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歴史学者 Curse of Gaebolg 前提レベル 60以上 前提クエスト なし 必要アイテム※どちらも店売り 緑ポーション 1個 イエロージェムストーン 1個 獲得経験値 8,000,000 名もなき島・修道院(abbey)に侵入する上での前提クエスト。 名無し関連のクエストはアカウント共通クリアの弊害で同じアカウントの別キャラクターで進められないことが多いが 歴史学者は全てのキャラクターで出来る。 1.プロンテラ東側入口付近にいるBusy Boy(248,212)の近くを通ると自動会話。 2.選択肢が2つでるので画像の通り選択してPile of Booksを貰う。 選択肢を間違えても再度話しかけると本を受け取れる。 3.ジュノーへ行き、東側にある図書館付近にいるHistorian(311,195)に何度か話しかけ、File Folderを貰う。 他クエスト(大統領 1部・大統領 2部・トール火山基地進入)でもらう「File Folder」とかぶるので同時に取得しないこと。 4.モロク南カプラの少し右下にある宿屋(197,63)へ行き、2F左奥の部屋にいるHistorianと話す。選択肢は全て上。 入力窓が出るが、何を入力しても良い。 5.ワープガールのダンジョンから炭鉱(Coal Mine)←MAPに行き、中央から少し左下にいるHistorian(135,168)と話す。 入力欄がでるので、下記の歌を1行づつ入力。前後に余計なスペースが入らないよう注意。 入力が終わったらもう一度Historianと話す。 The great serpent swallowed the sea. The eagle of the rainbow swallowed the serpent. Then the eagle built its nest. A nest upon the swallowed sea. 6.同MAP北東にいるExhausted-Looking Woman(316,268)に何度か話しかけ、Leather Pouchを貰う。選択肢はすべて上。 会話が変わらなくなるまで話すこと 何度か来ることになるのでポタをとっておくと便利 7.プロンテラ大聖堂(235,315)右奥の部屋にいるFather Bamph(バムプ神父)と何度か話す。 会話が変わらなくなるまで話すこと 8.再びExhausted-Looking Womanと話す。 ※ワープガールのダンジョンから炭鉱←MAPに入って少し歩いた橋の上から視点を変えるだけで、上に登らなくても話しかけることが出来る。 9.プロンテラ大聖堂のバムプ神父と話した後、同部屋北側にある本棚を調べると地下に移動する。 10.奥にいるバムプ神父と話し、死体を左から順にクリックすると選択肢がでるのでPoisonを選ぶ。 死体を調べたあと再び奥のバムプ神父と話すこと 11.地下から出たらバムプ神父と話し、モロク↓↓→→にあるアサシンギルドのあるMAPに行く。 12.アサシンギルド入口脇にいるAssassin Guildsman(201,295)に話しかけ、Poisonを選ぶ。 13.モロク西側にある酒場(46,108)へ行き、Idle Knightの前のワープに入る。選択肢はsure 14.上のワープに入り、Marjanaと話す。 15.酒場を出ると自動会話がでるので下のGo to Father Bamphを選ぶ。 ※必ず徒歩で酒場を出ること。蝶の羽やポタで戻ってしまったら酒場の前にもう一度行くと自動会話が出る。 もし上を選んでしまったらモロク宿屋のHistorianのところへ先に行くこと。 16.緑ポーションとイエロージェムストーンを持ってプロンテラ大聖堂のバムプ神父と話した後、地下に降り右側の死体を調べる。 17.地下から出てバムプ神父と話すと経験値が貰える。 18.炭鉱から←MAPにいるExhausted-Looking Womanと話す。 19a.モロク宿屋2FにいるHistorianと話す。選択肢で下を選ぶとクエストはここで完了となる。 19b.上を選んだ場合はプロンテラ大聖堂に行き、バムプ神父と話したら完了となる。 ※完了させないと名もなき島入場クエストを開始できないので注意
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史学史(三) ロストウ 独自の経済発展段階論を唱えた。「近代化論」の代表的論者 「史学史(三)」では、現代歴史学を対象とする。それ以前は「史学史(一)」「史学史(二)」を参照。 史学史(しがくし)とは歴史学?の研究史。具体的には歴史?事実研究に関する歴史意識と学説の歴史、また歴史観?の変遷に関する歴史のことである。 歴史的展開現代歴史学(歴史研究の多様化)構想力の重視(クローチェ、トレルチ、ピレンヌ) アナール学派(フェーヴル、ブロックからブローデルまで) 出典 使用条件など 歴史的展開 近代歴史学との関連性から、ここでは主に西ヨーロッパの歴史記述と記述方法論を中心に概観する。 「史学史(二)」から続く 現代歴史学(歴史研究の多様化) 近代歴史学によって歴史研究は客観的な科学としての性格を強めたが、文化史?や唯物論?歴史学が示したような、歴史事実の認識における多様性を模索する動きが盛んとなった。また20世紀初頭に起こった世界大戦とその後の「ヨーロッパの没落」を感じさせる世界情勢は人間の歴史の意味や形式に対する関心を高めた。このような時代の要求に応えるべく、歴史学も自己批判を迫られ、科学主義や政治史への偏重が反省され、歴史研究は極めて広汎な関心に支えられた、多様化の時代を迎えた。(詳細は現代の歴史学?を参照) 構想力の重視(クローチェ、トレルチ、ピレンヌ) ヘーゲル 近代歴史学を批判し、自由の実現過程としての歴史哲学を説いた。その影響は多岐にわたる イタリアの歴史家クローチェ?は、ヘーゲル?の哲学・マルクス主義?の影響を受けて体系的な歴史理論を模索し、偏狭な客観性に閉じこもる近代歴史学の姿勢を批判した。彼は「文献学的歴史は多分正しくはあるが決して真ではない」と述べ、さらに歴史学は現在の実践的かつ倫理的要求に応えうるようなものでなければならないとした。彼は過去の歴史事実が現在の関心と一致する限りにおいて現在的な意味があるとして、「すべての歴史は現代史である」と述べた[1]。同様の立場の歴史家としてはトレルチ?を挙げることができる。彼は晩年の著作『歴史主義の諸問題』において、歴史研究は人間の価値あるいは意味の意識の中で行われるものであるとした。そして歴史研究は将来への価値形成の行動によって支えられるべきだとした[2]。彼らは歴史学の持つ本来的な主観性を主張するとともに、科学主義的歴史研究の無体系性を批判した。 一方で最も実証的で堅実であるといわれた経済史の分野からも体系的な観点に立つ画期的な研究が現れた。ベルギーの歴史家ピレンヌ?による『マホメットとシャルルマーニュ』[3]で述べられた、いわゆる「ピレンヌ・テーゼ?」(「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」)がそれである。これは従来ゲルマン民族の大移動によって崩壊したとされた地中海世界の統一性が、実はイスラム勢力が地中海に進出するまで緊密に保たれていたことを唱えるものであった。ピレンヌは経済的史料と教会の古文書を研究して、民族移動以後も経済的な交易関係および文化的な交流が依然として地中海世界に存在していることを示した[4]。ピレンヌの学説は全ヨーロッパ規模で構造的な歴史事実の体系的把握の可能性を示し、このことが後述するアナール学派にも大きな影響を与えたと思われる。 [1]クローチェは「一つの事実は思惟されての限りにおいてのみ歴史的事実であり、思想の外には何物も存在しない」「精神史は自らの中にその全歴史を伴い、この全歴史は精神そのものと全く同一である」と述べているが、ここで述べられた「精神」「現在」などは必ずしも明確な定義がされているわけではない。(文献18 pp.200-201)ただし一方でこのような観点で形成された歴史の体系は実践的・規範的なものではなく、理論的・客観的なものであると想定されているようである。クローチェは「歴史意識はそれとしては論理的意識であって決して実践的ではない」と述べている。(文献18 p.204) [2]トレルチはこのような歴史事実の認識主体として共通の体験に基づく文化的共同体を措定し、それがヨーロッパであると述べた。そしてヨーロッパこそが普遍史の担い手となりうるとした。(文献18 p.205) [3]原題 Mahomet et Charlemagne、1937年。 [4]ラテン文化とゲルマン文化の境界線にあるベルギーの歴史的背景に関するピレンヌの問題意識がこの学説の成立に大きく貢献していることは間違いない。このことが彼の眼をを全ヨーロッパ規模での広い視野へと向かわせたのであろう。(文献27 pp.1-13) アナール学派(フェーヴル、ブロックからブローデルまで) 1929年にフランスで『経済社会史年報』[1]という雑誌が創刊された。フェーヴル?とブロック?がその創刊に当たっての中心人物であったが、彼らは従来の政治史偏重の歴史学を批判し、生きた問題意識の設定や隣接社会科学との学際研究を重視、歴史社会を構造的に、巨視的な視野から民衆の心性にまで根深く把握することを目指して「社会史」を提唱した。彼らは個々の歴史事実をそれ自体として把握してきた近代歴史学を批判し、それらは全体の体系の中に位置づけられるべきだと主張した。また日常性や慣習、自然環境など人間生活において変化の緩やかな事象・環境を重視し、それらが個々の歴史事実の客観として把握されるべきだとした。 