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【元ネタ】史実 太平記 【CLASS】バーサーカー 【マスター】 【真名】佐々木道誉 【性別】男性 【身長・体重】166cm・57kg 【属性】混沌・悪 【ステータス】筋力A 耐久A 敏捷B 魔力C 幸運A 宝具B 【クラス別スキル】 狂化:EX パラメータをランクアップさせるが、理性の大半を失われる。 狂化を受けても会話を行うことができるが、 彼の思考は“婆娑羅の貫徹”で固定化されており、実質的に彼との意思の疎通は不可能である。 【固有スキル】 芸術審美:B 芸術作品、美術品に対する知識。 芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、かなり高い確率で真名を看破することができる。 反骨の相:B 権威に囚われない、婆娑羅者としての性質。 同ランクの「カリスマ」を無効化する。 仕切り直し:A 戦闘から離脱、あるいは状況をリセットする能力。 技の条件を初期値に戻し、同時にバッドステータスの幾つかを強制的に解除する。 黄金律:C 身体の黄金比ではなく、人生において金銭がどれほどついて回るかの宿命。 【宝具】 『世に類無き遊(ばさらあそび)』 ランク:B 種別:対人宝具 レンジ:0~60 最大捕捉:600人 政敵・斯波高経の鼻を明かすため、彼が開催する花見の日に、自身が主催する大花見をぶつけ、閑古鳥を鳴かせた逸話が宝具化したもの。 真鍮の花瓶に植えられた巨大な桜の樹4本が出現し、周囲の人々や英霊たちの注目を集める。 また、発動中は範囲内の英霊や宝具の神秘への注目――すなわち信仰までもが奪われ、著しく弱体化する。 ただし、Bランク以上のカリスマ、ないしそれに類するスキル(麗しの姫君など)を持つ英霊には効果を発揮しない。 花以上に華のある者の前では、道誉の婆娑羅遊びも霞んでしまうのだ。 【Weapon】 『道誉一文字』 福岡一文字派の作刀。名前は佐々木道誉が所持していたことにちなむ。 戦国・江戸を通じて数々の大名の下を転々とし、明治年代には皇室の御物となった。 【解説】 鎌倉末期、南北朝時代の武将、守護大名。 婆娑羅者(常識や身分に囚われず型破りな奇行を取る者のこと)としても有名で、婆沙羅大名の異名を取る。 鎌倉幕府に仕える武士だったが、 後醍醐天皇が倒幕を掲げて挙兵した元弘の乱で、足利尊氏(当時は高氏)と密約を交わし、後醍醐側に寝返る。 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が初めた建武の新政が暗証に乗り上げると、 道誉は、武士の棟梁たる足利尊氏を担ぎ上げ反乱を起こそうと画策。 尊氏自身は後醍醐天皇への忠誠を失ってはいなかったが、足利・後醍醐、両勢力の対立から、ついに反乱を決断する。 一度は敗れ九州に落ち延びた尊氏ではあったが、勢力を持ち直しての再侵攻で後醍醐方を京都から追いやることに成功。 光明天皇を担いで北朝を成立させ、尊氏自身は征夷大将軍として室町幕府を開いた。 道誉はこの幕府の重鎮となり、公家との交渉や後醍醐天皇が開いた南朝との戦いに従事している。 朝廷や仏門の権威に対する反抗から、一度は形ばかりの流刑に処されたこともあったが、程なくして幕政に復帰。 幕府内の武断派、文治派の争いが観応の擾乱に発展した際には、武断派・尊氏に味方し、文治派を追い落とす事に成功している。 尊氏の死後、道誉は二代将軍・足利義詮の支持を受け、事実上の最高権力者として幕府に君臨する。 一度は斯波高経の裏切りにより下風に立つが、貞治の変でこれを失脚させ、幕政を手中に収めた。 義詮没後は政界を引退したという。 道誉の名を後世に伝える最大の要因は、その破天荒な振る舞いにある。 度重なる寝返り。 部下の喧嘩の恨みで妙法院を焼き討ちにする、 流罪の際、その神獣である猿の毛皮で着飾った一団に見送らせて皮肉る。 南朝の侵攻を受け京都を捨てる際には、屋敷を掛け軸や花瓶などで見事に飾り立てて、南朝方を接待する者を置く。 政敵・斯波高経の面目を潰すため、彼の開催する公式の花見に、盛大な花見をぶつける など、その婆娑羅ぶりは人々の耳目を集めた。 一方で連歌・香道・華道・茶器に置いて高名な教養人でもあり、芸能のパトロンとして能楽にも強い影響を与えたという。
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合計: - 今日: - 昨日: - 六四天安門事件によせて 六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)とは、 1989年6月4日に、中華人民共和国の北京市にある天安門広場に集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊が、 「中国人民解放軍」によって武力弾圧(虐殺が行われたとする見方もある)された事件である。 本年2009年6月4日(木)は、この20周年にあたる。 六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)の発端は、当時、ソビエト連邦での ソビエト連邦共産党書記長のミハイル・ゴルバチョフが、共産党による一党独裁制が続いた中で言論の弾圧や 思想、信条の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み硬直化した同国を立て直すために 「ペレストロイカ」を表明し、同国の民主化を進める流れが、旧東側諸国の脱共産主義化を後押しした。 1949年の建国以来長年共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、 1986年5月に総書記の胡耀邦(当時)が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し、 国民からは「開明的指導者」として支持を集めた。 しかし、胡耀邦は鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派の策謀により失脚し、 その後、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との交流を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、 2年後の1989年4月8日に出席していた政治局の会議上で心筋梗塞を起こし、そのまま帰らぬ人となった。 同国の民主化に積極的であった胡の死去は、中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる 胡の追悼集会となり、その後のデモ、ストライキ、座り込みなどの解決の糸口さえつかめないまま、 5月17日夜、ゴルバチョフが公式日程を終えて帰国したことを受け、党長老で事実上の最高権力者である 鄧小平を含めた会議が行われた結果、5月19日に北京市内に戒厳令が敷かれることが決定された。 戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が 北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、 人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。 その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示によって、 人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を中心にした民主化要求をする 学生を中心とした民衆に対して投入された。