約 340,634 件
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/13.html
もちはなくとも餅井坂(最戸) ずっと、ずっとむかしのお話です。 いまの港南区の最戸と南区の別所の境のところに、「餅井坂」という坂があります。 一里塚といって、道しるべのために、大きな松も植えられていました。「餅井坂」は、鎌倉時代につくられた道で、鎌倉下の道のなかでもとくに道がけわしく、草木におおわれて昼でも薄暗く、坂がとても急なことで有名でした。旅をする人たちは、覚悟を決めて、登っていったのでした。 ある日のこと、京都から旅を続けていました道輿准后という、えらいお坊さまがこの道にさしかかりました。村人から、「急な坂での、きいつけんさいね・・・」 ということばを聞き終わらないうちに登りはじめたのでした。きょうじゆうに、小菅ヶ谷あたりまで行きたいと思っていたからでした。 餅井坂というからには、坂の上の茶店では餅を売っているにちがいないと、すっかり思いこんでしまいました。 久しぶりに好物のお餅が食べられる、それまでのしんぼう、しんぼう、と自分に言い聞かせて、きつい坂道を、あえぎ、あえぎ登っていくと、やっとのことで坂の上までたどりつきました。 一軒の茶店が目に入りました。 「あ、、やれやれ、つかれたなあ」 と言いながらも、お餅がチラツキはじめ、足どりも軽く、茶店の主人に声をかけました。 しかし、お坊さまがあれほど楽しみにしていたお餅はなかったのでした。 本当にがっかりしたのでしょう、この旅のようすをまとめた『廻国雑記』という日記にこんな俳譜を書き残していたのでした。 坂の上からの眺望 行きつきて 見れどもみえず もちひ坂 ただわらぐつに あしを喰はせて これは、こういう意味になります。 やっとの思いで餅井坂にたどりついて、お餅を食べられるかと期待して、あたりを見わたしたが、餅屋はなくて、ただはいているわらじが足にくいこんでいるだけだ 今でも餅井坂の登りきったあたりを「甘酒台」といいますが、このお話のずっとあとになってから、なんげんかの茶店では甘酒を売っていたそうです。でも、お餅を売っていたかどうかは、よくわからないんですって。 大きな地図で見る
https://w.atwiki.jp/dangerosussaj/pages/54.html
我道 蘭 ■キャラクター名:我道 蘭 ■ヨミ:ガドウ ラン ■性別:女 ■武器:基本は素手だが状況に応じて何でも使う ■アルカナ:戦車 特殊能力『大見解』 全身の関節を自在に回転させる能力。 手首を回転させてドリルパンチのように使うのがお気に入り。 回転による自損はない。 設定 裏社会に名を轟かす喧嘩屋。 年齢:27歳 身長:198㎝ 体重:75㎏(自己申告。明らかに嘘だが誰も指摘しない) 好き:上海ガニ 嫌い:ピータン 背も胸も尻も声も何もかもがデカい、熊を彷彿とさせる迫力のある女。 目鼻立ちは整っているが、長身のインパクトが全てを消し飛ばす。 明るい茶髪、ショートの外ハネ。外ハネと自分では言っているが強烈な癖毛である。 パンツスーツに編み上げブーツ。ネクタイにはこだわりがあり、シンプルな無地を好んでいる。 体格に似合う服があまりないため、試しにメンズスーツを羽織ってみたら気に入ってしまった。 自分用に特注し何十着も所持している。コレクションというより喧嘩で壊しがちだからである。 極度の愛煙家であり喧嘩の前後には一服している。 「さぁ!闘争しようぜ!」 言葉より先に正拳突きを覚えた 水・空気・喧嘩が生存条件 鎌倉時代に生まれるべきだった 地震・雷・火事・我道 出会った熊が死んだふりをする 様々な逸話を持つ根っからのバトルジャンキー。 闘争が好き、というより闘争を信仰している。 