のちに『経済社会史年報』は数度のタイトル変更の後『アナール,経済・社会・文明』[2]というタイトルになり、フェーブルらと立場を同じくする歴史家たちは「アナール学派?」と呼ばれるようになった。この新しい歴史学の典型的な書物はこの学派の第二世代ブローデル?によって著された『地中海』[3]である。ブローデルは地理的気候的環境から書き起こして、階層的・構造的にフェリペ2世?時代の地中海世界像を叙述した。この極めて体系的な歴史記述は歴史学のみならず、隣接諸科学にも大きな影響を与えた[4]。 [1]原題 Annales d histoire, economique et sociale。 [2]原題 Annales. Economies, sociétés, civilisations。 [3]原題 La Méditerranée et le Monde Méditerranéen a l époque de Philippe II、1949年。 [4]ウォーラーステイン?の「世界システム論?」もブローデルの影響のもとにある。 出典 ※参照した文献は、その旨を記す際に煩雑さを避けるため、「文献」のあとに数字を示すこととする。具体的には「文献1」という場合は、下記のイブン・ハルドゥーンの『歴史序説(一)』を指すものとする。 (文献1)イブン・ハルドゥーン?著、森本公誠?訳 『歴史序説(一)』岩波文庫、2001年 (文献2)E・H・カー?著、清水幾太郎?訳 『歴史とは何か』岩波新書、1962年 (文献3)蔀勇造?著 『世界史リブレット57 歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり』山川出版社、2004年 (文献4)田中美知太郎?著 『ロゴスとイデア』岩波書店、2003年 (文献5)トゥーキューディデース著、久保正彰?訳 『戦史 上』岩波文庫、1966年 (文献6)トゥーキューディデース著、久保正彰訳 『戦史 中』岩波文庫、1966年 (文献7)堀米庸三?著 『歴史をみる眼』NHKブックス、1964年 (文献8)村川堅太郎?編 『世界の名著5 ヘロドトス トゥキュディデス』中公バックス、1980年 (文献9)溝口雄三?ほか編 『中国思想文化辞典』東京大学出版会、2001年 (文献10)加藤常賢?監修 『中国思想史』東京大学出版会、1952年 (文献11)宮崎市定?著 『史記を語る』岩波文庫、1996年 (文献12)武田泰淳?著 『司馬遷 史記の世界』講談社文芸文庫、1997年 (文献13)貝塚茂樹?著 『史記 中国古代の人びと』岩波新書、1963年 (文献14)増田四郎?著 『大学でいかに学ぶか』講談社現代新書、1966年 (文献15)金谷治?著 『中国思想を考える』中公新書、1993年 (文献16)重澤俊郎?著 『周漢思想研究』大空社、1998年 (文献17)顧頡剛?著、平山武夫?訳 『ある歴史家の生い立ち 古史辨自序』岩波文庫、1987年 (文献18)中村治一?著 『史学概論』学陽書房、1974年 (文献19)福田歓一?著 『政治学史』東京大学出版会、1985年 (文献20)カッシーラー?著、中野好之?訳 『啓蒙主義の哲学 下』ちくま学芸文庫、2003年 (文献21)林健太郎?著 『史学概論(新版)』有斐閣、1970年 (文献22)林健太郎編 『世界の名著65 マイネッケ』中央バックス、1980年 (文献23)弓削尚子?著 『世界史リブレット88 啓蒙の世紀と文明観』山川出版社、2004年 (文献24)太田秀道?著『史学概論』学生社、1965年 (文献25)ブルクハルト?著、新井靖一?訳 『コンスタンティヌス大帝の時代』筑摩書房、2003年 (文献26)ハンナ・アレント?著、志水速雄?訳 『人間の条件』ちくま学芸文庫、1994年 (文献27)アンリ・ピレンヌ?著、中村宏?ほか訳 『ヨーロッパ世界の誕生 マホメットとシャルルマーニュ』創文社、1960年 使用条件など この記事の著作権はKanbunにあり、転載などを禁じます。このページに掲載されている画像はウィキコモンズに公開されているものを使用しています。 -
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■1.用語説明◆1.「歴史」 ◆2.「歴史学」「史学」 ◆3.「歴史哲学」と「歴史叙述」(※英語圏の分類) ◆4.「歴史哲学」と「歴史科学」 ■1.用語説明 ◆1.「歴史」 れきし【歴史】 広辞苑 ① 人類社会の過去における変遷・興亡のありさま。また、その記録。「-に名を残す」「-上の人物」 ② 物事の現在に至る来歴。「-と伝統を誇る」 れきし【歴史】Rechtssicherheit 日本語版ブリタニカ 人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実、またそれらの事実に関する調査と記述をいう。 (1) 中国では周代に重要な事件を竹簡などに記録する役人を史官といった。 (2) 西洋では 1 ヒストリー history という言葉が探究を意味するギリシアのイストリア istoria から始まったように、過去の探究とその叙述とを意味する。 2 同時に、ドイツ語のゲシヒテ Geschichte の本来の語義 geschehen (生起する)のように生起した事実そのものをも意味する。 過去に生起した事実はすべての出来事であるが、そのすべての事実が歴史となるのではない。一定の関心、価値判断に基づいて選定された過去の事実が歴史を構成する。「歴史は書き換えられる」という言葉があるように、問題意識の違いに応じて、選択される過去もその記述も異なってくる。その問題意識を規定するものは現在であり、その意味では「あらゆる歴史は現代の歴史である」(B. クローチェ) 歴史の歴史、いわゆる史学史は古今東西の歴史叙述の問題意識のあり方を教えるが、よく知られる分類として、①物語的歴史、②宗教的歴史、③教訓的歴史、④発展的歴史、がある。 ギリシアのヘロドトスの『歴史』、中国の司馬遷の『史記』、日本の『古事記』などはいずれも最初の「書かれた歴史」とみなされるが、それらの歴史記述を支えた歴史意識は、固有の歴史的現実のなかで生れ、それに規定されたものであった。そこには選択された事実に対して解釈と説明が必然的に加わるが、偶然的で、混沌としてみえる無限の事実の群れのなかから意味ある事実を選びとる以上、なんらかの普遍的原理に依拠しなければならないからである。この歴史理論を自覚的に構築し、研究方法を練磨して科学としての歴史学に発展させる努力が19世紀に開花する。 れきし【歴史】 精選版日本国語大辞典 [一] 〖名〗 ① 過去の人間生活に起こった事象の変遷・発展の経過。また、そのある観点から秩序づけられた記述。*談義本・艶道通鑑(1715)一「歴史につまびらかなり」 ② ある事物の進展・変化してきた過程。*破戒(1906) 島崎藤村 一一「嫁ぐ迄の其二人の歴史を想像して見た」 ③ 「歴史学」の略。*輿地誌略(1826)一「其学四道、曰理学、曰教学、曰歴史」(皮錫瑞-経学通論序) ④ 学校における歴史教育を内容とする科目。*思出の記(1900-01) 徳富蘆花 一「歴史と作文と地理と悪戯が大好きだった」 [二] ① (原題ギリシア Historiai) 史書。ヘロドトス著。全九巻。紀元前445年ごろ成立。ペルシア戦争を中心に、ギリシアとアジアの異邦との抗争、東方諸国の歴史などを、豊富な説話を集大成しつつ、きわめて正確に叙述したもの。現存のギリシアの最古の歴史書。 ② (原題ギリシア Historiai) 史書。ツキディデス著。八巻。紀元前411年ごろまで書かれたが未完。ソクラテスと同時代の著者が、ペロポネソス戦争の開戦当初から戦いの経過と背景をなすアテナイの政情について、克明に記述したもの。 ◆2.「歴史学」「史学」 れきしがく【歴史学】 広辞苑 歴史を研究の対象とする学問。また、歴史研究の本質を究める学問。史学。 れきしがく【歴史学】(histriography and historical methodology 英; Geschichtswissenschaft ドイツ) ブリタニカ国際大百科事典 人間の過去の社会的生活の状態及び変遷を研究する学問。歴史学が対象とするものは、過去の人間の経験的事象であるから、史料の発見・収集・確定が歴史学の中核的な研究方法となる。 歴史の記述は古来から行われていたが、近代の科学的歴史学は、①史料学と、②史料批判の練磨を通じて、19世紀に至って確定された。 史料の内容・性質は多様であり、各種の分類が行われるが、 1 沈黙する遺物と、 2 歴史的対象への発言である報告・陳述との2つに大別され、性質の違いによる史料の吟味が研究者に要求される。史料の存在は広範かつ無限であり、偶然性も伴う。これらの史料を通じて過去を認識しようとする歴史学は、その解明のために、他の諸科学の援助を必要とする。歴史学の側からは、これを補助科学と呼ぶが、①古文書学、②紋章学、③印章学、などは直接的に補助する学問である。 また、歴史学内部にも、人間生活の側面への照明の当て方により、①政治史、②法制史、③経済史、④文化史、などの区別が生れる。 ところで、史料の収集、吟味が歴史学の中核的方法ではあっても目的ではない。史料を手段として、人間社会の変遷を認識する作業、すなわち総合が歴史研究の目的であり、それは叙述によって完成する。この歴史認識の原理として、歴史理論は不可欠であり、歴史学は歴史観を離れては存在しえないゆえんである。 れきしがく【歴史学】 百科辞典マイペディア 史学。広義に 歴史 に関わる知的営為、狭義に19世紀以降確立された近代的・実証的な専門学の一つ。 過去の出来事の連鎖としての歴史(事実あるいは存在としての歴史)は、一定の仕方で認識され叙述されて初めて知となる。この意味で歴史意識および歴史叙述の誕生に歴史学の起源を求めることができ、洋の東西を問わず文明とともに古い。 