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こどもは、他人の目を意識するようになると、はにかむようになる。 他人からどう見られているかを意識することによって、はにかむのである。 人前で変なことをしたくないという気持ち、人前で立派にふるまうことができるかどうかについての不安の表出である。 日本の文化は、「恥の文化」であるといわれる。 「そんなことしたら、恥ずかしいヨ」というように、ことさら他人の目を意識させるようなしつけからも、子どものはにかみは助長されると考えられる。 金石茂和(サービスマン養成所講師)
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すうがく徒の本棚(2) 書名 鯖田豊之『肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見』(中公文庫) 評者 小泉ふゅーりー 小麦については1.7倍。大麦では1.6倍。ライ麦にいたっては1.0倍。 何の数字かといいますと、これらは中世ヨーロッパの穀物生産における、播種量に対する収穫量の割合を表しています。小麦を100粒まくと収穫できるのは170粒、といった具合です。 水稲の豊富な収穫量に親しんだ我々日本人からしますと、この数字はまるで悪い冗談のように思われます。とくにライ麦など、収穫した分をそのまま来年に回さねばならないというのですから。これが平年のデータだというのはとても信じがたい話で、本書『肉食の思想』の中でも次のようなフォロー が入っています。 (本書p.52) もちろん、第7表の数字(小泉注:冒頭に挙げた数字のことです)は低すぎる感じがする。凶作のときの特殊例かもしれない。事実、平年作ならふつう播種量の二倍の収穫はある、と主張する学者もある。 しかし、それにしても「とくに条件のめぐまれた場合を別にすると、収穫量の平均は播種量の三倍から四倍ていどにすぎない」(p.53)とのこと。この数字は十三、四世紀ごろのものですが、「十九世紀はじめでも、たいていのところでは、五、六倍のままである」(同)のだそうです。 ひるがえって日本。中世ヨーロッパとはやや時代がずれますが、「徳川時代の農業書を総合すると、平均値にあたる中田の収穫量は、大体、播種量の 三十倍から四十倍である」(同)と、文字通りの意味で桁が違います。 本書『肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見』は、上記のような衝撃的データと、それに基づいた大胆な考察からなる、知的刺激に富んだ「西洋史学研究の問題作」(文庫版裏表紙より引用)です。初版の発行は1,966年、重ねた版は数え切れず。いまだ褪せぬ輝きを放つ名著であります。 ~I ヨーロッパ人の肉食~ 表題の通り、本書は日本とヨーロッパにおける「肉食」意識の差を明らかにするところから始まります。たとえば次の挿話。栄養調査に表れる数字に も随分と差がありますが、この体験談からはそれ以上の隔たりが感じられます。(以下、竹山道雄『ヨーロッパの旅』より本書に引用された文章) ………こういう家庭料理は、日本のレストランのフランス料理とは大分ちがう。あるときは頸で切った雄鶏の頭がそのまま出た。まるで首実検のようだった。トサカがゼラチンで滋養があるのだそうである。あるときは犢(こうし)の面皮が出た。青黒くすきとおった皮に、目があいて鼻がついてい た。これもゼラチン。兎の丸煮はしきりに出たが、頭が崩れて細い尖った歯がむきだしていた。いくつもの管がついて人工衛星のような形をした羊の心 臓もおいしかったし、原子雲のような脳髄もわるくはなかった。……… あるとき大勢の会食で、血だらけの豚の頭がでたが、さすがにフォークをすすめかねて、私はいった。 「どうもこういうものは残酷だなあ――」 一人のお嬢さんが答えた。 「あら、だって、牛や豚は人間に食べられるために神様がつくってくださったのだわ」 幾人かの御婦人たちが、その豚の頭をナイフで切りフォークでつついていた。彼女たちはこういう点での心的抑制はまったくもっていず、私が手もとを躊躇するのをきゃっきゃっと笑っていた。 「日本人はむかしから生物を憐みました。小鳥くらいなら、頭からかじることはあるけれども」 こういうと、今度は一せいに怖れといかりの叫びがあがった。 「まあ、小鳥を! あんなにやさしい可愛らしいものを食べるなんて、なんという残酷な国民でしょう!」 私は弁解の言葉に窮した。これは、比較宗教思想史の材料になるかもしれない。 頭からかじられることりさんはかわいそうですね。 それはさておき、この挿話には色々と気づかされることがあります。日本とヨーロッパにおける「肉食」の差は、単に量的なものというより、むしろ質的な差があるといえそうです。日本で食肉といえばふつうすでに切り身に加工されているものを指しますし、牛や豚の肉と小鳥の肉――鶏以外の鳥の肉がどれだけ出回っているものか分かりませんが――をことさらに区別するということもないでしょう。さすがに犬や猫となれば拒否反応を起こす人が多そうですが。 ~II 牧畜的ヨーロッパ~ 日欧間での意識の差を印象づけておいて、筆者は次なるキータームを持ち出します。いわく、「ヨーロッパには雑草がない」。誤解を避けるため、これについて説明している部分を引用しましょう。 (本書p.46) ヨーロッパには、日本の雑草のような、徒長して家畜の歯にあわないほど茎のかたくなる、何の役にもたたない草は存在しない。そこでは、ひとりでに生える草すら、十分に牧草として利用できる。 ゆえに、「極端ないい方をすれば、家畜はほうっておいても大きくなる」(p.50)。つまりヨーロッパは非常に牧畜に適した環境であるということです。 このような牧畜への適正を生み出すヨーロッパの気候条件は、当然穀物生産にも影響を与えます。要するに水稲が栽培できません。ゆえに栽培される穀物は水稲以外ということになるわけですが、その結果が冒頭に挙げた数字です。