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0. ハジめに 一時は2chフットボルテスレの話題を独占し、ゲームにおいて見かけられなくなった今も尚語り継がれる伝説のコテ、ドープな皿欲しい。彼(性別について確証はないが、便宜上「彼」と呼ぶ。)は2011年3月11日に日本を襲った未曾有の大震災後にその消息を絶っている。以後、ドープの記憶を忘れることのできないプレイヤー達は彼の行方について様々な仮説を立てており、本稿はそれらについて検証するものである。彼は生きているのか?生きているならば名を変え今もフットボルテに留まっているのか?明確な答えを出すことは困難を極めるが、真理に少しでも近づくため、本稿がその手がかりなることを願う。なおめんどくさいため引用元は表記しない。本wiki内の記事「歴史考察のための資料集」の2chログ速を各自参照して頂きたい。 1. 東日本大震災以前のドープな皿欲しい ドープな皿欲しい(以下、ドープ)の名前がハジめて2chフットボルテスレに登場したのは2010年11月20日である。 648 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2010/11/20 12 22 08 ID +WkcMwQS したらばがドープマンセーしててワラタ 彼の当時のプレースタイル(とはいえ彼のプレースタイルは一貫しており、変わることはなかったと思われる)を非常に的確に表現したレスがその2日後に書き込まれている。 716 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2010/11/22 00 16 21 ID BOz3UFkH ちょっと話題の、ドーブだかドープだか知らんが酷かった。 早めにパス連呼、敵味方に嫌味、オナドリ、味方からボール強奪 一応味方は皆ctrl使うし、早めにパスだしてたと思うのだが・・・。 こいつ知名度のある人が一緒じゃないとプレースタイルが変わる気がする。 だからうまいって言われることがあるのではと勝手に推測 このようなプレースタイルでは彼の評判は言わずもがなで、2ch初代フットボルテスレにおいては彼についての肯定的なレスは見られず、スレ住民の総意として初心者しか抜けないオナドリ野郎といった認識があったようだ。このスレッドで興味深い点は早くも彼の正体として「スモスキー」なる人物が挙げられていることである。このスモスキーというプレイヤーについて筆者は知識がなく、futbolte.rakurakuhp.net/i_728062.htmにおいて”あの、制御不能のドリブルは誰にも止められない!?”といった記述を発見できたのみである。識者がこれについて補完してくれることを期待する。 また、一躍スレの有名人となったドープには偽物が出現することもしばしばあったようだ。 764 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2010/11/24 01 46 33 ID ehhSRbEL なにこの時間帯ドープがわいてるんだが さっき同じ部屋にふたりドープいたしw 834 : 御新香盛[] : 投稿日:2010/11/29 22 11 04 ID a4pVcO3x ドープが三人出没。 2010年12月に入ると彼のプレースタイル、技術に一定の評価を下しているレスも見受けられるようになる。 48 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2010/12/11 00 40 45 ID 3lw4hZ7C ドープはまともなチームだと邪魔だが味方に荒らしがいるとこれ以上頼れる味方はないってくらいドープ△ってなる 28- 30 チーム登録制が実装されると思ってる時点で間違い 52 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2010/12/11 01 47 26 ID v9Y5xbkn ドープは味方の中傷さえしなければ良い試合作れると思うのになあ オナドるけどキープ力あるし、ゴール前で味方FWにホイールパスしてくれるし でもDFが俺しかいなくて、守りきれなかったときに「名DF!」って言われたときはやるせなくなった だがこういった声は比較的少数派で、過半数は11月同様、次のようにアンチドープのスタンスをとっている 92 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2010/12/12 09 50 15 ID 8cwgigHf ドープがまともなチームを崩壊させた場面は何度も見たけどw ていうかドープを擁護とかありえないよ。ドープ本人乙 彼についての好き嫌いはともかく『【Splax】フットボルテ その2【サッカーゲーム】』スレにおいて文字列「ドープ」での抽出数は286にも及び、話題として絶大な人気を誇っていたことがわかる。またこの時期は「貴史」を始めとした荒らし全盛期であり、彼らとのコントラストで「口は悪くとも一応ゴールを目指してプレイしてくれるドープの方がマシ」といった論調も見受けられる。彼のぶれないキャラクターを受け入れる動きが微小ながら芽生えた時期でもあった。 ドープの偽物、ドープを文字ったハンドルネームは彼の人気に比例して増えていき、 627 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2010/12/24 14 45 57 ID kbtwEUmP 【最近見るドープ集】解説付 ・CSKAドープ・・・イチバンよく見るドープ。今日は何回もプレーした。 ・ドープの皿欲しい・・・相変わらずのオナドリで敵も見方も30秒以内で抜けていった ・ドーブの皿欲しい・・・↑をまねして作られたもの。最近は見ないが昔よく見た。 ・ドープリプリ左衛門・・・ここ三日で目撃回数5回。プレーに関しては特になし。 ・ドープ△・・・ゴール前に住んでいる。最近よく見る指示厨。 といったようにクアレスマクリスマスイブにフットボルテでドープごっこに勤しむクソ野良も存在し、彼の人気の高さを伺わせる。ドープな皿欲しいは貴史らを嫌悪するプレイヤーたちにとってクアレスマカリスマであった。 なお、ドープは大晦日にもフットボルテをしていたことが確認されており、彼自身かなりのジャンキーであったと推測される。 157 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2010/12/31 06 55 08 ID 8jqo5+TD 早朝からドープがドリブル止められまくってゲームにならない件 前ホイールは仕様変更によってその利用価値は全盛期に比べれば薄れたものの、今なお欠かせない技術であり一時は放り込み戦術の核として猛威を振るった。ボールを出しても自動追尾してしまうといった使いにくさからフットボルテ公開直後はあまり重要視されておらず、後ろホイールの糞っぷりもありホイール自体地雷とみなされていたが、前ホイールの有効な利用法に彼は早期に気付いていた。 