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国際連盟(こくさいれんめい 英:League of Nations)は、第一次世界大戦の教訓から、1920年に発足した史上初の国際平和機構である。 略称は連盟。本部はスイスのジュネーヴに置かれていた。 国際連盟の沿革 設立 アメリカ合衆国大統領のウィルソン(=民主党)の十四か条の平和原則により提唱され、ヴェルサイユ条約の第1編に基づいて国際連盟規約が定められたことで設立された。原加盟国は42カ国で、最終的に60カ国以上が加盟している。 提唱者が大統領であるアメリカ合衆国自身は、モンロー主義を唱える上院の反対(=共和党が多数)により国際連盟には参加していない。また、ロシア革命直後のソヴィエト社会主義共和国連邦(1934年加盟)や敗戦国のドイツ(1926年加盟)は、当初は参加を認められなかった。このように大国の不参加によってその基盤が当初から十分なものではなかった。 経緯 1920年代には小規模紛争解決の成功例もあるが、第二次世界大戦を控えた1930年代には、1933年に日本とナチス・ドイツが、1937年にイタリアが連盟から脱退、その後も枢軸側中小国の脱退が相次ぎ、大規模紛争の解決に対する限界を露呈した。また、1925年にコスタリカが地域紛争の解決失敗を理由に、1926年にブラジルが常任理事国入り失敗を期にそれぞれ連盟を脱退していたが、1930年代後半から中南米諸国の脱退が急増した。そして第二次世界大戦の開始に伴い、連盟は機能不全に陥り、1939年12月の理事会においてフィンランド侵略を理由に1939年にソヴィエト連邦を除名したのを最後に、理事会、総会共に活動を休止した。 国際連合の発足後の1946年4月に第21回総会を開催し、投票により連盟の解散と資産を国際連合へ移行することを決定した。 国際司法裁判所や、国際労働機関は国際連合に引き継がれた。 機構 総会(Assembly) 理事会(Council) 事務局(Secretariat) 常設国際司法裁判所(Permanent Court of International Justice) 国際労働機関(International Labour Organisation) 他に常設委任統治委員会、常設軍事諮問委員会、軍備縮小委員会、法律家専門家委員会などで構成される。 発足当初の常任理事国は、大日本帝国、フランス、イギリス、イタリアの4か国である。 国際連合とは異なり、最高決定機関は「理事会」ではなく「総会」であった。また決定方法は多数決ではなく「全会一致」を原則としていたことや、軍を組織することができず軍事的制裁は行えなかったために経済制裁を行うまでの権限を有するにとどまったことから、紛争解決に効果を発揮できなかったことが指摘される。ただ、世界における現実の紛争に必ずしも有効な解決策を提示できなかったとしても、史上初めて、国際機関として参加国の総意を以って意見を集約をするという理念は、評価されるべきものと考えられている。 紛争処理以外では効果を上げたとする指摘もあるほか、満州事変に関する日本への勧告や、エチオピア侵攻に際してのイタリアへの経済制裁等、常任理事国が関係する紛争に対しても可能な限り対応した点では、現在の国際連合では常任理事国が関係する紛争の処理が困難であることと比べ、評価されるべきであるとの意見もある。加入国が対等の立場において意思決定に参画するシステムは、平等の見地からは評価されるべきものであるが、実際には大国が小国を動かすことによって、国際連盟における世論を構築することが可能になる制度であるとの批判がある。後継の機関ともいうべき国際連合においては、常任理事国に一定の優越する地位が与えられている。 大日本帝国の貢献と脱退まで 大日本帝国(以下日本)は脱退まで常任理事国であり、国際連盟事務局次長には新渡戸稲造が選ばれるなど、日本は中核的役割を担っていた。 日本はヨーロッパから離れていたためにヨーロッパ諸国間の紛争に比較的利害を持っていなかったことから、概ねヨーロッパの紛争(ギリシア等)に対しては公平な第三者として調停を行うことができたと評価される。 柳条湖事件を契機に日本が満州全土を制圧すると(満州事変)、清朝最後の皇帝・溥儀を執政にする満州国を建国した。これに抗議する中国(中華民国)は国連に提訴。国連ではイギリスのヴィクター・リットン卿を団長にするリットン調査団を派遣する。リットンは日本の満州における特殊権益は認めたが、満州事変は正当防衛には当たらず、形だけでも満州を中国に返すように報告書に記した。 1933年2月24日、国際連盟特別総会においてリットン報告書(対日勧告案)が採決され、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム=タイ)の賛成多数で可決された。可決直後、席上で松岡洋右日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、その場を退席した。 その後、同年3月27日、日本は正式に国際連盟に脱退を表明し、同時に脱退に関する詔書が発布された(なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日)。以後、日本は日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約などを結び、第二次世界大戦への道を進むことになる。 関連項目 Template commons? ウッドロウ・ウィルソン 十四か条の平和原則 ヴェルサイユ条約 第一次世界大戦 常任理事国 (国際連盟) 国際連盟加盟国 リットン調査団 外部リンク 国際聯盟規約 - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月15日 (水) 05 49。
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Template 右? 第一次世界大戦下の日本(だいいちじせかいたいせんかのにっぽん)では、日英同盟に基づき、連合国の一国として第一次世界大戦へ参戦した日本(当時は大日本帝国)について述べる。 参戦 日英同盟に基づく参戦 第一次世界大戦の開戦に際して、イギリスは日英同盟に基づき、ドイツ東洋艦隊を撃滅する必要から日本へ連合国側に立っての参戦を要請した。当時アメリカ合衆国は中立であり、日本の軍部は艦隊の外地派遣によって本土の防備が手薄になることを恐れ、即時参戦には消極的だった。 しかし、1914年8月15日、ドイツに対し最後通牒と云うべき勧告を行った。参戦に慎重だった為、異例の一週間の期限となったが結局ドイツは無回答の意志を示した。 大隈重信首相は、御前会議にもかけない上に、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになる。8月23日に日本はドイツ帝国へ宣戦を布告した。 ドイツ領の攻略 thumb|240px|[[マルタ|マルタ共和国旧英国海軍墓地 (現英連邦墓地) にある大日本帝国海軍第二特務艦隊戦没者の墓1975.8.6撮影]] 11月7日に、日本陸軍とイギリス軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日 - 11月7日)。日本海軍は太平洋のドイツの植民地だった南洋諸島(マリアナ諸島とカロリン諸島、当時はドイツ領ニューギニアと呼ばれた)を攻略した。 船団護衛 英仏露から欧州の戦線へ帝国陸軍の派遣要請があったがこれを拒絶した。また、英国より要請があった日本海軍の地中海出兵も断った。 しかし、日本海軍は、連合国からの再三の要請を受け、世界各地の植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年には、Uボートを中心とした無制限潜水艦作戦により輸送船の撃沈が続いていたインド洋と地中海で、連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。特に、1917年後半から開始したアレキサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献した。 地中海には巡洋艦明石及び樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊を派遣、後に桃型駆逐艦などを増派し合計18隻を派遣した。被害としては駆逐艦「榊」がオーストリア=ハンガリー帝国海軍の潜水艦U27からの攻撃を受け大破、59名が戦死した。「榊」は完全な状態に修理するのに8か月を要した。他の戦闘をあわせて地中海前線においては日本軍将兵計78名が戦死しており、戦後、マルタ島のイギリス海軍墓地の一隅に墓碑が建立されている。 戦勝国 連合国の勝利に大きく貢献したこれらの功績により、日本も連合国5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東省権益と、パラオやマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島を委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となった。 対華21ヶ条要求 Template main? 青島攻略後の1915年1月18日、日本は中華民国の袁世凱政権に14か条の要求と7か条の希望条項を提示した。これは次のような内容であった。 ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること 関東州の租借期限を延長すること 南満州鉄道の権益期限を延長すること 沿岸部を外国に割譲しないこと 要求に対して中国国内では反対運動が起こったが、日本側は5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。これにより中国人の反日感情が高まり、蒋介石の北伐に伴う山東出兵(1927年 - 1928年)のきっかけとなる。 シベリア出兵 Template main? 1917年10月にロシア革命が勃発すると、英仏の要請により1919年に米国などと共にシベリア出兵を実施した。しかし、シベリア出兵を継続したことで各国の猜疑を招いたほか、日本が力をつけたことに対するアメリカの人種差別的指向を持つ諸派の懸念などで国際的立場が厳しいものとなっていった。 経済への影響 国土が戦火に見舞われなかった上に、当時すでに工業国として近代工業が隆盛を誇っていた日本は、連合国の他の参戦国から軍需品の注文をうけ、成金が出現するなど大戦景気に湧いた。 ドイツ人捕虜への待遇 日露戦争時同様、戦時下においては陸海軍とも国際法を厳しく守り、捕らえたドイツ軍俘虜は丁重に扱った。青島で捕獲した俘虜約4,700名は徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。 ベートーベンの「第9」はこのときドイツ軍俘虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。ドイツに帰還した元俘虜はこのときの扱いに感謝し、「バンドー会」を結成している。“今では日本語として定着している「びっくり」はドイツ人捕虜の発したWirklichが語源である”との説も流布している。 関連項目 パラオ マジュロ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 14 39。
