約 28,521 件
https://w.atwiki.jp/minnasaba/pages/1605.html
正義のカリスマ:B (正義王マーチャーシュ一世) 軍団を指揮する天性の才能。団体戦闘において、自軍の能力を向上させる。 権力を持たぬ者へは効果が大きく、権力のある者には効果が小さくなる。 彼は民衆には人気だったものの貴族層からは不人気であった。
https://w.atwiki.jp/rekisinidokiri/pages/13.html
概要 藤原道長 藤原道長は平安時代の貴族であり中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫。娘を天皇と結婚させ権力を持った。摂政・関白という役職になり天皇を補佐する政治体制摂関政治を行った。 無欠望我こ しけ月がの とたの世世 思る とを へこ ぞば ばと 思 も ふ ドキリ★ソング 貴族の政治とくらし (平安!)貴族 大きな屋敷 (平安!)貴族 ぜいたくなくらし (平安!)貴族 すごい力を持っていた (藤原 藤原 藤原道長)この世の中は 私のモノ (藤原 藤原 藤原道長)満月のように光かがやく 大きな権力(権力を) つかむには(つかむには) 娘を帝と結婚(結婚) 自分と帝は親戚(親戚) 息子を帝の補佐にして(補佐?!) 一族で国を動かした (すごいぜ!道長!) 道長 道長 平安貴族の ナンバーワン!(ナンバーワン!) 年号語呂合わせ 人の輪を広げて(1016)天皇と親戚に 道長摂政となる
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/2249.html
改行ズレ/画像ヌケ等で読み辛い場合は、ミラーWIKI または図解WIKI をご利用ください <目次> ■1.「憲法学の権威」芦部信喜 ■2.芦部信喜『憲法 第五版』紹介と抜粋(内容チェック)▼第一章. 憲法と立憲主義 ▼第三章. 国民主権の原理 ▼第十八章. 憲法の保障 ■3.芦部憲法論の致命的欠陥▼1.芦部憲法論の依拠する法概念理解(半世紀前の法学パラダイム) ▼2.ハートの法概念理解(現代の世界標準の法学パラダイム) ▼3.(参考)長谷部恭男による芦部説の否定 ■4.参考図書 ■5.ご意見、情報提供 ■1.「憲法学の権威」芦部信喜 戦後左翼の言論支配は、様々な分野に及んでいるが、憲法学の分野では、宮沢俊義→芦部信喜と続くラインがその中心となっており、歴史学・政治思想・宗教史など他分野に比較しても、その勢力はなお強大である。 しかし結論から先にいうと、芦部憲法論の依拠する法概念理解は旧来のドイツ法学(ないし大陸法学)系の自然法論であって、理論上は既に半世紀以上前に破綻しており(1961年のH.L.A.ハート『法の概念』刊行)、その門下である長谷部恭男からも明白に否定されてしまっている。 このページでは、芦部憲法論のエッセンスを紹介するとともにその致命的欠陥を指摘する。 ■2.芦部信喜『憲法 第五版』紹介と抜粋(内容チェック) 『憲法 第五版』 (芦部信喜:著、高橋和之:補訂 (2011年)) 芦部信喜(故人) は、宮沢俊義に始まる東大憲法学(戦後左翼の通説的憲法学)の権威であり、本書は法律系資格受験者に最も参考にされている影響力の大きい基本書である。芦部の政治的スタンスはリベラル左派~かなり左翼よりと考えると理解しやすい(※参考ページ:政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価)。 ▼第一章. 憲法と立憲主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※左記の他に実は、自然法または根本規範を認めず、憲法制定権力も認めない(特定時点の国民が保持するのはせいぜい「憲法典 constitutional code」(形式憲法)を制定ないし改廃する権力(つまり「国政 national policy」を決定する権力)であり、「国制 constitutional law」(国体法=実質憲法)を制定・改廃する権力ではない、とする見解もあり、そちらが妥当である。(→リベラル右派の「国民主権」論及び保守主義の「国民主権」批判 参照。この場合「国制」(実質憲法)は過去から現代に至る世代を重ねた国民の長年のプラクティスの中から徐々に形成されるものと理解される。すなわち法の支配) ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) ※以下、芦部憲法論の具体的内容をチェック。 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) 第一章 憲法と立憲主義 p.3以下 <目次> 一. 国家と法 二. 憲法の意味◆1. 形式的意味の憲法と実質的意味の憲法◇(一). 形式的意味 ◇(ニ). 実質的意味(1). 固有の意味 (2). 立憲的意味 ◆2. 立憲的憲法の特色◇(一). 淵源 ◇(ニ). 形式と性質(1). 成文憲法 (2). 硬性憲法 三. 憲法の分類◆1. 伝統的な分類◇(一). 憲法の形式・性質・制定主体による分類 ◇(ニ). 国家形態による分類 ◆2. 機能的な分類 四. 憲法規範の特質◆1. 自由の基礎法 ◆2. 制限規範 ◆3. 最高法規 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配◆1. 法の支配 ◆2. 「法の支配」と「法治国家」◇(一). 民主的な立法過程との関係 ◇(ニ). 「法」の意味 ◆3. 立憲主義の展開◇(一). 自由国家の時代 ◇(ニ). 社会国家の時代 ◆4. 立憲主義の現代的意義◇(一). 立憲主義と社会国家 ◇(ニ). 立憲主義と民主主義 一. 国家と法 一定の限定された地域(領土)を基礎として、その地域に定住する人間が、強制力をもつ統治権のもとに法的に組織されるようになった社会を国家と呼ぶ。 従って、領土と人と権力は、古くから国家の三要素と言われてきた。 この国家(*)という統治団体の存在を基礎づける基本法、それが通常、憲法と呼ばれてきた法である。 (*) 国家概念 国家の考え方は、立場の違いによっても、社会学的にみるか、政治学的にみるかによっても、著しく異なる。三要素から成り立つと言われる場合は、社会学的国家論である。これを法学的にみた国家論として著名なものが、国家法人説である(第二章一2*、第三章二2(一)参照)。もっとも、国家三要素説には有力な批判もある。なお、憲法学では、たとえば人権を「国家からの自由」と言う場合のように、国家権力ないし権力の組織体を国家と呼ぶことも多い。 二. 憲法の意味 憲法を勉強するには、まず、憲法とは何かを明らかにしなければならない。 研究の対象を正確に捉えることは、あらゆる学問の出発点である。 憲法の意味を本格的に解明しようとすると、憲法がどのようにしてつくられてきたのか、どのような思想に支えられて登場したのか、という憲法思想史の背景を研究しなければならないが、ここでは、憲法の意味とその法的特質に関する基本的な事柄について概説的に説明するにとどめる。 ◆1. 形式的意味の憲法と実質的意味の憲法 憲法の概念は多義的であるが、重要なものとして三つ挙げることができる。 ◇(一). 形式的意味 これは、憲法という名前で呼ばれる成文の法典(憲法典)を意味する場合である。 形式的意味の憲法と呼ばれる。 たとえば、現代日本においては「日本国憲法」がそれにあたる。 この意味の憲法は、その内容がどのようなものであるかには関わらない。 ◇(ニ). 実質的意味 これは、ある特定の内容をもった法を憲法と呼ぶ場合である。 成文であると不文であるとを問わない。 実質的意味の憲法と呼ばれる。 この実質的意味の憲法には二つのものがある。 (1). 固有の意味 国家の統治の基本を定めた法としての憲法であり、通常「固有の意味の憲法」と呼ばれる。 国家は、いかなる社会・経済構造をとる場合でも、必ず政治権力とそれを行使する機関が存在しなければならないが、この機関、権力の組織と作用および相互の関係を規律する規範が、固有の意味の憲法である。 この意味の憲法はいかなる時代のいかなる国家にも存在する。 (2). 立憲的意味 実質的意味の憲法の第二は、自由主義に基づいて定められた国家の基礎法である。 一般に「立憲的意味の憲法」あるいは「近代的意味の憲法」と言われる。 18世紀末の近代市民革命期に主張された、専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという立憲主義の思想に基づく憲法である。 その趣旨は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、すべて憲法をもつものではない」と規定する有名な1789年フランス人権宣言16条に示されている。 この意味の憲法は、固有の意味の憲法とは異なり、歴史的な観念であり、その最も重要な狙いは、政治権力の組織化というよりも権力を制限して人権を保障することにある。 以上の三つの憲法の観念のうち、憲法の最もすぐれた特徴は、その立憲的意味にあると考えるべきである。 従って、憲法学の対象とする憲法とは、近代に至って一定の政治的理念に基づいて制定された憲法であり、国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする憲法である。 そのような立憲的意味の憲法の特色を次に要説する。 ◆2. 立憲的憲法の特色 ◇(一). 淵源 立憲的意味の憲法の淵源は、思想史的には、中世にさかのぼる。 中世においては、国王が絶対的な権力を保持して臣民を支配したが、国王といえども従わなければならない高次の法(higher law)があると考えられ、根本法(fundamental law)とも呼ばれた。 この根本法の観念が近代立憲主義へと引きつがれるのである。 もっとも、中世の根本法は、貴族の特権の擁護を内容とする封建的性格の強いものであり、それが広く国民の権利・自由の保障とそのための統治の基本原則を内容とする近代的な憲法へ発展するためには、ロック(John Loche, 1632-1704)やルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-78)などの説いた近代自然法ないし自然権(natural rights)の思想によって新たに基礎づけられる必要があった。 この思想によれば、 ① 人間は生まれながらに自由にして平等であり、生来の権利(自然権)をもっている、 ② その自然権を確実なものとするために社会契約(social contract)を結び、政府に権力の行使を委任する、そして、 ③ 政府が権力を恣意的に行使して人民の権利を不当に制限する場合には、人民は政府に抵抗する権利を有する。 このような思想に支えられて、1776年から89年にかけてのアメリカ諸州の憲法、1788年のアメリカ合衆国憲法、1789年のフランス人権宣言、91年のフランス第一共和制憲法などが制定された。 ◇(ニ). 形式と性質 立憲的憲法は、その形式の面では成文法であり、その性質においては硬性(通常の法律よりも難しい手続によらなければ改正できないこと)であるのが普通であるが、それはなぜであろうか。 (1). 成文憲法 まず、立憲的憲法が成文の形式をとる理由としては、成文法は慣習法に優るという近代合理主義、すなわち、国家の根本的制度についての定めは文章化しておくべきであるという思想を挙げることも出来るが、最も重要なのは近代自然法学の説いた社会契約説である。 それによれば、国家は自由な国民の社会契約によって組織され、その社会契約を具体化したものが根本契約たる憲法であるから、契約である以上それは文書の形にすることが必要であり、望ましいとされたのである。 (2). 硬性憲法 また、立憲的憲法が硬性(rigid)であることの理由も、近代自然法学の主張した自然権および社会契約説の思想の大きな影響による。 つまり、憲法は社会契約を具体化する根本契約であり、国民の不可侵の自然権を保障するものであるから、憲法によってつくられた権力である立法権は根本法たる憲法を改正する資格をもつことは出来ず(それは国民のみに許される)、立法権は憲法に拘束される、従って憲法の改正は特別の手続によって行わなければならない、と考えられたのである(*)。 (*) 軟性憲法 世界のほとんどすべての国の憲法は硬性である。しかしイギリスには憲法典が存在せず(その点で不文憲法の国と言われる)、種々の歴史的な理由から、実質的意味の憲法は憲法慣習を除き法律で定められているので、国会の単純多数決で改正することが出来る。このように通常の立法手続と同じ要件で改正できる憲法を軟性(flexible)憲法と言う。 三. 憲法の分類 ◆1. 伝統的な分類 憲法の意味の理解を助けるために、憲法はいろいろの観点から類別されてきた。 ◇(一). 憲法の形式・性質・制定主体による分類 まず、 ① 《形式》の点からして、 成典か不成典か、つまり成文の法典が存在するかどうか、 ② 《性質》の点からして、 硬性か軟性か、つまり、改正が単純多数決で成立する通常の立法の場合と同じか、それよりも難しく、特別多数決(三分のニ、ないし五分の三)、またはそれに加えて国民投票を要件としているかどうか、 ③ 憲法を制定する《主体》の点からして、 君主によって制定される欽定憲法か、国民によって制定される民定憲法か、君主と国民との合意によって制定される協約憲法か、 という区別などがある、と説かれてきた。 しかし、このような伝統的な分類は、必ずしも現実の憲法のあり方を実際に反映するものではないことに注意しなければならない。 たとえば、①については、イギリスのように単一の成文憲法典をもたない国もあるが、イギリスでも、実質的に憲法にあたる事項は多数の法律で定められており、基本的な事項は、実際には、容易に改正されない。 ところが、②にいう硬性の程度が強い憲法でも、実際にはしばしば改正される国は少なくない。 ◇(ニ). 国家形態による分類 また、憲法の定める国家形態ないし統治形態に関する分類として、 ① 君主が存在するかどうかによる 君主制(*)か共和制かという区分、 ② 議会と政府との関係に関して、 大統領制か議院内閣制かという区分、 ③ 国家内に支邦(州)が存在するかどうかによる 連邦国家か単一国家かという区分、 なども伝統的に説かれているが、これらも憲法の分類自体としてはそれほど大きな意味をもつものではない。 たとえば、君主制でも、イギリスのように民主政治が確立している国もあり、共和制でも、政治が非民主的な国は少なくない(従って、民主制か独裁制かという観点からの分類の方が意味がある)。 大統領制や議院内閣制にも、いろいろの形態がある(例えば、両者の混合形態もあるし、同じ大統領制でも、アメリカのような民主的なもの、南米ないし中近東の諸国のような独裁的なもの、の別がある)。 (*) 君主制 歴史的にみると、君主制は、絶対君主制から立憲君主制(君主の権限に制限が加えられる君主制。君主は単独では行為し得ず、大臣の助言に基づくことを要し、大臣は不完全ながら議会のコントロールに服する。明治憲法の天皇制はこの例である)、さらに議会君主制(君主に助言をする大臣が議会に政治責任を負う。現在のイギリス君主制はこの例である)へと発展してきている。 ◆2. 機能的な分類 このような形式的な分類に対して、戦後、憲法が現実の政治過程において実際にもつ機能に着目した分類が主張されるようになった。 たとえば、レーヴェンシュタイン(Karl Loewenstein, 1891-1973)という学者は、 ① 規範的憲法、 すなわち、政治権力が憲法規範に適応し、服従しており、憲法がそれに関係する者すべてによって遵守されている場合、 ② 名目的憲法、 すなわち、成文憲法典は存在するが、それが現実に規範性を発揮しないで名目的に過ぎない場合、 ③ 意味論的(semantic)憲法、 すなわち、独裁国家や開発途上国家によくみられるが、憲法そのものは完全に適用されても、実際には現実の権力保持者が自己の利益のためだけに既存の政治権力の配分を定式化したに過ぎない場合、 という三類型を提唱して注目されている。 このような存在論的(ontological)な分類は、主観的な判断が入る可能性がある点で問題もあるが、立憲的意味の憲法が、どの程度現実の国家生活において実際に妥当しているのかを測るうえで、有用なものであると言えよう。 四. 憲法規範の特質 以上述べてきたところのまとめを兼ねて、近代憲法の特質を箇条的に列挙すると、次のようになる。 ◆1. 自由の基礎法 近代憲法は、何よりもまず、自由の基礎法である。 それは、自由の法秩序であり、自由主義の所産である。 もちろん、憲法は国家の機関を定め、それぞれの機関に国家作用を授権する。 すなわち、通常は立法権、司法権、行政権、および憲法改正手続等についての規定が設けられる。 この国家権力の組織を定め、かつ授権する規範が憲法に不可欠なものであることは言うまでもない。 しかし、この組織規範・授権規範は憲法の中核をなすものではない。 それは、より基本的な規範、すなわち自由の規範である人権規範に奉仕するものとして存在する。 このような自由の観念は、自然権の思想に基づく。 この自然権を実定化した人権規定は、憲法の中核を構成する「根本規範(*)」であり、この根本規範を支える核心的価値が人間の人格不可侵の原則(個人の尊厳の原理)である。 (*) 根本規範 純粋法学の創唱者として著名なケルゼン(Hans Kelsen, 1881-1973)は、一切の実定法の最上位にあってその妥当性(通用力)の根拠となる、《思惟のうえで前提された》規範を根本規範と呼んだが、ここで言う根本規範はそれとは異なり、《実定法として定立された》法規範である。それは、「憲法が下位の法令の根拠となり、その内容を規律するのと同じように、憲法の根拠となり、またその内容を規律するものである」(清宮四郎)。 ◆2. 制限規範 憲法が自由の基礎法であるということは、同時に憲法が国家権力を制限する基礎法であることを意味する。 このことは、近代憲法の二つの構成要素である権利章典と統治機構の関係を考えるうえで、とくに重要である。 本来、近代憲法は、すべて個人は互いに平等な存在であり、生まれながら自然権を有するものであることを前提として、それを実定化するという形で制定された。 それは、すべての価値の根源は個人にあるという思想を基礎においている。 従って、政治権力の究極の根拠も個人(すなわち国民)に存しなくてはならないから、憲法を実定化する主体は国民であり、国民が憲法制定権力(*)の保持者であると考えられた。 このように、自然権思想と国民の憲法制定権力の思想とは不可分の関係にあるのである。 また、国民の憲法制定権力は、実定憲法においては「国民主権」として制度化されることになるので、人権規範は主権原理とも不可分の関係にあることになる(第18章三3図表参照)。 (*) 憲法制定権力 憲法をつくり、憲法上の諸機関に権限を付与する権力([英] constituent power, [仏] pouvoir constituant, [独] verfassungsgebende Gewalt)。制憲権とも言われる。国民に憲法をつくる力があるという考え方は、18世紀末の近代市民革命時、とくにアメリカ、フランスにおいて、国民主権を基礎づけ、近代立憲主義憲法を制定する推進力として大きな役割を演じた。フランスのシェイエス(Emmanuel J. Sieyes, 1748-1836)が『第三階級とは何か』(1789年)を中心に展開した見解がその代表である。制憲権と国民主権との関係につき、第三章二2(ニ)参照。 ◆3. 最高法規 憲法は最高法規であり、国法秩序において最も強い形式的効力をもつ。 日本国憲法98条が、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と定めているのは、その趣旨を明らかにしたものである(*)。 もっとも、憲法が最高法規であることは、憲法の改正に法律の改正の場合よりも困難な手続が要求されている硬性憲法であれば、論理上当然である。 従って、形式的効力の点で憲法が国法秩序において最上位にあることを「形式的最高法規性」と呼ぶならば、それは硬性憲法であることから派生するものであって、とくに憲法の本質的な特性として挙げるには及ばないということになろう。 最高法規としての憲法の本質は、むしろ、憲法が《実質的に法律と異なる》という点に求められなければならない。 つまり、憲法が最高法規であるのは、その内容が、人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心として構成されているからである。 これは、「自由の基礎法」であることが憲法の最高法規性の実質的根拠であること、この「実質的最高法規性」は、形式的最高法規性の基礎をなし、憲法の最高法規性を真に支えるものであること、を意味する。 日本国憲法第十章「最高法規」の冒頭にあって、基本的人権が永久不可侵であることを宣言する97条は、硬性憲法の建前(96条)、およびそこから当然に派生する憲法の形式的最高法規性(98条)の実質的な根拠を明らかにした規定である。 このように、憲法の実質的最高規範性を重視する立場は、憲法規範を一つの価値秩序と捉え、「個人の尊重」の原理とそれに基づく人権の体系を憲法の《根本規範》(basic norms)と考えるので、憲法規範の《価値序列》を当然に認めることになる。 この考えが、人権規定の解釈や憲法保障の問題においてどのような役割を果すかについては、後に述べることにする(第五章-第13章・第18章)。 (*) 国法秩序の段階構造 国法秩序は、形式的効力の点で、憲法を頂点とし、その下に法律→命令(政令、府省令等)→処分(判決を含む)という順序で、段階構造をなしているものと解することが出来る。この構造は、動態的には、上位の法は下位の法によって具体化され、静態的には、下位の法は上位の法に有効性の根拠をもつ、という関係として説明される(ケルゼンの法段階説)。 なお、憲法の最高法規性と関連して、憲法98条の列挙から「条約」が除外されていることが問題となるが、これは条約が憲法に優位することを意味するわけではない。 両者の効力の優劣関係については後述する(第18章ニ4(ニ)(1)参照)。 条約は公布されると原則としてただちに国内法としての効力をもつが、その効力は通説によれば、憲法と法律の中間にあるものと解されている。 実務の取扱いもそうである。 ただ、98条2項に言う「確立された国際法規」すなわち、一般に承認され実行されている慣習国際法を内容とする条約については、憲法に優位すると解する有力説がある。 地方公共団体の条例・規則は、「法律・命令」に準ずるものとみることが出来るので(第17章ニ3参照)、それに含まれると解される。 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配 近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするが、この立憲主義思想は法の支配(rule of law)の原理と密接に関連する。 ◆1. 法の支配 法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。 それは、専制的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。 ジェイムズ一世の暴政を批判して、クック(Edward Coke, 1552-1634)が引用した「国王は何人の下にもあるべきでない。しかし神と法の下にあるべきである」というブラクトン(Henry de Bracton, ?-1268)の言葉は、法の支配の本質をよく表している。 法の支配の内容として重要なものは、現在、 ① 憲法の最高法規性の観念 ② 権力によって侵されない個人の人権 ③ 法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law) ④ 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重 などだと考えられている。 ◆2. 「法の支配」と「法治国家」 「法の支配」の原理に類似するものに、《戦前の》ドイツの「法治主義」ないしは「法治国家」の観念がある。 この観念は、法によって権力を制限しようとする点においては「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、少なくとも、次の二点において両者は著しく異なる。 ◇(一). 民主的な立法過程との関係 第一に、「法の支配」は、立憲主義の進展とともに、市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図ること、従って権利・自由を制約する法律の内容は国民自身が決定すること、を建前とする原理であることが明確となり、その点で民主主義と結合するものと考えられたことである。 これに対して、戦前のドイツの法治国家(Rechtsstaat)の観念は、そのような民主的な政治制度と結びついて構成されたものではない。 もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものに過ぎない。 従って、それは、如何なる政治体制とも結合し得る形式的な観念であった。 ◇(ニ). 「法」の意味 第二に、「法の支配」に言う「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも固く結びつくものであったことである。 これに対して、「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることが出来る容器のような)形式的な法律に過ぎなかった。 そこでは、議会の制定する法律の中身の合理性は問題とされなかったのである。 もっとも、《戦後の》ドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。 その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から《実質的法治国家》へと移行しており、法治主義は英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。 ◆3. 立憲主義の展開 ◇(一). 自由国家の時代 近代市民革命を経て近代憲法に実定化された立憲主義の思想は、19世紀の「自由国家」の下でさらに進展した。 そこでは、個人は自由かつ平等であり、個人の自由意思に基づく経済活動が広く容認された。 そして、自由・平等な個人の競争を通じて調和が実現されると考えられ、権力を独占する強大な国家は経済的干渉も政治的干渉も行わずに、社会の最小限度の秩序の維持と治安の確保という警察的任務のみを負うべきものとされた。 当時の国家を、自由国家・消極国家とか、または軽蔑的な意味を込めて夜警国家と呼ぶのは、その趣旨である。 ◇(ニ). 社会国家の時代 しかし、資本主義の高度化にともなって、富の偏在が起こり、労働条件は劣悪化し、独占的グループが登場した。 その結果、憲法の保障する自由は、社会的・経済的弱者にとっては、貧乏の自由、空腹の自由でしかなくなった。 そこで、そのような状況を克服し、人間の自由と生活を確保するためには、国家が、従来市民の自律に委ねられていた市民生活の領域に一定の限度まで積極的に介入し、社会的・経済的弱者の救済に向けて努力しなければならなくなった。 こうして、19世紀の自由国家は、国家的な干渉と計画とを必要とする社会国家(積極国家ないしは福祉国家(*)とも呼ばれる)へと変貌することになり、行政権の役割が飛躍的に増大した。 (*) 社会国家・福祉国家 社会国家(Sozialstaat)は主としてドイツで用いられる言葉であり、福祉国家(welfare state)は主としてイギリスで用いられる言葉である。その内容は必ずしも明確ではないが、おおよそ、国家が国民の福祉の増進を図ることを使命として、社会保障制度を整備し、完全雇用政策をはじめとする各種の経済政策を推進する国家であると言えよう。我が国では、かつて、福祉国家論は国家独占資本主義の矛盾を覆い隠すイデオロギー的理論であるという批判が学説の一部に強かった。そのような問題点があるとしても、現実の経済・社会に照らして、プラス面の実現を強化していくことが必要である。 ◆4. 立憲主義の現代的意義 ◇(一). 立憲主義と社会国家 立憲主義は、国家は国民生活にみだりに介入すべきでないという消極的な権力観を前提としている。 そこで、国家による社会への積極的な介入を認める社会国家思想が、立憲主義と矛盾しないかが問題となる。 しかし、立憲主義の本来の目的は、個人の権利・自由の保障にあるのであるから、その目的を現実の生活において実現しようとする社会国家の思想とは基本的に一致すると考えるべきである。 この意味において、社会国家思想と(実質的)法治国家思想とは《両立する》。 戦後ドイツで用いられてきた「社会的法治国家」という概念は、その趣旨である。 ◇(ニ). 立憲主義と民主主義 また、立憲主義は民主主義とも密接に結びついている。 すなわち、 ① 国民が権力の支配から自由であるためには、国民自らが能動的に統治に参加するという民主制度を必要とするから、自由の確保は、国民の国政への積極的な参加が確立している体制において初めて現実のものとなり、 ② 民主主義は、個人尊重の原理を基礎とするので、すべての国民の自由と平等が確保されて初めて開花する、 という関係にある。 民主主義は、単に多数者支配の政治を意味せず、実をともなった《立憲民主主義》でなければならないのである(*)。 このような《自由と民主の結合》は、まさに、近代憲法の発展と進化を支配する原則であると言うことができよう。 戦後の西欧型民主政国家が「民主的法治国家」とか「法治国家的民主政」と言われるには、そのことを示している。 (*) 自由主義と民主主義 戦前の憲法学 - とくにワイマール憲法時代のドイツ - では、自由主義を否定しても民主主義は成り立つという見解が有力であった。しかし、宮沢俊義が説いたとおり、「リベラルでない民主制は、民主制の否定であり、多かれ少なかれ独裁的性格を帯びる。民主制は人権の保障を本質とする」、と考えるのが正しい。 ▼第三章. 国民主権の原理 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) 第三章 国民主権の原理 p.35以下 <目次> 一 日本国憲法の基本原理◆1.前文の内容 ◆2.基本原理相互の関係(一)人権と主権 (二)国内の民主と国際の平和 ◆3.前文の法的性質 ニ 国民主権◆1.主権の意味 ◆2.国民主権の意味(一)主体について (ニ)権力性と正当性の両契機 一 日本国憲法の基本原理 日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つを基本原理とする。 これらの原意がとりわけ明確に宣言されているのが憲法前文である。 ◆1.前文の内容 前文とは、法律の最初に付され、その法律の目的や精神を述べる文書であり、憲法前文の場合には、憲法制定の由来、目的ないし憲法制定者の決意などが表明される例が多い。 もっとも、その内容はそれぞれの国の憲法によって異なる。 日本国憲法前文は、国民が憲法制定権力の保持者であることを宣言しており、また、近代憲法に内在する価値・原理を確認している点で、きわめて重要な意義を有する。 前文は四つの部分から成っている。 ① 一項の前段は、 「主権が国民に存すること」、および日本国民が「この憲法を確定する」ものであること、つまり国民主権の原理および国民の憲法制定の意思(民定憲法性)を表明している。