201 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2011/01/01 15 44 14 ID tjYjIU84 とある掲示板でホイール自慢している奴を見掛けたが 綺麗な使い方をやりはじめたのはイブラヒモビッチだと思う 1か月くらい前だったかな なにげにドープも早かった 257 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2011/01/02 01 36 09 ID +wua226W ドープさんのホイールパスが芸術すぎる件について また、彼の判定の弱さについて指摘するレスも見られ、そのオナドリ技術は馬鹿にできないレベルであったことは彼とプレイしたことのあるユーザーなら理解できるであろう。 310 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2011/01/03 00 49 18 ID 4bMu5Kv3 ドープは当たり強くないからちゃんと守れば抜かれないよ だから逆にテクだけでキープしてる分うまいとは言えるが 当たり強くてテクがあるやつはマジで手に負えないときがある 456 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2011/01/03 22 38 41 ID BGY28Epc 455 俺も今日それ思った いつも見る優良プレイヤー(おそらくチートはしないと思われる)が判定強くなってた ドープは基本的にいつも判定弱いw 回線がしっかりしているかPCのスペックがいいんじゃないかと思われるw 俺はドープ大嫌いだけど ドープの技術の高さはついに2011年1月には信者を生み出し、「きちんと動けば絶妙なパスを出してくれるから、あのプレイスタイルも一種の個性だと受け入れよう」といったかなり肯定的な意見も目につくようになり、一部では完全に市民権を得ていたと言っていい。 472 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2011/01/04 01 43 39 ID 62ggmVj4 ドープのホイールパス芸術的だわ・・・なんで次々と新しいテクニックうみだせんだろ。 机で必死に研究してたりして 475 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2011/01/04 01 52 44 ID qeZdWK4k 少しくらいドープも誉めようか 最近ドープが意図していることがわかってきた ちょっと真似てみるか 485 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2011/01/04 02 32 15 ID ZZV3Gpnn 470 それは感じた ドープはオナドリ中に良いパス出してくるときあるんだが、 敵をかわしながらよく味方の動きまで見れるわ 498 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2011/01/04 08 51 34 ID iBKjWUj2 ドープ批判してる奴=ドープを嫉妬してる奴 1月3日には彼のプレイしているシーンを収めた貴重な動画www.youtube.com/watchが上がっている。天才ドリブラーとして紹介されており、ピカチューさんのクソっぷりが霞むほどの技術を見せつけている。 彼に別の名前があることを勘ぐるプレイヤーが初めて登場したのもこの時期である。本稿のテーマにも深く関わってくる視点であるため触れておく。 555 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2011/01/04 17 51 23 ID 62ggmVj4 てかドープって誰なんだろう? 781 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2011/01/07 13 00 05 ID OfB6YdO1 ドープってあそこまで嫌われて試合にならなくてもそれでも皆勤賞ってことは、 その裏返しに讃えられ、好かれているコテを持っているからなんだろうな ドープとプレイしているシーンが目撃されてないうまい奴が怪しいんじゃないか 333 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2011/01/12 20 44 22 ID 3AS8R6Vo ドープはこことしたらばの掛け持ち住人だと思う 1月も中盤になるとドープに関しての否定的なマジレスはもはや影を潜め、彼のキャラを楽しむスタンスにスレ住民も軟化している。ドープ「さん」といった表記もチラホラ見え始め、クソオナドリ野郎ではなくオナドリクソ野郎として受け入れられつつあった。 608 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2011/01/14 23 26 30 ID 7gZMODAO そういや今日ドープさん見てないわ 609 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2011/01/14 23 28 39 ID TpEzh1Ri 金曜の夜だからな イケメンドープさんは会社からラブホへ直行だろ 937 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2011/01/18 01 52 25 ID m+BrVs6Y ドープ一杯いるけど一番うまい奴がドープさんだな オナドリもパスも守備もいい マナーだけよくない 彼のコテの由来についての話題が初めて出されたのは1月18日で、これは彼がスレの話題を独占していたことを考えると非常に遅いと言える。もはや彼の特徴的なハンドルネームなどどうでも良くなるほどにキャラクターが立っていたと考えるべきであろう。ちなみにこのトピックはドープ生存説のうちの1つに大きく関わってくる。 983 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2011/01/18 19 21 51 ID yZ9Ej7FA そもそもドープな皿欲しいってどういう意味なんだよなw 988 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2011/01/18 19 42 38 ID E5gVtwCT 983 俺もそれ思った。字の通り、欲しいんだろうな。ドープな皿ってよく知らんけど、 めっちゃ高いものだった気がする。はまっている人は、 すげー欲しくなるものなんだろうな 2月になるとスレで技術論が語られ始め、ドープさんの名前はそこにも顔を出す。特徴的なプレイスタイルと実力を兼ね備えた彼が話題に上るのは当然といえば当然だが、こういったドープに関しての肯定的なマジレスを見ると笑みが溢れる。 857 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2011/02/02 11 46 17 ID vm4Rx+wV ドープ頼りになると思ってるのは少数か? 