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元朝鮮人女子勤労挺身隊員に対する損害賠償等請求控訴事件・控訴人準備書面(1) ソース:http //www.geocities.jp/teisintainagoya/kouso/kousokeika/zyunbi1.pdf 【小目次】 第3 日本の戦争と植民地の拡大、総力戦の準備1 日本の植民地は、日本が行った戦争とともに拡大していった。 2 このように戦争によって獲得した植民地は、 3 日本は満州事変で遼寧、吉林、黒竜江の東北三省を占領し、 4 第一次世界大戦によって、ヨーロッパ各国は、 第3 日本の戦争と植民地の拡大、総力戦の準備 1 日本の植民地は、日本が行った戦争とともに拡大していった。 日本の植民地は、日本が行った戦争とともに拡大していった。日清戦争の結果、1895年の「下関条約」によって台湾の領有が認められ、日本で最初の植民地となった。つづいて、日露戦争の結果1905年に「ポーツマス条約」が結ばれ、日本はサハリン島南部の割譲と遼東半島の租借権、長春以南の鉄道利権の譲渡を受け、サハリン島に樺太庁をおき、遼東半島にはのちに関東庁、関東軍をおいた。そしてすでに見たように1910年に「韓国併合条約」を大韓帝国に結ばせ、朝鮮総督府を設置した。さらに第一次大戦により日本海軍が占領したドイツ領南洋群島(ミクロネシア)が、1920年日本の委任統治領となり、22年には南洋庁が設置された。1930年代に入り、31年の満州事変を契機として、翌32年に日本が実権を握る傀儡国家「満州国」を建国した。 以上のように、戦争の都度、日本の植民地は拡大し、その面積は日本本国の約4倍、総人口は本国の人口に匹敵するほどの規模になった。 2 このように戦争によって獲得した植民地は、 このように戦争によって獲得した植民地は、日本人が血で購ったものであるという論理で、日本の民衆は、植民地の獲得、膨張を支持した。対華21ヵ条要求に対する日中間の世論の状況について、石橋湛山は次のように記述している。「此間の日支両国の輿論は如何であったかと云うに、支那が国民を挙げて、大反対運動を行ったことは申すまでもない。彼等は実に之を以て支那破滅の大事件として痛憤し、其の愈よ成案となるや、国辱の極として深慨した。之に対して日本の輿論は、殆ど新聞という新聞、論客という論客が、日本の要求を正当とし、之に承諾を与えざる支那政府を誠意なしとして罵った。其実彼等の多くは、我要求の内容性質が如何なるものであったかと、正確に知っていたわけではない。唯だ多大の血と国幣とを費して独逸より奪える膠州湾を、支那は無条件で還付せよと主張する、日清日露戦役を経、非常の苦心を払いて経営し来れる南満地方の我特殊の位地を支那は認めぬ、実に暴慢無礼であると云うような、粗硬な感情論であった。」(石橋湛山「所謂対支二十一個条要求の歴史と 将来」東洋経済新報1923年4月21日付) このような日本の世論はメディアによって煽り立てられていった。 国民の意識・精神を戦争へ向けて統合するために、活字・図像に音声・映像を加えたメディアが、その威力を発揮した。しかしメディアは真実を伝えるのではなく、軍部・政府の意のままに、国民をだます役割を果たし続けた。ラジオは、大本営発表を流し続け、戦意高揚の歌や曲を流し、新聞は日々の報道だけでなく、号外を配って国民を煽り、大活字の見出しや写真、音声を伴った動く映像で国民の意識を操作した。満州事変勃発直後の新聞各紙の見出しは、 「奉軍満鉄線を爆破、日支両軍戦端を開く 我鉄道守備隊応戦す」「両軍衝突の原因? 支那軍満鉄線を爆破 わが守備隊を襲撃す」「燦として輝くわが軍の威容」「正義の前に支那軍殆ど壊滅」「悪鬼の如き支那暴兵!我軍出動遂に掃討」(江口圭一『十五年戦争の開幕』(昭和の歴史4)85頁以下)と、正義は我が軍、悪鬼は支那軍であるとの意識が植え付けられた。満州事変が関東軍の謀略であったことは今日では歴然としているが、当時の国民はこのようなメディアによる煽動によって事実を知らず、正義の戦争として侵略戦争を支持し煽り立てていったのである。 3 日本は満州事変で遼寧、吉林、黒竜江の東北三省を占領し、 日本は満州事変で遼寧、吉林、黒竜江の東北三省を占領し、1932年3月国民党による統一国家建設の途上にある中国から分離して、傀儡国家「満州国」を設立した。 中国における国民革命の進展によって、日露戦争以来の日本の満州における権益が動揺していることに対抗し、革命勢力を満州から排除するためであった。中国は国際連盟に提訴し、連盟が派遣したリットン調査団が、日本の自衛権の主張や満州の「独立」を認めず、満州を中国主権下の自治地域として国際管理下におくことを提唱した報告書を発表するや、軍国主義と排外主義を強めた日本社会では連盟脱退論がわき起こり、1933年3月、日本は国際連盟を脱退した。 4 第一次世界大戦によって、ヨーロッパ各国は、 第一次世界大戦によって、ヨーロッパ各国は、それまでの戦争が限定された戦場での軍隊同士の衝突であったという性格から、交戦国の国民がその総力 (経済力、軍事力)を挙げて戦うものへと性格を変貌させた。日本は、第一次大戦に参戦こそしたものの、総力戦体制をとるほど戦争に巻き込まれなかったが、軍部は第一次世界大戦に学び、きたるべき戦争は国家総力戦になると考えそのための研究と準備に着手していた。1918年には軍需工業動員法が公布され、軍需局が設置され、1927には内閣に資源局が設置され、軍需資源の調査と動員の準備が進められ、総力戦に向けての国民動員、思想統制と軍事教育が試みられた。 indexへ
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概要 Social science Intelligence Agencyの略(SSIAじゃんとかいってはいけない) エスアイエーでもサイアでもシアでも好きに読んで欲しい。 社会科学情報局とは頽廃卿ポッピー、通称ポッピーニキ(詳しくは頽廃卿ポッピー)が運営する世界史系グループである。 意外にまじめであり、社会科学情報局ではあるが、社会科学から人文科学まで扱う。 自然科学班まである。基本的にセミプロみたいな人がどこにも一人はいる。高校以上大学院未満の情報なら大体揃う。 略歴 世界史議論グループという名で創設。第一グループ、第二グループというグループわけだったが、地歴班、政経班に名称変更。2023/06/01に文化班が追加さる。 筆者が編集をサボったために、日付が分からなくなっているが(申し訳ございません)自然科学班の創設と雑談用の本部、界隈情勢調査班(世界史界隈)、猥談班が創設され現在に至る。 社会科学から人文科学、自然科学から世界史界隈のことまで大体のことは聞いたら誰かが答えてくれる。 NL-CIH戦争でのSIA 静観。本当に何もしていない。 中立、モンロー主義を掲げ戦争が飛び火しないよう戦時内閣まで作られたが結局何もなかった。 NLの民やCIHの民がたくさんいるので主戦場となりうる恐怖。 もともとNLやCIHと違いある程度真面目なグループとして機能していたため飛び火しなかった SIAの風景 メンバーが質問したり持論をのべたりして様々なメンバーから意見や、知識を享受する。精スプや誹謗中傷、ヘイトスピーチは存在しない。 基本的に激論が交わされることもあるが穏やか。NLの奴らもNL民とは思えないほどおとなしい SIAのグループ 議題 特徴 SIA本部 雑談 SIA最大の人数を誇る SIA第一支部 政治経済について 二番目の人数。過疎ではない SIA第二支部 文化オカルトについて 発展途上であり人数は二番目に少ない。 SIA第零支部 地歴について 発展途上、人数は一番少ない SIA自然科学班 自然科学について 再エネ等の議論が多い 界隈情勢調査班 世界史界隈について 本部について活発 猥談班 文字通り 筆者は入ってないため不明 SIA本部 通称:SIAサロン(本部) もともとは地理歴史について話すグルだったが雑談が多くなり雑談する場所となった。地理歴史とはすみわけが機能している。 たまに変なツイートが晒されている SIA第一支部 通称:SIA政歴班(第一支部) 政治経済について内政外交国際情勢、ここでもまた幅広く議論が行われている。本部と異なり、知識の共有や質問の頻度は低い。純粋におのおのの政治信条に基づいて話されていたり、あるいは少々ブラックな冗談を言い合っている。極端な思想は少なく、右派左派様々な思想信条の人がいるが喧嘩はおきていない。現実の国会よりまともに見える SIA第二支部 通称:文化忌憚班(現状は文化倫理に改名されている) 世界史のオカルト、超常現象についての議題を議論する旧第零班と文化倫理について議論する第二支部が合併した。本部を除いて唯一界隈外の民がいる。 ここでは政治関連の話は避けるようにしているので是非ボカロPや絵師様、物書きさんにも来てほしい。 文化についての解釈(日本人が想像する創作に登場する帝国とは何か、AIと人間の付き合い方等)で盛り上がることも多い。 ポッピーに魔女についての教えを請いたいならここ。 好きなものを語り合うことのできるいい支部だが過疎 SIA第零支部 通称 SIA(地歴班) 地理歴史について日本史世界史問わず幅広く議論や質問が行われている。 繫栄しているし、それは個々の純粋な学術的な興味に支えられている 世界史議論グループというSIAの前身から続く歴史と伝統あるグループ 自然科学班 自然科学について特に界隈の都合上再エネ関連や半導体関連など分かりやすく経済や安保につながるものが多い。 またAI関連も多い。 化学や物理学について話せる方募集中。 頼めば多分入れてくれる https //twitter.com/BigBrother_Popy 界隈情勢調査班 世界史界隈についての雑談、それ以上あんまりいう事がない 猥談班 察せ その他のグループについて ディスコード 上記全てを総括したグループ。ディスコードでは時代ごと、地域ごとに区分されていたが、整理が行われた。 基本的に過疎である。 社会科学情報局問題編集部 前身は社会科学情報局作問班。班から部に昇格である みんはやでの投稿や単純に社会科学についての問題を作るだけ。だったのだが、編集部に移行しディスコードにしかなかった活動場所がTwitter上にも整備されたことによってさらに活発になる見込み、だったが過疎。みんはやに使えそうな問題がなかなかなくて困っている。ちなみにみんはや運営に採用されたことはない。 歴史探訪協会アルゴノーツ 非常に過疎。厳密にはポッピーニキが運営していただけでSIAではなかった。歴史的な遺産などにいったらそれを共有したりおすすめの場所を共有する。なかなか楽しい場所だったが過疎って残念だ。 現在SIA文化班と統合されている 運営 本部の人口増加によりツイッターのDMグルの上限にぶち当たり対策のために建てられた。高浮上の人間を入れただけのため実際に運営に関わっている、権限を持つ人は半分未満である。三部会みたいなもの。。。だったのだが6/15に全員に役職名が付与されたためなんだか元老院っぽくなってきた。 NLやCIHほどグル内政治が活発でないため実態は親政に近く、現状権力闘争は発生していないし、ぶっちゃけどこまで権限が認められているのか編集者もきちんと把握してない。 ツイッターでの参加者 参加者 権限、立ち位置 頽廃卿ポッピー 全て ずでーてん 基本全て(一人しか持てない権限は保有していない) アリの神様 基本全て(一人しか持てない権限は保有していない) しがない一般字 文化班、編集部の運営権 高杉春風 全班の補佐及び地歴の統括 義憤スペシャル 副官 夜行ちゃん 政経の統括補佐 ヤセン大尉 神絵師 日本革命委員会 界隈調査班班長 新規追加人員 権限、立ち位置 ゆっくりクソエイム 文化班統括補佐 グラフィ 通常の運営権限 ヤセン 広報担当 uio 本部運営代理一身上の都合より脱退 たまゆら uioの称号を引き継いでいる スイス狂信者いーすと 事務局長、公式垢運用権限 事務局員 基本的に事務局員は治安維持wikiの編集権を持つ。 また運営の人員が休職したり新班の統括者が未定の場合代表者として統治を委任される。 事務局員 権限、立ち位置 とりころ~る 治安維持対応 ルイ14世の聖書 自然科学班の委任統治及び治安維持 あほちん 治安維持 野生のパンジャン 治安維持及び文化班補佐代理 運営者称号一覧 氏名 称号 頽廃卿ポッピー 局長(全部門統括者)兼地歴班統括者 アリの神様 副局長兼政経班統括者 高杉春風 ウラマー兼地歴班統治代理 義憤スペシャル 副官 日本革命委員会 最高顧問 ずでーてん 四天王 夜行ちゃん 四天王 ヤセン大尉 四天王 しがない一般字 四天王 四天王内訳 ずでーてん ズデーテンラント復興運動のずでーてん 夜行ちゃん ドロップキックの夜行ちゃん ヤセン大尉 魔女っ娘神絵師 しがない一般字 書記長