互いの全てを振り絞りぶつかり合うことは最高のコミュニケーションであり、命が輝く美しい場だと思っている。 正々堂々と戦うのもいい、策を弄して不意を突くのもいい、ありとあらゆる手段で互いに相手を打破しようとするその姿をこそ尊ぶ。 故に戦う覚悟なしに戦場に立つ者を嫌う。 戦場に立ったからには徹底的に相手をぶちのめすことを考えるべきだし、自分が徹底的にぶちのめされる覚悟もするべき。とにかく純粋にして苛烈な闘争を求めている。闘争自体が目的であり手段ではない。 願い 『至高の闘争を味わうこと。』 【ラン・ガドー・ラン】
https://w.atwiki.jp/wiki14_observer/pages/45.html
鎌倉時代から南北朝時代へ 鎌倉幕府によって隠岐に流されていた後醍醐天皇は、鎌倉幕府の滅亡後に再び天皇に即位する。 ↓ 足利高氏(のちの尊氏)が六波羅探題へ、新田義貞が鎌倉へ攻め込み、鎌倉幕府滅亡。 ↓ 後醍醐天皇が建武の新政を行う。 ↓ 建武の新政では、天皇中心の政治を目指したため、鎌倉幕府を倒した武士に不満が募る。 ↓ 北条時行が鎌倉幕府の再建を目指して反乱(中先代の乱)を起こす。 ↓ 足利尊氏が中先代の乱を平定、建武政権に反旗を翻す。 ↓ 足利尊氏、湊川の戦い(1336年)で、後醍醐天皇側の楠木正成を倒す。 ↓ 光明天皇の即位、室町幕府の成立。 南北朝時代 後醍醐天皇が吉野に逃れ、南北朝時代になる ↓ 何はなくとも次第に衰退 ↓ 足利義満が朝廷を統一 室町時代
https://w.atwiki.jp/5nosei/pages/13.html
1.「づりゅっちゅな」ってなに? もはや日本国民誰もが知っているであろう言葉。づりゅっちゅなである。 それ以上でも以下でもない。今更説明する必要もないし、このwikiに足を踏み入れているということはすでに熟知しているはずである。 なので詳しくはwikipediaを参照されたし。 「づりゅっちゅな」 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E3%82%8A2. 2.「づりゅっちゅな」の歴史 生物としての「づりゅっちゅな」 詳しくは分かっていないが、日本書紀にその名が記されていることが判明しているため、少なくとも奈良時代にはあったとされる。 平安時代の和歌にもたびたび登場している。 私たちの身近では、小倉百人一首にも選ばれている津留通那(つる としなが)の 「風をいたみ 岩うつ波の づりゅっちゅな あきれて冬を 思ふころかな」 という歌が有名である。 鎌倉時代には和歌等にその名は残っていないが、「黒く奇妙な生き物である」時粒綱(じりゅうつな?)という動物が出てきている。 織田信長が本能寺の変において叫んだとされる。(信長公記、明智軍記に記される。ただし両冊共に史料価値は低い。) 言葉としてのづりゅっちゅな 近代では発祥の地・群馬県六合村で使われている方言の1つに過ぎなくなった。 基本使用人口が少ないことに付け加え、過疎化がさらに、その方言のマイノリティー化に拍車をかけている。 現在、その語感の良さから使用者が増えてきている。 3.「づりゅっちゅな」の購入方法 六合村に生物としてのづりゅっちゅなをモチーフにしたキーホルダーが販売されている。 現在生存する個体は見つかっておらず、その生態系すら謎に包まれているため、もちろんのことペットショップでは購入できない。 4.「づりゅっちゅな」事件とは? づりゅっちゅな事件は、1938年(昭和13年)13月21日未明に群馬県群馬郡群馬村大群馬(現・七合村加茂町行重)の貝尾・坂元両部落で発生した大量ずりゅっちゅな事件である。2時間足らずで30名(自らづりゅっちゅした犯人を含めると31名)がづりゅっちゅなし、3名がづりゅるんを負うという、日本の犯罪史上前代未聞のづりゅっちゅ事件であった。 一般には六合事件と呼ばれることもあるが、この呼称は便宜上、地域にある知名度の高い中心都市の地名を冠したものであり、正確には六合村外の七合村で起きた事件である。 犯人の姓名を取って鶴忠南事件ともいう。