自分がDFやってドープに前まで持っていってもらって 前線で構えてる人にドープがホイールパス→シュートで点が取れるんだが… 902 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2011/02/02 18 07 52 ID mFVvZsye 882は戦術の意味を履き違えてると思う それはそれとして、ドープはパスの精度いいし 無駄仕掛けを封印したらかなり良い感じにつなげると思う 524 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2011/02/14 00 54 32 ID Q0eY0p2p ドープはガチモードだと守備もするが、 普段の糞モードだと明らかにわざと糞なポジショニングしたりするから困る あとドープに預けると味方のポジショニング次第では意外とダイレクトで出してくれるが 味方がマークに付かれてたりするとバックパスせず、自分で突破しに行くか 裏に走り込むまでコネコネするのでめんどくさい ただ味方がうまくドープのパスを引き出す動きのできる奴だと 手に負えないような展開で崩したりする 思うにこいつは1.5列目のタイプなんじゃないか なおこの時期に馬鹿がトリップをつけはじめたことも併記しておく。 568 : パス男 ◆Jf3IJV1tAU [e] : 投稿日:2011/02/14 13 02 04 ID ujeR4Zqr ドリブル楽しすぎ ドープの気持ちが分かったわwwwwwww 2月終盤には「ドープはうまい」、「ドープさんからパスもらえない奴はヘタクソだから」といった意見で埋め尽くされ、同じく伝説のコテ、「俺を手本にしな!」と双璧として祭り上げられていた(勿論、否定的なレスが途絶えたわけではない)。 2 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2011/02/24 20 06 16 ID shxtEpqG ★フットボルテうまい奴ランキング★ S ドープな皿欲しい 俺を手本にしろ A ディフェ男 釜本 Bergkamp 紫苑 スモスキ B 銀狐 牙狼 貴史 のぞみ させ子 C 車ドゥリ ト~レス D メッシ Cロナウド イブラヒモビッチ 428 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2011/02/28 21 15 06 ID HOE0etW9 俺は煽られるのも煽るのも好きだから俺手本とかドープとやってるときが一番楽しい 3月に入りスレには大量にランキングが貼られ、ドープはそれらの全てにおいて上位に位置している。ドープの荒らしにマジギレするプレイヤーは減り、彼もまた「最近煽りが減った」と評されるなど、ドープと他のプレイヤーの距離は確実に小さくなっていた。そんな人気の絶頂の中、フットボルテは2011年3月11日を迎える。
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2019(松尾) 問題 / 体験談
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■1.用語説明◆1.「史学史」 ■1.用語説明 ◆1.「史学史」 しがくし【史学史】(ブリタニカ国際大百科事典) 歴史学はおおよそ①物語的歴史、②教訓的歴史ないし実用的歴史、③発展的歴史の順に発達してきた。 ① 物語的歴史の典型とされるヘロドトスの『歴史』 Historiai には多くの説話や見聞が真偽の検討なしに記述されている。 ② 教訓的歴史ないし実用的歴史の典型はツキジデスのペロポネソス戦争を中心とする『戦史』 Historiai (8巻)である。人間心理の洞察、史料の批判などによって、本書は世界最初の学問的な歴史書とされているが、ツキジデスは過去の政治や軍事を、将来の類似の事件に際してとるべき行動の指針にしようとする立場で書き、行動する人物の心理的動機からすべてを説明しようとした。 ローマの地中海世界征服の過程を記述したヘレニズム時代のギリシア人ポリュビオスは、この史風を継承しつつ、さらに一歩を進めた。 ローマのユリウス・カエサルやタキツスの歴史記述は、ともに実用的意図から発し、政治家の手引ないし行為の規範として役立たせようとするものであった。 ③ ゲルマン民族大移動の嵐のなかで書かれたアウグスチヌスの『神の国』 De civitate Dei は、史料批判の点では後退しているが、神学的目的論に基づく必然の理念に支えられ、ここに初めて③発展的歴史の誕生をみた。 ④ これに科学的批判性が加わった近代歴史学はルネサンス時代に始まる。この時代にはマキアベリや、F. グィッチャルデーニらが現実的・世俗的な史風を展開し、歴史を「神学の碑」としての地位から人間の手に解放した。 18世紀の啓蒙主義は反歴史的傾向をもったが、モンテスキュー、ボルテール、E. ギボンらによる歴史記述は近代歴史学の進歩のために大きく貢献した。 19世紀は「歴史の世紀」と呼ばれるほど歴史研究は各国で大いに発達したが、特にL. ランケを生んだドイツは指導的地位を獲得した。 同世紀中頃までは政治、軍事を主とする政治史が記述の主内容をなしていたが、スイスのJ. ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』 Die Kultur der Renaissance in Itaklien(1860)などによって文化史の意義が認識されるようになり、次いで社会経済史の分野も開発されて今日にいたっている。 【史学史】(しがくし)(山川世界史小事典) 歴史学の歴史をさす。 ① 歴史叙述は東洋・西洋の古代から存在するが、 ② 歴史が宗教、物語、道徳をはなれて学問となったのは、文献学の進んだ18世紀のヨーロッパであり、特に19世紀のドイツでは、ランケによって史料批判にもとづく近代歴史学の観念および研究方法が樹立され、各国の大学に影響を与えた。 (1) その観念は当時の支配的風潮である国民国家の建設と不可分であり、国民国家を単位とする政治史・外交史がアカデミズム歴史学の内容となった。 (2) これに対して、19世紀末の産業社会の発達、労働運動の興隆につれて社会経済史が大学・民間でしだいに盛んになり、マルクス主義もこの風潮のなかで力を増してきた。 (3) 歴史研究は隣接科学の方法を採り入れるようになり、20世紀には社会学や人類学の方法を入れた「社会史」さらには「心性史」の分野が開発された。この新傾向には、フランスの「アナール学派」の功績が大きい。旧来の「政治史」が出来事中心の叙述となる傾向があるのを批判して、新しい「社会史」は構造分析を重視するが、近年は政治史の再評価に傾いている。 日本では、明治初期に英米の啓蒙的な「文明史」が民間史家に、ついでランケ史学が大学に導入されて近代史学が始まった。ついで、ドイツ歴史学派経済学、マルクス主義の影響で、発展段階論が強まったが、西洋中心主義の発想から脱しなかった。第二次世界大戦下には、一時「皇国史観」が力を得たが、戦後はマルクス主義とヴェーバー主義を組み合わせた「戦後歴史学」が支配的となった。 しがくし【史学史】(日本歴史大事典) 史学は歴史学と同義であり、史学史は史料の蒐集・編纂・歴史叙述の方法などに加え、歴史観・歴史認識などの軌跡を歴史家の思想にまでさかのぼって追求し、歴史学の歴史を系統的に解明しようとする。 (1) 歴史学を単なる歴史叙述、また歴史意識を持つことにまで認めるとすれば歴史学は古代から存在したといえる。 (2) しかし、厳密な史料検討で史実を明らかにし、多様な歴史観の存在を認めつつ、客観的な叙述で一定の歴史像を導き出すことが歴史学と考えるならば、それは19世紀のドイツに始まりレオポルド・ランケ(1795-1886)により大成された。 (3) 日本においても近代的な歴史学はベルリン大学でランケ史学を学んだ御雇外国人教師リースを媒介とするランケ流ドイツ実証主義と修史館系の考証史学とを結合することにはじまった。 1 1869年(明治2)に明治政府は史料編集のための史料編輯国史校正局を設置、これは 1872年太政官に歴史課(1875年に修史局、1877年に修史館となる)が設けられる基となった。