ちょっと穀物主体ではやっていけない数字ですね。 本書の筋からは少々ずれますが、このヨーロッパで水稲は栽培できない――正確には栽培に適した土地が極めて少ない――という事実、これはいくら強調しても強調し過ぎるということはないでしょう。 我々がヨーロッパの歴史について学ぶとき、そこにはいくつかの障壁があります。たとえば環境の差などは一言で語りつくせず、また長々語ったとしてもイメージが定着しづらいものですが、上の事実を意識することは、この障壁を越えるための重要な鍵になると思っています。 たとえば、日本には「先祖伝来の土地」という概念があります。脈々と続いてきた先祖の苦労があってこその収穫。一度土地を放棄してしまったら持ち直すのに大変な苦労が必要。そうした考え方が日本人の農地意識の根底にあります。しかし、これは世界的には非常に特殊な事情なのです。 まずは連作障害というもの。世界史を学んでいるとき、その存在は多くの日本人の頭からすっぽ抜けているのではないかと思います(お恥ずかしいことに、私は大学生になってもしばらくその存在を忘れていました)。 水稲の場合とは違って、ふつうの穀物は同じ土地で毎年続けて栽培すると収量がどんどん落ちてゆきます。これを気にしなくてもよいのは、水稲栽培地域を除けばナイル川の流域くらいなものではないでしょうか。メソポタミア文明は塩害によって滅んだといわれますし、高校世界史でおなじみの三圃制(土地を三つに分け、それぞれを「秋まき穀物→春まき穀物→家畜放牧地」の順に一巡りずつずらして三年で一巡させる農法)が現れたのも連作による収量減退を抑えるためです。 余談ですが、高校生の時分、私は前段で述べたようなことをまったく理解できておらず、三圃制なんてものは名前だけ暗記する対象以上の何者でもありませんでした。「農業といえば水田でお米を作るもの」という環境で育った人間に前文の()内のような説明を行ったとき、その様式にどういった意味があるのか、ひとりで理解できる人間がどれだけいるのでしょうか。 また、これは『肉食の思想』では触れられていないことですが、三圃制やそれ以前から行われていた二圃制の普及には、人口の増加やかつて耕してい た土地の劣化などにより耕作適地――土地に休眠期間を設けず毎年収穫物を得ることが可能であるような――ではない土地でも生産を行う必要が生じた という面もあります。 しかし、そのような土地の薄い土壌は何年も耕作を続けるうちに雨や風によって剥がされ、そう遠くない未来にはほとんど耕作不可能な土地に成り果 ててしまいます(詳しくは『土の文明史』(デイビッド・モントゴメリー/片岡夏実訳、築地書館)などをご参照ください)。こうした事情も世界史の流れに深く関わってくるものですが、水田に囲まれて育った我々にはなかなか思い至らないことではないでしょうか。 ~III 人間中心のキリスト教~ さて、中世ヨーロッパ人は我々が想像するよりもはるかにかつかつな暮らしをしていたようですが、そういった事情は彼らの思想形成にどのような影響を与えたのでしょうか。 先に述べたように、ヨーロッパは「家畜はほうっておいても大きくなる」牧畜適地であり、そして穀物生産はあのざまです。必然、家畜との結びつきが強くなります。 筆者は「日本人の肉食はままごとのようなものである」と書きましたが、その言葉を借りるならば、日本人の動物との付き合いもまた「ままごとのようなもの」でしょう。ヨーロッパの人々は、牛や豚などの飼い慣らせば多少の意思疎通すら可能な生物と同じ屋根の下で暮らしつつ、しかもそれらを食用に殺さなければ生きてゆけなかったのですから。 こうした事情にヨーロッパの人々はどう適応したのでしょうか。先に引用した文中のお嬢さんは、「あら、だって、牛や豚は人間に食べられるために神様がつくってくださったのだわ」と言っています。このように人間と動物の間に絶対的な一線を引くことで、動物愛護と動物屠畜を矛盾なく同居させ ることが可能になります。筆者はこれを「断絶論理」と呼び、そこからヨーロッパにおける様々な事情を説明してみせます。 たとえばヨーロッパの人々には輪廻転生や進化論といったものに対する強烈な拒否感があるようですが、これらは断絶論理から最も直接的に導かれるものでしょう。彼らにとって、人間と動物は絶対的に分離されていなければならないものなのです。 次に、キリスト教の結婚観。幼いころから身近で家畜の交尾が見られるような環境では、性を秘めごととして触れないようにすることは不可能です。 人間の性生活と動物のそれが結局同じものであるということを認識したとき、断絶論理はどのように働くのか。 理想的なのは一切の性生活を拒否することですが、まあ無茶です。次善の策として、教会は「男女の結びつきを「結婚」という鋳型のなかに押し込め」ました(p.93)。カトリックが離婚を禁じていることも、こうした事情の延長線上にあるものとして説明されます。 最後に宮廷愛。若い独身の騎士と主君の奥方がギリギリの線で――あくまで精神的に――愛し合う、というあれです。そうした恋愛作法(といってよいのか分かりませんが)も断絶論理の表れとして説明できます。決して肉体関係をもたず、精神的に高めあうことに終始するあたりが動物性を払拭していてよろしいのだそうです。 ~IV ヨーロッパの階層意識~ 続いて筆者はヨーロッパ人と動物の間の断絶から一歩進め、「ヨーロッパ人とそうでないもの」の間の断絶を探ります。 まずは日本とヨーロッパにかつてあった身分制の比較。日本の士農工商においては「大阪の富豪一たび怒れば、天下の諸侯皆慄え上る」(蒲生君平) とまでいわれた大商人でも名目上は身分制の最下位におかれるなど、身分制による上下と実社会における上下には大きなずれがありました。 それに較べると、ヨーロッパの身分制はまさに現実における上下関係そのものです。次の引用文はとくに印象的です。 (以下、鮫島志芽太『日本人の考え方』より引用された文章) パリをひとまわりして、コンコルド広場に立ったとき、私はうなった。なるほど、フランスの人民革命は、起こるのが当然だったろうと。