約 741,917 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/437.html
目次 1.理想的ユートピア論とは何か 2.ユートピア世界におけるリーダー像 3.ユートピア世界におけるピラミッド型人的構造論 4.神理に奉仕するユートピアの生活 1.理想的ユートピア論とは何か さて、本書を締めくくるにあたり、理想的ユートピア論とは何であるのかを、もう一度まとめ直してみたいと思います。 ユートピアというものを、現在、私たちを縛っているもの、私たちを苦しめているものからの脱出というふうに考える向きが多いのは事実でしょう。しかしながら、私は、そういうふうにはかならずしも考えません。ある日、忽然と理想郷が誕生して、そこに住んでいる人がみな喜びに満ち溢れて、そして楽しくてしようがない、そういうユートピアができあがって、それで終わってしまうというふうには思わないのです。 私は、ユートピアとは一つのエートス、すなわち持続する精神状態のことをいうのではないかと思うのです。したがって、その精神的状態がユートピア状態にあるのであって、ユートピアといわれるものの客観的状況は時代とともに、年とともに、人びととともに変わってくる可能性がある、そういうふうに思えます。 すなわち、ユートピアというものは、その精神的なる部分は永遠不滅であっても、現実的な状態論、生活論においては時代とともに変遷することを認めざるをえないというふうに考えます。いやむしろ、私は変転する姿のなかにあって、変転しない精神を内包している姿こそユートピアではないかと思うのです。 ですから、今、私が説くところのユートピア論にしても、時代的制約があるのは、間違いないと思います。ただ、このなかに盛られた理想的精神は、死ぬことなく、絶えることなく、たしかに伝わり続けてゆくものであろう、そのように考えます。したがって、いつの時代にもユートピアを説く場合には、この理想的精神論と現実の実践論の両者を含むわけですが、現実の実践論は変化を常に内包するものでなければいけない、ということです。 元来、はるかなる天上界にあるところのユートピアは、少人数のきわめて優れた人びと、心を一つにした人びとの集まりでありました。それを、この地上に降ろしてくるというのですから、きわめて困難なことは事実です。それは私が、数多くの本で述べてきましたように、地上を去った世界においては次元別にいくつかの人びとの生活の場があり、そして、その次元が高度になればなるほど、理想的な人びとの生活の営みというものが展開してきます。それはそれはすばらしい人たちの集まりがあり、語らいがあります。 しかし、この地上世界というものは、地上を去った、そうした多次元世界の営みそのものを、そのまま反映するものではありません。そうではなくて、この地上世界においては、さまざまな人種、さまざまな魂の進化の度合、老若男女、こうした者たちが集まっています。したがって価値的に見れば混沌とした状況であります。価値ある者も、価値なき者も、玉石混交の姿でいっしょくたになっているのが、この三次元世界の真相であると思います。 それゆえユートピア創りにおいては、こうした混沌、カオスともいわれる混沌を何とか、一つの価値ある秩序において、整然とした世界を築いていくという努力が必要なのです。多次元世界にある価値秩序は、この三次元の世界においては必ずしもそのままは、妥当しないことでありましょう。しかしながら、私たちは今、私たちが現実に住んでいるところのこの三次元世界において、できるだけ高次元の神の理想に近い生活を展開するために努力すべきであろうと思うのです。そのためには、どうすればよいのか。 この私たちが生きている世界が、肉体と物質という桎梏(しっこく)に条件づけられているということは、止むを得ないことでありますが、この条件づけをある程度、不可避なものと考えても、それでもできるだけ実在界の価値秩序をこの世界に持ち来たらす、ということかだいじであると思います。 2.ユートピア世界におけるリーダー像 そうすると、理想的ユートピア世界には、それを構成する人の面での絞りというのが、どうしても必要となってまいります。この人の面とは何であるか。まず、神理を語る人、ユートピア建設のラッパを吹き鳴らす人が中心にならなければならないということです。あるいは、頂点に立たねばならないということだと思います。これを中心に置かないと、混沌は混沌のままに、無秩序は無秩序のままに、収まってゆくことになります。 地上的価値秩序でこれに近いものとして、たとえば頭の良し悪しという基準があります。勉強のよくできる人が、人の上に立つという制度です。これは、ある程度まで妥当する基準であります。ただ、この基準が妥当するのは、私は六次元神界と呼んでいるところの、この人を生かす世界のリーダーたちが、リーダーシップをとる世界にとどまるといえましょう。 これ以上の愛の世界、慈悲の世界、法の世界というものは、この頭の良し悪しだけでは計れるものではありませんし、この頭の良し悪しだけで計れるところのリーダーは自分を超えた、こうしたリーダーの存在を正当に評価できないという欠点があります。そういうきらいがあるのです。すなわち才能を超えた徳、徳業というものに対する評価が十分にできないということなのです。 したがって、私はこうした知的な能力を基準とした秩序階級ができている現代を必ずしも悪いとは言いませんが、それは七十パーセントぐらい妥当する世界である、と言っておきたいと思います。こうした才能を中心とした人の上に、徳のある人が指導者として立たなければならないと思います。そして、徳のある人は才能を愛するという、そういう傾向を持っていただきたいものだと思います。徳のある人よりも、才に秀でた方は数多くいるわけで、この徳と才とが相争っては、世の中の秩序はできあがらない。そのように私は思います。徳ある人は、その徳をもって人びとを照らし、そしてそのまわりに才能のある人、才ある人を集めて、そして実際の実践の面において、世の中をよくしてゆくという工夫が必要です。そして、徳は才を愛し、才は徳を尊敬するという関係をつくってゆかねばならない、そう思うのです。 ですから、この徳と才、このバランスと秩序を形成することかだいじなことではないでしょうか。もちろん、才と徳とを兼ね備えたリーダーが出現することは、限りなく大切なことであると思いますが、あえてその両者を兼ね備える人がいない場合には、徳を上とし、才を下とすることです。徳の人を上におき、才の人をその次におき、そして次なる段階にさまざまな善良なる人びとを集め、そして善良なる人びとの下に、次の発展途上の人びと、まだ人格形成中の人びと、未熟なる人びとを置くべきです。こうした社会階層ができなければなりません。 3.ユートピア世界におけるピラミッド型人的構造論 したがって、私が考えるこのユートピア世界における社会階層は次のようなピラミッドで形成されることになりましょう。 第一に、ピラミッドの頂点には徳ある人のピラミッドがあります。その下には、才能のある人がつきます。これが第二階層です。第三階層には善良なる人びとです、これがつきます。そして第四階層として、精神的にまだまだ修行の余地の多い人びとの階層がこれに続きます。こういう四段階の社会階層にしてゆきたいと思います。 したがって、教育的観点からこれをみつめてみると、まず第一には人間の性格のなかの悪しきものを取り去るという努力が必要です。精神的に未熟な部分に対する反省というものを、まず教育の第一段階に打ち出してゆく必要があります。すなわち、悪しき心の傾向性、また行動の傾向性というものに対する警告を教育の中心に据え、人の性質を善良なるものに変えてゆく必要があります。これが教育の第一段階です。 すなわち、現在学校教育においては、さまざまな知識教育をしておりますが、これは第一段階であってはいいわけではなくて、まず人間に善き精神状態とは何か、悪しき精神状態とは何かということを教えなければなりません。昔の道徳教育に代わるものを、何らかやらなければなりません。そして、人間性のベースを善にもってくる必要があります。まず、教育を施して、こういうことはしてはいけないこと、こういうことはしてよいこと、あるいはこういうことをした場合には反省をしなければならないということ、そういうことを教えるべきです。 具体的には、他人をいじめる思い、嫉妬する思い、非難する思い、苦しめる思い、やっかみ、そしり、いかり、愚痴、こういうものはよくないものだということを教え、この代わりに人に対するやさしさ、愛、慈(いつく)しみ、また、勇気、希望、こういうすばらしい徳目を教えて、そして人間の性質を善に戻す教育を第一段階に置くべきだと思います。 そして第二段階の教育においては、才能を伸ばすということに力を入れるべきです。すなわち、人間性のベースをまず善において、善なるものとして性格の形成をした上で、これに才能の接ぎ木をしていくわけです。才能の接ぎ木には、いろいろな学問の補強があります。現在、構築されているところの学問・研究があるでしょうし、それ以外にも、実社会における経済的な、あるいは経営的な手腕を発揮するという方向もあるでしょう。また、それぞれの専門家として、力を伸ばしてゆくという方向があるでしょう。これを次なる段階といたします。 そして、第三段階としては、この才能ある人のなかから、徳ある人をつくり出していく訓練が必要となってきましょう。すなわち、一般の人よりも才能的に優れている人を集めて、こうした人たちがどうすれば世の人びとをよくし、世の人びとを幸せにしていけるかという方向に教育をしていく必要があります。すなわち、個人の見地を離れて、社会全体をよくしてゆくために働こう、あるいは尽くそうという気持ちを植え付けてゆく必要があります。すなわち、才能ある人を集めて、そのなかから徳ある人をつくり出してゆく訓練が必要となります。 それは、まず第一には、発想の訓練が必要でしょう。発想の訓練として、愛を与え続けるという気持ちを持つということ。世の中に光を与え続けるという気持ちを持つこと。そしてすばらしい世界を創っていくんだということを、リーダーの使命として自覚させること。これらは単に個人の領域や、小さな自分の会社の発展だけを追いかけるのではなくて、社会全体への大いなる情熱として、これを強めていくことです。 そして最後には、こうした徳を宗数的見地にまで高めることがだいじである。そのように思います。宗数的見地という言葉は、ひと言で説明するのは難しいと思いますが、あえてそれをひと言で話すとするならば、自分の上に神がいるということを認める境地だと思います。常に神がおられて、自分を見ていてくださる、ということを信じている指導者の境地を宗数的見地といってよいだろうと思います。 人間のリーダーシップには限界があります。人間の力には限界があります。その奥にある力を信じない限り、この世的には、人間はどうしても自己顕示欲の固まりとなり、そうして小さな成功者になっていき、暴政をしいたり、また自分の権力のままにいろいろなことをしたくなっていきます。そんなことであってはいけないのです。やはり、自分の上に絶対者がいるという気持ち、超越存在がいるという気持ち、この気持ちを持つということが、人間を傲慢から防ぎ、そしてすばらしいものへと常に導いてゆくための鍵となると思うのです。 以上で、人間によってつくられる社会のピラミッドモデルをつくりました。この考えからいくと、たとえば大学教育など高等教育を受ける前提としては、まず情操教育が必要だと思います。善なるものを、その魂の基礎に持てるように、まず教育をし、そうした人の才能をさらに伸ばし、才能が伸びた上に、より多くの人びとの幸福を考える、そうした徳育を施していく。そして、最上のリーダーをつくっていく、そういう社会システムが必要だということだと思います。 これが人的構造論です。 4.神理に奉仕するユートピアの生活 第二に、理想的ユートピア論としてぜひとも言っておかねばならないこと、それは、神理の価値、神理を学ぶという価値をどうしても中心に置いておく必要があるということです。この世的に値打ちのあるものというものは、いろいろと規定されていると思いますが、最高に値打ちがあるものは神理であり、神理に奉仕する生活こそがユートピアの生活なのだという自覚を持つことだと思います。 神理を中心に生活がまわっているということがだいじです。その神理とはもちろん神から流れ出たものであり、そうした神から流れ出た教えが、法としてまとまったものです。この法というものを常に学びの中心に置いて、その上にさまざまな実用的な知識を伸ばしていけばよいと思います。人間性には、どうしても基盤が必要です。この基盤づくりを忘れたときに、人の心は唯物論に流され、そして欲望のままに生きてゆくことになっていきます。 組織論としては、先ほど述べましたように、より魂的に進化した人が中心になるような組織を展開すべきでありますが、日々の生活論・実践論としては、常に神理を片時も忘れてはならない。神理とともに日々生きる、そういう気持ちが大事です。それは人間の魂というものは、永遠に学び続ける、そういう必要があるのだということが、その根本になっています。永遠に学ぶことを忘れたときに、魂はすぐに転落を始めます。また魂はその値打ちを低下し、その能力を低下し、その素質を後退させていきます。ですから、永遠に進化していくためには、どうしても神理中心の生活ということが必要になります。 以上でユートピアのための二つの方法論を述べました。 最後に述べておきたいこと、それは、どうしてもどうしても言っておかねばならないことです。それが、何であるかというならば、とにかくユートピアというのは、結論において「私は幸福です。」と言い切れる人を数多くつくっていくことです。日本において、世界において、「私は幸福に生きています。」と言い切れる人を数多くつくることなのです。この努力に限界はありませんが、しかし目標においては可能な目標であります。その目標をめざし、その目標の達成に向けて、私も日々努力してまいりたいと考えます。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/46.html
目次 ・無心の祈りこそ神に通じる ・太初にコトバがありコトバが万物万象を生む ・美しい心情、美しい言葉が美しい世界を創造する ・あなたは可哀相な方、お経を背負って山越えをする老僧の姿 ・私は日本女性の鏡として一度生まれただけです ・金貨を投げ捨て銅貨を拾うアメリカ女性の生き方の愚 無心の祈りこそ神に通じる 今のあなた方は文明文化が進み、世の中が変って来て昔の、幽霊だとか、鬼だとか、妖怪だとか、或いは自然霊だとか、そうしたものがもうなくなってきたような気持ちでいるかも知れないけれども、決してそうではないのです。あなた方は、雨が降ったり、風が吹いたり、雪が降ったり、嵐になったり、そうしたことがどうして起きるかということを知らないのです。むしろ、私達の時代の方が知っていたのです。あなた方の時代はわからなくなっているのです。そして台風の予報をやったり、雨の予報をしたりしていますけれども、その本当の理由はわからないでいるのです。 空には黒雲というのが湧いて来ます。これは勿論水蒸気になってそして上昇していくんですけれども、水が蒸発していくだけでは雲は出来ないのです。雲を造るには、その雲をあらしめるための力がいるんです。雲が此処にこう出るような、そうした力がいるんです。雷雲には雷雲をつくる力がいるんです。風というものは何処にでも吹くのではないのです。風はやはり吹くべくして吹いているのです。 これは、あなた方お信じにならないかも知れませんけれども、自然を司どる神霊達が居るということなのです。昔古事記や日本書紀の中で、あなた方はいろんな神様、八百萬(やおよろず)の神々を知りました。火の神だとか、川の神だとか、山の神だとか、今日あなた方はそうしたことを一笑に付しておられます。けれどもそうではないのです。やはり自然に関しても霊というものがあるのです。ですから海の神もやはりあるし、海の中でもたとえば相模湾であるとか、駿河湾であるとか、そうした所を司どっている海神も居るのです。 また、いろんな嵐を起こすような霊達もいるんです。そうした自然霊が居るんですけれどもそれ以外にも、地上を彷徨(わまよ)っている悪霊達が様々な力を及ぼすことがあるのです。たとえば暴風雨、嵐というようなことが起きますと、もちろんそれを起こすそうした霊が居るんですけれど、それに乗じてくる霊達が居るということです。それが夫の日本武が平定して来た、斗争してきた人達の霊ですね。そうした者達が私達に対して悪意を持っていたぃにめに、様々な災を起こそうとしていたのです。そして海が荒れたわけです。ですからその時に私は、夫の身代わりとなって、海の神の怒りを鎮めるために一身を投げ出したのです。そうすると嵐が止んだと、そうした史実になっております。実際そのとおりであります。 私は、あなた方に教えておきたいと思います。祈りというものは大切なものです。祈りというものは、或る事を成就せんとして祈ります。祈りをする時には何んらかの希望を持っています。こうしたことが実現して欲しいという希望を持って居ります。しかし祈りというものは、いつも叶えられるものではありません。自我我欲の祈りというものは中々叶えられるものではありません。祈りの本当のすがたは、他の者に対する祈りです。他の者の幸せを祈る祈りです。自分を捨てたところに本当の祈りがあるのです。自分を良かれとする折りは中々神仏の心には通じないものです。自分を捨てた時、無心になった時にはじめて祈りというものは天に届き、神に届くものなのです。 私がしたこと自体は大したことではありません。ただ私は身を投げて夫を救おうとしたこと、その気持ちが天に通じ、また後の世に伝えられたということです。本当の祈りというものは、無私の祈りです。私を無くすということです。今の日本には、この無私の祈り、夫を思う妻の無私の気持というものが、段々になくなってきています。これが今問題なところですね。 言葉にはカがあるんです。常に美しい言葉を言っていないといけないのです。よろしいですか、言葉には力があるのです。悪しき言葉をあなたが仰るなら悪しき現象が現われてくるのです。″言霊″といいますが、言葉には力があるのです。