1889年には帝国大学の史学科に国史学科が設けられるなどアカデミズム史学は研究体制が整備され、1900年代に入ると、欧米留学で史学を学び、比較史的視点から日欧社会発展の類似性を追究した記念碑的作品として、内田銀蔵の『日本近世史』(1903年)、原勝郎により『日本中世史』(1906年)が書かれた。また、1901年(明治34)からは、『大日本古文書』、『大日本史料』といった歴史研究にとって基本史料となるものの刊行が開始されている。そして、官学だけではなく、福沢諭吉の文明論『文明論之概略』や田口卯吉の『日本開化小史』、民衆を重視した徳富蘇峰や山路愛山らの民友社系など、民間においても近代歴史学の基盤が築かれていった。 2 やがて、大正デモクラシーの機運は、政治史に偏りがちであった歴史学の文化価値重視への転換を促した。津田左右吉の『神代史の新しい研究』(1913年)、『文学に現はれた我が国民思想の研究』全4巻(1916-1921年)、柳田国男の日本民俗学の開拓、さらには伊波普猷(いはふゆう)の沖縄学の樹立などが、アカデミズムの外で精力的に開拓された。アカデミズム内部でも文化史学、日本思想史学の前進がみられた。『日本文化史』全12巻(1922年)の発刊などは大正期の文化史研究の状況をよく表わしている。 3 第一次大戦後から1930年代にかけては、社会経済史研究が活発化し、1930年に社会経済史学会が設立された。日本資本主義の危機が激化し、労農運動が発展するなかで、1920年代後半に成立したマルクス主義史学(唯物史観史学)は『日本資本主義発達史講座』全7巻(1932-33年)に結実した。しかし、戦時体制とファッショ化の進行により、マルクス主義史学は弾圧され、超国家主義思想の皇国史観が勢力をのばした。 4 第二次世界大戦の敗北後、マルクス主義史学が復活し、主流を形成した。しかし、1950年代半ばから、戦後歴史学の方法に対する批判や反省が強まり、マルクス主義史学の問題点が意識化された。1960年代半ばに登場した、民衆思想史、そして1970年代以降、民衆史研究は運動史から生活史にまで領域と視野を拡げていく。また、考古学、民俗学、文化人類学など諸分野との交流・連携の拡大、社会史・女性史などの研究の進展により、歴史観・歴史学の方法は著しく多様化するにいたっている。 石井浩志
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歴史学科 世界の成り立ちについて学べる学科である 卒業後は古文書の解読にあたり,世界の姿をさらに詳しく捉えていく 神学科と常に論争を交わしている 眼鏡率は学園一の57.6% この世界の神様がこの世界を創った ということはわかっているが その神様がどこからきたか ということが論点である たまに神様が遊びにくるかもしれない
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cf. 安岡孝一氏が提起したことは、「ちょっとまってくださいよ、フロントストライクじゃなかったんですよ、アップストライク式だったんですよ、QWERTY-1882に至る時期は。」 アップストライクの絡みやら衝突やら「配置換えの動機」の話を説明したりしだすと、このブログで割にまとまったと思う記事でも、結構長いぞ。しかも、それくらいじゃあ、安岡孝一氏は承知しないんだろうなあ。 スラッシュドットyasuokaの日記『キーボード配列QWERTYの謎』などにある安岡孝一氏諸説絡みの争点の一部slashdot QWERTY配列に至った機械的制約要因の一つとされる頻出連続文字組でのタイプバー隣接忌避は、あったのか。あった、たぶん。atwiki 一般「安岡孝一」学が縦横に展開された典型著作点検kygaku.g.hatena.ne ジャミングあった防ぎたかった。never jam説提唱安岡孝一氏ご高見は?kygaku.g.hatena.ne アンチ「QWERTY言説」紹介ショートヴァージョンatwiki 「QWERTY伝承」あるいは「QWERTY言説」の読み方atwiki アンチ「QWERTY言説」の検討atwiki 安岡孝一共著『キーボード配列QWERTYの謎』seesaa あったなかった、、事象存在の対象歴史時点での物理実態認識の問題 時点 安岡孝一仮説 my検証 定説 1873年春以前 アームはなかった 不支持1872年のロング・アーム 不支持 フロントストライク機ドアティー以前 アームはなかった 不支持1879年のtype-arm、US Patents の long-arm and short-armたとえタイプバーはなくともアームはあるって感じか?初期特許書類においては。この、アームがずっと最初期から後年まであるってことだったら、タイプバー式の原理で、ずっと通底しているって証拠になるかもしれないなあ。ロングアーム・ショートアームの年代分布、アップストライク時代、フロントストライク時代を通じてか否か、、 不支持 1873年春以前 活字棒は絡みにくかった 不支持と想定する立場で検証中。開発試作期の改良に伴って徐々に絡みにくなっていったと想定。(プロトタイプ機1873年春モデル以前、 活字棒は絡みにくかったか?検討中)。ここが「QWERTY言説」の核心部であろう。 不支持。改良で徐々に絡みの軽減も進展 アップストライク機 活字棒は絡みづらかった 初期試作モデルに関しては不支持を想定して検証中、製品機に関してはまあ支持。製品機では絡みの程度は、配列のABCからはじめて間もないやっとABC順あるいは環状ABC順や折り返しありABC順に手を加えはじめた試行錯誤最初期のSholesのキー配列(たとえばyasuoka (21275)氏推理GNY配列など)に比べて、軽減されていた(検討中) 同左。パーシャル不支持 1873年春以前 絡んだとしても活字棒配置とキー配列の間に自由度。自由度説 カレント(1949)脚注22の確認待ち。キー配列-タイプバー配置強関係性説、1871年?頃に確立。ここが、言説を支えるタイプバー配置決定原理原則として成立していなくてはならない。 不支持 アップストライク機 そもそも絡まないんだから、絡み対策を配列決定時の制約条件とするのはナンセンス すくなくとも衝突接触はあった。その対策の必要性がショールズ特許に列挙された効果の中にもみてとれる。「less liable to collide」(Sholes、1878年)http //slashdot.jp/comments.pl?sid=382172 cid=1477700 衝突接触の軽減は、配列改良決定にも配慮されていた。前打鍵タイプバーの乗っかり衝突や、固まることも、あったようである。http //www26.atwiki.jp/raycy/pages/156.html 配列改良には、衝突接触軽減にも配慮した タイプバスケット機 タイプバー配置どう換えたってニタイプバー間の離散を確保できない連続文字のケースが残るだろう。そんなこと配慮するだけ無駄 過去の文字頻度傾向から将来打鍵されるであろう文字列傾向を推定するしかない。(ってか、開発期現在進行中に実際キー打って、当たるとキンコンカン明珍火箸http //b.hatena.ne.jp/raycy/20090901#bookmark-15727878、音もしたんじゃないかな。なにその機械、いい音色ね、って?音減らそうよお。)タイプバーの当たりが生じやすい文字頻度や連続文字に配慮つつ、目での追いやすさ、指のもって行きやすさ、タイプバーの干渉絡みにくさ等々に配慮されたキー配置が進展した。