ついで、それと関連させながら、「自由のもたらす恵沢」の確保と「戦争の惨禍」からの解放という、人権と平和の二原理を謳い、そこに日本国憲法制定の目的があることを示している。 それを受けて、一項後段は、 「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と言い、国民主権とそれに基づく代表民主制の原理を宣言し、最後に、以上の諸原理を「人類普遍の原理」であると説き、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」として、それらの原理が憲法改正によっても否定することができない旨を明らかにしている。 ② 二項は、 「日本国民は、恒久の平和を念願」するとして、平和主義への希求を述べ、そのための態度として、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信て、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と宣言する。 ③ 三項は、 国家の独善性の否定を「政治道徳の法則」として確認し、 ④ 四項は、 日本国憲法の「崇高な理想と目的を達成すること」を誓約している。 ◆2.基本原理相互の関係 前文に盛られた国民主権原理、人権尊重主義、平和主義の原理は、次のように相互に不可分に関連している。 (一)人権と主権 第一に、基本的人権の保障は、国民主権の原理と結びついている。 専制政治の下では、基本的人権の保障が完全なものと成り得ないことは当然であり、民主主義政治の下で初めて人権保障が成立する。 先に指摘した前文一項の文書は、明らかに、国民主権およびそれに基づく代表民主制の原理(狭義の民主主義)が基本的人権の尊重と確立を目的とし、それを達成するための手段として、不可分の関係にあることを示している。 自由(人権)は「人間の尊厳」の原理なしには認められないが、国民主権、すなわち国民が国の政治体制を決定する最終かつ最高の権威を有するという原理も、国民がすべて平等に人間として尊重されて初めて成立する。 このように、国民主権(民主の原理)も基本的人権(自由の原理)も、ともに「人間の尊厳」という最も基本的な原理に由来し、その二つが合して広義の民主主義を構成し、それが、「人類普遍の原理」とされているのである(第18章三3図表参照) (二)国内の民主と国際の平和 第二に、人間の自由と生存は平和なくして確保されないという意味で、平和主義の原理もまた、人権および国民主権の原理と密接に結びついている。 国内の民主主義と国際的平和の不可分性は、近代憲法の進化を推進してきた原理だと言ってもよい。 ◆3.前文の法的性質 以上のような基本原理を明らかにしている日本国憲法の前文は、憲法の一部をなし、本文と同じ法的性質をもつと解される。 従って、たとえば前文一項の、「人類普遍の原理・・・・・・に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という規定は、憲法改正に対して法的限界を画し、憲法改正権を法的に拘束する規範であると解される(憲法改正権の限界については、第18章三3参照)。 しかしながら、これは前文に裁判規範としての性格まで認められることを意味しない。 裁判規範とは、広い意味では裁判所が具体的な訴訟を裁判する際に判断基準として用いることのできる法規範のことを言うが、狭い意味では、当該規範を直接根拠として裁判所に救済を求めることのできる法規範、すなわち裁判所の判決によって執行することのできる法規範のことを言う。 前文の規定は抽象的な原理の宣言にとどまるので、少なくとも狭い意味での裁判規範としての性格はもたず、裁判所に対して前文の執行を求めることまではできない、と一般に解されている。 この点に関して問題となるのが、前文二項の、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」という文章に示されている「平和的生存権(*)」である。 学説では、右規定の(狭い意味での)裁判規範性を認めることは出来るとし、平和的生存権を新しい人権の一つとして認めるべきであるという見解も有力である。 しかし、平和的生存権は、その主体・内容・性質などの点でなお不明確であり、人権の基礎にあってそれを支える理念的権利ということは出来るが、裁判で争うことの出来る法的権利性を認めることは難しい、と一般に考えられている。 (*) 平和的生存権 平和的生存権という考えは、自衛隊違憲訴訟において、1960年代から主張されたものである。平和的生存権は、「平和を享受する権利」を意味し、憲法9条の戦争の放棄の原則との関連で、平和を人権として捉えるという意図に基づくものである。具体的には、基地付近の住民が基地の撤廃を裁判所に求める場合の「訴えの利益」を基礎づけるために主張された。しかし、判例においては、長沼事件(第四章三3*参照)一審判決は、平和的生存権を訴えの利益の一つの根拠として認めたが、二審判決はこれを否定し、最高裁判所でも前文二項の裁判規範性は実質的に認められなかった。 ニ 国民主権 国民主権の原理は、絶対主義時代の君主の専制的支配に対抗して、国民こそが政治の主役であると主張する場合に、その理論的支柱とされた観念で、近代市民革命の成立以後、国家統治の根本原理として近代立憲主義憲法において広く採用されている。 もっとも、その原理の内容を具体的にどのように理解するかについては様々な見方が示されてきており、現在もなお活発な議論が展開されている。 ◆1.主権の意味 主権の概念は多義的であるが、一般に、 ① 国家権力そのもの(国家の統治権)、 ② 国家権力の属性としての最高独立性(内にあっては最高、外に対しては独立ということ)、 ③ 国政についての最高の決定権、 という3つの異なる意味に用いられる。 これは歴史的な理由に基づく。 すなわち、主権という概念は、絶対主義君主が中央集権国家をつくりあげていく過程において、君主の権力が、封建領主に対しては最高であること、ローマ皇帝に対しては独立であることを基礎づける政治理論として主張された概念であった。 ところが、「朕は国家なり」の思想が支配していた専制君主制国家では、3つの主権概念は「君主の権力」という形で統一的に理解されていたが、その後、君主制の立憲主義化にともなって国家の概念も変化し、君主の権力と国家権力とは区別して考えられるようになり、主権の概念が3つに分解したのである。 (一) 統治権 ①の国家権力そのものを意味する主権とは、国家が有する支配権を包括的に示す言葉である。立法権・行政権・司法権を総称する統治権(Herrschaftsrechte, governmental power)とほぼ同じ意味で、日本国憲法(41条)に言う「国権」がそれにあたる。統治権という意味の主権の用例は、ポツダム宣言8項「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限サラルベシ」という規定にみられる。 (ニ) 最高独立性 ②の国家権力の最高独立性(国家権力の主権性とも言われる)を意味する主権は、主権概念の生成過程から言えば、本来の意味の主権の概念である。憲法前文3項で、「自国の主権を維持し」という場合の主権がその例であるが、そこでは国家の独立性に重点が置かれている。 (三) 最高決定権 ③の国政の最高の決定権としての主権とは、国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威という意味であり、その力または権威が君主に存する場合が君主主権、国民に存する場合が国民主権と呼ばれる。憲法前文1項で「ここに主権が国民に存することを宣言し」という場合の主権、および1条で「主権の存する日本国民の総意」という場合の主権がこれにあたる。 ◆2.国民主権の意味 「国民主権」がいかなる意味・内容を有するかについては、さまざまの議論があるが、ここでは、次の2点を注意しておきたい。 (一)主体について 第一は、国民主権の観念は、本来、君主主権との対抗関係の下で生成し、主張されてきたもので、君主主権であることは国民主権ではなく、国民主権であることは君主主権ではない、という相反する関係にあることである。 従って、主権は君主にあるのでも国民にあるのでもなく、国家にあるとか、主権は天皇を含む国民全体にあるとか、という趣旨の説明は、戦後よく主張されたが、政治的な配慮に基づく考え方で、理論的には正当とは言い難い。 戦前のドイツで支配的な学説であった国家法人説は、先に触れたように(第二章一2*参照)、国家は法的に考えると法人、すなわち権利(統治権)主体であり、君主はその最高機関であると説き、君主主権か国民主権かは、国家の最高意思を決定する最高機関の地位に君主が就くか国民が就くかの違いにすぎない、と主張した。 そして、「主権」という概念は国家権力の最高独立性を示す本来の概念としてのみ用いるべきであるとし、君主主権か国民主権かという近代憲法が直面した本質的問題を回避しようとした。 それは、急激な民主化を好まない19世紀ドイツの立憲君主制に見合った理論であった。 この国家法人説は、明治憲法の下では天皇機関説に具体化され、憲法の神権主義的性格を緩和する役割を果たした。 しかし、国民主権の確立した日本国憲法の下では、もはやその理論的有用性をもたない。 (ニ)権力性と正当性の両契機 第二に注意を要するのは、国民主権の原理には、2つの要素が含まれていることである。 一つは、 国の政治のあり方を最終的に決定する権力を国民自身が行使するという権力的契機であり、 他の一つは、 国家の権力行使を正当づける究極的な権威は国民に存するという正当性の契機である。 もともと国民主権の原理は、国民の憲法制定権力(制憲権)の思想に由来する(第一章四2参照)。 国民の制憲権は、国民が直接に権力を行使する(具体的には、憲法を制定し国の統治のあり方を決定する)、という点にその本質的な特徴がある。 ところが、この制憲権は、近代立憲主義憲法が制定されたとき、合法性の原理に従って、自らを憲法典の中に制度化し、 ① 国家権力の正当性の究極の根拠は国民に存するという建前ないし理念としての性格をもつ国民主権の原理、および、 ② 法的拘束に服しつつ憲法(国の統治のあり方)を改める憲法改正権 に転化したのである(そのため改正権は、「制度化された制憲権」とも呼ばれる。この点につき、なお、第八章三3参照)。 以上のような国民主権の原理に含まれる2つの要素のうち、主権の権力性の側面においては、国民が自ら国の統治のあり方を最終的に決定するという要素が重視されるので、そこでの主権の主体としての「国民」は、実際に政治的意思表示を行うことのできる有権者(選挙人団とも言う)を意味する。また、それは、国民自身が直接に政治的意思を表明する制度である直接民主制と密接に結びつくことになる。もっとも、国民主権の概念に権力的契機が含まれていると言っても、憲法の明文上の根拠もなく、国の重要な施策についての決定を国民投票に付する法律がただちに是認されるという意味ではない(憲法上認められるのは、国民投票の結果がただちに国会を法的に拘束するものではない諮問的・助言的なものに限られよう)。主権の権力性とは、具体的には、憲法改正を決定する(これこそ国の政治のあり方を最終的に決定することである)権能を言う。 これに対して、主権の正当性の側面においては、国家権力を正当化し権威づける根拠は究極において国民であるという要素が重視されるので、そこでの主権の保持者としての「国民」は、有権者に限定されるべきではなく、全国民であるとされる。また、そのような国民主権の原理は代表民主制、とくに議会制と結びつくことになる。 日本国憲法における国民主権の観念には、このような2つの側面が並存しているのである。(*) 従って、国家権力の正当性の淵源としての国民は「全国民」であり、すべての「国家権力は国民から発する」、ということになる。 しかし同時に、国民(有権者)が国の政治のあり方を最終的に決定するという権力性の側面も看過してはならない。 そのように考えるならば、憲法96条において憲法改正の是非を最終的に決定する制度として定められている国民投票制(第十八章三2(ニ)参照)は、国民主権の原理と不可分に結合するものと解されよう。 (*) ナシオン主権とプープル主権 フランスでは、市民革命期に君主主権を否定して制定された新しい立憲主義憲法の主権原理として、ナシオン(nation)主権をとるかプープル(peuple)主権をとるか争われ、この2つの対立が第二次大戦後の憲法にまで及んでおり、日本でも「国民主権」をその概念を用いて説明する学説が少なくない。しかし、もしナシオンの意味を「国籍保持者の総体としての国民(全国民)」、プープルの意味を「社会契約参加者(普通選挙権者)の総体としての国民(人民)」と解すれば、2つの主権原理は、本文に説いた主権主体としての「全国民」と「有権者団」の区別に対応するが、ナシオンは、具体的に実存する国民とは別個の、観念的・抽象的な団体人格としての国民の意だと一般に解されており、またプープルも、「今日では性別・年齢別の差なく文字どおりの『みんな』」だと解する説が有力であることに、注意すべきである。しかも、同じプープル主権を説く場合でも、「主権」の意味について、「統治権」と解する説もあれば権力の正当性の究極的根拠と解する説もあるなど、見解に大きな相違がみられる。 (*) 憲法制定権力 憲法をつくり、憲法上の諸機関に権限を付与する権力([英] constituent power, [仏] pouvoir constituant, [独] verfassungsgebende Gewalt)。制憲権とも言われる。国民に憲法をつくる力があるという考え方は、十八世紀末の近代市民革命時、とくにアメリカ、フランスにおいて、国民主権を基礎づけ、近代立憲主義憲法を制定する推進力として大きな役割を演じた。フランスのシェイエス(Emmanuel J. Sieyes, 1748-1836)が『第三階級とは何か』(1789年)を中心に展開した見解がその代表である。制憲権と国民主権との関係につき、第三章二2(ニ)参照。 ▼第十八章. 憲法の保障 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) 第18章 憲法の保障 p.363以下 <目次> 一 憲法保障の諸類型◆1 抵抗権 ◆2 国家緊急権 ニ 違憲審査制 三 憲法改正の手続と限界◆1 硬性憲法の意義 ◆2 憲法改正の手続(一) 国会の発議(1) 発案 (2) 審議 (3) 議決 (ニ) 国民の承認 (三) 天皇の公布 ◆3 憲法改正の限界(一) 権力の段階構造 (ニ) 人権の根本規範性 (三) 前文の趣旨 (四) 平和主義・憲法改正手続 ◆4 憲法の変遷 一 憲法保障の諸類型 憲法は、国の最高法規であるが、この憲法の最高法規性は、ときとして、法律等の下位の法規範や違憲的な権力行使によって脅かされ、歪められるという事態が生じる。 そこで、このような憲法の崩壊を招く政治の動きを事前に防止し、または、事後に是正するための装置を、あらかじめ憲法秩序の中に設けておく必要がある。 その装置を、通常、憲法保障制度と言う。 憲法保障制度を大別すると、 ① 憲法自身に定められている保障制度と、 ② 憲法には定められていないけれども超憲法的な根拠によって認められると考えられる制度 がある。 ①の例を日本国憲法で示すと、憲法の最高法規性の宣言(98条)、公務員に対する憲法尊重擁護の義務づけ(99条)、権力分立制の採用(41条・65条・76条)、硬性憲法の技術(96条)などのほか、事後的救済としての違憲審査制(81条)がある。 ②の例としては、抵抗権と国家緊急権が挙げられる。 その他に、法律レベルでも、刑法の内乱罪(77条)、破壊活動防止法等の規定により、憲法秩序の維持が図られている。 以下、まず②を概説し、①については、世界的に最も重要な憲法保障制度となった違憲審査制の意義と機能を検討し、憲法改正の問題を扱うことにしたい。 ◆1 抵抗権 国家権力が人間の尊厳を侵す重大な不法を行った場合に、国民が自らの権利・自由を守り人間の尊厳を確保するため、他に合法的な救済手段が不可能となったとき、実定法上の義務を拒否する抵抗行為を、一般に抵抗権と言う。 抵抗権の考えは古くからあり、人権思想の発達に大きな役割を演じたが、それが実際に重要な意味をもったのは近代市民革命の時代であった。 自然権の思想と結び合って、「圧制への抵抗」の権利が強調され、若干の人権宣言の中にも謳われた(1789年・1793年のフランス人権宣言参照)。 その後、近代立憲主義の進展とともに、憲法保障制度が整備され、抵抗権は人権宣言から姿を消してしまう。 それは、抵抗権が本来、個人の権利・自由として実定化されることに馴染まない性格をもっているからである。 確かに、第二次世界大戦時におけるファシズムの苦い経験を経て、戦後、抵抗権思想が復活し、それを再び人権宣言の中に規定する憲法も現れるようになったが、それは本来の抵抗権をすべてカバーするものではない。 抵抗権の本質は、それが非合法的であるところにあり、制度化に馴染まないと解される。 一定の内容の実定化が可能であるにとどまる。 日本国憲法が国民の抵抗権を認めているかどうかは、抵抗権の意味・性格をどのように理解するか、とくに抵抗権は自然法上の権利か実定法上の権利か、という難しい問題と関わるので、簡単に結論を出すことは出来ない。 基本的人権を国民は「不断の努力によつて」保持しなくてはならないこと(12条)から、ただちに実定法上の権利としての抵抗権を導き出すことは、きわめて困難であるが、憲法は自然権を実定化したと解されるので、人権保障規定の根底にあって人権の発展を支えてきた圧政に対する抵抗の権利の理念を読みとることは、十分に可能である。 ◆2 国家緊急権 戦争・内乱・恐慌・大規模な自然災害など、平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において、国家の存立を維持するために、国家権力が、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置をとる権限を、国家緊急権と言う。 この国家緊急権は、一方では、国家存亡の際に憲法の保持を図るものであるから、憲法保障の一形態と言えるが、他方では、立憲的な憲法秩序を一時的にせよ停止し、執行権への権力の集中と強化を図って危機を乗り切ろうとするものであるから、立憲主義を破壊する大きな危険性をもっている。 従って、実定法上の規定がないても、国家緊急権は国家の自然権として是認される、とする説は、緊急権の発動を事実上国家権力の恣意に委ねることを容認するもので、過去における緊急権の濫用の経験に徴しても、これをとることはできない。 超憲法的に行使される非常措置は、法の問題ではなく、事実ないし政治の問題である。 この点で、自然権思想を推進力として発展してきた人権、その根底にあってそれを支えてきた抵抗権と、性質を異にする。 そこで、19世紀から20世紀にかけての西欧諸国では、非常事態に対する措置をとる例外的権力を実定化し、その行使の要件等をあらかじめ決めておく憲法も現れるようになった。 それには、 ① 緊急権発動の条件・手続・効果などについて詳細に定めておく方式と、 ② その大綱を定めるにとどめ、特定の国家機関(例、大統領)に包括的な権限を授権する方式 の二つがある。 しかし、危険を最小限度に抑えるような法制化はきわめて困難であり、二つの方式のいずれも、多くの問題点と危険性を孕(はら)んでいる。 とくに②は、濫用の危険が大きい(例、ワイマール憲法48条の定める大統領の非常措置権)。 我が国では、明治憲法は緊急権に関する若干の規定を設けていたが(8条の緊急命令の権、14条の戒厳宣告の権、31条の非常大権など)、日本国憲法には、国家緊急権の規定はない。 ニ 違憲審査制 (省略) 三 憲法改正の手続と限界 ◆1 硬性憲法の意義 憲法には、高度の安定性が求められるが、反面において、政治・経済・社会の動きに適応する可変性も不可欠である。 この安定性と可変性という相互に矛盾する要請に応えるために考案されたのが、硬性憲法(rigid constitution)の技術、すなわち、憲法の改正手続を定めつつ、その改正の要件を厳格にするという方法である。 これは、最高法規たる憲法を保障する制度として、重要な意義を有する。 ただ、国家によって事情は異なるが、あまり改正を難しくすると、可変性がなくなり、憲法が違憲的に運用される恐れが大きくなるし、反対に、あまり改正を容易にすると、憲法を保障する機能が失われてしまう。 日本国憲法は、「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」とし、国民による承認は国民投票において、「その過半数の賛成を必要とする」と定める(96条)。 「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」と、国民投票における「過半数の賛成」という要件は、他国に比べて、硬性の度合が強い。 ◆2 憲法改正の手続 憲法の改正は、国会の発議、国民の承認、天皇の公布という三つの手続を経て行われる。 (一) 国会の発議 ここに「発議」とは、通常の議案について国会法などで言われる発議(それは原案を提出することを意味する)とは異なり、国民に提案される憲法改正案を国会が決定することを言う。 (1) 発案 憲法改正を発議するには、改正案が提示されなければならない。 この原案を提出する権能(発案権)が各議員に属することは言うまでもないが(通常の議案の場合は、国会法56条1項により、衆議院では20人以上、参議院では10人以上の賛成を要するが、憲法改正案についてはとくに要件を加重することも考えられる〔2007年の国会法改正で68条の2が追加され、「衆議院においては議員100人以上、参議院においては議員50人以上の賛成を要する」ことになった〕、内閣にも存するか否かについては、争いがある。 肯定説は、「国会の発議」は発案権者が議員に限られることを当然には意味しないこと、内閣の発案権を認めても国会審議の自主性は損なわれず、またそれは、議院内閣制における国会と内閣との「協働」関係からみて不思議なことではないこと、などを理由とする。 これに対して否定説は、憲法改正は国民の憲法制定権力(制憲権とも言う)の作用であるから、国民の最終的決定の対象となる原案の内容を確定する行為(憲法で言う「発議」)を国会が行うのは、制憲権思想からいって当然の理であり、この理を貫けば、「発議」の手続の一部をなすとも考えられる「発案」すなわち原案提出権は、議員のみに属すると解するのが憲法の精神に合致すること、内閣に発案権を認めても国会の自主的審議権が害されることはないとはいえ、改正案の提出権を法律案の提出権と同じに考えるのは、憲法と法律との形式的・実質的な相違を曖昧にする解釈であること、などを理由とする。 いずれの解釈が妥当か、俄かに断じ難い。 そのため、「憲法の本旨は、内閣の発案を認めるかどうかは、国会の意思による法律に委ねるという程度のものと解する」説にも、一理ある。 ただし、仮に否定説が妥当だとしても(私見はそれに傾くが)、内閣は実際には議員たる資格をもつ国務大臣その他の議員を通じて原案を提出することができるので、内閣の発案権の有無を論議する実益は乏しい。 (2) 審議 憲法・国会法に特別の規定がないので、審議の手続は法律案の場合に準じて行うことができると解される〔(現在は、国会法が改正され、第六章の2「日本国憲法改正の発議」、第11章の2「憲法審査会」、86条の2「憲法改正原案に関する両院協議会」が追加されている)〕。 ただ、定数足については、慎重な審議を要する案件であることに鑑み、総議員の三分の二以上の出席が必要ないし望ましいとする説が有力である。 しかし、三分の一以上とするか三分の二以上とするかは、法律の定めるところに委ねられていると解されるので、特別の規定がない以上は三分の一以上で足りる。 審議にあたり、国会が原案を自由に修正できることは、言うまでもない。 (3) 議決 各議院において、それぞれ総議員の三分の二以上の賛成を必要とする「総議員」の意味については、法定議員数か現在議員数か二説あるが、定数から欠員を差し引いた数と解する後説が妥当であろう。 両議院で三分の二以上の賛成が得られたとき、国会の発議が成立する。 議決のほかに、発議および国民に対する提案という特別の行為は必要とされない。 (ニ) 国民の承認 憲法改正は、国民の承認によって成立する。 この承認は、「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」によって行われる。 承認の要件とされる「過半数」の意味については、争いがあるが、有効投票の過半数と解するのが妥当であろう。 法律により投票総数の過半数と定めることも可能と解される。 このような国民投票による憲法改正決定の方式は、国民主権の原理と最高法規としての憲法の国民意思による民主的正当化の要請とを確保する最も純粋な手段と言うことができる。 もっとも現在まだ憲法改正国民投票法は制定されていない(*)(†)。 (*) 国民投票法の問題点 第一は、投票方法である。同時に多くの改正案が発議される場合は、相互に不可分の関係にあるものを一括して記載することが必要であろう。第二は、承認の効力発生時期である。投票の効力を争う訴訟の出訴期間経過後、その間に訴訟があれば判決確定後、投票の結果が確定すると考えるのが妥当であろう。 (†) 国民投票法(正式名は「日本国憲法の改正手続に関する法律」)が2007年に制定され、3年後の2010年5月18日に施行された。それによると、国会による改正の発議がなされると、その後60日から180日の間に国民投票が行われる(同2条1項)。その間に国民への広報事務を担当する機関として国会に国民投票広報協議会が設置される(国会法102条の11、国民投票法11条以下)。改正案に対する賛成・反対の「国民投票運動」は、選挙運動と比較すると相当規制が緩和されており、文書図書の規制、運動費用の規制、戸別訪問やインターネット上の運動の禁止もないが、公務員による運動や放送広告による運動は規制される。改正原案の発議は「内容において関連する事項ごとに区分して行う」(国会法68条の3)ことになっており、区分された案につき個別的に国民投票を行うことになる。そして、投票総数の二分の一を超えたとき国民の承認があったとされる(国民投票法126条1項)が、その場合の投票総数とは「憲法改正案に対する賛成の投票の数及び反対の投票の数を合計した数」(同98条2項)とされている。承認の通知を受けると総理大臣は直ちに公布の手続きをとる(同126条2項)。公布を行うのは天皇である(憲法7条1号)。国民投票に関し異議のある投票人は30日以内に東京高裁に訴訟を提起できるが(国民投票法127条)、訴訟の提起があっても国民投票の効力は停止しない(同130条)。なお、投票権者は「年齢満18年以上の者」(同3条)とされているが、そのために必要な法制上の措置がとられないかぎり(現時点でまだとられていない)、20歳以上の者とされている(同附則3条)。 (三) 天皇の公布 公布は「国民の名」で行われる。 これは、改正権者である国民の意思による改正であることを明らかにする趣旨である。 また、「この憲法と一体を成すものとして」とは、改正条項が「日本国憲法と同じ基本原理のうえにたち、同じ形式的効力をもつもの」であることを示す、と解する説が妥当であろう。 アメリカ合衆国憲法と同じ増補の方式を要求する趣旨だという特別の意味は、そこには含まれていない。 全部改正も、憲法改正権の限界を逸脱するものでないかぎり、必ずしも排除されているわけではないと解される。 ◆3 憲法改正の限界 このような憲法改正手続に従えば、いかなる内容の改正を行うことも許されるかと言えば、けっしてそうではない。 この問題は、憲法、人権、国民主権等の本質をどのように考えるか、という憲法の基礎理論と密接に関連する。 我が国では、国民の主権は絶対的である(制憲権は全能であり、改正権はその制憲権と同じである)と考える理論、ないし憲法規範には上下の価値の序列を認めることは出来ないと考える理論に基づいて、憲法改正手続によりさえすれば、いかなる内容の改正も法的に許されると説く無限界説もある。 しかし、法的な限界が存するとする説が通説であり、かつ、それが妥当と解される。 この限界説の論拠として説かれている理由で重要なものは、次の二つである。 (一) 権力の段階構造 民主主義に基づく憲法は、国民の憲法制定権力(制憲権)によって制定される法である。 この制憲権は、憲法の外にあって憲法を作る力であるから、実定法上の権力ではない。 そこで、近代憲法では、法治主義や合理主義の思想の影響も受けて、制憲権を憲法典の中に取り込み、それを国民主権の原則として宣言するのが、だいたいの例となっている。 また、その思想は、憲法改正を決定する最終の権限を国民(有権者)に与える憲法改正手続規定にも、具体化されている(日本国憲法96条の定める国民投票制はその典型的な例である)。 憲法改正権が「制度化された憲法制定権力」とも呼ばれるのは、そのためである。 このように、改正権の生みの親は制憲権であるから、改正権が自己の存立の基盤とも言うべき制憲権の所在(国民主権)を変更することは、いわば自殺行為であって理論的には許されない、と言わなければならない。 (ニ) 人権の根本規範性 近代憲法は、本来、「人間は生まれながらにして自由であり、平等である」という自然権の思想を、国民に「憲法を作る力」(制憲権)が存するという考え方に基づいて、成文化した法である(第一章四2参照)。 この人権(自由の原理)と(一)にふれた国民主権(民主の原理)とが、ともに「個人の尊厳」の原理に支えられ不可分に結び合って共存の関係にあるのが、近代憲法の本質であり理念である(第三章一2参照)。 従って、憲法改正権は、このような憲法の中の「根本規範」とも言うべき人権宣言の基本原則を改変することは、許されない(前頁の図を参照)。 もっとも、基本原則が維持されるかぎり、個々の人権規定に補正を施すなど改正を加えることは、当然に認められる。 (三) 前文の趣旨 日本国憲法は、前文で、人権と国民主権を「人類普遍の原理」だとし、「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と宣言している。 これは、ただ政治的希望を表明したものではなく、以上のような、憲法改正に法的な限界があるという理論を確認し、改正権に対して注意を促す意味をもっている。 ドイツ連邦共和国憲法が、国民主権と人権の基本原則に影響を及ぼす改正は許されないと定め(79条)、フランス第五共和制憲法が、共和政体を改正することはできないと定めている(89条)のも、同じ趣旨である。 (四) 平和主義・憲法改正手続 改正権に限界があるとすると、国内の民主主義(人権と国民主権)と不可分に結び合って近代公法の進化を支配してきた原則と言われる国際平和の原理も、改正権の範囲外にあると考えなくてはならない。 もっとも、それは、戦力不保持を定める9条2項の改正まで理論上不可能である、ということを意味するわけではない(現在の国際情勢で軍隊の保有はただちに平和主義の否定につながらないから)、と解するのが通説である。 なお、憲法96条の定める憲法改正国民投票制は、国民の制憲権の思想を端的に具体化したものであり、これを廃止することは国民主権の原理を揺るがす意味をもつので、改正は許されないと一般に考えられている。 ◆4 憲法の変遷 憲法の保障にとってきわめて重要な問題は、憲法規範は改正されないのに、その本来の意味が国家権力による運用によって変化することである。 もっとも、憲法も変転する社会の動態の下で「生ける法」であるから、憲法規範の本来の意味に変化が起こり、その趣旨・目的を拡充させるような憲法現実が存在すること、これは当然の現象で、とくに問題とする必要はない。 