清まった言葉を出さねばなりません。美しい言葉を使わねばなりません。言葉には力があるのです。言葉には霊があるのです。これを言霊(ことだま)といいます。 あなたは自分の言葉を、自分の思いの通り言っているつもりでいるのでしょうが、あなたの言葉はある時には善霊となり、ある時は悪霊となるのです。あなたが悪しき言葉を発すると、その悪しき言葉は悪霊となって世間を駈け巡ぐるのです。その悪しき言葉が他人の心の中に入り、また社会を駈け巡っていくのです。ですからロにする時は、決して悪しき言葉を出してはいけないということです。 邪悪な念いについての言葉は言わないことです。その言葉自体が一つの霊となって世界を駈け巡るのです。どうか常々清い心を持つだけではなくて、清い言霊を生むということです。 太初にコトバがありコトバが万物万象を生む 日本の神話の中には男の神様がお子様を生んだりするようなところがあったと思います。口から子供が生まれたり、眼を洗えば眼から子供が生まれたり、そうしたことがあったと思います。これは本当の意味で子供を産むということではなくて言霊なのです。よろしいですか、物が出来る、或いは生き物ができる、人間ができるためには、〈斯くあれ〉という言葉があるんです。男の子があれ、女の子があれ、姫君あれ、王様あれ、というコトバがあってはじめてそうしたものが生まれてくるのです。 ですから男の神様が子供を生むというのは勿論象徴的なことでありますが、口から霊を生むことは出来るということなのです。すべてのものが霊を生み出すことができるのです。よき言葉を使うということです。もっと良き言葉を使いなさい。目的において正しくとも悪しき言葉を吐くことは良くないことです。それは世の中を益々悪くされるのです。世の中が悪いとしても、世の中を悪いと肯定する言葉を出すと、世の中はもっと悪くなっていくのです。 美しい心情、美しい言葉が美しい世界を創造する あなたはどうも、知的なものを通して神の心を説かれようとしております。けれども知識とか、知力とか、そんなものではないのです。よろしいですか、神の本当のお心は何処にあるかというと念いなのです。感情なのです。世の中が乱れているのは知識的に過っているから乱れているのではないのです。感情の面で世の中が大分乱れているのです。いいですか、知識の面でも確かに正邪を分かつものはありましょう。けれども、一番この世の中の乱れを招いているのは感情なのです。念いなのです。人びと一人ひとりの念いなのです。まず人びと一人ひとりの念いを正しい念いにしていくということが大切なことなのです。知識を得たことによって人びとが、或いは世の中が良くなっていくのではないのです。一人ひとりの人が、その心から出す念いをよき想いに変えていくことによって、世の中は良くなっていくのです。 ですからむつかしいことを知ることが大切なことではないのです。一人ひとりの人間が、よき心情です。よき念いです。よき感情です。これを発揮してゆくということこそが本当に素晴しいことなのです。私達の世界はそうなのですよ、そんなむつかしい本を読んだり、むつかしい議論ばかりしているわけではないのです。ただ、私達の世界に住んでいる方々は、皆さん美しい心情を持っているのです。よき心情を持っているのです、真心を持っているのです。暖い感情を持っているのです。これが大切なのです。 神の国に入る最底の前提は、暖い美しき心情を持つということなのです。今私はこの日本の国、やまとの国のくに民を見渡して懐(おも)うことは、このよき心情、美しい心情、というものが喪われているすがただと思うのです。これが一番嘆かわしいところです。いろんなことを知っていることが偉いのではないのです。人の知らないことを知っていることが、或いは人の出来ないようなことをできることが、偉いことではないのです。世の人達は多く間違っております。道を求める人達もそうです。他人が知らないようなことを知識に得ようとしたり、他人が持っていないような力、法力のようなもの、念力のようなものを持とうとしています。けれどもこれは間違っているのです。そうではないのです。世の中をよくしていくものは、一人ひとりの″美しき心情″なのです。これを説いて下さい。 いろんな宗教家達は居ました。けれども美しき心情というものを本当に分り得た宗教家達は少なかったということです。あなた方の直接の守護指導をされているお坊様「日蓮」様という方がいらっしゃいます。この方は偉い方であります。けれどもこの方でも、私から見たならば、″美しき心情″ということ、本当の意味では分っておられなかったと私は思うのです。特に仏教示の方はそうです。″美しき心情″というものがどうも分らない。キリスト教の方も一部の方はそうです。日本神道というものをあなたは非常に低いものと、もしかしたらみておられるかも知れないけれども、美しい心情というものは何ものにも代えがたい素晴しいものなのです。 世の中の一人ひとりが美しい心情を、これを発揮するということ、美しき心情を発揮する方法は、美しい言葉をロから出すということです。世の中の人びと一人ひとりがよき心情を持ってよき言葉を出すようになれば、世界は神の世界となるのです。 あなた方はむつかしいことを考えておられます。何か世の中が変ってユートピアですか、そんな素晴しいものが、社会が出来るかのように思っておられるけれども、そのようなものではないのです。美しき心情と、美しき言葉、それがすべてなんです。これが私達の世界の条件なのです。私達の世界はそうなんです。違う人、会う人がみんな美しき心情を持っているのです。穢れのない言葉です。汚れた言葉を使う人なんて一人も居ないのです。悪しき言葉を語る人なんてひとりも居ないのです。いいですか、あなた方生きていく上において会う人一人ひとりに良き言葉を語っているか、良き言葉を出しているかどうか、心がね、あなたの心が見え透かされたとしても恥かしくないような心であるかどうかということです。ガラス張りの心を持って生きていたとしても恥かしくないようなあなた方であるかどうかです。 あなた方は、特に指導者となる方は、人前では美しき心情をとりつくろっても、私生活においては兎に角いろんな悪いものを詰め込んでいることが多いのです。けれども心はガラス張りにならねばなりません。あなた自身もそうです。あなたは他人の心は読めないと思っているかも知れないけれども、私達からみれば、あなたの心の中はガラス張りなんです。その中にはいっているものは皆見えてしまうのです。よき心情と、美しい言葉を持っていないと、非常に恥かしいことです。 あなたは可哀相な方、お経を背負って山越えをする老僧の姿 結局は澄み切りましょうということなのです。ただ澄み切った心を持てばそれでよいのです。ですからむつかしいことは何もいらないのです。世の中はずいぶん変って来ましたでしょう、交通の便もよくなり、様々な書物が氾濫し様々な職業が出ているでしょう。ただ要はどのような環境の中にあっても、澄み切った心を持って生きていくということに尽きるのです。ただそれだけのことなんです。これだけのことができれば世の中はずいぶん平和に美しくなってくるのです。 むつかしい知識によって人々を救えるのではないのです。澄み切った心になること、清い心になること、よき心情を持つこと、これなんです。知識の山を背負って神の国に入って来るわけではないのです。そういう無駄なことによって、かえって人間は苦しみをつくっているのです。知識が増すということは、かえってよき感情というものを歪めてしまう場合があるのです。世の中の知識人といわれる方々はほとんどそうなのです。知識の領域ばかりが徒らに増えていって感情の領域が窮屈になってきているんです。 けれども、神の世界に来る一番大切なものは何かというと、よき感情だけなんです。これさえあればよいのです。頭が良いとか、悪いとか、世の中で役に立つことをしたとか、しないとか、そうしたことではないのです。よき心情、よき気持、よき感情を持って生きた人間なら、みんな私達の世界へ入って来るんです。たったそれだけのことです。そのたったそれだけのこと、幼児(おさなご)にもできるようなことが、六十年、七十年の人生を生きてくるとできなくなってくるのです。 人間は本来幼児のように澄み切った心、無邪気な心を持っているのに、五十年、六十年と生きてくると様々な皺を順に刻んで、様々な苦悩に打ちひしがれた顔になって、腰も曲がり苦悩に喘(あえ)いでいるのです。ですから何んとかしなければいけない。どうにかして現状を打開しなければいけないというような苦悩の思いや、焦りの思いや、悩みの思いは、これは不用なものなのです。ただ心を澄ませることのみに人びとは専念すればよろしいのです。 余計なものが多いのです。心澄まそうと思っている人でさえ何百巻ものお経を背負って山道を歩いているようなものです。何かむつかしいことがあると思っているのです。神様の世界に入るにはむつかしいことがあると思っているのです。ほとんどの人がそう思っているんです。何か特殊な他の人々にはできないようなことをしなければ神様の世界に入れないと思っているのです。そうではないのです。重荷をはずして清らかな心を持てばそれでいいのです。こんな簡単なことであるからかえって出来ないのです。簡単すぎるがためにかえってできないのです。 あなた方は機械が発達したり、乗物が発達したりして世の中が良くなって来たとか、そんなことを思って居られるのでしょう。私達から見ていると非常に気の毒なのです。皆さん機械が発達し、乗物が発達するにつれて、本当に″よき心″というものを段々に忘れていっているのです。ただ本当は、そんなむつかしいものではないのですよ、神理というものは本当はそんなむつかしいものではないのですよ、それだけは心のどこかに留めてはいてほしいと思います。ほんのそこに有るのです。掌を上に向けると神理が降って来るのです。そんなものなのです。 私は日本女性の鏡として一度生まれただけです 生まれ変りというものも、まあ生まれ変る度によくなるなら結構ですけれども、生まれ変る度に心が真黒になっていくのであるならば、むしろ生まれ変らない方がよろしいのです。ところが人間というものは、どうしても地上に心ひかれていくのです。どうしても心引かれて生まれ変っていくのです。 私の使命は一度生まれたらそれで終ったのです。私は、日本の女性はこのようにありなさいというその姿だけを示すために生まれたのです。ところがその日本の女性が、アメリカの女性を真似しはじめて、私が教えた”よき心情“というものを喪いつつあるのです。これは非常に歎かわしいことであります。 自分は夫とは独立した別の個性であって、自分は自分で幸せであらねばならぬ、そう思って二つの幸せを追っているのです。人のために捧げ尽すという幸せが分らなくなって来ているのです。女性の本当の美しさは、献身にあるのです。尽すところにあるのです。私を空しゆうして人のために献身する。身を挺する、ここに本当の女性の美があるのです。それを私は示すために生まれて来ました。今その私が教えたものが日本女性の間から、喪われようとしています。 金貨を投げ捨て銅貨を拾うアメリカ女性の生き方の愚 人間社会でも、自分が金貨を持っており、相手が銅貨を持っているとして、自分の金貨を捨てて相手の銅貨を得るような人は、これは非常に愚かな人と言われるでしょう。ところが心の世界においては金貨を棄てて銅貨を得ようとしている人が一杯居るのです。それが今の日本の女性の大半です、アメリカ的な女性の生き方というのは、これは銅貨なのです。ところがなぜか。自分の持っている金貨を投げ棄ててしまって、その銅貨ばかりを集めようとしているのです。 どうか日本の女性に、この機会を借りて訴えて置いて下さい。″あなた方、何か考える方向が違っているのではないでしょうか″そういうことをよく訴え置いて下さい。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/349.html
目次 1.唯物論と唯心論 2.マルクスの唯物論とダーウィンの進化説は逆流現象 3.人間はアメーバーから進化してきたのではない 4.心とは一体何なのか 5.生命の実相と正しき心の探究 6.地球人類、数億年の歴史を語る 7.古事記とコーランの成立が同時代である事実 8.天之御中主之神と天照大御神の実像 9.「生長の家」の大神の主神は天之御中主、副神は住吉大神 (1987年6月29日の霊示) 1.唯物論と唯心論 谷口雅春です。引き続き、第2章に入っていきたいと思います。本章においては、谷口哲学の本質とも言える、「唯神実相哲学」についての話をしていきたいと思います。 これは、生前の私の説に対して、まあ、さらにこちらの世界に還ってからの研究を加えて発表をしたいものだと考えております。 さて、この世の中の成り立ちを説明する仕方としては、古くから二つの説明の仕方があると言われておりました。すなわち、唯心論と唯物論、この対立であります。唯心論というのは、心ですね。心しかないという考え方。唯物論というのは、ものしかないという考え方。この両者が対立的に、論争されてきたわけであります。 まず、唯物論の考え方としては、やはり世界というものは、現にあるものがあるのであって、現にないものをあるように言うのはおかしい、と。すなわち、目の前にあるもの、机であり、椅子であり、家であり、大地であり、草花であり、動物であり、人間の肉体でありますが、このような現に目で見、耳で聞き、手に触れられるものこそ、実在であって、これ以外のものがあるわけではない、と。こういうふうに考えるわけであります。非常に、現実主義的な考え方とも申せましょう。 しかし、唯心論の側から、これに対して、反駁(はんばく)が加えられるわけであります。宇宙があると言うのは、宇宙を、宇宙として認識しているお前の心があるからではないのか。心があってこそ初めて、地球も、宇宙も、岩も、山も、川も、海も、他の人間も、あるのではないのか。お前という者に心なくして、そのような存在が一体あり得るであろうか。唯心論者は、このように言うわけであります。 唯物論者は、これに対して、さらにまた反駁し、その心、心というお前を乗せておる地球は、お前が心を語っておる間にも、クルクルと自転をしておるのだ。すなわち、心で見るだとか、見ないだとか、そう言っておる間にも、お前が立っている大地は、動いておるのだ。これこそが実在でなくして、一体何か実在であるのか、と。まあ、こういうふうに言うわけであります。 この辺に関して、さらに突っ込んだ説明をしたうえで、私の唯神、つまり、神のみがあるという唯神実相哲学へと話を進めていきたいと思うのです。 2.マルクスの唯物論とダーウィンの進化説は逆流現象 そこでまず、唯物論について、今少し検討をしてみたいと思います。唯物論というのは、考え方としては、もちろん大昔からあるわけでありますが、マルクス以来、つまり、ここ百年ばかり、非常に唯物論が一世を風靡(ふうび)してきたかのごとくであります。そして、このマルクスの唯物論と、科学者のダーウィンによる人類の進化の仮説、この二つがたまたま相まって、この百年ほどは、唯物論が時代の主流を占めているかのごとき景観を呈していると思われます。 その時代の流れのなかにある人間は、ともすれば、そのことを当然だと考えがちでありますが、しかしながら、これは必ずしも当然の流れではないのであります。 たとえて言えば、川というものがあります。川の水は上から下へと流れていくのでありますが、そのところどころにおいて、流れが逆転し、逆流しておるところがある。ここがひとつの淵とか、淀(よどみ)とか言われるところであって、そういう淀の部分に流れが入ってくると逆流して、まるで水の流れが川下から川上へと流れているようにグルグルと廻っているように見えるのです。 しかし、これは、本来の川の流れではないのです。同じように、人類の思想の流れというものを見てきても、大部分は上から下へと流れてきたものではあっても、その一時期、こうした川の淵のなかに入って、水が逆流しているかのごとき現象が出ることがあります。 人間を一枚の木の葉だとするならば、この木の葉が逆流したときに、彼らは、どちらが正しい流れかがわからなくなることもあるわけです。しかし、大きな目で見れば、川は上から下へと流れている。それが、わかる。これは真実であります。 私たち宗教家の教えというものは、結局、こういうことであります。いつの時代でも、川の流れというものは、上から下へと流れていくのだ。つまり、唯一の神から人間へと、そして、地上へと降りてきておるものだ、と。いつも、このように教えているものであります。 したがって、ダーウィンの進化説だの、マルクスの唯物論などが、一世を風靡(ふうび)しておるように思っても、これは、いわゆる逆流現象にしかすぎないのではないかということを、よくよく心に留めていく必要があると思うのです。 3.人間はアメーバーから進化してきたのではない 日本では、現時点において、共産主義というのがそれほど人気がないがために、マルクスの思想というものが過大評価されることは少ないと言えましょう。しかし、ダーウィンのほうの進化仮説に関しては、文部省までもがテコ入れをして、全国的に普及をしておるようであります。 ただ、真実を語るとするならば、やはり進化論のなかにも、重大な誤りがあると言わざるを得ません。その重大なる誤りとは、一体何か。結局のところ、霊的なるものの存在を認めてはいないということです。これが、重大なる誤りだと言えます。進化論が扱っておるものは、結局、肉体としての生物がどう変わってきたのかを追っているにすぎません。猿が人間になったのかどうか。あるいは、魚が両棲類(りょうせいるい)となり、両棲類が爬虫類(はちゅうるい)となり、爬虫類から哺乳類が出て、哺乳類が進化して、現在の人間になったかどうか。と言うことは、結局のところ、肉体の歴史を追っておるだけなのであります。 もちろん、こちらの世界から見た霊的な歴史観から見れば、地上の動物というものも、何百万年、あるいは、それ以上の歳月のなかにおいて、さまざまにその形が変わってきたことは事実であります。しかし、形が変わってきたそのつどつどに、神が粘土をこねてそういう動物を創ったわけではないことも、また事実なのです。 鳥なら鳥というものが現われたときに、その鳥がさまざまに変化していったという、そういう変化の道筋というものが確かにあったとは言えましょう。