていたりします。 いわずと知れた尾張守護代家、織田家の本城。ただし、信長の織田家は清洲織田家(=宗家)の家老を努める分家筋だったりする。そんな訳で結構有名な割に、信長の居城としては八年のみ利用されただけ。おのれ稲葉山。 吉田郡山城 安芸毛利氏の居城。築城は南北朝期。 元就の代には現在の郡山全域に及ぶ広大にして難攻不落の城郭が築かれ、尼子晴久率いる三万の大軍をも撃退。 やがて毛利氏が中国地方の覇者として繁栄を迎えると城郭もそれに伴い発展。 輝元の代には石垣や櫓なども築かれ毛利氏の本拠に相応しい偉容を誇った。 しかし戦国乱世が終息に向かうにつれて難攻不落ゆえの交通の不便が表面化。 以後、毛利氏の本拠としての役目は1591年完成の広島城に譲る事となった。 鎌倉幕府が後醍醐帝のクーデターで崩壊した直後、建武三年の築城とされる。 初代城主は毛利時親で、源頼朝の側近であった大江広元のひ孫にあたり、安芸へは地頭職としての赴任であった。 なお、毛利家は本来東国の豪族だが、北条時頼と三浦氏とが権力を争った宝治合戦で毛利氏が三浦氏方に付いた為、お家滅亡に近い状態になっていた所からの再起だった(NHKの大河『北条時宗』を覚えてる人もいるだろうか?) どうも、明治維新までは天下分け目の合戦で負け組につくのが毛利氏のパターンだったらしい。 春日山城 越後上杉氏~長尾上杉氏の居城。築城は鎌倉期とも南北朝期とも。 謙信の父・長尾為景が入場すると長尾氏の本拠として大改修を施した。 乱世にいち早く対応したその城郭は、鉢ヶ峰の頂に構えた本丸を中心に山裾まで 曲輪や屋敷などをずらりとならべ山ひとつを丸ごと要塞化した物。 山城としては国内有数の規模を誇り難攻不落の堅城として名を残すが、 やはり天険ゆえに交通の便が悪く泰平の世にその偉容は残らなかった。 「天地人」の影響もあり人気の史跡だが本丸跡へと至る道はちょっとした登山。 歩き慣れていない人が観光気分で臨むと間違いなくバテバテになるのでご注意。 岩村城 築城時期は不明。岩村遠山氏の居城。城主・岩村景任が病没すると、 養子が幼少のため景任の妻であるおつやが事実上の城主となる。 武田方の将、秋山信友は岩村城の攻略にあたり懐柔、篭絡策を選択。 美貌でも知られたおつやの方を妻に迎えることで岩村城を開城せしめた。 おつやの方は信長の叔母でもあったため、この行為は信長の逆鱗に触れる事に。 後に信長が岩村城を奪還すると、秋山夫婦は逆さ磔の極刑に処された。 策謀だったのか、本当の恋愛だったのか、今となっては知る術は無い。 現在は日本三大山城に列され、立派な石垣が当時の面影を伝えている。 創建時期は不明だが、鎌倉時代には既に行政を行うための館程度の物はあったと思われる。 代々の城主は遠山氏であった。典型的な中世山城であったのだが、 後に川尻秀隆や森氏の家老の各務元正によって石垣造りに大改修された。 そのため、山城であるにも関わらず江戸時代にも藩庁として利用された珍しい城である。 遺構の多くは織豊時代のものだが、城の基本設計である縄張自体は戦国時代のものもかなり残っている。 本丸から眺めは戦国時代を感じさせる。 六段壁や本丸周辺の石垣など見所の多い城であるが、注目して欲しいのは石垣の積み方である。 野面積み、打ち込みハギ積み、切り込みハギ積みという三種類の技法が使われている。 これは、石垣が作られた年代が違うからである。 戦国好きで名古屋圏にお住まいの方は一度行ってみてはどうだろうか。 城好きならば半日を潰してでも行く価値はあるだろう。麓からでも25分ほどで登れてしまう。 虫の少ない秋の紅葉の季節にでも是非。
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辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 名詞 (名詞に接頭語的に付く) 五十。いそ。必ずしも数の五十を表わさず、多数を意味するのにも用いられる。 ※後撰(951‐953頃)雑四・一二五六「いせ渡る河は袖より流るれどとふにとはれぬ身はうきぬめり〈伊勢〉」 五十 [語誌](1)「い」を「いそ」の転とするのは、用例の年代から見て誤り。五十を意味する最も古い言い方は「い」だが、平安・鎌倉時代に例の多い「いか(五十日)」のほかは挙例の「いせ(五十瀬)」が平安和歌に見えるのみである(「源氏‐賢木」の「すずか河八十瀬(やそせ)の波に濡れ濡れずいせまで誰か思ひおこせむ」は地名の伊勢と「五十瀬」を掛けたものか)。(2)奈良時代には数詞としての用例はないが、「万葉集」には「五十日太(いかだ)」(五〇)「五十母不宿二(いも寝ずに)」(一七八七)「五十寸手(生きて)」(二九〇四)「五十戸常(言へど)」(六七四)のように「五十」を借訓仮名のイとして用いた例が多数あり、この時代にも「い‐」と言ったと思われる。(3)「いそ(ぢ)」は、「みそ(ぢ)」「よそ(ぢ)」などからの類推で新たに作られた形。なお、五の意の「いつ‐つ」や五百の意の「いほ‐」との関係は未詳。 広辞苑 ごじゅう。いそ。 皇極紀「―の 兵士 (いくさびと)」 五十 大言海 数詞 〔前條ヲ見ヨ、 五十 (イソ)ノ略ナルベシ〕 五十 (イソ)。 五十 (ゴジフ)。他ノ語ニ冠シテ用ヰラルルノミ。 垂仁紀、廿五年三月「 五十 (イ) 鈴 (スズ)川」( 五十 (イ) 瀨瀨 (セゼ))萬葉集、九 三十 長歌「冬ノ夜ノ、明カシモ得ヌヲ、 五十 (イ)モ寐ズニ、我レハゾ戀フル、妹ガタダカニ」( 寢 (イ)も寐ずナリ)同、十三 二 長歌「 五十 (イ) 槻 (ツキ)ガ枝ニ」「 五十 (イ) 日 (カ)ノ 祝 (イハヒ)」 五十 検索用附箋:名詞名称数詞 附箋:名称 名詞 数詞