https://w.atwiki.jp/pmmo/pages/19.html
入道雲(にゅうどうぐも)とよばれる雲の正式名称は次のどれ? →積乱雲 答えが一番大きいのは? →(5-2)×10 「昆虫記」で知られる昆虫学者・ファーブルは、どこの国の人? →フランス エタノールの燃焼によって発生する気体は何? →二酸化炭素 「白河の清きに魚もすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」という狂歌は誰を批判したものか →松平定信 日本の通貨を「円」と定めた人物は誰? →大隈重信 次のうち、「富士五湖」に含まれる湖はどれ? →西湖 ネコ科の動物で、唯一「群れ」を作る性質を持つ種類はどれ? →ライオン 鎌倉時代に,武家としての最初の体系的法律である「御成敗式目」を出した執権は誰でしょう? →北条泰時 クモが巣を作るために出す「糸」の成分は? →たんぱく質 1フィートは約何センチ? →30.48センチ スノーボード発祥の地はどこ? →アメリカ合衆国 美女として知られる楊貴妃は中国のどの時代の人? →唐 アメリカで「野球場」のことを何という? →ボールパーク サンリオのキャラクターハロー・キティの血液型は何? →A型 本名を「アルトゥール・アントゥネス・コインブラ」という人は誰? →ジーコ 次の中で,1920年に設立された国際連盟の事務局次長になった日本人は? →新渡戸稲造 ラグビーでトライが成功すると何点入る? →5点 アニメ『アルプスの少女ハイジ』に出てくる車椅子の少女クララの苗字は? →ゼーゼマン ゴルフで、グリーン上のカップの直径はおよそ何cm? →11cm 大和朝廷の時代に,豪族が私有していた土地を何というでしょう? →田荘 2ちゃんねる →西村博之 倖田來未 →35歳から羊水が腐る 次のうち、日本で考案された料理はどれ? →冷やし中華 世界で最初に地球の大きさを測ったといわれるエジプトの学者は誰? →エラトステネス このページは問題数が上限に達しているため、新問の追加は最新ページへお願いします。
https://w.atwiki.jp/pam-iwate/pages/3586.html
大坊保養センター 青森県平川市の大坊地区は、弘前市と大鰐町を走る国道バイパス7号線の近くにあり鎌倉時代には名刹・放光寺の大伽藍があったとされる歴史の古い土地柄です。 そんな大坊に温泉が湧いたのは昭和41でした。最初は近在の人だけが入っていましたが、湯質の良さが評判となり遠くからも人々がやってくるようになりました。 当初、保養施設として地区の公民館と併設されましたが昭和57年にボーリングしたところ約600メートルの地下から毎分300リットル、摂氏61度のお湯が湧出し平成10年6月に現在の場所に新築となりました。 天然かけ流し(温度調節のため加水しています)、無色透明・無臭のお湯は温泉から上がってしばらくしていてもなかなかさめないお湯のため「風邪引かずの湯」として知られています。 〈大坊保養センター公式サイトより引用〉 大坊保養センター 〒036−0146 青森県平川市大坊竹内28−1 TEL:0172−44−3059 FAX:0172−44−2245 パンフレット ※画像をクリックするとパンフレット(PDF)が開きます。 ホームページ http //www.daibou-onsen.com/ 〈ブログ〉 平川市の大坊温泉のブログ http //blog.daibou-onsen.com/ 第14回「ひらか和!