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大日本国の北部に位置し、 アイヌモシリ本島、樺太、千島、カムチャッカ、アリューシャン列島、アラスカを領有している国。 先住民族であるアイヌ民族・サハ人が多く長い歴史があるように見えるが、 歴史は意外と浅く 首長国の成立は明治2年である。 ただし、これは古来からの小・中規模の部族による生活を何百年もの間保持しており、 国家という集合体を必要とする生活ではなかっただけであって、建国まで被占領下にあったわけではない。 江戸幕府が自治を認めた寛政2年(皇紀2450年)からは本国からの移民が始まり、その文化を吸収し急速に発展。 そして慶應3年、上様御謀反が起きる。第十五代将軍徳川慶喜は入札(選挙)により政体を決めることを提案し 朝廷に政権を返還。その代わりに松前へ旧幕臣などを連れて移転。アイヌ首長国連邦を建国する。 これは結果として議会制を促進することとなり、明治政府・アイヌ首長国が近代国家となる大きな要因となった。 この時、アイヌを同列に扱うことや政府と連合を組むことに反対した者が各地で紛争を起こしたのが第一次統合戦争である。 琉球王国・大日本国と連合帝国になった後は石狩炭田を中心とした様々な炭鉱・鉱山が発見され、 本国の援助の下、開発が急速に行われ、大正末期には本国と対等になるまで成長。 150年前には弥生時代と同じ生活水準だったとは思えないほどの成長ぶりだった。 当時、首長国は大国ロシアと接していた為、軍隊は防衛に重点を置いたものとなった。 そこで、軍が自国の軍艦を作る時、対潜・護衛に重点を置いた「海防艦」という新種別の艦を作ることとなる。 (それまで日本軍は旧式化した艦を海防任務に充てていた) この海防艦は、現在の護衛艦・巡視艦の原型となる。 昭和12年には日本海軍と共同でオホーツク海を封鎖。 大東亜戦争中は自慢の海防艦を護衛艦隊に付ける事で、弱かった日本の補給線の増強に大きく貢献する。 さらに、昭和18年9月には日本国を説得する形でベーリング海峡「北方飛び石作戦」・アラスカ上陸戦を実施。 北米原住民(イヌイット)の支持もあり、上陸作戦は成功。アラスカを降伏に追い込む。 終戦後はアリューシャン列島を得、アラスカは委任統治領となる(現在は自治州)。 こうして、文化・技術を吸収し、領地を広げ、類を見ない勢いで発展していったアイヌ首長国連邦だが、 その分、イヌイット、エヴェン、オロッコなどの少数民族が増え、「少数民族による共同体」を作ろうという思想が現れてくる。 昭和30年、ベーリンジア宣言発表。それは多民族国家5ヶ国による多民族超国家共同体の結成を意味していた。 これは、国家の定義について論争を呼び、首長国と帝国の対立も引き起こすが、 現在もベーリンジア共同体(西洋名CMB)として存続されている。 アイヌ首長国連邦は17の有力な酋長家からなる連邦国家で、 建国のきっかけとなった徳川松前首長国の首都函館が連邦全体の首都として機能している。 (函館はアイヌの名称ではないので、地元では臼岸(ウスキシ)と呼ぶ人もいる) ただし、交通・鉱山・軍隊などは連邦が一括して管理している。 各国概略史34(二訂版)・アイヌ首長国連邦(大日本連合帝国に含まれる) 続き また、本土から津軽海峡・宗谷海峡・間宮海峡を鉄道が通じている為 本土、アイヌモシリ、樺太、沿海州は人・貨物共に行き来が多い。 主な産業は農業・漁業・鉱業。特に十勝の大農地や釧路漁港、石狩炭田・津江(ズエ)炭田・奥端油田は有名。 最近は土地の安さから、工場の誘致も積極的の行われており、これからも更なる成長が予測される。 徳川幕府を起源としている為、行政区分は国-郡/市-町/村であり、 本島11国、樺太6国、千島、古里役、加莫察加の21国がある。 公用語は日本語・アイヌ語だが、 アイヌ語は定まった表記方法が無い為、第二公用語のような扱いになっている。 また、樺太ではロシア語が使われる地域もある。地域によって様々な言語が使われる多民族・多言語国家。 ちなみに、首長国諜報部は忍者の流れを引き継いでおり、現在も世界各地で暗躍している。 アイヌ連邦海軍構成は、基本的には本土と共通の中・小型艦に北洋用装備を取り付けたもの。 初期においては本土からの艦隊派遣。 日清戦争後、ロシアの脅威を肌で感じるようになって艦隊整備を本格的に開始。 防護巡洋艦1~2隻と二等駆逐艦4~6隻程度の、連邦にとっては結構な出費の艦隊整備計画発動。 日露戦争後、ロシアの戦利艦を受領。史実の「見島」「沖島」が新たな主力に。 また戦時計画で建造した駆逐艦6~8隻が相次いで竣工、勢力が一挙に倍増する。 八八艦隊計画が本土でスタートすると、連邦においても函館ドックで巡洋艦級程度は自力建造可能なよう、 かなり大規模な整備計画がスタート。 このとき、5500t級軽巡2を新規建造すると共に、本土から天龍級巡洋艦を購入、改装により高速敷設艦とする。 また古鷹級巡洋艦の購入計画もあったが、終戦後の不況や海軍軍縮条約締結により沙汰止みとなる。 条約時代はアイヌ連邦の戦力も日本所属として勘定されることから建造計画はかなり縮小され、 止むを得ず史実の占守に相当する小型海防艦(当然排水量が制限内に収められ、はるかに小型)の整備が行われる。 このとき、乏しい財政事情もあって船体・機関を共通化し、その他装備を必要に応じて転換する 革命的な設計手法が確立。 アイヌ連邦の600tシリーズはファミリー化の起源とも伝えられる(海防艦の他、敷設艦や潜水艦母艦、輸送艦などが誕生) 設備面では後々のため、中型空母や重巡程度は整備可能なよう、函館ドックの拡張が行われ、1万5000t程度の艦艇が補修・整備可能となる。 無条約時代に入ると函館ドックにも活況が戻り、ついに自力で重巡・空母の建造を開始する。 戦時中、函館からは雲龍級空母2、重巡2が戦列に加わった。
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イーガル・アロンイスラエル(イギリス委任統治領パレスチナのクファル・タヴォール)1918~1980統率:A 武力:A 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------レヴィ・エシュコルの死後、副首相だったため臨時首相を務めた。軍人として自衛組織パルマッハ創設に関わり総司令官となった。また、第一次中東戦争では主要な作戦を指揮した。その後政治家に転身し、労働大臣、文部大臣、外務大臣を歴任した。 イツハク・ベンツビイスラエル(生まれは現在のウクライナ・ポルタヴァ)1884~1963統率:B 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------第2代イスラエル大統領。自警団「バル=ギオラ」を設立しユダヤ人の民族自決を図った。イスラエルの独立宣言書にもサインをした。また、教育機関であるギムナジウムを設立した。 イツハク・ラビンイスラエル(エルサレム)1922~1995統率:B 武力:C 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------第6代、第11代イスラエル首相。第一次中東戦争では、エルサレム防衛の指揮を取り、エジプト軍と交戦し、第三次中東戦争でも参謀総長として勝利した。二度目の首相就任時に、アラブ側との和平を進め、オスロ和平合意に調印、更にヨルダンとの平和条約に調印し、ノーベル平和賞を受賞するが、反対派に殺害される。 ゴルダ・メイア(ゴルダ・マボヴィッツ)イスラエル(生まれはウクライナ・キエフ)1898~1978統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第4代イスラエル首相。ウクライナからアメリカへ移住し、その後パレスチナを経てテルアビブに移住する。公的機関で勤務し、労働大臣、外務大臣を歴任する。レヴィ・エシュコルの死で、首相に就くが、政治指導力に批判を多く受けて首相の座を後任に譲る。 ザルマン・シャザール(シュネイウル・ザルマン・ロブショフ)イスラエル(生まれはベラルーシ・ミンスク近郊ミール)1889~1974統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第3代イスラエル大統領。ユダヤ史を学び、シオニスト組織「ポアレイ・ツィオン」に参加すると、ロシアの警察に逮捕された。パレスチナ移住後、労働党の創設に参加し、文部大臣を務め、大統領に就任する。 ダヴィド・ベン・グリオンイスラエル(生まれは現在のポーランド・プロンスク)1886~1973統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------初代、第3代イスラエル首相。ユダヤ人の虐殺(ポグロム)に衝撃を受け、シオニスト、社会主義者となる。労働組合「ヒスタドルート」を結成するが、過激な右派への対応に苦慮した。イスラエルの発展に尽力したが、秘密裏に核開発を行ない、エジプトの破壊工作の責任を国防省に押し付けたため(ラヴォン事件)失脚した。 ハイム・アズリエル・ヴァイツマンイスラエル(生まれは現在のベラルーシ・モタリ)1874~1952統率:A 武力:C 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------政治家、化学者。シオニズム運動に参加し、イギリスやイラクと交渉してイスラエルの建国に大きく貢献した。 ハイム・ヘルツォーグイスラエル(生まれはイギリス・ベルファスト)1918~1997統率:A 武力:A 政治:C 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第6代イスラエル大統領。第二次世界大戦時にはイギリス陸軍に従軍し、イスラエル建国後はイスラエル国防軍の将校として第一次中東戦争、第二次世界大戦を戦った。大統領としては多くの外遊を行い、極東やドイツを訪問した。 メナヒム・ベギンイスラエル(生まれは現在のベラルーシ・ブレスト・リトフスク)1913~1992統率:C 武力:C 政治:B 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第7代イスラエル首相。ユダヤ人の非公然武装組織イルグンに参加し、第一次中東戦争ではパレスチナ人の虐殺を行なった。第四次中東戦争では、エジプトのサダト大統領との歴史的和平合意を行い、ノーベル平和賞を受賞する。イラクの原子炉攻撃や、レバノン紛争として知られるガリラヤ平和作戦の開始を命令した。 モーシェ・ダヤンイスラエル(パレスチナ・ギブツ)1915~1981統率:B 武力:A 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------政治家、軍事指導者。国防大臣、外務大臣を務めた。第二次世界大戦を戦い、片目を負傷し、『片目のダヤン』、『イスラエルの鷹』、『独眼の将軍』、『隻眼の将軍』の異名をとった。その後も第一次、第三次中東戦争を戦う。 モシェ・シャレットイスラエル(生まれはウクライナ・ヘルソン)1894~1965統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第2代イスラエル首相。 レヴィ・エシュコルイスラエル(ウクライナ・キエフ県オラトフ)1895~1969統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第4代イスラエル首相。大蔵大臣も務める。在任中に六日戦争が勃発し、ヨルダン・エジプトに占領されていたヨルダン川西岸地区、ガザ地区の占領に重要な役割を果たした。
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トップページ>韓国>韓国独立運動史研究 『韓国独立運動史研究』48、2014.8 研究論文 김주용「李章寧の生涯と独立運動」 김명섭「朴烈の日王爆殺計画推進と獄中闘争」 이재호「大韓民国臨時政府の国際共同管理案反対運動(1942-1943)」 김시덕「北間島明東学校瓦当の花紋様に現れた民族意識」 양지선「中国天津地域韓人の移住と定着」 유필규「1940年代朝鮮総督府満州開拓支援者訓練所の設置と性格」 김희곤「安東川前邑出身独立運動家たちの生家跡調査研究」 韓国独立運動史研究所月例研究発表会300回記念 조성진「月例研究発表会の昨日と今日」 유필규「月例研究発表会の課題と展望」 資料紹介 김형목「国債報償運動と投書事件」 『韓国独立運動史研究』47、2014.4 研究論文 김상기「林翰周の思想と独立運動」 윤상원「1920年代前半期金弘壹の抗日武装闘争」 田中正敬「関東大地震と千葉における朝鮮人虐殺の推移」 장성욱「日帝末期慶山「決心隊」の強制動員拒否闘争」 金度亨「日帝末期フィリピン・ビルマ地域韓人兵士の強制動員と帰還」 조은경「韓中抗日記念館展示ナレーティブと東アジア歴史認識:独立記念館・中国人民抗日戦争記念館を中心に」 資料紹介 박경목「[改題]独立運動家の回顧記録『李圭彩年譜』」 編集部「『李圭彩年譜』原文」 編集部「『李圭彩年譜』脱草本」 編集部「『李圭彩年譜』翻訳文」 『韓国独立運動史研究』46、2013.12 研究論文 박걸순「1910年代秘密結社の闘争方略と意義」 김주용「1910年代北間島地域秘密結社の組織と活動」 김영장「梁起鐸の西間島地域における独立運動」 장승순「黒旗連盟(1925)の組織過程と構成員の性格」 李明花「島山安昌浩の西大門刑務所投獄と収監生活」 김희곤「星州地域の独立運動と性格」 김용달「光復前後左右派独立運動勢力の国家建設論」 황선익「東北アジア情勢と中国地域韓人の帰還(1944-1946):中米交渉を中心に」 심옥주「日帝強占期済州独立運動の地境と独立有功者現況分析」 윤소영「近代日本官纂地誌と地理教科書に現れた独島認識」 정병준「アメリカ情報機関の独島関連資料と独島問題認識:中央情報局(CIA)CREST秘密解題資料を中心に」 『韓国独立運動史研究』45、2013.8 研究論文 홍순권「韓末日本軍の義兵鎮圧と義兵戦術の変化過程」 韓圭茂「1900年代金九の黄海道長連・文化・安岳移住と啓蒙運動」 김승태「3・1独立運動と宣教師達の対応に関する研究」 韓詩俊「大韓民国臨時政府と中国広州との関係」 潘炳律「呂運亨の活動を通じて見た上海地域初期韓人共産主義組織の形成と変遷についての再解釈、1919-1921」 張錫興「近代少年運動の独立運動史的位相」 권대웅「慶州の富豪崔浚の生涯と独立運動」 윤종문「米軍政期「英語学校」の設立と運営」 資料紹介 박민영「沿海州義兵名簿『義員案』解題」 