一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、 その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で争乱を繰り返す民衆に対して無差別に発砲した他、 装甲車で市民を轢き殺すなどして多数の民間人を死傷させた[5]。 この様な無差別な武力鎮圧は数時間に渡り行われ、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、 最終的に中国人民解放軍の説得に応じて広場から退去した[6](また、スペインの放送局が撮影した映像によると、 学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた)。 なお、学生運動の主立ったリーダー達の一部は武力突入前後にからくも現場から撤収し、 支援者らの手引を受けて海外へ亡命した。 事件の起因となった胡耀邦は近代の中国民主化の父であるといえる。 事実、胡耀邦は1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われ、 ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、 共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁した。 更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、 外国人旅行者にもチベットを開放した。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回された。 今こそ、2009年6月4日(木)の、この20周年に向けて、 この胡耀邦を含めた「平反六四=六四天安門事件を再評価せよ」のメッセージを中華人民共和国に問いただすことは、 今後の中華人民共和国に対して、我々日本人が真の友人として諫言できる重要な節目でもある。 平成21年5月24日 FreeJapan0 ※参考引用以下より http //ja.wikipedia.org/wiki/六四天安門事件 http //ja.wikipedia.org/wiki/胡耀邦
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事実に関しては一切妥協しない コンノ 私は30年前に『現代物理の死角』(1980年、自費出版)を出しました。今回のこの本はその増補版として、最後のけじめとして出そうというわけです。もう齢だから、頭が呆けてきて、ひとつの集大成でね。 副島 ああ、コンノ先生の人生のけじめですか。いい言葉ですね。 私も先生と同じで自分の知り得た範囲の知識に関して一切ごまかさないという態度で長年、本を書いてきました。公共の利害に関わる事実factsであるらしいことに関しては一切ひるまないで書く。殺されてもかまわない。私は〝言論のテロリスト″とも言われてきました。だから誰も近寄って来ません。相手がどんな偉い人であってもいい加減なことを言ったら(書いたら)容赦しません。遠慮もしません。 私でもこうやって50歳を越してようやく遠慮せずに何でも書ける立場になったと思ったら、今度は体の方がきつくなってきた。私を恐がる敵どもは、私の気力、体力の衰えを待っているんだなあと分かります。 秘密を暴くこと。とくに歴史の裏側の真実を表に出すことを専門にしてきました。大抵のことには裏がありますね。もうあと何枚めくったら、どこまで被いを取り去ったら、本当か。私は、最近は、本当の真実というコトバを使います。 たとえば「聖徳太子は実在しなかった」という話があります。今ではもう小学校、中学校、高校の教科書でももう居なかったことになったのです。今の教科書には馬屋戸皇子とか書いている。 元を辿っていくと藤枝晃さんという京大の人文研の教授をしていた人が、1975年に真実を証拠付きで論文に書いちゃったのが始まりなんです。このあと何人かの歴史学者が藤枝論文を泥棒して聖徳太子不在説を主張して人気を博した。 「聖徳太子」と言われている人物が『三経義疏』を書いたことになっている。だから日本史学では聖徳太子は実在したとされてきた。この「義疏」(あるいは、「ぎそ」と読む)というのはコンメンタール、注釈書です。仏典の解説書です。 この『三経義疏』と同じものが、敦煌莫高窟の石窟から発掘されていたのです。だから日本で表紙だけを貼り替えたものだとバレてしまった。遣唐使の留学僧たちが高いお金を払って買って持って帰ってきたものなんです。もうそれだけで「ありがたや、ありがたや」の世界です。真理の言葉だといって、そういうのを当時は天皇以下、朝から晩まで拝んでいたわけです。 藤枝晃の論文を読んで、日本史の学者たちが業界(学界)内で、「やっぱり(津田左右吉が唱えたとおり)聖徳太子はいなかったんだ」と密かに噂し始めた。そのことはじょじょに歴史好きの一般人にも知れわたってきた。証拠が出てきちゃったから困ったわけですよ。聖徳太子の一万円札も困ってしまった。聖徳太子の『十七条の憲法』がすばらしいとか何とか褒めてきた、日本国内のたいした頭をしていない知識人やら評論家たちも困ってしまう。どこかで護摩かしながらこれからも生きていくわけでしょ。 その時には権勢を誇っている実力者で、カが有るから偉いといったって、時代が変わればもう残っていません。学問の世界も同じです。自分たちが科学者の頂点で立派な学者だと周囲が認めている体制派の、ぬくぬくといい思いだけをしてきたような者たちもどうせ残りません。時代が変われば真理(真実)でさえ変わってゆく。日本の現代の宇宙物理学の筆頭で、ビッグバン肯定派の佐藤勝彦(宇宙物理学者)と池内了(理学博士)たちもやがて失脚してゆきます。 コンノ 私も体制派を批判する本を長年書いてきましたが、ありがたいのは読者が意外と分かってくれていることです。声なき声、サイレント・マジョリティと呼べる読者たちがいてくれて、それ がうれしいです。 副島 本物の読者人階級(ブック・リーディング・クラス)が日本にもまだわずかに残っています。貴重な感想を短くビシッと書いて来てくれる人たちがいて、本当にありがたい。 私は、もう人間という生物を見切っていますから、中味もないのに偉そうにしているやつ、本当は馬鹿のくせに威張りくさっているやつらをすべて撃滅します。 読者というお客様だけを大切にすればいい。国民が私たちを守ってくれます。私は、言論や学問も商売であると言い切ります。
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【元ネタ】史実 【CLASS】バーサーカー 【マスター】 【真名】イヴァン・ヴァシリエヴィチ 【性別】男性 【身長・体重】213cm・180kg 【属性】混沌・悪 【ステータス】筋力:B 耐久:B 敏捷:C 魔力:E 幸運:D 宝具:C 【クラス別スキル】 狂化:A++ 全パラメーターを2ランクアップさせるが、マスターの制御さえ不可能になり、目に映るものを全て見境なく破壊する。 彼の場合、召喚した際から常にこのスキルが発動している為、召喚してすぐに令呪を使わなければ殺される。 【固有スキル】 皇帝特権:C 本来持ち得ないスキルも、本人が主張する事で短期間だけ獲得できる。 該当するスキルは騎乗、剣術、芸術、カリスマ、軍略、等。 とはいうものの、言語・判断能力のほとんどを失っているため彼にとっては無用の長物と化している。 拷問技術:A 卓越した拷問技術。このスキルによって、敵を生かさず殺さず苦しめ続ける。 拷問器具を使ったダメージにプラス補正が加わる。 思考能力を失ったバーサーカーだが、この技術の見は失われておらず、戦闘でも多用する。 雷帝:Ex その苛烈なる悪逆と恐れられた残虐性より生まれた彼の二つ名。 マスターから受けた魔力を自動的に電気に変換し、体内に蓄える。そしてその電気は彼の身体中を覆い、攻撃力と身体力を増加させる。 その逆として、体外から得た電気を魔力に変換するというガルバニズム的な使用も可能。 