その壮大豪華な宮殿や公邸、庭園、寺院を展望すれば、貧しい市民がその中で行われていたであろうぜいたくをいつまでも許してはおくまい。本当にそういう感じのわく、りっぱさである。…… そこで筆者はこのように記します。 (本書p.125-6) いずれにせよ、人間と動物の断絶が、なすがままの形で、身分制のなかに投影されていることになる。……そこには、「ほんとうの人間」を求めての断絶論理が一貫している。 後半の一文、すなわち「階層間の断絶が前章において語られた断絶論理に根をもつ」という点に関しては、私にはどうも根拠が不足しているように感じられましたが、とにかく断絶論理はより広い領域に拡張されました。 さて、日本における身分の概念が制度の解体とともに消滅した(これは士農工商でなく華族制度のことですが)のに対し、ヨーロッパにおける階層意 識は身分制の解体後も根強く残ります。 筆者はその例証として、公侯伯子男が存続するイギリスのみならず、公式には貴族の存在しないフランスにおいてすらいまだに爵位への執着が見られること――系図の偽装などによる偽貴族は当時(1,966年頃)で一万五千家もあったそうです。百年も前に貴族階級は消滅し、制度上はわずかの特権すらないにも関わらず!――などを挙げます。欧米型の労働組合(同職の労働者らによる企業横断型の労働組合)についても、「ヨーロッパの伝統的な階層意識が、形を変えて、組合意識を支えている」(p.134)という考察がなされています。 続いて、本書は基本的に日本とヨーロッパの比較からなるものですが、ここでは例外的にインドのカースト制とヨーロッパの身分制の比較が行われます。どちらも横割り的な階層社会だからですね。 筆者はここでも肉食に注目します。初めに「人口一人当りの家畜頭数にかんするかぎり、インドは完全に欧米諸国なみである」(p.140)ことを注意し、続いてカーストが下がるほど肉食が自由になることを述べます。最高カーストのバラモンは一切の肉を口にせず、上層カーストは羊のみ、最下層ではほとんど制限なし、といった具合です。 (本書p.141) けれども、いかなる面であれ、動物(家畜)に接触する機会の少ないほど上層カーストで、肉食を絶対にしないのが最高であるとの立場は、あきらかに、一種の断絶論理の産物である。動物からの距離のちがいが、カースト差別の基準になっている。 これはヨーロッパと同じく家畜が身近であるという環境から生じたものと考えられますが、では何故同じ「人間と動物の間に一線を画す」という原理 から、ヨーロッパとインドで異なる論理が導かれたのか、という点が問題になります。 この問題を考える上で重要なのは、やはり気候条件の違いです。日本と違って水産資源が得難いために家畜を飼ってはいますが、インドはヨーロッパ のような牧畜適地ではなく、むしろ穀物栽培に適しています。このあたりの話が次章のテーマとなります。 ~V ヨーロッパの社会意識~ ヨーロッパは牧畜に適した土地柄であり、一方穀物の収穫に関してはあのざまですが、それでもヨーロッパの人々がパン食を止めることはありませんでし た。この穀物栽培がヨーロッパの人々の意識にどういった影響を与えたのか、というのがこの章の主題です。 筆者はまず、農民が各人の家で麦類をパンに加工して食す、というのは技術的に不可能に近かったと指摘します。ちなみにパン食にこだわるのは栄養吸収率などの事情からですね。とにかくヨーロッパにおいては「個々の農家の独立性は、日本よりはるかによわい」(p.154)のです。 こうした事情は時代が下っても食品工業の巨大さ――パンと米の加工・流通について較べてみましょう――などといった形で残ります。こうして時代を通じ、ヨーロッパ人は「社会の存在をいやおうなしに強く意識しなければならない」(p.156)。そして「こうした社会意識こそ、実は、肉食を補完する穀物摂取が、高い肉食率の産物である人間中心主義や断絶論理に影響する原動力なのではあるまいか」(同)。 続けて筆者は、そもそも休耕地に家畜を放牧する――ゆえにまとまった面積が必要になる――三圃制自体が複数の農家間の協力を要請するものであることを指摘し、自説をさらに補強します。 こうして農村の事情について説明したのち、筆者は都市の形成に目を向けます。集住者たちは最初期には野盗、繁栄し出してからはさらに封建領主の圧力に対抗するため共同体意識を高め、やがて独自の自治組織をもつ中世都市を生み出します。しかし都市内での貧富の差が拡大するにつれて、次第に 上層市民の間で都市の枠を超えたつながりが育ち始めます。 こうして「市民意識は、個々の都市を単位とすることをやめ」ます(p.168)。この発展が先に挙げた村落意識との大きな差ですね。これに対抗し て、封建領主らも横のつながりを深めてゆきます。ヨーロッパの身分制議会――そしてその前提条件である僧侶、貴族、市民といった身分の統一―― は単に断絶論理のみからきたものではなく、こうした社会意識の拡大にも多くを因っています。 筆者はここで「第三身分を支える階層意識と社会意識のバランスがくずれ、社会意識の方に重心がかかったところに、一七八九年の革命の特徴がある」 (p.172)とも記しています。 さて、ヨーロッパ史を勉強したことのある方には重々承知のことかと思われますが、ヨーロッパの人々、というかキリスト教徒は異端というものが大嫌いです。三度に渡り行われたアルビジョワ派根絶のための十字軍、魔女狩りで有名な教皇庁の異端審問官、極めつけがカトリックとプロテスタントの対立に由来する十六、七世紀の諸戦争。こうしたヨーロッパ史上の諸々の事件は、ヨーロッパに特有の強い社会意識と断絶論理が結びついた結果として説明できます。つまり彼らには「他人が自分と同じでないことに我慢できない」(p.181)ところがあるようです。 このような意識が階層意識と同様現代まで生き続けていることの例証として、筆者は「信仰の自由」が名目上かかげられていても実際のところその国その国で税制上優遇される宗派があること、婚姻に際してあらかじめ役場に「結婚広告」を一定期間掲示しておく義務があることなどを挙げています。