また、人間の人体というものも、長い歴史のなかにおいて、さまざまに変化してきたことも、事実です。すなわち、それらは、やはり、この地球という環境に適応するような形に変わってきたのです。 それは、外見だけにとらわれなくても、つまり、うわべだけの人間が、二本手があり、頭がひとつで、足が二本、目が二つ、鼻がひとつ、口がひとつ、耳が二つ、というような、こういう大きな外見だけにとらわれなくても、皮膚の色ひとつを見ても、そうです。熱帯地域に住んでおる人たちは、やはり黒い色をしております。熱帯に住んでおって、白い色をしたという人はいない。 また、純粋に北方の地方に住んでおって、黒人のような色をしている人はいない。もちろん、アフリカから移住して来た場合も考えられるから、黒い色をしておる人がいないわけではない。ただ、熱帯地方の人は黒く、北方の人は白い、これは、事実であります。こうしてみると、結局、人体にも、環境による影響が現われているわけです。 洞窟のなかに住む生物とか、深海のなかに潜(ひそ)む生物は、太陽の光を受けないがために、真っ白な体をしておるようによく言われております。同じように、光の薄いところには、そうした白い肌の人たちが数多く出て、目の青い、透きとおるような目をした人が数多くおるのです。一方、直射日光を受けるところでは、あたかもサンマが火に焼かれるがごとく、皮膚の黒い人たちが数多く出ておることも事実です。 また、食べものによっても、変化がありましょう。草食民族と肉食民族とが、体型においてもかなり違っておることは、あきらかです。肉食を中心とした人種は、やはり体が大きい。逆に、草食、つまり、稲作であるとか、麦作であるとか、こうしたことを拠所(よりどころ)として生活をしてきた人たちは、全般に、やはり小柄である。こうしたことは、否めない事実であろうと私は思います。 ただ、このように、環境的変化は変化として、人体に影響を与えてはおるわけですが、そうした肉体以前に、人間という観念が宿った霊があったということ、これは、否定できないのです。ですから、人間だけの知性と理性を備えたものが、偶然にできてきたという考えがありますが、これは、まったく世界を惑(まど)わす考え方であると言わざるを得ません。 皆さん方は、本当にあの進化論を信ずることができるのでしょうか。アメーバーが何億年かしたら、本当に人類のようになってくるのでしょうか。そうしたことを信じられるでしょうか。もしアメーバーが人類になって、こうした知的遺産を残すようになるとするならば、そのアメーバーが人類になるがごとき方向に導いているエネルギーに対する敬礼脱帽というものをせざるを得なくなるのではないでしょうか。私は、そう思います。 人間というのは、魂において、やはり神から分かれてきたものなのです。神の属性を、その本来の属性として持っておるものなのです。こうした霊的側面から見るならば、進化論、あるいは、唯物論というのは、大変な間違いであると言えると思います。 4.心とは一体何なのか 日本の昔の歴史書、たとえば、古事記とか、日本書紀をひもといてみると、日本列島というのは、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の命(みこと)によって国づくりがされたということが記されております。雲の上から鉾(ほこ)でもってかき回して、その雫(しずく)が落ちたところが、すなわち、日本列島のさまざまな島になったというような神話が残されております。まあ、神話は神話でありますが、少なくとも、こうした日本列島のような島国をつくるに際しても、それをつくるという計画が、すでに神の国においてなされておったということは、事実であるわけであります。 このように、この地上的なものごと、こうしたものは、単に偶然にできるのではなくて、大きな計画のもとに、やはりなされておるのです。 こうしてみると、唯物論、唯心論の両方を紹介いたしましたが、どちらもまだ不十分なところがあると言わざるを得ません。 なぜならば、唯心論と言われているものも、唯心の心、これが単なる心だととらえているかぎりにおいては、まだ探究の不足が、そこにあると思われるからです。つまり、その心とは、一体何なのかということがわからない。 この心というのを、単なる知覚能力、認識能力だというふうに受け取るとするならば、これは、あきらかに間違っていると言えましょう。自分が見ることができるならば地球はあるけれども、見えなければ地球がないとか。目が見える人にとっては赤い色が実在するが、目が見えない人にとっては赤い色はないとか。こういう議論は、不毛であります。現に赤は赤としてあるわけです。それは、目が見える見えないには関係しないのであります。 また、心のなかで地球というものを認識しようがしまいが、地球というものが、一日二十四時間で自転をし、一年三百六十五日で太陽の周りを公転している、これもまた、事実であります。こうしてみると、心というのを単なる認識能力、知覚能力と考えた場合には、それのみでもって、この世界観、宇宙観を説明をするのは無理であります。 そこで、この心というものが本当の意味で何なのかということを、さらに私は検討してみたいと思うのです。 まあ、「正しき心の研究」ということを標榜(ひょうぼう)しておるようであるけれども、そもそも、この正しき心というのは一体何なのか。これを、私の実相哲学と比較して考えてみなければならぬと思うのです。 私は、あるところでは、「本来心なし」と言い切ったこともあります。これは、禅で言う「喝(かつ)」でもあるわけですけれども、宗教家の陥りやすい陥穽(かんせい)、つまり、井戸として、心、心と言って、心にとらわれすぎるところがあるんですね。 そして、いつの間にやら、それに振り回されておる。一日中思ったこと、たとえば、何かを思うと、「ああ、こうぃう思いをする自分はダメだ」とか、どうだとか。こうして、一生懸命自分自身を裁くもうひとりの自分というものを見い出したりしておるようです。心、心と言っておるうちに、自分というのが非常に惨めに、情けない存在へとなっていって、その結果、人生に希望も勇気もなくなるというような、こういうことが多々あるわけであります。 すなわち、心という言葉に、あまりにも多義的な意味が与えられすぎておるわけであります。私は、「心なし」と言ったこともありますが、「心なし」と言った理由は、そうした迷うような心は、本来ないのだということを言っておるのです。ああ思った、こう思った、失敗した、間違った、ああした、こうした、という胸のなかを去来している想(おも)いというのは、本来のものではない。心、心と思っておるけれども、こういうのは、たとえば、木炭車が走るときに出るような、スモッグ、いねば、煙であって、本来のものではないのです。 本来の人間の本質には、どのようなことがあっても動じない、迷わない、そうした金剛石のようなものがあるのです。そして、この部分は、各人、すべてに共通しているのです。そして、こうした金剛石の部分がなければ、何故(なにゆえ)に、すべての人に対して、真理だとか、正法だとかいうような、こうした普遍の原理を押しつけることができるでしょうか。 心というのが、各人の自由になるものであって、それぞれ勝手にいろんなことを思ってよいのであるならば、どうしてこれこそが真理だと言って、日本人や外国人、あるいは、いろんな地域に住んでおる者に対して、それを押しつけることができるのでしょうか。そういう安売りは、できないはずであります。 そうした押し売りができるということは、結局のところ、それぞれが得手勝手に、心、心と思って振り回しておる心の中心に、共通の一本の黄金の糸があるということを示しておるのです。 5.生命の実相と正しき心の探究 そして、この中心にある黄金の糸、心を操(あやつ)っておるところのさらに中心部分こそが、私の言う「生命の実相」の部分なわけであります。 すなわち、人類の心のなかに共通に織り込まれている黄金の糸、これが生命の実相であるということです。 私の考えによれば、私の言うこの生命の実相というのは、実は、現在、「〇〇〇〇〇」というところで言っておる正しき心の探究ということと異ならないと思うのであります。正しき心の探究とは、結局、仏性の探究であろうし、仏性というのは、結局、人間神の子の思想、すなわち、生命の実相であろうと思うのですね。 こうして見ると、人間の思い、あるいは、行動というものも、この仏性がどのように現われて展開していくという過程であり、また、この地球にある万生万物、動物や、植物や、鉱物、これらすべても、実は、仏性が自己展開していく姿にしか他ならないということができると思うのであります。 では、仏性とは一体何なのでしょうか。仏性とは、すなわち、神の意志であります。あるいは、神の光の本質であります。結局のところ、そういうことであります。唯一の神から分かれてきた人間が、そのさまざまな場面、場面、段階、段階に応じて、仏性、神性の発現のために努力精進しておるということなのです。 努力しておる人間というものが、神から分かれてきたものであるならば、この神から分かれてきた人間も、やはり神の心によって創られ、この地上において生活をしておるのです。そして、神の子が、結局、神の創られたもののなかで生きておるのですから、そこは本来、この世もあの世もない実相世界しかないとみるのが筋なわけです。 この世というものを有限の世界、限られた世界と思い、この世の法則のみをすべての法則だと思うところに、人間の悩みや苦しみの根本の原因、すなわち、無明(むみょう)というのがあるのです。 そして、この無明というのは、摧破(さいは)せねばならん。この迷いというものを、打ち破らねばならん。私が、聖経『甘露(かんろ)の法雨(ほうう)』のなかで語っておるように、そういう無明というものは迷いであるのだから、これは一蹴せねばならぬのです。 本来は、神の子の実相しか現われておらんのであり、本当にその神の子の本質に目覚めた目で見れば、この地上世界というものも、山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくどしつかいじょうぶつ)、すべてこれ仏性ありということです。 釈迦が悟ったとき、山も、川も、草も、木も、動物も、植物も、すべてそこに仏性、すなわち、神の子としての本質が光っておるということを悟ったと言われております。そして、そういう悟りを開いたときに、苦の世界と、苦しみの世界と思われていたこの地上が、実は輝ける黄金の世界であり、金剛石の世界であるということに気がつくわけです。 なぜならば、この地上で存在しているものすべてが何故(なにゆえ)存在しているのかを知ったときに、その本質を知ったときに、すべてが仏の生命の現われであると悟ることができるからです。 こうした見地から見ると、たとえば、昔から言う、本来悪というのがあるのか、ないのか。こうした問題は、けりがつくわけであります。 本来悪というものはないのです。悪と見えしものは、これはやはり、川の流れのなかに生じてくるうたかたの泡(あぶく)のごときものであり、また、逆巻く波のようなものであって、波は波としてあるように思うけれども、風が治(おさ)まってみれば、実は波というものはないのです。すなわち、悪というものは、本当はないのです。 神理というものは、あるいは、人間の仏性、神性というものは、春の小川のように、サラサラと流れているものなのです。とはいえ、サラサラと流れているなかに、春一番の風が吹いて、表面に小波(さざなみ)が立つように見えることがあります。 この小波のことを悪と言ったり、迷いと言ったりしておるのですが、その小波が本来あるものでないことの理由は、やがて風が止めば、そうした小波が治まり、元のサラサラと流れる春の小川となっていくことからもわかりましょう。 6.地球人類、数億年の歴史を語る まあ、そうしたことで、大まかな説明をしてまいりましたが、せっかく谷口雅春が如来界に還って、さまざまな見聞をしておるわけでありますから、この谷口哲学、唯神実相哲学というものを、実相の世界から見た考えというものの再検討というものを、もう一度してみねばならんのではないか。と、このように考えるわけであります。 そうしてみると、ここに、私はひとつの問題点があったことを認めざるを得ないと思うのであります。すなわち、それは、私が神という言葉で定義をしておったものの本質についてであります。 古事記や日本書紀に現われてくるような神というもの、たとえば、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)というのが、根本神のひとつとして記されておりますが、私は、この天之御中主之神というものを、いわば、宇宙の中心神、根本神であるというふうに考えておりました。 ちょうど大日如来が、仏教のほうで言うと、大宇宙の神か仏であるように言われているのと同じく、天之御中主之神こそが、宇宙の根本神のように考えておりました。 しかし、こちらの世界に還って来て、どうやら事情が違うらしいということに気がついたわけであります。つまり、私は、生前、人類の歴史というものは、たかだか数千年、あるいは、数万年程度のものだと思っておったのでありますが、こちらに還って来て、人類の歴史というのは、そんな浅い歴史ではないということを知りました。 現在、人類の祖先である直立猿人であるとか、北京原人であるとか、こうしたものは、五十万年前、百万年前の存在だと学問的には言われておるそうだけれども、実際の人類の歴史というものは、もっともっとはるかに古いものだということを、私は知ったのです。まさに、気が遠くなるような古い昔から、人類というのは、実はこの地球で魂修行をしておったのだということを、私は知りました。 恐竜の時代と言われる、そういう何億年か昔の時代があったことを知っていると思いますが、その恐竜の時代に、すでに人類はひとつの文化文明を持っておったことがあきらかにわかったわけであります。すなわち、人類の起源は、地球においては、すでに数億年の歴史を持っておるということを、私はこちらの世界に来て、知ったのです。 これは、生前、私がとうてい悟り得ていないことでありました。恐竜の時代においても、やはり人類は住んでおって、恐竜たちから身を守るための文化というものを生み出しておったのです。そういう文化や技術というものを持っておったのです。 ただ、いかんせん、一億年、二億年、三億年前の話であるからして、ほとんどその痕跡が残っておらんのです。その痕跡が残っておらん理由は、さまざまな地殻変動が起きてきたからです。 現在エベレスト山のようになっておる一万メートルもあるような、ああいう高い山であっても、かつては、海底の底にあったのです。そして今、海底の底にあるものが、かつて山であったり、あるいは、大陸であったのです。過去何億年の間に、地球の表面というものは浮いたり沈んだりして、幾度かの地殻変動を繰り返してきていることを、私は知りました。 それはちょうど、古事記、日本書紀で言うところの国づくりのように、島ができたり、国引きをされたりするようなことが、現実にあったわけです。ある島が浮上して大陸となり、地続きとなったり、文明を誇っておった大陸が沈没して、海の底に横たわったり、こうしたことが数かぎりなくあった。そういうわけで、かつての文明の面影というのがほとんどなくなってしまった。また、ノアの箱舟のような現象も数多くあって、そのつど、人類はひとつの洗礼を受けて、新たな文明を再スタートするという、こういう歴史があったわけです。 7.古事記とコーランの成立が同時代である事実 三億年ぐらいにもなりましょうか、こうした人類の歩みというものを振り返ったときに、たかだかここ三千年ぐらいの歴史というものは、ほんの昨日、今日であります。ほんの昨日、今日にあたるわけです。人類の歴史というものを、人間の七十年という人生に比較してみるならば、私たちが人類の歴史として現在知っておるような三千年ぐらいの歴史というのは、本当に昨日のことです。昨日の日記帳を開けば書いてあるようなことであるわけですね。 そうすると、昨日の日記帳に書いてある天之御中主とか、あるいは、国常立之神(くにとこたちのかみ)であるとか、こういう神様というのは、本当に宇宙の根本神であるかと言えば、実はそうではなかったということであります。 これは、「生長の家」の信徒にとってはひとつの驚きであり、私の考えの大いなる改説であるととられるかもしれないけれども、古事記、日本書紀がつくられたのは、今から千数百年前です。ですから、ほんの千数百年前の人が宇宙開闢(かいびゃく)の神について知っていたと考えるのは、これはやはり、事実認定に誤りがあるのです。 今から二千年後、たとえば、「生長の家」総裁であった谷口雅春も、まあ、根本神か、日本の最初の神様のように言われるようになるでしょう。すなわち、人類の歴史というのは、そう古い記憶を持ってはおらんのです。 そういうものであって、奈良時代に宇宙の根本神と言われておったような神様というものは、結局、その千年か、二千年前に地上に生きて、人びとを指導しておった偉大な人であったということなのです。 三億年というひとつの大きな時間の流れを見れば、ここ二、三千年の間に現われたる神格というものは、やはり宇宙の根本神ではないということです。私は、これを知りました。ですから、古事記、日本書紀そのものを鵜呑(うの)みにしてはならんのです。もっと古い時代から人類の歴史はあったのです。 古事記や日本書紀がつくられた時代というのは、結局のところ、アラビアにおいてマホメットがコーランをつくった時代とそう変わらんわけであります。マホメットは、コーランのなかで、天地創造の神アラーのことを述べておるようですが、真理の書というのは、天地創造について述べねばならぬ義務があるために、そういうことを言っておるのだけれども、天地創造というのは、はるかなる昔に行なわれたものであって、いかんせん、人智を超えておるものなのです。 したがって、真実を語れば、天之御中主之神といい、天照大御神といい、実は、今から三千年近い昔において、日本の国に肉体を持たれた光の天使であったということなのです。その証拠は、あの古事記という書物のなかに、神々の姿があまりにも人間的に描かれているところに現われていると言えましょう。岩戸隠れをしたり、踊り狂ったりする神様方。