ただし、英語 history に story (物語、話)が含意されているように、歴史の考察は必ずしも学問的反省を伴うものではなかった。 西洋ではルネサンス期以降、史料収集や原典批判(古文書学、文献学)が進展し、いわゆる 実証主義歴史学 が成立した。これには、歴史の直線的推移を想定するキリスト教的世界観があずかって大きい。 現代ではさまざまな近代批判の試みのなかでその限界が指摘され、歴史意識・歴史叙述そのものの方法論的再考もなされている。典型がアナール学派をはじめとする 新しい歴史学 の潮流である。 れきし-がく【歴史学】(精選版日本国語大辞典) [1] 過去の人間生活の諸事象を研究する学問。歴史科学。*外山正一氏の画論を駁す(1890) 森鴎外 七「歴史学の漸く其問題を看破し得て開化史の体裁備はり」 [2] 特に、文字によって書かれた史料(文献)を基本的な材料として過去の人間生活の諸事象を研究する学問。考古学、民俗学などと区別される。 し-がく【史学】(広辞苑) 歴史学に同じ。「-雑誌」 ◆3.「歴史哲学」と「歴史叙述」(※英語圏の分類) history, philosophy of Britannica Concise Encyclopedia Branch of philosophy concerned with questions about ▽ 1 the meaningfulness of history and 2 the nature of historical explanation. (1) Philosophy of history in the traditional sense is conceived to be a first-order inquiry, a its subject matter being the historical process as a whole and b its broad aim being to provide an overall elucidation of its course. (2) As a second-order inquiry, philosophy of history focuses on the methods by which practicing historians treat the human past. [1] The former, often referred to as speculative philosophy of history, has had a long. And varied career; [2] the latter, known as critical or analytical philosophy of history, rose to prominence only in the 20th century. historiography Britannica Concise Encyclopedia Writing of history, especially that based on ▽ 1 the critical examination of sources and 2 the synthesis of chosen particulars from those sources into a narrative that will stand the test of critical methods. The major tendencies in history writing are evident from the beginnings of the Western tradition ▽ (a) the concept of historiograpy as the accumulation of records and (b) the concept of history as storytelling, filled with explanations of course and effect. (1) In the 5th century B.C. the Greek historians Herodotus and, later, Thucydides emphasized firsthand inquiry in their efforts to impose a narrative on contemporary events. (2) The dominance of Christian historiography by the 4th century introduced the idea of world history as a result of divine intervention in human affairs, an idea that prevailed throughout the Middle Ages in the work of such historians as Bede(※注:聖ベーダ、672・673-735). (3) Humanism and the gradual secelarization of critical thought influenced early modern European historiography. (4) The 19th and 20th centuries saw the development of modern methods of historical investigation based on the use of primary source materials. (5) Modern historians, aiming for a fuller picture of the past, have tried to reconstruct a record of ordinary human actions and practices; the French Annales School has influencial in this respect. historiography(Oxford Dictionary of English) ▽ [mass noun] the study of the writing of history and of written histories ▽ the writing of history historiography(ランダムハウス英和大辞典) 1. 歴史文献、史書;⦅集合的⦆(記録された)史実(histories) 2. 歴史学方法論、修史論;歴史記述および研究の原則・理論・方法の総体 3. (厳正な吟味による確かな資料を基礎とした)歴史記述、修史、史料編修 4. 公の歴史・正史(official history) (例文)medieval historiographies 中世正史 ◆4.「歴史哲学」と「歴史科学」 れきし-てつがく【歴史哲学】(Geschichtsphilosophie ドイツ) 広辞苑 歴史についての哲学的考察 ▽ (ア) 歴史学の認識論・方法論 (イ) 歴史的事象の本質・目的・意義についての哲学的解明、及びそれに基づく哲学的世界史 れきし-てつがく【歴史哲学】philosophy of history 日本語版ブリタニカ ▽ 1 人類の過去・現在・未来の総行程の目的・意義・本質ならびに 2 その歴史的認識の方法・論理を哲学的に考察する学問。 (1) 初めは、人間の個別的歴史事象を支配する理法を、人間の外側にある超越的なものとして捉えていた。 [1] 古代ギリシアやインドでは、人間の歴史行程は循環するものと考えられ、発展の契機は捉えられなかった。 [2] 古代ローマ末期にアウグスチヌスが現れて、キリスト教的歴史哲学を確立するが、ここでは、歴史は、①人類の堕落の歩み、という下降と、②神の国の実現による救済、という上昇が終末において決される、という終末論的特徴が示され、キリスト教ヨーロッパの歴史哲学の素型を形成した。 [3] イスラム世界では、①遊牧と②農耕の対抗の中に世界史の展開を合法則的に捉えようとするイブン=ハルドゥーン(※注:Ibn Khaldun, 1332-1406; チュニス出身でエジプト・マムルーク朝の官僚として活躍)の独自の哲学が現れた。 (2) 歴史の創造を、人間の自由意思の働きに求め、発展の必然性の中に位置づけたのは、18世紀のG. ビコ(※注:Giambattista Vico, 1668-1744; イタリアの哲学者・文学者。デカルトの合理主義・主知主義を批判しヘブライ人以外の諸民族の歴史的発展段階を神話時代→英雄時代→階級闘争の時代の3段階を踏んで循環するとする歴史主義的循環論を唱えた)である。 [1] 啓蒙主義思想家は、その合理主義をさらに徹底し、発展と進歩への肯定的かつ楽天的観念を哲学的考察の基とした。その一人ヴォルテールによって、初めて「歴史哲学」なる名称がつくられた。 [2] ドイツのJ. ヘルダー、G. ヘーゲルはこれを受けながら、かっての超越的かつ外在的な力を、合理的かつ内在的な法則に転換させて、壮大な世界史の体系を示した。しかし、そこには明らかに西洋中心の意識が働き、非ヨーロッパ世界はヨーロッパの発展をもたらす前提的・否定的役割しか付与されなかった。 [3] ヘーゲルの歴史哲学の観念性を暴き、内在的転倒による人類史の科学的認識を歴史変革の実践と結合させつつ明かにしたのは、K. マルクス、F. エンゲルスである。 (3) 19世紀後半には、このマルクス主義への対抗として、①生の哲学や、②新カント派、が観念論の復権を試みた。 (4) さらに20世紀の危機意識は、③文明論や、④危機神学(弁証法神学)などに分岐しつつ、歴史哲学を多彩なものにしている。 れきしてつがく【歴史哲学】 百科事典マイペディア 英語 philosophy of history ドイツ語 Geschichtsphilosophie などの訳。 (1) 世界史の全体を包括的に展望しようとする思索、さらには (2) 自然の認識とは異なる歴史の認識の根拠を問う理論的反省。 アウグスティヌス、ビーコ、ヘーゲル、ディルタイらが代表的論者。ニーチェの 系譜学 、実在を歴史性=時間性のうちにとらえるハイデッガーの思想、フーコーの 考古学 も独創的な歴史哲学の試みと称しうる。⇒歴史主義 れきし-てつがく【歴史哲学】 精選版日本国語大辞典 歴史そのもの、または歴史学を主題的に扱う哲学の一部門。 (1) 歴史の展開原理やその本質を問題にする歴史存在論と、 (2) 歴史学の成立根拠や方法論を問題にする歴史認識論とに分かれる。 *筆まかせ(1884-92) 正岡子規 一「其中の哲学なる一学科についていはんに、 略 社会哲学、歴史哲学、政治哲学、審美哲学等の区別あり」 【歴史哲学】(れきしてつがく) 山川世界史小事典 歴史の意味、目的についての哲学的考察。 アウグスティヌスやヴィーコにすでにみられるが、「歴史哲学」の語はヴォルテールに由来する。近代では特にドイツで発展。 (1) ヘーゲルにおいては、歴史は自由実現の過程であると同時に絶対精神の自己展開であるとされ、 (2) マルクスは歴史は階級闘争の過程であり、社会主義革命により無階級社会が実現されるとした。 ヨーロッパの歴史哲学にはキリスト教的救済論の色彩が強いが、イスラーム世界にはイブン・ハルドゥーンの社会哲学的・文明論的歴史哲学がある。 なお、ヴィンデルバント、リッケルトなど19世紀末ドイツの「新カント派」の哲学者たちは、法則定立的な自然科学に対し、歴史学は個性記述的であるとして、歴史学の独自性を主張、歴史主義の哲学的基礎づけを行った。 れきし-かがく【歴史科学】 広辞苑 ① 歴史学に同じ。 ② 歴史的な性格をもつ諸現象を取り扱う諸科学。内容上は社会科学に近い。 ③ ウィンデルバント(※注:Wilhelm Windelband(独) 1848-1915. 新カント派の西南学派を創始した哲学者・哲学史家)の科学分類によれば、方法上自然科学に対立するもの。 1 自然科学は、反復のできる一般的な法則を立てることを、その方法とするにに対し、 2 歴史科学は、反復できない一回的・個性的なものの記述を方法とする、と考える。⇒文化科学 れきし-かがく【歴史科学】 精選版日本国語大辞典 [1] 過去に生起した人間生活の諸事象を対象とする諸科学の総称。最も広義に解した場合の「歴史学」と同義。 [2] 人間に関する事物の歴史的個性の記述を方法とする諸科学の総称。ビンデルバンドの用語。リットルケの「文化科学」、ディルタイの「精神科学」に相当し、方法による学問分類の上で、事物を法則的にとらえることを方法とする諸科学(自然科学)に対置され、両者で経験科学を構成する。*学生と教養(1936) 鈴木利貞編 教養としての社会科学 蝋山政道 六「前者の傾向は新カント派哲学の文化科学又は歴史科学の方法論に、或はヘーゲル哲学の再生たる精神科学的方法に結びついて」 [3] マルクス主義で唯物史観を理論的基礎とする歴史学。
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三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三 カード名 . ..: 獣牙の歴史学者 理性 [探求]≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ レアリティ...: UC≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ 汎用スキル...: [反響]≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ カードスキル : 反響 対価3以下[探求]を自記録から1枚手札に加える/自忘却1枚以下 代わりに対価4以下の札/山札9枚以上 代わりにEx複製≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ 武装化 : 対価 4 [AP+2][交戦時AP+3][交戦中敵魂魄CP-2]≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ ステータス. ....: AP:03 / RP:03 / CP:05≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ フレーバー : 三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三獣牙の歴史学者/理性/A/Cost 4/AP 3/RP 3/CP 5/反響 対価3以下[探求]を自記録から1枚手札に加える/自忘却1枚以下 代わりに対価4以下の札/山札9枚以上 代わりにEx複製/武 [AP+2][交戦時AP+3][交戦中敵魂魄CP-2]/[探求]/[反響][]UC__________________________________________________壱弐参肆伍陸漆捌玖拾壱弐参肆伍陸漆捌玖拾壱弐参肆伍陸漆捌玖拾壱弐参肆伍陸漆捌玖拾壱弐参肆伍陸漆捌玖拾 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ・ 山札8以下、忘却2以上 ⇒ 記録の対価3[探求]を1枚手札に加える ('A`) ・ 山札8以下、忘却1以下 ⇒ 記録の対価4以下の札を1枚手札に加える ( *´艸`) ・ 山札9以上、忘却2以上 ⇒ 記録の対価3[探求]のEx複製を手札に加える ( ゚Д゚) ・ 山札9以上、忘却1以下 ⇒ 記録の対価4以下の札のEx複製を手札に加える キタ――(゚∀゚)――!!__________________________________________________壱弐参肆伍陸漆捌玖拾壱弐参肆伍陸漆捌玖拾壱弐参肆伍陸漆捌玖拾壱弐参肆伍陸漆捌玖拾壱弐参肆伍陸漆捌玖拾 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ + 物間寧人 /l , --、ノノ /'/ , /  ̄ ̄ ` ヽ-,-―- 、 ,、 /// // // ̄ ,-,ヽ 。 ゜ o ° 。γ⌒ヽ ヽ ヽ 、 | | / , イ / -、ゝ ヽ、ヽノ ヽ lヽノlヽ l ヽ | / / /|/ ` ヽ _ γ⌒ヽ ,-----ヽ' ̄`<//\ =ヽゝ、l _/ 〃 ィ ‐=--== . '、 ノ γ⌒ヽ ̄l /,三/ / ヽ/ヽ 、 _ノ_ ヽ〈 ヽヽ/ ,- /´ノ/二 , -=< ◯ '、 ノ ' / / ヽ//ヽヽ_ , -,-` ヽ ┴<'ノ ノ _/ , --`- γ ⌒ヽ . l / / / ヽ/O、 ヽヽ' /7 / ーっ ヽ \ 二/ i i ヽ' / / l////| ニヽヽ レ | `´ __,--、ノ lヽ/ 〃´  ̄ ヽ ___,ノ γ⌒ヽ ◯ ヽ | / /////// |//||。| ヽ ̄l`ー ' ̄ ̄ヽ==´-' ヽ 、 / ヽ 、 ヽ '、 ノ 〈ヽヽ 〈 / ヽ //// ///ィ/T |/ヽ、 「/ ヽ \ヽ ヽ \ `-、| -〈 ,三三三三ヽ_ '///. l// \' / \ ヽ `| ゜ o 7´ ヽ-/ \ O \\ /// \ _, - ' ´ \γ⌒ヽ| \ \ \\///  ̄ ̄ ̄ __ '、 ノソ \ \ \\' - ' ´ `― ` /| ◯ \ \ \\ ,---- / / \ \ \\ , , - ' , / \ \ \\-- ' ´ ニ、―― ' ´ /, / / \ \ \\ | ` ― ´ / / / \ \ \\ ' 、__/ / | r ' , \ \ \\ | /ヽ / ̄ ̄ / \ \ \\--、 /三三| + ゴドー _, |//', ___,|!イ _ ,r7 ,x≦三三} ヾ.`ヽ/, ./ /三三三lil} //,イ / ,x'≦≧x三!i} , / ノ,.' 囗 ロ 。 _,ノ三三三}ヾ// /=. '// 彡'=- ロ [] ロ 。 二三三三彡´ヾ , = 、 ,イ- ロ ロ ロ ロ ,´ リハ! l .!, x´=-ヾ / ヽ / 囗ロ [] [] ロ | メ リ ゞ'ノ / _!_ _ソ_, [] ロ 囗 [] ロ , -' `´ ,x≦. . . . . . . . . . . ./ □ □ [] ロ ヾ' , \ . . . . . . . . . /,.=ヘ‐...、 ,.x====囗 [] ロ [] ゝ__, イ /⌒ ヾ x≦石7 . . . . . . . . . .` ´ . . . . . . . . . . . . . .[] ロ [] 。 。 //` ' /x=/ . . .x≦´ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 囗 ┌┐[] ロ ロ , 彡'ヽ=.,イ / ヾ∠ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 囗└┘ [] ロ ゞ圭彡' / . . . {| . . . . . . . . . . . . .`゙\ ,イ 囗 ロ ロ / {| . . . . . . . . . . . . . . . . . .`ヽ / □ [] ロ 。 __ヾ {l . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .≧x ,イ 囗ロ 。 ゞ {| . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ./ . .\ ロ ロ 》 人 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ./ . . . . . .\┌┐ 。 >== 彡 . . ヾ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . /\ .x== .└┘ロ `、 . . \ . . . . . . . . . . . . . . . . . . ., イ . . . / . . . . . . .囗ロ ゞ‐‐-`....= . . . . . . . . . . ./ . . . . . ./ . . . . . . ./ 》x≦>=.= =<≡三彡'≧x . . /\ + 口上 ―― 末来へ今を積み上げて、今に過去を積み上げる。求めるはその根底、自分の在り方を示す過去ッ!顕現ッ![獣牙の歴史学者]ッ!by物間寧人―― 過去を望み、探るものよ。紐解くは幻想は既に絶え、積み立てた今を刻め。吼えよ。幻獣。顕現![獣牙の歴史学者]ッ!byゴドー