後者については、公共意識というものの悪い側面が、こうした「のぞき趣味」として現れるということだそうです。 ~VI ヨーロッパ近代化の背景~ ここまで他の地域と比較しつつヨーロッパの思想について考察を行ってきましたが、現代を生きる我々にとってみれば、ヨーロッパの思想といえばまず「自由と平等」、いまやヨーロッパの枠を越え世界中に輸出された民主主義の理念がそれでしょう。こうした近代ヨーロッパ思想の出現を、筆者は主にふたつの要素から説明します。 まずひとつには、時代が下るにつれてこれまで説明してきたようなヨーロッパの特殊事情が緩和され、伝統思想が後退したという点です。 総人口に占める都市人口の割合が急増し、都市民の農業――ヨーロッパの「農業」は牧畜とまったくもって不可分なものであることに注意してください――からの分離はだんだんと完成されてゆきます。 一方農村においても農業革命(土壌への窒素固定作用をもつクローバーなどのマメ科飼料作物その他の導入により、ヨーロッパの農業生産が飛躍的に向上した)以降農家のおかれた状況は一変し、それぞれの農業経営の独立性が高まりました。 このようにして旧来ヨーロッパの階層意識(断絶論理)と社会意識を育んできた土壌は乾きつつあったのですが、それだけではより普遍的な新思想の到来を予感させるのみで、なぜそれが「自由と平等」だったのかは説明できません。 そこで第二の点ですが、旧いヨーロッパの階層意識と社会意識の中での生活は、我々が想像する以上に辛く抑圧されたものだったらしいということです。 厳しい重圧に耐えかねた個人意識は、ちょっとしたきっかけに出会って盛大にはじけ、「自由」と「平等」の要求が全ヨーロッパを席巻したのでした。 本書においては噴出した個人意識のすさまじさが語られるばかりで、たとえばアンシャン・レジーム下に生きた人々の抑圧された様子などには触れられないのですが、以前エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読んだときにも――内容は半分も理解できなかったのでまさに「読んだ」だけなのですが――そういった厳しい抑圧の気配を感じた覚えがあります。 ところで、民主主義とか自由や平等の権利といったものは単なる理念ではなく、現代の国家において実際に運用されているわけですが、そこには以下 のよ うな懸念が生じます。 これまでの章でも触れられてきたように、ヨーロッパにおける伝統意識はいまだ堅固です。表向きは「自由と平等」、個人主義をうたいつつも、実際の法律の運用においては宗派間の格差が残っていますし、個々人の意識の中にもいまだ伝統思想が息づいていると思われます。すなわちヨーロッパの民主主義は伝統思想(階級意識と社会意識)と近代思想(個人意識)の微妙なバランスの上になるものであって、「自由と平等」というのは強烈な個人意識を一応満足させるための大義名分、フィクションということになります。 しかしこの「自由と平等」がヨーロッパ外にも輸出可能なものであるのに対して、強烈な個人意識や伝統思想――とくにヨーロッパ特有の諸事情に根 づく後者――は輸出不可能なものです。こうした思想から切り離された「自由と平等」が輸出されるとき、重石を失った大義名分は暴走し、最悪無政府状態を生み出す危険があります。実際日本は無政府状態とはいかないまでも一度そうした事態に陥っており、その結果が太平洋戦争の悲劇である、と筆者は記します。 著者である鯖田豊之氏は2,001年にご逝去なさっており、今となっては望むべくもありませんが、現代日本の民主主義を氏はどのように捉えているのか、読めるものならば是非読んでみたいものでした。 ご感想などあれば以下のフォームにお願いします。 名前 コメント
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大見出し 「バカの壁]養老孟司 新潮新書 この本を読んで、教育における矛盾や疑問や発見を改めて感じることがあった。 まず、養老孟司氏が「個性」について論じているところから感想を述べていきます。 現代、「個性をもっと出せ」「子どもの個性を大切にする」バイト先などでは「もっと個性的なモノがほしい」など、「個性」という言葉は社会生活の中で結構、耳にすることが多くなった。しかし、保護者や教育委員会の意見、指導方法の束縛やゆとり教育、学習指導要領による教師の多忙などにより、教師は必然的にマニュアル教師になってしまう傾向がある。そのような個性がうまく発揮できない状況にある教師が子どもに個性を出せなどと言ったところで果たして効果があるのだろうか。そして、塾、親の過保護や校則などに固められている子どもがいざ、個性を出せといわれたところで混乱に陥ってしまうことも無理もない。個性を出すことは大事だとそこまで僕は思わない。周りに流されず、自分の意思をきちんと持っていれば、自分だけが持っている個性が出てくると思う。 個性というものは自ら潜在的にもっているものであり、自ら作るものではない。自分の個性は人との会話の中で、新たに発見でき、自分の人間像を確立していくものなのかなと感じた。 養老先生による、「子どもたちが学ぶ際に障害となっているもの」は二つあると僕は思う。一つは社会が人間の手で作られた脳化社会になっていること。二つ目は豊かな社会になったことにより、前頭葉が低下してしまったことがあると思う。 脳化社会(人間の手で意識的に作られた社会)になったことにより、無意識で物事を考えることが少なくなっている。僕はここのところに共感した。ゲームや遊戯場などにより、暇な時間、考え事をする時間は昔に比べてかなり減少していると思う。これに重なり、情報社会がプラスされることで、もし何かの困難に出会ったときに、とても悩んでしまう。ニートなどはそのようにして増えていくのではないかと思う。目標が定まらず、意識的な環境の中で育ってきたことにより、悩み、苦しみ、困難という無意識の感情に出会った時に、上手に対処ができないのかなと僕は思う。