あるいは、酒を飲み、嫉妬をする。あるいは、喧嘩をし、戦(いくさ)をする神様の存在を見たときに、これは実相の神ではないということです。 すなわち、かつてそういうような優れた方たちが地上に降りたことがあって、その伝承が伝わっておって、古事記や日本書紀にまとめられたというわけであります。 8.天之御中主之神と天照大御神の実像 天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)というのは、いわば日本の中心神、つまり、指導神であって、やはり光の大指導霊のひとりであるわけです。そして、日本神道系では、最高の力を持っておる方のひとりであったということです。 まあ、神武天皇という者がいたというふうに歴史のなかで言われておりますが、実際は、そういう偉大な初代の天皇の姿というのは、今から三千年近い、二千数百年前の昔に天孫降臨した、つまり、実相世界から地上へと肉を持って降り立った、そうした偉大な大指導霊の活躍を語っておるわけであります。 天之御中主之命というのは、現在の天皇家の、いわば肉体先祖にあたると言える方であり、今から二千八百年近い昔に、肉体を持たれた方なのです。 天照大御神(あまてらすおおみかみ)と言われる方も、天之御中主之命、この天之御中主之神が九州の地に肉体を持たれて何代か下がったときに出られた方です。天照大御神、この方も、結局、今の九州の地において、天皇家の前身である九州朝廷のなかの女神、つまり、女性の皇后であったのです。皇后という言葉は正しくないかもしれないけれども、まあ、女性の統治者であったわけです。 そして、この天照大御神と言われている方は、谷口雅春が過去世、前世は伊邪那岐大神(いざなぎおおかみ)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)であるということについては前巻において述べておりますが、その私が伊邪那岐として地上に肉体を持ったときに、実は、私の長女として生まれた者なのです。 当時、主として南九州のほうに、天之御中主から始まる偉大な王朝というのがあったのです。そして、伊邪那岐命と言われている私は、やや南ではない、今の大分県のあたりの豪族として生まれて、そこで力を持っておったのでありますが、この南九州王朝に出た指導者のなかに、霊的能力を持っておる者がおって、その者に対して、天之御中主之神から神示が下り、「今の大分県のほうに住んでおる伊邪那岐命という者の娘に、天照という者がおる。この者を次期の女王とせよ」という神示が下った。そのため、私の娘であった者が、その朝廷の女性の統治者となったのです。こうした事実があったということです。 まあ、こういうことはにわかには信じがたいかもしれないけれども、人類の歴史というものを、たかだか三千年と考えるからそうなるわけであって、何億年もの歴史があったということを前提にするならば、こういうことも、つい昨日、一昨日のことなのです。 現在の人類が生きておるように、千年前、二千年前、三千年前の人類も、やはり生活をしておって、そのときのみに神々が降臨しておったわけではないということです。 結局、根本神と言われておるのは、それは人間が言っておるのであって、本当の根本神の姿を、人間がつかむことはできないということです。 9.「生長の家」の大神の主神は天之御中主、副神は住吉大神 したがって、天之御中主之神という方も、私のいる世界における最高に霊格の高い神霊のひとりでありますが、いまだ人格を持っておる霊であって、かつて肉体を持たれた方であるのです。 そして、「生長の家」の大神と言われていた方が、実は、この天之御中主之神その人であったということを、私は知りました。この「生長の家」の大神、すなわち、私を悟らしめ、私に、「本来肉体なし」「病なし」の教えを説かした、光明思想を説かしたその張本人が、天之御中主之神であったのです。 住吉大神(すみよしのおおかみ)こそが、「生長の家」の大神だということもずいぶん言いましたが、住吉大神というのは、実は、協力した神のひとりであって、中心神としては、天之御中主之神がおったのです。 そして、その他の「生長の家」のさまざまな活動を助けるがために、住吉大神というのが活動をしておったのです。すなわち、「生長の家」の大神と言われた方も、ひとりではなくて、数名の方がたが活躍しておったということです。 これに関して、私は、生前、明確な悟りを得ることはできていませんでした。ですから、そのことについて、本霊示集において、修正をしておきたいと思うのであります。本章は、以上で、私の唯神実相哲学の話とさせていただきたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/32.html
目次 1.神について 2.光について 3.徳について 4.礼節について 5.政治について 6.人間について 1.神について 日本神道においても、神々と言われている方は、多くはかつて地上にて肉体を持った方々であります。そして、地上にて肉体を持った方が、地上を去ってあの世に還られて後、また次の時代に地上にでた霊能者たちに、様々な霊指導をして、自らの名を明らかにしたということが事実であったと思います。 わたくし、天照も、今では太陽神の象徴であるように言われたり、あるいは根本神であるように言われたり、いろんなことを言われておりますが、やはり私も、今から二千数百年の昔、三千年近い昔に、日本の九州という地方に生まれたひとりの女性であり、また、女性として生まれて、女性の統治者となり、霊能力を授かって人びとの心を導いていた人間でもあったということです。そうした古代においては、統治者であり、かつ神の声を聴けるということが、神人であることの証明でありました。 私より、数代前には、天之御中主之神と言われた方もいらっしゃいました。その方が、実は日本神道系においては、現在最高度の力を持っておられます。この方以外にも、もちろん古事記に登場する神々、高級神霊は数多くおられますが、日本神道において最高の指導神、指導力を持ち、霊力を供給しておられるのは、この天之御中主之神という方であります。 ただ地上に在った時に、私の名前が人びとの口に数多くのぼったがために、現在では、私が日本神道の主催神であるかの如く、言われていることもままあります。それはそれで良いでしょう。日本神道の教えのなかでは、天之御中主之神の言う「発展」「光」という教えと、私の主張する「礼節」「調和」という教えこの二つの教えが中心になっており、この国ができているのです。その意味において、私もまた、主催神であると言えるかも知れません。 2.光について 神というものは、巨大な光の供給源です。巨大な供給源として、霊的世界を、そしてこの地上界を照らしているのです。神は、いつもいつも人びとを照らすことばかりを考えてきました。人びとの心を明るくし、人びとを如何にして良くしていくか、繁栄させていくか、発展させていくかということに、心を砕いてきたのです。 ところで、この神の光を受け入れない人たちが、いつの時代にもいたことは事実です。それはちょうどおいしいご馳走を出されても、それに手を付けない人がいるのと同じようなものです。神はいつも人びとに明るい光を投げ与えてきたわけですが、その光に対して、それをそのまま受け入れようとしなかった人たちが、いつの時代にもいたことは事実です。 しかし、考えてもみれば、光が光である理由は、ただ光輝き光を放射していることであってそれを受け入れさせること、そこまで要求されているものではないのかも知れません。私たちは明るく光を投げかけていきますが、その光でもって暖かい熱を感じ、心を豊かにしていくのは、やはり、一人ひとりの国民かも知れません。 本来、神というのはとてつもなく偉大な方であり、その人の与えられる恵みは、燦々と人びとに降り注いでいたにも拘わらず、その大いなる恵みを無視し、そうして、自らが手に入れた物のみが価値があるという考えが、世に蔓延し始めたわけです。この世で手に入れた金銀財宝、地位、名誉、肩書き、こうしたものが、人びとをして、唯一の価値であるかのように思い込ませ始めたのではないかと思います。 けれども、考えてみれば、私たちの本当の命というものは、過去、現在、未来を貫いている命です。三世を貫いている命です。三世を貫く命には、実は、本来すべてのものが与えられているのです。魂は魂であることにおいて、無限のエネルギーを太古より持っているのです。魂は、新たに生まれることもなく、死ぬこともなく、減ることもない。そうした不贈不滅の世界のなかにおいて、生き通しの命を生きているのです。 本来、魂というものは、無所得のままに生きていくのが筋だと言えましょう。何もいらないのです。神の子が神の子であるためには、何もいらないのです。金銭を手に入れたからこそ神の子になれるわけでもなければ、素晴らしい服を手に入れたからこそ神の子になれるわけでもなく、良い肩書きが付いたから神の子になれるわけでもありません。神とはやはり、光であり、光とは、すべてのものをあまねく照らしていこうとする努力です。 したがって、私たちが、地上に在って神の子であると言われる理由は、自らの内から輝かし出し、人びとを照らしていこうとするものがあるかどうかということにかかっているわけです。それがなければ、人びとは、本当に地上に生きている理由はないのです。神の悦ばれることは、ただ、他の人びとを愛し、他の人びとを喜ばし、他の人びとの魂を光らせるということです。そうした行為においてのみ、また、人びとは神の一部となって生きているということが言えるのです。 神は世を照らそうとしています。そうであるならば、神の子である人間が地上で生きていくための条件は、やはり、人びとの心を照らそうとすることではないでしょうか。私はそう思います。 3.徳について 太陽というものが、出ることによって、草木もまた、その方になびいていきます。水があるところには、魚が集まって参ります。そうしたものが徳と言われるものです。太陽の如き存在に対しては、人びとは顔を向けて心を向けて、伏し拝みたくなるものです。また、水が溢れているところには、魚も子供たちも集まってきます。小鳥たちも憩っていきます。これが徳の姿です。 このように徳と言われるものは、本来強制的なるものでもなく、人びとを畏怖させ、怖がらせるものでもないのです。自然自然に人びとが集まって来るようなもの、それを徳と言うのです。たとえば、その人を上に据えれば人びとがよく治まるような人は、徳がある人と言われているのです。 このように、自然な感化力でもって人びとを導かんとする力を徳と言うのです。それはちょうど、目に見えず、声も聴こえない神という存在があって、その存在が人びとをして、平和に、協力的に生きさせていくための根元的な力となっていることと同一のことです。徳が大切だということは、神そのものが徳そのものであるからです。 徳はまた、秩序でもあります。物事の成り立ちでもあります。物事の順序でもあります。徳はすべてに先立ち、徳ありてこそ、人びとは生きていく値打ちがあるのです。 徳とは、結局感化力であります。人びとがその徳に触れることによって、自らもそのように成りたいと思うこと。その人に接することによって、向上への意欲が湧かざるを得ないような人、そうした人を徳ある人というのです。 徳というものは目には見えません。目には見えないが、確かにあるものです。徳があってこそ、初めて人びとは神近き存在へと進んでいけるのです。結局のところ、人間の偉さとは、この徳いかんに関わっているのです。徳がある人は、その徳が増えれば増えるほど、神近き人であると言えましょう。 徳があるということをもっと具体的に分析していったときに、如何なるものを徳があると言えるのでしょうか。 私はまず、自分の心というものをよくよく磨き、清い心でもって生きているということが、徳の第一条件ではないかと思います。常々自らの心を見直し、自らの心を清らかにし、そして、悪しき考えや悪しき思い、悪しき言葉が出たときに、それをひとつひとつ反省していくこと、それが徳ある人の姿であろうと思います。 徳のあるということの第二条件は、それは、英知がある、智恵があるということと同義であろうと思います。人びとがこの地上において欲しているものは、「調整の原理」です。人と人とが如何に仲良く暮らしていくか、互いの考えが、違い、互いの利害が違う者同士が、如何に仲睦まじくこの世で生活をしていくか、それを人びとは常に欲していますし、それに対する解答を求めているとも言えましょう。このためにこそ、徳というものが必要になってきます。すなわち、徳のなかに光っている智慧の光、英知の輝きが必要となってきます。人をして感服せしめ、人をして感化せしめるためには、より優れた考え、より優れた判断力というものが大事です。そうしたものなくしては、指導者となっていくことはできません。 すなわち、より良き指導者となっていくためには、一歩も二歩も、人びとより先んじた考えを持っていなければいけないということです。人びとは智慧ある人のところに集まって来ます。そうして、その人の判断を仰ぎたいと思っているのです。智慧ある人の考えを理解したいと思うのです。智慧ある人の意見を聞いてみたいと思っているのです。 この智慧ということの前提は一体何でしょうか。何が智慧と言えるのでしょうか。智慧の前提となるものに、二つあると私は思います。 智慧の前提の第一は、より多くの経験を積んでいるということだと思います。いろんな経験があって、人びとがまだ知らないようなことを知っている。これが昔から長老が尊敬されてきた理由でありましょう。いろんな経験を積んできたということが、そうした条件を生み出しているのです。 もうひとつは何かというと、神、あるいは、神近き人の声を聴けるということです。地上の人間に判断できることは限られていますが、地上を去った世界に住む高級諸神霊にとっては、地上の悩みは、実に簡単に解決がつくこともあります。それは、地上に住む人たちよりも、遙かによく先のことが観えるからです。そうしたことがあるということです。 徳ある人であることの条件の第三にあげられることは、結局、人格そのものの美しさであろうと思います。如何に優れた判断力を持ち、如何にいろんなことを経験していたとしても、その人の人格の放つ光が、屈折したものであったり、人を責め苛むようなとげあるものであったときに、人びとは、そこから善きものを感じることができないのです。すなわち、人格の匂いが美しいこと、素晴らしい人格として美しさがあること、それが大切です。こうした美しい人格、光沢のある人格、光ある人格を創っていくことが、私は何にもまして大事であろうかと考えています。 4.礼節について 私は、わが教えの根本のひとつとして、「礼節」ということを語っておきたいと思います。 礼ということは、人に対する敬(うやま)いの気持ちであり、節ということは、織り目正しい作法ということです。礼節と言う言葉によって表されることは、結局、人間が、節度ある生き方、この世において節度ある生き方をしていくための作法であると言えましょうか。 礼節には二つの種類があります。そのひとつは、神に対する礼節であり、いまひとつは、人間社会のなかにおける礼節であります。まず、神に対する礼節を何と言うかというと、これを「信仰」という名で呼んでいるのです。信仰という名で呼ばれているものがすなわち、礼節でもあるのです。神に対する礼儀を尽くすということ、そして節度ある毎日を送るということ、これが礼節の意味であります。 神に対して、ではなぜ、礼節を尽くす必要があるのでしょうか。その意味は一体どこにあるのでしょうか。 それは、結局のところ謙虚さということがひとつ、もうひとつは、真実に学ぶためという理由、この二つの理由があるのです。つまり、人間というものは、大いなる神から創られた小さな小さな存在であります。その小さな存在が、全知全能であるかの如き傲慢な思いをもってはならないのです。それゆえにこそ、謙虚さということが、必要とされているのです。しかも、単に謙虚であるだけでいいのではなくて、教えを請うという態度が大事です。物事を学ぼうとするときには、やはり、恭(うやうや)しい態度をとるべきであるということです。 したがって、神、あるいは、高級諸神霊は、すべて私たちが地上に在るときの師と、師と仰ぐべき人たちであるから、それだけの礼儀を尽くさねばならないということです。これが信仰の根本にある考え方です。 もうひとつ人間社会においての礼節についても、考えてみたいと思います。 なぜ、人間社会において礼節が必要であるか。 それはまず第一に、われもまた神の子であるが、かれもまた、神の子であるという考え方です。人間はそれぞれ最高度に神が愛しておられる存在であり、神の分け御霊であり、神の一部でもあるという考え、これが真実の考えであるのです。 したがって、お互い、他人という存在に対して敬意を表しているというだけではなくて、神の創りたもうたもの、神の愛したもうたものに対して、礼節を尽くしているのだということになりましょう。 すなわち、神が愛したもうたものであるからこそ、他をも愛する。他も素晴らしいものと感じる。そうしてお互いに愛し合い誉め合い尊敬し合うような人間関係ができてくるのです。人間が尊敬し合うためには、礼節ということがとてもとても大事であるように思います。その礼節が欠けたときに、人間はお互いに孤独な存在となり、孤立した存在となっていきます。孤立した群れのなかに、生きていくことになります。孤立した群れのなかに単に生きるのではなくて、お互いをもっともっと伸ばし、お互いをもっと尊重し、尊敬していくためには、どうしても礼節ということが必要なのです。 「親しき仲にも礼儀あり」と言いますが、それは、相手をよく知っているというその心に、相手がわかり得るという心に、すでに傲慢の芽があるからです。人間はお互いに、完全に理解してしまうことはできません。相手のなかに、どれほど素晴らしいものが潜んでいるか、埋もれているかはわかりません。そうであるからこそ、お互い礼儀を尽くして相手の中にある神性なるもの、神なるものを拝み出す必要があるのです。ここに、拝み合いの生活が始まっていくのです。お互いのなかにある、キラキラと光るものを拝み出していくこと、これが大事です。そのためにはまず、お互いに認め合うということが大事です。 