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歴史観 2005年06月17日 | この国のゆくえ 武蔵の一住民さんと私の歴史観にたいする食い違いというのは実はそんなに大きな問題ではない。言ってみればどちらも正しいのである。私は民主主義や国際秩序を考える上で現代の体制である国民国家型秩序に非常な閉塞感を感じている、そこに持ってきて現代日本の先進的歴史学はそうした閉塞感を打ち破るに十分な希望を与えてくれるのだ。そう言う意味では私の歴史観もイデオロギチック(こんな言葉があるのか?)といえるかもしれない。 さて紹介している世に倦む日日で、第3弾がでたようだ。この書評にかなり力が入っているな(笑) この世に倦む日日の執筆者の方の論評は非常に面白い。歴史学にジェンダーを感じる感性には私も共感するものだ。ジェンダーと言う言葉単純な性差の問題としてとらえては居ないのであろう、ジェンダー論との論理的類似性の認識が旧来の歴史学を超越した視点で眺めるには必要なのかもしれない。
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このページはウィキペディア日本語版の史学史 2006年9月14日 (木) 05 13 版を元にKanbunが改訂しています。 史学史(一) トート神 古代エジプトでは書記官によって詳細な歴史記録が蓄えられていたが、歴史観のような歴史を体系的に把握しようとする意識には乏しかったと考えられている。なぜならそのような歴史観を抱くことは、書記官の守護神であり歴史の主宰者であったトート神を冒涜するものと考えられたからである。したがって歴史記録の蓄積があっても歴史学的な営みに発展しなかったと考えられている 「史学史(一)」では、歴史記述の発生から啓蒙主義の歴史記述までを対象とする。それ以降は「史学史(二)」「史学史(三)」を参照。 史学史(しがくし)とは歴史学?の研究史。具体的には歴史?事実研究に関する歴史意識と学説の歴史、また歴史観?の変遷に関する歴史のことである。 その必要性と前史史学史の定義とその必要性 歴史意識と歴史記述 同時代記述と歴史記述 歴史的展開古代ギリシャにおける歴史記述の始まりヘロドトス トゥキュディデス 西洋中世における歴史記述の推移アウグスティヌスと「二国史観」 ルネサンス期の歴史記述(マキャヴェリとグイッチャルディーニ) 啓蒙主義の歴史記述フランス(ベールからボーフォールまで) イギリス(ヒューム、ロバートソン、ギボン) 独立した先駆的研究(ヴィーコからミシュレまで) 出典 使用条件など その必要性と前史 史学史の定義とその必要性 史学史は狭義には近代?に成立した歴史学の学説史のことを指すが、近代歴史学以前にも歴史記述を対象とし、歴史事実や歴史意識、歴史観などを記述する学問的営みが行われていた。またそれらを記述するに当たっては様々な方法論が用いられ、その方法論は近代歴史学の研究方法に大きく影響を及ぼしている。同時に近代歴史学自体が近代以前の歴史記述を主要な研究対象としているため、事実把握においてそれらの歴史記述の客観性を検討(史料批判?)しなければならず、したがって史料がどのような方法論に基づいて記述されているかは主要な関心となる。ここに広義の意味での史学史、すなわち歴史記述や歴史意識、歴史観の変遷の歴史も歴史学の対象として成立する[1]。 [1]イブン・ハルドゥーン?は歴史学的な記述と、単なる出来事の報告や物語を分けるのは、広く承認されているかどうかと記述の方法論によると述べている。そして歴史学的記述が広く承認されるかどうかはその記述の方法論が妥当であるかどうか、批判することが可能であるかどうかによるという。すなわち彼によれば、歴史学的記述の信頼性はそこに記載された事実の信憑性ではなく、方法論の信頼性によるのである。彼は事実の信憑性についていえば、一流の歴史家の著述であっても疑わしい部分はあるが、それはその記述の歴史学的価値にとって決定的ではないという。(文献1 pp.19-33)バラクルー?の「われわれが読んでいる歴史は、確かに事実に基づいているけれども、厳密にいうと、決して事実ではなく、むしろ広く認められているいくつかの判断である」(文献2 pp.13-14)という言葉、E・H・カー?の「歴史的事実という地位は解釈の問題に依存することになるでしょう」「私たちが歴史を読みます場合、私たちの最初の関心事は、この書物が含んでいる事実ではなく、この書物を書いた歴史家であるべきです」(文献2 p.27)という言葉も同様の内容を言い換えたものである。つまり記述された歴史(史料)は常に記述主体(記述者・報告者・著述家・歴史家など)の取捨選択を含んでいる。ところで過去の事実が記述という形でしか客観化されない以上、史料の示す以上の過去の事実は知ることができない。したがってどのような取捨選択が、その史料を記述する上でおこなわれているかという観点は史料を扱う際にはつねに想起されなければならない。(文献7 pp.26-38、文献17 pp.126-127)また歴史家がどのような立場に立って自分が歴史を記述しているかを自覚することなしに歴史を記述しようとすれば、首尾一貫性のない歴史記述をしてしまったり、客観的に記述しているつもりでじつは主観的な記述をしてしまうことにつながる。したがって歴史家は自分の主観性をむしろ積極的に意識し、その方法論の特徴と限界性を明瞭に認識した上で記述することでかえって客観的な歴史事実に近づくことができるのである。(文献7 pp.182-196)すなわち歴史研究は最終的には歴史を叙述する営みであり、そのために歴史家は単なる実証的な史料批判にとどまるのではなくて、史料を取捨選択し、一つの方法論に基づいて新たな歴史を叙述することを求められるのである。歴史家は最終的には何らかの方法論を設定してそれにしたがって記述するのであるから、方法論の歴史を振り返り、自らの方法論について検討を加えることを怠ってはならない。(文献14 pp.163-171) 歴史意識と歴史記述 歴史学研究が成立するには、歴史観、あるいは歴史意識の成立とそれに基づいた歴史記述の存在が前提とされる[1]。独特の時間意識としての歴史意識が存在していても、それが記述されない場合は記述としての歴史が存在しないことがある[2]。歴史意識とは時間が一定方向に流れていくという時間意識のことであるが、これはある一定の時点から現在までの直線として時間を把握する紀年法?的発想を必要とする。したがって時間を一定の暦という形で把握する暦思想の成立なくして歴史記述は成立しない。 [1]歴史は二義性を持っており、客観的事実としての「過去の出来事」とそれを言語的に表現した「歴史記述」に分けることができる。歴史学は基本的には前者を対象とし、それを明らかにする学問であるが、前者を対象化するためには言語によって記述され客観化される必要がある。したがって歴史学は過去の出来事を明らかにするために、それについての歴史記述をも対象とし、さらにそれを記述して新たな歴史記述を生み出す過程である。もちろん事実としての歴史と記述された歴史の間には観察者としての記述者、著述家の視点が存在するから、歴史記述自体は客観化されたものであってもそこに記された歴史事実が必ずしも客観的であるとは限らない。また近年では言語表現としての文字以外の形で記録された過去の記憶も「歴史事実」として扱われるべきではないかという主張も存在する。 [2]一般に遊牧民は文字文化の形成が遅いことが指摘されており、したがって遊牧民は自らの歴史を記述するのが遅れ、彼らの古代史は主に隣接する農耕民の歴史記述によって把握される傾向にある。またインドやイランなど文字文化が存在したところでも、それを体系化して歴史として記述する意識が希薄だったために歴史記述は遅れた事例があることが指摘されている。(文献3 pp.8-12) 同時代記述と歴史記述 ハンムラビ(左側の人物) バビロン第1王朝の代表的な君主。ハンムラビ法典を制定したことで有名。ハンムラビ王の在位43年のそれぞれの年がどのように記録されたかは研究により解明されている このような暦思想の成立以前、すでに文字による同時代の出来事記述はされていた。文字?は元来古代の行政?・財政?の記録を保存する必要性から発明されたと考えられている。このような行政文書においては当然「いつ」「どこ」で「誰」と「誰」が「どのような」取引をおこなったかが主要な関心となるため、その「いつ」の部分をとくに重要な出来事を目安にして記録されることが行われた。