『韓国独立運動史研究』44、2013.4 研究論文 金祥起「「第14連隊陣中日誌」を通じて見た日本軍の義兵弾圧」 이성우「在満大韓光復団の組織と活動」 김은지「大韓民国臨時政府の第二次独立デモ運動」 윤대원「参議府の「法名」改定と上海臨時政府」 한상도「第二次世界大戦期金元鳳の臨時政府参加と統合臨政体制内の動向」 유병선「日帝末期インドネシア韓人軍属の抗日闘争」 김민호「李範奭の生涯と独立運動」 金度亨「旅行券(執照)を通じて見た初期ハワイ移民の再検討」 資料紹介 박민영「『勉菴先生事実紀』解題」 『韓国独立運動史研究』43、2012.12 研究論文 韓圭茂「1905年「尚洞会議」と乙巳条約反対闘争」 서일수「1919-1923年申采浩の反臨時政府路線と民族自決主義認識」 韓哲昊「1920年代前半ジョージ・ショウ(George L. Shaw)の韓国独立運動支援活動とその意義:1920年11月釈放以降を中心に」 李明花「在米実業家金宗林の生涯と独立運動」 洪善杓「韓国独立運動を助けたアメリカ人」 金喜坤「尹奉吉顕揚資料を通じて見た上海義挙の歴史的意味:光復以前資料を中心に」 崔惠珠「日本東邦協会の朝鮮事情調査活動と朝鮮認識」 이용창「日帝強占期「朝鮮貴族」授爵経緯と授爵者行態:対韓政策の順応の代価」 朴賛勝「大韓民国憲法の臨時政府継承性」 황선익「サハリン地域韓人帰還交渉と抑留」 허수열「1945年解放と大韓民国の経済発展」 김주용「重慶韓国光復軍総司令部建物所在地に関する考察」 『韓国独立運動史研究』42、2012.8 尹慶老「「105人事件」被疑者の事件以後の行跡と活動:国外から独立運動に参加した19人を中心に」 김보희「1917年ドイツ捕虜高麗人が歌った独立運動歌謡」 김기승「心山金昌淑の思想的変化と民族運動」 李東彦「李鍾巌の生涯と義烈闘争」 崔起栄「李復源の留学と在中独立運動」 高珽休「大韓民国臨時政府に対するアメリカ・マスコミの報道記事分析:『ニューヨーク・タイムズ』を中心に」 김주관「空間構造の比較を通じて見た韓国開港都市の植民地的性格:韓国と中国の開港都市比較を中心に」 최보영「育英公院の設立と運営実態再考察」 이현일「日帝下公立医学専門学校の設立と運営」 趙成雲「1920年代修学旅行の実態と社会的認識」 이재호「壬辰倭乱についての初等教科用図書分析及び歴史授業の方向についての小考」 朴杰淳「独立記念館展示の交替・補完推移と今後の課題」 資料紹介 배연형「独立記念館所蔵有声機音盤の内容と史料的価値」 『韓国独立運動史研究』41、2012.4 研究論文 윤소영「1900年代初日本側朝鮮漁業調査資料に見える独島」 金喜坤「安東夫浦邑の人々の抗日闘争」 呉瑛燮「大韓民国臨時政府初期委任統治請願論争」 전갑생「1920年代巨済地域青年運動研究」 조원기「日帝の満州侵略と間島惨変」 김정아「日帝強占期独立運動家「仮出獄関係書類」についての検討」 강정숙「第2次世界大戦期インドネシア・パレンバンに動員された朝鮮人の帰還過程に関する研究」 韓相禱「第2次世界大戦期朴健雄の臨時政府活動と世代認識」 金祥起「尹奉吉の金沢での殉国と殉国地」 鄭秉峻「1953-1954年独島における韓日衝突と韓国の独島修好政策」 特別寄稿 矯桂瑾「矯漢治と朝鮮義勇隊」 1-20 21-40 41-60
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2006/9/10 国連憲章は他の国が日本に攻め込むのを容認している 国連憲章には「旧敵国条項」というものあり、 第二次世界大戦で「敵国側」であった日本やドイツには、 国連憲章の一部が適応されない。 このような敵国条項の例が53条で、 53条には安全保障理事会の許可なしに他国へ攻め込んでは ならないと決められているが、 敵国側であった日本やドイツは例外で、安保理の許可無しに 攻め込んでもよいとしている。 もっとも敵国条項は、あくまで昔の取り決めがそのまま残ってしまっただけで、 現在は実質的には死文化している。 参考:wikipedia 敵国条項、wikipedia 国際連合、国連広報センター 国際連合憲章 2006/9/18 ノーベル賞が生まれたきっかけは、ノーベル生前に自分の死亡記事が新聞に載った事 1888年4月12日、ノーベルの兄が死んだとき、フランスの新聞が誤って 兄でなくノーベル本人の死亡記事を載せてしまった。 その死亡記事はノーベルに批判的なもので、 彼を「かつてないほどすばやく多くの人を殺す方法(=ダイナマイト)を発明する事で儲けた」、 「死の商人」として取り扱っていた。 ノーベル当人は、ダイナマイトをトンネル工事等の平和目的に使う為に 発明したつもりだったので、この記事を読んで愕然とした。 この件依頼、死後の自分の評判を気にするようになったノーベルは、 ノーベル賞を作り、自分の遺産の一部をそこにつぎこむ事を思い立ったのである。 参考: 石油・石油人 ノーベル賞は誤報から生まれた、wikipedia(英語版) Alfred Novel 2006/10/29 デタラメな論文が権威ある哲学論文誌に採録された事がある イグ・ノーベル賞に移動。 2006/12/18 イルカは右半分の脳だけ眠る事ができる イルカは右の脳と左の脳を交互に眠らせる事ができる特殊な能力を持っており、 この為休むこと無く一日中泳ぎ続ける事ができる。 一回の睡眠は一分程度で、一日に300回~400回寝る。 寝ているときイルカは一定方向に回転し、 北半球のイルカは反時計回り、南半球のイルカは時計回りに回る。 ちなみに右の脳が眠っている時は反対の左目をつむり、 逆に左の脳が眠っているときは右目をつむりながら泳ぐ。 参考:wikipedia イルカ 2006/12/26 画像圧縮の専門家達はプレイボーイのグラビアを研究に使っている 画像圧縮の専門家達は雑誌プレイボーイに載ったレナ・ソジョーブロムという女性の グラビア写真を研究に使っている。 自分が作った圧縮プログラムと他のプログラムの優劣を調べる為、 「テスト・イメージ」という画像を圧縮してその圧縮度合を比較するのだが、 そうしたテスト・イメージの中でもっとも有名なものがレナのグラビアなのである。 このグラビアはもとはヌード写真 なのだが、 彼らが研究に使うのは、このヌード写真の肩から上の部分だけなので、 一見してヌードだとは分からない。 この画像を最初に使った南カリフォルニア大学の アレクサンダー・サウチャック教授の話によれば、 彼が研究用に人物画像を探していたとき、 ちょうど誰かがプレイボーイ誌を持ってきたので そこに載っていたセンター・グラビアを使ってみたのだという。 レナの写真はあまりに有名になった為、 画像処理の学会の50周年記念としてレナが講演会に招かれた事もある。 参考:wikipedia レナ 2007/1/5 「ホラを吹く」とは本来は仏の説法の事 仏教において「ホラを吹く」という行為は仏が民衆に説法をする事を指す。 というのもインドでは昔、人を集める際にホラ貝を吹く習慣があり、 仏の説法に民衆がよってくる様がまるでホラ貝を吹いたときのようだったからである。 日本でも「ホラを吹く」という言葉は元々この意味に用いられており、 例えば『無量寿経』、『法華経』、『心地観経』などの仏典にその用例が認められる。 この元々の意味が転じて、現在の「おおげさに言う」という意味になった。 本来「ホラを吹く」事ができるのは仏だけのはずで、 単なる人間がまるで仏のようにホラを吹くのは身分不相応な為、 人間のホラ吹きがおおげさな言説に感じられたからである。 なおインドでホラ貝は呪的な意味を持っており、ヒンズー教、仏教、ジャイナ教という インド発祥の三大宗教では全てホラ貝が宗教的シンボルとして扱われる。 参考: 『インド神話入門』、長谷川明、新潮社。 百科事典マイペディア。 大谷大学 生活の中の仏教用語 マラソンの最長記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3 日本における「マラソンの父」金栗四三(かなぐりしそう)は、 ストックホルムオリンピックのマラソンに出場したのだが、 レースの途中で意識を失ってしまい、あえなく棄権する事となった。 しかし彼の棄権の意思はオリンピック委員会に伝割らなかった為 公式記録には「競技中に失踪し行方不明」として間違って記録された。 それから55年後、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念した式典を開く為 当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこのミスに気付き、 金栗を記念式典でゴールさせるよう招待した。 招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切った。 こうして彼の記録は書き換えられ、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3という完走時間が 公式記録として残る事となった。 金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしている。 参考: wikipedia 金栗四三 2007/1/22 外国に日本語を公用語にしている土地があるが、実は誰も日本語を喋っていない パラオのアンガウル州では、現地語、英語と並び日本語が公用語の 一つとして定められている。 戦時中パラオが日本の植民地(厳密には委任統治領)だった事の名残り。 ちなみに日本には「日本語を公用語とする」という法律は無いので、 法律で日本語を公用語に定めている唯一の場所は 日本ではなくアンガウル州だという事になる。 もっとも現在ではアンガウル州で日本語を日常的に使用している人はいない。 パラオ全体でも264人。 参考: wikipedia アンガウル州 雑学10へ戻る 雑学12へ進む トップページへ戻る
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太平洋戦争時、米軍の一個師団は一日300トンの補給物資を必要としたと聞いたんですけど、本当ですか? リリーマルレーンて米軍の軍歌ですか? 日本は大本営発表で国民に嘘ぶっこいていましたが、同様のことはアメリカ、ドイツ、ソ連などでもあったんでしょうか? 第2次世界大戦のとき、米英独ソでは熟練工員は徴兵されなかったのでしょうか? 第2次世界大戦時にエチオピアに侵攻したイタリアの表向きの開戦理由は何だったのでありましょうか? WW2にリモコン航空機あったんですか? 先の大戦においては枢軸国に連合国軍の最新兵器を横流しして売り込んだとかの事例はあったんでしょうか? ドイツ軍内ソ連軍のウクライナ解放軍のウラソフ将軍達は、寝返ったとはいえウクライナの仇敵である旧ソ連軍と戦ったからウクライナでは英雄扱いというのは本当でしょうか? 第2次世界大戦時の南米で、アメリカ軍の基地があった国はありますか? 第2次世界大戦中、レーダー妨害で鉄くずみたいなのを飛行機からばら撒いて妨害するという作戦はなかったのでしょうか? カチンの森事件ですが、何故わざわざそんなところまで捕虜を移送して殺害したのでしょうか? 米海軍の艦船には第2次世界大戦前から、CA-28やらBB-64やら艦の種類と番号が振られていますが、他の国ではこのような艦種記号や番号は用いられなかったのですか? ワシントン条約やロンドン条約非加盟国は代艦枠を使って新型艦の建艦競争をしていたのですね? ドイツ軍ってやたらとオートバイ/サイドカー使ってるイメージがあるのですが、他の国が重視しなかった理由は何なのでしょうか? WW2軍服着用の指導者 北欧ってWW2当時はどこから石油仕入れていたんでしょう? 30年代や40年に立案されていたソ仏独の大建艦計画実現の公算は大きかったのでしょうか 大戦中の日米の艦艇の建造数を知りたいのですが。 第2次世界大戦中のアラブ諸国ってどんな状態だったですか? 日本がアメリカと戦争した理由に石油がありますが、当時の中東の石油事情はどうだったんでしょう? 第2次世界大戦中、各国のマフィアは何をしていたのでしょうか? 第2次世界大戦時、各地の空でフーファイターと呼ばれるものがパイロットによって目撃されたと本で読んだのですが、正体は何だったのでしょうか? 第2次世界大戦中連合国の指導者が色々なところで会談していますが、どうやって移動したのでしょうか? 第2次世界大戦の時スペインは何してたんですか? 空対空爆撃戦って何ですか? 戦時中、敵同士での通信(艦対艦とか艦対空で)は行われましたか? サンフランシスコ講和条約で、イタリアとスイスは何を理由として日本に賠償を求めたのでしょう? 第2次世界大戦最後の戦闘ってどこで行われたものですか? 第2次世界大戦で最後の海戦って、いつのどんな戦いなんでしょうか? 第2次世界大戦の敗戦国で、植民地の兵士を徴用していた国はありますか? WW2において、アメリカ陸軍だけが全歩兵の機械化と全車両の無線化を成し遂げたという話をどこかで聞いた気がするのですが、本当でしょうか? 