僕も、今、将来の目標が定まってなく、今、何をすべきか分からない一人です・・・。先輩からの助言などで、今年から本を読むことに決め、バカの壁は今年、4冊目です。今思えば、無意識で物事を考える時間を作れと遠まわしに先輩は伝えてくれたのかなと思った。 話が少し反れましたが、脳化社会が進んでいくことは教育にもかなり影響してくると思う。最近よく耳にする「無気力な子ども」というのは脳化社会による、無意識時間の減少が影響しているのではないかと本を読んでいて思いました。 二つ目の前頭葉の低下は信州教育大学の実験で明らかになったことである。ここ30年間で前頭葉の発育は4、5年くらい遅れているそうです。前頭葉は「抑制」「発想力」「やる気」などの役割機能するところで、凶悪な犯罪、前述した「無気力な子ども」が増加しているのも、これが一部の原因であると僕は思う。 最後にバカの壁は何なのかを述べたいと思う。バカの壁とは他者の考え、意思などを受け入れずに自分の周りに壁を作ってしまうことである。前述したように意識的なもの、快楽や欲求ばかりに目がくらみ、無意識的な部分に目を向けないのもバカの壁を作っているのと一緒であると思う。広い視野で物事を考えていくためには努力が必要であると感じた。この本に書いてある徳川家康の言葉を引用すると「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」がある。困難なことはたくさんあるけど、諦めず少しずつ歩いていけば、必ず何かが待っているという意味なのかなと自分で解釈しました。 この本はこれからの人生や今、どうあるべきなのかなど、いろいろ感じることができた。
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FFO Replay Version 2.1 紅雲//何時から側に寝ているかしら?//八雲 紫-八雲 紫-八雲 紫-古明地 こいし- クラスト//心闇「いたずら者のエシックス」//古明地 こいし-古明地 こいし-古明地 こいし-スターサファイア- 賽が投げられて、紅雲の先攻になりました。 クラスト マリガン クラストは手札からカードを全部、山札の上に置きました。 クラストはカードを 6 枚引きました。 - マリガン #配置:《心符「没我の愛」》 Turn 2 - クラスト//体力20( 21) 呪力1( 1) 手札7( 5) 山33( 34) スペル1( 2) タイマー00 12(00 06) シーン なし #配置:《表象「夢枕にご先祖総立ち」》 Turn 3 - 紅雲//体力21( 20) 呪力3( 1) 手札6( 6) 山33( 33) スペル2( 2) タイマー00 06(00 17) シーン なし 手札:二次元と三次元の境界//廃線「ぶらり廃駅下車の旅」//結界「生と死の境界」//神隠し//漱石枕流//ダブルスポイラー// #配置:《結界「生と死の境界」》 Turn 4 - クラスト//体力20( 21) 呪力3( 3) 手札7( 5) 山32( 33) スペル2( 3) タイマー00 16(00 11) シーン なし #配置:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 5 - 紅雲//体力21( 20) 呪力6( 3) 手札6( 6) 山32( 32) スペル3( 3) タイマー00 11(00 23) シーン なし 手札:二次元と三次元の境界//廃線「ぶらり廃駅下車の旅」//神隠し//漱石枕流//ダブルスポイラー//ネクロファンタジア// #配置:《廃線「ぶらり廃駅下車の旅」》 Turn 6 - クラスト//体力20( 21) 呪力6( 6) 手札7( 5) 山31( 32) スペル3( 4) タイマー00 22(00 15) シーン なし #配置:《「サブタレイニアンローズ」》 Turn 7 - 紅雲//体力21( 20) 呪力10( 6) 手札6( 6) 山31( 31) スペル4( 4) タイマー00 14(00 33) シーン なし 手札:二次元と三次元の境界//神隠し//漱石枕流//ダブルスポイラー//ネクロファンタジア//外力「無限の超高速飛行体」// #配置:《ダブルスポイラー》 ↑起動:《結界「生と死の境界」》 Turn 8 - クラスト//体力20( 21) 呪力10( 6) 手札7( 5) 山30( 31) スペル4( 5) タイマー00 33(00 26) シーン なし #配置:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 9 - 紅雲//体力21( 20) 呪力10( 4) 手札6( 6) 山30( 30) スペル5( 5) タイマー00 25(00 58) シーン なし 手札:二次元と三次元の境界//神隠し//漱石枕流//ネクロファンタジア//外力「無限の超高速飛行体」//ダブルスポイラー// ☆戦闘:紅雲 - 《結界「生と死の境界」》 vs 《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 - クラスト ★戦闘結果:紅雲 - dmg 2 3 dmg - クラスト #配置:《外力「無限の超高速飛行体」》 ↑起動:《結界「生と死の境界」》 ↑起動:《外力「無限の超高速飛行体」》 Turn 10 - クラスト//体力17( 19) 呪力8( 3) 手札7( 5) 山29( 30) スペル5( 6) タイマー00 59(00 42) シーン なし #配置:《「嫌われ者のフィロソフィ」》 ↑起動:《「嫌われ者のフィロソフィ」》 Turn 11 - 紅雲//体力19( 17) 呪力7( 5) 手札6( 6) 山29( 29) スペル6( 6) タイマー00 41(01 20) シーン なし 手札:二次元と三次元の境界//神隠し//漱石枕流//ネクロファンタジア//ダブルスポイラー//紫奥義「弾幕結界」// 紅雲は《二次元と三次元の境界》をクラストの《「嫌われ者のフィロソフィ」》に配置しました。 ☆戦闘:紅雲 - 《結界「生と死の境界」》 vs 《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 - クラスト イベント(クラスト):《ハイド・アンド・シーク》 ★戦闘結果:紅雲 - dmg 2 【回避】 - クラスト #配置:《紫奥義「弾幕結界」》 クラストは《無意識「弾幕のロールシャッハ」》を準備状態にしました。 クラストは《「嫌われ者のフィロソフィ」》を準備状態にしました。 Turn 12 - クラスト//体力17( 17) 呪力9( 3) 手札6( 4) 山28( 29) スペル6( 7) タイマー01 23(01 22) シーン なし #配置:《光符「ルチルフレクション」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 13 - 紅雲//体力17( 17) 呪力9( 3) 手札5( 5) 山28( 28) スペル7( 7) タイマー01 17(01 43) シーン なし 手札:神隠し//漱石枕流//ネクロファンタジア//ダブルスポイラー//漱石枕流// ☆戦闘:紅雲 - 《外力「無限の超高速飛行体」》 vs 《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 - クラスト ★戦闘結果:紅雲 - dmg 2 2 dmg - クラスト #配置:《ダブルスポイラー》 ↑起動:《外力「無限の超高速飛行体」》 ↑起動:《結界「生と死の境界」》 Turn 14 - クラスト//体力15( 15) 呪力9( 2) 手札6( 4) 山27( 28) スペル7( 8) タイマー01 38(01 36) シーン なし ☆戦闘:クラスト - 《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 vs 《外力「無限の超高速飛行体」》 - 紅雲 ★戦闘結果:クラスト - dmg 2 3 dmg - 紅雲 #配置:《復燃「恋の埋火」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 15 - 紅雲//体力12( 13) 呪力9( 3) 手札5( 5) 山27( 27) スペル8( 8) タイマー01 35(02 05) シーン なし 手札:神隠し//漱石枕流//ネクロファンタジア//漱石枕流//霊撃// ☆戦闘:紅雲 - 《結界「生と死の境界」》 vs 《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 - クラスト ★戦闘結果:紅雲 - dmg 2 3 dmg - クラスト ↑起動:《結界「生と死の境界」》 ↑起動:《外力「無限の超高速飛行体」》 Turn 16 - クラスト//体力10( 10) 呪力10( 2) 手札6( 5) 山26( 27) スペル8( 8) タイマー01 58(01 54) シーン なし ☆戦闘:クラスト - 《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 vs 《外力「無限の超高速飛行体」》 - 紅雲 ★戦闘結果:クラスト - dmg 2 3 dmg - 紅雲 #配置:《「嫌われ者のフィロソフィ」》 ↑起動:《「嫌われ者のフィロソフィ」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 17 - 紅雲//体力7( 8) 呪力9( 4) 手札6( 5) 山26( 26) スペル8( 9) タイマー01 46(02 24) シーン なし 手札:神隠し//漱石枕流//ネクロファンタジア//漱石枕流//霊撃//境符「四重結界」// ☆戦闘:紅雲 - 《結界「生と死の境界」》 vs 《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 - クラスト ★戦闘結果:紅雲 - dmg 1 3 dmg - クラスト #配置:《境符「四重結界」》 ↑起動:《結界「生と死の境界」》 ↑起動:《心符「没我の愛」》 Turn 18 - クラスト//体力5( 6) 呪力12( 3) 手札6( 5) 山25( 26) スペル9( 9) タイマー02 14(02 12) シーン なし #配置:《表象「夢枕にご先祖総立ち」》 ↑起動:《「サブタレイニアンローズ」》 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 Turn 19 - 紅雲//体力6( 5) 呪力10( 3) 手札6( 5) 山25( 25) スペル9( 10) タイマー02 00(03 42) シーン なし 手札:神隠し//漱石枕流//ネクロファンタジア//漱石枕流//霊撃//二次元と三次元の境界// ↑起動:《紫奥義「弾幕結界」》 Turn 20 - クラスト//体力5( 6) 呪力10( 3) 手札6( 6) 山24( 25) スペル10( 9) タイマー03 29(02 21) シーン なし ☆戦闘:クラスト - 《「嫌われ者のフィロソフィ」》 vs 《心符「没我の愛」》 - 紅雲 イベント(クラスト):《紙一重》 イベント(紅雲):《漱石枕流》 ★戦闘結果:クラスト - 【回避】 1 dmg - 紅雲 #配置:《復燃「恋の埋火」》 Turn 21 - 紅雲//体力5( 5) 呪力7( 8) 手札6( 4) 山24( 24) スペル9( 11) タイマー02 11(04 40) シーン なし 手札:神隠し//漱石枕流//ネクロファンタジア//霊撃//二次元と三次元の境界//紫奥義「弾幕結界」// イベント(クラスト):《超反応センス》 ☆戦闘:紅雲 - 《結界「生と死の境界」》 vs 《「サブタレイニアンローズ」》 - クラスト ★戦闘結果:紅雲 - dmg 2 5 dmg - クラスト 紅雲 乙 クラスト 乙 クラストは山札を丸ごと見ました。 社が観戦を始めました。 クラスト 何も引かねえ 紅雲 外力を立つは正解かな 紅雲 紙警戒として クラスト あれそういう理由だったのか 紅雲 ん クラスト 別にあれ自体はどうでもいいんだが… 紅雲 はたてさんは読めないからw クラスト せやな 紅雲 ではー 紅雲 ノシ クラスト ノシ === 試合時間 09 38" (2013/08/24 11 01 35 終了) ===