このように出来事に基づいてある1年をほかの年から区別する方法は古代メソポタミアのウル第3王朝時代?にはすでに成立していたといわれる[1]。 [1]バビロン第1王朝?のハンムラビ?王の43年の治世についてはすでにそれぞれの年がどのように記述されたかは解明されており、それに従って具体例を示せば、その第1年は「ハンムラビ、王(となった年)」、第2年は「国内に正義がおこなわれた(年)」、第3年は「バビロン?においてナンナ神のための高壇に玉座を築いた(年)」などとされている。(文献3 p.26) 時代が進むと、王の在位年と主な業績を付記した王名表?という文書が出現し、王名表は王朝?を一つの歴史的連続性によって認識していることを示しており、歴史意識とその記述の原型を見ることができる。ただしこの王名表において個々の王は一人称で記述され、同時代向けのプロパガンダ的側面が看取される点で客観的な歴史記述とは異なるものであった。 一方で支配者は主に軍事的成功など自らに関する特別な出来事があった場合は記念碑を作ってこれを顕彰した。これは出来事をただ記すのではなく、その偉大さ重要性などを具体的に叙述することで事実としての歴史を文章にして表現したものであった。このような碑文はあくまで同時代を対象としている点で歴史記述ではないが、その記載に対しての態度は歴史の記述方法に継承されるものであった。 やがて古代オリエント末期の新バビロニア?時代になると、歴代誌?という形式の文書が出現する。これは新バビロニアの数代の王の治世を記述対象としているもので、文書内で王を三人称で呼んでいることから、客観的な事実を記載する意図を持ったと思われる。したがって今日的な意味での歴史記述の成立はこの歴代誌に求めることができる。やがて時代をさかのぼって新バビロニア以前の王朝を歴代誌と同じように記載する文書が出現し、現在ある王朝以前からの連続した世界を客観的に記述する意図を持つ歴史編纂の態度が現れた。このような歴史を編纂する営みのことを「修史?」という。歴史記述としての歴史学はまず修史として成立した。 歴史的展開 近代歴史学との関連性から、ここでは主に西ヨーロッパの歴史記述と記述方法論を中心に概観する。 古代ギリシャにおける歴史記述の始まり ヘロドトス(左側)とトゥキュディデス(右側) 歴史記述としての歴史学の始まりは古代ギリシャであるというのが一般的である[1]。古代ギリシャの代表的な歴史家として挙げられるのはヘロドトスとトゥキュディデスである。彼らの著作は同時代的な出来事の原因と推移を示すために歴史記述をしている点が特徴としてあげられる[2]。また記載されている事実は両者が実際に見聞したものが大半で、記述に当たって自分の見聞以外の原史料を使用している痕跡があまりない[3]。(詳細は西洋古代の歴史記述を参照) [1]しかし古代ギリシャでは「永遠」であることが重んじられたために、個々の事実は「生滅」するために尊重されず、全体としては歴史に対する関心は低かったことが指摘されている。たとえばアリストテレス?は永遠不変な意味内容を含む「詩?」を非常に高く評価する一方、「歴史」についてはそれが個別的で一時的な出来事を扱うものであるという理由で低い評価しか与えていない。(文献3 pp.67-68、文献5 pp.28-29) [2]ヘロドトスもトゥキュディデスも同時代史に終始して遠い過去の研究にさかのぼることはなく、それは古代ギリシャ特有の循環的歴史意識によるという。(文献3 pp.66-75、文献21 p.36) [3]ヘロドトスが明示して引用している書物はヘカタイオスの書物だけである。 ヘロドトス ダヴィッド画「テルモピレーのレオニダス」 レオニダス率いるスパルタ軍はアケメネス朝の大軍をテルモピレーの隘路で待ちかまえた。決死の覚悟で激しく戦い、3日の間にわたって足止めした。ヘロドトスの著作における山場の一つ 一般に「歴史学の父」と言われるヘロドトスは前5世紀のギリシャの人である。彼はアケメネス朝とギリシャのポリス?の間で起こったペルシア戦争?の原因と推移を詳述し、さらにはその勝敗の理由を両者の政治体制?の相違に求めた[1]。ヘロドトスの歴史記述の特徴は、客観的な事実性をあまり重視しておらず、自身の見聞に基づいてさまざまな伝承や伝説を多く著述していることが挙げられ、これが後述するトゥキュディデスの批判するところとなった[2]。 [1]アケメネス朝に代表されるアジアの専制主義とギリシャのポリスに代表される民主主義の比較はギリシャの思想家においてそれほど珍しくなく、アリストテレスもポリス社会にアジアにはない自由を見出して、そこに政治的価値を主張している。(文献26 pp.46-48)今日問題にされるオリエンタリズム?の原型をここに見出すことも不適切であるとはいえない。 [2]トゥキュディデスと異なり、ヘロドトスの記述には年代を明示する箇所が少ない上に挿話が多いことから、その年代的な信憑性について疑問が抱かれていた。とくにポリス社会での年代が示されているのは、ペルシア戦争終結の年だけであり、時の執政官カリアデスの在位年が用いられている。今日では、研究によってヘロドトスの年代構造がかなり明らかになっており、その構造がしっかりとしたものであることが確認されている。 トゥキュディデス ペリクレス ペロポネス戦争前夜のアテナイを主導した。トゥキュディデスは立場的にはペリクレスの政敵の家系に近かったらしいが、彼を大変高く評価し、彼の演説部分はトゥキュディデスの著作の中でも評価の高い箇所である 一方ギリシャのポリス間同士でおこなわれたペロポネソス戦争?を記述したトゥキュディデスは、ヘロドトスが伝承や伝説までも記述の対象としていたのを批判し、検証性を重視して歴史を記述した[1]。一方でトゥキュディデスの歴史記述に登場する為政者の演説などは創作性が大きく、また見聞に頼っているせいか、事実の記述においてやや偏りが見られる[2]。 [1]トゥキュディデスは著述に当たって、トロイア戦争?とペルシア戦争を考察して、両方の戦争では海軍国家が陸軍国家に勝利しており、海軍国家が陸軍国家より有利であると述べる。ペロポネソス戦争ではアテナイとスパルタが戦うのであるが、海軍国であるアテナイが陸軍国であるスパルタより基本的には優位にあるとする。そのうえで実際はアテナイが敗北する結果となったことを鑑みて、その原因を探っている。年次の記載にも気を配っており、複数の紀年を用いて表現している。たとえば「アルゴスではクリューシスの神職在任48年目、スパルタではアイネーシアースが監督官であったとき、アテーナイではピュートドーロスが執政官の任期を終わる4ヶ月前、ポテイダイアの会戦後11ヶ月目」というような形である。またアテナイに蔓延した疫病の病状について専門用語を駆使して詳しく記しているが、後世同様の病気の治療の際に参考になるように記録するのであると述べている。このように論理性に優れた洞察と、出来事に対する明確な問題意識をもとに記述する姿勢が高く評価されている。(文献5 pp.9-49) [2]演説はかなり創作性が高いが、状況から論理的に考え抜かれているために、むしろ本文の記述において十分に示されない問題背景を補っている面があり、ただ単に物語として記されているわけではないことが指摘されている。トゥキュディデス自身も演説のほとんどは創作であり、前後の事情を考えて演説の論旨を構成していることを認めており、これは彼の歴史叙述の特徴であり、もともと意図されたところであるらしい。(文献8 p.54)また事実としては些少ながら、かなり克明に記載されている例としてはアテナイによるメロス島侵攻の記事を挙げることができる。トゥキュディデス自身もメロス島に戦略的価値はなく、政治的事件としては瑣末的な出来事であったと認めつつ、アテナイの大国主義的な政策の事例を示すためにあえてかなり詳細に記したらしい。同書においては文学的にも評価が高い箇所でもある。(文献4 pp.9-14、文献6 pp.352-363) 西洋中世における歴史記述の推移 アウグスティヌス 代表的な著作『神の国』では、二元的な世界観を示し、以後のキリスト教神学・政治思想・歴史観などに決定的な影響を与えた キリスト教?がヨーロッパで支配的となると、学問分野においてもキリスト教の世界観が支配的となった。ここに神の意図を実現する過程として歴史を捉える見方が現れ、個別の国家・民族・個人を超えた歴史の根本法則を見出す観点、普遍史の観点が成立した[1]。しかしルネサンス?期になると普遍史的観点は薄れ、同時代史を重視するようになった。(詳細は西洋中世の歴史記述?、ルネサンスの歴史記述?を参照) [1]歴史の過程は人間生活の中で人間の意志によって実現されるが、じつはそれによって達成されるものは神の意図に一致するという考え方。この考えによれば、究極的には人間の歴史も神の意図を実現する歴史であるということになる。(文献18 pp.90-91)キリスト教思想は発展的歴史観を生み出し、その哲学的表現がアウグスティヌス?の『神の国』であった。(文献21 p.37)福田歓一?はここにヨーロッパにおける歴史哲学の成立を見出している。(文献19 pp.108-109) アウグスティヌスと「二国史観」 中世の歴史記述の特徴の一つとして「二国史観」という観点がある[1]。これはキリスト教的世界である「神の国」と神を侮る人間の自己愛的世界である「地の国」の対立のもとに歴史を把握する歴史観で、アウグスティヌスによって理論づけられ、歴史は「地の国」に「神の国」が実現する過程であると理解された。ここに歴史事実の背景に何らかの根本法則を見出そうとする歴史意識が成立したが、この意識はキリスト教的精神によって支えられていたために、キリスト教の権威が相対的に弱まるとともに希薄化した。 [1]「二国史観」の代表的かつ最も完成された著作はフライジングのオットー?(生没 1114年-1158年)の『二国年代記』(原題 Chronikon sive historiae de duabus civitatibus)である。