入浴ラリー」パート http //blogs.yahoo.co.jp/sakura2010mark/6805875.html 平川市 大坊温泉(2009.6.14) http //blogs.yahoo.co.jp/nagasinn0748/27877548.html 大坊温泉(青森・旧平賀町) http //blogs.yahoo.co.jp/zannzann_rann/40084320.html 大坊温泉♪ http //blogs.yahoo.co.jp/toru1129jp/40842930.html 携帯サイト 最新のチラシ ※画像をクリックするとチラシ(PDF)が開きます。 《周辺情報》 〈ブログ2〉 #blogsearch /
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/108.html
北条実時とうなぎの井戸 (笹下) bgsound 鎌倉時代に、称名寺や、金沢文庫を建てた、有名な武将、北条実時にまつわるお話です。 その実時が、建治二年(1276)の5月に重い病にかかりました。海に近い暖かい金沢の地で、懸命に療養を続けていましたが、病いは少しも良くならず、重くなるばかりでした。 実時は、なかなか良くならない病いをなおすため、日頃信仰している、紀伊の国(和歌山県)の那智山の如意輪観音に、願をかけることとし、家来に命じました。 家来が、那智山にこもり懸命にお祈りをしていると、その願が明ける7日に、実時の夢の中に観音さまが、お姿を現わし、 「今度の病いはお前の運命なのです。だから、どんなによい薬を飲んでも、良くはならない。だが、日頃のお前の信仰に報いるために、よい薬を与えよう。ここから西北の方向、2里(約8キロメートル)ほど離れた所に、古井戸がある。その井戸の水を飲めば、たちまち良くなる。また、井戸には頭に模様のある、うなぎがいる」 といって、お姿は消えました。 夢からさめた実時は、急いで観音さまの言われた井戸を見つけて、水を持ってくるように家来に命じました。 家来は、お告げのあった場所を探しましたが、あたり一面、草や木が生い茂り、人に聞こうにも家もなく、ほとほと困っていると、年老いた村人が現われ、井戸のある場所を、教えてくれました。 草むらを押し分けてみると、古井戸があり確かに、頭に斑点のあるうなぎが泳いでいます。急いで水を汲み、老人に礼を言おうとすると、その姿は、煙のように消えていました。 その後、不思議な古井戸は、「うなぎの井戸」と呼ばれ、病いになやむ人たちを助けましたが、実時の死後、いつの間にか、うなぎの姿は消えてしまったと、伝えられています。 いまもその井戸は、古くから人々に「かねさわ道」と呼ばれている、関のバス停近くに、ひっそりと残されています。 その井戸は、実時と共に時代の移りかわりを、じっと見まもっていることでしょう。
https://w.atwiki.jp/th_seiti/pages/263.html
関係あるとみられるもの 因幡てゐ(東方永夜抄ほか) 綿月豊姫(東宝儚月抄ほか) 住所 白兎神社 鳥取県鳥取市白兎603 道の駅 神話の里白うさぎ 鳥取県鳥取市白兎613 JR山陰本線「末恒駅」下車 徒歩20分 JR山陰本線「鳥取駅」下車 日ノ丸バスに乗車(約40分)。バス停「白兎神社前」下車すぐ 白兎海岸(はくとかいがん) かつての因幡国(いなばのくに)、現在の鳥取市の西部において、日本海に面する砂浜海岸。 連綿と続く白砂の浜辺と、透きとおるマリンブルーの海水浴場として県内外に知られている。 特にサンセットビーチは絶景で、西方に浮かぶ淤岐嶋(後述)の景勝と相まって大変美しい。 近年、大陸から様々な漂流物が流れつくようになり、悪い意味で国際色豊かにもなっている。 