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ヒトは、何かに縋り付いてしまうなら、それを切り離さなければならない。 たとえ、そのために手首に多くの代償を刻み込んでも。 作品リスト 7スレ目に投下したもの 灰になるまで 真夜中は純潔 白い狂気 同じ夜 Un chien et Eros 861さんが書いてくださった続き Ketzerei 花とナイフ――続Ketzerei 暗黙情事 シドと白昼夢 Sang et Eros 意識 1/1 意識 2/2 意識 3/3 Cold Turkey Eの手紙――月曜日 アイデンティティ 実質8スレ目 アゲハ蝶 1/1 アゲハ蝶 2/2 潮騒 Eの手紙――火曜日 苺畑で捕まえて ここでキスして。1 ここでキスして。2 ここでキスして。3 Nobody s Home
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○月×日 23:08 視聴覚室横階段前 「…むぅ、まだ目を覚まさないのかい?」 『はい…打ち所が悪かったのでしょうか?』 いまだ目を覚まさぬバイトちゃん その様子に、流石に心配になってきた様子のザクロ バイトちゃんは、ザクロの背中の上で意識を失ったままだ …と、そこに ぽ~ん、と「13階段」が、何かを放り投げた ぱし、とドクターはそれをキャッチする 「何だい?これは」 「気付け薬だ。魔女の一撃が作った物だから、効くと思うぜ」 「おや、いいのかい?」 あぁ、とぶっきらぼうに答える「13階段」 …「爆発する携帯電話」が、気を失ったままのバイトちゃんを心配そうに見ているものだから、気になって仕方なかったのだろう 「13階段」が気付け薬を持っていたのは、「爆発する携帯電話」が発作で万が一気絶した時に備えてだ 「それでは、ありがたく使わせてもらおうか」 どう言って、ドクターは気付け薬の蓋を開けた そっと、その香りをかがせるようにバイトちゃんの顔に近づけ…… 「----------がはっ!?」 ごろんごろんごろん!!! 瞬時に意識を取り戻したバイトちゃんが、ザクロの背中から落ちて廊下を転がる!! 「え!?ど、どうしたの!?」 「…ふむ、どうやら、気付け薬の匂いが強烈すぎたようだな」 『~~~わ、私の鼻までおかしくなりそうです…』 気付け薬は、意識を失った者の意識を匂いで取り戻させるものだ …少々、強力すぎたようである 「……良かった。こいつに使う機会なくて」 意識は戻ったものの、匂いに悶え苦しむバイトちゃんの様子に ぼそり、「13階段」は呟いたのだった とぅーびー?? 前ページ次ページ連載 - マッドガッサーと愉快な仲間たち
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国、国家に必要な三つのものは何ですか? 話しはそれますが あなたは何人と聞けばたいていの人は日本人やアメリカ人や韓国人という どうしてあなたは日本人なんですか?と聞けばたいてい人は、日本に生まれたから、日本人であり日本語をしゃべってるからと言います。 では、日本はいつからあって日本人はいつから居ますか?と聞けばみんなが簡単には答えられない、けれども私たちは簡単に説明できない存在の日本人であると「信じている」、私たちはいわば個々に「自分は日本にうまれた日本人、自分の隣の君も日本人」と想像する。しかしこの想像は意識的ではなくいわば無意識的である、ではなぜ無意識的なのか、一例を上げると東海大震災後、公共広告機構のながしているEXILEやRIP SLYMEのあの方達がいう「頑張れ日本」である、何故日本であるのか何故我が国や東北と言わないのか、それはCMを通し、日本、日本、日本と言うことで刷り込みを行い、意識や認識の並列化を行うことで私たちが日本人であると無意識に想像するのである。 これが私たち日本人である、言い換えれば想像の集合体が日本人、日本国民である この国民が国や国家に必要な条件の一つである。 タグ: あ -- (てs) 2011-04-15 00 04 35 名前 コメント すべてのコメントを見る
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・ライナーと鎧の巨人 ライナーと巨人の脳は「補助脳」の関係。 ライナーの方が付属品で、言ってみれば巨人の心に相当する? 自分の脳が雷槍で吹き飛ばされる前に、ライナーは①「全身の神経網に意識を移し」、②「鎧の巨人の脳を利用して記憶も失わずにすんだ」。 このベルトルトの解説から、「意識と記憶は別」だと考えられる。 つまり、①だけだと記憶は失われてしまうのではないか? フリーダはヒストリア(クリスタ)の記憶を消していた。 記憶消去も記憶操作の一種である。 記憶操作されないためには、巨人の脳を利用しなければならないのではないか? ライナーの行動から見て、自分の意識やパーソナリティは神経網に保存可能だが、記憶は脳出なければ保存できない。 パソコンで言えば、意識はOS、記憶はデータに当たる。 意識だけ残って記憶が無くなることが、記憶操作の正体ではないのか? ・ライナーの「待って」 ライナーたちの中身は子供。 過去に104期のメンバーと「大切な仲間」だった。 ライナーたちの行為は、実は104期のメンバーを救うことでもある。 ところが、ライナーたちには事情を隠さなくてはならない何らかの理由がある。 