【宝具】 『恐慌よ、雷の如く地へ堕ちよ(グローズヌィ・ツァーリ)』 ランク:A 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人 きわめて残虐・苛烈な性格であり、ロシア史上最大の暴君と言われた彼の象徴。並びに、彼の精神性が形になったもの。 彼が宝具の発動を意味する咆哮を天に向かい叫ぶと、眼前の敵を捕らえる数多の処刑・拷問道具が出現する。 電気による身体能力の向上により、数多の拷問器具による同時攻撃が可能になり、拷問技術のスキルも合わせきわめて強力な連続攻撃が襲う。 そしてそれらの拷問道具による苛烈なる責め苦を与え続けた後に、天より降り注ぐ無数の雷光が対象を焼き尽くす。 対象が例え途中で死んでも、原型をとどめなくなろうとも、彼の加虐精神が収まるまでこの攻撃は終わらない。 【解説】 モスクワ・ロシア初のツァーリ(皇帝)。イヴァン4世。 強烈な支配者であり、残虐なる王であり、彼の強力さと冷酷さを共に表すものとして”雷帝”と二つ名を与えられる。 僅か3歳という歳ででモスクワ大公に即位するも、母の死によって貴族同士の権力争いの中孤立してしまう。 しかし13歳の時に粛清を行い、その後母方のグリンスキー家が実権を掌握。史上初めて”ツァーリ”として戴冠が行われた。 仲間や愛すべき妻、アナスタシアに助けられながら不自由なき生活を送り、善政を行っていた。 しかし愛すべき妻アナスタシアの突然の死、顧問団の失脚と次々不幸が彼を襲い、大貴族との対立も強くなり退位を宣言する。 その後もう一度ツァーリとして復位するが、その時彼は既に人としての心を失っていた。 彼は心の隙間を埋めるべく拷問に手を染め、恐怖政治を行った。そしてその凶行はそういった満足への”過程”から、遂には”目的”へと変化。 破壊し、いたぶり、殺すことでしか満足の出来ない、人の姿をした悪鬼羅刹へと彼の心は歪み変化してしまった。 晩年もその凶行は変わらず、弟やその子、妻を殺すなど殺戮を続け、3月18日、患った重病の発作によって死去した。 バーサーカーの見本ともいえるほど正統派のバーサーカー。 見た目はもはや人間離れしている程に筋肉隆々で武骨な男。逆立つ金色の髪の毛に殺意走った鋭い眼光が特徴。 発する台詞は唸り声と叫び声と咆哮しかない。時たま人の言葉をしゃべるも、彼の常識すら通常の人間と異なる為話も通じない。 聖杯に託す願いは『全世界、全人類を自分の支配下に置くこと』。 この”支配下”とは文字通りの意味に付随し、彼の拷問の玩具であり素材であるという意味も込められている。 本来の彼であれば、その最愛たる妻アナスタシアの蘇生を願うはずであるが、すでに人間の心と精神を亡くした彼にその願いはない。 狂化によりその人間性、彼の本質すらも失ってしまっているのだ。 性格、特性、宝具、そしてバーサーカーというクラスの魔力消費量。 それら全てを考慮して、一番引きたくないサーヴァントのタイプである。
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小田原城 小田原城(おだわらじょう)は、相模国足柄郡小田原(現在の神奈川県小田原市)にあった、戦国時代から江戸時代の城。国指定史跡。 名称 小田原城(国史跡) 通称 小峯城(小峰城)小早川城(小早川館) 城郭構造 平山城 天守構造 複合式 築城主 北条早雲 築城年 1495年 主な改修者 上杉氏 主な城主 後北条氏、阿部氏、稲葉氏 br 大久保氏 廃城年 1871年 遺構 石垣、土塁、堀、復元天守・門 歴史 元々は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館で、室町時代応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で土肥氏が失脚し、大森氏が奪った。 明応4年(1495年)、伊豆国を支配する伊勢平氏流北条早雲が大森氏から奪い、以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名後北条氏の5代95年にわたる居城として、南関東の政治的中心地となった。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居氏政と当主氏直が指揮する後北条氏と開戦し、当時後北条の台頭に対抗していた関東の大名・宇都宮国綱や佐竹義重らとともに小田原城を総攻撃した。一般的に小田原征伐(最近は「小田原合戦」が主流)と呼ばれるこの戦役において秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むととともに別働隊をもって関東各地の後北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした後北条氏の意図を挫き、3ヶ月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかった故事が小田原評定という言葉になっている。その後秀吉は国綱とともに下野国宇都宮に陣を移し、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定、秀吉の国内統一事業はこれを持って完成した(宇都宮仕置)。 戦後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで藤原北家宇都宮氏流大久保氏の小田原藩が小田原城を居城とした。一方後北条氏は、一族の北条氏盛が河内国狭山(現在の大阪狭山市)にて1万余石の大名となって明治に至っている。 概要 後北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰め城としていた。大森氏も、そうであったと推測されている。第3代北条氏康の時代には、上杉謙信、武田信玄の攻撃を退け、戦国時代屈指の堅城ぶりを誇った。後北条氏の時代に、小田原城は、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだ惣構え(これは後の豊臣氏大坂城の惣構えよりも広大である)をもつ、それまで類を見ない大規模な城郭へと拡張された。 現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものである。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。関東にしては珍しく、主要部が全て石垣で固められた総石垣造りの城であるが、現在のような総石垣の城になったのは寛永9年(1632年)から始められた大改修の後のことである。2代藩主忠隣の時代、政争に破れ改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。 その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日の局の血を引く稲葉氏、そして御家再興がなった大久保氏が返り咲いた。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。なお、大名となった支藩(分家)に荻野山中藩・陣屋(現在の神奈川県厚木市)がある。 小田原城址は小田原城址公園として公園化され、復興天守(鉄筋コンクリート製)が昭和35年(1960年)に建築されている。天守の頂上からは太平洋や笠懸山の石垣山一夜城がよく見える。現在では、天守の復興を手始めに常磐木門、銅門、そして現在、馬出門の復元作業をおこなっている。また、小田原城は過去に大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により石垣が崩壊したのをはじめとして、何度も地震に見舞われている。 外部リンク 城址公園施設 http //www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/Leisure/Castle/j_kouen.html?