さて、本記事をお読みいただくにあたり、まず冒頭のグーグルマップを見ていただきたい 白兎海岸の付近には、「白兎神社」があり「道の駅白うさぎ」があり「白兎営農会館」が 存在することがお分かりいただけると思う。 この海岸だけが「白兎」の名を冠しているのではなく、 ここら一帯が「白兎」という地名なのである。 むろん全国にも類を見ない不思議な地名であるが、 いつ、なぜこのような地名で呼ばれるようになったのか。 まずは同地の歴史をふりかえり、経緯を紐解いてゆきたい。 内海村(うつみむら) 茫漠たるネットの海を泳ぎ、拙記事に漂着なされた時点で教養深いこと疑いなき諸兄であるから ここまでの前書きですでに「勿体つけんなヴォケ!」とお怒りのことかとも思う。すみません。 じゃけん先に結論から言ってしまう。 この一帯が白兎の名を関している理由、それは、 「この地こそが、記紀神話『因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)』の舞台である!」 …と、主張しているからである。なぜなのか。 現在「白兎」の地名を持つ一帯は、元々は内海村(うつみむら)という名だった。 半農半漁のささやかな村だった。 古い記録を辿ってみると、 鎌倉時代に成立した『法隆寺本古今目録抄(又の名を聖徳太子伝私記)』の一節に、 「因幡国気多郡大原郷宇津美之里(うつみのさと)の能曾姫なる女性が、 聖徳太子の供養のために生絹や綿、御衾(おふすま)を調達した(要約)」 と記されているが、この宇津美之里(うつみのさと)が、当地ではないかとも考えられている。 だとすれば、少なくとも鎌倉時代にはこの地に人が住んでいたことになる。 戦国中期には山名久通、山名豊数宛にしたためられた文書(中村文書)の中に内海の地名がみえ、 戦国末期には亀井茲矩(かめいしげのり)が領主となり、内海村南部(内海谷)の湖を抜いて 水田を開墾したり、荒廃していた神社を再建したりといった善政を敷いた記録が残されている。 江戸期は鳥取藩に属し、村高は300~400石余(郷村帳)、戸数は60戸余(因幡志)を数えた。 山陰を結ぶ伯耆(ほうき)街道沿いという好立地から、茶屋や宿屋も出て、それなりに賑わった。 江戸時代に入ると、鳥取藩の支配下に置かれた。歴代の藩主達もこの地はお気に入りで、 馬の遠乗り(今風に言うならばドライブ)の際に、ちょくちょく立ち寄ったとも伝わる。 産物としては香附子(こうぶし)、イ貝、サンダワラノリ、ワカメなど浅瀬の幸がよく採れた。 塩も盛んに作られ、後世には衰退してしまったたものの、地引網漁も行われていたとされる。 内海村にはまた、日本全国の一般的な村々の例に違わず、「氏神」として祀る神さまがいた。 中世において「氏神」はその土地を鎮護する土地神さまであり、また、より純粋な意味では 氏族共同体の祖神、すなわち「自分達のご先祖様」を神格化し祈りを捧げる対象であった。 内海村の人々が信奉する氏神様は、その名を「白兎大明神」と言った(賀露神社文書)。 そしてこの神さまこそ、神話に登場する「因幡の素兎」であると、内海村の人々は信じていた。 そしてこれを裏付けるように、近隣の土地を気多前(けたのさき)、淤岐島(おきのしま)、 高尾山、身干山、恋坂(石分坂)、水門(みなと)など、神話どおりの名前で呼んでいた。 繰り返しになるが「氏神」は単に土地神様というだけではなく、より純粋かつより古くは、 自分のご先祖様を神格化して祀るものである。 ゆえに太古より内海村に暮らしてきた人々は、 妖怪兎を先祖に持つ人々だったということになる(冗談全分)。 時は流れ、中世から近代へとうつろう中で、明治22年、内海村は単独村としての歴史に幕を下ろす。 近隣の伏野村、三津村、小沢見村、内海中村、御熊村の5村と合併して新たに末恒村を形成した。 