問題は、規範に真正面から反するような現実が生起し、それが、一定の段階に達したとき、規範を改正したのと同じような法的効果を生ずると解することができるかどうか、《そういう意味の》「憲法の変遷」が認められるか、ということである。 これについては、 ① 一定の要件(継続・反復および国民の同意等)が充たされた場合には、違憲の憲法現実が法的性格を帯び、憲法規範を改廃する効力をもつと解する説と、 ② 違憲の憲法現実は、あくまでも事実にしかすぎず、法的性格をもち得ないと解する説 とが、厳しく対立している。 基本的には②説の立場をとりながら、《政治的な》ルール(これをイギリス法に倣って憲法の習律〔convention〕と言ってもよい)として国家機関(議会・内閣)を拘束する一種の弱い法的性格をもつことを認める考え方もある、 およそ、法が法としての効力をもつには、国民を拘束し、国民に遵守を要求する「拘束性」の要素と、現実に守られていなければならないとする「実効性」の要素が必要である。 憲法変遷を肯定する説のうち問題であるのは、実効性が失われた憲法規範はもはや法とは言えない、という立場をとるものである。 しかし、いかなる段階で実効性が消滅したと解することができるのか、その時点を適切に捉えることは容易ではない。 また、実効性が大きく気傷つけられ、現実に遵守されていなくとも、法として拘束性の要素は消滅しないと解することは可能であり、将来、国民の意識の変化によって、仮死の状態にあった憲法規定が息を吹きかえすことはあり得る。 ①説の理論を安易に肯定することはできない。 ■3.芦部憲法論の致命的欠陥 ▼1.芦部憲法論の依拠する法概念理解(半世紀前の法学パラダイム) ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※左記の他に実は、自然法または根本規範を認めず、憲法制定権力も認めない(特定時点の国民が保持するのはせいぜい「憲法典 constitutional code」(形式憲法)を制定ないし改廃する権力(つまり「国政 national policy」を決定する権力)であり、「国制 constitutional law」(国体法=実質憲法)を制定・改廃する権力ではない、とする見解もあり、そちらが妥当である。(→リベラル右派の「国民主権」論及び保守主義の「国民主権」批判 参照。この場合「国制」(実質憲法)は過去から現代に至る世代を重ねた国民の長年のプラクティスの中から徐々に形成されるものと理解される。すなわち法の支配) ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) ▼2.ハートの法概念理解(現代の世界標準の法学パラダイム) ※サイズが画面に合わない場合はこちら 及びこちら をクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※上図について、詳細な解説は法と権利の本質に関する2つの考え方へ。 ▼3.(参考)長谷部恭男による芦部説の否定 自然法に基礎を置く根本規範・憲法制定権力が憲法典を授権する、とする芦部説は、その門下であり近年の左翼リベラル派の護憲論(憲法改正反対論)の中心的論者となっている長谷部恭男(東大法科大学院長)によってさえ以下のように明白に否定されている。 あえて憲法制定権力という概念を用いてこの問題-なぜわれわれは憲法を尊重すべきか-に答えようとするならば、より説得力のある途は、おそらく清宮四郎や芦部信喜がとった立場、つまり超実定的政治道徳たる根本規範によって拘束され、その授権を受けた憲法制定権力なるものを想定する途であろう。・・・(中略)・・・実定法体系を超える政治道徳に従い拘束されることによって正当化された憲法制定権力の行使の結果であるからこそ、現在の憲法典に従うべきことになる。しかし、そうであれば、むしろ憲法制定権力概念は無用の長物であって、直接に憲法典の道徳的妥当性、つまり超実定的政治道徳との整合性を論ずれば足りるのではないだろうか。憲法制定権力概念そのものには憲法典を正当化する力はなく、すべての正当化の力がその背後にある政治道徳に求められるのであれば、やはり憲法制定権力を持ち出す必要はないように思われる。それは不要な剰余ではないか。 憲法制定権力は、世界の存在を証明するために措定された人格神と同等の概念である。世界を創造する神という概念による世界の存在証明が筋の通ったものではありえないのと同様-(中略)-憲法制定権力は憲法の存在と妥当性について筋の通った説明を与えることはできない。 ※長谷部恭男『憲法の境界 』p.11およびp.22より抜粋 ■4.参考図書 『法学 (ヒューマニティーズ) 』 (中山竜一:著 (2009年))《目次》1. 法学はどのようにして生まれたか(なぜ法の歴史について学ぶ必要があるのか (西洋法の歴史 ほか)2. 生きられる空間を創る―法学はどんな意味で社会の役に立つのか(法に期待される役割と背景にある思想 (活動促進と紛争解決―民事法の役割 ほか)3. 制度知の担い手となる―法学を学ぶ意味とは何か(法学を学ぶ意味とは? (法的思考のいくつかの特徴―哲学との対比 ほか)4. 法学はいかにして新たな現実を創り出すのか―法学と未来 (法的思考で現実は変えられるか、難事案をどのように判断するか(一)―ドゥオーキンの構成的解釈 ほか)5. 法学を学ぶために何を読むべきか (BOOK GUIDE) ドイツ系(大陸系)哲学をベースにした従来の観念論的な「法哲学」ではなく20世紀後半以降に大発展した英米系分析哲学をベースとする「法理学」への扉を開く一冊。左右の全体主義に陥らない法学基礎理論の第一歩として非常にお勧め。なお、これとの対比で従来型の特定の観念・思想ゴリオシ型の「法哲学」の教科書として、笹倉秀夫『法哲学講義 』を挙げておくので、興味のある人はこの両者の法理論を比較してみられるとよい。(笹倉秀夫氏は丸山眞男の弟子で、同書も強度の左翼思想と自虐的史観に満ちており、現在の目で見ると明らかに特定思想のゴリオシが目立ち失笑ものである) 『二十世紀の法思想』 (中山竜一:著 (2000年))《目次》第1章 20世紀法理論の出発点―ケルゼンの純粋法学第2章 法理論における言語論的転回―ハートの『法の概念』補論 ハート理論における「法と道徳」第3章 解釈的実践としての法―ドゥオーキンの解釈的アプローチ第4章 ポストモダン法学―批判法学とシステム理論補論 脱構築と正義―デリダ「法の力」第5章 むすび 『法学(ヒューマニティーズ)』と併せて読んで欲しい。20世紀後半に起こった、ケルゼンに代表されるドイツ系(大陸哲学系)法学から、ハートに代表される英米系(分析哲学系)法学へのパラダイム・シフト(法理論における言語論的転回)に焦点を当てた好著。なお20世紀哲学の最大事件「言語論的転回」については『分析哲学講義』(青山拓央:著) が分かり易い。 『自由の条件』(全3巻) (F.A.ハイエク著(1960))《目次》第一部 自由の価値第二部 自由と法第三部 福祉国家における自由 自由主義の真髄を解き明かしてM.サッチャー(英元首相)のバイブルといわれた名著であり、自由と法の関係についてきちんとした知識を持つ上で必読の3巻本。続編の『法と立法と自由 』も3巻本で、一冊一冊が高価だが、図書館などで見つけて目を通して欲しい。論旨明快なため、内容はさほど難しくないはず。 『法の概念』 (H.L.A.ハート著(1961年)) 20世紀後半の法理論に大転回をもたらした記念碑的な一冊であり、現在の法を学ぶ者は避けては通れない名著。しかし一般向けにも興味深いテーマを多く扱っており、また用語も難解でないので読みやすい。法学徒は必読だろうが、そうでない普通の人にもオススメできる。《以下概要》本書では、まず「法は威嚇による命令である」という説を批判する。その上で、法を第一次的ルールと第二次的ルールとに分ける。第一次的ルールとは、制裁をもってして何らかの行動を強制するものである。第二私的ルールとは、法として有効である権能を与える(契約・立法・裁判など)ものである。法は不確定性をともなうので、法の周縁部においては常に解釈がともなう。他。 ■5.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... 以下は最新コメント表示 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/265.html
<目次> ■1.「憲法学の権威」芦部信喜 ■2.芦部信喜『憲法 第五版』紹介と抜粋(内容チェック)▼第一章. 憲法と立憲主義 ▼第三章. 国民主権の原理 ▼第十八章. 憲法の保障 ■3.芦部憲法論の致命的欠陥▼1.芦部憲法論の依拠する法概念理解(半世紀前の法学パラダイム) ▼2.ハートの法概念理解(現代の世界標準の法学パラダイム) ▼3.(参考)長谷部恭男による芦部説の否定 ■4.参考図書 ■5.ご意見、情報提供 ■1.「憲法学の権威」芦部信喜 戦後左翼の言論支配は、様々な分野に及んでいるが、憲法学の分野では、宮沢俊義→芦部信喜と続くラインがその中心となっており、歴史学・政治思想・宗教史など他分野に比較しても、その勢力はなお強大である。 しかし結論から先にいうと、芦部憲法論の依拠する法概念理解は旧来のドイツ法学(ないし大陸法学)系の自然法論であって、理論上は既に半世紀以上前に破綻しており(1961年のH.L.A.ハート『法の概念』刊行)、その門下である長谷部恭男からも明白に否定されてしまっている。 このページでは、芦部憲法論のエッセンスを紹介するとともにその致命的欠陥を指摘する。 ■2.芦部信喜『憲法 第五版』紹介と抜粋(内容チェック) 『憲法 第五版』 (芦部信喜:著、高橋和之:補訂 (2011年)) 芦部信喜(故人) は、宮沢俊義に始まる東大憲法学(戦後左翼の通説的憲法学)の権威であり、本書は法律系資格受験者に最も参考にされている影響力の大きい基本書である。芦部の政治的スタンスはリベラル左派~かなり左翼よりと考えると理解しやすい(※参考ページ:政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価)。 ▼第一章. 憲法と立憲主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ※図が見づらい場合⇒ こちら を参照 ※左記の他に実は、自然法または根本規範を認めず、憲法制定権力も認めない(特定時点の国民が保持するのはせいぜい「憲法典 constitutional code」(形式憲法)を制定ないし改廃する権力(つまり「国政 national policy」を決定する権力)であり、「国制 constitutional law」(国体法=実質憲法)を制定・改廃する権力ではない、とする見解もあり、そちらが妥当である。(→リベラル右派の「国民主権」論及び 保守主義の「国民主権」批判 参照。この場合「国制」(実質憲法)は過去から現代に至る世代を重ねた国民の長年のプラクティスの中から徐々に形成されるものと理解される。すなわち法の支配) ※図が見づらい場合⇒ こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) ※以下、芦部憲法論の具体的内容をチェック。 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) 第一章 憲法と立憲主義 p.3以下 <目次> 一. 国家と法 二. 憲法の意味◆1. 形式的意味の憲法と実質的意味の憲法◇(一). 形式的意味 ◇(ニ). 実質的意味(1). 固有の意味 (2). 立憲的意味 ◆2. 立憲的憲法の特色◇(一). 淵源 ◇(ニ). 形式と性質(1). 成文憲法 (2). 硬性憲法 三. 憲法の分類◆1. 伝統的な分類◇(一). 憲法の形式・性質・制定主体による分類 ◇(ニ). 国家形態による分類 ◆2. 機能的な分類 四. 憲法規範の特質◆1. 自由の基礎法 ◆2. 制限規範 ◆3. 最高法規 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配◆1. 法の支配 ◆2. 「法の支配」と「法治国家」◇(一). 民主的な立法過程との関係 ◇(ニ). 「法」の意味 ◆3. 立憲主義の展開◇(一). 自由国家の時代 ◇(ニ). 社会国家の時代 ◆4. 立憲主義の現代的意義◇(一). 立憲主義と社会国家 ◇(ニ). 立憲主義と民主主義 一. 国家と法 一定の限定された地域(領土)を基礎として、その地域に定住する人間が、強制力をもつ統治権のもとに法的に組織されるようになった社会を国家と呼ぶ。 従って、領土と人と権力は、古くから国家の三要素と言われてきた。 この国家(*)という統治団体の存在を基礎づける基本法、それが通常、憲法と呼ばれてきた法である。 (*) 国家概念 国家の考え方は、立場の違いによっても、社会学的にみるか、政治学的にみるかによっても、著しく異なる。三要素から成り立つと言われる場合は、社会学的国家論である。これを法学的にみた国家論として著名なものが、国家法人説である(第二章一2*、第三章二2(一)参照)。もっとも、国家三要素説には有力な批判もある。なお、憲法学では、たとえば人権を「国家からの自由」と言う場合のように、国家権力ないし権力の組織体を国家と呼ぶことも多い。 二. 憲法の意味 憲法を勉強するには、まず、憲法とは何かを明らかにしなければならない。 研究の対象を正確に捉えることは、あらゆる学問の出発点である。 憲法の意味を本格的に解明しようとすると、憲法がどのようにしてつくられてきたのか、どのような思想に支えられて登場したのか、という憲法思想史の背景を研究しなければならないが、ここでは、憲法の意味とその法的特質に関する基本的な事柄について概説的に説明するにとどめる。 ◆1. 形式的意味の憲法と実質的意味の憲法 憲法の概念は多義的であるが、重要なものとして三つ挙げることができる。 ◇(一). 形式的意味 これは、憲法という名前で呼ばれる成文の法典(憲法典)を意味する場合である。 形式的意味の憲法と呼ばれる。 たとえば、現代日本においては「日本国憲法」がそれにあたる。 この意味の憲法は、その内容がどのようなものであるかには関わらない。 ◇(ニ). 実質的意味 これは、ある特定の内容をもった法を憲法と呼ぶ場合である。 成文であると不文であるとを問わない。 実質的意味の憲法と呼ばれる。 この実質的意味の憲法には二つのものがある。 (1). 固有の意味 国家の統治の基本を定めた法としての憲法であり、通常「固有の意味の憲法」と呼ばれる。 国家は、いかなる社会・経済構造をとる場合でも、必ず政治権力とそれを行使する機関が存在しなければならないが、この機関、権力の組織と作用および相互の関係を規律する規範が、固有の意味の憲法である。 この意味の憲法はいかなる時代のいかなる国家にも存在する。 (2). 立憲的意味 実質的意味の憲法の第二は、自由主義に基づいて定められた国家の基礎法である。 一般に「立憲的意味の憲法」あるいは「近代的意味の憲法」と言われる。 18世紀末の近代市民革命期に主張された、専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという立憲主義の思想に基づく憲法である。 その趣旨は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、すべて憲法をもつものではない」と規定する有名な1789年フランス人権宣言16条に示されている。 この意味の憲法は、固有の意味の憲法とは異なり、歴史的な観念であり、その最も重要な狙いは、政治権力の組織化というよりも権力を制限して人権を保障することにある。 以上の三つの憲法の観念のうち、憲法の最もすぐれた特徴は、その立憲的意味にあると考えるべきである。 従って、憲法学の対象とする憲法とは、近代に至って一定の政治的理念に基づいて制定された憲法であり、国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする憲法である。 そのような立憲的意味の憲法の特色を次に要説する。 ◆2. 立憲的憲法の特色 ◇(一). 淵源 立憲的意味の憲法の淵源は、思想史的には、中世にさかのぼる。 中世においては、国王が絶対的な権力を保持して臣民を支配したが、国王といえども従わなければならない高次の法(higher law)があると考えられ、根本法(fundamental law)とも呼ばれた。 この根本法の観念が近代立憲主義へと引きつがれるのである。 もっとも、中世の根本法は、貴族の特権の擁護を内容とする封建的性格の強いものであり、それが広く国民の権利・自由の保障とそのための統治の基本原則を内容とする近代的な憲法へ発展するためには、ロック(John Loche, 1632-1704)やルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-78)などの説いた近代自然法ないし自然権(natural rights)の思想によって新たに基礎づけられる必要があった。 この思想によれば、 ① 人間は生まれながらに自由にして平等であり、生来の権利(自然権)をもっている、 ② その自然権を確実なものとするために社会契約(social contract)を結び、政府に権力の行使を委任する、そして、 ③ 政府が権力を恣意的に行使して人民の権利を不当に制限する場合には、人民は政府に抵抗する権利を有する。 このような思想に支えられて、1776年から89年にかけてのアメリカ諸州の憲法、1788年のアメリカ合衆国憲法、1789年のフランス人権宣言、91年のフランス第一共和制憲法などが制定された。 ◇(ニ). 形式と性質 立憲的憲法は、その形式の面では成文法であり、その性質においては硬性(通常の法律よりも難しい手続によらなければ改正できないこと)であるのが普通であるが、それはなぜであろうか。 (1). 成文憲法 まず、立憲的憲法が成文の形式をとる理由としては、成文法は慣習法に優るという近代合理主義、すなわち、国家の根本的制度についての定めは文章化しておくべきであるという思想を挙げることも出来るが、最も重要なのは近代自然法学の説いた社会契約説である。 それによれば、国家は自由な国民の社会契約によって組織され、その社会契約を具体化したものが根本契約たる憲法であるから、契約である以上それは文書の形にすることが必要であり、望ましいとされたのである。 (2). 硬性憲法 また、立憲的憲法が硬性(rigid)であることの理由も、近代自然法学の主張した自然権および社会契約説の思想の大きな影響による。 つまり、憲法は社会契約を具体化する根本契約であり、国民の不可侵の自然権を保障するものであるから、憲法によってつくられた権力である立法権は根本法たる憲法を改正する資格をもつことは出来ず(それは国民のみに許される)、立法権は憲法に拘束される、従って憲法の改正は特別の手続によって行わなければならない、と考えられたのである(*)。 (*) 軟性憲法 世界のほとんどすべての国の憲法は硬性である。しかしイギリスには憲法典が存在せず(その点で不文憲法の国と言われる)、種々の歴史的な理由から、実質的意味の憲法は憲法慣習を除き法律で定められているので、国会の単純多数決で改正することが出来る。このように通常の立法手続と同じ要件で改正できる憲法を軟性(flexible)憲法と言う。 三. 憲法の分類 ◆1. 伝統的な分類 憲法の意味の理解を助けるために、憲法はいろいろの観点から類別されてきた。 ◇(一). 憲法の形式・性質・制定主体による分類 まず、 ① 《形式》の点からして、 成典か不成典か、つまり成文の法典が存在するかどうか、 ② 《性質》の点からして、 硬性か軟性か、つまり、改正が単純多数決で成立する通常の立法の場合と同じか、それよりも難しく、特別多数決(三分のニ、ないし五分の三)、またはそれに加えて国民投票を要件としているかどうか、 ③ 憲法を制定する《主体》の点からして、 君主によって制定される欽定憲法か、国民によって制定される民定憲法か、君主と国民との合意によって制定される協約憲法か、 という区別などがある、と説かれてきた。 しかし、このような伝統的な分類は、必ずしも現実の憲法のあり方を実際に反映するものではないことに注意しなければならない。 たとえば、①については、イギリスのように単一の成文憲法典をもたない国もあるが、イギリスでも、実質的に憲法にあたる事項は多数の法律で定められており、基本的な事項は、実際には、容易に改正されない。 ところが、②にいう硬性の程度が強い憲法でも、実際にはしばしば改正される国は少なくない。 ◇(ニ). 国家形態による分類 また、憲法の定める国家形態ないし統治形態に関する分類として、 ① 君主が存在するかどうかによる 君主制(*)か共和制かという区分、 ② 議会と政府との関係に関して、 大統領制か議院内閣制かという区分、 ③ 国家内に支邦(州)が存在するかどうかによる 連邦国家か単一国家かという区分、 なども伝統的に説かれているが、これらも憲法の分類自体としてはそれほど大きな意味をもつものではない。 たとえば、君主制でも、イギリスのように民主政治が確立している国もあり、共和制でも、政治が非民主的な国は少なくない(従って、民主制か独裁制かという観点からの分類の方が意味がある)。 大統領制や議院内閣制にも、いろいろの形態がある(例えば、両者の混合形態もあるし、同じ大統領制でも、アメリカのような民主的なもの、南米ないし中近東の諸国のような独裁的なもの、の別がある)。 (*) 君主制 歴史的にみると、君主制は、絶対君主制から立憲君主制(君主の権限に制限が加えられる君主制。君主は単独では行為し得ず、大臣の助言に基づくことを要し、大臣は不完全ながら議会のコントロールに服する。明治憲法の天皇制はこの例である)、さらに議会君主制(君主に助言をする大臣が議会に政治責任を負う。現在のイギリス君主制はこの例である)へと発展してきている。 ◆2. 機能的な分類 このような形式的な分類に対して、戦後、憲法が現実の政治過程において実際にもつ機能に着目した分類が主張されるようになった。 たとえば、レーヴェンシュタイン(Karl Loewenstein, 1891-1973)という学者は、 ① 規範的憲法、 すなわち、政治権力が憲法規範に適応し、服従しており、憲法がそれに関係する者すべてによって遵守されている場合、 ② 名目的憲法、 すなわち、成文憲法典は存在するが、それが現実に規範性を発揮しないで名目的に過ぎない場合、 ③ 意味論的(semantic)憲法、 すなわち、独裁国家や開発途上国家によくみられるが、憲法そのものは完全に適用されても、実際には現実の権力保持者が自己の利益のためだけに既存の政治権力の配分を定式化したに過ぎない場合、 という三類型を提唱して注目されている。 このような存在論的(ontological)な分類は、主観的な判断が入る可能性がある点で問題もあるが、立憲的意味の憲法が、どの程度現実の国家生活において実際に妥当しているのかを測るうえで、有用なものであると言えよう。 四. 憲法規範の特質 以上述べてきたところのまとめを兼ねて、近代憲法の特質を箇条的に列挙すると、次のようになる。 ◆1. 自由の基礎法 近代憲法は、何よりもまず、自由の基礎法である。 それは、自由の法秩序であり、自由主義の所産である。 もちろん、憲法は国家の機関を定め、それぞれの機関に国家作用を授権する。 すなわち、通常は立法権、司法権、行政権、および憲法改正手続等についての規定が設けられる。 この国家権力の組織を定め、かつ授権する規範が憲法に不可欠なものであることは言うまでもない。 しかし、この組織規範・授権規範は憲法の中核をなすものではない。 それは、より基本的な規範、すなわち自由の規範である人権規範に奉仕するものとして存在する。 このような自由の観念は、自然権の思想に基づく。 この自然権を実定化した人権規定は、憲法の中核を構成する「根本規範(*)」であり、この根本規範を支える核心的価値が人間の人格不可侵の原則(個人の尊厳の原理)である。 (*) 根本規範 純粋法学の創唱者として著名なケルゼン(Hans Kelsen, 1881-1973)は、一切の実定法の最上位にあってその妥当性(通用力)の根拠となる、《思惟のうえで前提された》規範を根本規範と呼んだが、ここで言う根本規範はそれとは異なり、《実定法として定立された》法規範である。それは、「憲法が下位の法令の根拠となり、その内容を規律するのと同じように、憲法の根拠となり、またその内容を規律するものである」(清宮四郎)。 ◆2. 制限規範 憲法が自由の基礎法であるということは、同時に憲法が国家権力を制限する基礎法であることを意味する。 このことは、近代憲法の二つの構成要素である権利章典と統治機構の関係を考えるうえで、とくに重要である。 本来、近代憲法は、すべて個人は互いに平等な存在であり、生まれながら自然権を有するものであることを前提として、それを実定化するという形で制定された。 それは、すべての価値の根源は個人にあるという思想を基礎においている。 従って、政治権力の究極の根拠も個人(すなわち国民)に存しなくてはならないから、憲法を実定化する主体は国民であり、国民が憲法制定権力(*)の保持者であると考えられた。 このように、自然権思想と国民の憲法制定権力の思想とは不可分の関係にあるのである。 また、国民の憲法制定権力は、実定憲法においては「国民主権」として制度化されることになるので、人権規範は主権原理とも不可分の関係にあることになる(第18章三3図表参照)。 (*) 憲法制定権力 憲法をつくり、憲法上の諸機関に権限を付与する権力([英] constituent power, [仏] pouvoir constituant, [独] verfassungsgebende Gewalt)。制憲権とも言われる。国民に憲法をつくる力があるという考え方は、18世紀末の近代市民革命時、とくにアメリカ、フランスにおいて、国民主権を基礎づけ、近代立憲主義憲法を制定する推進力として大きな役割を演じた。フランスのシェイエス(Emmanuel J. Sieyes, 1748-1836)が『第三階級とは何か』(1789年)を中心に展開した見解がその代表である。制憲権と国民主権との関係につき、第三章二2(ニ)参照。 ◆3. 最高法規 憲法は最高法規であり、国法秩序において最も強い形式的効力をもつ。 日本国憲法98条が、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と定めているのは、その趣旨を明らかにしたものである(*)。 もっとも、憲法が最高法規であることは、憲法の改正に法律の改正の場合よりも困難な手続が要求されている硬性憲法であれば、論理上当然である。 従って、形式的効力の点で憲法が国法秩序において最上位にあることを「形式的最高法規性」と呼ぶならば、それは硬性憲法であることから派生するものであって、とくに憲法の本質的な特性として挙げるには及ばないということになろう。 最高法規としての憲法の本質は、むしろ、憲法が《実質的に法律と異なる》という点に求められなければならない。 つまり、憲法が最高法規であるのは、その内容が、人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心として構成されているからである。 これは、「自由の基礎法」であることが憲法の最高法規性の実質的根拠であること、この「実質的最高法規性」は、形式的最高法規性の基礎をなし、憲法の最高法規性を真に支えるものであること、を意味する。 日本国憲法第十章「最高法規」の冒頭にあって、基本的人権が永久不可侵であることを宣言する97条は、硬性憲法の建前(96条)、およびそこから当然に派生する憲法の形式的最高法規性(98条)の実質的な根拠を明らかにした規定である。 このように、憲法の実質的最高規範性を重視する立場は、憲法規範を一つの価値秩序と捉え、「個人の尊重」の原理とそれに基づく人権の体系を憲法の《根本規範》(basic norms)と考えるので、憲法規範の《価値序列》を当然に認めることになる。 この考えが、人権規定の解釈や憲法保障の問題においてどのような役割を果すかについては、後に述べることにする(第五章-第13章・第18章)。 (*) 国法秩序の段階構造 国法秩序は、形式的効力の点で、憲法を頂点とし、その下に法律→命令(政令、府省令等)→処分(判決を含む)という順序で、段階構造をなしているものと解することが出来る。この構造は、動態的には、上位の法は下位の法によって具体化され、静態的には、下位の法は上位の法に有効性の根拠をもつ、という関係として説明される(ケルゼンの法段階説)。 なお、憲法の最高法規性と関連して、憲法98条の列挙から「条約」が除外されていることが問題となるが、これは条約が憲法に優位することを意味するわけではない。 両者の効力の優劣関係については後述する(第18章ニ4(ニ)(1)参照)。 条約は公布されると原則としてただちに国内法としての効力をもつが、その効力は通説によれば、憲法と法律の中間にあるものと解されている。 実務の取扱いもそうである。 ただ、98条2項に言う「確立された国際法規」すなわち、一般に承認され実行されている慣習国際法を内容とする条約については、憲法に優位すると解する有力説がある。 地方公共団体の条例・規則は、「法律・命令」に準ずるものとみることが出来るので(第17章ニ3参照)、それに含まれると解される。 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配 近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするが、この立憲主義思想は法の支配(rule of law)の原理と密接に関連する。 ◆1. 法の支配 法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。 それは、専制的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。 ジェイムズ一世の暴政を批判して、クック(Edward Coke, 1552-1634)が引用した「国王は何人の下にもあるべきでない。しかし神と法の下にあるべきである」というブラクトン(Henry de Bracton, ?-1268)の言葉は、法の支配の本質をよく表している。 法の支配の内容として重要なものは、現在、 ① 憲法の最高法規性の観念 ② 権力によって侵されない個人の人権 ③ 法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law) ④ 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重 などだと考えられている。 ◆2. 「法の支配」と「法治国家」 「法の支配」の原理に類似するものに、《戦前の》ドイツの「法治主義」ないしは「法治国家」の観念がある。 この観念は、法によって権力を制限しようとする点においては「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、少なくとも、次の二点において両者は著しく異なる。 ◇(一). 民主的な立法過程との関係 第一に、「法の支配」は、立憲主義の進展とともに、市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図ること、従って権利・自由を制約する法律の内容は国民自身が決定すること、を建前とする原理であることが明確となり、その点で民主主義と結合するものと考えられたことである。 これに対して、戦前のドイツの法治国家(Rechtsstaat)の観念は、そのような民主的な政治制度と結びついて構成されたものではない。 もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものに過ぎない。 従って、それは、如何なる政治体制とも結合し得る形式的な観念であった。 ◇(ニ). 「法」の意味 第二に、「法の支配」に言う「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも固く結びつくものであったことである。 これに対して、「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることが出来る容器のような)形式的な法律に過ぎなかった。 そこでは、議会の制定する法律の中身の合理性は問題とされなかったのである。 もっとも、《戦後の》ドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。 その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から《実質的法治国家》へと移行しており、法治主義は英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。 ◆3. 立憲主義の展開 ◇(一). 自由国家の時代 近代市民革命を経て近代憲法に実定化された立憲主義の思想は、19世紀の「自由国家」の下でさらに進展した。 そこでは、個人は自由かつ平等であり、個人の自由意思に基づく経済活動が広く容認された。 そして、自由・平等な個人の競争を通じて調和が実現されると考えられ、権力を独占する強大な国家は経済的干渉も政治的干渉も行わずに、社会の最小限度の秩序の維持と治安の確保という警察的任務のみを負うべきものとされた。 当時の国家を、自由国家・消極国家とか、または軽蔑的な意味を込めて夜警国家と呼ぶのは、その趣旨である。 ◇(ニ). 社会国家の時代 しかし、資本主義の高度化にともなって、富の偏在が起こり、労働条件は劣悪化し、独占的グループが登場した。 その結果、憲法の保障する自由は、社会的・経済的弱者にとっては、貧乏の自由、空腹の自由でしかなくなった。 そこで、そのような状況を克服し、人間の自由と生活を確保するためには、国家が、従来市民の自律に委ねられていた市民生活の領域に一定の限度まで積極的に介入し、社会的・経済的弱者の救済に向けて努力しなければならなくなった。 こうして、19世紀の自由国家は、国家的な干渉と計画とを必要とする社会国家(積極国家ないしは福祉国家(*)とも呼ばれる)へと変貌することになり、行政権の役割が飛躍的に増大した。 (*) 社会国家・福祉国家 社会国家(Sozialstaat)は主としてドイツで用いられる言葉であり、福祉国家(welfare state)は主としてイギリスで用いられる言葉である。その内容は必ずしも明確ではないが、おおよそ、国家が国民の福祉の増進を図ることを使命として、社会保障制度を整備し、完全雇用政策をはじめとする各種の経済政策を推進する国家であると言えよう。我が国では、かつて、福祉国家論は国家独占資本主義の矛盾を覆い隠すイデオロギー的理論であるという批判が学説の一部に強かった。そのような問題点があるとしても、現実の経済・社会に照らして、プラス面の実現を強化していくことが必要である。 ◆4. 立憲主義の現代的意義 ◇(一). 立憲主義と社会国家 立憲主義は、国家は国民生活にみだりに介入すべきでないという消極的な権力観を前提としている。 そこで、国家による社会への積極的な介入を認める社会国家思想が、立憲主義と矛盾しないかが問題となる。 しかし、立憲主義の本来の目的は、個人の権利・自由の保障にあるのであるから、その目的を現実の生活において実現しようとする社会国家の思想とは基本的に一致すると考えるべきである。 この意味において、社会国家思想と(実質的)法治国家思想とは《両立する》。 戦後ドイツで用いられてきた「社会的法治国家」という概念は、その趣旨である。 ◇(ニ). 立憲主義と民主主義 また、立憲主義は民主主義とも密接に結びついている。 すなわち、 ① 国民が権力の支配から自由であるためには、国民自らが能動的に統治に参加するという民主制度を必要とするから、自由の確保は、国民の国政への積極的な参加が確立している体制において初めて現実のものとなり、 ② 民主主義は、個人尊重の原理を基礎とするので、すべての国民の自由と平等が確保されて初めて開花する、 という関係にある。 民主主義は、単に多数者支配の政治を意味せず、実をともなった《立憲民主主義》でなければならないのである(*)。 このような《自由と民主の結合》は、まさに、近代憲法の発展と進化を支配する原則であると言うことができよう。 戦後の西欧型民主政国家が「民主的法治国家」とか「法治国家的民主政」と言われるには、そのことを示している。 (*) 自由主義と民主主義 戦前の憲法学 - とくにワイマール憲法時代のドイツ - では、自由主義を否定しても民主主義は成り立つという見解が有力であった。しかし、宮沢俊義が説いたとおり、「リベラルでない民主制は、民主制の否定であり、多かれ少なかれ独裁的性格を帯びる。民主制は人権の保障を本質とする」、と考えるのが正しい。 ▼第三章. 国民主権の原理 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) 第三章 国民主権の原理 p.35以下 <目次> 一 日本国憲法の基本原理◆1.前文の内容 ◆2.基本原理相互の関係(一)人権と主権 (二)国内の民主と国際の平和 ◆3.前文の法的性質 ニ 国民主権◆1.主権の意味 ◆2.国民主権の意味(一)主体について (ニ)権力性と正当性の両契機 一 日本国憲法の基本原理 日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つを基本原理とする。 これらの原意がとりわけ明確に宣言されているのが憲法前文である。 ◆1.前文の内容 前文とは、法律の最初に付され、その法律の目的や精神を述べる文書であり、憲法前文の場合には、憲法制定の由来、目的ないし憲法制定者の決意などが表明される例が多い。 もっとも、その内容はそれぞれの国の憲法によって異なる。 日本国憲法前文は、国民が憲法制定権力の保持者であることを宣言しており、また、近代憲法に内在する価値・原理を確認している点で、きわめて重要な意義を有する。 前文は四つの部分から成っている。 ① 一項の前段は、 「主権が国民に存すること」、および日本国民が「この憲法を確定する」ものであること、つまり国民主権の原理および国民の憲法制定の意思(民定憲法性)を表明している。ついで、それと関連させながら、「自由のもたらす恵沢」の確保と「戦争の惨禍」からの解放という、人権と平和の二原理を謳い、そこに日本国憲法制定の目的があることを示している。 それを受けて、一項後段は、 「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と言い、国民主権とそれに基づく代表民主制の原理を宣言し、最後に、以上の諸原理を「人類普遍の原理」であると説き、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」として、それらの原理が憲法改正によっても否定することができない旨を明らかにしている。 ② 二項は、 「日本国民は、恒久の平和を念願」するとして、平和主義への希求を述べ、そのための態度として、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信て、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と宣言する。 ③ 三項は、 国家の独善性の否定を「政治道徳の法則」として確認し、 ④ 四項は、 日本国憲法の「崇高な理想と目的を達成すること」を誓約している。 ◆2.基本原理相互の関係 前文に盛られた国民主権原理、人権尊重主義、平和主義の原理は、次のように相互に不可分に関連している。 (一)人権と主権 第一に、基本的人権の保障は、国民主権の原理と結びついている。 専制政治の下では、基本的人権の保障が完全なものと成り得ないことは当然であり、民主主義政治の下で初めて人権保障が成立する。 先に指摘した前文一項の文書は、明らかに、国民主権およびそれに基づく代表民主制の原理(狭義の民主主義)が基本的人権の尊重と確立を目的とし、それを達成するための手段として、不可分の関係にあることを示している。 自由(人権)は「人間の尊厳」の原理なしには認められないが、国民主権、すなわち国民が国の政治体制を決定する最終かつ最高の権威を有するという原理も、国民がすべて平等に人間として尊重されて初めて成立する。 このように、国民主権(民主の原理)も基本的人権(自由の原理)も、ともに「人間の尊厳」という最も基本的な原理に由来し、その二つが合して広義の民主主義を構成し、それが、「人類普遍の原理」とされているのである(第18章三3図表参照) (二)国内の民主と国際の平和 第二に、人間の自由と生存は平和なくして確保されないという意味で、平和主義の原理もまた、人権および国民主権の原理と密接に結びついている。 国内の民主主義と国際的平和の不可分性は、近代憲法の進化を推進してきた原理だと言ってもよい。 ◆3.前文の法的性質 以上のような基本原理を明らかにしている日本国憲法の前文は、憲法の一部をなし、本文と同じ法的性質をもつと解される。 従って、たとえば前文一項の、「人類普遍の原理・・・・・・に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という規定は、憲法改正に対して法的限界を画し、憲法改正権を法的に拘束する規範であると解される(憲法改正権の限界については、第18章三3参照)。 しかしながら、これは前文に裁判規範としての性格まで認められることを意味しない。 裁判規範とは、広い意味では裁判所が具体的な訴訟を裁判する際に判断基準として用いることのできる法規範のことを言うが、狭い意味では、当該規範を直接根拠として裁判所に救済を求めることのできる法規範、すなわち裁判所の判決によって執行することのできる法規範のことを言う。 前文の規定は抽象的な原理の宣言にとどまるので、少なくとも狭い意味での裁判規範としての性格はもたず、裁判所に対して前文の執行を求めることまではできない、と一般に解されている。 この点に関して問題となるのが、前文二項の、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」という文章に示されている「平和的生存権(*)」である。 学説では、右規定の(狭い意味での)裁判規範性を認めることは出来るとし、平和的生存権を新しい人権の一つとして認めるべきであるという見解も有力である。 しかし、平和的生存権は、その主体・内容・性質などの点でなお不明確であり、人権の基礎にあってそれを支える理念的権利ということは出来るが、裁判で争うことの出来る法的権利性を認めることは難しい、と一般に考えられている。 (*) 平和的生存権 平和的生存権という考えは、自衛隊違憲訴訟において、1960年代から主張されたものである。平和的生存権は、「平和を享受する権利」を意味し、憲法9条の戦争の放棄の原則との関連で、平和を人権として捉えるという意図に基づくものである。具体的には、基地付近の住民が基地の撤廃を裁判所に求める場合の「訴えの利益」を基礎づけるために主張された。しかし、判例においては、長沼事件(第四章三3*参照)一審判決は、平和的生存権を訴えの利益の一つの根拠として認めたが、二審判決はこれを否定し、最高裁判所でも前文二項の裁判規範性は実質的に認められなかった。 ニ 国民主権 国民主権の原理は、絶対主義時代の君主の専制的支配に対抗して、国民こそが政治の主役であると主張する場合に、その理論的支柱とされた観念で、近代市民革命の成立以後、国家統治の根本原理として近代立憲主義憲法において広く採用されている。 もっとも、その原理の内容を具体的にどのように理解するかについては様々な見方が示されてきており、現在もなお活発な議論が展開されている。 ◆1.主権の意味 主権の概念は多義的であるが、一般に、 ① 国家権力そのもの(国家の統治権)、 ② 国家権力の属性としての最高独立性(内にあっては最高、外に対しては独立ということ)、 ③ 国政についての最高の決定権、 という3つの異なる意味に用いられる。 これは歴史的な理由に基づく。 すなわち、主権という概念は、絶対主義君主が中央集権国家をつくりあげていく過程において、君主の権力が、封建領主に対しては最高であること、ローマ皇帝に対しては独立であることを基礎づける政治理論として主張された概念であった。 ところが、「朕は国家なり」の思想が支配していた専制君主制国家では、3つの主権概念は「君主の権力」という形で統一的に理解されていたが、その後、君主制の立憲主義化にともなって国家の概念も変化し、君主の権力と国家権力とは区別して考えられるようになり、主権の概念が3つに分解したのである。 (一) 統治権 ①の国家権力そのものを意味する主権とは、国家が有する支配権を包括的に示す言葉である。立法権・行政権・司法権を総称する統治権(Herrschaftsrechte, governmental power)とほぼ同じ意味で、日本国憲法(41条)に言う「国権」がそれにあたる。統治権という意味の主権の用例は、ポツダム宣言8項「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限サラルベシ」という規定にみられる。 (ニ) 最高独立性 ②の国家権力の最高独立性(国家権力の主権性とも言われる)を意味する主権は、主権概念の生成過程から言えば、本来の意味の主権の概念である。憲法前文3項で、「自国の主権を維持し」という場合の主権がその例であるが、そこでは国家の独立性に重点が置かれている。 (三) 最高決定権 ③の国政の最高の決定権としての主権とは、国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威という意味であり、その力または権威が君主に存する場合が君主主権、国民に存する場合が国民主権と呼ばれる。憲法前文1項で「ここに主権が国民に存することを宣言し」という場合の主権、および1条で「主権の存する日本国民の総意」という場合の主権がこれにあたる。 ◆2.国民主権の意味 「国民主権」がいかなる意味・内容を有するかについては、さまざまの議論があるが、ここでは、次の2点を注意しておきたい。 (一)主体について 第一は、国民主権の観念は、本来、君主主権との対抗関係の下で生成し、主張されてきたもので、君主主権であることは国民主権ではなく、国民主権であることは君主主権ではない、という相反する関係にあることである。 従って、主権は君主にあるのでも国民にあるのでもなく、国家にあるとか、主権は天皇を含む国民全体にあるとか、という趣旨の説明は、戦後よく主張されたが、政治的な配慮に基づく考え方で、理論的には正当とは言い難い。 戦前のドイツで支配的な学説であった国家法人説は、先に触れたように(第二章一2*参照)、国家は法的に考えると法人、すなわち権利(統治権)主体であり、君主はその最高機関であると説き、君主主権か国民主権かは、国家の最高意思を決定する最高機関の地位に君主が就くか国民が就くかの違いにすぎない、と主張した。 そして、「主権」という概念は国家権力の最高独立性を示す本来の概念としてのみ用いるべきであるとし、君主主権か国民主権かという近代憲法が直面した本質的問題を回避しようとした。 それは、急激な民主化を好まない19世紀ドイツの立憲君主制に見合った理論であった。 この国家法人説は、明治憲法の下では天皇機関説に具体化され、憲法の神権主義的性格を緩和する役割を果たした。 しかし、国民主権の確立した日本国憲法の下では、もはやその理論的有用性をもたない。 (ニ)権力性と正当性の両契機 第二に注意を要するのは、国民主権の原理には、2つの要素が含まれていることである。 一つは、 国の政治のあり方を最終的に決定する権力を国民自身が行使するという権力的契機であり、 他の一つは、 国家の権力行使を正当づける究極的な権威は国民に存するという正当性の契機である。 もともと国民主権の原理は、国民の憲法制定権力(制憲権)の思想に由来する(第一章四2参照)。 国民の制憲権は、国民が直接に権力を行使する(具体的には、憲法を制定し国の統治のあり方を決定する)、という点にその本質的な特徴がある。 ところが、この制憲権は、近代立憲主義憲法が制定されたとき、合法性の原理に従って、自らを憲法典の中に制度化し、 ① 国家権力の正当性の究極の根拠は国民に存するという建前ないし理念としての性格をもつ国民主権の原理、および、 ② 法的拘束に服しつつ憲法(国の統治のあり方)を改める憲法改正権 に転化したのである(そのため改正権は、「制度化された制憲権」とも呼ばれる。この点につき、なお、第八章三3参照)。 以上のような国民主権の原理に含まれる2つの要素のうち、主権の権力性の側面においては、国民が自ら国の統治のあり方を最終的に決定するという要素が重視されるので、そこでの主権の主体としての「国民」は、実際に政治的意思表示を行うことのできる有権者(選挙人団とも言う)を意味する。また、それは、国民自身が直接に政治的意思を表明する制度である直接民主制と密接に結びつくことになる。もっとも、国民主権の概念に権力的契機が含まれていると言っても、憲法の明文上の根拠もなく、国の重要な施策についての決定を国民投票に付する法律がただちに是認されるという意味ではない(憲法上認められるのは、国民投票の結果がただちに国会を法的に拘束するものではない諮問的・助言的なものに限られよう)。主権の権力性とは、具体的には、憲法改正を決定する(これこそ国の政治のあり方を最終的に決定することである)権能を言う。 これに対して、主権の正当性の側面においては、国家権力を正当化し権威づける根拠は究極において国民であるという要素が重視されるので、そこでの主権の保持者としての「国民」は、有権者に限定されるべきではなく、全国民であるとされる。また、そのような国民主権の原理は代表民主制、とくに議会制と結びつくことになる。 日本国憲法における国民主権の観念には、このような2つの側面が並存しているのである。(*) 従って、国家権力の正当性の淵源としての国民は「全国民」であり、すべての「国家権力は国民から発する」、ということになる。 しかし同時に、国民(有権者)が国の政治のあり方を最終的に決定するという権力性の側面も看過してはならない。 そのように考えるならば、憲法96条において憲法改正の是非を最終的に決定する制度として定められている国民投票制(第十八章三2(ニ)参照)は、国民主権の原理と不可分に結合するものと解されよう。 (*) ナシオン主権とプープル主権 フランスでは、市民革命期に君主主権を否定して制定された新しい立憲主義憲法の主権原理として、ナシオン(nation)主権をとるかプープル(peuple)主権をとるか争われ、この2つの対立が第二次大戦後の憲法にまで及んでおり、日本でも「国民主権」をその概念を用いて説明する学説が少なくない。しかし、もしナシオンの意味を「国籍保持者の総体としての国民(全国民)」、プープルの意味を「社会契約参加者(普通選挙権者)の総体としての国民(人民)」と解すれば、2つの主権原理は、本文に説いた主権主体としての「全国民」と「有権者団」の区別に対応するが、ナシオンは、具体的に実存する国民とは別個の、観念的・抽象的な団体人格としての国民の意だと一般に解されており、またプープルも、「今日では性別・年齢別の差なく文字どおりの『みんな』」だと解する説が有力であることに、注意すべきである。しかも、同じプープル主権を説く場合でも、「主権」の意味について、「統治権」と解する説もあれば権力の正当性の究極的根拠と解する説もあるなど、見解に大きな相違がみられる。 (*) 憲法制定権力 憲法をつくり、憲法上の諸機関に権限を付与する権力([英] constituent power, [仏] pouvoir constituant, [独] verfassungsgebende Gewalt)。制憲権とも言われる。国民に憲法をつくる力があるという考え方は、十八世紀末の近代市民革命時、とくにアメリカ、フランスにおいて、国民主権を基礎づけ、近代立憲主義憲法を制定する推進力として大きな役割を演じた。フランスのシェイエス(Emmanuel J. Sieyes, 1748-1836)が『第三階級とは何か』(1789年)を中心に展開した見解がその代表である。制憲権と国民主権との関係につき、第三章二2(ニ)参照。 ▼第十八章. 憲法の保障 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) 第18章 憲法の保障 p.363以下 <目次> 一 憲法保障の諸類型◆1 抵抗権 ◆2 国家緊急権 ニ 違憲審査制 三 憲法改正の手続と限界◆1 硬性憲法の意義 ◆2 憲法改正の手続(一) 国会の発議(1) 発案 (2) 審議 (3) 議決 (ニ) 国民の承認 (三) 天皇の公布 ◆3 憲法改正の限界(一) 権力の段階構造 (ニ) 人権の根本規範性 (三) 前文の趣旨 (四) 平和主義・憲法改正手続 ◆4 憲法の変遷 一 憲法保障の諸類型 憲法は、国の最高法規であるが、この憲法の最高法規性は、ときとして、法律等の下位の法規範や違憲的な権力行使によって脅かされ、歪められるという事態が生じる。 そこで、このような憲法の崩壊を招く政治の動きを事前に防止し、または、事後に是正するための装置を、あらかじめ憲法秩序の中に設けておく必要がある。 その装置を、通常、憲法保障制度と言う。 憲法保障制度を大別すると、 ① 憲法自身に定められている保障制度と、 ② 憲法には定められていないけれども超憲法的な根拠によって認められると考えられる制度 がある。 ①の例を日本国憲法で示すと、憲法の最高法規性の宣言(98条)、公務員に対する憲法尊重擁護の義務づけ(99条)、権力分立制の採用(41条・65条・76条)、硬性憲法の技術(96条)などのほか、事後的救済としての違憲審査制(81条)がある。 ②の例としては、抵抗権と国家緊急権が挙げられる。 その他に、法律レベルでも、刑法の内乱罪(77条)、破壊活動防止法等の規定により、憲法秩序の維持が図られている。 以下、まず②を概説し、①については、世界的に最も重要な憲法保障制度となった違憲審査制の意義と機能を検討し、憲法改正の問題を扱うことにしたい。 ◆1 抵抗権 国家権力が人間の尊厳を侵す重大な不法を行った場合に、国民が自らの権利・自由を守り人間の尊厳を確保するため、他に合法的な救済手段が不可能となったとき、実定法上の義務を拒否する抵抗行為を、一般に抵抗権と言う。 抵抗権の考えは古くからあり、人権思想の発達に大きな役割を演じたが、それが実際に重要な意味をもったのは近代市民革命の時代であった。 自然権の思想と結び合って、「圧制への抵抗」の権利が強調され、若干の人権宣言の中にも謳われた(1789年・1793年のフランス人権宣言参照)。 その後、近代立憲主義の進展とともに、憲法保障制度が整備され、抵抗権は人権宣言から姿を消してしまう。 それは、抵抗権が本来、個人の権利・自由として実定化されることに馴染まない性格をもっているからである。 確かに、第二次世界大戦時におけるファシズムの苦い経験を経て、戦後、抵抗権思想が復活し、それを再び人権宣言の中に規定する憲法も現れるようになったが、それは本来の抵抗権をすべてカバーするものではない。 抵抗権の本質は、それが非合法的であるところにあり、制度化に馴染まないと解される。 一定の内容の実定化が可能であるにとどまる。 日本国憲法が国民の抵抗権を認めているかどうかは、抵抗権の意味・性格をどのように理解するか、とくに抵抗権は自然法上の権利か実定法上の権利か、という難しい問題と関わるので、簡単に結論を出すことは出来ない。 基本的人権を国民は「不断の努力によつて」保持しなくてはならないこと(12条)から、ただちに実定法上の権利としての抵抗権を導き出すことは、きわめて困難であるが、憲法は自然権を実定化したと解されるので、人権保障規定の根底にあって人権の発展を支えてきた圧政に対する抵抗の権利の理念を読みとることは、十分に可能である。 ◆2 国家緊急権 戦争・内乱・恐慌・大規模な自然災害など、平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において、国家の存立を維持するために、国家権力が、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置をとる権限を、国家緊急権と言う。 この国家緊急権は、一方では、国家存亡の際に憲法の保持を図るものであるから、憲法保障の一形態と言えるが、他方では、立憲的な憲法秩序を一時的にせよ停止し、執行権への権力の集中と強化を図って危機を乗り切ろうとするものであるから、立憲主義を破壊する大きな危険性をもっている。 従って、実定法上の規定がないても、国家緊急権は国家の自然権として是認される、とする説は、緊急権の発動を事実上国家権力の恣意に委ねることを容認するもので、過去における緊急権の濫用の経験に徴しても、これをとることはできない。 超憲法的に行使される非常措置は、法の問題ではなく、事実ないし政治の問題である。 この点で、自然権思想を推進力として発展してきた人権、その根底にあってそれを支えてきた抵抗権と、性質を異にする。 そこで、19世紀から20世紀にかけての西欧諸国では、非常事態に対する措置をとる例外的権力を実定化し、その行使の要件等をあらかじめ決めておく憲法も現れるようになった。 それには、 ① 緊急権発動の条件・手続・効果などについて詳細に定めておく方式と、 ② その大綱を定めるにとどめ、特定の国家機関(例、大統領)に包括的な権限を授権する方式 の二つがある。 しかし、危険を最小限度に抑えるような法制化はきわめて困難であり、二つの方式のいずれも、多くの問題点と危険性を孕(はら)んでいる。 とくに②は、濫用の危険が大きい(例、ワイマール憲法48条の定める大統領の非常措置権)。 我が国では、明治憲法は緊急権に関する若干の規定を設けていたが(8条の緊急命令の権、14条の戒厳宣告の権、31条の非常大権など)、日本国憲法には、国家緊急権の規定はない。 ニ 違憲審査制 (省略) 三 憲法改正の手続と限界 ◆1 硬性憲法の意義 憲法には、高度の安定性が求められるが、反面において、政治・経済・社会の動きに適応する可変性も不可欠である。 この安定性と可変性という相互に矛盾する要請に応えるために考案されたのが、硬性憲法(rigid constitution)の技術、すなわち、憲法の改正手続を定めつつ、その改正の要件を厳格にするという方法である。 これは、最高法規たる憲法を保障する制度として、重要な意義を有する。 ただ、国家によって事情は異なるが、あまり改正を難しくすると、可変性がなくなり、憲法が違憲的に運用される恐れが大きくなるし、反対に、あまり改正を容易にすると、憲法を保障する機能が失われてしまう。 日本国憲法は、「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」とし、国民による承認は国民投票において、「その過半数の賛成を必要とする」と定める(96条)。 「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」と、国民投票における「過半数の賛成」という要件は、他国に比べて、硬性の度合が強い。 ◆2 憲法改正の手続 憲法の改正は、国会の発議、国民の承認、天皇の公布という三つの手続を経て行われる。 (一) 国会の発議 ここに「発議」とは、通常の議案について国会法などで言われる発議(それは原案を提出することを意味する)とは異なり、国民に提案される憲法改正案を国会が決定することを言う。 (1) 発案 憲法改正を発議するには、改正案が提示されなければならない。 この原案を提出する権能(発案権)が各議員に属することは言うまでもないが(通常の議案の場合は、国会法56条1項により、衆議院では20人以上、参議院では10人以上の賛成を要するが、憲法改正案についてはとくに要件を加重することも考えられる〔2007年の国会法改正で68条の2が追加され、「衆議院においては議員100人以上、参議院においては議員50人以上の賛成を要する」ことになった〕、内閣にも存するか否かについては、争いがある。 肯定説は、「国会の発議」は発案権者が議員に限られることを当然には意味しないこと、内閣の発案権を認めても国会審議の自主性は損なわれず、またそれは、議院内閣制における国会と内閣との「協働」関係からみて不思議なことではないこと、などを理由とする。 これに対して否定説は、憲法改正は国民の憲法制定権力(制憲権とも言う)の作用であるから、国民の最終的決定の対象となる原案の内容を確定する行為(憲法で言う「発議」)を国会が行うのは、制憲権思想からいって当然の理であり、この理を貫けば、「発議」の手続の一部をなすとも考えられる「発案」すなわち原案提出権は、議員のみに属すると解するのが憲法の精神に合致すること、内閣に発案権を認めても国会の自主的審議権が害されることはないとはいえ、改正案の提出権を法律案の提出権と同じに考えるのは、憲法と法律との形式的・実質的な相違を曖昧にする解釈であること、などを理由とする。 いずれの解釈が妥当か、俄かに断じ難い。 そのため、「憲法の本旨は、内閣の発案を認めるかどうかは、国会の意思による法律に委ねるという程度のものと解する」説にも、一理ある。 ただし、仮に否定説が妥当だとしても(私見はそれに傾くが)、内閣は実際には議員たる資格をもつ国務大臣その他の議員を通じて原案を提出することができるので、内閣の発案権の有無を論議する実益は乏しい。 (2) 審議 憲法・国会法に特別の規定がないので、審議の手続は法律案の場合に準じて行うことができると解される〔(現在は、国会法が改正され、第六章の2「日本国憲法改正の発議」、第11章の2「憲法審査会」、86条の2「憲法改正原案に関する両院協議会」が追加されている)〕。 ただ、定数足については、慎重な審議を要する案件であることに鑑み、総議員の三分の二以上の出席が必要ないし望ましいとする説が有力である。 しかし、三分の一以上とするか三分の二以上とするかは、法律の定めるところに委ねられていると解されるので、特別の規定がない以上は三分の一以上で足りる。 審議にあたり、国会が原案を自由に修正できることは、言うまでもない。 (3) 議決 各議院において、それぞれ総議員の三分の二以上の賛成を必要とする「総議員」の意味については、法定議員数か現在議員数か二説あるが、定数から欠員を差し引いた数と解する後説が妥当であろう。 両議院で三分の二以上の賛成が得られたとき、国会の発議が成立する。 議決のほかに、発議および国民に対する提案という特別の行為は必要とされない。 (ニ) 国民の承認 憲法改正は、国民の承認によって成立する。 この承認は、「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」によって行われる。 承認の要件とされる「過半数」の意味については、争いがあるが、有効投票の過半数と解するのが妥当であろう。 法律により投票総数の過半数と定めることも可能と解される。 このような国民投票による憲法改正決定の方式は、国民主権の原理と最高法規としての憲法の国民意思による民主的正当化の要請とを確保する最も純粋な手段と言うことができる。 もっとも現在まだ憲法改正国民投票法は制定されていない(*)(†)。 (*) 国民投票法の問題点 第一は、投票方法である。