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ハドケウリ銀河系 登録日:2010/04/11 Sun 22 35 投稿先:GDW新設定草稿(ケンタウルス座銀河群編)No.2 更新日:2014/08/17 Sun 02 12 14 ▽タグ一覧 ハドケウリ銀河系 ロケーション 棒渦巻銀河 銀河 ハドケウリ銀河系画像(新版) 画像(旧版) 主要データ 概要 主要星間連合体 ハドケウリ銀河系の歴史過去史 現代~未来史 画像(新版) 画像(旧版) 主要データ 名称 ハドケウリ銀河系 分類 棒渦巻銀河 規模 直径9万5千光年 所属銀河団 セクトレアム・ハドケウリ銀河団 リアル対応 M83銀河(南の回転花火銀河) 主要系統種 テブラミス大系統麟属ハドローヤ系統晶繊族その他竜属など 腕など イローヤ腕(最大腕)シトロエラ腕(第2腕)プテット腕(第3腕) コンセプト メインページリンク こちら 概要 セクトレアム・ハドケウリ銀河団の第二銀河にあたる直径9万5000光年あまりの棒渦巻銀河。 最大の腕イローヤ腕(画像で中心部から左に伸びる腕)と二本の比較的小型の腕、シトロエラ腕(画像で中心部から右内側に伸びる腕)とプテット腕(画像で中心部から右外側に伸びる腕)が伸びている。 麟族の有力な起源神の一柱、テブラミスの発生した銀河系として名高いが、テブラミスが放浪し銀河の平穏維持に力を入れていないこともあって、銀河内の情勢はかなり不穏である。 最大勢力はバリクラット条約機構であり、歴史も長く監視者あるいは高位開発者勢力が多いのだが、近時退潮気味である。 近時これに拮抗する力を蓄えているのがテブラミス麟族のグニパリルを中心としたナグロスファ友邦軍である。 この両勢力の仲は悪く、オリオン大戦に匹敵する大戦争もかつてあり、今なお関係修復がなされているとは言いがたい情勢である。ディガスも両勢力で取り合いが始まっており、最大勢力からできる限り距離を取ろうとしている。 しかも、この両勢力で銀河全体の45%ほどしか統治できておらず、残りは少数勢力が乱立している。少数勢力は様々であり、孤高の独立を保つ勢力から最大2勢力の合間を縫ってトップにのし上がることを狙う覇権主義組織もあり、そうした勢力は離合集散をしたりときには戦争をするなどしており、治安も決して良いとは言い難い。 主要星間連合体 バリクラット条約機構 イローヤ腕に勢力を構える最大勢力だが、ナグロスファ友邦軍との戦争をめぐってごたごたが発生。基準時前後にかけて凋落の一途をたどる。現筆頭格はレイラモンディスで、ハドローヤ晶繊族が主導権を握るが、加盟勢力の幅は広い。 ナグロスファ友邦軍 シトロエラ腕中域で大勢力を構えるバリクラットの対抗勢力。軍の名を持つ軍事政権でありかつては非道で鳴らしていたが、統治自体は上手であり、グニパリルの監視者進化後、軍事政権ながらも穏やかな星間連合体に変化しつつある。シェトラップ麟族が多数派。 スティル同盟 イローヤ腕とシトロエラ腕の付け根部分で勢力を構えるハドローヤ晶繊族の同盟。バリクラットからの独立組織で、非戦中立。現筆頭格はモクスティルナ。 タマスチルド連邦 シトロエラ腕東部で勢力を持つ、トゥリオットによる惑星連合。魔導師が力を持つが、改造人間導入を巡って大規模内紛が巻き起こる。しかし、皮肉にもこの内紛の支援はシトロエラ腕・プテット腕の文明勢力を集めることとなった。 レイギロクス連合 プテット腕中域で力を持つ、リギロクスによる惑星連合。技術力も歴史も決して低くはないが、ナグロスファなどには太刀打ちできず柔軟な体制に移行している。 ゴトロック シトロエラ宙域のゴトロック超宙域を根城とする魔族、ゴトロックスの組織。と言っても、個体戦力に頼りがちなため目前の脅威とまでは認識されていない。 サーラン通商自治市 イローヤ腕先端部で勢力を構えた通商自治市で、もともとはベンチャー企業だった。セクトレアム銀河系との回廊の中継地に陣取る。経済力が高いが、バラマキ主義の傾向がある。 エラシュモック道教団 イローヤ腕中域で勢力を構える、宗教団体上がりの星間連合。しかし基準時から未来史にかけて、その統治に限界が見え始めている。 プルティトゥス連合 未来史において誕生。タマスチルド連邦支援を契機に惑星ブリンカムビ、レイギロクス連合等が一気に手を組んだもので、スティル同盟などと組んで大規模勢力にのし上がった。 ハドケウリ銀河系の歴史 過去史 32万年前 【グニパリル開発者進化】 22万年前 【ナグロスファ友邦勃興】 シトロエラ腕にグニパリルをトップとしたナグロスファ友邦勃興。当時から安定しなかった銀河情勢のため防衛力も重視され、強大な軍も作られているが、当初はさほど強硬でもなかった。 17万年前 【シトロエラ危機】 シトロエラ腕にモクスティルナから分かれたと言われる魔神ボワジルが侵攻、バリクラットが苦戦する中でナグロスファ友邦軍が撃退に追い込む。 15万年前 【ナグロスファ強硬化】 シトロエラ危機でバリクラットに先んじた戦果を出したことで、「自分達は銀河で通用する」と見るやナグロスファが強硬な振舞いに走り始め、勢力を拡大。バリクラットはほとんど手を打たず。 14万年前 【ナグロスファ友邦「軍」成立】 ナグロスファで軍事政権が成立(クーデターではなく、それ自体は結構平穏に行われている)して友邦→友邦軍に(現体制までつながっている)。非道な侵略軍であったが、文官は文官でしっかり重用され、傘下に来た惑星を手なずけることには優れていたことから期待されていた内部分裂はなかなか起こらなかった。 9万年前 【ナグロスファ友邦軍勢力拡大】 この頃までにはシトロエラ腕中域をナグロスファが制圧。しかしタマスチルド連邦以東には勢力が伸びず。楔のように打ちこまれたゴトロックがナグロスファを押し返したため、タマスチルドへの侵攻を事実上見送らざるを得ず、タマスチルドは幸運にも難を逃れる。