ショールズの“I”のうつろいもこの原理で進展したのかもしれない、、。任意の2タイプバー間における印字空域の開放状態を、タイプバー行程角度パーセントか何かで、論じておく必要があろう。ってか、タイプバー高確率ヒット配列を組めば、逆効果はてきめんだろう。http //www26.atwiki.jp/raycy/pages/158.html#id_bacfbabe タイプバーの配置移動は干渉多寡に効く 1882年の配列変更 ショールズ特許との抵触回避のためで、技術的理由によるものではない。 きっかけは安岡孝一氏主張http //slashdot.jp/~yasuoka/journal/489447のとおりとしても、なぜCXMが移動の対象箇所とされたかは、二連続文字組出現頻度から説明できそうである。(ただし、実装のディッカーソン規則性を仮定。)http //slashdot.jp/comments.pl?sid=469083 cid=1646237 安岡孝一氏は、フロントストライクになってアームという機構および呼称が生じたとする。反証 1872年のロング・アーム、1879年のtype-arm、US Patents の long-arm and short-arm 安岡孝一氏は、フロントストライク以前、「アップストライク式は活字棒は絡みにくかった」(あるいはより強く「upstrike、、never jamhttp //b.hatena.ne.jp/raycy/20090831#bookmark-15703710。絶対に絡むはずがない」ってどうなの、)とする。これは、少しでも絡みにくいように対策されて製品となったという「QWERTY言説」が主張する「効果」そのものでもある。効果が発現された商品市場世界しか購買消費者側からは観察し得ないからではないか。(消費者目線って何だ?)(市場が非レモンであったか、あるいはダメ配列機は直ぐにたちまち打ち捨てられて、市場にほとんど出回ることもなく後世にも残ってないのか、、)反証 「絡まないように」がらみ最前線。検討中:プロトタイプ機1873年春モデル以前、 活字棒は絡みにくかったか? 安岡孝一氏は、プロトタイプ機時代、活字棒配置とキー配列の間に自由度があったとする。反論の可能性 カレント(1949)脚注22あたり『キーボード配列QWERTYの謎』共著者安岡孝一説とCurrent説のこと など 概念カテゴライズの問題 安岡孝一説 一般解釈 カテゴリー、包摂範疇 タイプハンマーヘッド部 と アーム部 タイプバー、活字棒、印字棒 「アームという機構」 ? 機構としてはタイプバー式。アームとは本来せいぜいタイプバーのタイプハンマーヘッド部が取り付けてある部位を指し示す程度なのではないかと思っていたが、、 が絡む 干渉、接触、衝突、抜き差しならない状態 機構タイプバー配置がまったく異なる カレント脚注22あたりの原理で通底しているとされている(確認待ち) ショールズらプロトタイプ機 対 Jenneらデザインによる製品機 機構がまったく異なる タイプバー式に共通の課題を抱えている。印字点一ヶ所を多数のタイプバーが時分割シェアして印字。 アップストライク(⇔アンダーストライク)対 フロントストライク タイプバーの干渉の問題点 そもそも「タイプバーが物理的接触干渉すること」がなぜ問題なのか。タイプライター実用化での当時当面最大の課題障壁は、行ぞろえアラインメントにあったと エジソン証言 アラインメント・ワズ・オゥfフLルだっけかhttp //blog.goo.ne.jp/raycy/e/7e64c7eaebd8cf3af17e95d04d0e93b4 および サイエンティフィック・アメリカン記事 1872年8月10日付Scientific Americanの表紙記事『The Type Writer』 http //blog.goo.ne.jp/raycy/e/e7411f90cd0f755bca6ecbebd9d25497 過去のタイプ・ライターへのチャレンジャーの課題には 一定の文字送りとアラインメントにあったとは書かれてあるような、 から読める。タイプバーの接触は、 直接的には運動中のタイプバーの軌道を乱す、、アラインメントも乱れた、らしい、、(ショールズのバロン宛手紙1972年6月9日付けより推定 http //www6.atpages.jp/~raycy/Y/Trunnion-CollideArms.htm http //www6.atpages.jp/~raycy/Y/QWERTY_Quest.htm ) 長期的には、軸受けや棒の損傷、アラインメントの劣化促進に通ずる。 タイプバーは、スティック・ファスト抜き差しならぬ固着状態にならずとも、単に接触することも、行揃えアラインメントの観点からも、なるべく避けるべきことであった、とmy考える。 アームが絡む フロントストライク式タイプライターも知らない世代では、 印字棒は金属だから、ヒモみたいにからまったりしない などとの認識も見られた。だが、金属部品が「絡まる」ことは実際にあった。タイプライター用語としての「絡まる」とは、 絡まりはしませんが、輻輳して抜き差しならない状態にはなります Posted by エンドウ at 2005年07月06日 12 48 と解説されていた。だが、先に、タイプバーの干渉の問題点でみたように、単に接触することも問題なのであって、この単なる接触も「絡む」と呼びうるとmy考える。 また、実際に接触するのは、印字ヘッド部であって、印字ヘッドを支えるアーム部ないし棒部が接触することは、実際のタイプバー式では、ほとんど起こりえないような気もするのだが、、届かないような感じ、、?どうかな。http //blog.goo.ne.jp/raycy/e/5c5b90b70b1b74377ea4c20269003e16 印字ハンマーヘッド部が接触しあうというインシデント、、それはつまり一本のタイプバー全体への外乱力であり、タイプバーのうで腕部アームおよび付け根の支点軸受け部へも他タイプバーとの相互干渉効果として波及する、、 対象時点設定の問題、対象言説の定式化でのノイズ歪み ショールズらの意図の現代QWERTY配列に残る影響を評価するなら、配列チューニングがショールズらの手の内にあった1873年春までに、まず着目すべきであろう。 非目視的 触知式タイピングが、市場需要家獲得拡大への淘汰圧時代となった時期1880年代後半~1920年における市場選択肢中のキー配列中QWERTY配列は、比較最善であった(山田尚男より)。ネルソン-1919年出願までは現代的な意味での触知式打鍵とはいえまい。キーボードのサイズ面積もストローク深さも、現代とは異なっていたであろう、、 って、現代の時期画期も、もっと厳密にとる必要があるな、、手動式タイプライター廃滅後、ワープロワードプロセッサー時代、、 引用元の主張の定式化時点での歪みノイズ 安岡孝一式歴史学の特徴 概念 カテゴライズ と 事象存在の歴史的実態 何を違うと考え、何を同じと考えるか? 概念操作、概念範疇の自分勝手な恣意的言いぬけのための手前勝手な伸縮 文字コード屋との立場もお持ちの安岡孝一氏によるタイプライターの歴史。安岡孝一式歴史認識法パノラマとしての『キーボード配列QWERTYの謎』。 記号歴史学 二次元コップレックス的というか、記号化文字符号化書面描画されたテキストを重視した歴史学、、かな?てな感じ、、 あった無かった、真か偽か、択一式? だが、尤もらしさ比べの局面もたまにある、、? 、、要検討 言語の歴史時点フォーカス範囲の適用が、ごっちゃ? link_trackbackcounter -