もうひとつは、人間関係における、縦の序列というものがあるかと思います。親子の関係、あるいは、先輩と後輩の関係、上司と部下の関係、こうしたものがありますが、これは、小さなかたちでの信仰と同じことになると思います。子が親を尊敬する理由は、それだけの長い人生経験を経ながら生きてきて、しかも自分を愛し続けてくれた唯一の存在でも在るからでしょう。同じく部下が上司を尊敬するのも、自分の仕事について、より良き指導者となり得るからでしょう。 このように、地上においても、自分より優れたもの、自分が一目置くべきものを認めるということも大事です。自分だけがすべてであり、自分だけがいちばん偉くて、他の者はみんな自分より下だという考えのなかには、危険な思想が潜んでいます。その思想のなかには、危険なものがやはりあるのです。 これゆえにこそ、地上に在る人であっても自分より優れたと思う人に対して、敬意を表する必要があるのです。 私は、そうした礼節というものは、とてもとても大事なものであると思いますし、これが、人間がより美しく、より香り高く、より誇り高く生きていくための潤滑油であると信じています。 5.政治について 政治と言うことに関しては、古来より、神近き者が国を治めるということを第一義としていました。しかし、現代においては、政治ということが職業政治家によって為されていて、職業政治家にとっては、神を信じるということが義務とはされていないと思います。ここに、現在、政治が乱れている理由のひとつがあると思えるのです。 やはり、政治の根本にあるものは、神への帰依であり、神の心の代弁です。政治家たる者、まつりごとをするべき者は、神の心をこの地上に翻訳して、人びとを統治せしめる必要があるのです。それが、政治についての考え方の根本です。 政治はやはり、徳治主義以外にないのです。より徳ある者が、まだそこまでいっていない者たちを治める。ここに、リーダーの発生原因があって、そのリーダーが人びとを導くということになってゆくのです。 本来は神ご自身が、この大宇宙を、またこの地球を治められているわけですから、地上の人間にとって、統治者がいるという必要はないかも知れませんが、やはり、神というものを直接的に感じ取ることが非常に難しいために、神に代わるべき人としての統治者が必要になってきます。 したがって、私は、現代においては、政治にいちばんの問題があると考えます。徳治主義をもう一度、復活させる必要があると言っているのです。尊敬されるような人を、政治の原点に据えるということが大事であるということです。より徳高き人を選ぶべきであるということです。単なる数の論理でもって指導者を決めてはならない。尊敬、世の尊敬を受けられない人であるならば、政治に携わってはならないということです。決して決して神はこのことを許されないということです。 神の願いはいつもひとつ――神近き人を通じて地上を治めたいという気持ちです。それは、太陽が出れば草木がそちらになびくように、神の徳というものを慕って人びとが付いてくることを望んでいるからです。 したがってこの地上において、神近き人が一日も早く指導できるような、そうした制度にもっていかねばならない。そうしないかぎり、根本的にこの国は良くならない。私は、そのように思います。 選挙制度というようなものが、最高であるかの如くいわれていますが、本当に政治家といわれている者が優れた方であるならば、自分の後任を指名して、そうして、その人の信任を世に問えばそれで済むのではないでしょうか。それが、「私も、私も」と、偉くなりたいという人がいっぱい出てきて、お互いに争い合うということが、非常に問題になっているのではないでしょうか。政治の中心に争いを置いてはならない。そうした争いの心を置いてはならない。私はこれを、声を大にして言っておきたいと思います。 また、人の上に立つ者は、それだけ大きな負担を負うべきであるとも私は思っています。恥ずべきことをしたときには、速やかに職から離れること。人びとの指導者であるということに対して問題があれば、それを潔く認めること。自ら身を退くという、その身の退き方が大事であります。無欲で、どうやったら国政をうまくもっていくことができるか、そうした考え方が大事です。それは有名な方でなくともよいのです。無名な方でもよい。徳高き人を選んでいくという姿勢が大事です。 今は知名度選挙とも言うべき現象が現れていますが、大変悲しいことです。残念なことです。そうではなくて、徳高き人を如何にして選び出すかということに心を砕いていただきたいと思います。 6.人間について 私は、本来人間は、完成されたものであると思っています。その完成されたものが、いろんな環境の条件によって、さまざまな姿が映し出されているだけであろうと思います。 たとえば、鏡というものが完全であれば、私たちの姿は美しく完全に映りますが、鏡というものにでこぼこがあったり、歪みがあったりすると、そこに映る姿は正常なものではなくなってくるように思います。地上という世界は、この比喩を引くとするならば、鏡に歪みがあると思うのです。鏡に歪みがあって、本当の自己の姿が正確に映らないでいるのではないのか、そのように私たちは思うのです。 したがって、今、地上の人間たちにとっていちばん大切なことは、鏡の出現です。自分の姿を正確に映し得る、鏡の出現であろうと思うのです。これはすなわち、どのようにすれば自分の本当の姿を知ることができるか、映すことができるかということでしょう。 実は、私をはじめ、他の高級諸神霊が、次々と霊言、霊示を世に問うている理由は、鏡が世にほしいからです。高級諸霊の言葉、その思想というものを打ち出すことによって、如何に自らの姿をそこに映すかということを試しているのです。あなた方は少なくとも、私たちの言葉を読むことによって、そこに本来のあるべき自己の姿を学ぶことができるでしょう。 この世において良いとされている考え方が、必ずしも本当に良い考え方ではありません。この世的に最高だと言われている生き方が、本当に最高の生き方だとは言えません。その本当の意味における最高の生き方を呈示することが、すなわち、正しく映る鏡を出して、みなさんの姿を映すことに等しいと思うのです。私たちは一人ひとりの人に、正しい鏡を見つめてもらいたいために、こうして数多くの霊示集を送ろうとしているのです。どうか、私たちの本当の真意がどこにあるのかということを知って、そうして、鏡に映った自らの姿を正していただきたいと思います。 鏡そのものが澄み切った美しい鏡であるならば、そこに映っている自らの姿が美しいか、美しくないかが、はっきりとわかるはずです。映っている自らの姿に問題があったならば、なぜ、そうした問題があるのかということを、もう一度考え直していただきたいのです。 なぜ、そんな問題があるのか、なぜ、醜く映ったりするのか。それを知って頂きたいのです。醜く映る理由は、やはり、思いと行いにおいて、何らかの誤りがあるのではないのか、自分の考えに何か足りざるところがあるのではないか、改めるべきところがあるのではないか、それを知ってほしいと思うのです。 神道においても、禊祓(みそぎはらい)ということを言いますが、人間は時折、こうした正しい鏡の前に立って、自らの穢(けが)れを正していく必要があるのです。自らが誤っている心を持っているとしたら、これを反省し、神の前で虚心になっていくことが大事です。神の前で美しい自分となっていくことが大事です。神の心がどこにあるのかを知って、それに背いている自分があったなら、反省をすることです。詫びることです。そうして、憎んでいる人がいたら、許してあげることです。詫びることです。和解をすることです。 本当に大事なことは、この世で誰ひとり悪く思わず、誰ひとり憎まずに生きていくことだと思います。本当に素晴らしい生き方とは、すべての人と調和し、誰を責めるのでもなく、誰を恨むのでもなく、豊かに生きていくことだと思います。それが大事であろうと、私は考えるのです。 人間に今、必要とされていることは、その本来の鏡というものを見いだして、その鏡に映った自らの姿を見つめ直すこと。そして、神々しい神の子としての自分を取り戻していくことだと思います。私のこの神示集を読んで、自らの思いと行いにおいて、なんらかの誤りがあったと思う人は、よく正座し、手を合わせて自分の心の非を私に対して謝りなさい。そうすることによって、あなたの悩みは解決していくでしょう。 私は、あなた方一人ひとりのことを、いつもいつも心に懸けています。あなた方一人ひとりが、どうすればもっと素晴らしくなり、どうすればもっと幸せになれるか、どうすれば清い心になれるか、それをいつもいつも考えているのです。 どうか、一日のごく短い時間でも結構です。わたしのこの言葉を読み、そうして、時折瞑目し、合掌の姿で私に対して語りかけ、呼びかけてみてください。そうして自らの心を見つめたときに、そこに塵や垢があると思ったならば、それを反省して取り除いてください。他人に対して悪しき思いがあったなら、それも反省して取り除いてください。また、大いなる和解をしていくことだと思います。 自ら、潔くならなければ、潔い生き方をしなければ、人間には永遠の苦しみというものが付きまとっていきます。どうか、潔い生き方をされるように、自らの欲望のために苦悩をつくり出していかないように、そうしたことをくれぐれもお願いして、人間についての話を終えたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/163.html
目次 1.残る人生の完全燃焼を 2.光が悪霊を追い払う 3.自分の罪は自分の反省でのみ拭える 4.神理を知って道を開く 5.人生には明るい希望がたいせつ 6.物心両面からの治療 7.医者は宗教家以上に心の世界を知れ 8.執着を反省によって取り除く 9.心身を春の状態にする 10.愛念によって悪霊との和解を 11.神理と笑顔と奉仕業で怨念を熔(と)かす 1.残る人生の完全燃焼を (問)原因不明の病に伏しどう生きるべきか 会社員(男性)四十歳 私は喜びと感動に打ち震え、この運動を命をかけてやり抜きたい。私の求めていたものはこれだという思いが、心の底から湧き起こってまいりました。 しかし、残念無念ながら、この人生の大目的を前に、二か月あまり前より、肺、肝臓、その他の原因不明の病気に伏し、現在入院中です。私もこの間、心を清め、神に祈り、いろいろ努力してまいりましたが、いっこうに好転せず、まさに不治の病かと感じております。 エドガー・ケイシー先生大言にあられては、高級霊界の医師団におられるとお聞きしましたので、できますならば、わが病の完治にご肋力くださいますようお願い申し上げます。治癒不能な場合は、残された時間、死期、およびその間、家族他人に迷惑をかけずに、どのように過ごすべきかをお教えください。 一番目、治癒不能の場合、この世に残る家族、母、および兄の家族、彼の妻と彼らの二人の子供たちは、その後問題なく人生を歩んでいけるのでしょうか。 二番目、私の前世と来世をお教えください。また、来世でふたたびこの運動に関わることは可能でしょうか。どうかよろしくお願いいたします。 (答)一瞬一秒を真剣に生き切って人生を燃焼させよ エドガー・ケイシーです。この方の病気の問題に対する答えですが、この質問に私が正直に答えていいのかどうか、この点に迷いを感ずるものであります。むしろ、奥さんなり、他の方のほうが私は言いやすいと思うのだけれども、ご本人の質問であるというので、まあ、かなり答えに困難を感じます。もちろん、相当のところまで私にはわかるわけです。…………。 私が答えにこれだけ窮しているということの意味を、この方は、感じなければならない。まあ今後、この方を待っているさまざまなものについて、やはり具体的に語ることは、現在の私の立場としては、言えないというのが現実です。 ただ、言えることは、まあ一つには、禅のごとく、一日一生、一瞬一刻を、やはり生き抜いていく。こういう生き方が一つであろうと思うのです。残されたのが何年であるとか、何か月であるとか、あるいは何日であるとか、こういうことであれこれと思うよりも、やはり一瞬一秒を真剣に生き切って、自分の人生を燃焼させる。こういう覚悟がだいじであろうと思うし、人間、いずれ死というものとは、どんなに健康であっても対面しなければならないのであって、人生の長い短いでもって、それをどうこうせよということはできないと思います。 六十年、八十年生きたから、それで幸せかといったら、そういうものでもない。やはり、その数十年の人生の中で、どれだけ自分を完全に燃焼し得たのか、ということであろうと思います。そして、いつこの地上を旅立つかということは、これはやはり、神の御心に任せざるを得ないと思うのです。 健康だと思う者が、健康にかまけて本当のことも知らずに、あくる日突然、倒れることがあります。こうした人にくらべれば、その健康な人ほどの寿命を保てないとしても、真実を知り、神理を知って、一日一日を生きていける人は立派であります。 しかしご本人の質問でありますから、私は、具体的にはなかなか答えかねるのであります。またいたずらに、本人にあまり期待を待たすようなことを言っても、またそれも、まわりの人たちに対する影響というものを考えると、そういうことは言いかねる。そういうところがあると思います。 この世というものにあまり執着してはならない そこで実際の事を言えば、あなたは、たとえばあの世の世界というものを、非常にさみしい、暗い、辛い世界だと思っているかも知れないけれども、あなたのこの質問に答えているエドガー・ケイシー自身、あなたから見たらあの世の人間であり、死後の住人なのだ、死後の住人であって、こうした生きた人間にアドバイスをして、あなたの健康を気遣(いづか)っているのだ。いったいどちらが本当の人生であるとあなたは思うのか。 あなたは肉体というものの病、死というものを恐れているけれども、あなたに答えている私にしても、日蓮聖人にしても、高橋信次にしても、イエス・キリストにしても、こうした人たちは、みんな地上を去った死人たちばかりです。そういう人たちを待っているのが何かと言うと、より高度な人生観と、より大きな視野、より多くの人たちに役立てるような自分の立場ということです。 すなわち、あの世の世界というものではないのです。これは本当の世界なのです。これが実在界というものです。私たちはもともとこちらの住人なのです。私たちから見れば、この世に出ている、すなわち地上に出ているということは死んだ状態なのです。私たちはいったん死んで地上に出るんです。地上に出ている間は、霊は死んでいるんです。そして地上を去ったときに、また本来の姿に還るんです。 したがって、あなた方から見れば、誕生ということは嬉(うれ)しいことであるけれども、あの世の世界からみたら、あの世の友人たちは、地上に友人が肉体を持つということは死んだも同然、まるでベトナム戦争か何かに出かけたようなものです。 それで、地上を去るときには、地上の人たちはずいぶん嘆き悲しむけれども、あの世の友人たちは早く還ってくるのを一日一日、指折り数えて待っているのです。「まだ還ってこないか。まだ還ってこないか」とみんなで待っているのです。どちらが本当の世界かということで言えば、あの世の世界が本当の世界だということです。 そして、あの世の友人たちは早く還ってくるのを待っているんです。七十年も、八十年も、九十年も人生を生きる人をみていると、「気の毒に、長い人生を送らされて非常に可哀相である。早く還ってくればよいのに。」とみんな言っています。 そういうことであるから、この世というものに、あまり執着を持ってはならないのです。われはこの世の人間に非(あら)ずして、この世の人間にアドバイスをしているんです。霊言集をあなたも数多く読んでいるけれども、これは、決してあの世の世界というものは、ドロドロとした薄気味悪い世界でもないということ、これが真実の人間の世界であり、本当にその中で人間というのは生き生きと、生きているんだ、ということを知ってもらえばいいわけなのです。 病は肉体が病んでいるだけで魂や精神は病んでない したがって、病気ということにそれほど執われてはならん。それは肉体が病んでいるのであって、あなたの魂や精神は、すこしも病んではいないのです。 また、あなた以外の家族だ、親戚だ、いろいろ書いているけれども、それぞれの人間が自分の人生を生きていかねばならないのであり、それぞれの人間が、自ら灯をともして魂修行をしていかねばならないのです。それらに対する責任は、やはり、それらの人、一人ひとりにあるのです。それをあなたが考えをおよばす必要はないのです。 前世と来世のこともいろいろ聞いているけれども、これは、あまり知る必要もないと私は思う。これはあの世に行けば、みんなわかることになっているんです。それをこの世で知ったからといって、それでどうなるものでもない。過去世であなたがある宗教の大教祖であるとか、あるいは大泥棒だと言ったところで、それでどうなるものでもないし、来世、この運動と関わりがあるかどうかは、あなた自身の今後の修行と、あなた自身の決意と、そうしたものに関わっているのです。 ですから、病膏肓(やまいこうこう)に入って不治の病ではないか、とあなたは言っているけれども、確かに病としてみたら、かなり難しい病と私は思う。決していたずらに、それが治るというような安請け合いをするつもりは私はない。 ただ、人間というものは、早晩、地上を去らねばならないし、地上を去るということは、あなたもエドガー・ケイシーに会える可能性があるということです。それを不幸とみるか、幸いとみるか、それはあなた自身の問題です。 この世を去ったときに、心がまちかっていない者にとっては、あの世の世界は素晴らしい世界であるということ、これだけは、私は絶対に保証はできるのです。 今を最善に生きるためのアドバイス したがって、あなたは、残りの時間をいくらだと自分で限ることなく、一年だとか、十年だとか、そういうふうに限ることなく、一瞬一瞬、一日一日を、最善に生きていかねばなりません。そして最善に生きる方法としては、今、病気をしているので、残念ながら他の人びとの役に立つようなあなたとはなれないのは事実、そうであるならば、まず、自分のことを自分で責任を持てるような自分になっていく以外にないのです。 すなわち、この病の時期に、自分の過去の人生、四十年間の人生を一つ一つ、まず反省し、点検しなさい。