同時に多くの改正案が発議される場合は、相互に不可分の関係にあるものを一括して記載することが必要であろう。第二は、承認の効力発生時期である。投票の効力を争う訴訟の出訴期間経過後、その間に訴訟があれば判決確定後、投票の結果が確定すると考えるのが妥当であろう。 (†) 国民投票法(正式名は「日本国憲法の改正手続に関する法律」)が2007年に制定され、3年後の2010年5月18日に施行された。それによると、国会による改正の発議がなされると、その後60日から180日の間に国民投票が行われる(同2条1項)。その間に国民への広報事務を担当する機関として国会に国民投票広報協議会が設置される(国会法102条の11、国民投票法11条以下)。改正案に対する賛成・反対の「国民投票運動」は、選挙運動と比較すると相当規制が緩和されており、文書図書の規制、運動費用の規制、戸別訪問やインターネット上の運動の禁止もないが、公務員による運動や放送広告による運動は規制される。改正原案の発議は「内容において関連する事項ごとに区分して行う」(国会法68条の3)ことになっており、区分された案につき個別的に国民投票を行うことになる。そして、投票総数の二分の一を超えたとき国民の承認があったとされる(国民投票法126条1項)が、その場合の投票総数とは「憲法改正案に対する賛成の投票の数及び反対の投票の数を合計した数」(同98条2項)とされている。承認の通知を受けると総理大臣は直ちに公布の手続きをとる(同126条2項)。公布を行うのは天皇である(憲法7条1号)。国民投票に関し異議のある投票人は30日以内に東京高裁に訴訟を提起できるが(国民投票法127条)、訴訟の提起があっても国民投票の効力は停止しない(同130条)。なお、投票権者は「年齢満18年以上の者」(同3条)とされているが、そのために必要な法制上の措置がとられないかぎり(現時点でまだとられていない)、20歳以上の者とされている(同附則3条)。 (三) 天皇の公布 公布は「国民の名」で行われる。 これは、改正権者である国民の意思による改正であることを明らかにする趣旨である。 また、「この憲法と一体を成すものとして」とは、改正条項が「日本国憲法と同じ基本原理のうえにたち、同じ形式的効力をもつもの」であることを示す、と解する説が妥当であろう。 アメリカ合衆国憲法と同じ増補の方式を要求する趣旨だという特別の意味は、そこには含まれていない。 全部改正も、憲法改正権の限界を逸脱するものでないかぎり、必ずしも排除されているわけではないと解される。 ◆3 憲法改正の限界 このような憲法改正手続に従えば、いかなる内容の改正を行うことも許されるかと言えば、けっしてそうではない。 この問題は、憲法、人権、国民主権等の本質をどのように考えるか、という憲法の基礎理論と密接に関連する。 我が国では、国民の主権は絶対的である(制憲権は全能であり、改正権はその制憲権と同じである)と考える理論、ないし憲法規範には上下の価値の序列を認めることは出来ないと考える理論に基づいて、憲法改正手続によりさえすれば、いかなる内容の改正も法的に許されると説く無限界説もある。 しかし、法的な限界が存するとする説が通説であり、かつ、それが妥当と解される。 この限界説の論拠として説かれている理由で重要なものは、次の二つである。 (一) 権力の段階構造 民主主義に基づく憲法は、国民の憲法制定権力(制憲権)によって制定される法である。 この制憲権は、憲法の外にあって憲法を作る力であるから、実定法上の権力ではない。 そこで、近代憲法では、法治主義や合理主義の思想の影響も受けて、制憲権を憲法典の中に取り込み、それを国民主権の原則として宣言するのが、だいたいの例となっている。 また、その思想は、憲法改正を決定する最終の権限を国民(有権者)に与える憲法改正手続規定にも、具体化されている(日本国憲法96条の定める国民投票制はその典型的な例である)。 憲法改正権が「制度化された憲法制定権力」とも呼ばれるのは、そのためである。 このように、改正権の生みの親は制憲権であるから、改正権が自己の存立の基盤とも言うべき制憲権の所在(国民主権)を変更することは、いわば自殺行為であって理論的には許されない、と言わなければならない。 (ニ) 人権の根本規範性 近代憲法は、本来、「人間は生まれながらにして自由であり、平等である」という自然権の思想を、国民に「憲法を作る力」(制憲権)が存するという考え方に基づいて、成文化した法である(第一章四2参照)。 この人権(自由の原理)と(一)にふれた国民主権(民主の原理)とが、ともに「個人の尊厳」の原理に支えられ不可分に結び合って共存の関係にあるのが、近代憲法の本質であり理念である(第三章一2参照)。 従って、憲法改正権は、このような憲法の中の「根本規範」とも言うべき人権宣言の基本原則を改変することは、許されない(前頁の図を参照)。 もっとも、基本原則が維持されるかぎり、個々の人権規定に補正を施すなど改正を加えることは、当然に認められる。 (三) 前文の趣旨 日本国憲法は、前文で、人権と国民主権を「人類普遍の原理」だとし、「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と宣言している。 これは、ただ政治的希望を表明したものではなく、以上のような、憲法改正に法的な限界があるという理論を確認し、改正権に対して注意を促す意味をもっている。 ドイツ連邦共和国憲法が、国民主権と人権の基本原則に影響を及ぼす改正は許されないと定め(79条)、フランス第五共和制憲法が、共和政体を改正することはできないと定めている(89条)のも、同じ趣旨である。 (四) 平和主義・憲法改正手続 改正権に限界があるとすると、国内の民主主義(人権と国民主権)と不可分に結び合って近代公法の進化を支配してきた原則と言われる国際平和の原理も、改正権の範囲外にあると考えなくてはならない。 もっとも、それは、戦力不保持を定める9条2項の改正まで理論上不可能である、ということを意味するわけではない(現在の国際情勢で軍隊の保有はただちに平和主義の否定につながらないから)、と解するのが通説である。 なお、憲法96条の定める憲法改正国民投票制は、国民の制憲権の思想を端的に具体化したものであり、これを廃止することは国民主権の原理を揺るがす意味をもつので、改正は許されないと一般に考えられている。 ◆4 憲法の変遷 憲法の保障にとってきわめて重要な問題は、憲法規範は改正されないのに、その本来の意味が国家権力による運用によって変化することである。 もっとも、憲法も変転する社会の動態の下で「生ける法」であるから、憲法規範の本来の意味に変化が起こり、その趣旨・目的を拡充させるような憲法現実が存在すること、これは当然の現象で、とくに問題とする必要はない。 問題は、規範に真正面から反するような現実が生起し、それが、一定の段階に達したとき、規範を改正したのと同じような法的効果を生ずると解することができるかどうか、《そういう意味の》「憲法の変遷」が認められるか、ということである。 これについては、 ① 一定の要件(継続・反復および国民の同意等)が充たされた場合には、違憲の憲法現実が法的性格を帯び、憲法規範を改廃する効力をもつと解する説と、 ② 違憲の憲法現実は、あくまでも事実にしかすぎず、法的性格をもち得ないと解する説 とが、厳しく対立している。 基本的には②説の立場をとりながら、《政治的な》ルール(これをイギリス法に倣って憲法の習律〔convention〕と言ってもよい)として国家機関(議会・内閣)を拘束する一種の弱い法的性格をもつことを認める考え方もある、 およそ、法が法としての効力をもつには、国民を拘束し、国民に遵守を要求する「拘束性」の要素と、現実に守られていなければならないとする「実効性」の要素が必要である。 憲法変遷を肯定する説のうち問題であるのは、実効性が失われた憲法規範はもはや法とは言えない、という立場をとるものである。 しかし、いかなる段階で実効性が消滅したと解することができるのか、その時点を適切に捉えることは容易ではない。 また、実効性が大きく気傷つけられ、現実に遵守されていなくとも、法として拘束性の要素は消滅しないと解することは可能であり、将来、国民の意識の変化によって、仮死の状態にあった憲法規定が息を吹きかえすことはあり得る。 ①説の理論を安易に肯定することはできない。 ■3.芦部憲法論の致命的欠陥 ▼1.芦部憲法論の依拠する法概念理解(半世紀前の法学パラダイム) ※図が見づらい場合⇒ こちら を参照 ※左記の他に実は、自然法または根本規範を認めず、憲法制定権力も認めない(特定時点の国民が保持するのはせいぜい「憲法典 constitutional code」(形式憲法)を制定ないし改廃する権力(つまり「国政 national policy」を決定する権力)であり、「国制 constitutional law」(国体法=実質憲法)を制定・改廃する権力ではない、とする見解もあり、そちらが妥当である。(→リベラル右派の「国民主権」論及び保守主義の「国民主権」批判 参照。この場合「国制」(実質憲法)は過去から現代に至る世代を重ねた国民の長年のプラクティスの中から徐々に形成されるものと理解される。すなわち法の支配) ※図が見づらい場合⇒ こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) ▼2.ハートの法概念理解(現代の世界標準の法学パラダイム) ※サイズが画面に合わない場合は こちら 及び こちら をクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※上図について、詳細な解説は法と権利の本質に関する2つの考え方へ。 ▼3.(参考)長谷部恭男による芦部説の否定 自然法に基礎を置く根本規範・憲法制定権力が憲法典を授権する、とする芦部説は、その門下であり近年の左翼リベラル派の護憲論(憲法改正反対論)の中心的論者となっている長谷部恭男(東大法科大学院長)によってさえ以下のように明白に否定されている。 あえて憲法制定権力という概念を用いてこの問題-なぜわれわれは憲法を尊重すべきか-に答えようとするならば、より説得力のある途は、おそらく清宮四郎や芦部信喜がとった立場、つまり超実定的政治道徳たる根本規範によって拘束され、その授権を受けた憲法制定権力なるものを想定する途であろう。・・・(中略)・・・実定法体系を超える政治道徳に従い拘束されることによって正当化された憲法制定権力の行使の結果であるからこそ、現在の憲法典に従うべきことになる。しかし、そうであれば、むしろ憲法制定権力概念は無用の長物であって、直接に憲法典の道徳的妥当性、つまり超実定的政治道徳との整合性を論ずれば足りるのではないだろうか。憲法制定権力概念そのものには憲法典を正当化する力はなく、すべての正当化の力がその背後にある政治道徳に求められるのであれば、やはり憲法制定権力を持ち出す必要はないように思われる。それは不要な剰余ではないか。 憲法制定権力は、世界の存在を証明するために措定された人格神と同等の概念である。世界を創造する神という概念による世界の存在証明が筋の通ったものではありえないのと同様-(中略)-憲法制定権力は憲法の存在と妥当性について筋の通った説明を与えることはできない。 ※長谷部恭男『 憲法の境界 』p.11およびp.22より抜粋 ■4.参考図書 『法学 (ヒューマニティーズ) 』 (中山竜一:著 (2009年))《目次》1. 法学はどのようにして生まれたか(なぜ法の歴史について学ぶ必要があるのか (西洋法の歴史 ほか)2. 生きられる空間を創る―法学はどんな意味で社会の役に立つのか(法に期待される役割と背景にある思想 (活動促進と紛争解決―民事法の役割 ほか)3. 制度知の担い手となる―法学を学ぶ意味とは何か(法学を学ぶ意味とは? (法的思考のいくつかの特徴―哲学との対比 ほか)4. 法学はいかにして新たな現実を創り出すのか―法学と未来 (法的思考で現実は変えられるか、難事案をどのように判断するか(一)―ドゥオーキンの構成的解釈 ほか)5. 法学を学ぶために何を読むべきか (BOOK GUIDE) ドイツ系(大陸系)哲学をベースにした従来の観念論的な「法哲学」ではなく20世紀後半以降に大発展した英米系分析哲学をベースとする「法理学」への扉を開く一冊。左右の全体主義に陥らない法学基礎理論の第一歩として非常にお勧め。なお、これとの対比で従来型の特定の観念・思想ゴリオシ型の「法哲学」の教科書として、笹倉秀夫『 法哲学講義 』を挙げておくので、興味のある人はこの両者の法理論を比較してみられるとよい。(笹倉秀夫氏は丸山眞男の弟子で、同書も強度の左翼思想と自虐的史観に満ちており、現在の目で見ると明らかに特定思想のゴリオシが目立ち失笑ものである) 『二十世紀の法思想』 (中山竜一:著 (2000年))《目次》第1章 20世紀法理論の出発点―ケルゼンの純粋法学第2章 法理論における言語論的転回―ハートの『法の概念』補論 ハート理論における「法と道徳」第3章 解釈的実践としての法―ドゥオーキンの解釈的アプローチ第4章 ポストモダン法学―批判法学とシステム理論補論 脱構築と正義―デリダ「法の力」第5章 むすび 『法学(ヒューマニティーズ)』と併せて読んで欲しい。20世紀後半に起こった、ケルゼンに代表されるドイツ系(大陸哲学系)法学から、ハートに代表される英米系(分析哲学系)法学へのパラダイム・シフト(法理論における言語論的転回)に焦点を当てた好著。なお20世紀哲学の最大事件「言語論的転回」については 『分析哲学講義』(青山拓央:著) が分かり易い。 『自由の条件』(全3巻) (F.A.ハイエク著(1960))《目次》第一部 自由の価値第二部 自由と法第三部 福祉国家における自由 自由主義の真髄を解き明かしてM.サッチャー(英元首相)のバイブルといわれた名著であり、自由と法の関係についてきちんとした知識を持つ上で必読の3巻本。続編の『 法と立法と自由 』も3巻本で、一冊一冊が高価だが、図書館などで見つけて目を通して欲しい。論旨明快なため、内容はさほど難しくないはず。 『法の概念』 (H.L.A.ハート著(1961年)) 20世紀後半の法理論に大転回をもたらした記念碑的な一冊であり、現在の法を学ぶ者は避けては通れない名著。しかし一般向けにも興味深いテーマを多く扱っており、また用語も難解でないので読みやすい。法学徒は必読だろうが、そうでない普通の人にもオススメできる。《以下概要》本書では、まず「法は威嚇による命令である」という説を批判する。その上で、法を第一次的ルールと第二次的ルールとに分ける。第一次的ルールとは、制裁をもってして何らかの行動を強制するものである。第二私的ルールとは、法として有効である権能を与える(契約・立法・裁判など)ものである。法は不確定性をともなうので、法の周縁部においては常に解釈がともなう。他。 ■5.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... 以下は最新コメント表示 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/pandmonium0/pages/19.html
名前*夜交満月 フリガナ*ヨマゼ ミツキ 本名*ローザリンデ・フォルモント・ナハトケーニヒ 性別*女 年齢*外見10歳~12歳 一人称*我 能力*不規則な権力《マハト・ウン・レーゲルメースィヒ》 一言で言い表すと森羅万象を統べる能力 ただし今は不規則な権力の力は制限されており「モノを生み出し、その創ったモノを操る」力しか使えない。 どんなに強い「権力」も、完全体となった彼女の前にはそこらへんに落ちているホコリに等しい。 また、彼女は人間ではないので副作用はない。 容姿*先がピンクの白銀の腰まである髪をツインテールにしていて、金の瞳。頭には黒い兎っぽい帽子。そして黒と白が使われたゴスロリのような服。 性格*高飛車なところがありプライドが高い。 備考*まぁ、化け物の類い。夜交がうっかり呼び起こしてしまった子。本来の姿は成人女性だが、色々と不便なので少女の姿をとっている。 名前にもある通り「夜の王」。不死力と身体能力が高い。
https://w.atwiki.jp/hymm01/pages/104.html
/ズウィーグ ※アルファ律(EOLIA属) [名詞] 1.権力, 権限 2.1から転じて(権力の)奪い合い, 諍い [EXEC_CHRONICLE_KEY/.] 『Z』の一覧へ
https://w.atwiki.jp/sengokusaga-mixi/pages/510.html
水[七宝行者]果心居士 (ハイレア) 水[七宝行者]果心居士+ (ハイレア) 水[七宝行者]果心居士++ (ハイレア) 水[幻術無双]果心居士 (Sレア) imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 攻3010 防2250 戦力21 攻3612 防2700 戦力21 攻4214 防3150 戦力21 攻5418 防4050 戦力21 スキル:幻術外法効果:自分の攻撃 大アップ -権力者達を弄ぶ幻術士-「ワシの幻術が見たいか?フフフ…見せてもよいが、精神力が耐えられるかの。ワシの幻術は心を蝕むでな。それでもよいのか?」 -権力者達を弄ぶ幻術士-「ワシの幻術が見たいか?フフフ、まだ気づかぬか?周りの景色がおかしくはないか?今、お前の心はワシに侵されておるのじゃ」 -権力者達を弄ぶ幻術士-「ワシの幻術が見たいか?フフフ…お主、なかなかやるな。ここまで正常でいた奴は珍しい。ならば、別の幻術を見せてやろう」 -権力者達を弄ぶ幻術士-「気を引き締めた方がいいぞ。フフフ、どうじゃ?ワシの姿が変わってきたであろう?もうお前の目には、幻しか映らぬよ…」 売却価格 貫 売却価格 貫 売却価格 貫 売却価格 貫 . ← 戻る → [不可欠なる女傑]丹羽長秀
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/340.html
<目次> ■1.LEC『C-Book 憲法Ⅰ(総論・人権)』の紹介 ■2.第一編 憲法総論 ■3.ご意見、情報提供 ■1.LEC『C-Book 憲法Ⅰ(総論・人権)』の紹介 『C-Book 憲法Ⅰ(総論・人権)』 (東京リーガルマインド:著 (2011年)) 法律系資格の大手専門校のテキスト。芦部信喜説をベースとしつつ、佐藤幸治説その他の諸説を効率良くまとめており、現代日本の憲法論を概観する上で時間の節約になって大変便利だが、内容が、左翼~リベラル左派~せいぜい中間派に偏っている。保守主義の憲法論とまでいかなくとも、せめてリベラル右派(阪本昌成氏)の憲法論までは併記して欲しかった。(※参考ページ:政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価)。 ■2.第一編 憲法総論 LEC『C-Book 憲法Ⅰ(総論・人権)(第3版)』(2011年刊) p.3~ ※上図は基本的に芦部信喜説(通説)に基づく憲法構造の理解だが、何故13条が根本原理とされるのか根拠不明であり、 芦部説に対する批判 がそのまま当てはまる。 第一編 憲法総論 <目次> ■1.憲法の意義と立憲主義の展開◆1-1 憲法の意義◇一 憲法の意味1 はじめに(1) 憲法の必要性 (2) 憲法の意義 2 憲法と国家 3 立憲的意味の憲法と固有の意味の憲法 4 実質的意味の憲法と形式的意味の憲法 ◇ニ 憲法の法源1 成文法源 2 不文法源 ◇三 憲法の分類 ◇四 憲法規範の特質1 授権規範性 2 制限規範性 3 最高法規性 4 基本価値秩序としての憲法 ◆1-2 憲法の生成と立憲主義の展開 ■2. 憲法の基本原理◆2-1 基本原理 ◆◆2-1-1 根本価値としての個人の尊厳 ◆◆2-1-2 憲法原理◇一 五つの憲法原理の相互関係 ◇ニ 自由主義 ◇三 民主主義 ◇四 平等主義 ◇五 福祉主義 ◇六 平和主義 ◆◆2-2 法の支配◇一 法治主義1.はじめに 2.分類 3.法律の留保 ◇二 法の支配1.はじめに 2.法の支配の内容 3.日本国憲法における法の支配の現れ ◇三 「法の支配」と「法治主義」1.「法の支配」と「法治主義」 2.憲法適合性の判断権者 ■3. 憲法の持続と変動◆3-1 憲法の変動 ◆◆3-1-1 憲法改正◇一 憲法改正1 意義 2 改正の手続 3 形式的効力 4 国民投票無効の訴訟 ◇ニ 憲法改正の限界《問題の所在》 《考え方の筋道》 《アドヴァンス》 《One Point》 ◆◆3-1-2 憲法の変遷◇1 意義 ◇2 憲法の変遷の概念 ◇3 解釈学的意味での憲法の変遷の肯否 ◆3-2 憲法保障 ■4. 日本国憲法の成立過程◆4-1 日本国憲法の制定◇一 憲法制定行為の問題《問題の所在》 《考え方の筋道》 《アドヴァンス》 《One Point》 ◇二 日本国憲法の成立と展開 ◆4-2 日本国憲法の構造 ■5. 国民主権の原理◆5-1 国民主権◇一 主権の意味 ◇ニ 国民主権の意味《問題の所在》 《考え方の筋道》 《アドヴァンス》 《One Point》 《How To》 ◆5-2 天皇制 ■1.憲法の意義と立憲主義の展開 ◆1-1 憲法の意義 ◇一 憲法の意味 1 はじめに (1) 憲法の必要性 なぜ憲法は必要なのか ↓ 権力には常に濫用の危険が伴う ↓ 権力が濫用されると、人の権利や自由を侵害してしまう ↓ そこで 国家権力の濫用を抑制し国民の権利・自由を守る基本法が必要となる ↓ 憲法によって国家権力自体を制限していく (2) 憲法の意義 憲法とは国家権力の濫用を抑制し、国民の権利・自由を守る基本法をいう。近代憲法の本質は「個人の人格」に着目する。すなわち、憲法の考え方は「一人一人の個人の人格を尊重し大切にする」ということを基点として展開する。 → 国家権力に対する個人の自律的領域(近代立憲主義の特徴)の確立のため、国家権力の抑制手段として憲法は生まれた。 2 憲法と国家 国家とは、一定の限定された地域(領土)を基礎として、その地域に定住する人間が、強制力を持つ統治権のもとに法的に組織されるようになった社会をいう。すなわち、国家は、①領土、②二人以上の人、③主権 の三要素によって構成される。 このような三要素によって構成された国家を基礎付ける基本法が憲法である。したがって、古来より、人の集まりである社会(国家)が存在すれば、そこに憲法があるということができる。 3 立憲的意味の憲法と固有の意味の憲法 (1) 立憲的意味の憲法(近代的意味の憲法) 古来より国家あるところ憲法があるが、ここにいう立憲的意味の憲法は、特殊歴史的存在であって、次のような特色を有する憲法である。すなわち、立憲的意味の憲法とは、権力を制限することにより自由を保障しようという考えを基本理念とし、絶対王制における国王の権力を制限し、国民の自由を守ることを目的とする憲法をいう。 ここでの憲法は、 第一に、 自由権の保障を宣言し、 第二に、 権力の制限を可能とする統治機構として権力分立を採用すること を要求された。 かかる意味において、1789年のフランス人権宣言16条が、「権利の保障が確保されず、権力分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と規定しているのは、立憲的意味での憲法の観念を典型的に表現したものといえる。 (2) 固有の意味の憲法 固有の意味の憲法とは、国家の統治の基本を定めた法としての憲法である。この意味の憲法はいかなる時代のいかなる国家にも存在する。 4 実質的意味の憲法と形式的意味の憲法 (1) 実質的意味の憲法 実質的意味の憲法とは、憲法がどのような形態をとって存在しているか(成文か不文か、憲法典の形をとっているか)とは関係なく、その内容に着目して理解した場合の憲法概念をいう。上記3で述べた立憲的意味の憲法と固有の意味の憲法の区別は、憲法の内容に着目しており、実質的意味の憲法についての区別である。 (2) 形式的意味の憲法 形式的意味の憲法とは、憲法という「法形式」をとって存在している憲法をいう。憲法の存在「形式」に着目した憲法概念である。 (3) 立憲的意味の憲法と実質的意味の憲法 立憲的意味の憲法は、通常、憲法という法形式で存在する。しかし、実質的意味での憲法に含まれる規範(人権及び権力の基本概念)でありながら、憲法上の法形式として定められていないものもある(選挙法が定める選挙制度に関する諸規定や政党法に関する諸規定)。逆に、憲法上の法形式で定められているが、内容的には憲法(基本的な人権や権力の基本構造)とはいえないような規定も存在する(典型的には、スイス憲法旧25条の2「出血前に麻痺せしめずに動物を殺すことは一切の動物の殺戮方法および一切の種類の家畜について例外なくこれを禁止する」という規定など)。 ◇ニ 憲法の法源 法源(Source of Law)とは、かなり多義的に使われるが、法解釈で使われる法源は法の認識根拠、存立形態をいい、具体的には裁判官が判決理由で援用して裁判の理由と為し得る法形式を意味する。 日本国憲法が明示的に認めている法源としては、憲法改正、条約、法律、議院規則、最高裁判所規則、命令、政令、条例がある。 法源のなかで、憲法規範の存在形式を有するものが憲法の法源である。 憲法の法源とは、実質的意味の憲法の規範が存在する様々な法形式をいう。 1 成文法源 実質的意味の憲法が成文化されるときは、まず、憲法という形式で行われるのが通常であるが、すべてを規定し尽くすということは殆ど不可能なので、憲法典では原則的なことのみを決め、より具体的な定めは他の法形式に委ねるのが通常である。 日本国憲法の成文法源として以下のものが挙げられる。 ① 条約 (平和条約、日米安全保障条約、国際連合憲章、経済的・社会的及び文化的権利に関する国際規約、市民的及び政治的権利に関する国際規約、女子差別撤廃条約、児童の権利に関する条約、等) ② 法律 (皇室典範、皇室経済法、国事行為の臨時代行に関する法律、国籍法、請願法、人身保護法、教育基本法、国会法、公職選挙法、内閣法、国家行政組織法、国家公務員法、裁判所法、検察庁法、恩赦法、財政法、会計法、会計検査院法、等) ③ 議院規則 (衆議院規則、参議院規則) ④ 最高裁判所規則 ⑤ 条例 (公安条例、青少年保護条例、等) 2 不文法源 一般に不文法源としては慣習法と判例が問題となるが、憲法についても憲法慣習(法)と憲法判例が問題となる。 (1) 憲法慣習 イギリスのような不文法国といわれる国では憲法の重要な部分が長い間の慣行を通じて慣習法として形成されてきた。このように慣習法の形で存在する憲法を慣習憲法という。 これに対し、成文法国における実質的意味の憲法は、形式的意味の憲法以下の諸形式で定められているので、慣習憲法は存在しない。しかし、成文法国においても、憲法慣習法が問題となる場合がある。たとえば、具体的な行為を一義に命ずる法規定がないまま特定の具体的な行為が長期に繰り返され、その後の先例や慣行となり、さらにその慣習化した先例・慣行に法的価値を承認する広範な国民の合意が形成された場合、その憲法に関する先例は法的性格を獲得し、憲法慣習(法)となるといわれている。 (2) 憲法判例 憲法判例とは、ある法や行為が合憲か違憲か、また、それは如何なる理由によってかという憲法問題についての判例である。 我が国の違憲審査権は解釈上付随的審査権であるので、憲法判断は原則として判決の主文中にはあらわれず、主文を根拠づける理由中に示されるに過ぎない。憲法判例とは、憲法問題についての判断を内容としている判決理由をいい、合憲・違憲の判断及びその理由からなる。 判例に、法源性、法的性格を認め得るかについて議論があるが、我が国では、判例の先例拘束性は憲法上も法律上も認められていない(ただし、事実上の拘束力を有する)。 ◇三 憲法の分類 1 成文憲法と不文憲法 憲法典が存在するかしないかを基準とする分類。立憲的意味の憲法は、通常、成文憲法として存在するが、イギリスは成文憲法をもたない。(*) もっとも、イギリスの憲法が、すべて慣習法として存在するというのではなく、その多くの部分を成文の法律として定めている。単に成文の憲法典が存在しないというだけである。 2 硬性憲法と軟性憲法 憲法改正の手続が通常の立法手続と同じ(軟性憲法)なのか、それともより困難な手続が定められている(硬性憲法)かを基準とする分類。 3 欽定憲法と民定憲法 憲法の制定主体が誰かによる分類。君主が制定して国民に授けたという形をとっている場合が欽定憲法であり、国民が制定したという形うぃとっている場合が民定憲法である。 4 近代型憲法と現代型憲法 憲法の内容をその依拠する基本思想に着目した分類。近代憲法は近代立憲主義の諸原理を基礎としているのに対し、現代憲法はそれらの諸原理とともに多かれ少なかれそれを修正した原理も基盤としている。 ◇四 憲法規範の特質 1 授権規範性 【国法秩序の段階構造】 (国民) → 憲法 -(授権・制限)→ 法律〔国会〕 -(授権)→ 命令〔内閣〕 -(制限)→ 国民の権利 国民自身が憲法をつくり、国民の権利を制限する作用を下位の法規範に授権する。 ↓ しかし 国家権力を制限できる法としての憲法である以上、全く無制限な授権をするわけにはいかない。 ↓ 権力の濫用を防止し、人権保障を図るべく憲法による枠づけが必要 ↓ そこで 2 制限規範性 ↓ そしてこの制限規範性を実効的なものにするには 3 最高法規性 憲法に反する法律などは効力を有しない(98Ⅰ)なぜ97条が最高法規の章の冒頭に存在するのか ↓ 人権の本質・重要性(97) ↓ 憲法はこの人権を保障している(第三章) ↓ よって 憲法は最高法規である(98Ⅰ) ↓ そのために 国家権力の行使を担当する公務員に憲法尊重擁護義務を課す(99) 4 基本価値秩序としての憲法 憲法は価値に満ちたものである。しかも、その価値は人類の理想と時代の思潮を体現したものである。従って、憲法は価値中立的に統治システムを定めるものではなく、立憲時の政府が実現すべき、あるいは、自らを支える基本価値の選択が宣言されている。たとえば、立憲主義の憲法の基本価値は、「個人の尊厳」であり、権力の分立である。ここにおいて、さまざまな人権保障が具体化され、この人権を保障する手段として権力構造が制度化されている。 ◆1-2 憲法の生成と立憲主義の展開 (省略) ■2. 憲法の基本原理 ◆2-1 基本原理 ◆◆2-1-1 根本価値としての個人の尊厳 近代憲法の本質は「個人」に着目する点にある ↓ 憲法は、「一人ひとりを個人として尊重する」という考え方を基礎にしている(個人の尊厳、13) ◆◆2-1-2 憲法原理 ◇一 五つの憲法原理の相互関係 13条の「個人の尊厳」を出発点とする。国民に自由・平等・福祉の価値を実現することを目的として、そのための手段として民主主義・平和主義を保障する。そして、このような統治体系を制度的に維持・発展させるために「権力分立」・「法の支配」の原理が基底に置かれている。 ◇ニ 自由主義 (省略) ◇三 民主主義 (省略) ◇四 平等主義 (省略) ◇五 福祉主義 (省略) ◇六 平和主義 (省略) ◆◆2-2 法の支配 ◇一 法治主義 1.はじめに 定義:司法は独立した裁判所により法律を適用して行われ、行政は法律に基づき法律を適用して行われるという原則 → 大陸法系の国で発達 → 国民の権利・自由の保障を目的にしているという点では法の支配と共通 2.分類 (1) 本来的意味の法治主義(19世紀のフランス) 国民の権利を奪い、義務を課す場合には法律上の根拠が必要(法律による行政・裁判)→権力分立を前提とする (2) 形式的法治主義(第二次世界大戦前のドイツ・日本) 行政権は法律に基づかなければ国民の権利を制限することはできない=法律によれば国民の権利を自由に制限できる ① 法律の内容は問わない ② 行政が法律に適合しているか否かの判断は行政権の一種である行政裁判所が行う (3) 実質的法治主義(現在のドイツ・フランス) 行政権・司法権のみならず立法権も憲法(最高法規)に拘束される=法律の内容は憲法に違反してはならない(正しいものでなければならない)→内容の適正は裁判所が判断する 3.