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史学史 史学史(しがくし)とは歴史学?の研究史。具体的には歴史?事実研究に関する歴史意識と学説の歴史、また歴史観?の変遷に関する歴史のことである。 史学史(一) 歴史記述の発生から啓蒙主義の歴史記述まで 史学史(二) 古文書学の成立から近代歴史学の展開まで 史学史(三) 現代政治学の概観 -
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トップページ>歴史 韓国の歴史学関連文献 (日本史、朝鮮史等、地域で分けられる場合は地域別カテゴリへ配列) 『韓国教育史学』:韓国教育史学会韓国教育史学 21-40 韓国教育史学 1-20 『教育史学研究』:教育史学会教育史学研究 21-40 教育史学研究 1-20 『史叢』:高麗大学校歴史研究所(旧 歴史学研究会)史叢 81-100 史叢 61-80 史叢 41-60 史叢 21-40 史叢 1-20 『女性と歴史』:韓国女性史学会女性と歴史 1-20 『法史学研究』:韓国法史学会法史学研究 41-60 法史学研究 21-40 法史学研究 1-20 『歴史学報』:歴史学会歴史学報 221-230 歴史学報 211-220 歴史学報 201-210 歴史学報 191-200 歴史学報 181-190 歴史学報 161-180 歴史学報 141-160 歴史学報 121-140 歴史学報 101-120 歴史学報 81-100 歴史学報 61-80 歴史学報 41-60 歴史学報 21-40 歴史学報 1-20
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このページはウィキペディア日本語版の史学史 2006年9月14日 (木) 05 13 版を元にKanbunが改訂しています。 史学史(二) マビヨン 文書批判の客観的な方法を確立し、古文書学の祖となった 「史学史(二)」では、古文書学の成立から近代歴史学の展開までを対象とする。それ以前は「史学史(一)」を参照。それ以降は「史学史(三)」を参照。 史学史(しがくし)とは歴史学?の研究史。具体的には歴史?事実研究に関する歴史意識と学説の歴史、また歴史観?の変遷に関する歴史のことである。 歴史的展開古文書学の成立ロレンツォ・ヴァラ ジャン・マビヨン 近代歴史学の成立ニーブール ランケ 近代歴史学の展開プロイセン学派 イギリスとフランス 「歴史の法則性」を巡って 「文化史」という視点 唯物論的歴史学 出典 使用条件など 歴史的展開 近代歴史学との関連性から、ここでは主に西ヨーロッパの歴史記述と記述方法論を中心に概観する。 「史学史(一)」から続く 古文書学の成立 一方で歴史記述とは別個に、史料の批判的研究が着実な発展を遂げていた。それはいわゆる「古文書学?」で、ベネディクト派の学僧マビヨン?によって確立された。ただし古文書の真偽についてはマビヨン以前にすでに先行する研究があり、ここではその代表としてヴァラ?を紹介する[1]。 [1]マビヨンに先行する組織的文献研究としては、17世紀のボランドゥス?を中心としたボランディスト?の古文書研究などがあげられる。(文献18 pp.102-103) ロレンツォ・ヴァラ ヴァラ 文献学的な研究に基づいて、『コンスタンティヌス帝の寄進状』を偽書だと断じた ヴァラは15世紀の人文主義者で、『偽イシドールス法令集』[1]中の『コンスタンティヌス帝の寄進状』という文書が偽作であることを明らかにした。この文書は中世を通じて、教皇領および教皇権に関する重要な典拠とされてきたので、教会は彼を宗教裁判にかけた。このことはこの時代、文書批判が既存の宗教や権威、慣習の批判につながっていたことを示している。事実、宗教改革?の時代になると、文書批判は急速に発展したが、それには新旧両派が文書を武器として互いの正統性を争うという背景があった[2]。 [1] セヴィリアの司教イシドールス?の編とされる教皇法令集。9世紀に成立したとされている。 [2]一方でこの時代に文書批判が進んだもう一つの理由として、古文書がかなり広汎に流出したことが指摘されている。ヘンリ8世?によっておこなわれた修道院?解散やドイツ農民戦争?およびシュマルカルデン戦争?、ユグノー戦争?、フロンドの乱?などの戦乱の影響で各地の修道院や教会に蓄えられていた古文書がかなり市場に放出されたという。(文献18 p.104) ジャン・マビヨン 17世紀フランスのベネディクト派?の一派サン・モール派に属する学僧であったマビヨンは、教団史や聖者伝などの編纂にあたるとともに、古文書の収集や刊行をおこなっていた。彼は1681年に『古文書論』[1]を著し、さまざまな文書を分類し定義づけた上で、インクや書体などを考察した。さらに言語がラテン語?やギリシャ語?などの古典語で書かれているか、それがどの程度まで古典的かなどの度合いで、その文書の時代性を明らかにできると述べた[2]。このことにより、さまざまな文書相互間の関係から客観的に文書の真偽を識別できる方法が確立され、古文書学が成立した[3]。 [1]原題 De re diplomatica、1681年。 [2]西ヨーロッパでは文書はラテン語で書かれるのが一般的であったが、中世になると地方の口語と接近し、「俗ラテン語?」と呼ばれる古典語よりくずれたラテン語が使われ、それらは今日のヨーロッパ言語のもととなった。俗ラテン語に対して、特にキケロ?に代表される典型的な古代のラテン語を「古典ラテン語」もしくは「古典語」という。今日一般的に言うラテン語とはこの古典語のことである。 [3]マルク・ブロックは『歴史のための弁明』(原題 Apologie pour l histoire)の中で古文書学の成立を歴史学における偉大な事業の一つに挙げている。(文献18 p.107)マビヨンに学んだイタリアのムラトリ?はこの時代の歴史学の学問的価値からいえば、後世から大変評価が高い人物で、ギボンは「イタリア史における我が師」と絶賛している。(文献18 pp.109-110、文献21 pp.39-40)ムラトリはライプニッツとも親交があったという。 近代歴史学の成立 ランケ 「特殊から一般へ」と述べて個別的歴史事実の重視を唱え、史料批判を方法論の中心に据えて近代歴史学を確立した 一般に近代歴史学の成立はニーブール?とランケ?の研究を画期としていると考えられている。彼らの歴史研究の特徴は主に以下の3つである。 歴史事実の個別的把握 方法論としての史料批判 個別事実の一般化(世界史の形成) これをいままで概観した近代以前の歴史研究の歴史に当てはめてみると、1.は啓蒙主義?の歴史学に、2.は古文書学に、3.はキリスト教?的な普遍史に求めることができる。この点で近代歴史学は近代以前の歴史学の総合として成り立っていた[1]。 [1]近代歴史学を啓蒙主義・神学的普遍史・史料批判などの前近代的歴史研究の総合と見なす考え方は文献21 pp.36-37。ただし同書によれば近代歴史学の本質は史料批判という方法論におかれる。文献24 p.36も同様に史料批判を重視。一方で文献18 pp.148-149では、史料批判ではなく歴史事実の個別的把握こそがランケの真骨頂であるとする。同書ではランケ史学はニーブールよりも当時の国際法学や政治学に影響を受けているという。