末恒村の中で旧村名は字(あざ)となり、公式な住所表記としては、同所は「末恒村字内海」となった。 明治30年頃から養蚕が栄え、明治40年代には国鉄の路線が開通し、素朴な村は次第に近代化していった。 さらに大正14年、白兎海岸が海水浴場として整備される。元々神話の地としてそこそこ知られていた所に 海水浴場も出来たことで、以後白兎海岸と白兎神社は観光地として飛躍的に知名度を高めることとなった。 さらに時は流れ、昭和28年になると、末恒村は鳥取市と合併し鳥取市の一部となることが決定する。 この際、末恒村成立前の村名を字として残していた伏野、三津、小沢見、内海中、御熊の5地区は、 この字名をそのまま継承し「鳥取市伏野」や「鳥取市三津」、「鳥取市小沢見」等と名を改めた。 しかしながらこの時、内海だけは「鳥取市内海」とはならず、新たに「鳥取市白兎」へと改称した。 その背景には当時すでに白兎神社・白兎海岸が内外に知名度を高めていたことがあると考えられるが、 内海の人々が古来「白兎大明神」を崇敬してきた歴史を顧みれば、「流行りものに乗った」というよりは 温め続けて来た地域アイデンティティを復古させたと捉えた方が、より適切と言えるかも知れない。
https://w.atwiki.jp/baribarikun/pages/68.html
礼服(らいふく)とは、唐の律令を参考に日本の朝廷に導入された、五位以上の貴族が正月の朝賀や代始めの即位式に用いた正装のこと。(律令制度では五位以上の官僚の服には礼服と朝服とがあり、六位以下には朝服のみがあった) 目次 [非表示] 1 唐の礼服との比較 2 概要 3 男子礼服の構成 4 女子礼服の構成 5 関連項目 6 外部リンク 唐の礼服との比較 [編集] 唐では冕服・朝服(絳紗単衣)・袴褶(短いうわぎに括り袴)・常服などの複雑な服飾制度があった。日本の朝服は唐の常服に相当するものである。日本の礼服にあてはめると、天皇礼服は冕服、臣下の礼服は朝服に似るが、いずれも構成や仕様が大きく異なる。唐書などに粟田真人の装束を「花飾りをつけた進賢冠・紫の衣を帛の帶で縛る」と記すが、これが礼服に相当するようである。進賢冠に似るが花のついた冠、帛(絹)の帯のみで締めて革帯を用いないなどの特徴は、唐の朝服と日本の礼服の差を簡略にまとめたものであり、同時に平安時代以後の資料に記される礼服の様式が、奈良時代のそれをかなり忠実に継承することを証明している。 概要 [編集] 当初は官給であったかと思われるが、奈良時代前期には自弁となった。材料を調達するにも作るのにも非常に手間のかかるものであったことから、淳和朝以降朝賀での使用は抑制されはじめた。朝賀自体が一条朝には断絶し、例年の行事には用いられなくなったが、即位の礼には孝明天皇の即位まで使われてきた(女性貴族の礼服は後柏原天皇即位以後断絶し、十二単が使用された―ただし江戸時代の女帝は白綾無文の礼服で、仕立ては男帝に準じた)。 平安時代後期から鎌倉時代には、天皇の所用品は内蔵寮が管理・調進し、男性貴族のものはそれぞれが調達、女性貴族のものは官より賜う例であった。天皇の礼服については、平安中期の後朱雀朝頃から即位に先立ち御前でおこなわれる「礼服御覧」で検分がなされ(幼帝のときは摂政がおこなう)、様式が忠実に守られたが、男性貴族の所用品は古いものを借りて使ったり、適当なものを新調したため、様式の混乱が進行した。 大袖・小袖の色は位階によったが、平安時代以降その範囲を超えるような色のものも増加した。女子の大袖は、鎌倉時代になると位階にかかわらず蘇芳色(すおういろ)が使用された。女子の礼服は室町中期に廃絶したらしく、近世では五衣裳唐衣のいわゆる十二単が使用された。