法律の留保 (1) 本来的意味 行政権は国民代表議会の立法権に基づく法律に基づかなければ国民の権利を制限することはできない (2) 形式的意味 立法権は、法律によりさえすれば国民の権利・自由を制限することができる ◇二 法の支配 1.はじめに 定義:すべての国家権力が正しい法に拘束されるという原則 ← 人の支配 → 正しい法(正義の法)に基く支配(法の内容を問題にする) → 国民の権利、自由を保障することが目的 → 英米法系(イギリス、アメリカ)の国々で発達 2.法の支配の内容 (1) 個人の人権保障 法の支配を採用した目的が国家権力の権限濫用から国民を守り、個人の尊厳を確保することにあるから。 (2) 憲法の最高法規性の承認(憲法は行政権のみならず立法権をも拘束する) ∵(何故ならば)仮に憲法に優先する法が認められるならば憲法による支配を行うことが出来ないから (3) 手続の適正を要求する(適正手続 = due process of law) (4) 裁判所の役割の重視(最高法規性の担保) → 行政が法律に従っているか否かを裁判所がチェック(イギリス・アメリカ) → 議会が正しい法(憲法)に従っているか ① 議会自らがチェック → イギリス ② 裁判所がチェック → アメリカ(法の支配をより徹底している) 3.日本国憲法における法の支配の現れ 「正しい法 = 憲法」によって「法の支配 = 憲法による支配」 (1) 第三章「国民の権利及び義務」 国政における人権の尊重とその強度の保障は、「法の支配」の核心である (a) 国家権力の行使を抑制する機能を持つ個人の自由権を中心におく人権規定の構造は、自由主義を前提とした「法の支配」の理念の存在を示す (b) 人権保障規定は、「法律の留保」を認めず、また立法権をも拘束する(13) (2) 81条(違憲立法審査権)、第十章「最高法規」 (a) 81条(違憲立法審査権) 法の支配の最も徹底した表現。アメリカ判例法の明文化。 (b) 97条(基本的人権の本質) 「法の支配」の核心→人権保障(基本的人権の永久性・不可侵性)の確認→実質的最高法規性。個人の権利と自由が公権力により侵害されたときには憲法の基礎が崩壊することを示す (c) 98条1項(形式的最高法規性) →現行憲法が実質的最高法規であること(97)によって根拠づけられる。憲法に反するすべての国家行為を無効とし、権力作用がすべて憲法に従うべきことを示す→法優位の思想を基礎とする (d) 99条(憲法尊重擁護義務) 「法の支配」の理念の一つ→国家権力の行使者が憲法に従うべき義務をもつこと→法の支配の名宛人は、権力行使者=統治者であることを示す (3) 31条(法定手続保障) (a) 規制が適正な手続のもと行われること、特に司法手続としての刑事手続が適正であること(現代においては行政手続にも適正手続の保障が及ぼされるべきである) (b) 法の規制の実体が適正であるという法の内容の適正も憲法上の要請となる (4) 第六章「司法」 (a) 司法権は、民事・刑事の裁判の他、行政事件を含むあらゆる種類の法律上の争訟を裁判する権限をもつ(76Ⅰ・裁判所3Ⅰ) (b) 特別裁判所の禁止、行政機関による終審裁判の禁止(76Ⅱ) (c) 裁判所の規則制定権(77)、裁判官の懲戒処分に立法・行政機関が関与しない(78)、下級裁判所裁判官の指名権(80Ⅰ) ◇三 「法の支配」と「法治主義」 1.「法の支配」と「法治主義」 【法治主義とその限界】 「法治主義」 本来、国民の権利・自由の保障を目的とする←(自由主義)←法律による行政と、法律による裁判←国民主権(民主主義) ↓しかし、形式化の危険を内包していた。すなわち、法律によって国民の権利・自由を制限する危険性を持つ (原因) ① 法律の内容の適正について議会が自ら判断した ② 民主主義の未成熟→議会は必ずしも国民の意思を正しく反映するものではなかった ↓これに対して 法の支配 ① 立法権も最高法規としての憲法に拘束される ② 法の内容の適正が要求される ③ 内容の適正については裁判所が判断 (*)実質的法治主義は法の支配(現在の日本)と裁判所の位置づけが違うだけである。法の支配においては憲法適合性を通常の司法裁判所が判断し、実質的法治主義においては司法裁判所以外の特別裁判所(憲法裁判所)が判断する 【法治主義と法の支配の違い】 大陸法系(仏・独) イギリス アメリカ 社会的背景 議会への信頼裁判所への不信 議会への信頼裁判所への信頼 議会への不信裁判所への信頼 近代において法は誰を拘束するか 行政権・司法権を拘束=法の内容の適正は不問=形式的法治主義 行政権のみならず議会も拘束=法の内容の適正を要求=法の支配 行政権のみならず議会も拘束=法の内容の適正を要求=法の支配 現代において法の適正性を誰が判断するのか 仏 - 憲法院独 - 憲法裁判所 行政権に対しては→裁判所立法権に対しては→議会自身=法の支配という点ではやや不徹底 行政権に対しては→裁判所立法権に対しては→裁判所=違憲立法審査権(法の支配の徹底) 2.憲法適合性の判断権者 ① 議会中心主義の国々 → 議会が判断 ② アメリカ他現在の多くの国々 → 裁判所が判断 最高法規たる憲法の担い手が裁判所に移ってきた ↓ 裁判所において憲法違反を主張して争えるようになってきた ↓ 憲法が裁判所における裁判の基準(規範)になる ↓すなわち 憲法は「裁判規範性」を原則としてもつようになった 【憲法保障の全体構造】 法律の憲法適合性を問題にするか 問題にしない 近代のフランス・ドイツ 形式的法治主義 問題にする 議会が判断 イギリス 裁判所以外の機関が判断 現在のフランス 裁判所が判断 司法裁判所 アメリカ、日本 ←私権保障型 憲法裁判所(特別裁判所) 現在のドイツ・オーストリア・イタリア ←憲法保障型 ■3. 憲法の持続と変動 ◆3-1 憲法の変動 ◆◆3-1-1 憲法改正 ◇一 憲法改正 1 意義 憲法改正とは、 ① 憲法所定の手続に従い、憲法典中の個別的条項につき、削除・修正・追加を行うことにより、または、 ② 新たなる条項を加えて憲法典を増補することにより、 意識的・形式的に憲法の改変をなすことをいう。 2 改正の手続 (省略) 3 形式的効力 (省略) 4 国民投票無効の訴訟 (省略) ◇ニ 憲法改正の限界 《問題の所在》 憲法改正の手続に従えば、いかなる内容の改正を行うことも法的に許されるか。憲法改正に法理論的に限界があるかが問題となる。なお、改正手続に従いさえすれば、事実上いかなる内容の改正もできるが、それは政治的問題であり、ここでの問題ではない。 《考え方の筋道》 Step① 民主主義に基づく憲法は、国民の憲法制定権力によって制定される ↓ そして Step② 憲法改正権は、かかる制憲権が憲法典のなかに取り込まれ、制度化されたもの ↓ とすれば Step③ 改正権が自己の存立の基盤である制憲権の所在(国民主権)を変更することは理論的に許されないというべき ↓ また Step④ 近代立憲主義憲法は、人権保障という自然権に由来する思想を成文化したものであり、かかる自由の原理は、民主の原理たる国民主権と不可分に結び合っている ↓ したがって Step⑤ 改正権が、そのような憲法のなかの「根本規範」というべき人権宣言の基本原則を改変することは理論的に許されないというべき 《アドヴァンス》 A 無限界説 a-1 法実証主義的無限界説(佐々木、美濃部) 法規は規律する社会の事情を基礎として存在するものである以上、社会的な事情の変動により、法規が変更されるのは当然であると捉える。憲法の価値的序列を認めず、自然法的な規範も他の憲法規範と同列になるため、すべての規定が改正の対象になる。また、たとえ改正禁止条項があったとしても、それ自体を改めることが出来るとする。 a-2 主権全能論的無限界説 改正権を全能の制憲権と同視する立場であり、改正権は、憲法の外に存在し実定法的拘束を受けない制憲権と同じであるから、何らの制約を受けることはないとする。その学説の一つは、制憲権は始源的であり無制約であるが、制度化された制憲権である改正権はそれとは異なり憲法の定める手続に従わなければならないとする。すなわち、改正権は実質上は制憲権、形式上は憲法によって作られた権力であると捉え、改正手続を遵守する限り改正の対象は無限界であるとする。 B 限界説(通説) b-1 法理論的・憲法内在的限界説 改正権は憲法によって作られた権力なので、制憲権の所在(主権規定)やその所産たる基本原理の変更はできないとする立場。 b-2 自然法的限界説 制憲権も改正権も自然法のもとにあり、その拘束を受けるとする立場。 (*)芦部先生は、限界説に立つが、b-1、b-2のいずれかに割り切るわけではない。たとえば、制度化された制憲権たる改正権により、自己の存立の基盤というべき制憲権の所在、すなわち、制憲権が憲法内化された国民主権原理を変更することは、理論的に不可能であるとする。他方で、人権宣言の基本原則については、近代立憲主義憲法が自然権に由来する思想を成文化したものであり、かかる自由の原理は、民主の原理たる国民主権と不可分に結び合っている以上、改変することは理論的に許されないとする。 《One Point》 学説では、限界説が通説です。無限界説に立つ場合、もとの憲法の基本原理を変更することも法的に認められます。一方、限界説に立つ場合、それは法的には許されず、憲法の廃止と新憲法の制定という、法を超えた政治的事件ということになります。なお、改正の限界としては、①国民主権原理(国民主権原理と密接不可分の関係にある憲法改正国民投票制)・②基本的人権尊重の原理・③平和主義が挙げられます。 ◆◆3-1-2 憲法の変遷 ◇1 意義 憲法の変遷とは、一般には、憲法の定める憲法改正の手続を経ることなしに、憲法を改正したのと同じ効果が生じることをいう。 ◇2 憲法の変遷の概念 (1) 社会学的意味での憲法の変遷 憲法成文の規範内容と現実の憲法状態との間に「ずれ」が生じているという客観的事実をいう。 (2) 解釈学的意味での憲法の変遷 憲法成文の規範内容と現実の憲法状態との間の「ずれ」を前提としたうえで、元の規範内容に代わって新しい憲法規範が成立していることを認めることをいう。 ◇3 解釈学的意味での憲法の変遷の肯否 社会学的意味での憲法の変遷という現象が存在することについては争いはないが、解釈学的意味での憲法変遷を認めるかどうかにつき争いがある。 (1) 肯定説(橋本公亘) 一定の要件(継続・反復及び国民の同意等)が満たされた場合には、違憲の憲法現実が法的性格を帯び、憲法規範を改廃する効力をもつと解する。 (理由) ある憲法規範が国民の信頼を失って実際に守られなくなった場合には、それはもはや法とはいえない。 (批判) ①肯定説のうち、実効性が失われた憲法規範はもはや法とはいえないとする立場をとると、如何なる段階で実効性が消滅したと解することができるのか、その時点を適切に捉えることは容易ではない。②実効性が大きく傷つけられ、現実に遵守されていなくとも、法として拘束力の要素は消滅しないと解することは可能であり、将来、国民の意識の変化によって、仮死の状態にあった憲法規範が息を吹き返すことはあり得る。 (2) 否定説(橋口、佐藤(幸)等多数説) (理由) 硬性憲法のもとでは、憲法改正の国民の意思は、憲法改正手続及び、そこでお国民投票によってのみ示されるべきである。 ◆3-2 憲法保障 (省略) ■4. 日本国憲法の成立過程 ◆4-1 日本国憲法の制定 ◇一 憲法制定行為の問題 《問題の所在》 1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」としている。一方、日本国憲法の上諭は「帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」としている。この改正は君主(天皇)主権の憲法を国民主権の憲法に変革するものであり、改正の限界を超えると考えられる(憲法改正限界説)。そこで、この主権者の変更という事態をどのように説明するかが問題となる。 《考え方の筋道》 Step① 主権者の変更はもはや改正の限界を超えており、許されない(憲法改正限界説) ↓ とすると Step② 結局、新旧憲法に連続性がないことになってしまう(同一性なし) ↓ そこで Step③ 法的革命があったと考える(八月革命説) ↓ すなわち Step④ 法的革命によって主権者が変更した → ポツダム宣言を受諾したときに(1945.8.15)、明治憲法の体制は崩れ去り、主権者は天皇から国民に移った。それにもかからわず明治憲法の改正という手続をとったのは革命行為を秩序と平穏のうちに成し遂げるためであった 《アドヴァンス》 A 憲法改正限界説を背景とした説 a-1 無効説 明治憲法73条の憲法改正という形式をとる日本国憲法は、明治憲法の根本建前である天皇主権主義を否定して国民主権主義を採用しているが、これは改正の限界を超えるもので許されない。従って、日本国憲法には正当性の根拠がない。 a-2 有効説 (ア) 八月革命説(宮沢) 国民主権主義をとることを要求しているポツダム宣言を受諾した段階で、明治憲法の天皇主権は否定されるとともに国民主権が成立し、日本の政治体制の根本原理となった。→ ポツダム宣言の受諾によって法的に一種の革命があったと考えて、日本国憲法が明治憲法の改正という形式で明治憲法が容認しない国民主権主義を定めたことの正当性を基礎づける→ 明治憲法73条による改正という手続をとったのは、明治憲法との形式的連続性をもたせることが実際上便宜的であったことによる(秩序と平穏のうちに革命行為を成し遂げるために明治憲法73条が便宜上借用された) (イ) 新憲法制定説(佐藤(幸)) ポツダム宣言受諾により、日本は同宣言の内容を履行すべき法的義務を課された。そして、受諾後も明治憲法秩序は存続しているため、天皇は同宣言を履行する趣旨から憲法所定の手続に従って改正案を帝国議会に提出したのである。その内容は改正の限界を超えるものであったが、審議過程で日本国憲法を制定するという主権者たる国民の意思が議会を通じてあらわれたと考える→ この見解も一定の政治的配慮から明治憲法所定の手続の形式を借用したと考える B 憲法改正無限界説を背景とした説 b-1 有効説(佐々木) 憲法の改正には法的な限界は存在しない。従って、天皇主権から国民主権へと主権の所在を変更する改正も許される。明治憲法73条の改正として制定された日本国憲法は明治憲法との連続性がある。 b-2 無効説 (ア) 押しつけ憲法論 占領軍の威力を背景にマッカーサー元帥によって強要された日本国憲法は、憲法の自律性を認める国際法にも違反し、国民の自由な意思の発動ではなく、無効または占領終結により失効されるべきである。 (批判)当時の政府の指導者には総司令部(GHQ)の態度が単なる警告以上のものとして映ったことは推測されるものの、そうしたことも含めて諸事情を考慮し、日本政府の決断が為されたと解すべき。 (イ) ハーグ陸戦法規43条違反論 日本国憲法の制定は、外国軍の占領下に為されたものであり、占領軍の被占領国の法令の尊重を定めるハーグ陸戦法規43条に違反し、無効である。 (批判)①ハーグ陸戦法規は戦時占領の際のものであるから、ポツダム宣言の受諾により休戦条約が成立している以上、適用されない。②日本国憲法は我が国自身によって制定されたのだから、ハーグ陸戦法規違反を理由い憲法の無効を帰結するのは無理である。 《One Point》 学説では、八月革命説が日本国憲法の生誕における法理上の問題点を無難に説明するものとして評価されています。 ◇二 日本国憲法の成立と展開 (省略) ◆4-2 日本国憲法の構造 (省略) ■5. 国民主権の原理 ◆5-1 国民主権 ◇一 主権の意味 ① 国家の統治権としての主権 統治権としての主権国家権力そのもの(国家の統治権)というときの主権 ex. 「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州、及ビ四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」(ポツダム宣言8項) ② 最高独立性としての主権 国家への主権の集中(最高独立性)というときの主権 ex. 「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(前文3段) ③ 国政の最終決定権としての主権 国家における主権の所在(国政の最終決定権)というときの主権 国の政治の在り方を最終的に決定する力または権威という意味であり、これが国民に存することを国民主権という。ex. 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(前文1段) ◇ニ 国民主権の意味 《問題の所在》 日本国憲法は、前文第1段で「主権が国民に存する」、1条で「主権の存する日本国民」と規定し、国政の最終決定権が国民に属するという国民主権原理を採用している。それでは、ここにいう「国民」を全国民と考えるべきか、それとも有権者の総体と考えるべきか。国民主権の原理において、国の政治の在り方を最終的に決定する権力を国民自身が行使するという権力的契機と、国家の権力行使を正当づける究極的な権威は国民に存するという正当性の契機をどのように考えるかという点と関連して問題となる。 《考え方の筋道》 Step① 憲法は個人の尊厳を確保するため、政治は国民の自律的意思による政治でなければならず、国政の最終決定権が国民に属するという国民主権原理を採用した(前文1段、1条) ↓ この点 Step② 主権者たる国民を有権者の全体と捉え、「主権」の本質を憲法制定権力であるとして、有権者としての国民が国政の在り方を直接かつ最終的に決定すること(権力的契機)が国民主権であると考える見解もある。 ↓ しかし Step③ それでは、独裁を許す危険があり、また、国民が主権者たる国民とそうでない国民とに二分され、治者と被治者の自同性に反し、妥当でない。 ↓ そこで Step④ 基本的には、国民主権とは、主権者たる国民は一切の自然人である国民の総体と捉え、国民主権とは全国民が国家権力の源泉であり、国家権力の正当性を基礎づける究極の根拠であると解する。 ↓ ただ Step⑤ 憲法改正権の存在(96条)等から、国民(有権者)が国の政治の在り方を直接かつ最終的に決定するという権力的契機も不可分に結合していると解すべきである(折衷説)。 ↓ Step⑥ 以上のように解すると、原則として国民は直接には権利行使をなしえないから、代表民主制の採用が必然となり、代表者たる議員は「全て」の国民の代表者となる(43条Ⅰ参照)。 《アドヴァンス》 A 有権者主体説 「国民」を有権者の総体と考える見解。 a-1 主権=憲法制定権とすることを根拠とする説(清宮) 主権を憲法制定権(力)、すなわち一定の資格を有する国民(選挙人団)の保持する権力(権能)とする。従って、憲法制定権の主体である国民には天皇を含まず、また権能を行使する能力のない、未成年者も除外されるとする。→権力的契機を重視するが、そこから導かれる具体的な制度上の帰結を示していない (批判)①全国民が主権を有する国民と主権を有しない国民とに二分されることになるが、主権を有しない国民の部分を認めることは民主主義の基本理念に背く。②選挙人の資格は法律で定めることとされているため(44)、国会が技術的その他の理由に基づいて年齢・住所要件・欠格事項等を法律で定めることによって主権を有する国民の範囲を決定することとなり、論理矛盾となる。③代表民主制を国政の原則とする前文の文言と、解釈上必ずしも適合的でない。 a-2 フランスの議論を採り入れる説(杉原) 日本国憲法は、リコール制を認めたと理解しうる15条1項や、95条、96条1項のように人民(プープル)主権に適合する規定もあるが、基本的な性格としては、43条1項や51条に示されているように国民(ナシオン)主権を基礎とする憲法である。しかし、憲法の歴史を踏まえた将来を展望する解釈が必要であるから、日本国憲法の解釈は人民(プープル)主権の論理に基いてなされなければならない。従って、国民の意思と代表者の意思を一致させるために、43条の国民代表の概念や51条の議員の免責特権の再検討が要請される。→権力的契機の重視とともに、そこから導かれる具体的な制度上の帰結を示している。 (批判)上記①から③の批判に加え、フランスの議論は必ずしも全ての国の憲法に法律的意味においてそのまま妥当する議論ではない、という批判がなされている。 B 全国民主体説(宮沢、橋本) 「国民」を、老若男女の区別や選挙権の有無を問わず、一切の自然人たる国民の総体をいうとする見解。→このような国民の総体は、現実に国家機関として活動することは不可能であるから、この説にいう国民主権は、天皇を除く国民全体が国家権力の源泉であり、国家権力の正当性を基礎づける究極の根拠だということを観念的に意味することに過ぎなくなる。 (批判)国民に主権が存するということが、建前に過ぎなくなり、国民主権と代表制とは不可分に結びつくが、憲法改正の国民投票(96)のような、直接民主制の制度について説明が困難になる。 C 折衷説(芦部) 「国民」を、有権者(選挙人団)及び全国民の両者として理解する見解。→「国民」=全国民である限りにおいて、主権は権力の正当性の究極の根拠を示す原理であるが、同時にその原理には、国民自身(≒有権者の総体)が主権の最終的な行使者(憲法改正の決定権者)だという権力的契機が不可分の形で結合しているとする(ただし、あくまでも正当性の契機が本質) 【ナシオン(Nation)主権とプープル(peuple)主権】 フランスの主権論 ナシオン主権 ⇔ プープル主権 憲法 1791年憲法 ⇔ 1793年憲法 主権者 Nation 仏 (= Nation 英 ) ⇔ Peuple 仏 (= People 英 ) 国民 観念的統一体としての国民 →具体的人間の集合体という意味はない ⇔ 具体的に把握しうる諸個人の集合体としての国民 権力行使 授権によってのみその権力を行使しうる →専ら代表制(代表者としての立法府と君主を指定) ⇔ 国民が直接権力行使を行う →直接民主制が徹底した形 授権の内容 代表者意思に先行するナシオン自身の意思なし ⇔ 代表機関の意思のほかにプープル自身の意思あり 契機 国家権力の正当性の根拠が国民に存する ⇔ 主権の権力契機が前面に出て、最高権力を行使するのはプープル 諸制度 制限選挙・自由委任 ⇔ 普通選挙・命令委任 歴史的意義 絶対王政を否定すると同時に市民革命がより貫徹されること抑圧す機能をもつ(現状維持的) ⇔ 市民革命の課題をより貫徹する勢力のシンボルとして機能(現状変革的) 《One Point》 学説では、折衷説が近時の通説であり、全国民主体説はかつての通説、有権者主体説は少数説です。なお、本論点は、憲法が明文で定めた場合(79Ⅱ、95、96)以外に国政において直接民主制の採用(ex. 一定の事項についての国民投票、有権者による衆議院解散請求の制度)が認められるかという論点と関連します。この点に関しては、フランスの議論をとり入れる説に立てば当然に肯定説につながりますが、それ以外の説からは論理必然的に帰結が導かれるものではありません。 《How To》 近時の通説である折衷説に立つのがよいでしょう。なお、折衷説を論じる際、論証が長くなりがちです。直接民主制の採用に関する問題等、本論点が前提として問われた場合には、コンパクトに論じることが必要でしょう。 ◆5-2 天皇制 (省略) ■3.ご意見、情報提供 名前 コメント ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/mobamasshare/pages/354.html
職業 アイドルヒーロー同盟プロデューサー/とある権力者の直属の部下 属性 見る限り怪しい人 能力 ??? 詳細説明 RISAの担当のプロデューサー。 スキンヘッドで、黒スーツで、サングラスをして、子供好きで、大男なために凄い怪しいが普通にいい人である。 だが、加蓮と梨沙の父親のとある権力者の直属の部下で、アイドルヒーロー同盟のプロデューサーになったのは梨沙の身近で実験報告をするためである。 だけど、両方の仕事も真面目にこなしてる為、悪い人ではないかも? なお、外人で、何処かの特殊部隊にいた経歴があるらしいが、プロデューサーになった時はその経歴を隠している。 梨沙の事も心配してる様子である。 腰にはクリーム色の人形がついていて喋れる。 どうやら、とある権力者によるカースの砕けた核からの再生実験でできたカースのようだが、小さく今にも消えそうなために特殊な人形にいれて、その過程を見ているようだが…… 人形のおかげでカースの気配はしないため、探知能力者や同類などにはカースと気づかれてない。 何処かで聞いたことある喋り方と声だが…… 関連アイドル 的場梨沙 関連設定 アイドルヒーロー同盟
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/1817.html
<目次> ■1.「憲法学の権威」芦部信喜 ■2.芦部信喜『憲法 第五版』紹介と抜粋(内容チェック)▼第一章. 憲法と立憲主義 ▼第三章. 国民主権の原理 ▼第十八章. 憲法の保障 ■3.芦部憲法論の致命的欠陥▼1.芦部憲法論の依拠する法概念理解(半世紀前の法学パラダイム) ▼2.ハートの法概念理解(現代の世界標準の法学パラダイム) ▼3.(参考)長谷部恭男による芦部説の否定 ■4.参考図書 ■5.ご意見、情報提供 ■1.「憲法学の権威」芦部信喜 戦後左翼の言論支配は、様々な分野に及んでいるが、憲法学の分野では、宮沢俊義→芦部信喜と続くラインがその中心となっており、歴史学・政治思想・宗教史など他分野に比較しても、その勢力はなお強大である。 しかし結論から先にいうと、芦部憲法論の依拠する法概念理解は旧来のドイツ法学(ないし大陸法学)系の自然法論であって、理論上は既に半世紀以上前に破綻しており(1961年のH.L.A.ハート『法の概念』刊行)、その門下である長谷部恭男 からも明白に否定されてしまっている。 このページでは芦部憲法論のエッセンスを紹介するとともにその致命的欠陥を指摘する。 ■2.芦部信喜『憲法 第五版』紹介と抜粋(内容チェック) 『憲法 第五版』 (芦部信喜:著、高橋和之:補訂 (2011年)) 芦部信喜(故人) は、宮沢俊義に始まる東大憲法学(戦後左翼の通説的憲法学)の権威であり、本書は法律系資格受験者に最も参考にされている影響力の大きい基本書である。芦部の政治的スタンスはリベラル左派~かなり左翼よりと考えると理解しやすい(※参考ページ:政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価)。 ▼第一章. 憲法と立憲主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※左記の他に実は、自然法または根本規範を認めず、憲法制定権力も認めない(特定時点の国民が保持するのはせいぜい「憲法典 constitutional code」(形式憲法)を制定ないし改廃する権力(つまり「国政 national policy」を決定する権力)であり、「国制 constitutional law」(国体法=実質憲法)を制定・改廃する権力ではない、とする見解もあり、そちらが妥当である。(→リベラル右派の「国民主権」論及び保守主義の「国民主権」批判 参照。この場合「国制」(実質憲法)は過去から現代に至る世代を重ねた国民の長年のプラクティスの中から徐々に形成されるものと理解される。すなわち法の支配) ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) ※以下、芦部憲法論の具体的内容をチェック。 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) 第一章 憲法と立憲主義 p.3以下 <目次> 一. 国家と法 二. 憲法の意味◆1. 形式的意味の憲法と実質的意味の憲法◇(一). 形式的意味 ◇(ニ). 実質的意味(1). 固有の意味 (2). 立憲的意味 ◆2. 立憲的憲法の特色◇(一). 淵源 ◇(ニ). 形式と性質(1). 成文憲法 (2). 硬性憲法 三. 憲法の分類◆1. 伝統的な分類◇(一). 憲法の形式・性質・制定主体による分類 ◇(ニ). 国家形態による分類 ◆2. 機能的な分類 四. 憲法規範の特質◆1. 自由の基礎法 ◆2. 制限規範 ◆3. 最高法規 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配◆1. 法の支配 ◆2. 「法の支配」と「法治国家」◇(一). 民主的な立法過程との関係 ◇(ニ). 「法」の意味 ◆3. 立憲主義の展開◇(一). 自由国家の時代 ◇(ニ). 社会国家の時代 ◆4. 立憲主義の現代的意義◇(一). 立憲主義と社会国家 ◇(ニ). 立憲主義と民主主義 一. 国家と法 一定の限定された地域(領土)を基礎として、その地域に定住する人間が、強制力をもつ統治権のもとに法的に組織されるようになった社会を国家と呼ぶ。 従って、領土と人と権力は、古くから国家の三要素と言われてきた。 この国家(*)という統治団体の存在を基礎づける基本法、それが通常、憲法と呼ばれてきた法である。 (*) 国家概念 国家の考え方は、立場の違いによっても、社会学的にみるか、政治学的にみるかによっても、著しく異なる。三要素から成り立つと言われる場合は、社会学的国家論である。これを法学的にみた国家論として著名なものが、国家法人説である(第二章一2*、第三章二2(一)参照)。もっとも、国家三要素説には有力な批判もある。なお、憲法学では、たとえば人権を「国家からの自由」と言う場合のように、国家権力ないし権力の組織体を国家と呼ぶことも多い。 二. 憲法の意味 憲法を勉強するには、まず、憲法とは何かを明らかにしなければならない。 研究の対象を正確に捉えることは、あらゆる学問の出発点である。 憲法の意味を本格的に解明しようとすると、憲法がどのようにしてつくられてきたのか、どのような思想に支えられて登場したのか、という憲法思想史の背景を研究しなければならないが、ここでは、憲法の意味とその法的特質に関する基本的な事柄について概説的に説明するにとどめる。 ◆1. 形式的意味の憲法と実質的意味の憲法 憲法の概念は多義的であるが、重要なものとして三つ挙げることができる。 ◇(一). 形式的意味 これは、憲法という名前で呼ばれる成文の法典(憲法典)を意味する場合である。 形式的意味の憲法と呼ばれる。 たとえば、現代日本においては「日本国憲法」がそれにあたる。 この意味の憲法は、その内容がどのようなものであるかには関わらない。 ◇(ニ). 実質的意味 これは、ある特定の内容をもった法を憲法と呼ぶ場合である。 成文であると不文であるとを問わない。 実質的意味の憲法と呼ばれる。 この実質的意味の憲法には二つのものがある。 (1). 固有の意味 国家の統治の基本を定めた法としての憲法であり、通常「固有の意味の憲法」と呼ばれる。 国家は、いかなる社会・経済構造をとる場合でも、必ず政治権力とそれを行使する機関が存在しなければならないが、この機関、権力の組織と作用および相互の関係を規律する規範が、固有の意味の憲法である。 この意味の憲法はいかなる時代のいかなる国家にも存在する。 (2). 立憲的意味 実質的意味の憲法の第二は、自由主義に基づいて定められた国家の基礎法である。 一般に「立憲的意味の憲法」あるいは「近代的意味の憲法」と言われる。 18世紀末の近代市民革命期に主張された、専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという立憲主義の思想に基づく憲法である。 