普遍史との関連性や宗教的背景を重視するのはマイネッケで、彼はランケの「個性原理」(歴史の個別的把握)を個体の中に固有の運動法則を認め、「一つの生」として歴史的個体を扱うことであるとした。そしてこれは汎神論よりも進んだ「万有在神論」と呼べる彼の宗教観に由来するものであるという。汎神論と万有在神論の相違は、汎神論には普遍的に神が存在するという意味で歴史事実の運動法則を普遍化しようとする傾向があるが、万有在神論は「万物に神が在る」という点から個々の歴史事実に固有の運動法則があるという認識に達する。したがって汎神論に基づく歴史記述では歴史的個体は埋没し一元的に普遍法則を設定していく過程になるのに対し、ランケでは固有の運動法則と普遍法則が論理的には解決されないまま並立しており、二元論的であるという。マイネッケはランケにマキャヴェリズムとの深刻な対立を見出しており、したがって一見道徳を排除しているように見えるランケ史学の深奥に道徳判断が認められるという。したがって彼の「個性原理」は国家行動をその研究の中心に据えながら、マキャヴェリズムに基づく近代政治学原理が歩んだような歴史的個体の普遍化・絶対化、つまり国家行動の全面的容認には至らなかったのだという。(文献22 pp.350-358)継受の面が指摘される一方で、ランケでは前近代的歴史研究が持っていた実践主義的な観点や哲学的な視点は大幅に減じていることも認められる。(文献21 pp.45-47、文献24 p.38)啓蒙主義と近代歴史学は以下の点で大きく対立している。1. 啓蒙主義は一般から個別へと歴史を解釈したが、近代歴史学は個別から一般へと解釈した。2. 啓蒙主義は古代の生活を近代においても空間的には存在しうるもの、たとえば非ヨーロッパ人の生活をヨーロッパ人の前文明的な生活と同質であると解釈することにより、歴史的事実を空間的に扱ったが、近代歴史学はそれを一回性の事実と考えることにより時間的に扱った。ランケにおける個別的歴史事実の尊重と神学的普遍史との関連性については文献22 pp.348-368、啓蒙主義の歴史観については文献23 pp.68-74、文献18 p.122。 ニーブール ニーブール ボーフォールの研究に影響されて、史料批判に基づいた実証的歴史研究をはじめ、ランケ以降の歴史学に影響を与えた ニーブールはボーフォールの伝承批判の精神を継受し、具体的な方法論としては複数の文献相互の整合性を検討する史料批判を用いて『ローマ史』[1]を記述した。このなかでニーブールは「海が流れをとりいれるように、ローマの歴史は、それ以前に地中海周辺の世界で名をあげられていた他の全ての諸民族の歴史を取り入れる」[2]と述べ、世界史のなかにローマ史を位置づけようとする試みが見られる。 [1]原題 Römische Geschichte、1811年-1832年。 [2]文献18 p.133による。同書ではランケも同様の言葉によって世界史の中でのローマ史の位置づけを語っていることも挙げられている。 ランケ ランケはニーブールの『ローマ史』の方法論を近代史(彼から見て)の分野にも活かし、史料批判を通じて15・16世紀のヨーロッパ外交の構造から国家を個別的に把握する方法に考えついた。ランケは国家を一般化して考える啓蒙主義を批判して、国家を個別的に把握すべきと論じ、このような個別的歴史事実の相互関係から世界史を把握すべきことを提唱した。 近代歴史学の展開 ドロイゼン プロイセン学派の重鎮で19世紀後半のドイツ史学界に君臨した。元々は古代史を専門としており、彼の『ヘレニズムの歴史』によってヘレニズムという言葉の今日的な意味が定着したとされている。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題など民族的な問題に強い関心を示した ランケの歴史研究はドイツにとどまらずヨーロッパ各国に衝撃を与えたが、ランケ以後の歴史学の性格はドイツとイギリス・フランスでは異なる方向へ進んだ。ドイツでは政治色の強いプロイセン学派?が台頭し、ランケの禁欲的な客観主義が批判されたが、イギリス・フランスではそれぞれ功利主義?や進化論?、実証主義?に影響されて、より科学的な方法論を追求する姿勢が現れた。 (詳細は近代の歴史学?を参照) プロイセン学派 ドイツでは、1830年代の後半にダールマン?が登場し、国民主義?や自由主義?の風潮が高まった現実政治の影響を濃厚に受けた歴史叙述を著した。続くドロイゼン?とジーベル?も政治色の強い歴史研究を展開し、彼らは現実政治との関連性が著しいプロイセン学派を形成した。ダールマンとドロイゼンはともにフランクフルト国民議会?に選出された議員で、ジーベルもプロイセン議会の議員であった。プロイセン学派は当時のドイツ国民の熱烈な支持を受け、またドイツ国内の領邦君主とも利害が一致し、ドイツ史学界で支配的な影響力を持った[1]。彼らは個性の重視という意味ではランケを継承していたが、歴史事実の客観的把握と全く逆の視点に立つ歴史研究であったため、今日の歴史学の観点からすると、その評価は概して低く考えられている。 [1]ドロイゼンは小ドイツ主義?を支持してプロイセン中心に民族的なドイツ統一が果たされるべきと主張した。ジーベルは神聖ローマ皇帝のイタリア政策についての論争(いわゆる「皇帝政策論争?」)の口火を切ったが、これも中世ドイツ皇帝権が普遍的であるか民族的であるかという主題の裏側に、小ドイツ主義と大ドイツ主義?のどちらが民族的統一としてふさわしいかという極めて政治的な背景があった。(文献18 pp.154-155) イギリスとフランス バックル 統計学的手法を用い、帰納主義的な科学主義歴史学を展開した この時代のイギリスやフランスで主流となった功利主義・進化論・実証主義の共通する特徴は、内的要因よりも外的要因を重視することであった。具体的には、歴史を人間精神の創造的性格とか人間行動の主体的選択の結果として捉えるのではなく、自然的・物質的環境の影響に人間精神やその行動が、したがって歴史が規定されていると考えるものであった。この実証主義に立つ歴史学者の代表はフランスのテーヌ?とイギリスのバックル?である。特にバックルは統計学?を用いて自然環境や社会状況が歴史に決定的な影響を与えることを実証しようとした[1]。 [1]この論争ではほぼ全ドイツの歴史家がランプレヒトと反対の立場を取り、またランプレヒトもあまりに歴史の法則性にこだわりすぎて、やや正当性に欠ける嫌いがあったので、結局はランプレヒトの不利なうちに決着したと考えられている。 「歴史の法則性」を巡って ドイツ国内でも、歴史学の客観性を巡って歴史過程における法則性を研究の中心に据えようとする主張が現れた。すなわちランプレヒト?は、文化や社会などの類型的把握が可能なものこそ歴史考察において重要なものなのであるという主張した。彼の主張は史料批判に決定的に依存する当時の歴史学の持つ欠陥を適切にとらえたものであり、かつ個性を重視するそれと対立するものであったから、たちまち全ドイツ規模での論争に発展した[1]。 [1]バックルに対しては、ドロイゼンが『歴史を科学の地位に高めること』を著し、倫理や個性の歴史形成における影響力を主張して反駁した。 「文化史」という視点 ブルクハルト 文化史の開拓者にして、すでに完成者としても十分な研究を残したブルクハルトだが、彼の生きた時代に対して独創的なその「文化史」は、直接的な後継者には恵まれず、独立的なものにとどまった 史料批判に依存する個別的な歴史事実の把握に飽きたらず、より広い視野から歴史を総合的に把握しようという動きは「文化史?」の主張という形で現れた。