この書に特徴的なことは、天地創造?からドイツ国王コンラート3世?にいたるまで記述されたあとに、最後の審判?・永遠の天国?の到来にいたる未来史が記述されていることである。(文献18 pp.96-97) ルネサンス期の歴史記述(マキャヴェリとグイッチャルディーニ) マキャヴェリ 極めて実際的な権力重視の政治理論を唱えたマキャヴェリ。彼の政治理論は歴史の教訓から得られたものであった キリスト教の権威が弱まり、普遍史的意識が希薄化すると、歴史記述は再び同時代史を中心になされるようになった。ルネサンス時代の代表的政治思想家で歴史家でもあるマキャヴェリ?の『フィレンツェ史』[1]は、民族移動から1492年のロレンツォ・デ・メディチ?の死にいたるまでのフィレンツェとイタリア半島の歴史であるが、その冒頭から1434年に至るまでの歴史は全9巻[2]の中でただ1巻で述べられているに過ぎない。彼の同時代人で『フィレンツェ史』[3]・『イタリア史』[4]を著したグイッチャルディーニ?に至っては、同時代史の比重がより大きくなり、この点で古代ギリシャの歴史記述と同じ傾向を持つものとなった[5]。 [1]原題 Istorie fiorentine、1520年-1525年。 [2]9巻は未完の草稿が残るのみで、完成しているのは8巻まで。 [3]原題 Storie fiorentine、1508年-1510年。 [4]原題 Storia d Italia、1537年-1540年。 [5]グイッチャルディーニの『フィレンツェ史』は1378年から1509年を記述しているが、叙述が詳細になるのはロレンツォ・デ・メディチを対象とするあたりからであり、1492年の彼の死以降が最も詳細になる。『イタリア史』のほうは1492年から1534年に至るまでを対象としているが、これは全く同時代史である。(文献18 pp.99-100) 啓蒙主義の歴史記述 理性?の不変と普遍を主張し、あらゆる物事を理性によって体系づけようとする啓蒙思想?がヨーロッパで支配的になると、歴史記述にも大きな影響を与えた。啓蒙思想は懐疑と批判によって、歴史記述に事実尊重・方法論重視の傾向をもたらし、さらに歴史研究を実践に結びつけようという風潮につながった。(詳細は啓蒙思想の歴史記述?を参照) フランス(ベールからボーフォールまで) モンテスキュー 啓蒙主義を代表する政治思想家。歴史研究を実際の政治理論に応用し、その著作はいまなお古典として高い評価を受けている ベール?は『歴史批評辞典』[1]を著し、具体的な事実をそれ自体として尊重する立場を示し、既存の歴史記述の誤謬を指摘した[2]。事実を尊重するベールから始まった啓蒙主義の歴史研究はやがて、実践的な歴史記述に結びついた。ブーランヴィリエ?は『フランス旧統治史』[3]を著し、貴族の復権を訴えたが、彼は当時フランス政府が行った各地の古い慣行についての報告書を検討してその主張の根拠とした。デュボス?の『フランス王政樹立の批判的歴史』[4]はブーランヴィリエとは逆に、貴族とその特権を攻撃するものであったが、彼はフランス王権の由来を、民族大移動の際にガリアのローマ系住民とフランク族の間で交わされた契約の結果であるとし、それを根拠とした。このように啓蒙主義の歴史研究は過去の事実を尊重する立場から、やがて過去の事実を現在の批判の材料として使用する実践的な側面を持つようになった。 この意味で、啓蒙主義の歴史家の典型を示し、かつ評価が高いのはモンテスキュー?である。彼は代表的著作『ローマ人盛衰原因論』[5]および『法の精神』[6]において、歴史事実から理論的なモデルを抽出し、それを現在の社会に適用して問題解決の手段に利用しようとした[7]。一方でボーフォール?は『ローマ史最初の五世紀の不確実さに関する論文』[8]を著し、ローマ史冒頭のロムルス?とレムス?に始まる王政の歴史が神話と伝説に過ぎないことを論じた。ボーフォールの研究は近代歴史学に直接つながるものであった[9]。 [1]原題 Dictionnaire historique et critique、1697年。 [2]ベールは歴史に形而上学的観点を持ち込むこと、つまり歴史哲学のような観点から歴史事実を扱うことを批判した。歴史事実同士の関連性を否定し、歴史事実は全て独立に扱われるべきであるという見方を示した。したがって歴史事実と歴史事実の間の相互性や因果関係を否定した。カッシーラー?は、このベールの研究態度は歴史の過程に法則性を否定したことで歴史理論の破壊であったが、事実を尊重するという方法論を示したという意味で創造的であったと述べている。(文献20 pp.9-65)またベールが理性に基づいて彼の現在から過去を批判し、評価したことは、過去を現在と同質な次元に捉えることであり、したがって過去と現在に相関的統一が与えられた。(文献18 pp.113-114) [3]原題 Historiae de l ancien gouvernement de la France、1727年。 [4]原題 Histoire critique de l établissement de la monarchie française、1734年。 [5]原題 Considérations sur les causes de la grandeur des Romains et de leur décadence、1734年。 [6]原題 De l esprit des lois、1748年。 [7]カッシーラーはこのモンテスキューの手法をウェーバー?の理念型?と同一のものであり、社会学?・政治学?ではこの手法が支配的であるが、それはモンテスキューに由来すると述べている。(文献20 pp.32-33) [8]原題 Dissertation sur l incertitude des cinq premiers siècles del histoire romaine、1738年。 [9]政治思想・社会学などにモンテスキューが及ぼした影響は決定的で、とくにその機構論は現代政治の基本理念の一つにまでなっている。しかし近代歴史学の観点でいえば、事実に対する客観性の重視という意味で、モンテスキューよりボーフォールの伝承批判のほうが価値ある研究であった。後述するニーブールの研究もボーフォールの研究の影響のもとにあった。(文献18 pp.120-121) イギリス(ヒューム、ロバートソン、ギボン) ヒューム スコットランド啓蒙主義を代表する思想家。彼の影響は哲学を中心に多方面にわたる ブリテン島?での啓蒙主義的歴史研究は、まずスコットランドで「スコットランド啓蒙主義?」と呼ばれた思想家たちの間で行われた。このスコットランド啓蒙主義の代表的著作はヒューム?の『イングランド史』[1]であるが、これも前期ステュアート朝?の君主、とくにチャールズ1世?を悪の権化とするような当時の風潮に対する批判が込められていた[2]。スコットランド啓蒙主義は事実をそのまま記述しようという叙述的歴史を重視する態度に進み、ロバートソン?の『スコットランド史』[3]・『カール5世時代史』[4]につながり、さらにイングランド?のギボン?による『ローマ帝国衰亡史』[5]などの歴史叙述を生んだ。 [1]原題 History of England、1754年-1763年。 [2]カッシーラーによると、ヒュームは事実と概念を対立させたのみならず、事実のうちでも一般的事実と個別的事実を対立させ、事実の概念への普遍化を放棄した。このことが個別的事実の重視につながり、個別的事実を積み重ねて歴史事実を叙述する態度を生んだという。(文献20 pp.55-56) [3]原題 History of Scotland 1542 - 1603、1759年。 [4]原題 History of the Reign of the Emperor Charles V、1769年。 [5]原題 The History of the Decline and Fall of the Roman Empire、1776年-1782年。 独立した先駆的研究(ヴィーコからミシュレまで) ヴィーコ デカルト的方法論を批判し、自然科学とは別個に社会科学の研究分野が確立されるべきだと述べた。彼の思想はしかし同時代にはほとんど顧みられることがなかった 上述したような啓蒙主義の主流とは独立に、歴史研究の独自な方法論を模索したのがヴィーコ?であった。ヴィーコは自然認識を重視するデカルト?的方法論を批判し、自然認識と歴史認識は異なるものであると述べた[1]。一見これは神学的な「二国史観」に接近しているようであるが、ヴィーコは神の意図の実現が歴史の過程であるとしても、それが人間行為としてまず行われるのであり、したがって神の意図を考えなくても人間行為の過程を把握することが可能であるとして、神学的解釈を歴史認識に持ち込むことも拒否した。このようにヴィーコの歴史哲学は今日的に見て意義深い内容であったが、啓蒙主義の時代にはヴィーコの影響は非常に限られており、ほとんど顧みられることがなかった[2]。 ライプニッツ?はブラウンシュヴァイク家?の依頼で古文書を収集し、『西ローマ帝国編年史』[3]を著した。しかしのちの歴史学に影響を与えるのは彼のモナド論?で、実体を静態としてではなく動態として捉えることを主張した[4]。ヘルダー?はライプニッツのモナド論に影響されて独自の歴史哲学を展開した。彼は歴史事実のあらゆる普遍的な特徴付けを放棄し、歴史事実は「個」として存在するのであるから、その存在に同一性は存在しないとした。あくまでそれらの事実の発展の過程において統一性が存在するのだと述べ、したがって歴史の普遍性は過程の統一性によって把握されるべきだとした。 19世紀の歴史家ミシュレ?