その趣旨は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、すべて憲法をもつものではない」と規定する有名な1789年フランス人権宣言16条に示されている。 この意味の憲法は、固有の意味の憲法とは異なり、歴史的な観念であり、その最も重要な狙いは、政治権力の組織化というよりも権力を制限して人権を保障することにある。 以上の三つの憲法の観念のうち、憲法の最もすぐれた特徴は、その立憲的意味にあると考えるべきである。 従って、憲法学の対象とする憲法とは、近代に至って一定の政治的理念に基づいて制定された憲法であり、国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする憲法である。 そのような立憲的意味の憲法の特色を次に要説する。 ◆2. 立憲的憲法の特色 ◇(一). 淵源 立憲的意味の憲法の淵源は、思想史的には、中世にさかのぼる。 中世においては、国王が絶対的な権力を保持して臣民を支配したが、国王といえども従わなければならない高次の法(higher law)があると考えられ、根本法(fundamental law)とも呼ばれた。 この根本法の観念が近代立憲主義へと引きつがれるのである。 もっとも、中世の根本法は、貴族の特権の擁護を内容とする封建的性格の強いものであり、それが広く国民の権利・自由の保障とそのための統治の基本原則を内容とする近代的な憲法へ発展するためには、ロック(John Loche, 1632-1704)やルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-78)などの説いた近代自然法ないし自然権(natural rights)の思想によって新たに基礎づけられる必要があった。 この思想によれば、 ① 人間は生まれながらに自由にして平等であり、生来の権利(自然権)をもっている、 ② その自然権を確実なものとするために社会契約(social contract)を結び、政府に権力の行使を委任する、そして、 ③ 政府が権力を恣意的に行使して人民の権利を不当に制限する場合には、人民は政府に抵抗する権利を有する。 このような思想に支えられて、1776年から89年にかけてのアメリカ諸州の憲法、1788年のアメリカ合衆国憲法、1789年のフランス人権宣言、91年のフランス第一共和制憲法などが制定された。 ◇(ニ). 形式と性質 立憲的憲法は、その形式の面では成文法であり、その性質においては硬性(通常の法律よりも難しい手続によらなければ改正できないこと)であるのが普通であるが、それはなぜであろうか。 (1). 成文憲法 まず、立憲的憲法が成文の形式をとる理由としては、成文法は慣習法に優るという近代合理主義、すなわち、国家の根本的制度についての定めは文章化しておくべきであるという思想を挙げることも出来るが、最も重要なのは近代自然法学の説いた社会契約説である。 それによれば、国家は自由な国民の社会契約によって組織され、その社会契約を具体化したものが根本契約たる憲法であるから、契約である以上それは文書の形にすることが必要であり、望ましいとされたのである。 (2). 硬性憲法 また、立憲的憲法が硬性(rigid)であることの理由も、近代自然法学の主張した自然権および社会契約説の思想の大きな影響による。 つまり、憲法は社会契約を具体化する根本契約であり、国民の不可侵の自然権を保障するものであるから、憲法によってつくられた権力である立法権は根本法たる憲法を改正する資格をもつことは出来ず(それは国民のみに許される)、立法権は憲法に拘束される、従って憲法の改正は特別の手続によって行わなければならない、と考えられたのである(*)。 (*) 軟性憲法 世界のほとんどすべての国の憲法は硬性である。しかしイギリスには憲法典が存在せず(その点で不文憲法の国と言われる)、種々の歴史的な理由から、実質的意味の憲法は憲法慣習を除き法律で定められているので、国会の単純多数決で改正することが出来る。このように通常の立法手続と同じ要件で改正できる憲法を軟性(flexible)憲法と言う。 三. 憲法の分類 ◆1. 伝統的な分類 憲法の意味の理解を助けるために、憲法はいろいろの観点から類別されてきた。 ◇(一). 憲法の形式・性質・制定主体による分類 まず、 ① 《形式》の点からして、 成典か不成典か、つまり成文の法典が存在するかどうか、 ② 《性質》の点からして、 硬性か軟性か、つまり、改正が単純多数決で成立する通常の立法の場合と同じか、それよりも難しく、特別多数決(三分のニ、ないし五分の三)、またはそれに加えて国民投票を要件としているかどうか、 ③ 憲法を制定する《主体》の点からして、 君主によって制定される欽定憲法か、国民によって制定される民定憲法か、君主と国民との合意によって制定される協約憲法か、 という区別などがある、と説かれてきた。 しかし、このような伝統的な分類は、必ずしも現実の憲法のあり方を実際に反映するものではないことに注意しなければならない。 たとえば、①については、イギリスのように単一の成文憲法典をもたない国もあるが、イギリスでも、実質的に憲法にあたる事項は多数の法律で定められており、基本的な事項は、実際には、容易に改正されない。 ところが、②にいう硬性の程度が強い憲法でも、実際にはしばしば改正される国は少なくない。 ◇(ニ). 国家形態による分類 また、憲法の定める国家形態ないし統治形態に関する分類として、 ① 君主が存在するかどうかによる 君主制(*)か共和制かという区分、 ② 議会と政府との関係に関して、 大統領制か議院内閣制かという区分、 ③ 国家内に支邦(州)が存在するかどうかによる 連邦国家か単一国家かという区分、 なども伝統的に説かれているが、これらも憲法の分類自体としてはそれほど大きな意味をもつものではない。 たとえば、君主制でも、イギリスのように民主政治が確立している国もあり、共和制でも、政治が非民主的な国は少なくない(従って、民主制か独裁制かという観点からの分類の方が意味がある)。 大統領制や議院内閣制にも、いろいろの形態がある(例えば、両者の混合形態もあるし、同じ大統領制でも、アメリカのような民主的なもの、南米ないし中近東の諸国のような独裁的なもの、の別がある)。 (*) 君主制 歴史的にみると、君主制は、絶対君主制から立憲君主制(君主の権限に制限が加えられる君主制。君主は単独では行為し得ず、大臣の助言に基づくことを要し、大臣は不完全ながら議会のコントロールに服する。明治憲法の天皇制はこの例である)、さらに議会君主制(君主に助言をする大臣が議会に政治責任を負う。現在のイギリス君主制はこの例である)へと発展してきている。 ◆2. 機能的な分類 このような形式的な分類に対して、戦後、憲法が現実の政治過程において実際にもつ機能に着目した分類が主張されるようになった。 たとえば、レーヴェンシュタイン(Karl Loewenstein, 1891-1973)という学者は、 ① 規範的憲法、 すなわち、政治権力が憲法規範に適応し、服従しており、憲法がそれに関係する者すべてによって遵守されている場合、 ② 名目的憲法、 すなわち、成文憲法典は存在するが、それが現実に規範性を発揮しないで名目的に過ぎない場合、 ③ 意味論的(semantic)憲法、 すなわち、独裁国家や開発途上国家によくみられるが、憲法そのものは完全に適用されても、実際には現実の権力保持者が自己の利益のためだけに既存の政治権力の配分を定式化したに過ぎない場合、 という三類型を提唱して注目されている。 このような存在論的(ontological)な分類は、主観的な判断が入る可能性がある点で問題もあるが、立憲的意味の憲法が、どの程度現実の国家生活において実際に妥当しているのかを測るうえで、有用なものであると言えよう。 四. 憲法規範の特質 以上述べてきたところのまとめを兼ねて、近代憲法の特質を箇条的に列挙すると、次のようになる。 ◆1. 自由の基礎法 近代憲法は、何よりもまず、自由の基礎法である。 それは、自由の法秩序であり、自由主義の所産である。 もちろん、憲法は国家の機関を定め、それぞれの機関に国家作用を授権する。 すなわち、通常は立法権、司法権、行政権、および憲法改正手続等についての規定が設けられる。 この国家権力の組織を定め、かつ授権する規範が憲法に不可欠なものであることは言うまでもない。 しかし、この組織規範・授権規範は憲法の中核をなすものではない。 それは、より基本的な規範、すなわち自由の規範である人権規範に奉仕するものとして存在する。 このような自由の観念は、自然権の思想に基づく。 この自然権を実定化した人権規定は、憲法の中核を構成する「根本規範(*)」であり、この根本規範を支える核心的価値が人間の人格不可侵の原則(個人の尊厳の原理)である。 (*) 根本規範 純粋法学の創唱者として著名なケルゼン(Hans Kelsen, 1881-1973)は、一切の実定法の最上位にあってその妥当性(通用力)の根拠となる、《思惟のうえで前提された》規範を根本規範と呼んだが、ここで言う根本規範はそれとは異なり、《実定法として定立された》法規範である。それは、「憲法が下位の法令の根拠となり、その内容を規律するのと同じように、憲法の根拠となり、またその内容を規律するものである」(清宮四郎)。 ◆2. 制限規範 憲法が自由の基礎法であるということは、同時に憲法が国家権力を制限する基礎法であることを意味する。 このことは、近代憲法の二つの構成要素である権利章典と統治機構の関係を考えるうえで、とくに重要である。 本来、近代憲法は、すべて個人は互いに平等な存在であり、生まれながら自然権を有するものであることを前提として、それを実定化するという形で制定された。 それは、すべての価値の根源は個人にあるという思想を基礎においている。 従って、政治権力の究極の根拠も個人(すなわち国民)に存しなくてはならないから、憲法を実定化する主体は国民であり、国民が憲法制定権力(*)の保持者であると考えられた。 このように、自然権思想と国民の憲法制定権力の思想とは不可分の関係にあるのである。 また、国民の憲法制定権力は、実定憲法においては「国民主権」として制度化されることになるので、人権規範は主権原理とも不可分の関係にあることになる(第18章三3図表参照)。 (*) 憲法制定権力 憲法をつくり、憲法上の諸機関に権限を付与する権力([英] constituent power, [仏] pouvoir constituant, [独] verfassungsgebende Gewalt)。制憲権とも言われる。国民に憲法をつくる力があるという考え方は、18世紀末の近代市民革命時、とくにアメリカ、フランスにおいて、国民主権を基礎づけ、近代立憲主義憲法を制定する推進力として大きな役割を演じた。フランスのシェイエス(Emmanuel J. Sieyes, 1748-1836)が『第三階級とは何か』(1789年)を中心に展開した見解がその代表である。制憲権と国民主権との関係につき、第三章二2(ニ)参照。 ◆3. 最高法規 憲法は最高法規であり、国法秩序において最も強い形式的効力をもつ。 日本国憲法98条が、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と定めているのは、その趣旨を明らかにしたものである(*)。 もっとも、憲法が最高法規であることは、憲法の改正に法律の改正の場合よりも困難な手続が要求されている硬性憲法であれば、論理上当然である。 従って、形式的効力の点で憲法が国法秩序において最上位にあることを「形式的最高法規性」と呼ぶならば、それは硬性憲法であることから派生するものであって、とくに憲法の本質的な特性として挙げるには及ばないということになろう。 最高法規としての憲法の本質は、むしろ、憲法が《実質的に法律と異なる》という点に求められなければならない。 つまり、憲法が最高法規であるのは、その内容が、人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心として構成されているからである。 これは、「自由の基礎法」であることが憲法の最高法規性の実質的根拠であること、この「実質的最高法規性」は、形式的最高法規性の基礎をなし、憲法の最高法規性を真に支えるものであること、を意味する。 日本国憲法第十章「最高法規」の冒頭にあって、基本的人権が永久不可侵であることを宣言する97条は、硬性憲法の建前(96条)、およびそこから当然に派生する憲法の形式的最高法規性(98条)の実質的な根拠を明らかにした規定である。 このように、憲法の実質的最高規範性を重視する立場は、憲法規範を一つの価値秩序と捉え、「個人の尊重」の原理とそれに基づく人権の体系を憲法の《根本規範》(basic norms)と考えるので、憲法規範の《価値序列》を当然に認めることになる。 この考えが、人権規定の解釈や憲法保障の問題においてどのような役割を果すかについては、後に述べることにする(第五章-第13章・第18章)。 (*) 国法秩序の段階構造 国法秩序は、形式的効力の点で、憲法を頂点とし、その下に法律→命令(政令、府省令等)→処分(判決を含む)という順序で、段階構造をなしているものと解することが出来る。この構造は、動態的には、上位の法は下位の法によって具体化され、静態的には、下位の法は上位の法に有効性の根拠をもつ、という関係として説明される(ケルゼンの法段階説)。 なお、憲法の最高法規性と関連して、憲法98条の列挙から「条約」が除外されていることが問題となるが、これは条約が憲法に優位することを意味するわけではない。 両者の効力の優劣関係については後述する(第18章ニ4(ニ)(1)参照)。 条約は公布されると原則としてただちに国内法としての効力をもつが、その効力は通説によれば、憲法と法律の中間にあるものと解されている。 実務の取扱いもそうである。 ただ、98条2項に言う「確立された国際法規」すなわち、一般に承認され実行されている慣習国際法を内容とする条約については、憲法に優位すると解する有力説がある。 地方公共団体の条例・規則は、「法律・命令」に準ずるものとみることが出来るので(第17章ニ3参照)、それに含まれると解される。 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配 近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするが、この立憲主義思想は法の支配(rule of law)の原理と密接に関連する。 ◆1. 法の支配 法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。 それは、専制的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。 ジェイムズ一世の暴政を批判して、クック(Edward Coke, 1552-1634)が引用した「国王は何人の下にもあるべきでない。しかし神と法の下にあるべきである」というブラクトン(Henry de Bracton, ?-1268)の言葉は、法の支配の本質をよく表している。 法の支配の内容として重要なものは、現在、 ① 憲法の最高法規性の観念 ② 権力によって侵されない個人の人権 ③ 法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law) ④ 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重 などだと考えられている。 ◆2. 「法の支配」と「法治国家」 「法の支配」の原理に類似するものに、《戦前の》ドイツの「法治主義」ないしは「法治国家」の観念がある。 この観念は、法によって権力を制限しようとする点においては「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、少なくとも、次の二点において両者は著しく異なる。 ◇(一). 民主的な立法過程との関係 第一に、「法の支配」は、立憲主義の進展とともに、市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図ること、従って権利・自由を制約する法律の内容は国民自身が決定すること、を建前とする原理であることが明確となり、その点で民主主義と結合するものと考えられたことである。 これに対して、戦前のドイツの法治国家(Rechtsstaat)の観念は、そのような民主的な政治制度と結びついて構成されたものではない。 もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものに過ぎない。 従って、それは、如何なる政治体制とも結合し得る形式的な観念であった。 ◇(ニ). 「法」の意味 第二に、「法の支配」に言う「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも固く結びつくものであったことである。 これに対して、「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることが出来る容器のような)形式的な法律に過ぎなかった。 そこでは、議会の制定する法律の中身の合理性は問題とされなかったのである。 もっとも、《戦後の》ドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。 その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から《実質的法治国家》へと移行しており、法治主義は英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。 ◆3. 立憲主義の展開 ◇(一). 自由国家の時代 近代市民革命を経て近代憲法に実定化された立憲主義の思想は、19世紀の「自由国家」の下でさらに進展した。 そこでは、個人は自由かつ平等であり、個人の自由意思に基づく経済活動が広く容認された。 そして、自由・平等な個人の競争を通じて調和が実現されると考えられ、権力を独占する強大な国家は経済的干渉も政治的干渉も行わずに、社会の最小限度の秩序の維持と治安の確保という警察的任務のみを負うべきものとされた。 当時の国家を、自由国家・消極国家とか、または軽蔑的な意味を込めて夜警国家と呼ぶのは、その趣旨である。 ◇(ニ). 社会国家の時代 しかし、資本主義の高度化にともなって、富の偏在が起こり、労働条件は劣悪化し、独占的グループが登場した。 その結果、憲法の保障する自由は、社会的・経済的弱者にとっては、貧乏の自由、空腹の自由でしかなくなった。 そこで、そのような状況を克服し、人間の自由と生活を確保するためには、国家が、従来市民の自律に委ねられていた市民生活の領域に一定の限度まで積極的に介入し、社会的・経済的弱者の救済に向けて努力しなければならなくなった。 こうして、19世紀の自由国家は、国家的な干渉と計画とを必要とする社会国家(積極国家ないしは福祉国家(*)とも呼ばれる)へと変貌することになり、行政権の役割が飛躍的に増大した。 (*) 社会国家・福祉国家 社会国家(Sozialstaat)は主としてドイツで用いられる言葉であり、福祉国家(welfare state)は主としてイギリスで用いられる言葉である。その内容は必ずしも明確ではないが、おおよそ、国家が国民の福祉の増進を図ることを使命として、社会保障制度を整備し、完全雇用政策をはじめとする各種の経済政策を推進する国家であると言えよう。我が国では、かつて、福祉国家論は国家独占資本主義の矛盾を覆い隠すイデオロギー的理論であるという批判が学説の一部に強かった。そのような問題点があるとしても、現実の経済・社会に照らして、プラス面の実現を強化していくことが必要である。 ◆4. 立憲主義の現代的意義 ◇(一). 立憲主義と社会国家 立憲主義は、国家は国民生活にみだりに介入すべきでないという消極的な権力観を前提としている。 そこで、国家による社会への積極的な介入を認める社会国家思想が、立憲主義と矛盾しないかが問題となる。 しかし、立憲主義の本来の目的は、個人の権利・自由の保障にあるのであるから、その目的を現実の生活において実現しようとする社会国家の思想とは基本的に一致すると考えるべきである。 この意味において、社会国家思想と(実質的)法治国家思想とは《両立する》。 戦後ドイツで用いられてきた「社会的法治国家」という概念は、その趣旨である。 ◇(ニ). 立憲主義と民主主義 また、立憲主義は民主主義とも密接に結びついている。 すなわち、 ① 国民が権力の支配から自由であるためには、国民自らが能動的に統治に参加するという民主制度を必要とするから、自由の確保は、国民の国政への積極的な参加が確立している体制において初めて現実のものとなり、 ② 民主主義は、個人尊重の原理を基礎とするので、すべての国民の自由と平等が確保されて初めて開花する、 という関係にある。 民主主義は、単に多数者支配の政治を意味せず、実をともなった《立憲民主主義》でなければならないのである(*)。 このような《自由と民主の結合》は、まさに、近代憲法の発展と進化を支配する原則であると言うことができよう。 戦後の西欧型民主政国家が「民主的法治国家」とか「法治国家的民主政」と言われるには、そのことを示している。 (*) 自由主義と民主主義 戦前の憲法学 - とくにワイマール憲法時代のドイツ - では、自由主義を否定しても民主主義は成り立つという見解が有力であった。しかし、宮沢俊義が説いたとおり、「リベラルでない民主制は、民主制の否定であり、多かれ少なかれ独裁的性格を帯びる。民主制は人権の保障を本質とする」、と考えるのが正しい。 ▼第三章. 国民主権の原理 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) 第三章 国民主権の原理 p.35以下 <目次> 一 日本国憲法の基本原理◆1.前文の内容 ◆2.基本原理相互の関係(一)人権と主権 (二)国内の民主と国際の平和 ◆3.前文の法的性質 ニ 国民主権◆1.主権の意味 ◆2.国民主権の意味(一)主体について (ニ)権力性と正当性の両契機 一 日本国憲法の基本原理 日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つを基本原理とする。 これらの原意がとりわけ明確に宣言されているのが憲法前文である。 ◆1.前文の内容 前文とは、法律の最初に付され、その法律の目的や精神を述べる文書であり、憲法前文の場合には、憲法制定の由来、目的ないし憲法制定者の決意などが表明される例が多い。 もっとも、その内容はそれぞれの国の憲法によって異なる。 日本国憲法前文は、国民が憲法制定権力の保持者であることを宣言しており、また、近代憲法に内在する価値・原理を確認している点で、きわめて重要な意義を有する。 前文は四つの部分から成っている。 ① 一項の前段は、 「主権が国民に存すること」、および日本国民が「この憲法を確定する」ものであること、つまり国民主権の原理および国民の憲法制定の意思(民定憲法性)を表明している。ついで、それと関連させながら、「自由のもたらす恵沢」の確保と「戦争の惨禍」からの解放という、人権と平和の二原理を謳い、そこに日本国憲法制定の目的があることを示している。 それを受けて、一項後段は、 「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と言い、国民主権とそれに基づく代表民主制の原理を宣言し、最後に、以上の諸原理を「人類普遍の原理」であると説き、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」として、それらの原理が憲法改正によっても否定することができない旨を明らかにしている。 ② 二項は、 「日本国民は、恒久の平和を念願」するとして、平和主義への希求を述べ、そのための態度として、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信て、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と宣言する。 ③ 三項は、 国家の独善性の否定を「政治道徳の法則」として確認し、 ④ 四項は、 日本国憲法の「崇高な理想と目的を達成すること」を誓約している。 ◆2.基本原理相互の関係 前文に盛られた国民主権原理、人権尊重主義、平和主義の原理は、次のように相互に不可分に関連している。 (一)人権と主権 第一に、基本的人権の保障は、国民主権の原理と結びついている。 専制政治の下では、基本的人権の保障が完全なものと成り得ないことは当然であり、民主主義政治の下で初めて人権保障が成立する。 先に指摘した前文一項の文書は、明らかに、国民主権およびそれに基づく代表民主制の原理(狭義の民主主義)が基本的人権の尊重と確立を目的とし、それを達成するための手段として、不可分の関係にあることを示している。 自由(人権)は「人間の尊厳」の原理なしには認められないが、国民主権、すなわち国民が国の政治体制を決定する最終かつ最高の権威を有するという原理も、国民がすべて平等に人間として尊重されて初めて成立する。 このように、国民主権(民主の原理)も基本的人権(自由の原理)も、ともに「人間の尊厳」という最も基本的な原理に由来し、その二つが合して広義の民主主義を構成し、それが、「人類普遍の原理」とされているのである(第18章三3図表参照) (二)国内の民主と国際の平和 第二に、人間の自由と生存は平和なくして確保されないという意味で、平和主義の原理もまた、人権および国民主権の原理と密接に結びついている。 国内の民主主義と国際的平和の不可分性は、近代憲法の進化を推進してきた原理だと言ってもよい。 ◆3.前文の法的性質 以上のような基本原理を明らかにしている日本国憲法の前文は、憲法の一部をなし、本文と同じ法的性質をもつと解される。 従って、たとえば前文一項の、「人類普遍の原理・・・・・・に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という規定は、憲法改正に対して法的限界を画し、憲法改正権を法的に拘束する規範であると解される(憲法改正権の限界については、第18章三3参照)。 しかしながら、これは前文に裁判規範としての性格まで認められることを意味しない。 裁判規範とは、広い意味では裁判所が具体的な訴訟を裁判する際に判断基準として用いることのできる法規範のことを言うが、狭い意味では、当該規範を直接根拠として裁判所に救済を求めることのできる法規範、すなわち裁判所の判決によって執行することのできる法規範のことを言う。 前文の規定は抽象的な原理の宣言にとどまるので、少なくとも狭い意味での裁判規範としての性格はもたず、裁判所に対して前文の執行を求めることまではできない、と一般に解されている。 この点に関して問題となるのが、前文二項の、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」という文章に示されている「平和的生存権(*)」である。 学説では、右規定の(狭い意味での)裁判規範性を認めることは出来るとし、平和的生存権を新しい人権の一つとして認めるべきであるという見解も有力である。 しかし、平和的生存権は、その主体・内容・性質などの点でなお不明確であり、人権の基礎にあってそれを支える理念的権利ということは出来るが、裁判で争うことの出来る法的権利性を認めることは難しい、と一般に考えられている。 (*) 平和的生存権 平和的生存権という考えは、自衛隊違憲訴訟において、1960年代から主張されたものである。平和的生存権は、「平和を享受する権利」を意味し、憲法9条の戦争の放棄の原則との関連で、平和を人権として捉えるという意図に基づくものである。具体的には、基地付近の住民が基地の撤廃を裁判所に求める場合の「訴えの利益」を基礎づけるために主張された。しかし、判例においては、長沼事件(第四章三3*参照)一審判決は、平和的生存権を訴えの利益の一つの根拠として認めたが、二審判決はこれを否定し、最高裁判所でも前文二項の裁判規範性は実質的に認められなかった。 ニ 国民主権 国民主権の原理は、絶対主義時代の君主の専制的支配に対抗して、国民こそが政治の主役であると主張する場合に、その理論的支柱とされた観念で、近代市民革命の成立以後、国家統治の根本原理として近代立憲主義憲法において広く採用されている。 もっとも、その原理の内容を具体的にどのように理解するかについては様々な見方が示されてきており、現在もなお活発な議論が展開されている。 ◆1.主権の意味 主権の概念は多義的であるが、一般に、 ① 国家権力そのもの(国家の統治権)、 ② 国家権力の属性としての最高独立性(内にあっては最高、外に対しては独立ということ)、 ③ 国政についての最高の決定権、 という3つの異なる意味に用いられる。 これは歴史的な理由に基づく。 すなわち、主権という概念は、絶対主義君主が中央集権国家をつくりあげていく過程において、君主の権力が、封建領主に対しては最高であること、ローマ皇帝に対しては独立であることを基礎づける政治理論として主張された概念であった。 ところが、「朕は国家なり」の思想が支配していた専制君主制国家では、3つの主権概念は「君主の権力」という形で統一的に理解されていたが、その後、君主制の立憲主義化にともなって国家の概念も変化し、君主の権力と国家権力とは区別して考えられるようになり、主権の概念が3つに分解したのである。 (一) 統治権 ①の国家権力そのものを意味する主権とは、国家が有する支配権を包括的に示す言葉である。立法権・行政権・司法権を総称する統治権(Herrschaftsrechte, governmental power)とほぼ同じ意味で、日本国憲法(41条)に言う「国権」がそれにあたる。統治権という意味の主権の用例は、ポツダム宣言8項「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限サラルベシ」という規定にみられる。 (ニ) 最高独立性 ②の国家権力の最高独立性(国家権力の主権性とも言われる)を意味する主権は、主権概念の生成過程から言えば、本来の意味の主権の概念である。憲法前文3項で、「自国の主権を維持し」という場合の主権がその例であるが、そこでは国家の独立性に重点が置かれている。 (三) 最高決定権 ③の国政の最高の決定権としての主権とは、国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威という意味であり、その力または権威が君主に存する場合が君主主権、国民に存する場合が国民主権と呼ばれる。憲法前文1項で「ここに主権が国民に存することを宣言し」という場合の主権、および1条で「主権の存する日本国民の総意」という場合の主権がこれにあたる。 ◆2.国民主権の意味 「国民主権」がいかなる意味・内容を有するかについては、さまざまの議論があるが、ここでは、次の2点を注意しておきたい。 (一)主体について 第一は、国民主権の観念は、本来、君主主権との対抗関係の下で生成し、主張されてきたもので、君主主権であることは国民主権ではなく、国民主権であることは君主主権ではない、という相反する関係にあることである。 従って、主権は君主にあるのでも国民にあるのでもなく、国家にあるとか、主権は天皇を含む国民全体にあるとか、という趣旨の説明は、戦後よく主張されたが、政治的な配慮に基づく考え方で、理論的には正当とは言い難い。 