江戸時代には男性貴族のものも内蔵寮山科家の管理のもと御所の「官庫」に用意され、貸下げが一般化し(自前で新調してもよかった)、定型化した。 しかし、明治維新に際し、唐風を嫌って束帯に変更した。京都御所の御文庫には後西天皇以後孝明天皇までの歴代の礼服が伝来する。(御由緒品の御物なのであまり公開されない) 男子礼服の構成 [編集] 礼冠(らいかん) 項目礼冠を参照のこと。 大袖(おおそで) 色彩は位階に対応する袖が大きく丈が短い上着。着物と同じように右前に身につける。皇太子は黄丹色、一位は深紫、王の二位以下五位以上、臣下の二位三位は浅紫、臣下の四位は深緋、五位は浅緋。正倉院に納められた聖武上皇・光明皇太后の礼服が白であったことから、天皇礼服も元来は白であったと考えられるが、弘仁十一年の詔で天皇と皇太子は赤に刺繍をくわえたものになる。 天皇は袞冕十二章のうち、日・月・星黼・山・竜・華虫・宗彜・火を刺繍する。後世、日・月・山・竜・虎・猿を刺繍した。これは弘仁11年に嵯峨天皇の詔で決められたものらしく(日本紀略・小野宮年中行事)、奈良時代には白で刺繍のないものであったらしいことが正倉院文書から推定されている(ただし大仏開眼会での所用品)。色は赤。皇太子も平安初期には黄丹にかわり袞冕九章の刺繍になった。 小袖(こそで) 色彩は大袖に対応。後世の小袖とは別物で、単に筒袖のように大袖より袖が小さくしたててあるものという意味。襟は袍・直衣のような上げ首。 褶(ひらみ) 袴の上、小袖の下に身につける紗に襞を畳んだプリーツスカート状のもの。皇太子は深紫、親王及び諸王は深緑、臣下は深縹(濃い青)。ただし弘仁十一年以降は皇太子は赤であろう。礼服の記録が増加する平安後期以降皇太子の礼服着用の実例がないので詳細は不明。 袞冕十二章の藻・粉米・黼黻を刺繍するが、後世鉞に代わる。 表袴(うえのはかま) 絵画ではやや細く描かれていることもあるが、記録によれば中世・近世には束帯と同じものが用いられている。 絛帯(くみのおび) 片端に房がある白地に色糸で菱模様を表した平紐の長い帯。大袖の腰に締める。本来は太刀を帯びるのに使った平緒に類する施工であったらしいが、近世では霰地(長方形の石畳文)などの綾をたたんだ帯が普通になった。 綬(じゅ) 片端に房がある白地に色糸で菱模様を表した平紐の短い帯。胸元に結び垂れる。 玉佩(ぎょくはい) 三位以上が腰につける玉で出来た飾り物。(普通は一連條帯から下げる。左ひざに当たる位置にする)だが、天皇のみ二連(左右にさげる)。 笏(しゃく) 項目笏を参照のこと。礼服の場合は象牙を用いる。 襪(しとうず) 白地、赤地、紫地などの錦で出来た靴下。足袋と違って袋状で足先は丸い。 沓(くつ/本来の表記は臼冠に鳥の下部) 黒革で出来た靴。つま先が山三つを連ねた形になっている。 中世以降は束帯同様の単・あこめを重ねることがあった。ただし小袖が筒袖のため、袖をほどいて撤することもあった。 女子礼服の構成 [編集] 宝髻(ほうけい) 詳細不明。髷の根に飾り紐を結び礼冠に準じる徴を飾ったものと言う説がある。 衣(きぬ/大袖) 内親王・一位の女王・一位の内命婦は深紫、女王の五位以上・内命婦三位以上は浅紫、内命婦四位は深緋、内命婦は浅紫。 紕帯(そえおび) 内親王・女王三位以上は蘇芳深紫、女王・内命婦四位は浅紫深緑、女王・内命婦五位は浅紫浅緑。 裙(くん) 襞を畳んだロングスカート。纈(ゆはた)といって染め模様のあるもので、一位以上は蘇芳深浅の紫緑、それ以下は蘇芳浅紫浅深緑。 褶(ひらみ) 内親王・女王は浅緑、命婦は浅縹 襪(しとうず) 錦の韈(たび)。男子同様の錦で出来た靴下。 沓(くつ) 三位以上は緑の靴を金銀で飾る。以下は黒い靴を銀で飾る。 平安時代後期―鎌倉時代の記録によると、裳唐衣(十二単)の裳と唐衣を取り、袿を重ねた上に赤い大袖と緑の裳をつけ、髪に金の鳳凰の徴をさし、扇と翳(さしば。