日本やドイツの兵器生産全般は、終戦のその日にストップしてしまったんですか? 日本が92オクタンを標準としたのに、より進んでそうなドイツやイタリアが87オクタンを常用してたのはどういう事情からなんでしょうか? イタリア・ドイツなど枢軸国に駐留していた在外邦人はどのような処遇がなされていたのでしょうか。 自由フランスのド・ゴール政権などは対日戦勝国なのですか? 太平洋戦争時、米軍の一個師団は一日300トンの補給物資を必要としたと聞いたんですけど、本当ですか? ついでに、日本軍の場合は何トンくらい必要だったのでしょうか? 一個師団を20000人とすれば一人あたり15キロにしかならないんだよね。 食料・弾薬・燃料・車両・修理用のパーツ・その他諸々であっという間にそれくらいになるのでは? 日本軍の場合、インパール作戦時に第十五軍の兵站部では列兵団に 一日10トンの糧秣の補給を予定していたとか…。 あくまで作戦時の緊急輸送で糧秣のみですので、実際の弾薬などを含めた 補給必要量はそれよりはるかに多いでしょうが。 (40 644) リリーマルレーンて米軍の軍歌ですか? 元々はドイツの歌です。最初はあまり流行らなかったのですが、戦時体制 になって急に流行りだし、兵士のリクエストはいつもリリーでした そのうち連合軍もこれに夢中になり、トミーやGIも聞いていました 邦書なら「リリーマルレーンを知っていますか」とかいう本に詳しいです (51 716) 日本は大本営発表で国民に嘘ぶっこいていましたが、同様のことはアメリカ、ドイツ、ソ連などでもあったんでしょうか? もちろんアメリカやソ連も戦局がよくなければ情報操作をやっていますが 当然、負けが込んでいる国ほどその重要性も増します。 原書房の『ヒトラーの遺言』には、 戦争末期のドイツの状況を分かりやすくするため 当時(1945年2月~4月)のベルリンでのラジオ放送の ニュースの内容が載っていますが それをみるとドイツはベルリンに攻め込まれるまで、毎日ソ連軍に勝利し続けていますよ。 (608 883) 第2次世界大戦のとき、米英独ソでは熟練工員は徴兵されなかったのでしょうか? 日本は熟練工員を徴兵したため、ただでさえ良くなかった品質がさらに悪くなったそうですが、 ソビエトは戦車を納品に来た工員までそのまま徴兵して、戦場に送ったのは有名な話。 アメリカも熟練工以外は徴兵したけどマニュアルを整備して、女性でも標準的な製品ができる ようにした。 あと日本では、戦闘機工場などは工場の判断で熟練工の徴兵免除とかやっている。 (618 789) 第2次世界大戦時にエチオピアに侵攻したイタリアの表向きの開戦理由は何だったのでありましょうか? Ethiopia戦の場合は、Italyが1887年の協定、1896年の協定、1900年の協定文書と、1908年の 大権力協定をを改竄して、国際連盟に提訴します。 1896年の協定では、Eritreaの港を確保した後、ショア王を擁してEritrea奥地に兵を進めようと しますが、失敗しますが、1889年に皇帝が戦死したために、ショア王が皇帝となり、Italyとウッチャリ 協定を結びます。 この協定は二種類あり、イタリア語では協定によりEthiopiaを保護領とすると規定し、アムハラ語では そんなことはおくびにも触れていません。 後にItalyが第2次戦争に敗れ、1896年の協定でAddis Ababa条約を結びます。 これで、Ethiopiaの独立は認められ、Eritrea沿岸地域だけがItalyの保有を認められました。 1900年の協定もこれの追認。 ところが、これらの文書を改竄して国際連盟に提訴した結果、国際連盟はそれを真に受け、 ItalyにEthiopiaの国土の大半を与えるホア・ラヴァル案を出したわけで。 1934年にSomaliland国境沿いの街で武力衝突が起き、其れを受けてEthiopiaがEritrea境界 から30km退却させたのを譲歩と見たDuce殿が、敵は弱腰と見て一気に武力行使をした訳で。 ちなみに、宣戦布告は無し。 (319 眠い人 ◆gQikaJHtf2) WW2にリモコン航空機あったんですか? あの当時のラジコンのような物ってゴリアテかリモコン機銃かどっかで研究してた無人潜水艦?しか思いつかないんですけど ドイツ空軍に例があります。 「ミステル(宿り木)」と呼ばれる機体があり、これはいわゆる親子飛行機で、 子機はユンカースJu88爆撃機を改造して爆薬と無線操縦装置を取り付け、 機体の上部に連結器を装備して親機の Bf109 を載せたものである。 目標上空で切り離し、親機が子機を誘導して目標に体当たりさせる仕組みになっていた。 無論子機は無人であり、言うなれば大型のミサイルである。 ミステルは若干ながら戦果を挙げ、 更なる組み合わせとして親機にFw190を使用した型も生産された。 しかし、速度の遅いミステルは通常の爆撃機以上に敵戦闘機の好餌であり、 間もなく敵目標に対する攻撃は中止され、 敵の進撃経路に当たる橋梁や道路を爆破するのに使用されたという。」 下記、特別攻撃隊のドイツを参照ください。 http //wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/24697/%93%C1%95%CA%8DU%8C%82%91%E0/24/ (621 霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.) 先の大戦においては枢軸国に連合国軍の最新兵器を横流しして売り込んだとかの事例はあったんでしょうか? 第2次世界大戦であれば、国家総力戦に移行しているので兵器の生産に必要な 資源そのものが国家によって管理されている。武器商人の提議が曖昧ではあるが、 武器を枢軸側に売るとして、資源、工場、人員、輸送手段が必要となるが、 資源は政府ががっちりおさえ、工場を持ってれば政府が生産計画をたてて品目も指定してくる。 人員も戦争に関係ないと政府が判断すれば場合によっては廃業しての転換を命じたし、 輸送手段も政府が統制しているから船もなければ燃料も手に入らない。 (俺初質スレ431 ふみ ◆Y.QUKJBduY) ドイツ軍内ソ連軍のウクライナ解放軍のウラソフ将軍達は、寝返ったとはいえウクライナの仇敵である旧ソ連軍と戦ったからウクライナでは英雄扱いというのは本当でしょうか? ウラソフはロシア人であり、ウクライナ人分離主義者にとっては自民族を抑圧する連中の一人に過ぎない。 武装親衛隊にはウクライナ人部隊(第14SS所属武装擲弾兵師団)があったが、ロシア人部隊と統合するような動きはなかった。 戦後も反ソテロを続けたウクライナ蜂起軍のステパン・バンデラと間違えているんじゃないだろか。 彼を含めた戦中戦後に反ソ活動を行った連中は、ウクライナの極右民族主義者からは英雄扱いされているっていう話がある。 (315 167) 第2次世界大戦時の南米で、アメリカ軍の基地があった国はありますか? 中米なら、Cuba(Guantanamo)、Panama(Canal Zone)、Dominica、Mexicoがあります。 また、南米では、1943年2月にPeruと航空基地建設の軍事協定を締結、Brazilにも 船団護衛の為の基地がありました。 (309 眠い人 ◆gQikaJHtf2) トリニダード・トバゴと英領ギアナ(現ガイアナ)に航空基地がありました。 あとパナマ運河入口のバルボアにも大規模な軍港が設置されてます。 (309 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 第2次世界大戦中、レーダー妨害で鉄くずみたいなのを飛行機からばら撒いて妨害するという作戦はなかったのでしょうか? 主にやっていたのはイギリス軍で、しかも鉄じゃなくアルミ。 折り紙の銀みたいなのを細く切ってバラ撒くと、空中を漂って敵のレーダーには 飛行機の編隊のように映る。 鉄なんかじゃすぐに自由落下しちまって爆撃してんのと変わらないぞw アルミ箔による欺瞞紙は陸軍で開発されて実用化されてました。 製造段階で出るアルミの研磨屑を集めて作った……らしいです。 大きさは3cm角、厚さ0.5~0.1mmもしくは幅2.7cm、長さ70cmの2つです。 散布方法は砲弾に詰める。飛行機からバラ撒くなどです。 (308 677,678) カチンの森事件ですが、何故わざわざそんなところまで捕虜を移送して殺害したのでしょうか? ポーランドの地名だと思っていたのですが、カチンの森とはロシアのスモレンスクの郊外にあるのですよね http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6 「その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、 ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され 彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフあての文書も含まれている。」 (以上英文wikipediaと同内容) ソ連国内の収容所に一旦収容してから1940年の春にカチンに移送して殺害。 捕虜にして即殺害したわけじゃない。 ttp //en.wikipedia.org/wiki/German_camps_in_occupied_Poland_during_World_War_II "Many of the 400,000 Polish prisoners of war captured by Germans during the 1939 invasion of Poland were also confined in these camps, although many of them were also sent as forced labourers in Germany." 労働収容所で強制労働。 その途上で死んだ者が大勢いた。 (636 346) 米海軍の艦船には第2次世界大戦前から、CA-28やらBB-64やら艦の種類と番号が振られていますが、他の国ではこのような艦種記号や番号は用いられなかったのですか? 隻数の少ないドイツはもとより、英国、日本でも一部の艦にしかそうした艦種記号は適用されていません。 英国の場合は、集団機動する駆逐艦にHとかDと言う記号と番号が振られていました。 日本の場合も、略号として或る程度使っていた様ですが、一般的ではありませんでした。 英国については、戦後に復活し、空母は、R+数字、巡洋艦がC+数字、駆逐艦がD+数字、フリゲートがF+数字、 潜水艦がS+数字、敷設艦がN+数字、掃海艦艇がM+数字、哨戒艦艇がP+数字、揚陸艦艇がL+数字、その他、A、 K、Yなどが特務艦に割り当てられています。 但し、数字については、適当に振っているので、例えば、R05はInvincibleに適用されていたのですが、これは元々 Eagleに割り当てられたものだったりします。 (306 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ワシントン条約やロンドン条約非加盟国は代艦枠を使って新型艦の建艦競争をしていたのですね? 違います。 フランスもイタリアもロンドン条約に調印しています。 一般的に理解されている質的制限や代艦建造の制限についてのみ、参加しなかったのであって 立派にロンドン条約に名を連ねています。 ただしイタリアはリットリオ級が排水量制限枠を大幅超過していることを百も承知で建造を強行したし ドイツもまたベルサイユ条約どこ吹く風といわんばかりにシャルンホルストの建造に着手しようとしました (後に英独海軍協定締結によって事後的に承認されたようなものです)。 ドイツがシャルンホルストの前に構想していた装甲艦Dを見ても、もはやベルサイユ条約の制限に従う気などなかったことは明白です。 これはヒトラー登場以前のことですよ。 条約未締結国ではなく イタリア・フランスはワシントン&ロンドン条約、 ドイツはベルサイユ&英独海軍協定というそれぞれ条約に参加した国同士での建艦競争です。 代艦枠、というのは合ってますが額面通りの使い方をしていなかったのはイタリア、ドイツの例を挙げた通りです。 なお、ソビエト連邦も遅ればせながらこの建艦競争に加わっています。 そしてソ連の膨張に一定の歯止めをかけるべくイギリスが動き、英ソ海軍協定を締結しています。 この協定はかなり知名度が低いですが、欧州の建艦競争を理解する上で覚えておいて損はありません。 あまり言うまでもないことなのですがワシントン&ロンドン条約と英独海軍協定の質的制限は同じです。 さらに、英独海軍協定でドイツが認められた保有量は事実上フランス・イタリアと同等の水準です。 いわば仏・独・伊は質的にも量的にも対等の土俵の中で近代化競争に突っ走っていたことになります。 (642 ゆうか ◆u8WC078ef5ch) ドイツ軍ってやたらとオートバイ/サイドカー使ってるイメージがあるのですが、他の国が重視しなかった理由は何なのでしょうか? 