レイギロクス連合が統一行動を諦め、現状の柔軟な体制となったのもこの頃である。 7万8千年前 【ノモジムネコ危機】 シトロエラ腕に楔のように打ちこまれたバリクラットの惑星ノモジムネコ等が甚大な被害を蒙る。これ以降局地的な戦禍が多数回、バリクラットとナグロスファで断続的に発生 7万5千年前 【ネフヤルギョク失脚】 バリクラットの先代の大ボスネフヤルギョク、何万年も軍事的対策をほとんど打とうとしなかったことから開発者勢力からの信用を失い失脚して事実上の公職追放。前№2レイラモンディスをトップとする現体制の確立、しかしこれ以降バリクラットは緩やかながらも退潮の一途を辿る 6万5千年前 【シトロエラ戦争】 バリクラット条約機構とナグロスファ友邦軍との間に一大戦禍(シトロエラ大戦)発生一時はイローヤ腕の深いところまで押し込まれる。ひとまずバリクラットが押し返し、イローヤ腕からナグロスファ勢力を放逐するも傘下惑星に甚大な被害発生 6万1千年前 【サーラン自治市成立】 シトロエラ大戦の特需で勢力を蓄えたサーラン通商自治市、事実上の独立連合化 5万5千年前 【ゴトロック危機】 ゴトロックとナグロスファ友邦軍との間で局地的な戦禍、勢力地図にさほどの変化は起こらなかったもののグニパリル価値観変容の契機に 3万5千年前 【グニパリル監視者認定】 リーヴァス宇宙連合、グニパリルを監視者認定、しかしバリクラット勢力らは基準時に至るまで反発、しかし過度な反発は逆にバリクラットの求心力を弱める結果に 3万年前 【スティル同盟成立】 メジスティルス、リセスティルル、モクスティルナの3種族がスティル同盟として独立を発表、バリクラットはひとまず受け入れるも不穏要素となる 現代~未来史 基準時前後 【ノモジムネコ寝返り事件】 シトロエラ腕に残された数少ないバリクラット惑星ノモジムネコ、ナグロスファ友邦軍加盟を正式表明、バリクラット過激派のドロックホルカーム議員らが粛清説をぶちあげる(流石に多数派はこれを押しとどめる)等大騒動となる、バリクラットの求心力低下が表面化 2970年後 【ブリンカムビクローン事件】 プテット腕の惑星ブリンカムビでビオライネル・シュリビアのクローンが作られたことに端を発したディガスも関与する騒動、しかし何の成果もなくこのような事件があったことすらほとんど知られていない 3100年後 【タマスチルド連邦紛争】 シトロエラ腕東部のタマスチルド連邦でエルトゴット・ゲイリスらのクーデターに端を発する大規模内紛発生、アリエル帝国の関与、ナグロスファ友邦軍・レイギロクス連合・惑星ブリンカムビがタマスチルド連邦支援を契機に接近 3600年後 【プルティトゥス連合成立】 惑星ブリンカムビ、タマスチルド連邦、レイギロクス連合等プテット腕、シトロエラ腕のプルティトゥス人類が組んでプテット腕とシトロエラ腕東部に勢力を保つプルティトゥス連合成立。スティル同盟も中立を保ちつつもブリンカムビとの関係はそのまま続いている上にナグロスファ寄りの体制にバリクラットが危機感を強める 7000年後 【ゴトロック衝突】 ハドケウリ銀河系、ゴトロックで戦禍発生、ゴトロックス高位体ミノムルガン、シウ・ガルパロール大使と交戦の末敗退、投降 7500年後 【ゴトロック交渉】 ナグロスファ友邦軍、ジェネフィル銀河系のエンビカルやデル・ヴォスらの仲介を得てゴトロックとの和解に乗り出し始める、追い返されるがゴトロックスに動揺が走る 8000年後 【ドリプス暗殺事件】 エラシュモック道教団大法正後継者の一人ドリプス・フネットレア、セクトレアム銀河系に向かおうとした船が爆破、行方知れずとなる。 8300年後 【星間連合エラシュモック道教団解散】 惑星エラシュモックでクーデター発生、舞い戻ったドリプス・フネットレアがエルシエル・クロシェラ大法正を退位させて自身大法正即位、星間連合体としてのエラシュモックを解散させる 9500年後 【シウ・ガルパロール大使死去】 9900年後 【ドリプス・フネットレア、ディガス大使長就任】 10000年後 【クロイティス銀河大戦】 イグザ・クロイティスで超大規模戦禍(クロイティス銀河大戦) デザイン・プロフィール:テルミノ銀河系、シャルバロン銀河系に次ぐ大型銀河ロケとして、ちょうど銀河設定が一つもなかったリアルケンタウルス座銀河群の大銀河M83(南の回転花火銀河)をもらいうけて開発を始めたもので、2011年の中心開拓銀河である。名の由来はケンタウルス座の2つの一等星ハダルとアルファケンタウリである。テブラミスもケンタウルス種族の祖先なのでここを起源としてみた。 他銀河と異なり、当初は目立った戦乱の歴史を設定していない(むしろこれまで設定し過ぎたので意図的に外した意味もある)が、段々と充実していった。 また、個性的な銀河共同体もここに様々に設置しようかと考えており、今後深めたい銀河である。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ 名前 コメント -GDW世界 白銀の賢者分室 GDW メインページ
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テラソルカトル王政連合 基本情報 主な言語 メルカ語ロフィルナ語ツォルマ語 本部 インスニア公王国 形態 任意団体軍事同盟 設立 宇宙新暦1280年 目次 概要 歴史 構成国 国際関係 関連記事 概要 テラソルカトル王政連合は、インスニア公王国を盟主とする軍事同盟。 星間文明統一機構の崩壊以降、新たに独立を遂げた旧ロフィルナ文明圏の王政諸国からなる。 イドゥニア星系連合を構成する五大陣営の一つとして数えられるが、共立同盟とは異なる独自の安全保障政策を掲げた。 長きにわたる共立統治の伝統から、原則として貴族階級からなる内閣が行政権を、国民の信託によって構成される連合議会が立法権を担う。 また、双方の合意によって成り立つ王国裁判所が司法権を行使する体制となった。 