そしてまちがいがあったら、それを一つ一つ反省していって、そして気の毒をした人、誤りをした人には心から詫(わ)びることです。謝っておくことです。そして、まだ会える人がいて、その人と和解をしていないならば、そういう人と和解をしておくこと。そうして自分の悪、まちがいというものを一つ一つ修正しておくことです、いち早く。それがまず最初の仕事です。心のなかの曇りを点検して反省していくこと、これが一つです。 そしてもう一つは、霊言集などを読んでいるようだけれども、残された時間を有効に生かして、本当の人生観、本当の人間とは何か、神とは何か、あの世の世界とは何かということをしっかりつかむことです。これはそのまま、やがて力となってくるんです。 そして三番目は、あなたの身近な人たち、親戚や兄弟、親、こうした者と、病院で会うだろうけれども、彼らに不愉快な思いをさせないように、愚痴や不平不満や、そうしたことを言って彼らを苦しめないように、笑顔でもって彼らに接して行くこと。 そういうふうにして、あなたは自分の人生を燃焼させることです。悔いのない一瞬一秒、一日一日を送っていくこと。そしてどこで終止符をうたれても、喜んで、笑顔で死んでいけるような自分にならなければなりません。私はその時期が一年後か、三年後か、十年後か、あるいは明日か、あさってか、そういうことを言うつもりはないのです。いつかはあなたも地上を去るであろうし、健康な方ではないから、そう長くないことも事実、そう何十年も生きるわけではない、それは事実です。 ケイシーとこうやって話をしたことが、あなたの記憶に残っているならば、いずれ何年か、何十年か、何百年とは言わないが、そう遠くない将来に、われらが世界に還ってきたときに、エドガー・ケイシーの名を呼びなさい。そうすれば、私はあなたを迎えに行ってあげましょう。 私は決して幽霊でも何でもない。エドガー・ケイシーの幽霊が出てきて話をしているわけでも何でもない。本当に人間に目覚めた人というのは素晴らしく、あの世に還ったときに、その五倍、十倍の力というのが発揮できるんだということを、あなたは忘れてはならない。私もエドガー・ケイシーとして地上に肉体を持っていたときよりも、現在は十倍ぐらいの力を持っております。それだけ素晴らしい世界にきているんです。これをもって不幸と言ってはならない。 あまり希望に満ちたことは言えなかったけれども、また、残された時間についても、明確には言えないけれども、ただ、私の話を通してだいたいを感じ取りなさい。そしてその間、あなたにできること、反省、和解、それから神理の学習、それから会う人びとに顔施(がんせ)という笑顔を与えること、喜んでもらうこと、気持ちのよい人間だと思われること、お世話になる医者や看護婦さんに対する挨拶や笑顔を忘れぬこと、こういうふうにして、一日一日を確実に立派な人間として生きていきなさい。以上です。 (一九八七年六月十二日の霊示) 2.光が悪霊を追い払う (問)十二歳の娘を苦しめる白斑病、治る可能性は? (主婦)四十歳 娘の病気のことでご相談させてください。 娘(十二歳)は三年半前に、白斑病という病気にかかり、右上半身のいたるところの色素が無くなってきています。普段はとても明るく優しい子なのですが、ふと見ると、鏡の前で涙ぐんでいる姿があり、胸を締めつけられる思いでいっぱいです。こんなとき抱きしめて、優しい言葉をかけてやりたいのですが、私の涙を見せ、よけいに深刻にさせてはいけないと思い、抱き締めることもできず、こんなに自分の力の無さを情けなく思ったことはありません。 毎日、朝夕、気を流す体操と、就寝前に『祈願文』の「病気全快祈願」をさせているのですが、このとき足の裏が暖かくなるそうです。 現代医学では原因不明とされ、治す手段がありません。人間の病気は、思い、遺伝、身体の癖の三つに原因があると思います。主人の親戚の人にも同じ病気の人がいたと聞いています。遺伝なのか、霊障なのか考えていると、頭と心のなかを別々に駆け巡るものがあり、苦しくてたまりません。原因さえもわからず、治していく方法もわかりません。遺伝でも天の医師団の力により治る可能性があるのでしょうか。お教えください。 (答)原因は犬の霊の霊障 ケイシーです。娘さんの病気についてお答えします。 結論から言えば、これは霊障です。霊障であるということは、治る可能性があるということです。白斑病というのは、たいていの場合は霊障です。ただ、こうした皮膚の病気になるというのは、通常の場合は、これは人間霊ではないことが多いんです。人間霊ではない動物の霊であることが非常に多いんです。 この娘さんの場合も霊視をしてみると、やはりその通りなんですね。動物霊です。それで動物霊だけれども、これをみてみると、………これは犬だね。犬の霊ですね。犬だけれども………私の目に今、見えてくるのはね、白と黒のまだらの犬ですが、鼻の回りは白く、目から耳にかけては、両側が黒からこげ茶色に近い色をしている、毛の色がね。そして耳は半分ぐらいで前に折れている犬ですね。大きさはまあ、中型犬と言っていいと思う。一メートル前後の犬であろうと思いますね。尻尾は舞い上がっています。まあ雑種でないかと思うのですけれども、顔つきはちょっとブルドッグにも似ている。雑種で足の毛の色などは芝犬にちょっと似ていますね。こういう犬の霊がみえます。 そしてこの犬の霊はね、病気で死んでいますね。そして死ぬときに、全身の毛が抜けていく病気にかかっていたはずです。これはそういう動物には時々あるのですけど、毛が抜けていく病気というのがあるんですね、これにかかって死んだはずです。この犬の霊が、やはりこの娘さんに憑(つ)いているわけです。ですから、毛が抜けていくというような霊的な症状が、人間には毛が生えていませんから、この白斑病というような、皮膚の色素が抜けていくというようなかたちで現われているわけですね。いわゆる霊体質で、この霊の霊障によって身体に異変が起きている、こういうことですね。 悪霊は光を強くしていけば必ずとれる まあこれは、白斑病というふうに皮膚の色素が抜けていくというような病気だから、特殊な病気のように思うけれども、他に霊障によって病気になるということはいくらでもあるんです。 たとえば、若いのに頭がまっ白く白髪になるような人にも、霊障のことが非常に多いし、あるいは女性で脱毛ですね、頭の毛が全部抜けていくような、こういう場合にも、憑依によることが結構多くあります。あるいはこれ以外にも、身体的にもいろんなところでその霊障による病気というのは多くあるわけですから、これは現われ方が、たまたまこれが動物霊であるから、皮膚とかそういうものに出てきた、ということなんです。 これ以外にも、たとえば、海岸地帯では魚鱗症といいますが、魚のうろこのような皮膚になる、こういうふうな病気というのがあります。これなどは、魚の霊というのが集合霊になっているんです。一匹一匹の魚にそんなに力はないのだけれども、魚が大量に死んでいるようなところで、その魚の不成仏霊が集合霊になって、そしてそういう霊障を起こしているという場合もあります。 ただ、こうした霊障を受ける人、動物霊などの霊障を受ける人というのは、かなり霊体質であることも事実なのです。そういう体質でなければ受けないこともあるのだけれども、非常に受けやすい霊体質であるわけです。 それで、まあ原因はこれでもうはっきりしております。遺伝ではありません。同じ病気の人が親戚のほうにもいたということですが、まあだから逆に霊体質でいっしょだということです。そういうことで、もう原因がわかった以上、この悪霊というのは、光を強くしていけばとれるんです。確実にとれるんですね。だから、意外にこれは対象がはっきりしているんですね。この例ではなくて肉体的な気質の異変の場合には、逆になかなか治りにくいこともあるけれども、霊障であることがはっきりしているので、これはとれます。 神理を学び『祈願文』を読む その時間については、もちろん、人間の努力の問題があります。この中にも書いてあるように、「『祈願文』の『病気全快祈願』を読めば、足の裏が暖かくなる」と言っているけれども、これはそうなんです。守護霊の光が入ってきているからなんです。ただ、守護霊の光が入ってくるようにするためには、こういう『祈願文』を読むだけでは不充分であって、もっともっと神理のことを知らなければいけないのです。神理を悟れば悟るほど、より高級霊の力を受けられる。天の医師団の力も受けられるようになるのです。 したがって、本人はもちろんのこと、ご両親がもっともっと神理を悟って、そして光が家庭に満ちてくるように、努力することです。そして夜でも朝でも結構ですが、できれば朝晩がいいでしょう、親子で『析願文』を一生懸命読めばいいと思います。これは長い時間読む必要はありませんが、一回で結構ですから、朝晩一回読めばいい。その『祈頴文』は、やはり高級霊界の波動に通じているために、それを読めば、憑いている動物霊などはたいへん苦しくなってきます。だんだん嫌になってくれば、離れていきます。そういうことで、神理の勉強をどんどん続けていくことと、そういうものを読み続けていくことがだいじです。 それともう一つは、怖がらないことです、こうしたものを。断じて怖がってはならん。人間は神の子なのですから、もっと偉大な魂であり、意識であるのですから、こうしたものに惑わされてはいけないのであって、自分自身に、自分たちにもっと自信を持つことです。神の子だという自覚をもっと持って、神の子がこんな、大の霊なんかに憑かれていてたまるものか、とこういう強い意志の力、これを持たなければなりません。そして、光明の思想をもって、明るく人生を切り拓いていく。こんなものに負けるものか、という気持ちを持たなければなりません。こんなもので怯(おび)えてはいけないし、それで霊能者回りなんかしては絶対いけない。こんなものは自分ではね返してやる、ということです。 だから、逆にこの白斑病が治れば、治っていけば、それは結局、自分の心が光に満ちてきた、あるいは家族が調和されてきたという証拠ですから、これをみることによって家族が神理で調和されてきたということを、実地に体験できるのです。 私のみるところ、二年もあればこれは治ります。努力してみてください。そのためには神理をいろんなかたちで勉強していくこともだいじです。お子さんはまだ小さいようですから、お子さんだけでは無理です。やはり親の勉強ということが非常にだいじです。原因ははっきりしていますから、後はその対応です。もっと強力な悪魔とか、あるいは人間のいろんな地獄霊に悩まされている人もいっぱいいるのです。たかが動物です。断じて負けてはいけません。そしてあくまでも自分たちの力で、自力でこれを取り除いてほしい。 こうしたものに、不調和なものに憑かれるという理由も、結局、家庭の中にすきがあるということです。自ら家庭の中をみて、まちがっていると思うことがあったら反省して、そしてその分、神仏に詫びることです。そしてこれからは二度と悪いことはしないということを誓って、明るく前向きに、人のために役立つような、そういう生き方をしていくことです。これがだいじです。だから、マイナスのものを打ち消すだけではなくて、プラスの人生を生きていくように、親子ともどもがんばっていくことです。以上です。 (一九八七年六月十二日の霊示) 3.自分の罪は自分の反省でのみ拭える (問)シミ、ニキビの処方をお教えください 製薬会社社長(男性)五十歳 私は、化粧品や薬を製造販売いたしております。世の女性の悩みであるシミ、そしてニキビの処方をお教えください。 実は、私は十年前、内観を行ない、世の女性の幸せを願って、神に化粧品の配合を祈り続けました。ある日、神からの啓示なのかわかりませんが、私の目の前に金文字で大きく「AREGTC」と出ましたが、それが何の意味かわかりません。もしこの金文字が女性を美しくする化粧品の配合の頭文字であれば、それが何であるのかお教えください。よろしくお願いいたします。 (答)販売の促進に神理を利用すれば地獄に堕ちる エドガー・ケイシーです。この方は、私以外にも、すでに何人かの霊人に霊相談をしている方であると思います。そこで、私のほうから言わしていただくとするならば、あなたは、自分は神理を悟っていると思っているけれども、まったく悟っていないということを、もっと知らなければなりません。この質問もいいですが、それ以前の段階において、自分が非常に浅いところで神理を理解していて、そしてそれを伝えているような気持ちになっているということを、もっともっと深く反省しなければなりません。神理の井戸の深さというものをもっと知らなければなりません。 あなたは、化粧品や薬と神理をセットにして販売をしているようですが、これはあなたの悟りがもし浅ければ、大変なことになってしまう、天国ではありませんよ、行き先は、このままで行くと、地獄へ行ってしまいますよ。商品の販売のために、神理というものを悪用した場合には、行く先は天国ではないということを私は言っておきます。 ただ、もっと深い深いところで、神理というものをつかまえた場合には、それは伝道になりましょう。だから、商品の販売の促進のために神理を使っているのならば、あなたは失格です。逆に神理の普及ということを一念におきながら、生計を立てていくために化粧品を売っているなら、これは大丈夫です。どっちであるか、よく自問自答しなさい。そして前者であるならば、あなたが行く先は地獄です。天国ではない。これを知らなければなりません。 それはそうであって、神理というものを、安っぽく売ってはならないのです。それは、ある意味においては、たとえば、お守りとか、お札を売って、それさえ買えば救われるとかいうことと本質において変わらないのです。よいですか。生半可な神理の知識を振り回して人を救おうとすると、人も自分も共に地獄に落ちてしまうことになる。そうしたことをやる以上は、徹底的に深いところまで神理というものを理解しなければなりません。また、それを体得しなければなりません。これは諸人に共通していることですが、神理を浅いところで理解して、それを商売に使うとつまずきます。それは自分も人もつまずいてしまいます。ですから、よくよくあなたはそのへんのことを、しっかりと理解しなければなりません。 自分が反省しなければ罪は拭(ぬぐ)えない 会員をふやしたり、あるいは霊言集をいくら広めたところで、それでいいところに行けると思ったらとんでもない。そうした気持ちをあなたが持ちたがる理由には、あなたの心の中に深い深い罪悪感があるからです。深い深い罪悪感があなたにはあるはずです。特に女性に対する罪悪感が、あなたには非常にあるはずです。過去、女性に対して犯した罪を償うがために、何らかの自分の良心を慰めるがために、化粧品を売り、そして化粧品を売るだけでは心が安らがないために、それで高橋信次の本をいっしょに売ったりしているのではないですか。そうでしょう。 自分の罪というものは、それは自分が犯したことを自分が反省しなければ、これは拭うことはできません。それを他よりいいことでもって、自分の罪を薄めようとしても、それをごまかすことはできません。こんなにいい神理の本を売ったのだから、またこれだけ人に広めたのだから、自分の罪は許されるだろうと思っても、とんでもないことです。それはちょうど歯の虫歯とよく似ている。外側をいくら金歯にしたところで、中が腐っていればどうにもならない。そんな歯は役に立たないのです。いくら外に金冠をかぶせても、中が腐っていれば、中から血が出ているならば、その歯は使い物にはならない。やがて腐っていくのと同じです。 あなた自身、もっと徹底的に自分の罪というものを反省して、懺悔(ざんげ)して、そして深く神に詫(わ)びて、ゼロからスタートしなければ、いくらいいことをしているように人目に見えるようなことをやったところで、あなたの罪は拭(ぬぐ)われない。これははっきりしている。 もし、その罪を今、あなたが現在ただ今、詫びることができるのであるならば、すぐ、ただちに何らかの和解をしなさい。もし和解をすることができないのであるならば、毎晩心の中で相手の姿を思い浮かべて、神の前で詫びなさい。心から詫びて、二度とそうした罪を犯さないように、深い深い反省をしなさい。それをしないで、いくら化粧品や薬を売りながら、高橋信次の本を広めたところで、絶対にあなたの罪は許されない、よいですか。それは虫歯の上に金を冠しているのといっしょだということを思わなければなりません、虫歯は根本から治さないと直りません。そういうことです。 だから、あなたの一番目の質問にしても、私は、その根本のところが違っていれば、私がこんなことアドバイスしても意味が無いのです。シミ、ニキビの取り方を私が霊言で言って、これはエドガー・ケイシーが言った霊言なのだから、これでもって自然化粧品を売れば売るほど世の中のためになるんだ、という気持ちであなたはやるかもしれないけれども、そういうことのために、私の言葉を利用してはなりません。断じてならん。あなたが化粧品や薬を売りたい本当の理由は、あなた自身の良心の曇りを、化粧品や薬でもって、ごまかしたいと思っている、そういうことがあなたにはある。違いますか。よくよく反省してみなさい。 自分づくりができてから人を救っていく やはり、女性の真の美しさというのは、内面から輝き出してくる美しさなのです。そういう方であるからこそ、お化粧というもので、照り輝いてくるのです。内面が苦しみの連続で、苦渋に満ちた顔をしていて、その顔中をしわだらけにしていて、いくら化粧品を塗ったところで、その苦悩を隠すことはできない。それはちょうどあなたの心と同じだ、過去の罪をいくら隠そうとして、神理という名の化粧品を顔に塗ったところで、あなたのシミもニキビも消えはしない、同じです。 やはり女性が本当に美しくなるためには、真に自分の心というものを美しくしていく以外にないのです。それであってこそ化粧が生きてくるのです。そして心が美しくなって、ハツラツとした気持ちになってくれば、自然に自分に合う化粧品というものに手が出るようになる。そして合うようになっていきます。 だらこの発想、シミ、ニキビに合うような化粧品があるのかないのか、こういう発想自体が、あなた自身の内面の罪を隠そうとしている発想とまったくいっしょです。とんでもないことです。よいですか。 次に、十年前に内観を行なったのと言っているけれども、内観などは全然できていない。