例えば、ソ連は、ドイツと戦争をしている際に、米国にサイドカー付オートバイを多数注文しました。 しかし、米国は、生産の近代化と合理化(特に合理化)の為にジープを供給するからとソ連を説得して います。 米国は単車を数千台単位でしか生産していません。 寧ろ、英国の方が多数生産しており、戦争勃発時に21000台を保有し、6345台を徴用しています。 この数は、1940年6月までに50000台に達し、最終的には勃発時の10倍以上の270000台を保有するに 至っています。 ドイツの場合、それなりに生産していますが、独ソ戦頃から徐々にVWにシフトしていっています。 (303 眠い人 ◆gQikaJHtf2) WW2軍服着用の指導者 現役同等 東条大将 フランコ 将官以上 スターリン、ブルガーニン、ベリヤ、フルシチョフ・・・ソ連多数 ムッソリーニ ペタン 裕仁天皇 その他多数 非着用系 毛沢東 ヒトラー ルーズベルト その他多数 大佐 チャーチル(名誉) (299 123) 北欧ってWW2当時はどこから石油仕入れていたんでしょう? ドイツから買っていました。 ドイツの石油は、ルーマニアからの輸入や石炭の液化でまかなっていました。 戦争中に他国に売る余裕は、少ないです。 当然に、スウェーデンでも、石油不足となりました。 下記バイオマスからエネルギー from スウェーデンを参照ください。 http //blog.livedoor.jp/bioenergyken/archives/51587846.html スウェーデンの石油の輸入業者が、連合国のスパイとなりました。 ドイツの石油生産状況を細かく報告して、爆撃の効果を高めたそうです。 それを元に、映画が作られました。 『偽りの売国奴 』 「第二次大戦中、石油ビジネスを行いながら密かにドイツ国内で軍事情報を収集して連合国に知らせていた人物の物語。」 下記、の売国奴 を参照ください。 http //www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_review_new/jap_review_traitor.html (660 霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg) 少々違う ドイツ軍に占領された国に囲まれた、スウェーデンは中立国なので、 スウェーデンはイェーテポリより戦時禁制品等の指定やドイツ軍の嫌がらせ等様々な邪魔はあるにしても 中立国といっても実質は連合国よりのポルトガル等の中立国を相手に交易を行うことは可能だった。 また、有名なSFKのボールベアリングはさまざまな手段により連合国に輸出されている。 このSFKのボールベアリングのドイツへの供給を減らす代わりに ドイツに代わって米英が石油を支援する等で石油を連合国からも入手している エリック・エリクソン http //en.wikipedia.org/wiki/Eric_Erickson_(spy) (660 749) 30年代や40年に立案されていたソ仏独の大建艦計画実現の公算は大きかったのでしょうか ソ連の場合は、第2次世界大戦が無ければ国力的に問題はありません。 但し、その技術が伴っていませんので、米国なりイタリアの協力を得る必要があります。 フランスに関しても同様ですが、彼の国の場合は政治が問題になります。 政治の混乱が無ければ、実現した可能性は高いでしょう(つまり実現する可能性が低い)。 ドイツの場合は、初期計画であれば同様の状況では実現する可能性が高いでしょう。 後のH44とかH45などの計画は机上の空論ですけどね。 (284 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大戦中の日米の艦艇の建造数を知りたいのですが。 日米艦艇建造数比較 日本 米国 戦艦 2隻 10隻 128,000㌧ 375,000㌧ 正規空母 5隻 17隻 140,000㌧ 459,000㌧ 軽空母 6隻 9隻 95,000㌧ 99,000㌧ 護衛空母 4隻 76隻 61,000㌧ 630,000㌧ 重巡洋艦 0隻 11隻 0㌧ 143,000㌧ 軽巡洋艦 5隻 36隻 53,000㌧ 690,000㌧ 護衛駆逐艦 32隻 412隻 40,000㌧ 510,000㌧ 潜水艦 117隻 203隻 150,000㌧ 310,000㌧ (103 352) 第2次世界大戦中のアラブ諸国ってどんな状態だったですか? 大国が攻めたりしなかったのかな 第2次世界大戦当時、現在のレバノンとシリアはフランス領、 エジプトを含むその他の中東諸国はイギリス領の植民地で、 独立国はトルコ共和国だけでした。 これらの国々が独立し「中東問題」となったのは戦後のことです。 「侵攻」という点では、イタリアが英領エジプトを攻撃し、 またドイツはイラクやエジプトの国内反英勢力を支援していました。 (105 28) 補足を。 アラブ諸国ではありませんが、イランに関しては、国家として中立を模索したものの、ソ連が北半分を、 英国と米国が南半分を占領し、援蘇物資のルートとして使用しています。 ソ連は、この地に緩衝国家を作りたかったようで、タブリーズに人民共和国を打ち立てようとしていました。 イラクは、英国の委任統治領でしたが、1921年に独立国になっています。 英国軍が駐留していましたが、元々軍部を中心に反英勢力が根強くあり、1941年にドイツの後押しで、 軍部のクーデターが起き、一度親英政権は打ち倒されます。 しかし、英国が即座に対応して、カウンタークーデターを起こしたため、反乱の芽は摘まれ、親独政権は あっけなく倒れました。 以後は、英国軍の管理下の下で親英政権を維持しています。 シリアは1918年に王国として独立しますが、1920年にフランスの委任統治領となり、ダマスクス、アレッポ、 アラウィー派、ドルーズ派の各自治区に分けられます。 1939年にトルコとの交渉で、イスラム托鉢修道会領の返還を行なったことで、住民の反発が起きますが、 第2次世界大戦の勃発でうやむやになり、フランスの降伏で、ヴィシー政権に付きます。 しかし、1941年、ヴィシー政権軍と主にパレスチナから侵攻した自由フランス軍と、イラクから侵攻した英国 軍によって戦闘が行なわれ、数度の戦闘の結果、ヴィシー政権軍は降伏しました。 1941年4月にシリアは自治国として独立し、1944年に正式独立しました。 ただ、その後、国境を接する全ての国と、国境紛争を起こしています。 レバノンは、1926年に委任統治領シリアから自立し、1940年にヴィシー政権への支持を行ないました。 その後はベイルート付近で、ヴィシー政権軍と自由フランス軍との戦闘が行なわれ、1941年12月に自治 国となり、1944年に正式独立しました。 パレスチナは、英国の委任統治領でしたが、祖国帰還事業による移入ユダヤ人の増加と従来住んでいた アラブ人の軋轢が強まり、1936年から39年にかけて内乱状態となります。 そこで、1939年に英国は「白書政策」というものを行なって、ユダヤ人の流入と土地購入を制限し、アラブ人を 懐柔しますが、これにユダヤ人が反発。 ハガナなどの武装勢力が英国軍の襲撃などを行ないます。 ところが、第2次世界大戦勃発に伴い、今度はユダヤ人は英国側に立って、パレスチナを近東に於ける連合軍の 補給基地として提供し、1942年以降は英軍の一部として、ユダヤ人志願兵旅団を供出します。 これに対し、アラブ人は一連の出来事に反発し、親枢軸への傾斜を強めていきますが、これが、後の中東問題 のひとつの引き金になってきています。 1945年以降、英国は再び「白書政策」を行なったため、再びユダヤ人が反発し、駐留英国軍を襲撃したため、英 国はこの統治を放棄し、国連に付託してしまいました。 ヨルダンは当時、トランスヨルダンと言い、英国の委任統治領となりましたが、サウド家との抗争に敗れたメッカ太守 及びへジャズ王だったハシミテ家が国王となって統治を行なう王国となっています。(ちなみに、イラク、シリアの国 王はトランスヨルダンの国王と兄弟にあたります。) このため、隣国サウド家とは常に緊張関係にあり、英国委任統治領との緩衝国家として機能すべく、英国との軍事 同盟を結び、英国軍の将軍の指揮下にアラブ軍団を作って、参戦しています。 サウジアラビアは、ハシミテ家を追放したサウド家によって成立した国家で、1926年にヘジャズとネジドの王となり、 1932年に王国として統一されました。 1934年には、国境線を巡ってイェメンと戦争となって、これは1936年まで続いています。 第2次世界大戦中は、英国からも働きかけを受けていましたが、イブン・サウド王はハシミテ家を支援する英国を余り 好まず、米国からの援助と基地建設を容認しています。 米国による、武器援助で、サウジアラビア軍は近代化を果たし得ました。 エジプトは、1922年に英国の保護国となり、1936年に独立します。 但し、運河地帯は20年間の英国軍の駐留を認め、スーダンは英国との1889年条約以来、共同統治権を認める と言うもので、民族主義者はこれに不満を持っていました。 第2次世界大戦では、イタリアがリビアから侵攻し、後一歩の所まで追いつめますが、補給に失敗して撤退します。 なお、この際、後に王制打倒クーデターを指揮する国軍の若手将校(ナセルとかサダト)による、王制打倒クーデター が企図されますが、イラクの失敗で懲りた英国によって察知され、彼らの反乱は未然に防がれます。 このほか、マグレブ諸国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)は米国の欧州に於ける最初の大規模作戦、トーチ作戦 で制圧され、リビアは英国軍によって占領、スーダンはエジプトと英国の共同統治によって大戦の影響を余り受けず (戦力の提供は行なっていますが)、西サハラ、タンジール、イフニはスペインの統治下によって、かなりの圧力を連合国 から受けていますが、一応維持しています。 また、クウェート、中立地帯、湾岸諸国、マスカットオマン、イェメンについては、英国保護下の諸国であり、イェメン領アデン が英国の中東向け補給の最前線基地となったほかは、特に大戦の影響を受けていません。 (105 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本がアメリカと戦争した理由に石油がありますが、当時の中東の石油事情はどうだったんでしょう? イラン… 英国人鉱山王ダーシーにより調査開始。英国の肝入りでビルマ石油が経営参加。 1908年5月、イラン南部のマスジッド・イ・スレイマンにて油田を発見。 アングロ・パーシャン石油(APOC)が設立される。 1921年にコサック兵団長レザ・ハーン大佐がクーデターを起こし、テヘランへ進撃。 カジャール朝の最後の王、アフマド・シャーはフランスに逃亡。 1925年、パフラヴィ朝成立。1932年、国内統一。 英ソの圧力を嫌い、独に接近。大戦中は厳正中立を宣言するも、対ソ援助ルートの確保を狙った英軍、ソ連軍が侵攻。 レザ・シャーは退位。王位は息子のモハマド・レザ・パフラビィが継ぐ。 以後、終戦まで両国の占領下に置かれる。 イラク… 1914年、APOCが50%、ドイツ銀行とロイヤル・ダッチ・シェルがそれぞれ25%を出資し、トルコ石油(後のイラク石油)が設立される。 第1次世界大戦の終結によりドイツ資本が追い出され、代わってフランスと米国が参入。 1927年10月、キルクーク近郊のババ・グルグルで油井発見。 1920年、英国によりファイサルがイラク王に封じられるも、国民には反英感情が根強く、 大戦中はラシュッド・ガイラニらが反乱を起こしたりしてますが、あっさり英軍に鎮圧されています。 バーレーン… 「赤線協定」により、当初は大手石油会社の開発の対象外。 ニュージーランド人鉱山技師ホームズ少佐が油井の存在を確認。 ソーカル(カルフォルニア・スタンダード)が権利を獲得。 1931年より採掘開始。 大戦中は英国の保護下。 サウジアラビア… 「赤線協定」により、当初は大手石油会社の開発の対象外。 1938年にダンマーンで油田発見。採掘権を獲得したソーカルはテキサコを加え、 販売会社カルフォルニア・テキサス石油(カルテックス)を設立。 大戦中は、アメリカが石油の重要性を鑑み、同国への武器貸与法の適用を承認。 ルーズベルト「私はここに、サウジアラビアの防衛が合衆国の防衛にとって死活的に重要であることを認める」 クウェート… ガルフ石油とAPOCが折半で出資、クウェート石油を設立。 1938年にクウェート市南方のブルガンで世界最大級の油田発見。 戦争勃発とともに開発は中断。そのまま終戦を迎える。 カタール、UAE、オマーン… 大戦終了までに石油の生産は始まってません。 (125 イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME) 第2次世界大戦中、各国のマフィアは何をしていたのでしょうか? 日本では満州浪人とか右翼団体とかいかがわしく暴力的に戦争協力していました。 