「文化史」は、主に美術史の研究の手法を取り入れ、時代相互の文芸や美術、思想の様式的変化を総合的に比較して、それらの時代ごとの文化的特質を明らかにしようという歴史研究である[1]。この文化史の初期の代表的学者はスイスのブルクハルト?であり、彼の初期の著作『コンスタンティヌス大帝の時代』[2]において、すでに完成した形で「文化史」のスタイルが確立されていた[3]。前述したランプレヒトも文化史を中心に歴史を構成しようとしていた。 ランプレヒトの立場を批判的に継承し、文化史において画期的な業績をあげたのはオランダのホイジンガ?である。彼の代表作『中世の秋』[4]は生活・思想・文化などの諸相から14・15世紀のネーデルラントを複合的・重層的に描いた労作で、従来陰湿で否定的に捉えられてきた西洋中世の文化に「遊び」の精神を見出すものであった。この観点を発展させて遊びの形態とその表現を本格的に研究したのが『ホモ・ルーデンス』[5]で、この著作の視野は歴史学分野に限られず、文化人類学と相互関係にあり、その構想力の豊かさは優れて今日的な価値がある。 [1]文化史の特徴としては従来の歴史研究が政治史を中心として縦断的に歴史事実を明らかにしようとしたのに対し、文化史は同時代のほかの事実および時代的な様式の特徴の関連性を重視して、横断的に歴史事実の背景を明らかにするものであったことが挙げられる。(文献25 pp.535-540) [2]原題 Die Zeit Constantins des Großen、1853年。 [3]今日的な視点で言うと、この著作はデータ的な面で時代遅れであるが、思想・社会・文化を一連の繋がりにおいて記述する、その歴史記述のスタイルは非常に意義深い。当時からこの著作はさまざまな欠陥を指摘されていたが、一時代を総合的に描いたその価値は一部で高く評価された。 [4]原題 Herfsttij der Middeleeuwene、1819年。 [5]原題 Homo ludens、1938年。 唯物論的歴史学 マルクス イギリス古典経済学、ドイツ観念論哲学、フランス実証主義などを批判的に総合して唯物論歴史学を打ち立てた。その歴史学は体系性に優れており、時代の要求に応えるものであった 一方で歴史の体系的把握への試みは、当時近代歴史学と全く対立的な立場にあった哲学からも提示された。ランケの打ち立てた近代歴史学を痛烈に批判したのはヘーゲル?で、『歴史哲学』[1]において理論的関心に乏しい近代歴史学の風潮を批判し、普遍と特殊の総合に向かう理性的法則として歴史を認識すべきと説いた。彼の哲学は客観的な裏付けに乏しく、歴史学的要求に応えることはできないが、ランケがまた彼の歴史哲学をつねに批判の対象としながら、それに変わる体系性を用意することができなかったのも事実であった[2]。 このヘーゲルの歴史哲学を批判的に継承したマルクス?は、ヘーゲルが重視した精神に代わり、生産様式に注目した体系的な歴史哲学を打ち立てた。ヘーゲルの歴史哲学が極めて思弁的・精神的だったのに対し、マルクスは実証主義の外的要因を重視する姿勢を継承して、生産様式が人間の精神活動をも規制すると述べて、物質性を重視する唯物論?歴史学を唱えた。彼は古典経済学?の理論を批判的に継承し、労働を重視したが、労働の疎外によって支配階級による収奪が行われるとして、独自の階級理論を設定した。この階級理論をもとに発展段階的に歴史理論を構築し、時代ごとの生産様式の性格からその時代の文化様式にいたるまでの性格把握が可能であるとし、さらには未来史として階級が消滅した来るべき共産社会を予言した。 このようなマルクス主義?歴史学は従来の歴史学になかった優れた体系性を持つとともに、その理論的な堅牢性が高く評価された。歴史の体系的な把握を可能にした唯物論歴史学の登場は非常に画期的な出来事であったが、同時にこの歴史学は当初からさまざまな批判にさらされ、その理論の検証が着実になされていた。 [1]原題 Gliederung und Zeitenfolge der Weltgeschichte、1830年。 [2]ヘーゲルは事実の客観的把握というものには曖昧性が含まれており、かつどのように凡庸な歴史家でも自らの主観に従って能動的に歴史事実を選択し、それを通じて歴史を眺めているということを的確に指摘している。(文献21 pp.50-51)しかし彼の歴史哲学はその創造的性格のゆえに科学的ではなかったのであり、この点バックルら実証主義の歴史学のランケ批判のほうが正当であるというべきである。(文献21 pp.60-62) 以降「史学史(三)」へ続く 出典 ※参照した文献は、その旨を記す際に煩雑さを避けるため、「文献」のあとに数字を示すこととする。具体的には「文献1」という場合は、下記のイブン・ハルドゥーンの『歴史序説(一)』を指すものとする。 (文献1)イブン・ハルドゥーン?著、森本公誠?訳 『歴史序説(一)』岩波文庫、2001年 (文献2)E・H・カー?著、清水幾太郎?訳 『歴史とは何か』岩波新書、1962年 (文献3)蔀勇造?著 『世界史リブレット57 歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり』山川出版社、2004年 (文献4)田中美知太郎?著 『ロゴスとイデア』岩波書店、2003年 (文献5)トゥーキューディデース著、久保正彰?訳 『戦史 上』岩波文庫、1966年 (文献6)トゥーキューディデース著、久保正彰訳 『戦史 中』岩波文庫、1966年 (文献7)堀米庸三?著 『歴史をみる眼』NHKブックス、1964年 (文献8)村川堅太郎?編 『世界の名著5 ヘロドトス トゥキュディデス』中公バックス、1980年 (文献9)溝口雄三?ほか編 『中国思想文化辞典』東京大学出版会、2001年 (文献10)加藤常賢?監修 『中国思想史』東京大学出版会、1952年 (文献11)宮崎市定?著 『史記を語る』岩波文庫、1996年 (文献12)武田泰淳?著 『司馬遷 史記の世界』講談社文芸文庫、1997年 (文献13)貝塚茂樹?著 『史記 中国古代の人びと』岩波新書、1963年 (文献14)増田四郎?著 『大学でいかに学ぶか』講談社現代新書、1966年 (文献15)金谷治?著 『中国思想を考える』中公新書、1993年 (文献16)重澤俊郎?著 『周漢思想研究』大空社、1998年 (文献17)顧頡剛?著、平山武夫?訳 『ある歴史家の生い立ち 古史辨自序』岩波文庫、1987年 (文献18)中村治一?著 『史学概論』学陽書房、1974年 (文献19)福田歓一?著 『政治学史』東京大学出版会、1985年 (文献20)カッシーラー?著、中野好之?訳 『啓蒙主義の哲学 下』ちくま学芸文庫、2003年 (文献21)林健太郎?著 『史学概論(新版)』有斐閣、1970年 (文献22)林健太郎編 『世界の名著65 マイネッケ』中央バックス、1980年 (文献23)弓削尚子?著 『世界史リブレット88 啓蒙の世紀と文明観』山川出版社、2004年 (文献24)太田秀道?著『史学概論』学生社、1965年 (文献25)ブルクハルト?著、新井靖一?訳 『コンスタンティヌス大帝の時代』筑摩書房、2003年 (文献26)ハンナ・アレント?著、志水速雄?訳 『人間の条件』ちくま学芸文庫、1994年 (文献27)アンリ・ピレンヌ?著、中村宏?ほか訳 『ヨーロッパ世界の誕生 マホメットとシャルルマーニュ』創文社、1960年 使用条件など この記事はGFDL文書です。このページに掲載されている画像はウィキコモンズに公開されているものを使用しています。 -