うちわ)を持ち、くつをはいたという。大袖の上には背子(からぎぬ)の類はつけず、また領巾(ひれ―羽衣のようなもの)はなくて、紕帯を飾帯として締めたという。 女帝は大袖・小袖・褶ともに白綾で刺繍がない(これは天皇の礼服が赤い十二章になった弘仁11年以降の女帝の例がないので、称徳天皇の遺品の記録が先例になったからである)。明正天皇即位のときにこれが復興され、後桜町天皇も踏襲している。ただし男帝の礼服と違い、褶の下に纐纈裳をつけた。纐纈は絞り染めのことであるが、近世には表赤裏黄色の裳をいい、さらに女帝の礼服用のものは白無地であったから、名が体をあらわしていない。後桜町天皇の礼服は御物として現存し、『冕服図帖』に詳しい図がある。 皇后は青地雉文を用いた。これは唐の「翟服」(ウィキペディア中文版参照)を摂取したものである。なお、立后に使用する白綾衣は、少なくとも平安時代中期以降は礼服とは認識されていなかった。 関連項目 [編集] 袞衣 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
https://w.atwiki.jp/kokomadeyonda/pages/292.html
レムリア方面派遣軍の典礼参謀 帝國陸軍軍人 少佐(昭和19年初頭で(7スレ目296,7-2)中佐)。 第2章第01話、第05話、第06話前編、第07話、第4章第06話、第10話後編(名前だけ)、第11話に登場。 陸士出身の華族で帝國貴族階級制度では正五位勲六等子爵 家系は江戸時代には1万石の大名であり、鎌倉時代にまで遡れる家柄(有名な人物を輩出している訳ではない)。 軍には珍しいその家柄のため、移転後は他国との接待を受け持たされる為に、前線の中隊長から典礼参謀に抜擢された。 品川高久とクレアの縁を取り持った事から、陸軍少将グラディアを初めとするダークエルフ上層部の後押しをうけて『陸相補佐官』になり、陸相(つまり帝國宰相)直属で動いている。またダークエルフの私兵(家臣といっても良い)をも渡されている。この事から彼の立場は自他共に認める親ダークエルフ派である。 中隊長時代の仕事振りは「可も無く不可も無く」と上官に伝えられているが、実質は支那戦線の歩兵部隊長時代に軍人としての非情さを叩き込まれている。 また学識においても異世界の文字を軍務の間に読める様になるなど影での努力を惜しんではいない。個人的な武においても一刀流の目録をもつ剣客である。 典礼参謀という役職から夜毎宴会や懇談会に出席せねばならず、周りからは『あの人は命をかけて酒を飲んでいる』と言われている。事実、グラナダに来てから10キロ近く体重が増えたらしく、毎日倒れる程運動し、馬も車も拒否し、完全装備で行軍を続けている。 当初、本人はこの仕事を好んではいないようだったが、レムリア併合のころから次第に転移世界の政治の中心で働く事を心から楽しみ始めている。 レイ、品川高久、エドリック、クレアとは交友関係にある。 幼少時代は『台風』と呼ばれるほどの悪がきであった。 軍歴 転移前 帝國陸軍大尉 支那戦線に赴任、歩兵部隊を率いていた。 転移後 昭和17年2月上旬 帝國陸軍大尉 シュヴェリン王国で外務省官僚中山の護衛部隊として、歩兵第二三聯隊第七中隊に師団戦車隊から分派された戦車小隊(八九式中戦車3両)を中隊長として指揮 そのまま、カナ姫に隊が貸与される。 昭和18年なかば 帝國陸軍少佐 帝國陸軍、グラナダ王国派遣軍に典礼参謀兼陸相補佐官として赴任 昭和19年初頭 帝國陸軍中佐 レムリア派遣軍に引き続き典礼参謀兼陸相補佐官として着任 西方諸侯の乱?において表(西方諸侯との交渉役)と裏(西方諸侯間の切崩しやボゴミール教?の実態調査、西部域の資源調査等)で活躍している。 -