構成各国の王に実権はなく、象徴君主としての地位に留まっているのが現状である。 歴史 星間文明統一機構 新秩序世界大戦 構成国 インスニア公王国 サンパレナと双璧を成す北の大国。大陸中部に広がる天領の他、第3惑星を領有する。また、イドゥニア世界の中では比較的大規模な宇宙艦隊を保有し、星間国家としての体裁を整えた。国土の大部分が凍りつく極寒の環境下にあることから、パイプ型の都市増築法を採用している。独立から大戦までの間に北半球の大部分を掌握。旧暦時代においては新時代の主導権を巡る南方諸国との激しい戦争を繰り広げていた。しかし、大戦初期の敗北を受けて初代国王が失脚して以降は、親政派と臣民派に分かれて牽制しあう泥沼の緊張状態が続いた。宇宙新暦4525年。戦後紛争を不服とする周辺の属国が王都を制圧したことで今日の体制に近い構造となる。平和を迎えて久しい当時代においては、貴族と平民による共立統治体制となっており、現国王は象徴としての立場を堅持した。 レイルティーネ王国 東にインスニア公王国と接する。戦う闘士の国。国王は君臨すれど統治せずが基本方針であり、内政に関しては専ら政府と議会に委ねている。 ただし、重要な局面では国王による君主大権が明記されており、貴族階級からなる内閣も健在であることから完全な民主主義という訳でもない。 主な収入源は闘争競技を主軸とする娯楽産業だが、風紀が著しく乱れて久しいため、国際社会から渡航注意対象として指定されてしまった。 ローベル・ティオ 西にインスニア公王国と接する。軍事工業国。都市部は住宅街と工業ビルが複雑に絡み合った構造をしており、古くから多くの出稼ぎ労働者を受け入れてきた。 オークノン王国 西にレイルティーネ王国と接する。軍事工業国。地形の高低差が激しく、平地が少ないことから複雑に入り組んだ筒状のコンビナート・コロニーが形成された。 元は一つの都市国家であったものが、技術の進歩に伴って徐々に規模を拡大させてきた歴史を持つ。北の冒険者であれば一度は訪れるべき聖地であると評されている。 フィーエス連合王国 北にインスニア公王国と接する。軍事工業国。元は素朴な農業国に過ぎなかったが、戦後黎明期の復興で周辺国との提携を進めた結果、巨大な地域連合体としての発展を遂げた。 セントダイン王国 西にフィーエス連合王国と接する。広域農業国。国家経済の殆どが食料の輸出によって賄われている関係上、多くの工業製品を輸入した。 レスゴリア王国 海を隔てた北方にインスニア、オークノン、南西にセントダイン、南に連合帝国と接する島国。海軍戦力の増強に力を入れており、周辺諸国とともに帝国の侵入を牽制している。 聖エルトレーナ自治領 海を隔てた南方にローベル・ティオと接する。極寒の島国で、事実上独立して久しい。独自に進化を遂げた凶悪なクリーチャーが徘徊する。 国際関係 過去大戦の反省から、イドゥニア星系連合には加盟するものの、独自の武装存立路線を取っており、如何なる国際同盟にも加わっていない。また、ブルシェンドルーク地方の帰属問題を巡って対立するユミル・イドゥアム連合帝国に対しては強度の警戒態勢を継続。同地方における経済活動に関して一定の合意を見たが、双方ともに領空監視を強めるなど今現在も緊張状態が続いている。一方、オクシレイン大衆自由国率いる黒丘同盟とは星域外での防衛協力を進めることから、軍の構成としては主にオクシレイン製の兵器で占められた。大量破壊兵器を保有するロフィルナ王国の動向を睨んでおり、その削減ペースを巡るイドゥニア枠組みの交渉が続いている。各国間の調停を担うセトルラーム共立連邦とは比較的穏健な関係を維持し、係る諸問題の解決に向けて協力する方針を確認した。 関連記事 @Freeton2(執筆者) イドゥニア星系連合
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発言内容はそんなおかしくなかったし、マティアスの兄だけあって頭も回るみたいだったが、サイレントで処刑されたんだろうなあ…。喜んでゲオルギーネに名捧げしちゃった時点で無理か (2020-08-07 02 04 57) 頭回るっても子供の時貴族院三年終わってから一回会っただけのゲオルギーネに心酔してるし、派閥を切り捨てることはないって言い切ってるし、かなり父親に操作されてる印象。 (2020-08-07 02 52 53) 会合で甘ったるい臭いがしてたみたいだからトルーク使って洗脳されてもいるだろう (2020-08-07 04 39 29) 派閥を切り捨てられる事は無いに関しては、非の無い者と限定してるから推測は当たったよ (2020-11-11 05 17 13) 年回りから言ってヴェロ時代、ヤンリックは希望すればヴィルの側近になれたと思う。親がゲオの忠臣だったから、ヴェロに取り込まれないよう城勤めさせなかったのかな? (2021-07-13 20 15 23) ヤンリックはヴィルの5歳年上 ヴェロが白の塔入ったのはヴィルが7歳の時で、ヤンリックは12歳で3年生 つまりヴェロの権勢が健在な頃はヤンリックまだコース決める前の子どもで2年生 コース決まってないならヴェロもヴィルの側近に勧めるの無理なんじゃね (2021-07-13 20 36 58) 1年生のベルティルデがローゼマインの側仕えになってるから、不可能ではないと思う。ま、コース選択にぎりぎりまで迷いがあったかもしれないけどね。 (2021-07-13 20 49 47) ヴェローニカがヴィルフリートの洗礼式の準備を始めた噂が流れ、修行を開始したとかじゃないか? 側仕えコースを選択しても一年間親戚の元で修行しないければ人に仕えることは出来ないから。で、修行開始のちょっとあとにヴェローニカ失脚。 (2021-07-13 21 17 40) ベルは領主候補生の側近になれる貴族子弟が少ないから1年でもなれたのでは?ヴェロが傀儡にしたいヴィル坊やの側近候補は、ヴェロの圧力で選べる立ち位置にあったと思う。