戦前のドイツで支配的な学説であった国家法人説は、先に触れたように(第二章一2*参照)、国家は法的に考えると法人、すなわち権利(統治権)主体であり、君主はその最高機関であると説き、君主主権か国民主権かは、国家の最高意思を決定する最高機関の地位に君主が就くか国民が就くかの違いにすぎない、と主張した。 そして、「主権」という概念は国家権力の最高独立性を示す本来の概念としてのみ用いるべきであるとし、君主主権か国民主権かという近代憲法が直面した本質的問題を回避しようとした。 それは、急激な民主化を好まない19世紀ドイツの立憲君主制に見合った理論であった。 この国家法人説は、明治憲法の下では天皇機関説に具体化され、憲法の神権主義的性格を緩和する役割を果たした。 しかし、国民主権の確立した日本国憲法の下では、もはやその理論的有用性をもたない。 (ニ)権力性と正当性の両契機 第二に注意を要するのは、国民主権の原理には、2つの要素が含まれていることである。 一つは、 国の政治のあり方を最終的に決定する権力を国民自身が行使するという権力的契機であり、 他の一つは、 国家の権力行使を正当づける究極的な権威は国民に存するという正当性の契機である。 もともと国民主権の原理は、国民の憲法制定権力(制憲権)の思想に由来する(第一章四2参照)。 国民の制憲権は、国民が直接に権力を行使する(具体的には、憲法を制定し国の統治のあり方を決定する)、という点にその本質的な特徴がある。 ところが、この制憲権は、近代立憲主義憲法が制定されたとき、合法性の原理に従って、自らを憲法典の中に制度化し、 ① 国家権力の正当性の究極の根拠は国民に存するという建前ないし理念としての性格をもつ国民主権の原理、および、 ② 法的拘束に服しつつ憲法(国の統治のあり方)を改める憲法改正権 に転化したのである(そのため改正権は、「制度化された制憲権」とも呼ばれる。この点につき、なお、第八章三3参照)。 以上のような国民主権の原理に含まれる2つの要素のうち、主権の権力性の側面においては、国民が自ら国の統治のあり方を最終的に決定するという要素が重視されるので、そこでの主権の主体としての「国民」は、実際に政治的意思表示を行うことのできる有権者(選挙人団とも言う)を意味する。また、それは、国民自身が直接に政治的意思を表明する制度である直接民主制と密接に結びつくことになる。もっとも、国民主権の概念に権力的契機が含まれていると言っても、憲法の明文上の根拠もなく、国の重要な施策についての決定を国民投票に付する法律がただちに是認されるという意味ではない(憲法上認められるのは、国民投票の結果がただちに国会を法的に拘束するものではない諮問的・助言的なものに限られよう)。主権の権力性とは、具体的には、憲法改正を決定する(これこそ国の政治のあり方を最終的に決定することである)権能を言う。 これに対して、主権の正当性の側面においては、国家権力を正当化し権威づける根拠は究極において国民であるという要素が重視されるので、そこでの主権の保持者としての「国民」は、有権者に限定されるべきではなく、全国民であるとされる。また、そのような国民主権の原理は代表民主制、とくに議会制と結びつくことになる。 日本国憲法における国民主権の観念には、このような2つの側面が並存しているのである。(*) 従って、国家権力の正当性の淵源としての国民は「全国民」であり、すべての「国家権力は国民から発する」、ということになる。 しかし同時に、国民(有権者)が国の政治のあり方を最終的に決定するという権力性の側面も看過してはならない。 そのように考えるならば、憲法96条において憲法改正の是非を最終的に決定する制度として定められている国民投票制(第十八章三2(ニ)参照)は、国民主権の原理と不可分に結合するものと解されよう。 (*) ナシオン主権とプープル主権 フランスでは、市民革命期に君主主権を否定して制定された新しい立憲主義憲法の主権原理として、ナシオン(nation)主権をとるかプープル(peuple)主権をとるか争われ、この2つの対立が第二次大戦後の憲法にまで及んでおり、日本でも「国民主権」をその概念を用いて説明する学説が少なくない。しかし、もしナシオンの意味を「国籍保持者の総体としての国民(全国民)」、プープルの意味を「社会契約参加者(普通選挙権者)の総体としての国民(人民)」と解すれば、2つの主権原理は、本文に説いた主権主体としての「全国民」と「有権者団」の区別に対応するが、ナシオンは、具体的に実存する国民とは別個の、観念的・抽象的な団体人格としての国民の意だと一般に解されており、またプープルも、「今日では性別・年齢別の差なく文字どおりの『みんな』」だと解する説が有力であることに、注意すべきである。しかも、同じプープル主権を説く場合でも、「主権」の意味について、「統治権」と解する説もあれば権力の正当性の究極的根拠と解する説もあるなど、見解に大きな相違がみられる。 (*) 憲法制定権力 憲法をつくり、憲法上の諸機関に権限を付与する権力([英] constituent power, [仏] pouvoir constituant, [独] verfassungsgebende Gewalt)。制憲権とも言われる。国民に憲法をつくる力があるという考え方は、十八世紀末の近代市民革命時、とくにアメリカ、フランスにおいて、国民主権を基礎づけ、近代立憲主義憲法を制定する推進力として大きな役割を演じた。フランスのシェイエス(Emmanuel J. Sieyes, 1748-1836)が『第三階級とは何か』(1789年)を中心に展開した見解がその代表である。制憲権と国民主権との関係につき、第三章二2(ニ)参照。 ▼第十八章. 憲法の保障 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) 第18章 憲法の保障 p.363以下 <目次> 一 憲法保障の諸類型◆1 抵抗権 ◆2 国家緊急権 ニ 違憲審査制 三 憲法改正の手続と限界◆1 硬性憲法の意義 ◆2 憲法改正の手続(一) 国会の発議(1) 発案 (2) 審議 (3) 議決 (ニ) 国民の承認 (三) 天皇の公布 ◆3 憲法改正の限界(一) 権力の段階構造 (ニ) 人権の根本規範性 (三) 前文の趣旨 (四) 平和主義・憲法改正手続 ◆4 憲法の変遷 一 憲法保障の諸類型 憲法は、国の最高法規であるが、この憲法の最高法規性は、ときとして、法律等の下位の法規範や違憲的な権力行使によって脅かされ、歪められるという事態が生じる。 そこで、このような憲法の崩壊を招く政治の動きを事前に防止し、または、事後に是正するための装置を、あらかじめ憲法秩序の中に設けておく必要がある。 その装置を、通常、憲法保障制度と言う。 憲法保障制度を大別すると、 ① 憲法自身に定められている保障制度と、 ② 憲法には定められていないけれども超憲法的な根拠によって認められると考えられる制度 がある。 ①の例を日本国憲法で示すと、憲法の最高法規性の宣言(98条)、公務員に対する憲法尊重擁護の義務づけ(99条)、権力分立制の採用(41条・65条・76条)、硬性憲法の技術(96条)などのほか、事後的救済としての違憲審査制(81条)がある。 ②の例としては、抵抗権と国家緊急権が挙げられる。 その他に、法律レベルでも、刑法の内乱罪(77条)、破壊活動防止法等の規定により、憲法秩序の維持が図られている。 以下、まず②を概説し、①については、世界的に最も重要な憲法保障制度となった違憲審査制の意義と機能を検討し、憲法改正の問題を扱うことにしたい。 ◆1 抵抗権 国家権力が人間の尊厳を侵す重大な不法を行った場合に、国民が自らの権利・自由を守り人間の尊厳を確保するため、他に合法的な救済手段が不可能となったとき、実定法上の義務を拒否する抵抗行為を、一般に抵抗権と言う。 抵抗権の考えは古くからあり、人権思想の発達に大きな役割を演じたが、それが実際に重要な意味をもったのは近代市民革命の時代であった。 自然権の思想と結び合って、「圧制への抵抗」の権利が強調され、若干の人権宣言の中にも謳われた(1789年・1793年のフランス人権宣言参照)。 その後、近代立憲主義の進展とともに、憲法保障制度が整備され、抵抗権は人権宣言から姿を消してしまう。 それは、抵抗権が本来、個人の権利・自由として実定化されることに馴染まない性格をもっているからである。 確かに、第二次世界大戦時におけるファシズムの苦い経験を経て、戦後、抵抗権思想が復活し、それを再び人権宣言の中に規定する憲法も現れるようになったが、それは本来の抵抗権をすべてカバーするものではない。 抵抗権の本質は、それが非合法的であるところにあり、制度化に馴染まないと解される。 一定の内容の実定化が可能であるにとどまる。 日本国憲法が国民の抵抗権を認めているかどうかは、抵抗権の意味・性格をどのように理解するか、とくに抵抗権は自然法上の権利か実定法上の権利か、という難しい問題と関わるので、簡単に結論を出すことは出来ない。 基本的人権を国民は「不断の努力によつて」保持しなくてはならないこと(12条)から、ただちに実定法上の権利としての抵抗権を導き出すことは、きわめて困難であるが、憲法は自然権を実定化したと解されるので、人権保障規定の根底にあって人権の発展を支えてきた圧政に対する抵抗の権利の理念を読みとることは、十分に可能である。 ◆2 国家緊急権 戦争・内乱・恐慌・大規模な自然災害など、平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において、国家の存立を維持するために、国家権力が、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置をとる権限を、国家緊急権と言う。 この国家緊急権は、一方では、国家存亡の際に憲法の保持を図るものであるから、憲法保障の一形態と言えるが、他方では、立憲的な憲法秩序を一時的にせよ停止し、執行権への権力の集中と強化を図って危機を乗り切ろうとするものであるから、立憲主義を破壊する大きな危険性をもっている。 従って、実定法上の規定がないても、国家緊急権は国家の自然権として是認される、とする説は、緊急権の発動を事実上国家権力の恣意に委ねることを容認するもので、過去における緊急権の濫用の経験に徴しても、これをとることはできない。 超憲法的に行使される非常措置は、法の問題ではなく、事実ないし政治の問題である。 この点で、自然権思想を推進力として発展してきた人権、その根底にあってそれを支えてきた抵抗権と、性質を異にする。 そこで、19世紀から20世紀にかけての西欧諸国では、非常事態に対する措置をとる例外的権力を実定化し、その行使の要件等をあらかじめ決めておく憲法も現れるようになった。 それには、 ① 緊急権発動の条件・手続・効果などについて詳細に定めておく方式と、 ② その大綱を定めるにとどめ、特定の国家機関(例、大統領)に包括的な権限を授権する方式 の二つがある。 しかし、危険を最小限度に抑えるような法制化はきわめて困難であり、二つの方式のいずれも、多くの問題点と危険性を孕(はら)んでいる。 とくに②は、濫用の危険が大きい(例、ワイマール憲法48条の定める大統領の非常措置権)。 我が国では、明治憲法は緊急権に関する若干の規定を設けていたが(8条の緊急命令の権、14条の戒厳宣告の権、31条の非常大権など)、日本国憲法には、国家緊急権の規定はない。 ニ 違憲審査制 (省略) 三 憲法改正の手続と限界 ◆1 硬性憲法の意義 憲法には、高度の安定性が求められるが、反面において、政治・経済・社会の動きに適応する可変性も不可欠である。 この安定性と可変性という相互に矛盾する要請に応えるために考案されたのが、硬性憲法(rigid constitution)の技術、すなわち、憲法の改正手続を定めつつ、その改正の要件を厳格にするという方法である。 これは、最高法規たる憲法を保障する制度として、重要な意義を有する。 ただ、国家によって事情は異なるが、あまり改正を難しくすると、可変性がなくなり、憲法が違憲的に運用される恐れが大きくなるし、反対に、あまり改正を容易にすると、憲法を保障する機能が失われてしまう。 日本国憲法は、「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」とし、国民による承認は国民投票において、「その過半数の賛成を必要とする」と定める(96条)。 「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」と、国民投票における「過半数の賛成」という要件は、他国に比べて、硬性の度合が強い。 ◆2 憲法改正の手続 憲法の改正は、国会の発議、国民の承認、天皇の公布という三つの手続を経て行われる。 (一) 国会の発議 ここに「発議」とは、通常の議案について国会法などで言われる発議(それは原案を提出することを意味する)とは異なり、国民に提案される憲法改正案を国会が決定することを言う。 (1) 発案 憲法改正を発議するには、改正案が提示されなければならない。 この原案を提出する権能(発案権)が各議員に属することは言うまでもないが(通常の議案の場合は、国会法56条1項により、衆議院では20人以上、参議院では10人以上の賛成を要するが、憲法改正案についてはとくに要件を加重することも考えられる〔2007年の国会法改正で68条の2が追加され、「衆議院においては議員100人以上、参議院においては議員50人以上の賛成を要する」ことになった〕、内閣にも存するか否かについては、争いがある。 肯定説は、「国会の発議」は発案権者が議員に限られることを当然には意味しないこと、内閣の発案権を認めても国会審議の自主性は損なわれず、またそれは、議院内閣制における国会と内閣との「協働」関係からみて不思議なことではないこと、などを理由とする。 これに対して否定説は、憲法改正は国民の憲法制定権力(制憲権とも言う)の作用であるから、国民の最終的決定の対象となる原案の内容を確定する行為(憲法で言う「発議」)を国会が行うのは、制憲権思想からいって当然の理であり、この理を貫けば、「発議」の手続の一部をなすとも考えられる「発案」すなわち原案提出権は、議員のみに属すると解するのが憲法の精神に合致すること、内閣に発案権を認めても国会の自主的審議権が害されることはないとはいえ、改正案の提出権を法律案の提出権と同じに考えるのは、憲法と法律との形式的・実質的な相違を曖昧にする解釈であること、などを理由とする。 いずれの解釈が妥当か、俄かに断じ難い。 そのため、「憲法の本旨は、内閣の発案を認めるかどうかは、国会の意思による法律に委ねるという程度のものと解する」説にも、一理ある。 ただし、仮に否定説が妥当だとしても(私見はそれに傾くが)、内閣は実際には議員たる資格をもつ国務大臣その他の議員を通じて原案を提出することができるので、内閣の発案権の有無を論議する実益は乏しい。 (2) 審議 憲法・国会法に特別の規定がないので、審議の手続は法律案の場合に準じて行うことができると解される〔(現在は、国会法が改正され、第六章の2「日本国憲法改正の発議」、第11章の2「憲法審査会」、86条の2「憲法改正原案に関する両院協議会」が追加されている)〕。 ただ、定数足については、慎重な審議を要する案件であることに鑑み、総議員の三分の二以上の出席が必要ないし望ましいとする説が有力である。 しかし、三分の一以上とするか三分の二以上とするかは、法律の定めるところに委ねられていると解されるので、特別の規定がない以上は三分の一以上で足りる。 審議にあたり、国会が原案を自由に修正できることは、言うまでもない。 (3) 議決 各議院において、それぞれ総議員の三分の二以上の賛成を必要とする「総議員」の意味については、法定議員数か現在議員数か二説あるが、定数から欠員を差し引いた数と解する後説が妥当であろう。 両議院で三分の二以上の賛成が得られたとき、国会の発議が成立する。 議決のほかに、発議および国民に対する提案という特別の行為は必要とされない。 (ニ) 国民の承認 憲法改正は、国民の承認によって成立する。 この承認は、「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」によって行われる。 承認の要件とされる「過半数」の意味については、争いがあるが、有効投票の過半数と解するのが妥当であろう。 法律により投票総数の過半数と定めることも可能と解される。 このような国民投票による憲法改正決定の方式は、国民主権の原理と最高法規としての憲法の国民意思による民主的正当化の要請とを確保する最も純粋な手段と言うことができる。 もっとも現在まだ憲法改正国民投票法は制定されていない(*)(†)。 (*) 国民投票法の問題点 第一は、投票方法である。同時に多くの改正案が発議される場合は、相互に不可分の関係にあるものを一括して記載することが必要であろう。第二は、承認の効力発生時期である。投票の効力を争う訴訟の出訴期間経過後、その間に訴訟があれば判決確定後、投票の結果が確定すると考えるのが妥当であろう。 (†) 国民投票法(正式名は「日本国憲法の改正手続に関する法律」)が2007年に制定され、3年後の2010年5月18日に施行された。それによると、国会による改正の発議がなされると、その後60日から180日の間に国民投票が行われる(同2条1項)。その間に国民への広報事務を担当する機関として国会に国民投票広報協議会が設置される(国会法102条の11、国民投票法11条以下)。改正案に対する賛成・反対の「国民投票運動」は、選挙運動と比較すると相当規制が緩和されており、文書図書の規制、運動費用の規制、戸別訪問やインターネット上の運動の禁止もないが、公務員による運動や放送広告による運動は規制される。改正原案の発議は「内容において関連する事項ごとに区分して行う」(国会法68条の3)ことになっており、区分された案につき個別的に国民投票を行うことになる。そして、投票総数の二分の一を超えたとき国民の承認があったとされる(国民投票法126条1項)が、その場合の投票総数とは「憲法改正案に対する賛成の投票の数及び反対の投票の数を合計した数」(同98条2項)とされている。承認の通知を受けると総理大臣は直ちに公布の手続きをとる(同126条2項)。公布を行うのは天皇である(憲法7条1号)。国民投票に関し異議のある投票人は30日以内に東京高裁に訴訟を提起できるが(国民投票法127条)、訴訟の提起があっても国民投票の効力は停止しない(同130条)。なお、投票権者は「年齢満18年以上の者」(同3条)とされているが、そのために必要な法制上の措置がとられないかぎり(現時点でまだとられていない)、20歳以上の者とされている(同附則3条)。 (三) 天皇の公布 公布は「国民の名」で行われる。 これは、改正権者である国民の意思による改正であることを明らかにする趣旨である。 また、「この憲法と一体を成すものとして」とは、改正条項が「日本国憲法と同じ基本原理のうえにたち、同じ形式的効力をもつもの」であることを示す、と解する説が妥当であろう。 アメリカ合衆国憲法と同じ増補の方式を要求する趣旨だという特別の意味は、そこには含まれていない。 全部改正も、憲法改正権の限界を逸脱するものでないかぎり、必ずしも排除されているわけではないと解される。 ◆3 憲法改正の限界 このような憲法改正手続に従えば、いかなる内容の改正を行うことも許されるかと言えば、けっしてそうではない。 この問題は、憲法、人権、国民主権等の本質をどのように考えるか、という憲法の基礎理論と密接に関連する。 我が国では、国民の主権は絶対的である(制憲権は全能であり、改正権はその制憲権と同じである)と考える理論、ないし憲法規範には上下の価値の序列を認めることは出来ないと考える理論に基づいて、憲法改正手続によりさえすれば、いかなる内容の改正も法的に許されると説く無限界説もある。 しかし、法的な限界が存するとする説が通説であり、かつ、それが妥当と解される。 この限界説の論拠として説かれている理由で重要なものは、次の二つである。 (一) 権力の段階構造 民主主義に基づく憲法は、国民の憲法制定権力(制憲権)によって制定される法である。 この制憲権は、憲法の外にあって憲法を作る力であるから、実定法上の権力ではない。 そこで、近代憲法では、法治主義や合理主義の思想の影響も受けて、制憲権を憲法典の中に取り込み、それを国民主権の原則として宣言するのが、だいたいの例となっている。 また、その思想は、憲法改正を決定する最終の権限を国民(有権者)に与える憲法改正手続規定にも、具体化されている(日本国憲法96条の定める国民投票制はその典型的な例である)。 憲法改正権が「制度化された憲法制定権力」とも呼ばれるのは、そのためである。 このように、改正権の生みの親は制憲権であるから、改正権が自己の存立の基盤とも言うべき制憲権の所在(国民主権)を変更することは、いわば自殺行為であって理論的には許されない、と言わなければならない。 (ニ) 人権の根本規範性 近代憲法は、本来、「人間は生まれながらにして自由であり、平等である」という自然権の思想を、国民に「憲法を作る力」(制憲権)が存するという考え方に基づいて、成文化した法である(第一章四2参照)。 この人権(自由の原理)と(一)にふれた国民主権(民主の原理)とが、ともに「個人の尊厳」の原理に支えられ不可分に結び合って共存の関係にあるのが、近代憲法の本質であり理念である(第三章一2参照)。 従って、憲法改正権は、このような憲法の中の「根本規範」とも言うべき人権宣言の基本原則を改変することは、許されない(前頁の図を参照)。 もっとも、基本原則が維持されるかぎり、個々の人権規定に補正を施すなど改正を加えることは、当然に認められる。 (三) 前文の趣旨 日本国憲法は、前文で、人権と国民主権を「人類普遍の原理」だとし、「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と宣言している。 これは、ただ政治的希望を表明したものではなく、以上のような、憲法改正に法的な限界があるという理論を確認し、改正権に対して注意を促す意味をもっている。 ドイツ連邦共和国憲法が、国民主権と人権の基本原則に影響を及ぼす改正は許されないと定め(79条)、フランス第五共和制憲法が、共和政体を改正することはできないと定めている(89条)のも、同じ趣旨である。 (四) 平和主義・憲法改正手続 改正権に限界があるとすると、国内の民主主義(人権と国民主権)と不可分に結び合って近代公法の進化を支配してきた原則と言われる国際平和の原理も、改正権の範囲外にあると考えなくてはならない。 もっとも、それは、戦力不保持を定める9条2項の改正まで理論上不可能である、ということを意味するわけではない(現在の国際情勢で軍隊の保有はただちに平和主義の否定につながらないから)、と解するのが通説である。 なお、憲法96条の定める憲法改正国民投票制は、国民の制憲権の思想を端的に具体化したものであり、これを廃止することは国民主権の原理を揺るがす意味をもつので、改正は許されないと一般に考えられている。 ◆4 憲法の変遷 憲法の保障にとってきわめて重要な問題は、憲法規範は改正されないのに、その本来の意味が国家権力による運用によって変化することである。 もっとも、憲法も変転する社会の動態の下で「生ける法」であるから、憲法規範の本来の意味に変化が起こり、その趣旨・目的を拡充させるような憲法現実が存在すること、これは当然の現象で、とくに問題とする必要はない。 問題は、規範に真正面から反するような現実が生起し、それが、一定の段階に達したとき、規範を改正したのと同じような法的効果を生ずると解することができるかどうか、《そういう意味の》「憲法の変遷」が認められるか、ということである。 これについては、 ① 一定の要件(継続・反復および国民の同意等)が充たされた場合には、違憲の憲法現実が法的性格を帯び、憲法規範を改廃する効力をもつと解する説と、 ② 違憲の憲法現実は、あくまでも事実にしかすぎず、法的性格をもち得ないと解する説 とが、厳しく対立している。 基本的には②説の立場をとりながら、《政治的な》ルール(これをイギリス法に倣って憲法の習律〔convention〕と言ってもよい)として国家機関(議会・内閣)を拘束する一種の弱い法的性格をもつことを認める考え方もある、 およそ、法が法としての効力をもつには、国民を拘束し、国民に遵守を要求する「拘束性」の要素と、現実に守られていなければならないとする「実効性」の要素が必要である。 憲法変遷を肯定する説のうち問題であるのは、実効性が失われた憲法規範はもはや法とは言えない、という立場をとるものである。 しかし、いかなる段階で実効性が消滅したと解することができるのか、その時点を適切に捉えることは容易ではない。 また、実効性が大きく気傷つけられ、現実に遵守されていなくとも、法として拘束性の要素は消滅しないと解することは可能であり、将来、国民の意識の変化によって、仮死の状態にあった憲法規定が息を吹きかえすことはあり得る。 ①説の理論を安易に肯定することはできない。 ■3.芦部憲法論の致命的欠陥 ▼1.芦部憲法論の依拠する法概念理解(半世紀前の法学パラダイム) ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※左記の他に実は、自然法または根本規範を認めず、憲法制定権力も認めない(特定時点の国民が保持するのはせいぜい「憲法典 constitutional code」(形式憲法)を制定ないし改廃する権力(つまり「国政 national policy」を決定する権力)であり、「国制 constitutional law」(国体法=実質憲法)を制定・改廃する権力ではない、とする見解もあり、そちらが妥当である。(→リベラル右派の「国民主権」論及び保守主義の「国民主権」批判 参照。この場合「国制」(実質憲法)は過去から現代に至る世代を重ねた国民の長年のプラクティスの中から徐々に形成されるものと理解される。すなわち法の支配) ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男 は、芦部門下であるが、ハートの法概念論 を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) ▼2.ハートの法概念理解(現代の世界標準の法学パラダイム) ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※上図について、詳細な解説は法と権利の本質に関する2つの考え方 へ。 ▼3.(参考)長谷部恭男による芦部説の否定 自然法に基礎を置く根本規範・憲法制定権力が憲法典を授権する、とする芦部説は、その門下であり近年の左翼リベラル派の護憲論(憲法改正反対論)の中心的論者となっている長谷部恭男(東大法科大学院長)によってさえ以下のように明白に否定されている。 あえて憲法制定権力という概念を用いてこの問題-なぜわれわれは憲法を尊重すべきか-に答えようとするならば、より説得力のある途は、おそらく清宮四郎や芦部信喜がとった立場、つまり超実定的政治道徳たる根本規範によって拘束され、その授権を受けた憲法制定権力なるものを想定する途であろう。・・・(中略)・・・実定法体系を超える政治道徳に従い拘束されることによって正当化された憲法制定権力の行使の結果であるからこそ、現在の憲法典に従うべきことになる。しかし、そうであれば、むしろ憲法制定権力概念は無用の長物であって、直接に憲法典の道徳的妥当性、つまり超実定的政治道徳との整合性を論ずれば足りるのではないだろうか。憲法制定権力概念そのものには憲法典を正当化する力はなく、すべての正当化の力がその背後にある政治道徳に求められるのであれば、やはり憲法制定権力を持ち出す必要はないように思われる。それは不要な剰余ではないか。 憲法制定権力は、世界の存在を証明するために措定された人格神と同等の概念である。世界を創造する神という概念による世界の存在証明が筋の通ったものではありえないのと同様-(中略)-憲法制定権力は憲法の存在と妥当性について筋の通った説明を与えることはできない。 ※長谷部恭男『憲法の境界 』p.11およびp.22より抜粋 ■4.参考図書 『法学 (ヒューマニティーズ) 』 (中山竜一:著 (2009年))《目次》1. 法学はどのようにして生まれたか(なぜ法の歴史について学ぶ必要があるのか (西洋法の歴史 ほか)2. 生きられる空間を創る―法学はどんな意味で社会の役に立つのか(法に期待される役割と背景にある思想 (活動促進と紛争解決―民事法の役割 ほか)3. 制度知の担い手となる―法学を学ぶ意味とは何か(法学を学ぶ意味とは? (法的思考のいくつかの特徴―哲学との対比 ほか)4. 法学はいかにして新たな現実を創り出すのか―法学と未来 (法的思考で現実は変えられるか、難事案をどのように判断するか(一)―ドゥオーキンの構成的解釈 ほか)5. 法学を学ぶために何を読むべきか (BOOK GUIDE) ドイツ系(大陸系)哲学をベースにした従来の観念論的な「法哲学」ではなく20世紀後半以降に大発展した英米系分析哲学をベースとする「法理学」への扉を開く一冊。左右の全体主義に陥らない法学基礎理論の第一歩として非常にお勧め。なお、これとの対比で従来型の特定の観念・思想ゴリオシ型の「法哲学」の教科書として、笹倉秀夫『法哲学講義 』を挙げておくので、興味のある人はこの両者の法理論を比較してみられるとよい。(笹倉秀夫氏は丸山眞男の弟子で、同書も強度の左翼思想と自虐的史観に満ちており、現在の目で見ると明らかに特定思想のゴリオシが目立ち失笑ものである) 『二十世紀の法思想』 (中山竜一:著 (2000年))《目次》第1章 20世紀法理論の出発点―ケルゼンの純粋法学第2章 法理論における言語論的転回―ハートの『法の概念』補論 ハート理論における「法と道徳」第3章 解釈的実践としての法―ドゥオーキンの解釈的アプローチ第4章 ポストモダン法学―批判法学とシステム理論補論 脱構築と正義―デリダ「法の力」第5章 むすび 『法学(ヒューマニティーズ)』と併せて読んで欲しい。20世紀後半に起こった、ケルゼンに代表されるドイツ系(大陸哲学系)法学から、ハートに代表される英米系(分析哲学系)法学へのパラダイム・シフト(法理論における言語論的転回)に焦点を当てた好著。なお20世紀哲学の最大事件「言語論的転回」については『分析哲学講義』(青山拓央:著) が分かり易い。 『自由の条件』(全3巻) (F.A.ハイエク著(1960))《目次》第一部 自由の価値第二部 自由と法第三部 福祉国家における自由 自由主義の真髄を解き明かしてM.サッチャー(英元首相)のバイブルといわれた名著であり、自由と法の関係についてきちんとした知識を持つ上で必読の3巻本。続編の『法と立法と自由 』も3巻本で、一冊一冊が高価だが、図書館などで見つけて目を通して欲しい。論旨明快なため、内容はさほど難しくないはず。 『法の概念』 (H.L.A.ハート著(1961年)) 20世紀後半の法理論に大転回をもたらした記念碑的な一冊であり、現在の法を学ぶ者は避けては通れない名著。しかし一般向けにも興味深いテーマを多く扱っており、また用語も難解でないので読みやすい。法学徒は必読だろうが、そうでない普通の人にもオススメできる。《以下概要》本書では、まず「法は威嚇による命令である」という説を批判する。その上で、法を第一次的ルールと第二次的ルールとに分ける。第一次的ルールとは、制裁をもってして何らかの行動を強制するものである。第二私的ルールとは、法として有効である権能を与える(契約・立法・裁判など)ものである。法は不確定性をともなうので、法の周縁部においては常に解釈がともなう。他。 ■5.ご意見、情報提供 芦部信喜vs.佐藤幸治 http //togetter.com/li/421322 -- 名無しさん (2013-07-29 08 13 54) 名前 コメント ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