韓国の暴力団とかも、貧民を日本に連れて行ったりとか。 ヨーロッパで有名なのはドイツ占領下のフランスで、レジスタンス側について トンネルに爆薬を仕掛け、列車のドイツ兵を大量に生き埋めしたり、 あるいは逆にゲシュタポ側について拉致や殺人・防諜の手伝いしたり いろいろと。 それと、アメリカのイタリアンマフィアが、ドンの釈放と交換条件に 米海軍に協力し、イタリアへの上陸の手伝いとか政権転覆 (ファシスト政権はマフィアを弾圧したため)謀ったりとかしていたらしいです。 闇物資の取引、仲介、調達行為。 日本を例に取れば戦争相手国の中国から取引で希少金属類を調達した右翼まで居た。 (112 695-696) 第2次世界大戦時、各地の空でフーファイターと呼ばれるものがパイロットによって目撃されたと本で読んだのですが、正体は何だったのでしょうか? 1945年4月、川崎を焼夷弾空襲する為に飛行していたB-29の何機かのクルーから、「自機の後を何百 mileも火の玉が幾つか付けてきた」という報告があり、その後東京を空襲した機体でも、「数個の火の玉を 確認した」という報告があった。 夏に入ると、不可思議で潜在的に危険な飛行物体に関する報告がますます多くなり、飛行前の ブリーフィングでは、クルー達に対し、「敵の最新兵器に注意せよ」という警告が発せられた。 それは、強力なサーチライトを持つ母機か誘導機で、B-29の所在を突き止め、夜間戦闘機を支援 するのだと言われていた。 パイロットはこの敵機を振り払う為、荒っぽい、急激な運動をしたが、この敵機は離れず、射手の中 には、サーチライトを撃って光を消す、或いは母機を破壊しようと、実際に機銃を発射した者も居た。 奇妙なことに、この敵機は、日本本土に侵入する時は右翼側に現れ、基地に帰投する際は、左翼に 現れると言うのだ。 7月半ば、全B-29搭乗員は情報部から次のような説明を受けた。 「空の何処を飛ぼうと、好きなだけ撃とうと、これを撃墜する訳にはいかない。 諸君が見た火の玉は惑星の金星だ。 世界でもあの一帯では、年間でもこの時期に金星は極度に明るく輝くのである」 (信じられないが、本当だ8 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次世界大戦中連合国の指導者が色々なところで会談していますが、どうやって移動したのでしょうか? ニューファンドランドで米英首脳が会談した時は、Rooseveltは重巡洋艦(Augusta)、 Churchillは戦艦(Prince Of Wales)で移動しています。 その後、ChurchillはC-54Bを使用し、大戦末期にAvro Yorkに乗換、Rooseveltは、 C-54C("Sacred Cow"号、専用エレベータを持つ)を使用して会談に向かっています。 また、英国で連合国の首脳会議が行なわれた時、ソ連のMorotov外相は、自国製の Pe-8大型爆撃機でMoscowからWashingtonで、帰途にLondonに寄ったものでした。 (115 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次世界大戦の時スペインは何してたんですか? Spainは1939年に終了した内戦の影響で、国力が枯渇し、その復興に多大な力を 必要としたので、第2次世界大戦に参加出来ませんでしたし、英国からの陰に陽に掛け られる圧力のため、正式参戦しませんでした。 しかしながら、枢軸国潜水艦への密かな便宜供与や、スペイン義勇軍「青い旅団」 が東部戦線に派遣されたりしています。 (121 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ヒトラーが参戦を促す会談を申し込んだ時も、 ヒトラーの専用列車との待ち合わせ場所にフランコの列車が遅れてきたり、 午後になるとヒトラーがイライラして待ってるのに、おかまいなしにシェスタをとったり、 参戦の代償にジブラルタルや北アフリカをちょうだい。あ、おたくの最新兵器も供与してねと足元を見るような要求をしたりと、 最初からやる気がなかったという話もある。 そのかわり上で書かれてるように中立ながら親独的な立場をとり、 ドイツ諜報部の活動やドイツ商船のUボートへの補給を見て見ぬふりをしてたりする。 また義勇兵、つまりあくまで個人の意思で参加したという名目で送り込まれた兵士で編制された 通称「青」師団は、東部戦線で多数の損害を出しながらも勇戦している。 (121 954) 空対空爆撃戦って何ですか? 空対空爆弾を使った迎撃戦闘のことじゃないかなぁ。 日本陸海軍では、対飛行機用の攻撃兵器として空対空爆弾を保有していました。 海軍には昭和14年に完成した九九式三号爆弾がありました。 総重量30キロの爆弾の中に144個の弾子が詰められており、敵編隊上空でこれを 投下すると時限発火装置により爆発して、弾子が散布される親子爆弾でした。 黄燐と鉄片でできた弾子は一発75グラム、傘上に広がって落下し、 命中すれば防弾タンクを発火させることが可能でした。 一方陸軍では、ト二弾、ト三弾と言われる空対空爆弾がありましたが、実戦で使える ものではありませんでした。 のちに「タ弾」と呼ばれる空対空爆弾が陸海軍共通で使用されました。 これは元々陸軍が地上の航空機攻撃用に開発したもので、700グラム(1キロ)の 小型の成型炸薬弾をコンテナに仕込み、目標上空で投下、散布して目標を破壊するものでした。 これを対空用に用いるようにしたものです。 実戦では、投下位置の判断が難しく、また機体性能や爆弾の重量のせいで 敵機の上方に占位する事が困難なため、戦果はさほど上げられなかったようです。 またドイツ空軍でも同様の戦法を採用しており、Wgr.21空対空ロケット弾を使った 空対空戦闘に発展しています。 「空対空爆撃戦隊」?みたいな題名を聞いたことがあるんですが 「空対空爆撃戦隊」は元ドイツ空軍のハインツ・クノーケによって書かれた戦記です。 第11戦闘航空団第Ⅱ飛行隊第5中隊に所属していたクノーケ中尉は、 戦死した同僚が構想していたBf109に爆弾を搭載して米軍機の密集編隊に投下する アイデアを実施すべく、自機に爆弾を搭載して出撃しました。1943年3月のことです。 彼は見事に爆弾でB-17を撃墜することに成功し、その戦果はゲーリングの耳に達しました。 第5中隊長に昇進した彼はさらに研究を続け、中隊は多数の戦果を上げました。 しかし、護衛戦闘機の増大などで爆撃戦法は危険を増し、8月には中隊は ロケット弾を使用し始めています。 面白いことに、迎撃された米重爆の方では爆撃戦法に全く気がつかず、損害を ロケット弾によるものと見ていたそうです。 (138 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 戦時中、敵同士での通信(艦対艦とか艦対空で)は行われましたか? 行われました。 第2次世界大戦初期のUボートは、無警告で連合軍徴用船舶を撃沈することを許されておらず、 1936年締結のロンドン協定に依って、まず、信号灯などで、停戦命令を発します。 次いで、臨検部隊が対象船舶に移乗し、積荷と航海日誌を調べ、必要に応じて積荷は押収、 軍用品を輸送していた場合、船舶は乗組員退去の後、撃沈する形を取っていました。 これは、仮装巡洋艦でも同じです。 使われたのは主に信号灯、信号旗で電信は自らの位置を暴露するため、積極的に用いられて いません。 また、飛行機同士の場合、降伏を行う印として、翼を振る、車輪を出すなどの所作でそれを明らか にすると言ったことがありました。 (139 眠い人 ◆gQikaJHtf2) サンフランシスコ講和条約で、イタリアとスイスは何を理由として日本に賠償を求めたのでしょう? スイスの場合、彼の国の国民が、日本政府に抑留されたことを根拠として賠償請求をしています。 イタリアの場合は、1943年の降伏時に接収された艦艇、商船の喪失に際しての賠償請求と、国民が 日本政府に抑留されたことを根拠として算出したのでしょう。 南米のABC諸国は、日系人抑留の経費とかでしょうか。 その他のアジア諸国は、国内が戦場となった際の復興費用とか。 (151 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次世界大戦最後の戦闘ってどこで行われたものですか? 敗残兵のゲリラ的戦闘を別にすれば、ソ連軍の満州侵攻作戦ということになると思います。 侵攻が始まったのが8月9日、大陸命により停戦命令が出たのが8月18日。 しかし戦闘はまだ各所で続いており、虎頭要塞の陥落は8月26日、 興安嶺で戦闘中だった第百七師団が停戦に同意したのは実に8月29日です。 その後も九月になるまで小規模な戦闘が満州各所であったはず。 (324 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 部隊同士の本格的な戦闘なら、昭和20年8月18日~21日にかけて行われた、北千島・占守島の戦い。 昭和47年10月19日、フィリピンのルバング島で、現地警察と銃撃戦の末死亡した小塚金七一等兵を、最期の戦死者と呼ぶこともある。 (321 595) 第2次世界大戦で最後の海戦って、いつのどんな戦いなんでしょうか? 無名のものまで入れると、 1945年8月22日に、中国沿岸で、日本軍と米中連合軍の武装ジャンク同士が交戦したのが、 第2次世界大戦最後の水上戦闘だといわれてるようです。 結果は日本側が撃ち負けて、乗員の大半が死傷して拿捕されています。 (614 ◆yoOjLET6cE) 第2次世界大戦の敗戦国で、植民地の兵士を徴用していた国はありますか? まあ日本の場合、朝鮮人士官は普通にいたし、朝鮮人兵士は昭和13年から志願兵を募集して昭和19年から徴兵対象になる。 台湾人は昭和17年から志願兵募集、昭和20年から徴兵対象。 それ以前の時期だと、軍属として設営隊とか日本人を徴兵して不足した分の労働力を補った。 満州人は一部満州軍として末期の対ソ戦に参加したのはいるが、その他の戦線には流用していない。 後はマレーとかで捕虜にしたインド人をインド国民軍にしたり、ビルマ人の義勇軍もあったな。 中国人捕虜の一部は、汪精衛の南京政府軍に参加させて地方の治安部隊にしたり。 軍属として荷物持ちや通訳をやらせたりしたけど、スパイがよく紛れ込んでた。 (俺初質スレ433 353) WW2において、アメリカ陸軍だけが全歩兵の機械化と全車両の無線化を成し遂げたという話をどこかで聞いた気がするのですが、本当でしょうか? 米国は、1939~45年の間に、3,200.436台の軍用車両、88,410輛の装甲車輌(ちなみに、英国は24,803台、ドイツは24,360輛 の装甲車輌を生産)、ハーフトラックは41,170台、トラクタは82,099台、これに特装車が数千台の単位で続きます。 トラックの大多数は、1/4t~3/4tのLight Classで、988,167台、次いで2 1/2tのLight Heavy Classで、812,262台、1 1/2tの Medium Classが428,196台、2 1/2t以上のHeavy Classが153,686台で、これら全生産量の1/3が補給部隊の手に入りました。 ちなみに、カナダは815,729台のトラックと、50,663輛の装甲車両を生産し、英国に引き渡しています。 ドイツは、先に述べられているように、1940年にオランダに侵攻したとき、多数のドイツ歩兵は馬に乗っていましたし、この時から 敗戦までの間、民間車両と軍用トラックとの比率は100対1だったそうです。 (238 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本やドイツの兵器生産全般は、終戦のその日にストップしてしまったんですか? ドイツは自国が戦場になっているから、敗戦と共にその生産もストップしています。 日本の場合は、8月17日に工事中止命令が出て、以降の軍需生産は行われず、民需産業への転換模索、 動員学徒の解除、動員女子の解雇などの人員整理が行われました。 例えば、海軍艦艇ですが、8月16日に、波216号潜水艦、第160号海防艦が竣工しています。 (228 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本が92オクタンを標準としたのに、より進んでそうなドイツやイタリアが87オクタンを常用してたのはどういう事情からなんでしょうか? 元々、オクタン価を上げる技術は米国がリードしていました。 これは、高温高圧下で水素添加して改質すると、加鉛効果が良くなってオクタン価を高めることが出来る、 と言う技術で、この高温高圧を実現するための特殊鋼製造がイタリアでは難しかったこと、また、その技術は 更に改良され、高温高圧の作業が少なく、と言うことはそれに耐えうる特殊鋼の使用量が少なくて済む、所謂 フードリー法が開発されています。 これらの特許は、米国が保有していた訳で、仮想敵国たるドイツやイタリアには輸出が為されなかったと言う ことになります。 