それこそシャルメルヒの側近候補を減らさせる目的込みで。シャルメルヒの側近にと推薦された子は横取りするつもりで (2021-07-13 21 48 58) ベルティルデはローゼマインの側近になるためにエルヴィーラの研修を終えてる。あと、ブリュンヒルデも側仕え講習始まる前に決まった側近という意味では同じ。 (2021-07-13 22 35 51) イディリーヌも1年生でシャルの側近の側仕え見習いだよ。 ヴェロの横暴の所為で、自分の子を領主候補生の側近にしたいと思っている上級貴族が少ない(書籍版第五部VII「お姉様が不在の貴族院」)とあるので、側近に「なれる」貴族子弟が少ないというより、側近に「なりたがる」貴族子弟が少ない状況なんだと思う。 (2022-07-11 18 49 19) 漫画4部20話で側仕え見習いと表記されてる (2022-08-23 02 15 26) あ、ほんまや。まだ文官見習のままw (2022-08-23 02 24 13) 該当箇所修正 (2022-08-23 04 37 55) ふぁんぶっく8のSSで、マティアスが「兄上が2人とも文官」と語っているので、作者様の中で思い違いというか、揺れてるのかもね。 (2023-11-15 17 04 28) *12のリンク先の2018/12/11のツイートは「(マティアスが騎士見習いなのは)兄達(=長男と次男ヤンリック)が文官」だからで、二人もいれば「もう足りている(=3人目は必要ない)」って意味だよね? コミカライズ四部のキャラ紹介が誤字でふぁんぶっく8の文官ってのが正しいと見るべきなんじゃないかな (2023-11-15 17 39 51) コミカライズでヤンリックは側仕えコースのテーブルにいるので、「キャラ紹介の誤字」ではなくコミカライズ用設定が「側仕え」なのだろう。「文官寄りの側仕え」という語があれば問題解決だが。 (2023-11-15 18 54 22) ユストクスの側仕え兼文官という例がすでにある。側仕えコースを受講し自主的に文官の試験を受けるとそうなるのだろうが、ヤンリックがそうだという証拠は現時点ではない (2023-11-15 21 03 04) ふぁんぶっく8のマティアスのセリフは、文官と側仕えはまとめて文官扱い(騎士は当然武官、側仕えは文武で言えば武ではない)なんだと思ったよ(ヤンリックが側仕えなことを忘れてるか間違えてる可能性が完全に0とまでは言えないけど……) (2023-11-15 18 49 35)
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拓也軍団幹部によるおんJ侵攻 提供 Vikipedia 移動先 案内、 検索 拓也軍団幹部によるおんJ侵攻 年月日:2015年夏 場所:おんJ全域 結果:拓也軍団武闘派派閥の敗北 交戦勢力 拓也軍団 おんJ名無し連合 指導者・指揮官 拓也八百屋 名無し 戦力 約500~800レス 約1000~2000レス 損害 拓也軍団の権威失墜 軽微 拓也軍団幹部によるおんJ侵攻(たくやぐんだんかんぶによるおんじぇいしんこう)は、2015年8月~9月にかけておーぷん2ちゃんねる上で行われた拓也軍団とおんJの一連の戦争である。魚群戦争の前哨戦となった戦いとしても知られている。 開戦前の状況 2015年夏。拓也軍団における実質的No.2の地位を確固たるものとした八百屋(スレイマン一世)は、同年8月に満を持して「武闘派派閥」を設立。自身の支持基盤をより盤石とするため、軍団内部における懐柔・扇動政策に乗り出した。派閥の基本方針には「名無しの駆逐」「本家武力制圧」をはじめとした、八百屋の極めて好戦的な思想的バックボーンが色濃く反映された。当時はまだ新米コテとしての評価しか持たない若き日のゴッドブレスなど、急進的な思想を持つ年齢の若い軍団構成メンバーが多数名を連ね、次第に拓也軍団内部の勢力図を大きく塗り替えていくことになる。 この動きに拓也の寵愛を一身に受ける青年は危機感を覚え、定例軍事報告会議にて八百屋の左遷と派閥の解体を強く主張した。しかし拓也本人としては、創立当時から何倍にも肥大化した軍団の指揮系統の維持に限界を感じ始めており、八百屋に対して統率権の一部を委譲することにやぶさかではなかった。激しい議論とレスバトルの末に青年の提案は棄却され、その数か月後に彼は失意の病死を遂げることになる。 青年の失脚によって軍団内部における評価をほしいままにした八百屋。それとほぼ同時期に粘着テープが派閥に加わり、それらの諸要素を好機と捉えた八百屋はついにおんJへの武力侵攻を決意する。 戦争の経緯 第一次攻撃隊として、八百屋、ゴッドブレス、粘着テープらが一個師団の兵を率いておんJに奇襲をかけた。攻撃隊の面々はすぐさま宣戦布告スレッドを立て、「ごんぬううううう」「はい論破!論破ごん!」といった支離滅裂なレスを間髪入れずに投下し、純朴なおんJ民たちのプライドに甚大な被害を与えるに至った。 これを受けたおんJ特殊迎撃部隊は「だいじっこ」コピペの連続投稿によって応戦。戦いはおんJ各所に飛び火し業を煮やした名無し達が次々と武装蜂起していく事態に発展していった。形勢は明らかにおんJ名無し連合側に傾き始め、八百屋率いる遠征部隊は「荒らしは養分ごん!」などと訳の分からない捨て台詞を残しつつVIPに撤退していった。 その後 結局何も残せぬまま軍団本部へと帰還した八百屋を待ち受けていたのは、周囲からの激しい叱責と罵詈雑言の嵐だった。「お前なんで生きてんの?」「!aku○○」といった虐めは熾烈を極め、八百屋のメンタルはボロボロに打ち砕かれた。その後失った権威を回復させるため、彼らは無謀ともいうべき魚群戦争へと突き進むことになっていく(拓也軍団による魚群スレ侵攻)。 栄華を極めた拓也軍団崩壊へのカウントダウンが、ついに始まりつつあった……。 