内観というのは、一定の期間こもって反省することを内観というのではないのだ。内観というのは、自分の内なる心を見つめるということだ。内なる心を見つめて、第三者の目で自分自身の心を見つめて、まちがったところを反省して、懺悔するということが内観であって、いろんな所に行って一週間座ったところで、そんなものは内観にも何もなってないということです。あなたのは内観ではなくて、外観だ。外だけをそういうふうにとりつくろっている。そうした自分の人生の偽りというものを徹底的に反省しなさい。あなたは、内観ではなくて外観ばかりをやっていて、そういう神理という雰囲気だけに酔っている。そして中身を全然知っていない。 この金文字の「AREGTC」でもいいけれども、こういうのも、また自分がそういう神示でも受けて、こういう救世の一つの一役を担っているのではないかというような、そういう幻想に耽(ふけ)っているのです。こういうのを誤解と言うのです。よいですか。 あなたが本当に神の教えを広めるような使徒であるならば、それだけの神理と行ないと人格を持ちなさい。だから、何度も何度もくり返して言うけれども、根本をまちがったら、いくら行勤しても、それは何にもならないということです。よくよく考えていきなさい。 したがって、シミ、ニキビのとり方だけれども、あなたのシミ、ニキビのとり方自体をまず考えてください。そしてそれをごまかす化粧品はこの世にはないということを。 私は、それはシミ、ニキビに何が効くかぐらいはわからないことはない。ただ、それを言ったところで、ケーシーの霊示によるこれはシミ・ニキビのとり方だから、これで商売に励めばいいと考えるのがあなたです。その考えはまちがっています。完全にまちがっているのです。私を利用してはいけません。いいですか、まちがってはなりません。今のままでは、あなたは地獄へ行きますよ。利用してはいけません。本当にこれがいいと思って、そして広げていくのはいいけれども、ただ、利用してはいけません。 そういうのは、他にもいるんです。宗教団体ばかりを狙って、保険の勧誘をやっているような人がいるのです。そういう人は、これもいっしょで、神理をそういう商売に使ってはなりません。あくまでも副次的なものなのです。 ですから、化粧品を売って歩くことはいいですし、その中で、機根に応じて、神理を求めていると思う人には、そういうことを教えてあげるのは、これはいいことです。ただ、セットにしてやるのはいけない。そういうようなことを、あなたは考えなさい。女性はなぜ美しくならねばならないのか、その答えを聞きたい、私はね。なぜ美しくならなければならないのか、その理由をあなた考えてみなさい、もう一度。この世的に女性が美しくなるとは、どういうことなのか。女性の美しさとは何ですか、もっともっとそれを考えなさい。 地獄には外見上、美人はいくらでもいるんです。しかし、一皮剥(む)けば、口が耳まで裂けている鬼婆です。そんなのがいっぱいいるんです。この世の美人が、天国に還っている例は少ないのです。ほとんど地獄へ行っているんです。そんな地獄の鬼婆に対する化粧品なんて、ありはしないのです。よいですか。 あなたはもっと本質的なことを考えねばなりません。残念ながら、今のあなたの心でもっては、私はあなたの商売に協力する気は一切ありません。もっともっと自分の心というものを見つめなさい。自分づくりができてから、人を救っていくということです。自分の心の中の罪を隠すために、外面の化粧をしては断じてなりません。外観ではなくて、本当の意味での内観をしてください。こういう商売協力のための霊示は、私はしない。ただあなたに対して、あなたの心の誤りを厳しく指導しておきます。あなたはもっと根本から考え直さないと、とんでもないことになりますよ、いいですか。以上です。 (一九八七年六月十二日の霊示)
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/351.html
目次 1.神想観(しんそうかん)とは何か 2.神想観の実修方法 3.神想観実修上の注意点 4.「神は霊媒にはかからぬ」は一般論 5.巨大霊媒としてのキリストと釈迦 6.霊能力の多面性 7.如来の声が聞けるのは如来だけ 8.「生長の家」の大神として顕れた天之御中主之神 9.住吉大神の役割は地上浄化 10.「神は霊媒にはかからぬ」が、「神は神にかかる」 11.谷口清超氏の過去世は、日本神道系の偉大な神霊の一柱 12.日々、自らの人格を高めよ (1987年7月2日の霊示) 1.神想観(しんそうかん)とは何か 谷口雅春です。さて、本章では、いよいよ真説・神想観の話をしてまいりたいと思います。本書の読者が必ずしも「生長の家」の信徒であるとはかぎらんので、神想観とは何かについて、まず簡単に話をしておかねばなるまいと思います。 神想観というのは、字を見るとわかるように、神を想い観ずる、と。こういうふうに書いております。まあ、言ってみれば、精神統一の方法であります。私が、数十年にわたって説き来たり、説き去ったところの生命の実相哲学というものは、単に思想や哲学に止まらず、宗教と言われる領域にまで踏み込んでいるのです。 その理由は、そうした精神統一の方法、高級神霊との交流という方法が、やはり、そこにあるからです。だからこそ、宗教とも言い得るのだと思います。 単に思想としてのみ見れば、私の教えも、もしアメリカに現われれば、ニューソートという光明思想になっているわけですから、単に宗教とは言いかねるものがある。ただ、「生長の家」が宗教と言われておる理由は、神に対するそういう神想観というひとつの修法を持っておるからであります。 神想観についての詳しい説明は、私の著書、生前の著書のなかの『生命の実相』という書物のなかに詳しく説明があるので、それを別の機会に参考にしていただきたいと思うのであります。ここでは、精神統一ということ、祈りということ、そうしたことに関して、こちらに還った私の率直な感想を踏まえて、話をしていきたいと思うのです。 これはね、ある意味では、自力・他力という古来から闘わされておる宗教的な問題に対する答えをも含んでおると、こういうふうに言うことができると思うのです。 2.神想観の実修方法 神想観というのは、要するに、姿勢を正して、合掌の姿をとるわけですね。合掌の手というのは、通常の仏教で言う合掌よりも、やや高いところまで上げる。その場合、手のひらの隙間(すきま)に、呼吸、すなわち、口から出る息がかかる程度の、通り抜ける程度の高さまで手を上げてくるわけですね。こうして、精神統一をする。 まあ、正坐してやるのがもちろん本筋でありますが、とくに正坐でなければいかんというほど堅苦しいものではない。女性とか、子供とかは、正坐が無理であれば、おかしくない程度に足を崩してやられてもいい。ただ要は、やはり背筋をピンと伸ばして、威儀を正して、精神統一をやる必要があるということです。 そして、この手を口の前まで持ってきて合掌して、神招(かみよ)び歌、招神歌(しょうしんか)ですね、これを唱えるわけですね。大きく呼吸を整えながら、招神歌(かみよびうた)を唱えていく。 「吾(わ)が業(わざ)は吾が為(な)すにあらず、天地(あめつち)を貫(つらぬ)きて生(い)くる祖神(みおや)の権能(ちから)」 「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命(いのち)」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」 と、こういう言葉がありますが、これらの言葉を繰り返し繰り返し、合掌の姿で語っていく。こういう言葉を唱(とな)えておると、この招神歌のなかには、つまり、言魂(ことだま)というのが宿っておって、この言葉を口から発すると、天上界にいる諸神霊が感応してくる。 具体的には、こういう言葉を発すると、本人の守護霊や指導霊が感応してくるというわけですね。本人の守護霊と言っても、霊界でやはり仕事を持っておりますから、いつも、常時来ておる人間の傍(かたわ)らに立っておるほど暇(ひま)なわけではないのです。あの世でも仕事をしながら、やはり家庭教師のような具合であってね、ときおり、教えにくる、と。こういうのが、守護霊なわけであります。 そういうことで、こういう招神歌(かみよびうた)を唱えて、守護霊、あるいは、指導霊という一段と霊格の高い霊もおるわけですが、こうしたものの注意を喚起すると、彼らの光が天上界からサーッと流れ込んできて、心のなかに暖かいものが入ってくる。こういう経験をされた方は、数多いであろうと思うのであります。 まあこれはね、昔から神道などでも祝詞(のりと)というのがあって、祝詞で高級神霊の力というものを授かっておりますが、こういう言葉というのは、ひとつの何と言いますかね、つまり、合図なわけです。 まあ、昔から合図と言えば、「山」と言えば、「川」というふうに答えるとか、こういうふうにして合言葉がありますが、これは、地上界におる人間と天上界におるものとの間に、いわば電話をかけるのと同じであるし、橋を架けるのと同じなわけですね。ですから、こっちから、「もしもし」と言えば、向こうが、「ハイハイ」と答えてくる。この「もしもし」にあたるのが、こうした招神歌(かみよびうた)、招神歌(しょうしんか)だということなのです。 この招神歌(かみよびうた)のなかでも、最初に、次のような言葉を言うようになっております。「生(い)きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給(たま)え」と。まあ、この言葉を繰り返すわけですね。二度ほど各歌を繰り返す。正式に、もう一度言うとすると、つまり、こうなります。 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え」 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」 「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」 「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖親の権能」 「天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長(せいちょう)の家大神(いえのおおかみ)守りませ」 「天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家大神守りませ」 まあ、こうした四首があって、これを繰り返し繰り返し、唱えるわけですね。そうすると、顔の前に合掌しているこの手というのがアンテナになるわけですね。まさにアンテナになって、大宇宙の生命と一体になってくる。こういうふうになってきて、この手が霊的に感応して、揺れ始めたりすることもあるわけですね。合掌した手が、ひとつの磁石のようになって、磁気を帯びてくる.まあ、こういう感じになってきましょう。 そして、こういうことを、歌を繰り返し唱(とな)えた後、「生長の家を通じて働き給(たも)う神よ、この合掌をアンテナとして大生命と一体にならせ給え」と、こういう言葉を何度も何度も繰り返していくわけです。 続いて、「我れ、今五官の世界を去って、実相の世界に坐(ざ)す。自分の今坐っているのは、これ実相の世界。――神の無限の知恵の海、無限の愛の海、無限の生命(せいめい)の海、無限の供給の海、一切大調和の実相世界である。この大調和の実相の世界にいて、自分は今神の子として、神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである」と、まあ、こういうふうに心のなかで何度も何度も繰り返していくわけですね。 このように、神想観(しんそうかn)というのは、自分で実修ができるというところが、非常に大切なところなのですね。自分で実修ができて、しかも、効果が現われてくる。静かに精神統一をし、瞑目して呼吸を整えておくと、だんだんに、体全体に力が漲(みなぎ)ってきます。 「神の無限の生かす力、自分のうちに流れ入る流れ入る、流れ入る……」と、こういうふうに繰り返して言えばいいわけです。「神の無限に生かす力、自分のうちに流れ入る、流れ入る、流れ入る、流れ入る……」「無限の生かす力に満たされている、生かされている、満たされている、生かされている……」と、まあ、こういうことを何度も何度も繰り返しておると、本当に霊天上界から神の光が降りて来るんですね。 3.神想観実修上の注意点 ただ、こうした精神統一法、神想観をやっておっても、本人の心が不調和であると、この合掌のときに、霊動というのが起きてきて、濡(ぬ)れ手の水を切る形で、打ち振るうような、そういう霊動というのが起きることがあります。 こういう場合には、たいてい、本人に憑(つ)いておった悪霊というのが浮き出してきておる。こういうわけであります。ですから、こういうときには、いったん神想観を解いて、聖経『甘露(かんろ)の法雨(ほうう)』、あるいは、『天使の言葉』、こういうのを繰り返し、繰り返し読むのがよろしい。そうすれば、次第に精神が統一されてくるでありましょう。まあ、こういうふうに思うわけであります。 まあ、ただね、これが一般的な修法でありますが、神想観においていちばん大切なことは、やはり、この最初の段階であろうと思うのですね。実際、こうした精神統一法によって無限の力というものが天降ってくるわけだけれども、その無限の力というものを受けんとしておる人間の心のなかに、悪しきもの、あるいは、我欲だな、そういうものがあったのではよくない。あんまり我欲のままに神想観をやっておると、精神統一をするわけであるんだが、その精神統一というのが、結構悪いほうに向いてしまう可能性があるわけですね。 つまり、本人が悪霊などにかなり憑(つ)かれておるときに、この招神歌を唱えておると、高級諸霊は何とかして本人に霊示を与えようと感応し始めるんだけれども、いかんせん悪霊というのに完全憑依(ひょうい)されておると、精神統一をしたのをいいことに、本人にかかってきて、そうして、いろんなことを言うことがあるんですね。 このときに、招神者がとくに間違いやすいのは、その自分に憑いておる悪霊の唆(そそのか)しを真に受けてしまうことがあるんですね。とくに、自我我欲のままにね、欲でいっぱいになって神想観をやっておって、悪霊などがかかってきた場合には、悪霊が耳元で囁(ささや)いたりすることがある。 何を囁(ささや)くかと言うと、「そうだ、そうだ、その方向でいけば金が儲かる。会社では出世をする。好きな女性は手に入る。何でもかんでも思うようになる」というように、ずいぶんつごうのいいような答えをする場合があるのですね。あるいは、「競馬をやれば、それは儲かる。パチンコやっても儲かる」と、まあ、こんなことを言って、いろいろと欲を募(つの)らせる方向で囁く場合もある。 しかし、こういう囁きを受けて、そのまま我が意を得たりということで突っ走ってはならんのです。結局、高級霊の波長を受けるのには、受けるだけの素地というのがやはりいるのです。これを同類相集まると申しますかね。同じ波長のもの同士が通じ合うという法則があるわけです。 したがって、奥さんの浮気に悩んでおる旦那(だんな)や、あるいは、経済問題でヒイヒイ言っておるような主婦に、イエス・キリストじゃの、釈迦じゃの、何じゃのかんじゃというような高級霊がかかるかと言えば、そういうことはないということですね。これを知らねばならん。まあ、そういうことです。 4.「神は霊媒にはかからぬ」は一般論 これについて、さらに説明をしておかねばならんと思う。つまり、まあ、「生長の家」の理論のなかで、「神は霊媒にかからぬ」と、こういう言葉があるわけですね。それで、巷(ちまた)の拝屋や霊媒に何とかの神が降りただのと言って、まあ、よくやっておるが、こういうのは、十中八、九はキツネ、タヌキ、ヘビの類であることは間違いない。 こうしたものでも、たまにあてものをしてみたり、そういうことをするので、神様と間違えて神社が建ったり、信者を集めたり、そういうことが、ないわけではない。ただ、そういう町の拝屋や、あるいは、北のほうの地方にあるようなイタコというのかな、そうしたものに神近き高級霊がかかるということは、原則としてない。 しかし、これはやはりあくまでも原則であって、例外というものがないわけでもない。例外がなければ、つまり、神は人間にかからんと、霊媒というのにかからんと言うならば、この地上の三次元世界というのは、これは本当の唯物論の世界になってしまって、何の奇跡も、何の神示も、何の霊示も、天上界から臨(のぞ)まんことになってしまう。まったくの無神論の世界、唯物論の世界となってしまう。そうなってしまっては困るわけだから、一定の範囲で、例外を設(もう)けておろう。こういうことがあるわけですね。 それとね、私も生前、この点については詳しくは説かなかったけれども、やはりね、神は霊媒にはかからんけれども、神は預言者にはかかる。あるいは、大宗教家、これにはかかるのですね。これについては、言っておかねばならぬと思う。ただ、神という言葉に非常に多義性があるので、何をもって神とするかという問題は、これは、別にあるわけです。 しかし、宇宙の根本神、この大宇宙を創った造物主が人間にかかるかと言うと、こうしたことは、決してあり得ない。そういうことは、あるわけはないのであります。ただ、人格を持った神霊、高級神霊というものは、これは一定の範囲で、一定の限度で、何百年か何千年に一回か、そういう神示や霊示というものを送ってくることがあるのです。といっても、これは、ごく限られた人だけであります。 5.巨大霊媒としてのキリストと釈迦 ナザレのイエスという人間にも、高級霊たちは、やはり霊示を送っておったし、イエスのなかに入って、ずいぶんいろんな言葉を語っておる。じゃあ、イエスは霊媒であるから神がかからんかと言うとそうではない。こうした巨大な神霊能力を持った人の例外というのは、やはりあるわけです。通常の口寄せとはまた違っておる、と。こういうふうに言えると思うのです。 また、釈迦にしてもそうです。現在、釈迦を霊媒だと言う人はおらんであろうけれども、仏典をよく読んでみると、釈迦の顔が二十通りにも変わったというようなことが書いてある。