更に添加剤についても、英国では開発されていたものが、ドイツでは開発出来なかった、と。 (184 眠い人 ◆gQikaJHtf2) イタリア・ドイツなど枢軸国に駐留していた在外邦人はどのような処遇がなされていたのでしょうか。 2.枢軸国に帰化した日本人も徴兵や兵役が課せられたのでしょうか。 3.ロシアに駐留していた日本人・日系帰化人は、ソ連参戦までは、どのような処遇がなされていたのですか。 4.日本在留の、米英人だけでなく、ソ連人も強制送還されたのでしょうか。 1.については、基本的に居所さえ申告していればOKだったみたいです。 また、その生活も余り窮屈なものでなく、例えば、イタリアの例ですが、1942年4月に 「ローマ日本友の会」という組織が出来たときは突然、Mussoliniが現れたりしています。 概ね、イタリア人の場合は寛容だったみたいですし、ドイツ人もそれなりに対応していたよう です。 ただ、イタリア降伏の後には、イタリア駐在海軍武官や商社マンがPartisanに殺される例も ありました。 詳しくは、木村裕主の一連の著書(特に「ムッソリーニの処刑」)辺りとか、ドイツに滞在していた 日本人の手記とかを参照するのが良いか、と。 2. 枢軸国での帰化は庶民レベルではなく、有名どころではクーデンホーフ・光子くらいしか居ないような…。 少なくとも、日系ドイツ人ニーゲム大土木さん(ぉぃは居なかったはず。 3. 岡田嘉子など、日本人は1937年前後に軒並み、「日本のスパイ」として逮捕・拘留され、100名前後が シベリアなどに流刑になったり、銃殺されています。 流刑になった日本人は1945年から最長で1950年代まで出所出来ませんでした。 従って、無事な日本人は殆どいません。 4. そもそも、特別高等警察や憲兵の任務は防諜ですから、疑わしいことをすれば、国外追放になりました。 まぁ、ソ連も同じことをしていたので、どっちもどっちです。 (200 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 自由フランスのド・ゴール政権などは対日戦勝国なのですか? 一応、日本の外務省的対応としては、中国の重慶政権、フランスのド・ゴール政権、 ユーゴ、ポーランド、エチオピア、チェコスロバキアなどの亡命政権、イタリアのバド リオ政権などは、日本政府が承認している政権ではないため、彼らが行った宣戦 布告は国際法上無効として交戦関係を認めていません。 但し、国交が無くても日本が否認していない限り、宣戦布告は有効となります。 なので、ニュージーランド、インド、ドミニカ、ハイチ、シリア、レバノン、サウジアラビア については、対日戦勝国となっています。 ちなみに、ルクセンブルクも連合国の一員という理由で、対日宣戦をしたわけでは ありませんが、対日戦勝国の一つに数えられていたりします。 (208 眠い人 ◆gQikaJHtf2)
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天皇、皇后両陛下が訪問する「忘れられた戦場」 - ハフィントンポスト ● ペリリュー島の戦い〔ノイズレスサーチ〕 ● ペリリュー島の戦い〔blog Google検索〕 ● ペリリュー島の戦い〔Youtube検索〕 +一本の動画 ■ 絶対に知っておきたい歴史:ペリリュー島の戦い 1 「アメリカから見た日本(September 30, 2019)」より / (※mono....詳細はサイト記事で) ーーー ■ 絶対に知っておきたい歴史:ペリリュー島の戦い 2 「アメリカから見た日本(September 30, 2019)」より / (※mono....詳細はサイト記事で) ■ 帰還兵が語るペリリュー島の激闘、そして生還 「iRONNA- 『月刊正論』 2015年6月号」より / 土田喜代一(元大日本帝国海軍二等兵曹) 聞き手:井上和彦(ジャーナリスト) 3月21日、靖國神社遊就館で開催された雑誌『正論』主催講演会の内容を再構成したものです。 「杖にすがっても行きます」 井上 この4月8日、9日、天皇皇后両陛下がパラオ共和国を公式訪問され、ペリリュー島に渡られます。かつて土田さんが、米軍と戦われた場所です。 土田 去年の9月15日、米軍ペリリュー上陸から70周年の日米合同記念式典に孫と参加したときには、これが現地訪問の最後の機会と思っていました。その後に陛下がペリリュー島を行幸啓されると知り、びっくりしました。パラオ、ペリリュー島は非常に交通の便が悪く、お年を召された両陛下にとってはご訪問なさるのは大変なことです。あの地で散華され、靖國神社に祀られる一万余柱の英霊は、両陛下がペリリュー島に来ていただけるとは、夢にも思っていないと思うんですよね。実際に来られたら、どんなに嬉しいことか。是非両陛下と会ってもらいたい。私も杖にすがってでも現地に行って、英霊たちに両陛下と会ってもらいたいと思うようになり、再び現地を訪れる気になりました。 井上 明日(3月22日)は皇居に招かれ、両陛下にお会いになるそうですが。 土田 陛下がどんな質問をなさるのか心配で、頭がくらくらしております。 井上 実は私も土田さんに「陛下のご質問にどう答えたらいいのか」と電話で聞かれたんですが、さすがに私にもなんとお答えしたらよいか分かりませんでした(笑)。 先の大戦での激戦地、ペリリュー島から生還した土田喜代一・元海軍上等水兵(左端)、永井敬司・元陸軍軍曹(左から2人目)から話を聞かれる天皇、皇后両陛下=3月22日 皇居・御所「応接室」(宮内庁提供) 井上 ここで少し、ペリリュー島について説明させていただきます。大東亜戦争の大激戦地としては、ガダルカナルやラバウル、島嶼部の硫黄島、サイパン、テニアンなどが有名ですが、パラオの「ペリリュー島」は聞いたことがない方がいらっしゃると思います。 パラオは日本から真南に約3000キロのところに位置しており、したがって時差もなく、直行便で約4時間半ほどで行けます。 第一次世界大戦で、日本はドイツ領であったパラオを占領しました。戦後の1920年、国際連盟からパラオを含むミクロネシア(南洋群島)の委任統治が認められます。サイパンもテニアンも同じです。ですから、第二次世界大戦では、もともと国連の信託委任統治の日本領土に、米軍が侵攻してきたということになります。 土田さんが戦われたのが、現在、首都があるバベルダオブ島から南西に50キロほど行ったペリリュー島です。南北9キロ、東西3キロの本当に小さい、カニの爪のような島です。 太平洋の島々をめぐる攻防戦でマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムを落とし、日本の絶対国防圏の内側に入ったアメリカは、次いでフィリピンに照準を合わせます。さらに北上して台湾を攻め、沖縄を攻め、本土を攻めるルートを確保するためです。 フィリピンに照準をあわせた米軍の前に立ちはだかったのが、西カロリン諸島最大の飛行場を持つペリリュー島でした。その日本海軍の十字滑走路を奪取するため、米軍は5万の大軍を差し向け、昭和19年9月15日から11月24日まで「ペリリュー島の戦い」が行われました。日本軍戦死者は約1万名、米軍の戦死傷・行方不明者約8000名(戦死者約1800)という激戦でした。 米軍の上陸部隊である第一海兵師団のウィリアム・ルパータス少将は戦闘前、「three days maybe, two」と豪語していました。「こんなところは3日間くらいで落とせる。2日ですむかもしれん」と。実際には73日間の激戦となり、米軍最強の海兵隊といわれた第一海兵師団は日本軍に滅多うちにされて撤退し、隣のアンガウル島を攻めた陸軍第八一歩兵師団と交代するという屈辱を味わったのです。 迎え撃つわが軍は、中川州男(くにお)大佐率いる水戸の歩兵第二連隊を中心とするペリリュー守備隊。満州で鍛え上げた精強部隊、現役兵の集まりです。そして、海軍西カロリン航空隊ペリリュー本隊が加わっていました。ペリリュー島では陸軍の戦いとみられがちですが、そもそもペリリュー島には海軍基地があり、そこを守るために陸軍一四師団の一部がやって来たんです。土田さんは、海軍部隊の一員として陸上戦闘を戦われました。陸海軍総勢1万1000名。米軍5万対日本軍1万1000の戦いでした。 それまでの南方戦線、太平洋の島々の戦いで日本軍は、「バンザイ突撃」という総攻撃をかけ、敵弾に次々と斃れていました。ペリリューの戦いでは、こうした消耗の激しい戦法を改め、徹底持久戦の方針をうち立てます。中川大佐は、「戦は、つまるところ人と人との戦いである。戦う意志と力をもつものがいるかぎり、戦いは終わらず、勝敗も決まらない。陣地を守る事はその戦いぬくための手段のひとつ。問題はできるだけ多数の敵を倒し、できるだけ長く長く戦闘をつづけることにある。それには守る陣地が多いほどよい」というふうにおっしゃっています。 米軍が上陸する海岸付近には、巧みに配置されたトーチカ陣地を築き、引きずり込んだ内陸の山岳部では500以上の洞窟を掘った「複郭陣地」に潜んで迎え撃つ、二段構えの戦法です。こうした戦法は、その後の硫黄島の戦い、沖縄戦に引き継がれていきます。ペリリュー島は隆起珊瑚でできた非常に硬い島です。複郭陣地構築は、大変に苛酷な作業でした。 凄まじい戦いぶりに、天皇陛下が毎朝、「ペリリュー島は大丈夫か」とご下問なさったという話も残されております。11回のご嘉賞(お褒めの言葉)にもあずかりました。それだけ陛下がお心をかけておられたということで、「天皇の島」と呼ばれたのです。 (※mono....以下5ページ分は略、詳細はサイト記事で) ■ ペリリュー島を知っていますか 「赤塚高仁ブログ(2014.08.12)」より / 白地に赤く日の丸染めて・・・日本の国旗の歌ですが、青地に黄色い月の丸をデザインした旗をご存知でしょうか。 それは、西太平洋に浮かぶパラオ共和国の国旗なのです。 スペイン、ドイツ、日本、米国と統治されたパラオが独立する際に、太陽(日の丸)に照らされ輝く満月のような国となろうという願いを込めて生まれた国旗だと現地の人から聞かされました。 日本は31年間のパラオ統治時代、電燈を灯し、道路を敷き、病院や学校を作りました。 島の人々は、日本を愛し、今も多くの人が日本語を話します。 ところが、我が国の代表は、日本が悪いことをしたと自虐的な懺悔ばかり繰り返し、マスコミも祖国を愛することは罪だとばかりに、ネガティブなキャンペーンを続けています。 朝日新聞が、従軍慰安婦は捏造したデマ記事だったと発表したが、 どれほどの国益を損なったのかよく考えるべきだと思います。 祖国を誇れないほど、みじめなことはありませんから。 そんな自虐史観の中で、パラオのことが知らされることはほとんどありませんでした。 松阪市飯高に水屋神社という樹齢千二百年の楠を御神木に抱く聖なる宮が在ります。 宮司の久保憲一氏はパラオと親交深く、諸島の一つペリリュー島にある神社にさざれ石を寄贈したことでも知られています。 五年前のこと、パラオの16回目の独立記念日に合わせ久保宮司を団長に、縁ある仲間数名でパラオ共和国を訪ねました。 (※mono....中略) / ペリリュー神社の石碑にこう刻まれていました。 「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ・米太平洋艦隊司令長官 CWニミッツ」と 戦いの前に、日本軍は軍艦で島の住民をすべて安全なパラオ本島に避難させました。 中川大尉は、日本の為に戦うという島民たちを説き伏せ、彼らを守るため避難させたのです。 戦い済んで島民たちがペリリュー島に戻ってみると、そこには海に水漬き、山に草生した一万二千の日本兵の屍がありました。 米国は米兵の遺体を収容しました。しかし、我が国は英霊たちの遺骨を顧みることはありませんでした。 ペリリューの島の人たちが、日本兵の遺骨を拾い集め、墓を作り葬ってくれたのです。 中川大尉が自決した洞窟には、今も花が絶えることがありません。 島の人たちが、勇敢に戦った日本軍に敬意を表して花を手向けてくださっているのです。 思わず、鼻の奥がツンとなりました。 英霊たちは、観光団ではありません。 祖国日本のために戦い、大切な人、大事なことを守るため日本から遥か3000キロも離れた南の島で死んでいったのです。 どんなにか帰りたかっただろう、ふるさと日本に。 英霊たちの願いは、今日本の人々に届いているでしょうか。 ジャングルを歩くと、朽ち果てた零戦がありました。 主翼にうっすら日の丸が見えます。 (※mono....以下略、詳細はサイト記事で) ■ [証言記録 兵士たちの戦争]ペリリュー島 終わりなき持久戦 ~茨城県・水戸歩兵第2連隊~ 「NHK 戦争証言アーカイブ(2008年5月26日)」より / (※mono....動画など詳細はサイト記事で) ーーー ■ NHKスペシャル 狂気の戦場 ペリリュー~“忘れられた島”の記録~ 「NHKアーカイブス(放送期間:2014年)」より / (※mono....動画など詳細はサイト記事で) ■ パラオの大和魂 「heavenese内検索記事」より / (※mono....詳細はサイト記事で) .