「https //2ch.me/vikipedia/index.php?title=拓也軍団幹部によるおんJ侵攻 oldid=10082」から取得 案内メニュー 個人用ツール ログイン 名前空間 ページ 議論 変種 表示 閲覧 ソースを表示 履歴表示 その他 検索 案内 最近の更新 今後の更新予定一覧 おまかせ表示 練習用ページ アナリティクス コテハンの一覧 ニュー速VIP ニュー速VIP+ ラウンジクラシック 自己紹介板 Open2chVIP 2ちゃんねる(その他) その他一覧 Vikipediaの項目一覧 過去の煽り合い レスの属性 煽りに関する理論 2ch外のサービス 用語・慣用句 コテの組織 コテ評価 VIPコテ史年表 コテハン流行語大賞 コテハンSSの一覧 おーぷんVIPコテ年表 ページの短縮URL https //2ch.me/vikipedia/?curid=1856 ツール リンク元 関連ページの更新状況 特別ページ 印刷用バージョン この版への固定リンク ページ情報 このページの最終更新日時は 2017年8月20日 (日) 17 42 です。 �c�C�[�g このページは 806 回アクセスされました。 プライバシー・ポリシー Vikipediaについて 免責事項 モバイルビュー
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時事新報(じじしんぽう)はかつて存在した日刊新聞の名称である。 1882年3月1日、福澤諭吉の手により創刊。福澤の関係する慶應義塾及びその出身者が全面協力した。 概要・歴史 当初の福澤の計画では、政府の伊藤博文や井上馨の要請を受けて政府系新聞を作る予定であった。しかし1881年の明治十四年の政変により大隈重信や大隈派官僚が失脚するとその計画も頓挫してしまった。しかし政府系新聞を作るために記者や印刷機械は既に準備していたため慶應義塾で独自に新聞を発行するいきさつになったのである。 創刊時より「不偏不党」を掲げ、平明で経済を重視する紙面が政党臭の強かった当時の新聞から見れば新鮮に映ったのか、僅か1,500部余りだった発行部数が2年後には5,000部余りまで増加した。「慶應義塾豆百科」のNo.42「『時事新報』の創刊」を参照。 1896年、ロイター通信社と独占契約を締結、1921年パリ講和会議やワシントン軍縮会議で伊藤正徳特派員が世界的スクープを獲得し活躍。大正中期までは「日本一の時事新報」と呼ばれ、東京五大新聞(東京日日・報知・國民・東京朝日・時事)の一角を占めた。また、1905年には、大阪へ進出している(以下、後述参照)。 しかし、関東大震災による被災で業績は悪化し、部数も低下。 1934年1月17日から武藤山治社長が率先して行った「番町会を暴く」シリーズでは財界の不正を糾し、帝人事件(昭和初期の大疑獄事件)にまで発展したが、武藤社長が暴漢に射殺されてシリーズは終了。時事新報の前途にますます暗雲が立ちこめる事となった。 この後、慶應義塾出身者で東京日日新聞の高石眞五郎に経営肩代わりの話がくるが、高石は東京日日新聞の経営自体が傾いた時期でもあり、これを固辞。代わりに東京日日新聞の社外役員であり、大阪で「夕刊大阪新聞」・「日本工業新聞」を発行していた前田久吉を推挙し、1935年11月より前田が専務となって経営に当たった。しかしながら前田の大阪的経営手法と慶應閥が多い会社の体質が相反し、社業は遂に行き詰まった。高石は責任を取る形で、1936年12月25日時事新報を東京日日新聞に合同した。 1946年1月1日、伊藤正徳らの手により復刊。新興紙ブームの時流と名門復活で当初は堅調だったが、やがて既存紙の巻き返しにより再び業績は低下。1950年、「産業経済新聞(産経新聞)」を率いて再度東京進出を目指した前田久吉が、戦前の責任を取る形で時事新報の経営に当たる事となった。この時より産経と兄弟関係となり、1955年産経と合同。東京で発行していた産経は「産経時事」と改題した。(以下産経新聞の項参照。) 現在、「時事新報」の題号並びに著作権など一切に関する権利はフジサンケイグループが有している。 大阪時事新報 1905年3月15日、時事新報が大阪に進出し、「大阪時事新報」を創刊。 1920年6月、大阪時事新報社は東京の時事新報社に合併。 1923年8月、再び大阪時事新報社として独立。 1930年3月、神戸新聞社に買収され、同社の系列会社として新発足する。 1931年8月1日、京都日日新聞社と共に神戸新聞社に合併され、京阪神の新聞トラスト・三都合同新聞株式会社が誕生。同社大阪本店となり「大阪時事新報」を継続発行。 1940年7月30日、三都合同新聞株式会社は解体。元の神戸新聞社に戻り、大阪時事新報は再び独立会社・大阪時事新報社として発足。しかしまもなく読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)が株式を買い集め、経営に参加する。 1941年12月8日、「夕刊大阪新聞」と合併。「大阪新聞」となり終刊。 1946年2月1日、大阪新聞社長・前田久吉の手により復刊。 1951年6月、再び「大阪新聞」に合同して終刊。 備考 日本音楽コンクール、大相撲優勝力士額掲示は現在毎日新聞社が継承している(継承当時は東京日日新聞社)。 時事年鑑は、同盟通信社を経て現在は時事通信社が継承し、発行している。 『時事新報』創刊25周年記念号(明治40年3月1日記念号)は、ページ数が224ページに達し、日本の新聞としては最多ページ数記録となった。同号は1961年に日本新聞資料協会から縮刷版が発行されている。 参照 関連項目 記者クラブ 外部リンク 慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉|ウェブでしか読めない|時事新報史(都倉武之) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月14日 (日) 17 15。