だから仲間から人殺しだと憎まれるのを承知の上で、自分の手を血に染める事を選択した。 他の壁?にも104期と同じメンバーがいる。 ちょうどチェスや将棋のように、異なる陣営ごとに同じ駒(メンバー)がいるのである。 ライナーたちは、この壁の104期のメンバーと入れ替わった。 104期の中の誰かが、必ずこの「呪われた歴史を終わらせる」というミッションを実行しなければならない。 もしジーク戦士長が言うようにライナーが「鎧」を他の人に譲ると、104期の誰かがライナーの代わりの役を演じなければならない。 そしてライナーは「何も知らない104期のメンバー」に戻り、今のジャンやコニー達の役を演じることになる。 ライナーたちは、他の人間に仲間を殺すつらい役目をさせたくない。 「つらい思いをするのは自分たちだけでたくさんだ」と考えている。 ライナーの自己犠牲と責任感。 今までにずっとミッションに失敗してきた。ミッション失敗→リセット→ミッション再開→ミッション失敗→リセットの繰り返し。 ・80話以降のライナー 巨人の脳には記憶や意識はあるのか? 巨人側の記憶が支配する? ライナーの意識や記憶に一部欠損ができる? PCでデータ転送中にフリーズしたりシャットダウンして、データが損傷した状態。 巨人の脳にデータ転送中に爆破され、途中までしかバックアップできなかった。 この場合、復活後のライナーに何らかの変化があり得る。 たとえば、壁中人類としてのライナー・ブラウン(=モーゼス・ブラウン)に戻ってしまい、超大型巨人を攻撃する。 そして復活ライナーは104期を再び仲間として認識するが、なぜか一部の同期の記憶が無く「お前は誰だ?」と聞く。 たとえばミカサやエレンなどを敵だと言い出す。 あるいは、ライナーの顔が変化している。 たとえばモーゼス・ブラウンの顔になっている。 見知らぬ人の顔、すでに作中に登場している誰かの顔、など。 ライナー・ブラウンの名前の由来はスヌーピーで有名な『ザ・ピーナッツ』の主人公にして”究極のお人良し”チャーリー・ブラウンと、毛布依存症のライナスを足したものではないかと想像。 サイナラ
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海底要塞(かいていようさい) 海馬乃亜が指揮する海底要塞。 元々は海馬剛三郎が某国の依頼で密かに建設していたミサイル衛星の発射基地として造り上げたもの。 メインコンピューターには事故死した乃亜の意識や病死した剛三郎の意識が組み込まれている。 デュエルモンスターズクエスト編でも使われた電脳世界に意識を送り込むためのカプセルや護衛ロボットも配備されており、バトルシップを遠隔操作できるハッキング機能も持つ。 最終的にはミサイル衛星からのミサイルで破壊される皮肉な最期を遂げた。 【関連】乃亜編
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ルネサンスの「世界」の発見とは何か ルネサンスの「人間」の発見とは何か ロックのいう「意識」を生み出した背景は何か 大衆の出現 進歩史観としての帝国主義 近代の次の時代は何か 文明の進歩に終わりがくるのかという問題意識 今日の歴史の状況とは ポストモダンの基本的要因とは何か ルネサンスの「世界」の発見とは何か それぞれの文化では、自分たちを中心とする地域を世界と捉え、その辺境では自分たちの持っている自然や論理とは異なるものがあり、その先にはカオスや砂漠、滝などの世界の終わりがあると考えられてきた。 ルネサンスにおいて発見された「世界」はどこにも同じ論理の自然があり、その世界のそれぞれの地域に多様な文化があるという認識であり、均一で一様な空間認識であった。 ルネサンスの「人間」の発見とは何か 自由で平等な個人、理性的主体のことを指す。この考えを明確にしたのがロックであり、ロックは人間というものの同一性をその人格の同一性に求めた。この人格の同一性を支えるのが意識である。 ロックのいう「意識」を生み出した背景は何か 時計の発明である。時計の発明によって機械によって規定される客観的時間という基準ができ、個人が経験している時間間隔は主観的で偏った物であると認識されるようになった。これが、孤立した主観としての「個人」であることの経験であり、これが「意識」を生み出した。 大衆の出現 「主観的意識としての個人」と「客観的なひとつの世界」という考え方が浸透し近代が完成し、現代のもとができた。そこに「大衆」が出現する。 進歩史観としての帝国主義 世界は一つであり、同一の論理でなりたっているならば、一つの哲学と科学の知識をもてば、世界中のどこまでも進んでいけるということになる。 近代の次の時代は何か ない。「時代」そのものが近代に属するので。近代とは異なったポストモダン状況に入っているかどうかという問題はある。 文明の進歩に終わりがくるのかという問題意識 ちょっとした制度の変革で理想社会が到来すると考えたサン-シモンやフーリエといった「空想的社会主義者」達、ヘーゲルの影響を受け、そこにある有神論や目的論を否定して唯物論的な歴史を論じ、理想社会の実現のための共産主義革命を予言したマルクス、すでに「歴史は終わっている」と論じたコジューヴ等の知識人がいた。 今日の歴史の状況とは 歴史が過剰に存在する。広大なデータとして残されているので、いつでもタイムマシンにのるかのようにして過去の出来事を参照できる。このことによって、何か出来事が起こりそうになると過去同様の出来事がおこっていないか参照できることになり、未来が「いまだ存在しないもの」から「いつかどこかで起こった出来事」(既視感)へと変わってしまっているいわば反歴史的な状況である。 ポストモダンの基本的要因とは何か 普遍的登記簿がいたるところに準備されるようになり、過去が常に参照されることによって現在の各瞬間がすでに起こった出来事と同じようにみなされる結果、新しい事が何も起こっていないと思われる状況になっていることが要因である。