では、なぜ釈尊の顔が二十通りにも変わるのか。現代的に言えば、怪人二十面相になってしまうわけじゃが、結局、釈迦が説法をしておるときに、いろんな高級神霊が釈尊の体を支配して、話をしておったわけです。 そこで、それを見ておった弟子たちの多く、つまり、釈迦教団では芸能者が非常に多かったがため、彼らには、その仏陀の顔が変貌するのが見えた。こういうことがあったわけです。そして、釈尊が何通りもの顔に変わっていく。説法の内容に応じて、顔が変わっていく。その姿を霊視して、驚いたわけです。こうしたことが、いまだに伝えられております。 釈迦の法門というのは非常に多くて、八万四千の法門があると言われております。そして、そのなかで、あるいは法華経(ほけきょう)と言うたり、あるいは維摩経(ゆいまきょう)と言うたり、あるいは阿含経(あごんきょう)と言うたり、あるい華厳経(けごんきょう)と言うたりしておる。こうした経典で、どの経典を信ずるかということが、後代の各派が言い争って議論をしておるわけですが、では、なぜそういう議論になるかと言うと、結局のところ、経典ごとに内容がかなり異なり、個性も変わっておるところがあるのです。 つまり、たとえば、こういうことなのです。華厳経というお経のなかには、「愛」についての話がずいぶんあるわけだけれども、これなどは、イエス・キリストと言われた方のナザレに生まれる前の生命体が、どうやら釈尊のなかに入って、説教しておったようなのです。そうすると、そうした内容になる。 こういうふうに、指導霊の考え方によって、多少違ってくるわけです。そういうことがあるんです。内容的にね。 また、法華経というのが大変な人気であるけれども、法華経にも、もちろん、それなりの指導霊というのがおったわけでね、この指導霊の考えが釈尊自身の考えと非常に似ておる、と。まあ、こういうことが言えるわけなんですね。 だから、後世の仏教者たちが法華経を最勝の教えだと言って、これこそが間違いない教えだと言って、日蓮宗のように発展するようになるわけです。こういうふうに、お経相互でいろんな内容に違いがあって、各派が分かれた理由のひとつは、釈尊自身がひとつの巨大な霊媒であったことは事実なのです。ですから、そういう巨大な霊媒である釈尊に、いろんな高級神霊が入って、語っておった。そのため、釈尊の顔が変貌したり、そのお経の内容が変わることになったわけですね。 だから、現代、釈迦を霊媒だという人はおらんけれども、霊媒能力というのも巨大な霊能力のなかのひとつであって、そうしたことがあるということですね。 6.霊能力の多面性 霊能力のなかには、霊視というような、霊が見えるというような能力もあれば、霊聴と言って、霊の言葉が聞こえる、こういう能力もある。また、霊言(れいげん)と言って、口から霊の言葉が出る、こういう能力もある。あるいは、自動書記(じどうしょき)というのは、体に入った霊が、手を動かすようにして、書く。まあ、こういうものもある。 あるいはまた、テレポーションと言うのかのう、幽体離脱(ゆうたいりだつ)と言って、体から抜け出してあの世を見てくるような、こういう霊能力もあるし、予知能力と言って、将来起きることを予知する能力、まあ、こういうものもある。 大本教祖の出口王仁三郎などは、予知能力とか、あるいは、あの世を見てくる能力、幽体離脱の能力と言うか、こうしたものが大変優れておったように思います。 私の霊能力もいくつかはあったことはあったけれども、谷口雅春の主たる霊能力というのは、いわゆる自動書記であったわけであります。すなわち、私の肉体のなかに高級諸霊が入って、いろんな文章を書かしたり、いろんな詩を書かしたり、お経を書かしたり、まあ、こうぃうことをしておったわけですね。だから、霊が入るということ自体は、私も霊媒と変わらぬわけでありますね。霊媒はロで語ったりするけれども、手で書くのも、霊媒は霊媒です。 日本語というのは、霊媒という言葉に非常に悪いイメージがあるけれども、霊媒体質でない教祖というのはおらんわけです。大宗教家で霊媒能力のなかった者もおらんわけであるから、神は霊媒にかからんという言葉をもって、たとえば、新しい真理が説かれるときに、その真理を説く者を批判するようなことだけは慎しんでいかねばならん。まあ、こういうふうに、私は生前の自分の教えを補っておきたいと思うのです。 巨大宗教家、真理を説くために出た釈迦や、キリストや、モーゼや、マホメット、こうした巨大な宗教家というのは、みんな、もちろん霊能力の持ち主であって、ある意味では、巨大霊媒であることは確かなんです。出口王仁三郎もそうであったしね。 そういうことであるからして、それは口で語るか、手で書くか、耳で聞こえるか、目で見えるかということであって、それほど差異があるわけではないのです。ですから、神は霊媒にかからんということに関しては、これは一般論にすぎない。それで商売しておる巷の拝屋とかそういうところに行って、神の言葉を聞いたなんていうのは、もってのほかだと、こういうことであります。 7.如来の声が聞けるのは如来だけ したがって、神想観などやっておって、神の声が聞こえた、高級霊の声が聞こえたという人も数多いと思うんだけれども、ここで大事なことはね、やはり、その人の人格です。これが問題なわけです。 同類は相通じる、と。同じ波長同士が通じるという原則があるんですから、如来の声が聞ける人は、やはり如来の霊格を備えておらねばならん。菩薩の声が聞ける人は、菩薩の霊格を備えておる、と。まあ、こういうことが一般的には言えるわけです。 ですから、自分が如来や菩薩の声を聞いておると言うならば、じゃ、その人の日頃の生活はどうか、言動はどうか、人格はどうか。どれだけ多くの人を救ったかどうか。こうしたことが試されるわけですね。菩薩から霊言を受けたり、霊示を受けたりするような人であるならば、やはり世に立って、世の人びとを少しでも教化し、救っていく、こういう実践活動をやっておるはずだし、現に、そうしたことができるはずなのです。 そういうことなくして、すなわち、家庭問題に苦しみ、借金に苦しみ、劣等感に打ちひしがれておりながら、我れに菩薩がかかっただとか、我れこそは何とか菩薩の生まれ変わりだとか、言っておっても、こういうことは、あり得ないのです。如来にしては、もっとあり得ません。如来というのはね、ひとつの時代に、出てもせいぜい数人です。二人か三人、それが限度です。たいていね。 したがって、自分が如来であるという可能性などは、九分九厘あり得ないと思って、間違いないのです。ところが、その九分九厘あり得ないのに如来と称するものから声がかかってくるというようなことは、たいていの場合は、地獄の悪霊の惑わかしであることが多いわけですね。 ですから、そうした人は、よく心を静めなければいかん。自惚心(うぬぼれごころ)を持って神想観をやり、そして、霊の声を聞いただとか、霊動が起きたと言って、喜んでおってはならぬのです。もちろん、一部の例外はあります。しかし、原則としては、そういうことはないのだということです。 たとえば、天理教の教祖に天理王の命(みこと)がかかったり、あるいは、大本教の教祖に丑寅(うしとら)の金神(こんじん)がかかったり、と。こういうことはあるけれども、まあ、こうしたことは、ひとつの時代を画する、大きな宗教を起こすために、やむを得ず高級神霊が仕組んだことであってね。こうした特殊な例外以外で、そういうことがあるということは、まあ、これは疑って間違いない。 ですから、菩薩や如来だというような声が聞こえてきたら、自分がそれだけのことをやっておるかどうかを、よく考えねばならぬ。たとえば、読者でもいいが、読者に新たに如来の声が聞こえたり、イエスの声が聞こえたり、あるいは、大日如来の声が聞こえたり、天照大神の声が聞こえたり、字が出てきたりしたと言うならば、まあ、せめて谷口雅春と同じぐらいの実績を上げて、事業を起こしてから、そう言っていただきたい。そういうことが、ひとつの基準であろうと思うね。 8.「生長の家」の大神として顕れた天之御中主之神 生前は、私も気がつかなかったけれども、「生長の家」の大神として中心神、根本神をやっておられた方は、天之御中主之命(あめのみなかぬしのみこと)という日本神道の主導神であった。これが、わかった。 しかし、天之御中主之命、天之御中主之神であったけれども、これを、明確には私に知らされていなかったわけであります。天之御中主之神というのは、幽の幽なる神であって、宇宙の根本神であって、それゆえ、人にはかからんと私は言うておった。実際はそれでいいわけであってね、めったに名のるものではないのです。 すなわち、天之御中主之神が谷口雅春にかかって文章を書いておったと言えば、谷口雅春が増長慢となって間違いを犯すことをおそれて、そういうことを隠しておられたのです。「生長の家」の大神ということで、隠しておられた。私があの世に還ることになって初めて、あかされたわけです。まあ、通常は、高級霊はこうした方便でもって指導するわけですね。そういうことなわけです。 ですから、私の『生命の実相』などは、主として天之御中主之神の神示を受けながら書いたものだし、「生長の家」の本部の庭に建っておる、「生長の家」の大神の神像があるけれども、あの神々しい神姿というのは、実は、天之御中主之神のお姿そのものであります。現実に、あのような姿をしておられるのです。あの方が、私たちを指導神として導いておったのですね。 9.住吉大神の役割は地上浄化 天之御中主之神以外にも、住吉大神(すみよしのおおかみ)、すなわち、住吉大神(すみのえのおおかみ)という方の指導も受けておりました。この方もやはり、如来界の方で、実在の霊人であります。 住吉大神というのが、主としてやっておったのは何かと言うと、これはね、「生長の家」の光明思想を助けるひとつの手段としてね、邪霊、悪霊から我らを、あるいは、「生長の家」の信徒たちを守るという、そういう禊祓(みそぎはら)いの役割を、すなわち、地上浄化の役割ですね、こういうことをやっておられたのです。これが、住吉大神の役割でした。 浄める、浄化する、こういうことをやっておられて、そして、浄められた聖域、霊域のなかに、天之御中主之大神が、次々と光明思想の真理を説かれたのです。こういうことが言えるわけであります。 10.「神は霊媒にはかからぬ」が、「神は神にかかる」 ですから、私の生前の思想は、天之御中主之神のお考えとほとんど変わっていない。こういうふうに言うことが、可能だと思います。まあ、これについてですが、私は生前、御中主之神は幽の幽なる神で、この世に出て来る方ではないと言ったがために、今、私の霊示を読んで、そんなはずはないと疑う人もおるかもしれぬが、事実は事実、どうしょうもないのです。それが、事実なのです。 「生長の家」の大神は、天之御中主之神であるのです。これは、事実です。仕方がないのです。私自身も、過去世において、伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)として日本の地に肉体を持ったものでありますが、やはりそうした同じ神々の世界から見ておる者として、そうした中心神のような人が、私を指導しておったということですね。 これに対して、たとえば、「生長の家」の前の団体であると言いますか、大本数のようなところでは、国常立之神(くにとこたちのかみ)というこういう方が指導しておった。やはり如来界の方です。こういう神が、指導しておった。同じ日本神道系ですが、指導神が違うために、大本教と「生長の家」の教えは違う、と。こういうふうに言えるかと思います。 こういうようにね、神想観をやっておるときに、高級霊の霊示がくるけれども、あくまでもその人の人格にふさわしい者がかかってくるということで、伊邪那岐大神であった私であるからこそ、天之御中主之神の神示が下ったと、こう考えねばならんのです。まあ、「生長の家」にも立派な方が多いが、一般信徒に天之御中主之神の霊示が下りることは、まずあり得ない。 その意味では、神は霊媒にかからぬ。しかし、「神は神にはかかる」わけですね。すなわち、神近き高級霊が肉体を持って地上におるときには、神がかかってくることがある、と。こういう例外は認めねばいかん。 11.谷口清超氏の過去世は、日本神道系の偉大な神霊の一柱 まあ、この辺はね、二代目総裁の清超先生、それから若き三代目にも、よくよく理解していただきたい。そういうふうに思うところでありますが、二代目総裁が非常にしっかりしておるために、私も、安心してこうした真理を語ることができるわけですね。 ちなみに、私が全幅の信頼をおいて「生長の家」の後を託しておる谷口清超総裁、この方もまた、過去世において、日本神道系の偉大な神霊の一柱であった。こういうふうに言うことができると思います。 まあ、今その名をあかしてよいものかどうか、多少のためらいもないわけではありませんが、古事記、日本書紀のなかに出てくる神々のひとりです。まあ、これは機会を改めたときにあきらかにしようと思います。 私の霊示集も、こういうふうに次々と出しておるわけですけれども、まあ、「生長の家」信徒一般からは、谷口雅春の声に違いないという声が非常に強く、九九パーセントまでは、そのような声が上がっておる。 ただ、「生長の家」の幹部諸君のなかには、まだ初代総裁の声を理解できん方も何人かおるようであるから、そうした人の納得が得られたときに、谷口清超総裁の過去世の名などもあきらかにしたいと思うわけです。まあ、それを信じる信じないは各人の自由であるから、私はあくまでも、その限度にとどめておきたいと思う。 12.日々、自らの人格を高めよ 以上、いろいろと語ってきましたが、本日の要点は、結局、神想観という素晴らしい精神統一の修法があるけれども、あくまでも、その心の波長に合わせたものが語ってくるのであるから、よくよく心の波長を整えるように訓練せねばならん、と。 したがって、より高い高級神霊からの導きを受けるためには、その人自身がより素晴らしい人格者となっていくように、日々の努力精進が何にもまして肝要であるということだ。その人の人格が高まれば高まるほど、神想観を行じておると、より高級神霊からの光を受けることができ、導きを受けることができるということだ。 そして、人生の悩み全般、こうしたものに対して、次々と解答を与えられていく。百事如意(ひゃくじにょい)という言葉どおり、いろんな難問題が続々と解決されていくであろう。こうしたことで、心の調和を図(はか)り、また、人格を日々高めながら、神想観をしていくなかに、百事如意、すべての道が開かれていくであろう。そして、それがあなたに幸せをもたらす永遠の繁栄の道でもあるということだ。この繁栄の道を信じなさい、と。以上です。
https://w.atwiki.jp/wikiwiki2/pages/452.html
『日本思想史への道案内』 苅部直 2017.9 (読書案内) 序章 日本の思想をどう読むか 日本思想全史 清水 日本の文化と思想 大隅 日本政治思想史17~19世紀 渡辺 改訂版 日本政治思想 松澤 日本倫理思想史 和辻 丸山真男講義録 1章 「日本神話」をめぐって 新編 日本古典文学全集1 古事記 古事記 本居宣長「古事記伝」を読む 神野 2章 「神皇正統記」の思想 日本の歴史9 南北朝の動乱 佐藤 中世神話 山本 岩波新書 神道とは何か 伊藤 中公新書 武士道の復活 平泉 3章 武士の倫理をどうとらえるか 日本国制史研究2 日本人の国家生活 石井(合戦と追捕、近世の武家と武士) 近世大名家臣団の社会構造 磯田 武士道 相良亨 武士道とエロス 氏家 切腹の話 千葉 4章 戦国時代の「天」とキリシタン 津田左右吉歴史論集 今井 支那(シナ)思想と日本 岩波新書 海の桃山記 山崎 5章 東アジアの王権と思想 渡辺 近世日本社会と宋学 儒教入門 土田 宗教の世界史5 儒教の歴史 新訂中国古典選4 大学・中庸 島田 朱子学入門 垣内 6章 「古学」へのまなざし こころはどう捉えられてきたか 田尻 江戸の思想史 田尻 知の巨人 佐藤雅美 荻生徂徠「政談」 尾藤訳 孔子 フィンガレット 7章 国学思想と「近代」 本居宣長「うひ山ぶみ」 白石約中 平田篤胤 吉田 <出雲>という思想 原武史 8章 明治維新と福澤諭吉 明治維新を考える 三谷 日本近代史講義 島海靖 新日本古典文学大系 明治編10 福沢諭吉集 松沢校注 文明論之概略 岩波文庫 松沢校注 近代日本の形成と西洋経験 松沢 福沢諭吉の哲学 丸山真男 岩波文庫
https://w.atwiki.jp/zcjh3qhwjk/pages/18.html
ヒノカグツチ プロフィール 真名 ヒノカグツチ クラス エンシェントゴッド/バーサーカー 出典 日本神話 属性 不明 概要 ステータス マスター 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具 [[]] 保有スキル クラススキル 宝具 * 宝具名 ランク 種別 レンジ 最大補足 概要 関連人物
https://w.atwiki.jp/zcjh3qhwjk/pages/13.html
大国主 プロフィール 真名 大国主 クラス エンシェントゴッド/ルーラー 出典 日本神話 属性 不明 概要 日本異聞帯の王。 拠点を島根の出雲大社に置き民を守っている。 「現状を何とかしたいと思っている。マイナスの状況をまずは0にまで持っていきたい」 ステータス マスター 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具 [[]] 保有スキル クラススキル 宝具 * 宝具名 ランク 種別 レンジ 最大補足 概要 関連人物
https://w.atwiki.jp/zcjh3qhwjk/pages/15.html
ヒルコ プロフィール 真名 ヒルコ クラス アルターエゴ 出典 日本神話 属性 不明 概要 天照の代わりに太陽神をしている。しかし天照程の力はない。 「先代ほどの力がないのを歯がゆく思っている」 ステータス マスター 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具 [[]] 保有スキル クラススキル 宝具 * 宝具名 ランク 種別 レンジ 最大補足 概要 関連人物