はこのヴィーコの著作を発掘し、歴史研究において分析力よりも構想力のほうが重視されるべきことを主張したが、これもほとんど顧みられなかった[5]。 [1]ヴィーコは歴史認識においては観察者・記述者・歴史家(認識の主体)と歴史事実(認識の客体)が一致するために歴史的な真実というものは認識可能だとした。なぜなら自然的世界は神が作ったが、歴史的世界は人間自身が作ってきたものだからである。このことは自然的世界とは異なる歴史的世界を成立させることになり、それが自覚的に捉えられていることを示している。(文献18 pp.122-128) [2]カッシーラーはヴィーコは最初の体系的な歴史哲学を展開したが、ヘルダーに再発見されるまで啓蒙主義には何の影響も及ぼさなかったと述べている。(文献20 pp.28) [3]もともとはハノーヴァーのブラウンシュヴァイク家の家系史になる予定だったが、途中でライプニッツが死んだため、768年から1005年までの記述となった。 [4]カッシーラーによると、モナド論は近代歴史学の原則ともいうべき「個性原理」に直接つながるものである。(文献20 pp.57-61)またライプニッツは歴史編纂を職業としており、当時の中国学の第一人者であった。参照 http //elekitel.jp/elekitel/special/2003/04/sp_01_a.htm [5]ミシュレの時代は社会学や進化論の手法が歴史学に取り入れられ流行していた時期であり、このような歴史学の「科学化」が進行している時代には合致していなかったためである。このミシュレの研究が発掘され、脚光を浴びるのはフェーヴルによって実証主義歴史学が見直された時であった。(文献18 pp.128-130) 以降「史学史(二)」へ続く 出典 ※参照した文献は、その旨を記す際に煩雑さを避けるため、「文献」のあとに数字を示すこととする。具体的には「文献1」という場合は、下記のイブン・ハルドゥーンの『歴史序説(一)』を指すものとする。 (文献1)イブン・ハルドゥーン?著、森本公誠?訳 『歴史序説(一)』岩波文庫、2001年 (文献2)E・H・カー?著、清水幾太郎?訳 『歴史とは何か』岩波新書、1962年 (文献3)蔀勇造?著 『世界史リブレット57 歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり』山川出版社、2004年 (文献4)田中美知太郎?著 『ロゴスとイデア』岩波書店、2003年 (文献5)トゥーキューディデース著、久保正彰?訳 『戦史 上』岩波文庫、1966年 (文献6)トゥーキューディデース著、久保正彰訳 『戦史 中』岩波文庫、1966年 (文献7)堀米庸三?著 『歴史をみる眼』NHKブックス、1964年 (文献8)村川堅太郎?編 『世界の名著5 ヘロドトス トゥキュディデス』中公バックス、1980年 (文献9)溝口雄三?ほか編 『中国思想文化辞典』東京大学出版会、2001年 (文献10)加藤常賢?監修 『中国思想史』東京大学出版会、1952年 (文献11)宮崎市定?著 『史記を語る』岩波文庫、1996年 (文献12)武田泰淳?著 『司馬遷 史記の世界』講談社文芸文庫、1997年 (文献13)貝塚茂樹?著 『史記 中国古代の人びと』岩波新書、1963年 (文献14)増田四郎?著 『大学でいかに学ぶか』講談社現代新書、1966年 (文献15)金谷治?著 『中国思想を考える』中公新書、1993年 (文献16)重澤俊郎?著 『周漢思想研究』大空社、1998年 (文献17)顧頡剛?著、平山武夫?訳 『ある歴史家の生い立ち 古史辨自序』岩波文庫、1987年 (文献18)中村治一?著 『史学概論』学陽書房、1974年 (文献19)福田歓一?著 『政治学史』東京大学出版会、1985年 (文献20)カッシーラー?著、中野好之?訳 『啓蒙主義の哲学 下』ちくま学芸文庫、2003年 (文献21)林健太郎?著 『史学概論(新版)』有斐閣、1970年 (文献22)林健太郎編 『世界の名著65 マイネッケ』中央バックス、1980年 (文献23)弓削尚子?著 『世界史リブレット88 啓蒙の世紀と文明観』山川出版社、2004年 (文献24)太田秀道?著『史学概論』学生社、1965年 (文献25)ブルクハルト?著、新井靖一?訳 『コンスタンティヌス大帝の時代』筑摩書房、2003年 (文献26)ハンナ・アレント?著、志水速雄?訳 『人間の条件』ちくま学芸文庫、1994年 (文献27)アンリ・ピレンヌ?著、中村宏?ほか訳 『ヨーロッパ世界の誕生 マホメットとシャルルマーニュ』創文社、1960年 使用条件など この記事はGFDL文書です。このページに掲載されている画像はウィキコモンズに公開されているものを使用しています。 -
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条件 Lv60以上 必要アイテム 緑ポーション1、イエロージェムストーン1 入手アイテム 経験値1.6M クエストを始める前に推薦状を貰っておくと⑪で1000z節約出来ます。 アーチャー系・テコン フェイヨン1時方向の門の前 マジシャン系 ゲフェン塔の入り口付近 剣士系・ノビ系 イズルードセーブ地点から少し東 商人系・ソウルリンカー アルベルタ6時方向カプラ右側商人 アコライト系 プロンテラ大聖堂入り口の修道女 シーフ系・拳聖 モロク6時方向の少女 ガンスリンガー・忍者 シュバルツバルド間飛行船の上の男 ①プロンテラ東に居る忙しそうな少年に近づくと自動でメッセージが出ます。 「本を拾うのを手伝う」 「手伝ってあげる」 ②ジュノー図書館左に居る歴史学者カロモプに何度も話しかけ、薄いファイルを受け取ります。 ③モロク5時方向の旅館2階に居る歴史学者ロダプリオンと会話し「彼女の研究について話し合う」 「知っているのと少し違う」を選択。 入力ウィンドウに歌詞を入力します(適当に入力しても進めます) 海をのむ大きな蛇 海をのむ大きな蛇 七色に光るワシが捕食する 光栄のワシが海の上に巣を作る ④ゲフェン↑↑マップ中央に居る歴史学者モンドと会話し、入力ウィンドウに歌詞を入力します。 ■ここでは間違わないように入力して下さい。 正確に入力し再び話しかけると川の近くに居る子供の話が聞けます。 海をのむ大きな蛇 海をのむ大きな蛇 七色に光るワシが捕食する 光栄のワシが海の上に巣を作る ⑤同じマップの右上にある展望台へ行き、ぼうぜんとしている少年と会話。 「それは何の歌なの?」を選択します。 続いて横に居るくたびれた表情の女性と会話し「どうしてこんな所に?」を選択するとバムプ神父の話になり、皮袋を渡されます。 ⑥プロンテラ大聖堂の一番奥のワープに入り、バムプ神父と会話。 近づくように言われ再度話をします。 ⑦再びゲフェン↑↑のくたびれた表情の女性イムブルリアと会話します。 ⑧大聖堂のバムプ神父と再び会話をし、本棚の吹き出しから地下へ行きます。 バムプ神父と会話後、左から死体を調べていき選択肢で「毒!?」を選びます。 ⑨地下から出て再びバムプ神父と会話するとアサシンギルドに行くように言われます。 ⑩モロク↓↓→→のアサシンギルドに行き、入り口に居るアサシンギルド関係者と会話します。 選択肢「毒の事で・・・」 ⑪モロク8時方向にある酒場へ行き、一番奥の上の部屋「第1区域」でマルザナと会話します。 ■会話後はポタや蝶を使わずに徒歩で外に出る事。 ⑫酒場を出た所で自動でメッセージが出て選択肢が出ます。 今回はクエスト解決出来る「バムプ神父に」を選びクエストを進めました。 「ロダプリオンに」を選択した場合、クエスト未解決で終了します。 経験値が貰えなかったという情報もありますのでお勧め出来ませんが、間違えてこちらを選んでしまった場合はこのページの↓へ進んで下さい。 ⑬バムプ神父と会話後、緑ポーションとイエロージェムストーンを持って本棚から地下へ行きます。 ⑭バムプ神父と会話→右の死体をクリック→再びバムプ神父と会話。 ⑮地下から出てバムプ神父と会話すると経験値1.6Mが貰えます。 ⑯ゲフェン↑↑の展望台に居るイムブルリアと会話。 ⑰モロク旅館2階に居る歴史学者と会話。「ゲオルグの呪いについて言う」 ⑱再び大聖堂のバムプ神父と会話してクエスト終了です。 ⑫の選択肢で「ロダプリオンに」を選択した場合(未確認です) ①ロダプリオンと会話。選択肢「話す」 ②大聖堂でバムプ神父と会話後、ビスカス神父に話しかけると経験値が貰える。 「話さない」を選択しても経験値が貰えた。 「話す」を選択しても経験値が貰えなかった。 などの情報があり、経験値が「貰える」「貰えない」のフラグがどの部分なのか不明です。 ご注意下さい。
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考古学/歴史学科 生徒 4学年 01 -◎◎ / ○○ pixiv 02 - 03 - 5学年 01 - 02 - 03 - 6学年 01 - 02 - 03 - 7学年 01 - 02 - 03 -
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歴史神学(Historical Theology)は聖書神学、組織神学、弁証学、実践神学、に並ぶ神学の一部門である。 歴史神学とは、神の人間に対する超自然的啓示と、使徒時代に始まる教会の歴史を、歴史学的方法によって研究する神学の部門である。 歴史学に属する諸学科には、教会史、教理史、信条史、伝道史、教父学、教会政治史、礼拝史、キリスト教美術史、教会音楽史、など、教会活動に関係する全領域が含まれる。
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こちらでは「歴史」について、個人的に思ったことをつらつらと書いております。 2017.8.8 個人的に思う歴史と歴史学 2017.8.15 八月十五日という日